ランディ×ロイド
今はお預け
恋人設定
戦いの熱に当てられたロイドが自分の方からランディに仕掛ける話。
【文字数:4300】
静まりかえった暗い森の中から二人分の目が覗く。
茂った木々の先は拓け、そこにはいかにも不審な建物があった。
元は廃工場だったとのことらしいが、今は随分と物々しい雰囲気だ。
可動式のサーチライトが一定の間隔で辺りを照らしている。
ランディはその動きを観察していたが、しばらくして光源から視線を逸らした。
「……ったく。なんで一課のヤマに俺たちが駆り出されてんだか」
真剣な顔から一転、砕けた口調で木に寄りかかって座っている。
「文句言うなよ。それだけダドリーさんが認めてくれてるってことだろ」
彼の向かいで立て膝を付いているロイドが相棒をたしなめた。
今回の任務はテロ行為を企てている武装組織の強制捜査──もとい、無力化と鎮圧だ。
クロスベルの裏社会は長年ルバーチェの存在があり、一種の治安が保たれていた。
それがなくなった今、この界隈では黒月が勢力を広めているが、それ以外にも大小様々な組織が活発に動き始めている。
今夜のターゲットもそんな組織の中の一つだった。
作戦開始までにはまだ少し時間があり、待機しているランディの愚痴が続く。
「こき使うなら、特別手当でも寄こせって」
「そんなの出るわけないだろ」
「いや、いや。俺はそれなりの対価は必要だと思うぜ」
元猟兵として報酬に見合った仕事をしていた彼らしい言葉だ。
「俺に交渉してこいとか言うなよ?行かないからな」
やる気がなさそうな口振りだが、その声は明るい。
久しぶりに血が騒いでいるのかもしれない、とロイドは思った。
ランディにしてみれば、この程度のミッションは子供の遊びと同じようなものだ。
それでも魔獣相手の時とは違い、対人戦であるがゆえの独特な空気が漂う。
再び建物の様子を覗う彼を、ロイドがちらりと盗み見た。
静かで余裕がある男の横顔は、自然と安心感を与えてくれる。
しかし、裏を返せばそれだけ自分が不安と緊張を抱えているということにもなる。
こういった状況の場数はそれなりに踏んでいるが、どうしても身体が固くなっていくのが止められなかった。
「……思ったより内部は暗そうだな。でも、見取り図は頭に叩き込んだし」
ロイドは今回の作戦の段取りを反芻し、独り言のように呟き始めた。
それが耳に入ってきたランディは思わず苦笑いをする。
(あ~あ、ガチガチじゃねぇかよ)
声だけでも緊張の様子が伝わってくる。
彼は腰をかがめながら相手に近寄り、気安く茶色の頭に片手を乗せた。
「なぁ、ロイド。ちょいとお兄さんからの頼みごと聞いてほしいんだけど」
「なんだよ、こんな時に」
わざとらしく前置きをしながら髪の毛を何度か掻き混ぜると、真面目な相棒が眉を顰めた。
「景気づけにキスの一つでもくれよ」
暗闇の中、光の軌跡が反射している翡翠色が戯けて笑った。
とても作戦前とは思えない緩さを見せられ、ロイドは呆気にとられてしまう。
戦場に慣れ親しんできた故の感覚なのか、まるで普段と変わらない言動だ。
「バカ。ふざけてる場合じゃないだろ」
「──少しはほぐれたか?お前さん、さっきから力みまくってんぞ」
ようやく声が出たロイドに対し、年長の男はやんわりと指摘をした。
適度な緊張感は必要だが、強すぎるそれは逆に悪影響を及ぼしかねない。
下手をすれば命に関わることもある。
「……あっ」
ロイドはハッとして目を瞬かせた。
傍からでも分かってしまうくらいに固まっていたのだと実感させられる。
それと同時に、自然と肩の力が抜けていくのが分かった。
「それで?キスはくれねぇの?」
そんな彼の変化に安堵したランディは、ふざけたついでに軽く迫ってみた。
今は全面に出ている相棒としての顔の下、隠れている恋人を掠め取りたい衝動に駆られる。
しかし、更に距離を詰めた瞬間、ロイドの手がランディの口元を塞ぎにかかった。
「今はお預けだ」
じゃれつく大型犬へ『待て』をかけるようなひと睨み。
「調子に乗って無茶しそうだからな」
そう短めに言い放ち、塞いだ手を離して一人分くらいの距離を取る。
ランディの要求を完全に拒否してもよかったのに、そうしたいとは思えなかった。
発端になった言葉は彼流の気遣いであって、この状況で側にいてくれることに嬉しさが募る。
けれど、やはりロイドは真面目だ。
作戦の直前にそんな行為ができるような性格ではなく、あんな風にしか言えなかった。
「おっ、よく分かってんな」
それを良く知るランディは、なんの未練もなくあっさりと身を引いた。
ただ、ロイドが譲歩してくれたことが意外すぎて、まだ何も貰えていない内から調子に乗りたくなってくる。
「でも、お預け食らうんならキスだけじゃ足りねぇな」
携帯している時計を確認すれば、作戦の開始まであと数分。
ランディがわずかに身を起こし、臨戦態勢に入った。
同調して愛用のトンファーを握りしめた相棒を一瞥し、ニヤリと笑う。
「なぁ、知ってた?戦場の高揚感と性欲って結構似てるんだぜ」
時計が開始時刻を刻んだ瞬間、敷地内で複数の大きな爆発音が響き渡る。
二人は味方の陽動を受けて建物に突入する手筈になっていた。
森の中から勢いよく踊り出したランディが、一直線に目的地へ向かう。
「そんなの知るか!お預けは前言撤回だ!」
彼の問題発言のせいで一瞬出遅れてしまったロイドは、活き活きとした背中に向けて怒鳴った。
そして、自らも戦いの場へと走り出した。
段取りは完璧だった。
陽動から突入、そして組織の鎮圧までの流れは滞りなく進んだ。
二人は鎮圧後の後始末の諸々まで手伝わされ、ようやく解放された時には夜も深まりきっていた。
街へと戻る導力車に乗せてもらい、入り口に降り立った直後にランディが脱力する。
「はぁ~、やっと終わったな。相変わらず人使いの荒いヤツらぜ」
支援課ビルに帰ってひと眠りする頃には朝日が昇ってきてしまいそうだ。
「お疲れ様、ランディ」
「あぁ、お前もな」
まだ静か街中を歩きながらロイドが労うと、お返しとばかりに大きな手が背中を叩いてきた。
「……っ!」
すると、大した衝撃でもないのに彼の肩が小さく跳ねた。
「なんだ?どっかやられてんのか?」
「あ、いや。ちょっと考え事してて……」
その反応に違和感を覚えたランディが問いかけたが、ロイドは驚いただけだと答える。
「ふ~ん。ま、徹夜みたいなもんだしな。ぼーっとしても仕方ねぇか」
赤毛の男は訝しげな瞳で相手の全身を舐め回したが、負傷ではないと分かってすぐに元の調子に戻った。
早朝になろうかという帰宅なこともあり、二人は西通りから裏口の方へ向かった。
最初からその予定で鍵を持ち出していたロイドは、ポケットの中を探る。
だが、指先がそれを捉えた瞬間に彼の足が止まった。
「なぁ、ランディ」
呼び止めると、数歩ほど距離が広がってしまった背中が振り返る。
「どうした?」
「俺さ……なんか、ちょっと分かった気がする」
ロイドはポケットの中の鍵を弄りながら口を開いた。
目線が下へ落ち、綺麗に舗装された地面を彷徨う。
「突入前に言ってた戦場の高揚感と……ってやつ」
あの時は随分とふざけたことを言うものだと思ったのだ。
けれど、怒号と銃声が飛び交う緊迫感の中で、確かに胸の奥で昂ぶる何かがあった。
それは身体を重ねた時に全身を巡る熱と似ているような気がする。
「あぁ、あれな。ちょっとは実感したとか?」
まさかその話題が出てくるとは思わず、ランディは内心驚いた。
あれはただの戯れ言というよりも、戦いを生業とする者であれば別に珍しくもない体感を述べただけだった。
彼の心中を図りかね、次にどう出るべきかと思案する。
探るような目を向ければ、ふと上向きになった強い視線とぶつかった。
「……キスぐらいならしてやってもいい」
どこかぶっきらぼうな声がランディの耳を打つ。
そこで彼は理解した。ロイドが何を欲しているのかを。
「なんだよ。撤回したんじゃなかったのか?」
珍しく遠回しな言い方をしているのが可笑しくて笑いが込み上げてきたが、それを見たロイドは膨れっ面になってしまった。
「そうだけど、そうじゃない」
ずっと密かに触れているだけだった鍵を握りしめると、手の平にじわりと汗が滲んだ。
このままでいるのが酷くもどかしい。
もしも一人だったら、気を紛らわせる方法なんていくらでも思い付いていたのだろう。
けれど、今は目の前に彼がいる。
そんな状況でこの熱っぽい疼きを静める手段は、たった一つしか知らなかった。
「訳わかんねぇこと言いやがって。素直じゃねぇな」
いつもの真っ直ぐさが形を潜めているのは、初めての感覚に戸惑っているからなのか。
立ち止まったまま一歩を踏み出してこない姿が、自然とランディの目元を緩ませる。
「ほら、裏口開けるんだろ?のんびりしてると朝になっちまう」
残夜もすぎ、いよいよ空も白み始めてくる頃合いだろう。
ランディが薄まる紺色を見上げながら急かし、ようやくロイドの足は動き出した。
西通りから支援課ビルへと続くわずかな道のりは、まるで情欲に急き立てられるようだった。
裏口の鍵を開け、やっと居心地の良い住処に帰ってきたはずなのに、肝心の心は落ち着かない。
「……なんで黙ってるんだよ」
ランディはさっきから無言のまま、薄暗い廊下を進むロイドに添っている。
立ち止まって上目遣いで睨んだ途端、意地悪げな笑みとぶつかった。
「お前、余裕なさそうだからさぁ。喋ってんの無駄だろ?」
「余計なお世話だ」
完全に見抜かれている。
声だけでなく、触れてこないのもそういう理由なのだろう。
この手のやり取りでは分が悪すぎて、つい悔しさが込み上げてくる。
やられてばかりなのは癪だと、ロイドはさっきの言葉を実行に移す為に手を伸ばした。
相手の胸ぐらを掴んで顔を引き寄せ、強引に唇を重ねてみせる。
これで歯止めが利かなくなるのは承知の上だった。
「いきなり突撃してくんなよ。ギリギリまで抑えてやろうかと思ってたのに」
廊下の真ん中で口火を切ってきた彼に対し、ランディが皮肉めいた言葉を吐く。
どうやら一切の気遣いは不要なようだ。
真っ向から見据えてくる瞳が官能的な火を灯し、こんな煽られ方も悪くないとさえ思う。
「ほら、さっさとこいよ」
ロイドの腕を捉え、自分の部屋へ引きずり込む彼の動きに遠慮はなかった。
『待て』をしたはずの大型犬が、猛々しい獣に変貌する様を見た。
部屋に入って早々、上着を脱いでソファーの上に投げ捨てる。
後ろで束ねている髪を勢いよく解き、頭を振った後で赤が乱れた。
「そっちだって……余裕がないくせに」
その姿はロイドの高揚を加速させ、憎まれ口を叩く声が吐息混じりで揺れる。
「あぁ?お前のせいじゃねぇかよ」
二人してもつれるようにして転がり込んだベッドの上は、熱を帯びてはいても甘ったるい空気とは程遠かった。
互いに微かな火薬と粉塵の匂いを纏わせ、戦いの名残を共有する。
ロイドは「分かった気がする」という言い方を訂正したくなった。
気がするのではなく──今、それを完全に理解した。
2021.09.18畳む
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戦いの熱に当てられたロイドが自分の方からランディに仕掛ける話。
【文字数:4300】
静まりかえった暗い森の中から二人分の目が覗く。
茂った木々の先は拓け、そこにはいかにも不審な建物があった。
元は廃工場だったとのことらしいが、今は随分と物々しい雰囲気だ。
可動式のサーチライトが一定の間隔で辺りを照らしている。
ランディはその動きを観察していたが、しばらくして光源から視線を逸らした。
「……ったく。なんで一課のヤマに俺たちが駆り出されてんだか」
真剣な顔から一転、砕けた口調で木に寄りかかって座っている。
「文句言うなよ。それだけダドリーさんが認めてくれてるってことだろ」
彼の向かいで立て膝を付いているロイドが相棒をたしなめた。
今回の任務はテロ行為を企てている武装組織の強制捜査──もとい、無力化と鎮圧だ。
クロスベルの裏社会は長年ルバーチェの存在があり、一種の治安が保たれていた。
それがなくなった今、この界隈では黒月が勢力を広めているが、それ以外にも大小様々な組織が活発に動き始めている。
今夜のターゲットもそんな組織の中の一つだった。
作戦開始までにはまだ少し時間があり、待機しているランディの愚痴が続く。
「こき使うなら、特別手当でも寄こせって」
「そんなの出るわけないだろ」
「いや、いや。俺はそれなりの対価は必要だと思うぜ」
元猟兵として報酬に見合った仕事をしていた彼らしい言葉だ。
「俺に交渉してこいとか言うなよ?行かないからな」
やる気がなさそうな口振りだが、その声は明るい。
久しぶりに血が騒いでいるのかもしれない、とロイドは思った。
ランディにしてみれば、この程度のミッションは子供の遊びと同じようなものだ。
それでも魔獣相手の時とは違い、対人戦であるがゆえの独特な空気が漂う。
再び建物の様子を覗う彼を、ロイドがちらりと盗み見た。
静かで余裕がある男の横顔は、自然と安心感を与えてくれる。
しかし、裏を返せばそれだけ自分が不安と緊張を抱えているということにもなる。
こういった状況の場数はそれなりに踏んでいるが、どうしても身体が固くなっていくのが止められなかった。
「……思ったより内部は暗そうだな。でも、見取り図は頭に叩き込んだし」
ロイドは今回の作戦の段取りを反芻し、独り言のように呟き始めた。
それが耳に入ってきたランディは思わず苦笑いをする。
(あ~あ、ガチガチじゃねぇかよ)
声だけでも緊張の様子が伝わってくる。
彼は腰をかがめながら相手に近寄り、気安く茶色の頭に片手を乗せた。
「なぁ、ロイド。ちょいとお兄さんからの頼みごと聞いてほしいんだけど」
「なんだよ、こんな時に」
わざとらしく前置きをしながら髪の毛を何度か掻き混ぜると、真面目な相棒が眉を顰めた。
「景気づけにキスの一つでもくれよ」
暗闇の中、光の軌跡が反射している翡翠色が戯けて笑った。
とても作戦前とは思えない緩さを見せられ、ロイドは呆気にとられてしまう。
戦場に慣れ親しんできた故の感覚なのか、まるで普段と変わらない言動だ。
「バカ。ふざけてる場合じゃないだろ」
「──少しはほぐれたか?お前さん、さっきから力みまくってんぞ」
ようやく声が出たロイドに対し、年長の男はやんわりと指摘をした。
適度な緊張感は必要だが、強すぎるそれは逆に悪影響を及ぼしかねない。
下手をすれば命に関わることもある。
「……あっ」
ロイドはハッとして目を瞬かせた。
傍からでも分かってしまうくらいに固まっていたのだと実感させられる。
それと同時に、自然と肩の力が抜けていくのが分かった。
「それで?キスはくれねぇの?」
そんな彼の変化に安堵したランディは、ふざけたついでに軽く迫ってみた。
今は全面に出ている相棒としての顔の下、隠れている恋人を掠め取りたい衝動に駆られる。
しかし、更に距離を詰めた瞬間、ロイドの手がランディの口元を塞ぎにかかった。
「今はお預けだ」
じゃれつく大型犬へ『待て』をかけるようなひと睨み。
「調子に乗って無茶しそうだからな」
そう短めに言い放ち、塞いだ手を離して一人分くらいの距離を取る。
ランディの要求を完全に拒否してもよかったのに、そうしたいとは思えなかった。
発端になった言葉は彼流の気遣いであって、この状況で側にいてくれることに嬉しさが募る。
けれど、やはりロイドは真面目だ。
作戦の直前にそんな行為ができるような性格ではなく、あんな風にしか言えなかった。
「おっ、よく分かってんな」
それを良く知るランディは、なんの未練もなくあっさりと身を引いた。
ただ、ロイドが譲歩してくれたことが意外すぎて、まだ何も貰えていない内から調子に乗りたくなってくる。
「でも、お預け食らうんならキスだけじゃ足りねぇな」
携帯している時計を確認すれば、作戦の開始まであと数分。
ランディがわずかに身を起こし、臨戦態勢に入った。
同調して愛用のトンファーを握りしめた相棒を一瞥し、ニヤリと笑う。
「なぁ、知ってた?戦場の高揚感と性欲って結構似てるんだぜ」
時計が開始時刻を刻んだ瞬間、敷地内で複数の大きな爆発音が響き渡る。
二人は味方の陽動を受けて建物に突入する手筈になっていた。
森の中から勢いよく踊り出したランディが、一直線に目的地へ向かう。
「そんなの知るか!お預けは前言撤回だ!」
彼の問題発言のせいで一瞬出遅れてしまったロイドは、活き活きとした背中に向けて怒鳴った。
そして、自らも戦いの場へと走り出した。
段取りは完璧だった。
陽動から突入、そして組織の鎮圧までの流れは滞りなく進んだ。
二人は鎮圧後の後始末の諸々まで手伝わされ、ようやく解放された時には夜も深まりきっていた。
街へと戻る導力車に乗せてもらい、入り口に降り立った直後にランディが脱力する。
「はぁ~、やっと終わったな。相変わらず人使いの荒いヤツらぜ」
支援課ビルに帰ってひと眠りする頃には朝日が昇ってきてしまいそうだ。
「お疲れ様、ランディ」
「あぁ、お前もな」
まだ静か街中を歩きながらロイドが労うと、お返しとばかりに大きな手が背中を叩いてきた。
「……っ!」
すると、大した衝撃でもないのに彼の肩が小さく跳ねた。
「なんだ?どっかやられてんのか?」
「あ、いや。ちょっと考え事してて……」
その反応に違和感を覚えたランディが問いかけたが、ロイドは驚いただけだと答える。
「ふ~ん。ま、徹夜みたいなもんだしな。ぼーっとしても仕方ねぇか」
赤毛の男は訝しげな瞳で相手の全身を舐め回したが、負傷ではないと分かってすぐに元の調子に戻った。
早朝になろうかという帰宅なこともあり、二人は西通りから裏口の方へ向かった。
最初からその予定で鍵を持ち出していたロイドは、ポケットの中を探る。
だが、指先がそれを捉えた瞬間に彼の足が止まった。
「なぁ、ランディ」
呼び止めると、数歩ほど距離が広がってしまった背中が振り返る。
「どうした?」
「俺さ……なんか、ちょっと分かった気がする」
ロイドはポケットの中の鍵を弄りながら口を開いた。
目線が下へ落ち、綺麗に舗装された地面を彷徨う。
「突入前に言ってた戦場の高揚感と……ってやつ」
あの時は随分とふざけたことを言うものだと思ったのだ。
けれど、怒号と銃声が飛び交う緊迫感の中で、確かに胸の奥で昂ぶる何かがあった。
それは身体を重ねた時に全身を巡る熱と似ているような気がする。
「あぁ、あれな。ちょっとは実感したとか?」
まさかその話題が出てくるとは思わず、ランディは内心驚いた。
あれはただの戯れ言というよりも、戦いを生業とする者であれば別に珍しくもない体感を述べただけだった。
彼の心中を図りかね、次にどう出るべきかと思案する。
探るような目を向ければ、ふと上向きになった強い視線とぶつかった。
「……キスぐらいならしてやってもいい」
