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2021年12月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
その剣先に宿るは金彩の気色
黎・恋人未満
アーロンが戦闘中にヴァンに庇われて不機嫌になりつつも、最後は上機嫌な話。
「見とれたかよ」って言わせたかっただけです。
【文字数:6800】
小一時間ぶりに地上の光を浴びた一行は、眩しさで目を細めた。
地下特有のひんやりとした空気から一転、暖かい外気に晒されて安堵する。
午後も少しばかり過ぎた時間帯、リバーサイドにはゆったりとした風が流れていた。
「お前ら、お疲れさんだったな」
ヴァンは助手たちを労い、整備路へ続く扉を閉めて慎重に施錠をする。
一般人が誤って入り込んでしまっては大事だ。
「お疲れさまです!」
「ヴァンさんもお疲れ様でした」
すぐに元気な声と優しげな声が返ってきたが、あと一人足りない気がする。
そこにいるはずなのに、常日頃の強気で生意気な応答が聞こえてこない。
しかし、雇い主として助手たちの性格を把握しているヴァンは、特に気分を害した様子もなかった。
そんな彼の上着の裾をフェリが小さく引っ張る。
「アーロンさん、機嫌が悪そうですね」
「あー、だろうなぁ……」
困ったような色をした大きな瞳に見上げられ、ヴァンは苦笑いをしながら頭を掻いた。
地下鉄の整備路には何度も出入りしているが、構造的に立ち回りやすい環境とは言えなかった。
照明があっても視界はそこそこで、狭い場所も多く足場が悪い。
ただ歩くだけならまだしも、戦うとなれば多少のストレスは伴ってしまうものだ。
それはこの顔ぶれの中で最も好戦的なアーロンにはてきめんだった。
彼は苛つきが蓄積するような連戦を繰り広げた後、大きな空間へ出た途端に爛々と両眼を輝かせた。
「ハッ、ぶっ潰してやるぜ!」
蠢く大型の魔獣たちを見つけた足が、意気揚々と地面を蹴る。
「アーロン、突っ走るな!」
ヴァンはその背中に向かって怒鳴り、追撃の体勢に入った。
「フェリ、攪乱しろ。アニエスは援護を」
シャードを展開させながら二人に指示を出す。
小さな身体が銃口を構えて走り出したと同時に、アーツの駆動が始まった。
響き渡る銃声がアーロンに集中していた敵意を散らす。
その隙を突き、双剣が溜まった鬱憤を吐き出すように苛烈な斬撃を叩き込んだ。
「ガキみたいな戦い方するんじゃねぇ!」
体勢を崩した魔獣に止めの強打をお見舞いしたヴァンは、烈火にも似た青年を制しようとした。
しかし、彼は聞く耳を持たない。
「うるせぇ!!」
アーロンは残っている相手に狙いを定め、息つく間もなく強襲をかける。
だが、その刹那。
側面からの重い衝撃波が彼を襲った。
「ぐはっ!?」
不意を突かれ、受け身を取り損ねた身体が吹き飛ばされる。
よろめきながらもすぐに立ち上がろうとする彼に、容赦なく追い打ちの牙が襲いかかった。
それを目に捉えたヴァンの足が脊髄反射で動き出す。
この距離なら間に合う。
彼は不確定なシールドの発動よりも、自分の身体能力を選んだ。
「やらせるかよ!!」
武器を顔の前で構えながら魔獣に突進する様は躊躇なく、自らの負傷など顧みない。
間一髪で凶刃を食い止め、のし掛かる重圧を押し返す勢いで腕に力を込めて薙ぎ払った。
その直後。アニエスの声が響き渡りアーツが駆動する。
「皆さん、伏せて下さい!」
激しく螺旋を描いた水流が水飛沫を上げ、一直線に魔獣たちを貫いた。
戦闘が終わると、アニエスが心配げにアーロンの元へ駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?アーロンさん」
しかし、彼はそれを無視して目の前にいるヴァンを睨みつけた。
「……余計なマネしやがって。ウゼェんだよ」
「悪ぃな。身体が勝手に動いちまったもんで」
アーロンの性格上、庇われるのは本意ではないだろう。
ただ、あの状況では仕方なかった。
ヴァンは鋭い眼光を真正面から受け止め、肩を竦めるしかなかった。
歯切れの悪い言葉の片隅には、年長者の穏やかな響きが見え隠れする。
フェリはそんな雇い主の男を見上げたまま眉を寄せた。
彼はアーロンが不機嫌な理由を分かっているようだが、自分には見当が付かない。
「フェリちゃん。もし、戦闘中に誰かに庇われたらどう思いますか?」
そこへ、アニエスから助け船が入った。
「えっと、戦士としての未熟さは感じますけど……あっ!」
一番小さな助手は素直な気持ちを口にし始め、途中で何かに気づいてハッと目を見開いた。
「アーロンさんはヴァンさんに庇われちゃったから、面白くないんですね」
答えを見つけた顔が嬉しそうに輝く。
「こら、フェリ。あんまり大きな声で言うなって。あいつに聞こえちまう」
渦中の人物の背中は少し先を歩いていて、振り返る気配はなさそうだ。
「ダメなんですか?」
「こういう時はそっとしておきましょうね」
小首を傾げた妹のような少女の問いに、アニエスは人差し指を唇に当てながら微笑んだ。
この日の業務は厄介な案件こそなかったが、件数は多かった。
所長であるヴァンが解散を告げる頃には、すっかり茜色の空が広がっていた。
アーロンはそれを聞くやいなや、夕暮れ時で賑わい始めた街へと姿を消してしまった。
別に昼間のことあったからではない。いつのもことだ。
大君にも由来する強いカリスマ性のせいか、気性のわりに人好きのする雰囲気のせいか、彼の周りには自然と人が集まる。
本人もそうやって仲間たちと戯れるのが好きなのだろう。
「ハメを外しすぎなければ、勝手にやってろってな」
ヴァンは事務所へと続く階段を上りながら独りごちる。
帰宅してホッとするも束の間、机の上に溜まった書類の束が目に入り、思いきり脱力した。
「……さすがに片付けねぇと、ヤバそうだ」
自業自得だが、つい面倒くさくて後回しにしてしまう。
事務所に人が増えれば、それだけ諸々の手続きも増えていく。
最近はアニエスが書類の整理などをしてくれているので、これでも以前よりかは大分マシな状態なのだが。
「今度はあのガキにもやらせるか」
最年少のフェリでさえ、難しい顔をしながらも手伝ってくれる時がある。
彼女より年上のアーロンができない作業ではないだろうと、ヴァンは思った。
彼はなかなかに癖が強いが、根本的な所では真面目だ。
何かと文句を言いつつも、与えられた仕事を途中で投げ出したりはしない。
今日も地下を出て以降は不機嫌さを隠しもしなかったが、最後まで同行していた。
所長として、そういう部分はきちんと評価している。
「どうせウザがられるだけだから言わねぇけど……な」
生意気な助手について思いを巡らせた後、ヴァンはようやく机に向かい合った。
今までの経験上、この量では深夜までかかりそうだ。
もう腹をくくるしかなかった。
今夜もいつものように遊び明かすつもりだった。
軽く夕飯を済ませている最中。チラホラと集まってきた仲間たちと共に、繁華街へと繰り出し享楽にふける。
もちろん酒は美味いし、気分も上がる。
けれど、どこか純粋に楽しみ切れていない自分がいることを、アーロンは薄々感じていた。
この胸のわだかまりは説明できなくても、原因だけははっきりと分かる。
結局、彼は時計が深夜を回ったあたりで酒の席を立った。
「なんか、ノリきれねぇな」
そう言葉少なに漏らした声を仲間たちは珍しがったが、しつこく詮索するような輩はいなかった。
アーロンの感覚ではさして遅い時間帯でもないが、旧市街はすっかり静まりかえっていた。
どこか悶々としながら戻って来た彼は、自室がある三階へ上がる寸前で足を止め、ふと事務所の扉に目をやった。
部屋の中には動いている人の気配があり、思わず顔を顰めて舌打ちをする。
今日はどうしてもあの雇い主のことを意識してしまう。
いつものなら、盛り場の喧噪で忘れてしまえるような感情が燻っていた。
階段を上り始めた足は次第に早くなり、いささか乱暴な仕草で自室の扉に手をかける。
不本意な帰宅をした彼は、そのままの勢いでベッドに身体を投げ出した。
「……やっぱりウゼェ」
苦々しい吐息を吐きながら薄暗い天井を見つめ、片手の甲を押し当てて視界を閉ざした。
眠気など襲ってくるはずもなく、脳裏に昼間の光景が蘇る。
あの時、魔獣との間に割って入るようにヴァンの身体が飛び込んできた。
不意打ちをされたのは完全に自分の失態であり、追撃を受けて多少の負傷をするのは覚悟の上だった。
頼まれもしないのに大きな背中が視界を占領し、庇われたと認識した途端に喉元がチリチリと焼け付いた。
矜持が傷付いたというよりも、また一つ借りが積み重なっていくことが嫌だった。
煌都の一件からこの方、あの背中ばかりを見ている気がする。
勝手に何かを与えてくるくせに、いざという時でさえ自分から何かを求めてこようとはしない。
それは戦闘中に限った話ではなく、まるで保護者のような眼差しを見るたびに苛立たしさが募った。
「所長さんの責任感ってか?」
考えれば考えるほど、刺々しい感情の渦に飲み込まれてしまいそうになる。
アーロンはこの思考を遮断したくて、わざと声を出して毒づいてみせた。
──今はただ無心になりたい。
ふと、そんな思いに捕らわれる。
彼はおもむろにベッドから起き上がり、側に置いていた愛用の双剣を掴んだ。
それから、ふらりと部屋を出て行った。
デスクワークのお供に用意したマグカップの中身は、もう残りわずかになっている。
砂糖とミルクがたっぷりと入ったコーヒーは、事務作業の進捗と比例して順調に減っていた。
楽しいとは思えないが、不本意ながらも雇い主の立場にあるので、いい加減なことはできない。
「やれやれ。なんでこうも立て続けに押しかけてくるんだか」
最後の書類に目を通しながら、ヴァンは困ったように目尻を下げた。
自分が年若い助手たちに懐かれていることには、全くの無自覚だった。
「まぁ、ここにいる間は面倒見てやるけどよ」
ようやく全ての書類に目を通した後、どこか愁いを含んで人知れず呟く。
彼は残りのコーヒーを一気に飲み干し、長らく座っていた椅子から立ち上がった。
凝り固まった身体を解す為に大きな伸びをすると、気持ち良さからか思わず息が零れる。
「はぁ……さすがに溜めすぎたぜ」
綺麗になった机に胸を撫で下ろし、自業自得と言わんばかりの表情を浮かべた。
部屋の時計に目を向ければ、すでに夜も深い時間を回っていた。
ずっと部屋に籠もっていたせいか、無性に外の空気を吸いたくなってくる。
「さて……と、屋上にでも出てみるか」
さすがに今から外出する気分にはなれず、だとしたら選択肢は一つだけ。
ヴァンは椅子の背もたれにかけていた上着を掴み、それを羽織りながら屋上へ足を向けた。
この時間帯なら誰もいないはずだと思っていた。
フェリはとっくに就寝しているだろうし、アーロンはまだ遊び歩いているだろう。
だから、屋上の扉を開けた瞬間に目を疑った。
何かが空を切る音が聞こえる。
薄暗い場所でさえも鮮やかな赤い髪が、視界へ飛び込んできた。
(おいおい……これは予想外すぎんだろうが)
毎日のように夜遊びをしているくせに、なぜ今夜に限ってこんな所にいるのか?
