2021年6月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
2021年4月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
焔の中に彼を見る
創・恋人設定
ロイドVS模倣擬体ランディの話。
『偽ロイドとランディ』の続きです。
どこか心配げな瞳が見下ろしてきた。
「お前……もし俺と同じ状況になったら、やれんのか?」
「当たり前だろ。偽物なんだから」
なぜそんなことを聞いてくるのかと、ロイドはわずかに顔を歪めた。
「まぁ、なんつーか……見た目も動作も同じだと結構やりづらいんでな」
偽物との一戦では憤りを抱えつつも冷静な立ち回りをしていたが、多少のぎこちなさを感じていたらしい。
だが、それを相手に悟らせないあたりは流石の力量だ。
幾多の戦場を走り抜けてきた男の言葉は、少しだけロイドを不安にさせた。
けれど、すぐにそれを振り払うようにして強い声を出す。
「でも、やらなきゃやられるだろ」
真っ向からの双眼がランディへと向けられた。
「そりゃ、ごもっともで」
年下の相棒は至極当然なことを言っていて、頷く以外にはない。
彼は真面目な表情を一転させて小さく笑った。
(分かってはいるんだがなぁ)
それでも、憂いが胸中を蝕んでいくのは止められなかった。
元より感情が表に出やすいロイドが、模倣擬体を目の前に平静を保っていられるだろうか?
動揺すれば、確実に攻撃の手が緩む。
戦闘中の思考回路が同じなら……と、脳内でシミュレーションをして暗澹たる気持ちになってしまった。
(勝っちまうんだよ……俺が)
ロイドの動きが鈍くなれば、結果は明白だ。相手には手を抜く道理はないのだから。
それでも、想定だけで彼の矜持を傷付けるのは忍びないと思い、
「あんまり俺がいい男だからって、見惚れて躊躇するんじゃねぇぞ?」
わざとふざけた調子でさりげなく釘を刺した。
山道を吹き抜ける風が冷たくなってきた。
先程までは暖かい陽光が降り注いでいたが、いつの間にか湧き始めた雲の合間に隠れてしまっている。
「う~ん、降りそうだなぁ」
ロイドは鈍色に変化した空を見上げながら独りごちた。
山の天気が変わりやすいのは知っているが、さっきまで青空だったのにと、愚痴を零して踵を返す。
特に不穏な痕跡も気配もなく、偵察を終えるには良い合図だったのかもしれない。
そのまま、起伏のある道を歩く。
周囲はやけに静かだった。
急に風が止んだのか、木々のざわめきさえ聞こえてこない。
── カチッ
不意に遠くで音がした。
「っ、今の!?」
聞き覚えのあるそれに、ロイドは顔を上げて空中を見る。
音がした方向から弧を描いて飛んでくる物体を捉え、脊髄反射でその場から飛び退いた。
直後、地面からの爆発音と共に白い煙が発生した。
「煙幕弾!」
それは『彼』が戦闘時に使用する手の一つ。
まさかと思い、ロイドは顔を袖で覆いながら気配を探った。
この煙幕の持続性はそう長くはない。
すぐに ── くる。
その瞬間。
空気中に四散していく煙を裂いて、殺意が現れた。
「後ろか!!」
後方の崖から降ってきた影が、着地と同時に攻撃を仕掛けてくる。
辛うじて防いだが威力は凄まじく、トンファーを構える腕に痛みが走った。
鮮やかな赤い長髪と派手なロングコートがロイドの視界をかすめる。
(──ランディ!)
思わず叫びそうになったが、そんな猶予すら与えてくれそうもなかった。
重量級のスタンハルバードを振り払うと、炎にも似た衝撃波が広がり、周りの草木さえも焼き尽くす。
ロイドは防戦を余儀なくされた。
あの時のやり取りが脳裏に浮かぶ。
ランディは憂慮していることを隠そうともしなかった。
「お前はやれるのか?」と。
偽物を相手に遅れを取るなど想像できなくて、不快げに応じたのを覚えている。
けれど、実際に模倣擬体と遭遇してしまった今、それが甘い認識だったと思い直さずにはいられなかった。
肉体的な戦闘能力は彼の方が上だが、本来ならここまで防戦一方になるはずがない。
無意識にどこかで戸惑っている。大切な人物の姿を前にして、身体が躊躇している。
本物の彼がわざわざ釘を刺してくれたのに。
ロイドは痛烈な波状攻撃を浴び続け、ついには吹き飛ばされた。
「ぐはっ!!」
地面に叩き付けられそうになったが、何とか受け身を取ってすぐに体勢を立て直す。
噛みしめていた奥歯には血が滲み、口の中に鉄の味が広がった。
「まだだ……まだいける」
立ち上がりながら、強い光を宿した瞳を相手に向ける。
と、その時。
彼の手元に黒光りする凶器が姿を現した。
刃を仕込ませた高火力の大型銃は、彼の代名詞と言っても過言ではないもの。
「なっ──!?」
それを目の当たりにした途端、ロイドはカッと熱くなった。
全身の血液が沸騰するかのような感覚に襲われる。
「なんで……お前が持っている」
怒りを噛みしめる声が微かに震えた。
明らかに模倣品だと頭では理解していても、この感情は抑えられそうにない。
「その姿を見せるな」
トンファーを握る手に爪が食い込む程の力が籠もる。
「ランディがどれだけ苦しんで、どれだけ葛藤してきたかも知らないくせに」
茶色の瞳から噴き出す激情が一気に沸点を突き破った。
「それはお前が持っていいものじゃない!」
ロイドは銃口が向けられているのを承知で、真正面から唸りを上げて突進した。
轟く銃声をもろともせず、急速に相手との距離を詰める。
弾丸が頬や四肢をかすめ、焼け付く痛みが走ったが気にも留めなかった。
「うおぉぉぉ!!」
相手の懐に潜り込み、間髪を入れずに凄まじい勢いで攻撃を叩き込む。
反撃の隙など一切与えない猛攻は青白い闘気の炎を纏い、牙を突き刺して炸裂した。
耳障りな音と共に模倣擬体の片腕が吹き飛んだ。
激しいダメージを受け、全身のいたるところで火花が爆ぜている。
残った片腕でベルゼルガーを抱え、よろめく身体を支えている姿が炎に巻かれていく。
「ランディの報告通りか」
情報交換の時、彼が言っていた最後と同じだった。
ロイドは肩で息をしながらその光景を見つめる。
彼の姿が失われていく間際、焔に焼かれた翡翠の色と目が合った。
「……あ」
唇が短い言葉を刻み、最後にニヤリと笑った。
立ち上る火柱を見送ったロイドは、力が抜けたように両膝から崩れ落ちた。
武器を持ったままの両手が小刻みに震えている。
「違う。本物じゃないのに」
声は聞こえずとも口の動きで読み取れた。
それは彼らしい簡潔な別れ。本当に彼が言いそうな言葉だった。
「……違う」
ロイドはしばらくその場から立ち上がれなかった。
静けさに包まれた山道を一際強い風が走り抜けた。
その冷たさに押された彼は、ようやく顔を上げた。
「俺、ほんとに情けないな」
少し落ち着いてきたせいか、今まで意識していなかった傷の痛みが蘇る。
「……帰らないと」
早く会いたいと思った。
この目で見て、この手で触れて、大切な存在を確かめたかった。
強い想いに囚われながら、立ち上がって歩き出す。
そんな矢先。
不意に携帯端末の呼び出し音が鳴り響いた。
「──はい、こちらロイ……」
「おい、そっちの状況はどうだ?」
応答に被ってくる声が耳元を通り、一瞬にして心臓が止まりかけた。
「え、あ……」
今、心から欲している人物の声を聞いてしまって動揺を隠せない。
脈打つ鼓動が次第に早くなっていく。
「俺の方は早く片が付いちまってよ。そっちに合流するか?」
「いや……」
それでも何とか冷静になろうと、両目を閉じて呼吸を整える。
「こっちは大丈夫だ。少し遅くなりそうだけど……ランディは先に戻っていてくれ」
誤魔化しきれるとは思わなかったが、震えそうになる声を抑え、極力リーダーらしく振る舞った。
「それじゃ、また後でな」
ロイドは訝しんでいるであろう彼からの追求を恐れ、強引に自分の方から通信を切った。
そして、大きく息を吐き出した。
なけなしの矜持が邪魔をして、喉から手が出るほどの申し出を受け入れられない。
弱音を吐き出したくなかった。
同じ状況でもランディは相手に悟らせないくらい冷静だったのに。
こんなにも余裕がない自分が不甲斐なくて仕方がなかった。
今にも雨が降ってきそうな空だった。
早く会いたいという気持ちよりも、あの声から逃げた後ろめたさが先に立ち、山道を行く歩みは遅い。
けれど、再び強襲を受ける危険は拭いきれず、周囲の警戒は怠らなかった。
そんな中、ロイドはピタリと足を止めた。
「……なんだ?」
何かが近づいてくる気配を感じて、一気に緊張感が高まる。
武器を構えて即座に動ける体勢を整えた。
「その反応……やっぱりな」
聞き慣れた声が上から降ってきて、反射的にその相手を睨み付ける。
「おいおい、見間違うなよ?『俺』の方がはるかにいい男だぜ」
軽い口調と共に、赤い髪の青年が切り立った崖の上から飛び降りてきた。
「ラン……ディ?」
人懐っこい笑みを浮かべたその顔を見て、ロイドは呆然としてしまった。
「お前ってほんと下手すぎ」
あれでは何かあったと言っているようなものだ。
スピーカー越しのやり取りを思い出し、ランディがわざとらしく肩を竦めてみせた。
彼はロイドが合流を断った時、直感的に模倣擬体とやり合ったのではないかと思った。
普段なら二つ返事で申し出を受け入れる場面で、わざわざ距離を置いたのだから。
「な、なんでいるんだよ?」
「ここいらには縁があるからな。ショートカットできる裏道なんていくらでも知ってるぜ」
もっともな疑問を受けて得意げに答えたランディは、ロイドの安否を確認して安堵した。
だが、彼の側へ歩み寄った途端に気色ばむ。
一戦交えたであろうロイドは、もちろん無傷ではなかった。
その傷の負い方を見て、ランディはすぐに戦闘時の状況を把握した。
「ロイド……」
戯けた色は消え失せ、静かな怒気を滲ませて相手の胸ぐらを乱暴に掴む。
「俺は躊躇するなとは言ったが、銃口に向かって突っ込めとは言ってねぇ」
発せられた低い声は、普段の軽さが嘘のように凄みがあった。
突き刺さるような鋭い眼光を受け、ロイドの身体が萎縮する。
ベルゼルガー相手に正面突破など、無謀としか言いようがない。
ランディが怒るのも当然だ。
それでも、あの時のロイドには決して譲れない想いがあった。
「……許せなかった」
軋むほど強く歯を噛みしめ、拳を握る。
「あいつが、あれを持っている姿が!どっちも偽物だと分かってても許せなかった!」
激昂した瞳で真正面から赤毛の青年を睨み返し、叫びにも似た声を上げる。
「ランディとベルゼルガーのことなんて、何一つ知らないくせに!」
感情が高ぶっているせいか目元が潤んでいたが、それでも顔を逸らそうとはしなかった。
束の間、質の違う互いの怒りがぶつかった。
静寂の中で無言のにらみ合いをする。
先に折れたのはランディの方だった。
わずかな吐息と共に、胸ぐらを掴んでいた手を離す。
「ったく、お前ってヤツは」
どこまでも真っ直ぐで熱の籠もった眼差しには、いつだって適わない。
それが強く想われているがゆえのこととなれば、尚更だった。
「分かったから、そんな目で見るなって」
彼は銃弾がかすめたロイドの頬へ、宥めるように唇を寄せた。
驚いて跳ねた身体を抱き寄せ、その頭部を優しく叩く。
(……本物だ)
その心地良い温もりを受けたロイドは、荒ぶっている心が一気に収まっていくのを感じた。
確かめたかった存在が今ここにある。
自分の方からも触れたくて、彼の背中に腕を回そうとした。
だが、その時。
空からポツリと落ちてきた雨粒に邪魔をされてしまった。
「あ~、やっぱり降ってきやがった」
ランディが嫌そうな声で薄暗い空を振り仰ぐ。
「いい加減、早く帰って手当てしないとな」
そう言葉を続け、ゆっくりと抱擁の腕を解いた。
「あ、うん……そうだな」
ロイドにしてみれば、その触れ合いは一瞬に等しかった。
物足りなさを感じてしまい、無意識の内に寂しそうな表情をする。
(仔犬みたいなツラしてんな)
それを見逃さなかったランディは苦笑したが、こんな時に彼をからかうのは酷だろうとも思った。
おもむろに自分の上着を脱ぎ、それをロイドに羽織らせる。
「代わりにこれで我慢しとけ」と言ってやりたい気持ちを抑えて、別の言葉を口にした。
「その身体で雨に濡れるのは良くねぇからな」
本降りになる気配はなさそうだが、雲の隙間からは不規則に雨が落ちてくる。
「これじゃ、ランディの方が濡れるだろ?」
「気にすんなよ。っていうか、帰るまで返却不可なんで」
ロイドはすぐにそう言ったが、上着の主には軽くあしらわれてしまった。
そのことを申し訳ないと思いつつも、密かに胸を撫で下ろす。
(これ……温かいな)
少し大きすぎるけれど、それが逆に包み込まれているという感覚をより強くさせる。
もっと感じていたくて、肩に掛かっているだけの上着を胸元に手繰り寄せた。
離れてしまった優しい腕の代わりを得たロイドは、嬉しげに目を細める。
満たされない寂しさが、ゆっくりと解けていくようだった。
肩を並べて歩く道すがら、ランディがふと口を開いた。
「あー、そうそう。さっきは折れてやったけど、俺はまだ怒ってんだよなぁ」
「え?」
聞こえてきた声は少し硬質で、不安になったロイドの足が止まってしまった。
「無謀なことやってくれた件は……後で『お仕置き』な」
「な、なに言ってんだよ」
不穏な言葉が耳に届き、思わず狼狽えながら後退る。
ランディは自分の上着の色に染まっているロイドを満足げに眺め、逃げる腕を掴んだ。
「今日一日、これでもかってくらいに甘やかしてやるから、覚悟しとけ」
負傷した彼の身体を気遣いながらも、そのまま引っ張って再び歩き出す。
為すがままにされているロイドは、垣間見た恋人の横顔に既視感を覚えた。
状況はまるで違ったが、不敵に口角を吊り上げる様が重なる。
(似てる……でも)
あの時。焔の中で別れを告げる彼を見て、両手の震えが止まらなかった。
けれど、今はその手に確かな温もりがある。
(でも、やっぱり違うんだ)
込み上げてくるものが目の端に滲み、赤い長髪を揺らしている背中がぼやけた。
悟られたら確実にからかわれるだろうと思って、強引に空いてる手でそれを拭う。
そして、ロイドはようやく小さな笑顔を見せた。
沈んでいた空は次第に明るさを帯び、そろそろ雨も上がりそうだった。
2021.04.07
#創畳む
創・恋人設定
ロイドVS模倣擬体ランディの話。
『偽ロイドとランディ』の続きです。
どこか心配げな瞳が見下ろしてきた。
「お前……もし俺と同じ状況になったら、やれんのか?」
「当たり前だろ。偽物なんだから」
なぜそんなことを聞いてくるのかと、ロイドはわずかに顔を歪めた。
「まぁ、なんつーか……見た目も動作も同じだと結構やりづらいんでな」
偽物との一戦では憤りを抱えつつも冷静な立ち回りをしていたが、多少のぎこちなさを感じていたらしい。
だが、それを相手に悟らせないあたりは流石の力量だ。
幾多の戦場を走り抜けてきた男の言葉は、少しだけロイドを不安にさせた。
けれど、すぐにそれを振り払うようにして強い声を出す。
「でも、やらなきゃやられるだろ」
真っ向からの双眼がランディへと向けられた。
「そりゃ、ごもっともで」
年下の相棒は至極当然なことを言っていて、頷く以外にはない。
彼は真面目な表情を一転させて小さく笑った。
(分かってはいるんだがなぁ)
それでも、憂いが胸中を蝕んでいくのは止められなかった。
元より感情が表に出やすいロイドが、模倣擬体を目の前に平静を保っていられるだろうか?
動揺すれば、確実に攻撃の手が緩む。
戦闘中の思考回路が同じなら……と、脳内でシミュレーションをして暗澹たる気持ちになってしまった。
(勝っちまうんだよ……俺が)
ロイドの動きが鈍くなれば、結果は明白だ。相手には手を抜く道理はないのだから。
それでも、想定だけで彼の矜持を傷付けるのは忍びないと思い、
「あんまり俺がいい男だからって、見惚れて躊躇するんじゃねぇぞ?」
わざとふざけた調子でさりげなく釘を刺した。
山道を吹き抜ける風が冷たくなってきた。
先程までは暖かい陽光が降り注いでいたが、いつの間にか湧き始めた雲の合間に隠れてしまっている。
「う~ん、降りそうだなぁ」
ロイドは鈍色に変化した空を見上げながら独りごちた。
山の天気が変わりやすいのは知っているが、さっきまで青空だったのにと、愚痴を零して踵を返す。
特に不穏な痕跡も気配もなく、偵察を終えるには良い合図だったのかもしれない。
そのまま、起伏のある道を歩く。
周囲はやけに静かだった。
急に風が止んだのか、木々のざわめきさえ聞こえてこない。
── カチッ
不意に遠くで音がした。
「っ、今の!?」
聞き覚えのあるそれに、ロイドは顔を上げて空中を見る。
音がした方向から弧を描いて飛んでくる物体を捉え、脊髄反射でその場から飛び退いた。
直後、地面からの爆発音と共に白い煙が発生した。
「煙幕弾!」
それは『彼』が戦闘時に使用する手の一つ。
まさかと思い、ロイドは顔を袖で覆いながら気配を探った。
この煙幕の持続性はそう長くはない。
すぐに ── くる。
その瞬間。
空気中に四散していく煙を裂いて、殺意が現れた。
「後ろか!!」
後方の崖から降ってきた影が、着地と同時に攻撃を仕掛けてくる。
辛うじて防いだが威力は凄まじく、トンファーを構える腕に痛みが走った。
鮮やかな赤い長髪と派手なロングコートがロイドの視界をかすめる。
(──ランディ!)
