不本意ながら前科が一つ増えました
黎ⅡED後・恋人設定
ヴァンが学藝祭の時に1人で抜け出した件を思い出して不機嫌になっているアーロンの話。
『今、繋ぎ止めた想いを確かめて』の続きです。
【文字数:4000】
事務所のドアが開いた瞬間に元気な少女の声が響いた。
「戻りました!」
「おう、お疲れさん」
ヴァンはソファーに座って一息ついている所だった。
とある案件で手分けをして聞き込みをしていたが、数十分ほど前に戻ってきたばかりだ。
「トリオンモールの方はどうだっ……ん?」
彼は状況の確認をしようとしたが、すぐに眉を顰めた。
二人で向かわせたはずの助手が一人足りない。
「おい、三号はどうした?」
「えっと……アーロンさんなら自分の部屋に直行してしまいました」
フェリが申し訳なさそうな顔をする。
「はぁ?何やってんだ、あのクソガキは」
「でもっ、聞き込み自体は真面目にやってくました」
ヴァンが険しい声音で立ち上がり、小さな助手は慌てて同僚を擁護した。
それもあってか、彼の瞬発的な憤りはあっさりと形を潜めた。
「あの野郎、報告までが仕事だっつーの……で、なんか問題でも起きたのか?」
「特にこれといっては……あっ」
少女は大きな瞳を上方に向け、トリオンモールでの行動を反芻する。
そこで、一つ気になることを見つけた。
「そう言えば……トリオンタワーの辺りを通った時に、アーロンさんが急に立ち止まってしまって」
それからずっと不機嫌そうだったという。
「……トリオンタワーねぇ」
ヴァンは腕組みをして思案する素振りをしたが、それも僅かな間だけだった。
「よく分かんねぇが、ちょいと様子を見てくるか」
「あっ、私も行きます」
フェリもアーロンのことが気がかりなのだろう。その言葉にすかさず飛びついてくる。
そんな小さな助手を見下ろし、ヴァンが優しい笑みを浮かべた。
「お前さんは休んどけ。朝から働きづめだったしな」
そう言って彼女の頭をぽんぽんと叩き、真面目な仕事ぶりを労った。
室内には確かな人の気配がある。
ヴァンは軽く息を吐いてからドアをノックした。
「アーロン、入るぞ」
どうせ相手も気づいているだろうと思い、遠慮なく足を踏み入れる。
後ろ手にドアを閉めながら声を向けると、部屋の中央に立っている背中が振り返った。
「……なんだよ、オッサン」
「なんだよじゃねぇ。フェリが心配してんぞ」
「あー、そうかよ」
これは明らかに虫の居所が悪い時の態度だ。
元から感情が表に出やすい彼のこと。見慣れた光景だが、先ほどフェリから聞いた経緯が気になってしまう。
「なんかあったのか?」
ヴァンは直球で問いかけたが、彼からの応答はなかなか返ってこない。
暫く沈黙が続き、心配げな瞳と刺々しい瞳が絡み合う。
「いちいち保護者面してんじゃねぇ」
先に耐えきれなくなったのはアーロンの方だった。
勢いよく顔を背け、あからさまに視線を外す。
それから少しの間を置いて唇が動き出した。
「過ぎたことをグダグダ言うタチでもねぇんだが……」
こめかみに指を当てながら俯き、思いきり顰めっ面をしている。
「あの時は、アニエスのヤツがきっちりシメてくれたしよ」
珍しく歯切れが悪いばかりか、まるで独り言のようだ。
彼が何を言いたいのかが分からず、ヴァンは目を眇めて首を傾げる。
「おい……さっぱりなんだが」
しかし、零れた言葉はアーロンの神経を逆なでするには十分だったらしい。
ぎらりと光った金色が、剣呑さを剥き出してヴァンに突き刺さる。
「ハッ、どの口がほざきやがる」
締まりのない愚痴から一転、彼は足音を荒げながら目の前に立つ男へ詰め寄った。
「前科二だろ、あれは」
両肩を掴んで容赦なくドアに押し付ける。そこへ凄みのある声が重なった。
「な、なんのことだ?」
いきなりの衝撃を受けたヴァンは、驚きのあまり何度も目を瞬かせた。やはり彼の言いたいことが分からない。
頭をフル回転させてみるものの、それらしき事柄に心当たりがなかった。
その態度が気に入らなかったのか、それとも埒があかないと思ったのか、アーロンは吐き捨てるように言ってやった。
「てめぇが学藝祭を途中で抜け出した件だ」
軽く十を数えるくらいには時が止まった。
革命記念祭の後、それぞれが多忙な日々を過ごしていた中での一夜を思い出す。
情欲の名残が漂うベッドの上で、独り消えようとしたことを責めてくる恋人の声を聞いた。
勝手に前科持ち認定をされたあの時から、きっとどこまでも疑われ続ける予感がした。
だから──『捕まえておいてくれよ』と囁いた。
肩に走る痛みが更に強くなり、ヴァンはそこで我に返った。
「いや、まて!あれは未遂だろ!?」
勝手に前科が追加されていく流れを受け、思わず声を強めて抗議した。
「お前らに最初から怪しまれてた時点で未遂だって!」
「隠してたことには違いねぇだろうが」
慌てるヴァンに対し、アーロンは言葉少なに睨みを利かす。
いくらかの身長差があるせいで見上げる形になっているが、それを物ともしない強烈さだ。
「それは、その……あくまで前向きな単独行動っつーか」
ヴァンの目が見事なまでに泳ぎ、しどろもどろな弁解を始める。
てっきりアーロンから手痛い反撃を食らうものと覚悟したが、なぜか黙って睨めてくるだけだ。
「前みたいな『逃げ』じゃねぇし……」
それがやけに不気味で、どんどん声が小さくなっていく。
「大体、なんで今さら怒ってんだよ……あの時は呆れてたくせに」
しかし、身が縮みそうな気持ちを何とか堪えて不平不満をチラつかせてみせた。
その話題は時間差にも程がある。理不尽すぎやしないかと。
「うるせぇな」
アーロンは耳障りな言葉の羅列を一刀で切り伏せた。
しかし、ヴァンの様子に多少は絆されたのか、肩を掴む手が緩くなる。
「思い出しちまったんだよ。あそこを通ったら」
あの時は裏解決事務所の一員としての顔が強かった。
同じことを繰り返しては周囲に突っ込まれる所長に対し、心底呆れたのは確かだ。
ついにボケが始まったと揶揄したくなるくらいに。
けれど、今は明らかに違う。
繋ぎ止めているはずの恋人が、簡単に腕の中からすり抜けていく感覚。
トリオンタワーの付近でフラッシュバックした記憶は、全く別の感情を呼び起こした。
「……俺の物のくせに一人でふらふらするんじゃねぇ」
肩から離した一方の手を首元に添え、力を込めて自分の方へ引き寄せる。
「お、おい!?」
不意を突かれたヴァンの身体は抵抗もなく降ってきた。
バランスを崩して覆い被さってきた背中に片腕を回し、逃げ道を塞いでやる。
「だから、未遂だって言ってんだろっ」
「信用度ゼロなんだよ、てめぇは。いっそのこと首に縄でも付けてやろうか?」
あくまで前科一を貫きたい男は抵抗したが、至近距離で危険な物言いをされて息を詰まらせた。
「な、なに言ってんだよ!?」
首の後ろを指先でなぞられ、ゾクリと肌が粟立つ。
密着しているせいで表情を窺えないのが余計に怖い。脅迫じみた低音からは、冗談めかした色を全く感じなかった。
「なんなら鎖でも構わねぇぜ。好きな方を選ばせてやる」
冷や汗がだただらと流れ落ちる中、ヴァンはついに観念をした。
「あー!もう、いい!前科二でいいから!!」
悲鳴にも似た声が室内に響き渡り、そこでようやくアーロンの険が緩んだ。
「くくっ、落ちるの早ぇなぁ」
「シャレになんねぇんだよ。お前が言うと」
完全に諦めた紺青の頭が擦り寄ってくるのを、不敵な笑みが受け止める。
「なぁ、もし……あ、いや、なんでもねぇ」
そんな恋人に身を預けながらヴァンはふと思った。
今でさえこれなのに、また前科が増えたらどうなるのだろう?
しかし、想像するだけでも恐ろしさが込み上げてくる。
言いかけはしたものの、どう頑張っても訊ける質問ではなかった。
少し前。
優しい所長から休息を与えられたフェリは、ソファーに腰を下ろしていた。
戦士の常として、休める時にはしっかり休むのが鉄則である。
「……う~ん」
ヴァンが様子を見に行ってくれたとはいえ、やはり落ち着かない。
すぐにアーロンを連れて戻ってくるのではと思っていたが、未だ事務所の中には彼女一人だ。
「やっぱり気になります」
少し迷った後、小さな身体を勢いよく起こした。
部屋を出た足で上層に続く階段へ向かう。
だが、あと一歩で三階に着くという所で大きな声が聞こえてきた。
「あっ、ヴァンさん?」
動きを止めたフェリは、壁際から恐る恐る大きな瞳を覗かせる。
発生元はアーロンの部屋からだったが、ドアが閉まっているので様子が分からない。
声の調子から不穏な空気を察したので、二人のことが心配になってきてしまう。
かといって、いきなりあの部屋を訪ねる勇気は出なかった。
「あれ、フェリちゃん?」
そこへ、別の地区を回っていたカトルが戻って来た。
偵察をしているような少女の後ろ姿を見て目を丸くする。
「カトルさん!お帰りなさい」
二階の廊下からの声は、不安げだったフェリの顔色を一気に明るくさせた。
「えっと……そんな所で何やってるの?」
カトルが階段を上って近づくと、彼女は事のいきさつを説明してくれた。
その最中、再びヴァンの大きな声がした。今度はどこか切羽詰まったような雰囲気がある。
「……ぜん、か……に?ってなんでしょうか?」
二人が聞き取れたのは断片的な言葉だけで、フェリの方は難しそうに眉間に皺を寄せてしまった。
「『前科』かな。でも、これって……ただの痴話喧嘩な気がするなぁ」
カトルの方は正確に言葉を把握したが、そのお堅い響きに反して彼らがじゃれ合っている想像しか浮かんでこなかった。
今の叫び声はどう考えてもヴァンが劣勢だとしか思えない。
「ちわげんか、ですか?」
「うん、仲が良すぎて喧嘩しているだけだよ。心配しなくてもいいんじゃないかな」
小さな同僚を安心させようと、カトルが微笑する。
「あ、なるほど!お二人とも仲良しですからね!」
まだ幼いフェリの言う『仲良し』がどの程度なのかはさておき、彼女はそれで素直に納得したらしい。
「そのうち部屋から出てくるだろうし、僕たちは事務所に戻ろう」
「はい、そうですね」
カトルが階段を下り始めてフェリもそれに続く。
「途中で美味しそうなお菓子を買ってきたんだ。お茶にしようよ」
元々みんなで食べるつもりの物だったが、何となくあの二人を待っている時間が勿体ない。
それでも彼は優しかった。
アーロンにやり込められて疲弊しているであろうヴァンへ、いつもより多めにお菓子を残してあげることにした。
2023.01.03
#黎Ⅱ畳む
黎ⅡED後・恋人設定
ヴァンが学藝祭の時に1人で抜け出した件を思い出して不機嫌になっているアーロンの話。
『今、繋ぎ止めた想いを確かめて』の続きです。
【文字数:4000】
事務所のドアが開いた瞬間に元気な少女の声が響いた。
「戻りました!」
「おう、お疲れさん」
ヴァンはソファーに座って一息ついている所だった。
とある案件で手分けをして聞き込みをしていたが、数十分ほど前に戻ってきたばかりだ。
「トリオンモールの方はどうだっ……ん?」
彼は状況の確認をしようとしたが、すぐに眉を顰めた。
二人で向かわせたはずの助手が一人足りない。
「おい、三号はどうした?」
「えっと……アーロンさんなら自分の部屋に直行してしまいました」
フェリが申し訳なさそうな顔をする。
「はぁ?何やってんだ、あのクソガキは」
「でもっ、聞き込み自体は真面目にやってくました」
ヴァンが険しい声音で立ち上がり、小さな助手は慌てて同僚を擁護した。
それもあってか、彼の瞬発的な憤りはあっさりと形を潜めた。
「あの野郎、報告までが仕事だっつーの……で、なんか問題でも起きたのか?」
「特にこれといっては……あっ」
少女は大きな瞳を上方に向け、トリオンモールでの行動を反芻する。
そこで、一つ気になることを見つけた。
「そう言えば……トリオンタワーの辺りを通った時に、アーロンさんが急に立ち止まってしまって」
それからずっと不機嫌そうだったという。
「……トリオンタワーねぇ」
ヴァンは腕組みをして思案する素振りをしたが、それも僅かな間だけだった。
「よく分かんねぇが、ちょいと様子を見てくるか」
「あっ、私も行きます」
フェリもアーロンのことが気がかりなのだろう。その言葉にすかさず飛びついてくる。
そんな小さな助手を見下ろし、ヴァンが優しい笑みを浮かべた。
「お前さんは休んどけ。朝から働きづめだったしな」
そう言って彼女の頭をぽんぽんと叩き、真面目な仕事ぶりを労った。
室内には確かな人の気配がある。
ヴァンは軽く息を吐いてからドアをノックした。
「アーロン、入るぞ」
どうせ相手も気づいているだろうと思い、遠慮なく足を踏み入れる。
後ろ手にドアを閉めながら声を向けると、部屋の中央に立っている背中が振り返った。
「……なんだよ、オッサン」
「なんだよじゃねぇ。フェリが心配してんぞ」
「あー、そうかよ」
これは明らかに虫の居所が悪い時の態度だ。
元から感情が表に出やすい彼のこと。見慣れた光景だが、先ほどフェリから聞いた経緯が気になってしまう。
「なんかあったのか?」
ヴァンは直球で問いかけたが、彼からの応答はなかなか返ってこない。
暫く沈黙が続き、心配げな瞳と刺々しい瞳が絡み合う。
「いちいち保護者面してんじゃねぇ」
先に耐えきれなくなったのはアーロンの方だった。
勢いよく顔を背け、あからさまに視線を外す。
それから少しの間を置いて唇が動き出した。
「過ぎたことをグダグダ言うタチでもねぇんだが……」
こめかみに指を当てながら俯き、思いきり顰めっ面をしている。
「あの時は、アニエスのヤツがきっちりシメてくれたしよ」
珍しく歯切れが悪いばかりか、まるで独り言のようだ。
彼が何を言いたいのかが分からず、ヴァンは目を眇めて首を傾げる。
「おい……さっぱりなんだが」
しかし、零れた言葉はアーロンの神経を逆なでするには十分だったらしい。
ぎらりと光った金色が、剣呑さを剥き出してヴァンに突き刺さる。
「ハッ、どの口がほざきやがる」
締まりのない愚痴から一転、彼は足音を荒げながら目の前に立つ男へ詰め寄った。
「前科二だろ、あれは」
両肩を掴んで容赦なくドアに押し付ける。そこへ凄みのある声が重なった。
「な、なんのことだ?」
いきなりの衝撃を受けたヴァンは、驚きのあまり何度も目を瞬かせた。やはり彼の言いたいことが分からない。
頭をフル回転させてみるものの、それらしき事柄に心当たりがなかった。
その態度が気に入らなかったのか、それとも埒があかないと思ったのか、アーロンは吐き捨てるように言ってやった。
「てめぇが学藝祭を途中で抜け出した件だ」
軽く十を数えるくらいには時が止まった。
革命記念祭の後、それぞれが多忙な日々を過ごしていた中での一夜を思い出す。
情欲の名残が漂うベッドの上で、独り消えようとしたことを責めてくる恋人の声を聞いた。
勝手に前科持ち認定をされたあの時から、きっとどこまでも疑われ続ける予感がした。
だから──『捕まえておいてくれよ』と囁いた。
肩に走る痛みが更に強くなり、ヴァンはそこで我に返った。
「いや、まて!あれは未遂だろ!?」
勝手に前科が追加されていく流れを受け、思わず声を強めて抗議した。
「お前らに最初から怪しまれてた時点で未遂だって!」
「隠してたことには違いねぇだろうが」
慌てるヴァンに対し、アーロンは言葉少なに睨みを利かす。
いくらかの身長差があるせいで見上げる形になっているが、それを物ともしない強烈さだ。
「それは、その……あくまで前向きな単独行動っつーか」
ヴァンの目が見事なまでに泳ぎ、しどろもどろな弁解を始める。
てっきりアーロンから手痛い反撃を食らうものと覚悟したが、なぜか黙って睨めてくるだけだ。
「前みたいな『逃げ』じゃねぇし……」
それがやけに不気味で、どんどん声が小さくなっていく。
「大体、なんで今さら怒ってんだよ……あの時は呆れてたくせに」
しかし、身が縮みそうな気持ちを何とか堪えて不平不満をチラつかせてみせた。
その話題は時間差にも程がある。理不尽すぎやしないかと。
「うるせぇな」
アーロンは耳障りな言葉の羅列を一刀で切り伏せた。
しかし、ヴァンの様子に多少は絆されたのか、肩を掴む手が緩くなる。
「思い出しちまったんだよ。あそこを通ったら」
あの時は裏解決事務所の一員としての顔が強かった。
同じことを繰り返しては周囲に突っ込まれる所長に対し、心底呆れたのは確かだ。
ついにボケが始まったと揶揄したくなるくらいに。
けれど、今は明らかに違う。
繋ぎ止めているはずの恋人が、簡単に腕の中からすり抜けていく感覚。
トリオンタワーの付近でフラッシュバックした記憶は、全く別の感情を呼び起こした。
「……俺の物のくせに一人でふらふらするんじゃねぇ」
肩から離した一方の手を首元に添え、力を込めて自分の方へ引き寄せる。
「お、おい!?」
不意を突かれたヴァンの身体は抵抗もなく降ってきた。
バランスを崩して覆い被さってきた背中に片腕を回し、逃げ道を塞いでやる。
「だから、未遂だって言ってんだろっ」
「信用度ゼロなんだよ、てめぇは。いっそのこと首に縄でも付けてやろうか?」
あくまで前科一を貫きたい男は抵抗したが、至近距離で危険な物言いをされて息を詰まらせた。
「な、なに言ってんだよ!?」
首の後ろを指先でなぞられ、ゾクリと肌が粟立つ。
密着しているせいで表情を窺えないのが余計に怖い。脅迫じみた低音からは、冗談めかした色を全く感じなかった。
「なんなら鎖でも構わねぇぜ。好きな方を選ばせてやる」
冷や汗がだただらと流れ落ちる中、ヴァンはついに観念をした。
「あー!もう、いい!前科二でいいから!!」
悲鳴にも似た声が室内に響き渡り、そこでようやくアーロンの険が緩んだ。
「くくっ、落ちるの早ぇなぁ」
「シャレになんねぇんだよ。お前が言うと」
完全に諦めた紺青の頭が擦り寄ってくるのを、不敵な笑みが受け止める。
「なぁ、もし……あ、いや、なんでもねぇ」
そんな恋人に身を預けながらヴァンはふと思った。
今でさえこれなのに、また前科が増えたらどうなるのだろう?
しかし、想像するだけでも恐ろしさが込み上げてくる。
言いかけはしたものの、どう頑張っても訊ける質問ではなかった。
少し前。
優しい所長から休息を与えられたフェリは、ソファーに腰を下ろしていた。
戦士の常として、休める時にはしっかり休むのが鉄則である。
「……う~ん」
ヴァンが様子を見に行ってくれたとはいえ、やはり落ち着かない。
すぐにアーロンを連れて戻ってくるのではと思っていたが、未だ事務所の中には彼女一人だ。
「やっぱり気になります」
少し迷った後、小さな身体を勢いよく起こした。
部屋を出た足で上層に続く階段へ向かう。
だが、あと一歩で三階に着くという所で大きな声が聞こえてきた。
「あっ、ヴァンさん?」
動きを止めたフェリは、壁際から恐る恐る大きな瞳を覗かせる。
発生元はアーロンの部屋からだったが、ドアが閉まっているので様子が分からない。
声の調子から不穏な空気を察したので、二人のことが心配になってきてしまう。
かといって、いきなりあの部屋を訪ねる勇気は出なかった。
「あれ、フェリちゃん?」
そこへ、別の地区を回っていたカトルが戻って来た。
偵察をしているような少女の後ろ姿を見て目を丸くする。
「カトルさん!お帰りなさい」
二階の廊下からの声は、不安げだったフェリの顔色を一気に明るくさせた。
「えっと……そんな所で何やってるの?」
カトルが階段を上って近づくと、彼女は事のいきさつを説明してくれた。
その最中、再びヴァンの大きな声がした。今度はどこか切羽詰まったような雰囲気がある。
「……ぜん、か……に?ってなんでしょうか?」
二人が聞き取れたのは断片的な言葉だけで、フェリの方は難しそうに眉間に皺を寄せてしまった。
「『前科』かな。でも、これって……ただの痴話喧嘩な気がするなぁ」
カトルの方は正確に言葉を把握したが、そのお堅い響きに反して彼らがじゃれ合っている想像しか浮かんでこなかった。
今の叫び声はどう考えてもヴァンが劣勢だとしか思えない。
「ちわげんか、ですか?」
「うん、仲が良すぎて喧嘩しているだけだよ。心配しなくてもいいんじゃないかな」
小さな同僚を安心させようと、カトルが微笑する。
「あ、なるほど!お二人とも仲良しですからね!」
まだ幼いフェリの言う『仲良し』がどの程度なのかはさておき、彼女はそれで素直に納得したらしい。
「そのうち部屋から出てくるだろうし、僕たちは事務所に戻ろう」
「はい、そうですね」
カトルが階段を下り始めてフェリもそれに続く。
「途中で美味しそうなお菓子を買ってきたんだ。お茶にしようよ」
元々みんなで食べるつもりの物だったが、何となくあの二人を待っている時間が勿体ない。
それでも彼は優しかった。
アーロンにやり込められて疲弊しているであろうヴァンへ、いつもより多めにお菓子を残してあげることにした。
2023.01.03
#黎Ⅱ畳む
独り占めをするにはまだ遠い
黎Ⅱ(断章)・恋人未満
両片想いで互いにもだもだしつつ、アーロンが頑張って自制してる話。
ヴァンは天然誘い受け風味です。
【文字数:5000】
一人で過ごすには広い部屋だ。
最初にここへ案内された時に抱いた印象は、今もさして変わらない。
シャワールームから出てきたヴァンの視線が室内を巡った。
落ち着いた雰囲気の調度品たちは、一目で質の良さが窺える。
リゾート地のホテルだけあって、高級感と寛ぎやすさは格別だ。
どうせなら、ただの慰安旅行くらいの気楽さで訪れたかったものだ。
ヴァンはそう思いながらも、まだ半乾きの髪をタオルで掻き乱して肩へとかけた。
「……さすがに明日には何かあるだろ」
あの男からの招待ならば、このまま平穏が続いて終わるはずがない。
分かってはいるが、相手の企みが読み切れない以上は動きようがなかった。
だったら、事が起きるまではこの高級リゾートを味わうのも良いだろう。
幸いにもネメス島に招待されている他勢力の面々は、気持ちの切り替えが上手い者ばかりだ。
「まぁ、今日の所はあいつらもちゃんと楽しんでたみたいだし」
ふと、裏解決事務所の所長としての顔が表に出る。
漠然とした不安と共にこの島へ降り立った当初は、助手たちの様子が気がかりだった。
しかし、それは見事に杞憂で終わったようだ。
皆はそれぞれの悩みや葛藤を抱えながらも、しっかりと息抜きができている。
折に触れて言葉を交わし、はしゃいで走り回る姿を眺め、ヴァンは心の中で安堵していた。
静かな夜にさざ波の音が戯れる。
風に乗ってくる談笑の欠片につられて、自然と頬が緩んでしまった。
ヴァンはおもむろに小さな冷蔵庫へ歩み寄った。
中にいくつかの飲料が用意されていたが、彼は迷うことなく一本の瓶を手に取る。
いわゆるミネラルウォーターの類いだ。
「こりゃ、また……高そうな水じゃねぇか」
庶民の感覚で苦笑した後、封を切って備え付けのグラスに注いでみる。
一つ口を付ければ、ほど良い冷たさがゆっくりと喉の奥を伝っていく。
酒が入っていることを配慮して低めの温度でシャワーを浴びたが、それでも身体はぽかぽかと温かい。
そんな彼にとって、この一杯は清涼剤のような感覚なのだろう。
一息をついた後。そのままテラスに出ようとするが、いくらか歩んだ所でピタリと動きを止めた。
廊下の方から人の気配を感じる。
耳を澄ますと、階段を上ってきた足音がこの部屋へ近づいてくるのが分かった。
彼はすぐに目を丸くした。
付き合いのある人物ならば、大抵は歩き方で判別できてしまうからだ。
「おいおい、マジかよ」
反射的に室内の時計を見た瞬間、ノックの音もなくドアが開いた。
「ハッ、つまんねぇモン飲んでやがるな」
開口一番の言葉があざ笑った。
穏やかな照明の光を含んだせいか、普段は強い金色に若干の柔らかさが入り交じる。
数拍の心構えがあったとはいえ、ヴァンは吃驚を隠せなかった。
ブレた手元がグラスを揺らし、危うく水を零しかける。
テラスの手前まで来ていた彼は、近くに置かれているソファーとテーブルに目を留めた。
すぐさまグラスを置いてホッと息を吐く。
「はぁ~、危ねぇなぁ。驚かせんじゃねぇよ」
睨み付けるような素振りをしてみたが、赤毛の青年はそれを無視して堂々と部屋の中央を突っ切ってきた。
それから少しばかり乱暴な仕草でソファーに腰を沈める。
「なんだよ、下はもうお開きか?」
ヴァンが部屋に引き上げる時、彼は一階のテーブルで数名と酒杯を傾けて盛り上がっていた。
あの様子では長くかかるだろうとみていたのだが。
不思議に思って問いかけると、
「いや、まだ賑やかなもんだぜ」
すぐに明瞭な返答があったが、ヴァンの頭にはますます疑問符が沸き上がる。
すっかり寛ぎ体勢になってしまっているので、途中で離席というわけではなさそうだ。
「まさか……なんかもめ事起こしてきた、とかじゃねぇよな?」
「そんな無粋な真似するかよ。そこらの酒場じゃあるまいし」
一抹の不安が過ぎったが、即答で一蹴されてしまった。
保護者面が気に入らなかったのか、アーロンは目を合わせようとしない。
どうにも彼の真意が読めないヴァンは、つい不躾な視線を注いでしまった。
それに居心地の悪さを感じたのか、ソファーに埋もれている身体があからさまに揺れた。
「まぁ、なんつーか、一通りは絡んでやったしな」
同時に動いた唇からは、まるでここにいることへの言い訳を探しているような言葉が漏れた。
「思いっきり上から目線だよな……このガキは」
あの癖の強い顔ぶれに対し、太々しいまでの言い草が苦笑を誘う。
肩にかけたままのタオルを弄りながら、緩んだ目元で赤い頭を見下ろした。
正直、一人だと思っていたから少しだけ嬉しかった。
二人部屋とはいえ、アーロンは遊びに積極的な男だ。
一度気持ちを切り替えてしまえば、あとは目一杯この環境を満喫するに決まっている。
落ち着いた部屋でゆったりとした時間を過ごすなど、選択肢に上るはずがなかった。
彼にしてみれば、この一室はただ寝るためだけにある空間に違いない。
だから──最初に『広い』と感じてしまった。
「……ちょいと回ってるかもしれねぇな」
波音が耳に残りそうなくらいに一人の夜半を、アーロンの声が打ち消してくれる。
この浮ついた気分は酔いのせいか、誤算のせいか?
