軌跡(アロヴァン) 2025/09/21 Sun 普通に心配させてくれ ヴァン一人称・両想い前提の恋人未満。 アーロンは人気役者だから顔に傷が残るのは良くないと、戦闘後にヴァン・アニエスが意気投合している話。 【文字数:4300】 本文を読む 烈火の如くと言いたくなるような好戦的なスタイルは、いかにも彼らしい。 守りに徹するくらいなら、死線の隙間に潜り込んででも一撃を食らわせてやろうだとか。 そういうのは嫌いじゃないが、時々ふとした拍子に不安が込み上げてくる。 最後に残った魔獣を叩きのめした後、俺はすぐにアーロンの元へ向かった。 「ったく、無茶しやがって」 早足で近づくと、先に駆けつけていたアニエスがアーツを発動させようとしている所だった。 「あそこで回避からのカウンターはねぇだろうが。素直に防いでおけよ」 俺はアーロンの姿を見てあからさまに顔を歪めた。 紙一重で躱した時にやられたのか、頬に走るひとすじの裂傷が痛々しい。 彼が相手にしていた魔獣は、研ぎ澄まされた刃のように鋭利な爪を持っていた。 あれで裂かれたのなら切り口は深いだろう。赤く滲んだ傷からは幾筋もの血が流れ落ち、首筋を伝って肩口を染め上げている。 「あぁ?うるせぇな。一発で沈めてやったんだから文句ねぇだろが」 もちろん痛みはあるはずだが、それよりも自分の戦闘スタイルに口を挟まれるのが嫌だったに違いない。 食ってかかる勢いで俺の方に一歩踏み出そうとする。 「アーロンさん、動かないで下さい」 だが、ピシャリと静止の声がかかった。それと同時に回復アーツが発動する。 水面を連想させる涼やかな光がアーロンの全身を包み込み、みるみるうちに頬の傷が消えいく。 「大したことねぇってのに……でも、まぁ、ありがとな」 「ふふっ、どういたしまして」 アーツで傷自体は癒せても、さすがに血糊まで綺麗さっぱりにとはいかない。 彼は頬から首筋に付いた汚れを大雑把に拭い、アニエスに礼を言った。 その一連の動作を俺は凝視していたらしい。 「ヴァンさん?どうしたんですか?」 「おい、ボーっと突っ立ってんじゃねぇ。さっさと行くぞ」 この場所での戦闘が終わり、二人は先に進もうとしていた。 立ち止まったままの俺に対して訝しげな声を投げかけてくる。 「お、おうっ、悪ぃ」 弾かれたように背筋が伸びた。助手たちはすでに動き始めていて、その背中を慌てて追いかける。 仕事柄、戦闘中にはあの程度の負傷なんて珍しくもない。ただのかすり傷だと言ってしまえばそれまでだ。 それなのに今は頭の切り替えが出来ず、やたらとあいつのことを気遣いたくなる。 「……顔なんだよなぁ。跡とか残ってたりしてねぇよな?」 ちらりと後ろ姿を窺いながら、俺は独り言のように呟いた。 心配しすぎなのは分かっているが、アーロンは華劇場の人気役者だ。 特に女性のファンが多いことを考えれば、顔に傷が残るのはどうなんだ?と、つい考えてしまっていた。 移動を再開してからも胸中はすっきりとせず、俺は意を決して声をかけた。 「おい、さっきの傷……残ってねぇよな?」 「はぁ?なに寝ぼけたこと言ってやがる」 目の前でアニエスが治療してくれたのを見ていただろうが、とでも言わんばかりの呆れ顔を向けられる。 「そもそも、助手の技量を疑うなんざ所長失格だな」 「そ、そういうつもりじゃなくてな……」 険のある声と眼光で厳しい指摘をされ、俺は口籠もってしまった。 「お二人とも、どうしたんですか?」 すると、不穏な空気を感じ取ったアニエスが慌てて近寄ってくる。 「悪い!