思わず叫びそうになったが、そんな猶予すら与えてくれそうもなかった。
重量級のスタンハルバードを振り払うと、炎にも似た衝撃波が広がり、周りの草木さえも焼き尽くす。
ロイドは防戦を余儀なくされた。
あの時のやり取りが脳裏に浮かぶ。
ランディは憂慮していることを隠そうともしなかった。
「お前はやれるのか?」と。
偽物を相手に遅れを取るなど想像できなくて、不快げに応じたのを覚えている。
けれど、実際に模倣擬体と遭遇してしまった今、それが甘い認識だったと思い直さずにはいられなかった。
肉体的な戦闘能力は彼の方が上だが、本来ならここまで防戦一方になるはずがない。
無意識にどこかで戸惑っている。大切な人物の姿を前にして、身体が躊躇している。
本物の彼がわざわざ釘を刺してくれたのに。
ロイドは痛烈な波状攻撃を浴び続け、ついには吹き飛ばされた。
「ぐはっ!!」
地面に叩き付けられそうになったが、何とか受け身を取ってすぐに体勢を立て直す。
噛みしめていた奥歯には血が滲み、口の中に鉄の味が広がった。
「まだだ……まだいける」
立ち上がりながら、強い光を宿した瞳を相手に向ける。
と、その時。
彼の手元に黒光りする凶器が姿を現した。
刃を仕込ませた高火力の大型銃は、彼の代名詞と言っても過言ではないもの。
「なっ──!?」
それを目の当たりにした途端、ロイドはカッと熱くなった。
全身の血液が沸騰するかのような感覚に襲われる。
「なんで……お前が持っている」
怒りを噛みしめる声が微かに震えた。
明らかに模倣品だと頭では理解していても、この感情は抑えられそうにない。
「その姿を見せるな」
トンファーを握る手に爪が食い込む程の力が籠もる。
「ランディがどれだけ苦しんで、どれだけ葛藤してきたかも知らないくせに」
茶色の瞳から噴き出す激情が一気に沸点を突き破った。
「それはお前が持っていいものじゃない!」
ロイドは銃口が向けられているのを承知で、真正面から唸りを上げて突進した。
轟く銃声をもろともせず、急速に相手との距離を詰める。
弾丸が頬や四肢をかすめ、焼け付く痛みが走ったが気にも留めなかった。
「うおぉぉぉ!!」
相手の懐に潜り込み、間髪を入れずに凄まじい勢いで攻撃を叩き込む。
反撃の隙など一切与えない猛攻は青白い闘気の炎を纏い、牙を突き刺して炸裂した。
耳障りな音と共に模倣擬体の片腕が吹き飛んだ。
激しいダメージを受け、全身のいたるところで火花が爆ぜている。
残った片腕でベルゼルガーを抱え、よろめく身体を支えている姿が炎に巻かれていく。
「ランディの報告通りか」
情報交換の時、彼が言っていた最後と同じだった。
ロイドは肩で息をしながらその光景を見つめる。
彼の姿が失われていく間際、焔に焼かれた翡翠の色と目が合った。
「……あ」
唇が短い言葉を刻み、最後にニヤリと笑った。
立ち上る火柱を見送ったロイドは、力が抜けたように両膝から崩れ落ちた。
武器を持ったままの両手が小刻みに震えている。
「違う。本物じゃないのに」
声は聞こえずとも口の動きで読み取れた。
それは彼らしい簡潔な別れ。本当に彼が言いそうな言葉だった。
「……違う」
ロイドはしばらくその場から立ち上がれなかった。
静けさに包まれた山道を一際強い風が走り抜けた。
その冷たさに押された彼は、ようやく顔を上げた。
「俺、ほんとに情けないな」
少し落ち着いてきたせいか、今まで意識していなかった傷の痛みが蘇る。
「……帰らないと」
早く会いたいと思った。
この目で見て、この手で触れて、大切な存在を確かめたかった。
強い想いに囚われながら、立ち上がって歩き出す。
そんな矢先。
不意に携帯端末の呼び出し音が鳴り響いた。
「──はい、こちらロイ……」
「おい、そっちの状況はどうだ?」
応答に被ってくる声が耳元を通り、一瞬にして心臓が止まりかけた。
「え、あ……」
今、心から欲している人物の声を聞いてしまって動揺を隠せない。
脈打つ鼓動が次第に早くなっていく。
「俺の方は早く片が付いちまってよ。そっちに合流するか?」
「いや……」
それでも何とか冷静になろうと、両目を閉じて呼吸を整える。
「こっちは大丈夫だ。少し遅くなりそうだけど……ランディは先に戻っていてくれ」
誤魔化しきれるとは思わなかったが、震えそうになる声を抑え、極力リーダーらしく振る舞った。
「それじゃ、また後でな」
ロイドは訝しんでいるであろう彼からの追求を恐れ、強引に自分の方から通信を切った。
そして、大きく息を吐き出した。
なけなしの矜持が邪魔をして、喉から手が出るほどの申し出を受け入れられない。
弱音を吐き出したくなかった。
同じ状況でもランディは相手に悟らせないくらい冷静だったのに。
こんなにも余裕がない自分が不甲斐なくて仕方がなかった。
今にも雨が降ってきそうな空だった。
早く会いたいという気持ちよりも、あの声から逃げた後ろめたさが先に立ち、山道を行く歩みは遅い。
けれど、再び強襲を受ける危険は拭いきれず、周囲の警戒は怠らなかった。
そんな中、ロイドはピタリと足を止めた。
「……なんだ?」
何かが近づいてくる気配を感じて、一気に緊張感が高まる。
武器を構えて即座に動ける体勢を整えた。
「その反応……やっぱりな」
聞き慣れた声が上から降ってきて、反射的にその相手を睨み付ける。
「おいおい、見間違うなよ?『俺』の方がはるかにいい男だぜ」
軽い口調と共に、赤い髪の青年が切り立った崖の上から飛び降りてきた。
「ラン……ディ?」
人懐っこい笑みを浮かべたその顔を見て、ロイドは呆然としてしまった。
「お前ってほんと下手すぎ」
あれでは何かあったと言っているようなものだ。
スピーカー越しのやり取りを思い出し、ランディがわざとらしく肩を竦めてみせた。
彼はロイドが合流を断った時、直感的に模倣擬体とやり合ったのではないかと思った。
普段なら二つ返事で申し出を受け入れる場面で、わざわざ距離を置いたのだから。
「な、なんでいるんだよ?」
「ここいらには縁があるからな。ショートカットできる裏道なんていくらでも知ってるぜ」
もっともな疑問を受けて得意げに答えたランディは、ロイドの安否を確認して安堵した。
だが、彼の側へ歩み寄った途端に気色ばむ。
一戦交えたであろうロイドは、もちろん無傷ではなかった。
その傷の負い方を見て、ランディはすぐに戦闘時の状況を把握した。
「ロイド……」
戯けた色は消え失せ、静かな怒気を滲ませて相手の胸ぐらを乱暴に掴む。
「俺は躊躇するなとは言ったが、銃口に向かって突っ込めとは言ってねぇ」
発せられた低い声は、普段の軽さが嘘のように凄みがあった。
突き刺さるような鋭い眼光を受け、ロイドの身体が萎縮する。
ベルゼルガー相手に正面突破など、無謀としか言いようがない。
ランディが怒るのも当然だ。
それでも、あの時のロイドには決して譲れない想いがあった。
「……許せなかった」
軋むほど強く歯を噛みしめ、拳を握る。
「あいつが、あれを持っている姿が!どっちも偽物だと分かってても許せなかった!」
激昂した瞳で真正面から赤毛の青年を睨み返し、叫びにも似た声を上げる。
「ランディとベルゼルガーのことなんて、何一つ知らないくせに!」
感情が高ぶっているせいか目元が潤んでいたが、それでも顔を逸らそうとはしなかった。
束の間、質の違う互いの怒りがぶつかった。
静寂の中で無言のにらみ合いをする。
先に折れたのはランディの方だった。
わずかな吐息と共に、胸ぐらを掴んでいた手を離す。
「ったく、お前ってヤツは」
どこまでも真っ直ぐで熱の籠もった眼差しには、いつだって適わない。
それが強く想われているがゆえのこととなれば、尚更だった。
「分かったから、そんな目で見るなって」
彼は銃弾がかすめたロイドの頬へ、宥めるように唇を寄せた。
驚いて跳ねた身体を抱き寄せ、その頭部を優しく叩く。
(……本物だ)
その心地良い温もりを受けたロイドは、荒ぶっている心が一気に収まっていくのを感じた。
確かめたかった存在が今ここにある。
自分の方からも触れたくて、彼の背中に腕を回そうとした。
だが、その時。
空からポツリと落ちてきた雨粒に邪魔をされてしまった。
「あ~、やっぱり降ってきやがった」
ランディが嫌そうな声で薄暗い空を振り仰ぐ。
「いい加減、早く帰って手当てしないとな」
そう言葉を続け、ゆっくりと抱擁の腕を解いた。
「あ、うん……そうだな」
ロイドにしてみれば、その触れ合いは一瞬に等しかった。
物足りなさを感じてしまい、無意識の内に寂しそうな表情をする。
(仔犬みたいなツラしてんな)
それを見逃さなかったランディは苦笑したが、こんな時に彼をからかうのは酷だろうとも思った。
おもむろに自分の上着を脱ぎ、それをロイドに羽織らせる。
「代わりにこれで我慢しとけ」と言ってやりたい気持ちを抑えて、別の言葉を口にした。
「その身体で雨に濡れるのは良くねぇからな」
本降りになる気配はなさそうだが、雲の隙間からは不規則に雨が落ちてくる。
「これじゃ、ランディの方が濡れるだろ?」
「気にすんなよ。っていうか、帰るまで返却不可なんで」
ロイドはすぐにそう言ったが、上着の主には軽くあしらわれてしまった。
そのことを申し訳ないと思いつつも、密かに胸を撫で下ろす。
(これ……温かいな)
少し大きすぎるけれど、それが逆に包み込まれているという感覚をより強くさせる。
もっと感じていたくて、肩に掛かっているだけの上着を胸元に手繰り寄せた。
離れてしまった優しい腕の代わりを得たロイドは、嬉しげに目を細める。
満たされない寂しさが、ゆっくりと解けていくようだった。
肩を並べて歩く道すがら、ランディがふと口を開いた。
「あー、そうそう。さっきは折れてやったけど、俺はまだ怒ってんだよなぁ」
「え?」
聞こえてきた声は少し硬質で、不安になったロイドの足が止まってしまった。
「無謀なことやってくれた件は……後で『お仕置き』な」
「な、なに言ってんだよ」
不穏な言葉が耳に届き、思わず狼狽えながら後退る。
ランディは自分の上着の色に染まっているロイドを満足げに眺め、逃げる腕を掴んだ。
「今日一日、これでもかってくらいに甘やかしてやるから、覚悟しとけ」
負傷した彼の身体を気遣いながらも、そのまま引っ張って再び歩き出す。
為すがままにされているロイドは、垣間見た恋人の横顔に既視感を覚えた。
状況はまるで違ったが、不敵に口角を吊り上げる様が重なる。
(似てる……でも)
あの時。焔の中で別れを告げる彼を見て、両手の震えが止まらなかった。
けれど、今はその手に確かな温もりがある。
(でも、やっぱり違うんだ)
込み上げてくるものが目の端に滲み、赤い長髪を揺らしている背中がぼやけた。
悟られたら確実にからかわれるだろうと思って、強引に空いてる手でそれを拭う。
そして、ロイドはようやく小さな笑顔を見せた。
沈んでいた空は次第に明るさを帯び、そろそろ雨も上がりそうだった。
2021.04.07
#創畳む
2021年3月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
偽ロイドとランディ
創・恋人設定
模倣擬体ロイドVSランディな話。SS三部作になっています。
【文字数:4200】
【欠けた紛い物】
どこから視線を感じる。
それはとても好意的とは言えない類いのものだ。
ランディは気づかぬふりをして街道を歩いていたが、やがて足を止めた。
(この気配……似てるな)
わざと舗装された道を逸れ、背の低い草むらを踏み締めながら人々の往来から距離を取る。
少し拓けた場所に出たところで彼は声を発した。
「あいにくと、昨日お熱い夜を過ごしたばかりなんだが」
皮肉交じりに口元を歪めた瞬間、茂みの奥から黒い影が躍り出た。
そのまま突進するかのような勢いで瞬時に距離を詰め、一対のトンファーを振るう。
それはランディにとって見慣れた者の動きだった。
スタンハルバードで容易く受け流すと、間髪入れずに連撃を打ち込んでくる。
「はっ、随分と熱烈なラブコールじゃねぇかよ。ロイドくん」
小回りの利く武器で懐に潜り込まれるのは厄介だが、ランディは涼しい顔で軽口を叩きながら、僅かな隙を突いて自分の獲物を大きく振り払った。
その重い衝撃波が真正面からロイドに直撃した。
だが、咄嗟に防御の態勢を取っていた彼は、土煙を上げて後退しながらも倒れ込むことはなかった。
粉塵の中、顔の前で交差させたトンファーの隙間から鋭い眼光を覗かせている。
「おい、おい、怖い顔しやがって」
相手との距離ができたことで、ランディは改めてその姿を観察した。
やはり姿形も立ち振る舞いも寸分違わない。
戦闘中の動作や癖も完全に同じだ。
今まで情報として脳内にあった模倣擬体という存在が、目の前に実体としてある。
しかも、あろうことか彼の大切な人物の容姿を纏って。
昨夜、腕の中に囲って睦言を囁いた。
乱れた吐息と火照った身体の感触がまざまざと蘇る。
久しぶりだったせいか、抑えが効かなくなりそうだった。
無意識で素肌に甘噛みの痕を散らし、朝になってから起きがけに怒られた。
「見える所につけるな」と。
静かに、ランディの瞳に怒気が揺らめいた。武器を握る両手に力が籠もる。
「……足りねぇな。この出来損ないが!」
感情を乗せた言葉と共に相手へと肉迫し、強烈な一撃を放つ。
纏わりつく赤い闘気が地面を伝い、勢いよく爆ぜた。
ロイドが一瞬ひるんだのを見逃さず、すぐさま追撃を繰り出す。
防戦するトンファーと交わり、金属が擦れる耳障りな音が響いた。
「あいつの打撃は重くてバカみたいに熱い。そんなんでガワだけ使うんじゃねぇよ」
ランディは敵意も露わな茶色の眼を至近距離で捉え、襟元から覗く肌を一瞥してから冷笑した。
そのまま力任せに相手を押し切り、強引に吹き飛ばす。
「俺は紛い物に同情するほど優しい男でもないんでな」
よろめきながら立ち上がるロイドに、冷徹で容赦のない一撃が振り下ろされた。
黒焦げになった地面には未だ煙が燻っている。
一切の物証を残さない身体なのだろうか。
彼は損傷した部位から発火し、高温の炎に巻かれて跡形もなく全てが消え失せた。
「……くそっ、後味悪すぎんだろうが」
しばらくその痕跡を見ていたランディは、頭を振りながら吐き捨てるように言った。
それから無言で周囲の様子を確認し、ようやくその場から離れる気になった。
これ以上ここに留まっていても得られる情報はないだろう。
さっき来た道を戻りながら街道へ向かう足は軽快とは言い難い。
掻き乱された感情を宥める最中、燃えさかる炎の中に立つロイドの姿がチラついた。
「あいつは……違う」
ランディはポケットの中からARCUSⅡを取り出した。
頭では分かっているのに、『本物』を確認したくなる。
回線を繋ぐと、程なくして欲していたものが聞こえてきた。
「ランディ、どうしたんだ?」
偵察中の仲間からの通信とあって、ロイドの声は少し硬い。
けれど、それだけでもランディの心を浮上させるには十分だった。
自然と口元が緩む。
「なんかお前の声聞きたくなっちまってさぁ」
「なんだよ、それ。何かあったんじゃないのか?」
訝しむ相手にいつもの調子が戻ってきた。
「お前の幻なら見たぜ。いやぁ、昨日の夜が激しすぎて余韻が抜けないんだよな~」
「バ、バカ!何言ってんだよ!!」
スピーカー越しにロイドの動揺が伝わってきて、今どんな顔をしているのかが容易に想像できた。
「気が緩みすぎだぞ。真面目にやれって」
「真面目も大真面目だぜ、こっちは」
小さな溜息が聞こえてきて、ランディは苦笑する。
草を踏み締める音が次第に小さくなり、綺麗に舗装された街道に出る手前で彼は足を止めた。
ふと、来た道を振り返る。
「帰ったら口直ししたいくらいにはな」
遠くで微かに立ち上る煙が見えた。
それを見つめる瞳からは軽妙さが消え、不快げな色の影が差し込んでいた。
【単純な男】
ロイドがそれを聞いたのは、仲間内で情報交換をしている時だった。
驚いてランディの方を見たが、彼は淡々とした口調で模倣擬体と一戦交えた時の様子を語った。
(……なんでだよ?)
自分の偽物が存在した事実よりも、それを『今』知ったことの方がショックだった。
解散後。
いつもなら仲間たちと雑談の一つでもしていく赤毛の青年は、足早にその場を後にしてしまった。
ロイドは慌てて彼を追いかける。
「ランディ!待てよ!」
強い調子で呼び止めると、長身の身体が振り返った。
「ほんと分かりやすいヤツだよな」
ランディは明らかに怒っている同僚の顔を見て口角を歪めた。
「なんで、あの時言ってくれなかったんだ?」
「は?言っただろ?」
「幻なんてふざけたこと……実際にやり合ったくせに」
ロイドは強く拳を握りしめ、平然とあしらってくる相手を睨み付けた。
なぜ、そんな重大なことをすぐに言ってくれなかったのか?と。
そんなに信用がないのか?と
突き刺さるような視線は、まるで責めているかのようだった。
「どうせ情報交換するのが分かってるんだから、その時でいいだろ」
居心地の悪さを感じたランディは、再び背を向けた。
「……そう何度も話したい話題じゃないんでな」
低くなった声と共に立ち去ろうとする。
その言葉を聞いた瞬間、ロイドは横っ面を張られたような気がした。
少しずつ遠退いていく姿に、あの時の問答を思い出す。
いつもの軽い調子だったから何も疑わなかった。
今考えれば、ランディが連絡を入れてきたこと自体を注視しなくてはいけなかったのに。
普段の言動はともかく、彼は偵察中に通信を使ってまで恋人の顔をするような男ではない。
どうして、それに違和感を覚えなかったのだろうか?
今更ながら、彼の心情を察してあげられなかった自分が嫌になってくる。
「俺……ほんとダメだな」
大きく息を吐き、距離ができてしまった不機嫌そうな後ろ姿に目をやる。
きっと、呼び止めてもさっきのように振り返ってはくれないだろう。
かといって、こんな状態のまま離れたくはなかった。
「──ランディ!」
地を蹴る足に力が籠もった。
その気配を感じているのに無視をする背中へ手を伸ばし、衣服を掴んで強引に動きを止める。
「おい、なにやって……」
ランディは呆れた様子で背後へ首を向けようとしたが、それよりも早くロイドに背中から抱き付かれ、一瞬にして身体が硬直した。
密着してくる体温が布越しに伝わってきてほのかに温かい。
脈打つ鼓動がわずかな振動を起こして背筋を這った。
「……ごめん、気付いてあげられなくて」
束縛の力が少しだけ強まり、それと同時に沈んだ声が唇から落ちた。
不甲斐なさを噛みしめて、ギュッと両目を閉じる。
「そりゃぁ、当然だろ?わざと勘繰られないように言ったんだからな」
だが、それに対して謝る必要はないと言外に滲ませたランディの表情は柔らかかった。
ふと、スピーカ越しのやり取りを思い出す。
あの時、声を聞いただけで心が浮上した。
今は身体の温もりを感じて、ざらついた感情が解けていく。
不愉快な出来事を頭の隅に追いやることは、意外にも簡単だったらしい。
「認めたくはねぇが……俺も案外、単純な男だったってわけかよ」
ランディは胸に回されたロイドの手を握りしめ、一つ呟いた。
恋人の一挙一動で面白いくらいに気分が変わる。
そんな自分が可笑しくて堪らなかった。
【幼稚な口直し】
青空の中に流れる雲をぼんやりと見上げる。
木々の隙間からは鳥たちの囀りが聞こえ、長閑な時間が流れていた。
「……なぁ、さすがにこれはないんじゃないか?」
立て膝で座っているロイドの視線は、どこか遠くを彷徨っている。
横たえている方の太股に頭部の重みがかかり、まともに顔を見るのはどうにも気恥ずかしかった。
「ありだ、あり。つれねぇな~、ロイドくんは」
「はぁ~、まったく。ひと眠りしたいなら普通に寝ろよ」
こめかみに手をやり、大きな溜息を吐く。
ランディは夜間にも偵察任務が入っており、仮眠を取るつもりのようだった。
本音としてはまだ側にいたい気分のロイドだったが、邪魔をするのも悪いと思い身を引こうとしたのだが。
なぜか、いきなり「枕を貸せ」と言われた。
それから強引に腕を引っ張られ、あれよあれよという間に膝枕状態にされてしまった。
「俺はどこでも寝れるから、気にすんなって」
「こっちが気にするんだよ。そもそも、俺の足が痺れるのはどうでもいいんだな?」
話している内にこの状況に慣れてきたのか、ロイドはようやく眼下の顔と向かい合った。
「そこまで長くねぇよ。お前も色々と忙しいだろうしな」
それが嬉しくて、ランディの表情が自然と柔和になる。
常日頃から仲間たちの中心を担う彼の負担を慮り、そんな言葉が口をつく。
それを聞いたロイドは、何度か目を瞬かせた。
この不本意な現状を受け、少しは棘のある語句でも重ねてやろうかという中で、優しい声が耳を打つ。
(俺のことより……甘えたいのはそっちじゃないのか?)