涼むつもりでテラスに出るつもりが、あと一歩。
ヴァンは困ったようで嬉しいような、不思議な表情を浮かべた。
目の前に佇んでいる男の自己申告は、あながち間違っていないのかもしれない。
いつもよりも言動に緩慢さがあり、向けてくる眼差しはずいぶんと柔和な印象を受ける。
「情けねぇヤツ」
水面下でヴァンを観察していたアーロンは、遠慮なくせせら笑った。
「なんだかんだで結構飲んじまったからなぁ」
夜の交流ともなれば、アルコールの類いがついて回ってくるものだ。
顔を合わせて言葉を交わせば、酒杯の一つでもとなるわけで。
ことさらヴァンは皆に目を配っていたし、その人柄もあってか良く声がかかっていた。
「てめぇは誰も彼もと構いすぎなんだよ。大して強くもねぇくせに」
思い出すだけで苛つく。アーロンはわずかに声を低くして吐き捨てた。
別に監視していたわけではないし、もちろん彼自身もしっかり酒の席を愉しんでいた。
けれど、紺青の頭が視界をかすめれば自然と追ってしまう。そんな瞬間が幾度もあったのは事実だ。
「お前なぁ……自分を強さの基準にするなっつーの」
苛立たしげに足を組み替えると、呆れたような声が降ってきた。
見上げた途端に息を呑む。
「ん~、やっぱり底なしだよなぁ。結構飲んできたんだろうに、素面みたいなツラしやがって」
いつの間にか歩み寄ってきたヴァンが、まじまじと覗き込んできた。
緩やかに伸びてきた腕が──指先が頬に触れようとしてくる。
「……チッ」
アーロンは咄嗟にその手首を掴んだ。触れた肌がそこはかとなく熱い気がする。
「絡むんじゃねぇ」
大きく脈打った鼓動のせいで、耳元で乱れた血流の幻聴がした。
言葉裏腹、名残惜しさを隠しながらその手を振り払う。
ヴァンは驚いたものの、ふわりと笑うだけだった。
「うぜぇから、さっさと醒ますなり寝るなりしやがれ」
気分を害していないのを良いことに、アーロンは再び彼を突き放した。
それに呼応したのか、開けっぱなしのガラス戸からひとすじの夜風が舞い込んでくる。
「はいはい。ったく、なんで早々に切り上げてきたんだか」
見えざる涼やかな手に引かれ、ヴァンがのんびりとテラスへ出て行くのを黙って見送る。
後ろ姿に残した声は、心なしか可笑しげに揺れているように聞こえた。
「──なんでって……独り占めしてぇからに決まってんだろうが」
その問いかけに真正面から答えられるはずもなく、アーロンはぼそりと呟いた。
夜を纏った部屋の中、ほろ酔い気分で近づいてきた彼に劣情を刺激されてしまう。
素肌に触れた掌を見つめ、苦虫を噛みつぶす。
ヴァンと二人きりで過ごす時間が欲しかったはずなのに、上手く立ち回れない自分がもどかしかった。
ちらりと外に目をやれば、手摺りにもたれ掛かって夜空を眺めている背中がある。
ほんの一瞬、背後から抱き締めたい衝動に駆られたが、軽く頭を振って自制した。
この島に招待されている意味を考えてしまうと、距離を詰めることすらままならなかった。
「……くそっ、やりずれぇんだよ」
アーロンは寛いでいたソファーから勢いよく立ち上がった。
溜まった感情を押し流すように、テーブルの上にある飲みかけのグラスを一気にあおる。
温くなった水は本当につまらない液体だったが、何もないよりかはマシだと思った。
アーロンが飲み干したグラスを置く音は、やたらと室内に響き渡った。
テラスで涼みながらも背後の様子を気にしていたヴァンは、首だけを捻って音のした方を覗う。
彼は赤髪を振り払ってソファーから離れる所だった。
「理由なんてあるわけねぇか。気まぐれなヤツだし」
その後ろ姿がシャワールームへと消えたのを確認し、苦笑する。
再び濃紺の空を見上げてみたが、今は視点が定まらずにぼやけた星々が映るだけだった。
眠気を覚えて小さな欠伸をしたヴァンは、身体を屈み込ませて手摺りに頬を寄せた。
昼間は島中を動き回っていたので、知らずの内に疲れが溜まっているのかもしれない。
その上まだ酒の抜けきらない身には、金属の冷たさがとても心地良く感じられた。
「また、うぜぇとか言われそうだよな……先に寝ちまった方がいいか?」
さっき、アーロンには醒ますなり寝るなりと言われたばかりだ。
だったら彼がシャワーを浴びている間に就寝してしまえば文句はないだろう。
けれど、今はすんなりとベッドへ潜り込む気分にはなれなかった。
「あ~、もうちょい、なんか話してぇなぁ」
煌都の一件が落ち着いた矢先に不穏な招待状を受け取り、彼とはゆっくり言葉を交わす余裕もなく今に至っている。普段のような他愛のないやり取りになったとしても、二人きりでいたかった。
「ご機嫌斜めでもいいから……構ってくれよ、アーロン」
ヴァンの密かな本音が、人知れず夜気の中に紛れて落ちた。
ドアを閉めた途端、それを背もたれにしながら深く大きな息を吐く。
「あの野郎、中途半端に酔いやがって」
アーロンは鬱陶しげに前髪を掻き上げて、唇に不満を乗せた。
照明を点け忘れたままの天井は薄暗く、そのせいか彼の金彩には陰がかかっている。
「あの時に酔い潰しちまえば良かった」
虚空を見つめた脳裏に、先刻二人でカクテルを飲んでいた時の光景が蘇る。
あの時アーロンが作ったのは、辛口でパンチの効いた一杯だった。
完全に自分好みな一品だったのだが、意外にもヴァンには好評だったらしい。
癖になりそうだと声を弾ませてくれたのが嬉しくて、ついおかわりを勧めたくなってしまった。
しかし、アルコール度数が強めなカクテルだ。自分はともかく、ヴァンはそう何杯もいけるはずがない。
だから、アーロンにしてみればほとんど冗談のつもりだった。
「潰れたら部屋に運んでやる」と言ったのは。
まだ夜も始まって早い時間帯だったこともあり、からかい混じりの戯れ言みたいなものだった。
その言動が今になって後悔という名の牙を向けてくる。
そのまま暫くドアに背を預けていた彼は、ようやく照明のスイッチを入れた。
すぐにでもシャワーを浴びて、悶々とした胸中を洗い流してしまいたくなる。
「あんな状態でふらふら寄ってこられたら、堪ったもんじゃねぇ」
そんな風に自制心を試されるなら、会話が成立しないくらいに泥酔してくれた方がいい。
彼はぶつぶつと愚痴を吐きながら、自らの上着に手をかけた。
着ていた衣服を勢いよく脱ぎ、設置されているバスケットの中へ乱雑に放り込んでいく。
纏めた長髪を解きながら浴室へ足を踏み入れた瞬間、濡れた床の感触に胸がざわめいた。
ほろ酔い気分でここへ来たであろう先客の痕跡があり、その姿を想像して生唾を飲み込む。
普段から裸の付き合いが珍しくもない間柄なのに、今はどうしても意識をしてしまう。
微かな酒の余韻が漂うこの夜は、アーロンにとって酷く甘い毒のようだった。
「──こんな招待、嬉しくもなんともねぇんだよ」
これがただの休暇であったなら、何の躊躇もせずに彼を掴まえられるのに。
喋る声も息づかいさえも独り占めできるのに。
現状ではあり得もしない願望が、一瞬だけ頭の中を駆け巡った。
シャワーのコックを捻れば勢いよく水飛沫が上がった。
床を叩く水音を聞きながら、アーロンは目を閉じる。
後悔と欲情と。
複雑に混じり合った感情を抑えるためには、冷たいくらいの水温が丁度良かった。
鮮やかな赤髪から水が流れ落ちる度に、少しずつ昂っているものが薄れていく。
「……早く寝ちまってくれよ、ヴァン」
湿度が上がった狭い空間にくぐもった声が反響した。
それは確かに彼の本音であり、それでいて確かな嘘でもあった。
2022.12.25
#黎Ⅱ
畳む
黎Ⅱ(断章)・恋人未満
両片想いで互いにもだもだしつつ、アーロンが頑張って自制してる話。
ヴァンは天然誘い受け風味です。
【文字数:5000】
一人で過ごすには広い部屋だ。
最初にここへ案内された時に抱いた印象は、今もさして変わらない。
シャワールームから出てきたヴァンの視線が室内を巡った。
落ち着いた雰囲気の調度品たちは、一目で質の良さが窺える。
リゾート地のホテルだけあって、高級感と寛ぎやすさは格別だ。
どうせなら、ただの慰安旅行くらいの気楽さで訪れたかったものだ。
ヴァンはそう思いながらも、まだ半乾きの髪をタオルで掻き乱して肩へとかけた。
「……さすがに明日には何かあるだろ」
あの男からの招待ならば、このまま平穏が続いて終わるはずがない。
分かってはいるが、相手の企みが読み切れない以上は動きようがなかった。
だったら、事が起きるまではこの高級リゾートを味わうのも良いだろう。
幸いにもネメス島に招待されている他勢力の面々は、気持ちの切り替えが上手い者ばかりだ。
「まぁ、今日の所はあいつらもちゃんと楽しんでたみたいだし」
ふと、裏解決事務所の所長としての顔が表に出る。
漠然とした不安と共にこの島へ降り立った当初は、助手たちの様子が気がかりだった。
しかし、それは見事に杞憂で終わったようだ。
皆はそれぞれの悩みや葛藤を抱えながらも、しっかりと息抜きができている。
折に触れて言葉を交わし、はしゃいで走り回る姿を眺め、ヴァンは心の中で安堵していた。
静かな夜にさざ波の音が戯れる。
風に乗ってくる談笑の欠片につられて、自然と頬が緩んでしまった。
ヴァンはおもむろに小さな冷蔵庫へ歩み寄った。
中にいくつかの飲料が用意されていたが、彼は迷うことなく一本の瓶を手に取る。
いわゆるミネラルウォーターの類いだ。
「こりゃ、また……高そうな水じゃねぇか」
庶民の感覚で苦笑した後、封を切って備え付けのグラスに注いでみる。
一つ口を付ければ、ほど良い冷たさがゆっくりと喉の奥を伝っていく。
酒が入っていることを配慮して低めの温度でシャワーを浴びたが、それでも身体はぽかぽかと温かい。
そんな彼にとって、この一杯は清涼剤のような感覚なのだろう。
一息をついた後。そのままテラスに出ようとするが、いくらか歩んだ所でピタリと動きを止めた。
廊下の方から人の気配を感じる。
耳を澄ますと、階段を上ってきた足音がこの部屋へ近づいてくるのが分かった。
彼はすぐに目を丸くした。
付き合いのある人物ならば、大抵は歩き方で判別できてしまうからだ。
「おいおい、マジかよ」
反射的に室内の時計を見た瞬間、ノックの音もなくドアが開いた。
「ハッ、つまんねぇモン飲んでやがるな」
開口一番の言葉があざ笑った。
穏やかな照明の光を含んだせいか、普段は強い金色に若干の柔らかさが入り交じる。
数拍の心構えがあったとはいえ、ヴァンは吃驚を隠せなかった。
ブレた手元がグラスを揺らし、危うく水を零しかける。
テラスの手前まで来ていた彼は、近くに置かれているソファーとテーブルに目を留めた。
すぐさまグラスを置いてホッと息を吐く。
「はぁ~、危ねぇなぁ。驚かせんじゃねぇよ」
睨み付けるような素振りをしてみたが、赤毛の青年はそれを無視して堂々と部屋の中央を突っ切ってきた。
それから少しばかり乱暴な仕草でソファーに腰を沈める。
「なんだよ、下はもうお開きか?」
ヴァンが部屋に引き上げる時、彼は一階のテーブルで数名と酒杯を傾けて盛り上がっていた。
あの様子では長くかかるだろうとみていたのだが。
不思議に思って問いかけると、
「いや、まだ賑やかなもんだぜ」
すぐに明瞭な返答があったが、ヴァンの頭にはますます疑問符が沸き上がる。
すっかり寛ぎ体勢になってしまっているので、途中で離席というわけではなさそうだ。
「まさか……なんかもめ事起こしてきた、とかじゃねぇよな?」
「そんな無粋な真似するかよ。そこらの酒場じゃあるまいし」
一抹の不安が過ぎったが、即答で一蹴されてしまった。
保護者面が気に入らなかったのか、アーロンは目を合わせようとしない。
どうにも彼の真意が読めないヴァンは、つい不躾な視線を注いでしまった。
それに居心地の悪さを感じたのか、ソファーに埋もれている身体があからさまに揺れた。
「まぁ、なんつーか、一通りは絡んでやったしな」
同時に動いた唇からは、まるでここにいることへの言い訳を探しているような言葉が漏れた。
「思いっきり上から目線だよな……このガキは」
あの癖の強い顔ぶれに対し、太々しいまでの言い草が苦笑を誘う。
肩にかけたままのタオルを弄りながら、緩んだ目元で赤い頭を見下ろした。
正直、一人だと思っていたから少しだけ嬉しかった。
二人部屋とはいえ、アーロンは遊びに積極的な男だ。
一度気持ちを切り替えてしまえば、あとは目一杯この環境を満喫するに決まっている。
落ち着いた部屋でゆったりとした時間を過ごすなど、選択肢に上るはずがなかった。
彼にしてみれば、この一室はただ寝るためだけにある空間に違いない。
だから──最初に『広い』と感じてしまった。
「……ちょいと回ってるかもしれねぇな」
波音が耳に残りそうなくらいに一人の夜半を、アーロンの声が打ち消してくれる。
この浮ついた気分は酔いのせいか、誤算のせいか?