どこかぶっきらぼうな声がランディの耳を打つ。
そこで彼は理解した。ロイドが何を欲しているのかを。
「なんだよ。撤回したんじゃなかったのか?」
珍しく遠回しな言い方をしているのが可笑しくて笑いが込み上げてきたが、それを見たロイドは膨れっ面になってしまった。
「そうだけど、そうじゃない」
ずっと密かに触れているだけだった鍵を握りしめると、手の平にじわりと汗が滲んだ。
このままでいるのが酷くもどかしい。
もしも一人だったら、気を紛らわせる方法なんていくらでも思い付いていたのだろう。
けれど、今は目の前に彼がいる。
そんな状況でこの熱っぽい疼きを静める手段は、たった一つしか知らなかった。
「訳わかんねぇこと言いやがって。素直じゃねぇな」
いつもの真っ直ぐさが形を潜めているのは、初めての感覚に戸惑っているからなのか。
立ち止まったまま一歩を踏み出してこない姿が、自然とランディの目元を緩ませる。
「ほら、裏口開けるんだろ?のんびりしてると朝になっちまう」
残夜もすぎ、いよいよ空も白み始めてくる頃合いだろう。
ランディが薄まる紺色を見上げながら急かし、ようやくロイドの足は動き出した。
西通りから支援課ビルへと続くわずかな道のりは、まるで情欲に急き立てられるようだった。
裏口の鍵を開け、やっと居心地の良い住処に帰ってきたはずなのに、肝心の心は落ち着かない。
「……なんで黙ってるんだよ」
ランディはさっきから無言のまま、薄暗い廊下を進むロイドに添っている。
立ち止まって上目遣いで睨んだ途端、意地悪げな笑みとぶつかった。
「お前、余裕なさそうだからさぁ。喋ってんの無駄だろ?」
「余計なお世話だ」
完全に見抜かれている。
声だけでなく、触れてこないのもそういう理由なのだろう。
この手のやり取りでは分が悪すぎて、つい悔しさが込み上げてくる。
やられてばかりなのは癪だと、ロイドはさっきの言葉を実行に移す為に手を伸ばした。
相手の胸ぐらを掴んで顔を引き寄せ、強引に唇を重ねてみせる。
これで歯止めが利かなくなるのは承知の上だった。
「いきなり突撃してくんなよ。ギリギリまで抑えてやろうかと思ってたのに」
廊下の真ん中で口火を切ってきた彼に対し、ランディが皮肉めいた言葉を吐く。
どうやら一切の気遣いは不要なようだ。
真っ向から見据えてくる瞳が官能的な火を灯し、こんな煽られ方も悪くないとさえ思う。
「ほら、さっさとこいよ」
ロイドの腕を捉え、自分の部屋へ引きずり込む彼の動きに遠慮はなかった。
『待て』をしたはずの大型犬が、猛々しい獣に変貌する様を見た。
部屋に入って早々、上着を脱いでソファーの上に投げ捨てる。
後ろで束ねている髪を勢いよく解き、頭を振った後で赤が乱れた。
「そっちだって……余裕がないくせに」
その姿はロイドの高揚を加速させ、憎まれ口を叩く声が吐息混じりで揺れる。
「あぁ?お前のせいじゃねぇかよ」
二人してもつれるようにして転がり込んだベッドの上は、熱を帯びてはいても甘ったるい空気とは程遠かった。
互いに微かな火薬と粉塵の匂いを纏わせ、戦いの名残を共有する。
ロイドは「分かった気がする」という言い方を訂正したくなった。
気がするのではなく──今、それを完全に理解した。
2021.09.18畳む
秘密の観察手帳
創・恋人設定
ロイドの手帳を拾ったランディが勘違いをして嫉妬してしまう話。
【文字数:10000】
何気なく円庭を歩いていたランディは、通路の端に何かが落ちているのを見つけた。
「なんだ……これ?」
それは手帳のようで、拾い上げた手に収まるくらいに小さい。
表紙には何も書かれておらず、一見して持ち主が分かる状態ではなかった。
すぐ側にはテーブルと椅子が設置されている。座っていた誰かが落としたのかもしれないが、今は空席になっていた。
ランディは辺りを見回してから小さな息を吐く。
「聞いて回るしかねぇか」
さすがに中身を確認することは憚られる。
この閉ざされた空間での落とし物なら、持ち主は必ずいるはずだ。
面倒なのには違いないが、片っ端から声をかけていくのが手っ取り早いだろう。
運が良ければすぐに見つかるかもしれない。
そんな淡い期待を抱きつつ、彼は手帳を手に歩き出した。
下層を一巡りし、もう結構な人数に声をかけたような気がする。
当の本人でなくても持ち主を知る人くらいは見つかっても良さそうだが、皆が揃いも揃って首を横に振ってくる。
「ここまで聞いて成果なしとか、ありえねぇだろ」
今度は上層へ移動しようと、愚痴を零しながら螺旋階段を上り始めた。
「あれ?どうしたんだい?」
そこへ、上から涼やかな青年の声が降ってきた。
数段の間を取り、軽く腕組みをして相手を覗う。
「君、なんだか疲れた顔してるね」
「あー、ワジか。なんか落とし物拾っちまってさぁ……持ち主探してんだよ」
バッタリと会った人物が身内だったこともあり、ランディは取り繕おうともしなかった。
「落とし物?……あぁ、その手帳のこと?」
急にだらけた彼の手に目を留め、ワジは黄金の双眸に可笑しげな色を滲ませる。
「それって、ロイドのだよね」
「──はぁ!?」
まさに寝耳に水だった。咄嗟に二の句が継げなくなる。
「いつもは捜査手帳に挟んでるんじゃないかな」
確かにこの大きさだったら、彼の推測通りかもしれない。
ランディは小振りの手帳に視線を寄せてやっと声を押し出した。
「つまりは隠してるってことか……なんでお前は知ってるんだよ?」
「偶然見かけただけさ。中身は教えてくれなかったけどね」
面白くないと眉を顰めた彼を気にするでもなく、ワジは軽やかに答えた。
「あぁ、ノエルも見かけたとか言ってたかな。一人で楽しそうに何か書いてたって」
更なる情報を放り投げてみると、赤毛の男は穴が開く程に手帳を見つめ始めてしまった。
「ロイドならもうすぐ戻ってくるんじゃない?事情はどうあれ、ちゃんと返してあげないとね」
そんな彼の肩を一つ叩き、ワジはどこか意地悪げで綺麗な笑みを浮かべながら階段を降りていく。
「……楽しそうって何だよ?」
次第に遠退く足音は耳を流れ去り、立ち止まったままのランディは不満げに呟いた。
胸の奥に言いようのないわだかまりが広がっていくのを感じた。
螺旋階段を降りたワジは、視線の先にノエルの姿を見つけた。
彼女はエリィと談笑しているようで、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「やぁ、二人とも。なんだか面白いことになりそうだよ」
意味ありげな呼びかけをしながら話の輪に入ると、
「あ、ワジ君……って、うわっ、なにその笑い方」
ノエルには後ずさりをされたが、エリィの方はすぐに察したようだった。
「またロイドたちを引っかき回してきたの?」
特務支援課の中では、相棒同士である彼らのもう一つの関係性は周知の事実だ。
そんな二人を玩具代わりにするのは、ワジの楽しみでもある。
「聞き捨てならないね。僕は情報を提供してあげただけさ」
彼は悪びれもせず、事の成り行きを同僚たちに説明してみせた。
「あの手帳……ランディは知らなかったのね」
「その言い方だと、エリィも知ってるんだ」
「えぇ。私もティオちゃんも何度か見たことはあるけれど、中身は頑なに教えてくれないのよね」
エリィは細い顎に綺麗な指を当て、考え込むような仕草をする。
「それにしても、ランディ先輩だけ見たことがないって……わざと隠してるんでしょうか?」
ノエルも腕を組んで難しい顔を浮かべた。
「だろうね。それなら彼がらみの内容かな」
「ロイドったら、肝心な所で脇が甘いのよね。タダでさえ隠し事が苦手なのに」
普段は頼りがいのある支援課のリーダーだが、自分のことになると、途端に墓穴を掘りまくってしまう。
呆れ顔を隠しもせず、エリィは美しい銀髪を優雅に掻き上げた。
「……中身は確実に見られてしまうわね」
更に続いた言葉は予想などではなく確信めいていて、ワジとノエルも深く頷いた。
一方、その頃。
ランディは不誠実な誘惑と葛藤していた。
階段を上りきった後、人気のない一画を見つけて外壁に寄りかかる。
もちろん、拾った物は持ち主に返すつもりだ。
ロイドは夢幻回廊を探索中だが、ワジも言っていた通りそろそろ戻ってくる頃合いだろう。
彼の反応はどうあれ、当たり障りのない軽い調子ですぐに返してしまえばいい。
それが最良だと分かっているのに、どうしても感情が付いてこなかった。
ワジからもたらされた情報が、ぐるぐると頭の中を回る。
あの話しぶりだったら、他の同僚たちも手帳の存在を知っている可能性がある。
なのに、どうして一番身近にいるはずの自分が知らないのか?
書いている姿どころか、それを手に持っているのすら見たことがない。
「……俺に対して隠してんのか?」
そう勘繰ってしまうのも仕方がない状況だ。
「しかも楽しそうとか……」
考えれば考えるほど胸中に黒い霧が立ちこめ、手帳の内容が気になってしまう。
『ロイドが自分に隠れて楽しそうにしてる』
単純に言えばそういうことだ。
公私に渡り親密な間柄であるランディにしてみれば、中身を盗み見る動機としては十分だった。
彼は無断で人の秘密を暴くことに罪悪感を覚えながらも、手帳の表紙に手をかけた。
「……悪ぃな」
一度だけ逡巡し、小さく頭を振る。
良心の呵責に耐えかね、今は不在のロイドへ謝った後、慎重に最初の頁をめくった。
──間近で見ると余計にカッコよく見える
それは確かにロイドの筆跡だった。
目に飛び込んできた一文は普段よりも少し崩れている。
どこか浮かれているような雰囲気があり、ランディは少しばかり面食らった。
──ブレードの切れ味すごくて見惚れそう
小振りな手帳なので一頁の行数は少ないが、そこに隙間なく書かれているわけではなく、箇条書きのように気持ちを連ねている。
頁をめくっても好意的な表現は続き、思わず顔を歪めた。
「誰のこと言ってんだ?」
どうやら一緒に戦っている仲間のことを書いているようだ。しかも、全て同じ人物ではないかと思わせる部分が多々ある。
──あの銃撃音って耳にくるけど、頼もしくて落ち着くんだよな
次第に不愉快さが増していく中、ランディはこの文章たちに該当する『誰か』を探し始めた。
脳内で候補を挙げては外すを繰り返しながら、手帳の先を読み進める。
──とっておきじゃなくなったことが嬉しいんだ
少し内容が変わってきた。
相変わらず楽しげにカッコイイを連発しているが、時折しみじみとした顔を見せてくる。
「あー、くそっ、わけわかんねぇ」
人物の詳細が出てこないどころか、逆に答えから遠退いているような気がしてきた。
ランディは苛立たしげに前髪を掻き上げる。
それでも、頁をめくる手は止まらない。ここまでくれば最後まで見てやろうと、半ばやけくそ気味だった。
──あれを防ぎきるなんて、やっぱ強くて頑丈で惚れ惚れする。でも、あんまりやって欲しくないって……矛盾してるな。あの時みたいに壊れる所は二度と見たくないんだ
ふと、珍しく長い一文が目に留まった。
普段通りの冷静さがあれば、それが決定的な文言になるはずだった。
しかし、疑念と嫉妬を抱えて盲目的な思考から抜け出せない。
最初から『誰か』を探し、人物以外の可能性に思い当たりもしなかった。
「……あのバカ。どんだけ惚れてんだよ」
気にはなったものの、今の彼にとっては火に油を注ぐような文字の羅列だ。
忌々しげに吐き捨てながら、指で乱暴に紙面を弾く。
結局ランディは答えを掴めないまま、ロイドが綴った文章を全て読み終えた。
落とし物を返すことよりも、彼を問い詰めることの方が優先事項になってしまっていた。
夢幻回廊を探索していたメンバーたちが戻ってきた。
リーダーを任されていたロイドが解散を告げると、皆が思い思いの場所へと散っていく。
それを見送った彼は、近くの空いている席に腰を下ろした。
テーブルに愛用のトンファーを置き、ポケットから取り出した布で丁寧に磨き始める。
『武器っていうのは、磨いてやるだけでも随分と違うもんだぜ』
いつだったか、ランディがそんなことを言っていた。
相棒として肩を並べる今となっても、戦士としての意識の高さに学ぶべきことは多い。
「最近は一緒に戦えてなくて寂しいな」
頼りがいのある大きな背中を思い浮かべ、ポツリと言葉通りの感情が零れ落ちた。
「──誰と戦えなくて寂しいって?」
すると、不意に上から影が落ちてきた。
自分の世界に没入していたせいか、まったく気配に気が付かなかった。
耳に馴染んでいるはずの声は低く重い響きを伴い、ロイドが驚いて顔を上げる。
「ラ、ランディ……?」
剣呑さをはらんだ瞳に見下ろされ、唖然として口が半開きになる。
どこからどう見ても、怒っているとしか形容できない表情だった。
(な、なんで?俺、何かしちゃったか?)
記憶を辿っても身に覚えがなく、頭の中が混乱する。
そんな彼の前に何かが突き出された。
「これについて、聞かせてもらおうじゃねぇか」
「あ!そ、それ……!?」
ロイドはこれでもかと言わんばかりに目を見開いた。
慌てて上着から捜査手帳を取り出して開いたが、本来ならそこに挟まっている物がない。その瞬間、一気に冷や汗が流れ落ちた。
「落としたことにも気が付かなかったのかよ。間抜けなヤツだな」
ランディは棘のある言葉を浴びせつつ、真向かいの席に足を組んで座った。
それから持っていた手帳をテーブルの上に置き、指先で不快げに数回叩く。
「で、色々と楽しいことが書いてあったんだが?」
「勝手に見たのかよ!?」
「それに関しちゃ悪いとは思ってる。けど、気になる情報を貰っちまったもんでな」
ロイドは手帳の中身を見られてしまったことを知り、声を荒立てた。
これについてはランディの方に全面的な非があるので、本人も素直に認める形だ。
けれど、だからといって今の感情が収まるわけではなく、その眼光は険しい。
「そんなにお熱い視線を送ってるヤツがいるとは知らなかったぜ」
「──え?」
あくまで静かな口調は鋭利な刃のようで、聞いた途端に背筋が寒くなる。
しかし、そんな言葉の端に疑問を感じ、ロイドは不思議そうに相手を見返した。
「今、なんて……」
「単刀直入に聞く。そいつは誰だ?」
ランディの方にはその声に耳を傾けるほどの余裕はなく、一方的に自分の嫉妬だけを突き付けてくる。
「誰って……なに言ってんだよ。手帳、見たんじゃないのか?」
明らかに勘違いをしている。それに気が付いたロイドは困惑を隠せなかった。
そもそも、彼に対してこの手帳の存在を徹底的に隠していたのは、見られたらすぐに分かってしまうと思ったからだ。
そうなれば確実に弄られる。まさか、怒るとは予想していなかったが。
「ほんとに、ほんとに分からないのか?」
「こっちは分かんねぇから聞いてんだよ」
嘘だろ?と言いたげなロイドに向かって、強い声が投げつけられた。
見えない相手に牙を向けているランディの思考は頑なで、考え直してくれる余地はなさそうだ。
このまま平行線に陥ってしまうは避けたいと、ロイドは躊躇いながらも仕方なく口を開いた。
「……それ、ベルゼルガーのこと」
未だ相手の手元にある手帳から気まずそうに顔を逸らし、ぼそりと一言。
「嬉しかったんだ。切り札とかじゃなくて、普通に使い始めたことが」
今まではずっと、使うタイミングを慎重に見計らっている節があった。
一度壊れていることもあり、強度の問題もあったかもしれない。
けれど、それ以上にランディ自身の中で様々な葛藤があったのだろう。
「どこかに吐き出したくて書き始めたら、止まらなくなっちゃって」
夢幻回廊を探索中、初めてそれを見た時は驚いて頭が真っ白になりかけた。
重厚な黒い本体から繰り出された斬撃と、豪快に火を噴いて薬莢を飛び散らせる様を前に、雷でも落ちたかのような衝撃を受けたのを覚えている。
『ちょいと派手にやりすぎちまったぜ』
あの時、そう言って笑った横顔を見た途端に沸々と嬉しさが込み上げてきた。
彼は長年連れ添ってきた無機質な相棒との対話を、やっと終わらせることができたのだと。
「最近は密かな楽しみだったっていうか…………あ~!もう、無理!!」
向こう側からの相槌はなく、一人で言葉を続ければ続けるほど恥ずかしくなってくる。
耐えきれなくなったロイドは首を激しく左右に振り、テーブルの上に突っ伏してしまった。
茶色い頭は微動だにしない。
ランディはそれを呆然と見つめていた。
攻撃的な感情が行き場を失い、少しずつ四散して解けていく。
頭の回転が鈍っていてあれこれと考えられないが、自分が誤解をしていることだけは分かった。
「…………マジかよ」
片肘を付いてその手の平で顔を覆いながら、声を絞り出す。
彼の嫉妬の対象は円庭に集っている仲間たちではなく、自らが扱っている武器だった。
ランディは相棒の青年が伏せってるのを確認し、もう一度手帳を開いた。
覚めた目で見直してみれば、どの頁も明らかにベルゼルガーについての記述だった。
これではロイドが困惑するのも無理はない。
煮えたぎる感情で目がくらんでいたことは誤魔化しようがなく、情けなさが膨らんでいく。
彼は盛大な溜息を吐きながら手帳を閉じようとしたが、ふとある一文が目に飛び込んきてしまい、手を止めた。それは筆跡がある中では最後の頁だ。
──メンテナンスを見ていたらニヤけるなと怒られた。だってしょうがないだろ?されてる方は気持ち良さそうだし、してる方は嬉しそうだったから。そういうの、ほんとに好きなんだ
これを書いている最中の楽しげな様子が易々と想像できてしまう。
どうやら、お熱い視線を送っているヤツではなく『ヤツら』だったらしい。
吐き出す溜息も底をつき、ランディはほとほと参ったといった様子だった。
「隠してるからってデレまくってんじゃねぇよ」
なんとか開いた口からは毒づく言葉しか出てこない。
確かにロイドはベルゼルガーのことを書いていた。
しかし、武器はただの武器であって使い手がいてこその魅力だという部分が大きい。
その溢れる気持ちの行き先が分かってしまったランディは、込み上げてくる熱情を無言で噛みしめて堪えた。
先に沈没したロイドはまだ起き上がる気配を見せない。
そんな彼よりは優位でいたいと虚勢を張り、自分も突っ伏してしまうことだけはなんとか回避した。
水色の髪の少女は、通りがかりに珍しい光景を目撃してしまった。
普段は動きの少ない表情筋が驚きを形作る。
一瞬声をかけようとしたが、どうにも近寄りがたい雰囲気があって諦めた。
「これは……皆さんに報告ですね」
彼らの奇妙な姿はすぐさま同僚たちと共有するべきである。
そう思ったティオは再び歩き出した。
下層に降りた彼女は、すぐに気心知れた仲間たちを見つけ小走りで駆け寄った。
「あら、ティオちゃん。どうしたの?」
それが急いでいるように見えたのか、最初に気づいたエリィがわずかに驚く。
「エリィさん、上でロイドさんとランディさんを見かけたのですが……」