わざわざこんな行動を起こしているのだから、模倣擬体のことについては完全に気持ちが浮上したわけではないのだろう。
そう思ったら、勝手に空いている手が動いてしまった。
足の上に乗っている赤い頭を遠慮がちに撫でてみる。
「ははっ、なんだよ。ガキ扱いか?」
ランディは一瞬ひどく驚いたようだったが、すぐに声を立てて笑った。
「その……嫌だったか?」
「まさか。珍しいこともあるもんだと思ってな」
引っ込めようとしている手首を掴んで、そのままでいいと態度で示す。
再び視線を泳がせ始めた顔を見上げ、そこから首を辿って襟元の肌に散る赤い痕跡を盗み見た。
──今、ここに在る。
何よりも確かなものを手に入れたランディは、満足げに目を閉じた。
2021.03.04
2021.03.10
#創
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創・恋人設定
模倣擬体ロイドVSランディな話。SS三部作になっています。
【文字数:4200】
【欠けた紛い物】
どこから視線を感じる。
それはとても好意的とは言えない類いのものだ。
ランディは気づかぬふりをして街道を歩いていたが、やがて足を止めた。
(この気配……似てるな)
わざと舗装された道を逸れ、背の低い草むらを踏み締めながら人々の往来から距離を取る。
少し拓けた場所に出たところで彼は声を発した。
「あいにくと、昨日お熱い夜を過ごしたばかりなんだが」
皮肉交じりに口元を歪めた瞬間、茂みの奥から黒い影が躍り出た。
そのまま突進するかのような勢いで瞬時に距離を詰め、一対のトンファーを振るう。
それはランディにとって見慣れた者の動きだった。
スタンハルバードで容易く受け流すと、間髪入れずに連撃を打ち込んでくる。
「はっ、随分と熱烈なラブコールじゃねぇかよ。ロイドくん」
小回りの利く武器で懐に潜り込まれるのは厄介だが、ランディは涼しい顔で軽口を叩きながら、僅かな隙を突いて自分の獲物を大きく振り払った。
その重い衝撃波が真正面からロイドに直撃した。
だが、咄嗟に防御の態勢を取っていた彼は、土煙を上げて後退しながらも倒れ込むことはなかった。
粉塵の中、顔の前で交差させたトンファーの隙間から鋭い眼光を覗かせている。
「おい、おい、怖い顔しやがって」
相手との距離ができたことで、ランディは改めてその姿を観察した。
やはり姿形も立ち振る舞いも寸分違わない。
戦闘中の動作や癖も完全に同じだ。
今まで情報として脳内にあった模倣擬体という存在が、目の前に実体としてある。
しかも、あろうことか彼の大切な人物の容姿を纏って。
昨夜、腕の中に囲って睦言を囁いた。
乱れた吐息と火照った身体の感触がまざまざと蘇る。
久しぶりだったせいか、抑えが効かなくなりそうだった。
無意識で素肌に甘噛みの痕を散らし、朝になってから起きがけに怒られた。
「見える所につけるな」と。
静かに、ランディの瞳に怒気が揺らめいた。武器を握る両手に力が籠もる。
「……足りねぇな。この出来損ないが!」
感情を乗せた言葉と共に相手へと肉迫し、強烈な一撃を放つ。
纏わりつく赤い闘気が地面を伝い、勢いよく爆ぜた。
ロイドが一瞬ひるんだのを見逃さず、すぐさま追撃を繰り出す。
防戦するトンファーと交わり、金属が擦れる耳障りな音が響いた。
「あいつの打撃は重くてバカみたいに熱い。そんなんでガワだけ使うんじゃねぇよ」
ランディは敵意も露わな茶色の眼を至近距離で捉え、襟元から覗く肌を一瞥してから冷笑した。
そのまま力任せに相手を押し切り、強引に吹き飛ばす。
「俺は紛い物に同情するほど優しい男でもないんでな」
よろめきながら立ち上がるロイドに、冷徹で容赦のない一撃が振り下ろされた。
黒焦げになった地面には未だ煙が燻っている。
一切の物証を残さない身体なのだろうか。
彼は損傷した部位から発火し、高温の炎に巻かれて跡形もなく全てが消え失せた。
「……くそっ、後味悪すぎんだろうが」
しばらくその痕跡を見ていたランディは、頭を振りながら吐き捨てるように言った。
それから無言で周囲の様子を確認し、ようやくその場から離れる気になった。
これ以上ここに留まっていても得られる情報はないだろう。
さっき来た道を戻りながら街道へ向かう足は軽快とは言い難い。
掻き乱された感情を宥める最中、燃えさかる炎の中に立つロイドの姿がチラついた。
「あいつは……違う」
ランディはポケットの中からARCUSⅡを取り出した。
頭では分かっているのに、『本物』を確認したくなる。
回線を繋ぐと、程なくして欲していたものが聞こえてきた。
「ランディ、どうしたんだ?」
偵察中の仲間からの通信とあって、ロイドの声は少し硬い。
けれど、それだけでもランディの心を浮上させるには十分だった。
自然と口元が緩む。
「なんかお前の声聞きたくなっちまってさぁ」
「なんだよ、それ。何かあったんじゃないのか?」
訝しむ相手にいつもの調子が戻ってきた。
「お前の幻なら見たぜ。いやぁ、昨日の夜が激しすぎて余韻が抜けないんだよな~」
「バ、バカ!何言ってんだよ!!」
スピーカー越しにロイドの動揺が伝わってきて、今どんな顔をしているのかが容易に想像できた。
「気が緩みすぎだぞ。真面目にやれって」
「真面目も大真面目だぜ、こっちは」
小さな溜息が聞こえてきて、ランディは苦笑する。
草を踏み締める音が次第に小さくなり、綺麗に舗装された街道に出る手前で彼は足を止めた。
ふと、来た道を振り返る。
「帰ったら口直ししたいくらいにはな」
遠くで微かに立ち上る煙が見えた。
それを見つめる瞳からは軽妙さが消え、不快げな色の影が差し込んでいた。
【単純な男】
ロイドがそれを聞いたのは、仲間内で情報交換をしている時だった。
驚いてランディの方を見たが、彼は淡々とした口調で模倣擬体と一戦交えた時の様子を語った。
(……なんでだよ?)
自分の偽物が存在した事実よりも、それを『今』知ったことの方がショックだった。
解散後。
いつもなら仲間たちと雑談の一つでもしていく赤毛の青年は、足早にその場を後にしてしまった。
ロイドは慌てて彼を追いかける。
「ランディ!待てよ!」
強い調子で呼び止めると、長身の身体が振り返った。
「ほんと分かりやすいヤツだよな」
ランディは明らかに怒っている同僚の顔を見て口角を歪めた。
「なんで、あの時言ってくれなかったんだ?」
「は?言っただろ?」
「幻なんてふざけたこと……実際にやり合ったくせに」
ロイドは強く拳を握りしめ、平然とあしらってくる相手を睨み付けた。
なぜ、そんな重大なことをすぐに言ってくれなかったのか?と。
そんなに信用がないのか?と
突き刺さるような視線は、まるで責めているかのようだった。
「どうせ情報交換するのが分かってるんだから、その時でいいだろ」
居心地の悪さを感じたランディは、再び背を向けた。
「……そう何度も話したい話題じゃないんでな」
低くなった声と共に立ち去ろうとする。
その言葉を聞いた瞬間、ロイドは横っ面を張られたような気がした。
少しずつ遠退いていく姿に、あの時の問答を思い出す。
いつもの軽い調子だったから何も疑わなかった。
今考えれば、ランディが連絡を入れてきたこと自体を注視しなくてはいけなかったのに。
普段の言動はともかく、彼は偵察中に通信を使ってまで恋人の顔をするような男ではない。
どうして、それに違和感を覚えなかったのだろうか?
今更ながら、彼の心情を察してあげられなかった自分が嫌になってくる。
「俺……ほんとダメだな」
大きく息を吐き、距離ができてしまった不機嫌そうな後ろ姿に目をやる。
きっと、呼び止めてもさっきのように振り返ってはくれないだろう。
かといって、こんな状態のまま離れたくはなかった。
「──ランディ!」
地を蹴る足に力が籠もった。
その気配を感じているのに無視をする背中へ手を伸ばし、衣服を掴んで強引に動きを止める。
「おい、なにやって……」
ランディは呆れた様子で背後へ首を向けようとしたが、それよりも早くロイドに背中から抱き付かれ、一瞬にして身体が硬直した。
密着してくる体温が布越しに伝わってきてほのかに温かい。
脈打つ鼓動がわずかな振動を起こして背筋を這った。
「……ごめん、気付いてあげられなくて」
束縛の力が少しだけ強まり、それと同時に沈んだ声が唇から落ちた。
不甲斐なさを噛みしめて、ギュッと両目を閉じる。
「そりゃぁ、当然だろ?わざと勘繰られないように言ったんだからな」
だが、それに対して謝る必要はないと言外に滲ませたランディの表情は柔らかかった。
ふと、スピーカ越しのやり取りを思い出す。
あの時、声を聞いただけで心が浮上した。
今は身体の温もりを感じて、ざらついた感情が解けていく。
不愉快な出来事を頭の隅に追いやることは、意外にも簡単だったらしい。
「認めたくはねぇが……俺も案外、単純な男だったってわけかよ」
ランディは胸に回されたロイドの手を握りしめ、一つ呟いた。
恋人の一挙一動で面白いくらいに気分が変わる。
そんな自分が可笑しくて堪らなかった。
【幼稚な口直し】
青空の中に流れる雲をぼんやりと見上げる。
木々の隙間からは鳥たちの囀りが聞こえ、長閑な時間が流れていた。
「……なぁ、さすがにこれはないんじゃないか?」
立て膝で座っているロイドの視線は、どこか遠くを彷徨っている。
横たえている方の太股に頭部の重みがかかり、まともに顔を見るのはどうにも気恥ずかしかった。
「ありだ、あり。つれねぇな~、ロイドくんは」
「はぁ~、まったく。ひと眠りしたいなら普通に寝ろよ」
こめかみに手をやり、大きな溜息を吐く。
ランディは夜間にも偵察任務が入っており、仮眠を取るつもりのようだった。
本音としてはまだ側にいたい気分のロイドだったが、邪魔をするのも悪いと思い身を引こうとしたのだが。
なぜか、いきなり「枕を貸せ」と言われた。
それから強引に腕を引っ張られ、あれよあれよという間に膝枕状態にされてしまった。
「俺はどこでも寝れるから、気にすんなって」
「こっちが気にするんだよ。そもそも、俺の足が痺れるのはどうでもいいんだな?」
話している内にこの状況に慣れてきたのか、ロイドはようやく眼下の顔と向かい合った。
「そこまで長くねぇよ。お前も色々と忙しいだろうしな」
それが嬉しくて、ランディの表情が自然と柔和になる。
常日頃から仲間たちの中心を担う彼の負担を慮り、そんな言葉が口をつく。
それを聞いたロイドは、何度か目を瞬かせた。
この不本意な現状を受け、少しは棘のある語句でも重ねてやろうかという中で、優しい声が耳を打つ。
(俺のことより……甘えたいのはそっちじゃないのか?)
わざわざこんな行動を起こしているのだから、模倣擬体のことについては完全に気持ちが浮上したわけではないのだろう。
そう思ったら、勝手に空いている手が動いてしまった。
足の上に乗っている赤い頭を遠慮がちに撫でてみる。
「ははっ、なんだよ。ガキ扱いか?」
ランディは一瞬ひどく驚いたようだったが、すぐに声を立てて笑った。
「その……嫌だったか?」
「まさか。珍しいこともあるもんだと思ってな」
引っ込めようとしている手首を掴んで、そのままでいいと態度で示す。
再び視線を泳がせ始めた顔を見上げ、そこから首を辿って襟元の肌に散る赤い痕跡を盗み見た。
──今、ここに在る。
何よりも確かなものを手に入れたランディは、満足げに目を閉じた。
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2021年2月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
『好き』を伝えて
碧・恋人設定
オンオフの切り替えが苦手なロイドと、そんな彼からの愛情表現が欲しいランディとのバレンタイン話です。
【文字数:11000】
普段から特務支援課の面々が団欒を楽しんでいる一階のテーブルだが、今は三人だけが腰を落ち着かせている。
「ふぅ、温まりますね。エリィさん、ありがとうございます」
マグカップを両手で包み、たっぷりと注がれたココアを口にしたティオが息を吐いた。
「今日は肌寒かったものね。あ、でも少し熱すぎたかしら?」
「……問題ありません」
小さな唇を尖らせて息を吹きかけている姿は愛らしく、エリィは優しい微笑を浮かべる。
「ところで、ランディは本当によかったの?まだ作れるわよ?」
ティオと向かい合う形で座っているエリィが、横にいる赤毛の青年に声をかける。
彼女は自分たちの分を作る時に一度声をかけたのだが、その時は遠慮されてしまった。
ランディは面倒くさそうに報告書を作成している。
そんな横で二人揃って一息ついているのも忍びなく、もう一度聞いてみたのだが。
「それなら、これから帰ってくるヤツらに作ってやれよ。俺は酒の方がいいしなぁ」
今度もさり気ない配慮と共に軽くいなされてしまった。
「ランディさん、報告書も仕事の内です」
ティオが睨むとランディは片手をヒラヒラさせて苦笑した。
「はい、はい。分かってるっつーの」
今日の支援要請は小さな案件だが数が多く、人海戦術といった様相だった。
取捨選択は可能だが、やはり依頼された要請は極力こなしたい。
エリィとティオは組んでいたが、他のメンバーは個々に動いていた。
そんなわけで、書類と睨めっこをする性分ではないランディも報告書を書いている。
「誰か俺の代わりに書いてくれねぇかな~」
「もうっ、少しは集中しなさいよ」
彼が普段の言動に反して意外に真面目なことは二人も承知の上で、小言を向けつつも報告書に関しては心配する必要はなかった。
しばらくして、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
帰宅したのは支援課のリーダーであるロイドだった。
「みんな結構早かったんだな。あ、ワジとノエルはまだか」
彼は室内を見回し、現状を把握する。
「お帰りなさい、ロイド」
「あいつら街中だろ?そろそろ帰ってくるんじゃねぇの?」
「ワジさんはついでに遊んでいるかもしれません」
まさしく三者三様な応対をされ、ロイドは小さく笑った。
「そう言えば、帰る前に本部でフランからこれ受け取ったんだけど」
彼はテーブルの側までやって来て、持っていた紙袋をそこに置いた。
「なんか、特務支援課宛てにバレンタインだって」
袋の中身には統一感がなく、個人というよりは複数人の贈り物が詰め込まれているように見える。
きちんと包装されたそれらは、みな色鮮やかで綺麗だった。
「フランは『街の皆さんの感謝の気持ちです』とか言ってたけど」
ロイドは少し困惑顔で説明した。
「あら、それは嬉しいわね」
「チョコレートが食べ放題ということでしょうか?」
エリィとティオは椅子から腰を浮かし、興味深げに紙袋の中を覗き込んだ。
「感謝ねぇ……ちょいとこそばゆい感じだな」
ランディはペン走らせる手を止めて目元を緩めたが、何を思ったのか、ふと真顔になった。
「ちょっと待て。それって支援課と見せかけて実はロイド宛てとか……ありえそうじゃね?」
その言葉に場の空気が一瞬固まった。
「……ありえるわね」
「……可能性大かと」
女性二人のジト目がロイドに向けられた。
「ちょっ、ランディ!?変なこと言うなよ!」
「いやぁ、お前って天然たらしだしさ~」
彼女らの冷たい眼差しに後退ったロイドはランディに抗議したが、彼は頬杖を付きながらニヤニヤとするだけだ。
三対一ではさすがに分が悪い。
「だ・か・ら!フランは支援課の皆さんへって言ってたし!」
ロイドは頭を抱えたくなる思いで叫んだ。
「おやおや、うちのリーダーってば、また何かやらかしたのかい?」
そんな中、再び玄関のドアが開く音がした。
「え、えっと。ただいま戻りました」
涼やかな声の後に生真面目な帰宅の挨拶が続く。
道すがら、偶然居合わせた二人は一緒に帰ってきたのだが、ビルの前まで来た所でロイドの叫び声が聞こえてきた。
そして玄関をくぐってみれば、この状態である。
ロイドは仕事を終えた二人を労いつつも、手短に事の経緯を説明する。
「う、う~ん……ありえそうというか、なんていうか」
「ははっ、フランもはっきり言ってくれれば良いのにね」
彼にしてみれば多勢に無勢を何とかしたい状況だったのだが、どうにも上手くいかない。
「はぁー、何なんだよ……みんなして」
ロイドはふらふらと空いている席に座り、ふて腐れた様子でテーブルに突っ伏してしまった。
「ご愁傷様~」
「誰のせいだと思ってるんだよ」
真向かいで楽しそうにしている相棒に腹が立って、半眼じみた視線を送る。
「それで、これどうするのよ?ロイド」
「普通にみんなで分けてくれよ。俺のだって決まったわけじゃないし」
力の抜けきったリーダーの言葉に、五人は顔を見合わせた。
「なんだか受け取るのは気が引けますね」
ティオがそう呟くと、皆が同時に頷いた。
さて、どうしたものか?と思案する。
「あっ、ねぇ、ワジくん。君は毎年沢山もらってるんでしょ?」
すると、不意にノエルが口を開いた。
「え?あぁ。直接受け取るとキリがないから、トリニティ宛てにしてもらってるけど」
「涼しい顔でモテ自慢するなっつーの。で、結局どうしてるんだよ?」
彼女の意図を察したランディが嫌みを含んで問いかけると、ワジは明快に答えてくれた。
「気持ちだけ受け取っておくって感じかな。どうせ食べきれないなら手を出さない方が公平だしね。だから、スラムの子達にあげたり教会に寄付したりしてるよ」
「教会……それは名案だわ。日曜学校で子供たちに配ってもらえそうね」
エリィが目を輝かせながら感心した様子でワジを見ると、
「まぁ、伊達に教会とつるんでるわけじゃないからね」
彼は皮肉っぽく口角を吊り上げた。
取りあえず、方針は決まったらしい。
特に急を要するわけではないが、明日からはしばらく街の外へ出る案件が続くので、教会に寄る時間が取れそうもなかった。
「だったら、今日中に行った方が良さそうだな」
それを鑑みてランディは席から立ち上がり、未だに潰れているロイドの襟首を掴んだ。
「おい、ロイド。さっさと行ってこようぜ」
「は?なんでランディも行くんだ?」
促されたロイドは仕方なく立ち上がったが、彼の言い回しに疑問符を浮かべた。
「ランディ先輩、報告書を書いてる途中ですよね」
更にノエルが真面目な指摘をする。
「だな。まぁ、息抜きってことで。なんか肩も凝ってきた気もするし」
ランディはそれをあっさりと認め、悪びれる風もなく堂々と言ってのけた。
「そんじゃ、行ってくるぜ~」
「あーっ、もう!引っ張るなってば!」
それから、半ばロイドを引きずるような形で二階の裏口から外へ出て行ってしまった。
「……ほんとに書類仕事が嫌いですよね。ランディさんって」
静かになった部屋の中にティオの声が響く。
「それだけじゃないと思うけどね。まぁ、あの様子じゃ暫く帰ってこないんじゃない?」
「なんで?大聖堂だったら、そんなに時間はかからないと思うけど」
それに応じたワジが意味深げな発言をしたことで、ノエルが不思議そうに小首を傾げた。
「さぁ?なんでだろうね」
わざとらしく遠くに目をやった彼はどこか楽しげだった。
西通りを抜けて住宅街へと出る。
午後の時間帯を大分回り、空も夕刻に近づいてきた。
行き交う人々を目にするゆとりもなく、ロイドは仏頂面の早足で目的地へと向かっている。
「お~い。そろそろ機嫌直せよ~」
少し後ろを付いてくるランディが声をかけるも、応じる気配はない。
「……ああいう時はやたら団結するんだよな、みんなして」
そんな年下の同僚の態度を気にすることもなく、独り言のように吐き出された不満を拾い上げる。
「それだけあいつらに好かれてるってことだろ」
もちろん、そこに悪意など微塵もないことはロイドだって分かっている。
女性陣の視線がやけに冷たい時もあったりするが、大抵はその場の空気は明るい。
ふと、速かったロイドの足取りが緩んだ。
聞き逃してもいいくらいの愚痴に構ってくれるランディの優しさに、少しだけ心が軽くなる。
(……あれ?でも、今のは……)
だが、それがまるで当事者ではないような言葉選びだったと気づき、引っかかりを覚えてしまった。
(『あいつら』って言ったよな?)