涼むつもりでテラスに出るつもりが、あと一歩。
ヴァンは困ったようで嬉しいような、不思議な表情を浮かべた。
目の前に佇んでいる男の自己申告は、あながち間違っていないのかもしれない。
いつもよりも言動に緩慢さがあり、向けてくる眼差しはずいぶんと柔和な印象を受ける。
「情けねぇヤツ」
水面下でヴァンを観察していたアーロンは、遠慮なくせせら笑った。
「なんだかんだで結構飲んじまったからなぁ」
夜の交流ともなれば、アルコールの類いがついて回ってくるものだ。
顔を合わせて言葉を交わせば、酒杯の一つでもとなるわけで。
ことさらヴァンは皆に目を配っていたし、その人柄もあってか良く声がかかっていた。
「てめぇは誰も彼もと構いすぎなんだよ。大して強くもねぇくせに」
思い出すだけで苛つく。アーロンはわずかに声を低くして吐き捨てた。
別に監視していたわけではないし、もちろん彼自身もしっかり酒の席を愉しんでいた。
けれど、紺青の頭が視界をかすめれば自然と追ってしまう。そんな瞬間が幾度もあったのは事実だ。
「お前なぁ……自分を強さの基準にするなっつーの」
苛立たしげに足を組み替えると、呆れたような声が降ってきた。
見上げた途端に息を呑む。
「ん~、やっぱり底なしだよなぁ。結構飲んできたんだろうに、素面みたいなツラしやがって」
いつの間にか歩み寄ってきたヴァンが、まじまじと覗き込んできた。
緩やかに伸びてきた腕が──指先が頬に触れようとしてくる。
「……チッ」
アーロンは咄嗟にその手首を掴んだ。触れた肌がそこはかとなく熱い気がする。
「絡むんじゃねぇ」
大きく脈打った鼓動のせいで、耳元で乱れた血流の幻聴がした。
言葉裏腹、名残惜しさを隠しながらその手を振り払う。
ヴァンは驚いたものの、ふわりと笑うだけだった。
「うぜぇから、さっさと醒ますなり寝るなりしやがれ」
気分を害していないのを良いことに、アーロンは再び彼を突き放した。
それに呼応したのか、開けっぱなしのガラス戸からひとすじの夜風が舞い込んでくる。
「はいはい。ったく、なんで早々に切り上げてきたんだか」
見えざる涼やかな手に引かれ、ヴァンがのんびりとテラスへ出て行くのを黙って見送る。
後ろ姿に残した声は、心なしか可笑しげに揺れているように聞こえた。
「──なんでって……独り占めしてぇからに決まってんだろうが」
その問いかけに真正面から答えられるはずもなく、アーロンはぼそりと呟いた。
夜を纏った部屋の中、ほろ酔い気分で近づいてきた彼に劣情を刺激されてしまう。
素肌に触れた掌を見つめ、苦虫を噛みつぶす。
ヴァンと二人きりで過ごす時間が欲しかったはずなのに、上手く立ち回れない自分がもどかしかった。
ちらりと外に目をやれば、手摺りにもたれ掛かって夜空を眺めている背中がある。
ほんの一瞬、背後から抱き締めたい衝動に駆られたが、軽く頭を振って自制した。
この島に招待されている意味を考えてしまうと、距離を詰めることすらままならなかった。
「……くそっ、やりずれぇんだよ」
アーロンは寛いでいたソファーから勢いよく立ち上がった。
溜まった感情を押し流すように、テーブルの上にある飲みかけのグラスを一気にあおる。
温くなった水は本当につまらない液体だったが、何もないよりかはマシだと思った。
アーロンが飲み干したグラスを置く音は、やたらと室内に響き渡った。
テラスで涼みながらも背後の様子を気にしていたヴァンは、首だけを捻って音のした方を覗う。
彼は赤髪を振り払ってソファーから離れる所だった。
「理由なんてあるわけねぇか。気まぐれなヤツだし」
その後ろ姿がシャワールームへと消えたのを確認し、苦笑する。
再び濃紺の空を見上げてみたが、今は視点が定まらずにぼやけた星々が映るだけだった。
眠気を覚えて小さな欠伸をしたヴァンは、身体を屈み込ませて手摺りに頬を寄せた。
昼間は島中を動き回っていたので、知らずの内に疲れが溜まっているのかもしれない。
その上まだ酒の抜けきらない身には、金属の冷たさがとても心地良く感じられた。
「また、うぜぇとか言われそうだよな……先に寝ちまった方がいいか?」
さっき、アーロンには醒ますなり寝るなりと言われたばかりだ。
だったら彼がシャワーを浴びている間に就寝してしまえば文句はないだろう。
けれど、今はすんなりとベッドへ潜り込む気分にはなれなかった。
「あ~、もうちょい、なんか話してぇなぁ」
煌都の一件が落ち着いた矢先に不穏な招待状を受け取り、彼とはゆっくり言葉を交わす余裕もなく今に至っている。普段のような他愛のないやり取りになったとしても、二人きりでいたかった。
「ご機嫌斜めでもいいから……構ってくれよ、アーロン」
ヴァンの密かな本音が、人知れず夜気の中に紛れて落ちた。
ドアを閉めた途端、それを背もたれにしながら深く大きな息を吐く。
「あの野郎、中途半端に酔いやがって」
アーロンは鬱陶しげに前髪を掻き上げて、唇に不満を乗せた。
照明を点け忘れたままの天井は薄暗く、そのせいか彼の金彩には陰がかかっている。
「あの時に酔い潰しちまえば良かった」
虚空を見つめた脳裏に、先刻二人でカクテルを飲んでいた時の光景が蘇る。
あの時アーロンが作ったのは、辛口でパンチの効いた一杯だった。
完全に自分好みな一品だったのだが、意外にもヴァンには好評だったらしい。
癖になりそうだと声を弾ませてくれたのが嬉しくて、ついおかわりを勧めたくなってしまった。
しかし、アルコール度数が強めなカクテルだ。自分はともかく、ヴァンはそう何杯もいけるはずがない。
だから、アーロンにしてみればほとんど冗談のつもりだった。
「潰れたら部屋に運んでやる」と言ったのは。
まだ夜も始まって早い時間帯だったこともあり、からかい混じりの戯れ言みたいなものだった。
その言動が今になって後悔という名の牙を向けてくる。
そのまま暫くドアに背を預けていた彼は、ようやく照明のスイッチを入れた。
すぐにでもシャワーを浴びて、悶々とした胸中を洗い流してしまいたくなる。
「あんな状態でふらふら寄ってこられたら、堪ったもんじゃねぇ」
そんな風に自制心を試されるなら、会話が成立しないくらいに泥酔してくれた方がいい。
彼はぶつぶつと愚痴を吐きながら、自らの上着に手をかけた。
着ていた衣服を勢いよく脱ぎ、設置されているバスケットの中へ乱雑に放り込んでいく。
纏めた長髪を解きながら浴室へ足を踏み入れた瞬間、濡れた床の感触に胸がざわめいた。
ほろ酔い気分でここへ来たであろう先客の痕跡があり、その姿を想像して生唾を飲み込む。
普段から裸の付き合いが珍しくもない間柄なのに、今はどうしても意識をしてしまう。
微かな酒の余韻が漂うこの夜は、アーロンにとって酷く甘い毒のようだった。
「──こんな招待、嬉しくもなんともねぇんだよ」
これがただの休暇であったなら、何の躊躇もせずに彼を掴まえられるのに。
喋る声も息づかいさえも独り占めできるのに。
現状ではあり得もしない願望が、一瞬だけ頭の中を駆け巡った。
シャワーのコックを捻れば勢いよく水飛沫が上がった。
床を叩く水音を聞きながら、アーロンは目を閉じる。
後悔と欲情と。
複雑に混じり合った感情を抑えるためには、冷たいくらいの水温が丁度良かった。
鮮やかな赤髪から水が流れ落ちる度に、少しずつ昂っているものが薄れていく。
「……早く寝ちまってくれよ、ヴァン」
湿度が上がった狭い空間にくぐもった声が反響した。
それは確かに彼の本音であり、それでいて確かな嘘でもあった。
2022.12.25
#黎Ⅱ
畳む
耳元で囁く言葉
黎ED後・恋人設定
珍しいアーロンのデレに驚きつつも内心では嬉しくて堪らないヴァンの話。
2022年リクエスト⑤
【文字数:7900】
携帯端末の画面越しから、幼馴染みが半眼じみた視線を向けてくる。
「あんたねぇ……夜遊びも程々にしなさいよ?煌都とは違うんだから」
「あ~っ、うるせぇなぁ」
アーロンは鬱陶しげに顔を歪め、かったるそうに頭を振った。
アシェンとはそう頻繁にやり取りをしているわけではないが、口を開けばすぐに小言が飛んでくる。
それは彼女が身内として心配してくれているからだが、つい耳を塞ぎたくなるのが正直なところだ。はっきり言って面倒くさい。
今回の通信はアシェンからのものだった。
彼女は挨拶もそこそこに、一週間後にイーディスを訪れると連絡を入れてきた。
特に詮索するつもりはなかったが、その雰囲気から黒月としての来訪に違いない。
「仕事、サボったりするんじゃないわよ。ヴァンさんに雇われてる身なんだから」
「こっちは人手が足りねぇから手伝ってやってるだけだ」
このまま延々と小言に苛まれそうな気がしたアーロンは、無理矢理にでも会話を打ち切ってしまおうと、端末のボタンに指をかけた。
しかし、
「──それはそうと。あんた、ヴァンさんと仲良くやってるの?」
急に話の矛先を変えられ、ぴたりと手の動きが止まる。
アシェンが何を言いたいのかはすぐに分かった。
「おまえには関係ねぇだろうが」
やはり、面倒くさい。さっさと通信を切らなかったことをすぐに後悔した。
アーロンは苦虫を噛みつぶしたような顔で、幼馴染みを睨み付ける。
ヴァンとの恋人関係は良好だと彼自身は思っている。
たまに小さな衝突が起きたりもするが、それを後々まで引きずるようなことはない。
もちろん、大きな仲違いをした記憶もなかった。
「余計な口を挟むんじゃねぇ」
その反応をどう捉えたのか、アシェンはやれやれといった様子で肩を竦ませた。
「はぁ~、どうせツンツンしてるんでしょ。ヴァンさんは優しいというか……懐が深すぎよね」
小さな画面の中から率直な指摘が飛んでくる。
「たまにはデレないと愛想尽かされちゃうわよ?」
幼馴染みの相貌には、揶揄と憂慮が入り交じっている。
「あの人、ただでさえ人気者なんだから。誰かに取られちゃったらどうするのよ」
畳み掛けてくるような追い打ちが耳に刺さり、アーロンは返す言葉を失った。
モンマルトの店内は、ようやく昼時の混雑が落ち着いたところだった。
「あら、お疲れ様。これからお昼かしら?」
助手たちが店に入ると、ポーレットが優しげな微笑を浮かべて近寄ってきた。
「はい。仕事の方が少し立て込んでしまって」
「もうお腹がペコペコです!」
その柔らかな物腰につられ、カトルとフェリも朗らかに笑う。
アーロンはそんな二人を横目にしつつ、空いている席に腰を下ろした。
ポーレットがメニュー表をテーブルに置き、少年少女も慌てて着席をする。
「そう言えば、朝はヴァンさんも一緒に居たような気がしたけれど」
彼女は席に着いた三人を見回し、不思議そうに首を傾げた。
「ヴァンさんならちょっと寄るところがあるみたいで。先に食べてろって言われました」
フェリが注文をしながら答えると、すかさず金色の瞳が面白半分で煌めく。
「ま、どうせいかがわしいとこにでも行ってんじゃねぇの?」
「……アーロンさんじゃあるまいし」
テーブルを囲む事務所の助手たちは、今は不在の所長のことになればつい盛り上がってしまう。
三人分の注文を取ったポーレットは、そんな微笑ましい会話を耳に流しながら厨房へ向かった。
待ち時間はさほどかからなかった。
腕の良い料理人であるビクトルの手際は鮮やかで、次々と料理が出来上がる。
つい先ほど帰ってきたユメが手伝いを始め、ポーレットと共に三人の注文した料理を運んできた。
「お待たせしました~」
「ありがとう、ユメちゃん」
ユメは少々危なっかしい手つきでランチプレートをカトルの元へ置いた。
一生懸命に接客をする姿は、自然と彼の頬を緩ませる。
「こっちはフェリちゃんとアーロンくんの分ね」
ポーレットが配膳したのは肉を主体としたボリュームのある皿だった。
軽めの昼食を頼んだカトルとは対照的で、二人はガッツリといくつもりらしい。
「う~ん、凄いな。アーロンさんはともかく、フェリちゃんってよく食べるよね」
「はいっ、いっぱい食べて早く大きくなりたいです!」
感心しながら呟く少年に対し、少女が明るく返事をした。
「お子様は元気だねぇ~。それに比べてあのオッサンときたら……」
アーロンは早々と料理に手を付けていて、馴染みの味を堪能している。
だが、不意に彼との食事風景を思い出して口を開いた。
「いつだったか、俺が食ってるの見て胸焼けがするとか言いやがった。年のせいで胃腸が弱ってんじゃねーのか?」
「なに、それ。あの人、スイーツ限定ならいくらでもいけそうな気がするけど」
カトルは思わず吹き出してしまいそうになったが、何とか堪えて笑いを噛み殺す。
そんな彼らの様子を、テーブルの脇でユメがジッと見つめていた。
「ねぇ、ねぇ、ヴァンはまだ~?」
後から来るとは聞いたが、そんな気配はまるでない。
小さな少女は不満げに唇を尖らせた。
すると、その直後。
店のドアが開き、ようやくお待ちかねの人物が姿を現した。
「おう、悪ぃな。遅くなっちまった」
「あーっ、やっと来た!ヴァン、おかえり~!!」
不機嫌そうな瞳が一転し、キラキラと大きな輝きを放った。
身体が元気に飛び跳ね、勢いよく常連客の懐に突進する。
「なんだ、なんだ。随分とご機嫌じゃねぇか、ユメ坊」
ヴァンは腰元にじゃれついてくる看板娘に驚きながらも、優しい手つきでその頭を撫でてやった。
「ユメちゃんって、ほんとヴァンさんに懐いてるよね」
「大好きだからギュッとしたくなっちゃいますよね、分かります」
「えぇ……と、そこまでは言ってないんだけど」
カトルとフェリは二人を眺めやりながら、どこか噛み合わない会話をしている。
それを聞いていたアーロンは、ふと数日前にアシェンから言われたことを思い出していた。
あれは、言外に『愛情表現が足りない』とダメ出しを食らったようなものだ。
他人に言われるならまだしも、幼馴染みの言葉となれば無関心ではいられなかった。
ヴァン本人から恋人としての有り様を疑われたことはないが、内心ではどう思われているのか分からない。
ユメに抱き付かれ、困りながらも照れている男が自然と視界に入ってきた。
嬉しそうに目を細めている姿を見つめ、考える。
「抱き締めてみればいい……のか?」
知らずの内に独り言のような声が漏れた。
そうすれば、少しは気持ちが伝わるだろうか?
あんな風な表情を見せてくれるのだろうか?
アーロンはそんな自分を滑稽だと思いながらも、不安が払拭できないもう一人の自分がいることを認識していた。
「あー、まぁ……そういうのもありか?」
また一つ、言葉が零れ落ちる。
彼は本当に無意識だった。
カトルとフェリの飲食する手が止まり、まるで珍獣を見るような眼差しを向けられていることにも気が付いていない。
「アーロンさんが変です」
「どうしたんだろ?」
もちろん、神妙に囁き合う二人の声も聞こえてはいなかった。
数日後。
ヴァンから備品の買い出しを頼まれていたアーロンは、かったるそうな足取りで事務所へ帰ってきた。
一応は仕事の一環なので、渋々ながらも引き受けてやっている。
「おい、所長さんよ。買ってきてやったぜ」
「おっ、ありがとな。キッチンの方に置いておいてくれ」
ヴァンは机に置いたノート型端末の画面と睨めっこをしていた。
どうやら請け負った依頼についての情報を収集している最中のようだ。
一瞬だけ顔を上げた後、またすぐに視線を落とす。
「こういうのはメイドにでも頼めよ。適材適所ってやつだろ」
「リゼットには別の用事を頼んじまったんだ。しばらく戻ってこねぇ」
「チッ、計画性のないヤツだぜ」
アーロンは不満げな棘を吐きながらも、小脇に抱えていた紙袋を言われた場所へと置きに行く。
キッチンの照明は落とされていて、昼間だというのに少し薄暗い。
事務所の中にはキーボードを叩く音だけが響いていた。
(今は……誰もいねぇのか)
いつもは勝ち気な瞳がぼんやりと鈍色のシンクを眺める。
あれ以来、二人きりになる機会を覗っていたのか?と問われれば、不承不承で頷く他なかった。
恋人に対する懸念など持ち合わせてはいなかったのに、幼馴染みの一言でこのザマだ。
彼は自嘲気味に唇を歪め、ゆっくりとヴァンの元へ足を向けた。
相変わらず端末を覗き込んでいる男は、頬杖を付きながら小さく唸っている。
それでもアーロンが動く気配を察したのか、目線は画面に留めたままで短く言った。
「今日はもう終わりでいいぞ」
「なんだよ。お役御免ってか?」
就業の終わりを告げる所長の語尾に、ぶっきらぼうな声が重なった。
事務所に戻ってきた助手三号の口調がいつもより大人しい。
それは今だけでなく、ここ数日は茶化してくるにせよ、彼特有のキレが感じられなかった。
あまり詮索をしたくはないが、珍しいこともあるものだと思って案じてしまう。
ヴァンは素知らぬ風を装って端末を弄っていたが、相手が動いたのを見計らって声をかけてみた。
そこまでの真剣さはなく、当たり障りがない軽めのやり取りでいい。
だから、挨拶の代わり程度にそう言った。
まさか、返ってきた声がこんな間近で聞こえるとは思わなかったが。
仕事が終わりなら、さっさと事務所を出て行くに違いない。
そう予想していた彼は思いきり面食らった。
「──お前っ!?」
いつの間にかアーロンが背後に立っている。
勢いよく振り向こうとした矢先、すかさず後ろから片手が伸びてきた。
顔を向かせまいとしているのか、首元に腕を回されてしっかりと抑えられてしまう。
相手の意図が読み取れず、なんとか視線だけを後方へ流すと、
「所長さんはまだお仕事ってか?」
吐息がかかりそうな距離で唇が動き、赤い毛先に頬をくすぐられた。
「ま、まぁ……もうちょい情報が欲しいとこだが」
もしかして、先に仕事を上がらせたことが不満だったのだろうか?
覗うように返事をしたが、それを遮ってアーロンの身体が動いた。
首に巻き付いた腕はそのまま、もう片方の手が無遠慮に卓上へと向けられる。
彼が前のめりになったことで背後からの密着度が増し、人の体温が覆い被さってきた。
「それはそれは、ご熱心なことで」
皮肉っぽく響いた言葉に連動して、ぱたりとノート型端末の蓋が閉じられる。
「あっ!!」
横暴とも言える彼の行動には、さすがのヴァンも眦をつり上げた。
腰を浮かしかけ、無理矢理にでも振り向こうとする。
「何してやがる、このクソガキ──っ!」
だが、アーロンの反射神経は抜群だった。
片腕だけの拘束から一転、後ろから椅子の背もたれごと強く抱き竦めてくる。
「なぁ、少しは俺に構われろよ」
首筋に顔を埋められ、途端に湿度のある温もりが肌に広がる。
想定外の状態に陥ったヴァンは、目を丸くして身体を強張らせた。
緊張して滲み出た唾を飲み込み、わずかに喉が鳴る。
どうしてこんな状況に陥っているのか分からなかった。
自分はただ事務所で仕事をしていただけだ。
アーロンの様子を気にかけたのは、単純に彼のことが心配だったからに他ならない。
「お、おい……」
ぴたりとくっついた身体は一向に離れる気配がなく、それどころか更に重みが増していくようだった。
戸惑いと羞恥で騒ぎ始めた心音が、背骨を介して届きそうな予感がする。
そんな中、無言で顔を伏せていたアーロンがおもむろに目線を上げた。
あろうことか、耳元に唇を寄せて啄むようなキスを何度も落としてくる。
「うっ、あ……っ」
瞬時に肩が飛び跳ね、這いずり回るような微熱が首筋を伝った。
所在をなくして浮いた手が彷徨い、絡みつく恋人の腕を掴んだ瞬間。
「言わせろよ、『好き』だって」
いつもより低い声で甘やかに鼓膜を刺激され、頭の中が真っ白になった。
それを囁いたのは自分だったはずなのに、まるで別人のような気がした。
慣れない言動をしている自覚があるせいで、じわじわと恥ずかしさが込み上げてくる。
アーロンは硬直したヴァンの肩口に頭を落とし、しばらく無言を貫いた。
二人だけの空間はやけに静かで、互いの微かな息づかいだけがやたらと耳に残る。
──そこまでが限界だった。
普段の調子を一切省いて気持ちを露わにしてみれば、顔面から火が吹き出しそうになる。
「……くそ!やっぱりガラじゃねぇ」
耐えきれなくなった彼は、心からの叫びを発しながら勢いよくヴァンから離れた。
一歩後ずさり、激しく被りを振った後で自らの赤髪を掻き乱す。
「おい、てめぇ。今のはなかったことにしろ」
「え、あ……?」
彼は反応の鈍いヴァンの横を早足ですり抜け、入り口付近で一度だけ立ち止まった。
紅潮した顔など絶対に見られたくなかった。だから、背を向けたままで荒々しく吐き捨てる。
「さっさと忘れろって言ってんだよ!」
アーロンは汗ばんだ不快な手でドアノブを握り、半ば走るように事務所を出て行ってしまた。
どれくらいの間、放心していたのだろう。
窓から差し込む陽光が夕方の赤みを帯び始めている。
「なん……だよ。さっきの」
机の上に突っ伏したヴァンは力なく呟いた。
時間が経って多少は落ち着いてきたが、弄られた片耳はまだ熱が燻っているような感覚。
甘ったるい残り香が纏わり付き、強引に閉じられた端末を再び開く気分にはなれなかった。
「あいつ、どうしちまったんだ?」
常日頃のアーロンを考えれば、あの豹変ぶりは不審なレベルだ。
やはりここ数日、どこかおかしいように思う。
そんなことを悶々と考えていた時だった。
──トントン
事務所のドアを叩く音が聞こえた。
ヴァンは慌てて居住まいを正し、一度咳払いをしてから来客に声をかける。
「おう、開いてるぞ」
知っている気配ではあるが、ここに用があるとは思えない珍しい客だ。
「こんにちは、ヴァンさん」
開いたドアの向こうにいたのは、黒髪と青い衣装が印象的な黒月の令嬢だった。
「イーディスに来るっていうのは聞いてたが、こっちにまで顔を出すとは思わなかったぜ」
「どんな所か一度見てみたかったのよね。あいつもすっかり馴染んでるみたいだし」
入ってくるなり興味深げに室内を見回し、アシェンが微笑する。
その言葉を聞いたヴァンはドキリとした。
彼女が言っている「あいつ」とは、もちろんアーロンのことだ。
不可解な言動をして去って行った後ろ姿を脳裏に浮かべ、幼馴染みである女を覗う。
アシェンのイーディス入りを知ったのは、彼の零した愚痴からだった。
その経緯を考えれば、最低でも数日前には通信でやり取りをしていただろう。
彼女は何か知っている可能性が高い。
だったら、話を振ってみようかと思案してみる。
「ねぇ、ヴァンさん。アーロンとは上手くやってる?」
すると、アシェンの方が先に話題を持ちかけてきた。
意表を突かれたヴァンは一瞬だけ声を詰まらせた後、机に片肘を突いてこめかみの辺りを揉んだ。
「あいつ、最近おかしくねぇか?」
「え?アーロンってば、何かやらかしたの?」
「いや、そうじゃなくて……」
指先が無意識に頬をなぞり、先刻の囁きが残る耳元を手の平で覆った。
「らしくないっつーか、そういうキャラじゃねぇだろ?みたいな」
どうしても気恥ずかしさが先に立ち、歯切れの悪い曖昧な説明になってしまう。
泳いだ視線がアシェンのそれとぶつかり、彼女の顔がパッと明るくなった。
「もしかしてあいつ、ヴァンさんにデレてきた?」
「まぁ……そうだなぁ。って、あのガキになんか言ったのか?」
それを見たヴァンは、やはり彼女が発端なのだと確信した。
アーロンは幼馴染みに対してよく鬱陶しげな反応を示すが、身内とも呼べる彼女からの言葉には少なからず影響を受けている。
「だって、あいつがやっと掴まえた人とのことだもの。つい心配になっちゃって」
アシェンは綺麗な眉を寄せ、一つ吐息を零した。
そして、一週間前に彼へ向けた指摘をヴァンにも教えてくれたのだった。
あの時は心臓に悪いくらいに煽情的だった囁きを、今は不安げに腕を掴んでくる子供のようにすら思う。
「くっ……はははっ」
ヴァンは再び机に突っ伏し、今度は肩を震わせて笑い出した。
「ヴァンさん?」
「あぁ、悪ぃな。それはとんだお節介ってもんだぜ」
訝しむアシェンに対し、ゆっくりと頭を上げながら可笑しげに口角を歪める。
「それがあいつだろ?そんなんで愛想尽かすくらいなら、はなから受け入れたりはしてねぇよ」
ここ数日間の違和感が綺麗に解け、胸中のモヤが晴れていく。
彼の目尻には笑み崩れた涙が滲んでいた。
自分の心配が取り越し苦労だったと分かり、アシェンは安心した様子で事務所から去って行った。
一人になったヴァンは椅子から立ち上がり、ゆったりと窓辺に歩み寄る。
茜色だった空は群青へ染まりつつあり、そろそろ夕飯時だ。
「さて……と、あいつはどこをほっつき歩いてんだか」
ポケットから取り出したザイファを見つめ、細めた瞳が愛おしげに揺れる。
幼馴染みの声を気にしたとはいえ、アーロンが自分なりに悩んだ結果の言動があれだ。
それは確かに彼からの愛情表現であり、少々やり過ぎな感もあるが素直に嬉しさが募る。
ヴァンは珍しく浮ついた気分になっていた。
今夜は二人きりで過ごすのも悪くはないと思ってしまうほどに。
携帯端末のカバーを開き、慣れた手つきで恋人の連絡先を画面に表示させる。
しかし、発信ボタンを押す直前で指先が止まった。
「あー、出ねぇかもな。さすがに気まずいだろうし」
アーロンの性格を考えれば、こちらから通信を入れても無視される可能性はあるだろう。
ヴァンはしばらく考え込んだ末に、結局は端末のボタンを押した。
スピーカーから呼び出し音が鳴り始め、ソファーに身を沈めながら応答を待ってみる。
「……最初に何て言ってやろうか?」
開口一番の言葉を考えてみれば、自然と頬の緩みが止まらなくなる。
十数秒も反応がなければ諦めてしまうのが常だが、今は不思議とそんな気持ちは起こらなかった。
ふわふわとした心のどこかで、奇妙な自信が主張をしている。
この通信は空振りにならないはずだと。
あと何回、呼び出し音を鳴らせばいいだろう?