お前のアーツの腕を疑ったわけじゃねぇんだ。傷が顔だったから、つい」 「えっ?えっと……?」 助手3号の言うことは尤もで即座に頭を下げる。 彼女は俺たちを交互に見ながら困惑を浮かべた。 「訳分かんねぇこと言いやがって。顔だから何だって言うんだよ?」 そんな同僚の気持ちを代弁しているのか、アーロンが今度は少し和らいだ声で問いかけてくる。 「いや、ほら、お前は人気役者だから」 「あっ、それは確かに」 端的に返すと、アニエスがポンと手を叩いて納得の表情をする。 「アーロンさんの顔に傷跡が残ったら、ファンの方たちが卒倒してしまいそうですよね」 「──だろ?」 味方を得て気が大きくなった俺は、遠慮なくアーロンの顔を見つめた。 つられるようにアニエスも同じ行動をする。 「あのなぁ……てめぇらはオレをなんだと思ってんだよ」 二人分の視線が集中して居心地の悪さを感じているのか、アーロンは無造作に腕を組んだ。 それから小さく息を吐き、首筋に片手を添えながら面倒くさそうにこっちを見返してくる。 「オレの顔が良すぎるのは事実だが、そこは大したことじゃねぇ」 自分の容姿について堂々と言い放ち、 「いっそのこと、傷でもある方が箔が付いて良いかもしれねぇなぁ」 華劇場の関係者たちが聞いたら引っくり返ってしまいそうな言葉が続いた。 もちろん、俺とアニエスは目を丸くして固まった。 その数秒の隙を突き、アーロンはさっさと一人で歩き出してしまう。 「あ、あれって冗談だよな?」 「……だと思いますけど」 あいつの性格を考えれば大方は戯れだろうと、二人で顔を見合わせた。 けれど、自信を持って絶対にとまでは言い切れなくて気がかりになる。 「元はと言えば、あのクソガキが危なっかしい戦い方をするせいで……あ~、でも、それはそれであいつらしいっつーか」 俺はガシガシと頭を掻きながら助手3号の後を追いかけた。 「そこが悩ましいところですよね。でも、戦いのサポートならお任せ下さい。アーロンさんの顔には傷ひとつ残しませんから」 傍らからは優しさと頼もしさが込められた共感の声が寄せられる。 「舞台に立つ時は、いつだって綺麗な姿でいて欲しいですよね、ヴァンさん?」 しかし、それが嬉しいと思った矢先に意味深げな笑顔を向けられた。 「そ、そうだな」 もう少しでアーロンに追い付きそうだった俺の足は、何もないところで躓きそうになってしまった。 仕事を終えて事務所に戻ったのは日が傾き始めた頃だった。 うっすらと茜色の光が室内を照らす中、俺はソファーに身を投げ出して寝転がっていた。 助手の二人に終業を伝えて解散したのはつい15分ほど前になる。 アニエスは真っ直ぐに学生寮へ帰ると言っていた。 アーロンの方は、夜の賑わいを求めて他の地区へ繰り出すのだろう。いつものことだ。 「……言わなきゃ良かったか?」 天井を見つめながら昼間の出来事を思い出してみた。 端から見れば過保護と表されてしまいそうだが、ついあいつを心にかけてしまう。 「どう見てもウゼぇって感じだったよなぁ」 あの時、すぐさま話を切り上げて背を向けたことを考えれば自ずと解る。 幸いなのか、アニエスが同調していたのでキツい態度は取れなかったのだろう。 俺1人だったらもっと辛辣だったかもしれない。 「心配しただけだっつーのに」 天井から外した視線を何気なくテーブルへ移すと、置きっぱなしの雑誌が入り込んできた。 それを広げて顔の上に乗せてから目を閉じる。 一眠りしたいわけではなかったが、馴染みきっている体勢のお陰で徐々に気持ちが凪いできた。 