ティオが口を開くと、一緒にいたワジとノエルが食い付いてきた。
「もしかして面白いことになってなかったかい?」
「まさか、喧嘩とかしてませんよね!?」
「あの……珍しくロイドさんの方が撃沈していました」
その勢いに押されつつ、戸惑い気味に答えたティオはチラリと銀髪の同僚を見上げた。
この状況に対しての説明を求めているようで、それを察したエリィが事の経緯を伝える。
「あぁ、なるほど。ちなみにランディさんは沈没こそしていませんでしたが、ダメージは相当なものかと」
最年少の少女は納得して頷き、淡々と彼らの状態を皆に報告した。
「へぇ?いつもはランディの方がロイドの天然攻撃にやられてるのに」
ワジの瞳が興味深げな光を宿す。
「でも、ランディ先輩もダメージ受けてるってことは……相打ち?」
隣にいるノエルは小さく唸りながら考え込んだ。
「それは手帳の中身によるわね。あまり詮索するのは良くないけれど」
「……とても気になります」
そこにエリィが尤もな意見を入れると、矢継ぎ早にティオが正直な声を上げ、四人は無言で顔を見合わせた。
沈黙の中、最初に動いたのはワジだった。
「ここはやっぱり様子を見に行くべきだよね」
「えっ、えぇ!?ほんとに行っちゃうの!?」
涼やかな声は明らかに愉快なリズムを刻み、ノエルの反応をよそに軽やかな足取りで輪の中から出ていく。
「あ、ワジさん。私もご一緒します」
「もう……ティオちゃんったら」
それを追いかけ始めた少女の後ろ姿を、エリィが少しばかり呆れた様子で見送る。
四人の性格の違いが浮き彫りになり、強行派と慎重派に分かれる形になってしまった。
「あの二人ってちょっと似てる所がある気がするわ」
「あ、あははっ……確かに」
嬉々として上層へ向かう二人の姿はあっという間に小さくなり、真面目なエリィとノエルはどことなく疲れた顔をしてそれを眺めやっていた。
その後。ロイドのベルゼルガー観察手帳が禁止になってしまったのは言うまでもない。
2021.08.25
『禁断症状』(後日談)
夢幻回廊の一画での戦いは、緊迫した攻防の末に見事勝利に終わった。
リィンは共に戦っていた仲間たちの安否を確認し、ホッと胸を撫で下ろした。
「……ん?」
しかし、一人だけ腕を組んでブツブツと言っている青年の背中が目に留まる。
特に負傷しているようには見えないが、もしかしたらどこかに不調があるのかもしれない。
「ロイド?どうしたんだ?」
心配になったリィンは、後ろから近寄って青年の名前を呼んだ。
「あの距離ならやっぱ銃撃かなぁ」
しかし、彼は自分の世界に入り込んでいるのか、床の一転を見つめながら独りごちている。
「ありったけの弾薬で火吹かせまくりとか……格好良すぎないか」
その内容はさり気なく物騒だ。
「ロイド、大丈夫か?」
「へ!?あ、あぁ、リィンか」
もう一度名前を呼ぶと、今度は肩を跳ね上げた後に勢いよく振り返った。
「どこかやられたのか?」
「俺なら問題ないよ。ちょっと考えごとしてただけ」
仲間の身を案じているリィンに柔らかい笑顔を向けたロイドだったが、すぐに視線が元の場所に戻ってしまう。
「さっきのヤツ、ベルゼルガーならどう……っ、あ、いや、なんでもない」
寂しそうな色を漂わせているのは無意識だったのか、ハッと我に返って頭を振る。
「ほ、ほら!そろそろ探索を再開するぞ」
ロイドは無理に口角を引き上げ、他の仲間たちに声をかけながら歩き始めた。
その誤魔化しきれない後ろ姿を見つめ、リィンは首を傾げた。
「……ランディさんと何かあったのかな?」
ベルゼルガーと言えば、彼の代名詞だ。教官仲間でもあるその男を思い浮かべ、ふとあることが気になった。
「そういえば、最近二人で探索メンバーに入っているのを見てないな」
少し前までは共に夢幻回廊を巡っていたのを考えれば、どうしても違和感がある。
わざと距離を置いているようにしか思えなかった。
探索を再開した後。
強敵との戦いを終えるたびに、ロイドは一人はぼやいていた。
中身は先ほどと同じようなことばかりで、寂しさの中に拗ねた表情が入り交じる。
リィンには、その姿がとても不安定に見えた。
今度は別の探索でランディと組む機会があった。
彼は特に気になるような言動はしていない。しかし、武器を操る腕が少し重そうだ。
「ランディさん、調子悪いんですか?」
ロイドの件もあり、気になったリィンは赤毛の男に問いかけた。
「いや、悪いっつーか。こう、ノリがいまいちっていうか」
彼は自分の肩に手をかけ、首を一つ鳴らす。
「まぁ……色々あってよ」
それから自嘲気味な笑みを浮かべた。
リィンは更に言葉を続けるべきか悩んだ。二人の関係は知っているが、ここで出しゃばるのもどうかと思う。
けれど、多少なりとも戦いに支障が出ていることが気に掛かってしまう。
「……この間、ロイドと一緒だったんですけど、なんだか様子がおかしくて」
その懸念が先に立ち思いきって口を開くと、ランディが真顔になって動きを止めた。
「──おかしい?」
「大きな戦闘が終わる度に、やたらとベルゼルガーのことを呟いてましたよ」
状況を聞いた彼は瞠目したが、一転してすぐに両肩から脱力してしまった。
「あのバカ……何やってんだよ」
やはり、二人の間で何かがあったらしい。
リィンはそう確信してランディの様子を覗ったが、ふとその背後に水色の頭が顔を覗かせた。
「それはベルゼルガー禁断症状ですね」
「お、おまっ!?どっから出てきやがった?」
「私の気配に気づかないなんて、グダグダすぎです。ランディさん」
不意を突かれて慌てた同僚に対し、ティオは顔色一つ変えずに言葉を返した。
「な、なんか凄い言葉が出てきたな」
気心知れた二人のやり取りを眺めつつ、リィンが大きく息を吐き出した。
「ロイドさんはあれが大好きなので、しばらくお目にかかれていないせいで妄想が始まったと思われます」
それを聞き逃さなかった少女は、淡々とした口調で説明をする。
「ティオすけ。余計なことぬかすなっつーの」
手強い相手の登場で体の悪くなったランディは、煩わしそうに頭を掻いて踵を返した。
「あー、ほら、次行くぞ、次!」
そう言って武器を担いで歩き出した後ろ姿へ、ティオのジト目が向けられる。
「逃げましたね」
「あれ、大丈夫なのか?」
「ラブラブすぎて距離を取っているだけなので、問題ありません」
心配そうなリィンをよそに、少女の声は相変わらず平坦だ。
「結局のところ、ランディさんはロイドさんに甘々ですから」
けれど、ほんの少しだけ口元を綻ばせた。
「おい、メンテするから付き合え」
突然かけられた言葉に、ロイドは自分の耳を疑った。
半信半疑で付いていくと、テーブルの上にベルゼルガーが横たわっていて、それを見た瞬間に嬉しさが込み上げてくる。
吸い寄せられるように椅子へ座り、ちらりとランディを見た。
彼はロイドとほぼ同時に向かいの席へ座り、すぐに複雑な形状をした武器の一部を解体し始める。
「あ、あのさ……ランディ?」
嬉しさも束の間。急に降ってきた幸運に相手の意図が読めず、ロイドが戸惑いを滲ませた。
そもそも、今までこんな風に誘われることなんてなかった。
メンテナンスの兆候を嗅ぎつけて見学に押しかけているのは、いつだってロイドの方だ。
「これ、しっかり磨いとけ」
すると、返事代わりなのか、ランディが片手に収まる大きさの部品を布に包んで差し出してきた。
「え?わ、分かった」
また耳を疑うような言葉を聞き、ロイドは驚きと共に慌ててそれを両手で受け取った。
緊張して手が震えそうになるのを何とか押さえ込む。
あまりに突然すぎたせいで、夢でも見ているのではないかとすら思ってしまう。
ベルゼルガーの一部が自分の手にあることが俄に信じられず、彼は何度もランディと交互に見比べた。
「なぁ、急にどうしたんだ?今まで俺に触らせたことなんてなかったのに」
「どうって、譲歩してやってんだよ。あ、ついでにこいつもな」
今度は変わった形の留め具を数個、わずかに身を乗り出してロイドの前に置いた。
「……寂しすぎてイカれちまってるっていうから、充電させてやろうかと思ってな」
近づいた顔は困惑を浮かべていて、引き際にその頬へ掠めるようなキスをする。
「そ、それっ、どこから聞いたんだよ!?」
「さぁな」
ランディはまたすぐに武器を弄り始めたが、狼狽えているロイドが可笑しくて小刻みに肩を揺らした。
「それはそうとしっかり充電しとけよ?まだしばらく現状維持だからな」
軽くあしらいながら話の矛先を変えると、その途端に栗色の頭がガクリと項垂れる。
落ちた前髪の先が僅かにベルゼルガーに触れ、大好きな黒を覗き見る瞳が悲しそうに揺れた。
「まだ、ダメなのか……?」
「ダメージでかすぎたんだよ。少しは我慢しろ」
あの手帳の中身を知ってしまったランディは、すぐさまその使用を禁止させた。
それと同時に、ほとぼりが冷めるまで一緒に夢幻回廊には入れないとも言った。
あんな風に見られていては、気になって戦うどころの話ではない。
もちろんロイドは反対したが、隠し事には後ろめたさがあったのだろう。
不本意ながら了承して今に至っている。
ランディは現状維持を解く気はなさそうだ。
しかし、ティオ曰く『ロイドさんに甘々』な彼のこと、絆されて折れてしまうのは目に見えて明らかだった。
2021.09.02
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ロイドの手帳を拾ったランディが勘違いをして嫉妬してしまう話。
【文字数:10000】
何気なく円庭を歩いていたランディは、通路の端に何かが落ちているのを見つけた。
「なんだ……これ?」
それは手帳のようで、拾い上げた手に収まるくらいに小さい。
表紙には何も書かれておらず、一見して持ち主が分かる状態ではなかった。
すぐ側にはテーブルと椅子が設置されている。座っていた誰かが落としたのかもしれないが、今は空席になっていた。
ランディは辺りを見回してから小さな息を吐く。
「聞いて回るしかねぇか」
さすがに中身を確認することは憚られる。
この閉ざされた空間での落とし物なら、持ち主は必ずいるはずだ。
面倒なのには違いないが、片っ端から声をかけていくのが手っ取り早いだろう。
運が良ければすぐに見つかるかもしれない。
そんな淡い期待を抱きつつ、彼は手帳を手に歩き出した。
下層を一巡りし、もう結構な人数に声をかけたような気がする。
当の本人でなくても持ち主を知る人くらいは見つかっても良さそうだが、皆が揃いも揃って首を横に振ってくる。
「ここまで聞いて成果なしとか、ありえねぇだろ」
今度は上層へ移動しようと、愚痴を零しながら螺旋階段を上り始めた。
「あれ?どうしたんだい?」
そこへ、上から涼やかな青年の声が降ってきた。
数段の間を取り、軽く腕組みをして相手を覗う。
「君、なんだか疲れた顔してるね」
「あー、ワジか。なんか落とし物拾っちまってさぁ……持ち主探してんだよ」
バッタリと会った人物が身内だったこともあり、ランディは取り繕おうともしなかった。
「落とし物?……あぁ、その手帳のこと?」
急にだらけた彼の手に目を留め、ワジは黄金の双眸に可笑しげな色を滲ませる。
「それって、ロイドのだよね」
「──はぁ!?」
まさに寝耳に水だった。咄嗟に二の句が継げなくなる。
「いつもは捜査手帳に挟んでるんじゃないかな」
確かにこの大きさだったら、彼の推測通りかもしれない。
ランディは小振りの手帳に視線を寄せてやっと声を押し出した。
「つまりは隠してるってことか……なんでお前は知ってるんだよ?」
「偶然見かけただけさ。中身は教えてくれなかったけどね」
面白くないと眉を顰めた彼を気にするでもなく、ワジは軽やかに答えた。
「あぁ、ノエルも見かけたとか言ってたかな。一人で楽しそうに何か書いてたって」
更なる情報を放り投げてみると、赤毛の男は穴が開く程に手帳を見つめ始めてしまった。
「ロイドならもうすぐ戻ってくるんじゃない?事情はどうあれ、ちゃんと返してあげないとね」
そんな彼の肩を一つ叩き、ワジはどこか意地悪げで綺麗な笑みを浮かべながら階段を降りていく。
「……楽しそうって何だよ?」
次第に遠退く足音は耳を流れ去り、立ち止まったままのランディは不満げに呟いた。
胸の奥に言いようのないわだかまりが広がっていくのを感じた。
螺旋階段を降りたワジは、視線の先にノエルの姿を見つけた。
彼女はエリィと談笑しているようで、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「やぁ、二人とも。なんだか面白いことになりそうだよ」
意味ありげな呼びかけをしながら話の輪に入ると、
「あ、ワジ君……って、うわっ、なにその笑い方」
ノエルには後ずさりをされたが、エリィの方はすぐに察したようだった。
「またロイドたちを引っかき回してきたの?」
特務支援課の中では、相棒同士である彼らのもう一つの関係性は周知の事実だ。
そんな二人を玩具代わりにするのは、ワジの楽しみでもある。
「聞き捨てならないね。僕は情報を提供してあげただけさ」
彼は悪びれもせず、事の成り行きを同僚たちに説明してみせた。
「あの手帳……ランディは知らなかったのね」
「その言い方だと、エリィも知ってるんだ」
「えぇ。私もティオちゃんも何度か見たことはあるけれど、中身は頑なに教えてくれないのよね」
エリィは細い顎に綺麗な指を当て、考え込むような仕草をする。
「それにしても、ランディ先輩だけ見たことがないって……わざと隠してるんでしょうか?」
ノエルも腕を組んで難しい顔を浮かべた。
「だろうね。それなら彼がらみの内容かな」
「ロイドったら、肝心な所で脇が甘いのよね。タダでさえ隠し事が苦手なのに」
普段は頼りがいのある支援課のリーダーだが、自分のことになると、途端に墓穴を掘りまくってしまう。
呆れ顔を隠しもせず、エリィは美しい銀髪を優雅に掻き上げた。
「……中身は確実に見られてしまうわね」
更に続いた言葉は予想などではなく確信めいていて、ワジとノエルも深く頷いた。
一方、その頃。
ランディは不誠実な誘惑と葛藤していた。
階段を上りきった後、人気のない一画を見つけて外壁に寄りかかる。
もちろん、拾った物は持ち主に返すつもりだ。
ロイドは夢幻回廊を探索中だが、ワジも言っていた通りそろそろ戻ってくる頃合いだろう。
彼の反応はどうあれ、当たり障りのない軽い調子ですぐに返してしまえばいい。
それが最良だと分かっているのに、どうしても感情が付いてこなかった。
ワジからもたらされた情報が、ぐるぐると頭の中を回る。
あの話しぶりだったら、他の同僚たちも手帳の存在を知っている可能性がある。
なのに、どうして一番身近にいるはずの自分が知らないのか?
書いている姿どころか、それを手に持っているのすら見たことがない。
「……俺に対して隠してんのか?」
そう勘繰ってしまうのも仕方がない状況だ。
「しかも楽しそうとか……」
考えれば考えるほど胸中に黒い霧が立ちこめ、手帳の内容が気になってしまう。
『ロイドが自分に隠れて楽しそうにしてる』
単純に言えばそういうことだ。
公私に渡り親密な間柄であるランディにしてみれば、中身を盗み見る動機としては十分だった。
彼は無断で人の秘密を暴くことに罪悪感を覚えながらも、手帳の表紙に手をかけた。
「……悪ぃな」
一度だけ逡巡し、小さく頭を振る。
良心の呵責に耐えかね、今は不在のロイドへ謝った後、慎重に最初の頁をめくった。
──間近で見ると余計にカッコよく見える
それは確かにロイドの筆跡だった。
目に飛び込んできた一文は普段よりも少し崩れている。
どこか浮かれているような雰囲気があり、ランディは少しばかり面食らった。
──ブレードの切れ味すごくて見惚れそう
小振りな手帳なので一頁の行数は少ないが、そこに隙間なく書かれているわけではなく、箇条書きのように気持ちを連ねている。
頁をめくっても好意的な表現は続き、思わず顔を歪めた。
「誰のこと言ってんだ?」
どうやら一緒に戦っている仲間のことを書いているようだ。しかも、全て同じ人物ではないかと思わせる部分が多々ある。
──あの銃撃音って耳にくるけど、頼もしくて落ち着くんだよな
次第に不愉快さが増していく中、ランディはこの文章たちに該当する『誰か』を探し始めた。
脳内で候補を挙げては外すを繰り返しながら、手帳の先を読み進める。
──とっておきじゃなくなったことが嬉しいんだ
少し内容が変わってきた。
相変わらず楽しげにカッコイイを連発しているが、時折しみじみとした顔を見せてくる。
「あー、くそっ、わけわかんねぇ」
人物の詳細が出てこないどころか、逆に答えから遠退いているような気がしてきた。
ランディは苛立たしげに前髪を掻き上げる。
それでも、頁をめくる手は止まらない。ここまでくれば最後まで見てやろうと、半ばやけくそ気味だった。
──あれを防ぎきるなんて、やっぱ強くて頑丈で惚れ惚れする。でも、あんまりやって欲しくないって……矛盾してるな。あの時みたいに壊れる所は二度と見たくないんだ
ふと、珍しく長い一文が目に留まった。
普段通りの冷静さがあれば、それが決定的な文言になるはずだった。
しかし、疑念と嫉妬を抱えて盲目的な思考から抜け出せない。
最初から『誰か』を探し、人物以外の可能性に思い当たりもしなかった。
「……あのバカ。どんだけ惚れてんだよ」
気にはなったものの、今の彼にとっては火に油を注ぐような文字の羅列だ。
忌々しげに吐き捨てながら、指で乱暴に紙面を弾く。
結局ランディは答えを掴めないまま、ロイドが綴った文章を全て読み終えた。
落とし物を返すことよりも、彼を問い詰めることの方が優先事項になってしまっていた。
夢幻回廊を探索していたメンバーたちが戻ってきた。
リーダーを任されていたロイドが解散を告げると、皆が思い思いの場所へと散っていく。
それを見送った彼は、近くの空いている席に腰を下ろした。
テーブルに愛用のトンファーを置き、ポケットから取り出した布で丁寧に磨き始める。
『武器っていうのは、磨いてやるだけでも随分と違うもんだぜ』
いつだったか、ランディがそんなことを言っていた。
相棒として肩を並べる今となっても、戦士としての意識の高さに学ぶべきことは多い。
「最近は一緒に戦えてなくて寂しいな」
頼りがいのある大きな背中を思い浮かべ、ポツリと言葉通りの感情が零れ落ちた。
「──誰と戦えなくて寂しいって?」
すると、不意に上から影が落ちてきた。
自分の世界に没入していたせいか、まったく気配に気が付かなかった。
耳に馴染んでいるはずの声は低く重い響きを伴い、ロイドが驚いて顔を上げる。
「ラ、ランディ……?」
剣呑さをはらんだ瞳に見下ろされ、唖然として口が半開きになる。
どこからどう見ても、怒っているとしか形容できない表情だった。
(な、なんで?俺、何かしちゃったか?)