ヴァンはまるで子供が悪戯をしているように笑っていた。
それからほどなくして。
ようやく待ち望んでいた声が聞こえてきた。
「ウゼェことしてんじゃねぇよ、オッサン!」
雑踏の音が混じった第一声は不機嫌極まりない。
通常なら互いの顔を画面に映しているが、今は音声のみの通話モードだった。
やはり、相当に気まずいのだろう。
ヴァンの口元から微かな笑いが忍び出る。
「──チッ」
それが聞こえたのか、アーロンがあからさまな舌打ちをした。
彼の不快げな態度は予想通りだったので、気にせず話しかける。
「なぁ、さっさと戻って来いよ。たまには一緒に飯でも食おうぜ」
さっきから言いたいことは色々と考えていたのに、最初の言葉は他愛ないものになってしまった。
「はぁ?なんの嫌がらせだよ」
彼の鬱陶しげな応答を聞けば、どんな顔つきをしているのかを想像するのは簡単だ。
「大体、てめぇは……」
ぶつぶつと文句をたれる声は次第に小さくなり、賑やかな雑音で掻き消されそうになっていく。
ご機嫌斜めなら通話を打ち切ればいいものを、アーロンからは全くその気配が感じられない。
そんな恋人の様子に、やたらと愛おしさが溢れ出してきてしまった。
ヴァンは静かに目を閉じた。
今は一人きり。事務所には誰もいないし、これから来客の予定もない。
つまり、何の遠慮もする必要はなかった。
「今夜は物足りねぇんだよ。端末越しの声だけじゃ……な」
先刻のお返しとばかりに間接的な真似事をする。
ここにはいない恋人の耳に唇を寄せ、とびきり熱っぽく囁いてみせた。
2022.08.28
#黎畳む
黎ED後・恋人設定
珍しいアーロンのデレに驚きつつも内心では嬉しくて堪らないヴァンの話。
2022年リクエスト⑤
【文字数:7900】
携帯端末の画面越しから、幼馴染みが半眼じみた視線を向けてくる。
「あんたねぇ……夜遊びも程々にしなさいよ?煌都とは違うんだから」
「あ~っ、うるせぇなぁ」
アーロンは鬱陶しげに顔を歪め、かったるそうに頭を振った。
アシェンとはそう頻繁にやり取りをしているわけではないが、口を開けばすぐに小言が飛んでくる。
それは彼女が身内として心配してくれているからだが、つい耳を塞ぎたくなるのが正直なところだ。はっきり言って面倒くさい。
今回の通信はアシェンからのものだった。
彼女は挨拶もそこそこに、一週間後にイーディスを訪れると連絡を入れてきた。
特に詮索するつもりはなかったが、その雰囲気から黒月としての来訪に違いない。
「仕事、サボったりするんじゃないわよ。ヴァンさんに雇われてる身なんだから」
「こっちは人手が足りねぇから手伝ってやってるだけだ」
このまま延々と小言に苛まれそうな気がしたアーロンは、無理矢理にでも会話を打ち切ってしまおうと、端末のボタンに指をかけた。
しかし、
「──それはそうと。あんた、ヴァンさんと仲良くやってるの?」
急に話の矛先を変えられ、ぴたりと手の動きが止まる。
アシェンが何を言いたいのかはすぐに分かった。
「おまえには関係ねぇだろうが」
やはり、面倒くさい。さっさと通信を切らなかったことをすぐに後悔した。
アーロンは苦虫を噛みつぶしたような顔で、幼馴染みを睨み付ける。
ヴァンとの恋人関係は良好だと彼自身は思っている。
たまに小さな衝突が起きたりもするが、それを後々まで引きずるようなことはない。
もちろん、大きな仲違いをした記憶もなかった。
「余計な口を挟むんじゃねぇ」
その反応をどう捉えたのか、アシェンはやれやれといった様子で肩を竦ませた。
「はぁ~、どうせツンツンしてるんでしょ。ヴァンさんは優しいというか……懐が深すぎよね」
小さな画面の中から率直な指摘が飛んでくる。
「たまにはデレないと愛想尽かされちゃうわよ?」
幼馴染みの相貌には、揶揄と憂慮が入り交じっている。
「あの人、ただでさえ人気者なんだから。誰かに取られちゃったらどうするのよ」
畳み掛けてくるような追い打ちが耳に刺さり、アーロンは返す言葉を失った。
モンマルトの店内は、ようやく昼時の混雑が落ち着いたところだった。
「あら、お疲れ様。これからお昼かしら?」
助手たちが店に入ると、ポーレットが優しげな微笑を浮かべて近寄ってきた。
「はい。仕事の方が少し立て込んでしまって」
「もうお腹がペコペコです!」
その柔らかな物腰につられ、カトルとフェリも朗らかに笑う。
アーロンはそんな二人を横目にしつつ、空いている席に腰を下ろした。
ポーレットがメニュー表をテーブルに置き、少年少女も慌てて着席をする。
「そう言えば、朝はヴァンさんも一緒に居たような気がしたけれど」
彼女は席に着いた三人を見回し、不思議そうに首を傾げた。
「ヴァンさんならちょっと寄るところがあるみたいで。先に食べてろって言われました」
フェリが注文をしながら答えると、すかさず金色の瞳が面白半分で煌めく。
「ま、どうせいかがわしいとこにでも行ってんじゃねぇの?」
「……アーロンさんじゃあるまいし」
テーブルを囲む事務所の助手たちは、今は不在の所長のことになればつい盛り上がってしまう。
三人分の注文を取ったポーレットは、そんな微笑ましい会話を耳に流しながら厨房へ向かった。
待ち時間はさほどかからなかった。
腕の良い料理人であるビクトルの手際は鮮やかで、次々と料理が出来上がる。
つい先ほど帰ってきたユメが手伝いを始め、ポーレットと共に三人の注文した料理を運んできた。
「お待たせしました~」
「ありがとう、ユメちゃん」
ユメは少々危なっかしい手つきでランチプレートをカトルの元へ置いた。
一生懸命に接客をする姿は、自然と彼の頬を緩ませる。
「こっちはフェリちゃんとアーロンくんの分ね」
ポーレットが配膳したのは肉を主体としたボリュームのある皿だった。
軽めの昼食を頼んだカトルとは対照的で、二人はガッツリといくつもりらしい。
「う~ん、凄いな。アーロンさんはともかく、フェリちゃんってよく食べるよね」
「はいっ、いっぱい食べて早く大きくなりたいです!」
感心しながら呟く少年に対し、少女が明るく返事をした。
「お子様は元気だねぇ~。それに比べてあのオッサンときたら……」
アーロンは早々と料理に手を付けていて、馴染みの味を堪能している。
だが、不意に彼との食事風景を思い出して口を開いた。
「いつだったか、俺が食ってるの見て胸焼けがするとか言いやがった。年のせいで胃腸が弱ってんじゃねーのか?」
「なに、それ。あの人、スイーツ限定ならいくらでもいけそうな気がするけど」
カトルは思わず吹き出してしまいそうになったが、何とか堪えて笑いを噛み殺す。
そんな彼らの様子を、テーブルの脇でユメがジッと見つめていた。
「ねぇ、ねぇ、ヴァンはまだ~?」
後から来るとは聞いたが、そんな気配はまるでない。
小さな少女は不満げに唇を尖らせた。
すると、その直後。
店のドアが開き、ようやくお待ちかねの人物が姿を現した。
「おう、悪ぃな。遅くなっちまった」
「あーっ、やっと来た!ヴァン、おかえり~!!」
不機嫌そうな瞳が一転し、キラキラと大きな輝きを放った。
身体が元気に飛び跳ね、勢いよく常連客の懐に突進する。
「なんだ、なんだ。随分とご機嫌じゃねぇか、ユメ坊」
ヴァンは腰元にじゃれついてくる看板娘に驚きながらも、優しい手つきでその頭を撫でてやった。
「ユメちゃんって、ほんとヴァンさんに懐いてるよね」
「大好きだからギュッとしたくなっちゃいますよね、分かります」
「えぇ……と、そこまでは言ってないんだけど」
カトルとフェリは二人を眺めやりながら、どこか噛み合わない会話をしている。
それを聞いていたアーロンは、ふと数日前にアシェンから言われたことを思い出していた。
あれは、言外に『愛情表現が足りない』とダメ出しを食らったようなものだ。
他人に言われるならまだしも、幼馴染みの言葉となれば無関心ではいられなかった。
ヴァン本人から恋人としての有り様を疑われたことはないが、内心ではどう思われているのか分からない。
ユメに抱き付かれ、困りながらも照れている男が自然と視界に入ってきた。
嬉しそうに目を細めている姿を見つめ、考える。
「抱き締めてみればいい……のか?」
知らずの内に独り言のような声が漏れた。
そうすれば、少しは気持ちが伝わるだろうか?
あんな風な表情を見せてくれるのだろうか?
アーロンはそんな自分を滑稽だと思いながらも、不安が払拭できないもう一人の自分がいることを認識していた。
「あー、まぁ……そういうのもありか?」
また一つ、言葉が零れ落ちる。
彼は本当に無意識だった。
カトルとフェリの飲食する手が止まり、まるで珍獣を見るような眼差しを向けられていることにも気が付いていない。
「アーロンさんが変です」
「どうしたんだろ?」
もちろん、神妙に囁き合う二人の声も聞こえてはいなかった。
数日後。
ヴァンから備品の買い出しを頼まれていたアーロンは、かったるそうな足取りで事務所へ帰ってきた。
一応は仕事の一環なので、渋々ながらも引き受けてやっている。
「おい、所長さんよ。買ってきてやったぜ」
「おっ、ありがとな。キッチンの方に置いておいてくれ」
ヴァンは机に置いたノート型端末の画面と睨めっこをしていた。
どうやら請け負った依頼についての情報を収集している最中のようだ。
一瞬だけ顔を上げた後、またすぐに視線を落とす。
「こういうのはメイドにでも頼めよ。適材適所ってやつだろ」
「リゼットには別の用事を頼んじまったんだ。しばらく戻ってこねぇ」
「チッ、計画性のないヤツだぜ」
アーロンは不満げな棘を吐きながらも、小脇に抱えていた紙袋を言われた場所へと置きに行く。
キッチンの照明は落とされていて、昼間だというのに少し薄暗い。
事務所の中にはキーボードを叩く音だけが響いていた。
(今は……誰もいねぇのか)
いつもは勝ち気な瞳がぼんやりと鈍色のシンクを眺める。
あれ以来、二人きりになる機会を覗っていたのか?と問われれば、不承不承で頷く他なかった。
恋人に対する懸念など持ち合わせてはいなかったのに、幼馴染みの一言でこのザマだ。
彼は自嘲気味に唇を歪め、ゆっくりとヴァンの元へ足を向けた。
相変わらず端末を覗き込んでいる男は、頬杖を付きながら小さく唸っている。
それでもアーロンが動く気配を察したのか、目線は画面に留めたままで短く言った。
「今日はもう終わりでいいぞ」
「なんだよ。お役御免ってか?」
就業の終わりを告げる所長の語尾に、ぶっきらぼうな声が重なった。
事務所に戻ってきた助手三号の口調がいつもより大人しい。
それは今だけでなく、ここ数日は茶化してくるにせよ、彼特有のキレが感じられなかった。
あまり詮索をしたくはないが、珍しいこともあるものだと思って案じてしまう。
ヴァンは素知らぬ風を装って端末を弄っていたが、相手が動いたのを見計らって声をかけてみた。
そこまでの真剣さはなく、当たり障りがない軽めのやり取りでいい。
だから、挨拶の代わり程度にそう言った。
まさか、返ってきた声がこんな間近で聞こえるとは思わなかったが。
仕事が終わりなら、さっさと事務所を出て行くに違いない。
そう予想していた彼は思いきり面食らった。
「──お前っ!?」
いつの間にかアーロンが背後に立っている。
勢いよく振り向こうとした矢先、すかさず後ろから片手が伸びてきた。
顔を向かせまいとしているのか、首元に腕を回されてしっかりと抑えられてしまう。
相手の意図が読み取れず、なんとか視線だけを後方へ流すと、
「所長さんはまだお仕事ってか?」
吐息がかかりそうな距離で唇が動き、赤い毛先に頬をくすぐられた。
「ま、まぁ……もうちょい情報が欲しいとこだが」
もしかして、先に仕事を上がらせたことが不満だったのだろうか?
覗うように返事をしたが、それを遮ってアーロンの身体が動いた。
首に巻き付いた腕はそのまま、もう片方の手が無遠慮に卓上へと向けられる。
彼が前のめりになったことで背後からの密着度が増し、人の体温が覆い被さってきた。
「それはそれは、ご熱心なことで」
皮肉っぽく響いた言葉に連動して、ぱたりとノート型端末の蓋が閉じられる。
「あっ!!」
横暴とも言える彼の行動には、さすがのヴァンも眦をつり上げた。
腰を浮かしかけ、無理矢理にでも振り向こうとする。
「何してやがる、このクソガキ──っ!」
だが、アーロンの反射神経は抜群だった。
片腕だけの拘束から一転、後ろから椅子の背もたれごと強く抱き竦めてくる。
「なぁ、少しは俺に構われろよ」
首筋に顔を埋められ、途端に湿度のある温もりが肌に広がる。
想定外の状態に陥ったヴァンは、目を丸くして身体を強張らせた。
緊張して滲み出た唾を飲み込み、わずかに喉が鳴る。
どうしてこんな状況に陥っているのか分からなかった。
自分はただ事務所で仕事をしていただけだ。
アーロンの様子を気にかけたのは、単純に彼のことが心配だったからに他ならない。
「お、おい……」
ぴたりとくっついた身体は一向に離れる気配がなく、それどころか更に重みが増していくようだった。
戸惑いと羞恥で騒ぎ始めた心音が、背骨を介して届きそうな予感がする。
そんな中、無言で顔を伏せていたアーロンがおもむろに目線を上げた。
あろうことか、耳元に唇を寄せて啄むようなキスを何度も落としてくる。
「うっ、あ……っ」
瞬時に肩が飛び跳ね、這いずり回るような微熱が首筋を伝った。
所在をなくして浮いた手が彷徨い、絡みつく恋人の腕を掴んだ瞬間。
「言わせろよ、『好き』だって」
いつもより低い声で甘やかに鼓膜を刺激され、頭の中が真っ白になった。
それを囁いたのは自分だったはずなのに、まるで別人のような気がした。
慣れない言動をしている自覚があるせいで、じわじわと恥ずかしさが込み上げてくる。
アーロンは硬直したヴァンの肩口に頭を落とし、しばらく無言を貫いた。
二人だけの空間はやけに静かで、互いの微かな息づかいだけがやたらと耳に残る。
──そこまでが限界だった。
普段の調子を一切省いて気持ちを露わにしてみれば、顔面から火が吹き出しそうになる。
「……くそ!やっぱりガラじゃねぇ」
耐えきれなくなった彼は、心からの叫びを発しながら勢いよくヴァンから離れた。
一歩後ずさり、激しく被りを振った後で自らの赤髪を掻き乱す。
「おい、てめぇ。今のはなかったことにしろ」
「え、あ……?」
彼は反応の鈍いヴァンの横を早足ですり抜け、入り口付近で一度だけ立ち止まった。
紅潮した顔など絶対に見られたくなかった。だから、背を向けたままで荒々しく吐き捨てる。
「さっさと忘れろって言ってんだよ!」
アーロンは汗ばんだ不快な手でドアノブを握り、半ば走るように事務所を出て行ってしまた。
どれくらいの間、放心していたのだろう。
窓から差し込む陽光が夕方の赤みを帯び始めている。
「なん……だよ。さっきの」
机の上に突っ伏したヴァンは力なく呟いた。
時間が経って多少は落ち着いてきたが、弄られた片耳はまだ熱が燻っているような感覚。
甘ったるい残り香が纏わり付き、強引に閉じられた端末を再び開く気分にはなれなかった。
「あいつ、どうしちまったんだ?」
常日頃のアーロンを考えれば、あの豹変ぶりは不審なレベルだ。
やはりここ数日、どこかおかしいように思う。
そんなことを悶々と考えていた時だった。
──トントン
事務所のドアを叩く音が聞こえた。
ヴァンは慌てて居住まいを正し、一度咳払いをしてから来客に声をかける。
「おう、開いてるぞ」
知っている気配ではあるが、ここに用があるとは思えない珍しい客だ。
「こんにちは、ヴァンさん」
開いたドアの向こうにいたのは、黒髪と青い衣装が印象的な黒月の令嬢だった。
「イーディスに来るっていうのは聞いてたが、こっちにまで顔を出すとは思わなかったぜ」
「どんな所か一度見てみたかったのよね。あいつもすっかり馴染んでるみたいだし」
入ってくるなり興味深げに室内を見回し、アシェンが微笑する。
その言葉を聞いたヴァンはドキリとした。
彼女が言っている「あいつ」とは、もちろんアーロンのことだ。
不可解な言動をして去って行った後ろ姿を脳裏に浮かべ、幼馴染みである女を覗う。
アシェンのイーディス入りを知ったのは、彼の零した愚痴からだった。
その経緯を考えれば、最低でも数日前には通信でやり取りをしていただろう。
彼女は何か知っている可能性が高い。
だったら、話を振ってみようかと思案してみる。
「ねぇ、ヴァンさん。アーロンとは上手くやってる?」
すると、アシェンの方が先に話題を持ちかけてきた。
意表を突かれたヴァンは一瞬だけ声を詰まらせた後、机に片肘を突いてこめかみの辺りを揉んだ。
「あいつ、最近おかしくねぇか?」
「え?アーロンってば、何かやらかしたの?」
「いや、そうじゃなくて……」
指先が無意識に頬をなぞり、先刻の囁きが残る耳元を手の平で覆った。
「らしくないっつーか、そういうキャラじゃねぇだろ?みたいな」
どうしても気恥ずかしさが先に立ち、歯切れの悪い曖昧な説明になってしまう。
泳いだ視線がアシェンのそれとぶつかり、彼女の顔がパッと明るくなった。
「もしかしてあいつ、ヴァンさんにデレてきた?」
「まぁ……そうだなぁ。って、あのガキになんか言ったのか?」
それを見たヴァンは、やはり彼女が発端なのだと確信した。
アーロンは幼馴染みに対してよく鬱陶しげな反応を示すが、身内とも呼べる彼女からの言葉には少なからず影響を受けている。
「だって、あいつがやっと掴まえた人とのことだもの。つい心配になっちゃって」
アシェンは綺麗な眉を寄せ、一つ吐息を零した。
そして、一週間前に彼へ向けた指摘をヴァンにも教えてくれたのだった。
あの時は心臓に悪いくらいに煽情的だった囁きを、今は不安げに腕を掴んでくる子供のようにすら思う。
「くっ……はははっ」
ヴァンは再び机に突っ伏し、今度は肩を震わせて笑い出した。
「ヴァンさん?」
「あぁ、悪ぃな。それはとんだお節介ってもんだぜ」
訝しむアシェンに対し、ゆっくりと頭を上げながら可笑しげに口角を歪める。
「それがあいつだろ?そんなんで愛想尽かすくらいなら、はなから受け入れたりはしてねぇよ」
ここ数日間の違和感が綺麗に解け、胸中のモヤが晴れていく。
彼の目尻には笑み崩れた涙が滲んでいた。
自分の心配が取り越し苦労だったと分かり、アシェンは安心した様子で事務所から去って行った。
一人になったヴァンは椅子から立ち上がり、ゆったりと窓辺に歩み寄る。
茜色だった空は群青へ染まりつつあり、そろそろ夕飯時だ。
「さて……と、あいつはどこをほっつき歩いてんだか」
ポケットから取り出したザイファを見つめ、細めた瞳が愛おしげに揺れる。
幼馴染みの声を気にしたとはいえ、アーロンが自分なりに悩んだ結果の言動があれだ。
それは確かに彼からの愛情表現であり、少々やり過ぎな感もあるが素直に嬉しさが募る。
ヴァンは珍しく浮ついた気分になっていた。
今夜は二人きりで過ごすのも悪くはないと思ってしまうほどに。
携帯端末のカバーを開き、慣れた手つきで恋人の連絡先を画面に表示させる。
しかし、発信ボタンを押す直前で指先が止まった。
「あー、出ねぇかもな。さすがに気まずいだろうし」
アーロンの性格を考えれば、こちらから通信を入れても無視される可能性はあるだろう。
ヴァンはしばらく考え込んだ末に、結局は端末のボタンを押した。
スピーカーから呼び出し音が鳴り始め、ソファーに身を沈めながら応答を待ってみる。
「……最初に何て言ってやろうか?」
開口一番の言葉を考えてみれば、自然と頬の緩みが止まらなくなる。
十数秒も反応がなければ諦めてしまうのが常だが、今は不思議とそんな気持ちは起こらなかった。
ふわふわとした心のどこかで、奇妙な自信が主張をしている。
この通信は空振りにならないはずだと。
あと何回、呼び出し音を鳴らせばいいだろう?
ヴァンはまるで子供が悪戯をしているように笑っていた。
それからほどなくして。
ようやく待ち望んでいた声が聞こえてきた。
「ウゼェことしてんじゃねぇよ、オッサン!」
雑踏の音が混じった第一声は不機嫌極まりない。
通常なら互いの顔を画面に映しているが、今は音声のみの通話モードだった。
やはり、相当に気まずいのだろう。
ヴァンの口元から微かな笑いが忍び出る。
「──チッ」
それが聞こえたのか、アーロンがあからさまな舌打ちをした。
彼の不快げな態度は予想通りだったので、気にせず話しかける。
「なぁ、さっさと戻って来いよ。たまには一緒に飯でも食おうぜ」
さっきから言いたいことは色々と考えていたのに、最初の言葉は他愛ないものになってしまった。
「はぁ?なんの嫌がらせだよ」
彼の鬱陶しげな応答を聞けば、どんな顔つきをしているのかを想像するのは簡単だ。
「大体、てめぇは……」
ぶつぶつと文句をたれる声は次第に小さくなり、賑やかな雑音で掻き消されそうになっていく。
ご機嫌斜めなら通話を打ち切ればいいものを、アーロンからは全くその気配が感じられない。
そんな恋人の様子に、やたらと愛おしさが溢れ出してきてしまった。
ヴァンは静かに目を閉じた。
今は一人きり。事務所には誰もいないし、これから来客の予定もない。
つまり、何の遠慮もする必要はなかった。
「今夜は物足りねぇんだよ。端末越しの声だけじゃ……な」
先刻のお返しとばかりに間接的な真似事をする。
ここにはいない恋人の耳に唇を寄せ、とびきり熱っぽく囁いてみせた。
2022.08.28
#黎畳む
お祝いしますか?しませんか?
黎・恋人設定
アーロンとの関係がバレていないと思っていたヴァンだけど、実は周囲にバレバレだった話。
2022年リクエスト②
【文字数:5300】
落ち着いた雰囲気の店内には客が数人。
それぞれの席で思い思いの時間を過ごしている。
この店の主であるベルモッティにとっては、皆が馴染みの顔だ。
壁の時計を見れば、夜も大分回った時間になっている。
これから来店してくる客はほぼいないだろう。
そう思った矢先、出入口のドアがベルの音を響かせた。
彼は入ってきた男を見て少しばかり驚き、声のトーンを上げる。
「あら、ヴァンちゃんじゃないの。珍しいわね、こんな時間に」
「ちょいとばかし降られちまってよ。まぁ、通り雨だろうけどな」
小さく振った頭からは水滴が飛び散ったが、大した量ではない。
上着も肩を払えば問題ない程度だった。
「それは大変。今、タオルを持ってくるわね」
「あー、気にすんなって」
雨に降られたことについて、本人はさして気にも留めていないようだ。
慌てて店の奥へ消えていく店主に声をかけ、カウンター席に腰を下ろす。
ガラス越しに外の様子を覗えば、街灯の明かりに落ちる雨粒は当初よりも幾分か少なくなっていた。
「はい、ちゃんと拭きなさいよ。上着は大丈夫なの?」
奥から戻って来たベルモッティは、雨宿りに訪れた客を気遣う。
「問題ねぇ。それより悪かったな。そろそろ閉店だろ」
手渡されたタオルで無造作に髪を拭いたヴァンが、申し訳なさそうな顔をした。
「まだ一時間もあるわ。でも、あたしとヴァンちゃんの仲だもの。閉店後だってOKよ」
それに対し、彼は口元で人差し指を立て、茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせた。
今夜は特にこれが飲みたいといった気分ではなかった。
そんな時は、客の好みを熟知している彼に任せてしまうのが常だ。
カウンター越しに何気ない雑談を交わし、グラスに口を付ける。
ベルモッティ曰く、同時に出されたチョコレートは、新進気鋭のショコラティエによる一品らしい。
それに合わせたカクテルとのことで、相性は抜群だった。さすがはプロの技量である。
思いがけず至福のひとときを手に入れたヴァンは、心の中で通り雨に感謝した。
「そう言えば、アーロンちゃんは一緒じゃないの?」
しかし、いきなり予想だにしなかった話題を振られて怪訝な顔をする。
「は?あいつなら今夜も遊び歩いてんだろ。なんだよ、急に」
なぜそんなことを聞かれるのか分からない、とでも言いたげだ。
「もうっ、ダメねぇ~。ヴァンちゃんを一人でフラフラさせてるなんて」
「いや、そこまであいつとつるんでねぇし」
ベルモッティは丁寧にグラスを磨きながら、どこか楽しそうに口を弾ませた。
「連絡しちゃおうかしら。酔い潰れてるとでも言えば、絶対迎えに来るわよね」
「だから、さっきから何言って……」
会話をしているはずが、一人だけ盛り上がっている。
何か嫌な予感がしてベルモッティを見上げると、意地悪げな瞳とぶつかった。
「あたしの目は誤魔化せないわよ?」
「なっ……!?」
そこでヴァンは完全に把握した。彼が言わんとしていることを。
何度か口を開閉させながら、カウンター越しの店主を凝視する。
「マジ……かよ」
さっきまでの幸福感はどこへやら。
片肘をテーブルに付き、額に手を当てて項垂れる。
「彼、攻めまくりだったものねぇ。いつ押し切られちゃうのかしらって楽しみだったのよ」
「……勝手に楽しむんじゃねぇ。っつーか、なんで気づきやがった?」
ぐったりとしてしまったヴァンは、なんとか掠れた声を絞り出す。
別にアーロンとの関係を隠したいとは思っていない。
しかし、だからといって人前であからさまな言動をしたいわけでもなく、表面上は今までと変わらずに接してるつもりだ。
「そうねぇ。少し前に仕事がらみで一緒にここへ来たじゃない?」
ベルモッティはグラスを磨いていた手を止め、宙を見上げてその時のことを思い出す。
「貴方たちのやり取りを見ていたらすぐに分かったわよ」
職業柄か様々な人を相手にしている彼は、対人関係の微妙な変化を察することが上手い。
色恋の類いともなれば、かなりの精度だ。
「それに……」
ひとつ。鮮明な記憶が浮かび、肩を震わせて可笑しそうに笑った。
「いつもはあたしがヴァンちゃんをからかうと、すぐに茶々入れてくるでしょ。でも、あの時は全然なかったのよね」
やけに静かだったアーロンは、慣れたじゃれ合いを前に口元だけを緩めていた。
眇めた金彩だけは無言の威嚇で牙立てながら。
「あれは、『俺のもんで遊ぶんじゃねぇよ』って顔してたわ~。ゾクゾクしちゃったわよ」
「あのバカが。好戦的すぎんだろ」
それまでは黙って一連の話を聞いていたヴァンが、ようやく顔を上げた。
ガシガシと片手で頭を掻き、グラスに残っていたカクテルを一気にあおる。
心なしか顔が赤いのは、アルコールのせいだけではなさそうだった。
「……はぁ」
彼は深く大きく息を吐き、少しでも平静を取り戻そうと苦慮をしている。
だが、そこへ無慈悲で楽しげな追い打ちがかかった。
「──で、もう食べられちゃったの?」
身を屈めたベルモッティがわざとらしく囁きかけてくる。
「そんなわけあるかっ!」
ヴァンは反射的に腰を浮かせて声を荒げたが、すぐにハッとして店内を見回した。
さすがに大声はまずい。
しかし、店に入った時に居たはずの客たちは消えていて、いつの間にか一人になっていた。
「やぁねぇ~。貴方が幸せそうにしてる間に帰ったわよ」
さっきから落ち着きのない言動ばかりで、噛み殺しても笑みが零れ落ちそうになる。
今夜最後の客は、本当にからかいがいのある男だ。
「そう……だっけか?」
ヴァンとて、馴染みの店に迷惑をかけるのは本意ではない。
それを聞いた彼はホッと胸を撫で下ろし、いそいそと椅子に座り直した。
「それにしても、意外だわ。アーロンちゃんならすぐに手を出すと思ったのに」
すると、話題を引き戻したベルモッティが、言葉通りの表情で小さく首を傾けた。
「それだけ大事ってことかしら?可愛いわね」
「……あのなぁ。あいつがそんなタマかよ」
空になったグラスを見つめた男は、頬杖をつきながら仏頂面でぼそりと呟いた。
雨宿りのつもりだったが、つい長居をしてしまった。
時計を見れば、閉店時間はとうに過ぎている。
おもむろに席を立ったヴァンへ、ベルモッティは優しく目元を緩ませた。
「今度はアーロンちゃんも連れてきてちょうだいね」
「はぁ?ガラでもねぇ」
照れ隠しのつもりか、彼はすぐに背を向けてドアへと歩き出した。
「一緒に来てくれたら、二人のカクテル作ってお祝いしてあげるわ」
ベルモッティは、そんな後ろ姿に向かって柔らかな言葉を投げかける。
返事はなく、ただベルの音だけが静かな店内に響き渡った。
綺麗に整理された本棚からファイルを取り出し、ぺらぺらと書類を捲る。
ヴァンは文字の羅列を目で追いながらも、どこか気が散ってしまっていることを自覚していた。
昨夜、雨宿りをした時のやり取りが頭から離れない。
ベルモッティの眼力には納得なのだが、問題はアーロンの方だった。
(顔に出ちまうのは仕方ねぇが、まさか……言い触らしてるとか?)
