舞えよ鳳翼 蒼い欠片の傍らで③
時刻は13時を回っていた。開演時間までにはかなりの余裕がある。
一人になって気が緩んだせいもあり、待ち構えていたかのように空腹感が押し寄せてきた。
出発前にモンマルトで朝食を取ってからこの方、何も食べていない。
ヴァンは再び賑わいの中心部へ身を投じ、立ち並ぶ飲食店を物色しながら歩いた。
弌番街はその風情からも煌都ラングポートの顔とも言える地区。
昼時ともあって人の数は多く活気に溢れていた。
「……今はこっちじゃねぇな」
雑踏の音に隠れて溜息と独り言が落ちた。
色鮮やかな東方建築とそこに住まう人々が織りなす他愛もない会話。
華劇場にまつわる断片的な語句が、いくつか耳掠めて通り抜けていった。
それは街の営みに溶け込むように、否応なしにアーロンの気配を感じる。
彼があるべき本来の場所はここなのだから、当たり前と言ってしまえばそれまでだろう。
微笑ましいと思う反面、心の片隅には一抹の寂しさが込み上げてくる。
イーディスで借りているあの部屋も所詮は仮住まいだ。
彼が大きく羽ばたく前の止まり木のような存在なのかもしれない。
「新市街か、いや、たまには弐番街っつーのも悪くねぇか」
腹の虫は泣き疲れているくらいなのに、手っ取り早く近場の店に入る気分にはなれなかった。
華劇場に向かう前から、あの青年のことで悶々としたくはない。
きっかけはどうあれ、気になっていた彼の舞台を見られるのだ。気持ちを切り替えて楽しまなければ、アーロンにも失礼だろう。
結局ヴァンは弌番街を去り、弐番街まで足を伸ばすことにした。
そこで落ち着いた構えの飲食店を見つけ、ゆっくりと時間をかけて昼食を味わう。
アシェンからのお願いの内容を考えれば、あまり顔見知りには遭遇したくない。ちょっとしたお忍び道中だ。
昼食を済ませた後は散歩がてらに新市街をうろつき、開演時間まで時間を潰す。
ラングポートは大きな街だから、数時間程度の空きを埋めるのは簡単だった。
そうこうしているうちに、曇りがちだった気分が徐々に晴れていく。
「おっ、そろそろか」
ヴァンはおもむろに時刻を確認してから小さく頷いた。
現在地から華劇場までの距離はそれほど遠くない。
彼は午後の公演に胸を弾ませながら、足取りも軽やかに目的地へと向かった。
今回は客席に座るわけではないので、そこまで早く行かなくてもいいはずだ。
彼が華劇場の扉をくぐったのは開演の十分前だった。
この時間であれば、観客たちの大半はすでに席に着いているだろう。予想通り、エントランスに佇んでいる人は少ない。
「ヴァン様、お待ちしておりました」
その姿に目を留めた支配人の男が、すぐさま声を掛けてきた。
彼とはアーロンを通して面識があり、龍車の件で依頼を請け負ったこともある。
「よぉ、世話になるぜ」
「はい。アシェン様より話は伺っております」
気安い挨拶を投げてみると、物腰穏やかな所作で丁寧な応対をされた。
「面倒なことになっちまって悪ぃな。で、どの位置に立ってりゃいい?」
「ヴァン様のお好きなように、と言いたい所ですが。やはり正面からが良いでしょう」
一応は警備の名目なので位置取りを尋ねてみると、支配人はまだ開いた状態になっているホールの扉へ目をやった。
「扉が閉まりましたらその辺りで。若干距離はありますが、舞台全体が見渡せますよ」
「なるほどな、ありがとよ」
お勧めの立ち見席を教えてくれた彼に礼をの述べ、ヴァンは会場に身を滑り込ませた。
客層はやはり女性が多い。華やかな衣服と期待に満ちたざわつきが一面に広がっていた。
しばらくして、重い扉が閉まって天井の照明が落とされる。
ヴァンは扉のすぐ横の壁に寄りかかり、手持ち無沙汰になっている両腕を組んだ。
客席は緩い傾斜がついた造りになっているので、視界を妨げるものは何もない。
まさに支配人が言った通りだった。ひっそりと鑑賞する分にはこのくらいが丁度良いのかもしれない。
「……そういえば、初めてあいつを見たのも華劇場だったな」
呟いた声と重なるように、開演を知らせるブザーが鳴り響いた。
冒頭はゆったりとした曲調を背後にして踊り手が数人。
観客たちの手を引いて誘うように、会場の空気を温めていく。
舞台のセットは東方の古の宮廷を思わせる造りで、豪華絢爛な装飾が美しかった。
少しずつ曲のテンポが早くなり、照明の色合いもより華やかな色合いに変化する。
そこへ、ひときわ大きな銅鑼の音が鳴り響いた。
合図を受けて舞台の中央に現れ出たのは、誰よりも煌びやかに着飾った一人の青年だ。
主役であるアーロンの登場に客席のあちらこちらから感嘆の声が囁き漏れる。
舞台装飾が宮廷を模しているのなら、彼の衣装はさながらそこを統べる王といった所だろうか。
双剣が弧を描くたびに豪華な装飾品たちが揺れ動き、その度にキラキラと照明を反射する。
「なかなか決まってるじゃねぇか」
感嘆はヴァンも同様だった。しかし、それよりも嬉しさの方が勝った。
距離はあるものの、久しぶりに生身の彼が視界の中にいる。
「素人目からすると動きづらそうな衣装だけどなぁ」
胸の奥がほんのりと温かくなり、こそばゆくなってきた。つい照れ隠しのような感想を述べる。
暗がりの中で壁際にただ一人、誰に憚ることはない。
ヴァンの表情は素のままでとても柔らかかった。
そうして光彩を放つ舞台を直視しながら、ふと想いを馳せる。
この華劇場でアーロンの舞台を鑑賞したのは片手で足りるほどだ。
大方は仕事絡みで、何の思惑もなく客席に座っていたことがあっただろうか?と首を傾げるくらいだった。
それを思えば何かと感慨深くなる。
「あいつも最初に比べれば、随分と落ち着いたよな」
演目はそろそろ中盤に差し掛かるあたり。動と静、緩急を付けた演出は見事で、観客を故宮の世界へと没入させていく。
主役の青年は威風堂々たる王者の佇まい。
それはきっと以前の荒削りな若者には演じられない、今の彼だからこその情熱と深みが混ざった珠玉の色。
──いつの間にか目が離せなくなっていた。
出会った頃のアーロンは、情に厚いが直情的でどこか危なっかしい青年だった。
そんな彼を雇い主として思慮深く見守っていたはずなのに。
月日を重ねる内に、ヴァンの大人ぶった気遣いの面貌は突き崩されていく。
それ程までに、彼の人としての成長は飛躍的で鮮やかだった。
「あれだな……鳳凰が舞い上がるみたいだ、とか?ははっ、柄でもねぇこと言っちまった」
客席ではなく一歩離れた場所から舞台を見ていると、自分の心の変遷を追うような感覚に囚われていく。
呟きは完全に無意識の産物だった。ゆったりと壁に寄りかかってはいるが、体勢はずっと同じまま。
観客を惹きつけてやまないその姿に、唇だけが勝手に言の葉を形作っていく。
中盤以降、舞台上には常に複数の踊り手が入り乱れていて、百花繚乱の様相を見せていた。
それが次第に収束していき暗転する。次に舞台が明るくなった時、アーロンが一人立っていた。
ここが最大の見せ場なのだろう。曲調は冒頭から速くていかにも彼らしい。
スピード感がある楽曲をものともせず、巧みな剣さばきを披露する王は、観客に瞬く暇さえ与えなかった。
「……凄ぇなぁ」
今、この空間はアーロンのものだった。音響も照明も、熱気を帯びた会場の空気ですらも、全てが彼のためにある。
そのただ中。
「──えっ?」
ほんの一瞬だけ、アーロンがこちらを見たような気がした。
心臓が大きく飛び跳ねる。
舞台からは一番遠い出入り口付近など、彼が気にかけるとは思えない。
「まさか、偶然……だよな?」
心の中で首を左右に振りながらも、胸の鼓動が早鐘を打つ。
「偶然に決まってる」
自分自身に言い聞かせ、深呼吸をしてから再び舞台に意識を集中させる。
そこで、大きく曲調が変化した。この一人舞台のクライマックスだ。
彼は更に速いリズムを刻みながら舞台全域を所狭しと舞い踊る。
宙に放った刃が見事な放物線を描いて手元に戻ると、すぐさま刺突、続けざまに横一閃。
一振りするたびに、朱と金に染まった火の粉が乱れ舞う。
アーロンという名の焔が燃え上がるが如く、熱情の翼が激しく羽ばたいた。
「……あぁ、こいつは」
どうしたって目が離せない。離したくない。
心の中まで焼かれて、熱気が喉元までせり上がってきた。
「俺に……じゃないのに」
彼の演舞は満員の観客に対してであり、誰か一人に向けられているものではない。
頭では解っているのに、それでも錯覚してしまいそうになる。
ヴァンはこの青年が自分へ向けてくる執着の正体に気づいていた。
けれど、それは『もしかして』と疑問符が付く形であって、確信できるほどの自惚れを持つことができなかった。
アーロンは気紛れな性格だ。
真面目に口説いてきたかと思えば、すぐに笑いながら揶揄ってくる。
どこまでが本気なのか分からず、受け止めようがない。だから、その度に戯けて素知らぬふりをする。
それなのに、今はどうだろう?
いつもみたいに「俺で遊ぶんじゃねぇ」などとは到底言えない。
本当に自分に捧げられているような気分に陥ってしまう。
そんなことはないのに。夢想しているだけだと分かっているはずなのに。
「あんたはオレが成長するのをそこで見ていればいい」
あれは学藝祭の日の朝だったか。
アーロンの部屋を訪れたヴァンは、彼がソファーに座って精神統一をしている姿に面食らった。
聞けば、大小関係なく舞台の前には必ずこうしているという。
そして軽く言葉を交わしている最中、悠然とした態度で口を開いた。
顔を上げて真っ直ぐに見つめてくる両眼は、ドキリとするほど強い光を放っていた。
あの言葉はずっと頭に焼き付いている。
まるで『側にいろ』と言われているような気がした。
今や興奮に満ち満ちた華劇場の中で、鳴り響く音楽に紛れてそれを思い出す。
「……惚れてんだよ、俺は」
昨日今日のことじゃない。ヴァンはとっくにアーロンに対する自分の感情を自覚していた。
裏解決屋としての月日の積み重ねと比例するように、少しずつ育っていったもの。
何か特別なきっかけがあったわけはなく、ごく自然にすんなりと心の中に落ちてきた。
そこが彼と紡いできた縁の行き先だった。
※ ※ ※
初演の幕が上がってから早三日。
公演は午前と午後に一回ずつ行っており、華劇場の内部はいつも以上に雑然としている。
この日もアーロンの調子は万全だった。
無事に午前中の舞台を終え、昼食がてらに街中をぶらついて気分転換を図る。
束の間の休息を楽しみ、頃合いを見計らって華劇場の裏口をくぐると、すでに午後の準備が始まっていた。
すれ違う関係者たちと軽く言葉を交わし、控え室で適度に落ち着いてからは身仕度に取りかかる。
今回の衣装は普段のそれよりも重厚感があり、装飾品も多い。自分で行うのは最低限の着衣をだけで、着付けは数人の手を借りる必要があった。
アーロンは姿見の前で仁王立ちになり、己の顔を見つめた。
「よしっ、午後も張り切っていくとするか」
胸の前で拳を掌に叩き付けながらニッと笑う。
今の彼は役者としての充実感に溢れていた。
ただ一つ、心の奥底には自嘲的な棘が突き刺さったままで。
ひとたび舞台の上に立てば、そこに雑念など入る余地はない。
期待をしてくれている観客たちへ最高の演技を届けるだけだ。
この場に流れる楽曲の数々は、彼の身体にしっかりと刻み込まれている。
繊細に、大胆に。四肢は敏感に音を聞き取り、双剣と共に自由自在に動き回った。
視界に遮るものはなく、照明が落ちた薄暗がりでも客席全体が見渡せる。
前列ともなればそれぞれの表情までもが読み取れた。
役者にとっては珍しい現象ではないのだが、アシェンに話をしてみたら妙に感心されてしまったことがある。
だが、この時は別の意味で少し違っていた。
演目が進むにつれて、段々と視覚が冴え渡っていく。より遠方へと。
いつもなら見えないような後方席の客層までよく見えた。
共演者たちが袖に引き、全幕を通じて最も力が入る一人舞台となってから数分。
続けざまの急調子が彼の身体に熱気をはらませる。
華麗に旋回をし、両手が真一文字に剣を払った。
連動してもう一回転。真正面に戻って顔を上げる。
その時。
出入り口である扉の横に、今はイーディスにいるはずの男の姿を捉えた。
(ヴァ……ン!?)
わずか数秒とはいえ、見間違えるはずがない。
あの日、庭城で誘いたくても誘えなかった、後悔という名の棘が人型を成して立っていた。
カッと全身が燃え上がる。
誰よりも会いたかった人だ。誰よりもこの舞台を捧げたかった人だ。
なぜここに?と驚き戸惑っている脳内が、急速な熱風で焼き払われていく。
既の所で崩れそうになった身体を踏み留まらせ、表情を引き締めた。
危うく動きが止まりかけたが、観客にはそれと悟らせずに演目を進行し続ける。
しっかりと握り締めた双剣の切っ先に、これ以上ないほどの強い気持ちがこもっていた。
そして、絶妙のタイミングだった。
燃えさかる焔を彷彿とさせる楽曲は、アーロンの想いと同調するかのように一気に転調した。
ヴァンの前ではどうしたって素直になれない性分だ。それは出会った頃から変わらない。
だったら舞えばいい。言葉で伝えられないなら、踊り尽くせばいい。
この場には確かに彼がいるのだから。
焔色を基調とした絢爛な衣装が翻っては激しく揺れ動いた。
心ごと燃やし尽くして根こそぎ奪い取ってやりたい。
それはまさしく鳳が乱れ飛ぶように──双剣の羽翼が狂おしいほどに恋情の声を高らかにした。
アーロンは最後の一節が終わるまで、無我夢中で踊っていた。
全ての音が止まった瞬間、会場全体から割れんばかりの拍手喝采が押し寄せてくる。
彼はそこでようやく終演したことに気が付いた。
ハッとして扉の付近を見上げると、ヴァンが笑みをたたえて拍手をしてくれている。
彼はどう思ったのだろうか?想いは伝わったのだろうか?
弾む息を整えながら観客からの盛大な称賛に応じるが、内心ではそればかりが気にかかっている。
しかし、ヴァンは鳴り止まぬ歓声に隠れて会場を後にしようとしていた。
その後ろ姿を見たアーロンは、歯ぎしりをして拳を強く握り締めた。
どういう経緯であそこに立っていたのかは知らないが、あの様子ではこのまま煌都から出て行ってしまいかねない。
(くそっ、逃がすかよ!)
幕が下りて袖に引いた途端、アーロンは走り出した。
即座に足止めをするのなら、ザイファで通信を入れるのが手っ取り早い。
しかし、公演中は衣服や手荷物の類いは控え室に置いたままだった。
彼は驚く共演者たちには目もくれず、全速力で廊下を駆け抜けていった。
一方その頃。
ヴァンは支配人に軽く挨拶をして華劇場から出るところだった。
熱の籠もった屋内にいたせいか、肌に触れる外の空気が気持ち良い。
彼は体内に涼気を取り込もうと大きく深呼吸をした。
舞台の余韻はなかなか消えそうにない。
「……ははっ、なんか言葉にならねぇや」
胸元を握り締めて目を閉じると、普段よりも速い心音が指の先まで伝わってくる。
舞台は全体を通して素晴らしかったが、アーロンが単独で踊ったあの場面は筆舌に尽くしがたかった。
どこか鬼気迫るものを感じて息が詰まるほどだった。きっと全ての観客たちが心を鷲掴みにされただろう。
「あんなの見せつけられたら……無性に会いたくなる」
ヴァンは名残惜しそうに華劇場を振り返った。
建物からは興奮冷めやらぬ様子の観客たちがぞろぞろと出てくる。
立ち止まって声高に語り合い始める人々もちらほら。周囲が急に賑やかになってきたのを感じ、彼はさり気なくその場から離れた。
先刻のアシェンからのお願いは、『舞台を見てあげて欲しい』ということだけだ。
『会って欲しい』とは言われていない。
そもそも、アーロンには秘密だったわけだし、例え連絡を取ろうにも疲れているはずの彼の邪魔はしたくなかった。
そんな理由で自分を納得させ、駐車場へと足を向ける。
しかし、数十歩ほど進んだところで急にザイファの呼び出し音が鳴った。
タイミング的にもアシェンだろうと予想し、ゆっくりと歩きながら応答のボタンを押してみる。
「おい!ヴァン、待ちやがれ!」
すると、いきなりスピーカーの音が割れんばかりの怒声が響いた。
画面の中には舞台衣装を着たままのアーロンが映っている。
肩で息をしながら睨み付けてくるのを見て、ヴァンは驚愕のあまり声が出なかった。
「てめぇ、なんであんな所にいやがった!?」
凄みをきかせて詰め寄られ、ヴァンは足を止めてわずかに腰を引いた。
「いや、まぁ……色々あって……な?」
ようやく口が動いたが、しどろもどろで冷や汗が滲み出る。
「あのな、もう用事は済んだからよ。今から帰ろうかなぁと……」
「ふざけんな、オレが着替えるまで待ってろ」
画面越しでさえも目が合わせられない彼に対し、アーロンはぴしゃりと言い放つ。
更には待ち合わせの場所を勝手に指定して、慌ただしく通信を切ってしまった。
間接的な再会は一瞬にして終わり、勢いよく嵐が過ぎ去っていく。
幸いと言うべきか、人通りの少ない所を歩いていたので、アーロンの声で周囲の注目を浴びることはなかった。
「あいつ、気付いてやがったのか」
しばらくの間、ヴァンは呆然として立ち尽くしていた。
上演中に目が合ったように感じたのは気のせいではなかったらしい。
胸のあたりがじんわりと温かくなっていく。
「取りあえず、邪険にはされてねぇみたいだな」
気付いていたのなら、早々に退出する姿も見ていただろう。
その上で急いで引き留める手段を取ったのだから、少しは会いたいと思ってくれたのかもしれない。
「帰りの時間もあるし、そんなに長居はできねぇが」
午後の陽は大分傾いていて、夕刻と言っても差し支えない気配が漂う。
ヴァンは時計代わりの空を振り仰ぎ、心の中で呟いた。
せめて夕飯くらいは一緒に食べたい、と。
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時刻は13時を回っていた。開演時間までにはかなりの余裕がある。
一人になって気が緩んだせいもあり、待ち構えていたかのように空腹感が押し寄せてきた。
出発前にモンマルトで朝食を取ってからこの方、何も食べていない。
ヴァンは再び賑わいの中心部へ身を投じ、立ち並ぶ飲食店を物色しながら歩いた。
弌番街はその風情からも煌都ラングポートの顔とも言える地区。
昼時ともあって人の数は多く活気に溢れていた。
「……今はこっちじゃねぇな」
雑踏の音に隠れて溜息と独り言が落ちた。
色鮮やかな東方建築とそこに住まう人々が織りなす他愛もない会話。
華劇場にまつわる断片的な語句が、いくつか耳掠めて通り抜けていった。
それは街の営みに溶け込むように、否応なしにアーロンの気配を感じる。
彼があるべき本来の場所はここなのだから、当たり前と言ってしまえばそれまでだろう。
微笑ましいと思う反面、心の片隅には一抹の寂しさが込み上げてくる。
イーディスで借りているあの部屋も所詮は仮住まいだ。
彼が大きく羽ばたく前の止まり木のような存在なのかもしれない。
「新市街か、いや、たまには弐番街っつーのも悪くねぇか」
腹の虫は泣き疲れているくらいなのに、手っ取り早く近場の店に入る気分にはなれなかった。
華劇場に向かう前から、あの青年のことで悶々としたくはない。
きっかけはどうあれ、気になっていた彼の舞台を見られるのだ。気持ちを切り替えて楽しまなければ、アーロンにも失礼だろう。
結局ヴァンは弌番街を去り、弐番街まで足を伸ばすことにした。
そこで落ち着いた構えの飲食店を見つけ、ゆっくりと時間をかけて昼食を味わう。
アシェンからのお願いの内容を考えれば、あまり顔見知りには遭遇したくない。ちょっとしたお忍び道中だ。
昼食を済ませた後は散歩がてらに新市街をうろつき、開演時間まで時間を潰す。
ラングポートは大きな街だから、数時間程度の空きを埋めるのは簡単だった。
そうこうしているうちに、曇りがちだった気分が徐々に晴れていく。
「おっ、そろそろか」
ヴァンはおもむろに時刻を確認してから小さく頷いた。
現在地から華劇場までの距離はそれほど遠くない。
彼は午後の公演に胸を弾ませながら、足取りも軽やかに目的地へと向かった。
今回は客席に座るわけではないので、そこまで早く行かなくてもいいはずだ。
彼が華劇場の扉をくぐったのは開演の十分前だった。
この時間であれば、観客たちの大半はすでに席に着いているだろう。予想通り、エントランスに佇んでいる人は少ない。
「ヴァン様、お待ちしておりました」
その姿に目を留めた支配人の男が、すぐさま声を掛けてきた。
彼とはアーロンを通して面識があり、龍車の件で依頼を請け負ったこともある。
「よぉ、世話になるぜ」
「はい。アシェン様より話は伺っております」
気安い挨拶を投げてみると、物腰穏やかな所作で丁寧な応対をされた。
「面倒なことになっちまって悪ぃな。で、どの位置に立ってりゃいい?」
「ヴァン様のお好きなように、と言いたい所ですが。やはり正面からが良いでしょう」
一応は警備の名目なので位置取りを尋ねてみると、支配人はまだ開いた状態になっているホールの扉へ目をやった。
「扉が閉まりましたらその辺りで。若干距離はありますが、舞台全体が見渡せますよ」
「なるほどな、ありがとよ」
お勧めの立ち見席を教えてくれた彼に礼をの述べ、ヴァンは会場に身を滑り込ませた。
客層はやはり女性が多い。華やかな衣服と期待に満ちたざわつきが一面に広がっていた。
しばらくして、重い扉が閉まって天井の照明が落とされる。
ヴァンは扉のすぐ横の壁に寄りかかり、手持ち無沙汰になっている両腕を組んだ。
客席は緩い傾斜がついた造りになっているので、視界を妨げるものは何もない。
まさに支配人が言った通りだった。ひっそりと鑑賞する分にはこのくらいが丁度良いのかもしれない。
「……そういえば、初めてあいつを見たのも華劇場だったな」
呟いた声と重なるように、開演を知らせるブザーが鳴り響いた。
冒頭はゆったりとした曲調を背後にして踊り手が数人。
観客たちの手を引いて誘うように、会場の空気を温めていく。
舞台のセットは東方の古の宮廷を思わせる造りで、豪華絢爛な装飾が美しかった。
少しずつ曲のテンポが早くなり、照明の色合いもより華やかな色合いに変化する。
そこへ、ひときわ大きな銅鑼の音が鳴り響いた。
合図を受けて舞台の中央に現れ出たのは、誰よりも煌びやかに着飾った一人の青年だ。
主役であるアーロンの登場に客席のあちらこちらから感嘆の声が囁き漏れる。
舞台装飾が宮廷を模しているのなら、彼の衣装はさながらそこを統べる王といった所だろうか。
双剣が弧を描くたびに豪華な装飾品たちが揺れ動き、その度にキラキラと照明を反射する。
「なかなか決まってるじゃねぇか」
感嘆はヴァンも同様だった。しかし、それよりも嬉しさの方が勝った。
距離はあるものの、久しぶりに生身の彼が視界の中にいる。
「素人目からすると動きづらそうな衣装だけどなぁ」
胸の奥がほんのりと温かくなり、こそばゆくなってきた。つい照れ隠しのような感想を述べる。
暗がりの中で壁際にただ一人、誰に憚ることはない。
ヴァンの表情は素のままでとても柔らかかった。
そうして光彩を放つ舞台を直視しながら、ふと想いを馳せる。
この華劇場でアーロンの舞台を鑑賞したのは片手で足りるほどだ。
大方は仕事絡みで、何の思惑もなく客席に座っていたことがあっただろうか?と首を傾げるくらいだった。
それを思えば何かと感慨深くなる。
「あいつも最初に比べれば、随分と落ち着いたよな」
演目はそろそろ中盤に差し掛かるあたり。動と静、緩急を付けた演出は見事で、観客を故宮の世界へと没入させていく。
主役の青年は威風堂々たる王者の佇まい。
それはきっと以前の荒削りな若者には演じられない、今の彼だからこその情熱と深みが混ざった珠玉の色。
──いつの間にか目が離せなくなっていた。
出会った頃のアーロンは、情に厚いが直情的でどこか危なっかしい青年だった。
そんな彼を雇い主として思慮深く見守っていたはずなのに。
月日を重ねる内に、ヴァンの大人ぶった気遣いの面貌は突き崩されていく。
それ程までに、彼の人としての成長は飛躍的で鮮やかだった。
「あれだな……鳳凰が舞い上がるみたいだ、とか?ははっ、柄でもねぇこと言っちまった」
客席ではなく一歩離れた場所から舞台を見ていると、自分の心の変遷を追うような感覚に囚われていく。
呟きは完全に無意識の産物だった。ゆったりと壁に寄りかかってはいるが、体勢はずっと同じまま。
観客を惹きつけてやまないその姿に、唇だけが勝手に言の葉を形作っていく。
中盤以降、舞台上には常に複数の踊り手が入り乱れていて、百花繚乱の様相を見せていた。
それが次第に収束していき暗転する。次に舞台が明るくなった時、アーロンが一人立っていた。
ここが最大の見せ場なのだろう。曲調は冒頭から速くていかにも彼らしい。
スピード感がある楽曲をものともせず、巧みな剣さばきを披露する王は、観客に瞬く暇さえ与えなかった。
「……凄ぇなぁ」
今、この空間はアーロンのものだった。音響も照明も、熱気を帯びた会場の空気ですらも、全てが彼のためにある。
そのただ中。
「──えっ?」
ほんの一瞬だけ、アーロンがこちらを見たような気がした。
心臓が大きく飛び跳ねる。
舞台からは一番遠い出入り口付近など、彼が気にかけるとは思えない。
「まさか、偶然……だよな?」
心の中で首を左右に振りながらも、胸の鼓動が早鐘を打つ。
「偶然に決まってる」
自分自身に言い聞かせ、深呼吸をしてから再び舞台に意識を集中させる。
そこで、大きく曲調が変化した。この一人舞台のクライマックスだ。
彼は更に速いリズムを刻みながら舞台全域を所狭しと舞い踊る。
宙に放った刃が見事な放物線を描いて手元に戻ると、すぐさま刺突、続けざまに横一閃。
一振りするたびに、朱と金に染まった火の粉が乱れ舞う。
アーロンという名の焔が燃え上がるが如く、熱情の翼が激しく羽ばたいた。
「……あぁ、こいつは」
どうしたって目が離せない。離したくない。
心の中まで焼かれて、熱気が喉元までせり上がってきた。
「俺に……じゃないのに」
彼の演舞は満員の観客に対してであり、誰か一人に向けられているものではない。
頭では解っているのに、それでも錯覚してしまいそうになる。
ヴァンはこの青年が自分へ向けてくる執着の正体に気づいていた。
けれど、それは『もしかして』と疑問符が付く形であって、確信できるほどの自惚れを持つことができなかった。
アーロンは気紛れな性格だ。
真面目に口説いてきたかと思えば、すぐに笑いながら揶揄ってくる。
どこまでが本気なのか分からず、受け止めようがない。だから、その度に戯けて素知らぬふりをする。
それなのに、今はどうだろう?
いつもみたいに「俺で遊ぶんじゃねぇ」などとは到底言えない。
本当に自分に捧げられているような気分に陥ってしまう。
そんなことはないのに。夢想しているだけだと分かっているはずなのに。
「あんたはオレが成長するのをそこで見ていればいい」
あれは学藝祭の日の朝だったか。
アーロンの部屋を訪れたヴァンは、彼がソファーに座って精神統一をしている姿に面食らった。
聞けば、大小関係なく舞台の前には必ずこうしているという。
そして軽く言葉を交わしている最中、悠然とした態度で口を開いた。
顔を上げて真っ直ぐに見つめてくる両眼は、ドキリとするほど強い光を放っていた。
あの言葉はずっと頭に焼き付いている。
まるで『側にいろ』と言われているような気がした。
今や興奮に満ち満ちた華劇場の中で、鳴り響く音楽に紛れてそれを思い出す。
「……惚れてんだよ、俺は」
昨日今日のことじゃない。ヴァンはとっくにアーロンに対する自分の感情を自覚していた。
裏解決屋としての月日の積み重ねと比例するように、少しずつ育っていったもの。
何か特別なきっかけがあったわけはなく、ごく自然にすんなりと心の中に落ちてきた。
そこが彼と紡いできた縁の行き先だった。
※ ※ ※
初演の幕が上がってから早三日。
公演は午前と午後に一回ずつ行っており、華劇場の内部はいつも以上に雑然としている。
この日もアーロンの調子は万全だった。
無事に午前中の舞台を終え、昼食がてらに街中をぶらついて気分転換を図る。
束の間の休息を楽しみ、頃合いを見計らって華劇場の裏口をくぐると、すでに午後の準備が始まっていた。
すれ違う関係者たちと軽く言葉を交わし、控え室で適度に落ち着いてからは身仕度に取りかかる。
今回の衣装は普段のそれよりも重厚感があり、装飾品も多い。自分で行うのは最低限の着衣をだけで、着付けは数人の手を借りる必要があった。
アーロンは姿見の前で仁王立ちになり、己の顔を見つめた。
「よしっ、午後も張り切っていくとするか」
胸の前で拳を掌に叩き付けながらニッと笑う。
今の彼は役者としての充実感に溢れていた。
ただ一つ、心の奥底には自嘲的な棘が突き刺さったままで。
ひとたび舞台の上に立てば、そこに雑念など入る余地はない。
期待をしてくれている観客たちへ最高の演技を届けるだけだ。
この場に流れる楽曲の数々は、彼の身体にしっかりと刻み込まれている。
繊細に、大胆に。四肢は敏感に音を聞き取り、双剣と共に自由自在に動き回った。
視界に遮るものはなく、照明が落ちた薄暗がりでも客席全体が見渡せる。
前列ともなればそれぞれの表情までもが読み取れた。
役者にとっては珍しい現象ではないのだが、アシェンに話をしてみたら妙に感心されてしまったことがある。
だが、この時は別の意味で少し違っていた。
演目が進むにつれて、段々と視覚が冴え渡っていく。より遠方へと。
いつもなら見えないような後方席の客層までよく見えた。
共演者たちが袖に引き、全幕を通じて最も力が入る一人舞台となってから数分。
続けざまの急調子が彼の身体に熱気をはらませる。
華麗に旋回をし、両手が真一文字に剣を払った。
連動してもう一回転。真正面に戻って顔を上げる。
その時。
出入り口である扉の横に、今はイーディスにいるはずの男の姿を捉えた。
(ヴァ……ン!?)
