アーロン×ヴァン
煽り上手は地に潜る
恋人設定・2025年バレンタイン
アーロンにチョコを渡したいヴァンが墓穴を掘りまくっている話です。
【文字数:5700】
胡乱げな雰囲気が漂うこの地下通路も、今やすっかり慣れた道程だ。
迷いなく地上へと向かい、表と裏を隔てる重いドアを開け放つ。
「はぁ~、やっぱ外の空気の方が美味いぜ」
アーロンが人目を憚らずに大きな背伸びをする。
新鮮な外気が体内へ流れ込み、一気に緊張感が抜けていった。
「そりゃ、そうだろ。いくら空調は整っているとはいえ、地下は地下だしな」
彼に続いて外に出てきたヴァンは、眩しそうに目を細めて空を仰ぎ見る。
「あぁ、もうこんな時間か。あそこにいると時間の感覚が鈍っちまう」
男の瞳に映っているのは、茜色から群青色へと変わる夕暮れ時のグラデーション。
地下鉄を利用して駅に降り立った時分、まだ辺りは陽光に満ちていて明るかった。
川辺から流れてくる風は冷たさを増し、明らかな時間の経過を感じる。
黒芒街に続く道はいくつもあるが、ヴァンたちはここ──リバーサイドを利用することが多かった。
「で、この後はどうすんだよ?所長さん」
心地良い川のせせらぎを耳に流しながら、二人はおもむろに歩き始めた。
「今日のところはこれで十分だろ」
彼らが黒芒街を訪れた理由は裏解決業務の一環で、とある依頼の情報収集を兼ねた巡回だった。
多少の収穫は得たが、それ以外はヴァンの嗅覚に引っかかるような事案もなかった。
そうとなれば、本日の業務は終了の方向だろう。
「おっ、そんじゃお開きか?」
アーロンはパッと顔を輝かせ、胸元で掌に拳を打ち付けた。
今すぐにでもどこかへ遊びに行ってしまいそうな勢いだ。
「あぁ、そうだな」
ヴァンは所長の顔で頷いた。
だが、橋の袂まで来たところで急に足を止めてしまう。
「さてと、今の時間だったら……」
助手の方はといえば、鼻歌交じりで今夜の予定を立てようとしていた。
彼は遊び仲間たちと連絡を取るつもりで、衣服の中からザイファを取り出す。
そこで、ようやくヴァンが隣を歩いていないことに気がついた。
彼の足はすでに橋の上を数歩進んだ辺り。
立ち止まって振り返ると、ヴァンがどこか落ち着きのない様子で視線を彷徨わせていた。
「ん?まだこの辺に用があるのかよ?」
「い、いや……用はねぇ」
訝しげな声を投げかけられると、彼は慌ててアーロンの傍らに駆け寄った。
橋へ上がった途端に夜を誘う冷たい風が強く吹き抜けていく。
それを横顔に受けたヴァンは小さく頭を振った。
結局は重い腰を上げることが出来なかったのだからもういいか、と。
諦めて業務を開始したはずなのに、いざ終了となったら俄に未練が首をもたげ始めた。
──本当は彼に渡したい物がある。
中央を流れる川を渡りきってしまえば、地下鉄の駅はすぐそこだった。
ヴァンは駅名が刻まれた建物を見据えて再び歩みを止めた。
(何やってんだろな……俺は。でも)
どんなに自嘲してみても、一度そう思ってしまったら断ち切れそうにない。
彼は深呼吸をしてた後、意を決して声を発した。
「アーロン、やっぱもうちょいこの辺をブラついてくる」
「はぁ?よく分かんねぇ野郎だな」
助手の反応はさっきよりも険しかったが、それはほんの一瞬だった。
彼の脳内はこれからの楽しい予定で大半が占められているのだろう。
「悪ぃな。それと……」
それを遮ってしまうことを詫び、更に言葉を続ける。
「事務所の俺の机。一番下の引き出しに黒い箱が入ってる。面倒でなければお前が持っていけ」
なんとか一気に言い終えた。
「俺は夜まで戻らねぇからな」
それから、軽く息吐いて語尾を付け加える。
ヴァンにとってはこれが限界だった。
唖然として立ち尽くすアーロンをその場に残し、速歩で来た道を戻っていく。
どこまでも、どこまでも自分は不器用だ。
一刻も早く彼の視界から姿を消してしまいたかった。
失態と言えばそうなのかもしれない。
アーロンは逃げるように去って行ったヴァンを止める機を逃してしまった。
追いかけて問い詰めてやろうかとも考えたが、首都生活が長い彼の方が地の利は上だろう。
悔しいけれど、本気で逃げられたら捕まえる自信はない。
「ったく、なんなんだよ」
彼は苛立たしげに片手で頭を掻きむしり、駅の構内へ続く階段を下りた。
時刻表を眺めながらヴァンの言葉を反芻する。
あの男は何かを渡したがっている。しかも、さり気なく期限を設けている。
夜まで戻らないという宣言は、それまでに持っていけということなのだろう。
「……そんなに直接渡せねぇブツなのか?」
改札口をくぐると同時に、列車の到着を知らせるアナウンスが響き渡った。
ヴァンにあそこまで意味深げな言動をされてしまっては、遊びに繰り出すことなど二の次になる。
アーロンはザイファをポケットに戻し、ホームに到着した列車へ乗り込んだ。
車内は空いているが座る気分ではなく、ドアの脇に身体を預ける。
薄暗い壁が流れるだけの車窓は単調で、時の流れがやたらと遅く感じられた。
いくつかの駅を通り過ぎて旧市街に到着する頃には、彼の心中は落ち着きを取り戻していた。
自然と勇み足になる下肢を宥め、最短距離で事務所へと向かう。
いつの間にか陽は完全に落ちていて、街は夜の様相を醸し出していた。
モンマルトの賑わいを横目に階段を上ると、事務所の中には人の気配があった。
きっと仲間内の誰かだろうと判断して、遠慮なくドアを開ける。
「お帰りなさいませ。アーロン様」
淑やかな声に迎えられ、彼は短く応じてからぐるりと室内を見回した。
「そっちも巡回は終わってんだろ?残業かよ」
「少しデータの整理をしておりました。そちらの方は現地解散だったのですか?」
リゼットはソファーに座ってノート型端末を操作している所だった。
戻ってきた同僚が一人だったことに対し、少し意外そうな素振りを見せる。
アーロンはヴァンと二人で黒芒街へ足を伸ばしていたはずだ。
「あ~、そんなとこ……なんだけどな」
すると、青年は珍しく言葉を濁した。
その場で腕を組み、居心地が悪そうに靴先で床を鳴らす。
「何かあったのですか?」
キーボードを叩いていた綺麗な指が止まり、憂慮の眼差しがアーロンに向けられた。
「いや、あの野郎が急に妙なこと言いやがって。一番下の引き出しにある箱を持っていけだとよ」
彼はヴァンの机に近づきながら呆れたように肩を竦ませた。
「しかも、今日の夜までとかいう制限つきでだぜ?」
リゼットへの言葉の中に愚痴を紛らせ、腰をかがませて指定された引き出しを開けてみる。
「面倒くせぇことしやがっ……」
だが、そこで彼の唇が止まった。
中にはペンケースほどの小箱だけが置かれている。
他には何もなく、まるで引き出しに落ちる影の中へ溶け込んでしまいそうだった。
上品な黒い包装紙に包まれているそれには、控えめな焔色のリボンが添えられている。
アーロンは無言のまま、主張をしたがらない贈り物を丁寧に救い上げた。
最初は驚きを露わにしていた瞳が、少しずつ柔らかさを帯びてくる。
これが何を意味するのか、今日という日の趣向をもちろん彼は知っている。
ヴァンがわざわざ期限を設けたことにも頷けた。
「アーロン様?」
急に言葉を発しなくなった同僚を心配したのか、リゼットが端末を閉じて立ち上がった。
そこで彼が持っている物が目に留まる。
「あ、そちらの品は……」
「お前、知ってんのかよ?」
彼女の意外な反応に、アーロンは間髪を入れずに問い返した。
「はい、四日前のことになりますね。ヴァン様がそちらの品を前にして項垂れておられるのを見てしまいました」
リゼットは当時のことを思い出しながら微笑んだ。
「もちろん故意ではなかったのですが。ヴァン様は『これは自分用に買ったチョコ』だと、慌てておっしゃっいました。ふふっ……やはりアーロン様宛だったのですね」
察しの良い彼女はすぐに気がついたが、その時はヴァンの苦し紛れの誤魔化しを尊重する形を取ったのだという。その答え合わせができたとばかりに嬉しそうな様子だった。
「……なにやってんだよ。あのオッサン」
リゼットの説明を聞き終えたアーロンは、それで全てを理解した。
先刻の別れ際での、ヴァンの不可解な言動と不器用な心根を。
だから、どうしたって顔が緩んでしまうのが止められない。
心の奥底から沸々と愛おしさが溢れ出してくる。体温が上昇して贈り物を受け取った手に汗が滲んだ。
今すぐあの男に会いたい。
この一分一秒ですらも惜しいくらいに全身が渇望している。
彼は開けっぱなしの引き出しを勢いよく閉めて、真っ直ぐに戸口へ向かった。
「アーロン様。どうかお手柔らかにお願いいたしますね」
まるで緋色を宿したような後ろ姿を、リゼットは微笑ましく見送る。
やはり察しの良い彼女のこと、この先のヴァンの身を案じてつい口添えをしたくなってしまった。
事務所を後にして廊下を駆け下りる。
通りに出たアーロンの身体を一陣の夜風が吹き抜けていった。
冷たさは瞬きの一時だけ、冬の寒空でも心身は熱いくらいだ。