思わず悪態の一つも吐きたくなったが、彼の唇が動き出すことはなかった。
寝静まった旧市街の夜を、銀色の弧を描いた二つの軌跡が乱舞する。
それに合わせて床を蹴る音は、羽が生えたように軽やかだ。
煌都での舞台が脳裏をかすめる。
華劇場の観客たちを魅了して止まない、光彩を放つ役者としての姿。
よほど世界に入り込んでいるのか、屋上に来た男の存在にも気づいていない。
これは誰かに見せるものではなく、ただ自身の為だけの舞いだ。
それを理解したヴァンはこの場から去ろうとしたが、どうしても足が動かなかった。
鋭い光を放つ双剣から目を逸らせなくなる。
そんな最中。次第にアーロンの動作は収束し、やがて綺麗に止まった。
深く息は吐きながら剣を鞘に収め、濃紺が広がる空を見上げる。
そこで、ようやく自分以外の気配に気がついた。
勢いよく振り返った先には見慣れた男がいて、驚きが露わになる。
「……いたのかよ」
「あぁ、邪魔しちまったみたいだな」
ヴァンはばつが悪そうに視線を反らし、落ち着きなく身体を揺らした。
「タダ見っつーのはいただけねぇなぁ」
その姿を見ても、先刻までのヒリつくような苛立ちを感じなかった。
今は随分と心が落ち着いている。
「ま、残念だったな。女の格好じゃなくて」
双剣を持ったまま腕を組み、手摺りに背中を預けた顔が皮肉めいて笑う。
「は?そこは関係ねぇだろ」
てっきり機嫌を損ねたかと思ったが、そうでもないらしい。
普段と変わりなく話しかけてきた助手に対し、ヴァンは内心で安堵する。
「着飾ってた方が客の気分も上がるってもんだ」
「いや、客じゃねぇし」
軽い応酬をしている間に自分の調子も戻り、自然と年長者の顔が前に出る。
「大体、舞台の上では外見が全てじゃねぇし。観客を魅了するのは、お前の内面から生まれ出るものが大半だろ」
諭すような口振りは、この年下の青年が鬱陶しがるであろう最たるものだ。
しかし、彼は虚を突かれた様子でヴァンを見た。
数拍を置いてから発した声が、喉の奥に笑いを絡めて響く。
「ほんと、ウゼェな……だが、悪くねぇ」
別に自分を卑下したつもりはないし、役者としての自尊心は高く持ち合わせている。
彼にしてみれば、その言葉は的外れにしか思えなかったが、声に出して認められるのは満更でもないのだろう。
アーロンは手摺りから身体を離し、鞘に収めていた刃を抜き放った。
手元で器用に一回転させてから息を整える。
「滅多にやらねぇものを見せたくなるくらいには」
そう言って静かに口角をつり上げた。
お世辞にでも広いとは言えない舞台に、ただ一人。
ゆっくりと双剣を振るい始めたアーロンの雰囲気は、さっきとはまるで違っていた。
ヴァンが最初に見た演舞は、華美で派手な演出が映える剣捌きだった。
それを動と例えるならば、今は静。
凪いだ水面の上に立ち、波紋の一つも広がることはない。
正直、戸惑いを隠せなかった。それと同時に感嘆の息が漏れる。
(……こいつ、こんな動きもするのかよ)
微かな月明かりの空を夜景にして、しなやかな手足が音もなく流れる。
今度もまた、見入ってしまうのを止められなかった。
ふと、目が合った。
すぐに離れてもう一度。
振り向きざま、乱れた髪の隙間から真っ直ぐに見つめてくる。
今度は静かな刃を真横に振るい、思わせぶりに顔を逸らした。
それは挑発か。はたまた誘惑か。
幽玄な空気さえも漂う演舞の中、金彩色の両眼だけが鮮烈な光を放つ。
そのアンバランスさがひどく印象的だった。
視線の糸が絡んでは解ける度に、否応なく引きずり込まれてしまう。
『オレを見ろ』と言わんばかりに
屋上に来てからどのくらいの時間が経過しただろう。
たった一人の客へ向けられた剣舞は、この小さな舞台にこそ映える。
ヴァンは完全にその世界に没入していた。
いつの間にか、美しい弧を描き続けていた刃が止まったことにも気が付かなかった。
そんな彼の耳に聞き慣れた声が入ってくる。
「なぁ、所長さん」
突如、風を切る鋭利な音がした。
鼻先すれすれの所でピタリと切っ先が止まる。
「──っ!?」
そこで、一気に現実に引き戻された。
大きく目を見開けば、突き出された剣を一本隔てた場所にアーロンが立っている。
「……見とれたかよ?」
彼は年長の男に対し、自信たっぷりな微笑を浮かべつつも意地悪げな色を滲ませた。
「て、てめぇは……っ」
ヴァンは思わず一歩後退し、相手を睨み付ける。
してやられたと思った。
流麗な舞いに吸い寄せられ、強い情を宿した主張に心臓を掴まれたような気さえする。
「はぁ……このクソガキが」
急激に居たたまれない気分に襲われた彼は、大きく頭を振ってから片手で髪を掻き乱した。
「こんな所で俺相手に無駄遣いしまくってんじゃねぇよ」
見入ってしまった事実を誤魔化したいのか、顔を背けて吐き捨てる。
アーロンはそんな様子を可笑しげに見つめながら、抜き身の剣を鞘に収めた。
今夜、一時でもこの男より優位に立てたのなら上々だ。
「それは心外ってもんだぜ。これでも使う相手は選んでる」
赤髪の青年は意味深げに呟き、軽い足取りでヴァンの横をすり抜けた。
このまま部屋に戻ってさっさとベッドに潜り込むのも一興。
さぞかし気持ち良く眠れるに違いない。
余裕綽々で去っていく背中は、一度も振り返らなかった。
気分転換のつもりが、とんだ失態を晒してしまった。これでは所長の面子も形無しである。
ようやく一人になったヴァンは、ぐったりと手摺りにもたれて大きな溜息を吐いた。
「なんで、そうくるんだよ。意味が分かんねぇ」
昼間の不機嫌ぶりが嘘のようだった。
アーロンが珍しいものを披露したくなる程に気を良くしたのはなぜだろう?
無意識に人たらしな言動をするこの男には、皆目見当が付かなかった。
「……くそ、調子が狂っちまった」
夜の空気で冷えている手摺りが心地良く、額を押し付けて瞳を閉じる。
面倒な事務処理で消耗をしているはずなのに、今は眠気の一つも襲ってはこなかった。
冴え冴えとした頭は、嫌みなくらい心身を休ませてはくれない。
夜のしじまに双剣が空を切る残響がする。
あの突き刺さるような金色が胸に焼き付いて離れなかった。
2021.12.31
#黎畳む
黎・恋人未満
アーロンが戦闘中にヴァンに庇われて不機嫌になりつつも、最後は上機嫌な話。
「見とれたかよ」って言わせたかっただけです。
【文字数:6800】
小一時間ぶりに地上の光を浴びた一行は、眩しさで目を細めた。
地下特有のひんやりとした空気から一転、暖かい外気に晒されて安堵する。
午後も少しばかり過ぎた時間帯、リバーサイドにはゆったりとした風が流れていた。
「お前ら、お疲れさんだったな」
ヴァンは助手たちを労い、整備路へ続く扉を閉めて慎重に施錠をする。
一般人が誤って入り込んでしまっては大事だ。
「お疲れさまです!」
「ヴァンさんもお疲れ様でした」
すぐに元気な声と優しげな声が返ってきたが、あと一人足りない気がする。
そこにいるはずなのに、常日頃の強気で生意気な応答が聞こえてこない。
しかし、雇い主として助手たちの性格を把握しているヴァンは、特に気分を害した様子もなかった。
そんな彼の上着の裾をフェリが小さく引っ張る。
「アーロンさん、機嫌が悪そうですね」
「あー、だろうなぁ……」
困ったような色をした大きな瞳に見上げられ、ヴァンは苦笑いをしながら頭を掻いた。
地下鉄の整備路には何度も出入りしているが、構造的に立ち回りやすい環境とは言えなかった。
照明があっても視界はそこそこで、狭い場所も多く足場が悪い。
ただ歩くだけならまだしも、戦うとなれば多少のストレスは伴ってしまうものだ。
それはこの顔ぶれの中で最も好戦的なアーロンにはてきめんだった。
彼は苛つきが蓄積するような連戦を繰り広げた後、大きな空間へ出た途端に爛々と両眼を輝かせた。
「ハッ、ぶっ潰してやるぜ!」
蠢く大型の魔獣たちを見つけた足が、意気揚々と地面を蹴る。
「アーロン、突っ走るな!」
ヴァンはその背中に向かって怒鳴り、追撃の体勢に入った。
「フェリ、攪乱しろ。アニエスは援護を」
シャードを展開させながら二人に指示を出す。
小さな身体が銃口を構えて走り出したと同時に、アーツの駆動が始まった。
響き渡る銃声がアーロンに集中していた敵意を散らす。
その隙を突き、双剣が溜まった鬱憤を吐き出すように苛烈な斬撃を叩き込んだ。
「ガキみたいな戦い方するんじゃねぇ!」
体勢を崩した魔獣に止めの強打をお見舞いしたヴァンは、烈火にも似た青年を制しようとした。
しかし、彼は聞く耳を持たない。
「うるせぇ!!」
アーロンは残っている相手に狙いを定め、息つく間もなく強襲をかける。
だが、その刹那。
側面からの重い衝撃波が彼を襲った。
「ぐはっ!?」
不意を突かれ、受け身を取り損ねた身体が吹き飛ばされる。
よろめきながらもすぐに立ち上がろうとする彼に、容赦なく追い打ちの牙が襲いかかった。
それを目に捉えたヴァンの足が脊髄反射で動き出す。
この距離なら間に合う。
彼は不確定なシールドの発動よりも、自分の身体能力を選んだ。
「やらせるかよ!!」
武器を顔の前で構えながら魔獣に突進する様は躊躇なく、自らの負傷など顧みない。
間一髪で凶刃を食い止め、のし掛かる重圧を押し返す勢いで腕に力を込めて薙ぎ払った。
その直後。アニエスの声が響き渡りアーツが駆動する。
「皆さん、伏せて下さい!」
激しく螺旋を描いた水流が水飛沫を上げ、一直線に魔獣たちを貫いた。
戦闘が終わると、アニエスが心配げにアーロンの元へ駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?アーロンさん」
しかし、彼はそれを無視して目の前にいるヴァンを睨みつけた。
「……余計なマネしやがって。ウゼェんだよ」
「悪ぃな。身体が勝手に動いちまったもんで」
アーロンの性格上、庇われるのは本意ではないだろう。
ただ、あの状況では仕方なかった。
ヴァンは鋭い眼光を真正面から受け止め、肩を竦めるしかなかった。
歯切れの悪い言葉の片隅には、年長者の穏やかな響きが見え隠れする。
フェリはそんな雇い主の男を見上げたまま眉を寄せた。
彼はアーロンが不機嫌な理由を分かっているようだが、自分には見当が付かない。
「フェリちゃん。もし、戦闘中に誰かに庇われたらどう思いますか?」
そこへ、アニエスから助け船が入った。
「えっと、戦士としての未熟さは感じますけど……あっ!」
一番小さな助手は素直な気持ちを口にし始め、途中で何かに気づいてハッと目を見開いた。
「アーロンさんはヴァンさんに庇われちゃったから、面白くないんですね」
答えを見つけた顔が嬉しそうに輝く。
「こら、フェリ。あんまり大きな声で言うなって。あいつに聞こえちまう」
渦中の人物の背中は少し先を歩いていて、振り返る気配はなさそうだ。
「ダメなんですか?」
「こういう時はそっとしておきましょうね」
小首を傾げた妹のような少女の問いに、アニエスは人差し指を唇に当てながら微笑んだ。
この日の業務は厄介な案件こそなかったが、件数は多かった。
所長であるヴァンが解散を告げる頃には、すっかり茜色の空が広がっていた。
アーロンはそれを聞くやいなや、夕暮れ時で賑わい始めた街へと姿を消してしまった。
別に昼間のことあったからではない。いつのもことだ。
大君にも由来する強いカリスマ性のせいか、気性のわりに人好きのする雰囲気のせいか、彼の周りには自然と人が集まる。
本人もそうやって仲間たちと戯れるのが好きなのだろう。
「ハメを外しすぎなければ、勝手にやってろってな」
ヴァンは事務所へと続く階段を上りながら独りごちる。
帰宅してホッとするも束の間、机の上に溜まった書類の束が目に入り、思いきり脱力した。
「……さすがに片付けねぇと、ヤバそうだ」
自業自得だが、つい面倒くさくて後回しにしてしまう。
事務所に人が増えれば、それだけ諸々の手続きも増えていく。
最近はアニエスが書類の整理などをしてくれているので、これでも以前よりかは大分マシな状態なのだが。
「今度はあのガキにもやらせるか」
最年少のフェリでさえ、難しい顔をしながらも手伝ってくれる時がある。
彼女より年上のアーロンができない作業ではないだろうと、ヴァンは思った。
彼はなかなかに癖が強いが、根本的な所では真面目だ。
何かと文句を言いつつも、与えられた仕事を途中で投げ出したりはしない。
今日も地下を出て以降は不機嫌さを隠しもしなかったが、最後まで同行していた。
所長として、そういう部分はきちんと評価している。
「どうせウザがられるだけだから言わねぇけど……な」
生意気な助手について思いを巡らせた後、ヴァンはようやく机に向かい合った。
今までの経験上、この量では深夜までかかりそうだ。
もう腹をくくるしかなかった。
今夜もいつものように遊び明かすつもりだった。
軽く夕飯を済ませている最中。チラホラと集まってきた仲間たちと共に、繁華街へと繰り出し享楽にふける。
もちろん酒は美味いし、気分も上がる。
けれど、どこか純粋に楽しみ切れていない自分がいることを、アーロンは薄々感じていた。
この胸のわだかまりは説明できなくても、原因だけははっきりと分かる。
結局、彼は時計が深夜を回ったあたりで酒の席を立った。
「なんか、ノリきれねぇな」
そう言葉少なに漏らした声を仲間たちは珍しがったが、しつこく詮索するような輩はいなかった。
アーロンの感覚ではさして遅い時間帯でもないが、旧市街はすっかり静まりかえっていた。
どこか悶々としながら戻って来た彼は、自室がある三階へ上がる寸前で足を止め、ふと事務所の扉に目をやった。
部屋の中には動いている人の気配があり、思わず顔を顰めて舌打ちをする。
今日はどうしてもあの雇い主のことを意識してしまう。
いつものなら、盛り場の喧噪で忘れてしまえるような感情が燻っていた。
階段を上り始めた足は次第に早くなり、いささか乱暴な仕草で自室の扉に手をかける。
不本意な帰宅をした彼は、そのままの勢いでベッドに身体を投げ出した。
「……やっぱりウゼェ」
苦々しい吐息を吐きながら薄暗い天井を見つめ、片手の甲を押し当てて視界を閉ざした。
眠気など襲ってくるはずもなく、脳裏に昼間の光景が蘇る。
あの時、魔獣との間に割って入るようにヴァンの身体が飛び込んできた。
不意打ちをされたのは完全に自分の失態であり、追撃を受けて多少の負傷をするのは覚悟の上だった。
頼まれもしないのに大きな背中が視界を占領し、庇われたと認識した途端に喉元がチリチリと焼け付いた。
矜持が傷付いたというよりも、また一つ借りが積み重なっていくことが嫌だった。
煌都の一件からこの方、あの背中ばかりを見ている気がする。
勝手に何かを与えてくるくせに、いざという時でさえ自分から何かを求めてこようとはしない。
それは戦闘中に限った話ではなく、まるで保護者のような眼差しを見るたびに苛立たしさが募った。
「所長さんの責任感ってか?」
考えれば考えるほど、刺々しい感情の渦に飲み込まれてしまいそうになる。
アーロンはこの思考を遮断したくて、わざと声を出して毒づいてみせた。
──今はただ無心になりたい。
ふと、そんな思いに捕らわれる。
彼はおもむろにベッドから起き上がり、側に置いていた愛用の双剣を掴んだ。
それから、ふらりと部屋を出て行った。
デスクワークのお供に用意したマグカップの中身は、もう残りわずかになっている。
砂糖とミルクがたっぷりと入ったコーヒーは、事務作業の進捗と比例して順調に減っていた。
楽しいとは思えないが、不本意ながらも雇い主の立場にあるので、いい加減なことはできない。
「やれやれ。なんでこうも立て続けに押しかけてくるんだか」
最後の書類に目を通しながら、ヴァンは困ったように目尻を下げた。
自分が年若い助手たちに懐かれていることには、全くの無自覚だった。
「まぁ、ここにいる間は面倒見てやるけどよ」
ようやく全ての書類に目を通した後、どこか愁いを含んで人知れず呟く。
彼は残りのコーヒーを一気に飲み干し、長らく座っていた椅子から立ち上がった。
凝り固まった身体を解す為に大きな伸びをすると、気持ち良さからか思わず息が零れる。
「はぁ……さすがに溜めすぎたぜ」
綺麗になった机に胸を撫で下ろし、自業自得と言わんばかりの表情を浮かべた。
部屋の時計に目を向ければ、すでに夜も深い時間を回っていた。
ずっと部屋に籠もっていたせいか、無性に外の空気を吸いたくなってくる。
「さて……と、屋上にでも出てみるか」
さすがに今から外出する気分にはなれず、だとしたら選択肢は一つだけ。
ヴァンは椅子の背もたれにかけていた上着を掴み、それを羽織りながら屋上へ足を向けた。
この時間帯なら誰もいないはずだと思っていた。
フェリはとっくに就寝しているだろうし、アーロンはまだ遊び歩いているだろう。
だから、屋上の扉を開けた瞬間に目を疑った。
何かが空を切る音が聞こえる。
薄暗い場所でさえも鮮やかな赤い髪が、視界へ飛び込んできた。
(おいおい……これは予想外すぎんだろうが)
毎日のように夜遊びをしているくせに、なぜ今夜に限ってこんな所にいるのか?