わずか数秒とはいえ、見間違えるはずがない。
あの日、庭城で誘いたくても誘えなかった、後悔という名の棘が人型を成して立っていた。
カッと全身が燃え上がる。
誰よりも会いたかった人だ。誰よりもこの舞台を捧げたかった人だ。
なぜここに?と驚き戸惑っている脳内が、急速な熱風で焼き払われていく。
既の所で崩れそうになった身体を踏み留まらせ、表情を引き締めた。
危うく動きが止まりかけたが、観客にはそれと悟らせずに演目を進行し続ける。
しっかりと握り締めた双剣の切っ先に、これ以上ないほどの強い気持ちがこもっていた。
そして、絶妙のタイミングだった。
燃えさかる焔を彷彿とさせる楽曲は、アーロンの想いと同調するかのように一気に転調した。
ヴァンの前ではどうしたって素直になれない性分だ。それは出会った頃から変わらない。
だったら舞えばいい。言葉で伝えられないなら、踊り尽くせばいい。
この場には確かに彼がいるのだから。
焔色を基調とした絢爛な衣装が翻っては激しく揺れ動いた。
心ごと燃やし尽くして根こそぎ奪い取ってやりたい。
それはまさしく鳳が乱れ飛ぶように──双剣の羽翼が狂おしいほどに恋情の声を高らかにした。
アーロンは最後の一節が終わるまで、無我夢中で踊っていた。
全ての音が止まった瞬間、会場全体から割れんばかりの拍手喝采が押し寄せてくる。
彼はそこでようやく終演したことに気が付いた。
ハッとして扉の付近を見上げると、ヴァンが笑みをたたえて拍手をしてくれている。
彼はどう思ったのだろうか?想いは伝わったのだろうか?
弾む息を整えながら観客からの盛大な称賛に応じるが、内心ではそればかりが気にかかっている。
しかし、ヴァンは鳴り止まぬ歓声に隠れて会場を後にしようとしていた。
その後ろ姿を見たアーロンは、歯ぎしりをして拳を強く握り締めた。
どういう経緯であそこに立っていたのかは知らないが、あの様子ではこのまま煌都から出て行ってしまいかねない。
(くそっ、逃がすかよ!)
幕が下りて袖に引いた途端、アーロンは走り出した。
即座に足止めをするのなら、ザイファで通信を入れるのが手っ取り早い。
しかし、公演中は衣服や手荷物の類いは控え室に置いたままだった。
彼は驚く共演者たちには目もくれず、全速力で廊下を駆け抜けていった。
一方その頃。
ヴァンは支配人に軽く挨拶をして華劇場から出るところだった。
熱の籠もった屋内にいたせいか、肌に触れる外の空気が気持ち良い。
彼は体内に涼気を取り込もうと大きく深呼吸をした。
舞台の余韻はなかなか消えそうにない。
「……ははっ、なんか言葉にならねぇや」
胸元を握り締めて目を閉じると、普段よりも速い心音が指の先まで伝わってくる。
舞台は全体を通して素晴らしかったが、アーロンが単独で踊ったあの場面は筆舌に尽くしがたかった。
どこか鬼気迫るものを感じて息が詰まるほどだった。きっと全ての観客たちが心を鷲掴みにされただろう。
「あんなの見せつけられたら……無性に会いたくなる」
ヴァンは名残惜しそうに華劇場を振り返った。
建物からは興奮冷めやらぬ様子の観客たちがぞろぞろと出てくる。
立ち止まって声高に語り合い始める人々もちらほら。周囲が急に賑やかになってきたのを感じ、彼はさり気なくその場から離れた。
先刻のアシェンからのお願いは、『舞台を見てあげて欲しい』ということだけだ。
『会って欲しい』とは言われていない。
そもそも、アーロンには秘密だったわけだし、例え連絡を取ろうにも疲れているはずの彼の邪魔はしたくなかった。
そんな理由で自分を納得させ、駐車場へと足を向ける。
しかし、数十歩ほど進んだところで急にザイファの呼び出し音が鳴った。
タイミング的にもアシェンだろうと予想し、ゆっくりと歩きながら応答のボタンを押してみる。
「おい!ヴァン、待ちやがれ!」
すると、いきなりスピーカーの音が割れんばかりの怒声が響いた。
画面の中には舞台衣装を着たままのアーロンが映っている。
肩で息をしながら睨み付けてくるのを見て、ヴァンは驚愕のあまり声が出なかった。
「てめぇ、なんであんな所にいやがった!?」
凄みをきかせて詰め寄られ、ヴァンは足を止めてわずかに腰を引いた。
「いや、まぁ……色々あって……な?」
ようやく口が動いたが、しどろもどろで冷や汗が滲み出る。
「あのな、もう用事は済んだからよ。今から帰ろうかなぁと……」
「ふざけんな、オレが着替えるまで待ってろ」
画面越しでさえも目が合わせられない彼に対し、アーロンはぴしゃりと言い放つ。
更には待ち合わせの場所を勝手に指定して、慌ただしく通信を切ってしまった。
間接的な再会は一瞬にして終わり、勢いよく嵐が過ぎ去っていく。
幸いと言うべきか、人通りの少ない所を歩いていたので、アーロンの声で周囲の注目を浴びることはなかった。
「あいつ、気付いてやがったのか」
しばらくの間、ヴァンは呆然として立ち尽くしていた。
上演中に目が合ったように感じたのは気のせいではなかったらしい。
胸のあたりがじんわりと温かくなっていく。
「取りあえず、邪険にはされてねぇみたいだな」
気付いていたのなら、早々に退出する姿も見ていただろう。
その上で急いで引き留める手段を取ったのだから、少しは会いたいと思ってくれたのかもしれない。
「帰りの時間もあるし、そんなに長居はできねぇが」
午後の陽は大分傾いていて、夕刻と言っても差し支えない気配が漂う。
ヴァンは時計代わりの空を振り仰ぎ、心の中で呟いた。
せめて夕飯くらいは一緒に食べたい、と。
➡ 続き④を読む
舞えよ鳳翼 蒼い欠片の傍らで②
とある日の午後。
裏解決事務所には華やかな笑い声とコーヒーの香りが漂っていた。
学業を終えたアニエスがアルバイトにやって来たのは、今から小一時間くらい前ことだった。
今のところはこれといった依頼がなく、彼女は率先して書類の整理をしてくれていた。
「今日は静かですね」
あいにくと他の仲間たちは外出をしている。
アニエスが少し寂しそうに言った矢先、タイミングを見計らったように自称『所員ではなく手伝っているだけ』のジュディスがやって来た。
この有名女優が事務所に顔を出す名目は、大抵が仕事の息抜きということになっている。
今回もご多分に漏れず、美味しそうな手土産を持参して姿を現した。
「あんたたち、暇そうねぇ」
「えっ、今日はたまたまですよ。ね、ヴァンさん?」
「そうだなぁ。ここまで仕事がねぇのは久しぶりかもな」
そんなわけで、好都合とばかりに三人でテーブルを囲んで休憩を取っている。
ジュディスはひとしきり室内を見回してから、人員の少なさにツッコミを入れた。
「思いっきり開店休業中じゃない。他の子たちはどうしたのよ?」
「フェリちゃんとリゼットさんは私用ですけど、仕事が入ればすぐに駆けつけてくれるそうです」
「カトルはバーゼルに戻ってるぜ。大学で必須の講義があるんだとさ」
二人が事務所のメンバーの所在を明らかにすると、彼女は納得してコーヒーを一啜りした。
「──で、あのオレ様な男はラングポートってわけね」
「もう、ジュディスさんったら。でも、初演まであと二週間くらいですよね。お元気でしょうか?」
最後にアーロンの話題が上がり、それに引っ張られたヴァンはお菓子を取ろうとしていた手を止めた。
「あいつなら少し前に庭城で会ったぞ。ったく、急に呼び出しやがって」
愚痴を交えた男の発言に、アニエスとジュディスが目を丸くして彼を凝視する。
「気分転換に暴れまくりたかったみたいでよ。いきなり付き合わされるこっちの身にもなれっつーの」
彼は言葉のわりには柔らかな口ぶりをしていて、どことなく幸福感が漂っている。
二人は顔を見合わせた後で、くすくすと笑い合った。
「なんだよ?」
「いえ、ヴァンさんがとっても嬉しそうにしているので」
「はぁ?そんなわけねぇだろうが。ま、まぁ……今度の公演は特に気合い入ってるなぁって感じはしたけどな」
アニエスからの指摘が図星だったのか、ヴァンは取り繕うように甘いコーヒーを喉へ流し込んだ。
「ふぅん、主役を張るわけだし色んな葛藤があるんでしょ。今回のは女形じゃないって、こっちでも話題になってるわよ」
華劇場におけるアーロンの看板役者ぶりは、首都の芸能界隈でも有名だ。
そもそもが不規則な出演ばかりなので、今回のように期間を定めての安定した公演はかなり珍しい。
「チケットはかなり早い段階で完売したって聞いたわ」
「へぇ?そりゃ、凄いな。見に行けねぇのが残念だ」
ヴァンはジュディスの説明をしきりに頷きながら聞いていた。
何だかんだ言いつつも、アーロンが役者として評価されているのは素直に誇らしい。
すると、女性たちがさっきよりも驚いた様子で口を半開きにさせている。
「ちょっと……それ、冗談よね?」
「私はてっきりアーロンさんから招待されているものとばかり」
「あんただけじゃないわ。周りはみんなそう思ってるわよ」
途端、三人の間には形容しがたい微妙な空気が生まれた。
「え、いや……あいつがそんなことするわけねぇだろ?」
無言に耐えかねたヴァンが不思議そうに首を傾げる。
「大体、招待するなら俺って言うよりも事務所括りだと思うんだが」
所長である彼にしてみれば至極もっともな意見のつもりだったが、
「はぁぁ~。何やってんのよ、あいつは」
テーブルを挟んで向かいに座っているジュディスは、大袈裟なくらいに脱力してしまった。
「あっ、危ないです!」
項垂れた頭がテーブルとぶつかりそうになり、隣に座っていたアニエスが慌ててフォローに入る。
「ふぅ、つい頭が痛くなっちゃったわ……悪いわね」
「いえ、私もちょっと同感です」
彼女らの間ではしっかりと何かが共有されているようだ。
ヴァンの方はといえば、それについては特に思い当たる節がない。
二人は驚いたり脱力したりと忙しないが、そこまでおかしな発言をしただろうか?
釈然としない気持ちを抱えながら、手にしたマグカップの中を覗き込む。
砂糖とミルクがたっぷり入ったコーヒーは、あと一口分くらい残っている。
微かに揺れているそれは、まるで今の彼の心境と重なり合っているみたいだった。
ほどなくして休憩を終えたヴァンは外出の準備を始めた。
「ちょっくらブラついてくる。掲示板に依頼がきてるかもしれねぇからな」
彼特有の鼻が利いたわけではなく、ただの口実だ。今はなんとなく外を歩きたい気分だった。
アニエスとジュディスはそんな彼の心情を察したのか、同行を申し出ることはせずに見送った。
再び事務所の中が静かになる。
「……ヴァンさん、ちょっと寂しそうに見えました」
洗い物した後の流し台を綺麗に拭きながら、アニエスがぽそりと呟いた。
「まったく、鈍いんだか素直じゃないんだか……」
ジュディスはソファーに深く沈み込むような体勢で座っていて、眉を寄せながら天井を見上げていた。
「あっちはあっちで肝心な時に押しが弱すぎんのよ。主演ならチケットの融通くらいは利くでしょうに」
彼女の美しい唇からは、不満の礫がいくらでも飛び出てきそうな勢いだ。
ヴァンとアーロンの関係性について、二人を取り巻く人々は大抵のところを察している。
元から明け透けなアーロンはともかくとして、ヴァンの方も何かと表面に出てしまっているのだ。
もちろん、本人にその自覚はないのだが。
「ヴァンさんって、とても愛おしそうにアーロンさんを見ている時がありますよね」
「あれ、バレバレよねぇ~。言葉よりも目が語ってるっていうのかしら」
それは恋だとか愛だとか、そんな形容がしっくりと当てはまる。
端から見れば十二分に両想いである──はずなのだが、どういうわけかまだ恋人同士ではないらしい。
「ほんと、まどろっこしい奴らね」
本人曰く、仕事の合間を縫って息抜きをしにきたはずなのに、やたらと溜息ばかりが吐き出される。
「今回はさすがに気をもんでしま……あっ」
アニエスは綺麗になったキッチンを満足げに見回し、ソファーに足を向ける。
対面で腰を落ち着けようとしたところで、何かを思い立って声を上げた。
「ジュディスさん、煌都のアシェンさんに連絡を取ってみませんか?」
珍しく前のめりになってザイファを取り出し、座る場所を相手の隣へ移す。
「それは名案ね!場合によっては小細工をしてもらうのもありだわ」
その勢いにつられてジュディスの声色がパッと輝いた。
「せっかくだから、後ろから蹴り飛ばしちゃいなさいよ」
今は人通りの多い賑やかな地区を歩き回る気にはなれなかった。
どちらかといえば、もう少し静かな場所の方が良い。
そう考えていたヴァンの足は、自然とリバーサイドに向かった。
景観を重視して整えられた河川は直線的で、水流はとても緩やかだ。
その上を囁くような小風が吹き抜けていく。
昼時を過ぎた屋台たちが再び活気づくにはまだ早い。長閑な雰囲気が地区の全体を包み込んでいた。
薄雲を纏った太陽の眼差しは柔らかく、散歩をするには良い具合かもしれない。
地下鉄の駅を出たヴァンは、上着のポケットに手を突っ込みながらのんびりと歩き始めた。
この地区の基調である河川には二本の橋が架けられており、そのうちの一本へ向かった彼は、中央付近に来たところで足を止めた。
欄干に身体を預け、そこからの眺望を瞳の中に映し込む。
普段ならあまり気にも留めない川音が、何故かやたらと耳に付いた。
「あんなの言われたら、余計に気になっちまうじゃねぇかよ」
ヴァンは先刻の事務所でのやり取りを思い出して息を吐く。
アニエスとジュディスに指摘されるまでは、本当に何とも思わなかったのだ。
というより、そんなことは頭の隅にも浮かばなかった。アーロンから個人的に誘われるという状況自体が。
「……やっぱり想像できねぇな」
ぽそりと独り言を落とした途端、胸の奥に寂しさが広がった。
それは彼女たちに騒がれた反動もあるのかもしれない。
ヴァンは確かに一人になりたい気分ではあった。
だが、いざその状況を作ってみれば想像以上に悶々と考え込んでしまう。
「もし、誘うなら……ん?」
そんな中、ある疑問がよぎった。
アーロンは、なぜ事務所のメンバーに声を掛けなかったのだろうか?
一ヶ月ほど前に庭城で会った時の様子からすれば、今回の舞台は渾身の一作になる位置づけだろう。
役者として、近しい人たちに見てもらいたいという気持ちが必ずどこかにあるはずだ。
彼は基本的に気っぷの良い青年だし、それは一度自分の懐に入れた者たちであればより顕著だ。
「あいつなら『てめぇら、まとめて招待してやるぜ』とか言ってきそうなもんだが」
個人的なお誘いの有無はともかくとして、今はこちらの方が気になってしまう。
ヴァンは難しい顔をしながら、欄干にもたれ掛けている上半身を起こした。
自然と前屈みの姿勢になっていたらしく、ほんの少し肩と首が痛い。
凝りを解すように軽く伸びをした後、彼はその場から動き出した。
橋を渡りきって教会や整備屋がある地区へと、綺麗に舗装された歩道を行く。
頭の中ではアーロンのことばかりを考えていた。
そのせいか、歩く速度は駅を出た時よりも随分と遅くなっていた。
「……そう言えば、庭城から出る時、らしくなかったな」
別れ際、明らかに何かを言いかけた。いつもはっきりとした物言いをする彼にしては珍しい。
あの時ヴァンに投げかけられた声は低く平坦で、一切の軽妙さを持ち合わせていなかった。
軽く首を傾げる程度で流した記憶が、今になって急に違和感となって押し寄せてくる。
もしかしたら、真面目な話だったのかもしれない。
「ちゃんと聞いておけば良かったか……」
そんな後悔が過って再び足を止めた。
何気なく川べりに視線を寄せてみると、水辺に設置してあるベンチの一台が空いている。
周囲に人影はなく、一人で物思いにふけるにはうってつけの場所だった。
ヴァンはそこに腰を下ろし、スローモーションのような雲が漂う午下の空を見上げた。
「今更だよな。もう一ヶ月は経ってる」
あれから何の音沙汰もないのは、わざわざ言い直すほどの話ではなかったということだろうか?
ぐるぐると答えの出ない問いかけばかりを繰り返す。
「声……聞きてぇな」
誰もいないのをいいことに、本音が唇から零れ落ちた。
無造作にポケットの中へ突っ込んだ手が、ザイファを掴み取る。
アーロンが煌都に帰っている期間中は、自分から連絡を取るつもりはなかった。
それは彼の稽古を邪魔したくないという一心からだったが、本心では煌都での生活ぶりも気になっていた。
純粋に雇い主としての心配や不安だとは言い切れない、くぐもった感情。
故郷の街で水を得た魚のようになっている青年の姿を想像し、勝手に放って置かれているような気分に陥っている。
庭城で顔を合わせたのは、そんな矢先のことだった。
彼の一挙一動は今でも鮮やかに脳裏を駆け巡る。
魔獣を相手に嬉々として立ち回る姿と、役者然とした真摯な眼差しと。
──別れ際のらしくない態度と。
ヴァンは手に持ったザイファをじっと見つめたまま、なかなか行動を起こそうとはしなかった。
あの時、何を言いたかったのだろう?どうして口を噤んでしまったのだろう?
そのことばかりが引っかかるくせに、どうしても踏ん切りがつかなかった。
正直、アーロンの反応が怖かった。
ログアウトした直後ならまだしも、今になってこの話題を蒸し返してもよいのか分からない。
「……はぁ」
ピクリとも動かない手元をから視線を逸らし、ヴァンは力なく項垂れた。
「やっぱ、邪魔するのは悪ぃよな。もうすぐ初日だっていうのに」
わずかばかりの勇気すら出せない己の不甲斐なさを、尤もらしい理由にすり替えて逃げ道を作る。
鬱々とした男の耳には、涼感ある水の音でさえもノイズのように聞こえた。
柔らかな陽光は絶え間なく彼の背中を慰めてくれていたが、それでも無性に寂しさを感じてしまった。
※ ※ ※
ここ数日は降雨の心配もなく落ちついた天気が続いていた。
今日も朝から綺麗な青空が広がっていて、ぽつぽつと浮かぶ雲たちが風と戯れている。
イーディスから一路、南下する道路を青いピックアップトラックが走行していた。
車内には運転手であるヴァンが一人だけ。他に同乗者はいなかった。
適度な音量で流れているラジオからは、交通情報を伝える生真面目な声がする。
「この分なら時間通りに着きそうだ」
ラングポートへの道のりはいたって順調だった。今のところ、この先に事故などの知らせはない。
主要都市同士を繋いでいる基軸の道路は、車の通行量もそれなりにあるが流れはスムーズだ。
首都の周辺とは違って渋滞で苛つくことはなく、ヴァンはちょっとしたドライブ気分を味わっている。
しかし、ここ数十分くらいは変わり映えのない長閑な風景が続いていた。
日頃から安全運転を心掛けてはいるが、ついつい緊張感が緩み小さな欠伸を零してしまう。
普段よりも起床が早かったので、それも影響しているのかもしれないが。
「……にしても、俺の周りには押しの強い奴らが多いな」
忍び寄る眠気を頭の中から追い払うため、ヴァンは事の発端を思い返してみた。
それは昨日の午後の出来事だった。
掲示板の確認がてら数カ所の地区をぶらつき、何の収穫もないまま事務所へ戻ってきた。
「今日は特に妙な臭いを感じねぇし、もう店じまいにしちまうか?」
入り口のドアを開けて中へ入ったヴァンは、後ろにいる助手の少女を振り返った。
「そうですね……」
アニエスはなぜか室内をぐるりと見回し、ある場所に視線を寄せてから意味ありげに小さく頷いた。
「いえ、ちょっと待って下さい」
「どうした?」
「ヴァンさんの机に置いてあるものが気になって。出かける時はなかったですよね?」
彼女の指摘を受けた事務所の主は、そこでようやく異変に気が付いた。
机の上には普段使っているノート型端末が一台。その横にはお洒落なデザインの紙袋が鎮座している。
「……確かに」
ヴァンは思いきり訝しげな顔をしてそれに近づき、一歩手前で足を止めた。
どこからどう見ても怪しかった。
外出の際にドアの施錠をしたのは間違いない。ついさっき自分で鍵を使用したばかりだ。
だとしたら、何者かが忍び込んだとしか考えられない。
「まさか、爆発物とかじゃねぇよな?」
恐る恐る近づき、紙袋の中を覗き込もうとした。
と、その瞬間。
上着のポケットの中から、呼び出し音が鳴り響いた。
「うお!?な、なんだよ?」
飛び上がるほど驚いた彼は、深呼吸をしてからザイファのカバーを開いた。
早鐘を打つ胸の鼓動を押さえながら応答ボタンを押すと、画面には見知った女性の顔が映し出された。
「お久しぶりね、ヴァンさん」
「お、おう、アシェンか」
軽く咳払いをして体裁を整えると、彼女は悪戯っぽく微笑みかけてきた。
「机の上のもの、ヴァンさん宛てなんだけど、受け取ってもらえたかしら?」
その言葉に面食らう。意外にあっさりと不審物の出所が分かってしまった。
ヴァンは幾度か目を瞬かせてた後、大きく息を吐き出しながら一気に脱力をする。
さっきまでの緊張感が嘘のようだった。
「あんたの仕業だったのかよ」
黒月の次世代を担うこの令嬢であれば、留守の裏解決事務所に紙袋を忍ばせることのなど容易いだろう。
彼女自身が動かなくても、数多いる配下の者たちを使えばどうにでもなる。
「なんでまた、こんなことを」
危険物ではないと分かって安心したのか、今度は躊躇なく近づいてみた。
しっかりとした作りの紙袋は、そこはかとなく品性が感じられる。表面に綴られた店名とおぼしき文字に目が留まった瞬間、ヴァンは息をのんだ。
「こ、こいつは……!?」
それは煌都でも指折りの高級料理店だった。東方料理を専門に扱っておりスイーツも絶品なのだが、一般市民にとっては高嶺の花だ。彼としても一度は訪れてみたい憧れの名店の一つでもあった。
「実は急ぎでお願いしたいことがあるのよ。お礼は前払いでよろしく」
ヴァン・アークライドという男は、筋の通らない仕事は請け負わないをモットーにしている。
だが、それと同時に甘味の類いにはめっぽう弱い。
「……もの凄く嫌な予感がするんだが」
文字通りの甘い誘惑に、ぐらぐらと心の天秤が揺れている。
「あ、それって季節限定な上に数量限定品のスイーツよ」
そこへ、とどめを刺すがごとくの一言。
「あ~っ、なんてこと言いやがる!」
ヴァンは机に両手をついてがくりと項垂れる。
スイーツを乗せた天秤の皿が派手な音を立てながら一気に傾いた。
「ヴァンさん、どうやらお仕事のようですね」
そんな中、黙って事の成り行きを見守っていたアニエスが口を開いた。
「煌都へ出張でしょうか?」
満面の笑みを浮かべて小首を傾ける少女の方へ、ヴァンが何かを悟った目を向ける。
「お前らグルだったのかよ」
改めて思い返してみれば、事務所に戻ってきた直後に紙袋の存在を示したのはアニエスだった。
アシェンから通信が入ってきた時も驚く素振りはなかったし、彼女にしてみれば全てが予定調和だったということなのだろう。
「で、そのお願いってのは?」
ヴァンはこめかみを揉み込みながら、疲れたような声で画面に問いかけた。
前払いの品を味わうことだけを楽しみにして、ここはもう腹を括るしかないと思った。
いつの間にか、走行中の窓に流れる風景が変わりつつあった。
一面に広がっていた緑の木々や草花が少なくなり、人工的な構造物が目立ち始める。
煌都ラングポートはもう目と鼻の先だった。
結局、昨日の段階では『お願い』についての情報は何も得られなかった。
アシェンに詳細を尋ねてみたものの、
「遅くても昼くらいまでには来て欲しいわ」
とだけ返され早々に通信を切られてしまった。
アニエスに矛先を向けても、
「寝坊しないで下さいね」
と和やかにはぐらかされるばかりだった。
ヴァンの脳裏に二週間ほど前の出来事が蘇る。
あの時のアニエスとジュディスの言動からして、今回の出張が無関係だとは思えなかった。
「どう考えてもあいつ絡みだろ?」
無意識のうちにハンドルを握る力が強くなる。
「会えるのは……嬉しいんだけどな」
一人きりの車内には複雑な感情を宿した吐息が大きく広がった。
呼ばれたのはアシェンからであって、アーロンからではない。
煌都に来たことが知られれば、彼にはあからさまにウザがられる。そんな想像しかできなかった。
煌都に到着したヴァンは、予め確保していた駐車場に車を止めて弌番街へ向かった。
ここはルウ家のお膝元だ。いちいち連絡を入れなくても、アシェンはとっくに彼の動きを捕捉しているだろう。
目抜き通りをぶらつき始めて掲示板の辺りに差し掛かった頃、狙い通りに声がかかる。
目にも鮮やかな瑠璃色を纏った女性が、護衛らしき男を従えて立っていた。
「ヴァンさん、いらっしゃい。待ってたわよ」
「よお、時間的には問題ねぇよな?」
ヴァンが片手を上げて気さくな挨拶をすると、アシェンは小さく頷いてから彼を人通りの少ない一画へ導いた。少し拓けているその場所は、賑わう雑踏がBGM代わりになりそうなくらいの環境で、落ち着いて会話をするには丁度良い。数人の住民たちが思い思いに時を過ごしていた。
ヴァンは周囲を見回した後、一辺の壁に背中を預けて口火を切った。
「そんで、あのガキがどうかしたのか?」
いつの間にかアシェンに付き従っていた男の姿は消え、二人きりになっていた。
もしかして、アーロンに何かあったのかもしれない。人払いをされたことで不安が首をもたげる。
だが、彼の予想に反して黒月の令嬢はあっけらかんとしていた。
「別にどうもしないわ。公演が始まってから連日満員、大絶賛であいつも元気にやってるわ」
「だったらどうして俺を呼びやがった?何の依頼だ?」
ますます訳が分からなかった。眉間に皺を寄せた顔で彼女の出方を覗う。
「昨日も言ったでしょ?『依頼』じゃなくて、あたしからの個人的な『お願い』よ」
アシェンはさらりとヴァンの言葉を訂正し、綺麗な微笑を浮かべた。
それから一呼吸を置いて語句を繋げる。
「アーロンの舞台を見てあげてほしいの」
凜とした声がその場の空気を揺らした。
真正面から男を見据える瞳は深い色をたたえ、彼女の真剣さが如実に表れている。
──やっぱりそこに行き着くのか。
ヴァンはほんの一瞬だけ瞠目したものの、さほど大きな驚きを感じなかった。
昨日からの流れを鑑みれば、この展開は予想の範囲内ではある。
もしかしたら、ほんの少しくらいは自身の願望が紛れ込んでいるのかもしれないが。
一ヶ月ほど前にアーロンと会って以降、彼の姿が脳裏に浮かぶ頻度が増えた。
仮想現実世界とはいえ、なまじ言葉を交わしてしまったせいかもしれない。
実物の顔を見たい気持ちは強くなったし、もちろん舞台のことも余計に気になった。
それならば、この機会は都合が良い。
(……でもなぁ)
しかし、ヴァンはそれをすんなりと受け取れるほど素直ではなかった。
目を閉じて口元を引き締める。ゆったりと構えていた腕組みがわずかに強ばった。
「その言い方じゃ、本人には内緒ってところか」
自分で言っておいて密かに消沈する。
今回の公演には誘われていない。個人的にどころか裏解決事務所の括りでさえも。
「そうよ。あら、もしかして断ろうとしてるの?先だってのお礼は受け取って貰えたのよね?」
一人で小難しい顔をしている男に対し、アシェンがやや目尻をつり上げて距離を詰めてくる。
きりりとした眼光は、さすが未来の女帝の風格と表するべきか。
「あー、それはまぁ。昨日、ちょっと一口頂いちまったというか……」
ヴァンは片手で頭をガシガシと掻きながら、ばつが悪そうに視線を逸らした。
本当はこの一件が片付いた後のご褒美のつもりだったが、超高級名店のネームバリューには抗えなかった。
これでアシェンのお願いを断ろうものなら、立派な食い逃げだ。全く筋が通らない。
「ふふっ、さすがヴァンさんね」
アーロンや事務所の面々とまではいかないが、彼女もこの男の人となりを把握していた。
彼に否と言われないことを確信し、さり気なく茶化しを入れながら表情を緩ませる。
「午後の公演は15時からよ。話は支配人に通してあるから、彼に声を掛けてちょうだい」
黒月の筆頭であるルウ家の令嬢はそれとなく忙しい。用件を伝え終えて鮮やかに踵を返すと、
「お、おい……てっきりチケットを寄越してくるかと思ってたんだがよ?」
ヴァンが戸惑いがちな声を上げた。
「あたしとしては、ヴァンさんには良い席で見てもらいたいのが本音よ。でも、あえて席は用意しなかったの」
アシェンは立ち止まり、顔だけを男の方へ向けた。そのまま言葉を続ける。
「会場の警備の一環という形にしてあるわ。立ち見で悪いけど、あなたもその方が気楽でしょ?」
二週間前にアニエスやジュディスとやり取りをし、その中でヴァンの心情が垣間見えたのだろう。
そして、アーロンのことも。幼い頃から家族同然に過ごしてきた彼の胸中を察することは簡単だった。
その上で端から見ればもどかしい二人を慮り、このような手段を取った。
彼女は役者ではないので、舞台へ上がった時に客席側がどのように見えるのかを知らない。
けれど、アーロンの話によれば演舞中でも意外と観客たちの顔は認識できるものらしい。
(客席じゃなくても、あいつなら……)
これは賭けのようなものだったが、アシェンの中には確固とした自信があった。
あの幼馴染みならば、絶対にこのチャンスを見逃したりはしない。
「それじゃ、よろしくね」
止まっていた足が衣服の裾を綺麗に払い、今度こそヴァンの前から立ち去る。
去り際の声は優しく響き、まるで男たちの背中を押しているかのようだった。
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とある日の午後。
裏解決事務所には華やかな笑い声とコーヒーの香りが漂っていた。
学業を終えたアニエスがアルバイトにやって来たのは、今から小一時間くらい前ことだった。
今のところはこれといった依頼がなく、彼女は率先して書類の整理をしてくれていた。
「今日は静かですね」
あいにくと他の仲間たちは外出をしている。
アニエスが少し寂しそうに言った矢先、タイミングを見計らったように自称『所員ではなく手伝っているだけ』のジュディスがやって来た。
この有名女優が事務所に顔を出す名目は、大抵が仕事の息抜きということになっている。
今回もご多分に漏れず、美味しそうな手土産を持参して姿を現した。
「あんたたち、暇そうねぇ」
「えっ、今日はたまたまですよ。ね、ヴァンさん?」
「そうだなぁ。ここまで仕事がねぇのは久しぶりかもな」
そんなわけで、好都合とばかりに三人でテーブルを囲んで休憩を取っている。
ジュディスはひとしきり室内を見回してから、人員の少なさにツッコミを入れた。
「思いっきり開店休業中じゃない。他の子たちはどうしたのよ?」
「フェリちゃんとリゼットさんは私用ですけど、仕事が入ればすぐに駆けつけてくれるそうです」
「カトルはバーゼルに戻ってるぜ。大学で必須の講義があるんだとさ」
二人が事務所のメンバーの所在を明らかにすると、彼女は納得してコーヒーを一啜りした。
「──で、あのオレ様な男はラングポートってわけね」
「もう、ジュディスさんったら。でも、初演まであと二週間くらいですよね。お元気でしょうか?」
最後にアーロンの話題が上がり、それに引っ張られたヴァンはお菓子を取ろうとしていた手を止めた。
「あいつなら少し前に庭城で会ったぞ。ったく、急に呼び出しやがって」
愚痴を交えた男の発言に、アニエスとジュディスが目を丸くして彼を凝視する。
「気分転換に暴れまくりたかったみたいでよ。いきなり付き合わされるこっちの身にもなれっつーの」
彼は言葉のわりには柔らかな口ぶりをしていて、どことなく幸福感が漂っている。
二人は顔を見合わせた後で、くすくすと笑い合った。
「なんだよ?」
「いえ、ヴァンさんがとっても嬉しそうにしているので」
「はぁ?そんなわけねぇだろうが。ま、まぁ……今度の公演は特に気合い入ってるなぁって感じはしたけどな」
アニエスからの指摘が図星だったのか、ヴァンは取り繕うように甘いコーヒーを喉へ流し込んだ。
「ふぅん、主役を張るわけだし色んな葛藤があるんでしょ。今回のは女形じゃないって、こっちでも話題になってるわよ」
華劇場におけるアーロンの看板役者ぶりは、首都の芸能界隈でも有名だ。
そもそもが不規則な出演ばかりなので、今回のように期間を定めての安定した公演はかなり珍しい。
「チケットはかなり早い段階で完売したって聞いたわ」
「へぇ?そりゃ、凄いな。見に行けねぇのが残念だ」
ヴァンはジュディスの説明をしきりに頷きながら聞いていた。
何だかんだ言いつつも、アーロンが役者として評価されているのは素直に誇らしい。
すると、女性たちがさっきよりも驚いた様子で口を半開きにさせている。
「ちょっと……それ、冗談よね?」
「私はてっきりアーロンさんから招待されているものとばかり」
「あんただけじゃないわ。周りはみんなそう思ってるわよ」
途端、三人の間には形容しがたい微妙な空気が生まれた。
「え、いや……あいつがそんなことするわけねぇだろ?」
無言に耐えかねたヴァンが不思議そうに首を傾げる。
「大体、招待するなら俺って言うよりも事務所括りだと思うんだが」
所長である彼にしてみれば至極もっともな意見のつもりだったが、
「はぁぁ~。何やってんのよ、あいつは」
テーブルを挟んで向かいに座っているジュディスは、大袈裟なくらいに脱力してしまった。
「あっ、危ないです!」
項垂れた頭がテーブルとぶつかりそうになり、隣に座っていたアニエスが慌ててフォローに入る。
「ふぅ、つい頭が痛くなっちゃったわ……悪いわね」
「いえ、私もちょっと同感です」
彼女らの間ではしっかりと何かが共有されているようだ。
ヴァンの方はといえば、それについては特に思い当たる節がない。
二人は驚いたり脱力したりと忙しないが、そこまでおかしな発言をしただろうか?