彼の胸中が読めなかったが、問いかける言葉を見つけ出せず、ロイドは悶々としながら歩いた。
徐々に人気が少なくなり始め、マインツ山道への入り口までやって来た。
ここからクロスベル大聖堂は目と鼻の先だ。
会話らしい会話をしないままだった道中を過ごし、先にロイドの方が音を上げた。
「──なぁ、さっきの……ランディは?」
立ち止まって振り返る。
不機嫌だったこれまでとは違い、不安げな色が見え隠れしていた。
ランディはわずかに瞠目したが、すぐに言葉の意味を察して意地悪げに笑った。
「あぁ、それな。どっちの俺で言って欲しいの?好かれてるって」
一瞬、何を言っているのかが分からなかった。
「ど、どっちって……え?あっ!?」
ロイドはしばらく頭を回転させた後、ようやくそれに気が付いた。
「今は二人だけだし。ほら、選べよ」
つまりは、同僚なの?恋人なの?と。
ランディにとってこんな線引きはあってないようなもので、そもそも気にする性格ではない。
だが、真面目なロイドはそういうわけにもいかず、リーダーとしての責任感も相まってか、そういった立場の切り替えが面白いくらいに下手だった。
普段はそんな不器用な線引きに付き合ってあげているのが常だ。
しかし、たまにそんな彼の手を引く形で強引に場を作る。
たまには甘えたらどうだ?と言わんばかりに。
「ちょっ……と、待って」
魅力的な誘いを受けたロイドの心がぐらりと揺れた。
「でも……」
けれど、手に持っている紙袋を意識して眉を寄せる。
「支援課宛てだったし……う~ん……」
これを無事に教会へ寄付するまでは仕事なのではないかと、思ってしまった。
「おい。そこ、悩むとこなわけ?」
何やら葛藤している彼の姿が可笑しくて、ランディは思わず吹き出しそうになった。笑い混じりの言葉で遠回しに返事を急かしてみる。
「あ、ごめん。えっと、その……半分ずつとか」
ハッとしたロイドは、定まりきらない胸の内から無理矢理に答えを絞り出した。
それはそれは困ったような顔をして。
──数拍。二人の間に奇妙な空気が流れた。
ランディは予想外な返答に唖然としたが、すぐに気を取り直してロイドの側に歩み寄った。
「はぁ~、お前ってやつは」
大袈裟なくらいの溜息を吐き、癖のある茶髪を捕まえて容赦なく掻き乱す。
「い、痛いって」
武骨で大きな手は荒々しいようでいて、少し優しかった。
思いのほか強い力を受けたロイドが首を竦ませる。
「ここまで不器用すぎると、いっそ笑えるぜ」
ランディは呆れた様子を見せつつも、その中途半端な答えを無下にはしなかった。
彼にとってみれば馬鹿げた葛藤の類いだが、それすら微笑ましいと思えるくらいには惚れている。
「ほら、もう行くぞ」
心なしか元気のない背中を軽く叩き、止まった足を大聖堂へと向かわせる。
渋々と歩き始めたロイドの横に並び、彼を見下ろす両眼が愛おしげに緩んだ。
穏やかに雲が流れる空は、茜色に染まり始めている。
大聖堂に足を踏み入れた二人は、夕空で不思議と温かな色を纏ったステンドグラスに感嘆を漏らした。
「あら、ロイド。久しぶりね」
すると、落ち着きのある女性の声が聞こえてきた。
「マーブル先生。ご無沙汰しています」
ロイドの顔がパッと明るくなり、優しげな風貌のシスターに会釈をした。
ランディもそれに習って軽く挨拶をする。
彼らは日頃から懇意にしている彼女を訪ねる予定だったので、丁度良いタイミングだった。
ロイドが事の一部始終を説明すると、マーブルは静かに微笑んだ。
「まぁ、随分と立派になって」
日曜学校の先生である彼女にとって、教え子の成長や活躍は何より嬉しいものである。
そんな二人の和やかなやり取りを、ランディは黙って見つめていた。
特務支援課の中では茶化していたが、今は無粋というものだ。
何よりも、ロイドの気持ちが浮上していることが分かって安堵した。
マーブルはロイドたちの意向を快く受け入れてくれた。
目的を果たした彼らは大きな扉を開き、荘厳な建物から外へ出る。
空はいよいよ赤みを増していた。
ここを通った時、建物の前で遊んでいた子供たちの元気な声も今は聞こえない。
先を行くランディの背中は夕焼けに染まり、それを見たロイドは急に寂しさが込み上げてきた。
(まだ……一緒にいたいな)
このまま真っ直ぐに帰宅してしまうのが勿体なかった。
さっきまで紙袋で塞がっていた手を見つめ、なんの枷もないことを確認する。
今、悩む理由はどこにもないように思えた。
彼が用意してくれた二人だけの時間はまだ有効だろうか?
「なぁ、ランディ」
ロイドは墓地の方へ向かう道に目をやり、ポケットに手を入れてのんびりと歩く後ろ姿を呼び止めた。
「少しだけ兄貴のとこ寄ってもいいか?」
揺れていた鮮やかな色の長髪がピタリと止まる。
「ははっ、言うと思ったぜ。俺も挨拶の一つくらいはしとこうかねぇ」
振り返ったランディは、予想通りとばかりに破顔した。
これから墓参りというには遅い時間帯になってきた。
案の定、踏み入れた墓地の敷地内に人の気配はない。
草を踏み締める二人の足音だけが、静寂の中で響いた。
今は亡き兄の墓前にやって来たロイドは、静かに目を閉じた。
ここに立つと様々な思い出が一気に頭へ流れ込んでくる。
彼にとっては、その一つ一つが大切な宝物だ。
「……ふふっ」
不意にロイドが小さく笑った。
彼の邪魔をしないようにと、一歩後ろで見守っていたランディが不思議そうな顔をする。
「なんだよ?急に」
「あぁ、今日ってバレンタインだろ?そう言えば、セシル姉が毎年手作りのチョコ作ってたなぁって」
開いた茶色の瞳が懐かしげな様相で墓を見つめている。
「でも、兄貴ってば色んな所を走り回ってたからいつもいなくてさ。当日に渡せてたことなんてほとんどなかったけど、セシル姉は『遅れてもきちんと渡せているから良いのよ』って笑ってた」
その笑顔が記憶の中で鮮明に蘇った。
「セシルさんのチョコとか、羨ましすぎんだろうが。どうせお前も貰ってたんだろ?」
そんな在りし日の思い出に噛みついたランディは、本気で悔しそうにしている。
「いや、俺のはついでだからな!」
ロイドは勢いよく振り返って言い返したが、思いきり肯定する形になってしまった。
「……ったく、これだから弟くんはよぉ」
ランディはブツブツと言いながら頭を掻いていたが、しばらくしてから急に真顔になった。
「──で、お前は俺になんかくれねぇの?」
過去の思い出話から今の自分に話を振られ、ロイドは目を丸くした。
もちろんバレンタインの趣旨は理解しているのだが、やはり女性のものというイメージが強くある。
だから、それに自分が当てはまるとは思っていなかった。
「俺が渡す側になるのか?」
念のために聞いてみると、
「そりゃそうだろ。俺は常日頃からお前に愛情表現しまくってるからな」
ランディは当然とばかりに、恥ずかしげもなく言ってのけた。
「それとも、なに?まだ足りないとか?」
「そんなこと言ってないけど!?」
からかう声音の中に微かな色気を感じ、ロイドは思わず後退った。
「だったらやっぱりお前の方からだな」
こういったやり取りでは、いつもやり込められて退路を塞がれてしまう。
優柔不断な態度を優しく受け止めてくれたかと思えば、今度は強引に我を通そうとする。
いつもの軽妙な言動の内側にある思慮深さとは別に、己の欲に忠実な顔が露わになった。
それはロイドだけが知っている姿で、少なからず優越感を覚える。
『今はどっちなの?』と聞くのが可笑しくなるくらい、彼は恋人の顔を見せてくる。
けれど、こうも軽々と振り回されてしまっている状態は面白くなくて、ついそっぽを向いてしまった。
「全然そんなつもりはなかったから、何も用意してないぞ」
別に意地悪のつもりで言っているわけではなく、本当のことだ。
今の今まで、頭の片隅にもなかった。
「……マジで?はぁ~、俺って愛されてねぇな~」
それを聞いたランディは、脱力してその場にしゃがみ込んでしまった。
「まぁ、お前らしいっつーか……いや、それにしたってもうちょい……こう、さぁ……」
独り言のような小さな声は明らかに沈んでいて、演技などではなく本気で落ち込んでいる。
(そ、そこまでなのか?)
そんなランディの落胆ぶりをロイドは凝視した。
欲しいなら欲しいと前もって言ってくれれば良かったのに。
ついそう言いたくなったが、夕刻に染まる大きな身体がもの悲しげに見えてしまい、口を噤む。
納得はいかないけれど、じわりと罪悪感が滲んできた。
「ごめん。そんなに欲しかったなんて知らなくて」
こうなってくると、もう自分が悪いようにしか思えなくなってくる。
(今からでも何か用意した方がいいのかな?)
この現状にどう対処するべきなのかと、困惑気味な頭をフル回転させる。
ランディはしゃがみ込んだまま、困り顔で一生懸命に思案しているロイドを盗み見た。
なにせ顔に出やすい性格だ。
彼が考えていることの大半は分かってしまう。
(分かってねぇなぁ。俺が欲しいのは『物』じゃないって)
何日も前から強請っていれば、きっと彼は何かしらの贈り物をくれただろう。
けれど、それでは意味がいない。
本当に欲しいのは、ロイドが主体的に向けてくる好意の言動だ。
彼の人となりを思いつつ、望みが薄いのは承知の上で、ほんの少しだけ期待してみたかった。
(まぁ、この場所じゃ不利すぎんだけどな)
無謀なことをしているのは分かっているつもりだ。
低くなっている視界にはロイドの足元があり、その先に彼の兄の墓が入ってくる。
(けど、負け戦はかっこ悪すぎんだろ?)
転んでもタダでは起きない。
茜色が差し込んだ翡翠を模した瞳は不思議な色を放ち、どこか蠱惑的にも見えた。
ランディはロイドを見上げて一つ口を開いた。
「だったら、お前からのキスで帳消しにしてやるよ」
二人だけしかいない墓地の一角で、ロイドがそれを聞き逃すはずもなかった。
からかわれているのかと思って言い返そうとしたが、そこに戯けた表情はなく息が詰まりそうになる。
「あ……の、それは……」
再び後退ろうとしても今度は足を動かせない。すぐ後ろは兄の墓だ。
そもそも、彼には元から選択肢など存在しなかった。
ランディを落ち込ませたのは自分のせいで、全面的に自分の方が悪いのだと思い込んでいるのだから。
「ほんとに帳消しか?」
「そのくらいは信用しろよ。で、どうすんの?」
ロイドが恐る恐る尋ねてみると、あっさりとした返答があった。
どうやら謀るつもりはないらしく、ホッと胸を撫で下ろす。
「…………だったら、やる」
手の平を握りしめ、言葉少なに頷いた顔には羞恥の色が浮かぶ。
「交渉成立だな。ほら、こいよ」
それを見たランディはようやく頬を緩ませ、誘うように手を伸ばした。
(──あぁ、そうか)
そんな彼の嬉しそうな仕草を見た瞬間、ロイドは気が付いてしまった。
今まで一度だって自分からこんな行為をしたことはない。
いつも愛情を与えてもらうばかりで、それが当たり前だと錯覚をしていた。
惜しげもない包容力の裏側で、彼が何を渇望しているのかを知らずに。
(俺……いつもちゃんと伝えてなかった)
ロイドは伸ばされた手を掴み、しゃがみ込んだままでいるランディの前で膝を落とした。
「えっと……さすがに目は閉じてほしいかも」
「はい、はい」
緊張と恥ずかしさを誤魔化すように注文をつけてみたら、どことなく浮かれた声が返ってきた。
それが普段の彼よりも子供っぽく感じられ、珍しい姿に愛おしさが募っていく。
自然と肩の力が抜けて身体が動いた。
一度、唇同士が触れるだけの軽い口付けを贈る。
帳消しの条件ならそれだけでも良かったはずなのに、このまま離れてしまうのが嫌だと思った。
今は想いが止めどなく溢れ出る。
もう一度、今度は遠慮がちに舌を差し入れた。
いつも受け身に回っているせいで、いまいち勝手が分からない。
そんなロイドの行動はランディを驚かせたが、それも一瞬だけだった。
すぐに不器用でたどたどしい愛撫に応える。
手慣れた彼にしてみれば物足りない行為だが、だからといって主導権を握りたいとは微塵も思わなかった。
これはロイドからの愛情表現だ。
到底不利なこの場所で、欲していたものを味わえることに心が高揚する。
ひとしきり舌先を絡ませた後、悩ましげな吐息と共に唇を離したロイドを見つめ、ランディは微笑した。
「なんだよ。てっきりガキみたいなキスで済ますのかと思ってたぜ」
「うっ……そ、そのつもりだったけど」
言葉とは裏腹、彼の目には揶揄の色などはなく、嬉しそうで優しい表情をしている。
「…………したくなった」
そんな眼差しを受け止めきれず、羞恥心が沸騰したロイドは相手の肩口に顔を埋めた。
空は茜色から群青色にさしかかり、耳や首元まで真っ赤なことを誤魔化しようがなかった。
「おいおい、あんまり俺を喜ばせんなよ?」
抑えていないといくらでも口元が緩んでしまいそうになる。
ランディは熱を持った首筋を撫でながら、チラリと墓石の方を見た。
静かに眠るその人物に対して嫉妬がないと言えば嘘になる。
「そんじゃ、ご機嫌ついでにお返しってことで」
指先が耳元を辿り、そこへ唇を寄せた。
思わず身体が跳ねたロイドを無視して、耳の外郭を添うように舌を這わせる。
それはまるで誰かに見せつけているみたいに緩慢な動きだった。
「ラ、ラン……ディ、待っ……」
震える声で制止をかけられ、耳朶に噛み痕を残す。
「──っ!?」
唐突に痛みを受けたロイドは反射的に顔を上げて距離を取ろうとしたが、いつの間にか腰を抱かれていて思うように動けなかった。
「な、何やってんだよ!?」
火照った顔のまま至近距離でランディを睨み付ける。
弄られた耳を手で押さえ、甘く痺れるような痛みを必死に堪えた。
「何って、さっきお前の兄貴に挨拶の一つでもって言っただろ」
動揺を隠しきれない彼に対し、余裕綽々といった風にランディが笑う。
「言ったけど、それとこれとは全然違うし!」
「俺にとっては同じようなもんだ。さて……と。ご挨拶も済んだし、そろそろ行くか」
噛みついてくるロイドを軽くあしらい、立ち上がろうと身体を起こした。
同時に彼の腕を掴んで強引に引き上げる。
ランディはやりたいことをやって満足なのか、あっさりと束縛を解いて先に歩き出してしまった。
「──え?」
急に密着していた温もりが遠退き、喪失感に襲われたロイドは目を瞬かせながらその場に立ち尽くす。
(嫌だ。離れたくない)
一気に強い気持ちが沸き立った
耳朶の噛み痕が燃えるように熱い。
返された愛情に全身が浸食されていくような気がした。
(俺はまだ……側にいたい)
彼は振り返ることのない背中に焦りを覚え、慌てて追いかけようとした。
だが、一瞬だけ足を止めて兄の墓に目を向ける。
「兄貴、また来るからな」
日が落ちて夜の色に染まり始めた大切な故人を背に、ロイドは今度こそ駆け出した。
【おまけSS】
「少し涼みたい」と言ったのはロイドの方だった。
今はこのまま平然と帰れるほどの心境ではなく、まだ多少の時間が欲しかった。
ランディは小さく笑ったが、茶化すことはなく快諾してくれた。
街中をのんびりと歩きながら港湾区へ向かう。
風に当たりたいのなら丁度良い場所だ。
当たり障りのない雑談を主導し、相手が落ち着けるようにと仕向ける。
彼のこういったさり気ない優しさは、流れるように自然だ。
そのお陰か、目的地に着く頃にはロイドも幾分か落ち着きを取り戻していた。
水辺特有の冷たい風が今は心地良い。
ロイドは辺りを見回して小首を傾げた。
「今日は人が多いのかと思ってたけど、そうでもないな」
「そろそろ夕飯時だしな。よろしくやりたいヤツらはもうちょい後だろ」
彼の疑問を察し、ランディはそう応えた。
自分たちのことを意識させないようにと言葉を選びながら。
「あ、そう言えば。キーアたちから貰ったチョコ、食べたか?」
そんな気遣いも露知らず、ロイドは今日の日の話題で連想中だ。
「あぁ、あれな。食った食った。ブランデー入ってて美味かったぜ」
「え?俺のは普通だったけど。もしかして、それぞれに作ってくれたとか?」
「それっぽいな。いや~、俺たち愛されてんな」
ロイドたち男性陣は朝食の後、キーアにチョコレートを手渡された。
昨晩、彼女を含めた女性陣が楽しげに台所を占領していた。
薄々気が付いてはいたが、いざ貰うとやはり嬉しいものである。
ちなみにティオは、ツァイトにも何か用意していたという話だ。
二人はそんな彼女たちの様子を思い浮かべ、嬉しそうに笑い合う。
「──あっ」
しかし、ロイドはまだ連想中だった。
「今度は何だよ?」
問いかける声に、考え込むような仕草を見せる。
「う~ん。俺、思ったんだけどさ。寄付したチョコ……あれってランディ宛だったりしたのかもなって」
「はぁ?お前、まだ根に持ってんのかよ」
「そうじゃなくて!貰ってたって全然おかしくはないだろ?」
どこか呆れた様子の顔を向けられ、ロイドは声を強めた。
「あり得ねぇな」
「何でそう言い切れるんだよ」
はっきりと否定されるのは面白くない。
「どう見ても義理じゃなかっただろうが」
「……義理だったら貰うのか?」
どうしても噛みつきたくなってしまう。
なんで今の今まで気が付かなかったのだろう。
(こんなに格好良くていい男なのに)
特に今日だったら、誰かに言い寄られていても不思議ではない。
せっかく落ち着いてきていた心の中に、今度は不穏なさざ波が立つ。
「だったら、今日は……」
「やめとけ」
誰かに貰ったのか?と言うとした口が大きな手によって塞がれた。
「──うぅ!?」
「余計なこと考えるんじゃねぇよ」
上目遣いで抗議を露わにすると、存外に真面目な瞳とぶつかった。
「嫉妬なんてらしくないだろ?……何も受け取ってない。相手には悪いけどな」
この感情を的確に表現され、ロイドは目を見開いた。
今日は『帳消し』の件からずっと、どこかがおかしい。
彼と離れたくなくて、独り占めしていたくて堪らない。
自分が自分じゃないみたいだと思った。
「分かったか?」
降り注いだ静かな声に何度か頷いてみせると、ランディは塞いでいた手を退けてくれた。