記憶を辿っても身に覚えがなく、頭の中が混乱する。
そんな彼の前に何かが突き出された。
「これについて、聞かせてもらおうじゃねぇか」
「あ!そ、それ……!?」
ロイドはこれでもかと言わんばかりに目を見開いた。
慌てて上着から捜査手帳を取り出して開いたが、本来ならそこに挟まっている物がない。その瞬間、一気に冷や汗が流れ落ちた。
「落としたことにも気が付かなかったのかよ。間抜けなヤツだな」
ランディは棘のある言葉を浴びせつつ、真向かいの席に足を組んで座った。
それから持っていた手帳をテーブルの上に置き、指先で不快げに数回叩く。
「で、色々と楽しいことが書いてあったんだが?」
「勝手に見たのかよ!?」
「それに関しちゃ悪いとは思ってる。けど、気になる情報を貰っちまったもんでな」
ロイドは手帳の中身を見られてしまったことを知り、声を荒立てた。
これについてはランディの方に全面的な非があるので、本人も素直に認める形だ。
けれど、だからといって今の感情が収まるわけではなく、その眼光は険しい。
「そんなにお熱い視線を送ってるヤツがいるとは知らなかったぜ」
「──え?」
あくまで静かな口調は鋭利な刃のようで、聞いた途端に背筋が寒くなる。
しかし、そんな言葉の端に疑問を感じ、ロイドは不思議そうに相手を見返した。
「今、なんて……」
「単刀直入に聞く。そいつは誰だ?」
ランディの方にはその声に耳を傾けるほどの余裕はなく、一方的に自分の嫉妬だけを突き付けてくる。
「誰って……なに言ってんだよ。手帳、見たんじゃないのか?」
明らかに勘違いをしている。それに気が付いたロイドは困惑を隠せなかった。
そもそも、彼に対してこの手帳の存在を徹底的に隠していたのは、見られたらすぐに分かってしまうと思ったからだ。
そうなれば確実に弄られる。まさか、怒るとは予想していなかったが。
「ほんとに、ほんとに分からないのか?」
「こっちは分かんねぇから聞いてんだよ」
嘘だろ?と言いたげなロイドに向かって、強い声が投げつけられた。
見えない相手に牙を向けているランディの思考は頑なで、考え直してくれる余地はなさそうだ。
このまま平行線に陥ってしまうは避けたいと、ロイドは躊躇いながらも仕方なく口を開いた。
「……それ、ベルゼルガーのこと」
未だ相手の手元にある手帳から気まずそうに顔を逸らし、ぼそりと一言。
「嬉しかったんだ。切り札とかじゃなくて、普通に使い始めたことが」
今まではずっと、使うタイミングを慎重に見計らっている節があった。
一度壊れていることもあり、強度の問題もあったかもしれない。
けれど、それ以上にランディ自身の中で様々な葛藤があったのだろう。
「どこかに吐き出したくて書き始めたら、止まらなくなっちゃって」
夢幻回廊を探索中、初めてそれを見た時は驚いて頭が真っ白になりかけた。
重厚な黒い本体から繰り出された斬撃と、豪快に火を噴いて薬莢を飛び散らせる様を前に、雷でも落ちたかのような衝撃を受けたのを覚えている。
『ちょいと派手にやりすぎちまったぜ』
あの時、そう言って笑った横顔を見た途端に沸々と嬉しさが込み上げてきた。
彼は長年連れ添ってきた無機質な相棒との対話を、やっと終わらせることができたのだと。
「最近は密かな楽しみだったっていうか…………あ~!もう、無理!!」
向こう側からの相槌はなく、一人で言葉を続ければ続けるほど恥ずかしくなってくる。
耐えきれなくなったロイドは首を激しく左右に振り、テーブルの上に突っ伏してしまった。
茶色い頭は微動だにしない。
ランディはそれを呆然と見つめていた。
攻撃的な感情が行き場を失い、少しずつ四散して解けていく。
頭の回転が鈍っていてあれこれと考えられないが、自分が誤解をしていることだけは分かった。
「…………マジかよ」
片肘を付いてその手の平で顔を覆いながら、声を絞り出す。
彼の嫉妬の対象は円庭に集っている仲間たちではなく、自らが扱っている武器だった。
ランディは相棒の青年が伏せってるのを確認し、もう一度手帳を開いた。
覚めた目で見直してみれば、どの頁も明らかにベルゼルガーについての記述だった。
これではロイドが困惑するのも無理はない。
煮えたぎる感情で目がくらんでいたことは誤魔化しようがなく、情けなさが膨らんでいく。
彼は盛大な溜息を吐きながら手帳を閉じようとしたが、ふとある一文が目に飛び込んきてしまい、手を止めた。それは筆跡がある中では最後の頁だ。
──メンテナンスを見ていたらニヤけるなと怒られた。だってしょうがないだろ?されてる方は気持ち良さそうだし、してる方は嬉しそうだったから。そういうの、ほんとに好きなんだ
これを書いている最中の楽しげな様子が易々と想像できてしまう。
どうやら、お熱い視線を送っているヤツではなく『ヤツら』だったらしい。
吐き出す溜息も底をつき、ランディはほとほと参ったといった様子だった。
「隠してるからってデレまくってんじゃねぇよ」
なんとか開いた口からは毒づく言葉しか出てこない。
確かにロイドはベルゼルガーのことを書いていた。
しかし、武器はただの武器であって使い手がいてこその魅力だという部分が大きい。
その溢れる気持ちの行き先が分かってしまったランディは、込み上げてくる熱情を無言で噛みしめて堪えた。
先に沈没したロイドはまだ起き上がる気配を見せない。
そんな彼よりは優位でいたいと虚勢を張り、自分も突っ伏してしまうことだけはなんとか回避した。
水色の髪の少女は、通りがかりに珍しい光景を目撃してしまった。
普段は動きの少ない表情筋が驚きを形作る。
一瞬声をかけようとしたが、どうにも近寄りがたい雰囲気があって諦めた。
「これは……皆さんに報告ですね」
彼らの奇妙な姿はすぐさま同僚たちと共有するべきである。
そう思ったティオは再び歩き出した。
下層に降りた彼女は、すぐに気心知れた仲間たちを見つけ小走りで駆け寄った。
「あら、ティオちゃん。どうしたの?」
それが急いでいるように見えたのか、最初に気づいたエリィがわずかに驚く。
「エリィさん、上でロイドさんとランディさんを見かけたのですが……」
ティオが口を開くと、一緒にいたワジとノエルが食い付いてきた。
「もしかして面白いことになってなかったかい?」
「まさか、喧嘩とかしてませんよね!?」
「あの……珍しくロイドさんの方が撃沈していました」
その勢いに押されつつ、戸惑い気味に答えたティオはチラリと銀髪の同僚を見上げた。
この状況に対しての説明を求めているようで、それを察したエリィが事の経緯を伝える。
「あぁ、なるほど。ちなみにランディさんは沈没こそしていませんでしたが、ダメージは相当なものかと」
最年少の少女は納得して頷き、淡々と彼らの状態を皆に報告した。
「へぇ?いつもはランディの方がロイドの天然攻撃にやられてるのに」
ワジの瞳が興味深げな光を宿す。
「でも、ランディ先輩もダメージ受けてるってことは……相打ち?」
隣にいるノエルは小さく唸りながら考え込んだ。
「それは手帳の中身によるわね。あまり詮索するのは良くないけれど」
「……とても気になります」
そこにエリィが尤もな意見を入れると、矢継ぎ早にティオが正直な声を上げ、四人は無言で顔を見合わせた。
沈黙の中、最初に動いたのはワジだった。
「ここはやっぱり様子を見に行くべきだよね」
「えっ、えぇ!?ほんとに行っちゃうの!?」
涼やかな声は明らかに愉快なリズムを刻み、ノエルの反応をよそに軽やかな足取りで輪の中から出ていく。
「あ、ワジさん。私もご一緒します」
「もう……ティオちゃんったら」
それを追いかけ始めた少女の後ろ姿を、エリィが少しばかり呆れた様子で見送る。
四人の性格の違いが浮き彫りになり、強行派と慎重派に分かれる形になってしまった。
「あの二人ってちょっと似てる所がある気がするわ」
「あ、あははっ……確かに」
嬉々として上層へ向かう二人の姿はあっという間に小さくなり、真面目なエリィとノエルはどことなく疲れた顔をしてそれを眺めやっていた。
その後。ロイドのベルゼルガー観察手帳が禁止になってしまったのは言うまでもない。
2021.08.25
『禁断症状』(後日談)
夢幻回廊の一画での戦いは、緊迫した攻防の末に見事勝利に終わった。
リィンは共に戦っていた仲間たちの安否を確認し、ホッと胸を撫で下ろした。
「……ん?」
しかし、一人だけ腕を組んでブツブツと言っている青年の背中が目に留まる。
特に負傷しているようには見えないが、もしかしたらどこかに不調があるのかもしれない。
「ロイド?どうしたんだ?」
心配になったリィンは、後ろから近寄って青年の名前を呼んだ。
「あの距離ならやっぱ銃撃かなぁ」
しかし、彼は自分の世界に入り込んでいるのか、床の一転を見つめながら独りごちている。
「ありったけの弾薬で火吹かせまくりとか……格好良すぎないか」
その内容はさり気なく物騒だ。
「ロイド、大丈夫か?」
「へ!?あ、あぁ、リィンか」
もう一度名前を呼ぶと、今度は肩を跳ね上げた後に勢いよく振り返った。
「どこかやられたのか?」
「俺なら問題ないよ。ちょっと考えごとしてただけ」
仲間の身を案じているリィンに柔らかい笑顔を向けたロイドだったが、すぐに視線が元の場所に戻ってしまう。
「さっきのヤツ、ベルゼルガーならどう……っ、あ、いや、なんでもない」
寂しそうな色を漂わせているのは無意識だったのか、ハッと我に返って頭を振る。
「ほ、ほら!そろそろ探索を再開するぞ」
ロイドは無理に口角を引き上げ、他の仲間たちに声をかけながら歩き始めた。
その誤魔化しきれない後ろ姿を見つめ、リィンは首を傾げた。
「……ランディさんと何かあったのかな?」
ベルゼルガーと言えば、彼の代名詞だ。教官仲間でもあるその男を思い浮かべ、ふとあることが気になった。
「そういえば、最近二人で探索メンバーに入っているのを見てないな」
少し前までは共に夢幻回廊を巡っていたのを考えれば、どうしても違和感がある。
わざと距離を置いているようにしか思えなかった。
探索を再開した後。
強敵との戦いを終えるたびに、ロイドは一人はぼやいていた。
中身は先ほどと同じようなことばかりで、寂しさの中に拗ねた表情が入り交じる。
リィンには、その姿がとても不安定に見えた。
今度は別の探索でランディと組む機会があった。
彼は特に気になるような言動はしていない。しかし、武器を操る腕が少し重そうだ。
「ランディさん、調子悪いんですか?」
ロイドの件もあり、気になったリィンは赤毛の男に問いかけた。
「いや、悪いっつーか。こう、ノリがいまいちっていうか」
彼は自分の肩に手をかけ、首を一つ鳴らす。
「まぁ……色々あってよ」
それから自嘲気味な笑みを浮かべた。
リィンは更に言葉を続けるべきか悩んだ。二人の関係は知っているが、ここで出しゃばるのもどうかと思う。
けれど、多少なりとも戦いに支障が出ていることが気に掛かってしまう。
「……この間、ロイドと一緒だったんですけど、なんだか様子がおかしくて」
その懸念が先に立ち思いきって口を開くと、ランディが真顔になって動きを止めた。
「──おかしい?」
「大きな戦闘が終わる度に、やたらとベルゼルガーのことを呟いてましたよ」
状況を聞いた彼は瞠目したが、一転してすぐに両肩から脱力してしまった。
「あのバカ……何やってんだよ」
やはり、二人の間で何かがあったらしい。
リィンはそう確信してランディの様子を覗ったが、ふとその背後に水色の頭が顔を覗かせた。
「それはベルゼルガー禁断症状ですね」
「お、おまっ!?どっから出てきやがった?」
「私の気配に気づかないなんて、グダグダすぎです。ランディさん」
不意を突かれて慌てた同僚に対し、ティオは顔色一つ変えずに言葉を返した。
「な、なんか凄い言葉が出てきたな」
気心知れた二人のやり取りを眺めつつ、リィンが大きく息を吐き出した。
「ロイドさんはあれが大好きなので、しばらくお目にかかれていないせいで妄想が始まったと思われます」
それを聞き逃さなかった少女は、淡々とした口調で説明をする。
「ティオすけ。余計なことぬかすなっつーの」
手強い相手の登場で体の悪くなったランディは、煩わしそうに頭を掻いて踵を返した。
「あー、ほら、次行くぞ、次!」
そう言って武器を担いで歩き出した後ろ姿へ、ティオのジト目が向けられる。
「逃げましたね」
「あれ、大丈夫なのか?」
「ラブラブすぎて距離を取っているだけなので、問題ありません」
心配そうなリィンをよそに、少女の声は相変わらず平坦だ。
「結局のところ、ランディさんはロイドさんに甘々ですから」
けれど、ほんの少しだけ口元を綻ばせた。
「おい、メンテするから付き合え」
突然かけられた言葉に、ロイドは自分の耳を疑った。
半信半疑で付いていくと、テーブルの上にベルゼルガーが横たわっていて、それを見た瞬間に嬉しさが込み上げてくる。
吸い寄せられるように椅子へ座り、ちらりとランディを見た。
彼はロイドとほぼ同時に向かいの席へ座り、すぐに複雑な形状をした武器の一部を解体し始める。
「あ、あのさ……ランディ?」
嬉しさも束の間。急に降ってきた幸運に相手の意図が読めず、ロイドが戸惑いを滲ませた。
そもそも、今までこんな風に誘われることなんてなかった。
メンテナンスの兆候を嗅ぎつけて見学に押しかけているのは、いつだってロイドの方だ。
「これ、しっかり磨いとけ」
すると、返事代わりなのか、ランディが片手に収まる大きさの部品を布に包んで差し出してきた。
「え?わ、分かった」
また耳を疑うような言葉を聞き、ロイドは驚きと共に慌ててそれを両手で受け取った。
緊張して手が震えそうになるのを何とか押さえ込む。
あまりに突然すぎたせいで、夢でも見ているのではないかとすら思ってしまう。
ベルゼルガーの一部が自分の手にあることが俄に信じられず、彼は何度もランディと交互に見比べた。
「なぁ、急にどうしたんだ?今まで俺に触らせたことなんてなかったのに」
「どうって、譲歩してやってんだよ。あ、ついでにこいつもな」
今度は変わった形の留め具を数個、わずかに身を乗り出してロイドの前に置いた。
「……寂しすぎてイカれちまってるっていうから、充電させてやろうかと思ってな」
近づいた顔は困惑を浮かべていて、引き際にその頬へ掠めるようなキスをする。
「そ、それっ、どこから聞いたんだよ!?」
「さぁな」
ランディはまたすぐに武器を弄り始めたが、狼狽えているロイドが可笑しくて小刻みに肩を揺らした。
「それはそうとしっかり充電しとけよ?まだしばらく現状維持だからな」
軽くあしらいながら話の矛先を変えると、その途端に栗色の頭がガクリと項垂れる。
落ちた前髪の先が僅かにベルゼルガーに触れ、大好きな黒を覗き見る瞳が悲しそうに揺れた。
「まだ、ダメなのか……?」
「ダメージでかすぎたんだよ。少しは我慢しろ」
あの手帳の中身を知ってしまったランディは、すぐさまその使用を禁止させた。
それと同時に、ほとぼりが冷めるまで一緒に夢幻回廊には入れないとも言った。
あんな風に見られていては、気になって戦うどころの話ではない。
もちろんロイドは反対したが、隠し事には後ろめたさがあったのだろう。
不本意ながら了承して今に至っている。
ランディは現状維持を解く気はなさそうだ。
しかし、ティオ曰く『ロイドさんに甘々』な彼のこと、絆されて折れてしまうのは目に見えて明らかだった。
2021.09.02
#創畳む
タグの話・まとめ
お互いに意識し合っている両片想い(閃Ⅲ)→恋人同士になる話(創)
SS2本をまとめています。
【文字数:5500】
【小さな分身】
クロスベル駅。帝国方面のホームにアナウンスの声が流れた。
そろそろ列車が到着するようだ。
ベンチに腰を下ろしていた青年がゆったりと立ち上がる。
そこへ、彼の名前を呼ぶ声と共に一人の女が駆け寄ってきた。
「ランディさん!良かった……間に合ったわ」
「おっ、なんだよ。見送りとは嬉しいねぇ」
見知った顔を前にランディは陽気な応答をした。
彼女は歓楽街で贔屓にしている店での顔馴染みだ。
夜の華やかさとは一転してシンプルな装いをしていたが、すぐに分かった。
「ふふっ、しばらく顔を見れないなんて寂しいわ」
女はしなやかな両手を逞しい腕に絡ませ、艶めいた唇を耳元に寄せた。
「──『彼』からよ」
そう囁きながら、ランディの上着のポケットに何かを忍ばせた。
「……おう。ありがとな」
彼は一瞬だけ瞠目したが、すぐにニヤリと笑った。
程なくして定刻通りに列車がやってきた。
見送りに来た女と親しげなやり取りを交わし、車内へと乗り込む。
座席に身を落とし、動き始めた車窓を眺めながらポケットに手を突っ込んだ。
女から渡されたものは封筒のようだが、単純に手紙というわけではなさそうだ。
指先に硬い感触が当たる。
「どうせなら、ラブレターにしとけよ……色気がねぇな」
ランディは戯けた色を見せながら周囲の気配を探った。
自分の立場を考えれば、監視の目はどこかにあるはずだ。
最低限、リーヴスに到着して第Ⅱ分校を訪れるまでは。
これが他の仲間たちからであれば、そこまで神経を尖らせる必要はない。
しかし、送り主が指名手配中の『彼』であれば話は別だった。
本音を言えば、今すぐにでも開けてしまいたい。
そんな衝動を胸に押し隠した彼は、表面上は平静を装い、名残惜しげに封筒から手を離した。
住居として与えられた寮の一室に足を踏み入れた時、何の感慨も抱けなかった。
必要な家具は備え付けられており、予め送っていた私物の段ボール箱も届いている。
これからここでの生活をする上で、困ることはないだろう。
ランディは後ろ手にドアを閉め、綺麗に整えられたベッドの上に腰を下ろした。
「……ったく、厄介な場所に飛ばしやがって」
今回の出向は、打診という皮を被った半ば強制的なものだった。
先刻。挨拶がてら第Ⅱ分校へ向かい、軽く顔合わせを行ったが、初見から曲者揃いといった印象だ。一筋縄ではいかない職場になるのは間違いない。
「はぁ~、いきなりあいつらが恋しくなってきたぜ」
つい苦笑いを浮かべてしまうのも仕方がなかった。
彼は身内とも呼べる同僚たちの顔を思い浮かべ、上着のポケットに忍ばせていた封筒を取り出した。
クロスベル駅で受け取ってから大分時間が経ってしまったが、ようやく中身を確認できる。
はやる手元を落ち着かせ、丁寧に封を切ると、微かに金属の擦れるような音がした。
封筒の中には、短いチェーンが付いた金属製のタグと一枚の紙。
「こいつ……は」
手の平に収まる小さなタグに刻印された名前を認識した途端、ランディは言葉を詰まらせた。
それはロイドが携帯しているクロスベル警察の認識タグだった。
併合された今となっては機能しているか怪しいものだが、規則上は常に持ち歩いていなければならない。
普段は捜査官らしく真面目な性格の彼だが、時には周囲が驚くほど大胆な行動を起こすことがある。今回も例に漏れないようだ。
「これって、手放していいもんなのか?」
一人なのも相まって心情がストレートに言語化されてしまった。
少し戸惑いがちに同封された紙の方を取り出してみる。
こちらはお世辞にでも手紙を綴るような用紙ではなく、メモ帳を引きちぎったようにも見える。急いでいたのか、そこには短い走り書きがあった。
『預けておく。絶対に返しに来い』
詰まらせるどころか、完全に言葉を失った。
離れた相手に、自分が常に身につけているものを預けることへの重みを感じる。
ラブレターどころの色気ではなかった。
胸の中に熱いものが込み上げてくる。
「……ははっ。普通は預けた方が来るもんじゃねぇのかよ?」
ようやく発した声は、ロイドからのメッセージに突っ込みを入れる形になった。
だが、彼の言いたいことは手に通るように分かる。
潜伏活動をしているせいで、身動きが取りづらい故の言い回しなのだろう。
そして、帝国に行かざるを得ないランディへ向けての強い再会の約束だ。
仲間たちの誰よりも危険な状況にいるロイドからの想いが、ひしひしと伝わってきた。
ランディは乱れた筆跡を見つめた後、それを封筒の中へ戻した。
次に、手の中にあるタグへと視線を寄せる。
刻印されているロイドの名前に目元を緩め、親指の腹で愛おしげに何度もなぞった。
「行くに決まってんだろ。返すついでに、積もりまくった想いの丈を受け止めてもらうからな」
彼の代わりともいえる小さなタグへ、しっかりとした意思を告げる。
その後、何かを思い立った様子でベッドから離れ、まだ未開封の段ボール箱に手を付けた。
そこから取り出したのは装飾用の長めのチェーンだった。
器用な手つきでタグの穴に通されている短いものと付け替える。
それを首にかけ、大切なものを守るかのように衣服の内側へ隠した。
「まぁ、帝国の動向を探るには意外と良い場所かもしれねぇな」
ランディは窓の外を見据えながら口角をつり上げる。
果たすべき約束を得た彼の心は、明らかに浮上していた。
──後日。
ランディから預けたタグの扱いを聞き、ロイドは驚いた。
衣服のポケットにでも入れているのだろうと思っていたらしい。
あろうことか、胸元に潜ませていた事実を知ってしまい、妙に恥ずかしくなってしまった。
2021.06.17
【最後の逃げ道】
最初は久しぶりに顔を合わせた時、返してくれるものだと思っていた。
未だに戻ってこない預け物について、ロイドはわざと考えないようにしていた。
ずっと切迫した状況が続いていたせいもある。
ランディの方からもそれについての言及はなく、あの時はただ、目の前の窮地を打破する為に肩を並べて戦場を駆け抜けた。
今は、聞いてみてもいいのだろうか?
穏やかな日常を取り戻した街並みを瞳へ流し、隣で揺れる赤い髪を盗み見る。
両手をポケットに突っ込んで歩く姿は軽やかで、どうやらご機嫌なようだ。
「あのさ……ランディ」
「ん~、どっか寄ってくか?」
空は午後も幾分か回った様相をしている。夕食時にはまだ遠く、小腹が空いてくる時間帯になっていた。
ランディはそれを踏まえて話を振ってみたが、外れてしまったらしい。
「いや、そうじゃなくて」
はっきりと首を横に振られ、残念な顔をする。
「なんだ、違うのかよ」
しかし、特に気分を害したわけでもなく、声は明るい。
ロイドはそれに安心して口を開いた。
「あ、うん。その……まだ返してもらってないなって」
なんとなく主語を省いてしまったが、言いたいことはしっかりと伝わっているようだ。
ランディはほんの一瞬だけ顔を強張らせたが、すぐに応答してきた。
「……あれか」
彼は街中を行き交う人々に目をやり、辺りを気にしているような素振りを見せた。
「ここじゃ落ち着かねぇな。ちょっと付いてこい」
そして、軽く顎をしゃくりながら一言。
いつもより足早に歩き出した相棒の背中を、ロイドは慌てて追いかけた。
どうして場所を変えたいのだろう?