「まぁ、済んだこと……か。ぐだぐだ言っても仕方ねぇ」 こんなものは日常の些細なひとコマでしかない。そう思えば気持ちも軽くなる。 アーロンにとっても大したやり取りではなかったはずだ。 明日になれば、「そんなウゼぇことも言ってたっけな」と笑い飛ばしているだろう。 そんな姿が想像できて自然と頬が緩んでしまう。 だが、その直後。 ──ガチャッ 勢いよく事務所のドアが開いた。 「おっ、居やがったか」 ほぼ同時に聞こえてきた声は、明らかにあいつのものだった。 俺は驚きのあまり咄嗟に身体を動かせなかった。 自分の世界に入っていたせいで、外の気配には無防備になっていたらしい。 なんとか片手を動かして雑誌を横にずらすと、アーロンがこっちに歩いてくるのが見えた。 「お前、出掛けたんじゃ……」 「用が終わったらすぐに行くぜ」 「用?俺にか?」 オウム返しをしたところで、ソファーの前まできた足音が止まった。 「まぁな。昼間の件で言い忘れてたことがあってよ」 アーロンは強引に俺の顔から雑誌を引き剥がし、前屈みで覗き込んでくる。 予期せぬ至近距離での対面は、少しばかり心臓に悪かった。 「な、なんだよ?」 それを誤魔化すようにひと睨みすると、空になった手を掴まれて引っ張られる。 「てめぇがオレの戦い方に口を出してくるのは心底ウゼぇが……」 そのまま俺の掌を自らの頬に押し当て、アーロンはどことなく嬉しそうに表情を和らげた。 「そんなにこの顔が好きなら、少しは自重してやってもいいぜ?」 「──は?」 不機嫌そうな前置きとは正反対の言葉が続き、俺は口を半開きにさせて目を瞬かせた。 驚きやら動揺やら、諸々の感情で身動きが取れなくなっている。 けれど、こいつはそんな状態の相手を気遣うような質ではなく、むしろ畳み掛けてくる男だ。 「けどな……ガキどもは仕方ねぇとしても、オレに過保護なのは程々にしろよ」 アーロンは揶揄の笑みを浮かべながら、ゆっくりと俺の手を頬から剥がした。 「用件はそれだけだ。じゃぁな」 そして、挨拶の代わりと言わんばかりに掌へ軽いキスを落としてくる。 「お、おい!?」 これには流石の俺も飛び起きて立ち上がった。 反射的に腕で払おうとしたが、完全に反応を読まれていて空振りに終わる。 アーロンは素早く体を離して数歩分の距離を取っていた。 そのまま踵を返して真っ直ぐにドア先へ向かい、最後に軽く片手を上げて事務所を出て行ってしまう。 あまりにも去り際が鮮やかすぎて、文句の一つも言う時間がなかった。 俺は深い溜息を吐いてソファーに腰を落とした。 「はぁ……」 アーロンがこの件にあそこまで頓着するとは思わず、予想外すぎて頭を抱えたくなる。 「顔が好きとか、そういうことじゃなくて……」 あの時は本当に単純な思考回路だった。 舞台役者なら、ある意味容姿だって商売道具の一部だろうと。 だから、方向性が違うとは言え、女優であるジュディスが顔を負傷したら同様の心境になったはずだ。 「普通に心配させてくれよ、マジで」 ぼやきながら掌を見つめていたら、軽く触れるだけだった唇の感触がぶり返してきそうになった。 あいつは隙あらば思わせぶりな言動で俺を弄ってくる。そのくせ後腐れなく去って行くもんだから、勝手に1人で放置されている気分に陥ってしまう。 「こっちにだって、雇い主としての責任ってのがあるんだからな」 普段ガキ呼ばわりしている相手に振り回されるのは、年長の男としてやっぱり面白くない。 俺は大きな不満と少しばかりの寂しさを感じ、不貞腐れながら負け惜しみのような言葉を呟いた。 2025.09.21畳む