その動きをどうしても目が追いかけてしまう。
耳元を辿った指先の感触を思い出し、噛み痕に熱がぶり返す。
ロイドは無意識のうちに離れていく手を掴んだ。
心の底に眠っていた独占欲に引っ張られて、唇から言葉が零れ落ちる。
「……今夜、部屋に行っても……いいかな?」
囁くようなそれは水気を含んだ風に紛れ、今にも消え入りそうだった。
断る理由なんてありはしない。
それでもランディの胸中は複雑だった。
「ったく、お前は。『涼みたい』とか言ってた口で、墓穴掘りまくりやがって」
ロイドからのお誘いに喜びつつも、この変貌ぶりでは少し心配にもなってしまう。
この道中、彼を落ち着かせようと気を配っていたが、肝心の相手は掘削作業に忙しないようだ。
「これじゃ、またしばらく帰れないな」
ランディは苦笑しつつ、空いている方の手でロイドの頬を軽く叩いた。
街灯に照らされた顔がやや赤みを帯びている。
「ご、ごめん」
彼は小さな声で謝る姿を愛おしげに見やった後、ふと夜空を見上げた。
そろそろ帰宅の催促を兼ねてエニグマの呼び出し音が鳴りそうな気がする。
もういっそのこと、このままホテルにでも連れ込んでしまいたいと思った。
2021.02.14
#碧畳む
碧・恋人設定
オンオフの切り替えが苦手なロイドと、そんな彼からの愛情表現が欲しいランディとのバレンタイン話です。
【文字数:11000】
普段から特務支援課の面々が団欒を楽しんでいる一階のテーブルだが、今は三人だけが腰を落ち着かせている。
「ふぅ、温まりますね。エリィさん、ありがとうございます」
マグカップを両手で包み、たっぷりと注がれたココアを口にしたティオが息を吐いた。
「今日は肌寒かったものね。あ、でも少し熱すぎたかしら?」
「……問題ありません」
小さな唇を尖らせて息を吹きかけている姿は愛らしく、エリィは優しい微笑を浮かべる。
「ところで、ランディは本当によかったの?まだ作れるわよ?」
ティオと向かい合う形で座っているエリィが、横にいる赤毛の青年に声をかける。
彼女は自分たちの分を作る時に一度声をかけたのだが、その時は遠慮されてしまった。
ランディは面倒くさそうに報告書を作成している。
そんな横で二人揃って一息ついているのも忍びなく、もう一度聞いてみたのだが。
「それなら、これから帰ってくるヤツらに作ってやれよ。俺は酒の方がいいしなぁ」
今度もさり気ない配慮と共に軽くいなされてしまった。
「ランディさん、報告書も仕事の内です」
ティオが睨むとランディは片手をヒラヒラさせて苦笑した。
「はい、はい。分かってるっつーの」
今日の支援要請は小さな案件だが数が多く、人海戦術といった様相だった。
取捨選択は可能だが、やはり依頼された要請は極力こなしたい。
エリィとティオは組んでいたが、他のメンバーは個々に動いていた。
そんなわけで、書類と睨めっこをする性分ではないランディも報告書を書いている。
「誰か俺の代わりに書いてくれねぇかな~」
「もうっ、少しは集中しなさいよ」
彼が普段の言動に反して意外に真面目なことは二人も承知の上で、小言を向けつつも報告書に関しては心配する必要はなかった。
しばらくして、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
帰宅したのは支援課のリーダーであるロイドだった。
「みんな結構早かったんだな。あ、ワジとノエルはまだか」
彼は室内を見回し、現状を把握する。
「お帰りなさい、ロイド」
「あいつら街中だろ?そろそろ帰ってくるんじゃねぇの?」
「ワジさんはついでに遊んでいるかもしれません」
まさしく三者三様な応対をされ、ロイドは小さく笑った。
「そう言えば、帰る前に本部でフランからこれ受け取ったんだけど」
彼はテーブルの側までやって来て、持っていた紙袋をそこに置いた。
「なんか、特務支援課宛てにバレンタインだって」
袋の中身には統一感がなく、個人というよりは複数人の贈り物が詰め込まれているように見える。
きちんと包装されたそれらは、みな色鮮やかで綺麗だった。
「フランは『街の皆さんの感謝の気持ちです』とか言ってたけど」
ロイドは少し困惑顔で説明した。
「あら、それは嬉しいわね」
「チョコレートが食べ放題ということでしょうか?」
エリィとティオは椅子から腰を浮かし、興味深げに紙袋の中を覗き込んだ。
「感謝ねぇ……ちょいとこそばゆい感じだな」
ランディはペン走らせる手を止めて目元を緩めたが、何を思ったのか、ふと真顔になった。
「ちょっと待て。それって支援課と見せかけて実はロイド宛てとか……ありえそうじゃね?」
その言葉に場の空気が一瞬固まった。
「……ありえるわね」
「……可能性大かと」
女性二人のジト目がロイドに向けられた。
「ちょっ、ランディ!?変なこと言うなよ!」
「いやぁ、お前って天然たらしだしさ~」
彼女らの冷たい眼差しに後退ったロイドはランディに抗議したが、彼は頬杖を付きながらニヤニヤとするだけだ。
三対一ではさすがに分が悪い。
「だ・か・ら!フランは支援課の皆さんへって言ってたし!」
ロイドは頭を抱えたくなる思いで叫んだ。
「おやおや、うちのリーダーってば、また何かやらかしたのかい?」
そんな中、再び玄関のドアが開く音がした。
「え、えっと。ただいま戻りました」
涼やかな声の後に生真面目な帰宅の挨拶が続く。
道すがら、偶然居合わせた二人は一緒に帰ってきたのだが、ビルの前まで来た所でロイドの叫び声が聞こえてきた。
そして玄関をくぐってみれば、この状態である。
ロイドは仕事を終えた二人を労いつつも、手短に事の経緯を説明する。
「う、う~ん……ありえそうというか、なんていうか」
「ははっ、フランもはっきり言ってくれれば良いのにね」
彼にしてみれば多勢に無勢を何とかしたい状況だったのだが、どうにも上手くいかない。
「はぁー、何なんだよ……みんなして」
ロイドはふらふらと空いている席に座り、ふて腐れた様子でテーブルに突っ伏してしまった。
「ご愁傷様~」
「誰のせいだと思ってるんだよ」
真向かいで楽しそうにしている相棒に腹が立って、半眼じみた視線を送る。
「それで、これどうするのよ?ロイド」
「普通にみんなで分けてくれよ。俺のだって決まったわけじゃないし」
力の抜けきったリーダーの言葉に、五人は顔を見合わせた。
「なんだか受け取るのは気が引けますね」
ティオがそう呟くと、皆が同時に頷いた。
さて、どうしたものか?と思案する。
「あっ、ねぇ、ワジくん。君は毎年沢山もらってるんでしょ?」
すると、不意にノエルが口を開いた。
「え?あぁ。直接受け取るとキリがないから、トリニティ宛てにしてもらってるけど」
「涼しい顔でモテ自慢するなっつーの。で、結局どうしてるんだよ?」
彼女の意図を察したランディが嫌みを含んで問いかけると、ワジは明快に答えてくれた。
「気持ちだけ受け取っておくって感じかな。どうせ食べきれないなら手を出さない方が公平だしね。だから、スラムの子達にあげたり教会に寄付したりしてるよ」
「教会……それは名案だわ。日曜学校で子供たちに配ってもらえそうね」
エリィが目を輝かせながら感心した様子でワジを見ると、
「まぁ、伊達に教会とつるんでるわけじゃないからね」
彼は皮肉っぽく口角を吊り上げた。
取りあえず、方針は決まったらしい。
特に急を要するわけではないが、明日からはしばらく街の外へ出る案件が続くので、教会に寄る時間が取れそうもなかった。
「だったら、今日中に行った方が良さそうだな」
それを鑑みてランディは席から立ち上がり、未だに潰れているロイドの襟首を掴んだ。
「おい、ロイド。さっさと行ってこようぜ」
「は?なんでランディも行くんだ?」
促されたロイドは仕方なく立ち上がったが、彼の言い回しに疑問符を浮かべた。
「ランディ先輩、報告書を書いてる途中ですよね」
更にノエルが真面目な指摘をする。
「だな。まぁ、息抜きってことで。なんか肩も凝ってきた気もするし」
ランディはそれをあっさりと認め、悪びれる風もなく堂々と言ってのけた。
「そんじゃ、行ってくるぜ~」
「あーっ、もう!引っ張るなってば!」
それから、半ばロイドを引きずるような形で二階の裏口から外へ出て行ってしまった。
「……ほんとに書類仕事が嫌いですよね。ランディさんって」
静かになった部屋の中にティオの声が響く。
「それだけじゃないと思うけどね。まぁ、あの様子じゃ暫く帰ってこないんじゃない?」
「なんで?大聖堂だったら、そんなに時間はかからないと思うけど」
それに応じたワジが意味深げな発言をしたことで、ノエルが不思議そうに小首を傾げた。
「さぁ?なんでだろうね」
わざとらしく遠くに目をやった彼はどこか楽しげだった。
西通りを抜けて住宅街へと出る。
午後の時間帯を大分回り、空も夕刻に近づいてきた。
行き交う人々を目にするゆとりもなく、ロイドは仏頂面の早足で目的地へと向かっている。
「お~い。そろそろ機嫌直せよ~」
少し後ろを付いてくるランディが声をかけるも、応じる気配はない。
「……ああいう時はやたら団結するんだよな、みんなして」
そんな年下の同僚の態度を気にすることもなく、独り言のように吐き出された不満を拾い上げる。
「それだけあいつらに好かれてるってことだろ」
もちろん、そこに悪意など微塵もないことはロイドだって分かっている。
女性陣の視線がやけに冷たい時もあったりするが、大抵はその場の空気は明るい。
ふと、速かったロイドの足取りが緩んだ。
聞き逃してもいいくらいの愚痴に構ってくれるランディの優しさに、少しだけ心が軽くなる。
(……あれ?でも、今のは……)
だが、それがまるで当事者ではないような言葉選びだったと気づき、引っかかりを覚えてしまった。
(『あいつら』って言ったよな?)
彼の胸中が読めなかったが、問いかける言葉を見つけ出せず、ロイドは悶々としながら歩いた。
徐々に人気が少なくなり始め、マインツ山道への入り口までやって来た。
ここからクロスベル大聖堂は目と鼻の先だ。
会話らしい会話をしないままだった道中を過ごし、先にロイドの方が音を上げた。
「──なぁ、さっきの……ランディは?」
立ち止まって振り返る。
不機嫌だったこれまでとは違い、不安げな色が見え隠れしていた。
ランディはわずかに瞠目したが、すぐに言葉の意味を察して意地悪げに笑った。
「あぁ、それな。どっちの俺で言って欲しいの?好かれてるって」
一瞬、何を言っているのかが分からなかった。
「ど、どっちって……え?あっ!?」
ロイドはしばらく頭を回転させた後、ようやくそれに気が付いた。
「今は二人だけだし。ほら、選べよ」
つまりは、同僚なの?恋人なの?と。
ランディにとってこんな線引きはあってないようなもので、そもそも気にする性格ではない。
だが、真面目なロイドはそういうわけにもいかず、リーダーとしての責任感も相まってか、そういった立場の切り替えが面白いくらいに下手だった。
普段はそんな不器用な線引きに付き合ってあげているのが常だ。
しかし、たまにそんな彼の手を引く形で強引に場を作る。
たまには甘えたらどうだ?と言わんばかりに。
「ちょっ……と、待って」
魅力的な誘いを受けたロイドの心がぐらりと揺れた。
「でも……」
けれど、手に持っている紙袋を意識して眉を寄せる。
「支援課宛てだったし……う~ん……」
これを無事に教会へ寄付するまでは仕事なのではないかと、思ってしまった。
「おい。そこ、悩むとこなわけ?」
何やら葛藤している彼の姿が可笑しくて、ランディは思わず吹き出しそうになった。笑い混じりの言葉で遠回しに返事を急かしてみる。
「あ、ごめん。えっと、その……半分ずつとか」
ハッとしたロイドは、定まりきらない胸の内から無理矢理に答えを絞り出した。
それはそれは困ったような顔をして。
──数拍。二人の間に奇妙な空気が流れた。
ランディは予想外な返答に唖然としたが、すぐに気を取り直してロイドの側に歩み寄った。
「はぁ~、お前ってやつは」
大袈裟なくらいの溜息を吐き、癖のある茶髪を捕まえて容赦なく掻き乱す。
「い、痛いって」
武骨で大きな手は荒々しいようでいて、少し優しかった。
思いのほか強い力を受けたロイドが首を竦ませる。
「ここまで不器用すぎると、いっそ笑えるぜ」
ランディは呆れた様子を見せつつも、その中途半端な答えを無下にはしなかった。
彼にとってみれば馬鹿げた葛藤の類いだが、それすら微笑ましいと思えるくらいには惚れている。
「ほら、もう行くぞ」
心なしか元気のない背中を軽く叩き、止まった足を大聖堂へと向かわせる。
渋々と歩き始めたロイドの横に並び、彼を見下ろす両眼が愛おしげに緩んだ。
穏やかに雲が流れる空は、茜色に染まり始めている。
大聖堂に足を踏み入れた二人は、夕空で不思議と温かな色を纏ったステンドグラスに感嘆を漏らした。
「あら、ロイド。久しぶりね」
すると、落ち着きのある女性の声が聞こえてきた。
「マーブル先生。ご無沙汰しています」
ロイドの顔がパッと明るくなり、優しげな風貌のシスターに会釈をした。
ランディもそれに習って軽く挨拶をする。
彼らは日頃から懇意にしている彼女を訪ねる予定だったので、丁度良いタイミングだった。
ロイドが事の一部始終を説明すると、マーブルは静かに微笑んだ。
「まぁ、随分と立派になって」
日曜学校の先生である彼女にとって、教え子の成長や活躍は何より嬉しいものである。
そんな二人の和やかなやり取りを、ランディは黙って見つめていた。
特務支援課の中では茶化していたが、今は無粋というものだ。
何よりも、ロイドの気持ちが浮上していることが分かって安堵した。
マーブルはロイドたちの意向を快く受け入れてくれた。
目的を果たした彼らは大きな扉を開き、荘厳な建物から外へ出る。
空はいよいよ赤みを増していた。
ここを通った時、建物の前で遊んでいた子供たちの元気な声も今は聞こえない。
先を行くランディの背中は夕焼けに染まり、それを見たロイドは急に寂しさが込み上げてきた。
(まだ……一緒にいたいな)
このまま真っ直ぐに帰宅してしまうのが勿体なかった。
さっきまで紙袋で塞がっていた手を見つめ、なんの枷もないことを確認する。
今、悩む理由はどこにもないように思えた。
彼が用意してくれた二人だけの時間はまだ有効だろうか?
「なぁ、ランディ」
ロイドは墓地の方へ向かう道に目をやり、ポケットに手を入れてのんびりと歩く後ろ姿を呼び止めた。
「少しだけ兄貴のとこ寄ってもいいか?」
揺れていた鮮やかな色の長髪がピタリと止まる。
「ははっ、言うと思ったぜ。俺も挨拶の一つくらいはしとこうかねぇ」
振り返ったランディは、予想通りとばかりに破顔した。
これから墓参りというには遅い時間帯になってきた。
案の定、踏み入れた墓地の敷地内に人の気配はない。
草を踏み締める二人の足音だけが、静寂の中で響いた。
今は亡き兄の墓前にやって来たロイドは、静かに目を閉じた。
ここに立つと様々な思い出が一気に頭へ流れ込んでくる。
彼にとっては、その一つ一つが大切な宝物だ。
「……ふふっ」
不意にロイドが小さく笑った。
彼の邪魔をしないようにと、一歩後ろで見守っていたランディが不思議そうな顔をする。
「なんだよ?急に」
「あぁ、今日ってバレンタインだろ?そう言えば、セシル姉が毎年手作りのチョコ作ってたなぁって」
開いた茶色の瞳が懐かしげな様相で墓を見つめている。
「でも、兄貴ってば色んな所を走り回ってたからいつもいなくてさ。当日に渡せてたことなんてほとんどなかったけど、セシル姉は『遅れてもきちんと渡せているから良いのよ』って笑ってた」
その笑顔が記憶の中で鮮明に蘇った。
「セシルさんのチョコとか、羨ましすぎんだろうが。どうせお前も貰ってたんだろ?」
そんな在りし日の思い出に噛みついたランディは、本気で悔しそうにしている。
「いや、俺のはついでだからな!」
ロイドは勢いよく振り返って言い返したが、思いきり肯定する形になってしまった。
「……ったく、これだから弟くんはよぉ」
ランディはブツブツと言いながら頭を掻いていたが、しばらくしてから急に真顔になった。
「──で、お前は俺になんかくれねぇの?」
過去の思い出話から今の自分に話を振られ、ロイドは目を丸くした。
もちろんバレンタインの趣旨は理解しているのだが、やはり女性のものというイメージが強くある。
だから、それに自分が当てはまるとは思っていなかった。
「俺が渡す側になるのか?」
念のために聞いてみると、
「そりゃそうだろ。俺は常日頃からお前に愛情表現しまくってるからな」
ランディは当然とばかりに、恥ずかしげもなく言ってのけた。
「それとも、なに?まだ足りないとか?」
「そんなこと言ってないけど!?」
からかう声音の中に微かな色気を感じ、ロイドは思わず後退った。
「だったらやっぱりお前の方からだな」
こういったやり取りでは、いつもやり込められて退路を塞がれてしまう。
優柔不断な態度を優しく受け止めてくれたかと思えば、今度は強引に我を通そうとする。
いつもの軽妙な言動の内側にある思慮深さとは別に、己の欲に忠実な顔が露わになった。
それはロイドだけが知っている姿で、少なからず優越感を覚える。
『今はどっちなの?』と聞くのが可笑しくなるくらい、彼は恋人の顔を見せてくる。
けれど、こうも軽々と振り回されてしまっている状態は面白くなくて、ついそっぽを向いてしまった。
「全然そんなつもりはなかったから、何も用意してないぞ」
別に意地悪のつもりで言っているわけではなく、本当のことだ。
今の今まで、頭の片隅にもなかった。
「……マジで?はぁ~、俺って愛されてねぇな~」
それを聞いたランディは、脱力してその場にしゃがみ込んでしまった。
「まぁ、お前らしいっつーか……いや、それにしたってもうちょい……こう、さぁ……」
独り言のような小さな声は明らかに沈んでいて、演技などではなく本気で落ち込んでいる。
(そ、そこまでなのか?)