彼はポケットからザイファを取り出し、代わりに大切な物を慎重にしまい込んだ。
画面の中の時計を確認すると、『今日』にはまだまだ余裕があった。
「逃がさねぇぞ、ヴァン。受け取った報告はきっちりてめぇの目の前でしてやるぜ」
まず、手始めに本人への通信を試みる。
繋がれば好運、そうでなければアーロンなりの人脈を駆使して探し出すまでだ。
駅の前では諦めてしまったが、今は一粒たりともそんな感情は芽生えてこなかった。
あの時は彼が追いかけてこないことを心の底から安堵した。
例え追ってきたとしても、本気で相手を煙に巻くつもりではあったのだが。
「……夜っていつからいつまでだ?」
カウンター席の最奥には鬱々とした男が一人。
もう数えるのが面倒になるくらいの頻度で溜息を落としていた。
注文したグラスの中身も、最初に口を付けただけで放置されている。
「もう、ヴァンちゃんったら。アーロンちゃん相手に一体何をやらかしたのよ?」
入店してからこの方、彼は一向に浮上する兆しがなかった。
ベルモッティはそんな常連客を静観していたのだが、ついには痺れを切らして声を掛ける。
「な、なんであいつの名前が出てくるんだよ?」
俯いていたヴァンが反射的に顔を上げた。
この店の主は色恋話の類いが大好きだ。そのせいか、ヴァンも恋人であるアーロンへの愚痴を零してしまったり、些細な相談をしてしまう時がある。
しかし、今夜はまだ彼の名前を出していなかった。
「いやぁねぇ~、それしかないじゃない。分かりやすいなんてレベルじゃないわ」
驚きを露わにした凝視を受け止め、ベルモッティは戯けながらひと笑いした。
それからすぐに目元を緩ませて『聴く人』の顔になる。
「それで、何があったのかしら?」
ヴァンはしばらく逡巡していたが、やがてぼそぼそと口を動かし始めた。
当初はバレンタインデーだからといって、特別なことをするつもりなんてなかったこと。
しかし、次第に高まっていく街中の雰囲気に感化され、つい浮かれ気分でチョコレートを買ってしまったこと。
後になって冷静さを取り戻してしまい、頭を抱えるほどの羞恥が押し寄せてきたこと。
そして──そんな状態のまま当日を迎えてしまったということ。
彼はそこまでを一気に吐き出してから再び俯いた。
まだ続きがありそうだと判断したベルモッティは、黙って彼を待つ。
「別に渡せなくていいかって思ったんだけどな。けど、やっぱり……未練っつーか」
声はさほどの間を置かずに発せられたが、
「だから、机の引き出しにあるやつを持っていけとだけ伝えて逃げてきた」
今度は急に早口となり、大袈裟なくらいの勢いでテーブルに突っ伏してしまった。
「中身がチョコだなんて……言えるわけねぇだろ」
落ち込んでいる、はたまた自己嫌悪に陥っている。いくらでも表現の仕方はあるが、なかなかの重傷ぶりなのは誰か見ても明らかだ。
「はぁ、相変わらずの不器用さんねぇ。でも、ちょっと安心したわ。最初は大喧嘩でもしたのかと思ってたから」
全てを聴き終えたベルモッティは、頬に片手を添えて胸をなで下ろした。
「ところで、それはいつ頃の話なのかしら?」
「夕方ぐらいだ」
問い掛けには、くぐもった答えが返ってくる。
店主は壁の時計に目をやりつつ、リバーサイドと旧市街の距離を考えた。
「それなら、そろそろお迎えの時間かもしれないわね」
伏せたままのヴァンの肩がピクリと小さく跳ねる。
「まさか、そんなわけ……っ!?」
その時、上着の中でザイファの呼び出し音が鳴り始めた。
飛び起きた勢いのまま、端末を取り出して着信相手の確認をしてみる。
「マ、マジか?」
「あら、出てあげないの?」
「いや、ちょっ、ちょっと待ってくれ」
あまりに急展開すぎる。ヴァンは少しばかり錯乱状態に陥っていた。
胸の鼓動が早鐘を打ち、額にはじんわりと嫌な汗が浮かぶ。
普段のアーロンであれば諦めるくらいの秒数が過ぎたが、それでも音は鳴り続ける。
「もう~!ちょっと貸しなさいよ。代わりに出てあげるわ」
「え?お、おい!」
見るに見かねたベルモッティは、半ば強引に端末を取り上げて応答ボタンを押した。
「はぁ~い、アーロンちゃん」
意図していなかった人物の姿が画面に現れ、アーロンは意表を突かれたのだろう。咄嗟に息を詰まらせた。
「ヴァンちゃんなら捕まえておいてあげるから、早くいらっしゃいな」
そんな若者へ向けて、ベルモッティは片目を瞑りながら援護射撃をしてみせる。
すると、アーロンは狙いが定まったと言わんばかりに目を煌めかせて頷いた。
二人は幾度か言葉を交わし、やがてヴァンをそっちのけにした短い通話を終えたのだった。
カウンター席の最奥に鬱々とした男が一人──もとい、屍のような男が突っ伏している。
「ヴァンちゃんって、ほんと煽るのが上手よねぇ」
今回の一連の出来事について、ベルモッティの総括はしみじみしたものだった。
「しかも、アーロンちゃん限定だもの。あの子、嬉しくて仕方がないんじゃないかしら」
独り言にも似たそれは、テーブルに伏せた濃紺の頭にやんわりと降り注ぐ。
反応こそなかったが、実のところはヴァンの耳にはしっかりと届いていた。
ただ、墓穴を掘りすぎたせいで地上へ出てこられなくなっている。
自力で浮上できないほどの深い穴には、もはや優しいだけの慰めなど届きそうになかった。
それよりも、実力行使とばかりに彼を引っ張り上げてくれる存在の方が頼もしい。
今頃は嬉々としながらこの店に向かっているであろう、苛烈で強引なくらいの恋人の手が。
2025.02.24畳む
恋人設定・2025年バレンタイン
アーロンにチョコを渡したいヴァンが墓穴を掘りまくっている話です。
【文字数:5700】
胡乱げな雰囲気が漂うこの地下通路も、今やすっかり慣れた道程だ。
迷いなく地上へと向かい、表と裏を隔てる重いドアを開け放つ。
「はぁ~、やっぱ外の空気の方が美味いぜ」
アーロンが人目を憚らずに大きな背伸びをする。
新鮮な外気が体内へ流れ込み、一気に緊張感が抜けていった。
「そりゃ、そうだろ。いくら空調は整っているとはいえ、地下は地下だしな」
彼に続いて外に出てきたヴァンは、眩しそうに目を細めて空を仰ぎ見る。
「あぁ、もうこんな時間か。あそこにいると時間の感覚が鈍っちまう」
男の瞳に映っているのは、茜色から群青色へと変わる夕暮れ時のグラデーション。
地下鉄を利用して駅に降り立った時分、まだ辺りは陽光に満ちていて明るかった。
川辺から流れてくる風は冷たさを増し、明らかな時間の経過を感じる。
黒芒街に続く道はいくつもあるが、ヴァンたちはここ──リバーサイドを利用することが多かった。
「で、この後はどうすんだよ?所長さん」
心地良い川のせせらぎを耳に流しながら、二人はおもむろに歩き始めた。
「今日のところはこれで十分だろ」
彼らが黒芒街を訪れた理由は裏解決業務の一環で、とある依頼の情報収集を兼ねた巡回だった。
多少の収穫は得たが、それ以外はヴァンの嗅覚に引っかかるような事案もなかった。
そうとなれば、本日の業務は終了の方向だろう。
「おっ、そんじゃお開きか?」
アーロンはパッと顔を輝かせ、胸元で掌に拳を打ち付けた。
今すぐにでもどこかへ遊びに行ってしまいそうな勢いだ。
「あぁ、そうだな」
ヴァンは所長の顔で頷いた。
だが、橋の袂まで来たところで急に足を止めてしまう。
「さてと、今の時間だったら……」
助手の方はといえば、鼻歌交じりで今夜の予定を立てようとしていた。
彼は遊び仲間たちと連絡を取るつもりで、衣服の中からザイファを取り出す。
そこで、ようやくヴァンが隣を歩いていないことに気がついた。
彼の足はすでに橋の上を数歩進んだ辺り。
立ち止まって振り返ると、ヴァンがどこか落ち着きのない様子で視線を彷徨わせていた。
「ん?まだこの辺に用があるのかよ?」
「い、いや……用はねぇ」
訝しげな声を投げかけられると、彼は慌ててアーロンの傍らに駆け寄った。
橋へ上がった途端に夜を誘う冷たい風が強く吹き抜けていく。
それを横顔に受けたヴァンは小さく頭を振った。
結局は重い腰を上げることが出来なかったのだからもういいか、と。
諦めて業務を開始したはずなのに、いざ終了となったら俄に未練が首をもたげ始めた。
──本当は彼に渡したい物がある。
中央を流れる川を渡りきってしまえば、地下鉄の駅はすぐそこだった。
ヴァンは駅名が刻まれた建物を見据えて再び歩みを止めた。
(何やってんだろな……俺は。でも)
どんなに自嘲してみても、一度そう思ってしまったら断ち切れそうにない。
彼は深呼吸をしてた後、意を決して声を発した。
「アーロン、やっぱもうちょいこの辺をブラついてくる」
「はぁ?よく分かんねぇ野郎だな」
助手の反応はさっきよりも険しかったが、それはほんの一瞬だった。
彼の脳内はこれからの楽しい予定で大半が占められているのだろう。
「悪ぃな。それと……」
それを遮ってしまうことを詫び、更に言葉を続ける。
「事務所の俺の机。一番下の引き出しに黒い箱が入ってる。面倒でなければお前が持っていけ」
なんとか一気に言い終えた。