ヴァン一人称・両想い前提の恋人未満。
アーロンは人気役者だから顔に傷が残るのは良くないと、戦闘後にヴァン・アニエスが意気投合している話。
【文字数:4300】
烈火の如くと言いたくなるような好戦的なスタイルは、いかにも彼らしい。
守りに徹するくらいなら、死線の隙間に潜り込んででも一撃を食らわせてやろうだとか。
そういうのは嫌いじゃないが、時々ふとした拍子に不安が込み上げてくる。
最後に残った魔獣を叩きのめした後、俺はすぐにアーロンの元へ向かった。
「ったく、無茶しやがって」
早足で近づくと、先に駆けつけていたアニエスがアーツを発動させようとしている所だった。
「あそこで回避からのカウンターはねぇだろうが。素直に防いでおけよ」
俺はアーロンの姿を見てあからさまに顔を歪めた。
紙一重で躱した時にやられたのか、頬に走るひとすじの裂傷が痛々しい。
彼が相手にしていた魔獣は、研ぎ澄まされた刃のように鋭利な爪を持っていた。
あれで裂かれたのなら切り口は深いだろう。赤く滲んだ傷からは幾筋もの血が流れ落ち、首筋を伝って肩口を染め上げている。
「あぁ?うるせぇな。一発で沈めてやったんだから文句ねぇだろが」
もちろん痛みはあるはずだが、それよりも自分の戦闘スタイルに口を挟まれるのが嫌だったに違いない。
食ってかかる勢いで俺の方に一歩踏み出そうとする。
「アーロンさん、動かないで下さい」
だが、ピシャリと静止の声がかかった。それと同時に回復アーツが発動する。
水面を連想させる涼やかな光がアーロンの全身を包み込み、みるみるうちに頬の傷が消えいく。
「大したことねぇってのに……でも、まぁ、ありがとな」
「ふふっ、どういたしまして」
アーツで傷自体は癒せても、さすがに血糊まで綺麗さっぱりにとはいかない。
彼は頬から首筋に付いた汚れを大雑把に拭い、アニエスに礼を言った。
その一連の動作を俺は凝視していたらしい。
「ヴァンさん?どうしたんですか?」
「おい、ボーっと突っ立ってんじゃねぇ。さっさと行くぞ」
この場所での戦闘が終わり、二人は先に進もうとしていた。
立ち止まったままの俺に対して訝しげな声を投げかけてくる。
「お、おうっ、悪ぃ」
弾かれたように背筋が伸びた。助手たちはすでに動き始めていて、その背中を慌てて追いかける。
仕事柄、戦闘中にはあの程度の負傷なんて珍しくもない。ただのかすり傷だと言ってしまえばそれまでだ。
それなのに今は頭の切り替えが出来ず、やたらとあいつのことを気遣いたくなる。
「……顔なんだよなぁ。跡とか残ってたりしてねぇよな?」
ちらりと後ろ姿を窺いながら、俺は独り言のように呟いた。
心配しすぎなのは分かっているが、アーロンは華劇場の人気役者だ。
特に女性のファンが多いことを考えれば、顔に傷が残るのはどうなんだ?と、つい考えてしまっていた。
移動を再開してからも胸中はすっきりとせず、俺は意を決して声をかけた。
「おい、さっきの傷……残ってねぇよな?」
「はぁ?なに寝ぼけたこと言ってやがる」
目の前でアニエスが治療してくれたのを見ていただろうが、とでも言わんばかりの呆れ顔を向けられる。
「そもそも、助手の技量を疑うなんざ所長失格だな」
「そ、そういうつもりじゃなくてな……」
険のある声と眼光で厳しい指摘をされ、俺は口籠もってしまった。
「お二人とも、どうしたんですか?」
すると、不穏な空気を感じ取ったアニエスが慌てて近寄ってくる。
「悪い!お前のアーツの腕を疑ったわけじゃねぇんだ。傷が顔だったから、つい」