そんなランディの落胆ぶりをロイドは凝視した。
欲しいなら欲しいと前もって言ってくれれば良かったのに。
ついそう言いたくなったが、夕刻に染まる大きな身体がもの悲しげに見えてしまい、口を噤む。
納得はいかないけれど、じわりと罪悪感が滲んできた。
「ごめん。そんなに欲しかったなんて知らなくて」
こうなってくると、もう自分が悪いようにしか思えなくなってくる。
(今からでも何か用意した方がいいのかな?)
この現状にどう対処するべきなのかと、困惑気味な頭をフル回転させる。
ランディはしゃがみ込んだまま、困り顔で一生懸命に思案しているロイドを盗み見た。
なにせ顔に出やすい性格だ。
彼が考えていることの大半は分かってしまう。
(分かってねぇなぁ。俺が欲しいのは『物』じゃないって)
何日も前から強請っていれば、きっと彼は何かしらの贈り物をくれただろう。
けれど、それでは意味がいない。
本当に欲しいのは、ロイドが主体的に向けてくる好意の言動だ。
彼の人となりを思いつつ、望みが薄いのは承知の上で、ほんの少しだけ期待してみたかった。
(まぁ、この場所じゃ不利すぎんだけどな)
無謀なことをしているのは分かっているつもりだ。
低くなっている視界にはロイドの足元があり、その先に彼の兄の墓が入ってくる。
(けど、負け戦はかっこ悪すぎんだろ?)
転んでもタダでは起きない。
茜色が差し込んだ翡翠を模した瞳は不思議な色を放ち、どこか蠱惑的にも見えた。
ランディはロイドを見上げて一つ口を開いた。
「だったら、お前からのキスで帳消しにしてやるよ」
二人だけしかいない墓地の一角で、ロイドがそれを聞き逃すはずもなかった。
からかわれているのかと思って言い返そうとしたが、そこに戯けた表情はなく息が詰まりそうになる。
「あ……の、それは……」
再び後退ろうとしても今度は足を動かせない。すぐ後ろは兄の墓だ。
そもそも、彼には元から選択肢など存在しなかった。
ランディを落ち込ませたのは自分のせいで、全面的に自分の方が悪いのだと思い込んでいるのだから。
「ほんとに帳消しか?」
「そのくらいは信用しろよ。で、どうすんの?」
ロイドが恐る恐る尋ねてみると、あっさりとした返答があった。
どうやら謀るつもりはないらしく、ホッと胸を撫で下ろす。
「…………だったら、やる」
手の平を握りしめ、言葉少なに頷いた顔には羞恥の色が浮かぶ。
「交渉成立だな。ほら、こいよ」
それを見たランディはようやく頬を緩ませ、誘うように手を伸ばした。
(──あぁ、そうか)
そんな彼の嬉しそうな仕草を見た瞬間、ロイドは気が付いてしまった。
今まで一度だって自分からこんな行為をしたことはない。
いつも愛情を与えてもらうばかりで、それが当たり前だと錯覚をしていた。
惜しげもない包容力の裏側で、彼が何を渇望しているのかを知らずに。
(俺……いつもちゃんと伝えてなかった)
ロイドは伸ばされた手を掴み、しゃがみ込んだままでいるランディの前で膝を落とした。
「えっと……さすがに目は閉じてほしいかも」
「はい、はい」
緊張と恥ずかしさを誤魔化すように注文をつけてみたら、どことなく浮かれた声が返ってきた。
それが普段の彼よりも子供っぽく感じられ、珍しい姿に愛おしさが募っていく。
自然と肩の力が抜けて身体が動いた。
一度、唇同士が触れるだけの軽い口付けを贈る。
帳消しの条件ならそれだけでも良かったはずなのに、このまま離れてしまうのが嫌だと思った。
今は想いが止めどなく溢れ出る。
もう一度、今度は遠慮がちに舌を差し入れた。
いつも受け身に回っているせいで、いまいち勝手が分からない。
そんなロイドの行動はランディを驚かせたが、それも一瞬だけだった。
すぐに不器用でたどたどしい愛撫に応える。
手慣れた彼にしてみれば物足りない行為だが、だからといって主導権を握りたいとは微塵も思わなかった。
これはロイドからの愛情表現だ。
到底不利なこの場所で、欲していたものを味わえることに心が高揚する。
ひとしきり舌先を絡ませた後、悩ましげな吐息と共に唇を離したロイドを見つめ、ランディは微笑した。
「なんだよ。てっきりガキみたいなキスで済ますのかと思ってたぜ」
「うっ……そ、そのつもりだったけど」
言葉とは裏腹、彼の目には揶揄の色などはなく、嬉しそうで優しい表情をしている。
「…………したくなった」
そんな眼差しを受け止めきれず、羞恥心が沸騰したロイドは相手の肩口に顔を埋めた。
空は茜色から群青色にさしかかり、耳や首元まで真っ赤なことを誤魔化しようがなかった。
「おいおい、あんまり俺を喜ばせんなよ?」
抑えていないといくらでも口元が緩んでしまいそうになる。
ランディは熱を持った首筋を撫でながら、チラリと墓石の方を見た。
静かに眠るその人物に対して嫉妬がないと言えば嘘になる。
「そんじゃ、ご機嫌ついでにお返しってことで」
指先が耳元を辿り、そこへ唇を寄せた。
思わず身体が跳ねたロイドを無視して、耳の外郭を添うように舌を這わせる。
それはまるで誰かに見せつけているみたいに緩慢な動きだった。
「ラ、ラン……ディ、待っ……」
震える声で制止をかけられ、耳朶に噛み痕を残す。
「──っ!?」
唐突に痛みを受けたロイドは反射的に顔を上げて距離を取ろうとしたが、いつの間にか腰を抱かれていて思うように動けなかった。
「な、何やってんだよ!?」
火照った顔のまま至近距離でランディを睨み付ける。
弄られた耳を手で押さえ、甘く痺れるような痛みを必死に堪えた。
「何って、さっきお前の兄貴に挨拶の一つでもって言っただろ」
動揺を隠しきれない彼に対し、余裕綽々といった風にランディが笑う。
「言ったけど、それとこれとは全然違うし!」
「俺にとっては同じようなもんだ。さて……と。ご挨拶も済んだし、そろそろ行くか」
噛みついてくるロイドを軽くあしらい、立ち上がろうと身体を起こした。
同時に彼の腕を掴んで強引に引き上げる。
ランディはやりたいことをやって満足なのか、あっさりと束縛を解いて先に歩き出してしまった。
「──え?」
急に密着していた温もりが遠退き、喪失感に襲われたロイドは目を瞬かせながらその場に立ち尽くす。
(嫌だ。離れたくない)
一気に強い気持ちが沸き立った
耳朶の噛み痕が燃えるように熱い。
返された愛情に全身が浸食されていくような気がした。
(俺はまだ……側にいたい)
彼は振り返ることのない背中に焦りを覚え、慌てて追いかけようとした。
だが、一瞬だけ足を止めて兄の墓に目を向ける。
「兄貴、また来るからな」
日が落ちて夜の色に染まり始めた大切な故人を背に、ロイドは今度こそ駆け出した。
【おまけSS】
「少し涼みたい」と言ったのはロイドの方だった。
今はこのまま平然と帰れるほどの心境ではなく、まだ多少の時間が欲しかった。
ランディは小さく笑ったが、茶化すことはなく快諾してくれた。
街中をのんびりと歩きながら港湾区へ向かう。
風に当たりたいのなら丁度良い場所だ。
当たり障りのない雑談を主導し、相手が落ち着けるようにと仕向ける。
彼のこういったさり気ない優しさは、流れるように自然だ。
そのお陰か、目的地に着く頃にはロイドも幾分か落ち着きを取り戻していた。
水辺特有の冷たい風が今は心地良い。
ロイドは辺りを見回して小首を傾げた。
「今日は人が多いのかと思ってたけど、そうでもないな」
「そろそろ夕飯時だしな。よろしくやりたいヤツらはもうちょい後だろ」
彼の疑問を察し、ランディはそう応えた。
自分たちのことを意識させないようにと言葉を選びながら。
「あ、そう言えば。キーアたちから貰ったチョコ、食べたか?」
そんな気遣いも露知らず、ロイドは今日の日の話題で連想中だ。
「あぁ、あれな。食った食った。ブランデー入ってて美味かったぜ」
「え?俺のは普通だったけど。もしかして、それぞれに作ってくれたとか?」
「それっぽいな。いや~、俺たち愛されてんな」
ロイドたち男性陣は朝食の後、キーアにチョコレートを手渡された。
昨晩、彼女を含めた女性陣が楽しげに台所を占領していた。
薄々気が付いてはいたが、いざ貰うとやはり嬉しいものである。
ちなみにティオは、ツァイトにも何か用意していたという話だ。
二人はそんな彼女たちの様子を思い浮かべ、嬉しそうに笑い合う。
「──あっ」
しかし、ロイドはまだ連想中だった。
「今度は何だよ?」
問いかける声に、考え込むような仕草を見せる。
「う~ん。俺、思ったんだけどさ。寄付したチョコ……あれってランディ宛だったりしたのかもなって」
「はぁ?お前、まだ根に持ってんのかよ」
「そうじゃなくて!貰ってたって全然おかしくはないだろ?」
どこか呆れた様子の顔を向けられ、ロイドは声を強めた。
「あり得ねぇな」
「何でそう言い切れるんだよ」
はっきりと否定されるのは面白くない。
「どう見ても義理じゃなかっただろうが」
「……義理だったら貰うのか?」
どうしても噛みつきたくなってしまう。
なんで今の今まで気が付かなかったのだろう。
(こんなに格好良くていい男なのに)
特に今日だったら、誰かに言い寄られていても不思議ではない。
せっかく落ち着いてきていた心の中に、今度は不穏なさざ波が立つ。
「だったら、今日は……」
「やめとけ」
誰かに貰ったのか?と言うとした口が大きな手によって塞がれた。
「──うぅ!?」
「余計なこと考えるんじゃねぇよ」
上目遣いで抗議を露わにすると、存外に真面目な瞳とぶつかった。
「嫉妬なんてらしくないだろ?……何も受け取ってない。相手には悪いけどな」
この感情を的確に表現され、ロイドは目を見開いた。
今日は『帳消し』の件からずっと、どこかがおかしい。
彼と離れたくなくて、独り占めしていたくて堪らない。
自分が自分じゃないみたいだと思った。
「分かったか?」
降り注いだ静かな声に何度か頷いてみせると、ランディは塞いでいた手を退けてくれた。
その動きをどうしても目が追いかけてしまう。
耳元を辿った指先の感触を思い出し、噛み痕に熱がぶり返す。
ロイドは無意識のうちに離れていく手を掴んだ。
心の底に眠っていた独占欲に引っ張られて、唇から言葉が零れ落ちる。
「……今夜、部屋に行っても……いいかな?」
囁くようなそれは水気を含んだ風に紛れ、今にも消え入りそうだった。
断る理由なんてありはしない。
それでもランディの胸中は複雑だった。
「ったく、お前は。『涼みたい』とか言ってた口で、墓穴掘りまくりやがって」
ロイドからのお誘いに喜びつつも、この変貌ぶりでは少し心配にもなってしまう。
この道中、彼を落ち着かせようと気を配っていたが、肝心の相手は掘削作業に忙しないようだ。
「これじゃ、またしばらく帰れないな」
ランディは苦笑しつつ、空いている方の手でロイドの頬を軽く叩いた。
街灯に照らされた顔がやや赤みを帯びている。
「ご、ごめん」
彼は小さな声で謝る姿を愛おしげに見やった後、ふと夜空を見上げた。
そろそろ帰宅の催促を兼ねてエニグマの呼び出し音が鳴りそうな気がする。
もういっそのこと、このままホテルにでも連れ込んでしまいたいと思った。
2021.02.14
#碧畳む
2020年11月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
眠りの特効薬は誰のため?
恋人設定
マインツで一晩を過ごす二人の話。眠りの浅いランディを心配しつつも天然なロイドです。
【文字数:3600】
町に戻った頃には夕暮れの空だった。
ロイドたちはマインツ方面の支援要請を数件を受け、それらをこなしていた。
特に困難な内容ではなかったが、山道を歩き回ったり魔獣退治をしたりと、体力を使ったのは確かだ。
町長に報告をしに行った際、彼はロイドたちの身体を気遣い、ここで一泊することを勧めてくれた。
夕食後の穏やかな一時。
ロイドが部屋に入ると、赤毛の同僚がベッドの上で武器の手入れをしていた。
「なんだ、やっぱり払ってきたのか?」
「さすがにタダで宿泊するのはどうかと思ってさ」
「そうかぁ?うちのリーダーは真面目だねぇ」
申し訳なさそうな顔をするロイドを見て、ランディは肩を竦めてみせる。
マインツの町長は無償で一晩の宿を提供してくれた。
最初はその好意をありがたく受け取ったロイドだったのだが、その性格ゆえか次第に気になってしまったようだった。
もしかしたら、夕食の最中も色々と葛藤していたのかもしれない。
「──ふぅ」
ロイドは小さな息を漏らしながら空いているベッドへ腰を下ろした。
「疲れてんなら、さっさと寝ろよ?」
ベッドは横に二つ並んでいて、自ずと彼らは向かい合う状態になる。
ランディは作業の手を止めて少し心配げに目を細めた。
「え?あぁ、別にそこまでってわけじゃない。俺よりエリィとティオの方が疲れるだろうしな」
思わぬ優しさに一瞬驚いたロイドだったが、すぐに壁へ視線を向けた。
隣の部屋は女性陣に割り振られている。
山道を歩き回ったせいできっと疲労も溜まっているだろうし、すでに寝入っているかもしれなかった。
「ま、俺らの方がへばってたら情けなさすぎだろ」
「それは確かに」
彼女たちより体力的に劣るのは、さすがに恥ずかしい。
就寝前にちょっとした矜持を共有する二人だった。
町全体が寝静まっている真夜中、ロイドはふと目を覚ましてしまった。
(──あれ?)
まだ就寝してから数時間も経っていない。
いつも朝までぐっすり寝入っている彼にしてみれば、珍しいことだ。
しばらく天井を見つめた後、ゆっくりと上半身を起こして辺りの様子を確認する。
隣のベッドで眠っている同僚に目をやり、密かに頬を緩ませた。
ここしばらくは忙しかったせいもあって、彼の寝顔を見るのも久しぶりだ。
このまま見つめていたいという欲求に駆られたが、明日のことを考えれば早々に寝直すべきだろう。
そんな風に思いながら渋々と毛布の中に潜り込もうとすると、
「……なんだ、見てただけ?」
眠っているはずの青年の声が聞こえてきた。
「ラ、ランディ!?」
ロイドは心臓が飛び出るくらい驚いた。
声と同時に勢いよく身体を起こす。
辛うじて相手の名前を発したが、それ以上は言葉にならなかった。
薄暗い中で隣のベッドに顔を向けると、寝ぼけているようには見えない両眼が可笑しげに笑っていた。
「お、起きて……って、あ、起こしちゃったか?」
「いや~、お前の熱い視線を感じちゃってさぁ」
忙しない胸の鼓動を抑えながらロイドが口を開くと、向こう側から軟派な応答が返ってくる。
ランディは身体を横たえたまま、片肘をついて僅かに上げた頭を支えていた。
寝乱れた赤い髪のせいでどこか気怠げな様子にも見える。
「言っとくけど、熱くもなんともないからな」
暗い部屋に感化されて一瞬ドキリとしたロイドだったが、すぐに口元を引き締めて取り繕った。
それよりも、やはり相手の睡眠を妨げてしまったのだという思いが先に立ち、申し訳なさそうな顔をする。
「ごめん。やっぱり起こしちゃったみたいだな」
「あのなぁ、そんなの今更だろうが。俺の眠りが浅いってのは知ってるだろ?」
「それはそうだけど……」
ランディは気にも留めていなかったが、ロイドの方は口籠もりながら視線をさまよわせてしまう。
元々、この赤毛の青年は熟睡することの方が珍しかった。
長年の猟兵生活の中、浅く短時間の睡眠でも効率的に疲労を軽減できる体質になっている。
そして、眠っている最中でさえ周囲の気配には敏感だ。
苛烈な戦場に身を置いていれば、例え休息中であっても油断はできない。
隙を見せて寝首を掻かれてからでは遅いのだ。
そんな血生臭い場所を離れた今でも、そこで染み付いたものが消えることはなかった。
きっと死ぬまで一生つきまとうのだろう。
(ま、別に大したことじゃねぇよな)
そのことに対して、ランディは特別に暗い感情を宿しているわけではなかった。
今まではそれが普通だったし、特に困ってもいない。
だから、ロイドがそこまで気にしていることが不思議だった。
「それがランディの当たり前なのは分かってるよ。けど、少しでも安心して眠って欲しいから」
二人きりの夜の中で優しい声が響く。
ロイドの言葉はいつだって何の淀みもなく、偽りもない。
その温かい心根はもちろん嬉しかったが、同時にどう反応するべきなのかとランディは悩んだ。
彼自身が睡眠について無頓着なせいもあり、なかなか上手い言葉が探し出せないのも仕方がなかった。
「あー、ごめん。やっぱり今のは独り言」
その沈黙に相手の心情を察したのか、ロイドは一度頭を振った。
自分の気持ちを押し付けてしまっていたことに気づき、後悔の念がよぎる。
「ほんと……ごめん」
今夜は謝罪の言葉ばかりが口から零れ落ちる。
居たたまれなくなった彼は、ベッドに身体を戻して毛布の中に潜り込んでしまった。
「お前なぁ、気にしてくれてんのに謝る必要ないだろうが」
ランディは落ち込んでいる相手を浮上させようとするが、応答はない。
それどころか背中を向けられてしまった。
「ロイド~。お前がそんなだと、お兄さん寂しくて余計に眠れなくなるんだけど」
今度は少し軽い調子で言ってみる。
丸まった身体がピクリと動いた。
「明日、俺が起きれなかったらお前のせいな」
「え!?」
追撃してみると、ロイドが毛布を蹴りながら飛び起きた。
「なんなら一緒に寝る?俺的には癒やし効果抜群だから、安心して眠れるかもな~」
更にとどめとばかりに笑いながら冗談を振りまいてみる。
それを聞いたロイドは大きく目を見開いた。
「それ、ほんとか?」
ランディは本当に冗談のつもりだった。
ふざけてそう言えば、ロイドは怒るかあるいは呆れてさっさと寝てしまうだろうと予想していた。
その方が沈んだままよりもはるかにマシだと思った。
だが、
「だったら一緒に寝る」
どうやらロイドは『安心して』という言葉に食い付いてしまったらしい。
嬉しそうな顔で枕を抱えながら隣のベッドへ歩み寄り、躊躇なく乗りかかってきた。
「お、おい……マジかよ」
ランディが困惑している中、彼の身体を押し退けながら強引に毛布の中へ潜り込む。
「あははっ、温かいな!」
一人用のベッドに成人男性が二人ではさすがに狭すぎるし、寝返りも打てないくらいの密着状態になってしまった。
けれど、ロイドは上機嫌でランディの肩口に顔をすり寄せた。
「はぁ~、俺としたことが見誤ったぜ」
今さら冗談だったなんて言えず、ここまでされては追い出す気にもならない。
それでも触れた体温が心地良いと感じるあたり、身体は正直だとランディは自嘲した。
二人でベッドに入ること自体は珍しくもない間柄だが、今夜は仕事の延長でもあるし、そんなつもりはなかった。
「なぁ、ランディ。ちゃんと眠れそうか?」
暗がりの中、心配げな茶色の瞳とぶつかって僅かに体温が上昇するのを感じる。
「あぁ、そうだな。ってか、お前もさっさと寝とけよ」
ロイドはただ純粋に心配してくれているだけなのに、あらぬ方向へを意識が逸れてしまいそうになる。
ランディはそれ振り切ろうと、わざとぶっきらぼうな返答をした。
それから数分も経たない内に隣から規則正しい寝息が聞こえてきた。
首を横にして至近距離の寝顔に目をやり、苦笑する。
「安心しきった顔しやがって。お前がそっち側になってどうすんだよ?」
人の心配をしていたくせに、いつの間にか安眠を確保しているロイドは案外ちゃっかりしている。
ランディはしばらくロイドの寝顔を見つめた後、無機質な天井に視界を投げた。
「こんなんで寝ろとか……苦行すぎんだろ」
片腕で顔を覆いながら大きな溜息を吐く。
ロイドが何の疑いもなく心身を委ねてくれていることに嬉しさが募った。
触れた部分から感じる温もりだけでは物足りなくて、抱き締めてしまいたくなる。
「あー、もう抱き枕にしてぇ……」
この日、ランディは理性と欲情の狭間で悶々とする夜を過ごす羽目になってしまった。
だらしなく欠伸をしているランディを見たティオが小首を傾げた。
「ランディさん、眠れなかったんですか?」
「あら、大丈夫なの?」
それが気になったのか、エリィも話に加わってくる。
「別に問題ねぇぞ。まぁ、ちょいとばかし寝付けなかったけどな」
ランディは心配げにしている二人にそう答えたが、内心では愚痴の一つも言いたい気分だった。
少し離れた場所で町長と話し込んでいるロイドは、やたらと爽やかな表情をしている。
(あいつめ、朝までぐっすり眠りやがって……)
そんな彼とは対照的で、ランディはかったるそうに頭を掻いた。
一睡もできなかったわけではないが、眠り損ねたことには変わりなく、朝日がやけに眩しく感じられた。
2020.11.19
畳む
恋人設定
マインツで一晩を過ごす二人の話。眠りの浅いランディを心配しつつも天然なロイドです。
【文字数:3600】
町に戻った頃には夕暮れの空だった。
ロイドたちはマインツ方面の支援要請を数件を受け、それらをこなしていた。
特に困難な内容ではなかったが、山道を歩き回ったり魔獣退治をしたりと、体力を使ったのは確かだ。
町長に報告をしに行った際、彼はロイドたちの身体を気遣い、ここで一泊することを勧めてくれた。
夕食後の穏やかな一時。
ロイドが部屋に入ると、赤毛の同僚がベッドの上で武器の手入れをしていた。
「なんだ、やっぱり払ってきたのか?」
「さすがにタダで宿泊するのはどうかと思ってさ」
「そうかぁ?うちのリーダーは真面目だねぇ」
申し訳なさそうな顔をするロイドを見て、ランディは肩を竦めてみせる。
マインツの町長は無償で一晩の宿を提供してくれた。
最初はその好意をありがたく受け取ったロイドだったのだが、その性格ゆえか次第に気になってしまったようだった。
もしかしたら、夕食の最中も色々と葛藤していたのかもしれない。
「──ふぅ」
ロイドは小さな息を漏らしながら空いているベッドへ腰を下ろした。
「疲れてんなら、さっさと寝ろよ?」
ベッドは横に二つ並んでいて、自ずと彼らは向かい合う状態になる。
ランディは作業の手を止めて少し心配げに目を細めた。
「え?あぁ、別にそこまでってわけじゃない。俺よりエリィとティオの方が疲れるだろうしな」
思わぬ優しさに一瞬驚いたロイドだったが、すぐに壁へ視線を向けた。
隣の部屋は女性陣に割り振られている。
山道を歩き回ったせいできっと疲労も溜まっているだろうし、すでに寝入っているかもしれなかった。
「ま、俺らの方がへばってたら情けなさすぎだろ」
「それは確かに」
彼女たちより体力的に劣るのは、さすがに恥ずかしい。
就寝前にちょっとした矜持を共有する二人だった。
町全体が寝静まっている真夜中、ロイドはふと目を覚ましてしまった。
(──あれ?)