預けたタグは人目を気にするような代物ではないし、所持しているのならこの場で気楽に返してくれればいいだけの話だ。
そこまでを頭に巡らせたロイドは、ふと嫌なことに思い当たってしまった。
「まさか、なくしたとか言わないよな?」
人の気配が薄れて足音だけが鳴る細い路地に、焦った声が反射する。
「お前さぁ、さすがにそれは酷くね?」
ランディの足がピタリと止まった。
最初からこの場所だったのか。それとも薄情な言葉に足止めされたのか。
振り向きざま、わざとらしく傷心気味に口角をつり上げる。
「ご、ごめん……つい」
素直に受け止めたロイドはしょげてしまったが、ランディがおもむろに動かした手の行方を追いかけ、今度は目を丸くした。
首にかけているチェーンを衣服の内側から引っ張り出して、『それ』を摘まみ上げてみせる。
「なっ、なんで、そんなとこにあるんだよ!?」
自分の名前が刻印されたタグを見間違うはずもなく、ロイドは声を上げた。
まさか胸元から出てくるとは思わなくて、驚きと恥ずかしさが入り交じる。
「そりゃぁ、大事なもんだからな。肌身離さずに決まってんだろ」
ランディはそう言いながら小さな預かり物に唇を落とした。
出向の時から今の今までずっと共に居たせいか、愛おしさもひとしおだ。
「──っ!」
まるで恋人にでも囁いているような表情を浮かべている。
ロイドはそんな甘い仕草を見続けていることができず、彼に背を向けて目の前にある外壁へ額を押し付けた。
体温の上がった肌には、冷たくて硬い壁の感触が心地良かった。
両目を閉じながら、忙しない胸の鼓動を落ち着かせようとする。
何度か深い呼吸を繰り返し、ようやく形を成した言葉が微かな音になって地面へ落ちた。
「……なにやってんだよ、バカ」
街の賑わいから外れたこの場所では、否応なく相手の耳にまで届く。
ランディはタグを指先で弄りながら、独り言のような声を拾い上げた。
「お前だってそのつもりだっただろ?」
一切の軽さを削いだ瞳が、俯き気味の背中に向けられる。
「代わりを添わせる気なら、俺がどんな扱いをするのか……想像くらいはしたんじゃねぇの?」
「……あ」
彼の静かだが強い口振りは、壁と対面したままのロイドを振り返らせた。
違うとは言えなかった。
ランディが帝国へ赴くと知った時、一瞬真っ白になった頭の中でいつの間にか自分の認識タグを握りしめていた。
本当はあんな走り書きではなくて、きちんと手紙を綴りたかった。
今以上に離れてしまう彼への思慮と、小さな身代わりに載せた想いを込めて。
(想像なんかじゃない。俺はたぶん……分かってた)
タグを弄っているランディの姿はあまりにも自然体で、日常的に同じ動作をしているであろうことが窺える。
ずっと側に寄り添いながら、どれだけの情を注いでくれていたのだろう。
そう考えるだけで、胸の奥が痺れるように震えた。
何か言いたいのに喉がつかえて声が出ず、もどかしげに彼を見上げる。
それを真っ向から受け止めたランディは、ようやく手の動きを止めた。
彼もまた、言葉が出てこなかった。
逸らす術を知らず、絡み合った視線だけがやたらと熱っぽくなる。
今までずっと、この狂おしい気持ちを確かな言葉で伝えたことなどなかった。
それでも燻る火種は隠しようがなく、双方向に筒抜けの状態で、互いに強く意識し合っている。
路地に隠れた二人の影はまるで動かず、その時間は長いようにも短いようにも感じられた。
一歩踏み込む機会を覗っているのか、それとも牽制しているのか。
「俺としてはもうちょい場を整えたかったんだが……」
じりじりと焼け付く緊張感を破ったのは、この状況に不満を漏らすランディの声だった。
不本意だと言わんばかりの表情で頭を振って、小さく息を吐き出す。
もう、これ以上引き延ばす気にはなれなかったし、そんな空気感でもなかった。
「お前が相手じゃ、出し抜けになっても仕方ねぇか」
彼は自嘲気味に呟きながら、今や身体の一部のようになっている小さなタグを首から外した。
それをゆっくりとロイドの前に掲げる。
「こいつを返したら……マジで口説き落とすぞ。いいのか?」
一段低くなった声が狭い空間に響いた。
「なんだよ、それ」
金属に刻印された名前を懐かしげに見つめていたロイドが、思わず顔を歪めた。
ランディは、暗に「ただの相棒には戻れない」と言っている。
けれど、最後の最後に逃げ道を残す体を取り、わざわざ問いかけてきた。
それは真摯な想いゆえの優しさなのかもしれない。
「そんなの……聞くことじゃない」
だが、ロイドにとっては全く必要のない気遣いだ。
彼は手を伸ばし、視界にある自分の代わりを強引に掴み取った。
手の中を一瞥してから、真っ直ぐに相手を見上げる。
「いいもなにも、ずっと前から落ちてる」
どう足掻いてもこの気持ちを押し隠すことはできなかった。
用意してくれた逃げ道を一蹴し、真剣な眼差しを受け止める。
ようやく、表面上は片恋同士だった欠片が噛み合ったのを感じた。
嬉しさの中で体温が上昇して、身体が勝手に動き出す。
「今更、知らなかったなんて言わないよな?」
ロイドは珍しく少しだけ意地悪げな色を添えながら、目の前の男に抱き付いた。
彼の首筋に回した両腕には遠慮なく力が入る。
僅かな笑みが喉の奥に籠もり、小刻みに肩を震わせると、ランディが身動ぎをした。
「さすがに言えねぇな。好意がダダ漏れすぎなんで」
揺れている茶色の毛先が首筋に当たり、くすぐったくて目を細める。
預かり物を返して空になった手をロイドの背中に回し、彼の頭部に優しく唇を落とした。
しかし、すぐに不満げな視線を向けられてしまう。
「は?そっちだって同じくせに」
「お前と一緒にすんなよ。こっちは逆に色々と堪りまくってたんだからな」
ランディは強めな口調で応じ、密着しているロイドの身体をそのまま壁に押し付けた。
「いい加減……離れてる間に募った想いの丈を、吐き出させちゃくれねぇか?」
出向したあの時、愛おしいタグに告げた言葉を思い出した。
最後の逃げ道を気持ち良いくらいに振り払ってくれた『恋人』へ、深い口づけを贈る。
吐息を制され、力の緩んだロイドの手中からタグが落ちそうになった。
それを咄嗟に、彼の手ごと壁へ縫い付けたランディの掌が少し汗ばんでいる。
長らく添っていた分身と、ようやく引き寄せた本人と、どちらにもこの想いを受け止めて欲しかった。
2021.07.10
#閃Ⅲ #創畳む
お互いに意識し合っている両片想い(閃Ⅲ)→恋人同士になる話(創)
SS2本をまとめています。
【文字数:5500】
【小さな分身】
クロスベル駅。帝国方面のホームにアナウンスの声が流れた。
そろそろ列車が到着するようだ。
ベンチに腰を下ろしていた青年がゆったりと立ち上がる。
そこへ、彼の名前を呼ぶ声と共に一人の女が駆け寄ってきた。
「ランディさん!良かった……間に合ったわ」
「おっ、なんだよ。見送りとは嬉しいねぇ」
見知った顔を前にランディは陽気な応答をした。
彼女は歓楽街で贔屓にしている店での顔馴染みだ。
夜の華やかさとは一転してシンプルな装いをしていたが、すぐに分かった。
「ふふっ、しばらく顔を見れないなんて寂しいわ」
女はしなやかな両手を逞しい腕に絡ませ、艶めいた唇を耳元に寄せた。
「──『彼』からよ」
そう囁きながら、ランディの上着のポケットに何かを忍ばせた。
「……おう。ありがとな」
彼は一瞬だけ瞠目したが、すぐにニヤリと笑った。
程なくして定刻通りに列車がやってきた。
見送りに来た女と親しげなやり取りを交わし、車内へと乗り込む。
座席に身を落とし、動き始めた車窓を眺めながらポケットに手を突っ込んだ。
女から渡されたものは封筒のようだが、単純に手紙というわけではなさそうだ。
指先に硬い感触が当たる。
「どうせなら、ラブレターにしとけよ……色気がねぇな」
ランディは戯けた色を見せながら周囲の気配を探った。
自分の立場を考えれば、監視の目はどこかにあるはずだ。
最低限、リーヴスに到着して第Ⅱ分校を訪れるまでは。
これが他の仲間たちからであれば、そこまで神経を尖らせる必要はない。
しかし、送り主が指名手配中の『彼』であれば話は別だった。
本音を言えば、今すぐにでも開けてしまいたい。
そんな衝動を胸に押し隠した彼は、表面上は平静を装い、名残惜しげに封筒から手を離した。
住居として与えられた寮の一室に足を踏み入れた時、何の感慨も抱けなかった。
必要な家具は備え付けられており、予め送っていた私物の段ボール箱も届いている。
これからここでの生活をする上で、困ることはないだろう。
ランディは後ろ手にドアを閉め、綺麗に整えられたベッドの上に腰を下ろした。
「……ったく、厄介な場所に飛ばしやがって」
今回の出向は、打診という皮を被った半ば強制的なものだった。
先刻。挨拶がてら第Ⅱ分校へ向かい、軽く顔合わせを行ったが、初見から曲者揃いといった印象だ。一筋縄ではいかない職場になるのは間違いない。
「はぁ~、いきなりあいつらが恋しくなってきたぜ」
つい苦笑いを浮かべてしまうのも仕方がなかった。
彼は身内とも呼べる同僚たちの顔を思い浮かべ、上着のポケットに忍ばせていた封筒を取り出した。
クロスベル駅で受け取ってから大分時間が経ってしまったが、ようやく中身を確認できる。
はやる手元を落ち着かせ、丁寧に封を切ると、微かに金属の擦れるような音がした。
封筒の中には、短いチェーンが付いた金属製のタグと一枚の紙。
「こいつ……は」
手の平に収まる小さなタグに刻印された名前を認識した途端、ランディは言葉を詰まらせた。
それはロイドが携帯しているクロスベル警察の認識タグだった。
併合された今となっては機能しているか怪しいものだが、規則上は常に持ち歩いていなければならない。
普段は捜査官らしく真面目な性格の彼だが、時には周囲が驚くほど大胆な行動を起こすことがある。今回も例に漏れないようだ。
「これって、手放していいもんなのか?」
一人なのも相まって心情がストレートに言語化されてしまった。
少し戸惑いがちに同封された紙の方を取り出してみる。
こちらはお世辞にでも手紙を綴るような用紙ではなく、メモ帳を引きちぎったようにも見える。急いでいたのか、そこには短い走り書きがあった。
『預けておく。絶対に返しに来い』
詰まらせるどころか、完全に言葉を失った。
離れた相手に、自分が常に身につけているものを預けることへの重みを感じる。
ラブレターどころの色気ではなかった。
胸の中に熱いものが込み上げてくる。
「……ははっ。普通は預けた方が来るもんじゃねぇのかよ?」
ようやく発した声は、ロイドからのメッセージに突っ込みを入れる形になった。
だが、彼の言いたいことは手に通るように分かる。
潜伏活動をしているせいで、身動きが取りづらい故の言い回しなのだろう。
そして、帝国に行かざるを得ないランディへ向けての強い再会の約束だ。
仲間たちの誰よりも危険な状況にいるロイドからの想いが、ひしひしと伝わってきた。
ランディは乱れた筆跡を見つめた後、それを封筒の中へ戻した。
次に、手の中にあるタグへと視線を寄せる。
刻印されているロイドの名前に目元を緩め、親指の腹で愛おしげに何度もなぞった。
「行くに決まってんだろ。返すついでに、積もりまくった想いの丈を受け止めてもらうからな」
彼の代わりともいえる小さなタグへ、しっかりとした意思を告げる。
その後、何かを思い立った様子でベッドから離れ、まだ未開封の段ボール箱に手を付けた。
そこから取り出したのは装飾用の長めのチェーンだった。
器用な手つきでタグの穴に通されている短いものと付け替える。
それを首にかけ、大切なものを守るかのように衣服の内側へ隠した。
「まぁ、帝国の動向を探るには意外と良い場所かもしれねぇな」
ランディは窓の外を見据えながら口角をつり上げる。
果たすべき約束を得た彼の心は、明らかに浮上していた。
──後日。
ランディから預けたタグの扱いを聞き、ロイドは驚いた。
衣服のポケットにでも入れているのだろうと思っていたらしい。
あろうことか、胸元に潜ませていた事実を知ってしまい、妙に恥ずかしくなってしまった。
2021.06.17
【最後の逃げ道】
最初は久しぶりに顔を合わせた時、返してくれるものだと思っていた。
未だに戻ってこない預け物について、ロイドはわざと考えないようにしていた。
ずっと切迫した状況が続いていたせいもある。
ランディの方からもそれについての言及はなく、あの時はただ、目の前の窮地を打破する為に肩を並べて戦場を駆け抜けた。
今は、聞いてみてもいいのだろうか?
穏やかな日常を取り戻した街並みを瞳へ流し、隣で揺れる赤い髪を盗み見る。
両手をポケットに突っ込んで歩く姿は軽やかで、どうやらご機嫌なようだ。
「あのさ……ランディ」
「ん~、どっか寄ってくか?」
空は午後も幾分か回った様相をしている。夕食時にはまだ遠く、小腹が空いてくる時間帯になっていた。
ランディはそれを踏まえて話を振ってみたが、外れてしまったらしい。
「いや、そうじゃなくて」
はっきりと首を横に振られ、残念な顔をする。
「なんだ、違うのかよ」
しかし、特に気分を害したわけでもなく、声は明るい。
ロイドはそれに安心して口を開いた。
「あ、うん。その……まだ返してもらってないなって」
なんとなく主語を省いてしまったが、言いたいことはしっかりと伝わっているようだ。
ランディはほんの一瞬だけ顔を強張らせたが、すぐに応答してきた。
「……あれか」
彼は街中を行き交う人々に目をやり、辺りを気にしているような素振りを見せた。
「ここじゃ落ち着かねぇな。ちょっと付いてこい」
そして、軽く顎をしゃくりながら一言。
いつもより足早に歩き出した相棒の背中を、ロイドは慌てて追いかけた。
どうして場所を変えたいのだろう?
預けたタグは人目を気にするような代物ではないし、所持しているのならこの場で気楽に返してくれればいいだけの話だ。
そこまでを頭に巡らせたロイドは、ふと嫌なことに思い当たってしまった。
「まさか、なくしたとか言わないよな?」
人の気配が薄れて足音だけが鳴る細い路地に、焦った声が反射する。
「お前さぁ、さすがにそれは酷くね?」
ランディの足がピタリと止まった。
最初からこの場所だったのか。それとも薄情な言葉に足止めされたのか。
振り向きざま、わざとらしく傷心気味に口角をつり上げる。
「ご、ごめん……つい」
素直に受け止めたロイドはしょげてしまったが、ランディがおもむろに動かした手の行方を追いかけ、今度は目を丸くした。
首にかけているチェーンを衣服の内側から引っ張り出して、『それ』を摘まみ上げてみせる。
「なっ、なんで、そんなとこにあるんだよ!?」
自分の名前が刻印されたタグを見間違うはずもなく、ロイドは声を上げた。
まさか胸元から出てくるとは思わなくて、驚きと恥ずかしさが入り交じる。
「そりゃぁ、大事なもんだからな。肌身離さずに決まってんだろ」
ランディはそう言いながら小さな預かり物に唇を落とした。
出向の時から今の今までずっと共に居たせいか、愛おしさもひとしおだ。
「──っ!」
まるで恋人にでも囁いているような表情を浮かべている。
ロイドはそんな甘い仕草を見続けていることができず、彼に背を向けて目の前にある外壁へ額を押し付けた。
体温の上がった肌には、冷たくて硬い壁の感触が心地良かった。
両目を閉じながら、忙しない胸の鼓動を落ち着かせようとする。
何度か深い呼吸を繰り返し、ようやく形を成した言葉が微かな音になって地面へ落ちた。
「……なにやってんだよ、バカ」
街の賑わいから外れたこの場所では、否応なく相手の耳にまで届く。
ランディはタグを指先で弄りながら、独り言のような声を拾い上げた。
「お前だってそのつもりだっただろ?」
一切の軽さを削いだ瞳が、俯き気味の背中に向けられる。
「代わりを添わせる気なら、俺がどんな扱いをするのか……想像くらいはしたんじゃねぇの?」
「……あ」
彼の静かだが強い口振りは、壁と対面したままのロイドを振り返らせた。
違うとは言えなかった。
ランディが帝国へ赴くと知った時、一瞬真っ白になった頭の中でいつの間にか自分の認識タグを握りしめていた。
本当はあんな走り書きではなくて、きちんと手紙を綴りたかった。
今以上に離れてしまう彼への思慮と、小さな身代わりに載せた想いを込めて。
(想像なんかじゃない。俺はたぶん……分かってた)
タグを弄っているランディの姿はあまりにも自然体で、日常的に同じ動作をしているであろうことが窺える。
ずっと側に寄り添いながら、どれだけの情を注いでくれていたのだろう。
そう考えるだけで、胸の奥が痺れるように震えた。
何か言いたいのに喉がつかえて声が出ず、もどかしげに彼を見上げる。
それを真っ向から受け止めたランディは、ようやく手の動きを止めた。
彼もまた、言葉が出てこなかった。
逸らす術を知らず、絡み合った視線だけがやたらと熱っぽくなる。
今までずっと、この狂おしい気持ちを確かな言葉で伝えたことなどなかった。
それでも燻る火種は隠しようがなく、双方向に筒抜けの状態で、互いに強く意識し合っている。
路地に隠れた二人の影はまるで動かず、その時間は長いようにも短いようにも感じられた。
一歩踏み込む機会を覗っているのか、それとも牽制しているのか。
「俺としてはもうちょい場を整えたかったんだが……」
じりじりと焼け付く緊張感を破ったのは、この状況に不満を漏らすランディの声だった。
不本意だと言わんばかりの表情で頭を振って、小さく息を吐き出す。
もう、これ以上引き延ばす気にはなれなかったし、そんな空気感でもなかった。
「お前が相手じゃ、出し抜けになっても仕方ねぇか」
彼は自嘲気味に呟きながら、今や身体の一部のようになっている小さなタグを首から外した。
それをゆっくりとロイドの前に掲げる。
「こいつを返したら……マジで口説き落とすぞ。いいのか?」
一段低くなった声が狭い空間に響いた。
「なんだよ、それ」
金属に刻印された名前を懐かしげに見つめていたロイドが、思わず顔を歪めた。
ランディは、暗に「ただの相棒には戻れない」と言っている。
けれど、最後の最後に逃げ道を残す体を取り、わざわざ問いかけてきた。
それは真摯な想いゆえの優しさなのかもしれない。
「そんなの……聞くことじゃない」
だが、ロイドにとっては全く必要のない気遣いだ。
彼は手を伸ばし、視界にある自分の代わりを強引に掴み取った。
手の中を一瞥してから、真っ直ぐに相手を見上げる。
「いいもなにも、ずっと前から落ちてる」
どう足掻いてもこの気持ちを押し隠すことはできなかった。
用意してくれた逃げ道を一蹴し、真剣な眼差しを受け止める。
ようやく、表面上は片恋同士だった欠片が噛み合ったのを感じた。
嬉しさの中で体温が上昇して、身体が勝手に動き出す。
「今更、知らなかったなんて言わないよな?」
ロイドは珍しく少しだけ意地悪げな色を添えながら、目の前の男に抱き付いた。
彼の首筋に回した両腕には遠慮なく力が入る。
僅かな笑みが喉の奥に籠もり、小刻みに肩を震わせると、ランディが身動ぎをした。
「さすがに言えねぇな。好意がダダ漏れすぎなんで」
揺れている茶色の毛先が首筋に当たり、くすぐったくて目を細める。
預かり物を返して空になった手をロイドの背中に回し、彼の頭部に優しく唇を落とした。
しかし、すぐに不満げな視線を向けられてしまう。
「は?そっちだって同じくせに」
「お前と一緒にすんなよ。こっちは逆に色々と堪りまくってたんだからな」
ランディは強めな口調で応じ、密着しているロイドの身体をそのまま壁に押し付けた。
「いい加減……離れてる間に募った想いの丈を、吐き出させちゃくれねぇか?」
出向したあの時、愛おしいタグに告げた言葉を思い出した。
最後の逃げ道を気持ち良いくらいに振り払ってくれた『恋人』へ、深い口づけを贈る。
吐息を制され、力の緩んだロイドの手中からタグが落ちそうになった。
それを咄嗟に、彼の手ごと壁へ縫い付けたランディの掌が少し汗ばんでいる。
長らく添っていた分身と、ようやく引き寄せた本人と、どちらにもこの想いを受け止めて欲しかった。
2021.07.10
#閃Ⅲ #創畳む
ひとつ、変わらないもの
創→碧(回想)→創・恋人設定
ロイドの成長を見守り認めながらも年上ぶりたいランディの話。
【文字数:10000】
下の階にはすでに人の気配がある。
先ほど隣の部屋から扉が開く音が聞こえたので、ロイドで間違いないだろう。
次に三階から降りてくる女性の足音が二つ。微かに楽しげな話し声が聞こえてくる。
「あ~、なんかいまいちなんだよなぁ~」
建物の中に同僚たちの動きを感じ取りながら、ランディは自室で独りごちた。
クローゼットを開けたまま、扉の内側に設置されている姿見と睨めっこをしている。
後ろで一纏めにしている長髪を解いて頭を一振りした。
周りから見ればいつも通りで特に問題はない姿だったのだが、どうやら本人は結び方が気に入らないようだ。具体的にどこがというよりも感覚的な問題なのかもしれない。
そうこうしている内に、一階からは賑やかなやり取りが聞こえ始めていた。