釈然としない気持ちを抱えながら、手にしたマグカップの中を覗き込む。
砂糖とミルクがたっぷり入ったコーヒーは、あと一口分くらい残っている。
微かに揺れているそれは、まるで今の彼の心境と重なり合っているみたいだった。
ほどなくして休憩を終えたヴァンは外出の準備を始めた。
「ちょっくらブラついてくる。掲示板に依頼がきてるかもしれねぇからな」
彼特有の鼻が利いたわけではなく、ただの口実だ。今はなんとなく外を歩きたい気分だった。
アニエスとジュディスはそんな彼の心情を察したのか、同行を申し出ることはせずに見送った。
再び事務所の中が静かになる。
「……ヴァンさん、ちょっと寂しそうに見えました」
洗い物した後の流し台を綺麗に拭きながら、アニエスがぽそりと呟いた。
「まったく、鈍いんだか素直じゃないんだか……」
ジュディスはソファーに深く沈み込むような体勢で座っていて、眉を寄せながら天井を見上げていた。
「あっちはあっちで肝心な時に押しが弱すぎんのよ。主演ならチケットの融通くらいは利くでしょうに」
彼女の美しい唇からは、不満の礫がいくらでも飛び出てきそうな勢いだ。
ヴァンとアーロンの関係性について、二人を取り巻く人々は大抵のところを察している。
元から明け透けなアーロンはともかくとして、ヴァンの方も何かと表面に出てしまっているのだ。
もちろん、本人にその自覚はないのだが。
「ヴァンさんって、とても愛おしそうにアーロンさんを見ている時がありますよね」
「あれ、バレバレよねぇ~。言葉よりも目が語ってるっていうのかしら」
それは恋だとか愛だとか、そんな形容がしっくりと当てはまる。
端から見れば十二分に両想いである──はずなのだが、どういうわけかまだ恋人同士ではないらしい。
「ほんと、まどろっこしい奴らね」
本人曰く、仕事の合間を縫って息抜きをしにきたはずなのに、やたらと溜息ばかりが吐き出される。
「今回はさすがに気をもんでしま……あっ」
アニエスは綺麗になったキッチンを満足げに見回し、ソファーに足を向ける。
対面で腰を落ち着けようとしたところで、何かを思い立って声を上げた。
「ジュディスさん、煌都のアシェンさんに連絡を取ってみませんか?」
珍しく前のめりになってザイファを取り出し、座る場所を相手の隣へ移す。
「それは名案ね!場合によっては小細工をしてもらうのもありだわ」
その勢いにつられてジュディスの声色がパッと輝いた。
「せっかくだから、後ろから蹴り飛ばしちゃいなさいよ」
今は人通りの多い賑やかな地区を歩き回る気にはなれなかった。
どちらかといえば、もう少し静かな場所の方が良い。
そう考えていたヴァンの足は、自然とリバーサイドに向かった。
景観を重視して整えられた河川は直線的で、水流はとても緩やかだ。
その上を囁くような小風が吹き抜けていく。
昼時を過ぎた屋台たちが再び活気づくにはまだ早い。長閑な雰囲気が地区の全体を包み込んでいた。
薄雲を纏った太陽の眼差しは柔らかく、散歩をするには良い具合かもしれない。
地下鉄の駅を出たヴァンは、上着のポケットに手を突っ込みながらのんびりと歩き始めた。
この地区の基調である河川には二本の橋が架けられており、そのうちの一本へ向かった彼は、中央付近に来たところで足を止めた。
欄干に身体を預け、そこからの眺望を瞳の中に映し込む。
普段ならあまり気にも留めない川音が、何故かやたらと耳に付いた。
「あんなの言われたら、余計に気になっちまうじゃねぇかよ」
ヴァンは先刻の事務所でのやり取りを思い出して息を吐く。
アニエスとジュディスに指摘されるまでは、本当に何とも思わなかったのだ。
というより、そんなことは頭の隅にも浮かばなかった。アーロンから個人的に誘われるという状況自体が。
「……やっぱり想像できねぇな」
ぽそりと独り言を落とした途端、胸の奥に寂しさが広がった。
それは彼女たちに騒がれた反動もあるのかもしれない。
ヴァンは確かに一人になりたい気分ではあった。
だが、いざその状況を作ってみれば想像以上に悶々と考え込んでしまう。
「もし、誘うなら……ん?」
そんな中、ある疑問がよぎった。
アーロンは、なぜ事務所のメンバーに声を掛けなかったのだろうか?
一ヶ月ほど前に庭城で会った時の様子からすれば、今回の舞台は渾身の一作になる位置づけだろう。
役者として、近しい人たちに見てもらいたいという気持ちが必ずどこかにあるはずだ。
彼は基本的に気っぷの良い青年だし、それは一度自分の懐に入れた者たちであればより顕著だ。
「あいつなら『てめぇら、まとめて招待してやるぜ』とか言ってきそうなもんだが」
個人的なお誘いの有無はともかくとして、今はこちらの方が気になってしまう。
ヴァンは難しい顔をしながら、欄干にもたれ掛けている上半身を起こした。
自然と前屈みの姿勢になっていたらしく、ほんの少し肩と首が痛い。
凝りを解すように軽く伸びをした後、彼はその場から動き出した。
橋を渡りきって教会や整備屋がある地区へと、綺麗に舗装された歩道を行く。
頭の中ではアーロンのことばかりを考えていた。
そのせいか、歩く速度は駅を出た時よりも随分と遅くなっていた。
「……そう言えば、庭城から出る時、らしくなかったな」
別れ際、明らかに何かを言いかけた。いつもはっきりとした物言いをする彼にしては珍しい。
あの時ヴァンに投げかけられた声は低く平坦で、一切の軽妙さを持ち合わせていなかった。
軽く首を傾げる程度で流した記憶が、今になって急に違和感となって押し寄せてくる。
もしかしたら、真面目な話だったのかもしれない。
「ちゃんと聞いておけば良かったか……」
そんな後悔が過って再び足を止めた。
何気なく川べりに視線を寄せてみると、水辺に設置してあるベンチの一台が空いている。
周囲に人影はなく、一人で物思いにふけるにはうってつけの場所だった。
ヴァンはそこに腰を下ろし、スローモーションのような雲が漂う午下の空を見上げた。
「今更だよな。もう一ヶ月は経ってる」
あれから何の音沙汰もないのは、わざわざ言い直すほどの話ではなかったということだろうか?
ぐるぐると答えの出ない問いかけばかりを繰り返す。
「声……聞きてぇな」
誰もいないのをいいことに、本音が唇から零れ落ちた。
無造作にポケットの中へ突っ込んだ手が、ザイファを掴み取る。
アーロンが煌都に帰っている期間中は、自分から連絡を取るつもりはなかった。
それは彼の稽古を邪魔したくないという一心からだったが、本心では煌都での生活ぶりも気になっていた。
純粋に雇い主としての心配や不安だとは言い切れない、くぐもった感情。
故郷の街で水を得た魚のようになっている青年の姿を想像し、勝手に放って置かれているような気分に陥っている。
庭城で顔を合わせたのは、そんな矢先のことだった。
彼の一挙一動は今でも鮮やかに脳裏を駆け巡る。
魔獣を相手に嬉々として立ち回る姿と、役者然とした真摯な眼差しと。
──別れ際のらしくない態度と。
ヴァンは手に持ったザイファをじっと見つめたまま、なかなか行動を起こそうとはしなかった。
あの時、何を言いたかったのだろう?どうして口を噤んでしまったのだろう?
そのことばかりが引っかかるくせに、どうしても踏ん切りがつかなかった。
正直、アーロンの反応が怖かった。
ログアウトした直後ならまだしも、今になってこの話題を蒸し返してもよいのか分からない。
「……はぁ」
ピクリとも動かない手元をから視線を逸らし、ヴァンは力なく項垂れた。
「やっぱ、邪魔するのは悪ぃよな。もうすぐ初日だっていうのに」
わずかばかりの勇気すら出せない己の不甲斐なさを、尤もらしい理由にすり替えて逃げ道を作る。
鬱々とした男の耳には、涼感ある水の音でさえもノイズのように聞こえた。
柔らかな陽光は絶え間なく彼の背中を慰めてくれていたが、それでも無性に寂しさを感じてしまった。
※ ※ ※
ここ数日は降雨の心配もなく落ちついた天気が続いていた。
今日も朝から綺麗な青空が広がっていて、ぽつぽつと浮かぶ雲たちが風と戯れている。
イーディスから一路、南下する道路を青いピックアップトラックが走行していた。
車内には運転手であるヴァンが一人だけ。他に同乗者はいなかった。
適度な音量で流れているラジオからは、交通情報を伝える生真面目な声がする。
「この分なら時間通りに着きそうだ」
ラングポートへの道のりはいたって順調だった。今のところ、この先に事故などの知らせはない。
主要都市同士を繋いでいる基軸の道路は、車の通行量もそれなりにあるが流れはスムーズだ。
首都の周辺とは違って渋滞で苛つくことはなく、ヴァンはちょっとしたドライブ気分を味わっている。
しかし、ここ数十分くらいは変わり映えのない長閑な風景が続いていた。
日頃から安全運転を心掛けてはいるが、ついつい緊張感が緩み小さな欠伸を零してしまう。
普段よりも起床が早かったので、それも影響しているのかもしれないが。
「……にしても、俺の周りには押しの強い奴らが多いな」
忍び寄る眠気を頭の中から追い払うため、ヴァンは事の発端を思い返してみた。
それは昨日の午後の出来事だった。
掲示板の確認がてら数カ所の地区をぶらつき、何の収穫もないまま事務所へ戻ってきた。
「今日は特に妙な臭いを感じねぇし、もう店じまいにしちまうか?」
入り口のドアを開けて中へ入ったヴァンは、後ろにいる助手の少女を振り返った。
「そうですね……」
アニエスはなぜか室内をぐるりと見回し、ある場所に視線を寄せてから意味ありげに小さく頷いた。
「いえ、ちょっと待って下さい」
「どうした?」
「ヴァンさんの机に置いてあるものが気になって。出かける時はなかったですよね?」
彼女の指摘を受けた事務所の主は、そこでようやく異変に気が付いた。
机の上には普段使っているノート型端末が一台。その横にはお洒落なデザインの紙袋が鎮座している。
「……確かに」
ヴァンは思いきり訝しげな顔をしてそれに近づき、一歩手前で足を止めた。
どこからどう見ても怪しかった。
外出の際にドアの施錠をしたのは間違いない。ついさっき自分で鍵を使用したばかりだ。
だとしたら、何者かが忍び込んだとしか考えられない。
「まさか、爆発物とかじゃねぇよな?」
恐る恐る近づき、紙袋の中を覗き込もうとした。
と、その瞬間。
上着のポケットの中から、呼び出し音が鳴り響いた。
「うお!?な、なんだよ?」
飛び上がるほど驚いた彼は、深呼吸をしてからザイファのカバーを開いた。
早鐘を打つ胸の鼓動を押さえながら応答ボタンを押すと、画面には見知った女性の顔が映し出された。
「お久しぶりね、ヴァンさん」
「お、おう、アシェンか」
軽く咳払いをして体裁を整えると、彼女は悪戯っぽく微笑みかけてきた。
「机の上のもの、ヴァンさん宛てなんだけど、受け取ってもらえたかしら?」
その言葉に面食らう。意外にあっさりと不審物の出所が分かってしまった。
ヴァンは幾度か目を瞬かせてた後、大きく息を吐き出しながら一気に脱力をする。
さっきまでの緊張感が嘘のようだった。
「あんたの仕業だったのかよ」
黒月の次世代を担うこの令嬢であれば、留守の裏解決事務所に紙袋を忍ばせることのなど容易いだろう。
彼女自身が動かなくても、数多いる配下の者たちを使えばどうにでもなる。
「なんでまた、こんなことを」
危険物ではないと分かって安心したのか、今度は躊躇なく近づいてみた。
しっかりとした作りの紙袋は、そこはかとなく品性が感じられる。表面に綴られた店名とおぼしき文字に目が留まった瞬間、ヴァンは息をのんだ。
「こ、こいつは……!?」
それは煌都でも指折りの高級料理店だった。東方料理を専門に扱っておりスイーツも絶品なのだが、一般市民にとっては高嶺の花だ。彼としても一度は訪れてみたい憧れの名店の一つでもあった。
「実は急ぎでお願いしたいことがあるのよ。お礼は前払いでよろしく」
ヴァン・アークライドという男は、筋の通らない仕事は請け負わないをモットーにしている。
だが、それと同時に甘味の類いにはめっぽう弱い。
「……もの凄く嫌な予感がするんだが」
文字通りの甘い誘惑に、ぐらぐらと心の天秤が揺れている。
「あ、それって季節限定な上に数量限定品のスイーツよ」
そこへ、とどめを刺すがごとくの一言。
「あ~っ、なんてこと言いやがる!」
ヴァンは机に両手をついてがくりと項垂れる。
スイーツを乗せた天秤の皿が派手な音を立てながら一気に傾いた。
「ヴァンさん、どうやらお仕事のようですね」
そんな中、黙って事の成り行きを見守っていたアニエスが口を開いた。
「煌都へ出張でしょうか?」
満面の笑みを浮かべて小首を傾ける少女の方へ、ヴァンが何かを悟った目を向ける。
「お前らグルだったのかよ」
改めて思い返してみれば、事務所に戻ってきた直後に紙袋の存在を示したのはアニエスだった。
アシェンから通信が入ってきた時も驚く素振りはなかったし、彼女にしてみれば全てが予定調和だったということなのだろう。
「で、そのお願いってのは?」
ヴァンはこめかみを揉み込みながら、疲れたような声で画面に問いかけた。
前払いの品を味わうことだけを楽しみにして、ここはもう腹を括るしかないと思った。
いつの間にか、走行中の窓に流れる風景が変わりつつあった。
一面に広がっていた緑の木々や草花が少なくなり、人工的な構造物が目立ち始める。
煌都ラングポートはもう目と鼻の先だった。
結局、昨日の段階では『お願い』についての情報は何も得られなかった。
アシェンに詳細を尋ねてみたものの、
「遅くても昼くらいまでには来て欲しいわ」
とだけ返され早々に通信を切られてしまった。
アニエスに矛先を向けても、
「寝坊しないで下さいね」
と和やかにはぐらかされるばかりだった。
ヴァンの脳裏に二週間ほど前の出来事が蘇る。
あの時のアニエスとジュディスの言動からして、今回の出張が無関係だとは思えなかった。
「どう考えてもあいつ絡みだろ?」
無意識のうちにハンドルを握る力が強くなる。
「会えるのは……嬉しいんだけどな」
一人きりの車内には複雑な感情を宿した吐息が大きく広がった。
呼ばれたのはアシェンからであって、アーロンからではない。
煌都に来たことが知られれば、彼にはあからさまにウザがられる。そんな想像しかできなかった。
煌都に到着したヴァンは、予め確保していた駐車場に車を止めて弌番街へ向かった。
ここはルウ家のお膝元だ。いちいち連絡を入れなくても、アシェンはとっくに彼の動きを捕捉しているだろう。
目抜き通りをぶらつき始めて掲示板の辺りに差し掛かった頃、狙い通りに声がかかる。
目にも鮮やかな瑠璃色を纏った女性が、護衛らしき男を従えて立っていた。
「ヴァンさん、いらっしゃい。待ってたわよ」
「よお、時間的には問題ねぇよな?」
ヴァンが片手を上げて気さくな挨拶をすると、アシェンは小さく頷いてから彼を人通りの少ない一画へ導いた。少し拓けているその場所は、賑わう雑踏がBGM代わりになりそうなくらいの環境で、落ち着いて会話をするには丁度良い。数人の住民たちが思い思いに時を過ごしていた。
ヴァンは周囲を見回した後、一辺の壁に背中を預けて口火を切った。
「そんで、あのガキがどうかしたのか?」
いつの間にかアシェンに付き従っていた男の姿は消え、二人きりになっていた。
もしかして、アーロンに何かあったのかもしれない。人払いをされたことで不安が首をもたげる。
だが、彼の予想に反して黒月の令嬢はあっけらかんとしていた。
「別にどうもしないわ。公演が始まってから連日満員、大絶賛であいつも元気にやってるわ」
「だったらどうして俺を呼びやがった?何の依頼だ?」
ますます訳が分からなかった。眉間に皺を寄せた顔で彼女の出方を覗う。
「昨日も言ったでしょ?『依頼』じゃなくて、あたしからの個人的な『お願い』よ」
アシェンはさらりとヴァンの言葉を訂正し、綺麗な微笑を浮かべた。
それから一呼吸を置いて語句を繋げる。
「アーロンの舞台を見てあげてほしいの」
凜とした声がその場の空気を揺らした。
真正面から男を見据える瞳は深い色をたたえ、彼女の真剣さが如実に表れている。
──やっぱりそこに行き着くのか。
ヴァンはほんの一瞬だけ瞠目したものの、さほど大きな驚きを感じなかった。
昨日からの流れを鑑みれば、この展開は予想の範囲内ではある。
もしかしたら、ほんの少しくらいは自身の願望が紛れ込んでいるのかもしれないが。
一ヶ月ほど前にアーロンと会って以降、彼の姿が脳裏に浮かぶ頻度が増えた。
仮想現実世界とはいえ、なまじ言葉を交わしてしまったせいかもしれない。
実物の顔を見たい気持ちは強くなったし、もちろん舞台のことも余計に気になった。
それならば、この機会は都合が良い。
(……でもなぁ)
しかし、ヴァンはそれをすんなりと受け取れるほど素直ではなかった。
目を閉じて口元を引き締める。ゆったりと構えていた腕組みがわずかに強ばった。
「その言い方じゃ、本人には内緒ってところか」
自分で言っておいて密かに消沈する。
今回の公演には誘われていない。個人的にどころか裏解決事務所の括りでさえも。
「そうよ。あら、もしかして断ろうとしてるの?先だってのお礼は受け取って貰えたのよね?」
一人で小難しい顔をしている男に対し、アシェンがやや目尻をつり上げて距離を詰めてくる。
きりりとした眼光は、さすが未来の女帝の風格と表するべきか。
「あー、それはまぁ。昨日、ちょっと一口頂いちまったというか……」
ヴァンは片手で頭をガシガシと掻きながら、ばつが悪そうに視線を逸らした。
本当はこの一件が片付いた後のご褒美のつもりだったが、超高級名店のネームバリューには抗えなかった。
これでアシェンのお願いを断ろうものなら、立派な食い逃げだ。全く筋が通らない。
「ふふっ、さすがヴァンさんね」
アーロンや事務所の面々とまではいかないが、彼女もこの男の人となりを把握していた。
彼に否と言われないことを確信し、さり気なく茶化しを入れながら表情を緩ませる。
「午後の公演は15時からよ。話は支配人に通してあるから、彼に声を掛けてちょうだい」
黒月の筆頭であるルウ家の令嬢はそれとなく忙しい。用件を伝え終えて鮮やかに踵を返すと、
「お、おい……てっきりチケットを寄越してくるかと思ってたんだがよ?」
ヴァンが戸惑いがちな声を上げた。
「あたしとしては、ヴァンさんには良い席で見てもらいたいのが本音よ。でも、あえて席は用意しなかったの」
アシェンは立ち止まり、顔だけを男の方へ向けた。そのまま言葉を続ける。
「会場の警備の一環という形にしてあるわ。立ち見で悪いけど、あなたもその方が気楽でしょ?」
二週間前にアニエスやジュディスとやり取りをし、その中でヴァンの心情が垣間見えたのだろう。
そして、アーロンのことも。幼い頃から家族同然に過ごしてきた彼の胸中を察することは簡単だった。
その上で端から見ればもどかしい二人を慮り、このような手段を取った。
彼女は役者ではないので、舞台へ上がった時に客席側がどのように見えるのかを知らない。
けれど、アーロンの話によれば演舞中でも意外と観客たちの顔は認識できるものらしい。
(客席じゃなくても、あいつなら……)
これは賭けのようなものだったが、アシェンの中には確固とした自信があった。
あの幼馴染みならば、絶対にこのチャンスを見逃したりはしない。
「それじゃ、よろしくね」
止まっていた足が衣服の裾を綺麗に払い、今度こそヴァンの前から立ち去る。
去り際の声は優しく響き、まるで男たちの背中を押しているかのようだった。
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舞えよ鳳翼 蒼い欠片の傍らで①
煌都ラングポートはカルバード共和国の主要都市の一つだ。
ひとたび駅に列車が到着すれば、ホームは乗降する人々で溢れかえって騒がしくなる。
その中をひときわ色鮮やかな赤髪の青年が歩いていた。
人の流れに任せて改札口を通り抜け、駅舎の外へ出る。
彼は慣れ親しんだ潮風の香りを胸いっぱいに吸い込むと、列車移動で凝り固まった身体を大きく伸ばした。
「なんか、すげぇ久しぶりな気がするぜ」
刺激的な遊び場には困らない首都での生活も悪くないが、やはり生まれ育ったこの街が一番だ。
第八ゲネシスの件が一段落し、差し迫った憂いがなくなったことで自然と心が軽くなる。
朱色を基調とした東方人街は特段変わりなく、帰ってきた青年を出迎えてくれた。
様々な店が軒を連ねる目抜き通りに入ると、すぐさま住民に声をかけられる。
「よぉ!麒麟児、帰ってきてたのか」
「おう、ついさっきな」
美味しそうな匂いにつられて店先を覗き込めば、主の老婦が柔和な顔を向けてくる。
「おや?お帰り、アーロン。元気にやってたみたいだねぇ」
「ばあさんも達者で何よりだぜ。しばらくはこっちにいるからよ、なんかあったら声かけてくれ」
更に道を進むと、今度は可愛らし少女が駆け寄ってきた。
「アーロンちゃん、おかえりなさ~い!」
「──うぉ!?突進してくんなって」
無邪気なタックルを真正面から受け止め、腰元にある頭をくしゃくしゃとかき混ぜる。
「えへへ、だって嬉しいんだもん。お母さんがね、新作の公演があるからもうすぐ帰ってくるよ~って言ってたの」
言葉通りの感情を宿した瞳が、少女の顔をより一層輝かせる。
「ねぇ、ねぇ、アーロンちゃんいつ出るの?明日?明後日?」
「ははっ、気が早ぇな~。初日まではあと二ヶ月くらいだぜ。それまでにいっぱい稽古しなきゃなんねぇからな」
「えー、そんなに先なの?」
子供の表情はコロコロ変わる。不満げに頬を膨らませた小さなファンに対し、アーロンは目線を合わせるようにしてしゃがみ込んだ。
「なに、あっという間だ。開演したら見に来いよ」
そして、明朗な笑顔を広げながらもう一度少女の頭に手を置いた。
彼は意図的に挨拶回りをしているつもりはなかったが、この辺りには顔馴染みも多く、つい会話が弾みがちになる。
華劇場に顔を出す前にどうしても寄りたい場所があるのだが、ついつい足の運びが鈍くなっていた。
ふと晴れ渡った空を仰いでみると、そろそろ太陽が真上に差し掛かり始める頃合いだった。
「──そろそろ行かねぇとな」
アーロンは降り注ぐ陽光に目を細め、ぼそりと呟いた。
海鳥たちの鳴き声が風に混じって微かに聞こえる。音はそれだけだった。
賑やかな街の風景とは異なり、今は亡き人々が眠るこの地には静謐な空気が漂っている。
海を見渡せる高台には整然と墓石が並び、しっかりと管理が行き届いていた。
アーロンはその中の一画で立ち止まった。周囲に他の人影はなく本当に静かだった。
「帰ったぜ。お袋」
短い挨拶をした後、墓地に向かうまでの道程で用意した花と線香を供える。
細い煙が立ち上り、地面に膝をついて黙祷をした身体に薫りが纏わり付いた。
彼は普段から足繁くここに通っているわけではなかった。
もちろん命日の墓参りは欠かさないが、それ以外は折に触れてはといった具合だ。
今日は数ヶ月ぶりの帰郷ということもあって訪れたが、それと共に大事な用件があった。
「……本意じゃねぇが、預かってきたもんがある」
しばらくして、アーロンは苦虫を噛み潰したような顔で墓前を見上げた。
バッグから極々薄い冊子を取り出し、ゆっくりとそれを開く。
中には押し花が一枚だけ。白い百合の花が綺麗な状態で保存されていた。
それは学藝祭の日にイーディスで再会した父から預かった物だった。
煌都において弔いに最良だと言われる清翠の百合とは異なるが、よく似た形状をしている。
「あの野郎……生花じゃ保たねぇだろうが。受け取っちまったオレもオレだけどよ」
当時は花持ちのことまでは考えが至らなかったので、後になってどうしたものかと頭を悩ませる羽目になってしまった。
すぐに煌都へ帰れる状況ではなかったし、かといって誰かに代行してもらうのは違う気がした。
萎れてしまうであろう花を自分が調達し直す案もあったが、それは即座に打ち消した。
この手向けは、曲がりなりにも彼が持つ亡き妻への愛情の一部なのだろう。
それが解らなほど子供ではなかった。
「まぁ、嬉しいかどうかは知らねぇけどな」
アーロンは薄い紙に覆われた花を取り出し、丁寧に墓石の前へ置いた。
この場所は高台に位置しているものの、一年を通じて穏やかな風が流れている。
生花の時よりも軽量だが、飛ばされる心配はないだろう。
大切な預かり物を渡し終えると、彼はゆっくりと立ち上がって母の面影を見つめた。
「たぶん、嬉しいんだろう……な」
親子三人で暮らしていた頃の記憶に微笑ましい情景はない。
飲んだくれのあの男が家に寄りつくのは、金が尽きた時だけだ。
当然、仲睦まじい夫婦の姿など見たことはなかった。
だから、ずっと疑問だった。彼女が文句も言わず夫に尽くしていたことが。
「なんで、あんなろくでなしが好きだったんだよ?」
問いかけの先には物言わぬ墓標があるだけで、返答などは期待していなかった。
突如、ふわりと優しい風が頬を撫でるように揺蕩う。
『あなたはどうして好きなの?』
まるで問い返されているような幻聴。
瞠目したアーロンは、無意識のうちに一歩後退ってしまった。
心の奥に住み着いている人影を覗かれている気分が拭えない。
「あいつは……」
足元に視線を落として意中の人を思い浮かべてみる。
「気持ち悪ぃくらいに甘党だし、趣味のことになるとマジでうぜぇし」
青いコートを着た男が片手で頭を掻きながら苦笑している。
「何かにつけて保護者面してくるし。オレをチビ共と一緒くたにしやがって」
夜明け前の空色を宿した瞳が、揶揄い混じりの表情を向けてきた。
考えれば考えるほど、愚痴や文句ばかりが出てきてしまう。
気恥ずかしくて素直になれないだとか、そんな感情からではなかった。
彼に惹かれている部分はいくらでもあるはずなのに、陳腐で拙い語句ばかりが頭の中で浮かんでは消えていく。
アーロンは『どうして?』の答えを明確な言語として表すことができなかった。
ついには唇を引き結ぶ。
衣服の胸元を握りしめながら両目を閉じると、再び小風が彼の周囲を舞い踊った。
今度は優しいというよりも、少しだけ元気づけるような明るい面持ちで。
「あぁ、理屈じゃねぇのか……こういうのって」
そこで彼は気が付いた。
この恋情はいくら言葉を並べ立てたとしても説明しきれない。
頭でっかちな思考よりも、まずは先に心が動いたのだ。
少しずつ積み重なっていく縁と比例するように、胸の奥に灯った焔は大きく育っていく。
言葉にできないほどの狂おしい想いというものは確かに存在していた。
「なぁ、お袋も同じだったのか?」
アーロンは俯いていた顔を上げて真っ直ぐに墓標を見据えた。
表面に広がる沈んだ色は綺麗に削ぎ落とされ、どこかさっぱりとした面持ちで口元を緩ませる。
彼がいくら実父を嫌悪したとしても、母にとってはずっと愛おしい男のままだったのかもしれない。
己が誰かを求めるようになった今、ようやくそれが理解できた。
ふと空を見上げてみると、頭上を一羽の白い海鳥が悠々と滑空しているところだった。
小さな鳴き声は鈴の音のようで、まるで彼女が返事をしてくれているような気がした。
墓地での用事を終えたアーロンは、再び東方人街に戻ってきた。
馴染みの店で手短に昼食を済ませて華劇場へと向かう。
公演に向けて本格的に動き出すのは明日以降なので、今日は帰郷の報告も兼ねて軽く顔を出しに行くつもりだった。
ザイファを取り出して時計を確認すると、丁度午後の定期公演が始まったばかりの時間帯だ。
「支配人くらいには挨拶しとくか」
彼はそう呟きながら手慣れた動きでカバーを閉じた。
もう随分と使い込んでいる端末なので、何の目新しさもないはずなのだが──今日は違っていた。
昼下がりの陽光を受け、蒼い意匠がより鮮やかに際立つ。
それに視線を寄せている青年は、知らずの内に破顔していた。
「おーい、アーロン!」
すると、前方から手を振って駆け寄ってくる友人の姿があった。
「っ!?なんだ、シドかよ。他の奴らはいねぇのか?」
心ここにあらずだったのか、アーロンは一瞬だけ肩を揺らしてから即座に表情を引き締めた。
「ははっ、久しぶりだってのにつれねぇな!」
シドは嬉しそうに笑いながら、数ヶ月ぶりに会った友人の背中を叩いた。
「今日は夕方あたりに集まるぜ。お前も……おっ?」
その流れで、ふと彼が持っているザイファに目を留めた。
「カバー替えたのか?凄げぇカッコイイな」
「……あぁ、少し前にイーディスで見つけた」
アーロンは咄嗟に嘘を吐いてしまった。
このザイファのカバーはヴァンに貰った物だ。
裏解決事務所の面々を束ねる所長は、やたらと皆に物を贈りたがる。
そこに他意はなく、街を歩いていたら良さそうな物を見つけた、くらいの感覚なのだろう。
彼の品物選びは的確で、一様に皆を喜ばせている。
このカバーの時も同じだった。
お前が好きそうだからと、何の前触れもなく手渡してきた。
蒼を基調にして施された先鋭的なデザインは、いかにも若者が好みそうな代物だった。
実際はアーロンも一目見てすぐに気に入ってしまったのだが、そこは素直とは言い難い性分だ。
「しょうがねぇから、貰っておいてやるよ」
仏頂面をしながら、引ったくるように受け取るしかなかった。