思わず悪態の一つも吐きたくなったが、彼の唇が動き出すことはなかった。
寝静まった旧市街の夜を、銀色の弧を描いた二つの軌跡が乱舞する。
それに合わせて床を蹴る音は、羽が生えたように軽やかだ。
煌都での舞台が脳裏をかすめる。
華劇場の観客たちを魅了して止まない、光彩を放つ役者としての姿。
よほど世界に入り込んでいるのか、屋上に来た男の存在にも気づいていない。
これは誰かに見せるものではなく、ただ自身の為だけの舞いだ。
それを理解したヴァンはこの場から去ろうとしたが、どうしても足が動かなかった。
鋭い光を放つ双剣から目を逸らせなくなる。
そんな最中。次第にアーロンの動作は収束し、やがて綺麗に止まった。
深く息は吐きながら剣を鞘に収め、濃紺が広がる空を見上げる。
そこで、ようやく自分以外の気配に気がついた。
勢いよく振り返った先には見慣れた男がいて、驚きが露わになる。
「……いたのかよ」
「あぁ、邪魔しちまったみたいだな」
ヴァンはばつが悪そうに視線を反らし、落ち着きなく身体を揺らした。
「タダ見っつーのはいただけねぇなぁ」
その姿を見ても、先刻までのヒリつくような苛立ちを感じなかった。
今は随分と心が落ち着いている。
「ま、残念だったな。女の格好じゃなくて」
双剣を持ったまま腕を組み、手摺りに背中を預けた顔が皮肉めいて笑う。
「は?そこは関係ねぇだろ」
てっきり機嫌を損ねたかと思ったが、そうでもないらしい。
普段と変わりなく話しかけてきた助手に対し、ヴァンは内心で安堵する。
「着飾ってた方が客の気分も上がるってもんだ」
「いや、客じゃねぇし」
軽い応酬をしている間に自分の調子も戻り、自然と年長者の顔が前に出る。
「大体、舞台の上では外見が全てじゃねぇし。観客を魅了するのは、お前の内面から生まれ出るものが大半だろ」
諭すような口振りは、この年下の青年が鬱陶しがるであろう最たるものだ。
しかし、彼は虚を突かれた様子でヴァンを見た。
数拍を置いてから発した声が、喉の奥に笑いを絡めて響く。
「ほんと、ウゼェな……だが、悪くねぇ」
別に自分を卑下したつもりはないし、役者としての自尊心は高く持ち合わせている。
彼にしてみれば、その言葉は的外れにしか思えなかったが、声に出して認められるのは満更でもないのだろう。
アーロンは手摺りから身体を離し、鞘に収めていた刃を抜き放った。
手元で器用に一回転させてから息を整える。
「滅多にやらねぇものを見せたくなるくらいには」
そう言って静かに口角をつり上げた。
お世辞にでも広いとは言えない舞台に、ただ一人。
ゆっくりと双剣を振るい始めたアーロンの雰囲気は、さっきとはまるで違っていた。
ヴァンが最初に見た演舞は、華美で派手な演出が映える剣捌きだった。
それを動と例えるならば、今は静。
凪いだ水面の上に立ち、波紋の一つも広がることはない。
正直、戸惑いを隠せなかった。それと同時に感嘆の息が漏れる。
(……こいつ、こんな動きもするのかよ)
微かな月明かりの空を夜景にして、しなやかな手足が音もなく流れる。
今度もまた、見入ってしまうのを止められなかった。
ふと、目が合った。
すぐに離れてもう一度。
振り向きざま、乱れた髪の隙間から真っ直ぐに見つめてくる。
今度は静かな刃を真横に振るい、思わせぶりに顔を逸らした。
それは挑発か。はたまた誘惑か。
幽玄な空気さえも漂う演舞の中、金彩色の両眼だけが鮮烈な光を放つ。
そのアンバランスさがひどく印象的だった。
視線の糸が絡んでは解ける度に、否応なく引きずり込まれてしまう。
『オレを見ろ』と言わんばかりに
屋上に来てからどのくらいの時間が経過しただろう。
たった一人の客へ向けられた剣舞は、この小さな舞台にこそ映える。
ヴァンは完全にその世界に没入していた。
いつの間にか、美しい弧を描き続けていた刃が止まったことにも気が付かなかった。
そんな彼の耳に聞き慣れた声が入ってくる。
「なぁ、所長さん」
突如、風を切る鋭利な音がした。
鼻先すれすれの所でピタリと切っ先が止まる。
「──っ!?」
そこで、一気に現実に引き戻された。
大きく目を見開けば、突き出された剣を一本隔てた場所にアーロンが立っている。
「……見とれたかよ?」
彼は年長の男に対し、自信たっぷりな微笑を浮かべつつも意地悪げな色を滲ませた。
「て、てめぇは……っ」
ヴァンは思わず一歩後退し、相手を睨み付ける。
してやられたと思った。
流麗な舞いに吸い寄せられ、強い情を宿した主張に心臓を掴まれたような気さえする。
「はぁ……このクソガキが」
急激に居たたまれない気分に襲われた彼は、大きく頭を振ってから片手で髪を掻き乱した。
「こんな所で俺相手に無駄遣いしまくってんじゃねぇよ」
見入ってしまった事実を誤魔化したいのか、顔を背けて吐き捨てる。
アーロンはそんな様子を可笑しげに見つめながら、抜き身の剣を鞘に収めた。
今夜、一時でもこの男より優位に立てたのなら上々だ。
「それは心外ってもんだぜ。これでも使う相手は選んでる」
赤髪の青年は意味深げに呟き、軽い足取りでヴァンの横をすり抜けた。
このまま部屋に戻ってさっさとベッドに潜り込むのも一興。
さぞかし気持ち良く眠れるに違いない。
余裕綽々で去っていく背中は、一度も振り返らなかった。
気分転換のつもりが、とんだ失態を晒してしまった。これでは所長の面子も形無しである。
ようやく一人になったヴァンは、ぐったりと手摺りにもたれて大きな溜息を吐いた。
「なんで、そうくるんだよ。意味が分かんねぇ」
昼間の不機嫌ぶりが嘘のようだった。
アーロンが珍しいものを披露したくなる程に気を良くしたのはなぜだろう?