まだ就寝してから数時間も経っていない。
いつも朝までぐっすり寝入っている彼にしてみれば、珍しいことだ。
しばらく天井を見つめた後、ゆっくりと上半身を起こして辺りの様子を確認する。
隣のベッドで眠っている同僚に目をやり、密かに頬を緩ませた。
ここしばらくは忙しかったせいもあって、彼の寝顔を見るのも久しぶりだ。
このまま見つめていたいという欲求に駆られたが、明日のことを考えれば早々に寝直すべきだろう。
そんな風に思いながら渋々と毛布の中に潜り込もうとすると、
「……なんだ、見てただけ?」
眠っているはずの青年の声が聞こえてきた。
「ラ、ランディ!?」
ロイドは心臓が飛び出るくらい驚いた。
声と同時に勢いよく身体を起こす。
辛うじて相手の名前を発したが、それ以上は言葉にならなかった。
薄暗い中で隣のベッドに顔を向けると、寝ぼけているようには見えない両眼が可笑しげに笑っていた。
「お、起きて……って、あ、起こしちゃったか?」
「いや~、お前の熱い視線を感じちゃってさぁ」
忙しない胸の鼓動を抑えながらロイドが口を開くと、向こう側から軟派な応答が返ってくる。
ランディは身体を横たえたまま、片肘をついて僅かに上げた頭を支えていた。
寝乱れた赤い髪のせいでどこか気怠げな様子にも見える。
「言っとくけど、熱くもなんともないからな」
暗い部屋に感化されて一瞬ドキリとしたロイドだったが、すぐに口元を引き締めて取り繕った。
それよりも、やはり相手の睡眠を妨げてしまったのだという思いが先に立ち、申し訳なさそうな顔をする。
「ごめん。やっぱり起こしちゃったみたいだな」
「あのなぁ、そんなの今更だろうが。俺の眠りが浅いってのは知ってるだろ?」
「それはそうだけど……」
ランディは気にも留めていなかったが、ロイドの方は口籠もりながら視線をさまよわせてしまう。
元々、この赤毛の青年は熟睡することの方が珍しかった。
長年の猟兵生活の中、浅く短時間の睡眠でも効率的に疲労を軽減できる体質になっている。
そして、眠っている最中でさえ周囲の気配には敏感だ。
苛烈な戦場に身を置いていれば、例え休息中であっても油断はできない。
隙を見せて寝首を掻かれてからでは遅いのだ。
そんな血生臭い場所を離れた今でも、そこで染み付いたものが消えることはなかった。
きっと死ぬまで一生つきまとうのだろう。
(ま、別に大したことじゃねぇよな)
そのことに対して、ランディは特別に暗い感情を宿しているわけではなかった。
今まではそれが普通だったし、特に困ってもいない。
だから、ロイドがそこまで気にしていることが不思議だった。
「それがランディの当たり前なのは分かってるよ。けど、少しでも安心して眠って欲しいから」
二人きりの夜の中で優しい声が響く。
ロイドの言葉はいつだって何の淀みもなく、偽りもない。
その温かい心根はもちろん嬉しかったが、同時にどう反応するべきなのかとランディは悩んだ。
彼自身が睡眠について無頓着なせいもあり、なかなか上手い言葉が探し出せないのも仕方がなかった。
「あー、ごめん。やっぱり今のは独り言」
その沈黙に相手の心情を察したのか、ロイドは一度頭を振った。
自分の気持ちを押し付けてしまっていたことに気づき、後悔の念がよぎる。
「ほんと……ごめん」
今夜は謝罪の言葉ばかりが口から零れ落ちる。
居たたまれなくなった彼は、ベッドに身体を戻して毛布の中に潜り込んでしまった。
「お前なぁ、気にしてくれてんのに謝る必要ないだろうが」
ランディは落ち込んでいる相手を浮上させようとするが、応答はない。
それどころか背中を向けられてしまった。
「ロイド~。お前がそんなだと、お兄さん寂しくて余計に眠れなくなるんだけど」
今度は少し軽い調子で言ってみる。
丸まった身体がピクリと動いた。
「明日、俺が起きれなかったらお前のせいな」
「え!?」
追撃してみると、ロイドが毛布を蹴りながら飛び起きた。
「なんなら一緒に寝る?俺的には癒やし効果抜群だから、安心して眠れるかもな~」
更にとどめとばかりに笑いながら冗談を振りまいてみる。
それを聞いたロイドは大きく目を見開いた。
「それ、ほんとか?」
ランディは本当に冗談のつもりだった。
ふざけてそう言えば、ロイドは怒るかあるいは呆れてさっさと寝てしまうだろうと予想していた。
その方が沈んだままよりもはるかにマシだと思った。
だが、
「だったら一緒に寝る」
どうやらロイドは『安心して』という言葉に食い付いてしまったらしい。
嬉しそうな顔で枕を抱えながら隣のベッドへ歩み寄り、躊躇なく乗りかかってきた。
「お、おい……マジかよ」
ランディが困惑している中、彼の身体を押し退けながら強引に毛布の中へ潜り込む。
「あははっ、温かいな!」
一人用のベッドに成人男性が二人ではさすがに狭すぎるし、寝返りも打てないくらいの密着状態になってしまった。
けれど、ロイドは上機嫌でランディの肩口に顔をすり寄せた。
「はぁ~、俺としたことが見誤ったぜ」
今さら冗談だったなんて言えず、ここまでされては追い出す気にもならない。
それでも触れた体温が心地良いと感じるあたり、身体は正直だとランディは自嘲した。
二人でベッドに入ること自体は珍しくもない間柄だが、今夜は仕事の延長でもあるし、そんなつもりはなかった。
「なぁ、ランディ。ちゃんと眠れそうか?」
暗がりの中、心配げな茶色の瞳とぶつかって僅かに体温が上昇するのを感じる。
「あぁ、そうだな。ってか、お前もさっさと寝とけよ」
ロイドはただ純粋に心配してくれているだけなのに、あらぬ方向へを意識が逸れてしまいそうになる。
ランディはそれ振り切ろうと、わざとぶっきらぼうな返答をした。
それから数分も経たない内に隣から規則正しい寝息が聞こえてきた。
首を横にして至近距離の寝顔に目をやり、苦笑する。
「安心しきった顔しやがって。お前がそっち側になってどうすんだよ?」
人の心配をしていたくせに、いつの間にか安眠を確保しているロイドは案外ちゃっかりしている。
ランディはしばらくロイドの寝顔を見つめた後、無機質な天井に視界を投げた。
「こんなんで寝ろとか……苦行すぎんだろ」
片腕で顔を覆いながら大きな溜息を吐く。
ロイドが何の疑いもなく心身を委ねてくれていることに嬉しさが募った。
触れた部分から感じる温もりだけでは物足りなくて、抱き締めてしまいたくなる。
「あー、もう抱き枕にしてぇ……」
この日、ランディは理性と欲情の狭間で悶々とする夜を過ごす羽目になってしまった。
だらしなく欠伸をしているランディを見たティオが小首を傾げた。
「ランディさん、眠れなかったんですか?」
「あら、大丈夫なの?」
それが気になったのか、エリィも話に加わってくる。
「別に問題ねぇぞ。まぁ、ちょいとばかし寝付けなかったけどな」
ランディは心配げにしている二人にそう答えたが、内心では愚痴の一つも言いたい気分だった。
少し離れた場所で町長と話し込んでいるロイドは、やたらと爽やかな表情をしている。
(あいつめ、朝までぐっすり眠りやがって……)
そんな彼とは対照的で、ランディはかったるそうに頭を掻いた。
一睡もできなかったわけではないが、眠り損ねたことには変わりなく、朝日がやけに眩しく感じられた。
2020.11.19
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創→碧(回想)→創・恋人設定
ロイドの成長を見守り認めながらも年上ぶりたいランディの話。
【文字数:10000】
下の階にはすでに人の気配がある。
先ほど隣の部屋から扉が開く音が聞こえたので、ロイドで間違いないだろう。
次に三階から降りてくる女性の足音が二つ。微かに楽しげな話し声が聞こえてくる。
「あ~、なんかいまいちなんだよなぁ~」
建物の中に同僚たちの動きを感じ取りながら、ランディは自室で独りごちた。
クローゼットを開けたまま、扉の内側に設置されている姿見と睨めっこをしている。
後ろで一纏めにしている長髪を解いて頭を一振りした。
周りから見ればいつも通りで特に問題はない姿だったのだが、どうやら本人は結び方が気に入らないようだ。具体的にどこがというよりも感覚的な問題なのかもしれない。
そうこうしている内に、一階からは賑やかなやり取りが聞こえ始めていた。
「やべぇ……あいつにどやされる」
特務支援課のリーダーは真面目な性格である。
皆が集合しているのを知りつつ、のんびりと身支度でもしていようものなら、小言の一つでも言われかねない。
更にはエリィとティオからの追撃も想像できた。
ランディは結び方への拘りを諦めて素早く髪を纏め直す。
ロイドだけであれば軽く受け流すのだが、彼女らを敵に回すのはちょっと怖い。
「仕方ねぇな。これで行くか」
彼が女性陣に頭が上がらないのは、支援課の結成当初から変わらない。
慣れた手つきで愛用のスタンハルバードを持ち出し、ようやく自室から出て行った。
少しだけ急ぐ振りをしながら階段を降り、愛想笑いを浮かべて年下の同僚たちを見回す。
「悪ぃ、悪ぃ、待たせたな」
軽い調子で声をかけると、テーブルの脇に集まっていた三人が一斉にランディの方を向いた。
「遅いわよ、ランディ」
彼の予想に反して最初に咎めてきたのはエリィで、腕組みをしながら小さなため息を吐く。
「なかなかビシッと決まらなくてよぉ~」
それをヘラヘラとかわす横で、ティオがロイドに声をかけた。
「ロイドさん、あれは遅すぎなランディさんに持たせては?」
「でも、課長から頼まれたのは俺だしな~」
「真面目すぎです。今日の前半は一緒の任務ですし、こき使ってしまえばいいのではないかと」
二人の会話はランディの耳にも届いたが、内容がさっぱり分からない。
「なぁ、お嬢。あいつらの会話が不穏なんだけど?」
「ロイドが課長から雑用を頼まれているのよ。書類の入った段ボールを警察署に持って行って欲しいらしいわ。確か……二箱だったかしら?」
すると、エリィが説明をしてくれた。
「そうだな。まだあっちの部屋に置いてあるんだけど」
続けてロイドが肩を竦めながら課長の部屋に視線を向ける。
「はぁ?こっちも忙しいんだから、そのくらい自分で持ってけよ」
「それについては同感です」
ランディはあからさまに不満げな反応を示し、語尾を待たずにティオが頷いた。
「まぁ、まぁ。そんなに大した量じゃないしさ」
支援課のリーダーはそんな同僚たちを宥め、ふと壁の時計に目をやった。
今日は特に時間を定めているわけではないが、そろそろ頃合いだろう。
「それより、もう出た方が良さそうだな。二人は先に行ってくれ。こっちは書類の件もあるし」
「そうね。そちらはお願いするわ。ティオちゃん、行きましょう」
「はい、久しぶりに一緒ですね」
午前中の支援要請はそれぞれ二組に分かれて処理をする予定だ。
午後は単独行動になってしまうが、それでも二人はどこか嬉しそうな足取りで外へ出て行った。
「──で、俺はこき使われればいいのか?」
彼女らを見送った後、ランディは冗談交じりで問いかけた。
ロイドは外出前にもう一度今日の予定を確認しておこうと、端末を操作している。
「う~ん」
返事はすぐに返ってこなかった。
小さく唸りながら数々の要請が並ぶ画面を見つめている。
「どうした?」
何か問題でもあるのかと、彼の側に近寄って横から顔を覗き込む。
「……たまにはみんな一緒がいいな」
ロイドが独り言のように呟いた。
クロスベル再独立後の目まぐるしい日々も徐々に薄れつつあるが、特務支援課に寄せられる案件は後を絶たない。
近頃は個々に動いているのが常で、今日のような体制の方が珍しいくらいだった。
「なんだよ、急に。寂しくなっちまったのか?」
その横顔が幼い子供のように見え、からかう気が削がれてしまったランディの双眸は柔らかい。
「前は……ずっとみんなでクロスベル中を走り回ってたな~と思って」
教団の事件からこの方、数々の支援要請を一緒にこなしてきた。
互いに不足している部分を補い合い、地道に一歩ずつ経験を積み重ねて今に至る。
立ち塞がる大きな壁に足掻き続けた年月の中、ふと周りを見れば、そこにはいつだって仲間たちの姿があった。
「だな。懐かしむほど年数が経ってるわけじゃねぇのに、随分と昔のことみたいに感じるぜ」
ランディは静かにそう言った後、画面から視線を外そうとしない同僚の頭を軽く掻き混ぜた。
「まぁ、あれだ。今はそれなりに成長したってことだろ?それぞれ単独でも任せられるくらいには」
適材適所と言ってしまえばそれまでだ。
けれど、そんな一言では表せない感慨とほんの少しの寂しさが入り交じる。
言葉の端に滲み出る感情はロイドにも伝わり、彼はようやく端末の電源を落として画面に背を向けた。
「そうだよな。なんか……ごめん。これから仕事だっていうのに」
「気にすんなよ。ほら、今日も元気にお勤めといこうぜ」
湿っぽい言動を謝る背中を一つ叩き、ランディはニカッと笑った。
そして、スタンハルバードをテーブルの上に横たえ、課長の部屋に足を向ける。
「あ、ランディ。書類は俺が持っていくから」
「いや、ティオすけのご指名だしな。あと、リーダーを寂しがらせたお詫びってやつ?」
引き留めようとして追いかけてくるロイドを制しながら、茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる。
「うっ……」
案の定、彼は言葉に詰まり足を止めた。
その隙に素早く目的の物を持ったランディが戻ってくる。
「意外にかさばるな、これ」
書類が詰まった箱を上下に重ね、それを両手で抱えている。高さは顎の辺りで収まっているので、このまま歩く分には問題なさそうだ。
「やっぱり俺も持つよ。一個ずつで丁度いいだろ?」
「俺的には丁度よくねぇな。ここはお兄さんに任せておけよ」
ロイドは慌てて駆け寄ったが、彼にはまるで譲る気がないようだ。
納得がいかないとばかりに抗議の視線を送ると、
「代わりに、それ持ってくれるとありがたいんだけど」
ランディはテーブルの上に置いた愛用の武器に意識を寄せた。
「それって……俺が持っていいのか?」
予想外な提案を受け、茶色の瞳が大きく見開いた。
両手が塞がっている無防備な状態で自分の武器を預けることは、余程の信頼関係がないと成り立たないはずだ。
特にランディは猟兵として戦場に身を置いていた過去があり、気紛れに少し触らせてもらうのとはわけが違う。
「当たり前だろ。お前は自慢の相棒だからな」
そわそわとテーブルの前をうろついている姿が笑いを誘い、肩を震わせて堪えたランディが強い一押しを放った。
それを聞いた途端に表情が輝き、嬉しそうな声が部屋中に響き渡る。
「分かった。それじゃ、警察署まで預からせてもらうな!」
ロイドは上機嫌で長い柄の部分を掴み、片手で軽々と持ち上げた。
それから大切な物を扱うかのようにしっかりと胸元に引き寄せる。
(──こいつは)
その一連の動作を見たランディは、密かに目を見張った。
あれは一般的な規格から外れている特別仕様の武器だ。
通常の物より重量があり全身も長いので、扱うには相当の筋力がいる。
「ランディ、そろそろ出るぞ?」
なぜか黙って見つめてくる年長の相棒に、ロイドは不思議そうな顔をした。
立ち止まったままの彼の横をすり抜け、先に玄関の方へ向かう。
「あぁ、そうだな」
その後ろ姿が以前よりもずっと大きくなっているような気がした。
(ははっ、なんだよ。あの頃は悔しがってたくせにな)
ロイドが過去を懐かしんだことに感化されてしまったのだろうか。
ランディは自慢の相棒が肉体的にも成長している事実を喜びつつも、まだ発展途上だった頃の彼を思い出し、静かに目を細めた。
同僚たちが空き時間を利用して鍛錬をしていること自体は珍しくはない。
とは言っても、率先してやりたがる面子は限られるのだが。
僅かに地面が震動して土煙が上がった。
同じ武器を扱うにしても、やはり動き方には差異がある。
赤毛の男は一振りの威力が大きく、攻撃範囲を広い。
ピンクブラウンの髪をした女は力こそ劣るが、身軽で手数が多い。
「基本的にはパワー重視な武器だけど、戦闘スタイルも色々だな」
警備隊の先輩と後輩の間柄である二人の攻防は、鍛錬と言えどもなかなかに見応えがある。
ロイドは腕組みをしながら、熱心に彼らの動作を目で追っていた。
ひとしきり激しい攻撃の応酬が続いた後、互いに間を取り数拍。
「あれ、ロイドさん?」
最初に見学者の存在に気が付いたのはノエルだった。
「おっ、なんだよ。いるなら声かけろって」
二人は構えを解き、それまでの緊張感が一気に緩和する。
「あのなぁ……無茶言うなよ」
街中で偶然会ったかのような軽い調子の彼に、ロイドは思わず脱力する。
毎度のことながら、武器を振るっている時とそれ以外の時の落差が激しい同僚だ。
「それより、俺のことは気にしないで続けてくれよ」
しかし、自分の存在が鍛錬に水を差してしまった感は否めず、すぐにそう言った。
「あー、いいって。大分揉んでやったしなぁ。そろそろお開きにしようぜ、ノエル」
「はい。随分と時間を割いて頂きましたし。ランディ先輩、ありがとうございました」
二人はこれ以上鍛錬を続ける気はないようで、ノエルが真面目に一礼をして事の終わりを告げる。
「いや~、来てくれて助かったぜ。ノエルが容赦ねぇから、もうヘトヘトでよぉ」
赤毛の青年は後輩と共にロイドに歩み寄りながら、わざとらしく戯けてみせる。
ノエルもその意図に気づき、微笑しながら話を合わせた。
彼らのリーダーは非常に分かりやすく、今は顔中に申し訳なさが滲み出ている。
「こいつが『俺も混ざりたい』とか言ってきたらどうしようかと……」
「あ、でも、それは良いですね。今度は是非三人でお願いしたいです」
「おいおい、勘弁しろって」
そんなやり取りを黙って聞いていたロイドの頬がふっと緩んだ。
どうやら気を遣われてしまったらしい。
改めて二人を眺めると、それぞれにスタンハルバードを手にしている姿は勇壮で頼もしい。だが、やはりノエルの方には物珍しさがあった。
「今まであんまり見る機会がなかったけど、さすが警備隊だな」
「ふふっ、こちらも隊員の標準装備ですからね。最近は先輩と合わせる機会も増えたので、後れを取らないようにしないと」
「お前、結構パワー系だよなぁ。長物メインでも遜色ないだろうよ」
武器のことに始まり警備隊の鍛錬の内容など、三人で和やかに会話を重ねる中、ノエルは何かに思い当たり声を上げた。
「あれ、そう言えばロイドさんもスタンハルバード扱えるんですよね?」
「あぁ、警察学校で一通りの武器は触ってるしな。う~ん、でもわりと苦労した記憶が……」
ロイドは当時のことを思い出したのか、眉を寄せて遠くに目をやった。
「身体ごと突っ込みたいロイドくんには、相性悪かったんじゃないの~?」
そこへ、すかさずランディが横から茶化してくる。
「人を脳筋みたいに言うな!」
直情的にニヤけ顔の同僚を睨み付け、すぐに手が動いた。
「それ、ちょっと貸せよ。基礎ぐらいできてる」
ロイドは憤然としつつ、強引にランディからスタンハルバードを引ったくった。
「あっ、ロイドさんそれ、先輩仕様で重量が……」
ノエルの声と同時にずしりとした重みがのしかかる。
(うっ、意外と重い)
持ち運びに支障はない。たぶん、短時間であれば実戦を想定した動きもできるだろう。
だが、彼が愛用しているトンファーのように、常に身体の一部にして軽々と扱えるかというのはまた別の話だ。
ロイドは自分の身体能力と武器の重量を摺り合わせ、唇を噛む。
「あの、やっぱり重い……ですよね?」
頭の中で自己分析をして無言になっている青年を、ノエルが遠慮がちに覗き込んだ。
「こいつはそこまでヤワじゃねぇよ。数分くらいならお前相手でもやれると思うぜ。まぁ、普段使いは無理だけどな」
それに応じようとしたが、代わりにランディが口を開く。
(なんで、分かるんだよ?)