半年くらい前の出来事を反芻してみると、また表情筋が緩みそうになる。
「向こうじゃ気分次第で替えてる」
これも嘘だ。
イーディスで過ごしている間、この蒼いカバーは一度も使用していない。
それどころか、自室のキャビネットに押し込んだままで誰にも見せていなかった。
本音を言えばすぐさま付け替えたいところだったが、捻くれた受け取り方をした手前、いくらなんでも恥ずかしすぎる。彼特有の矜持がそれを思い止まらせた。
そんなわけで、次に煌都へ帰る時まではとお預けにしておいたのだ。
ここなら贈り主のヴァンは居ないし、同僚たちに揶揄される心配もなかった。
「ま、しばらくはこいつと過ごすつもりだけどな」
苦笑いで新品の傷一つないカバーを指で弾く。
そして、そそくさとザイファを持っている手ごとポケットに突っ込んだ。
気の置けない友人を前にして、いつものように表裏なく立ち回れない自分が滑稽だった。
ヴァンのことになると、どうしても調子が狂ってしまう。
隠し通すつもりはないが、率先して公言したいかと問われれば微妙なところだ。
そもそも、まだ──恋人じゃない。何も手に入れてはいない。
無意識に墓参りの余韻を引きずっているのか、複雑な胸中が入り交じる。
それを宥めるように、ひっそりと手の中の蒼を握りしめた。
離れていても彼の存在を感じられるような気がして、指先が仄かに温かかった。
※ ※ ※
新作の初演まではあと一ヶ月といったところだ。
煌都へ帰ってきてからは瞬く間に時間が過ぎ去っていく。
アーロンは稽古や打ち合わせを抱え、華劇場と自宅を行き来する日々を送っていた。
しかし、そこは彼のこと。夜にはしっかりと遊び歩き、昼間は街の困りごとなどに手を貸していた。
尤も、普段と比べればかなり控えめにはしているのだが。
稽古が終わり解散の声がかかると、あたりはすぐさま和気あいあいとした雰囲気になった。
帰りの挨拶やら、ちょっとした雑談やら。稽古中は張り詰めていた空気が一変する。
アーロンも気さくにそれらの輪に入っていたが、身支度を整える素振りを見せなかった。
「お前、まだやるのか?」
それを気に留めた共演者の男が声をかける。
「あぁ、ちょいと気になる部分があってよ」
今回の舞台で主役を張る青年は、演舞用の双剣を軽く持ち上げた。
「なんか気合い入ってるわね」
今度は演出担当の女が興味深げに覗き込んでくる。
「ん~、まぁ、女形じゃねぇのって久しぶりだしな」
それには快活な笑顔で応じる。
彼は基本的に女形を主とする役者だが、だからと言ってそれ一辺倒というわけではなかった。
気分次第では男性の姿で舞うこともある。ただ、大抵は短時間の軽めな演目なので、今回のように大がかりな公演を打つのは珍しいことだった。
そうなれば自然と気合いが入ってしまうのも頷ける。彼の熱意は周囲の誰が見ても明らかだった。
一人、静かになった稽古場で足音が跳ね上がった。
二本の剣が流れるように綺麗な弧を描く。
身体を回旋させてから片方の刃で空を撫で斬る。続けてもう一振り。
そこで動きが止まった。
一度深呼吸をして、再び最初から同じリズムを刻み始める。
しかし、また同じ場所で手足を止めた。それを何度も繰り返す。
「……違う。こうじゃねぇ」
アーロンは大きく頭を振って眉間にしわを寄せた。
振り付け自体は完璧に覚えているのだが、どうにもしっくりこない。
何かが足りない。もっと、こう内面から溢れ出てくるような何かが。
荒々しげに踵を打ち鳴らし、壁の一部に設置されている大きな鏡を見つめる。
そこには焦燥に駆られた己の立ち姿があった。
実のところ、この一幕に関しては数日前から行き詰まっていた。
稽古をすればするほど雁字搦めになっていくような感覚がして、そこから脱するきっかけが掴めずにいる。
「ああっ、くそ!」
誰もいない稽古場の壁に怒声が反射した。
と、その時。ドアの向こうからノックの音がした。
「アーロン?入るわよ」
一応の断りと共に姿を現したのは、彼の幼馴染みであるアシェンだった。
「なんの用だ?」
「ちょっと近くまで来たから寄ってみただけ……なんだけど。外まで聞こえてたわよ」
「うるせぇな」
家族のような存在の彼女に対しては、不機嫌さを隠そうともしない。
鏡に映る自分と対峙したまま、声だけを吐き出す。
アシェンはそんな彼の様子に肩を竦めてみせた。
「あんたねぇ……そんなに苛ついてるなら、どこかで気分転換でもしてきなさいよ」
稽古場に足を踏み入れる気はないのか、ドアにもたれ掛かりながら助言を送る。
彼女は演舞のあれこれについては素人だが、幼い頃からアーロンが稽古をする姿を眺めてきた。
だから、彼がどんな精神状態なのかを推し量ることは簡単だった。
「たまには稽古を離れて違う空気でも吸ってみれば?何か別のものが見えてくるかもしれないし」
アーロンは無言で鏡の中だけを見つめている。
「あんまり根詰めるんじゃないわよ」
幼馴染みの人となりを熟知している彼女にしてみれば、返事の有無などは些細なことだった。
雑音のない部屋なのだから、声は確かに届いたはずだ。
今はそれだけで良かった。
あんなことを言われてしまっては、双剣を握る手からも力が抜けていく。
稽古を続ける気を失ったアーロンは、華劇場を出てから真っ直ぐに自宅へと帰った。
その足ですぐさまベッドに向かい、勢いよく仰向けに身体を投げ出した。
安物のスプリングが耳障りな音を立てて軋む。
窓の外に目だけを向けると、空は茜色に染まりつつあった。
「気分転換って言ってもなぁ」
今度は薄暗い天井に視線を移動させて独言する。
このくらいの時間帯だったら、街へ繰り出して夜まで遊び歩くのが常だった。
気が合う仲間たちと過ごせば、それだけでストレスのいくらかは解消される。
けれど、それは彼にとって当たり前の日常であり、閉塞した心の空気を入れ換えるほどの力はないだろう。
「なんか、こう……スカッとするような」
所在なげに放っていた手がポケットを弄ってザイファに触れた。
「──あっ」
そこで彼は妙案を思いついた。
先行するアーロンの身体が嬉々として飛び跳ねた。
双剣が銀色の軌跡を描く度に、鮮やかな赤い髪が舞い踊る。
「こら!待ちやがれ!!」
それを追いかけているヴァンが、制止の声を張り上げた。
足の速さを比べてしまえば、分が悪くなるのは仕方がない。
このエリアに入った途端、爛々と目を輝かせて抜剣をしていたことを思えば、止まってくれるはずもないのだが。
小型の魔獣たちが群がる一画へ突進し、華麗な剣捌きで危なげなく立ち回る。
彼が周囲を一掃する頃になってようやくヴァンが追いつくのだが、合流する気は全くなさそうだった。
「おせーぞ!オッサン!」
などと楽しげに言いながら、アーロンはまた走り出してしまう。
傍から見れば、追いかけっこをして遊んでいるような二人組だ。
「あの野郎~っ」
ヴァンは苛立ちを覚えて片手で頭を掻きむしった。
幸い、ここは庭城の中でも下層の領域だ。
彼らの練度なら単独でも問題はないが、かといって一方的に置いて行かれるのは面白くない。
ましてや、あからさまに煽られているのだから、対抗心を燃やしたくなるというものだ。
事務所の中で唯一の成人男性であるアーロンに対しては、ついムキになってしまう時がある。
子供じみた感情だと分かっているが、一度火が点くとなかなか止められなかった。
心の片隅では男同士のじゃれ合いを楽しんでいる節もある。
ヴァンは一度軽く首を回し、撃剣を担いで再び彼を追いかけ始めた。
このエリアの終点までにはあのガキを捕まえてやる、と一人で息巻きながら。
アーロンは、目の前に立ち塞がる魔獣にしか興味がなかったようだ。
彼の食べ残したちは追駆してくるヴァンを目ざとく見つけ、我先にと敵意を向けてくる。
それらを難なく打ちのめしながら、軽やかに動き回る背中へ照準を合わせた。
最初の頃に比べれば、二人の距離はだいぶ縮まってきている。このままいけば確実に手が届くと判断したのか、ヴァンの表情筋が微かに緩んだ。
「ふぅ……舞台のことで溜め込んじまったって感じかねぇ?」
そして、事の発端を思い出してみる。
アーロンは一ヶ月ほど前から煌都に帰っていた。
第八ゲネシスの一件も落ち着き、首都での仕事も通常運転に戻り始めた頃、華劇場から打診があったのだ。彼が主演の新作を公演することになり、二つ返事で受けたらしい。
時々思い立ったように舞台への強行軍をすることもあるが、今回はしっかりとスケジュールを組んでいるようだった。
「あいつ、そういう所は真摯なんだよなぁ……役者魂っていうか」
舞台の作り込みに妥協はしないということなのだろう。
「少しくらいはこっちにも回して欲しいもんだぜ」
ヴァンが戯けながら一人でぼやく。
助手三号の業務態度に大きな不満はないが、何となくそんな気分だ。
と、そんな矢先。
「──おっ!?」
今は演者としての顔は形を潜め、楽しげに剣戟を繰り出すアーロンの足が止まった。
二体の大型魔獣と対峙している彼を見て、ヴァンがニヤリと笑う。
あれは流石に瞬殺とまではいかないだろう。
低い咆吼を皮切りにした戦いへ、彼は勢いよく突っ込んでいった。
鋭利で大きな爪が容赦なく振り下ろされる。
それを危なげなく躱すと、今度は真横からの大振りな追撃。
身を翻して距離を取った直後、両足で地を蹴って高く跳躍した。
「沈め!!」
吐き出した息と共に、焔を纏った斬撃を魔獣の頭部に叩き付ける。
巨体が崩れる音を聞きながら着地を決めると、即座に無傷のもう一体が襲いかかってきた。
一瞬の隙を突かれた形だが、アーロンにしてみれば完全に予想の範囲内。
──のはずだった。
迫り来る爪牙を剣で受け流した刹那、
「おい!一体くらいは譲れっつーの!!」
耳馴染みのある声がいくらかの弾みを伴って、交戦の場に割り込んできた。
「あっ、てめぇ!?」
アーロンが反撃するよりも早く、ヴァンが肩に担いでいた撃剣を横に構えた。
重心を下肢に落とし、渾身の力を込めて腕を振り切る。
薙ぎ払うような打撃は青白い弧を描き、魔獣の胴体へ強烈な一発が打ち込まれた。
「これでしまいだ!」
ヴァンは大きくよろめいた体躯を一瞥し、返す刀でとどめを刺した。
周囲に魔獣たちの気配がないことを確認し、アーロンが双剣を鞘に収める。
前方にはこのエリアの終点となる転送装置が視認できた。
「チッ、余計なことしやがって」
「追いつかれちまったのが面白くねぇのか?」
仏頂面でそっぽを向いている彼とは対照的に、ヴァンは目的達成とばかりに得意げな顔をしている。
俊足の背中を追いかけていたので、ちょっとだけ息が上がっているのはご愛敬だ。
「そっちこそ、ギリギリだったくせにドヤ顔かましてんじゃねぇよ」
それを笑い飛ばしたアーロンが、相手の方へ向き直る。
「──ん?」
しかし、勝ち気な瞳が訝しげな色を浮かべて細くなった。
彼はヴァンの顔をマジマジと見ながら、遠慮なく距離を詰める。
「な、なんだよ?」
あと半歩で二人の間合いがゼロになる。そこまで近寄られたヴァンは、困惑して後退ろうとした。
だが、すぐにそれを制する声が発せられる。
「ダセぇな。このエリアなら無傷で来いよ」
言い終える前に片手で上着の襟元を掴まれる。自然と前屈みの態勢になってしまった。
互いの息がかかるくらいに顔が接近し、その緊張感からか全身が強張る。
「……傷?」
この道中で自分が負傷をしたという認識はなく、疑わしげに首を傾げてみれば、アーロンからは無言の返答があった。
突として頬に柔らかく湿った肉の感触。生温い水分が皮膚の表面に溶け、ピリッとした刺激が走る。
そこでようやく、自分の顔に切り傷があることに気が付いた。
同時に、目の前の青年に何をされているのかも。
まるで傷の具合を確かめるように、ゆっくりと舌先が這い回る。
「お、お前っ……」
痛みのせいか、それとも羞恥のせいか、ヴァンは強く両目を瞑った。
遠目からでも頬に走る薄い赤色が確認できた。
よくよく近寄ってみれば、滲んでいる程度のかすり傷だ。
すると、軽薄にも揶揄する気持ちが先に立つ。
不意に舌で舐め上げると、口内に微かな血の味が広がった。
「身体鈍ってんじゃねぇの?」
アーロンは意地悪げに笑みながら、上着を掴んでいる手を離した。
「こんなの怪我のうちに入んねぇだろうが」
ヴァンはその隙を逃さず、今度こそ一歩後ろへ距離を取る。
嬲られた傷口が熱を帯びている気がして、無意識に手の平を頬へ押し付けた。
「……ったくよぉ。犬猫じゃあるまいし」
どうにも居たたまれない気分に陥ってしまい、ぶつぶつと愚痴りながら身体を背ける。
「大体、てめぇは自由奔放すぎるんだよ。急に連絡入れてきたかと思えば、『気分転換に付き合え』だとか」
半眼じみた視線だけを横に流してみたが、アーロンの方はどこ吹く風のようだ。
「まぁ、取りあえずは良い息抜きになったぜ、ヴァン」
その上、堂々と後腐れがない応答されてしまえば、ぼやき混じりの胸中を飲み込むしかなかった。
「今度の公演、まだまだ練り上げてぇからな。正直ちょいと行き詰まってたんだが、これで頭が切り替えられそうだ」
「お、おう。そうかよ」
やはり、役者然としている時のアーロンは何事にも率直だった。
共に庭城を走ってくれた男への感謝を誤魔化そうとはしない。
いつも『素直じゃないクソガキ』と過ごしているヴァンにとっては、それがくすぐったくて照れ臭かった。
「あ~、その……お役に立てたなら、何よりだぜ」
所なさげに身体を揺らした彼は、視線を彷徨かせながら律儀にそう言った。
楽しかった一時は幻のごとく、あっという間に別れの刻がやってくる。
二人は雑談を交えながら互いの近況を確認し合っていた。
「ま、せいぜい励めよな、所長さん。オレがいない間に廃業とか、さすがに笑えねぇ」
「あるわけねぇーだろうが!ったく、口の減らねぇガキだぜ」
いつものように憎まれ口を叩き合いながら視線を絡ませる。
このひと月の間は全くやり取りをしていなかったので、自然と声音が弾んでいた。
「──っと、もうこんな時間か。そろそろお開きだな」
だが、ふとザイファの時計に目をやったヴァンが残念そうに解散を口にする。
「そんじゃ……」
アーロンはログアウトの操作をするべく端末のボタンを押そうとしたが、急にピタリと動きを止めた。
「……なぁ、ヴァン」
そのまま言葉を続けようとしたものの、逡巡した末に唇を引き結ぶ。
「どうした?」
怪訝に思ったヴァンが問いかけるが、彼は小さく息を吐いただけだった。
「なんでもねぇ。じゃぁな」
そして、ぶっきらぼうな別れの挨拶と共に今度こそ仮想空間からの離脱を実行した。
「おう、またな」
ヴァンはその態度に一瞬引っかかりを覚えたものの、当たり障りなく青年を見送る。
と、その時。
淡い光を帯びて薄くなり始めたアーロンの手元、ザイファの表面が外光を反射して蒼く煌めいた。
「あれ……は」
瞬けば見逃してしまいそうだったそれは、ヴァンにとって見覚えのある意匠。
完全に人影が消えて一人残された彼は、呆然としてその場に立ち尽くした。
あれを受け取ってくれた時の態度が自然と頭に浮かび、小さな笑いが込み上げてくる。
「もしかして、気に入ってくれてんのか?素直じゃねぇな」
最初から他意などはなかった。自分が贈りたいと思ったからそうしただけで、後はどう扱ってくれても構わない。
だからなのか、一瞬だけ見えた蒼が余計に嬉しかった。
今いる場所が仮想現実であることを失念し、ログアウトという言葉が吹き飛んでしまうくらいには。
一気に現実へと引き戻される感覚。
いつの間にか部屋の中は暗色に支配されていた。
窓に近づいて何気なく外を覗うと、すっかり夜の街並みに様変わりしている。
「……もう何周か連れ回したかったな」
名残惜しげにザイファの画面を見つめる。
彼が気分転換の場所に選んだのは、仮想空間である庭城だった。
あそこならば何の遠慮もいらない。舞うための剣技ではなく、相手を斬り伏せるための実戦的な立ち回りができる。
行き詰まりを打破するためのきっかけが掴めるかもしれないと思った。
「やっぱ、あいつじゃねぇと気分が上がらねぇ」
武器を振るうだけなら一人でも良かったはずなのに、妙案を閃いた矢先にヴァンの姿が思い浮かんだ。本能のままに誘ったのは大正解だったらしい。
まるで彼の残滓を啜るかのように親指をぺろりと舐めてみる。
「けど……あれじゃ、足りねぇんだよ」
あの空間は何もかもがリアルで、嫌になるくらいの余韻が残る。
実物と見紛うばかりの虚像は肌の感触も血の味も温かく、彼の劣情を呼び覚ますには十分だった。
どうせ触れるなら、本物の肉体の方が良いに決まっている。
──会いたい。
別れの間際に強くそう思った。
だったら、手っ取り早く今度の舞台に招待すればいい。
頭の中では流れるように手はずが整えられていた。本当に頭の中だけでは。
だが、アーロンは肝心な所で一歩を踏み出せなかった。
普段からの言動が足枷になったのか、それとも臆病風に吹かれたのか。
「……情けねぇ」
どちらにせよ、自分が不甲斐ないことには変わりなかった。
➡ 続き②を読む
煌都ラングポートはカルバード共和国の主要都市の一つだ。
ひとたび駅に列車が到着すれば、ホームは乗降する人々で溢れかえって騒がしくなる。
その中をひときわ色鮮やかな赤髪の青年が歩いていた。
人の流れに任せて改札口を通り抜け、駅舎の外へ出る。
彼は慣れ親しんだ潮風の香りを胸いっぱいに吸い込むと、列車移動で凝り固まった身体を大きく伸ばした。
「なんか、すげぇ久しぶりな気がするぜ」
刺激的な遊び場には困らない首都での生活も悪くないが、やはり生まれ育ったこの街が一番だ。
第八ゲネシスの件が一段落し、差し迫った憂いがなくなったことで自然と心が軽くなる。
朱色を基調とした東方人街は特段変わりなく、帰ってきた青年を出迎えてくれた。
様々な店が軒を連ねる目抜き通りに入ると、すぐさま住民に声をかけられる。
「よぉ!麒麟児、帰ってきてたのか」
「おう、ついさっきな」
美味しそうな匂いにつられて店先を覗き込めば、主の老婦が柔和な顔を向けてくる。
「おや?お帰り、アーロン。元気にやってたみたいだねぇ」
「ばあさんも達者で何よりだぜ。しばらくはこっちにいるからよ、なんかあったら声かけてくれ」
更に道を進むと、今度は可愛らし少女が駆け寄ってきた。
「アーロンちゃん、おかえりなさ~い!」
「──うぉ!?突進してくんなって」
無邪気なタックルを真正面から受け止め、腰元にある頭をくしゃくしゃとかき混ぜる。
「えへへ、だって嬉しいんだもん。お母さんがね、新作の公演があるからもうすぐ帰ってくるよ~って言ってたの」
言葉通りの感情を宿した瞳が、少女の顔をより一層輝かせる。
「ねぇ、ねぇ、アーロンちゃんいつ出るの?明日?明後日?」
「ははっ、気が早ぇな~。初日まではあと二ヶ月くらいだぜ。それまでにいっぱい稽古しなきゃなんねぇからな」
「えー、そんなに先なの?」
子供の表情はコロコロ変わる。不満げに頬を膨らませた小さなファンに対し、アーロンは目線を合わせるようにしてしゃがみ込んだ。
「なに、あっという間だ。開演したら見に来いよ」
そして、明朗な笑顔を広げながらもう一度少女の頭に手を置いた。
彼は意図的に挨拶回りをしているつもりはなかったが、この辺りには顔馴染みも多く、つい会話が弾みがちになる。
華劇場に顔を出す前にどうしても寄りたい場所があるのだが、ついつい足の運びが鈍くなっていた。
ふと晴れ渡った空を仰いでみると、そろそろ太陽が真上に差し掛かり始める頃合いだった。
「──そろそろ行かねぇとな」
アーロンは降り注ぐ陽光に目を細め、ぼそりと呟いた。
海鳥たちの鳴き声が風に混じって微かに聞こえる。音はそれだけだった。
賑やかな街の風景とは異なり、今は亡き人々が眠るこの地には静謐な空気が漂っている。
海を見渡せる高台には整然と墓石が並び、しっかりと管理が行き届いていた。
アーロンはその中の一画で立ち止まった。周囲に他の人影はなく本当に静かだった。
「帰ったぜ。お袋」
短い挨拶をした後、墓地に向かうまでの道程で用意した花と線香を供える。
細い煙が立ち上り、地面に膝をついて黙祷をした身体に薫りが纏わり付いた。
彼は普段から足繁くここに通っているわけではなかった。
もちろん命日の墓参りは欠かさないが、それ以外は折に触れてはといった具合だ。
今日は数ヶ月ぶりの帰郷ということもあって訪れたが、それと共に大事な用件があった。
「……本意じゃねぇが、預かってきたもんがある」
しばらくして、アーロンは苦虫を噛み潰したような顔で墓前を見上げた。
バッグから極々薄い冊子を取り出し、ゆっくりとそれを開く。
中には押し花が一枚だけ。白い百合の花が綺麗な状態で保存されていた。
それは学藝祭の日にイーディスで再会した父から預かった物だった。
煌都において弔いに最良だと言われる清翠の百合とは異なるが、よく似た形状をしている。
「あの野郎……生花じゃ保たねぇだろうが。受け取っちまったオレもオレだけどよ」
当時は花持ちのことまでは考えが至らなかったので、後になってどうしたものかと頭を悩ませる羽目になってしまった。
すぐに煌都へ帰れる状況ではなかったし、かといって誰かに代行してもらうのは違う気がした。
萎れてしまうであろう花を自分が調達し直す案もあったが、それは即座に打ち消した。
この手向けは、曲がりなりにも彼が持つ亡き妻への愛情の一部なのだろう。
それが解らなほど子供ではなかった。
「まぁ、嬉しいかどうかは知らねぇけどな」
アーロンは薄い紙に覆われた花を取り出し、丁寧に墓石の前へ置いた。
この場所は高台に位置しているものの、一年を通じて穏やかな風が流れている。
生花の時よりも軽量だが、飛ばされる心配はないだろう。
大切な預かり物を渡し終えると、彼はゆっくりと立ち上がって母の面影を見つめた。
「たぶん、嬉しいんだろう……な」
親子三人で暮らしていた頃の記憶に微笑ましい情景はない。
飲んだくれのあの男が家に寄りつくのは、金が尽きた時だけだ。
当然、仲睦まじい夫婦の姿など見たことはなかった。
だから、ずっと疑問だった。彼女が文句も言わず夫に尽くしていたことが。
「なんで、あんなろくでなしが好きだったんだよ?」
問いかけの先には物言わぬ墓標があるだけで、返答などは期待していなかった。
突如、ふわりと優しい風が頬を撫でるように揺蕩う。
『あなたはどうして好きなの?』
まるで問い返されているような幻聴。
瞠目したアーロンは、無意識のうちに一歩後退ってしまった。
心の奥に住み着いている人影を覗かれている気分が拭えない。
「あいつは……」
足元に視線を落として意中の人を思い浮かべてみる。
「気持ち悪ぃくらいに甘党だし、趣味のことになるとマジでうぜぇし」
青いコートを着た男が片手で頭を掻きながら苦笑している。
「何かにつけて保護者面してくるし。オレをチビ共と一緒くたにしやがって」
夜明け前の空色を宿した瞳が、揶揄い混じりの表情を向けてきた。
考えれば考えるほど、愚痴や文句ばかりが出てきてしまう。
気恥ずかしくて素直になれないだとか、そんな感情からではなかった。
彼に惹かれている部分はいくらでもあるはずなのに、陳腐で拙い語句ばかりが頭の中で浮かんでは消えていく。
アーロンは『どうして?』の答えを明確な言語として表すことができなかった。
ついには唇を引き結ぶ。
衣服の胸元を握りしめながら両目を閉じると、再び小風が彼の周囲を舞い踊った。
今度は優しいというよりも、少しだけ元気づけるような明るい面持ちで。
「あぁ、理屈じゃねぇのか……こういうのって」
そこで彼は気が付いた。
この恋情はいくら言葉を並べ立てたとしても説明しきれない。
頭でっかちな思考よりも、まずは先に心が動いたのだ。
少しずつ積み重なっていく縁と比例するように、胸の奥に灯った焔は大きく育っていく。
言葉にできないほどの狂おしい想いというものは確かに存在していた。
「なぁ、お袋も同じだったのか?」
アーロンは俯いていた顔を上げて真っ直ぐに墓標を見据えた。
表面に広がる沈んだ色は綺麗に削ぎ落とされ、どこかさっぱりとした面持ちで口元を緩ませる。
彼がいくら実父を嫌悪したとしても、母にとってはずっと愛おしい男のままだったのかもしれない。
己が誰かを求めるようになった今、ようやくそれが理解できた。
ふと空を見上げてみると、頭上を一羽の白い海鳥が悠々と滑空しているところだった。
小さな鳴き声は鈴の音のようで、まるで彼女が返事をしてくれているような気がした。
墓地での用事を終えたアーロンは、再び東方人街に戻ってきた。
馴染みの店で手短に昼食を済ませて華劇場へと向かう。
公演に向けて本格的に動き出すのは明日以降なので、今日は帰郷の報告も兼ねて軽く顔を出しに行くつもりだった。
ザイファを取り出して時計を確認すると、丁度午後の定期公演が始まったばかりの時間帯だ。
「支配人くらいには挨拶しとくか」
彼はそう呟きながら手慣れた動きでカバーを閉じた。
もう随分と使い込んでいる端末なので、何の目新しさもないはずなのだが──今日は違っていた。
昼下がりの陽光を受け、蒼い意匠がより鮮やかに際立つ。
それに視線を寄せている青年は、知らずの内に破顔していた。
「おーい、アーロン!」
すると、前方から手を振って駆け寄ってくる友人の姿があった。
「っ!?なんだ、シドかよ。他の奴らはいねぇのか?」
心ここにあらずだったのか、アーロンは一瞬だけ肩を揺らしてから即座に表情を引き締めた。
「ははっ、久しぶりだってのにつれねぇな!」
シドは嬉しそうに笑いながら、数ヶ月ぶりに会った友人の背中を叩いた。
「今日は夕方あたりに集まるぜ。お前も……おっ?」
その流れで、ふと彼が持っているザイファに目を留めた。
「カバー替えたのか?凄げぇカッコイイな」
「……あぁ、少し前にイーディスで見つけた」
アーロンは咄嗟に嘘を吐いてしまった。
このザイファのカバーはヴァンに貰った物だ。
裏解決事務所の面々を束ねる所長は、やたらと皆に物を贈りたがる。
そこに他意はなく、街を歩いていたら良さそうな物を見つけた、くらいの感覚なのだろう。
彼の品物選びは的確で、一様に皆を喜ばせている。
このカバーの時も同じだった。
お前が好きそうだからと、何の前触れもなく手渡してきた。
蒼を基調にして施された先鋭的なデザインは、いかにも若者が好みそうな代物だった。
実際はアーロンも一目見てすぐに気に入ってしまったのだが、そこは素直とは言い難い性分だ。
「しょうがねぇから、貰っておいてやるよ」
仏頂面をしながら、引ったくるように受け取るしかなかった。
半年くらい前の出来事を反芻してみると、また表情筋が緩みそうになる。
「向こうじゃ気分次第で替えてる」
これも嘘だ。
イーディスで過ごしている間、この蒼いカバーは一度も使用していない。
それどころか、自室のキャビネットに押し込んだままで誰にも見せていなかった。
本音を言えばすぐさま付け替えたいところだったが、捻くれた受け取り方をした手前、いくらなんでも恥ずかしすぎる。彼特有の矜持がそれを思い止まらせた。
そんなわけで、次に煌都へ帰る時まではとお預けにしておいたのだ。
ここなら贈り主のヴァンは居ないし、同僚たちに揶揄される心配もなかった。
「ま、しばらくはこいつと過ごすつもりだけどな」
苦笑いで新品の傷一つないカバーを指で弾く。
そして、そそくさとザイファを持っている手ごとポケットに突っ込んだ。
気の置けない友人を前にして、いつものように表裏なく立ち回れない自分が滑稽だった。
ヴァンのことになると、どうしても調子が狂ってしまう。
隠し通すつもりはないが、率先して公言したいかと問われれば微妙なところだ。
そもそも、まだ──恋人じゃない。何も手に入れてはいない。
無意識に墓参りの余韻を引きずっているのか、複雑な胸中が入り交じる。
それを宥めるように、ひっそりと手の中の蒼を握りしめた。
離れていても彼の存在を感じられるような気がして、指先が仄かに温かかった。
※ ※ ※
新作の初演まではあと一ヶ月といったところだ。
煌都へ帰ってきてからは瞬く間に時間が過ぎ去っていく。
アーロンは稽古や打ち合わせを抱え、華劇場と自宅を行き来する日々を送っていた。
しかし、そこは彼のこと。夜にはしっかりと遊び歩き、昼間は街の困りごとなどに手を貸していた。
尤も、普段と比べればかなり控えめにはしているのだが。
稽古が終わり解散の声がかかると、あたりはすぐさま和気あいあいとした雰囲気になった。
帰りの挨拶やら、ちょっとした雑談やら。稽古中は張り詰めていた空気が一変する。
アーロンも気さくにそれらの輪に入っていたが、身支度を整える素振りを見せなかった。
「お前、まだやるのか?」
それを気に留めた共演者の男が声をかける。
「あぁ、ちょいと気になる部分があってよ」
今回の舞台で主役を張る青年は、演舞用の双剣を軽く持ち上げた。
「なんか気合い入ってるわね」
今度は演出担当の女が興味深げに覗き込んでくる。
「ん~、まぁ、女形じゃねぇのって久しぶりだしな」
それには快活な笑顔で応じる。
彼は基本的に女形を主とする役者だが、だからと言ってそれ一辺倒というわけではなかった。