「やべぇ……あいつにどやされる」
特務支援課のリーダーは真面目な性格である。
皆が集合しているのを知りつつ、のんびりと身支度でもしていようものなら、小言の一つでも言われかねない。
更にはエリィとティオからの追撃も想像できた。
ランディは結び方への拘りを諦めて素早く髪を纏め直す。
ロイドだけであれば軽く受け流すのだが、彼女らを敵に回すのはちょっと怖い。
「仕方ねぇな。これで行くか」
彼が女性陣に頭が上がらないのは、支援課の結成当初から変わらない。
慣れた手つきで愛用のスタンハルバードを持ち出し、ようやく自室から出て行った。
少しだけ急ぐ振りをしながら階段を降り、愛想笑いを浮かべて年下の同僚たちを見回す。
「悪ぃ、悪ぃ、待たせたな」
軽い調子で声をかけると、テーブルの脇に集まっていた三人が一斉にランディの方を向いた。
「遅いわよ、ランディ」
彼の予想に反して最初に咎めてきたのはエリィで、腕組みをしながら小さなため息を吐く。
「なかなかビシッと決まらなくてよぉ~」
それをヘラヘラとかわす横で、ティオがロイドに声をかけた。
「ロイドさん、あれは遅すぎなランディさんに持たせては?」
「でも、課長から頼まれたのは俺だしな~」
「真面目すぎです。今日の前半は一緒の任務ですし、こき使ってしまえばいいのではないかと」
二人の会話はランディの耳にも届いたが、内容がさっぱり分からない。
「なぁ、お嬢。あいつらの会話が不穏なんだけど?」
「ロイドが課長から雑用を頼まれているのよ。書類の入った段ボールを警察署に持って行って欲しいらしいわ。確か……二箱だったかしら?」
すると、エリィが説明をしてくれた。
「そうだな。まだあっちの部屋に置いてあるんだけど」
続けてロイドが肩を竦めながら課長の部屋に視線を向ける。
「はぁ?こっちも忙しいんだから、そのくらい自分で持ってけよ」
「それについては同感です」
ランディはあからさまに不満げな反応を示し、語尾を待たずにティオが頷いた。
「まぁ、まぁ。そんなに大した量じゃないしさ」
支援課のリーダーはそんな同僚たちを宥め、ふと壁の時計に目をやった。
今日は特に時間を定めているわけではないが、そろそろ頃合いだろう。
「それより、もう出た方が良さそうだな。二人は先に行ってくれ。こっちは書類の件もあるし」
「そうね。そちらはお願いするわ。ティオちゃん、行きましょう」
「はい、久しぶりに一緒ですね」
午前中の支援要請はそれぞれ二組に分かれて処理をする予定だ。
午後は単独行動になってしまうが、それでも二人はどこか嬉しそうな足取りで外へ出て行った。
「──で、俺はこき使われればいいのか?」
彼女らを見送った後、ランディは冗談交じりで問いかけた。
ロイドは外出前にもう一度今日の予定を確認しておこうと、端末を操作している。
「う~ん」
返事はすぐに返ってこなかった。
小さく唸りながら数々の要請が並ぶ画面を見つめている。
「どうした?」
何か問題でもあるのかと、彼の側に近寄って横から顔を覗き込む。
「……たまにはみんな一緒がいいな」
ロイドが独り言のように呟いた。
クロスベル再独立後の目まぐるしい日々も徐々に薄れつつあるが、特務支援課に寄せられる案件は後を絶たない。
近頃は個々に動いているのが常で、今日のような体制の方が珍しいくらいだった。
「なんだよ、急に。寂しくなっちまったのか?」
その横顔が幼い子供のように見え、からかう気が削がれてしまったランディの双眸は柔らかい。
「前は……ずっとみんなでクロスベル中を走り回ってたな~と思って」
教団の事件からこの方、数々の支援要請を一緒にこなしてきた。
互いに不足している部分を補い合い、地道に一歩ずつ経験を積み重ねて今に至る。
立ち塞がる大きな壁に足掻き続けた年月の中、ふと周りを見れば、そこにはいつだって仲間たちの姿があった。
「だな。懐かしむほど年数が経ってるわけじゃねぇのに、随分と昔のことみたいに感じるぜ」
ランディは静かにそう言った後、画面から視線を外そうとしない同僚の頭を軽く掻き混ぜた。
「まぁ、あれだ。今はそれなりに成長したってことだろ?それぞれ単独でも任せられるくらいには」
適材適所と言ってしまえばそれまでだ。
けれど、そんな一言では表せない感慨とほんの少しの寂しさが入り交じる。
言葉の端に滲み出る感情はロイドにも伝わり、彼はようやく端末の電源を落として画面に背を向けた。
「そうだよな。なんか……ごめん。これから仕事だっていうのに」
「気にすんなよ。ほら、今日も元気にお勤めといこうぜ」
湿っぽい言動を謝る背中を一つ叩き、ランディはニカッと笑った。
そして、スタンハルバードをテーブルの上に横たえ、課長の部屋に足を向ける。
「あ、ランディ。書類は俺が持っていくから」
「いや、ティオすけのご指名だしな。あと、リーダーを寂しがらせたお詫びってやつ?」
引き留めようとして追いかけてくるロイドを制しながら、茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる。
「うっ……」
案の定、彼は言葉に詰まり足を止めた。
その隙に素早く目的の物を持ったランディが戻ってくる。
「意外にかさばるな、これ」
書類が詰まった箱を上下に重ね、それを両手で抱えている。高さは顎の辺りで収まっているので、このまま歩く分には問題なさそうだ。
「やっぱり俺も持つよ。一個ずつで丁度いいだろ?」
「俺的には丁度よくねぇな。ここはお兄さんに任せておけよ」
ロイドは慌てて駆け寄ったが、彼にはまるで譲る気がないようだ。
納得がいかないとばかりに抗議の視線を送ると、
「代わりに、それ持ってくれるとありがたいんだけど」
ランディはテーブルの上に置いた愛用の武器に意識を寄せた。
「それって……俺が持っていいのか?」
予想外な提案を受け、茶色の瞳が大きく見開いた。
両手が塞がっている無防備な状態で自分の武器を預けることは、余程の信頼関係がないと成り立たないはずだ。
特にランディは猟兵として戦場に身を置いていた過去があり、気紛れに少し触らせてもらうのとはわけが違う。
「当たり前だろ。お前は自慢の相棒だからな」
そわそわとテーブルの前をうろついている姿が笑いを誘い、肩を震わせて堪えたランディが強い一押しを放った。
それを聞いた途端に表情が輝き、嬉しそうな声が部屋中に響き渡る。
「分かった。それじゃ、警察署まで預からせてもらうな!」
ロイドは上機嫌で長い柄の部分を掴み、片手で軽々と持ち上げた。
それから大切な物を扱うかのようにしっかりと胸元に引き寄せる。
(──こいつは)
その一連の動作を見たランディは、密かに目を見張った。
あれは一般的な規格から外れている特別仕様の武器だ。
通常の物より重量があり全身も長いので、扱うには相当の筋力がいる。
「ランディ、そろそろ出るぞ?」
なぜか黙って見つめてくる年長の相棒に、ロイドは不思議そうな顔をした。
立ち止まったままの彼の横をすり抜け、先に玄関の方へ向かう。
「あぁ、そうだな」
その後ろ姿が以前よりもずっと大きくなっているような気がした。
(ははっ、なんだよ。あの頃は悔しがってたくせにな)
ロイドが過去を懐かしんだことに感化されてしまったのだろうか。
ランディは自慢の相棒が肉体的にも成長している事実を喜びつつも、まだ発展途上だった頃の彼を思い出し、静かに目を細めた。
同僚たちが空き時間を利用して鍛錬をしていること自体は珍しくはない。
とは言っても、率先してやりたがる面子は限られるのだが。
僅かに地面が震動して土煙が上がった。
同じ武器を扱うにしても、やはり動き方には差異がある。
赤毛の男は一振りの威力が大きく、攻撃範囲を広い。
ピンクブラウンの髪をした女は力こそ劣るが、身軽で手数が多い。
「基本的にはパワー重視な武器だけど、戦闘スタイルも色々だな」
警備隊の先輩と後輩の間柄である二人の攻防は、鍛錬と言えどもなかなかに見応えがある。
ロイドは腕組みをしながら、熱心に彼らの動作を目で追っていた。
ひとしきり激しい攻撃の応酬が続いた後、互いに間を取り数拍。
「あれ、ロイドさん?」
最初に見学者の存在に気が付いたのはノエルだった。
「おっ、なんだよ。いるなら声かけろって」
二人は構えを解き、それまでの緊張感が一気に緩和する。
「あのなぁ……無茶言うなよ」
街中で偶然会ったかのような軽い調子の彼に、ロイドは思わず脱力する。
毎度のことながら、武器を振るっている時とそれ以外の時の落差が激しい同僚だ。
「それより、俺のことは気にしないで続けてくれよ」
しかし、自分の存在が鍛錬に水を差してしまった感は否めず、すぐにそう言った。
「あー、いいって。大分揉んでやったしなぁ。そろそろお開きにしようぜ、ノエル」
「はい。随分と時間を割いて頂きましたし。ランディ先輩、ありがとうございました」
二人はこれ以上鍛錬を続ける気はないようで、ノエルが真面目に一礼をして事の終わりを告げる。
「いや~、来てくれて助かったぜ。ノエルが容赦ねぇから、もうヘトヘトでよぉ」
赤毛の青年は後輩と共にロイドに歩み寄りながら、わざとらしく戯けてみせる。
ノエルもその意図に気づき、微笑しながら話を合わせた。
彼らのリーダーは非常に分かりやすく、今は顔中に申し訳なさが滲み出ている。
「こいつが『俺も混ざりたい』とか言ってきたらどうしようかと……」
「あ、でも、それは良いですね。今度は是非三人でお願いしたいです」
「おいおい、勘弁しろって」
そんなやり取りを黙って聞いていたロイドの頬がふっと緩んだ。
どうやら気を遣われてしまったらしい。
改めて二人を眺めると、それぞれにスタンハルバードを手にしている姿は勇壮で頼もしい。だが、やはりノエルの方には物珍しさがあった。
「今まであんまり見る機会がなかったけど、さすが警備隊だな」
「ふふっ、こちらも隊員の標準装備ですからね。最近は先輩と合わせる機会も増えたので、後れを取らないようにしないと」
「お前、結構パワー系だよなぁ。長物メインでも遜色ないだろうよ」
武器のことに始まり警備隊の鍛錬の内容など、三人で和やかに会話を重ねる中、ノエルは何かに思い当たり声を上げた。
「あれ、そう言えばロイドさんもスタンハルバード扱えるんですよね?」
「あぁ、警察学校で一通りの武器は触ってるしな。う~ん、でもわりと苦労した記憶が……」
ロイドは当時のことを思い出したのか、眉を寄せて遠くに目をやった。
「身体ごと突っ込みたいロイドくんには、相性悪かったんじゃないの~?」
そこへ、すかさずランディが横から茶化してくる。
「人を脳筋みたいに言うな!」
直情的にニヤけ顔の同僚を睨み付け、すぐに手が動いた。
「それ、ちょっと貸せよ。基礎ぐらいできてる」
ロイドは憤然としつつ、強引にランディからスタンハルバードを引ったくった。
「あっ、ロイドさんそれ、先輩仕様で重量が……」
ノエルの声と同時にずしりとした重みがのしかかる。
(うっ、意外と重い)
持ち運びに支障はない。たぶん、短時間であれば実戦を想定した動きもできるだろう。
だが、彼が愛用しているトンファーのように、常に身体の一部にして軽々と扱えるかというのはまた別の話だ。
ロイドは自分の身体能力と武器の重量を摺り合わせ、唇を噛む。
「あの、やっぱり重い……ですよね?」
頭の中で自己分析をして無言になっている青年を、ノエルが遠慮がちに覗き込んだ。
「こいつはそこまでヤワじゃねぇよ。数分くらいならお前相手でもやれると思うぜ。まぁ、普段使いは無理だけどな」
それに応じようとしたが、代わりにランディが口を開く。
(なんで、分かるんだよ?)
まるで頭の中を覗かれているみたいだ。
裏を返せば、それだけ深く相手のポテンシャルを把握しているということなのだが、今のロイドにはそれが面白くなかった。
「……もう、いい。返す!」
噛みつきそうな色を瞳に宿し、スタンハルバードを同僚の胸元に押し付ける。
武器が戻ってきたランディは、握り直した柄で自分の肩を軽く叩いた。
「そんなに拗ねるなよ。お前に軽々と振るわれたんじゃ、兄貴分の立場がズタボロになっちまうだろ」
からかうというよりも少し困った様子で笑うと、ロイドは膨れっ面でそっぽを向いてしまった。
彼との肉体的な差を感じるのは今に始まったことではない。
時には羨望の眼差しを送り、時にはこうやって悔しさを募らせる。
まるで、亡くした兄の背中を追いかけるように。
「そのうちズタボロにしてやるからな」
「はい、はい。そのうちな」
目を合わせないままのロイドとそれを軽くあしらうランディの姿は、傍から見れば微笑ましいものだ。
(ロイドさんって、ランディ先輩相手だとすぐムキになるんだよね。ちょっと可愛いというか、何というか……)
ノエルは彼らを眺めやりながら、ついそんな風に思ってしまった。
この日、特務支援課リーダーの機嫌はずっと低空飛行のままだった。
事情を知らない他のメンバーたちは、「どうせランディのせいだろう」との共通認識があり、いつものことだとばかりにさして驚きもしなかった。
夜も深い時間帯に目が覚めた。
ぼんやりとした薄暗い視界の中に、見慣れた赤い髪が入ってくる。
こんな日は大抵朝までぐっすりと眠っているし、起床するにしても気怠さが付きまとうものだ。
ロイドは自分にしては珍しい状況に驚いた。
すぐに寝直そうとしたが、やたらと頭が冴えてしまって眠気は一向に訪れない。
顔をずらして隣人を覗えば、その瞳は閉じられたままだった。
静かに上半身を起こし、うつ伏せ気味の寝姿を何気なく眺めて密かに笑む。
動いたせいで二人で潜り込んでいた毛布がはだけ、逞しい背中が露わになっていた。
ふと、数日前の出来事が頭を過ぎる。
通常の規格ではない特別仕様のスタンハルバードは、やはり重かった。
多少は扱えると認めてくれたのは救いだが、それよりも悔しさの方がはるかに勝った。
(……俺とは全然違う)
見ているだけでは飽き足らず、つい触れたくなってしまった。
普段は一纏めにしている髪は解かれ、背中に散らばっている。
それを軽く指先で流し、素肌の上に手を置いた。
「う~ん、やっぱり筋肉凄いなぁ」
力を抜いている状態でも鍛え抜かれた肉体の様子が分かり、悔しさを引きずりながらも目を輝かせた。
筋を指で辿ってみたり、手の平で叩いてみたりとしている内に楽しくなってくる。
だが、すぐに制止がかかってしまった。
「──おい、こら。人の身体で遊ぶなっつーの。眠れねぇだろ」
言葉のわりには棘がない声で、機嫌を損ねているようには感じられない。
「どうせ起きてたくせに」
気配に敏感な彼のことだ。自分が身を起こした時点でとっくに覚醒していただろうと、ロイドは悪びれる素振りもなかった。
「お前さぁ……この間の、まだ気にしてんの?」
まだ触ることを止めようとしない恋人へ、ランディが思慮深げな視線を向けた。
「気にしてるっていうか、ちょっと思い出しただけっていうか」
それを聞いたロイドは少しだけ頬を膨らませた。
「そりゃぁ、ランディの方が年上だし、どうしたって差ができるのは仕方がないことだし……」
ブツブツと言いながら、元凶である大きな体躯を見つめる。
すると、その肩が小刻みに揺れた。
「焦らなくていいんじゃね?あと一・二年もすればお前もいい感じになるだろうしな」
喉の奥で笑いながらも諭すような口振りは穏やかで、年長者の余裕が垣間見える。
「……でも」
ロイドとて分かってはいるのだ。今まで生きてきた歳月と環境の違いを。
それでも気持ちの方はなかなか付いてこない。
「やっぱり悔しいなぁ」
複雑な胸の内を言葉に乗せ、茶色の頭をぽとりと広い背中の上に落とした。
頬を寄せると慣れ親しんだ体温が伝わってくる。
つい心地良くなって細めた視界に、歴戦の傷跡たちが入ってきた。
(どれだけ戦ってきたらこんな風になるんだろう?)
ぼんやりとそう思った。
この赤毛の青年から猟兵時代の話を聞く機会はあまりない。
尋ねれば応えてくれそうだが、興味本位で詮索するのは気が引けてしまうところだ。
「なんだよ。今度は枕代わりにするつもりか?」
ランディは背中の重みが急に大人しくなったことで、寝落ちは勘弁しろよと揶揄をする。
「ん~、そうじゃなくて。傷跡……見てた」
だが、ロイドの受け答えは眠気を感じさせないものだった。
「ごめん、なんか気になっちゃってさ。色んな傷があるなって」
気を悪くさせるかもしれないと思いつつも、正直に言う。
数日前の悔しさを引きずり、戦場で鍛えられた逞しい身体を目の前にして、どうしても自分に嘘がつけなかった。
さっまで筋肉を辿っていた指が、今度は遠慮がちに傷跡をなぞる。
「今更、何言ってんだか。見慣れてる身体のくせによ」
それに対し、ランディは気分を害した様子を見せなかった。
「まぁ……猟兵なんて、傷だらけで当たり前っつーか?手足が吹っ飛んでないだけマシだぜ」
それどころか、明るい調子でそんなことを口にする。
「案外、胴体に穴が空いてもくたばらないもんだしなぁ」
昔のことを思い出しているのか遠い目をしたが、その直後、ロイドに思いっきり背中を叩かれた。
「いって~なぁ。いきなり何すんだよ」
「……ランディ」
背中の上に伏せていた上半身が勢いよく起き上がり、恨めしげな声に怒気をはらませた視線が突き刺さる。
「今はもう猟兵じゃないんだから、そういう感覚でいるのやめろよな」
急に軽くなって動けるようになったランディは、仰向けに寝転がってロイドを見上げた。
「そうやって、いつも一人で無茶ばっかりするんだから」
薄闇に浮かび上がる瞳はあきらかに怒っていたが、どこか泣き出しそうな影がチラついているようにも見える。
「あー、悪かったって。もう言わねぇから」
「ほんとか?ちゃんと反省しろよ」
長年の猟兵生活で染み付いている思考回路は、そう簡単には変えられない。
だが、相棒であり恋人であるロイドがそれを良しとしないことも承知している。
自然に出てしまったとはいえ、今は言葉にするべきではなかったとすぐに後悔した。
詫びる代わりに腕を伸ばし、一度頬に触れてから寝乱れた髪に指を差し入れて優しく梳いてみる。
「お前……なんか、やけに不安定だな。いつもは朝まで寝てるくせに」
大人しく身を委ねているのは、少しは絆されてくれているからなのか。
毛並みを撫でられた動物のように目元を緩めている姿に安心し、ランディはゆっくりと身体を起こした。
そのままロイドの後頭部を引き寄せ、軽く音を立てて口づける。
「今夜はまだ物足りないとか?」
「な、何言ってんだよ!偶然目が覚めただけに決まってんだろ」
こんな状況では嫌でも言葉の意味に気が付いてしまう。
ロイドは意地悪げに笑う恋人の顔を至近距離で睨んだ。
「思い出して悔しいのも、たまたまだからな」
反射的に身体を離したくなり、まだ後頭部に添えられている手を引き剥がそうとする。
しかし、その動きよりも早く一方の肩を掴まれた。
「あっ!?」
一瞬にして視界が回転し、抗う間もなくベッドの上に背中が落ちた。
先刻の余韻が残る肌を甘噛みされて、不意打ちの刺激にギュッと両目を瞑る。
「なぁ、悔しいついでに聞きたいことあるんだけどさ~」
そこへやたらと軽い声が降ってきた。
「なんだよ?」
どうせふざけているのだろうと思ってすぐに目を開いたが、その瞬間に息が止まりそうになる。
上から見つめてくるランディの表情は、予想外に真剣なものだった。
「こうやって俺に組み敷かれることには何とも思わないのか?」
たやすくシーツの中に沈んだ身体は動きを封じられ、まざまざと力の差を見せつけられる。
武骨な指が肩に食い込んで痛みを感じた。
「……え?」
それでもロイドは不思議そうに目を瞬かせ、頭に疑問符を浮かべた。
なぜ、そんなことを聞いてくるのか分からなかった。
確かに身体を重ねる上での肉体的な優劣があるとすれば、主導権はランディの方にある。
四肢が絡めば解くことは難しく、唇が落ちてくれば高ぶる熱に翻弄されるのが常だ。
煽られて、追い込まれて、いつの間にか余裕がなくなってしまう。
けれど、それに劣等感を覚えたことは今まで一度もなかった。
「そんなの、気にしたことない」
「なんで?」
答えを急いてくる声が少しだけ不安げに聞こえ、自由が利く方の手を伸ばした。
「う~ん、上手く言えないんだけどさ……」
さっき彼がしてくれたこと真似してみたくなる。
見下ろしてくる顔に乱れ落ちた赤い髪を、指で梳きながら後ろへと流した。
「俺のこと大切に想ってくれてるなって、ちゃんと気持ちが伝わってくるっていうのかなぁ」
ロイドは相手を真っ直ぐに見つめ、屈託なく笑った。
優しい抱擁も、時には手荒い愛撫も、そこにはいつだって確かな愛情がある。
だから、それを嬉しく思うのと、兄貴分の背中を追って悔しがることは、感情の質が違うのだと。
「あれ?」
求めた返答があまりにも率直だったせいか、ランディは恋人を凝視したまま固まってしまった。
「大丈夫か?」
ロイドが軽く頬を叩くとすぐ我に返ったが、そのまま脱力して彼の身体にのしかかる。
「なんなんだよ……こいつ。恥ずかしいこと言いやがって」
首筋に顔を埋めて呟いているランディの耳が僅かに赤かった。