まるで頭の中を覗かれているみたいだ。
裏を返せば、それだけ深く相手のポテンシャルを把握しているということなのだが、今のロイドにはそれが面白くなかった。
「……もう、いい。返す!」
噛みつきそうな色を瞳に宿し、スタンハルバードを同僚の胸元に押し付ける。
武器が戻ってきたランディは、握り直した柄で自分の肩を軽く叩いた。
「そんなに拗ねるなよ。お前に軽々と振るわれたんじゃ、兄貴分の立場がズタボロになっちまうだろ」
からかうというよりも少し困った様子で笑うと、ロイドは膨れっ面でそっぽを向いてしまった。
彼との肉体的な差を感じるのは今に始まったことではない。
時には羨望の眼差しを送り、時にはこうやって悔しさを募らせる。
まるで、亡くした兄の背中を追いかけるように。
「そのうちズタボロにしてやるからな」
「はい、はい。そのうちな」
目を合わせないままのロイドとそれを軽くあしらうランディの姿は、傍から見れば微笑ましいものだ。
(ロイドさんって、ランディ先輩相手だとすぐムキになるんだよね。ちょっと可愛いというか、何というか……)
ノエルは彼らを眺めやりながら、ついそんな風に思ってしまった。
この日、特務支援課リーダーの機嫌はずっと低空飛行のままだった。
事情を知らない他のメンバーたちは、「どうせランディのせいだろう」との共通認識があり、いつものことだとばかりにさして驚きもしなかった。
夜も深い時間帯に目が覚めた。
ぼんやりとした薄暗い視界の中に、見慣れた赤い髪が入ってくる。
こんな日は大抵朝までぐっすりと眠っているし、起床するにしても気怠さが付きまとうものだ。
ロイドは自分にしては珍しい状況に驚いた。
すぐに寝直そうとしたが、やたらと頭が冴えてしまって眠気は一向に訪れない。
顔をずらして隣人を覗えば、その瞳は閉じられたままだった。
静かに上半身を起こし、うつ伏せ気味の寝姿を何気なく眺めて密かに笑む。
動いたせいで二人で潜り込んでいた毛布がはだけ、逞しい背中が露わになっていた。
ふと、数日前の出来事が頭を過ぎる。
通常の規格ではない特別仕様のスタンハルバードは、やはり重かった。
多少は扱えると認めてくれたのは救いだが、それよりも悔しさの方がはるかに勝った。
(……俺とは全然違う)
見ているだけでは飽き足らず、つい触れたくなってしまった。
普段は一纏めにしている髪は解かれ、背中に散らばっている。
それを軽く指先で流し、素肌の上に手を置いた。
「う~ん、やっぱり筋肉凄いなぁ」
力を抜いている状態でも鍛え抜かれた肉体の様子が分かり、悔しさを引きずりながらも目を輝かせた。
筋を指で辿ってみたり、手の平で叩いてみたりとしている内に楽しくなってくる。
だが、すぐに制止がかかってしまった。
「──おい、こら。人の身体で遊ぶなっつーの。眠れねぇだろ」
言葉のわりには棘がない声で、機嫌を損ねているようには感じられない。
「どうせ起きてたくせに」
気配に敏感な彼のことだ。自分が身を起こした時点でとっくに覚醒していただろうと、ロイドは悪びれる素振りもなかった。
「お前さぁ……この間の、まだ気にしてんの?」
まだ触ることを止めようとしない恋人へ、ランディが思慮深げな視線を向けた。
「気にしてるっていうか、ちょっと思い出しただけっていうか」
それを聞いたロイドは少しだけ頬を膨らませた。
「そりゃぁ、ランディの方が年上だし、どうしたって差ができるのは仕方がないことだし……」
ブツブツと言いながら、元凶である大きな体躯を見つめる。
すると、その肩が小刻みに揺れた。
「焦らなくていいんじゃね?あと一・二年もすればお前もいい感じになるだろうしな」
喉の奥で笑いながらも諭すような口振りは穏やかで、年長者の余裕が垣間見える。
「……でも」
ロイドとて分かってはいるのだ。今まで生きてきた歳月と環境の違いを。
それでも気持ちの方はなかなか付いてこない。
「やっぱり悔しいなぁ」
複雑な胸の内を言葉に乗せ、茶色の頭をぽとりと広い背中の上に落とした。
頬を寄せると慣れ親しんだ体温が伝わってくる。
つい心地良くなって細めた視界に、歴戦の傷跡たちが入ってきた。
(どれだけ戦ってきたらこんな風になるんだろう?)
ぼんやりとそう思った。
この赤毛の青年から猟兵時代の話を聞く機会はあまりない。
尋ねれば応えてくれそうだが、興味本位で詮索するのは気が引けてしまうところだ。
「なんだよ。今度は枕代わりにするつもりか?」
ランディは背中の重みが急に大人しくなったことで、寝落ちは勘弁しろよと揶揄をする。
「ん~、そうじゃなくて。傷跡……見てた」
だが、ロイドの受け答えは眠気を感じさせないものだった。
「ごめん、なんか気になっちゃってさ。色んな傷があるなって」
気を悪くさせるかもしれないと思いつつも、正直に言う。
数日前の悔しさを引きずり、戦場で鍛えられた逞しい身体を目の前にして、どうしても自分に嘘がつけなかった。
さっまで筋肉を辿っていた指が、今度は遠慮がちに傷跡をなぞる。
「今更、何言ってんだか。見慣れてる身体のくせによ」
それに対し、ランディは気分を害した様子を見せなかった。
「まぁ……猟兵なんて、傷だらけで当たり前っつーか?手足が吹っ飛んでないだけマシだぜ」
それどころか、明るい調子でそんなことを口にする。
「案外、胴体に穴が空いてもくたばらないもんだしなぁ」
昔のことを思い出しているのか遠い目をしたが、その直後、ロイドに思いっきり背中を叩かれた。
「いって~なぁ。いきなり何すんだよ」
「……ランディ」
背中の上に伏せていた上半身が勢いよく起き上がり、恨めしげな声に怒気をはらませた視線が突き刺さる。
「今はもう猟兵じゃないんだから、そういう感覚でいるのやめろよな」
急に軽くなって動けるようになったランディは、仰向けに寝転がってロイドを見上げた。
「そうやって、いつも一人で無茶ばっかりするんだから」
薄闇に浮かび上がる瞳はあきらかに怒っていたが、どこか泣き出しそうな影がチラついているようにも見える。
「あー、悪かったって。もう言わねぇから」
「ほんとか?ちゃんと反省しろよ」
長年の猟兵生活で染み付いている思考回路は、そう簡単には変えられない。
だが、相棒であり恋人であるロイドがそれを良しとしないことも承知している。
自然に出てしまったとはいえ、今は言葉にするべきではなかったとすぐに後悔した。
詫びる代わりに腕を伸ばし、一度頬に触れてから寝乱れた髪に指を差し入れて優しく梳いてみる。
「お前……なんか、やけに不安定だな。いつもは朝まで寝てるくせに」
大人しく身を委ねているのは、少しは絆されてくれているからなのか。
毛並みを撫でられた動物のように目元を緩めている姿に安心し、ランディはゆっくりと身体を起こした。
そのままロイドの後頭部を引き寄せ、軽く音を立てて口づける。
「今夜はまだ物足りないとか?」
「な、何言ってんだよ!偶然目が覚めただけに決まってんだろ」
こんな状況では嫌でも言葉の意味に気が付いてしまう。
ロイドは意地悪げに笑う恋人の顔を至近距離で睨んだ。
「思い出して悔しいのも、たまたまだからな」
反射的に身体を離したくなり、まだ後頭部に添えられている手を引き剥がそうとする。
しかし、その動きよりも早く一方の肩を掴まれた。
「あっ!?」
一瞬にして視界が回転し、抗う間もなくベッドの上に背中が落ちた。
先刻の余韻が残る肌を甘噛みされて、不意打ちの刺激にギュッと両目を瞑る。
「なぁ、悔しいついでに聞きたいことあるんだけどさ~」
そこへやたらと軽い声が降ってきた。
「なんだよ?」
どうせふざけているのだろうと思ってすぐに目を開いたが、その瞬間に息が止まりそうになる。
上から見つめてくるランディの表情は、予想外に真剣なものだった。
「こうやって俺に組み敷かれることには何とも思わないのか?」
たやすくシーツの中に沈んだ身体は動きを封じられ、まざまざと力の差を見せつけられる。
武骨な指が肩に食い込んで痛みを感じた。
「……え?」
それでもロイドは不思議そうに目を瞬かせ、頭に疑問符を浮かべた。
なぜ、そんなことを聞いてくるのか分からなかった。
確かに身体を重ねる上での肉体的な優劣があるとすれば、主導権はランディの方にある。
四肢が絡めば解くことは難しく、唇が落ちてくれば高ぶる熱に翻弄されるのが常だ。
煽られて、追い込まれて、いつの間にか余裕がなくなってしまう。
けれど、それに劣等感を覚えたことは今まで一度もなかった。
「そんなの、気にしたことない」
「なんで?」
答えを急いてくる声が少しだけ不安げに聞こえ、自由が利く方の手を伸ばした。
「う~ん、上手く言えないんだけどさ……」
さっき彼がしてくれたこと真似してみたくなる。
見下ろしてくる顔に乱れ落ちた赤い髪を、指で梳きながら後ろへと流した。
「俺のこと大切に想ってくれてるなって、ちゃんと気持ちが伝わってくるっていうのかなぁ」
ロイドは相手を真っ直ぐに見つめ、屈託なく笑った。
優しい抱擁も、時には手荒い愛撫も、そこにはいつだって確かな愛情がある。
だから、それを嬉しく思うのと、兄貴分の背中を追って悔しがることは、感情の質が違うのだと。
「あれ?」
求めた返答があまりにも率直だったせいか、ランディは恋人を凝視したまま固まってしまった。
「大丈夫か?」
ロイドが軽く頬を叩くとすぐ我に返ったが、そのまま脱力して彼の身体にのしかかる。
「なんなんだよ……こいつ。恥ずかしいこと言いやがって」
首筋に顔を埋めて呟いているランディの耳が僅かに赤かった。
「お、重い、どけって」
そんなことには気が付かず、ロイドは自分より大きな身体を一生懸命押し返そうとしている。
「もう、やだ……このまま寝てやる」
ランディにしてみれば、自分から仕掛けておいて超特大のカウンターを食らってしまった気分だ。
「おい、いい加減にしろ!」
耳元に投げやりな言葉が届いた途端、さすがのロイドも眉をつり上げた。
重しのように頑丈な身体はピクリとも動かない。
蹴り飛ばしてやろうかと本気で思い始め、下肢に力が籠もっていく。
彼がそれを実行に移すのはもはや時間の問題だった。
特務支援課のビルを出て警察署に向かう道中、相棒の武器を抱えているロイドはご機嫌だった。
両手が塞がっているランディの歩みは普段よりのんびりとしていて、それに合わせているはずなのに、足が跳ねて先へ行きそうになる。
(……色んな意味で成長してんのは確かなんだがなぁ)
他愛のない会話ですら嬉しそうで、元からの童顔も相まってか子供っぽさに拍車がかかっていた。
あの時、やたらと悔しがっていた姿が不思議と重なる。
重大な事象が多発していたことを考えれば、それこそ掻き消されてもおかしくはないくらいの些細な出来事だ。
それでも、きっかけに手を引かれて鮮明に思い出す。
ムキになって噛みついてくる相貌と。背中で遊んでいた指の感触と。
──屈託のない笑顔で放った言葉を。
(いや、待て。そこは思い出すなっつーの)
ランディは過去の記憶を巡らせた最後の最後で、自分にツッコミを入れた。
当時の精神的ダメージは相当で、しばらくは身体を重ねるのも躊躇したくらいだった。
もちろん、ロイドにその理由を隠していたのは言うまでもない。
そんな懐かしさや恥ずかしさが入り交じり悶々としたランディだったが、雑用を済ませて警察署を出る頃には平静を取り戻しつつあった。
「ありがとな、ランディ。助かったよ」
「このくらい、いいって」
ロイドは律儀に礼を述べ、軽い足取りで歩き出す。
これから東クロスベル街道に出て任務を行う予定だ。
ご機嫌すぎてスタンハルバードを返すのを忘れているのか、そのまま街中を進む彼の横で赤毛の青年が苦笑する。
(しょうがねぇヤツだな。外に出るまでは預けといてやるか)
手持ちぶさたな両手を上着のポケットに突っ込み、相棒に支援要請の内容を確認しながら、ふとさり気なく彼の体躯を品定めしてみた。
「……今なら数分どころか、結構長くいけそうだな」
「ん?なんか言ったか?」
評価はほんの小さな呟きで、聞き逃したロイドが見上げてきた。
「あぁ、お前もいいガタイになったなぁと思ってよ」
ランディがそう言い直してから背中を叩くと、彼は驚いて目を丸くした。
「そ、そうか?」
肉体的なことで褒められるのは初めて気がして、妙に落ち着かない。
「俺には及ばねぇがな。ま、そこは骨格の違いってことで」
信頼しているとか頼りにしてるとか、そういった類いのことはよく言ってくれる相棒だが、今のは不意打ちすぎて反応に困ってしまった。
「そうだなぁ。今度、力比べでもしてみるか?取りあえず腕相撲みたいのとか」
応答してこないロイドを気にせず、ランディは一人で話を進めている。
「タダじゃつまんねーから、負けた方が昼飯三日分……いや、一週間分奢りな」
相棒同士、感情が伝染しやすいのだろうか。今度は彼の方が楽しそうだ。
すると、ようやくロイドが口を開いた。
「ちょっと待て。それ、俺が負ける前提で言ってないか?」
話の内容に引っかかりを覚え、あからさまに面白くないという顔をする。
「さぁな。今のお前なら良い勝負になるんじゃね?それとも逃げんの?」
好戦的な笑みを浮かべたランディに上から覗き込まれ、ロイドの両眼に火が灯った。
「──受けて立つ!」
他の人ならいざ知らず、彼にここまで言われては引き下がるわけにはいかない。
無意識にスタンハルバードの柄を握りしめ、余裕たっぷりの相手を睨め付ける。
(こういうとこは昔から全然変わってねぇな。だから面白いんだけど)
それを真正面から捉えたランディは心の奥で安堵した。
彼の目から見ても大人の男として立派に成長しているロイドだが、根本的な部分はずっとあの頃のままだ。
自分だけに向けられる衝動的な感情はどこか子供じみていて、だからこそ優越感に浸れる。
相棒として恋人として対等な関係を築き上げてきた中で、ただ一つだけ。
年長者としての矜持は手放したくなかった。
2021.06.05
#碧 #創
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