気分次第では男性の姿で舞うこともある。ただ、大抵は短時間の軽めな演目なので、今回のように大がかりな公演を打つのは珍しいことだった。
そうなれば自然と気合いが入ってしまうのも頷ける。彼の熱意は周囲の誰が見ても明らかだった。
一人、静かになった稽古場で足音が跳ね上がった。
二本の剣が流れるように綺麗な弧を描く。
身体を回旋させてから片方の刃で空を撫で斬る。続けてもう一振り。
そこで動きが止まった。
一度深呼吸をして、再び最初から同じリズムを刻み始める。
しかし、また同じ場所で手足を止めた。それを何度も繰り返す。
「……違う。こうじゃねぇ」
アーロンは大きく頭を振って眉間にしわを寄せた。
振り付け自体は完璧に覚えているのだが、どうにもしっくりこない。
何かが足りない。もっと、こう内面から溢れ出てくるような何かが。
荒々しげに踵を打ち鳴らし、壁の一部に設置されている大きな鏡を見つめる。
そこには焦燥に駆られた己の立ち姿があった。
実のところ、この一幕に関しては数日前から行き詰まっていた。
稽古をすればするほど雁字搦めになっていくような感覚がして、そこから脱するきっかけが掴めずにいる。
「ああっ、くそ!」
誰もいない稽古場の壁に怒声が反射した。
と、その時。ドアの向こうからノックの音がした。
「アーロン?入るわよ」
一応の断りと共に姿を現したのは、彼の幼馴染みであるアシェンだった。
「なんの用だ?」
「ちょっと近くまで来たから寄ってみただけ……なんだけど。外まで聞こえてたわよ」
「うるせぇな」
家族のような存在の彼女に対しては、不機嫌さを隠そうともしない。
鏡に映る自分と対峙したまま、声だけを吐き出す。
アシェンはそんな彼の様子に肩を竦めてみせた。
「あんたねぇ……そんなに苛ついてるなら、どこかで気分転換でもしてきなさいよ」
稽古場に足を踏み入れる気はないのか、ドアにもたれ掛かりながら助言を送る。
彼女は演舞のあれこれについては素人だが、幼い頃からアーロンが稽古をする姿を眺めてきた。
だから、彼がどんな精神状態なのかを推し量ることは簡単だった。
「たまには稽古を離れて違う空気でも吸ってみれば?何か別のものが見えてくるかもしれないし」
アーロンは無言で鏡の中だけを見つめている。
「あんまり根詰めるんじゃないわよ」
幼馴染みの人となりを熟知している彼女にしてみれば、返事の有無などは些細なことだった。
雑音のない部屋なのだから、声は確かに届いたはずだ。
今はそれだけで良かった。
あんなことを言われてしまっては、双剣を握る手からも力が抜けていく。
稽古を続ける気を失ったアーロンは、華劇場を出てから真っ直ぐに自宅へと帰った。
その足ですぐさまベッドに向かい、勢いよく仰向けに身体を投げ出した。
安物のスプリングが耳障りな音を立てて軋む。
窓の外に目だけを向けると、空は茜色に染まりつつあった。
「気分転換って言ってもなぁ」
今度は薄暗い天井に視線を移動させて独言する。
このくらいの時間帯だったら、街へ繰り出して夜まで遊び歩くのが常だった。
気が合う仲間たちと過ごせば、それだけでストレスのいくらかは解消される。
けれど、それは彼にとって当たり前の日常であり、閉塞した心の空気を入れ換えるほどの力はないだろう。
「なんか、こう……スカッとするような」
所在なげに放っていた手がポケットを弄ってザイファに触れた。
「──あっ」
そこで彼は妙案を思いついた。
先行するアーロンの身体が嬉々として飛び跳ねた。
双剣が銀色の軌跡を描く度に、鮮やかな赤い髪が舞い踊る。
「こら!待ちやがれ!!」
それを追いかけているヴァンが、制止の声を張り上げた。
足の速さを比べてしまえば、分が悪くなるのは仕方がない。
このエリアに入った途端、爛々と目を輝かせて抜剣をしていたことを思えば、止まってくれるはずもないのだが。
小型の魔獣たちが群がる一画へ突進し、華麗な剣捌きで危なげなく立ち回る。
彼が周囲を一掃する頃になってようやくヴァンが追いつくのだが、合流する気は全くなさそうだった。
「おせーぞ!オッサン!」
などと楽しげに言いながら、アーロンはまた走り出してしまう。
傍から見れば、追いかけっこをして遊んでいるような二人組だ。
「あの野郎~っ」
ヴァンは苛立ちを覚えて片手で頭を掻きむしった。
幸い、ここは庭城の中でも下層の領域だ。
彼らの練度なら単独でも問題はないが、かといって一方的に置いて行かれるのは面白くない。
ましてや、あからさまに煽られているのだから、対抗心を燃やしたくなるというものだ。
事務所の中で唯一の成人男性であるアーロンに対しては、ついムキになってしまう時がある。
子供じみた感情だと分かっているが、一度火が点くとなかなか止められなかった。
心の片隅では男同士のじゃれ合いを楽しんでいる節もある。
ヴァンは一度軽く首を回し、撃剣を担いで再び彼を追いかけ始めた。
このエリアの終点までにはあのガキを捕まえてやる、と一人で息巻きながら。
アーロンは、目の前に立ち塞がる魔獣にしか興味がなかったようだ。
彼の食べ残したちは追駆してくるヴァンを目ざとく見つけ、我先にと敵意を向けてくる。
それらを難なく打ちのめしながら、軽やかに動き回る背中へ照準を合わせた。
最初の頃に比べれば、二人の距離はだいぶ縮まってきている。このままいけば確実に手が届くと判断したのか、ヴァンの表情筋が微かに緩んだ。
「ふぅ……舞台のことで溜め込んじまったって感じかねぇ?」
そして、事の発端を思い出してみる。
アーロンは一ヶ月ほど前から煌都に帰っていた。
第八ゲネシスの一件も落ち着き、首都での仕事も通常運転に戻り始めた頃、華劇場から打診があったのだ。彼が主演の新作を公演することになり、二つ返事で受けたらしい。
時々思い立ったように舞台への強行軍をすることもあるが、今回はしっかりとスケジュールを組んでいるようだった。
「あいつ、そういう所は真摯なんだよなぁ……役者魂っていうか」
舞台の作り込みに妥協はしないということなのだろう。
「少しくらいはこっちにも回して欲しいもんだぜ」
ヴァンが戯けながら一人でぼやく。
助手三号の業務態度に大きな不満はないが、何となくそんな気分だ。
と、そんな矢先。
「──おっ!?」
今は演者としての顔は形を潜め、楽しげに剣戟を繰り出すアーロンの足が止まった。
二体の大型魔獣と対峙している彼を見て、ヴァンがニヤリと笑う。
あれは流石に瞬殺とまではいかないだろう。
低い咆吼を皮切りにした戦いへ、彼は勢いよく突っ込んでいった。
鋭利で大きな爪が容赦なく振り下ろされる。
それを危なげなく躱すと、今度は真横からの大振りな追撃。
身を翻して距離を取った直後、両足で地を蹴って高く跳躍した。
「沈め!!」
吐き出した息と共に、焔を纏った斬撃を魔獣の頭部に叩き付ける。
巨体が崩れる音を聞きながら着地を決めると、即座に無傷のもう一体が襲いかかってきた。
一瞬の隙を突かれた形だが、アーロンにしてみれば完全に予想の範囲内。
──のはずだった。
迫り来る爪牙を剣で受け流した刹那、
「おい!一体くらいは譲れっつーの!!」
耳馴染みのある声がいくらかの弾みを伴って、交戦の場に割り込んできた。
「あっ、てめぇ!?」
アーロンが反撃するよりも早く、ヴァンが肩に担いでいた撃剣を横に構えた。
重心を下肢に落とし、渾身の力を込めて腕を振り切る。
薙ぎ払うような打撃は青白い弧を描き、魔獣の胴体へ強烈な一発が打ち込まれた。
「これでしまいだ!」
ヴァンは大きくよろめいた体躯を一瞥し、返す刀でとどめを刺した。
周囲に魔獣たちの気配がないことを確認し、アーロンが双剣を鞘に収める。
前方にはこのエリアの終点となる転送装置が視認できた。
「チッ、余計なことしやがって」
「追いつかれちまったのが面白くねぇのか?」
仏頂面でそっぽを向いている彼とは対照的に、ヴァンは目的達成とばかりに得意げな顔をしている。
俊足の背中を追いかけていたので、ちょっとだけ息が上がっているのはご愛敬だ。
「そっちこそ、ギリギリだったくせにドヤ顔かましてんじゃねぇよ」
それを笑い飛ばしたアーロンが、相手の方へ向き直る。
「──ん?」
しかし、勝ち気な瞳が訝しげな色を浮かべて細くなった。
彼はヴァンの顔をマジマジと見ながら、遠慮なく距離を詰める。
「な、なんだよ?」
あと半歩で二人の間合いがゼロになる。そこまで近寄られたヴァンは、困惑して後退ろうとした。
だが、すぐにそれを制する声が発せられる。
「ダセぇな。このエリアなら無傷で来いよ」
言い終える前に片手で上着の襟元を掴まれる。自然と前屈みの態勢になってしまった。
互いの息がかかるくらいに顔が接近し、その緊張感からか全身が強張る。
「……傷?」
この道中で自分が負傷をしたという認識はなく、疑わしげに首を傾げてみれば、アーロンからは無言の返答があった。
突として頬に柔らかく湿った肉の感触。生温い水分が皮膚の表面に溶け、ピリッとした刺激が走る。
そこでようやく、自分の顔に切り傷があることに気が付いた。
同時に、目の前の青年に何をされているのかも。
まるで傷の具合を確かめるように、ゆっくりと舌先が這い回る。
「お、お前っ……」
痛みのせいか、それとも羞恥のせいか、ヴァンは強く両目を瞑った。
遠目からでも頬に走る薄い赤色が確認できた。
よくよく近寄ってみれば、滲んでいる程度のかすり傷だ。
すると、軽薄にも揶揄する気持ちが先に立つ。
不意に舌で舐め上げると、口内に微かな血の味が広がった。
「身体鈍ってんじゃねぇの?」
アーロンは意地悪げに笑みながら、上着を掴んでいる手を離した。
「こんなの怪我のうちに入んねぇだろうが」
ヴァンはその隙を逃さず、今度こそ一歩後ろへ距離を取る。
嬲られた傷口が熱を帯びている気がして、無意識に手の平を頬へ押し付けた。
「……ったくよぉ。犬猫じゃあるまいし」
どうにも居たたまれない気分に陥ってしまい、ぶつぶつと愚痴りながら身体を背ける。
「大体、てめぇは自由奔放すぎるんだよ。急に連絡入れてきたかと思えば、『気分転換に付き合え』だとか」
半眼じみた視線だけを横に流してみたが、アーロンの方はどこ吹く風のようだ。
「まぁ、取りあえずは良い息抜きになったぜ、ヴァン」
その上、堂々と後腐れがない応答されてしまえば、ぼやき混じりの胸中を飲み込むしかなかった。
「今度の公演、まだまだ練り上げてぇからな。正直ちょいと行き詰まってたんだが、これで頭が切り替えられそうだ」
「お、おう。そうかよ」
やはり、役者然としている時のアーロンは何事にも率直だった。
共に庭城を走ってくれた男への感謝を誤魔化そうとはしない。
いつも『素直じゃないクソガキ』と過ごしているヴァンにとっては、それがくすぐったくて照れ臭かった。
「あ~、その……お役に立てたなら、何よりだぜ」
所なさげに身体を揺らした彼は、視線を彷徨かせながら律儀にそう言った。
楽しかった一時は幻のごとく、あっという間に別れの刻がやってくる。
二人は雑談を交えながら互いの近況を確認し合っていた。
「ま、せいぜい励めよな、所長さん。オレがいない間に廃業とか、さすがに笑えねぇ」
「あるわけねぇーだろうが!ったく、口の減らねぇガキだぜ」
いつものように憎まれ口を叩き合いながら視線を絡ませる。
このひと月の間は全くやり取りをしていなかったので、自然と声音が弾んでいた。
「──っと、もうこんな時間か。そろそろお開きだな」
だが、ふとザイファの時計に目をやったヴァンが残念そうに解散を口にする。
「そんじゃ……」
アーロンはログアウトの操作をするべく端末のボタンを押そうとしたが、急にピタリと動きを止めた。
「……なぁ、ヴァン」
そのまま言葉を続けようとしたものの、逡巡した末に唇を引き結ぶ。
「どうした?」
怪訝に思ったヴァンが問いかけるが、彼は小さく息を吐いただけだった。
「なんでもねぇ。じゃぁな」
そして、ぶっきらぼうな別れの挨拶と共に今度こそ仮想空間からの離脱を実行した。
「おう、またな」
ヴァンはその態度に一瞬引っかかりを覚えたものの、当たり障りなく青年を見送る。
と、その時。
淡い光を帯びて薄くなり始めたアーロンの手元、ザイファの表面が外光を反射して蒼く煌めいた。
「あれ……は」
瞬けば見逃してしまいそうだったそれは、ヴァンにとって見覚えのある意匠。
完全に人影が消えて一人残された彼は、呆然としてその場に立ち尽くした。
あれを受け取ってくれた時の態度が自然と頭に浮かび、小さな笑いが込み上げてくる。
「もしかして、気に入ってくれてんのか?素直じゃねぇな」
最初から他意などはなかった。自分が贈りたいと思ったからそうしただけで、後はどう扱ってくれても構わない。
だからなのか、一瞬だけ見えた蒼が余計に嬉しかった。
今いる場所が仮想現実であることを失念し、ログアウトという言葉が吹き飛んでしまうくらいには。
一気に現実へと引き戻される感覚。
いつの間にか部屋の中は暗色に支配されていた。
窓に近づいて何気なく外を覗うと、すっかり夜の街並みに様変わりしている。
「……もう何周か連れ回したかったな」
名残惜しげにザイファの画面を見つめる。
彼が気分転換の場所に選んだのは、仮想空間である庭城だった。
あそこならば何の遠慮もいらない。舞うための剣技ではなく、相手を斬り伏せるための実戦的な立ち回りができる。
行き詰まりを打破するためのきっかけが掴めるかもしれないと思った。
「やっぱ、あいつじゃねぇと気分が上がらねぇ」
武器を振るうだけなら一人でも良かったはずなのに、妙案を閃いた矢先にヴァンの姿が思い浮かんだ。本能のままに誘ったのは大正解だったらしい。
まるで彼の残滓を啜るかのように親指をぺろりと舐めてみる。
「けど……あれじゃ、足りねぇんだよ」
あの空間は何もかもがリアルで、嫌になるくらいの余韻が残る。
実物と見紛うばかりの虚像は肌の感触も血の味も温かく、彼の劣情を呼び覚ますには十分だった。
どうせ触れるなら、本物の肉体の方が良いに決まっている。
──会いたい。
別れの間際に強くそう思った。
だったら、手っ取り早く今度の舞台に招待すればいい。
頭の中では流れるように手はずが整えられていた。本当に頭の中だけでは。
だが、アーロンは肝心な所で一歩を踏み出せなかった。
普段からの言動が足枷になったのか、それとも臆病風に吹かれたのか。
「……情けねぇ」
どちらにせよ、自分が不甲斐ないことには変わりなかった。
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とある車内にて ─ささやかな戯れ─
黎ⅡED後・恋人設定(カプ要素薄め)
車で移動中にみんなが寝てしまう話です。
二人の他にフェリ・カトル・リゼットが同乗しています。
【文字数:3300】
ひとたび所長の愛車で移動となれば、走行中の車内には様々な声が飛び交う。
一人だった頃はBGM代わりにラジオを流していたものだが、今では助手たちのおかげで賑やかだ。
しかし、時刻は昼食を終えたばかりの頃合い。少しずつ会話の頻度が減り始めて静かになっていく。
「──おい、こいつらどうにかしろよ」
そんな中、不意にアーロンが口を開いた。
運転席のヴァンが一瞬だけ横目で後方を窺うと、シートの中央に座している彼はいかにも不満げな表情で腕を組んでいた。
すぐ後ろの席には三人が並んでいる。
アーロンを挟むようにしてフェリとカトルが座っているのだが、彼女たちからは規則正しい寝息が聞こえ始めていた。
まるで示し合わせたかのように左右から年上の同僚に寄りかかっている。
「くそ……やっぱり最後尾の一択だったじゃねぇか」
「何言ってやがる。土足で寝転がる気満々だったくせに。てめぇの選択権はねぇんだよ」
心情そのままの語句は独り言じみていたが、ヴァンの耳にはしっかり届いている。
彼は先刻のことを思い出し、眉をひそめて口調を強めた。
一言一句とまではいかないが、ほとんど同じ応対をしたような気がする。
モンマルトで昼食を取った後、さて移動だとガレージへ向かった際に一悶着があった。
我先にと三列目のシートへ乗り込もうとするアーロンを見咎め、ヴァンが思い切り首根っこを掴んで引き剥がしたのだ。
これが他のメンバーであれば行儀が良いのは確実なので、お好きな席へどうぞという感覚なのだが。
その点、助手三号の所作についてはまるっきり信用をしていなかった。
大事な愛車を綺麗に保つためには、どうしたって心も鬼になってしまう。
「──土足は断固拒否だ」
ここぞとばかりに年長者の威厳をかざして言い放つと、それまで黙って彼らの様子を見ていたフェリが駆け寄ってきた。
「それなら、アーロンさんはわたしたちと一緒ですね!」
「チビ!いきなり意味分かんねぇこと言ってんじゃねぇ!」
少女はアーロンの片腕にしがみ付き、彼の身体を力一杯引っ張った。
油断をしていたのか、半分引きずられるような状態になっている青年の叫びは眼中にない。
最年少の助手である彼女はとても真面目な性格だ。
所長であるヴァンの言動を受け、この問題児をしっかり座らせなければと思ったのだろう。
「わたしとカトルさんで挟んでしまえば、だらしない姿勢はできないはずです」
「えっ、ぼ、僕も!?」
唐突に名前を呼ばれたカトルは、驚きのあまり口をパクパクとさせている。
「ご協力お願いします」
「勝手に話を進めるんじゃねぇ!っつーか、せめて助手席にしろや!」
この流れでは最後尾の独り占めを断念せざるを得ない。そう判断したアーロンはとっさに譲歩案を出してみたが、フェリの方もなかなかに頑固だった。
「……なんで僕が」
まだ乗ってもいないのに疲れた顔をしているカトルの横で、二人は牙を剝き出して押し問答を繰り返している。
ヴァンはそんな助手たちの様子を面白そうに眺めやっていた。
「やれやれ、またじゃれ合ってやがる」
くつくつと喉の奥を鳴らしながら笑っていると、
「ヴァン様。わたくしは助手席でよろしいのでしょうか?」
傍らから淑やかな女性の声が聞こえてきた。
「おう、構わねぇぜ。お前さんもフェリが押し切るって予想だろ?」
「はい。カトル様には大変申し訳ありませんが……」
リゼットは言葉通りの色を滲ませながら控えめに微笑んだ。
最初は刺々しい感情で回想を始めたヴァンだったが、それが終わる頃には険のある表情が薄れて柔らかくなっていた。
「どうするも何も、昼飯食ったら眠くなるのは仕方ねぇだろ?」
「そういうこと言ってんじゃねぇんだよ、オッサン」
アーロンの方はといえば、不本意な状況に先ず声を上げてみたものの、実際は完全に諦めの境地だ。
運転席へ返す言葉には鋭利さの欠片もない。
眠っている二人が崩れ落ちないように体勢を維持している姿には、さり気ない優しさが垣間見られた。
「ヴァン様もアーロン様もその辺りで。気持ち良さそうに眠っておられますから」
リゼットはそんな男たちを静観していたが、フェリが僅かに身動ぎをしたことに気づき、それとなく注意を促した。
事務所の中でも年少の部類に入る助手たちの寝顔は、それだけで周囲を温かくしてくれる。
「おっと、悪ぃ」
「熟睡中かよ……チビどもは」
起こすのが忍びないという気持ちは、ヴァンとアーロンも同様だった。
彼らは小さく呟いた後、一旦は口を閉じることにした。
それからしばらくは静かな時間が続いた。
時々、会話らしきものがぽつりぽつりと。各々が最小限の声量で夢の中にいる二人を気遣う。
「──おっ?」
いつの間にか後ろからの声が聞こえなくなり、ヴァンがバックミラー越しに後部座席を確認した。
「ははっ、落ちやがったか」
それに習ってリゼットも助手席から少しだけ顔を覗かせる。
すると、さっきまでは起きていたはずのアーロンが腕を組んだまま船を漕いでいた。
「お二人の眠気が移ってしまわれたようですね」
まったりとした昼下がり。左右から二人分の体温に包まれてしまえば、睡魔に引きずられてしまうのも頷ける。
寄り添って眠っている同僚たちの様相は微笑ましく、リゼットの目元が自然と綻んだ。
「こいつ、煌都でも子どもとか爺さん婆さんに好かれまくってるんだよなぁ」
「アーロン様のお人柄ですね」
ヴァンは二度。リゼットは一度だけ彼と共に煌都の街中を歩いたことがあるが、抱いた印象に差違はなさそうだ。
「ま、人望ってやつもあるんだろ。何だかんだで面倒見が良い奴だしな……っと、まだ起きてねぇよな?」
「ふふっ、ご本人の前で言って差し上げてもよろしいのでは?」
「おいおい、それは勘弁してくれよ」
珍しく意地悪げな返しをしてきたリゼットに対し、ヴァンはハンドルから片手を離して苦笑しながら頭を掻いた。
微かにラジオの音が流れていた。
いつもよりは随分と控えめな音量だが、うっすらと耳に入ってくる。
目を覚ましたアーロンは、未だ眠り続けている小さな同僚たちを一瞥して溜息を吐いた。
「あ~、首が痛ぇ」
今の状態では満足に身体を動かすことができず、気休め程度に腕だけを組み替える。
その直後、運転席から声がかかった。
「よぉ、お目覚めか。助手三号」
「ん……まぁな」
「いつもは一人くらい起きてるんだけどなぁ。今日はみんな沈没しちまいやがった」
彼はしっかりと正面を向いて運転をしていたが、心なしか声音が弾んでいるようだった。
「みんなって、メイドもかよ?」
驚いたアーロンは助手席にいるリゼットの方へ視線を投げた。
常日頃から彼女がうたた寝をしている姿などは見たことがない。しかし、今は綺麗な座り方のまま両目を瞑っている状態だった。
「珍しいこともあるもんだよな」
どうやら寝入ってしまっているらしく、彼らが喋っていても起きる気配は感じられない。
「そんなわけで、今はラジオが運転のお供ってやつ」
「──あぁ、なるほど」
ここまでの短いやり取りを経てアーロンは納得した。さっきからヴァンがどことなく嬉しそうに喋っている理由を。
「そいつは悪かったな。所長さんを寂しがらせちまったみたいで」
きっと話し相手が欲しかったのだろう。遠回しに構ってくれと言っている。
後部座席からは運転手の表情が確かめられず、何気なく顎を引き上げてバックミラーに意識を寄せてみる。
ふと、小さな鏡の中でヴァンと視線がぶつかった。
濃紺の瞳は一瞬だけ驚きを露わにしたが、すぐに柔らかい笑みを形作る。
「ったく、暢気によそ見なんかしやがって」
それに返事をするかのようにアーロンが口角をつり上げた。
「相手くらいはしてやるから、きっちり前を見てろよな」
今まで彼の運転を不安に思ったことはないが、弄りついでに一応は釘を刺す。
「……なんだよ。お前と比べたらはるかに安全運転だぞ、俺は」
この一言を境に二人が鏡を通じて交わることはなかった。
車中のラジオからは、悠々とした午後に合わせてスローテンポな一曲が流れている。
舗装された道路のおかげで走行時の振動が心地良く、しばらくは誰も目を覚まさないだろう。
今は二人きりのようで二人きりではない、曖昧な線引きが成された空間。
たまにはそんな所で戯れるのも一興だと、男たちはささやかに声だけの応酬を楽しんでいた。
2024.01.09
#黎Ⅱ畳む
黎ⅡED後・恋人設定(カプ要素薄め)
車で移動中にみんなが寝てしまう話です。
二人の他にフェリ・カトル・リゼットが同乗しています。
【文字数:3300】
ひとたび所長の愛車で移動となれば、走行中の車内には様々な声が飛び交う。
一人だった頃はBGM代わりにラジオを流していたものだが、今では助手たちのおかげで賑やかだ。
しかし、時刻は昼食を終えたばかりの頃合い。少しずつ会話の頻度が減り始めて静かになっていく。
「──おい、こいつらどうにかしろよ」
そんな中、不意にアーロンが口を開いた。
運転席のヴァンが一瞬だけ横目で後方を窺うと、シートの中央に座している彼はいかにも不満げな表情で腕を組んでいた。
すぐ後ろの席には三人が並んでいる。
アーロンを挟むようにしてフェリとカトルが座っているのだが、彼女たちからは規則正しい寝息が聞こえ始めていた。
まるで示し合わせたかのように左右から年上の同僚に寄りかかっている。
「くそ……やっぱり最後尾の一択だったじゃねぇか」
「何言ってやがる。土足で寝転がる気満々だったくせに。てめぇの選択権はねぇんだよ」
心情そのままの語句は独り言じみていたが、ヴァンの耳にはしっかり届いている。
彼は先刻のことを思い出し、眉をひそめて口調を強めた。
一言一句とまではいかないが、ほとんど同じ応対をしたような気がする。
モンマルトで昼食を取った後、さて移動だとガレージへ向かった際に一悶着があった。
我先にと三列目のシートへ乗り込もうとするアーロンを見咎め、ヴァンが思い切り首根っこを掴んで引き剥がしたのだ。
これが他のメンバーであれば行儀が良いのは確実なので、お好きな席へどうぞという感覚なのだが。
その点、助手三号の所作についてはまるっきり信用をしていなかった。
大事な愛車を綺麗に保つためには、どうしたって心も鬼になってしまう。
「──土足は断固拒否だ」
ここぞとばかりに年長者の威厳をかざして言い放つと、それまで黙って彼らの様子を見ていたフェリが駆け寄ってきた。
「それなら、アーロンさんはわたしたちと一緒ですね!」
「チビ!いきなり意味分かんねぇこと言ってんじゃねぇ!」
少女はアーロンの片腕にしがみ付き、彼の身体を力一杯引っ張った。
油断をしていたのか、半分引きずられるような状態になっている青年の叫びは眼中にない。
最年少の助手である彼女はとても真面目な性格だ。
所長であるヴァンの言動を受け、この問題児をしっかり座らせなければと思ったのだろう。
「わたしとカトルさんで挟んでしまえば、だらしない姿勢はできないはずです」
「えっ、ぼ、僕も!?」
唐突に名前を呼ばれたカトルは、驚きのあまり口をパクパクとさせている。
「ご協力お願いします」
「勝手に話を進めるんじゃねぇ!っつーか、せめて助手席にしろや!」
この流れでは最後尾の独り占めを断念せざるを得ない。そう判断したアーロンはとっさに譲歩案を出してみたが、フェリの方もなかなかに頑固だった。
「……なんで僕が」
まだ乗ってもいないのに疲れた顔をしているカトルの横で、二人は牙を剝き出して押し問答を繰り返している。
ヴァンはそんな助手たちの様子を面白そうに眺めやっていた。
「やれやれ、またじゃれ合ってやがる」
くつくつと喉の奥を鳴らしながら笑っていると、
「ヴァン様。わたくしは助手席でよろしいのでしょうか?」
傍らから淑やかな女性の声が聞こえてきた。
「おう、構わねぇぜ。お前さんもフェリが押し切るって予想だろ?」
「はい。カトル様には大変申し訳ありませんが……」
リゼットは言葉通りの色を滲ませながら控えめに微笑んだ。
最初は刺々しい感情で回想を始めたヴァンだったが、それが終わる頃には険のある表情が薄れて柔らかくなっていた。
「どうするも何も、昼飯食ったら眠くなるのは仕方ねぇだろ?」
「そういうこと言ってんじゃねぇんだよ、オッサン」
アーロンの方はといえば、不本意な状況に先ず声を上げてみたものの、実際は完全に諦めの境地だ。
運転席へ返す言葉には鋭利さの欠片もない。
眠っている二人が崩れ落ちないように体勢を維持している姿には、さり気ない優しさが垣間見られた。
「ヴァン様もアーロン様もその辺りで。気持ち良さそうに眠っておられますから」
リゼットはそんな男たちを静観していたが、フェリが僅かに身動ぎをしたことに気づき、それとなく注意を促した。
事務所の中でも年少の部類に入る助手たちの寝顔は、それだけで周囲を温かくしてくれる。
「おっと、悪ぃ」
「熟睡中かよ……チビどもは」
起こすのが忍びないという気持ちは、ヴァンとアーロンも同様だった。
彼らは小さく呟いた後、一旦は口を閉じることにした。
それからしばらくは静かな時間が続いた。
時々、会話らしきものがぽつりぽつりと。各々が最小限の声量で夢の中にいる二人を気遣う。
「──おっ?」
いつの間にか後ろからの声が聞こえなくなり、ヴァンがバックミラー越しに後部座席を確認した。
「ははっ、落ちやがったか」
それに習ってリゼットも助手席から少しだけ顔を覗かせる。
すると、さっきまでは起きていたはずのアーロンが腕を組んだまま船を漕いでいた。
「お二人の眠気が移ってしまわれたようですね」
まったりとした昼下がり。左右から二人分の体温に包まれてしまえば、睡魔に引きずられてしまうのも頷ける。
寄り添って眠っている同僚たちの様相は微笑ましく、リゼットの目元が自然と綻んだ。
「こいつ、煌都でも子どもとか爺さん婆さんに好かれまくってるんだよなぁ」
「アーロン様のお人柄ですね」
ヴァンは二度。リゼットは一度だけ彼と共に煌都の街中を歩いたことがあるが、抱いた印象に差違はなさそうだ。
「ま、人望ってやつもあるんだろ。何だかんだで面倒見が良い奴だしな……っと、まだ起きてねぇよな?」
「ふふっ、ご本人の前で言って差し上げてもよろしいのでは?」
「おいおい、それは勘弁してくれよ」
珍しく意地悪げな返しをしてきたリゼットに対し、ヴァンはハンドルから片手を離して苦笑しながら頭を掻いた。
微かにラジオの音が流れていた。
いつもよりは随分と控えめな音量だが、うっすらと耳に入ってくる。