「えっ?えっと……?」
助手3号の言うことは尤もで即座に頭を下げる。
彼女は俺たちを交互に見ながら困惑を浮かべた。
「訳分かんねぇこと言いやがって。顔だから何だって言うんだよ?」
そんな同僚の気持ちを代弁しているのか、アーロンが今度は少し和らいだ声で問いかけてくる。
「いや、ほら、お前は人気役者だから」
「あっ、それは確かに」
端的に返すと、アニエスがポンと手を叩いて納得の表情をする。
「アーロンさんの顔に傷跡が残ったら、ファンの方たちが卒倒してしまいそうですよね」
「──だろ?」
味方を得て気が大きくなった俺は、遠慮なくアーロンの顔を見つめた。
つられるようにアニエスも同じ行動をする。
「あのなぁ……てめぇらはオレをなんだと思ってんだよ」
二人分の視線が集中して居心地の悪さを感じているのか、アーロンは無造作に腕を組んだ。
それから小さく息を吐き、首筋に片手を添えながら面倒くさそうにこっちを見返してくる。
「オレの顔が良すぎるのは事実だが、そこは大したことじゃねぇ」
自分の容姿について堂々と言い放ち、
「いっそのこと、傷でもある方が箔が付いて良いかもしれねぇなぁ」
華劇場の関係者たちが聞いたら引っくり返ってしまいそうな言葉が続いた。
もちろん、俺とアニエスは目を丸くして固まった。
その数秒の隙を突き、アーロンはさっさと一人で歩き出してしまう。
「あ、あれって冗談だよな?」
「……だと思いますけど」
あいつの性格を考えれば大方は戯れだろうと、二人で顔を見合わせた。
けれど、自信を持って絶対にとまでは言い切れなくて気がかりになる。
「元はと言えば、あのクソガキが危なっかしい戦い方をするせいで……あ~、でも、それはそれであいつらしいっつーか」
俺はガシガシと頭を掻きながら助手3号の後を追いかけた。
「そこが悩ましいところですよね。でも、戦いのサポートならお任せ下さい。アーロンさんの顔には傷ひとつ残しませんから」
傍らからは優しさと頼もしさが込められた共感の声が寄せられる。
「舞台に立つ時は、いつだって綺麗な姿でいて欲しいですよね、ヴァンさん?」
しかし、それが嬉しいと思った矢先に意味深げな笑顔を向けられた。
「そ、そうだな」
もう少しでアーロンに追い付きそうだった俺の足は、何もないところで躓きそうになってしまった。
仕事を終えて事務所に戻ったのは日が傾き始めた頃だった。
うっすらと茜色の光が室内を照らす中、俺はソファーに身を投げ出して寝転がっていた。
助手の二人に終業を伝えて解散したのはつい15分ほど前になる。
アニエスは真っ直ぐに学生寮へ帰ると言っていた。
アーロンの方は、夜の賑わいを求めて他の地区へ繰り出すのだろう。いつものことだ。
「……言わなきゃ良かったか?」
天井を見つめながら昼間の出来事を思い出してみた。
端から見れば過保護と表されてしまいそうだが、ついあいつを心にかけてしまう。
「どう見てもウゼぇって感じだったよなぁ」
あの時、すぐさま話を切り上げて背を向けたことを考えれば自ずと解る。
幸いなのか、アニエスが同調していたのでキツい態度は取れなかったのだろう。
俺1人だったらもっと辛辣だったかもしれない。
「心配しただけだっつーのに」
天井から外した視線を何気なくテーブルへ移すと、置きっぱなしの雑誌が入り込んできた。
それを広げて顔の上に乗せてから目を閉じる。
一眠りしたいわけではなかったが、馴染みきっている体勢のお陰で徐々に気持ちが凪いできた。
「まぁ、済んだこと……か。ぐだぐだ言っても仕方ねぇ」