無意識に人たらしな言動をするこの男には、皆目見当が付かなかった。
「……くそ、調子が狂っちまった」
夜の空気で冷えている手摺りが心地良く、額を押し付けて瞳を閉じる。
面倒な事務処理で消耗をしているはずなのに、今は眠気の一つも襲ってはこなかった。
冴え冴えとした頭は、嫌みなくらい心身を休ませてはくれない。
夜のしじまに双剣が空を切る残響がする。
あの突き刺さるような金色が胸に焼き付いて離れなかった。
2021.12.31
#黎畳む
2020年7月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
予感
零・恋人未満
自分の気持ちに気づいてしまったランディと、まだ自覚前のロイドの話。
【文字数:4800】
今夜はいまいち集中力が続かない。
自室で机に向かっていたロイドは、片手で自分の髪を掻き回しながら唸った。
チラリと窓に目を向ければ、いくつもの灯りが街を彩っている。
そろそろ夜も盛りの時間帯だろうか。
時折、賑やかな声が薄く開けた窓の隙間から入り込んでくる。
「ん~、これじゃ分かりにくいか」
ロイドは書きかけの書類に視線を戻して難しい顔をする。
彼は本日分の報告書を書いていた。
これは上司に提出する代物だが、相手はあのセルゲイ課長だ。
書類として最低限の体裁が整っていれば、すんなりと受け取ってもらえるだろう。
基本的にはリーダーであるロイドが作成しているが、エリィやティオが手伝ってくれることも多い。
しかし、ランディだけはこういった作業が苦手だと言って憚らず、逃げの一手だ。
よくエリィに睨まれているが、「適材適所だろ?」などと最もらしい台詞を口にして矛先をかわしている。
そんな年上の同僚の姿が頭を過ぎり、ロイドは小さく笑った。
夕食を終えてから小一時間ほどして、ランディは軽い足取りで夜の街へと繰り出して行った。
遊び慣れている彼にとって、クロスベルの歓楽街は庭のようなものだ。
「毎晩よく行くよなぁ」
また、窓の外に視線が動いてしまう。
ロイドはしばらく無言で街の夜景を眺めやった。
「……下でやろうかな」
ペンを持つ手が止まり、唇から声が漏れる。
これといって理由はなかったが、なんとなくそう思ってしまった。
おもむろに席を立った赤毛の青年に、バルカのオーナーであるドレイクは僅かに瞠目した。
「おい、やけに早いな」
ランディは軽くギャンブルを楽しんだ後、二階のカウンター席に腰を下ろしていた。
ドレイクと遠慮のないやり取りを交わしてグラスを傾けていたが、ふと何かに気が逸れた様子だった。
ほんの数拍の後、無言になった口に残りの酒を一気に流し込む。
「あぁ、なんか早く帰った方がいいような気がしてきちまった」
「は?なんだそりゃ」
「さぁな。ま、なんとなくってヤツ」
あからさまに訝しむドレイクに向けて肩を竦めてみせる。
正直、彼自身にもよく分からない心の機微らしい。
「お前、所帯じみてきやがったな」
ドレイクはニヤリと笑って揶揄したが、これは決して悪い意味ではなかった。
目の前の青年とは彼がクロスベルに流れ着いて以来の付き合いだが、その頃に比べれば随分と変わったと思う。
特に特務支援課という部署に配属されてからは。
「……勝手に言ってろって」
ランディは反論するわけでもなく、軽く片手を上げて踵を返す。
賑やかな音を立てるスロットマシンに目もくれず、真っ直ぐに出入り口へと歩いて行った。
いつもなら多少の未練が残る帰り道だったりするが、今夜は全く気にならなかった。
歓楽街から住宅街を抜け、西通りを歩く。
華やかな照明や雑多な喧噪とは縁のないこの辺りの区画は、夜になれば静かなものだ。
ランディは慣れた足取りで街路を進みながら、ぼんやりと考える。
「なんだかなぁ……気紛れっつーのとは違うんだよな」
どう頑張っても説明ができない。
言葉にすれば、ただ本当に『なんとなく』としか言いようがなかった。
「まぁ、居心地が良いのは確かだけどよ」
ドレイクにからかわれても言い返さなかったのは、自覚があったからだ。
帰る場所があるという現実に、くすぐったくなるような嬉しさを感じてしまう。
そんなことが頭を巡っている内に、いつの間にかその場所に到着していた。
発展していく街に取り残されたような古いビルだが、住んでしまえばどうということはない。
今ではすっかり愛着のある我が家だ。
ランディは裏口の扉を出掛けに持ち出したスペアキーで開錠し、静かに建物内に入った。
「ただいま~っと」
まだ就寝には早い時間帯だが、夜間には変わりなく、小声で帰宅の挨拶をする。
そのまま自室へ戻ろうとしたが、ふと下の階から光が漏れていることに気づいた。
普段なら仲間たちはそれぞれ自室で寛いでいる時刻だが、人の気配がする。
「こんな時間になにやってんだか」
ランディはそう呟きながら階段を降りた。
すると、そこにはテーブルに突っ伏しているロイドの姿があった。
「──っ!?」
何事かと血相を変えた彼は、足早に同僚の側に近づく。
遠目からは気絶しているようにも見えたが、よくよく観察すれば規則正しい寝息が聞こえ、その表情は穏やかだった。
頭を乗せている腕の下には、書きかけの書類と捜査手帳が見え隠れしている。
何をしていたのかはすぐに分かった。
「はぁ~、驚かせんなよ」
ランディは胸を撫で下ろし、僅かに横を向いている寝顔を覗き込んだ。
元から童顔のロイドだが、目が閉じているせいか更に幼く見えてしまう。
無意識に手が伸びて、少し跳ねた栗色の髪を撫でつける。
「う……ん……兄貴」
寝息の隙間から小さな声が零れた。
けれど、瞳は伏せられたままで起きる気配はない。
「こいつ、結構なブラコンだよなぁ」
ランディは呆れた様子で苦笑したが、続いて流れ落ちた言葉に目を見開いた。
「いか……な……いで」
急に胸の奥がざわつき始める。
どこかで兄の姿を重ねているロイドに対して、微かに棘をはらんだ感情が沸き上がってきた。
旧市街で熱戦を繰り広げたあの時に、彼自身がそう言っていたのを聞いていたはずなのに。
「……どこにも行かねぇよ」
今まで感じたことがないわだかまりに戸惑いを隠せない。
それでも、子供のような声を放っておきたくはなかった。
何かが頭に触れている。
それは大きくて温かくてとても心地良かった。
ロイドはうっすらと目を開いた。
「よぉ。見事に沈没してたな」
「っ、あ!?」
すぐ側で声が聞こえ、勢いよく飛び起きると、目の前には赤毛の青年が頬杖をついて座っていた。
「ラ、ランディ?……あれ?」
慌てて辺りを見回しながら何度も目を瞬かせる。
「あぁ、そっか、報告書」
それから突っ伏していたテーブルにある書類を見て、ようやく状況を把握した。
どうやら報告書を作成中に眠気に襲われてしまったらしい。
思わず溜息を吐くと、
「お前さん、なんでこんなとこでやってんの?いつもは自分の部屋で書いてるだろ」
ランディから率直に問いかけられた。
「なんか集中できなくてさ。なんとなく下に降りてきたって感じかな」
ロイドは少し考え込んだが、元から明確な理由があるわけでもなく、困り顔で返す。
「ふ~ん、『なんとなく』ねぇ」
それが自分と重なり合うような気がしたランディは、嬉しげに瞳を細めた。
「あ、実は俺の帰りを待っててくれたとか?お兄さん感激しちゃうな~」
「全然、違うし!大体、ランディだっていつもはこんな早く帰ってこないくせに。今日に限ってなんのつもりだよ?」
いつのの調子でからかってくる年上の同僚を前に、ロイドはついムキになってしまう。
それが子供じみたことだと自覚はしていても、勝手に口が動くのを止められなかった。
「なにって言われてもなぁ。俺も『なんとなく』だし」
ランディはそんな様子を眺めやり、喉の奥で笑いを押し殺す。
誰に何度聞かれても、馬鹿の一つ覚えみたいにその言葉しか出てこない自分が可笑しかった。
けれど、これ以上の不毛なやり取りをする気もなく、
「それより、報告書はいいのか?」
指先で軽くテーブルを叩きながら話題を逸らしてみせる。
「よくないけど……たまには手伝ってくれてもいいんだぞ」
虫の居所が悪くなっているロイドは、楽しげな同僚をジロリと睨んだ。
「すっげー適当に書くけど?」
はなから手伝う気のないランディは、わざと真面目な同僚が嫌がりそうな台詞で逃げる。
「あー、はいはい。だったらもう部屋に戻れよ」
案の定、ロイドはそれを良しとはしなかった。
少しだけ頬を膨らませつつ、書きかけの書類にペンを走らせ始める。
「つれないな~。うちのリーダーは」
冷たくあしらわれたランディは、特に傷心するわけでもなく表情を緩ませた。
席を立つつもりはないようで、黙々と作業する同僚の姿をジッと見つめている。
(……なんで戻らないんだよ?)
残念ながら、ロイドの予想は外れてしまった。
あんな態度を取ればさすがに自室へ戻るだろうと思っていたのに、まるで動く気配がない。
表面上は平静を装って書類に向かっているが、一方的な視線のせいで落ち着かない胸中だ。
どうして急に無言になってしまうのか。
せめて何か喋ってくれたらいいのに。
自分だけがやたらと気恥ずかしいこの状況をどうにかしたくて、ロイドは必死に頭を回転させようとした。
しかし、冷静さを欠いた中では良策が思い浮かばず、苦しまぎれな一言だけが声になる。
「──なにか飲みたい」
本当に何の脈絡もない言葉だ。
それが聞こえたランディは一瞬驚いたが、すぐに肩を震わせて笑いを噛みしめる。
「持ってこいって?ははっ、人使いが荒いねぇ」
相手の要求でその心境を察したのか、ようやく椅子から立ち上がった。
「取りあえずコーヒーでいいか?ミルク入れてやるから」
「ブラックでいいから」
一応お伺いを立ててみると、少し不満げな答えが返ってきた。
「へいへい」
ランディはそんな彼の頭を少し乱暴に掻き混ぜ、台所へと足を向けた。
赤毛を揺らした背中が見えなくなった後、ロイドは盛大に息を吐いてテーブルに突っ伏した。
「はぁー、なんだよ、もう」
あまり経験のない緊張感だったせいで、胸の鼓動が忙しない。
子供扱いは毎度のことだが、あんな風に見つめられたのは初めてだった。
「手……温かかった」
微睡みの中で感じた優しさは兄のようで、でもどこか違うようで。
さっきのように髪を乱されても嫌ではなくて、むしろ嬉しくて。
ランディにとっては他愛のないやり取りだったのかもしれない。
それを妙に意識してしまっている自分にロイドは戸惑った。
「なんか変だな……俺」
身体を起こし、ぼんやりと報告書を見つめる。
もう少しで書き終わるというのに、この書類と向かい合う気になれなかった。
台所に移動したランディは、慣れた手つきでポットに水を入れて火をかけた。
食器棚からカップを二つ取り出して、コーヒーを炒れる準備を進める。
いつもなら鼻歌でも混じりそうな動作だったが、今はそんな余裕が持てなかった。
「偶然にしては出来すぎじゃねーの?」
少し苦しげに顔を歪めて独りごちる。
互いの『なんとなく』は、まるであの空間を作り出すための予感にすら思えた。
ランディは蒸気が立ち上り始めたポットを眺めつつ、無造作に前髪を掻き上げた。
「……無性に構いたくなっちまう」
あの寝言のせいだろうか。
今夜はただの戯れではなくロイドに添っていたい。
色々と遊び歩いているが、こんな気持ちになった相手は今まで一人もいなかった。
「あー、そういえば」
彼はふと、特務支援課の一員として初めてウルスラ病院を訪れた時のことを思い出した。
初対面だったセシルは随分と天然で、三人ともロイドのお相手候補認定をされてしまった。
あの時、まさか自分にも振ってくると思わなかったランディは、冗談交じりでそれに乗ったのだが。
「はぁ、やべぇ……冗談じゃなくなりそうだ」
一体何の布石かと、つい苦笑いをしてしまいたくなる。
色恋沙汰と無縁ではないランディが、この感情の正体に気づけないはずがなかった。
蒸気の吹く音が次第に大きくなってきた。
お湯が沸くまでにはさほど時間がかからないだろう。
扉の向こうの気配を探れば、確かに彼の存在を感じる。
例えその場に居づらかったとしても、律儀で真面目なロイドが頼みごとをしたまま離席することはまずありえない。
「報告書、手伝ってやるか」
不意に、ランディの口から珍しい言葉が発せられた。
さっきの様子を見る限り、手が止まってしまっているような気がする。
本人は平静を保ったつもりだろうが、ランディにしてみれば落ち着きのなさは一目瞭然だった。
周囲には無自覚に爆弾を振りまいているくせに、いざ当事者となると上手く立ち回れない姿がなんだか微笑ましい。
「まぁ、しばらくは『兄貴』でも仕方ねぇかな」
今は時期尚早だ。
気づいてしまった自分の気持ちを、まだ十分に噛み砕けていない。
正直、もう少し時間が欲しいと思った。
2020.07.24
#零
畳む
零・恋人未満
自分の気持ちに気づいてしまったランディと、まだ自覚前のロイドの話。
【文字数:4800】
今夜はいまいち集中力が続かない。
自室で机に向かっていたロイドは、片手で自分の髪を掻き回しながら唸った。
チラリと窓に目を向ければ、いくつもの灯りが街を彩っている。
そろそろ夜も盛りの時間帯だろうか。
時折、賑やかな声が薄く開けた窓の隙間から入り込んでくる。
「ん~、これじゃ分かりにくいか」
ロイドは書きかけの書類に視線を戻して難しい顔をする。
彼は本日分の報告書を書いていた。
これは上司に提出する代物だが、相手はあのセルゲイ課長だ。
書類として最低限の体裁が整っていれば、すんなりと受け取ってもらえるだろう。
基本的にはリーダーであるロイドが作成しているが、エリィやティオが手伝ってくれることも多い。
しかし、ランディだけはこういった作業が苦手だと言って憚らず、逃げの一手だ。
よくエリィに睨まれているが、「適材適所だろ?」などと最もらしい台詞を口にして矛先をかわしている。
そんな年上の同僚の姿が頭を過ぎり、ロイドは小さく笑った。