目を覚ましたアーロンは、未だ眠り続けている小さな同僚たちを一瞥して溜息を吐いた。
「あ~、首が痛ぇ」
今の状態では満足に身体を動かすことができず、気休め程度に腕だけを組み替える。
その直後、運転席から声がかかった。
「よぉ、お目覚めか。助手三号」
「ん……まぁな」
「いつもは一人くらい起きてるんだけどなぁ。今日はみんな沈没しちまいやがった」
彼はしっかりと正面を向いて運転をしていたが、心なしか声音が弾んでいるようだった。
「みんなって、メイドもかよ?」
驚いたアーロンは助手席にいるリゼットの方へ視線を投げた。
常日頃から彼女がうたた寝をしている姿などは見たことがない。しかし、今は綺麗な座り方のまま両目を瞑っている状態だった。
「珍しいこともあるもんだよな」
どうやら寝入ってしまっているらしく、彼らが喋っていても起きる気配は感じられない。
「そんなわけで、今はラジオが運転のお供ってやつ」
「──あぁ、なるほど」
ここまでの短いやり取りを経てアーロンは納得した。さっきからヴァンがどことなく嬉しそうに喋っている理由を。
「そいつは悪かったな。所長さんを寂しがらせちまったみたいで」
きっと話し相手が欲しかったのだろう。遠回しに構ってくれと言っている。
後部座席からは運転手の表情が確かめられず、何気なく顎を引き上げてバックミラーに意識を寄せてみる。
ふと、小さな鏡の中でヴァンと視線がぶつかった。
濃紺の瞳は一瞬だけ驚きを露わにしたが、すぐに柔らかい笑みを形作る。
「ったく、暢気によそ見なんかしやがって」
それに返事をするかのようにアーロンが口角をつり上げた。
「相手くらいはしてやるから、きっちり前を見てろよな」
今まで彼の運転を不安に思ったことはないが、弄りついでに一応は釘を刺す。
「……なんだよ。お前と比べたらはるかに安全運転だぞ、俺は」
この一言を境に二人が鏡を通じて交わることはなかった。
車中のラジオからは、悠々とした午後に合わせてスローテンポな一曲が流れている。
舗装された道路のおかげで走行時の振動が心地良く、しばらくは誰も目を覚まさないだろう。
今は二人きりのようで二人きりではない、曖昧な線引きが成された空間。
たまにはそんな所で戯れるのも一興だと、男たちはささやかに声だけの応酬を楽しんでいた。
2024.01.09
#黎Ⅱ畳む
偶然にも程がある
恋人未満
アーロン→ヴァンです。
雨宿りをしているアーロンと、それを見つけたヴァンが彼を相傘に誘う話。
【文字数:5300】
勝手気ままにイーディスの街を歩くなら、いちいち天気予報などは気にしない。
空は朝からずっと不安定な様相だ。鈍色の雲が厚く垂れ込める中、いつ雨が降ってきてもおかしくはない状況だった。
──ぽつり、ぽつり、と。
今まさに上空から小さな雨粒が落ちてきた。
彼は一度だけ上を見上げ、すぐに近くの建物へ身体を滑り込ませる。
「さて……っと、どうすっかなぁ?」
少しばかり軒下を拝借しつつ、アーロンは平然とした様子でザイファを開き時刻を確認した。
昼食時で賑わっていた飲食店がやっと一段落した頃合いだ。雨宿りと称してまったりするのも悪くない。
なのだが、
「集合は十五時だったよな」
彼はこの先の予定に頭を巡らせ、早々に最初の案を打ち消した。
なにせこの雨がいつ収まるのか予想できない。天候を見極める技術は日々発達しているが、雨雲の動きを事細かに捉えることはまだまだ難しい。
「どこかにしけ込むには時間が微妙すぎっつーか」
何気なく腕を組んで薄暗くなった街を見渡してみる。元からぐずついた空模様のせいか、傘を保持している人々の割合は高めだ。雨に濡れながら走っている輩もいるが、それも一時で各々が目指した建物へと吸い込まれていく。
その行き先を観察していたアーロンは、次の案を思い浮かべた。
「……駅まで走るか?はぁ~、マジかったりぃ」
全くもって不本意なのだが、それ以外の良策は出てきそうにない。
こんな所で足止めを食らっているよりは、旧市街へ戻った方が有意義かもしれなかった。
濡れた身体はシャワーで温め直すとして、その後はモンマルトで時間を潰せばいい。
生活をする上であれこれと世話になっている店なので、気兼ねなく居座れる場所であるのは確かだ。
アーロンはザイファをポケットへしまい、面倒くさそうに靴を数回鳴らした。
駅までの距離はそれ程遠くない。彼の足ならば濡れ鼠になる心配はなさそうだ。
「そんじゃ、行くか」
一度決めてしまえば、うだうだと悩みはしない。
彼は胸の前で手の平に拳を打ち付け、軒下に小気味よい音を響かせた。
と、その時。
「──よぉ、なんか目立つ赤毛を見つけちまったぜ」
次第に強くなっていく雨音の中、傘をさした男がゆったりと歩み寄ってきた。
ちょっとご近所へならともかく、別の地区への外出だったら多少は空の具合も気にかける。
ヴァンは身支度を整えながら窓の外を一瞥し、導力ネットで天気予報を確認した。
ザイファの画面を見つめる表情は、お世辞にでも柔らかいとは言い難い。
「……やっぱり降ってきそうだな」
事務所の時計に目をやると、時刻は十一時を少し回ったところだった。
本日の裏解決業務は午後に一件しか入れていない。
というのも、依頼内容から察するに少々面倒な案件の匂いがしたのだ。
助手たちの負担を慮り、他の依頼を入れるべきではないだろうと彼は判断した。
そんなわけで、緊急の要請がない限りは集合時間まで自由行動の予定だ。
ヴァンも同様のはずだったが、生憎と午前中に済ませておかなければならない用件があった。
事務所の経営に必要な公的書類の提出期限が差し迫っている。
昨日の段階でリゼットが指摘をしてくれなければ、彼自身はうっかり忘れたままだった大事な代物だ。
「リゼットには改めて礼を言っとかねぇとな、ほんと助かったぜ」
彼女は昨夜のうちに準備を整えてくれていた。
今日の天候のことまで考慮していたのか、提出用の書類はしっかりと厚みのある封筒に収められている。
「そろそろ出るか」
ヴァンは卓上に置かれたそれを手に取り、のんびりとした足取りで事務所のドアを開けた。
書類の提出場所はサイデン地区にある警察署だ。
「向こうに着くまでは持ちこたえて欲しいもんだがなぁ」
階段を下って屋外に出た彼は、そう呟きながら淀んだ雲を見上げる。
小脇には大事な書類を抱え、もう片方の手には一本の傘が携えてあった。
どうやらヴァンのささやかな願望は天にまで届いたらしい。
雨が降り出したのは、書類の提出を終えて別の地区へ移動してからだった。
昼食を取るために飲食店が並ぶ通りを物色し、混み具合がそこそこな店を選んで悠長に食事と洒落込む。
仕事の時間までには大分余裕があるし、あげくにこんな天気だ。独りでガラス越しの雨に浸るのは案外乙なものかもしれない。
「たまには、こんな日も良いもんだ」
ランチメニューの料理を綺麗に平らげた彼は、食後のデザートに舌鼓を打ちながら幸せな吐息を漏らした。
やはり甘い物は格別だ。
最後のひと匙を名残惜しげに口へ運んだ後、渋々ながら寛いでいた腰を上げる。
いつの間にか昼時のピークは過ぎていたようで、店内には緩やかな空気が流れていた。
ヴァンはドアのベル鳴らし、水気をはらんだ街路へ足を踏み出した。
雨脚が徐々に強くなり、開いた傘の上では大粒の水滴たちが合唱を始めている。
これでは気軽な街歩きを楽しむ気にもなれない。そう思った彼は、駅がある方向へ進路を取った。
「さっさと戻って昼寝だな。この一択しかありえねぇ」
唇から発せられる暢気な声は、足元の水たまりを踏む音と相まってどことなく楽しそうだ。
そんな最中。
視界の片隅に鮮やかな色が飛び込んできた。
「──あっ?」
思わずその場で足を止める。
驚きながら目線を移動させると、前方にある建物の軒下に赤い長髪の青年が佇んでいた。
彼は一時だけザイファを開いた後、腕組みをして何やら思案している様子だった。
「マジかよ。偶然にも程があるだろ」
驚きのあまりヴァンの声は掠れ、紺青の眼だけがじっとその立ち姿を見つめる。
この天気で視界が悪いのか、どうやら向こうは気づいていないようだ。
「いや、ここは見なかったことに……」
彼はすぐにそう判断した。
状況からして雨宿りをしているのは確かだったが、どこかに連絡を取っている素振りにも見えた。
今は自由行動中なので、声をかけるのは野暮というものだろう。
しかし、一つだけ。アーロンが何やら考え込んでいる様子なのが気にかかった。
そんなことはないと思いつつ、もしかしたら身動きが取れない状態なのかもしれないと。
「まぁ、ウザがられるのは分かってるんだけどなぁ」
そんな風に憂慮してしまえば、放っておけないのが彼の性。
ヴァンは自嘲気味な笑みを浮かべながら軒下へと歩き出した。
今まさに走り出そうとしていた矢先だった。
声をかけてきた人物を見た途端、アーロンが瞠目する。
「ヴァン?てめぇ、なんで……」
数拍を置いてから口を開くと、挨拶のつもりなのか男は傘を傾げた。
「あ~、他意はねぇって。たまたま通りかかっただけだからよ」
あからさまに訝しんでみれば、ヴァンは困ったような微笑をしながら近づいてくる。
「……これからどこかに行くのか?」
「それはねぇな。今から遊ぶにしても中途半端だしよ」
この後の予定を遠慮がちに聞かれ、アーロンは即答してから駅がある方向へ視線をやった。
「さっさと帰って下で時間を潰そうかと思ってな。走ればそこまでは濡れねぇだろ」
言うやいなや、今度こそと思って足先に力を込めようとしたが、
「なら、入っていくか?丁度俺も帰るところだ」
そこで予想だにしなかった申し出をされて唖然としてしまった。
軽く十を数えるくらいの間、無言のままで相手を凝視する。
彼にしてみれば、まさに降ってわいてきたような僥倖だった。
傘があれば雨にさらされる心配もなく、密かに憎からず思っている男の傍らにも添える。
デメリットはゼロで良いことずくめだ。だったら軽い調子でささっと隣を陣取ってしまえばいい。
しかし、彼は如何せん捻くれた性格をしていた。
「なんだよ。貸しでも作っておこうって魂胆か?」
「お前なぁ……ほんと素直じゃねぇガキだな」
腕組みをしながら睨め付けると、ヴァンは肩を竦めながら小さな溜息を吐いた。
きっとアーロンの心中などお見通しということなのだろう。それくらいには深い縁がある。
「──あぁ、ほら。雇い主の俺としては、助手たちに風邪でもひかれたら困るんでな」
少しの時間を置き、ヴァンが尤もらしい理由を捻り出して再び手を差し伸べてきた。
傘の下で首を傾ける動きは柔らかく、それを見たアーロンが嬉しそうに両眼を煌めかせる。
「そういうことなら、まぁ……入ってやってもいいぜ」
「はいはい。ありがとよ」
気まぐれで天邪鬼な猫はご機嫌な顔で身を躍らせ、ヴァンの小脇に難なく滑り込んだ。
ここから駅までの道のりは単純だ。
少し先の角を右に曲がり、大きな通りに出てから直進すればいい。
特に急ぐ理由はなく、他愛のないやり取りを交わしながら歩を進める。
「まさか、こんなオッサンと相傘するハメになるとはなぁ」
「ははっ、悪ぃな。年上の綺麗なお姉さまじゃなくて」
通常運転とばかりにアーロンが愚痴を吐き、ヴァンはごく自然にそれを受け流す。
ちらりと金色の眼差しが見上げると、朗らかな横顔が近くにあった。
(……っ、面白くねぇ)
しかし、その弾みで浮かれた心の隙間にわずかな劣等感が生じてしまう。
ヴァンの方が上背もあるし誘ってきた体もあるので、どちらが傘を持べきか?などとは考える余地もない。
頭では解っている。解ってはいるのだが、それでもアーロンの心境はちょっとばかり複雑だ。
彼に対してはいつだって主導権を握っていたい。思うがままに振り回してみたい。
「ん?何か言いたそうだな?」
そんな腹の底にある小さな焔はおのずと瞳へ宿り、それに気づいたヴァンが顔を向けてきた。
「さぁな。うちの所長さんは随分とお優しいってな」
アーロンはわざと戯けた口調でそれを誤魔化し、隣の男から視線を外した。
すると、今の言葉が引き金になったのか、急にある違和感を覚え始めた。
いくら紳士物の傘とはいえ、大の男が二人並べば窮屈なことには変わりない。
彼は取りあえず頭が無事なら良いだろうという感覚で、胴体の方はさほど気にしていなかった。
しかし、今のアーロンの肩口は全くと言っていいほど濡れていない。
(こいつ、ふざけた真似しやがって)
行く道は大通りに出る角を曲がる直前。
広い道を隔てた向こう側のショーウィンドウに、ぼんやりと二人の姿が映っている。
相傘のわりにはバランスが悪く、明らかにアーロンの方へ偏っていた。
それを視認した瞬間、彼の表情が歪んだ。
雨脚は弱まる気配がなく本降りになっている。この分では、ヴァンの半身はしっかりと濡れてしまっているだろう。
「おい、ヴァン」
「なんだ?やっぱり何か……って、うおっ!?」
傍らにいる男を呼ぶ声が少し低くなり、彼の応答を遮って上着ごと腰を抱く。
「い、いきなり何しやがる!」
不意打ちを受けた身体はぐらりとよろめき、その機を捉えたアーロンが更に強く腰を引き寄せた。
「そういう気遣いはウゼェから止めろ」
これでもかと言わんばかりの密着状態は、顔を向ければ息がかかるくらいに近い。
慌てふためくヴァンに対し、アーロンは言葉通りの表情で鋭く睨んだ。
「な、何がだよ!?」
そのまま強引に歩き始めると、為すがままにされている男が切羽詰まった声を上げた。
「何がって?助手としては所長さんにお風邪を召されると困るんでな」
ここまで寄り添ってしまえば、傘を傾ける動きさえ困難なはず。
自分の肩に雨粒が落ちてくるのを感じ、アーロンは満足げに頬を緩めてそう言った。
大通りに出てしまえば後は道なりだ。
駅の建屋が目視できるくらいの距離で、時間にすれば大したことはない。
──はずなのだが。
ヴァンにはこの真っ直ぐな道程がやけに長く感じられた。
「なぁ……さすがにこれは無しだろ?」
腰元に回された手は力強く、傘の下では恋人同士かと見紛うような触れ合いが続く。
こんな天気なので、外を歩いている人が少ないのは幸いだった。それでも人目が気になってしまい、落ち着きなく視線を彷徨わせる。
「もうさっきみたいな持ち方はしねぇって」
アーロンに引き寄せられた際、バランスを崩した流れで咄嗟に傘の柄を両手で持ってしまった。
幸か不幸か、今はそれが丁度良い塩梅になっている。
彼は握る手に少しだけ力を込めて隣の反応を覗ってみた。
「こういう時のてめぇは信用できねぇな。どうせ無意識でやらかすに決まってる」
しかし、見事なくらいにバッサリと切り捨てられてしまい大きな溜息が落ちた。
「はぁ~、なんか言い返せねぇ気分だ……」
「ちなみに、有りか無しかで言ったらオレ的には有りだぜ?何の問題もねぇな」
力なく項垂れた横面にアーロンの吐息がかかる。
唇が肌に触れそうで触れない、ぎりぎりの所で言葉を紡がれて思わず肩が跳ね上がった。
「……うぅ、俺的には無しなんだよ。恥ずかしすぎんだろうが」
驚きと動揺で忙しない胸の鼓動を聞きながら、消え入りそうな声で本音を零す。
アーロンの性格を熟知している彼は、完全な諦めモードに入るしかなかった。
これはもう、何を言っても身体を離してくれそうにない。
だったらせめてと、雨の匂いが濃厚な街並みに願う。
(今はマジで顔見知りに会いたくねぇ。どうか……誰も通りかからないでくれ)
進行方向の先に見える目的地はやたらに遠く、足は動いているはずなのに全く近づいている気がしない。
「無心だ……無心だ」
「くくっ、まぁ、がんばれよ。所長さん」
ぶつぶつと呟き始めた横でアーロンが意地悪げに笑っている。
どうしてあの時に声をかけてしまったのだろう?
どうして傘の中へ誘ってしまったのだろう?
少し前の己の言動を反芻したヴァンは、本気で後悔をしたくなってしまった。
2023.11.03畳む
恋人未満
アーロン→ヴァンです。
雨宿りをしているアーロンと、それを見つけたヴァンが彼を相傘に誘う話。
【文字数:5300】
勝手気ままにイーディスの街を歩くなら、いちいち天気予報などは気にしない。
空は朝からずっと不安定な様相だ。鈍色の雲が厚く垂れ込める中、いつ雨が降ってきてもおかしくはない状況だった。
──ぽつり、ぽつり、と。
今まさに上空から小さな雨粒が落ちてきた。
彼は一度だけ上を見上げ、すぐに近くの建物へ身体を滑り込ませる。
「さて……っと、どうすっかなぁ?」
少しばかり軒下を拝借しつつ、アーロンは平然とした様子でザイファを開き時刻を確認した。
昼食時で賑わっていた飲食店がやっと一段落した頃合いだ。雨宿りと称してまったりするのも悪くない。
なのだが、
「集合は十五時だったよな」
彼はこの先の予定に頭を巡らせ、早々に最初の案を打ち消した。
なにせこの雨がいつ収まるのか予想できない。天候を見極める技術は日々発達しているが、雨雲の動きを事細かに捉えることはまだまだ難しい。
「どこかにしけ込むには時間が微妙すぎっつーか」
何気なく腕を組んで薄暗くなった街を見渡してみる。元からぐずついた空模様のせいか、傘を保持している人々の割合は高めだ。雨に濡れながら走っている輩もいるが、それも一時で各々が目指した建物へと吸い込まれていく。
その行き先を観察していたアーロンは、次の案を思い浮かべた。
「……駅まで走るか?はぁ~、マジかったりぃ」
全くもって不本意なのだが、それ以外の良策は出てきそうにない。
こんな所で足止めを食らっているよりは、旧市街へ戻った方が有意義かもしれなかった。
濡れた身体はシャワーで温め直すとして、その後はモンマルトで時間を潰せばいい。
生活をする上であれこれと世話になっている店なので、気兼ねなく居座れる場所であるのは確かだ。
アーロンはザイファをポケットへしまい、面倒くさそうに靴を数回鳴らした。
駅までの距離はそれ程遠くない。彼の足ならば濡れ鼠になる心配はなさそうだ。
「そんじゃ、行くか」
一度決めてしまえば、うだうだと悩みはしない。
彼は胸の前で手の平に拳を打ち付け、軒下に小気味よい音を響かせた。
と、その時。
「──よぉ、なんか目立つ赤毛を見つけちまったぜ」
次第に強くなっていく雨音の中、傘をさした男がゆったりと歩み寄ってきた。
ちょっとご近所へならともかく、別の地区への外出だったら多少は空の具合も気にかける。
ヴァンは身支度を整えながら窓の外を一瞥し、導力ネットで天気予報を確認した。
ザイファの画面を見つめる表情は、お世辞にでも柔らかいとは言い難い。
「……やっぱり降ってきそうだな」
事務所の時計に目をやると、時刻は十一時を少し回ったところだった。
本日の裏解決業務は午後に一件しか入れていない。
というのも、依頼内容から察するに少々面倒な案件の匂いがしたのだ。
助手たちの負担を慮り、他の依頼を入れるべきではないだろうと彼は判断した。
そんなわけで、緊急の要請がない限りは集合時間まで自由行動の予定だ。
ヴァンも同様のはずだったが、生憎と午前中に済ませておかなければならない用件があった。
事務所の経営に必要な公的書類の提出期限が差し迫っている。
昨日の段階でリゼットが指摘をしてくれなければ、彼自身はうっかり忘れたままだった大事な代物だ。
「リゼットには改めて礼を言っとかねぇとな、ほんと助かったぜ」
彼女は昨夜のうちに準備を整えてくれていた。
今日の天候のことまで考慮していたのか、提出用の書類はしっかりと厚みのある封筒に収められている。
「そろそろ出るか」
ヴァンは卓上に置かれたそれを手に取り、のんびりとした足取りで事務所のドアを開けた。
書類の提出場所はサイデン地区にある警察署だ。
「向こうに着くまでは持ちこたえて欲しいもんだがなぁ」
階段を下って屋外に出た彼は、そう呟きながら淀んだ雲を見上げる。
小脇には大事な書類を抱え、もう片方の手には一本の傘が携えてあった。
どうやらヴァンのささやかな願望は天にまで届いたらしい。
雨が降り出したのは、書類の提出を終えて別の地区へ移動してからだった。
昼食を取るために飲食店が並ぶ通りを物色し、混み具合がそこそこな店を選んで悠長に食事と洒落込む。
仕事の時間までには大分余裕があるし、あげくにこんな天気だ。独りでガラス越しの雨に浸るのは案外乙なものかもしれない。
「たまには、こんな日も良いもんだ」
ランチメニューの料理を綺麗に平らげた彼は、食後のデザートに舌鼓を打ちながら幸せな吐息を漏らした。
やはり甘い物は格別だ。
最後のひと匙を名残惜しげに口へ運んだ後、渋々ながら寛いでいた腰を上げる。
いつの間にか昼時のピークは過ぎていたようで、店内には緩やかな空気が流れていた。
ヴァンはドアのベル鳴らし、水気をはらんだ街路へ足を踏み出した。
雨脚が徐々に強くなり、開いた傘の上では大粒の水滴たちが合唱を始めている。
これでは気軽な街歩きを楽しむ気にもなれない。そう思った彼は、駅がある方向へ進路を取った。
「さっさと戻って昼寝だな。この一択しかありえねぇ」
唇から発せられる暢気な声は、足元の水たまりを踏む音と相まってどことなく楽しそうだ。
そんな最中。
視界の片隅に鮮やかな色が飛び込んできた。
「──あっ?」
思わずその場で足を止める。
驚きながら目線を移動させると、前方にある建物の軒下に赤い長髪の青年が佇んでいた。
彼は一時だけザイファを開いた後、腕組みをして何やら思案している様子だった。
「マジかよ。偶然にも程があるだろ」
驚きのあまりヴァンの声は掠れ、紺青の眼だけがじっとその立ち姿を見つめる。
この天気で視界が悪いのか、どうやら向こうは気づいていないようだ。
「いや、ここは見なかったことに……」
彼はすぐにそう判断した。
状況からして雨宿りをしているのは確かだったが、どこかに連絡を取っている素振りにも見えた。
今は自由行動中なので、声をかけるのは野暮というものだろう。
しかし、一つだけ。アーロンが何やら考え込んでいる様子なのが気にかかった。
そんなことはないと思いつつ、もしかしたら身動きが取れない状態なのかもしれないと。
「まぁ、ウザがられるのは分かってるんだけどなぁ」
そんな風に憂慮してしまえば、放っておけないのが彼の性。
ヴァンは自嘲気味な笑みを浮かべながら軒下へと歩き出した。
今まさに走り出そうとしていた矢先だった。
声をかけてきた人物を見た途端、アーロンが瞠目する。
「ヴァン?てめぇ、なんで……」
数拍を置いてから口を開くと、挨拶のつもりなのか男は傘を傾げた。
「あ~、他意はねぇって。たまたま通りかかっただけだからよ」
あからさまに訝しんでみれば、ヴァンは困ったような微笑をしながら近づいてくる。
「……これからどこかに行くのか?」
「それはねぇな。今から遊ぶにしても中途半端だしよ」
この後の予定を遠慮がちに聞かれ、アーロンは即答してから駅がある方向へ視線をやった。
「さっさと帰って下で時間を潰そうかと思ってな。走ればそこまでは濡れねぇだろ」
言うやいなや、今度こそと思って足先に力を込めようとしたが、
「なら、入っていくか?丁度俺も帰るところだ」
そこで予想だにしなかった申し出をされて唖然としてしまった。
軽く十を数えるくらいの間、無言のままで相手を凝視する。
彼にしてみれば、まさに降ってわいてきたような僥倖だった。
傘があれば雨にさらされる心配もなく、密かに憎からず思っている男の傍らにも添える。
デメリットはゼロで良いことずくめだ。だったら軽い調子でささっと隣を陣取ってしまえばいい。
しかし、彼は如何せん捻くれた性格をしていた。
「なんだよ。貸しでも作っておこうって魂胆か?」
「お前なぁ……ほんと素直じゃねぇガキだな」
腕組みをしながら睨め付けると、ヴァンは肩を竦めながら小さな溜息を吐いた。
きっとアーロンの心中などお見通しということなのだろう。それくらいには深い縁がある。
「──あぁ、ほら。雇い主の俺としては、助手たちに風邪でもひかれたら困るんでな」
少しの時間を置き、ヴァンが尤もらしい理由を捻り出して再び手を差し伸べてきた。
傘の下で首を傾ける動きは柔らかく、それを見たアーロンが嬉しそうに両眼を煌めかせる。
「そういうことなら、まぁ……入ってやってもいいぜ」
「はいはい。ありがとよ」
気まぐれで天邪鬼な猫はご機嫌な顔で身を躍らせ、ヴァンの小脇に難なく滑り込んだ。
ここから駅までの道のりは単純だ。
少し先の角を右に曲がり、大きな通りに出てから直進すればいい。
特に急ぐ理由はなく、他愛のないやり取りを交わしながら歩を進める。
「まさか、こんなオッサンと相傘するハメになるとはなぁ」
「ははっ、悪ぃな。年上の綺麗なお姉さまじゃなくて」
通常運転とばかりにアーロンが愚痴を吐き、ヴァンはごく自然にそれを受け流す。
ちらりと金色の眼差しが見上げると、朗らかな横顔が近くにあった。
(……っ、面白くねぇ)
しかし、その弾みで浮かれた心の隙間にわずかな劣等感が生じてしまう。
ヴァンの方が上背もあるし誘ってきた体もあるので、どちらが傘を持べきか?などとは考える余地もない。
頭では解っている。解ってはいるのだが、それでもアーロンの心境はちょっとばかり複雑だ。
彼に対してはいつだって主導権を握っていたい。思うがままに振り回してみたい。
「ん?何か言いたそうだな?」
そんな腹の底にある小さな焔はおのずと瞳へ宿り、それに気づいたヴァンが顔を向けてきた。
「さぁな。うちの所長さんは随分とお優しいってな」
アーロンはわざと戯けた口調でそれを誤魔化し、隣の男から視線を外した。
すると、今の言葉が引き金になったのか、急にある違和感を覚え始めた。
いくら紳士物の傘とはいえ、大の男が二人並べば窮屈なことには変わりない。
彼は取りあえず頭が無事なら良いだろうという感覚で、胴体の方はさほど気にしていなかった。
しかし、今のアーロンの肩口は全くと言っていいほど濡れていない。
(こいつ、ふざけた真似しやがって)
行く道は大通りに出る角を曲がる直前。
広い道を隔てた向こう側のショーウィンドウに、ぼんやりと二人の姿が映っている。
相傘のわりにはバランスが悪く、明らかにアーロンの方へ偏っていた。
それを視認した瞬間、彼の表情が歪んだ。
雨脚は弱まる気配がなく本降りになっている。この分では、ヴァンの半身はしっかりと濡れてしまっているだろう。
「おい、ヴァン」
「なんだ?やっぱり何か……って、うおっ!?」
傍らにいる男を呼ぶ声が少し低くなり、彼の応答を遮って上着ごと腰を抱く。
「い、いきなり何しやがる!」
不意打ちを受けた身体はぐらりとよろめき、その機を捉えたアーロンが更に強く腰を引き寄せた。
「そういう気遣いはウゼェから止めろ」
これでもかと言わんばかりの密着状態は、顔を向ければ息がかかるくらいに近い。
慌てふためくヴァンに対し、アーロンは言葉通りの表情で鋭く睨んだ。
「な、何がだよ!?」
そのまま強引に歩き始めると、為すがままにされている男が切羽詰まった声を上げた。
「何がって?助手としては所長さんにお風邪を召されると困るんでな」
ここまで寄り添ってしまえば、傘を傾ける動きさえ困難なはず。
自分の肩に雨粒が落ちてくるのを感じ、アーロンは満足げに頬を緩めてそう言った。
大通りに出てしまえば後は道なりだ。
駅の建屋が目視できるくらいの距離で、時間にすれば大したことはない。
──はずなのだが。
ヴァンにはこの真っ直ぐな道程がやけに長く感じられた。
「なぁ……さすがにこれは無しだろ?」
腰元に回された手は力強く、傘の下では恋人同士かと見紛うような触れ合いが続く。
こんな天気なので、外を歩いている人が少ないのは幸いだった。それでも人目が気になってしまい、落ち着きなく視線を彷徨わせる。
「もうさっきみたいな持ち方はしねぇって」
アーロンに引き寄せられた際、バランスを崩した流れで咄嗟に傘の柄を両手で持ってしまった。
幸か不幸か、今はそれが丁度良い塩梅になっている。
彼は握る手に少しだけ力を込めて隣の反応を覗ってみた。
「こういう時のてめぇは信用できねぇな。どうせ無意識でやらかすに決まってる」
しかし、見事なくらいにバッサリと切り捨てられてしまい大きな溜息が落ちた。
「はぁ~、なんか言い返せねぇ気分だ……」
「ちなみに、有りか無しかで言ったらオレ的には有りだぜ?何の問題もねぇな」
力なく項垂れた横面にアーロンの吐息がかかる。
唇が肌に触れそうで触れない、ぎりぎりの所で言葉を紡がれて思わず肩が跳ね上がった。
「……うぅ、俺的には無しなんだよ。恥ずかしすぎんだろうが」
驚きと動揺で忙しない胸の鼓動を聞きながら、消え入りそうな声で本音を零す。
アーロンの性格を熟知している彼は、完全な諦めモードに入るしかなかった。
これはもう、何を言っても身体を離してくれそうにない。
だったらせめてと、雨の匂いが濃厚な街並みに願う。
(今はマジで顔見知りに会いたくねぇ。どうか……誰も通りかからないでくれ)
進行方向の先に見える目的地はやたらに遠く、足は動いているはずなのに全く近づいている気がしない。
「無心だ……無心だ」
「くくっ、まぁ、がんばれよ。所長さん」
ぶつぶつと呟き始めた横でアーロンが意地悪げに笑っている。
どうしてあの時に声をかけてしまったのだろう?