「お、重い、どけって」
そんなことには気が付かず、ロイドは自分より大きな身体を一生懸命押し返そうとしている。
「もう、やだ……このまま寝てやる」
ランディにしてみれば、自分から仕掛けておいて超特大のカウンターを食らってしまった気分だ。
「おい、いい加減にしろ!」
耳元に投げやりな言葉が届いた途端、さすがのロイドも眉をつり上げた。
重しのように頑丈な身体はピクリとも動かない。
蹴り飛ばしてやろうかと本気で思い始め、下肢に力が籠もっていく。
彼がそれを実行に移すのはもはや時間の問題だった。
特務支援課のビルを出て警察署に向かう道中、相棒の武器を抱えているロイドはご機嫌だった。
両手が塞がっているランディの歩みは普段よりのんびりとしていて、それに合わせているはずなのに、足が跳ねて先へ行きそうになる。
(……色んな意味で成長してんのは確かなんだがなぁ)
他愛のない会話ですら嬉しそうで、元からの童顔も相まってか子供っぽさに拍車がかかっていた。
あの時、やたらと悔しがっていた姿が不思議と重なる。
重大な事象が多発していたことを考えれば、それこそ掻き消されてもおかしくはないくらいの些細な出来事だ。
それでも、きっかけに手を引かれて鮮明に思い出す。
ムキになって噛みついてくる相貌と。背中で遊んでいた指の感触と。
──屈託のない笑顔で放った言葉を。
(いや、待て。そこは思い出すなっつーの)
ランディは過去の記憶を巡らせた最後の最後で、自分にツッコミを入れた。
当時の精神的ダメージは相当で、しばらくは身体を重ねるのも躊躇したくらいだった。
もちろん、ロイドにその理由を隠していたのは言うまでもない。
そんな懐かしさや恥ずかしさが入り交じり悶々としたランディだったが、雑用を済ませて警察署を出る頃には平静を取り戻しつつあった。
「ありがとな、ランディ。助かったよ」
「このくらい、いいって」
ロイドは律儀に礼を述べ、軽い足取りで歩き出す。
これから東クロスベル街道に出て任務を行う予定だ。
ご機嫌すぎてスタンハルバードを返すのを忘れているのか、そのまま街中を進む彼の横で赤毛の青年が苦笑する。
(しょうがねぇヤツだな。外に出るまでは預けといてやるか)
手持ちぶさたな両手を上着のポケットに突っ込み、相棒に支援要請の内容を確認しながら、ふとさり気なく彼の体躯を品定めしてみた。
「……今なら数分どころか、結構長くいけそうだな」
「ん?なんか言ったか?」
評価はほんの小さな呟きで、聞き逃したロイドが見上げてきた。
「あぁ、お前もいいガタイになったなぁと思ってよ」
ランディがそう言い直してから背中を叩くと、彼は驚いて目を丸くした。
「そ、そうか?」
肉体的なことで褒められるのは初めて気がして、妙に落ち着かない。
「俺には及ばねぇがな。ま、そこは骨格の違いってことで」
信頼しているとか頼りにしてるとか、そういった類いのことはよく言ってくれる相棒だが、今のは不意打ちすぎて反応に困ってしまった。
「そうだなぁ。今度、力比べでもしてみるか?取りあえず腕相撲みたいのとか」
応答してこないロイドを気にせず、ランディは一人で話を進めている。
「タダじゃつまんねーから、負けた方が昼飯三日分……いや、一週間分奢りな」
相棒同士、感情が伝染しやすいのだろうか。今度は彼の方が楽しそうだ。
すると、ようやくロイドが口を開いた。
「ちょっと待て。それ、俺が負ける前提で言ってないか?」
話の内容に引っかかりを覚え、あからさまに面白くないという顔をする。
「さぁな。今のお前なら良い勝負になるんじゃね?それとも逃げんの?」
好戦的な笑みを浮かべたランディに上から覗き込まれ、ロイドの両眼に火が灯った。
「──受けて立つ!」
他の人ならいざ知らず、彼にここまで言われては引き下がるわけにはいかない。
無意識にスタンハルバードの柄を握りしめ、余裕たっぷりの相手を睨め付ける。
(こういうとこは昔から全然変わってねぇな。だから面白いんだけど)
それを真正面から捉えたランディは心の奥で安堵した。
彼の目から見ても大人の男として立派に成長しているロイドだが、根本的な部分はずっとあの頃のままだ。
自分だけに向けられる衝動的な感情はどこか子供じみていて、だからこそ優越感に浸れる。
相棒として恋人として対等な関係を築き上げてきた中で、ただ一つだけ。
年長者としての矜持は手放したくなかった。
2021.06.05
#碧 #創
畳む
創→碧(回想)→創・恋人設定
ロイドの成長を見守り認めながらも年上ぶりたいランディの話。
【文字数:10000】
下の階にはすでに人の気配がある。
先ほど隣の部屋から扉が開く音が聞こえたので、ロイドで間違いないだろう。
次に三階から降りてくる女性の足音が二つ。微かに楽しげな話し声が聞こえてくる。
「あ~、なんかいまいちなんだよなぁ~」
建物の中に同僚たちの動きを感じ取りながら、ランディは自室で独りごちた。
クローゼットを開けたまま、扉の内側に設置されている姿見と睨めっこをしている。
後ろで一纏めにしている長髪を解いて頭を一振りした。
周りから見ればいつも通りで特に問題はない姿だったのだが、どうやら本人は結び方が気に入らないようだ。具体的にどこがというよりも感覚的な問題なのかもしれない。
そうこうしている内に、一階からは賑やかなやり取りが聞こえ始めていた。
「やべぇ……あいつにどやされる」
特務支援課のリーダーは真面目な性格である。
皆が集合しているのを知りつつ、のんびりと身支度でもしていようものなら、小言の一つでも言われかねない。
更にはエリィとティオからの追撃も想像できた。
ランディは結び方への拘りを諦めて素早く髪を纏め直す。
ロイドだけであれば軽く受け流すのだが、彼女らを敵に回すのはちょっと怖い。
「仕方ねぇな。これで行くか」
彼が女性陣に頭が上がらないのは、支援課の結成当初から変わらない。
慣れた手つきで愛用のスタンハルバードを持ち出し、ようやく自室から出て行った。
少しだけ急ぐ振りをしながら階段を降り、愛想笑いを浮かべて年下の同僚たちを見回す。
「悪ぃ、悪ぃ、待たせたな」
軽い調子で声をかけると、テーブルの脇に集まっていた三人が一斉にランディの方を向いた。
「遅いわよ、ランディ」
彼の予想に反して最初に咎めてきたのはエリィで、腕組みをしながら小さなため息を吐く。
「なかなかビシッと決まらなくてよぉ~」
それをヘラヘラとかわす横で、ティオがロイドに声をかけた。
「ロイドさん、あれは遅すぎなランディさんに持たせては?」
「でも、課長から頼まれたのは俺だしな~」
「真面目すぎです。今日の前半は一緒の任務ですし、こき使ってしまえばいいのではないかと」
二人の会話はランディの耳にも届いたが、内容がさっぱり分からない。
「なぁ、お嬢。あいつらの会話が不穏なんだけど?」
「ロイドが課長から雑用を頼まれているのよ。書類の入った段ボールを警察署に持って行って欲しいらしいわ。確か……二箱だったかしら?」
すると、エリィが説明をしてくれた。
「そうだな。まだあっちの部屋に置いてあるんだけど」
続けてロイドが肩を竦めながら課長の部屋に視線を向ける。
「はぁ?こっちも忙しいんだから、そのくらい自分で持ってけよ」
「それについては同感です」
ランディはあからさまに不満げな反応を示し、語尾を待たずにティオが頷いた。
「まぁ、まぁ。そんなに大した量じゃないしさ」
支援課のリーダーはそんな同僚たちを宥め、ふと壁の時計に目をやった。
今日は特に時間を定めているわけではないが、そろそろ頃合いだろう。
「それより、もう出た方が良さそうだな。二人は先に行ってくれ。こっちは書類の件もあるし」
「そうね。そちらはお願いするわ。ティオちゃん、行きましょう」
「はい、久しぶりに一緒ですね」
午前中の支援要請はそれぞれ二組に分かれて処理をする予定だ。
午後は単独行動になってしまうが、それでも二人はどこか嬉しそうな足取りで外へ出て行った。
「──で、俺はこき使われればいいのか?」
彼女らを見送った後、ランディは冗談交じりで問いかけた。
ロイドは外出前にもう一度今日の予定を確認しておこうと、端末を操作している。
「う~ん」
返事はすぐに返ってこなかった。
小さく唸りながら数々の要請が並ぶ画面を見つめている。
「どうした?」
何か問題でもあるのかと、彼の側に近寄って横から顔を覗き込む。
「……たまにはみんな一緒がいいな」
ロイドが独り言のように呟いた。
クロスベル再独立後の目まぐるしい日々も徐々に薄れつつあるが、特務支援課に寄せられる案件は後を絶たない。
近頃は個々に動いているのが常で、今日のような体制の方が珍しいくらいだった。
「なんだよ、急に。寂しくなっちまったのか?」
その横顔が幼い子供のように見え、からかう気が削がれてしまったランディの双眸は柔らかい。
「前は……ずっとみんなでクロスベル中を走り回ってたな~と思って」
教団の事件からこの方、数々の支援要請を一緒にこなしてきた。
互いに不足している部分を補い合い、地道に一歩ずつ経験を積み重ねて今に至る。
立ち塞がる大きな壁に足掻き続けた年月の中、ふと周りを見れば、そこにはいつだって仲間たちの姿があった。
「だな。懐かしむほど年数が経ってるわけじゃねぇのに、随分と昔のことみたいに感じるぜ」
ランディは静かにそう言った後、画面から視線を外そうとしない同僚の頭を軽く掻き混ぜた。
「まぁ、あれだ。今はそれなりに成長したってことだろ?それぞれ単独でも任せられるくらいには」
適材適所と言ってしまえばそれまでだ。
けれど、そんな一言では表せない感慨とほんの少しの寂しさが入り交じる。
言葉の端に滲み出る感情はロイドにも伝わり、彼はようやく端末の電源を落として画面に背を向けた。
「そうだよな。なんか……ごめん。これから仕事だっていうのに」
「気にすんなよ。ほら、今日も元気にお勤めといこうぜ」
湿っぽい言動を謝る背中を一つ叩き、ランディはニカッと笑った。
そして、スタンハルバードをテーブルの上に横たえ、課長の部屋に足を向ける。
「あ、ランディ。書類は俺が持っていくから」
「いや、ティオすけのご指名だしな。あと、リーダーを寂しがらせたお詫びってやつ?」
引き留めようとして追いかけてくるロイドを制しながら、茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる。
「うっ……」
案の定、彼は言葉に詰まり足を止めた。
その隙に素早く目的の物を持ったランディが戻ってくる。
「意外にかさばるな、これ」
書類が詰まった箱を上下に重ね、それを両手で抱えている。高さは顎の辺りで収まっているので、このまま歩く分には問題なさそうだ。
「やっぱり俺も持つよ。一個ずつで丁度いいだろ?」
「俺的には丁度よくねぇな。ここはお兄さんに任せておけよ」
ロイドは慌てて駆け寄ったが、彼にはまるで譲る気がないようだ。
納得がいかないとばかりに抗議の視線を送ると、
「代わりに、それ持ってくれるとありがたいんだけど」
ランディはテーブルの上に置いた愛用の武器に意識を寄せた。
「それって……俺が持っていいのか?」
予想外な提案を受け、茶色の瞳が大きく見開いた。
両手が塞がっている無防備な状態で自分の武器を預けることは、余程の信頼関係がないと成り立たないはずだ。
特にランディは猟兵として戦場に身を置いていた過去があり、気紛れに少し触らせてもらうのとはわけが違う。
「当たり前だろ。お前は自慢の相棒だからな」
そわそわとテーブルの前をうろついている姿が笑いを誘い、肩を震わせて堪えたランディが強い一押しを放った。
それを聞いた途端に表情が輝き、嬉しそうな声が部屋中に響き渡る。
「分かった。それじゃ、警察署まで預からせてもらうな!」
ロイドは上機嫌で長い柄の部分を掴み、片手で軽々と持ち上げた。
それから大切な物を扱うかのようにしっかりと胸元に引き寄せる。
(──こいつは)
その一連の動作を見たランディは、密かに目を見張った。
あれは一般的な規格から外れている特別仕様の武器だ。
通常の物より重量があり全身も長いので、扱うには相当の筋力がいる。
「ランディ、そろそろ出るぞ?」
なぜか黙って見つめてくる年長の相棒に、ロイドは不思議そうな顔をした。
立ち止まったままの彼の横をすり抜け、先に玄関の方へ向かう。
「あぁ、そうだな」
その後ろ姿が以前よりもずっと大きくなっているような気がした。
(ははっ、なんだよ。あの頃は悔しがってたくせにな)
ロイドが過去を懐かしんだことに感化されてしまったのだろうか。
ランディは自慢の相棒が肉体的にも成長している事実を喜びつつも、まだ発展途上だった頃の彼を思い出し、静かに目を細めた。
同僚たちが空き時間を利用して鍛錬をしていること自体は珍しくはない。
とは言っても、率先してやりたがる面子は限られるのだが。
僅かに地面が震動して土煙が上がった。
同じ武器を扱うにしても、やはり動き方には差異がある。
赤毛の男は一振りの威力が大きく、攻撃範囲を広い。
ピンクブラウンの髪をした女は力こそ劣るが、身軽で手数が多い。
「基本的にはパワー重視な武器だけど、戦闘スタイルも色々だな」
警備隊の先輩と後輩の間柄である二人の攻防は、鍛錬と言えどもなかなかに見応えがある。
ロイドは腕組みをしながら、熱心に彼らの動作を目で追っていた。
ひとしきり激しい攻撃の応酬が続いた後、互いに間を取り数拍。
「あれ、ロイドさん?」
最初に見学者の存在に気が付いたのはノエルだった。
「おっ、なんだよ。いるなら声かけろって」
二人は構えを解き、それまでの緊張感が一気に緩和する。
「あのなぁ……無茶言うなよ」
街中で偶然会ったかのような軽い調子の彼に、ロイドは思わず脱力する。
毎度のことながら、武器を振るっている時とそれ以外の時の落差が激しい同僚だ。
「それより、俺のことは気にしないで続けてくれよ」
しかし、自分の存在が鍛錬に水を差してしまった感は否めず、すぐにそう言った。
「あー、いいって。大分揉んでやったしなぁ。そろそろお開きにしようぜ、ノエル」
「はい。随分と時間を割いて頂きましたし。ランディ先輩、ありがとうございました」
二人はこれ以上鍛錬を続ける気はないようで、ノエルが真面目に一礼をして事の終わりを告げる。
「いや~、来てくれて助かったぜ。ノエルが容赦ねぇから、もうヘトヘトでよぉ」
赤毛の青年は後輩と共にロイドに歩み寄りながら、わざとらしく戯けてみせる。
ノエルもその意図に気づき、微笑しながら話を合わせた。
彼らのリーダーは非常に分かりやすく、今は顔中に申し訳なさが滲み出ている。
「こいつが『俺も混ざりたい』とか言ってきたらどうしようかと……」
「あ、でも、それは良いですね。今度は是非三人でお願いしたいです」
「おいおい、勘弁しろって」
そんなやり取りを黙って聞いていたロイドの頬がふっと緩んだ。
どうやら気を遣われてしまったらしい。
改めて二人を眺めると、それぞれにスタンハルバードを手にしている姿は勇壮で頼もしい。だが、やはりノエルの方には物珍しさがあった。
「今まであんまり見る機会がなかったけど、さすが警備隊だな」
「ふふっ、こちらも隊員の標準装備ですからね。最近は先輩と合わせる機会も増えたので、後れを取らないようにしないと」
「お前、結構パワー系だよなぁ。長物メインでも遜色ないだろうよ」
武器のことに始まり警備隊の鍛錬の内容など、三人で和やかに会話を重ねる中、ノエルは何かに思い当たり声を上げた。
「あれ、そう言えばロイドさんもスタンハルバード扱えるんですよね?」
「あぁ、警察学校で一通りの武器は触ってるしな。う~ん、でもわりと苦労した記憶が……」
ロイドは当時のことを思い出したのか、眉を寄せて遠くに目をやった。
「身体ごと突っ込みたいロイドくんには、相性悪かったんじゃないの~?」
そこへ、すかさずランディが横から茶化してくる。
「人を脳筋みたいに言うな!」
直情的にニヤけ顔の同僚を睨み付け、すぐに手が動いた。
「それ、ちょっと貸せよ。基礎ぐらいできてる」
ロイドは憤然としつつ、強引にランディからスタンハルバードを引ったくった。
「あっ、ロイドさんそれ、先輩仕様で重量が……」
ノエルの声と同時にずしりとした重みがのしかかる。
(うっ、意外と重い)
持ち運びに支障はない。たぶん、短時間であれば実戦を想定した動きもできるだろう。
だが、彼が愛用しているトンファーのように、常に身体の一部にして軽々と扱えるかというのはまた別の話だ。
ロイドは自分の身体能力と武器の重量を摺り合わせ、唇を噛む。
「あの、やっぱり重い……ですよね?」
頭の中で自己分析をして無言になっている青年を、ノエルが遠慮がちに覗き込んだ。
「こいつはそこまでヤワじゃねぇよ。数分くらいならお前相手でもやれると思うぜ。まぁ、普段使いは無理だけどな」
それに応じようとしたが、代わりにランディが口を開く。
(なんで、分かるんだよ?)
まるで頭の中を覗かれているみたいだ。
裏を返せば、それだけ深く相手のポテンシャルを把握しているということなのだが、今のロイドにはそれが面白くなかった。
「……もう、いい。返す!」
噛みつきそうな色を瞳に宿し、スタンハルバードを同僚の胸元に押し付ける。
武器が戻ってきたランディは、握り直した柄で自分の肩を軽く叩いた。
「そんなに拗ねるなよ。お前に軽々と振るわれたんじゃ、兄貴分の立場がズタボロになっちまうだろ」
からかうというよりも少し困った様子で笑うと、ロイドは膨れっ面でそっぽを向いてしまった。
彼との肉体的な差を感じるのは今に始まったことではない。
時には羨望の眼差しを送り、時にはこうやって悔しさを募らせる。
まるで、亡くした兄の背中を追いかけるように。
「そのうちズタボロにしてやるからな」
「はい、はい。そのうちな」
目を合わせないままのロイドとそれを軽くあしらうランディの姿は、傍から見れば微笑ましいものだ。
(ロイドさんって、ランディ先輩相手だとすぐムキになるんだよね。ちょっと可愛いというか、何というか……)
ノエルは彼らを眺めやりながら、ついそんな風に思ってしまった。
この日、特務支援課リーダーの機嫌はずっと低空飛行のままだった。
事情を知らない他のメンバーたちは、「どうせランディのせいだろう」との共通認識があり、いつものことだとばかりにさして驚きもしなかった。
夜も深い時間帯に目が覚めた。
ぼんやりとした薄暗い視界の中に、見慣れた赤い髪が入ってくる。
こんな日は大抵朝までぐっすりと眠っているし、起床するにしても気怠さが付きまとうものだ。
ロイドは自分にしては珍しい状況に驚いた。
すぐに寝直そうとしたが、やたらと頭が冴えてしまって眠気は一向に訪れない。
顔をずらして隣人を覗えば、その瞳は閉じられたままだった。
静かに上半身を起こし、うつ伏せ気味の寝姿を何気なく眺めて密かに笑む。
動いたせいで二人で潜り込んでいた毛布がはだけ、逞しい背中が露わになっていた。
ふと、数日前の出来事が頭を過ぎる。
通常の規格ではない特別仕様のスタンハルバードは、やはり重かった。
多少は扱えると認めてくれたのは救いだが、それよりも悔しさの方がはるかに勝った。
(……俺とは全然違う)
見ているだけでは飽き足らず、つい触れたくなってしまった。
普段は一纏めにしている髪は解かれ、背中に散らばっている。
それを軽く指先で流し、素肌の上に手を置いた。
「う~ん、やっぱり筋肉凄いなぁ」
力を抜いている状態でも鍛え抜かれた肉体の様子が分かり、悔しさを引きずりながらも目を輝かせた。
筋を指で辿ってみたり、手の平で叩いてみたりとしている内に楽しくなってくる。
だが、すぐに制止がかかってしまった。
「──おい、こら。人の身体で遊ぶなっつーの。眠れねぇだろ」
言葉のわりには棘がない声で、機嫌を損ねているようには感じられない。
「どうせ起きてたくせに」
気配に敏感な彼のことだ。自分が身を起こした時点でとっくに覚醒していただろうと、ロイドは悪びれる素振りもなかった。
「お前さぁ……この間の、まだ気にしてんの?」
まだ触ることを止めようとしない恋人へ、ランディが思慮深げな視線を向けた。
「気にしてるっていうか、ちょっと思い出しただけっていうか」
それを聞いたロイドは少しだけ頬を膨らませた。
「そりゃぁ、ランディの方が年上だし、どうしたって差ができるのは仕方がないことだし……」
ブツブツと言いながら、元凶である大きな体躯を見つめる。
すると、その肩が小刻みに揺れた。
「焦らなくていいんじゃね?あと一・二年もすればお前もいい感じになるだろうしな」
喉の奥で笑いながらも諭すような口振りは穏やかで、年長者の余裕が垣間見える。
「……でも」
ロイドとて分かってはいるのだ。今まで生きてきた歳月と環境の違いを。
それでも気持ちの方はなかなか付いてこない。
「やっぱり悔しいなぁ」
複雑な胸の内を言葉に乗せ、茶色の頭をぽとりと広い背中の上に落とした。
頬を寄せると慣れ親しんだ体温が伝わってくる。
つい心地良くなって細めた視界に、歴戦の傷跡たちが入ってきた。
(どれだけ戦ってきたらこんな風になるんだろう?)