何かと開けっぴろげな彼のこと、つい不安が首をもたげてしまう。
「おい、アーロン」
その気持ちが払拭できず、振り返って声をかけてみる。
赤毛の青年はソファーに身を沈め、ザイファを弄っていた。
「あぁ?なんだよ」
かったるそうな返事が事務所の主に向けられる。
「お前……俺たちのこと、周りに言ってねぇよな?」
逡巡してから発せられたそれに、アーロンは顔を顰めた。
「言うわけねぇだろうが、面倒くせぇ。大体──」
吐き捨てるように言葉を連ねたが、ふと途中で口を噤む。
(その必要もないくらいにバレまくりだって、気づいてねぇのか?こいつ)
目を泳がせているヴァンをまじまじと見やり、呆れ気味で溜息を吐く。
そんなアーロンの耳が、階段を上ってくる足音と華やかな笑い声を捉えた。
覚えのある気配に自然と不敵な笑みが浮かぶ。
(それなら、すぐにでも分からせてやるか)
彼はザイファをポケットにしまい、悠然と立ち上がって恋人の元へ歩み寄った。
強引に胸ぐらを掴んで顔を引き寄せた時、ドアの前までやって来た足音が止まった。
「あんた、自分のことには鈍すぎなんじゃねぇの?」
軽やかなノックの音が数回。それと同時に二人の唇が重なる。
「久しぶりに息抜きに来てやったわよ~」
「ジュディスさんってば、活き活きしてますね」
事務所のドアが開いた瞬間、その場の空気が固まった。
だが、それも一時。
半眼じみたジュディスの叫びが室内に響き渡った。
「あんたたち!何見せつけてくれてんのよ!絶対わざとでしょ、それ!」
「羨ましいなら、さっさと相手を作ればいいだろ?」
ビシッと指をさして目を吊り上げる女と、それを煽る男の構図は危なっかしい。
「もう……アーロンさん、驚かせないで下さい」
しかし、彼女と共にやってきたアニエスは僅かに息を呑んだだけだった。開けっぱなしのドアを静かに閉める。
ヴァンはそんな三人を呆然と見つめていた。
キスから解放された唇は半開きのまま、上手い具合に動かせない。
「お、お前ら……」
「なによ、固まっちゃってんの?」
それに気づいたジュディスが訝しげに目を細めると、すかさずアーロンが応じた。
「しょうがねぇだろ。このオッサン、周囲にバレてんの気づいてなかったんだからよ」
その言葉に女性二人の目が点になり、数拍の沈黙。
再び、ジュディスの声が部屋の空気を震わせた。
「はぁぁぁー!?あり得ないんだけど!どんだけバレバレだったと思ってんのよ!」
「そ、そうだったんですか?お二人とも恋人同士の雰囲気出てましたけど」
対照的な反応だが根は同じ、奇異の眼差しを向けられたヴァンは額に嫌な汗が滲むのを感じた。
「だってよ。良かったな、ヴァン。すっかり公認だぜ?」
至近距離にいるアーロンは胸ぐらを掴んだ手を離さず、見せつけるように喉の奥で笑いながら囁いてくる。
「お、おい。全然、良くねぇ……だろ」
ようやく言葉らしきものを紡ぎ始めた男は、動揺の色を隠せなかった。
「そんなことないですよ。みんなでお祝いしてあげようなんて話も出ているくらいですから」
「どっからだよ。嫌がらせにしか思えねぇ」
嬉しそうな顔をしているアニエスには何とか突っ込みを入れつつ、今度は恋人を引き剥がそうと試みる。
まずは片手だけでも空けようと思い、広げたままのファイルを閉じた途端。
今度はジュディスが、急に何かを思い出して口を開いた。
「あ、そう言えば。ベルガルドさんがここを離れる時、気にしてたわよ。『あやつらはどうにかならんのか』って」
──ドサッ!
その語尾にファイルの落下音が続いた。
「な、なんで師父まで……っ」
昨夜から続いているこの一件の中で、今の言葉が一番衝撃的だった。
足元にばらけてしまった書類も目に入らない。
隙あらば攻め落とす機会を覗っていたアーロンはさておき、自分の彼に対する感情を見破られていた事実に羞恥が募る。
そんなヴァンをよそに、赤毛の青年はとんでもないことを言い放った。
「そりゃぁ、大変だ。今からでも報告してやろうぜ」
あっさりと恋人から身体を離し、ポケットの中からザイファを取り出す仕草はやたらと生き生きしている。
「ちょっ……何言ってんだよ、てめぇは!」
これにはヴァンも即座に反応を示した。
素早く伸ばした手でアーロンの肩口を掴み、強引に動きを止めようとする。
焦りを露わに見下ろせば、ふてぶてしい表情を返された。
「弟子が師匠を心配させるってのはどうなんだよ?」
「うるせぇ!」
ほんの少しだけ絡んだ勝ち気な瞳が笑い、冗談とも本気ともつかない。
危機感が最高潮に達したヴァンは、ついに我を失った。
「ダメだからな!絶対やらせねぇからな!!」
彼は形振り構わずに声を荒げ、あろうことか勢いよく相手の首筋にしがみついた。
巻かれた両腕の力は強く、さすがのアーロンも端末の操作を断念してしまう。
「あ〜っ、うぜぇなぁ……」
彼は鬱陶しげな色を醸した息を口から吐き出した。
「興が削がれちまった」
しかし、態度とは裏腹。まるで宥めるようにヴァンの髪を片手で掻き混ぜる。
その動きは雑であってもどことなく柔らかい。
それはジュディスとアニエスの目からも明らかだった。
当人たちは無意識なのかもしれないが、完全に恋人の体を成している。
「……余計なこと言ったわ」
「えっと、でも……ベルガルドさんなら間違いなく祝福してくれますよね」
ジュディスはこめかみを揉みながら自らの失言を後悔し、そんな彼女を慮ったアニエスがさり気なくフォローを入れた。
何とも言えない空気が事務所に流れる中、再び階段の方から複数人の足音が聞こえてきた。明るい声と温和な声と淑やかな声が、楽しげに交わっている。
「あっ、ジュディスさん。フェリちゃんたちが来たみたいです」
「もう……なんなのよ、このタイミングで勢揃いだなんて」
二人はそれらが誰なのかをすぐに察した。
「リゼットはともかくとしても……はぁ~」
ジュディスは目の前で密着している男たちをチラリと見やり、更に頭が痛くなっていくのを感じた。
一応、ここは事務所であり仕事をする場所である。
まだ年若いフェリとカトルにこの状態を見せるのは、さすがにどうかと思ってしまった。
元気なノックの音が数回。
それと同時にジュディスの叱声が轟いた。
2022.06.11
#黎畳む
黎・恋人設定
アーロンとの関係がバレていないと思っていたヴァンだけど、実は周囲にバレバレだった話。
2022年リクエスト②
【文字数:5300】
落ち着いた雰囲気の店内には客が数人。
それぞれの席で思い思いの時間を過ごしている。
この店の主であるベルモッティにとっては、皆が馴染みの顔だ。
壁の時計を見れば、夜も大分回った時間になっている。
これから来店してくる客はほぼいないだろう。
そう思った矢先、出入口のドアがベルの音を響かせた。
彼は入ってきた男を見て少しばかり驚き、声のトーンを上げる。
「あら、ヴァンちゃんじゃないの。珍しいわね、こんな時間に」
「ちょいとばかし降られちまってよ。まぁ、通り雨だろうけどな」
小さく振った頭からは水滴が飛び散ったが、大した量ではない。
上着も肩を払えば問題ない程度だった。
「それは大変。今、タオルを持ってくるわね」
「あー、気にすんなって」
雨に降られたことについて、本人はさして気にも留めていないようだ。
慌てて店の奥へ消えていく店主に声をかけ、カウンター席に腰を下ろす。
ガラス越しに外の様子を覗えば、街灯の明かりに落ちる雨粒は当初よりも幾分か少なくなっていた。
「はい、ちゃんと拭きなさいよ。上着は大丈夫なの?」
奥から戻って来たベルモッティは、雨宿りに訪れた客を気遣う。
「問題ねぇ。それより悪かったな。そろそろ閉店だろ」
手渡されたタオルで無造作に髪を拭いたヴァンが、申し訳なさそうな顔をした。
「まだ一時間もあるわ。でも、あたしとヴァンちゃんの仲だもの。閉店後だってOKよ」
それに対し、彼は口元で人差し指を立て、茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせた。
今夜は特にこれが飲みたいといった気分ではなかった。
そんな時は、客の好みを熟知している彼に任せてしまうのが常だ。
カウンター越しに何気ない雑談を交わし、グラスに口を付ける。
ベルモッティ曰く、同時に出されたチョコレートは、新進気鋭のショコラティエによる一品らしい。
それに合わせたカクテルとのことで、相性は抜群だった。さすがはプロの技量である。
思いがけず至福のひとときを手に入れたヴァンは、心の中で通り雨に感謝した。
「そう言えば、アーロンちゃんは一緒じゃないの?」
しかし、いきなり予想だにしなかった話題を振られて怪訝な顔をする。
「は?あいつなら今夜も遊び歩いてんだろ。なんだよ、急に」
なぜそんなことを聞かれるのか分からない、とでも言いたげだ。
「もうっ、ダメねぇ~。ヴァンちゃんを一人でフラフラさせてるなんて」
「いや、そこまであいつとつるんでねぇし」
ベルモッティは丁寧にグラスを磨きながら、どこか楽しそうに口を弾ませた。
「連絡しちゃおうかしら。酔い潰れてるとでも言えば、絶対迎えに来るわよね」
「だから、さっきから何言って……」
会話をしているはずが、一人だけ盛り上がっている。
何か嫌な予感がしてベルモッティを見上げると、意地悪げな瞳とぶつかった。
「あたしの目は誤魔化せないわよ?」
「なっ……!?」
そこでヴァンは完全に把握した。彼が言わんとしていることを。
何度か口を開閉させながら、カウンター越しの店主を凝視する。
「マジ……かよ」
さっきまでの幸福感はどこへやら。
片肘をテーブルに付き、額に手を当てて項垂れる。
「彼、攻めまくりだったものねぇ。いつ押し切られちゃうのかしらって楽しみだったのよ」
「……勝手に楽しむんじゃねぇ。っつーか、なんで気づきやがった?」
ぐったりとしてしまったヴァンは、なんとか掠れた声を絞り出す。
別にアーロンとの関係を隠したいとは思っていない。
しかし、だからといって人前であからさまな言動をしたいわけでもなく、表面上は今までと変わらずに接してるつもりだ。
「そうねぇ。少し前に仕事がらみで一緒にここへ来たじゃない?」
ベルモッティはグラスを磨いていた手を止め、宙を見上げてその時のことを思い出す。
「貴方たちのやり取りを見ていたらすぐに分かったわよ」
職業柄か様々な人を相手にしている彼は、対人関係の微妙な変化を察することが上手い。
色恋の類いともなれば、かなりの精度だ。
「それに……」
ひとつ。鮮明な記憶が浮かび、肩を震わせて可笑しそうに笑った。
「いつもはあたしがヴァンちゃんをからかうと、すぐに茶々入れてくるでしょ。でも、あの時は全然なかったのよね」
やけに静かだったアーロンは、慣れたじゃれ合いを前に口元だけを緩めていた。
眇めた金彩だけは無言の威嚇で牙立てながら。
「あれは、『俺のもんで遊ぶんじゃねぇよ』って顔してたわ~。ゾクゾクしちゃったわよ」
「あのバカが。好戦的すぎんだろ」
それまでは黙って一連の話を聞いていたヴァンが、ようやく顔を上げた。
ガシガシと片手で頭を掻き、グラスに残っていたカクテルを一気にあおる。
心なしか顔が赤いのは、アルコールのせいだけではなさそうだった。
「……はぁ」
彼は深く大きく息を吐き、少しでも平静を取り戻そうと苦慮をしている。
だが、そこへ無慈悲で楽しげな追い打ちがかかった。
「──で、もう食べられちゃったの?」
身を屈めたベルモッティがわざとらしく囁きかけてくる。
「そんなわけあるかっ!」
ヴァンは反射的に腰を浮かせて声を荒げたが、すぐにハッとして店内を見回した。
さすがに大声はまずい。
しかし、店に入った時に居たはずの客たちは消えていて、いつの間にか一人になっていた。
「やぁねぇ~。貴方が幸せそうにしてる間に帰ったわよ」
さっきから落ち着きのない言動ばかりで、噛み殺しても笑みが零れ落ちそうになる。
今夜最後の客は、本当にからかいがいのある男だ。
「そう……だっけか?」
ヴァンとて、馴染みの店に迷惑をかけるのは本意ではない。
それを聞いた彼はホッと胸を撫で下ろし、いそいそと椅子に座り直した。
「それにしても、意外だわ。アーロンちゃんならすぐに手を出すと思ったのに」
すると、話題を引き戻したベルモッティが、言葉通りの表情で小さく首を傾けた。
「それだけ大事ってことかしら?可愛いわね」
「……あのなぁ。あいつがそんなタマかよ」
空になったグラスを見つめた男は、頬杖をつきながら仏頂面でぼそりと呟いた。
雨宿りのつもりだったが、つい長居をしてしまった。
時計を見れば、閉店時間はとうに過ぎている。
おもむろに席を立ったヴァンへ、ベルモッティは優しく目元を緩ませた。
「今度はアーロンちゃんも連れてきてちょうだいね」
「はぁ?ガラでもねぇ」
照れ隠しのつもりか、彼はすぐに背を向けてドアへと歩き出した。
「一緒に来てくれたら、二人のカクテル作ってお祝いしてあげるわ」
ベルモッティは、そんな後ろ姿に向かって柔らかな言葉を投げかける。
返事はなく、ただベルの音だけが静かな店内に響き渡った。
綺麗に整理された本棚からファイルを取り出し、ぺらぺらと書類を捲る。
ヴァンは文字の羅列を目で追いながらも、どこか気が散ってしまっていることを自覚していた。
昨夜、雨宿りをした時のやり取りが頭から離れない。
ベルモッティの眼力には納得なのだが、問題はアーロンの方だった。
(顔に出ちまうのは仕方ねぇが、まさか……言い触らしてるとか?)
何かと開けっぴろげな彼のこと、つい不安が首をもたげてしまう。
「おい、アーロン」
その気持ちが払拭できず、振り返って声をかけてみる。
赤毛の青年はソファーに身を沈め、ザイファを弄っていた。
「あぁ?なんだよ」
かったるそうな返事が事務所の主に向けられる。
「お前……俺たちのこと、周りに言ってねぇよな?」
逡巡してから発せられたそれに、アーロンは顔を顰めた。
「言うわけねぇだろうが、面倒くせぇ。大体──」
吐き捨てるように言葉を連ねたが、ふと途中で口を噤む。
(その必要もないくらいにバレまくりだって、気づいてねぇのか?こいつ)
目を泳がせているヴァンをまじまじと見やり、呆れ気味で溜息を吐く。
そんなアーロンの耳が、階段を上ってくる足音と華やかな笑い声を捉えた。
覚えのある気配に自然と不敵な笑みが浮かぶ。
(それなら、すぐにでも分からせてやるか)
彼はザイファをポケットにしまい、悠然と立ち上がって恋人の元へ歩み寄った。
強引に胸ぐらを掴んで顔を引き寄せた時、ドアの前までやって来た足音が止まった。
「あんた、自分のことには鈍すぎなんじゃねぇの?」
軽やかなノックの音が数回。それと同時に二人の唇が重なる。
「久しぶりに息抜きに来てやったわよ~」
「ジュディスさんってば、活き活きしてますね」
事務所のドアが開いた瞬間、その場の空気が固まった。
だが、それも一時。
半眼じみたジュディスの叫びが室内に響き渡った。
「あんたたち!何見せつけてくれてんのよ!絶対わざとでしょ、それ!」
「羨ましいなら、さっさと相手を作ればいいだろ?」
ビシッと指をさして目を吊り上げる女と、それを煽る男の構図は危なっかしい。
「もう……アーロンさん、驚かせないで下さい」
しかし、彼女と共にやってきたアニエスは僅かに息を呑んだだけだった。開けっぱなしのドアを静かに閉める。
ヴァンはそんな三人を呆然と見つめていた。
キスから解放された唇は半開きのまま、上手い具合に動かせない。
「お、お前ら……」
「なによ、固まっちゃってんの?」
それに気づいたジュディスが訝しげに目を細めると、すかさずアーロンが応じた。
「しょうがねぇだろ。このオッサン、周囲にバレてんの気づいてなかったんだからよ」
その言葉に女性二人の目が点になり、数拍の沈黙。
再び、ジュディスの声が部屋の空気を震わせた。
「はぁぁぁー!?あり得ないんだけど!どんだけバレバレだったと思ってんのよ!」
「そ、そうだったんですか?お二人とも恋人同士の雰囲気出てましたけど」
対照的な反応だが根は同じ、奇異の眼差しを向けられたヴァンは額に嫌な汗が滲むのを感じた。
「だってよ。良かったな、ヴァン。すっかり公認だぜ?」
至近距離にいるアーロンは胸ぐらを掴んだ手を離さず、見せつけるように喉の奥で笑いながら囁いてくる。
「お、おい。全然、良くねぇ……だろ」
ようやく言葉らしきものを紡ぎ始めた男は、動揺の色を隠せなかった。
「そんなことないですよ。みんなでお祝いしてあげようなんて話も出ているくらいですから」
「どっからだよ。嫌がらせにしか思えねぇ」
嬉しそうな顔をしているアニエスには何とか突っ込みを入れつつ、今度は恋人を引き剥がそうと試みる。
まずは片手だけでも空けようと思い、広げたままのファイルを閉じた途端。
今度はジュディスが、急に何かを思い出して口を開いた。
「あ、そう言えば。ベルガルドさんがここを離れる時、気にしてたわよ。『あやつらはどうにかならんのか』って」
──ドサッ!