どうして傘の中へ誘ってしまったのだろう?
少し前の己の言動を反芻したヴァンは、本気で後悔をしたくなってしまった。
2023.11.03畳む
気晴らしの庭城を行く
黎Ⅱ・恋人未満
アーロンの気晴らしに庭城で追いかけっこをしている二人の話。
【文字数:3700】
先行するアーロンの身体が嬉々として飛び跳ねた。
双剣が銀色の軌跡を描く度に、鮮やかな赤い髪が舞い踊る。
「こら!待ちやがれ!!」
それを追いかけているヴァンが、制止の声を張り上げた。
足の速さを比べてしまえば、分が悪くなるのは仕方がない。
このエリアに入った途端、爛々と目を輝かせて抜剣をしていたことを思えば、止まってくれるはずもないのだが。
小型の魔獣たちが群がる一画へ突進し、華麗な剣捌きで危なげなく立ち回る。
彼が周囲を一掃する頃、ようやくヴァンが追いつくのだが、
「おせーぞ!オッサン!」
などと楽しげに言いながら、アーロンはまた走り出してしまう。
傍から見れば、追いかけっこをして遊んでいるような二人組だ。
「あの野郎~っ」
ヴァンは多少の苛立ちを覚え、片手で頭を掻きむしった。
幸い、ここは庭城の中でも下層の領域だ。
今の練度なら単独で走っても問題はないが、かと言って一方的に置いて行かれるのは面白くない。
ましてや、あからさまに煽られているのだから、対抗心を燃やしたくなるというものだ。
事務所の中で唯一の成人男性であるアーロンに対しては、ついムキになってしまう時がある。
子供じみた感情だと分かっているが、一度火が点くとなかなか止められない。
心の端では、遠慮がない男同士のじゃれ合いを楽しんでいる節もあった。
ヴァンは一度軽く首を回し、撃剣を担いで再び彼を追いかけ始めた。
このエリアの終点までにはあのガキを捕まえてやる、と一人で息巻きながら。
アーロンは、目の前に立ち塞がる魔獣にしか興味がなかったようだ。
彼の食べ残し達は、追駆してくるヴァンを目ざとく見つけ、我先にと敵意を向けてくる。
それらを難なく打ちのめしながら、軽やかに動き回る背中へ照準を合わせた。
最初の頃に比べれば、二人の距離はだいぶ縮まってきている。このままいけば確実に手が届くと判断したのか、ヴァンの表情筋が微かに緩んだ。
「ふぅ……稽古で煮詰まってるって感じかねぇ?」
そして、事の発端を思い出してみる。
アーロンは二週間ほど前から煌都に戻っていた。
華劇場からの出演依頼があったのだ。演目自体は昔から馴染みものだが、今回は大幅に演出が変わるらしい。それもあってか、時たま思い立ったように舞台への強行軍をする彼も、スケジュールには余裕を持たせていた。
「あいつ、そういう所は真摯なんだよなぁ……役者魂っていうか」
リニューアルする演目に対し、作り込みに妥協はしないということなのだろう。
「少しくらいは、こっちにも回して欲しいもんだぜ」
ヴァンが戯けながら一人でぼやく。助手三号の業務態度に大きな不満はないが、何となくそんな気分だ。
と、そんな矢先。
「──おっ!?」
今は演者としての顔は形を潜め、楽しげに剣戟を繰り出すアーロンの足が止まった。
二体の大型魔獣と対峙している彼を見て、ヴァンがニヤリと笑う。
あれは流石に瞬殺とまではいかないだろう。
低い咆吼を皮切りにした戦いへ、彼は勢いよく突っ込んでいった。
鋭利で大きな爪が容赦なく振り下ろされる。
それを危なげなく躱すと、今度は真横からの大振りな追撃。
身を翻して距離を取った直後、両足で地を蹴って高く跳躍した。
「沈め!!」
吐き出した息と共に、焔を纏った斬撃を魔獣の頭部に叩き付ける。
巨体が崩れる音を聞きながら着地を決めると、即座に無傷のもう一体が襲いかかってきた。
一瞬の隙を突かれた形だが、アーロンにしてみれば完全に予定調和の範囲内。
──のはずだった。
迫り来る爪牙を剣で受け流した刹那、
「おい!一体くらいは譲れっつーの!!」
耳馴染みのある声がいくらかの弾みを伴って、交戦の場に割り込んできた。
「あっ、てめぇ!?」
アーロンが反撃するよりも早く、ヴァンが肩に担いでいた撃剣を横に構えた。
重心を下肢に落とし、渾身の力を込めて腕を振り切る。
薙ぎ払うような打撃は青白い弧を描き、魔獣の胴体へ強烈な一発が打ち込まれた。
「これでしまいだ!」
ヴァンは大きくよろめいた体躯を一瞥し、返す刀でとどめを刺した。
周囲に魔獣たちの気配がないことを確認し、アーロンが双剣を鞘に収める。
前方にはこのエリアの終点となる転送装置が視認できた。
「チッ、余計なことしやがって」
「追いつかれちまったのが面白くねぇのか?」
仏頂面でそっぽを向いている彼とは対照的に、ヴァンは目的達成とばかりに得意げな顔をしている。
俊足の背中を追いかけていたので、ちょっとだけ息が上がっているのはご愛敬だ。
「そっちこそ、ギリギリだったくせにドヤ顔かましてんじゃねぇよ」
それを笑い飛ばしたアーロンが、相手の方へ向き直る。
「──ん?」
しかし、勝ち気な瞳が訝しげな色を浮かべて細くなった。
彼はヴァンの顔をマジマジと見ながら、遠慮なく距離を詰める。
「な、なんだよ?」
あと半歩で二人の間合いがゼロになる。そこまで近寄られたヴァンは、困惑して後退ろうとした。
だが、すぐにそれを制する声が発せられる。
「ダセぇな。このエリアなら無傷で来いよ」
言い終える前に片腕が動き、上着の襟元を掴まれる。自然と前屈みの態勢になってしまった。
互いの息がかかるくらいに顔が接近し、その緊張感からか全身が強張る。
「……傷?」
この道中で自分が負傷をしたという認識はなく、疑わしげに首を傾げてみれば、アーロンからは無言の返答があった。
突として頬に柔らかく湿った肉の感触。生温い水分が皮膚の表面に溶け、ピリッとした刺激が走る。
そこでようやく、自分の顔に切り傷があることに気が付いた。
同時に、目の前の青年に何をされているのかも。
まるで傷の具合を確かめるように、ゆっくりと舌先が這い回る。
「お、お前っ……」
痛みのせいか、それとも羞恥のせいか、ヴァンは強く両目を瞑った。
遠目からでも頬に走る薄い赤色が確認できた。
よくよく近寄ってみれば、滲んでいる程度のかすり傷だ。
すると、軽薄にも揶揄する気持ちが先に立つ。
不意に舌で舐め上げると、口内に微かな血の味が広がるような感覚があった。
「身体鈍ってんじゃねぇの?」
アーロンは意地悪げに笑みながら、上着を掴んでいる手を離した。
「こんなの怪我のうちに入んねぇだろうが」
ヴァンはその隙を逃さず、今度こそ一歩後ろへ距離を取る。
嬲られた傷口が熱を帯びている気がして、無意識に手の平を頬へ押し付けた。
「……ったくよぉ。犬猫じゃあるまいし」
どうにも居たたまれない気分に陥ってしまい、ぶつぶつと愚痴りながら身体を背ける。
「大体、てめぇは自由奔放すぎるんだよ。急に連絡入れてきたかと思えば、『気晴らしに付き合え』だとか」
半眼じみた視線だけを横に流してみたが、アーロンの方はどこ吹く風のようだ。
「まぁ、取りあえずは良い気分転換になったぜ、ヴァン」
その上、堂々と後腐れがない応答されてしまえば、ぼやき混じりの胸中を飲み込むしかなかった。
「今度の演目、まだまだ練り上げてぇからな。ちょいと行き詰まってたんだが、これで頭が切り替えられそうだ」
「お、おう。そうかよ」
やはり、役者然としている時のアーロンは舞台に対して素直だ。
明確な言葉はないが、共に庭城を走ってくれた男への感謝を誤魔化そうとはしない。
いつも『素直じゃないクソガキ』と過ごしているヴァンにとっては、それがくすぐったくて照れ臭かった。
「あ~、その……お役に立てたなら、何よりだぜ」
所なさげに身体を揺らした彼は、視線をうろつかせながら律儀にそう言った。
楽しかった一時は幻のごとく、あっという間に現実へと引き戻される。
最低限の家具だけが置かれた簡素な部屋に、アーロンは一人佇んでいた。
ザイファを片手で持ったまま、名残惜しげにその画面を見つめる。
「……気晴らしなら、別のヤツにするべきだったかもな」
仮想空間で武器を振るうだけなら、誰を誘っても良かった。もしくは一人だったとしても何ら問題はない。
けれど、どう足掻いても最初に思い浮かぶ姿はヴァンだけだったのだ。
アーロンは知らずのうちに、空いている方の親指をぺろりと舐めていた。
あの空間は何もかもがリアルで、嫌になるくらいの余韻が残る。
実物と見紛うばかりの虚像は、肌の感触も血の味も温かい気がして、彼の劣情を呼び覚ますには十分だった。
「あれじゃ、足りねぇんだよ」
ぼそりと呟いた声が侘しい室内に溶けていく。
どうせ触れるなら、本物の肉体が良いに決まっている。今、ここにいないのならば尚更に。
彼はおもむろにベッドへ腰を下ろし、端末を弄り始めた。
途中でどこかへ通信を入れ、手早くいくつかのやり取りを交わす。
「──あぁ、それでいい。頼んだぜ」
そして、会話の最後には満足げな笑みを浮かべて頷いた。
その後。
庭城からログアウトし、自室で一息入れているヴァンの元にメールの着信があった。
画面を開いた瞬間、簡潔な一文が目に飛び込んできて、思わず面食らう。
『さっきの礼だ。初日のチケットくらいは送っておいてやる』
通話ではないところが、いかにも彼らしい。
「ははっ、仕方ねぇ。この日は休業にでもしとくか」
こちらからも簡単な返信のみを綴り、送信ボタンを押した後で目元を緩ませる。
会いたいと、言外に言われているような気がして嬉しかった。
2023.09.14
#黎Ⅱ畳む
黎Ⅱ・恋人未満
アーロンの気晴らしに庭城で追いかけっこをしている二人の話。
【文字数:3700】
先行するアーロンの身体が嬉々として飛び跳ねた。
双剣が銀色の軌跡を描く度に、鮮やかな赤い髪が舞い踊る。
「こら!待ちやがれ!!」
それを追いかけているヴァンが、制止の声を張り上げた。
足の速さを比べてしまえば、分が悪くなるのは仕方がない。
このエリアに入った途端、爛々と目を輝かせて抜剣をしていたことを思えば、止まってくれるはずもないのだが。
小型の魔獣たちが群がる一画へ突進し、華麗な剣捌きで危なげなく立ち回る。
彼が周囲を一掃する頃、ようやくヴァンが追いつくのだが、
「おせーぞ!オッサン!」
などと楽しげに言いながら、アーロンはまた走り出してしまう。
傍から見れば、追いかけっこをして遊んでいるような二人組だ。
「あの野郎~っ」
ヴァンは多少の苛立ちを覚え、片手で頭を掻きむしった。
幸い、ここは庭城の中でも下層の領域だ。
今の練度なら単独で走っても問題はないが、かと言って一方的に置いて行かれるのは面白くない。
ましてや、あからさまに煽られているのだから、対抗心を燃やしたくなるというものだ。
事務所の中で唯一の成人男性であるアーロンに対しては、ついムキになってしまう時がある。
子供じみた感情だと分かっているが、一度火が点くとなかなか止められない。
心の端では、遠慮がない男同士のじゃれ合いを楽しんでいる節もあった。
ヴァンは一度軽く首を回し、撃剣を担いで再び彼を追いかけ始めた。
このエリアの終点までにはあのガキを捕まえてやる、と一人で息巻きながら。
アーロンは、目の前に立ち塞がる魔獣にしか興味がなかったようだ。
彼の食べ残し達は、追駆してくるヴァンを目ざとく見つけ、我先にと敵意を向けてくる。
それらを難なく打ちのめしながら、軽やかに動き回る背中へ照準を合わせた。
最初の頃に比べれば、二人の距離はだいぶ縮まってきている。このままいけば確実に手が届くと判断したのか、ヴァンの表情筋が微かに緩んだ。
「ふぅ……稽古で煮詰まってるって感じかねぇ?」
そして、事の発端を思い出してみる。
アーロンは二週間ほど前から煌都に戻っていた。
華劇場からの出演依頼があったのだ。演目自体は昔から馴染みものだが、今回は大幅に演出が変わるらしい。それもあってか、時たま思い立ったように舞台への強行軍をする彼も、スケジュールには余裕を持たせていた。
「あいつ、そういう所は真摯なんだよなぁ……役者魂っていうか」
リニューアルする演目に対し、作り込みに妥協はしないということなのだろう。
「少しくらいは、こっちにも回して欲しいもんだぜ」
ヴァンが戯けながら一人でぼやく。助手三号の業務態度に大きな不満はないが、何となくそんな気分だ。
と、そんな矢先。
「──おっ!?」
今は演者としての顔は形を潜め、楽しげに剣戟を繰り出すアーロンの足が止まった。
二体の大型魔獣と対峙している彼を見て、ヴァンがニヤリと笑う。
あれは流石に瞬殺とまではいかないだろう。
低い咆吼を皮切りにした戦いへ、彼は勢いよく突っ込んでいった。
鋭利で大きな爪が容赦なく振り下ろされる。
それを危なげなく躱すと、今度は真横からの大振りな追撃。
身を翻して距離を取った直後、両足で地を蹴って高く跳躍した。
「沈め!!」
吐き出した息と共に、焔を纏った斬撃を魔獣の頭部に叩き付ける。
巨体が崩れる音を聞きながら着地を決めると、即座に無傷のもう一体が襲いかかってきた。
一瞬の隙を突かれた形だが、アーロンにしてみれば完全に予定調和の範囲内。
──のはずだった。
迫り来る爪牙を剣で受け流した刹那、
「おい!一体くらいは譲れっつーの!!」
耳馴染みのある声がいくらかの弾みを伴って、交戦の場に割り込んできた。
「あっ、てめぇ!?」
アーロンが反撃するよりも早く、ヴァンが肩に担いでいた撃剣を横に構えた。
重心を下肢に落とし、渾身の力を込めて腕を振り切る。
薙ぎ払うような打撃は青白い弧を描き、魔獣の胴体へ強烈な一発が打ち込まれた。
「これでしまいだ!」
ヴァンは大きくよろめいた体躯を一瞥し、返す刀でとどめを刺した。
周囲に魔獣たちの気配がないことを確認し、アーロンが双剣を鞘に収める。
前方にはこのエリアの終点となる転送装置が視認できた。
「チッ、余計なことしやがって」
「追いつかれちまったのが面白くねぇのか?」
仏頂面でそっぽを向いている彼とは対照的に、ヴァンは目的達成とばかりに得意げな顔をしている。
俊足の背中を追いかけていたので、ちょっとだけ息が上がっているのはご愛敬だ。
「そっちこそ、ギリギリだったくせにドヤ顔かましてんじゃねぇよ」
それを笑い飛ばしたアーロンが、相手の方へ向き直る。
「──ん?」
しかし、勝ち気な瞳が訝しげな色を浮かべて細くなった。
彼はヴァンの顔をマジマジと見ながら、遠慮なく距離を詰める。
「な、なんだよ?」
あと半歩で二人の間合いがゼロになる。そこまで近寄られたヴァンは、困惑して後退ろうとした。
だが、すぐにそれを制する声が発せられる。
「ダセぇな。このエリアなら無傷で来いよ」
言い終える前に片腕が動き、上着の襟元を掴まれる。自然と前屈みの態勢になってしまった。
互いの息がかかるくらいに顔が接近し、その緊張感からか全身が強張る。
「……傷?」
この道中で自分が負傷をしたという認識はなく、疑わしげに首を傾げてみれば、アーロンからは無言の返答があった。
突として頬に柔らかく湿った肉の感触。生温い水分が皮膚の表面に溶け、ピリッとした刺激が走る。
そこでようやく、自分の顔に切り傷があることに気が付いた。
同時に、目の前の青年に何をされているのかも。
まるで傷の具合を確かめるように、ゆっくりと舌先が這い回る。
「お、お前っ……」
痛みのせいか、それとも羞恥のせいか、ヴァンは強く両目を瞑った。
遠目からでも頬に走る薄い赤色が確認できた。
よくよく近寄ってみれば、滲んでいる程度のかすり傷だ。
すると、軽薄にも揶揄する気持ちが先に立つ。
不意に舌で舐め上げると、口内に微かな血の味が広がるような感覚があった。
「身体鈍ってんじゃねぇの?」
アーロンは意地悪げに笑みながら、上着を掴んでいる手を離した。
「こんなの怪我のうちに入んねぇだろうが」
ヴァンはその隙を逃さず、今度こそ一歩後ろへ距離を取る。
嬲られた傷口が熱を帯びている気がして、無意識に手の平を頬へ押し付けた。
「……ったくよぉ。犬猫じゃあるまいし」
どうにも居たたまれない気分に陥ってしまい、ぶつぶつと愚痴りながら身体を背ける。
「大体、てめぇは自由奔放すぎるんだよ。急に連絡入れてきたかと思えば、『気晴らしに付き合え』だとか」
半眼じみた視線だけを横に流してみたが、アーロンの方はどこ吹く風のようだ。
「まぁ、取りあえずは良い気分転換になったぜ、ヴァン」
その上、堂々と後腐れがない応答されてしまえば、ぼやき混じりの胸中を飲み込むしかなかった。
「今度の演目、まだまだ練り上げてぇからな。ちょいと行き詰まってたんだが、これで頭が切り替えられそうだ」
「お、おう。そうかよ」
やはり、役者然としている時のアーロンは舞台に対して素直だ。
明確な言葉はないが、共に庭城を走ってくれた男への感謝を誤魔化そうとはしない。
いつも『素直じゃないクソガキ』と過ごしているヴァンにとっては、それがくすぐったくて照れ臭かった。
「あ~、その……お役に立てたなら、何よりだぜ」
所なさげに身体を揺らした彼は、視線をうろつかせながら律儀にそう言った。
楽しかった一時は幻のごとく、あっという間に現実へと引き戻される。
最低限の家具だけが置かれた簡素な部屋に、アーロンは一人佇んでいた。
ザイファを片手で持ったまま、名残惜しげにその画面を見つめる。
「……気晴らしなら、別のヤツにするべきだったかもな」
仮想空間で武器を振るうだけなら、誰を誘っても良かった。もしくは一人だったとしても何ら問題はない。
けれど、どう足掻いても最初に思い浮かぶ姿はヴァンだけだったのだ。
アーロンは知らずのうちに、空いている方の親指をぺろりと舐めていた。
あの空間は何もかもがリアルで、嫌になるくらいの余韻が残る。
実物と見紛うばかりの虚像は、肌の感触も血の味も温かい気がして、彼の劣情を呼び覚ますには十分だった。
「あれじゃ、足りねぇんだよ」
ぼそりと呟いた声が侘しい室内に溶けていく。
どうせ触れるなら、本物の肉体が良いに決まっている。今、ここにいないのならば尚更に。
彼はおもむろにベッドへ腰を下ろし、端末を弄り始めた。
途中でどこかへ通信を入れ、手早くいくつかのやり取りを交わす。
「──あぁ、それでいい。頼んだぜ」
そして、会話の最後には満足げな笑みを浮かべて頷いた。
その後。
庭城からログアウトし、自室で一息入れているヴァンの元にメールの着信があった。
画面を開いた瞬間、簡潔な一文が目に飛び込んできて、思わず面食らう。
『さっきの礼だ。初日のチケットくらいは送っておいてやる』
通話ではないところが、いかにも彼らしい。
「ははっ、仕方ねぇ。この日は休業にでもしとくか」
こちらからも簡単な返信のみを綴り、送信ボタンを押した後で目元を緩ませる。
会いたいと、言外に言われているような気がして嬉しかった。
2023.09.14
#黎Ⅱ畳む
首都イーディスを拠点にしているヴァンにとっては久しぶりの海景だ。
空を染める茜色は海面へと溶け込み、小波の煌めきを有して遙か彼方まで広がっていた。
吹き渡る潮風は穏やかだったが、昼間よりも少し肌寒くなっている。
それは観劇の余韻を残している彼にとって心地良い涼感だった。
待っている間にしっかりと気持ちを落ち着かせることができる。
アーロンが待ち合わせ場所に指定してきたのは、賑わいから離れた静かな波止場の辺りだった。
大規模に整備されている港湾区とは違い、住民たちが生業に使用している小舟が数隻泊まっているだけだ。
そろそろ夕飯時とあってこれから出航する船はなく、人影もまばらだった。
そんな場所のおかげで、すぐに待ち人がこちらに歩いてくる気配を感じ取れる。
ヴァンは黙って空と海の狭間を眺めやっていた。
「なに黄昏れてんだよ、オッサン」
背後から声をかけられて振り返る。
「全然、似合ってねぇぞ」
煌びやかな衣装とは一転、いつもの装いをしたアーロンが笑みを刷いて立っていた。
「第一声がそれかよ。相変わらず口の減らねぇヤツだな」
およそ二ヶ月ぶりの生身での対面は、当たり前のように遠慮がない言葉遊びから始まった。
ひとしきり挨拶代わりのじゃれ合いを楽しんだヴァンは、まず先に相手を労う。
「……っと、まぁ、取りあえずお疲れさん。見応えのある良い舞台だったぜ」
嬉しさも相まって、つい赤い頭を撫でまわしたくなった。
しかし、彼との距離が三歩分ほどはあるし、嫌がられるのは確実なので諦める。
「ま、当然だろ──それより、『色々あって』を聞かせろよ。どうせアシェンのヤツだろ?」
そんな葛藤を知らないアーロンは、ありきたりな賛美をさらりと流して別の話題で返した。
彼の立場からすれば、それが最も気になるところだろう。
「う~ん、間違っちゃいねぇけど。確実に一枚噛んでるのはアニエスと、たぶんジュディスも……」
「あいつの独断じゃねぇのかよ?」
自信満々に幼馴染みの名前を出してみたが、そうも単純な話ではなかったらしい。
意外だと言わんばかりの顔で食い気味になる。
「そうだなぁ……今思えば、発端は二週間くらい前のあれだったか」
あまりの凝視っぷりに堪えきれず、ヴァンは気乗りがしない中でぽつりぽつりと話し始めた。
アニエスとジュディスが事務所に来ていた時、アーロンの話題になったこと。
彼女らはヴァンがアーロンに招待されていると思い込んでいたこと。
されていないと知ってひどく驚かれたこと。
「それで終わりかと思いきや、昨日になっていきなりアシェンから連絡があってよ」
彼の説明は簡潔と表せば聞こえは良いが、後半はご都合主義全開でかなりの端折り具合だった。
例えば、前払いのスイーツの誘惑には逆らえなかっただとか。
「……チッ、あいつら好き勝手やりやがって」
普段のアーロンであれば、それに違和感を覚えて突っ込んできそうなものだが、今は違っていた。
苦々しい表情をしながら独り言のように吐き捨てる。
「ん?なんか言ったか?」
それは本当に小さくてヴァンの耳にまでは届かない。
怪訝に思ったが、アーロンは軽く頭を振るだけだった。
「なんでもねぇよ。昨日の今日じゃ、急だったな」
「まったくだぜ。移動の時間だって馬鹿にならねぇからな」
予期せぬ共感を得た男は、大袈裟なくらいに何度も頷いた。
アーロンが急に大人しくなってしまったが、元から気分屋な所があるので大して気にも留めなかった。
それとなく彼の顔色を窺い、たぶん大丈夫だろうと判断したヴァンは遠慮がちに切り出した。
「そんなわけで、帰る前に腹ごしらえといきたいんだが……」
地元の、しかも生まれ育った弌番街であれば、飲食店の類いは幅広く網羅している。
店選びを任されたアーロンは、少しばかり思案してから動き出した。
道すがらの会話は他愛もないものだったが、ヴァンは楽しそうにしている。
それに対して、アーロンの方は自己嫌悪でいっぱいだった。
この一件の発端は自分が彼を誘えなかったことに他ならない。
女性陣に意気地がない部分を見透かされて世話を焼かれた形になる。
それでも結果だけを見れば、ヴァンに演舞を披露できた上に、今はこうして二人だけの時間を過ごしているのだ。
お節介な彼女たちに悪態を吐きたい気持ちと、図らずも望みが叶ってしまった嬉しさとが煩雑に絡み合う。
「……アーロン?もしかしてお疲れか?」
どうやら知らぬ間に口数が少なくなっていたようだ。
ヴァンが気遣わしげな視線を投げてくる。
「あぁ?問題ねぇ」
アーロンは鬱陶しいとばかりに睨み返し、いきなり歩調を速めて先行し始めた。
目抜き通り周辺には大小様々な店がひしめいているが、そこを外して人通りの少ない方へと向かう。
すれ違うのは観光客ではなく街の住民ばかりだ。気さくに声をかけてくる彼らと挨拶を交わしつつ、角をいくつか曲がって袋小路に入る。
突き当たりには小さいながらも落ち着いた店構えの飲食店があった。いかにも隠れ家といった雰囲気だ。
「へぇ?こんな所に店があったのか。知らなかったな」
「静かに飯が食いたい時には丁度良い。昔……名前は忘れちまったが有名どころで料理長やってた爺さんだから、味は保証するぜ」
興味津々で建物を見上げているヴァンに説明をし、引き戸になっている入り口を開けて中へと促した。
今は騒がしい場所で過ごす気分ではなかった。
せっかく二人きりの時間を持てるのだから、邪魔はされたくない。
店内に入ると、店主が奥の厨房から顔を覗かせていた。
軽く声を掛けてからぐるりと中を見渡し、壁際の一画に席を取る。
すでに数人の客が食事を楽しんでおり、鼻腔をくすぐる香りが漂っていた。
ほどなくして給仕の女性がやってきたので、各々に注文をする。
「ここ、よく来るのか?」
「公演中は特にな」
「夜な夜な酒盛りをするわけにはいかねぇとか?」
注文した料理を待っている間、ヴァンがここぞとばかりに質問を重ねてくる。
「あのなぁ……理由はそこじゃねぇ。外から観劇しにきたヤツらが擦り寄ってくるんだよ。街のヤツらとは勝手が違うんで扱いにくい」
アーロンは面倒くさそうに応じながら、給仕が置いていった水を喉へ流し込む。
「あぁ、なるほどな。さすがは人気役者さま」
「推しだのなんだのってのは素直に嬉しいが、オフにまで突っ込んでこられるのはなぁ」
「それでこの店か。俺が華劇場にいた時も女性客が多かったもんな」
つい愚痴っぽくなってしまったが、向かい席の男は妙に何度も相槌を打った。
「特に今回は女形じゃねぇし。前にうちの奴らがポスター見て騒いで……あっ」
ヴァンは更に言葉を続けたが、
「いや、そうじゃなく……ん~」
途中で何かを思い出し、悩ましげに顔を歪めた。もの言いたげな瞳がアーロンに向けられる。
「なんかあるならハッキリ言いやがれ」
「その、な。ちょいと気になってたことがあって」
一度上げた声を目の前で飲み込まれるのは不愉快だ。
鋭い眼光で穿つと、歯切れの悪い小さな声が聞こえてくる。
「先に言っとくが、たかってるとかじゃなくてな……お前、何で誰も招待しなかったんだ?」
それは予想だにしなかったもので、アーロンを吃驚させた。
「お前の性格だったら、うちの奴ら一纏めでチケットの大盤振る舞いとかしそうな気がしたからよ」
「……それは」
言われて、はたと気が付いた。
二ヶ月前、煌都に帰ってきた時点では確かにそう思っていたはずだ。
すぐに手配すれば良かったものを、稽古に追われる日々の中ですっかり忘れてしまっていたらしい。
一ヶ月前に庭城を訪れた時、思い出すチャンスはあったものの、ヴァンに会いたい一心で彼を誘うことしか頭になかった。
「なんつーか、まぁ……色々と忙しくてよ。頭からすっぽ抜けてた」
もう済んでしまったことだが、彼にしてみれば結構なレベルの失態だ。
最初からみんなを招待していれば、ここまで拗れることもなかっただろう。
とはいえ、ヴァンだけに向けて舞いたいという願望があったのも事実。
波止場で待ち合わせてからこの方、アーロンの胸中は複雑だった。
頬杖をついて気まずそうに顔を逸らす。
「要するに、招待するつもりだったが忘れちまったってわけか」
答えを聞いたヴァンは、気分転換だと言って庭城を走り回っていた青年の姿を回想し、納得した様子で微笑した。
「そんだけ根詰めてたんだろ」
思慮が滲んだ声音は柔らかく、返す言葉が見つからなくなったアーロンは黙り込んだ。
そろそろ料理ができる頃ではないかと、助けを求めるかのように厨房へ目をやる。
すると、タイミング良く給仕の女性が二人の元へやってきた。
テーブルの上には注文した料理たちが次々と並べられていく。
熱々の湯気と美味しそうな香りを立ち上らせているのは、色とりどりの采や炊きたての米。
アーロンはすぐさま箸に手を付ける。
空腹の加減も相まって、この場の空気を誤魔化すには都合が良かった。
夕食時も盛りの頃。
入店した時には客もまばらだった店内は、いつの間にか満席になっていた。
食事と共に酒を楽しんでいる者も多いが、喧噪はなく適度な雑音が居心地の良い空間を作り出している。
アーロンが贔屓にするのも頷ける、とヴァンは密かに思った。
二人のテーブルに置かれている皿は、もうほとんどが空だ。
よほど腹が空いていたのだろうか?真向かいの青年は良い食べっぷりを披露していたが、話しかければ応じてくれるので、食事時の過ごし方としては満足だった。
(そろそろ帰らねぇとなぁ……)
お開きの時間が近づいてくるにつれ、寂しさが込み上げてくる。
そんな時、唐突に短い呼び出し音が鳴った。
「ん?オレか」
アーロンが箸を置いてポケットからザイファを取り出した。
どうやらメッセージが届いたらしい。彼は内容を確かめ、素早く返信を打ち込み始めた。
「なんかあったのか?もし急用なら……」
「違うって。役者連中からのお誘い。軽く飲んでるから気が向いたら顔出せよって」
プライベートに立ち入るのは憚られたが、彼は頓着せずにわざわざ画面を見せて教えてくれた。
「なら、行ってこいよ。こっちはもう食べ終わっちまうだろ?」
どう切り出そうかと思案していたヴァンにとっては、渡りに船だった。
「俺の方は車だからなぁ。酒までは付き合えねぇし」
苦笑を交えた言葉の語尾に、アーロンがザイファを閉じる音が重なる。
「……だったら泊まっていけばいいじゃねぇか」
続けて不機嫌そうな低い声が添えられた。
思わず目を剥くと、どこか怒っているような両眼とぶつかる。
「今からかよ?そんな出費は想定してねぇぞ、マジで」
これから宿泊場所を確保しろとでも言うつもりなのか。
多少強引な部分がある性格なのは承知しているが、金を出せとはあんまりだ。
困惑したヴァンは前屈みになって彼の真意を探ろうとした。
すると、アーロンはいきなり給仕を呼んで追加の注文をし始めた。
黙って聞いていれば、酒とつまみの名前ばかりが連なっていく。
「お、おい!?」
給仕が下がった後にヴァンは抗議の声を上げた。しかし、返ってきたのは思いも寄らない一言だった。
「……オレのとこでいいだろ?寝るだけなら問題ねぇ」
ぶっきらぼうな言葉はあまりに衝撃的で、開いた口が塞がらなくなってしまった。
そうこうしている内に、酒とつまみが運ばれてくる。
心中では寂しさが募るくらい、アーロンとの時間が名残惜しかったのは確かだ。
しかし、いざ目の前にささやかな酒宴が広げられると、あまりの急展開で気持ちがすぐには付いてこない。
「さっきの断ったのか?あっちの方がたくさん飲めるだろ?」
「は?量なんて関係ねぇだろうが。重要なのはオレが誰と飲みたいかってことだけだ」
要領を得ない上に弱腰な抵抗は、一刀のもとに斬り伏せられる。
「そ、そうか」
もう完全にお手上げだ。そう思った矢先、鈍足気味だった心がようやく現実に追い付いてきた。
仲間からの誘いを受けた時、アーロンは即座に断りを入れたのだろう。今ならそれがはっきりと分かる。
もしかしたら、こちらが先に解散を切り出さなかったとしても、最初から泊まれと言うつもりだったのかもしれない。それがまさか自宅だとは想像だにしなかったけれど。
「もう頼んじまったし。お前がそう言うなら……少しだけな」
ヴァンはそう言って酒杯に手を伸ばした。
もう少し彼との時間を共有できる。
滲み出てくる嬉しさを噛みしめると、それにつられて目元が蕩ける。
まだ一口も飲んでいないのに、酔いが回りそうだった。
※ ※ ※
ひとしきり酒を愉しんでから店を出ると、街はすでに夜の雰囲気に包まれていた。
街灯や店の明かりが行く先々で揺らめいている。
今は公演中ということもあり飲酒を控えめにしているので、アーロンにしてみれば正直かなり物足りない。
けれど、それは大した問題ではなかった。
「お前、ほんとにあんな量で良かったのか?」
「だから、量じゃねぇんだよ。大体、オレが飲んでたのはそっちのよりはるかにキツい酒だ」
隣を歩いているこの男のペースで酒杯を傾けられたのならば、それでいい。
「そうだったのか?水みたいに飲んでやがったから分からなかったぜ」
「てめぇが飲んだら一杯で目が回る」
そこはかとなく酔いが漂っているくらいが──自宅へ連れて行くには最適だ。
アーロンは普段よりも口数が多いヴァンの相手をしながら、ゆっくりと帰路を歩んだ。
彼と会ってからずっと抱え続けていた自己嫌悪は、酒が入ったお陰でようやく薄らいできた。
自宅への距離が近づくのに伴って気持ちが切り替わっていく。
今日ヴァンが煌都にいる経緯は捨て置き、目の前に用意された舞台があるのなら遠慮なく利用してやろうと思った。
アーロンが住んでいるのは質素な家々が立ち並ぶ居住地区だった。
父が煌都を追放されて以降は母と二人で暮らしてきた家だ。
彼は玄関のドアを開けて中に入りながら照明をつけた。
薄い暗闇は暖色の明かりに上書きされ、必要な家具だけが置いてある素朴な室内が露わになった。
「入れよ」
「おう、邪魔するぜ」
幼い頃から慎ましい暮らしぶりだったので、家の間取りも最小限だ。
玄関をくぐった先にはキッチンと二人掛けのテーブルが併設されている一室。その奥はドアを隔てて寝室になっている。
「へぇ、綺麗にしてるんだな」
ヴァンがテーブルの横で立ち止まり、興味深げに部屋の中を見回した。
「ほとんど寝るだけだからな。余計なもんは置いてねぇだけだ」
二ヶ月ほど前に帰ってきてからは稽古三昧だったし、食事も外で済ませている。
夜は夜で街をぶらついているので、まともに使用している家具はベッドくらいなものだった。
だが、さすがに起床した時には誰かを泊める想定はしていなかった。
急にベッド周りが気になってしまったアーロンは、テーブルの椅子に目配せをする。
「適当にその辺で寛いでろ。ちょっと片付けてくる」
そして、ヴァンの応答をそっちのけで寝室に足を向けた。
中に入ると真正面の壁には窓が一つあり、今朝方にカーテンを開けたままの状態だった。
左右の壁沿いにはベッドが一台ずつ設置されている。
アーロンが使用しているのは向かって右側にあるもので、もう片方は一応来客用として整えられていた。
とはいえ、彼が自宅に誰かを招くことなど皆無だ。自身がほとんどの時間を外で過ごしているのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。
室内を見回して特に問題がなさそうだと判断する。
たまに服を脱ぎ散らかして放置している場合もあるのだが、幸い今日はそこまで荒れていなかった。
最後に夜色を映しているガラス窓にカーテンを引く。
そこで彼は視線を落とした。
窓の下には小ぶりのチェストがあり、天板には写真立てが乗っている。
「……お袋はあの野郎の為に舞いたいと思ったことはあんのか?」
アーロンはあたかも墓参りの延長みたいに呟いた。
あの演舞はあいつに届いただろうか?響いただろうか?