「俺は夜まで戻らねぇからな」
それから、軽く息吐いて語尾を付け加える。
ヴァンにとってはこれが限界だった。
唖然として立ち尽くすアーロンをその場に残し、速歩で来た道を戻っていく。
どこまでも、どこまでも自分は不器用だ。
一刻も早く彼の視界から姿を消してしまいたかった。
失態と言えばそうなのかもしれない。
アーロンは逃げるように去って行ったヴァンを止める機を逃してしまった。
追いかけて問い詰めてやろうかとも考えたが、首都生活が長い彼の方が地の利は上だろう。
悔しいけれど、本気で逃げられたら捕まえる自信はない。
「ったく、なんなんだよ」
彼は苛立たしげに片手で頭を掻きむしり、駅の構内へ続く階段を下りた。
時刻表を眺めながらヴァンの言葉を反芻する。
あの男は何かを渡したがっている。しかも、さり気なく期限を設けている。
夜まで戻らないという宣言は、それまでに持っていけということなのだろう。
「……そんなに直接渡せねぇブツなのか?」
改札口をくぐると同時に、列車の到着を知らせるアナウンスが響き渡った。
ヴァンにあそこまで意味深げな言動をされてしまっては、遊びに繰り出すことなど二の次になる。
アーロンはザイファをポケットに戻し、ホームに到着した列車へ乗り込んだ。
車内は空いているが座る気分ではなく、ドアの脇に身体を預ける。
薄暗い壁が流れるだけの車窓は単調で、時の流れがやたらと遅く感じられた。
いくつかの駅を通り過ぎて旧市街に到着する頃には、彼の心中は落ち着きを取り戻していた。
自然と勇み足になる下肢を宥め、最短距離で事務所へと向かう。
いつの間にか陽は完全に落ちていて、街は夜の様相を醸し出していた。
モンマルトの賑わいを横目に階段を上ると、事務所の中には人の気配があった。
きっと仲間内の誰かだろうと判断して、遠慮なくドアを開ける。
「お帰りなさいませ。アーロン様」
淑やかな声に迎えられ、彼は短く応じてからぐるりと室内を見回した。
「そっちも巡回は終わってんだろ?残業かよ」
「少しデータの整理をしておりました。そちらの方は現地解散だったのですか?」
リゼットはソファーに座ってノート型端末を操作している所だった。
戻ってきた同僚が一人だったことに対し、少し意外そうな素振りを見せる。
アーロンはヴァンと二人で黒芒街へ足を伸ばしていたはずだ。
「あ~、そんなとこ……なんだけどな」
すると、青年は珍しく言葉を濁した。
その場で腕を組み、居心地が悪そうに靴先で床を鳴らす。
「何かあったのですか?」
キーボードを叩いていた綺麗な指が止まり、憂慮の眼差しがアーロンに向けられた。
「いや、あの野郎が急に妙なこと言いやがって。一番下の引き出しにある箱を持っていけだとよ」
彼はヴァンの机に近づきながら呆れたように肩を竦ませた。
「しかも、今日の夜までとかいう制限つきでだぜ?」
リゼットへの言葉の中に愚痴を紛らせ、腰をかがませて指定された引き出しを開けてみる。
「面倒くせぇことしやがっ……」
だが、そこで彼の唇が止まった。
中にはペンケースほどの小箱だけが置かれている。
他には何もなく、まるで引き出しに落ちる影の中へ溶け込んでしまいそうだった。
上品な黒い包装紙に包まれているそれには、控えめな焔色のリボンが添えられている。
アーロンは無言のまま、主張をしたがらない贈り物を丁寧に救い上げた。
最初は驚きを露わにしていた瞳が、少しずつ柔らかさを帯びてくる。
これが何を意味するのか、今日という日の趣向をもちろん彼は知っている。
ヴァンがわざわざ期限を設けたことにも頷けた。
「アーロン様?」
急に言葉を発しなくなった同僚を心配したのか、リゼットが端末を閉じて立ち上がった。
そこで彼が持っている物が目に留まる。
「あ、そちらの品は……」
「お前、知ってんのかよ?」
彼女の意外な反応に、アーロンは間髪を入れずに問い返した。
「はい、四日前のことになりますね。ヴァン様がそちらの品を前にして項垂れておられるのを見てしまいました」
リゼットは当時のことを思い出しながら微笑んだ。
「もちろん故意ではなかったのですが。ヴァン様は『これは自分用に買ったチョコ』だと、慌てておっしゃっいました。ふふっ……やはりアーロン様宛だったのですね」
察しの良い彼女はすぐに気がついたが、その時はヴァンの苦し紛れの誤魔化しを尊重する形を取ったのだという。その答え合わせができたとばかりに嬉しそうな様子だった。
「……なにやってんだよ。あのオッサン」
リゼットの説明を聞き終えたアーロンは、それで全てを理解した。
先刻の別れ際での、ヴァンの不可解な言動と不器用な心根を。
だから、どうしたって顔が緩んでしまうのが止められない。
心の奥底から沸々と愛おしさが溢れ出してくる。体温が上昇して贈り物を受け取った手に汗が滲んだ。
今すぐあの男に会いたい。
この一分一秒ですらも惜しいくらいに全身が渇望している。
彼は開けっぱなしの引き出しを勢いよく閉めて、真っ直ぐに戸口へ向かった。
「アーロン様。どうかお手柔らかにお願いいたしますね」
まるで緋色を宿したような後ろ姿を、リゼットは微笑ましく見送る。
やはり察しの良い彼女のこと、この先のヴァンの身を案じてつい口添えをしたくなってしまった。
事務所を後にして廊下を駆け下りる。
通りに出たアーロンの身体を一陣の夜風が吹き抜けていった。
冷たさは瞬きの一時だけ、冬の寒空でも心身は熱いくらいだ。
彼はポケットからザイファを取り出し、代わりに大切な物を慎重にしまい込んだ。
画面の中の時計を確認すると、『今日』にはまだまだ余裕があった。
「逃がさねぇぞ、ヴァン。受け取った報告はきっちりてめぇの目の前でしてやるぜ」
まず、手始めに本人への通信を試みる。
繋がれば好運、そうでなければアーロンなりの人脈を駆使して探し出すまでだ。
駅の前では諦めてしまったが、今は一粒たりともそんな感情は芽生えてこなかった。
あの時は彼が追いかけてこないことを心の底から安堵した。
例え追ってきたとしても、本気で相手を煙に巻くつもりではあったのだが。
「……夜っていつからいつまでだ?」
カウンター席の最奥には鬱々とした男が一人。
もう数えるのが面倒になるくらいの頻度で溜息を落としていた。
注文したグラスの中身も、最初に口を付けただけで放置されている。
「もう、ヴァンちゃんったら。アーロンちゃん相手に一体何をやらかしたのよ?」
入店してからこの方、彼は一向に浮上する兆しがなかった。
ベルモッティはそんな常連客を静観していたのだが、ついには痺れを切らして声を掛ける。
「な、なんであいつの名前が出てくるんだよ?」
俯いていたヴァンが反射的に顔を上げた。
この店の主は色恋話の類いが大好きだ。そのせいか、ヴァンも恋人であるアーロンへの愚痴を零してしまったり、些細な相談をしてしまう時がある。
しかし、今夜はまだ彼の名前を出していなかった。
「いやぁねぇ~、それしかないじゃない。分かりやすいなんてレベルじゃないわ」
驚きを露わにした凝視を受け止め、ベルモッティは戯けながらひと笑いした。
それからすぐに目元を緩ませて『聴く人』の顔になる。
「それで、何があったのかしら?」
ヴァンはしばらく逡巡していたが、やがてぼそぼそと口を動かし始めた。
当初はバレンタインデーだからといって、特別なことをするつもりなんてなかったこと。
しかし、次第に高まっていく街中の雰囲気に感化され、つい浮かれ気分でチョコレートを買ってしまったこと。
後になって冷静さを取り戻してしまい、頭を抱えるほどの羞恥が押し寄せてきたこと。
そして──そんな状態のまま当日を迎えてしまったということ。
彼はそこまでを一気に吐き出してから再び俯いた。
まだ続きがありそうだと判断したベルモッティは、黙って彼を待つ。
「別に渡せなくていいかって思ったんだけどな。けど、やっぱり……未練っつーか」
声はさほどの間を置かずに発せられたが、
「だから、机の引き出しにあるやつを持っていけとだけ伝えて逃げてきた」
今度は急に早口となり、大袈裟なくらいの勢いでテーブルに突っ伏してしまった。
「中身がチョコだなんて……言えるわけねぇだろ」
落ち込んでいる、はたまた自己嫌悪に陥っている。いくらでも表現の仕方はあるが、なかなかの重傷ぶりなのは誰か見ても明らかだ。
「はぁ、相変わらずの不器用さんねぇ。でも、ちょっと安心したわ。最初は大喧嘩でもしたのかと思ってたから」
全てを聴き終えたベルモッティは、頬に片手を添えて胸をなで下ろした。
「ところで、それはいつ頃の話なのかしら?」
「夕方ぐらいだ」
問い掛けには、くぐもった答えが返ってくる。
店主は壁の時計に目をやりつつ、リバーサイドと旧市街の距離を考えた。
「それなら、そろそろお迎えの時間かもしれないわね」
伏せたままのヴァンの肩がピクリと小さく跳ねる。
「まさか、そんなわけ……っ!?」
その時、上着の中でザイファの呼び出し音が鳴り始めた。
飛び起きた勢いのまま、端末を取り出して着信相手の確認をしてみる。
「マ、マジか?」