その語尾にファイルの落下音が続いた。
「な、なんで師父まで……っ」
昨夜から続いているこの一件の中で、今の言葉が一番衝撃的だった。
足元にばらけてしまった書類も目に入らない。
隙あらば攻め落とす機会を覗っていたアーロンはさておき、自分の彼に対する感情を見破られていた事実に羞恥が募る。
そんなヴァンをよそに、赤毛の青年はとんでもないことを言い放った。
「そりゃぁ、大変だ。今からでも報告してやろうぜ」
あっさりと恋人から身体を離し、ポケットの中からザイファを取り出す仕草はやたらと生き生きしている。
「ちょっ……何言ってんだよ、てめぇは!」
これにはヴァンも即座に反応を示した。
素早く伸ばした手でアーロンの肩口を掴み、強引に動きを止めようとする。
焦りを露わに見下ろせば、ふてぶてしい表情を返された。
「弟子が師匠を心配させるってのはどうなんだよ?」
「うるせぇ!」
ほんの少しだけ絡んだ勝ち気な瞳が笑い、冗談とも本気ともつかない。
危機感が最高潮に達したヴァンは、ついに我を失った。
「ダメだからな!絶対やらせねぇからな!!」
彼は形振り構わずに声を荒げ、あろうことか勢いよく相手の首筋にしがみついた。
巻かれた両腕の力は強く、さすがのアーロンも端末の操作を断念してしまう。
「あ〜っ、うぜぇなぁ……」
彼は鬱陶しげな色を醸した息を口から吐き出した。
「興が削がれちまった」
しかし、態度とは裏腹。まるで宥めるようにヴァンの髪を片手で掻き混ぜる。
その動きは雑であってもどことなく柔らかい。
それはジュディスとアニエスの目からも明らかだった。
当人たちは無意識なのかもしれないが、完全に恋人の体を成している。
「……余計なこと言ったわ」
「えっと、でも……ベルガルドさんなら間違いなく祝福してくれますよね」
ジュディスはこめかみを揉みながら自らの失言を後悔し、そんな彼女を慮ったアニエスがさり気なくフォローを入れた。
何とも言えない空気が事務所に流れる中、再び階段の方から複数人の足音が聞こえてきた。明るい声と温和な声と淑やかな声が、楽しげに交わっている。
「あっ、ジュディスさん。フェリちゃんたちが来たみたいです」
「もう……なんなのよ、このタイミングで勢揃いだなんて」
二人はそれらが誰なのかをすぐに察した。
「リゼットはともかくとしても……はぁ~」
ジュディスは目の前で密着している男たちをチラリと見やり、更に頭が痛くなっていくのを感じた。
一応、ここは事務所であり仕事をする場所である。
まだ年若いフェリとカトルにこの状態を見せるのは、さすがにどうかと思ってしまった。
元気なノックの音が数回。
それと同時にジュディスの叱声が轟いた。
2022.06.11
#黎畳む
今、繋ぎ止めた想いを確かめて
黎END後・恋人設定
魔王化の時二人は何を思っていたのか、そして未来についての会話。
事後のベッドでイチャついています。
2022年リクエスト①
【文字数:3400】
驚愕だとか畏怖だとか。
人の身がこの異形に対して感じる感情など、どうでも良かった。
夜明け前の濃紺は常闇と混じり合い、優しい色が浸食されていく。
耳障りな音は止むことを知らず、歪み始めた空間の中で別れを察知した。
──ふと、目が合った。
どこか困ったように笑っている。
「ああ、そうか」と、アーロンはそこで納得した。
思わせぶりな言動をするくせに、一歩踏み込めば途端に距離を置く。
いざ真っ向から攻めかかっても絶対に陥落はしない。
いつも、隠しようがない好意を不器用に誤魔化していた。
さっさと認めてしまえば楽なのに。落ちてしまえば楽なのに。
何度そう思ったか分からない。
黎い大きな羽ばたきが、積み重ねてきた縁とその未練を断ち切ろうとしている。
アーロンは、想い人がずっと煮え切らない態度を取り続けた理由をようやく飲み込んだ。
目の前から彼がいなくなることで。
そこで一気に目が覚めた。
ベッドで眠っていた赤毛の青年は勢いよく上半身を起こす。
「ゆ、め……か?」
じわりと滲んだ額の汗を手で拭い、そのまま不快げに前髪を掻き上げた。
時刻は深夜を回ったあたりで、薄暗い部屋の中は静寂に包まれていた。
「──なんだ、怖い夢でも見たのか?」
不意に穏やかな声が聞こえてきた。
相手を気遣いながらも、ほんの少しだけからかうような節がある。
それを発した男は窓辺に半裸の身体を預け、腕を組みながら外を眺めやっていた。
わずかに開いた窓の隙間から夜風が舞い込み、カーテンを緩やかになびかせる。
「……チッ」
アーロンはあからさまに舌打ちをした。
眠りに落ちる直前、彼は隣で微睡んでいたはずだ。
それなのに、知らぬ間に共寝から抜け出しているのが面白くない。
月明かりが霞んでいる今宵。
仄かな街明かりが差し込むだけでは、表情さえも読み取れない。
やはり面白くなかった。
「うるせぇな。勝手にベッドから出るんじゃねぇ」
あんな夢を見たせいか、数歩分しかない距離でさえも連れ戻したい衝動に駆られた。
「はい、はい……ご機嫌斜めかよ」
薄い闇の中、眇めた瞳が刺々しく光っている。
ヴァンは肩を竦めて苦笑しつつ、静かに窓を閉めた。
そして、夢見が悪い恋人の元へ足を向ける。
「うなされているようには見えなかったんだけどな」
ベッドの端に座った彼は、軽く身を乗り出してアーロンを覗き込んだ。
不機嫌に歪んだ頬をやんわりと叩き、宥めようとする。
「てめぇが離れたせいで、見たくもねぇものを見た」
「はぁ?なんで俺のせいなんだよ?」
恨みがましい非難の眼差しが突き刺さり、困惑したヴァンは咄嗟に手を引っ込めた。
それすらも気に入らないのか、アーロンが乱暴に腕を掴んで引き寄せようとする。
「おっ、おい!?」
体格や腕力で考えればヴァンの方に分があるのだが、今は完全に油断しきっていた。
抗う間もなく主導権を握られ、先刻まで身体を絡み合わせていた場所へ引きずり戻される。
「……逃げようとした。消えようとした。俺の前から」
ベッドが軋む音と共に、責めるような言葉の羅列が降ってきた。
それを聞いたヴァンは瞠目して喉を詰まらせる。
「そいつ、は……」
アーロンが何の夢を見ていたのかが、瞬時に分かってしまったのだ。
さっき、ほんの少しでも揶揄が混じったことを後悔する。
詫びのつもりか無性に触れたくなって、組み伏せてきた年若い青年の身体へ手を伸ばした。
かけるべき言葉を探しあぐね、ヴァンは無言で彼の肩口を優しく撫でた。
夜風で冷えた指先には、寝起きの体温が心地良い。
そんな仕草は自然とアーロンの険を和らげ、次に発せられた声は随分と落ち着いていた。
「あの時……俺はどんな顔をしてた?」
傍から見れば何の脈絡もないように思える問いかけ。
しかし、ヴァンは苦しげに顔を歪め、見下ろしてくる金色から視線を反らす。
「……覚えてねぇ」
人肌に触れていた片手がするりと落ちた。
「何も心の中に残したくなかった。本当は見るつもりなんてなかったのに……」
小さく動いた唇からは愁いを含んだ声が零れ落ちる。
空になった手の甲が、今度は自嘲気味に笑う目元を隠した。
「なんで、最後の最後に見ちまったんだろうな」
まるで独り言のような回顧は徐々に萎んでいき、掠れた語尾が二人の隙間に溶けていく。
それは、去り際に見た魔王の微笑と似ているような気がした。
アーロンは今になってヴァンの心情を知り、沸々と嬉しさが込み上げてくるのを感じた。
「はっ……未練たらたらだったんじゃねぇかよ」
あの末期の状況で、執着の欠片を見せるくらいに強く想われてる。
どうしようもなく頬が緩み、締まりのない顔になってしまいそうだった。
それを悟られたくなかった彼は、誤魔化すように恋人の胸元へ唇を寄せた。
一つ二つと甘噛みの痕を散らして、乱れ始めた心音を聞く。
「お前だって似たようなもんだろうが」
ぶり返してくる熱に引きずられ、沈んでいたヴァンの気持ちは上向きになっていった。
視界を閉ざしていた手が、覆い被さっている青年の背中に回される。
「あんなとこまで追いかけてきやがって」
口振りのわりには、素肌を辿る指先の動きが柔らかかった。
無造作に流れる赤い髪の一房を愛おしげに絡ませる。
「俺があんたを逃がすわけねぇだろ。舐めてんのかよ」
「ったく……諦めの悪いヤツに好かれちまったもんだぜ」
憎まれ口を叩き合いながらも、ベッドの中でじゃれつく二人の雰囲気は甘やかだ。
睦言にはそぐわない囁きが、湿った吐息を纏わせてシーツの海に広がっていく。
窓の外は未だに夜が明ける気配もしなかった。
常夜灯はなく、カーテン越しの灯りもこの薄闇では役に立たない。
それでも、これだけ密着していれば互いの表情が簡単に読み取れる。
「……また、同じようなことがあっても絶対に逃がさねぇ」
今は宿主を離れている魔核の存在が頭を過ぎり、アーロンは歯ぎしりをした。
恋情が増せば増すほど、再び背を向けられることへの不安が付きまとう。
彼は抱き合ったままの状態で恋人の首筋に顔を埋め、ざわめく心を押さえ込もうとした。
「まぁ、俺もあの時よりはマシな判断をするさ」
「そういう言葉は信用できねぇんだよ……この前科持ちが」
燃えるような髪の先端に肌をくすぐられ、ヴァンが身動ぎをする。
アーロンに限らず、他の仲間たちからも詐欺だのと散々怒りをぶつけられたのだ。
自業自得とはいえ、今はどんな言い方をしてもまともに受け取ってはもらえないのだろう。
ヴァンは伏せた青年の顔に両手を差し入れて、いささか強引に掬い上げた。
「だったら、しっかり捕まえておいてくれよ」
至近距離で見合い、濃藍の瞳が思慕を滲ませる。
何か言いたげに動きかけた唇へ、自らのそれを深く重ね合わせた。
ひとしきり戯れた後、二人はようやく毛布の中に潜り込んだ。
離れようとしないアーロンに対し、「いい加減に寝かせろ」とヴァンが遠慮なく蹴りを入れた形だ。
薄暗がりの天井を何気なく見つめ、ぼそりと口を開く。
「俺のことはともかく……水面下では不穏な気配だらけなんだよなぁ」
「アルマータの一件が終わっても、各勢力が暗躍してんのは変わらねぇしな」
「はぁ~、厄介な依頼は勘弁だぜ……」
心底かったるそうな溜息の後を、意地悪げな声が追いかけてくる。
「しっかり働けよ、所長さん。俺の給料が払えるくらいにはな」
アーロンはうつ伏せの状態で枕に乗りかかりながら、小刻みに肩を揺らした。
「やれやれ、いつまでお前を雇えばいいんだか」
困ったヤツだと言わんばかりの態度をされ、彼はつり上げた口角を歪ませた。
「──さあな」
いつだったか、ヴァンに話したことを思い出す。
この先、色々な街を見て回りたいと。各地の歓楽街巡りならば、なお楽しい。
いずれ煌都に身を落ち着けるにしても、それはずっと未来の話だ。
「そんなの……知るか」
しかし、あの時とは状況が変わりすぎてしまい、明るく語った願望はいつの間にか形を潜めている。
そんなことよりも譲れない想いがあった。
何よりも繋ぎ止めておきたい大事な人ができた。
アーロンはおもむろに上半身を起こし、隣に横たわる寝際の男を覗き込んだ。
「今の俺は、どんな顔をしてる?」
なぜか、目を閉じる前にもう一度聞きたくなった。
ヴァンは少し驚いたようだったが、数拍もしないうちに静かな笑みを浮かべてくれた。
「そりゃぁ、クソ生意気そうなツラに決まってんだろ」
「……そうかよ」
予想通りの反応に満足そうな表情をした彼は、『おやすみ』の挨拶代わりに触れるだけのキスをした。
今度は答えを聞くことができた。
あの夢とは違い、傍らには確かな存在がある。
それを実感したアーロンは、二人分の温もりを含んだ毛布に顔を埋め、ようやく眠りについた。
2022.05.22
#黎畳む
黎END後・恋人設定
魔王化の時二人は何を思っていたのか、そして未来についての会話。
事後のベッドでイチャついています。
2022年リクエスト①
【文字数:3400】
驚愕だとか畏怖だとか。
人の身がこの異形に対して感じる感情など、どうでも良かった。
夜明け前の濃紺は常闇と混じり合い、優しい色が浸食されていく。
耳障りな音は止むことを知らず、歪み始めた空間の中で別れを察知した。
──ふと、目が合った。
どこか困ったように笑っている。
「ああ、そうか」と、アーロンはそこで納得した。
思わせぶりな言動をするくせに、一歩踏み込めば途端に距離を置く。
いざ真っ向から攻めかかっても絶対に陥落はしない。
いつも、隠しようがない好意を不器用に誤魔化していた。
さっさと認めてしまえば楽なのに。落ちてしまえば楽なのに。
何度そう思ったか分からない。
黎い大きな羽ばたきが、積み重ねてきた縁とその未練を断ち切ろうとしている。
アーロンは、想い人がずっと煮え切らない態度を取り続けた理由をようやく飲み込んだ。
目の前から彼がいなくなることで。
そこで一気に目が覚めた。
ベッドで眠っていた赤毛の青年は勢いよく上半身を起こす。
「ゆ、め……か?」
じわりと滲んだ額の汗を手で拭い、そのまま不快げに前髪を掻き上げた。
時刻は深夜を回ったあたりで、薄暗い部屋の中は静寂に包まれていた。
「──なんだ、怖い夢でも見たのか?」
不意に穏やかな声が聞こえてきた。
相手を気遣いながらも、ほんの少しだけからかうような節がある。
それを発した男は窓辺に半裸の身体を預け、腕を組みながら外を眺めやっていた。
わずかに開いた窓の隙間から夜風が舞い込み、カーテンを緩やかになびかせる。
「……チッ」
アーロンはあからさまに舌打ちをした。
眠りに落ちる直前、彼は隣で微睡んでいたはずだ。
それなのに、知らぬ間に共寝から抜け出しているのが面白くない。
月明かりが霞んでいる今宵。
仄かな街明かりが差し込むだけでは、表情さえも読み取れない。
やはり面白くなかった。
「うるせぇな。勝手にベッドから出るんじゃねぇ」
あんな夢を見たせいか、数歩分しかない距離でさえも連れ戻したい衝動に駆られた。
「はい、はい……ご機嫌斜めかよ」
薄い闇の中、眇めた瞳が刺々しく光っている。
ヴァンは肩を竦めて苦笑しつつ、静かに窓を閉めた。
そして、夢見が悪い恋人の元へ足を向ける。
「うなされているようには見えなかったんだけどな」
ベッドの端に座った彼は、軽く身を乗り出してアーロンを覗き込んだ。
不機嫌に歪んだ頬をやんわりと叩き、宥めようとする。
「てめぇが離れたせいで、見たくもねぇものを見た」
「はぁ?なんで俺のせいなんだよ?」
恨みがましい非難の眼差しが突き刺さり、困惑したヴァンは咄嗟に手を引っ込めた。
それすらも気に入らないのか、アーロンが乱暴に腕を掴んで引き寄せようとする。
「おっ、おい!?」
体格や腕力で考えればヴァンの方に分があるのだが、今は完全に油断しきっていた。
抗う間もなく主導権を握られ、先刻まで身体を絡み合わせていた場所へ引きずり戻される。
「……逃げようとした。消えようとした。俺の前から」
ベッドが軋む音と共に、責めるような言葉の羅列が降ってきた。
それを聞いたヴァンは瞠目して喉を詰まらせる。
「そいつ、は……」
アーロンが何の夢を見ていたのかが、瞬時に分かってしまったのだ。
さっき、ほんの少しでも揶揄が混じったことを後悔する。
詫びのつもりか無性に触れたくなって、組み伏せてきた年若い青年の身体へ手を伸ばした。
かけるべき言葉を探しあぐね、ヴァンは無言で彼の肩口を優しく撫でた。
夜風で冷えた指先には、寝起きの体温が心地良い。
そんな仕草は自然とアーロンの険を和らげ、次に発せられた声は随分と落ち着いていた。
「あの時……俺はどんな顔をしてた?」
傍から見れば何の脈絡もないように思える問いかけ。
しかし、ヴァンは苦しげに顔を歪め、見下ろしてくる金色から視線を反らす。
「……覚えてねぇ」
人肌に触れていた片手がするりと落ちた。
「何も心の中に残したくなかった。本当は見るつもりなんてなかったのに……」
小さく動いた唇からは愁いを含んだ声が零れ落ちる。
空になった手の甲が、今度は自嘲気味に笑う目元を隠した。
「なんで、最後の最後に見ちまったんだろうな」
まるで独り言のような回顧は徐々に萎んでいき、掠れた語尾が二人の隙間に溶けていく。
それは、去り際に見た魔王の微笑と似ているような気がした。
アーロンは今になってヴァンの心情を知り、沸々と嬉しさが込み上げてくるのを感じた。
「はっ……未練たらたらだったんじゃねぇかよ」
あの末期の状況で、執着の欠片を見せるくらいに強く想われてる。
どうしようもなく頬が緩み、締まりのない顔になってしまいそうだった。
それを悟られたくなかった彼は、誤魔化すように恋人の胸元へ唇を寄せた。
一つ二つと甘噛みの痕を散らして、乱れ始めた心音を聞く。
「お前だって似たようなもんだろうが」
ぶり返してくる熱に引きずられ、沈んでいたヴァンの気持ちは上向きになっていった。
視界を閉ざしていた手が、覆い被さっている青年の背中に回される。
「あんなとこまで追いかけてきやがって」
口振りのわりには、素肌を辿る指先の動きが柔らかかった。
無造作に流れる赤い髪の一房を愛おしげに絡ませる。
「俺があんたを逃がすわけねぇだろ。舐めてんのかよ」
「ったく……諦めの悪いヤツに好かれちまったもんだぜ」
憎まれ口を叩き合いながらも、ベッドの中でじゃれつく二人の雰囲気は甘やかだ。
睦言にはそぐわない囁きが、湿った吐息を纏わせてシーツの海に広がっていく。
窓の外は未だに夜が明ける気配もしなかった。
常夜灯はなく、カーテン越しの灯りもこの薄闇では役に立たない。
それでも、これだけ密着していれば互いの表情が簡単に読み取れる。
「……また、同じようなことがあっても絶対に逃がさねぇ」
今は宿主を離れている魔核の存在が頭を過ぎり、アーロンは歯ぎしりをした。
恋情が増せば増すほど、再び背を向けられることへの不安が付きまとう。
彼は抱き合ったままの状態で恋人の首筋に顔を埋め、ざわめく心を押さえ込もうとした。
「まぁ、俺もあの時よりはマシな判断をするさ」
「そういう言葉は信用できねぇんだよ……この前科持ちが」
燃えるような髪の先端に肌をくすぐられ、ヴァンが身動ぎをする。
アーロンに限らず、他の仲間たちからも詐欺だのと散々怒りをぶつけられたのだ。
自業自得とはいえ、今はどんな言い方をしてもまともに受け取ってはもらえないのだろう。
ヴァンは伏せた青年の顔に両手を差し入れて、いささか強引に掬い上げた。
「だったら、しっかり捕まえておいてくれよ」
至近距離で見合い、濃藍の瞳が思慕を滲ませる。
何か言いたげに動きかけた唇へ、自らのそれを深く重ね合わせた。
ひとしきり戯れた後、二人はようやく毛布の中に潜り込んだ。
離れようとしないアーロンに対し、「いい加減に寝かせろ」とヴァンが遠慮なく蹴りを入れた形だ。
薄暗がりの天井を何気なく見つめ、ぼそりと口を開く。
「俺のことはともかく……水面下では不穏な気配だらけなんだよなぁ」
「アルマータの一件が終わっても、各勢力が暗躍してんのは変わらねぇしな」
「はぁ~、厄介な依頼は勘弁だぜ……」
心底かったるそうな溜息の後を、意地悪げな声が追いかけてくる。
「しっかり働けよ、所長さん。俺の給料が払えるくらいにはな」
アーロンはうつ伏せの状態で枕に乗りかかりながら、小刻みに肩を揺らした。
「やれやれ、いつまでお前を雇えばいいんだか」
困ったヤツだと言わんばかりの態度をされ、彼はつり上げた口角を歪ませた。
「──さあな」
いつだったか、ヴァンに話したことを思い出す。
この先、色々な街を見て回りたいと。各地の歓楽街巡りならば、なお楽しい。
いずれ煌都に身を落ち着けるにしても、それはずっと未来の話だ。
「そんなの……知るか」
しかし、あの時とは状況が変わりすぎてしまい、明るく語った願望はいつの間にか形を潜めている。
そんなことよりも譲れない想いがあった。
何よりも繋ぎ止めておきたい大事な人ができた。
アーロンはおもむろに上半身を起こし、隣に横たわる寝際の男を覗き込んだ。
「今の俺は、どんな顔をしてる?」
なぜか、目を閉じる前にもう一度聞きたくなった。
ヴァンは少し驚いたようだったが、数拍もしないうちに静かな笑みを浮かべてくれた。
「そりゃぁ、クソ生意気そうなツラに決まってんだろ」
「……そうかよ」
予想通りの反応に満足そうな表情をした彼は、『おやすみ』の挨拶代わりに触れるだけのキスをした。
今度は答えを聞くことができた。
あの夢とは違い、傍らには確かな存在がある。
それを実感したアーロンは、二人分の温もりを含んだ毛布に顔を埋め、ようやく眠りについた。
2022.05.22
#黎畳む
たかが一週間、されど一週間
恋人設定
寂しくて無自覚にやらかしてしまったロイドと、包容力が全開なランディの話。
あまりふざけていない大人で優しいランディです。
【文字数:7800】
人気がない階段に激しく乱れた足音が響き渡った。
明らかな動揺を全身に纏い、一気に屋上へと駆け上る。
強く開け放ったドアを閉めることも忘れ、一直線に先端まで突き進む。
その勢いのまま、ロイドは手摺りに身体を押し付けて大きく項垂れた。
「……やらかした」
携帯端末を握りしめている手には、不快な汗が滲んでいる。
久しぶりに聞いた声が耳元に残っているような気がして、軽く目眩がした。
「なにやってんだよ、俺」
冷えた夜風が通り抜け、それが気持ち良いと感じるくらいには頬が熱い。
時刻はまだ宵の口。陽気な笑い声たちが夜景の中に溶けては消えていく。
ロイドは伏せていた頭を上げ、ぼんやりと街の賑わいを見下ろした。
「遊んでるとこに水を差したよなぁ……絶対」
手の中にある端末が、自らの失態を主張している。
そこから目を逸らしたくて、乱暴に上着のポケットへ押し込んだ。
未だに着信音が鳴る気配はなく、間接的な追い打ちをかけてくるつもりはないのだろう。
「はぁ……」
深く吐き出された溜息に安堵の色はなかった。
ロイドには、この先の展開が易々と想像できてしまう。
彼の相棒であり恋人でもある男は、戯けたふりをしながら優しい顔をする。
今の段階で声をかけてこないのであれば、つまりはそういうことだ。
歓楽街の方向に目をやれば、煌々とした灯りが他の地区よりも一層際立っている。
いっそのこと、夜の街に逃げ出してしまおうかとも考えた。
けれど、一時的にこの場を凌いだとしても、明日の朝には顔を合わせる羽目になる。
こうなったら、潔く弄られた方が良いのかもしれない。
そう思い始めたロイドの頭は、仕方なく腹を括る方向へと流れていく。
逃げ道を探しあぐねた足は、屋上の一角で完全に動きを止めることになった。
ロイドが帰宅したのは、二十時を回った頃だった。
「ロイドー!おかえりなさ〜い!」
建物に入って玄関のドアを閉めると、テーブルの付近にいたキーアが猛ダッシュで突っ込んできた。
「おっと、ただいま。キーア」
小脇に抱えていた書類を落としそうになり、慌てて体勢を整える。
「お仕事、お疲れさま!」
天真爛漫なタックルはいつも通りで、その仕草はロイドの疲れを癒やしてくれる。
しがみついてきた彼女の頭部を優しく撫でながら、口元を綻ばせた。
室内を見渡してみれば、キッチンの方から物音が聞こえてくる。
時間帯的に、夕飯の後片付けをしている最中なのだろう。
その一画から、ひょっこりと水色の頭が顔を覗かせた。
「おかえりなさい。ロイドさん。夕飯は済ませてきたんですよね?」
「ああ、打ち合わせがてらにね」
「それは食事にかこつけた残業というやつでは……?」
ティオは返ってきた言葉に思わず眉を顰めた。
「ははっ、そんな大袈裟なものじゃないよ。雑談の方が多かったくらいだし」
彼女特有のジト目を受けて、ロイドが鷹揚に笑う。
「ねぇ、ロイド……疲れてるの?」
その会話を聞いていた愛娘は、心配そうに大好きな青年の袖を引っ張った。