ヴァンは食事の時も酒を飲んでいる時も舞台のことを褒めてくれたが、なぜか抽象的な文言ばかりだった。
「オレはそう思った。今日あいつを見つけた瞬間に」
写真の中の彼女は、華やかな舞台衣装の姿で柔和に微笑んでいる。
「だから答えが欲しい」
それに向かって対話の形を模しただけの独り言。
「色々とダダ漏れなのは今に始まったことじゃねぇけど」
本人は隠し通しているつもりなのだろうが、ふとした仕草の中にそれとなく滲むものがある。
ときおり控えめに注がれる視線が言外に想いを訴えてくる。
アーロンはそれに気が付かないほど鈍い男ではなかった。
彼にはヴァンから恋い慕われているという自負がある。それこそ完璧な確率で。
「それでも言葉が欲しい。オレが伝えた分だけ返してほしい」
物言わぬ美しい肖像は、墓参りの時と同じで優しい空気を纏い見守ってくれている。
そこに声はなくても、ただ、自分を奮い立たせる為に言いたかった。
家の主であるアーロンの意を汲んだヴァンは、椅子に座って寝室が整うのを待つことにした。
卓上に頬杖をつきながら、何気なく周りを観察してみる。
イーディスにある彼の部屋のイメージが念頭にあったので、初見では意外に思った。
向こうに比べれば質素で殺風景な印象だが、よく見れば長年積み重ねてきた生活の欠片がいくつも転がり落ちている。
わざわざ聞かなくても、ここが幼い頃から家族と過ごしてきた大切な場所であるのが分かった。
「いきなり自宅とか……不意打ちすぎんだろ」
言下に小さな吐息を零す。
正直なところ、ヴァンは緊張していた。
表面上は平静を保っているつもりだが、店を出る頃になってからというもの、ずっとそわそわと落ち着かない気分だった。
昼間の舞台の余韻は未だ消えず、胸の奥底では火傷の痕がじりじりと燻ったまま。
「はぁ……ボロが出なきゃいいんだが」
そんな状態で惚れた男の家にいる。
アーロンがどういった心境で自宅に招いてくれたのかが分からず、どう出てくるのかも予測ができない。
彼と夕食を取り始めた時は純粋に嬉しかったはずなのに、今や不安でいっぱいだ。
「これじゃ寝付ける気がしねぇけど、さっさと寝ちまいてぇ」
そうぼやいたヴァンは、椅子に腰掛けたまま寝室の様子を覗った。
ドアは半開きになっていて、隙間からは赤い後頭部が見え隠れしている。
周囲を整えているのかと思いきやそれらしい動きはなく、ただ部屋の奥に佇んでいるようだった。
ヴァンは怪訝な顔をしてドアの向こうに視線を留めた。そうやってしばらくアーロンを注視していたが、いつまで経っても変化は訪れない。
「あいつ、どうしたんだ?」
物音一つすらしない状況が心配になり、彼はついに立ち上がった。
──コンコン。
不意にドアを叩く音が聞こえ、アーロンはハッと振り返った。
「え~っと、悪ぃ。なかなか戻ってこないもんだから、気になっちまって」
ドアの隙間から、ヴァンが申し訳なさそうに顔を覗かせている。
「別に問題ねぇ。ただの意思表示っつーか……まぁ、いい。入ってこいよ」
そう言って促してみると、彼はそろそろと足を踏み入れてきた。
チェストの上に置いてある写真立てに気づき、腰をかがめてそれを見る。
「これ、お袋さんか。綺麗な人だなぁ」
感嘆は穏やかな響きを伴い、更に言葉が付いてくる。
「役者として、彼女の域には近づけたか?」
「まだまだ足りねぇな。お袋はマジで凄かった」
在りし日の彼女の舞台を回顧したアーロンは、誇らしげに写真を一瞥した。
「そうか。でも、今日のお前も凄かったぞ」
しかし、傍らに立っている男の真摯な口ぶりにピクリと眉尻が跳ね上がる。
「そりゃ、どうも」
今夜はこれで何度目だろうか。また、漠然とした褒め言葉が耳元を通り過ぎていく。
アーロンは口を引き結び、身を投げ出すようにして自分のベッドに座った。
「──そこに座れ」
「な、なんでだよ?」
有無を言わせぬ命令口調で空いているベッドを指さすと、ヴァンが困惑を露わにした。
「座れ。てめぇに聞きたいことがある」
もう一度言う。すると彼は渋々ながらも指先の場所へ腰を下ろした。
この住宅の広さを考えれば、寝室の平面積はたかがしれている。
二台のベッドの距離は大人の歩幅で二歩程度。対面で座してみると思いのほか近かった。
これなら表情の機微まで読み取れる。下手な誤魔化しもできないだろう。
アーロンはやや前屈みになり、開いた膝の上に指を組んでどっしりと構えた。
上目で見据える眼光は相手を射殺してしまいそうに強い。
「何を……だ?」
ヴァンにとっては急変した以外の何物でもないはずだ。緊張からか唾を飲み込む音がする。
「凄いとか良かったとか、そういうのは聞き飽きた」
そんな中でアーロンが静かに口を開いた。
「舞台全体のことじゃねぇ。オレがソロで踊ってるのを見てどう思った?」
使い込まれて擦れた床板には、その問いだけが落とされた。
「一番の見せ場だ。何も感じなかったわけじゃねぇだろうが。はぐらかすつもりかよ」
追い詰めて退路を塞ぐ。
答えを引きずり出すまで寝かせるつもりはないと、暗に睨みを利かせてみせた。
ヴァンは何度か瞬き、更に数拍をおいてから気まずそうに視線を彷徨わせ始めた。
「……あれは上手く言葉にできねぇ」
「体裁なんて必要か?そのまま曝け出せばいい」
胸元を握り締めながら口を濁す様はどことなく苦しげだった。嘘偽りがないことは一目で分かる。
それでも追及を緩める気はなかった。ヴァンに対しては多少の強引さが必要だと、これまでの経験から学んでいる。
いつだってそうだ。アーロンとの付き合いにおいて、この男は自分の欲を優先させようとはしない。
そのくせに脇が甘いせいで、簡単にその心中を察することができてしまう。
「無茶振りしやがって……無理なんだよ。思い出すと胸が焼かれたみたいに息が詰まる。感情が……持っていかれそうになる」
ヴァンの声は微かに震えていた。より強く胸元を握り締め、床の一点を見つめ続けている。
「観客は俺だけじゃなかったのに、錯覚しそうだった。お前が誰の為に気迫の演舞をしているのかって」
無理と言いながらもひとたび唇が動き始めてしまうと、それを皮切りに切々とした言の葉が紡ぎ出されていく。
顔を伏せてしまった男の胸中は、込み上げてくる想いでいっぱいなのだろう。
アーロンはその独白を黙って聞いていた。
嵩を増した心の器はすでに上限いっぱいだと目測をする。
そして、それが溢れ出してしまうのを待っている。
「……違う、しそうだったじゃない。ほんの一時でもそう思っちまった」
あと、少し。まるで懺悔のような一滴。
「だから、嬉しかった。愛おしいだとか見惚れていたいとか、気持ちの収拾が付かなくなって……」
もう、寸前。最後の一滴が満杯の器に静かに落ちていく音がする。
「──あっ」
同時にヴァンがハッと顔を上げ、口元を片手で覆った。
彼にとっては失言だったのだろう。けれど、一度溢れてしまったら再び隠すことなどできはしない。
吃驚した瞳が相対している青年に向けられ、ようやく互いの視線がぶつかった。
「届いたかよ?オレの執心ぶりが」
アーロンは一瞬だけ不敵に口角をつり上げた。ようやく引きずり出してやったと言わんばかりに。
彼は勢いよくベッドから立ち上がり、ヴァンとの距離を詰めた。
「錯覚なんかじゃねぇ、自惚れろ。オレはあんたに向けて踊った。あの舞台を一番見て欲しかったヤツの為に」
目を丸くしたまま固まっている男の頬を両手で挟み、強引に上を向かせる。
見下ろした前髪の先がヴァンの額にさらりと触れた。
「響いたかよ?本音を吐露するのが止められないくらいに」
自発的に声を塞いだ手を引き剥がし、露わになった唇を親指の腹でやんわりとなぞってみる。
「そ、それって……」
その感触でヴァンの肩が小さく跳ねた。
アーロンからの本気は確実に伝わっている。硬直が解けた顔にはそんな表情が浮かんでいた。
「分かってただろ。オレはあんたと違って一切隠してねぇからな」
「……ずっと半信半疑だったんだよ。しょうがねぇだろ?お前、気まぐれなヤツだし」
近すぎて視線を外すことが難しい状況になり、ヴァンは若干いじけた素振りをみせる。
「俺は、その、惚れてる……とか、言うつもりなんてなかっ……」
これを放って置いたら延々と愚痴を吐きそうな予感がする。
そう思ったアーロンは素早くキスを落として語尾を封じにかかった。
表面が触れるだけのそれは鳥が啄むかのように軽い。
「お、お前!?」
ヴァンは反射的に腰を浮かして離れようとしたが、アーロンが腕を伸ばす動きの方が速かった。
起立しかけた男の身体を引き寄せて抱きしめる。
咄嗟のことで両手が宙ぶらりになったヴァンは支えを失い、アーロンが少し体重を掛けただけで容易くベッドの海に沈み込んだ。
「言わねぇなら引きずり出してやるまでだ。くくっ、オレの勝ちだな」
「……勝手に勝負事にしてんじゃねぇ」
スプリングが軋む音に重なるのは、戯れを含んだ短いやり取り。
ヴァンは本音を吐露してしまった羞恥を引きずりながらも、戸惑い慌てふためくのを止めた。
アーロンに組み伏せられたことが、彼の想いを受け止める最後の一押しになったのだろう。
静かな苦笑を漂わせた眼差しが、今度こそ彼自身の意思で相手へと向けられる。
それに惹きつけられたアーロンが再び唇を落としても、過剰な反応はなく大人しかった。
それならば、もっと欲しくなる。一度味わってしまえば、より大胆に貪り尽くしたくなる。
そんな欲情に囚われている青年の背中へ、押し倒された男の両腕がやんわりと回された。
彼が誘引するような仕草を見せたことで、ベッドの上の空気は一気に高揚した。
深く絡み合う舌先が湿った音を口内に響かせ、聴覚を甘く刺激する。
ヴァンの喉元にひとすじの唾液が伝い流れる様は、やたらと艶めかしかった。
ふと、熱を帯びて荒くなっていく吐息の隙間で彼が囁いた。
「……勝ち逃げは認めねぇからな」
牽制なのか挑発なのか、一時離れたアーロンの下唇に小さく噛み付いてくる。
「はっ、上等だぜ」
ほんのわずかな痛覚ですら快感だ。夜の寝室に黄金の瞳が爛々と輝いた。
※ ※ ※
カーテン越しの陽光を受け、部屋の中に朝の気配が滑り込んでくる。
目を覚ましたヴァンは、古びた天井を見つめながら昨夜のことを思い出していた。
お互いに素直な性格ではないので、身体言語で想いを確かめ合う方法が手っ取り早い。
とは言え、後々を考えればキスまでで抑えられて良かった。
「……危ねぇ、流されちまうところだった」
嬲り合っていたアーロンの唇は、いつの間にか耳元から首筋を辿っていた。
同時に衣服の中へ手が滑り込んできて、荒々しい指先に素肌が浸食されていく。
そこまできて、さすがにマズいと思った。
アーロンが主役の公演はまだしばらく続く。連日舞台に立ち続けるのだから、十分な睡眠は鉄則だ。
彼の昂ぶりを押さえ付けるのは酷だったが、何よりも体調面の心配が先に立つ。
本音を言えば、ヴァンの方とて身体は火照っていたが、心を鬼にして『待て』と睨め付けた。
強引に両肩を掴み、腕力に物を言わせて彼の身体を引き剥がす。
「ヴァン!てめぇ……っ!?」
刹那、アーロンは烈火の如くの憤りを見せた。
だが、すぐに抑制の意味を理解したのだろう。
まるで獣の如く歯を噛みしめて、情欲を払うかのように大きく頭を振った。
「ふぅ……クソが。生殺しじゃねぇかよ」
息を整え心身を落ち着けようとしている彼の声を聞き、ヴァンは心苦しい顔で笑った。
「悪ぃな、アーロン」
まだ熱っぽさを残したままの顔へ片手を伸ばす。
謝罪を込めて頬をひと撫でしてみると、彼はそれで一応は納得してくれた。
覆い被さっていた身体を起こしてベッドの脇に腰掛ける。
「……二度目の『待て』はないからな」
ふて腐れてそっぽを向いてしまった声には、あからさまな恨みがましい響きを感じる。
そんなアーロンに対し、ヴァンはお詫びを兼ねた甘い餌を差し出した。
「続きはお前が無事に千秋楽を終えて事務所に戻ってきてからな。それでいいだろ?」
「その言葉、忘れるんじゃねぇぞ」
すると、彼はすっくと立ち上がり自分のベッドへ勢いよく全身を投げ出したのだった。
回想を終えたヴァンは、仰向けのまま首だけを横に向けた。
アーロンはまだ夢の中のようで、毛布に包まった赤い頭は微動だにしなかった。
昨夜は自分の方が先に寝入ってしまったらしく、彼がすぐに眠りにつけたのかは分からない。
それでも現在はしっかりと熟睡をしているので、ホッと胸をなで下ろした。
「……よく寝てんなぁ」
視線は留めたまま、ゆっくり上半身だけを起こして笑みを浮かべる。
と、その時。
アーロンの枕元に置いてあるザイファから、アラームとおぼしき音が鳴り始めた。
「あ~、うるせぇ」
彼はすぐに反応を示し、かったるそうに頭を動かした。
しかし、アラームを止めるやいなや無造作にザイファを放り投げ、再び寝床に潜り込んでしまった。
それと同時に、ごとり、と堅い物が床に落ちる音がした。
「はぁ、何やってんだか」
ヴァンはベッドから這い出して、勢い余って転がり落ちたザイファを拾ってやった。
「あっ、これ前も付けてたよな」
手の中で蒼い光を煌めかせている意匠には見覚えがある。
庭城で会った時にも、アーロンはこのカバーを装着していた。
あの時はほんの一瞬だけだったので、後になってから見間違いの可能性が頭に過った。
しかし、それは杞憂で終わる。このデザインは確かにヴァンがアーロンに贈ったものだ。
「もしかして、煌都に来てからずっとこれなのか?」
ヴァンは手元のザイファと持ち主を交互に見やる。
互いの想いを確かめ合った後ではそうとしか思えなくなってしまい、一ヶ月前よりも嬉しさが募って口元が綻ぶ。愛おしくて堪らなかった。
「こいつのデレは分かりにくい……おっと?」
またアラームが鳴り出した。どうやら寝坊の防止機能が設定してあったらしい。
アーロンは小さな唸りを発し、毛布の中から腕だけを伸ばして音の発信元を探している。
さっさと起き上がってしまえば良いものを、未練がましく至福の温もりにへばりついていた。
見かねたヴァンは、一つ息を吸い込んでから声を張る。
「起きろ!今日も公演があるんだろ」
一緒に勢いよく毛布を引き剥がすと、彼はようやく上半身を起こした。
「あぁ?」
アラーム音とヴァンの声が同時に聞こえたので違和感を覚えたのだろう。
寝起きも相まった顰めっ面で、ベッドサイドに立つ男を見上げた。
「ったく、扱いが雑すぎんだろ……床に落ちてたぞ」
小言を加えてザイファを差し出し、受け取ったアーロンがすぐさま音を止める。
「知らねぇよ」
「何言ってんだか。お前が放り投げたんだろうが」
まだ寝ぼけ眼だが、取りあえずは起きたみたいだ。
そう判断したヴァンは、一晩借りたベッドを整えようと彼に背を向けた。
「今朝はたまたまだ。いつもなら一発で起きてる」
「そうかよ。ま、舞台絡みだったら寝坊とかしなさそうだな、お前は」
短いやり取りの真っ只中で、アーロンの視線が背中に注がれているのを感じる。
「──もう帰んのか?」
丁度ベッドを綺麗にし終わった時、明らかに不服そうな声が放たれた。
「元から日帰りのつもりだったしな。そっちも準備があるだろ?」
寝る前に脱いだ上着を羽織ってから振り返る。案の定、アーロンはむすっとしていた。
「泊めてくれてありがとな。残りの公演も頑張れよ」
そんな彼に近づいて寝乱れた赤毛をくしゃりとかき混ぜる。
普段なら真っ先にウザがられる行動だが、なぜか今は不機嫌ながらも牙を剥かずにいてくれた。
「そんじゃ、行くからな」
「……おう」
ヴァンは別れの挨拶をして寝室のドアを開けた。
「あ、そうだ」
しかし、部屋を出る寸前になって言い残していることがあったのを思い出す。
「お前さ、そのザイファのカバー。煌都限定じゃなくたっていいんだぜ?」
意地悪げにくつくつと笑いながら、アーロンの手元を指差してみる。
「はっ!?」
昨夜は彼のいいようにされてしまったので、少しくらいは仕返しをしたっていいだろう。
唖然として固まる恋人の顔は、煌都での良い思い出となるに違いなかった。
寝室に一人残されたアーロンは、しばらくの間そのショックから浮上できなかった。
ザイファを握り締めたままベッドに座り込んでいる。
彼にしてみれば、とんでもない失態だった。
煌都に帰ってきてからおよそ二ヶ月。この蒼いカバーが日常的になっていたせいですっかり失念していた。
贈り主であるヴァンには知られたくない一心からだったのに、これでは全く意味がない。
「あの野郎、一体いつから」
と疑問を口にしつつも、よくよく思い返してみれば、相手が気が付くかどうかの問題ではなかった。
昨日ヴァンと待ち合わせをした時から、アーロンは至って普通にザイファを操作していた。
だから、自分から見せびらかしていたも同然だった。
「いや、昨日じゃねぇな。庭城の時からか」
更にもう少し記憶を遡ってみてから考えを改める。
「はぁ……マジかよ」
一ヶ月も前からヴァンに知られていたという事実を突きつけられ、地の底まで落ちていきそうな深い溜息を吐いた。
片手で顔を覆って俯くと、じわじわと熱が集まってくるのを感じる。
ヴァンが最後までこの話題を振ってこなかったのは、彼のさり気ない優しさだったのか。
それとも、意図的に隠していた切り札だったのか。
今となっては真意のほどは解らない。
「年上の余裕ってやつか?チッ、面白くねぇ」
手の中にある蒼色へ苦々しい視線を注ぎながらも、指先はあくまで愛おしげに表面を撫でる。
まだ閉まったままのカーテン越し、朝の陽光はだいぶ明るくなってきた。
それを受けて柔らかな光沢を放っている蒼いカバーは、戯けて笑っているようにも見えた。
「オレが向こうに戻ったら覚悟しとけよ。タダじゃ置かねぇからな」
アーロンは自他共に認めるほどの負けず嫌いな男だった。
朝の弌番街は夜の盛りとは違った賑わいがある。
まだ観光客の出が少ない代わりに、住民たちが忙しなく往来をしていて生活感に溢れていた。
ヴァンは散歩がてらにその雰囲気を堪能し、途中で朝食用の軽食と飲料を購入した。
運転中に片手で食べられる類いのものだ。
その足で昨日から利用している駐車場へ向かう。
「アーロンの奴、怒ってんだろうなぁ」
澄んだ朝気の中で発したのは、言葉の割には明るい独り言。
先刻の彼を思い出せば自然と頬が緩んでしまう。
不服そうな顔をしながらも頭を触らせてくれたのは、別れが名残惜しかったからに違いない。
最後に固まったのは、たぶん──あれが馴染みすぎていて替えたこと自体を忘れていたのだろうと推測した。
「こっちにだって一応は年上の矜持ってもんがあるんでな」
ヴァンの方とて、本当は後ろ髪を引かれる思いだったのだ。
それでも、去り際だけは未練たらしい真似をしたくなかった。
アーロンに言ったら笑われるかもしれないが、少しくらいは格好良い男でいたいのだ。
「あいつが戻ってきた時を想像すると怖い気がするんだが……ま、なんとかなるだろ」
やはり、言葉の割には楽しそうな声。
足取りも軽やかな道程の終点はもう目の前だった。
上着のポケットに手を突っ込んで車のキーを確認する。
そして、道の角を一つ曲がって駐車場を視認した途端、「やっぱりな」という表情で肩を竦めた。
青い愛車の横で、同系色の衣服を纏った黒髪の女性が手を振っている。
「よぉ、どっかで顔を出してくるとは思ってたぜ」
「あたしがお願いしたんだから、見送りくらいはするわよ」
黒月の令嬢はヴァンの顔をじっと見つめ、満足げに小さく頷いた。
「ヴァンさん、なんだかご機嫌ね。良いことあった?」
「……分かってて聞くなっつーの」
ヴァンは運転席側のドアを開けて、先に軽食が入った紙袋を助手席の上に置いた。
「そんなに聞きたきゃ、あいつの方に聞けよ。放ってきたからご機嫌斜めだろうけどな」
そして、そそくさと自分も車に乗り込んでドアウィンドウを開ける。
どこをどう取っても照れ隠しにしか見えない。一連の動きを眺めていたアシェンが、くすくすと声を立てて笑った。
「な、なんだよ?」
窓から顔を出して怪訝そうな上目遣いすると、アシェンは急に居住まいを正した。
「ねぇ、ヴァンさん。改めて、アーロンのことをよろしくね。あいつはまだまだ良い男になるわよ」
そして、朗らかに微笑む。家族とも呼べる彼がようやく手に入れた恋人へ向けて。
「おい、おい……まだ打ち止めじゃねぇのか?勘弁してくれよ」
ヴァンはその確信めいた台詞を聞いて、苦笑どころか冷や汗が出てきそうになった。
一体どこまで惚れさせれば気が済むんだ、と末恐ろしくなる。
「あたしの自慢の幼馴染みだもの、当たり前じゃない」
そんな男の気持ちを知ってか知らずか、アシェンは得意げに腰に手を当ててみせた。
彼女からの見送りの言葉は、それが最後だった。
昨日はわだかまりを抱えて辿った道を、今は軽快な口笛を吹きながらハンドルを握っている。
押し隠していた気持ちを吐露したことで、ヴァンの表情は晴れやかになっていた。
青い空と柔らかな太陽のお陰で、本日もドライブ日和だ。愛車もさぞ喜んでいることだろう。
「帰り道はご機嫌だなんて、あのガキがへそを曲げちまいそうだ」
彼はそう言いながら暢気に運転していたが、唐突にあることを思い出した。
もはや大したことではないのだが、ずっと小さな引っかかりを覚えていた疑問。
庭城での別れ際、アーロンは口にしかけた言葉を飲み込んだ。
あの時、彼は何を言いたかったのだろうか?
「あれって、やっぱり……」
しかし、昨夜のアーロンの言動を思い返すと、答えは意外にすんなり落ちてきた。
「あいつ、俺を誘いたかったんだな」
声に出してみた途端、無性に彼を可愛く感じてしまって笑いが込み上げてくる。
「いつもの押しの強さはどこへ行っちまってたんだか」
首都イーディスまでの帰り道はまだ始まったばかり。
けれども、彼のことを考えている時間は本当に楽しくて、この距離さえも瞬く間に走り終えてしまいそうな気がした。
2024.05.01