夕食を終えてから小一時間ほどして、ランディは軽い足取りで夜の街へと繰り出して行った。
遊び慣れている彼にとって、クロスベルの歓楽街は庭のようなものだ。
「毎晩よく行くよなぁ」
また、窓の外に視線が動いてしまう。
ロイドはしばらく無言で街の夜景を眺めやった。
「……下でやろうかな」
ペンを持つ手が止まり、唇から声が漏れる。
これといって理由はなかったが、なんとなくそう思ってしまった。
おもむろに席を立った赤毛の青年に、バルカのオーナーであるドレイクは僅かに瞠目した。
「おい、やけに早いな」
ランディは軽くギャンブルを楽しんだ後、二階のカウンター席に腰を下ろしていた。
ドレイクと遠慮のないやり取りを交わしてグラスを傾けていたが、ふと何かに気が逸れた様子だった。
ほんの数拍の後、無言になった口に残りの酒を一気に流し込む。
「あぁ、なんか早く帰った方がいいような気がしてきちまった」
「は?なんだそりゃ」
「さぁな。ま、なんとなくってヤツ」
あからさまに訝しむドレイクに向けて肩を竦めてみせる。
正直、彼自身にもよく分からない心の機微らしい。
「お前、所帯じみてきやがったな」
ドレイクはニヤリと笑って揶揄したが、これは決して悪い意味ではなかった。
目の前の青年とは彼がクロスベルに流れ着いて以来の付き合いだが、その頃に比べれば随分と変わったと思う。
特に特務支援課という部署に配属されてからは。
「……勝手に言ってろって」
ランディは反論するわけでもなく、軽く片手を上げて踵を返す。
賑やかな音を立てるスロットマシンに目もくれず、真っ直ぐに出入り口へと歩いて行った。
いつもなら多少の未練が残る帰り道だったりするが、今夜は全く気にならなかった。
歓楽街から住宅街を抜け、西通りを歩く。
華やかな照明や雑多な喧噪とは縁のないこの辺りの区画は、夜になれば静かなものだ。
ランディは慣れた足取りで街路を進みながら、ぼんやりと考える。
「なんだかなぁ……気紛れっつーのとは違うんだよな」
どう頑張っても説明ができない。
言葉にすれば、ただ本当に『なんとなく』としか言いようがなかった。
「まぁ、居心地が良いのは確かだけどよ」
ドレイクにからかわれても言い返さなかったのは、自覚があったからだ。
帰る場所があるという現実に、くすぐったくなるような嬉しさを感じてしまう。
そんなことが頭を巡っている内に、いつの間にかその場所に到着していた。
発展していく街に取り残されたような古いビルだが、住んでしまえばどうということはない。
今ではすっかり愛着のある我が家だ。
ランディは裏口の扉を出掛けに持ち出したスペアキーで開錠し、静かに建物内に入った。
「ただいま~っと」
まだ就寝には早い時間帯だが、夜間には変わりなく、小声で帰宅の挨拶をする。
そのまま自室へ戻ろうとしたが、ふと下の階から光が漏れていることに気づいた。
普段なら仲間たちはそれぞれ自室で寛いでいる時刻だが、人の気配がする。
「こんな時間になにやってんだか」
ランディはそう呟きながら階段を降りた。
すると、そこにはテーブルに突っ伏しているロイドの姿があった。
「──っ!?」
何事かと血相を変えた彼は、足早に同僚の側に近づく。
遠目からは気絶しているようにも見えたが、よくよく観察すれば規則正しい寝息が聞こえ、その表情は穏やかだった。
頭を乗せている腕の下には、書きかけの書類と捜査手帳が見え隠れしている。
何をしていたのかはすぐに分かった。
「はぁ~、驚かせんなよ」
ランディは胸を撫で下ろし、僅かに横を向いている寝顔を覗き込んだ。
元から童顔のロイドだが、目が閉じているせいか更に幼く見えてしまう。
無意識に手が伸びて、少し跳ねた栗色の髪を撫でつける。
「う……ん……兄貴」
寝息の隙間から小さな声が零れた。
けれど、瞳は伏せられたままで起きる気配はない。
「こいつ、結構なブラコンだよなぁ」
ランディは呆れた様子で苦笑したが、続いて流れ落ちた言葉に目を見開いた。
「いか……な……いで」
急に胸の奥がざわつき始める。
どこかで兄の姿を重ねているロイドに対して、微かに棘をはらんだ感情が沸き上がってきた。
旧市街で熱戦を繰り広げたあの時に、彼自身がそう言っていたのを聞いていたはずなのに。
「……どこにも行かねぇよ」
今まで感じたことがないわだかまりに戸惑いを隠せない。
それでも、子供のような声を放っておきたくはなかった。
何かが頭に触れている。
それは大きくて温かくてとても心地良かった。
ロイドはうっすらと目を開いた。
「よぉ。見事に沈没してたな」
「っ、あ!?」
すぐ側で声が聞こえ、勢いよく飛び起きると、目の前には赤毛の青年が頬杖をついて座っていた。
「ラ、ランディ?……あれ?」
慌てて辺りを見回しながら何度も目を瞬かせる。
「あぁ、そっか、報告書」
それから突っ伏していたテーブルにある書類を見て、ようやく状況を把握した。
どうやら報告書を作成中に眠気に襲われてしまったらしい。
思わず溜息を吐くと、
「お前さん、なんでこんなとこでやってんの?いつもは自分の部屋で書いてるだろ」
ランディから率直に問いかけられた。
「なんか集中できなくてさ。なんとなく下に降りてきたって感じかな」
ロイドは少し考え込んだが、元から明確な理由があるわけでもなく、困り顔で返す。
「ふ~ん、『なんとなく』ねぇ」
それが自分と重なり合うような気がしたランディは、嬉しげに瞳を細めた。
「あ、実は俺の帰りを待っててくれたとか?お兄さん感激しちゃうな~」
「全然、違うし!大体、ランディだっていつもはこんな早く帰ってこないくせに。今日に限ってなんのつもりだよ?」
いつのの調子でからかってくる年上の同僚を前に、ロイドはついムキになってしまう。
それが子供じみたことだと自覚はしていても、勝手に口が動くのを止められなかった。
「なにって言われてもなぁ。俺も『なんとなく』だし」
ランディはそんな様子を眺めやり、喉の奥で笑いを押し殺す。
誰に何度聞かれても、馬鹿の一つ覚えみたいにその言葉しか出てこない自分が可笑しかった。
けれど、これ以上の不毛なやり取りをする気もなく、
「それより、報告書はいいのか?」
指先で軽くテーブルを叩きながら話題を逸らしてみせる。
「よくないけど……たまには手伝ってくれてもいいんだぞ」
虫の居所が悪くなっているロイドは、楽しげな同僚をジロリと睨んだ。
「すっげー適当に書くけど?」
はなから手伝う気のないランディは、わざと真面目な同僚が嫌がりそうな台詞で逃げる。
「あー、はいはい。だったらもう部屋に戻れよ」
案の定、ロイドはそれを良しとはしなかった。
少しだけ頬を膨らませつつ、書きかけの書類にペンを走らせ始める。
「つれないな~。うちのリーダーは」
冷たくあしらわれたランディは、特に傷心するわけでもなく表情を緩ませた。
席を立つつもりはないようで、黙々と作業する同僚の姿をジッと見つめている。
(……なんで戻らないんだよ?)
残念ながら、ロイドの予想は外れてしまった。
あんな態度を取ればさすがに自室へ戻るだろうと思っていたのに、まるで動く気配がない。
表面上は平静を装って書類に向かっているが、一方的な視線のせいで落ち着かない胸中だ。
どうして急に無言になってしまうのか。
せめて何か喋ってくれたらいいのに。
自分だけがやたらと気恥ずかしいこの状況をどうにかしたくて、ロイドは必死に頭を回転させようとした。
しかし、冷静さを欠いた中では良策が思い浮かばず、苦しまぎれな一言だけが声になる。
「──なにか飲みたい」
本当に何の脈絡もない言葉だ。
それが聞こえたランディは一瞬驚いたが、すぐに肩を震わせて笑いを噛みしめる。
「持ってこいって?ははっ、人使いが荒いねぇ」
相手の要求でその心境を察したのか、ようやく椅子から立ち上がった。
「取りあえずコーヒーでいいか?ミルク入れてやるから」
「ブラックでいいから」
一応お伺いを立ててみると、少し不満げな答えが返ってきた。
「へいへい」
ランディはそんな彼の頭を少し乱暴に掻き混ぜ、台所へと足を向けた。
赤毛を揺らした背中が見えなくなった後、ロイドは盛大に息を吐いてテーブルに突っ伏した。
「はぁー、なんだよ、もう」
あまり経験のない緊張感だったせいで、胸の鼓動が忙しない。
子供扱いは毎度のことだが、あんな風に見つめられたのは初めてだった。
「手……温かかった」
微睡みの中で感じた優しさは兄のようで、でもどこか違うようで。
さっきのように髪を乱されても嫌ではなくて、むしろ嬉しくて。
ランディにとっては他愛のないやり取りだったのかもしれない。
それを妙に意識してしまっている自分にロイドは戸惑った。
「なんか変だな……俺」
身体を起こし、ぼんやりと報告書を見つめる。
もう少しで書き終わるというのに、この書類と向かい合う気になれなかった。
台所に移動したランディは、慣れた手つきでポットに水を入れて火をかけた。
食器棚からカップを二つ取り出して、コーヒーを炒れる準備を進める。
いつもなら鼻歌でも混じりそうな動作だったが、今はそんな余裕が持てなかった。
「偶然にしては出来すぎじゃねーの?」
少し苦しげに顔を歪めて独りごちる。
互いの『なんとなく』は、まるであの空間を作り出すための予感にすら思えた。
ランディは蒸気が立ち上り始めたポットを眺めつつ、無造作に前髪を掻き上げた。
「……無性に構いたくなっちまう」
あの寝言のせいだろうか。
今夜はただの戯れではなくロイドに添っていたい。
色々と遊び歩いているが、こんな気持ちになった相手は今まで一人もいなかった。
「あー、そういえば」
彼はふと、特務支援課の一員として初めてウルスラ病院を訪れた時のことを思い出した。
初対面だったセシルは随分と天然で、三人ともロイドのお相手候補認定をされてしまった。
あの時、まさか自分にも振ってくると思わなかったランディは、冗談交じりでそれに乗ったのだが。
「はぁ、やべぇ……冗談じゃなくなりそうだ」
一体何の布石かと、つい苦笑いをしてしまいたくなる。
色恋沙汰と無縁ではないランディが、この感情の正体に気づけないはずがなかった。
蒸気の吹く音が次第に大きくなってきた。
お湯が沸くまでにはさほど時間がかからないだろう。
扉の向こうの気配を探れば、確かに彼の存在を感じる。
例えその場に居づらかったとしても、律儀で真面目なロイドが頼みごとをしたまま離席することはまずありえない。
「報告書、手伝ってやるか」
不意に、ランディの口から珍しい言葉が発せられた。
さっきの様子を見る限り、手が止まってしまっているような気がする。
本人は平静を保ったつもりだろうが、ランディにしてみれば落ち着きのなさは一目瞭然だった。
周囲には無自覚に爆弾を振りまいているくせに、いざ当事者となると上手く立ち回れない姿がなんだか微笑ましい。
「まぁ、しばらくは『兄貴』でも仕方ねぇかな」
今は時期尚早だ。
気づいてしまった自分の気持ちを、まだ十分に噛み砕けていない。
正直、もう少し時間が欲しいと思った。
2020.07.24
#零
畳む
2021年8月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
君と共に行く未来
那由多の軌跡(改)
後日譚の後の話でほんのりシグナユ風味です。
【文字数:2000】
夜も深まった空には、無数の星々が煌めいている。
望遠鏡を覗き込んでそれらを観測する一時は、自宅に居ればこその楽しみだ。
「あの星……昨日はもっと明るかった気がするけど」
ブツブツと呟きながら、手元のノートに何やら書き込んでいる。
そこへ、梯子の下から馴染みのある声が聞こえてきた。
「おい、ナユタ。上がるぞ?」
「ん~、いいよ」
軽やかな身ごなしで屋上の床を踏んだシグナは、熱心に観察を続ける少年の背中を見て小さく笑む。
「あんまり夜更かしすんなよ?」
「あと、ちょっとだけ」
こんな時のナユタは、兄貴分の声かけにも生返事になりがちだ。
その性分を理解している彼は無言で手すりに身体を預け、腕を組みながら静かに上空を見上げた。
もうすぐ夏休みが終わろうとしている。
テラに別れを告げ、残され島に帰ってきてからは、ナユタと二人で便利屋家業に勤しんできた。
だが、そろそろお開きだ。
「さすがに、次の船で戻らないと間に合わねぇな」
港町サンセリーゼまでの航海日数を計算し、シグナが独り言のように呟いた。
「……さて、俺はどうすっかなぁ」
「え?」
ナユタは彼が側に佇んでいる気配を感じつつも、夜空の星たちに意識を寄せていたが、気になる言葉が聞こえて望遠鏡から目を離した。
「シグナ、自警団に戻るんじゃないの?」
酷く驚いた様子で青年の方に顔を向ける。
夏休みが明けて学院に戻る時は一緒だと、それが当たり前の思考すぎて疑いもしなかった。
「なんていうか……まさか、たった一年足らずで再会できるとは思わなかったし」
シグナは遠くを見つめたまま言葉を続ける。
「こっちで生活することに現実味がなかったんだよ。そりゃ、お前らと生きていきたいって願望はあったけど」
今は一つだけになった月が、郷愁めいた瞳の中に映り込んだ。
「だから、身の振り方なんて真面目に考えてなくてな」
本来の色である銀髪は濃藍が広がる空に映え、幻想的にすら見える。
ナユタはそれを綺麗だと感じたが、同時に不穏なざわめきを覚えた。
「案外……落ち着き始めた世界を見て回るってのも、いいかもしれねぇな」
ずっとつるんできた相棒のことだ。嫌な予感は見事に的中した。
「シグナ!なんでまた一人で行こうとするんだよ!?」
彼は星々のことなどそっちのけで、衝動的に食ってかかった。
「なんでって……お前はまだ学生だろうが。きっちり卒業しないと、島のヤツらに合わせる顔がなくなるぜ?」
その激しい反応が意外だったのか、シグナはようやく少年の方を向いた。
諭すような静かな口振りが、珍しく高ぶった相手を落ち着かせようとする。
ナユタの方も元から熱しやすい性格ではなく、何度か深呼吸をしてすぐに平静を取り戻した。
「だったら、二年・三年……いや、僕が卒業するまで待ってよ」