「あら、出てあげないの?」
「いや、ちょっ、ちょっと待ってくれ」
あまりに急展開すぎる。ヴァンは少しばかり錯乱状態に陥っていた。
胸の鼓動が早鐘を打ち、額にはじんわりと嫌な汗が浮かぶ。
普段のアーロンであれば諦めるくらいの秒数が過ぎたが、それでも音は鳴り続ける。
「もう~!ちょっと貸しなさいよ。代わりに出てあげるわ」
「え?お、おい!」
見るに見かねたベルモッティは、半ば強引に端末を取り上げて応答ボタンを押した。
「はぁ~い、アーロンちゃん」
意図していなかった人物の姿が画面に現れ、アーロンは意表を突かれたのだろう。咄嗟に息を詰まらせた。
「ヴァンちゃんなら捕まえておいてあげるから、早くいらっしゃいな」
そんな若者へ向けて、ベルモッティは片目を瞑りながら援護射撃をしてみせる。
すると、アーロンは狙いが定まったと言わんばかりに目を煌めかせて頷いた。
二人は幾度か言葉を交わし、やがてヴァンをそっちのけにした短い通話を終えたのだった。
カウンター席の最奥に鬱々とした男が一人──もとい、屍のような男が突っ伏している。
「ヴァンちゃんって、ほんと煽るのが上手よねぇ」
今回の一連の出来事について、ベルモッティの総括はしみじみしたものだった。
「しかも、アーロンちゃん限定だもの。あの子、嬉しくて仕方がないんじゃないかしら」
独り言にも似たそれは、テーブルに伏せた濃紺の頭にやんわりと降り注ぐ。
反応こそなかったが、実のところはヴァンの耳にはしっかりと届いていた。
ただ、墓穴を掘りすぎたせいで地上へ出てこられなくなっている。
自力で浮上できないほどの深い穴には、もはや優しいだけの慰めなど届きそうになかった。
それよりも、実力行使とばかりに彼を引っ張り上げてくれる存在の方が頼もしい。
今頃は嬉々としながらこの店に向かっているであろう、苛烈で強引なくらいの恋人の手が。
2025.02.24畳む
それが彼なりの優しさ
黎Ⅱ(ラスボス撃破後のあたり)・恋人未満。
ダンスの輪を外れた二人がディンゴの弔いをする話です。
【文字数:3000】
あそこまで全方位にイケメンすぎる男に対しては、嫉妬の感情すらも馬鹿馬鹿しい。
オクトラディウムの最奥に響いたマリエルの慟哭は、その場にいた誰もの胸を締め付けた。
刹那の邂逅の先に訪れたのは永遠の別れ。
皆が伏し目がちになっている最中、アーロンはちらりとヴァンの様子を覗った。
まるで夕刻の様相を模したような、それでいて幾重もの色調が混ざり合う空間。
人型は淡い光の粒に変化し、緩やかに舞い上がりながら消えていった。
彼はただ一人、その軌跡を辿るように天空を見つめる。
ようやく女神の元へ逝くことができた、その旅立ちを。
葬送の横顔には、一言では言い表せない諸々の感情が混在していた。
悲しみや寂しさ、そして心からの安堵。
ヴァンは込み上げてくるものを抑えるかのように、強く唇を引き結んだ。
その後にほんの少しだけ、どこか泣き出しそうな笑みを浮かべる。
アーロンはその姿から目を離せなくなった。思わず抱きしめたい衝動に駆られる。
しかし、二本の足は床に張り付いたまま微動だにしない。
ヴァンの一人きりの弔いは、ただただ静かなものだった。
そこへ土足で足を踏み入れるような真似はしたくない、彼は素直にそう思った。
学藝祭の初日は滞りなく終了し、特別ステージは素晴らしい盛り上がりをみせた。
この舞台のため、学生たちへの指南をしていたアーロンも満足げだ。
陽が落ちた広場には篝火が焚かれ、達成感と高揚感に満ちた若者たちの顔を赤々と照らし出している。
「まだ初日だってのに最終日の打ち上げみてぇだな」
アーロンは軽く一息とばかりにさり気なくダンスの輪から外れ、それらを浮ついた気分で眺めやっていた。
「……まぁ、悪くはねぇけど」
おもむろに近くの壁へ向かい、背を預けてゆったりと腕を組む。
柔らかく眦を下げた顔は、普段の彼よりも格段に穏やかだった。
弾む声たちは朗らかな笑い声を伴い、心地の良い音量でアーロンの耳元を通り過ぎていく。
視界は一点に留まらず、無造作に広場を見渡していた。
そのせいか、彼はすぐには気付かなかった。
ヴァンが少しばかり疲れた様子で自分の方へ歩いてくるのを。
「はぁ……やれやれ。あいつら、次から次へと……」
溜息交じりの声が近くで聞こえ、アーロンはわずかに目を見開いた。
「──モテまくりで良かったじゃねぇかよ、所長さん」
しかし、すぐに揶揄いを含んだ笑みを披露する。
実際のところ、ヴァンは顔馴染みの女性たちから引く手あまたの状態だった。
そこは人が良くて優しい彼のこと、もちろんダンスの誘いを断るはずはなかった。
「うるせぇ。どうせ弄られてんのは解ってんだよ」
「それなら訂正してやる。みんなに遊んでもらえて良かったな」
「ぐっ……このクソガキが」
この話題では分がないと思ったのか、負け惜しみと共に勢いよく背中を壁へ押し付けた。
男が二人、篝火の輪から外れて夜風から涼を取る。
しばらくの間、どちらからも声を発することはなかった。
数ヶ月ぶりに享受する平穏が、今になってじんわりと胸の奥へ染み入ってくる。
「……良い夜だな」
不意にヴァンがぼそりと呟いた。
夜が始まった青黒い空を見上げ、点在する星々の煌めきに口元を綻ばせる。
その横顔にアーロンは既視感を覚えた。
誰もが俯く中、一人だけ空を見上げていた男の立ち姿を。
「今度こそ、本当に見送ってやれたんだろ」
クレイユ村で命を散らした時に比べれば。
あいつだって安心して女神の元へ旅立てただろう。
アーロンは消える間際のディンゴの穏やかな表情を思い出していた。
「弔いなら酒でも欲しいとこだが。まぁ、ガキどもの手前な」
「……アーロン、お前」
彼の口振りはヴァンの目を瞬かせた。
オクトラディウムでのことを吐露したつもりはないが、今の心情を的確に読み取られている。
それを踏まえた上での優しい声音。
存外な彼の言動を受け、ほんのりとした嬉しさが胸元を温かくさせていく。
空の星々から視線を外してアーロンの方を見たが、彼の顔は正面を向いたまま、両眼の表面には揺れる炎を映していた。
ヴァンが更に凝視を続ける。
「なんだよ?」
さすがに耐えかねたのか、彼はようやく傍らにいる男を振り仰いだ。
「えっ、あ、あぁ」
だが、ヴァンはほとんど無意識だったらしい。弾かれて声を上げた後、軽く咳払いをしてみせる。
会話の先は何も考えていなかった。
仄かな嬉しさを感じている自分が妙に気恥ずかしくなってきてしまい、誤魔化すようにして話題を捻り出す。
「お前ってさ、ディンゴにはあんまり突っかからなかったよなぁと思って」
「あそこまでイケメンすぎると単純にすげぇ男だなって感じになっちまうだろ?お手上げだぜ」
アーロンは肩を竦めて苦笑した。
彼は潔い青年だ。認めるに値する人物に対しては素直な称賛を口にする。
「確かにな……っつーか、あいつにはまだ貸しが山ほどあったのによ、結局全部返し切れてねぇ」
ヴァンは間髪を入れずに頷いて同意を示した。
しかし、心残りがあると言わんばかりの大きな溜息が続く。
「チッ、てめぇは貸し借りの話になると途端にうざくなるな。あの男はそんなことを気にするタマじゃねぇだろうが」
苦笑交じりの弔いだったはずが、急に湿っぽい空気が漂い始める。
出会った頃に比べれば、ヴァンは周囲の人々を頼ることへの抵抗感が薄らいできている。けれど、彼の生い立ちを考えれば相当に根は深いのだろう。
辟易したアーロンが、やや険のある言葉を投げつけた。
「そ、そりゃ……そうだけどな。俺にも矜持ってもんが……」
それでもヴァンはうじうじと口籠り、挙げ句には困り顔で肩を落としてしまった。
頭では解っているのに心がついてこない。
目線が足元へ落ちると、引きずられるように気持ちも下降しそうになった。
「──おい、ヴァン」
そんな矢先、鋭く名前を呼ばれた。
同時に平手で片頬を叩かれる。
驚いて顎を引き上げると、目の前には至近距離でアーロンが立っていた。
「終いにしろ。あいつへの借りは今夜でチャラだ」
「はぁ?何言ってんだよ」
「兄貴分への手向けなら、そんくらいで丁度良い」
全く予期していなかった物言いをされ、ヴァンが瞠目する。
「お前、意味分かんねぇぞ?そんな屁理屈みたいな」
そんな彼の動揺などお構いなしにアーロンが畳みかけてくる。
「まぁ、どうしても貸しが~とかぬかしてぇなら……他の奴らはどうでもいい。オレの分だけはきっちり返してもらうぜ」
仁王立ちよろしく、腕を組んだ姿勢でニヤリと笑う。
夜目にも鮮やかな金色は怖いくらいに強硬だ。
「今思い出してみるだけでもいくつかあるしな」
わざとらしく指折り数えてみせると、
「お、おい!そんなにいくつもねぇだろうが!」
あまりの強引さに口をパクパクとさせていたヴァンが、反射的に異議を唱えた。
途端、二人の視線が真っ向からぶつかる。
「なんなら、これから増やしてくれてもいいぜ?どうやって返してくれるのかも楽しみだ」
「だから……あぁっ、くそ!聞いちゃいねぇ」