「大丈夫だ。キーアの顔を見たら元気になったよ」
「そういうことです。なんといってもキーアは私たちの活力源ですからね」
彼女の憂いは見たくないとばかりに、二人は揃って柔らかな声音を落とす。
「そうなの?みんなが元気ならキーアも嬉しいな!……あっ、そうだ」
それは聞いた途端、幼い瞳がパッと輝いた。
そのまま、何かを思い出したようにキッチンの方へ跳ねていく。
「丁度、食後のお茶にするところだったんだ。ね!ティオ」
「そうでした。ロイドさんも一緒にどうですか?」
明るい口調に促され、ティオが中断している作業に意識を戻した。
「もちろんだよ」
ロイドはキッチンへ向かう二人を手伝うつもりで後を追ったが、
「あ、ロイドは座ってていいよ~」
それを見透かしたように、奥からキーアの声に先制される。
帰宅したばかりの彼を気遣っていることは明らかだった。
楽しげな家族たちのやり取りを聞きながら、テーブルの一席に腰を落ち着ける。
再び見回した部屋の中がやけに広く感じられた。
「……エリィは久しぶりに実家で夕食を取るって言ってたな」
頬杖を付いて、ここにはいない二人の予定を反芻する。
最近は個々に動いていることも多いが、特務支援課のリーダーとして皆の予定は常に把握していた。
「ランディは……」
その男の名前が音を成した途端、ロイドの表情が曇る。
本人さえも気が付かない微かな暗色が瞳の奥に広がった。
三人で和やかにテーブルを囲んだ後、ロイドは自室へ戻った。
すぐさま机の前に向かい、持ち帰った書類を広げる。
「よし、一通り目を通しておくか」
近々、交通課が不正な導力車の一斉摘発を行う予定だ。
大規模な案件のため人手が欲しいとあって、支援課も応援にかり出されている。
書類には資料が簡潔に纏めてあり、クリップに挟める程度の量に収まっていた。
導力ネットが普及しているとはいえ、まだまだ紙の情報は欠かせない。
ロイドは無言で文字の羅列を追い始めた。
資料の確認自体は今日でなくても構わないのだが、彼は真面目で責任感の強い男だ。
さっきのティオからの発言に絡めれば、これも立派な残業ではある。
しかし、ロイドは気に留める様子がない。
それどころか、わざと仕事のことで頭をいっぱいにしたがっているようだった。
時計の針はゆうに一回りをしている。
全ての資料に目を通し終えた彼は、大きく息を吐いて天井を仰ぎ見た。
凝り固まった上半身を伸ばしてみれば、細かな関節の音が鳴る。
それは静かな室内にやたらと響き渡った。
「……帰ってきてるんだっけな」
一つ、言葉が零れ落ちた。
勤勉な集中力が緩んだ隙に、赤い影が滑り込んでくる。
ロイドは、団欒の席で交わしていたやり取りを思い出してしまった。
あの時。ティオが彼の話題を振ってきたのは、気を利かせてくれたからなのかもしれない。
「そう言えば。ランディさんはお昼ごろに帰ってきたそうですよ」
「えっ、そうなのか?遅くなるのかと思ってたけど」
湯気が漂うカップをテーブルに置き、席へ着いた直後に彼女が口を開いた。
向かいにいるロイドが目を丸くしたのを見て、不思議そうに首を傾げる。
「連絡、取ってないんですか?」
「う~ん……たった一週間だしな。外国に行ってるわけでもないし」
問いかけてみたが、彼は苦笑して茶請けのクッキーをひとつまみしただけだった。
ランディは最近よく警備隊の訓練や演習にかり出されていた。
警備隊所属だった経歴と彼の戦闘能力を鑑みれば、上層部が頼りにするのも頷ける。
今回は強化訓練の一環で山間部に籠もるとのことだった。
ランディは一週間前、
「久しぶりに遠慮なく揉んでやろうかねぇ~」
などと言いながら、足取りも軽やかに出かけていった。
ふと、卓上に身を乗り出すようにして愛らしい声が響いた。
「あのね、エリィが一度ここに戻ってくる途中でランディとばったり会ったんだって」
飲み物が熱かったらしく、息を吹きかけて冷ましているキーアが、隣にいるロイドを見上げた。
「エリィさんの話によれば、ひと眠りしたら遊びに行くと言っていたらしいです」
その言葉を継いだティオが、情報を付け加えてくれる。
「ランディって元気だよね。キーアだったら朝までぐっすり眠っちゃいそう」
「遊びぶためなら、なんとやら……ですね」
二人の会話が耳元を通り抜け、ロイドは可笑しげに目を細めた。
彼女らは兄貴分であるランディの性格をしっかりと把握している。
だから、一仕事を終えた彼が歓楽街へ向かったことについては、至極当然という認識だった。
天井を見上げたままの視線は、どことなく焦点が定まらない。
「……どうせ、遅くまで遊んでくるんだろうし」
しばらく同じ姿勢のままで首が痛くなったのか、ロイドは呟きながら姿勢を正した。
読み終えた書類を一瞥し、上着のポケットに手を突っ込む。
彼の身体は意図せず動いていた。
心の隙間に入り込んだ焔が、正常な思考回路を停止させてしまう。
携帯端末を取り出し、何の躊躇もせずにカバーを開いた。
──完全に無意識だった。
歓楽街の賑わいぶりは、今が最高潮だ。
訓練漬けだった男の身には、享楽へと誘う雑音たちが気安く染み渡る。
ランディは界隈を一通りぶらつき、最終的には馴染みの店であるバルカを訪れた。
支配人であるドレイクに顔を見せた後で、意気揚々とギャンブルに興じる。
彼が二階のスロット台に腰を落ち着けたのは、入店してから小一時間は経過した頃だった。
ルーレットやポーカーにも手を出していたが、今夜はどうにも良い流れがやってこない。
だったら諦めるまでと、わざとらしい落胆ぶりを披露する姿はどこか楽しげだった。
「──おっ、こっちは良さげなじゃね?」
台に座ってから数分もしないうちに、彼はご機嫌な口笛を鳴らした。
どうやら、一階での負け分を取り戻せそうな予感がする。
思わず前のめりになったランディだったが、
「よぉ、兄ちゃん。久しぶりじゃねぇか」
不意に、背後から親しげな声が投げかけられた。
「まぁな、仕事で郊外に缶詰だったもんでよ」
振り向いた彼は、自分よりもひとまわりくらい年長の男を見てニッと笑った。
「へぇ~、何の仕事やってんだ?」
「これがまた、意外にお堅い系だったりするんだよなぁ」
「実は見かけによらないってやつか」
男はこのカジノの常連客で、ランディとは顔馴染みの間柄だ。
冗談めかした言葉の応酬をしながら、ひとつ台を挟んだ席でスロットを回し始める。
こういった場所では互いに深入りしないのが暗黙のルールだ。
男はただの興味本位だったらしい。相手がはぐらかしてきたので、それ以上は踏み込んでこなかった。
二人は程良い世間話をしながらも、それぞれがこの俗物的な空気を満喫している。
そんな中。
突如、ランディの上着から携帯端末の呼び出し音が鳴り響いた。
「おいおい、なんだっつーの」
夜の時間帯なので思わず眉を顰めてしまったが、すぐに片手をポケットに突っ込んだ。緊急事態という可能性もある。
「おう、どうした?」
なんとなく相手の予想はついたが、肝心の声が聞こえてこなかった。
「……ロイド?」
「──へっ!?あ、あれ?ランディ!?」
数拍の後、ひどく驚いた様子の応答が耳を貫通してきた。
ガタンッと激しく椅子が倒れた。
起立した勢いで机を叩き、片手と紙の束が擦れ合う。
反響音は短く、狭い空間。
それ以外は静かで、他の気配は感じられなかった。
「はいはい。お前の愛おしいランディさんですが……って、寝ぼけてんのかよ?」
端末越しからロイドの背後に隠れた音を聞き分け、ふざけながらも冷静な状況分析をする。
彼が自室にいることは確かだろう。
「い、いやっ、あのっ……全然かけるつもりとかなくて!」
これ以上ないくらいの狼狽ぶりがはっきりと伝わってくる。
ランディは景気の良い派手な演出が始まったスロット台を眺め、どう切り返そうかと思案した。
だが、ロイドの方には会話をする余裕などまるでない。
「ごめん、ほんとにごめん!!」
一週間ぶりだった声は悲鳴にも似た謝罪を残し、ぶつりと消えてしまった。
カバーを閉じた端末に、優しく細めた翠が注がれる。
勢いよくメダルが落ちてくる光景を前にしていても、不思議と高揚感が沸いてこなかった。
「ははっ、なんだ。女かよ?」
おもむろに席を立った彼を見て、顔馴染みの男がにやにやしながら茶化す。
距離が近いこともあり、通信でのやり取りは丸聞こえだったらしい。
「さあな~。可愛いヤツには違いねぇが」
それを気にする素振りもなく、ランディは可笑しげに口角をつり上げた。
昼間と見紛うほどに明るい街は、まだ眠ることを知らない。
その華やぎと喧噪から背を向けた男に未練の痕跡はなかった。
悠長な様子を装って帰路に付いた足は、いつもよりも少しばかり速い。
「帰ってきた一報くらい、よこせって?」
あの反応ならば、ロイドが通信を入れてきたのは本当に無意識だったのだろう。
そこに至る心境を慮り、ランディは小さく頭を振った。
二人は常日頃から、相棒と恋人の関係性をバランスよく保っている。
だが、それは真面目なロイドの性格ゆえであり、ランディはそれを尊重している形だ。
色事には不器用な上に、時々自分の感情にすら疎い部分がある。
彼にしてみれば、いつ恋人の顔をしてくれても構わないし、受け止める自信は満々だ。
「……あいつ、相変わらず下手だよなぁ」
すでに寝静まりつつある西通りを進み、すっかり馴染んだ古いビルを見上げてみる。
「まぁ、最近は警備隊の案件が多かったっつーのもあるか」
裏口から帰宅して我が家の空気を吸い込んだ後、ランディは二階の様子を探った。
ロイドが自室にいないことが分かり、今度は視線を上層へ走らせる。
「あー、上か」
きっと頭を冷やしに行ったのだろう。それくらいは容易に想像がついた。
薄暗い階段を静かに上り、屋上へと辿り着く。
ドアは開け放たれたままで、先にここを通った荒い足音が聞こえてくるようだった。
屋上にやってきた人物が誰かなんて、確かめるまでもない。
彼の戻りを予測していながら、逃げなかったのは自分だ。
それでも、やっぱり振り向くことはできなかった。
「──ロイドくん、待った?」
手摺りにもたれて街明かりを見つめる背中へ、軟派な言葉が投げかけられる。
「待ってない」
近づいてくる男の気配は、ロイドの態度を頑なにさせた。
「そうかよ。つれないね~」
ランディは恋人の傍らに立ち、わざとらしく肩を竦めてみせた。
不躾に隣の横面を暴こうとはせず、大きな背中を手摺りに預けてゆったりと腕を組む。
「まぁ、今夜はツイてなかったなんでな。さっさと退散してきたぜ」
彼はロイドとは逆方向の夜空を見上げ、さり気なく優しい嘘をついた。
「いつだってツイてないくせに」
それまで前を向いていた栗色の頭が、わずかに俯く。
ランディの言動にロイドは戸惑っていた。
てっきり茶化されて弄りまくられるものだと思っていたのだ。
憎まれ口を叩いた唇を噤んで隣を覗えば、柔らかな視線が注がれているのを感じる。
今の状況が想定していたものとは違いすぎて、どんな顔をすればいいのか分からなくなった。
「……もう、さっさとどっか行けよ」
思考の糸が絡まり続け、思わず手摺りに向かって伏せてしまいたくなる。
そんなロイドの横顔に何かが触れてきた。
「そいつは無理ってもんだろ?寂しがってる恋人を相手に」
武骨な手の甲がゆっくりと優しく頬を撫であげる。
突然やってきた温もりは一瞬で、なぜかすぐに離れてしまった。
名残惜しさを覚え、釣られるようにしてランディの方を向く。
「えっ、な……に、言って」
ほんのわずかな時間差で、一つの言葉が脳内に落下した。
「寂しい?俺が……?」
何度も目を瞬かせ、大きな困惑が露わになる。
そんなロイドの反応を見たランディは、自分が相手の胸中を見誤っていたことに気が付いた。
「あ~、そこからなわけね」
あの時の通信は、無意識からの産物で間違いはない。
だったら、どうしてそんな行動を取ってしまったのか?
屋上に上がって頭を冷やしていたのなら、それについての感情は自覚しているものと勝手に決めつけていた。
「……たかが一週間で?」
ロイドは両腕を抱え込み、忙しなく眼球を動かしている。
「もっと離れていた時期だって……あったのに」
握りしめた拳を顎に添え、唇から零れる息が小さく揺れた。
まるで独り言のような言葉は、夜風に紛れて行方をくらましてしまいそうだった。
「さすがに帝国の時と比べるのは『なし』だろ」
そんな呟きをしっかりと掴まえながら、ランディが静かに目を眇める。
ロイドがいつのことを言っているのかは、すぐに分かった。
あの時の焦燥感と葛藤の日々が頭を過ぎる。そして、今がどれだけ甘やかな時間かを思い知る。
手摺りを背もたれにしたまま、ふと見上げた夜空には深い濃紺が広がっていた。
いつの間にか、賑やかな声が聞こえていた中央広場も静かになってきている。
「でも、これくらいで寂しいとか……」
ロイドは未だに自分の感情を飲み込みきれていないようだった。
雑音がなくなった寒空の下、すでに答えが出ているはずの自己分析を繰り返す。
一週間前。楽しげに出かけて行った背中がやたらに遠く感じた。
まるで警備隊に彼を取られてしまったような気がして、子供じみた嫉妬が胸の奥に燻った。
携帯端末に手を伸ばしたのは、声が聞きたかったからだ。
声が聞きたかったのは、彼との繋がりを確かめたかったからだ。
そして、そんな想いを募らせる感情の正体は、ただ一つの短い言葉で表現できる。
「そんなの……小さな子供みたいじゃないか」
ロイドは両目を強く瞑った後、年上の恋人を振り仰いだ。
ようやく二人の視線が交差する。
ランディが空を見上げていたのは一時だけだったらしい。それ以降は、一人で戸惑うロイドを傍らで愛おしんでいた。
「別にいいんじゃねぇの。お前さんは難しく考えすぎなんだよ」
途方に暮れたような幼い顔は、不器用な思考の巡りを手放そうとしない。
「寂しがることに年齢は関係ないだろ?ましてや恋人同士なら」
柔らかな口調で諭してくるランディの声は、身動きの取れないロイドを引っ張り出すかのようだった。
手摺りにもたれていた身体が動き、いよいよ真正面から向かい合う。
さっきはわざと泳がせた手が、今度は大きな掌で頬を撫でた。
「いい加減、認めちまえよ」
「……あ」
一瞬だけだった温もりが、今度は離れずに頬を侵食した。
意地っ張りになっている心の奥が、ぐらぐらと音を立てて傾いていく。
それにとどめを刺すかのごとく、ランディは顔を近づけてニヤリと笑った。
「──で、早く俺に抱き付いてこい。さっきからずっと待ってるんだぜ?」
もう、虚勢を張るのは無理だった。
足を踏み込んだロイドの視界が、見慣れたオレンジ色でいっぱいになる。
促されるがまま、彼は思いきりランディの胸元に抱き付いた。
一週間ぶりに感じる体温は心地良く、回した両腕には自然と力がこもってしまう。
それを物ともしない強靱な肉体と、そこから漂う彼の香りを無心で堪能する。
「おう、おう。熱烈だねぇ」
やっと甘えてくれたが、その勢いが嬉しいやら可笑しいやらで、ランディは苦笑を禁じ得ない。
それでも彼の波長に合わせ、擦り寄ってくる栗色の髪を言葉少なに梳いてやった。
どれくらいそうしていたのだろう。
静まりかえった深夜の屋上は、冷えた風など感じないくらいに温かい。
ふと、ランディが口を開いた。
「なぁ、そろそろ顔上げて欲しいんだけど」
この場所に来てからというもの、ロイドの表情を覗えたのはほんの少しだけだ。
久しぶりの逢瀬だというのに、それでは物足りなさすぎる。
本音を言ってしまえば、さっさと自分の部屋にお持ち帰りしてしまいたい気分だ。
「なぁ、ロイド?」
「──嫌だ」
しかし、催促も空しくロイドが突っぱねてくる。
彼とて、いつまでもこの状態でいられるわけがないと頭では理解していた。
けれど、心が思うようについてこない。
無意識にやらかしたことから始まり、寂しがっていることを自覚してしまった。
今夜は包容力が全開であろう恋人を前にして、彼の羞恥心は増すばかりだ。
「まだ……このままがいい」
ロイドは甘ったるい空気が漂う中で、ぽそりと言った。
密着しているせいで、ランディが小さく肩を揺らしているのが分かる。
きっと困ったように笑っていることだろう。
今はどんな態度を取ったとしても揶揄の兆しはなく、愛おしげに緩んだ眼差しが待っているだけだ。
だから、どうしたって逡巡するのを止められない。
本当に──どんな顔をしたらいいのかが分からなくなってしまった。
2023.03.14
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寂しくて無自覚にやらかしてしまったロイドと、包容力が全開なランディの話。
あまりふざけていない大人で優しいランディです。
【文字数:7800】
人気がない階段に激しく乱れた足音が響き渡った。
明らかな動揺を全身に纏い、一気に屋上へと駆け上る。
強く開け放ったドアを閉めることも忘れ、一直線に先端まで突き進む。
その勢いのまま、ロイドは手摺りに身体を押し付けて大きく項垂れた。
「……やらかした」
携帯端末を握りしめている手には、不快な汗が滲んでいる。
久しぶりに聞いた声が耳元に残っているような気がして、軽く目眩がした。
「なにやってんだよ、俺」
冷えた夜風が通り抜け、それが気持ち良いと感じるくらいには頬が熱い。
時刻はまだ宵の口。陽気な笑い声たちが夜景の中に溶けては消えていく。
ロイドは伏せていた頭を上げ、ぼんやりと街の賑わいを見下ろした。
「遊んでるとこに水を差したよなぁ……絶対」
手の中にある端末が、自らの失態を主張している。
そこから目を逸らしたくて、乱暴に上着のポケットへ押し込んだ。
未だに着信音が鳴る気配はなく、間接的な追い打ちをかけてくるつもりはないのだろう。
「はぁ……」
深く吐き出された溜息に安堵の色はなかった。
ロイドには、この先の展開が易々と想像できてしまう。
彼の相棒であり恋人でもある男は、戯けたふりをしながら優しい顔をする。
今の段階で声をかけてこないのであれば、つまりはそういうことだ。
歓楽街の方向に目をやれば、煌々とした灯りが他の地区よりも一層際立っている。
いっそのこと、夜の街に逃げ出してしまおうかとも考えた。
けれど、一時的にこの場を凌いだとしても、明日の朝には顔を合わせる羽目になる。
こうなったら、潔く弄られた方が良いのかもしれない。
そう思い始めたロイドの頭は、仕方なく腹を括る方向へと流れていく。
逃げ道を探しあぐねた足は、屋上の一角で完全に動きを止めることになった。
ロイドが帰宅したのは、二十時を回った頃だった。
「ロイドー!おかえりなさ〜い!」
建物に入って玄関のドアを閉めると、テーブルの付近にいたキーアが猛ダッシュで突っ込んできた。
「おっと、ただいま。キーア」
小脇に抱えていた書類を落としそうになり、慌てて体勢を整える。
「お仕事、お疲れさま!」
天真爛漫なタックルはいつも通りで、その仕草はロイドの疲れを癒やしてくれる。
しがみついてきた彼女の頭部を優しく撫でながら、口元を綻ばせた。
室内を見渡してみれば、キッチンの方から物音が聞こえてくる。
時間帯的に、夕飯の後片付けをしている最中なのだろう。
その一画から、ひょっこりと水色の頭が顔を覗かせた。
「おかえりなさい。ロイドさん。夕飯は済ませてきたんですよね?」
「ああ、打ち合わせがてらにね」
「それは食事にかこつけた残業というやつでは……?」
ティオは返ってきた言葉に思わず眉を顰めた。
「ははっ、そんな大袈裟なものじゃないよ。雑談の方が多かったくらいだし」
彼女特有のジト目を受けて、ロイドが鷹揚に笑う。
「ねぇ、ロイド……疲れてるの?」
その会話を聞いていた愛娘は、心配そうに大好きな青年の袖を引っ張った。
「大丈夫だ。キーアの顔を見たら元気になったよ」
「そういうことです。なんといってもキーアは私たちの活力源ですからね」
彼女の憂いは見たくないとばかりに、二人は揃って柔らかな声音を落とす。
「そうなの?みんなが元気ならキーアも嬉しいな!……あっ、そうだ」
それは聞いた途端、幼い瞳がパッと輝いた。
そのまま、何かを思い出したようにキッチンの方へ跳ねていく。
「丁度、食後のお茶にするところだったんだ。ね!ティオ」
「そうでした。ロイドさんも一緒にどうですか?」
明るい口調に促され、ティオが中断している作業に意識を戻した。
「もちろんだよ」
ロイドはキッチンへ向かう二人を手伝うつもりで後を追ったが、
「あ、ロイドは座ってていいよ~」
それを見透かしたように、奥からキーアの声に先制される。
帰宅したばかりの彼を気遣っていることは明らかだった。
楽しげな家族たちのやり取りを聞きながら、テーブルの一席に腰を落ち着ける。
再び見回した部屋の中がやけに広く感じられた。
「……エリィは久しぶりに実家で夕食を取るって言ってたな」
頬杖を付いて、ここにはいない二人の予定を反芻する。
最近は個々に動いていることも多いが、特務支援課のリーダーとして皆の予定は常に把握していた。
「ランディは……」
その男の名前が音を成した途端、ロイドの表情が曇る。
本人さえも気が付かない微かな暗色が瞳の奥に広がった。
三人で和やかにテーブルを囲んだ後、ロイドは自室へ戻った。
すぐさま机の前に向かい、持ち帰った書類を広げる。
「よし、一通り目を通しておくか」
近々、交通課が不正な導力車の一斉摘発を行う予定だ。
大規模な案件のため人手が欲しいとあって、支援課も応援にかり出されている。
書類には資料が簡潔に纏めてあり、クリップに挟める程度の量に収まっていた。
導力ネットが普及しているとはいえ、まだまだ紙の情報は欠かせない。
ロイドは無言で文字の羅列を追い始めた。
資料の確認自体は今日でなくても構わないのだが、彼は真面目で責任感の強い男だ。
さっきのティオからの発言に絡めれば、これも立派な残業ではある。
しかし、ロイドは気に留める様子がない。
それどころか、わざと仕事のことで頭をいっぱいにしたがっているようだった。
時計の針はゆうに一回りをしている。
全ての資料に目を通し終えた彼は、大きく息を吐いて天井を仰ぎ見た。
凝り固まった上半身を伸ばしてみれば、細かな関節の音が鳴る。
それは静かな室内にやたらと響き渡った。
「……帰ってきてるんだっけな」
一つ、言葉が零れ落ちた。
勤勉な集中力が緩んだ隙に、赤い影が滑り込んでくる。
ロイドは、団欒の席で交わしていたやり取りを思い出してしまった。
あの時。ティオが彼の話題を振ってきたのは、気を利かせてくれたからなのかもしれない。
「そう言えば。ランディさんはお昼ごろに帰ってきたそうですよ」
「えっ、そうなのか?遅くなるのかと思ってたけど」
湯気が漂うカップをテーブルに置き、席へ着いた直後に彼女が口を開いた。
向かいにいるロイドが目を丸くしたのを見て、不思議そうに首を傾げる。
「連絡、取ってないんですか?」
「う~ん……たった一週間だしな。外国に行ってるわけでもないし」
問いかけてみたが、彼は苦笑して茶請けのクッキーをひとつまみしただけだった。
ランディは最近よく警備隊の訓練や演習にかり出されていた。
警備隊所属だった経歴と彼の戦闘能力を鑑みれば、上層部が頼りにするのも頷ける。
今回は強化訓練の一環で山間部に籠もるとのことだった。
ランディは一週間前、
「久しぶりに遠慮なく揉んでやろうかねぇ~」
などと言いながら、足取りも軽やかに出かけていった。
ふと、卓上に身を乗り出すようにして愛らしい声が響いた。
「あのね、エリィが一度ここに戻ってくる途中でランディとばったり会ったんだって」
飲み物が熱かったらしく、息を吹きかけて冷ましているキーアが、隣にいるロイドを見上げた。