ぼんやりとそう思った。
この赤毛の青年から猟兵時代の話を聞く機会はあまりない。
尋ねれば応えてくれそうだが、興味本位で詮索するのは気が引けてしまうところだ。
「なんだよ。今度は枕代わりにするつもりか?」
ランディは背中の重みが急に大人しくなったことで、寝落ちは勘弁しろよと揶揄をする。
「ん~、そうじゃなくて。傷跡……見てた」
だが、ロイドの受け答えは眠気を感じさせないものだった。
「ごめん、なんか気になっちゃってさ。色んな傷があるなって」
気を悪くさせるかもしれないと思いつつも、正直に言う。
数日前の悔しさを引きずり、戦場で鍛えられた逞しい身体を目の前にして、どうしても自分に嘘がつけなかった。
さっまで筋肉を辿っていた指が、今度は遠慮がちに傷跡をなぞる。
「今更、何言ってんだか。見慣れてる身体のくせによ」
それに対し、ランディは気分を害した様子を見せなかった。
「まぁ……猟兵なんて、傷だらけで当たり前っつーか?手足が吹っ飛んでないだけマシだぜ」
それどころか、明るい調子でそんなことを口にする。
「案外、胴体に穴が空いてもくたばらないもんだしなぁ」
昔のことを思い出しているのか遠い目をしたが、その直後、ロイドに思いっきり背中を叩かれた。
「いって~なぁ。いきなり何すんだよ」
「……ランディ」
背中の上に伏せていた上半身が勢いよく起き上がり、恨めしげな声に怒気をはらませた視線が突き刺さる。
「今はもう猟兵じゃないんだから、そういう感覚でいるのやめろよな」
急に軽くなって動けるようになったランディは、仰向けに寝転がってロイドを見上げた。
「そうやって、いつも一人で無茶ばっかりするんだから」
薄闇に浮かび上がる瞳はあきらかに怒っていたが、どこか泣き出しそうな影がチラついているようにも見える。
「あー、悪かったって。もう言わねぇから」
「ほんとか?ちゃんと反省しろよ」
長年の猟兵生活で染み付いている思考回路は、そう簡単には変えられない。
だが、相棒であり恋人であるロイドがそれを良しとしないことも承知している。
自然に出てしまったとはいえ、今は言葉にするべきではなかったとすぐに後悔した。
詫びる代わりに腕を伸ばし、一度頬に触れてから寝乱れた髪に指を差し入れて優しく梳いてみる。
「お前……なんか、やけに不安定だな。いつもは朝まで寝てるくせに」
大人しく身を委ねているのは、少しは絆されてくれているからなのか。
毛並みを撫でられた動物のように目元を緩めている姿に安心し、ランディはゆっくりと身体を起こした。
そのままロイドの後頭部を引き寄せ、軽く音を立てて口づける。
「今夜はまだ物足りないとか?」
「な、何言ってんだよ!偶然目が覚めただけに決まってんだろ」
こんな状況では嫌でも言葉の意味に気が付いてしまう。
ロイドは意地悪げに笑う恋人の顔を至近距離で睨んだ。
「思い出して悔しいのも、たまたまだからな」
反射的に身体を離したくなり、まだ後頭部に添えられている手を引き剥がそうとする。
しかし、その動きよりも早く一方の肩を掴まれた。
「あっ!?」
一瞬にして視界が回転し、抗う間もなくベッドの上に背中が落ちた。
先刻の余韻が残る肌を甘噛みされて、不意打ちの刺激にギュッと両目を瞑る。
「なぁ、悔しいついでに聞きたいことあるんだけどさ~」
そこへやたらと軽い声が降ってきた。
「なんだよ?」
どうせふざけているのだろうと思ってすぐに目を開いたが、その瞬間に息が止まりそうになる。
上から見つめてくるランディの表情は、予想外に真剣なものだった。
「こうやって俺に組み敷かれることには何とも思わないのか?」
たやすくシーツの中に沈んだ身体は動きを封じられ、まざまざと力の差を見せつけられる。
武骨な指が肩に食い込んで痛みを感じた。
「……え?」
それでもロイドは不思議そうに目を瞬かせ、頭に疑問符を浮かべた。
なぜ、そんなことを聞いてくるのか分からなかった。
確かに身体を重ねる上での肉体的な優劣があるとすれば、主導権はランディの方にある。
四肢が絡めば解くことは難しく、唇が落ちてくれば高ぶる熱に翻弄されるのが常だ。
煽られて、追い込まれて、いつの間にか余裕がなくなってしまう。
けれど、それに劣等感を覚えたことは今まで一度もなかった。
「そんなの、気にしたことない」
「なんで?」
答えを急いてくる声が少しだけ不安げに聞こえ、自由が利く方の手を伸ばした。
「う~ん、上手く言えないんだけどさ……」
さっき彼がしてくれたこと真似してみたくなる。
見下ろしてくる顔に乱れ落ちた赤い髪を、指で梳きながら後ろへと流した。
「俺のこと大切に想ってくれてるなって、ちゃんと気持ちが伝わってくるっていうのかなぁ」
ロイドは相手を真っ直ぐに見つめ、屈託なく笑った。
優しい抱擁も、時には手荒い愛撫も、そこにはいつだって確かな愛情がある。
だから、それを嬉しく思うのと、兄貴分の背中を追って悔しがることは、感情の質が違うのだと。
「あれ?」
求めた返答があまりにも率直だったせいか、ランディは恋人を凝視したまま固まってしまった。
「大丈夫か?」
ロイドが軽く頬を叩くとすぐ我に返ったが、そのまま脱力して彼の身体にのしかかる。
「なんなんだよ……こいつ。恥ずかしいこと言いやがって」
首筋に顔を埋めて呟いているランディの耳が僅かに赤かった。
「お、重い、どけって」
そんなことには気が付かず、ロイドは自分より大きな身体を一生懸命押し返そうとしている。
「もう、やだ……このまま寝てやる」
ランディにしてみれば、自分から仕掛けておいて超特大のカウンターを食らってしまった気分だ。
「おい、いい加減にしろ!」
耳元に投げやりな言葉が届いた途端、さすがのロイドも眉をつり上げた。
重しのように頑丈な身体はピクリとも動かない。
蹴り飛ばしてやろうかと本気で思い始め、下肢に力が籠もっていく。
彼がそれを実行に移すのはもはや時間の問題だった。
特務支援課のビルを出て警察署に向かう道中、相棒の武器を抱えているロイドはご機嫌だった。
両手が塞がっているランディの歩みは普段よりのんびりとしていて、それに合わせているはずなのに、足が跳ねて先へ行きそうになる。
(……色んな意味で成長してんのは確かなんだがなぁ)
他愛のない会話ですら嬉しそうで、元からの童顔も相まってか子供っぽさに拍車がかかっていた。
あの時、やたらと悔しがっていた姿が不思議と重なる。
重大な事象が多発していたことを考えれば、それこそ掻き消されてもおかしくはないくらいの些細な出来事だ。
それでも、きっかけに手を引かれて鮮明に思い出す。
ムキになって噛みついてくる相貌と。背中で遊んでいた指の感触と。
──屈託のない笑顔で放った言葉を。
(いや、待て。そこは思い出すなっつーの)
ランディは過去の記憶を巡らせた最後の最後で、自分にツッコミを入れた。
当時の精神的ダメージは相当で、しばらくは身体を重ねるのも躊躇したくらいだった。
もちろん、ロイドにその理由を隠していたのは言うまでもない。
そんな懐かしさや恥ずかしさが入り交じり悶々としたランディだったが、雑用を済ませて警察署を出る頃には平静を取り戻しつつあった。
「ありがとな、ランディ。助かったよ」
「このくらい、いいって」
ロイドは律儀に礼を述べ、軽い足取りで歩き出す。
これから東クロスベル街道に出て任務を行う予定だ。
ご機嫌すぎてスタンハルバードを返すのを忘れているのか、そのまま街中を進む彼の横で赤毛の青年が苦笑する。
(しょうがねぇヤツだな。外に出るまでは預けといてやるか)
手持ちぶさたな両手を上着のポケットに突っ込み、相棒に支援要請の内容を確認しながら、ふとさり気なく彼の体躯を品定めしてみた。
「……今なら数分どころか、結構長くいけそうだな」
「ん?なんか言ったか?」
評価はほんの小さな呟きで、聞き逃したロイドが見上げてきた。
「あぁ、お前もいいガタイになったなぁと思ってよ」
ランディがそう言い直してから背中を叩くと、彼は驚いて目を丸くした。
「そ、そうか?」
肉体的なことで褒められるのは初めて気がして、妙に落ち着かない。
「俺には及ばねぇがな。ま、そこは骨格の違いってことで」
信頼しているとか頼りにしてるとか、そういった類いのことはよく言ってくれる相棒だが、今のは不意打ちすぎて反応に困ってしまった。
「そうだなぁ。今度、力比べでもしてみるか?取りあえず腕相撲みたいのとか」
応答してこないロイドを気にせず、ランディは一人で話を進めている。
「タダじゃつまんねーから、負けた方が昼飯三日分……いや、一週間分奢りな」
相棒同士、感情が伝染しやすいのだろうか。今度は彼の方が楽しそうだ。
すると、ようやくロイドが口を開いた。
「ちょっと待て。それ、俺が負ける前提で言ってないか?」
話の内容に引っかかりを覚え、あからさまに面白くないという顔をする。
「さぁな。今のお前なら良い勝負になるんじゃね?それとも逃げんの?」
好戦的な笑みを浮かべたランディに上から覗き込まれ、ロイドの両眼に火が灯った。
「──受けて立つ!」
他の人ならいざ知らず、彼にここまで言われては引き下がるわけにはいかない。
無意識にスタンハルバードの柄を握りしめ、余裕たっぷりの相手を睨め付ける。
(こういうとこは昔から全然変わってねぇな。だから面白いんだけど)
それを真正面から捉えたランディは心の奥で安堵した。
彼の目から見ても大人の男として立派に成長しているロイドだが、根本的な部分はずっとあの頃のままだ。
自分だけに向けられる衝動的な感情はどこか子供じみていて、だからこそ優越感に浸れる。
相棒として恋人として対等な関係を築き上げてきた中で、ただ一つだけ。
年長者としての矜持は手放したくなかった。
2021.06.05
#碧 #創
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うっかり手を繋いでしまって恥ずかしいランディと何だか嬉しいロイドの話。
【文字数:4400】
どうせ振り払えないなら、さっさと帰ってしまいたかった。
けれど、隣にある嬉しそうな顔は暢気な足取りを崩そうともしない。
ランディはいつもなら軽妙な唇を引き結び、ただ前を向いて歩いた。
薄闇を纏った街中を微かな夜風が通り過ぎていく。
夜陰に紛れているとはいえ、それを涼しいと感じてしまうくらいに彼は赤面していた。
──話は少し前に遡る。
歓楽街の夜は今が最高潮といった様相だ。
煌びやかなネオンの下、享楽に浮かれた人々が集まっている。
そんな中を彼らは肩を並べて歩いていた。
「う~ん、これ以上は何もなさそうだな」
「ま、それなりに収穫はあったからいいんじゃね?」
真剣な面持ちで唸っているロイドとは対照的に、ランディはすれ違う夜の蝶たちを緩やかな笑みで眺めやっている。
二人はとある任務で情報収集の為にここを訪れていた。
当たりを付けた数軒の店を回り、いくつかの有益な情報を得られたので、結果は上々といったところだろう。
「──で、この後どうする?」
「帰るに決まってんだろ」
仕事の終わりを察知した陽気な声を、ロイドは言葉少なに切り捨てた。
夜遊び好きな相棒の言いたいことなんて分かりきっている。
「なんだよ。つまんねぇヤツだな」
ランディはわざとらしく肩を竦めてみせた。
「そんなに行きたいなら、一人でブラついてこい」
「あいにくと、お一人様って気分じゃねぇから」
仕事の一環とはいえ、折角二人で歓楽街に来ているのだ。
彼にしてみれば又とない機会なのだから、飲みに行きたくなるのは当然だろう。
しかし、ロイドの態度は素っ気ない。
色よい返事は貰えそうになく、それでも諦めきれなくて声をかけ続ける。
「たまには付き合えよ。一杯だけでいいから」
「さっきの情報、帰って整理しとかないと」
「そのくらい飲みながらでもできんだろ?」
雑多な人並みの中をのんびりと歩みながら、男たちは軽く押し問答を繰り広げた。
もちろんそこに険悪な雰囲気はなく、会話だけでじゃれ合っているようにも見える。
二人はそのまましばらく絡んでいたが、肝心の話はずっと平行線のままだった。
「はぁ……真面目すぎるっつーか、頑固っつーか」
頑なに誘いを突っぱねられ、さすがのランディも消沈の溜息で首を左右に振る。
「お前さぁ、もうちょい緩くなれねぇのかよ」
無駄だと解っていても、つい愚痴っぽくなってしまう。
「帰宅するまでがお仕事ですとか……マジで思ってそうだよなぁ」
しかし、いつの間にかテンポ良く返ってきていたロイドの声が聞こえなくなっていた。
「──おい?」
隣に彼の気配はなく、気色ばんで立ち止まる。
一方的に不満を零していたせいで注意散漫だったのか、まるで気が付かなかった。
その場で振り返り、賑わう通りの中へ鋭い視線を走らせる。
幸いにも栗色の頭をした相棒の姿はすぐに見つかった。
だが、その状況を察した途端に張り詰めた緊張感が崩れ落ちていく。
「……何やってんだよ、あいつは」
街路に立ち並ぶ店の一画。
ロイドが艶やかに着飾っている女に捕まっていた。
どうにも彼は妙齢の女性に対して及び腰だ。
日頃、セシルやイリヤに構われている影響があるのかもしれない。
ランディは少し離れた所からロイドの様子を覗った。
明らかに年上であろう女に迫られ、あたふたしている姿が笑いを誘う。
「いっそのこと、放置してみるか?」
ふと意地悪げな思考が過ぎったが、あの困り顔ではさすがに可哀想になってくる。
しかも、落ち着きのない視線は明らかに『誰か』を探して助けを求めていた。
そんなものを見てしまっては、とてもじゃないが放っておける気がしない。
「ったく、世話のかかるヤツだぜ」
どこか楽しげに呟いたランディは、助け船を出してやることにした。
彼はゆったりと二人の方へ歩み寄り、人懐っこい笑みを浮かべながら声をかけた。
「あー、悪ぃな。こいつウブだからさぁ……それくらいにしといてやってくれよ」
同時にロイドの首根っこを掴み、女との距離を取らせる。
「あら、ランディさんじゃない。随分とご無沙汰だったわね」
「ここしばらく忙しかったんでな」
どうやら彼女とランディは顔見知りの間柄らしい。
親しげなやり取りが耳に届き、ロイドはホッと胸を撫で下ろした。
こういった空気が苦手な彼にとって、この界隈に慣れている相棒の存在は頼もしい。
首に掛かっていた手は外れているが、側にいてくれるだけで不安が和らいでいくのを感じた。
「──今夜は寄るとこ決まってんだよ。また今度顔を出すぜ」
「つれないわね。まぁ、期待せずに待ってるわ」
安堵したせいか気が抜けてしまっていたらしく、男女の会話はいつの間にか収束に向かっている。
「そっちの可愛いあなたもね」
「……へ?」
だが、急に女から魅惑的な微笑みを投げかけられ、ロイドは目を丸くして固まってしまった。
それを横で見ていたランディが、わずかに顔を歪める。
歓楽街ではありふれた接客の光景だが、やたらと不愉快さが込み上げてきた。
「おい、行くぞ」
「え、あ……」
ロイドに軽く目配せをしたものの、戸惑い気味な足は動き出そうとしない。
一刻も早くこの場から立ち去りたくなったランディは、強引に彼の手を引いた。
表面上は平静を装い、軟派な笑顔を浮かべながら馴染みの女にひと声。
「それじゃぁな」
彼女からの応答も聞かず、さっさと踵を返して童顔の青年を引きずっていく。
そんな後ろ姿を興味深げに見送った女は、鮮やかな色の唇で意味深げな笑みを浮かべた。
「もしかして……ご執心なのかしら?」
あの赤毛の男は上手くこの夜の街を遊び歩いている。
戯けた言動の裏で、誰に深入りすることもなく、誰かを懐に入れることもなく。
それがほんの一瞬だけ崩れた。
珍しいものを見てしまったと、彼女は思った。
乱れていた足取りが段々と落ち着いてきた。
引っ張られる感覚は薄れたが、未だに温もりは伴ったまま。
「お前さぁ、少しはあしらい方くらい覚えとけよ?」
ロイドの戸惑いをよそに、ランディはいつもの調子で口を開いた。
「そ、そうだ…な」
茶色の瞳は落ち着きなく彷徨っていたが、どうしても手元に意識が行ってしまうのを止められない。
(こんなの……初めてだ)
しっかりと繋がれて密着した手の平からは、熱が零れ落ちそうだ。
向こうが強く握ってくるせいで、より捕らわれている感覚が強くなる。
「無下にできないのは、年上の綺麗なお姉様たちに可愛がられてる弊害っていうやつかねぇ」
胸の鼓動が忙しなくなり、それが相手に伝わってしまいそうな気がしたが、耳に入ってきた言葉は存外に嫌み混じりなものだった。
(あれ?もしかして気が付いてない?)
困惑も最高潮になり、なんとか冷静になろうと苦慮する中、ロイドはふとあることに思い当たった。
日頃から、ランディに身体を引っ張られること自体は珍しくない。
そして、その時に掴む場所は腕やせいぜい手首のあたりだ。
(まさか、咄嗟に間違えたんじゃ……)
考えれば考えるほど、そうとしか思えなくなってきた。
次第に歓楽街の喧噪が遠退き、景色が静かな街並みに移り変わっていく。
それでも二人の手は離れる気配がなかった。
「おい、こら。聞いてんのか?」
「聞いてるけど……」
少しだけ低い声が降ってきて、ロイドは上目遣いで傍らの表情を探った。
本当は指摘してあげた方がいいのかもしれない。
けれど、緊張と恥ずかしさで弾む心音にも慣れてきてしまい、大きな手の温もりが心地良くなってくる。
彼には悪いと思いながらも、まだこのままでいたいという気持ちは強まっていた。
「けど……なんだよ?」
ランディはさっきから鈍い反応ばかりの相手を訝しみ、その場で立ち止まった。
見下ろした顔は困っているような、それでいて嬉しそうな不思議な色合いをしている。
不意にきゅっと小さく手を握られた。
「なっ……!?」
ようやく『それ』に気が付いた彼は、手元を見て唖然とした。
雷に打たれたかのような衝撃が、四肢の動きと思考を停止させる。
「やっぱり手首と間違えたんだな」
硬直してしまった赤毛の男に対し、ロイドはただ苦笑した。
本当に珍しいことだ。
そうやって揶揄したい気持ちもゼロではなかったが、事の経緯を考えれば安易な言葉を吐きたくはなかった。
だって、彼はあの女への対応に苦慮していた所を助けてくれたのだから。
「……てめぇ、分かってたならさっさとツッコめよ」
しばらくして、ランディの口からくぐもった声が発せられた。
彼にしてみれば大きな失態であり、その羞恥を誤魔化そうとする口調は少し荒っぽい。
気もそぞろな両眼が、不自然なくらいに街の風景ばかりを映し出していた。
「こういうの……柄じゃねぇんだよ」
「うん、知ってる」
ランディは振り解こうとして腕に力を込めた。
だが、その瞬間。明快な言葉と共に、さっきよりも更に強く手を握られた。
ロイドはこの状況の継続を望んでいる。
それを態度で示されたことで、彼は苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「離せ。お前だってそういう性格じゃねぇだろうが」
「確かにそうだけど」
「だったら……」
移ろいでいた視線は、やっと相手を正面から捉える形に収まった。
こんな児戯のような束縛だったら、強引にでも振り解ける。
そう思って身体を動かそうとした矢先、ロイドが肩を震わせて笑った。
「でもさ、なんか意外に悪くないかもなって」
恥ずかしいには違いないけれど、こんな些細な触れ合いでも幸福感でいっぱいになれるのだと、気が付いてしまった。
「ランディの手って、凄く落ち着くから安心する」
はにかみながら微笑みを形作る唇は、穏やかな声を紡ぎ出した。
住宅が立ち並ぶ閑静な一画に、素直な言葉だけが響く。
手を繋いだままの距離はあまりにも近かった。
聞こえなかったなんて、見えなかったなんて言えるはずがない。
(こいつ……マジでタチが悪すぎんだろ)
ランディはこれ以上ロイドと対面し続けることができなかった。
あんなに満たされた表情の恋人には、どう頑張っても抗えない。
「──今だけだからな」
視線どころか顔まで反らし、そのまま夜の街を歩き出す。
ぶっきらぼうな声は独り言のように小さく、観念して握り返した手には汗が滲んでいた。
「うん、分かってる」
街灯の下を通っている最中。
赤い長髪から覗く耳がほんのりと色付いているのを見つけ、ロイドは密かに目元を緩めた。
こんな可愛いじゃれ合い方なんて、互いに知らない。
柄じゃないからと、今まで頭の片隅にも過ぎらなかった。
会話らしい会話もなく、ただ手を繋いで歩いている時間がとても新鮮に感じる。
この空気を少しでも長く堪能したいロイドに対し、何よりも羞恥心が勝るランディは早く帰りたい様子だった。
つい急いでしまう足が恋人の手を強く引っ張るが、すぐに気が付いて速度を落とす。
そんな行動を何度も繰り返す男に身をまかせ、ロイドは居心地が悪そうな横顔を盗み見た。
(俺が言うのもなんだけど……甘やかしすぎだよな)
しかし、その大きな要因が率直すぎる自分の言動にあるのだとは知る由もなかった。
2021.11.11畳む