ヴァンはアーロンの強行軍を抑えきれず頭を抱え込んだ。
いつの間にか、低落しつつあった気持ちが浮上したことにも気が付かなかった。
「オレはてめぇの兄貴分とは方向性が違うイケメンなんだよ」
まだ自分を曝け出して周囲を頼りきれないというならそれでもいい。
未練がましい些細な矜持にも付き合ってやる。
そのために、分かりやすい逃げ道を一本だけ用意してやった。
アーロンの優しさは時に独占的な鋭利さをはらむ。
ただ寄り添っているだけなんて、全くもってこの青年の性格には合わないのだ。
ヴァンの気持ちが俯くのならば、無理矢理にでも引っ張り上げてしまえばいい。
それが彼なりの気遣いの方法だった。
2024.09.22
#黎Ⅱ畳む
黎Ⅱ(ラスボス撃破後のあたり)・恋人未満。
ダンスの輪を外れた二人がディンゴの弔いをする話です。
【文字数:3000】
あそこまで全方位にイケメンすぎる男に対しては、嫉妬の感情すらも馬鹿馬鹿しい。
オクトラディウムの最奥に響いたマリエルの慟哭は、その場にいた誰もの胸を締め付けた。
刹那の邂逅の先に訪れたのは永遠の別れ。
皆が伏し目がちになっている最中、アーロンはちらりとヴァンの様子を覗った。
まるで夕刻の様相を模したような、それでいて幾重もの色調が混ざり合う空間。
人型は淡い光の粒に変化し、緩やかに舞い上がりながら消えていった。
彼はただ一人、その軌跡を辿るように天空を見つめる。
ようやく女神の元へ逝くことができた、その旅立ちを。
葬送の横顔には、一言では言い表せない諸々の感情が混在していた。
悲しみや寂しさ、そして心からの安堵。
ヴァンは込み上げてくるものを抑えるかのように、強く唇を引き結んだ。
その後にほんの少しだけ、どこか泣き出しそうな笑みを浮かべる。
アーロンはその姿から目を離せなくなった。思わず抱きしめたい衝動に駆られる。
しかし、二本の足は床に張り付いたまま微動だにしない。
ヴァンの一人きりの弔いは、ただただ静かなものだった。
そこへ土足で足を踏み入れるような真似はしたくない、彼は素直にそう思った。
学藝祭の初日は滞りなく終了し、特別ステージは素晴らしい盛り上がりをみせた。
この舞台のため、学生たちへの指南をしていたアーロンも満足げだ。
陽が落ちた広場には篝火が焚かれ、達成感と高揚感に満ちた若者たちの顔を赤々と照らし出している。
「まだ初日だってのに最終日の打ち上げみてぇだな」
アーロンは軽く一息とばかりにさり気なくダンスの輪から外れ、それらを浮ついた気分で眺めやっていた。
「……まぁ、悪くはねぇけど」
おもむろに近くの壁へ向かい、背を預けてゆったりと腕を組む。
柔らかく眦を下げた顔は、普段の彼よりも格段に穏やかだった。
弾む声たちは朗らかな笑い声を伴い、心地の良い音量でアーロンの耳元を通り過ぎていく。
視界は一点に留まらず、無造作に広場を見渡していた。
そのせいか、彼はすぐには気付かなかった。
ヴァンが少しばかり疲れた様子で自分の方へ歩いてくるのを。
「はぁ……やれやれ。あいつら、次から次へと……」
溜息交じりの声が近くで聞こえ、アーロンはわずかに目を見開いた。
「──モテまくりで良かったじゃねぇかよ、所長さん」
しかし、すぐに揶揄いを含んだ笑みを披露する。
実際のところ、ヴァンは顔馴染みの女性たちから引く手あまたの状態だった。
そこは人が良くて優しい彼のこと、もちろんダンスの誘いを断るはずはなかった。
「うるせぇ。どうせ弄られてんのは解ってんだよ」
「それなら訂正してやる。みんなに遊んでもらえて良かったな」
「ぐっ……このクソガキが」
この話題では分がないと思ったのか、負け惜しみと共に勢いよく背中を壁へ押し付けた。
男が二人、篝火の輪から外れて夜風から涼を取る。
しばらくの間、どちらからも声を発することはなかった。
数ヶ月ぶりに享受する平穏が、今になってじんわりと胸の奥へ染み入ってくる。
「……良い夜だな」
不意にヴァンがぼそりと呟いた。
夜が始まった青黒い空を見上げ、点在する星々の煌めきに口元を綻ばせる。
その横顔にアーロンは既視感を覚えた。
誰もが俯く中、一人だけ空を見上げていた男の立ち姿を。
「今度こそ、本当に見送ってやれたんだろ」
クレイユ村で命を散らした時に比べれば。
あいつだって安心して女神の元へ旅立てただろう。
アーロンは消える間際のディンゴの穏やかな表情を思い出していた。
「弔いなら酒でも欲しいとこだが。まぁ、ガキどもの手前な」
「……アーロン、お前」
彼の口振りはヴァンの目を瞬かせた。
オクトラディウムでのことを吐露したつもりはないが、今の心情を的確に読み取られている。
それを踏まえた上での優しい声音。
存外な彼の言動を受け、ほんのりとした嬉しさが胸元を温かくさせていく。
空の星々から視線を外してアーロンの方を見たが、彼の顔は正面を向いたまま、両眼の表面には揺れる炎を映していた。
ヴァンが更に凝視を続ける。
「なんだよ?」
さすがに耐えかねたのか、彼はようやく傍らにいる男を振り仰いだ。
「えっ、あ、あぁ」
だが、ヴァンはほとんど無意識だったらしい。弾かれて声を上げた後、軽く咳払いをしてみせる。
会話の先は何も考えていなかった。
仄かな嬉しさを感じている自分が妙に気恥ずかしくなってきてしまい、誤魔化すようにして話題を捻り出す。
「お前ってさ、ディンゴにはあんまり突っかからなかったよなぁと思って」
「あそこまでイケメンすぎると単純にすげぇ男だなって感じになっちまうだろ?お手上げだぜ」
アーロンは肩を竦めて苦笑した。
彼は潔い青年だ。認めるに値する人物に対しては素直な称賛を口にする。
「確かにな……っつーか、あいつにはまだ貸しが山ほどあったのによ、結局全部返し切れてねぇ」
ヴァンは間髪を入れずに頷いて同意を示した。
しかし、心残りがあると言わんばかりの大きな溜息が続く。
「チッ、てめぇは貸し借りの話になると途端にうざくなるな。あの男はそんなことを気にするタマじゃねぇだろうが」
苦笑交じりの弔いだったはずが、急に湿っぽい空気が漂い始める。
出会った頃に比べれば、ヴァンは周囲の人々を頼ることへの抵抗感が薄らいできている。けれど、彼の生い立ちを考えれば相当に根は深いのだろう。
辟易したアーロンが、やや険のある言葉を投げつけた。
「そ、そりゃ……そうだけどな。俺にも矜持ってもんが……」
それでもヴァンはうじうじと口籠り、挙げ句には困り顔で肩を落としてしまった。
頭では解っているのに心がついてこない。
目線が足元へ落ちると、引きずられるように気持ちも下降しそうになった。
「──おい、ヴァン」
そんな矢先、鋭く名前を呼ばれた。
同時に平手で片頬を叩かれる。
驚いて顎を引き上げると、目の前には至近距離でアーロンが立っていた。
「終いにしろ。あいつへの借りは今夜でチャラだ」
「はぁ?何言ってんだよ」
「兄貴分への手向けなら、そんくらいで丁度良い」
全く予期していなかった物言いをされ、ヴァンが瞠目する。
「お前、意味分かんねぇぞ?そんな屁理屈みたいな」
そんな彼の動揺などお構いなしにアーロンが畳みかけてくる。
「まぁ、どうしても貸しが~とかぬかしてぇなら……他の奴らはどうでもいい。オレの分だけはきっちり返してもらうぜ」
仁王立ちよろしく、腕を組んだ姿勢でニヤリと笑う。
夜目にも鮮やかな金色は怖いくらいに強硬だ。
「今思い出してみるだけでもいくつかあるしな」
わざとらしく指折り数えてみせると、
「お、おい!そんなにいくつもねぇだろうが!」
あまりの強引さに口をパクパクとさせていたヴァンが、反射的に異議を唱えた。
途端、二人の視線が真っ向からぶつかる。
「なんなら、これから増やしてくれてもいいぜ?どうやって返してくれるのかも楽しみだ」
「だから……あぁっ、くそ!聞いちゃいねぇ」
ヴァンはアーロンの強行軍を抑えきれず頭を抱え込んだ。
いつの間にか、低落しつつあった気持ちが浮上したことにも気が付かなかった。
「オレはてめぇの兄貴分とは方向性が違うイケメンなんだよ」
まだ自分を曝け出して周囲を頼りきれないというならそれでもいい。
未練がましい些細な矜持にも付き合ってやる。
そのために、分かりやすい逃げ道を一本だけ用意してやった。
アーロンの優しさは時に独占的な鋭利さをはらむ。
ただ寄り添っているだけなんて、全くもってこの青年の性格には合わないのだ。
ヴァンの気持ちが俯くのならば、無理矢理にでも引っ張り上げてしまえばいい。
それが彼なりの気遣いの方法だった。
2024.09.22
#黎Ⅱ畳む
とある車内にて ─ささやかな戯れ─
黎ⅡED後・恋人設定(カプ要素薄め)
車で移動中にみんなが寝てしまう話です。
二人の他にフェリ・カトル・リゼットが同乗しています。
【文字数:3300】
ひとたび所長の愛車で移動となれば、走行中の車内には様々な声が飛び交う。
一人だった頃はBGM代わりにラジオを流していたものだが、今では助手たちのおかげで賑やかだ。
しかし、時刻は昼食を終えたばかりの頃合い。少しずつ会話の頻度が減り始めて静かになっていく。