見下ろしてくる視線をしっかりと受け止め、真剣な言葉を返す。
「まだ将来のことは分からないけど、僕だってもっとこの世界を見てみたい」
テラから見えた半球体の世界は想像以上に広くて、そして鮮やかで。
きっと、まだまだ知らないことが沢山あるはずだ。それらを思い描くだけでも胸が踊った。
未知への興味と探究心は、いつだってナユタの心を占めている。
彼の瞳がキラキラと輝き始めたのを見て、シグナは困り顔で頭を掻いた。
「やれやれ、別に放浪の旅ってわけでもねぇし……たまには顔を出すつもりだったんだけどな」
「そんなの信用できない。また置いて行かれるのはごめんだからね」
ナユタは一年前のことを根に持っているのか、あからさまに頬を膨らませた。
「あ~、分かった、分かった」
さすがにこれは不利だと、シグナはばつが悪そうに首を振った。
「相談くらいしてくれたっていいのに。一人で決めようとするの、悪い癖だよ」
「そうは言ってもなぁ」
ご機嫌斜めな相棒の口調はどこか説教じみていて、苦笑を禁じ得ない。
本音を言えば、もし何年か先の話になるとしても彼を誘ってしまいたかった。
けれど、ライラとクレハの気持ちを考えれば、「一緒に行こう」と言い出せるはずもない。
自分の望みを優先してナユタを引っ張り回したら、彼女たちを悲しませることにもなりかねないと思った。
そんなことを考えていると、
「大体、一人で行ったってつまらないよ」
いつの間にか、目の前にナユタが立っていた。
少し背が伸びたのか、一年前よりも近い位置で互いを見合う形になる。
「絶対二人の方が楽しいに決まってる。シグナとだったら、どこへだって行けそうな気がするんだ」
それはすでに確定事項のように、ナユタの声が夜気の中で明るく跳ねた。
「ったく……お前は」
さっきの膨れっ面はどこへやら。
期待に満ちた瞳を向けられ、シグナは照れ隠しの溜息を吐いた。
彼からの言葉が嬉しくて仕方がなかった。
ナユタに想いを寄せる彼女らに対し、後ろめたさがないと言えば嘘になる。
心の奥に隠している感情が滲み出そうになるくらいには。
「取りあえず、お前が卒業するまでは待ってやる」
それを誤魔化すように小さな相棒の肩を叩き、この場を去ろうと脇をすり抜けた。
「あっ、待つってどこで!?」
梯子を使わず一気に下の階へ飛び降りてしまった彼に、ナユタが慌てて声をかけた。
手すりから身を乗り出して相手を見下ろす顔は、どことなく不安そうだ。
「……次の船に乗るなら、そろそろ準備しとかねぇとな」
シグナはそんな幼い表情を仰ぎ見て、優しく目元を緩ませる。
またしばらくは、サンセリーゼの自警団に身を置くことになりそうだった。
2021.08.07畳む
那由多の軌跡(改)
後日譚の後の話でほんのりシグナユ風味です。
【文字数:2000】
夜も深まった空には、無数の星々が煌めいている。
望遠鏡を覗き込んでそれらを観測する一時は、自宅に居ればこその楽しみだ。
「あの星……昨日はもっと明るかった気がするけど」
ブツブツと呟きながら、手元のノートに何やら書き込んでいる。
そこへ、梯子の下から馴染みのある声が聞こえてきた。
「おい、ナユタ。上がるぞ?」
「ん~、いいよ」
軽やかな身ごなしで屋上の床を踏んだシグナは、熱心に観察を続ける少年の背中を見て小さく笑む。
「あんまり夜更かしすんなよ?」
「あと、ちょっとだけ」
こんな時のナユタは、兄貴分の声かけにも生返事になりがちだ。
その性分を理解している彼は無言で手すりに身体を預け、腕を組みながら静かに上空を見上げた。
もうすぐ夏休みが終わろうとしている。
テラに別れを告げ、残され島に帰ってきてからは、ナユタと二人で便利屋家業に勤しんできた。
だが、そろそろお開きだ。
「さすがに、次の船で戻らないと間に合わねぇな」
港町サンセリーゼまでの航海日数を計算し、シグナが独り言のように呟いた。
「……さて、俺はどうすっかなぁ」
「え?」
ナユタは彼が側に佇んでいる気配を感じつつも、夜空の星たちに意識を寄せていたが、気になる言葉が聞こえて望遠鏡から目を離した。
「シグナ、自警団に戻るんじゃないの?」
酷く驚いた様子で青年の方に顔を向ける。
夏休みが明けて学院に戻る時は一緒だと、それが当たり前の思考すぎて疑いもしなかった。
「なんていうか……まさか、たった一年足らずで再会できるとは思わなかったし」
シグナは遠くを見つめたまま言葉を続ける。
「こっちで生活することに現実味がなかったんだよ。そりゃ、お前らと生きていきたいって願望はあったけど」
今は一つだけになった月が、郷愁めいた瞳の中に映り込んだ。
「だから、身の振り方なんて真面目に考えてなくてな」
本来の色である銀髪は濃藍が広がる空に映え、幻想的にすら見える。
ナユタはそれを綺麗だと感じたが、同時に不穏なざわめきを覚えた。
「案外……落ち着き始めた世界を見て回るってのも、いいかもしれねぇな」
ずっとつるんできた相棒のことだ。嫌な予感は見事に的中した。
「シグナ!なんでまた一人で行こうとするんだよ!?」
彼は星々のことなどそっちのけで、衝動的に食ってかかった。
「なんでって……お前はまだ学生だろうが。きっちり卒業しないと、島のヤツらに合わせる顔がなくなるぜ?」
その激しい反応が意外だったのか、シグナはようやく少年の方を向いた。
諭すような静かな口振りが、珍しく高ぶった相手を落ち着かせようとする。
ナユタの方も元から熱しやすい性格ではなく、何度か深呼吸をしてすぐに平静を取り戻した。
「だったら、二年・三年……いや、僕が卒業するまで待ってよ」
見下ろしてくる視線をしっかりと受け止め、真剣な言葉を返す。
「まだ将来のことは分からないけど、僕だってもっとこの世界を見てみたい」
テラから見えた半球体の世界は想像以上に広くて、そして鮮やかで。
きっと、まだまだ知らないことが沢山あるはずだ。それらを思い描くだけでも胸が踊った。
未知への興味と探究心は、いつだってナユタの心を占めている。
彼の瞳がキラキラと輝き始めたのを見て、シグナは困り顔で頭を掻いた。
「やれやれ、別に放浪の旅ってわけでもねぇし……たまには顔を出すつもりだったんだけどな」
「そんなの信用できない。また置いて行かれるのはごめんだからね」
ナユタは一年前のことを根に持っているのか、あからさまに頬を膨らませた。
「あ~、分かった、分かった」
さすがにこれは不利だと、シグナはばつが悪そうに首を振った。
「相談くらいしてくれたっていいのに。一人で決めようとするの、悪い癖だよ」
「そうは言ってもなぁ」
ご機嫌斜めな相棒の口調はどこか説教じみていて、苦笑を禁じ得ない。
本音を言えば、もし何年か先の話になるとしても彼を誘ってしまいたかった。
けれど、ライラとクレハの気持ちを考えれば、「一緒に行こう」と言い出せるはずもない。
自分の望みを優先してナユタを引っ張り回したら、彼女たちを悲しませることにもなりかねないと思った。
そんなことを考えていると、
「大体、一人で行ったってつまらないよ」
いつの間にか、目の前にナユタが立っていた。
少し背が伸びたのか、一年前よりも近い位置で互いを見合う形になる。
「絶対二人の方が楽しいに決まってる。シグナとだったら、どこへだって行けそうな気がするんだ」
それはすでに確定事項のように、ナユタの声が夜気の中で明るく跳ねた。
「ったく……お前は」
さっきの膨れっ面はどこへやら。
期待に満ちた瞳を向けられ、シグナは照れ隠しの溜息を吐いた。
彼からの言葉が嬉しくて仕方がなかった。
ナユタに想いを寄せる彼女らに対し、後ろめたさがないと言えば嘘になる。
心の奥に隠している感情が滲み出そうになるくらいには。
「取りあえず、お前が卒業するまでは待ってやる」
それを誤魔化すように小さな相棒の肩を叩き、この場を去ろうと脇をすり抜けた。
「あっ、待つってどこで!?」
梯子を使わず一気に下の階へ飛び降りてしまった彼に、ナユタが慌てて声をかけた。
手すりから身を乗り出して相手を見下ろす顔は、どことなく不安そうだ。
「……次の船に乗るなら、そろそろ準備しとかねぇとな」
シグナはそんな幼い表情を仰ぎ見て、優しく目元を緩ませる。
またしばらくは、サンセリーゼの自警団に身を置くことになりそうだった。
2021.08.07畳む
2009年10月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
認め合う心
イース7
アドルがガッシュ・ドギと共に闘技場から脱出する時の話。一応ガッシュ→アドルなつもり。
【文字数:2000】
酷く身体が重い。
かなり体力を消耗しているようだと、アドルは思った。
だが、今はそんなことに気を取られている場合ではない。
軋む身体へ無理矢理にでも力を込める。
「── アドル!!」
そこへ聞き慣れた相棒の声。
アドルはハッとして身構えたが、ほんの一瞬だけ遅かった。
突撃してきた魔獣の爪が腕を切り裂く。
その衝撃でふらついた彼は、思わず膝を折ってしまった。
「馬鹿野郎!」
そこへ罵声と共に黒い影が飛び込んでくる。
同時にハルバードが唸り、周囲の魔獣たちは一瞬にして崩れ落ちた。
「こんな雑魚相手に何やって……」
ガッシュは、ふらりと立ち上がったアドルに鋭い視線を向けた。
しかし、彼の顔を見た途端に声を詰まらせてしまう。
酷い顔色をしていた。
大した距離を移動したわけでもないのに、やけに息づかいが荒い。
「アドル、大丈夫か!?」
彼の様子が尋常ではないことを察したのか、少し離れた場所にいたドギが慌てて戻ってきた。
アドルはいつものようにニッコリと笑う。
だが、ドギとガッシュの目にはそれが痛々しく映った。
無理もないと思う。
拷問を受け続けた挙げ句に、闘技場での戦いだ。
そして、それからの逃亡劇。
一刻の猶予もならない状況の中、アドルは何も言わずに走り続けた。
もちろん、ドギやガッシュのスピードに遅れることなく。
「おいおい、こりゃひでーな。俺がおぶっていくか?」
ドギはアドルの顔を覗き込みながらそう言ったが、
「待てよ。それじゃ余計にあんたが遅くなるじゃねーか。これ以上遅くなるのはゴメンだぜ」
すぐにガッシュからの抗議を受けた。
「けど、このまま走らせろって言うのか?」
これには流石のドギも顔を顰めてしまう。
「しかたねーだろ」
アドルは二人の睨み合いが始まってしまいそうな雰囲気を感じ、慌てて彼らの間に割って入った。
そして、「まだ走れる」と微笑する。
「お、おい……アドル」
「いいじゃねーか、本人がそう言っているんだから」
不安げなドギとは対照的に、ガッシュはそう言い放つ。
それと同時に漆黒のハルバードを振り上げ、ある方向を指し示した。
「向こうだ。魔獣を倒そうなんて思うな、とにかく走れ。殿は俺がやる」
それを聞いたアドルは無言で頷いた。
そして、心配そうな相棒の肩をポンと叩いてから走り出す。
まだ大丈夫。まだ走れる。
そう自分に言い聞かせながらアドルは目的地まで急いだ。
魔獣との戦いの音が背後から聞こえてきても、振り返りはしない。
相棒のドギはもちろんのこと、ガッシュのことも信頼しているし、背中を預けるに値する人物だと思っている。
だから、前だけを向いて走ることになんの不安も感じなかった。
「……その、悪かったな」
隠れ里に着いた後、ガッシュがそう言った。
だが、アドルには彼が何のことを言っているのか分からなくて首を傾げる。
「だからっ、無理に走らせて悪かったって……」
二度も言うつもりはなかったのだろう。
ガッシュは、ばつが悪そうに顔をそらした。
彼の意外な言葉にアドルは目を瞬かせる。
まさか気にしてくれていたとは思わなかったのだ。
「まったくだぜ。アドルが途中でぶっ倒れるんじゃないかって、ひやひやしちまった」
すると、すかさずドギが横やりを入れてくる。
「あんたには言ってねーだろうが」
ガッシュは二人から顔を背けたまま、軽く舌打ちした。
眼下に広がる見慣れた里の風景に、内心胸をなで下ろす。
この短い期間での目まぐるしい状況の変化に、流石の彼も疲労困憊気味だ。
だが、それよりも……
(本当に走りきるとは思わなかったぜ)
走れるなら走れとあの時言ったが、アドルの体力を信じきっているわけではなかった。
もちろんガッシュは彼が倒れた時のことも考えていたし、そうなる可能性の方が高いのではないかと予想していた。
ちらりとアドルの様子を窺うと、彼の顔色は先刻よりも幾分か良くなっている。
この里の風景が珍しいのだろう、目を輝かせながらドギと会話を弾ませていた。
(ったく、大した奴だ)
ガッシュは正直舌を巻いていた。
アドルのお人好しな性格についてはともかく、彼の冒険者としての資質や剣士としての技量は素直に認めるところだった。
その思いが、自然とガッシュの頬を緩ませた。
── と、その彼の背中にアドルの声が投げ掛けられた。
「な、なんだよ?」
赤毛の青年の不意打ちに、ガッシュは慌てて表情を引き締める。
アドルはガッシュが前々から言っていた『会わせたい人物』について尋ねた。
「ああ、まぁ……直接会った方が早いと思うぜ」
それに対してのガッシュの反応は鈍い。
どうにもあの男の説明をする気にはなれないようだ。
興味津々な瞳が真っ直ぐに向けられるのも、少々居心地が悪い。
ガッシュは「黙って付いてこい」と言わんばかりに、里へ繋がる坂道を下り始めた。
アドルの体調がまだ気がかりだったが、振り返ったらあの真っ直ぐな瞳とぶつかってしまいそうな気がして前を向く。
結局彼は目的の建物を目の前にするまで、一度も振り返ることをしなかった。
2009.10.19
#イース畳む
イース7
アドルがガッシュ・ドギと共に闘技場から脱出する時の話。一応ガッシュ→アドルなつもり。
【文字数:2000】
酷く身体が重い。
かなり体力を消耗しているようだと、アドルは思った。
だが、今はそんなことに気を取られている場合ではない。
軋む身体へ無理矢理にでも力を込める。
「── アドル!!」