「エリィさんの話によれば、ひと眠りしたら遊びに行くと言っていたらしいです」
その言葉を継いだティオが、情報を付け加えてくれる。
「ランディって元気だよね。キーアだったら朝までぐっすり眠っちゃいそう」
「遊びぶためなら、なんとやら……ですね」
二人の会話が耳元を通り抜け、ロイドは可笑しげに目を細めた。
彼女らは兄貴分であるランディの性格をしっかりと把握している。
だから、一仕事を終えた彼が歓楽街へ向かったことについては、至極当然という認識だった。
天井を見上げたままの視線は、どことなく焦点が定まらない。
「……どうせ、遅くまで遊んでくるんだろうし」
しばらく同じ姿勢のままで首が痛くなったのか、ロイドは呟きながら姿勢を正した。
読み終えた書類を一瞥し、上着のポケットに手を突っ込む。
彼の身体は意図せず動いていた。
心の隙間に入り込んだ焔が、正常な思考回路を停止させてしまう。
携帯端末を取り出し、何の躊躇もせずにカバーを開いた。
──完全に無意識だった。
歓楽街の賑わいぶりは、今が最高潮だ。
訓練漬けだった男の身には、享楽へと誘う雑音たちが気安く染み渡る。
ランディは界隈を一通りぶらつき、最終的には馴染みの店であるバルカを訪れた。
支配人であるドレイクに顔を見せた後で、意気揚々とギャンブルに興じる。
彼が二階のスロット台に腰を落ち着けたのは、入店してから小一時間は経過した頃だった。
ルーレットやポーカーにも手を出していたが、今夜はどうにも良い流れがやってこない。
だったら諦めるまでと、わざとらしい落胆ぶりを披露する姿はどこか楽しげだった。
「──おっ、こっちは良さげなじゃね?」
台に座ってから数分もしないうちに、彼はご機嫌な口笛を鳴らした。
どうやら、一階での負け分を取り戻せそうな予感がする。
思わず前のめりになったランディだったが、
「よぉ、兄ちゃん。久しぶりじゃねぇか」
不意に、背後から親しげな声が投げかけられた。
「まぁな、仕事で郊外に缶詰だったもんでよ」
振り向いた彼は、自分よりもひとまわりくらい年長の男を見てニッと笑った。
「へぇ~、何の仕事やってんだ?」
「これがまた、意外にお堅い系だったりするんだよなぁ」
「実は見かけによらないってやつか」
男はこのカジノの常連客で、ランディとは顔馴染みの間柄だ。
冗談めかした言葉の応酬をしながら、ひとつ台を挟んだ席でスロットを回し始める。
こういった場所では互いに深入りしないのが暗黙のルールだ。
男はただの興味本位だったらしい。相手がはぐらかしてきたので、それ以上は踏み込んでこなかった。
二人は程良い世間話をしながらも、それぞれがこの俗物的な空気を満喫している。
そんな中。
突如、ランディの上着から携帯端末の呼び出し音が鳴り響いた。
「おいおい、なんだっつーの」
夜の時間帯なので思わず眉を顰めてしまったが、すぐに片手をポケットに突っ込んだ。緊急事態という可能性もある。
「おう、どうした?」
なんとなく相手の予想はついたが、肝心の声が聞こえてこなかった。
「……ロイド?」
「──へっ!?あ、あれ?ランディ!?」
数拍の後、ひどく驚いた様子の応答が耳を貫通してきた。
ガタンッと激しく椅子が倒れた。
起立した勢いで机を叩き、片手と紙の束が擦れ合う。
反響音は短く、狭い空間。
それ以外は静かで、他の気配は感じられなかった。
「はいはい。お前の愛おしいランディさんですが……って、寝ぼけてんのかよ?」
端末越しからロイドの背後に隠れた音を聞き分け、ふざけながらも冷静な状況分析をする。
彼が自室にいることは確かだろう。
「い、いやっ、あのっ……全然かけるつもりとかなくて!」
これ以上ないくらいの狼狽ぶりがはっきりと伝わってくる。
ランディは景気の良い派手な演出が始まったスロット台を眺め、どう切り返そうかと思案した。
だが、ロイドの方には会話をする余裕などまるでない。
「ごめん、ほんとにごめん!!」
一週間ぶりだった声は悲鳴にも似た謝罪を残し、ぶつりと消えてしまった。
カバーを閉じた端末に、優しく細めた翠が注がれる。
勢いよくメダルが落ちてくる光景を前にしていても、不思議と高揚感が沸いてこなかった。
「ははっ、なんだ。女かよ?」
おもむろに席を立った彼を見て、顔馴染みの男がにやにやしながら茶化す。
距離が近いこともあり、通信でのやり取りは丸聞こえだったらしい。
「さあな~。可愛いヤツには違いねぇが」
それを気にする素振りもなく、ランディは可笑しげに口角をつり上げた。
昼間と見紛うほどに明るい街は、まだ眠ることを知らない。
その華やぎと喧噪から背を向けた男に未練の痕跡はなかった。
悠長な様子を装って帰路に付いた足は、いつもよりも少しばかり速い。
「帰ってきた一報くらい、よこせって?」
あの反応ならば、ロイドが通信を入れてきたのは本当に無意識だったのだろう。
そこに至る心境を慮り、ランディは小さく頭を振った。
二人は常日頃から、相棒と恋人の関係性をバランスよく保っている。
だが、それは真面目なロイドの性格ゆえであり、ランディはそれを尊重している形だ。
色事には不器用な上に、時々自分の感情にすら疎い部分がある。
彼にしてみれば、いつ恋人の顔をしてくれても構わないし、受け止める自信は満々だ。
「……あいつ、相変わらず下手だよなぁ」
すでに寝静まりつつある西通りを進み、すっかり馴染んだ古いビルを見上げてみる。
「まぁ、最近は警備隊の案件が多かったっつーのもあるか」
裏口から帰宅して我が家の空気を吸い込んだ後、ランディは二階の様子を探った。
ロイドが自室にいないことが分かり、今度は視線を上層へ走らせる。
「あー、上か」
きっと頭を冷やしに行ったのだろう。それくらいは容易に想像がついた。
薄暗い階段を静かに上り、屋上へと辿り着く。
ドアは開け放たれたままで、先にここを通った荒い足音が聞こえてくるようだった。
屋上にやってきた人物が誰かなんて、確かめるまでもない。
彼の戻りを予測していながら、逃げなかったのは自分だ。
それでも、やっぱり振り向くことはできなかった。
「──ロイドくん、待った?」
手摺りにもたれて街明かりを見つめる背中へ、軟派な言葉が投げかけられる。
「待ってない」
近づいてくる男の気配は、ロイドの態度を頑なにさせた。
「そうかよ。つれないね~」
ランディは恋人の傍らに立ち、わざとらしく肩を竦めてみせた。
不躾に隣の横面を暴こうとはせず、大きな背中を手摺りに預けてゆったりと腕を組む。
「まぁ、今夜はツイてなかったなんでな。さっさと退散してきたぜ」
彼はロイドとは逆方向の夜空を見上げ、さり気なく優しい嘘をついた。
「いつだってツイてないくせに」
それまで前を向いていた栗色の頭が、わずかに俯く。
ランディの言動にロイドは戸惑っていた。
てっきり茶化されて弄りまくられるものだと思っていたのだ。
憎まれ口を叩いた唇を噤んで隣を覗えば、柔らかな視線が注がれているのを感じる。
今の状況が想定していたものとは違いすぎて、どんな顔をすればいいのか分からなくなった。
「……もう、さっさとどっか行けよ」
思考の糸が絡まり続け、思わず手摺りに向かって伏せてしまいたくなる。
そんなロイドの横顔に何かが触れてきた。
「そいつは無理ってもんだろ?寂しがってる恋人を相手に」
武骨な手の甲がゆっくりと優しく頬を撫であげる。
突然やってきた温もりは一瞬で、なぜかすぐに離れてしまった。
名残惜しさを覚え、釣られるようにしてランディの方を向く。
「えっ、な……に、言って」
ほんのわずかな時間差で、一つの言葉が脳内に落下した。
「寂しい?俺が……?」
何度も目を瞬かせ、大きな困惑が露わになる。
そんなロイドの反応を見たランディは、自分が相手の胸中を見誤っていたことに気が付いた。
「あ~、そこからなわけね」
あの時の通信は、無意識からの産物で間違いはない。
だったら、どうしてそんな行動を取ってしまったのか?
屋上に上がって頭を冷やしていたのなら、それについての感情は自覚しているものと勝手に決めつけていた。
「……たかが一週間で?」
ロイドは両腕を抱え込み、忙しなく眼球を動かしている。
「もっと離れていた時期だって……あったのに」
握りしめた拳を顎に添え、唇から零れる息が小さく揺れた。
まるで独り言のような言葉は、夜風に紛れて行方をくらましてしまいそうだった。
「さすがに帝国の時と比べるのは『なし』だろ」
そんな呟きをしっかりと掴まえながら、ランディが静かに目を眇める。
ロイドがいつのことを言っているのかは、すぐに分かった。
あの時の焦燥感と葛藤の日々が頭を過ぎる。そして、今がどれだけ甘やかな時間かを思い知る。
手摺りを背もたれにしたまま、ふと見上げた夜空には深い濃紺が広がっていた。
いつの間にか、賑やかな声が聞こえていた中央広場も静かになってきている。
「でも、これくらいで寂しいとか……」
ロイドは未だに自分の感情を飲み込みきれていないようだった。
雑音がなくなった寒空の下、すでに答えが出ているはずの自己分析を繰り返す。
一週間前。楽しげに出かけて行った背中がやたらに遠く感じた。
まるで警備隊に彼を取られてしまったような気がして、子供じみた嫉妬が胸の奥に燻った。
携帯端末に手を伸ばしたのは、声が聞きたかったからだ。
声が聞きたかったのは、彼との繋がりを確かめたかったからだ。
そして、そんな想いを募らせる感情の正体は、ただ一つの短い言葉で表現できる。
「そんなの……小さな子供みたいじゃないか」
ロイドは両目を強く瞑った後、年上の恋人を振り仰いだ。
ようやく二人の視線が交差する。
ランディが空を見上げていたのは一時だけだったらしい。それ以降は、一人で戸惑うロイドを傍らで愛おしんでいた。
「別にいいんじゃねぇの。お前さんは難しく考えすぎなんだよ」
途方に暮れたような幼い顔は、不器用な思考の巡りを手放そうとしない。
「寂しがることに年齢は関係ないだろ?ましてや恋人同士なら」
柔らかな口調で諭してくるランディの声は、身動きの取れないロイドを引っ張り出すかのようだった。
手摺りにもたれていた身体が動き、いよいよ真正面から向かい合う。
さっきはわざと泳がせた手が、今度は大きな掌で頬を撫でた。
「いい加減、認めちまえよ」
「……あ」
一瞬だけだった温もりが、今度は離れずに頬を侵食した。
意地っ張りになっている心の奥が、ぐらぐらと音を立てて傾いていく。
それにとどめを刺すかのごとく、ランディは顔を近づけてニヤリと笑った。
「──で、早く俺に抱き付いてこい。さっきからずっと待ってるんだぜ?」
もう、虚勢を張るのは無理だった。
足を踏み込んだロイドの視界が、見慣れたオレンジ色でいっぱいになる。
促されるがまま、彼は思いきりランディの胸元に抱き付いた。
一週間ぶりに感じる体温は心地良く、回した両腕には自然と力がこもってしまう。
それを物ともしない強靱な肉体と、そこから漂う彼の香りを無心で堪能する。
「おう、おう。熱烈だねぇ」
やっと甘えてくれたが、その勢いが嬉しいやら可笑しいやらで、ランディは苦笑を禁じ得ない。
それでも彼の波長に合わせ、擦り寄ってくる栗色の髪を言葉少なに梳いてやった。
どれくらいそうしていたのだろう。
静まりかえった深夜の屋上は、冷えた風など感じないくらいに温かい。
ふと、ランディが口を開いた。
「なぁ、そろそろ顔上げて欲しいんだけど」
この場所に来てからというもの、ロイドの表情を覗えたのはほんの少しだけだ。
久しぶりの逢瀬だというのに、それでは物足りなさすぎる。
本音を言ってしまえば、さっさと自分の部屋にお持ち帰りしてしまいたい気分だ。
「なぁ、ロイド?」
「──嫌だ」
しかし、催促も空しくロイドが突っぱねてくる。
彼とて、いつまでもこの状態でいられるわけがないと頭では理解していた。
けれど、心が思うようについてこない。
無意識にやらかしたことから始まり、寂しがっていることを自覚してしまった。
今夜は包容力が全開であろう恋人を前にして、彼の羞恥心は増すばかりだ。
「まだ……このままがいい」
ロイドは甘ったるい空気が漂う中で、ぽそりと言った。
密着しているせいで、ランディが小さく肩を揺らしているのが分かる。
きっと困ったように笑っていることだろう。
今はどんな態度を取ったとしても揶揄の兆しはなく、愛おしげに緩んだ眼差しが待っているだけだ。
だから、どうしたって逡巡するのを止められない。
本当に──どんな顔をしたらいいのかが分からなくなってしまった。
2023.03.14
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ヴァンが最年少のフェリにまで可愛いと言われて落ち込んでいる話。
対アーロンで墓穴を掘りまくってます。
【文字数:4400】
のんびりとした雰囲気が漂う昼下がり。
裏解決事務所の一室には、和やかに談笑する助手たちの姿があった。
各々で昼食を取り、午後からの仕事に備えて集合している形だ。
「──あっ、それでその後ヴァンさんが、『俺のハードボイルドはどこへ……』なんて言っていたんです」
「はぁ?あのオッサン、まだ諦めてねぇのかよ」
綺麗な姿勢でソファーに座っているアニエスが、思い出したかのように所長のことを口にする。
その向かいにいるアーロンは、呆れた顔をして足を組み変えた。
テーブルを挟んで設置されているソファーの片方を占領し、真ん中に鷹揚と座している。
「ヴァンさんって、その『はーどぼいるど』というのに憧れてるんです……よね?」
それに続いて、アニエスの隣にいるフェリが不思議そうに目を瞬かせた。
小さな身体は行儀良く腰を落ち着けていて、年長の二人を交互に見つめている。
三者三様の座り方には、自ずと性格が滲み出ているようだった。
そして、それが当たり前だと思えるくらいには付き合いが深い。
「最初に聞いた時は意味がよく解らなくて、ちょっと調べてみたんですけど」
フェリはどこか納得がいかない表情を浮かべ、言葉を続けた。
「で、どうなんだ?うちの所長さんはよ」
そんな彼女の気持ちを察したのか、アーロンが意地悪げに問いかける。
すると、その時。
渦中の人物が事務所へ戻ってきた。
「おっ、揃ってんな。丁度良かったぜ」
ドアを開けた途端に三人の姿を見つけ、ヴァンが小さく笑う。
助手たちを繋ぐ中心である男は、ご機嫌な様子で持っている紙袋を掲げてみせた。
「通りがかりに新しい店見つけちまってよ~。俺もまだまだリサーチ不足だぜ」
浮かれまくった言動は、さながら宝物を見つけた少年のようだ。
しかし、嬉しさ全開のヴァンとは対照的に、三人は思わず顔を見合わせてしまった。
それから、数秒の沈黙。
「……ん?どうした、お前ら?」
反応の薄さを怪訝に思った所長の耳に、可笑しさを堪えるような忍び笑いが聞こえてくる。
「ヴァンさっ、ん……タイミングが、良す……ぎますっ」
「おいっ、チビ!判定っ、してみろよ」
アニエスとアーロンは、目の端に涙を滲ませて込み上げてくる笑いを噛みしめていた。
真面目なフェリはというと。本人の前では悪いと必死に我慢をしているが、少し頬が引き攣っている。
そんな矢先に話を振られ、ソファーに沈んでいた尻が飛び跳ねた。
「え!?」
二人からの視線を受けて口をぱくぱくさせる。
「えっと……」
つまりは、ヴァンがハードボイルドが似合う男かどうか?ということだ。
話の流れが飲み込めない彼を上目遣いで覗う。
助手たちを眺めている表情はやや困惑気味だが、それでも物腰は柔らかくて温かみがあった。
「あの……ヴァンさんはちょっと可愛いので、違うと思います」
フェリはしばらく逡巡していたが、やがてハッキリとそう言った。
彼女は自分の心に素直だった。
だから、ヴァンを落胆させてしまうのが分かっていても、嘘や誤魔化しはできなかった。
今日は特に急を要する依頼などは入っていなかった。
このまま業務を終えようかという雰囲気になりかけたが、所長の鼻が何かを感じ取ったらしい。
そんなわけで、事務所を出た彼らは各地区の掲示板を見て回ることにした。
先刻まで年下の助手たちに散々弄られていたヴァンだったが、なんとか気持ちを切り替えて今は雑踏の街中を歩いている。
しかし、本人は仕事モードになっているつもりが、時折ぶつくさと不満げな呟きを漏らしていた。
それを面白そうに眺めやっていたアーロンが、遠慮なくつついてくる。
「良かったなぁ、所長さん。これで遠慮なく諦められるじゃねぇか」
彼にはオンもオフも関係ない。どんな時でもヴァンに絡むのは楽しいものだ。
「蒸し返すんじゃねぇ。ったく、折角立て直したっつーのに」
「どこがだよ」
傍から見れば全く立ち直っていない男に対し、弾む声でツッコミを入れる。
時計の針は午後もだいぶ回った時間帯を指していた。
遠慮がない応酬を繰り返しながら、タイレル地区のメインストリートを進む。
次第に賑わいが増してくる街の中、それはすぐに掻き消えていく些細な言葉たちだ。
「……はぁ、まさかフェリにまで」
ジェラートの屋台を物欲しげな流し目で通り過ぎ、ヴァンが小さな溜息を吐く。
映画館付近で手前の道を曲がり、少し落ち着いた界隈に差し掛かった頃。
いい加減諦めたのか、彼の口からは開けっぴろげな愚痴が零れ始めた。
その雰囲気から察するに、結構な引きずり具合だ。
ここまでくると、アーロンにとっては玩具の対象ではなくなってしまう。
どちらかといえば、鬱陶しい部類に入ってくる。
そもそも、ハードボイルドに憧れている件で茶化されるのはお約束で、本心はどうあれ耐性が付いているはずなのだ。
「今更だろうが。意外でもなんでもねぇ」
彼は面倒くさそうに眉を顰めて吐き捨てた。
「でもよ……小さなあいつにまで『可愛い』とか、そりゃねぇだろ」
その直後、予想外な言葉を返され一瞬だけ目を丸くする。
「あー、そっちかよ」
ヴァンが沈み込んでいる原因は、かなりのピンポイントだったらしい。
それを理解した途端、アーロンの態度が一変した。すぐにからかい混じりの笑みが浮かび上がってくる。
「大人の男の矜持ってやつ?ははっ、似合わねぇな」
「うるせぇ」
メインストリートを一歩逸れてしまえば、雑多な賑わいもいくらか薄くなっていく。
二人のやり取りは相変わらずだったが、今度は掻き消されることなく路地の壁に反響した。
ヴァンは気にも留めず、ひっそりと佇む掲示板の前で立ち止まる。
真剣な面持ちで依頼の有無をチェックする姿に、アーロンは多少なりとも浮上したのかと思ったのだが、
「まぁ……あれだな。お前の口からは絶対出てこねぇから、その点は安心だぜ」
全くそんなことはなく、声音は明るいながらもまだまだ引きずっている様相だ。
「想像しただけでも気持ち悪ぃからなぁ~。俺に『可愛い』とか言ってくるの」
しかし、アーロンにとっては、その態度が煽り意外のなにものにも見えなかった。
「おい、随分と盛大な前振りだな。言って欲しいのかよ?」
「そんなわけねぇだろうが!」
まさかそうくるとは思わず、ヴァンが反射的に声を上げる。
掲示板から視線を外して助手の方を向けば、やたらに挑戦的な顔とぶつかった。
少しの間、互いに無言で睨み合う。
「なんなら、言ってやってもいいぜ」
先に口火を切ったのはアーロンの方だった。
絶対できないと言われれば、元来の勝ち気さが剥き出しになる。
少しだけ顎を引き上げ、目の前に立っている男を見据える。
けれど、強い口調とは裏腹。勝ち気な金色の奥底がわずかに揺らいでいた。
元からふてぶてしい振る舞いが多い彼のこと、そんな言葉がすんなり出てくるはずがない。
ましてや、公衆の行き交う街頭での対面状態だ。
開きかけた唇からは息だけが零れ、不承不承で噛みしめながら顔を歪ませる。
「強がってんじゃねぇよ、ガキ」
そんなアーロンの気質を、ヴァンはしっかりと把握しているようだった。
喉の奥に籠もった苦笑が、年上の余裕を形作る。
「ま、どう頑張っても無理だしな」
事務所での一件からこの方、弄られまくっているお返しとばかりに鼻で笑ってみせた。
「──っ、てめぇ!」
これにはアーロンもカッとなった。
勢い任せにヴァンの胸ぐらを掴み、至近距離での眼光が轟く。
再度、二人は見合う形になった。
メインストリートに比べれば落ち着いている界隈とはいえ、人通りがゼロなわけではない。
外野から見れば険悪なムードには違いなく、興味深げな視線たちがまばらに通り過ぎていく。
それに憚ることもなく、アーロンは数拍の間を置いてから低く唸った。
「別に今じゃなくていい……今夜、空けておけ」
「は?ヤってる最中なら言えるって?」
唐突な言葉にヴァンは瞠目したが、すぐにその意味を察した。臆するどころか挑発を交えて応答する。
「面白ぇ。言えるもんなら言ってみろ」
ヴァンは恋人であるアーロンの性格を知り尽くしている『つもり』だった。
後に自分の言動を後悔する羽目になるなど、今の彼には知る由もなかった。
常夜灯だけが仄めく部屋の中、乱れたベッドのシーツに呪詛紛いの声が染み込んでいく。
「……ありえねぇ……マジでありえねぇ……」
大の男が蓑虫のごとく全身に毛布を巻き付けて寝転がっている。
ベッドサイドに座っているアーロンは、辛うじて見えている紺青の頭に向かって勝ち誇った。
「ナメてんじゃねぇよ。オッサン」
情事の余韻はどこへやら。まるで子供同士の喧嘩に白黒が付いた時のようだ。
「自業自得ってやつだろ?」
それほど時間が経ってるわけでもなく、彼の目には驚愕と羞恥で発火したヴァンの表情が焼き付いている。自然と頬が緩んでしまうのを止められなかった。
「うるせぇ……ただの負けず嫌いじゃねぇか。心にもないことを吐きやがって」
くぐもった恋人の愚痴は相変わらずそっぽを向いているが、その一言にアーロンは引っかかりを覚えた。
「心にもねぇ……か」
ヴァンは昼間からそう断言し続けていたのだから、彼にしてみれば本心からの言葉なのだろう。
けれど、アーロンの方は心にもないどころか大ありだった。
女を相手に遊びで囁く睦言とは、似ているようでまるで違う。
ヴァンに対してはひねくれた物言いが通常運転の彼だが、根底には真っ直ぐで強い恋情がある。
たとえ煽られて逆上したとしても、その場限りの高ぶりで『思ってもいないこと』を言えるはずがなかった。
「勝手に決めつけんじゃねぇ」
苦々しい呟きは誰に聞かせるわけでもなく、独り言のように四散して消えた。
その後、しばらく無言で佇んでいたアーロンだったが、少し肌寒さを感じ始めたのか身震いをした。
おもむろにベッドへ乗り上げ、ヴァンが包まっている毛布の端を強引に引っ張ってみる。
「あっ、てめぇっ、何してやがる!」
「寒いんだよ。いい加減、独り占めはやめろ」
彼は抵抗してくる四肢を軽くいなし、ずっと隠れていた男の全身を遠慮なく暴きにかかった。
図らずも上から覆い被さる体勢になり、二人分の重みを受けたシーツの海で恋人と対峙する。
まだ──顔に灯った火が燻っていた。
それはこの薄暗さでも誤魔化しが効かないくらいに鮮明で、思わず目を奪われる。
「……可愛いツラしやがって」
揶揄することも忘れ、意地悪げな笑みさえも浮かべられなかった。
ただ、率直な想いが滑らかに唇を流れ落ちる。
「なっ、何度も言うんじゃねぇ……」
存外に真摯な瞳で見下ろされ、ヴァンはしどろもどろで視線を彷徨わせた。
とてもじゃないが、吐息が交わりそうなこの距離では平静さを保てない。
こんな状況に追い込まれるくらいなら、まだ弄られている方が何倍もマシな気がした。
今は何も見たくない、何も聞きたくない。ヴァンは強く思った。
このまま羞恥心だけが嵩み続ける前に、五感の全てを閉ざしてしまいたかった。
2023.02.07畳む