「──おい、こいつらどうにかしろよ」
そんな中、不意にアーロンが口を開いた。
運転席のヴァンが一瞬だけ横目で後方を窺うと、シートの中央に座している彼はいかにも不満げな表情で腕を組んでいた。
すぐ後ろの席には三人が並んでいる。
アーロンを挟むようにしてフェリとカトルが座っているのだが、彼女たちからは規則正しい寝息が聞こえ始めていた。
まるで示し合わせたかのように左右から年上の同僚に寄りかかっている。
「くそ……やっぱり最後尾の一択だったじゃねぇか」
「何言ってやがる。土足で寝転がる気満々だったくせに。てめぇの選択権はねぇんだよ」
心情そのままの語句は独り言じみていたが、ヴァンの耳にはしっかり届いている。
彼は先刻のことを思い出し、眉をひそめて口調を強めた。
一言一句とまではいかないが、ほとんど同じ応対をしたような気がする。
モンマルトで昼食を取った後、さて移動だとガレージへ向かった際に一悶着があった。
我先にと三列目のシートへ乗り込もうとするアーロンを見咎め、ヴァンが思い切り首根っこを掴んで引き剥がしたのだ。
これが他のメンバーであれば行儀が良いのは確実なので、お好きな席へどうぞという感覚なのだが。
その点、助手三号の所作についてはまるっきり信用をしていなかった。
大事な愛車を綺麗に保つためには、どうしたって心も鬼になってしまう。
「──土足は断固拒否だ」
ここぞとばかりに年長者の威厳をかざして言い放つと、それまで黙って彼らの様子を見ていたフェリが駆け寄ってきた。
「それなら、アーロンさんはわたしたちと一緒ですね!」
「チビ!いきなり意味分かんねぇこと言ってんじゃねぇ!」
少女はアーロンの片腕にしがみ付き、彼の身体を力一杯引っ張った。
油断をしていたのか、半分引きずられるような状態になっている青年の叫びは眼中にない。
最年少の助手である彼女はとても真面目な性格だ。
所長であるヴァンの言動を受け、この問題児をしっかり座らせなければと思ったのだろう。
「わたしとカトルさんで挟んでしまえば、だらしない姿勢はできないはずです」
「えっ、ぼ、僕も!?」
唐突に名前を呼ばれたカトルは、驚きのあまり口をパクパクとさせている。
「ご協力お願いします」
「勝手に話を進めるんじゃねぇ!っつーか、せめて助手席にしろや!」
この流れでは最後尾の独り占めを断念せざるを得ない。そう判断したアーロンはとっさに譲歩案を出してみたが、フェリの方もなかなかに頑固だった。
「……なんで僕が」
まだ乗ってもいないのに疲れた顔をしているカトルの横で、二人は牙を剝き出して押し問答を繰り返している。
ヴァンはそんな助手たちの様子を面白そうに眺めやっていた。
「やれやれ、またじゃれ合ってやがる」
くつくつと喉の奥を鳴らしながら笑っていると、
「ヴァン様。わたくしは助手席でよろしいのでしょうか?」
傍らから淑やかな女性の声が聞こえてきた。
「おう、構わねぇぜ。お前さんもフェリが押し切るって予想だろ?」
「はい。カトル様には大変申し訳ありませんが……」
リゼットは言葉通りの色を滲ませながら控えめに微笑んだ。
最初は刺々しい感情で回想を始めたヴァンだったが、それが終わる頃には険のある表情が薄れて柔らかくなっていた。
「どうするも何も、昼飯食ったら眠くなるのは仕方ねぇだろ?」
「そういうこと言ってんじゃねぇんだよ、オッサン」
アーロンの方はといえば、不本意な状況に先ず声を上げてみたものの、実際は完全に諦めの境地だ。
運転席へ返す言葉には鋭利さの欠片もない。
眠っている二人が崩れ落ちないように体勢を維持している姿には、さり気ない優しさが垣間見られた。
「ヴァン様もアーロン様もその辺りで。気持ち良さそうに眠っておられますから」
リゼットはそんな男たちを静観していたが、フェリが僅かに身動ぎをしたことに気づき、それとなく注意を促した。
事務所の中でも年少の部類に入る助手たちの寝顔は、それだけで周囲を温かくしてくれる。
「おっと、悪ぃ」
「熟睡中かよ……チビどもは」
起こすのが忍びないという気持ちは、ヴァンとアーロンも同様だった。
彼らは小さく呟いた後、一旦は口を閉じることにした。
それからしばらくは静かな時間が続いた。
時々、会話らしきものがぽつりぽつりと。各々が最小限の声量で夢の中にいる二人を気遣う。
「──おっ?」
いつの間にか後ろからの声が聞こえなくなり、ヴァンがバックミラー越しに後部座席を確認した。
「ははっ、落ちやがったか」
それに習ってリゼットも助手席から少しだけ顔を覗かせる。
すると、さっきまでは起きていたはずのアーロンが腕を組んだまま船を漕いでいた。
「お二人の眠気が移ってしまわれたようですね」
まったりとした昼下がり。左右から二人分の体温に包まれてしまえば、睡魔に引きずられてしまうのも頷ける。
寄り添って眠っている同僚たちの様相は微笑ましく、リゼットの目元が自然と綻んだ。
「こいつ、煌都でも子どもとか爺さん婆さんに好かれまくってるんだよなぁ」
「アーロン様のお人柄ですね」
ヴァンは二度。リゼットは一度だけ彼と共に煌都の街中を歩いたことがあるが、抱いた印象に差違はなさそうだ。
「ま、人望ってやつもあるんだろ。何だかんだで面倒見が良い奴だしな……っと、まだ起きてねぇよな?」
「ふふっ、ご本人の前で言って差し上げてもよろしいのでは?」
「おいおい、それは勘弁してくれよ」
珍しく意地悪げな返しをしてきたリゼットに対し、ヴァンはハンドルから片手を離して苦笑しながら頭を掻いた。
微かにラジオの音が流れていた。
いつもよりは随分と控えめな音量だが、うっすらと耳に入ってくる。
目を覚ましたアーロンは、未だ眠り続けている小さな同僚たちを一瞥して溜息を吐いた。
「あ~、首が痛ぇ」
今の状態では満足に身体を動かすことができず、気休め程度に腕だけを組み替える。
その直後、運転席から声がかかった。
「よぉ、お目覚めか。助手三号」
「ん……まぁな」
「いつもは一人くらい起きてるんだけどなぁ。今日はみんな沈没しちまいやがった」
彼はしっかりと正面を向いて運転をしていたが、心なしか声音が弾んでいるようだった。
「みんなって、メイドもかよ?」
驚いたアーロンは助手席にいるリゼットの方へ視線を投げた。
常日頃から彼女がうたた寝をしている姿などは見たことがない。しかし、今は綺麗な座り方のまま両目を瞑っている状態だった。
「珍しいこともあるもんだよな」
どうやら寝入ってしまっているらしく、彼らが喋っていても起きる気配は感じられない。
「そんなわけで、今はラジオが運転のお供ってやつ」
「──あぁ、なるほど」
ここまでの短いやり取りを経てアーロンは納得した。さっきからヴァンがどことなく嬉しそうに喋っている理由を。
「そいつは悪かったな。所長さんを寂しがらせちまったみたいで」
きっと話し相手が欲しかったのだろう。遠回しに構ってくれと言っている。
後部座席からは運転手の表情が確かめられず、何気なく顎を引き上げてバックミラーに意識を寄せてみる。
ふと、小さな鏡の中でヴァンと視線がぶつかった。
濃紺の瞳は一瞬だけ驚きを露わにしたが、すぐに柔らかい笑みを形作る。
「ったく、暢気によそ見なんかしやがって」
それに返事をするかのようにアーロンが口角をつり上げた。
「相手くらいはしてやるから、きっちり前を見てろよな」
今まで彼の運転を不安に思ったことはないが、弄りついでに一応は釘を刺す。
「……なんだよ。お前と比べたらはるかに安全運転だぞ、俺は」
この一言を境に二人が鏡を通じて交わることはなかった。
車中のラジオからは、悠々とした午後に合わせてスローテンポな一曲が流れている。
舗装された道路のおかげで走行時の振動が心地良く、しばらくは誰も目を覚まさないだろう。
今は二人きりのようで二人きりではない、曖昧な線引きが成された空間。
たまにはそんな所で戯れるのも一興だと、男たちはささやかに声だけの応酬を楽しんでいた。
2024.01.09
#黎Ⅱ畳む
黎ⅡED後・恋人設定(カプ要素薄め)
車で移動中にみんなが寝てしまう話です。
二人の他にフェリ・カトル・リゼットが同乗しています。
【文字数:3300】
ひとたび所長の愛車で移動となれば、走行中の車内には様々な声が飛び交う。
一人だった頃はBGM代わりにラジオを流していたものだが、今では助手たちのおかげで賑やかだ。
しかし、時刻は昼食を終えたばかりの頃合い。少しずつ会話の頻度が減り始めて静かになっていく。
「──おい、こいつらどうにかしろよ」
そんな中、不意にアーロンが口を開いた。
運転席のヴァンが一瞬だけ横目で後方を窺うと、シートの中央に座している彼はいかにも不満げな表情で腕を組んでいた。
すぐ後ろの席には三人が並んでいる。
アーロンを挟むようにしてフェリとカトルが座っているのだが、彼女たちからは規則正しい寝息が聞こえ始めていた。
まるで示し合わせたかのように左右から年上の同僚に寄りかかっている。
「くそ……やっぱり最後尾の一択だったじゃねぇか」