そこへ聞き慣れた相棒の声。
アドルはハッとして身構えたが、ほんの一瞬だけ遅かった。
突撃してきた魔獣の爪が腕を切り裂く。
その衝撃でふらついた彼は、思わず膝を折ってしまった。
「馬鹿野郎!」
そこへ罵声と共に黒い影が飛び込んでくる。
同時にハルバードが唸り、周囲の魔獣たちは一瞬にして崩れ落ちた。
「こんな雑魚相手に何やって……」
ガッシュは、ふらりと立ち上がったアドルに鋭い視線を向けた。
しかし、彼の顔を見た途端に声を詰まらせてしまう。
酷い顔色をしていた。
大した距離を移動したわけでもないのに、やけに息づかいが荒い。
「アドル、大丈夫か!?」
彼の様子が尋常ではないことを察したのか、少し離れた場所にいたドギが慌てて戻ってきた。
アドルはいつものようにニッコリと笑う。
だが、ドギとガッシュの目にはそれが痛々しく映った。
無理もないと思う。
拷問を受け続けた挙げ句に、闘技場での戦いだ。
そして、それからの逃亡劇。
一刻の猶予もならない状況の中、アドルは何も言わずに走り続けた。
もちろん、ドギやガッシュのスピードに遅れることなく。
「おいおい、こりゃひでーな。俺がおぶっていくか?」
ドギはアドルの顔を覗き込みながらそう言ったが、
「待てよ。それじゃ余計にあんたが遅くなるじゃねーか。これ以上遅くなるのはゴメンだぜ」
すぐにガッシュからの抗議を受けた。
「けど、このまま走らせろって言うのか?」
これには流石のドギも顔を顰めてしまう。
「しかたねーだろ」
アドルは二人の睨み合いが始まってしまいそうな雰囲気を感じ、慌てて彼らの間に割って入った。
そして、「まだ走れる」と微笑する。
「お、おい……アドル」
「いいじゃねーか、本人がそう言っているんだから」
不安げなドギとは対照的に、ガッシュはそう言い放つ。
それと同時に漆黒のハルバードを振り上げ、ある方向を指し示した。
「向こうだ。魔獣を倒そうなんて思うな、とにかく走れ。殿は俺がやる」
それを聞いたアドルは無言で頷いた。
そして、心配そうな相棒の肩をポンと叩いてから走り出す。
まだ大丈夫。まだ走れる。
そう自分に言い聞かせながらアドルは目的地まで急いだ。
魔獣との戦いの音が背後から聞こえてきても、振り返りはしない。
相棒のドギはもちろんのこと、ガッシュのことも信頼しているし、背中を預けるに値する人物だと思っている。
だから、前だけを向いて走ることになんの不安も感じなかった。
「……その、悪かったな」
隠れ里に着いた後、ガッシュがそう言った。
だが、アドルには彼が何のことを言っているのか分からなくて首を傾げる。
「だからっ、無理に走らせて悪かったって……」
二度も言うつもりはなかったのだろう。
ガッシュは、ばつが悪そうに顔をそらした。
彼の意外な言葉にアドルは目を瞬かせる。
まさか気にしてくれていたとは思わなかったのだ。
「まったくだぜ。アドルが途中でぶっ倒れるんじゃないかって、ひやひやしちまった」
すると、すかさずドギが横やりを入れてくる。
「あんたには言ってねーだろうが」
ガッシュは二人から顔を背けたまま、軽く舌打ちした。
眼下に広がる見慣れた里の風景に、内心胸をなで下ろす。
この短い期間での目まぐるしい状況の変化に、流石の彼も疲労困憊気味だ。
だが、それよりも……
(本当に走りきるとは思わなかったぜ)
走れるなら走れとあの時言ったが、アドルの体力を信じきっているわけではなかった。
もちろんガッシュは彼が倒れた時のことも考えていたし、そうなる可能性の方が高いのではないかと予想していた。
ちらりとアドルの様子を窺うと、彼の顔色は先刻よりも幾分か良くなっている。
この里の風景が珍しいのだろう、目を輝かせながらドギと会話を弾ませていた。
(ったく、大した奴だ)
ガッシュは正直舌を巻いていた。
アドルのお人好しな性格についてはともかく、彼の冒険者としての資質や剣士としての技量は素直に認めるところだった。
その思いが、自然とガッシュの頬を緩ませた。
── と、その彼の背中にアドルの声が投げ掛けられた。
「な、なんだよ?」
赤毛の青年の不意打ちに、ガッシュは慌てて表情を引き締める。
アドルはガッシュが前々から言っていた『会わせたい人物』について尋ねた。
「ああ、まぁ……直接会った方が早いと思うぜ」
それに対してのガッシュの反応は鈍い。
どうにもあの男の説明をする気にはなれないようだ。
興味津々な瞳が真っ直ぐに向けられるのも、少々居心地が悪い。
ガッシュは「黙って付いてこい」と言わんばかりに、里へ繋がる坂道を下り始めた。
アドルの体調がまだ気がかりだったが、振り返ったらあの真っ直ぐな瞳とぶつかってしまいそうな気がして前を向く。
結局彼は目的の建物を目の前にするまで、一度も振り返ることをしなかった。
2009.10.19
#イース畳む
碧・恋人設定
偶然出会ったシャーリィに二人の仲を勘付かれてしまい、意識してしまうロイドの話。
【文字数:7900】
最近、特務支援課のビルは閑散としていることが多い。
教団の事件で知名度も上がり、活動を再開してからは様々な支援要請が舞い込んでくるようになった。
オペレーターであるフランが調整して割り振ってくれているが、多忙なことには変わりなく、彼らは日々クロスベル中を飛び回っている。
そんな中、今日は久しぶりの休日だ。
ビルの一階では、女性たちの声が楽しげな空間を作り出している。
「お、もう出かけるのか?」
そこへ台所からランディがひょっこりと顔を出した。
本日の朝食当番だった彼は、後片付けをしている最中だった。
「そうね。色々と見て回りたいし」
それに応じたエリィが口元を綻ばせる。
支援課の女性陣はキーアを連れて百貨店へ買い物に行く予定だ。
「後でソフィーユのジェラートが食べたいです」
「あ、あそこの美味しいですよね。フランが大好きなんですよ」
ティオが遠慮がちに少しだけ声を弾ませると、ノエルが頷きながらこの場にいない妹のことを思い浮かべた。
ちなみフランは仕事があって今日は参加できない。
「ねーねー、ノエル。昨日フランがお昼休みに抜け出してくるって言ってたよ」
「えっ?もうっ、あの子ってば」
ノエルはキーアからの情報に驚いたが、怒るよりも呆れるといった様子で大きな溜息を吐いた。
そんな彼女たちのやり取りをランディは目元を緩めて眺めやる。
「いや~、平和だねぇ」
つい独りごちると、いきなり後ろからどつかれた。
「こら、さぼるな」
後片付けを手伝ってくれているロイドが睨んでくる。
「はい、はい。お嬢たち出かけるってよ」
「あれ、もうそんな時間?」
それをあしらってランディが話を振ると、ロイドはすぐに態度を一変させて台所から出てきた。
「あ、ロイド~!キーアたちお買い物に行ってくるね~!」
彼の姿を見つけた少女が、目を輝かせながら元気よくその場で飛び跳ねる。
「ははっ、いってらっしゃい」
そんな元気な姿につられ、ロイドは満面の笑顔で小さく手を振りながら彼女らを見送った。
台所に戻った二人は、手際よく片付けを進めながら何気ない会話を交わしていた。
「そう言えば、ワジはもう出かけたのかな?」
「飯食った後、さっさと行っちまったぞ」
「課長は外せない会議があるとかで休み取れなかったんだよな」
「ま、いいんじゃねーの?普段から休んでるようなもんだし」
折角の休日だというのに皆のことを気にかけてしまうロイドに、ランディは軽い調子で応答した。
リーダーとして真面目なのは彼の長所だが、今日くらいは気を抜いてほしいと思う。
「そんなことより、お前も出かけるんだろ?」
「ん~、なんかエニグマの調子が悪いからウェンディに見てもらおうかと思ってさ」
そんな意味も込めて話題をロイド自身のことへ向けると、彼は眉を寄せて天井を見上げた。
「ウェンディちゃんにスパナとかで殴られそうだな。もっと大事に扱えとか言われて」
「……ありえそうで怖いんだけど」
ランディの言葉はやけに信憑性があってロイドは苦笑した。
けれど、相手が幼馴染みのせいか深刻さはなく、明るい色を浮かべている。
「あ、そうだ。外に出るなら『あれ』買ってきてくれよ」
それに気を良くしたランディが思い出したかのように言うと、ロイドは少しの間を置いてから瞠目した。
「『あれ』って……っ、ランディ!」
「今日、発売日なんだよな」
「なんで俺が買ってこなくちゃいけないんだよ。どうせ外出するんだろ?」
冷ややかな視線の中にも、どこか恥ずかしげな顔が見え隠れしている。
『あれ』で通じてしまうあたり、ランディの愛読書であるグラビア雑誌のお使いは初めてではないのだろう。
「冷たいこと言うなって。後で貸してやるから」
「見るわけないだろ!!」
ケラケラと笑う年長の同僚に対し、ロイドは赤面しながら声を荒げてしまった。
朝食の片付けが済んだロイドは、軽く身支度を整えて玄関先から外へ出た。
今日は朝から好天に恵まれたおかげか人々の出足が早いようだ。
中央広場はすでに賑わっていて、活気のある風景が広がっている。
それらを目に映すロイドの表情が柔らかくなった。
多忙な中での貴重な休日だと思えば、自然と気持ちも解れていく。
「さて……と」
彼はしばらくその街並みを堪能していたが、やがて目的の場所である派手な看板に目をやった。
遠目からでも認識できるそれは、中央広場の中でも一際目立っている。
慣れた様子で店内に入ると、すぐに気が付いたウェンディがカウンター越しに声をかけてきた。
「ロイド、今日は一人?珍しいね」
「ああ、久しぶりに休日なんだ」
ロイドはそう答え、ここに来た理由を説明しながらエニグマをカウンターの上に置いた。
「まさか、壊したんじゃないでしょうね?」
案の定、ウェンディの目つきが怖くなっている。
「そ、そんなに乱暴には扱ってないはずだけど……」
思わず腰が引けてしまロイドだったが、彼女はそれに目もくれずにエニグマのカバーを開けた。
(はぁ、殴られずに済みそうかな)
彼女の意識はすでにエニグマの方へ向いているようで、ホッと胸を撫で下ろす。
ウェンディは繊細な手つきで中身を分解し、各部品のチェックを始めた。
ロイドはそれを興味深げに眺め、彼女と会話をしつつ時間を過ごす。
遠慮のない幼馴染みとのやり取りは、久しぶりに楽しいものとなった。
エニグマの調整が終わって店を出る頃には、太陽が頭上に昇る時間帯になっていた。
昼食の予定は特に決めていなかったが、ウェンディと会ったせいかもう一人の幼馴染みの顔も見たくなり、西通りへ向かうことにした。
香ばしいパンの匂いが漂ってくる店のドアを開けると、爽やかな笑顔が出迎えてくれた。
「よっ、今日は一人か?」
「ウェンディにも同じこと言われたよ」
幼馴染みたちに同じ反応をされ、ロイドは笑いながら肩を竦めてみせた。
ゲンテンに立ち寄ったことを言うと、
「殴られなくてよかったな。あいつその手のことになると見境ないし」
彼は腕を組んで無駄に何度も頷いてくれた。同性同士、何か通じるものがあるのかもしれない。
「ところで、昼飯か?だったらこの辺がおすすめだぞ」
ひとしきり言葉を交わした後、オスカーがトレーの一画を指差した。
「ちょっと改良してみたんだ。これとこれもどうだ?」
パン職人一筋なオスカーだが、なかなかに商売上手な一面もあるようだ。
「今日は天気も良いし、たまには外で食べていくのもいいんじゃないか?」
さらにはそんな提案をされ、ロイドは可笑しげに頷いた。
外での食事は開放的で良い気分展開にもなる。
ロイドはオスカーに勧められたパンを頬張りながら満足げな顔をした。
「う~ん、やっぱりここのパンは美味いな」
一緒に注文した搾りたてのオレンジジュースも新鮮な味わいだ。
「二人とも相変わらずだったなぁ」
年を経ても変わることのない幼馴染みたちとの関係は、大切な心の支えの一部でもある。
急速に変化していく環境の中にあって、それはとても貴重なものだ。
ロイドはふと、テーブルの端に置いた紙袋に目をやった。
いつの間にか、彼らとは違う形での支えが胸の中に住み着いている。
「ちょっと甘やかしすぎかも」
紙袋の中にはランディ御用達のグラビア雑誌が入っている。
ゲンテンを出て西通りに向かう途中で買ったものだ。
断り切れずに頼まれてしまったが、そもそもランディはそれを分かっていて声をかけてくるので、少し悔しくもある。
「今度は絶対断ってやるからな」
そんな風に彼のことを考えながら食事を続けている中、
「あれ?おにいさん、久しぶりだねぇ」
快活な少女の声が降ってきた。
昼食中の青年を見下ろしている大きな瞳は興味深げに輝き、そして『彼』と同じ鮮やかな赤い髪。
「き、君は!?」
ロイドの顔が一瞬にして気色ばんだ。
全身に緊張が走り、食事の手が止まる。
だが、
「あははっ、そんな怖い顔しないでよ。シャーリィはぶらぶらしてるだけだから」
すぐに少女の方が張り詰めた空気を遮断した。
そして、軽やかな身ごなしでロイドの向かいにある椅子へと座る。
「何か用か?」
まさかの展開で、ロイドの手にじわりと汗が滲む。
戦鬼シグムントと共に赤い星座の中心にいる彼女は、最高レベルの危険人物だ。
今は表立った動きを見せていないが、油断はできない。
「別に~。ちょっと見かけたから声をかけただけだよ」
シャーリィはそう言いながらトレーの上にある香ばしいパンに目を留め、
「あ、それ美味しそうだね」
などと許可を得ずに食べ始めてしまった。
(う、う~ん……奔放な子だな)
そんな少女の言動をロイドは無言で観察する。
以前ランディが、「街中を歩いてるくらいだったら害はないだろうけどな」と言っていたのを思い出し、少し肩の力を抜いてみることにした。
「ここのパンって、雑誌に載ってたんだよねぇ。だから気になっててさ」
シャーリィは小動物のように忙しなくパンを頬張っていたが、ふとロイドの方を見て動きを止めた。
「あっ……おにいさんさぁ、ランディ兄と凄く仲がいいみたいだね」
「──え?」
まるでどこかで見ていたかのような言葉にロイドは身を固くした。
(な、なんで?)