こんなものは日常の些細なひとコマでしかない。そう思えば気持ちも軽くなる。
アーロンにとっても大したやり取りではなかったはずだ。
明日になれば、「そんなウゼぇことも言ってたっけな」と笑い飛ばしているだろう。
そんな姿が想像できて自然と頬が緩んでしまう。
だが、その直後。
──ガチャッ
勢いよく事務所のドアが開いた。
「おっ、居やがったか」
ほぼ同時に聞こえてきた声は、明らかにあいつのものだった。
俺は驚きのあまり咄嗟に身体を動かせなかった。
自分の世界に入っていたせいで、外の気配には無防備になっていたらしい。
なんとか片手を動かして雑誌を横にずらすと、アーロンがこっちに歩いてくるのが見えた。
「お前、出掛けたんじゃ……」
「用が終わったらすぐに行くぜ」
「用?俺にか?」
オウム返しをしたところで、ソファーの前まできた足音が止まった。
「まぁな。昼間の件で言い忘れてたことがあってよ」
アーロンは強引に俺の顔から雑誌を引き剥がし、前屈みで覗き込んでくる。
予期せぬ至近距離での対面は、少しばかり心臓に悪かった。
「な、なんだよ?」
それを誤魔化すようにひと睨みすると、空になった手を掴まれて引っ張られる。
「てめぇがオレの戦い方に口を出してくるのは心底ウゼぇが……」
そのまま俺の掌を自らの頬に押し当て、アーロンはどことなく嬉しそうに表情を和らげた。
「そんなにこの顔が好きなら、少しは自重してやってもいいぜ?」
「──は?」
不機嫌そうな前置きとは正反対の言葉が続き、俺は口を半開きにさせて目を瞬かせた。
驚きやら動揺やら、諸々の感情で身動きが取れなくなっている。
けれど、こいつはそんな状態の相手を気遣うような質ではなく、むしろ畳み掛けてくる男だ。
「けどな……ガキどもは仕方ねぇとしても、オレに過保護なのは程々にしろよ」
アーロンは揶揄の笑みを浮かべながら、ゆっくりと俺の手を頬から剥がした。
「用件はそれだけだ。じゃぁな」
そして、挨拶の代わりと言わんばかりに掌へ軽いキスを落としてくる。
「お、おい!?」
これには流石の俺も飛び起きて立ち上がった。
反射的に腕で払おうとしたが、完全に反応を読まれていて空振りに終わる。
アーロンは素早く体を離して数歩分の距離を取っていた。
そのまま踵を返して真っ直ぐにドア先へ向かい、最後に軽く片手を上げて事務所を出て行ってしまう。
あまりにも去り際が鮮やかすぎて、文句の一つも言う時間がなかった。
俺は深い溜息を吐いてソファーに腰を落とした。
「はぁ……」
アーロンがこの件にあそこまで頓着するとは思わず、予想外すぎて頭を抱えたくなる。
「顔が好きとか、そういうことじゃなくて……」
あの時は本当に単純な思考回路だった。
舞台役者なら、ある意味容姿だって商売道具の一部だろうと。
だから、方向性が違うとは言え、女優であるジュディスが顔を負傷したら同様の心境になったはずだ。
「普通に心配させてくれよ、マジで」
ぼやきながら掌を見つめていたら、軽く触れるだけだった唇の感触がぶり返してきそうになった。
あいつは隙あらば思わせぶりな言動で俺を弄ってくる。そのくせ後腐れなく去って行くもんだから、勝手に1人で放置されている気分に陥ってしまう。
「こっちにだって、雇い主としての責任ってのがあるんだからな」
普段ガキ呼ばわりしている相手に振り回されるのは、年長の男としてやっぱり面白くない。
俺は大きな不満と少しばかりの寂しさを感じ、不貞腐れながら負け惜しみのような言葉を呟いた。
2025.09.21畳む