「何言ってやがる。土足で寝転がる気満々だったくせに。てめぇの選択権はねぇんだよ」
心情そのままの語句は独り言じみていたが、ヴァンの耳にはしっかり届いている。
彼は先刻のことを思い出し、眉をひそめて口調を強めた。
一言一句とまではいかないが、ほとんど同じ応対をしたような気がする。
モンマルトで昼食を取った後、さて移動だとガレージへ向かった際に一悶着があった。
我先にと三列目のシートへ乗り込もうとするアーロンを見咎め、ヴァンが思い切り首根っこを掴んで引き剥がしたのだ。
これが他のメンバーであれば行儀が良いのは確実なので、お好きな席へどうぞという感覚なのだが。
その点、助手三号の所作についてはまるっきり信用をしていなかった。
大事な愛車を綺麗に保つためには、どうしたって心も鬼になってしまう。
「──土足は断固拒否だ」
ここぞとばかりに年長者の威厳をかざして言い放つと、それまで黙って彼らの様子を見ていたフェリが駆け寄ってきた。
「それなら、アーロンさんはわたしたちと一緒ですね!」
「チビ!いきなり意味分かんねぇこと言ってんじゃねぇ!」
少女はアーロンの片腕にしがみ付き、彼の身体を力一杯引っ張った。
油断をしていたのか、半分引きずられるような状態になっている青年の叫びは眼中にない。
最年少の助手である彼女はとても真面目な性格だ。
所長であるヴァンの言動を受け、この問題児をしっかり座らせなければと思ったのだろう。
「わたしとカトルさんで挟んでしまえば、だらしない姿勢はできないはずです」
「えっ、ぼ、僕も!?」
唐突に名前を呼ばれたカトルは、驚きのあまり口をパクパクとさせている。
「ご協力お願いします」
「勝手に話を進めるんじゃねぇ!っつーか、せめて助手席にしろや!」
この流れでは最後尾の独り占めを断念せざるを得ない。そう判断したアーロンはとっさに譲歩案を出してみたが、フェリの方もなかなかに頑固だった。
「……なんで僕が」
まだ乗ってもいないのに疲れた顔をしているカトルの横で、二人は牙を剝き出して押し問答を繰り返している。
ヴァンはそんな助手たちの様子を面白そうに眺めやっていた。
「やれやれ、またじゃれ合ってやがる」
くつくつと喉の奥を鳴らしながら笑っていると、
「ヴァン様。わたくしは助手席でよろしいのでしょうか?」
傍らから淑やかな女性の声が聞こえてきた。
「おう、構わねぇぜ。お前さんもフェリが押し切るって予想だろ?」
「はい。カトル様には大変申し訳ありませんが……」
リゼットは言葉通りの色を滲ませながら控えめに微笑んだ。
最初は刺々しい感情で回想を始めたヴァンだったが、それが終わる頃には険のある表情が薄れて柔らかくなっていた。
「どうするも何も、昼飯食ったら眠くなるのは仕方ねぇだろ?」
「そういうこと言ってんじゃねぇんだよ、オッサン」
アーロンの方はといえば、不本意な状況に先ず声を上げてみたものの、実際は完全に諦めの境地だ。
運転席へ返す言葉には鋭利さの欠片もない。
眠っている二人が崩れ落ちないように体勢を維持している姿には、さり気ない優しさが垣間見られた。
「ヴァン様もアーロン様もその辺りで。気持ち良さそうに眠っておられますから」
リゼットはそんな男たちを静観していたが、フェリが僅かに身動ぎをしたことに気づき、それとなく注意を促した。
事務所の中でも年少の部類に入る助手たちの寝顔は、それだけで周囲を温かくしてくれる。
「おっと、悪ぃ」
「熟睡中かよ……チビどもは」
起こすのが忍びないという気持ちは、ヴァンとアーロンも同様だった。
彼らは小さく呟いた後、一旦は口を閉じることにした。
それからしばらくは静かな時間が続いた。
時々、会話らしきものがぽつりぽつりと。各々が最小限の声量で夢の中にいる二人を気遣う。
「──おっ?」
いつの間にか後ろからの声が聞こえなくなり、ヴァンがバックミラー越しに後部座席を確認した。
「ははっ、落ちやがったか」
それに習ってリゼットも助手席から少しだけ顔を覗かせる。
すると、さっきまでは起きていたはずのアーロンが腕を組んだまま船を漕いでいた。
「お二人の眠気が移ってしまわれたようですね」
まったりとした昼下がり。左右から二人分の体温に包まれてしまえば、睡魔に引きずられてしまうのも頷ける。
寄り添って眠っている同僚たちの様相は微笑ましく、リゼットの目元が自然と綻んだ。
「こいつ、煌都でも子どもとか爺さん婆さんに好かれまくってるんだよなぁ」
「アーロン様のお人柄ですね」
ヴァンは二度。リゼットは一度だけ彼と共に煌都の街中を歩いたことがあるが、抱いた印象に差違はなさそうだ。
「ま、人望ってやつもあるんだろ。何だかんだで面倒見が良い奴だしな……っと、まだ起きてねぇよな?」
「ふふっ、ご本人の前で言って差し上げてもよろしいのでは?」
「おいおい、それは勘弁してくれよ」
珍しく意地悪げな返しをしてきたリゼットに対し、ヴァンはハンドルから片手を離して苦笑しながら頭を掻いた。
微かにラジオの音が流れていた。
いつもよりは随分と控えめな音量だが、うっすらと耳に入ってくる。
目を覚ましたアーロンは、未だ眠り続けている小さな同僚たちを一瞥して溜息を吐いた。
「あ~、首が痛ぇ」
今の状態では満足に身体を動かすことができず、気休め程度に腕だけを組み替える。
その直後、運転席から声がかかった。
「よぉ、お目覚めか。助手三号」
「ん……まぁな」
「いつもは一人くらい起きてるんだけどなぁ。今日はみんな沈没しちまいやがった」
彼はしっかりと正面を向いて運転をしていたが、心なしか声音が弾んでいるようだった。
「みんなって、メイドもかよ?」
驚いたアーロンは助手席にいるリゼットの方へ視線を投げた。
常日頃から彼女がうたた寝をしている姿などは見たことがない。しかし、今は綺麗な座り方のまま両目を瞑っている状態だった。
「珍しいこともあるもんだよな」
どうやら寝入ってしまっているらしく、彼らが喋っていても起きる気配は感じられない。
「そんなわけで、今はラジオが運転のお供ってやつ」
「──あぁ、なるほど」
ここまでの短いやり取りを経てアーロンは納得した。さっきからヴァンがどことなく嬉しそうに喋っている理由を。
「そいつは悪かったな。所長さんを寂しがらせちまったみたいで」
きっと話し相手が欲しかったのだろう。遠回しに構ってくれと言っている。
後部座席からは運転手の表情が確かめられず、何気なく顎を引き上げてバックミラーに意識を寄せてみる。
ふと、小さな鏡の中でヴァンと視線がぶつかった。
濃紺の瞳は一瞬だけ驚きを露わにしたが、すぐに柔らかい笑みを形作る。
「ったく、暢気によそ見なんかしやがって」
それに返事をするかのようにアーロンが口角をつり上げた。
「相手くらいはしてやるから、きっちり前を見てろよな」
今まで彼の運転を不安に思ったことはないが、弄りついでに一応は釘を刺す。
「……なんだよ。お前と比べたらはるかに安全運転だぞ、俺は」
この一言を境に二人が鏡を通じて交わることはなかった。
車中のラジオからは、悠々とした午後に合わせてスローテンポな一曲が流れている。
舗装された道路のおかげで走行時の振動が心地良く、しばらくは誰も目を覚まさないだろう。
今は二人きりのようで二人きりではない、曖昧な線引きが成された空間。
たまにはそんな所で戯れるのも一興だと、男たちはささやかに声だけの応酬を楽しんでいた。
2024.01.09
#黎Ⅱ畳む
ヴァン一人称・両想い前提の恋人未満。
アーロンは人気役者だから顔に傷が残るのは良くないと、戦闘後にヴァン・アニエスが意気投合している話。
【文字数:4300】
烈火の如くと言いたくなるような好戦的なスタイルは、いかにも彼らしい。
守りに徹するくらいなら、死線の隙間に潜り込んででも一撃を食らわせてやろうだとか。
そういうのは嫌いじゃないが、時々ふとした拍子に不安が込み上げてくる。
最後に残った魔獣を叩きのめした後、俺はすぐにアーロンの元へ向かった。
「ったく、無茶しやがって」
早足で近づくと、先に駆けつけていたアニエスがアーツを発動させようとしている所だった。
「あそこで回避からのカウンターはねぇだろうが。素直に防いでおけよ」
俺はアーロンの姿を見てあからさまに顔を歪めた。
紙一重で躱した時にやられたのか、頬に走るひとすじの裂傷が痛々しい。
彼が相手にしていた魔獣は、研ぎ澄まされた刃のように鋭利な爪を持っていた。
あれで裂かれたのなら切り口は深いだろう。赤く滲んだ傷からは幾筋もの血が流れ落ち、首筋を伝って肩口を染め上げている。
「あぁ?うるせぇな。一発で沈めてやったんだから文句ねぇだろが」
もちろん痛みはあるはずだが、それよりも自分の戦闘スタイルに口を挟まれるのが嫌だったに違いない。
食ってかかる勢いで俺の方に一歩踏み出そうとする。
「アーロンさん、動かないで下さい」
だが、ピシャリと静止の声がかかった。それと同時に回復アーツが発動する。
水面を連想させる涼やかな光がアーロンの全身を包み込み、みるみるうちに頬の傷が消えいく。