さっきとは別の意味で緊張感が増し、思わず目の前の少女を凝視する。
急に喉の奥が張り付くような感覚がして、飲みかけのオレンジジュースをストローで勢いよく啜った。
その直後、
「だって、ランディ兄の匂いがする」
シャーリィの口から衝撃的な言葉が飛び出した。
「い、今っ、なん……て!?」
ロイドはジュースを吹き出しそうになるのを何とか堪えたが、逆にむせ返ってしまって涙目になる。
「それくらい一緒にいるってことだよね。あ、そっか~」
顔が赤いのは苦しいからか、それとも図星だったからか。
明らかに動揺している青年を見て、シャーリィは直感的に二人の関係性を察したようだった。
「おにいさんって凄いねぇ。あのランディ兄を捕まえちゃうなんて」
からかうわけでもなく、心底感心している様子でまじまじとロイドを見つめている。
「勝手に納得しないでくれ」
ロイドが呼吸を整えながら言い返したが、それを無視して彼女は言葉を続けた。
「今はなんか腐抜けちゃってるけど、前のランディ兄はかっこよかったし、言い寄ってくるヤツとかいっぱいたんだよ」
パンを丸々一個食べ終え、今度はロイドが持っていたオレンジジュースを奪って遠慮なく飲み始める。
「そういうのは相手にしないくせに、ナンパばっかりしてたけどさ」
その頃のことを思い出しているのか、シャーリィはどこか懐かしげに目を細めた。
そんな姿を少し意外に感じ、ロイドは彼女の声に耳を傾けてしまっていた。
「あのナンパ癖は昔からか」
つい独り言のような呟きを発し、それが聞こえた赤毛の少女は声を立てて笑った。
「シャーリィの言ってること信じちゃうんだ?おにいさんってやっぱり面白いね!」
それから残りのジュースを一気に飲み干して、跳ねるように席を立つ。
「もっと話していたいけど、そろそろ行かなくちゃ」
一見普通の少女だがそこはやはり百戦錬磨の猟兵で、全く隙のない動作だった。
「じゃあ、またね!ランディ兄によろしく~」
まさに台風一過だった。
再び一人になったロイドはテーブルに片肘をつき、その手で顔を覆いながら大きく息を吐いた。
「はぁ~、まいったな」
ランディの言っていた通り、害はなかった。なかったのだが。
さっきのやり取りを思い出せば自然と顔が熱くなる。
あの動物的な感覚は猟兵だからというよりも、彼女特有のものような気がした。
「思いっきり食い逃げされたし」
ドッと疲れが押し寄せてきて怒る気にもならない。
昼食を終えたら帰ろうと思っていたが、気持ちの収拾が付くまで椅子から立ち上がれそうになかった。
それから三十分ほどして、ロイドはようやく重い腰を上げた。
気分転換にこのまま街中をぶらつくのも悪くないが、この紙袋を片手にしているとどうにも落ち着かない。
昼下がりでのんびりとした雰囲気の西通りを歩き、裏口から特務支援課のビルへ戻ってきた。
念のため一階へ顔を出したが、まだ誰も帰ってきていないようだ。
「……ランディはさすがにもう出かけたよな」
遊び好きな彼が、この貴重な休日を無駄にするとは思えない。
きっと昼飯がてら外出しただろうと、強引に決めつけてしまいたくなる。
正直、今は会いたくなかった。
やっと落ち着いた熱がぶり返してきそうな気がする。
そもそも、真面目なロイドには頼まれごとを後回しにするという考えがなかった。
不在ならともかく、居るのであればすぐに渡すのが当たり前だ。
階段を上り二階の廊下へ足を踏み入れると、微かに音楽が流れてきた。
それは落ち着いた雰囲気のある曲調だ。
この階で音楽が聞こえてくる場所といえば、ジュークボックスがある彼の部屋の可能性が高い。
「嘘だろ……?」
ロイドは思わず天井を仰ぎ見た。
一体どこで行動選択を間違えたのだろう?
随分と巡り合わせの悪い休日だ。
意を決して、音が漏れてくるドアの前に立つ。
深呼吸を繰り返してからノックをすると、中から聞き慣れた声が返ってきた。
「まだ出かけないのか?」
部屋に入って早々、そんな言葉が口をつく。
「ん~、これ終わったらな」
ランディはソファーに座って武器の手入れを行っていた。
「重力変換ユニットまで手付けてたら、時間くっちまってさ」
久しぶりにまとまった時間が取れるとあって、気分がのってしまったのだろうか。
自分の獲物を見つめる瞳が楽しげな表情をしている。
ロイドはそんな同僚の側に歩み寄り、紙袋を差し出した。
「これ。次は自分で買いに行けよな」
「おっ、ありがとよ。今度飯でもおごるぜ」
抗議の意味も込めて膨れっ面で睨んでみたが、全く効果はない。
ランディは小さく笑いながら作業の手を止め、それを受け取ろうとした。
その瞬間、互いの指先が触れる。
「──っ!?」
ロイドは反射的に手を引っ込めてしまった。
『ランディ兄の匂いがする』
同時にシャーリィの言葉が脳裏に浮かび、一気に熱が蘇った。
「ロイド?」
様子がおかしいこと訝しんだランディが彼を見上げるも、視線は噛み合わない。
「な、なんでもない」
ロイドはぎこちなく笑ったが、そこまでが限界だった。
これ以上はこの部屋にいられそうもなくて、ランディに背を向ける。
「えっと……ごめん。もう行くから」
無言で出て行くのは失礼だろうと思い、何とか声を出してドアノブに手をかける。
だが、
ドアを開ける寸手の所で、音もなく後ろから手首を掴まれた。
「えっ?」
一連の動作には全く気配が感じられず、完全な不意打ちだった。
「それ、なんでもないって態度じゃないよな」
驚きで心臓が止まりかけたロイドへ静かな声が降りそそぐ。
少し上からの視線と共に、赤い髪が彼の耳の横を掠めて落ちてきた。
「別に、ランディが気にすることじゃない」
そのわずかな感触ですら耐えきれずに強く目を瞑ると、今度は背後から胴体に腕を回されて強引に後ろへ引きずられ始めた。
「な、なにしてるんだよ!?」
「まともに誤魔化せたこともないくせに、どの口が言ってんだか」
ロイドは必死に抵抗したが体格で勝るランディには適わず、ソファーの上に投げ出されてしまった。
「いっ……た」
「そんじゃ、白状してもらおうかねぇ」
ランディは頭をさすっているロイドの横に腰を下ろし、唇の端を吊り上げる。
相手を部屋の窓側に放り込み、自分はドアの近くを抑えているあたり、逃がすつもりは毛頭ないのだろう。
それはロイドにも分かるくらいのはっきりとした意思表示だ。
(あぁ、もう……俺のバカ)
あの時、背を向けた勢いのまま部屋を飛び出してしまえばよかった。
そう思わずにはいられなかった。
観念したロイドは、渋々とシャーリィに遭遇したことを告げた。
その名前を聞いた瞬間、ランディの眼光が鋭くなった。
「あいつ、何考えてやがる」
警戒心が剥き出しの牙を隠そうともせずに声が低くなる。
「お前、何もされてないだろうな?」
「大丈夫。普通に話してただけだから」
ロイドは彼を安心させようと微笑したが、すぐに足元に視線を落とした。
「でもさ、その……気づかれちゃって」
言い淀む顔が恥ずかしげな表情を浮かべる。
どこまでを伝えるべきか悩んだが、シャーリィの方から話を振ってくる可能性も考えれば、隠しておくのは得策ではないだろうと思った。
「あー、なるほどね。そういうことか」
そんなロイドを見たランディは、彼の言いたいことをすぐに読み取った。
「妙に勘が良いからな、あいつ。獣みたいっつーか」
その内容は危険とは程遠く、自然と剣呑になっていた心が和らいでいく。
「ま、お前も何かツッコまれて動揺しまくったんだろ?」
「うっ……」
その光景が易々と想像できる。
ランディは喉の奥で笑ったが、それを加味してもロイドの態度には首を傾げるものがあった。
そうして、改めて反芻してみる。
最初に彼がこの部屋に入ってきた時、特に違和感はなかった。
グラビア雑誌のせいでご機嫌斜めなのは毎度のことだ。
態度が急変したのは、それを受け取った直後。
ほんの一瞬、指が微かに触れた。
この程度の接触など日常茶飯事だというのに、過敏に反応した姿からは羞恥の色が滲んで見えた。
それは同僚としての顔ではなく、恋人としての顔だ。
(あいつに何言われたか知らねぇけど……意識してんな)
随分とウブな反応をしてくれたせいで、愛おしさも相まって身体の奥にじわりと火が灯る。
情欲に侵食され始めた腕が何のためらいもなくロイドの方へ伸びた。
「あんまり思わせぶりなことするなよ?それとも試してんの?」
まだ、この部屋で一度もまともに顔を見ていない。
伸ばした腕の先が背けられた顔を捕まえ、強引に向かい合わせる。
「た、試すって、なにを?」
意図せず相手を直視してしまったロイドは、目を丸くしながら声を絞り出した。
戯けのない眼差しを受けて胸の鼓動が速くなる。
「だから……俺がお前の誘いを蹴って遊びに出て行くかどうかってこと」
「なんでそうなるんだよ!?大体、誘ってないし!」
ロイドはこの翡翠色が苦手だった。
いつもは軽妙で気さくな瞳は、なんの予兆もなく急に落ち着き払った男の顔をする。
その中に見え隠れする静かな熱情が身体に纏わり付くようだった。
逸らしたくても身体がうまく動かない。
耳から顎のラインをなぞる指先がやたらと優しくて、肌がざわめいた。
「俺に構ってないでさっさと行けよ」
それでも精一杯の強気で睨み付けると、ランディは意地悪げに両眼を細めた。
「お前、それ本気?」
ロイドの両肩を掴んでソファーに身体を押しつけ、乗りかかった。
二人分の重みを受けて軋む音がやけに耳につく。
ジュークボックスから流れていた音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
ランディは答えを聞きたいわけではなく、ロイドの唇を自分のそれで塞いだ。
久しぶりに味わう感触が気持ちよくて心が躍る。
こんなキス一つですら慣れる様子のない恋人を追い込みたくなった。
戸惑って逃げる舌先を捕らえて執拗に絡ませる。
角度を変える度に深まる交わりが、静かな部屋に濡れた音を響かせた。
「……っ、まっ……て」
湿った吐息の隙間でロイドが声を乱す。
この場では一枚も二枚も上手な年上の恋人に為す術もなく、熱っぽく潤んだ瞳を向けた。
「なに?ベッド行く?」
訴えかけるような視線を察したランディが尋ねるも声はない。
ただ、汗ばんだ手が彼の衣服を握りしめてきた。
久しぶりの休日だというのに、ままならないことだらけだ。
ロイドは煽られて火照った身体を持て余し、ベッドに組み敷いてくる相手へと腕を伸ばした。
それを掴んだランディが嬉しそうに指先へ舌を這わせてくる。
「なぁ、ロイド。今日は俺と遊ぼうな」
彼はまるで子供にでも言うように、けれどもそれには不釣り合いな色情めいた声を静寂の部屋に響かせた。
2020.08.22
#碧畳む