「大したことねぇってのに……でも、まぁ、ありがとな」
「ふふっ、どういたしまして」
アーツで傷自体は癒せても、さすがに血糊まで綺麗さっぱりにとはいかない。
彼は頬から首筋に付いた汚れを大雑把に拭い、アニエスに礼を言った。
その一連の動作を俺は凝視していたらしい。
「ヴァンさん?どうしたんですか?」
「おい、ボーっと突っ立ってんじゃねぇ。さっさと行くぞ」
この場所での戦闘が終わり、二人は先に進もうとしていた。
立ち止まったままの俺に対して訝しげな声を投げかけてくる。
「お、おうっ、悪ぃ」
弾かれたように背筋が伸びた。助手たちはすでに動き始めていて、その背中を慌てて追いかける。
仕事柄、戦闘中にはあの程度の負傷なんて珍しくもない。ただのかすり傷だと言ってしまえばそれまでだ。
それなのに今は頭の切り替えが出来ず、やたらとあいつのことを気遣いたくなる。
「……顔なんだよなぁ。跡とか残ってたりしてねぇよな?」
ちらりと後ろ姿を窺いながら、俺は独り言のように呟いた。
心配しすぎなのは分かっているが、アーロンは華劇場の人気役者だ。
特に女性のファンが多いことを考えれば、顔に傷が残るのはどうなんだ?と、つい考えてしまっていた。
移動を再開してからも胸中はすっきりとせず、俺は意を決して声をかけた。
「おい、さっきの傷……残ってねぇよな?」
「はぁ?なに寝ぼけたこと言ってやがる」
目の前でアニエスが治療してくれたのを見ていただろうが、とでも言わんばかりの呆れ顔を向けられる。
「そもそも、助手の技量を疑うなんざ所長失格だな」
「そ、そういうつもりじゃなくてな……」
険のある声と眼光で厳しい指摘をされ、俺は口籠もってしまった。
「お二人とも、どうしたんですか?」
すると、不穏な空気を感じ取ったアニエスが慌てて近寄ってくる。
「悪い!お前のアーツの腕を疑ったわけじゃねぇんだ。傷が顔だったから、つい」
「えっ?えっと……?」
助手3号の言うことは尤もで即座に頭を下げる。
彼女は俺たちを交互に見ながら困惑を浮かべた。
「訳分かんねぇこと言いやがって。顔だから何だって言うんだよ?」
そんな同僚の気持ちを代弁しているのか、アーロンが今度は少し和らいだ声で問いかけてくる。
「いや、ほら、お前は人気役者だから」
「あっ、それは確かに」
端的に返すと、アニエスがポンと手を叩いて納得の表情をする。
「アーロンさんの顔に傷跡が残ったら、ファンの方たちが卒倒してしまいそうですよね」
「──だろ?」
味方を得て気が大きくなった俺は、遠慮なくアーロンの顔を見つめた。
つられるようにアニエスも同じ行動をする。
「あのなぁ……てめぇらはオレをなんだと思ってんだよ」
二人分の視線が集中して居心地の悪さを感じているのか、アーロンは無造作に腕を組んだ。
それから小さく息を吐き、首筋に片手を添えながら面倒くさそうにこっちを見返してくる。
「オレの顔が良すぎるのは事実だが、そこは大したことじゃねぇ」
自分の容姿について堂々と言い放ち、
「いっそのこと、傷でもある方が箔が付いて良いかもしれねぇなぁ」
華劇場の関係者たちが聞いたら引っくり返ってしまいそうな言葉が続いた。
もちろん、俺とアニエスは目を丸くして固まった。
その数秒の隙を突き、アーロンはさっさと一人で歩き出してしまう。
「あ、あれって冗談だよな?」
「……だと思いますけど」
あいつの性格を考えれば大方は戯れだろうと、二人で顔を見合わせた。
けれど、自信を持って絶対にとまでは言い切れなくて気がかりになる。
「元はと言えば、あのクソガキが危なっかしい戦い方をするせいで……あ~、でも、それはそれであいつらしいっつーか」
俺はガシガシと頭を掻きながら助手3号の後を追いかけた。
「そこが悩ましいところですよね。でも、戦いのサポートならお任せ下さい。アーロンさんの顔には傷ひとつ残しませんから」
傍らからは優しさと頼もしさが込められた共感の声が寄せられる。
「舞台に立つ時は、いつだって綺麗な姿でいて欲しいですよね、ヴァンさん?」
しかし、それが嬉しいと思った矢先に意味深げな笑顔を向けられた。
「そ、そうだな」
もう少しでアーロンに追い付きそうだった俺の足は、何もないところで躓きそうになってしまった。
仕事を終えて事務所に戻ったのは日が傾き始めた頃だった。
うっすらと茜色の光が室内を照らす中、俺はソファーに身を投げ出して寝転がっていた。
助手の二人に終業を伝えて解散したのはつい15分ほど前になる。
アニエスは真っ直ぐに学生寮へ帰ると言っていた。
アーロンの方は、夜の賑わいを求めて他の地区へ繰り出すのだろう。いつものことだ。
「……言わなきゃ良かったか?」
天井を見つめながら昼間の出来事を思い出してみた。
端から見れば過保護と表されてしまいそうだが、ついあいつを心にかけてしまう。
「どう見てもウゼぇって感じだったよなぁ」
あの時、すぐさま話を切り上げて背を向けたことを考えれば自ずと解る。
幸いなのか、アニエスが同調していたのでキツい態度は取れなかったのだろう。
俺1人だったらもっと辛辣だったかもしれない。
「心配しただけだっつーのに」
天井から外した視線を何気なくテーブルへ移すと、置きっぱなしの雑誌が入り込んできた。
それを広げて顔の上に乗せてから目を閉じる。
一眠りしたいわけではなかったが、馴染みきっている体勢のお陰で徐々に気持ちが凪いできた。
「まぁ、済んだこと……か。ぐだぐだ言っても仕方ねぇ」
こんなものは日常の些細なひとコマでしかない。そう思えば気持ちも軽くなる。
アーロンにとっても大したやり取りではなかったはずだ。
明日になれば、「そんなウゼぇことも言ってたっけな」と笑い飛ばしているだろう。
そんな姿が想像できて自然と頬が緩んでしまう。
だが、その直後。
──ガチャッ
勢いよく事務所のドアが開いた。
「おっ、居やがったか」
ほぼ同時に聞こえてきた声は、明らかにあいつのものだった。
俺は驚きのあまり咄嗟に身体を動かせなかった。
自分の世界に入っていたせいで、外の気配には無防備になっていたらしい。
なんとか片手を動かして雑誌を横にずらすと、アーロンがこっちに歩いてくるのが見えた。
「お前、出掛けたんじゃ……」
「用が終わったらすぐに行くぜ」
「用?俺にか?」
オウム返しをしたところで、ソファーの前まできた足音が止まった。
「まぁな。昼間の件で言い忘れてたことがあってよ」
アーロンは強引に俺の顔から雑誌を引き剥がし、前屈みで覗き込んでくる。
予期せぬ至近距離での対面は、少しばかり心臓に悪かった。
「な、なんだよ?」
それを誤魔化すようにひと睨みすると、空になった手を掴まれて引っ張られる。
「てめぇがオレの戦い方に口を出してくるのは心底ウゼぇが……」
そのまま俺の掌を自らの頬に押し当て、アーロンはどことなく嬉しそうに表情を和らげた。
「そんなにこの顔が好きなら、少しは自重してやってもいいぜ?」
「──は?」
不機嫌そうな前置きとは正反対の言葉が続き、俺は口を半開きにさせて目を瞬かせた。
驚きやら動揺やら、諸々の感情で身動きが取れなくなっている。
けれど、こいつはそんな状態の相手を気遣うような質ではなく、むしろ畳み掛けてくる男だ。
「けどな……ガキどもは仕方ねぇとしても、オレに過保護なのは程々にしろよ」
アーロンは揶揄の笑みを浮かべながら、ゆっくりと俺の手を頬から剥がした。
「用件はそれだけだ。じゃぁな」
そして、挨拶の代わりと言わんばかりに掌へ軽いキスを落としてくる。
「お、おい!?」
これには流石の俺も飛び起きて立ち上がった。
反射的に腕で払おうとしたが、完全に反応を読まれていて空振りに終わる。
アーロンは素早く体を離して数歩分の距離を取っていた。
そのまま踵を返して真っ直ぐにドア先へ向かい、最後に軽く片手を上げて事務所を出て行ってしまう。
あまりにも去り際が鮮やかすぎて、文句の一つも言う時間がなかった。
俺は深い溜息を吐いてソファーに腰を落とした。
「はぁ……」
アーロンがこの件にあそこまで頓着するとは思わず、予想外すぎて頭を抱えたくなる。
「顔が好きとか、そういうことじゃなくて……」
あの時は本当に単純な思考回路だった。
舞台役者なら、ある意味容姿だって商売道具の一部だろうと。
だから、方向性が違うとは言え、女優であるジュディスが顔を負傷したら同様の心境になったはずだ。
「普通に心配させてくれよ、マジで」
ぼやきながら掌を見つめていたら、軽く触れるだけだった唇の感触がぶり返してきそうになった。
あいつは隙あらば思わせぶりな言動で俺を弄ってくる。そのくせ後腐れなく去って行くもんだから、勝手に1人で放置されている気分に陥ってしまう。
「こっちにだって、雇い主としての責任ってのがあるんだからな」
普段ガキ呼ばわりしている相手に振り回されるのは、年長の男としてやっぱり面白くない。
俺は大きな不満と少しばかりの寂しさを感じ、不貞腐れながら負け惜しみのような言葉を呟いた。
2025.09.21畳む