予感
零・恋人未満
自分の気持ちに気づいてしまったランディと、まだ自覚前のロイドの話。
【文字数:4800】
今夜はいまいち集中力が続かない。
自室で机に向かっていたロイドは、片手で自分の髪を掻き回しながら唸った。
チラリと窓に目を向ければ、いくつもの灯りが街を彩っている。
そろそろ夜も盛りの時間帯だろうか。
時折、賑やかな声が薄く開けた窓の隙間から入り込んでくる。
「ん~、これじゃ分かりにくいか」
ロイドは書きかけの書類に視線を戻して難しい顔をする。
彼は本日分の報告書を書いていた。
これは上司に提出する代物だが、相手はあのセルゲイ課長だ。
書類として最低限の体裁が整っていれば、すんなりと受け取ってもらえるだろう。
基本的にはリーダーであるロイドが作成しているが、エリィやティオが手伝ってくれることも多い。
しかし、ランディだけはこういった作業が苦手だと言って憚らず、逃げの一手だ。
よくエリィに睨まれているが、「適材適所だろ?」などと最もらしい台詞を口にして矛先をかわしている。
そんな年上の同僚の姿が頭を過ぎり、ロイドは小さく笑った。
夕食を終えてから小一時間ほどして、ランディは軽い足取りで夜の街へと繰り出して行った。
遊び慣れている彼にとって、クロスベルの歓楽街は庭のようなものだ。
「毎晩よく行くよなぁ」
また、窓の外に視線が動いてしまう。
ロイドはしばらく無言で街の夜景を眺めやった。
「……下でやろうかな」
ペンを持つ手が止まり、唇から声が漏れる。
これといって理由はなかったが、なんとなくそう思ってしまった。
おもむろに席を立った赤毛の青年に、バルカのオーナーであるドレイクは僅かに瞠目した。
「おい、やけに早いな」
ランディは軽くギャンブルを楽しんだ後、二階のカウンター席に腰を下ろしていた。
ドレイクと遠慮のないやり取りを交わしてグラスを傾けていたが、ふと何かに気が逸れた様子だった。
ほんの数拍の後、無言になった口に残りの酒を一気に流し込む。
「あぁ、なんか早く帰った方がいいような気がしてきちまった」
「は?なんだそりゃ」
「さぁな。ま、なんとなくってヤツ」
あからさまに訝しむドレイクに向けて肩を竦めてみせる。
正直、彼自身にもよく分からない心の機微らしい。
「お前、所帯じみてきやがったな」
ドレイクはニヤリと笑って揶揄したが、これは決して悪い意味ではなかった。
目の前の青年とは彼がクロスベルに流れ着いて以来の付き合いだが、その頃に比べれば随分と変わったと思う。
特に特務支援課という部署に配属されてからは。
「……勝手に言ってろって」
ランディは反論するわけでもなく、軽く片手を上げて踵を返す。
賑やかな音を立てるスロットマシンに目もくれず、真っ直ぐに出入り口へと歩いて行った。
いつもなら多少の未練が残る帰り道だったりするが、今夜は全く気にならなかった。
歓楽街から住宅街を抜け、西通りを歩く。
華やかな照明や雑多な喧噪とは縁のないこの辺りの区画は、夜になれば静かなものだ。
ランディは慣れた足取りで街路を進みながら、ぼんやりと考える。
「なんだかなぁ……気紛れっつーのとは違うんだよな」
どう頑張っても説明ができない。
言葉にすれば、ただ本当に『なんとなく』としか言いようがなかった。
「まぁ、居心地が良いのは確かだけどよ」
ドレイクにからかわれても言い返さなかったのは、自覚があったからだ。
帰る場所があるという現実に、くすぐったくなるような嬉しさを感じてしまう。
そんなことが頭を巡っている内に、いつの間にかその場所に到着していた。
発展していく街に取り残されたような古いビルだが、住んでしまえばどうということはない。
今ではすっかり愛着のある我が家だ。
ランディは裏口の扉を出掛けに持ち出したスペアキーで開錠し、静かに建物内に入った。
「ただいま~っと」
まだ就寝には早い時間帯だが、夜間には変わりなく、小声で帰宅の挨拶をする。
そのまま自室へ戻ろうとしたが、ふと下の階から光が漏れていることに気づいた。
普段なら仲間たちはそれぞれ自室で寛いでいる時刻だが、人の気配がする。
「こんな時間になにやってんだか」
ランディはそう呟きながら階段を降りた。
すると、そこにはテーブルに突っ伏しているロイドの姿があった。
「──っ!?」
何事かと血相を変えた彼は、足早に同僚の側に近づく。
遠目からは気絶しているようにも見えたが、よくよく観察すれば規則正しい寝息が聞こえ、その表情は穏やかだった。
頭を乗せている腕の下には、書きかけの書類と捜査手帳が見え隠れしている。
何をしていたのかはすぐに分かった。
「はぁ~、驚かせんなよ」
ランディは胸を撫で下ろし、僅かに横を向いている寝顔を覗き込んだ。
元から童顔のロイドだが、目が閉じているせいか更に幼く見えてしまう。
無意識に手が伸びて、少し跳ねた栗色の髪を撫でつける。
「う……ん……兄貴」
寝息の隙間から小さな声が零れた。
けれど、瞳は伏せられたままで起きる気配はない。
「こいつ、結構なブラコンだよなぁ」
ランディは呆れた様子で苦笑したが、続いて流れ落ちた言葉に目を見開いた。
「いか……な……いで」
急に胸の奥がざわつき始める。
どこかで兄の姿を重ねているロイドに対して、微かに棘をはらんだ感情が沸き上がってきた。
旧市街で熱戦を繰り広げたあの時に、彼自身がそう言っていたのを聞いていたはずなのに。
「……どこにも行かねぇよ」
今まで感じたことがないわだかまりに戸惑いを隠せない。
それでも、子供のような声を放っておきたくはなかった。
何かが頭に触れている。
それは大きくて温かくてとても心地良かった。
ロイドはうっすらと目を開いた。
「よぉ。見事に沈没してたな」
「っ、あ!?」
すぐ側で声が聞こえ、勢いよく飛び起きると、目の前には赤毛の青年が頬杖をついて座っていた。
「ラ、ランディ?……あれ?」
慌てて辺りを見回しながら何度も目を瞬かせる。
「あぁ、そっか、報告書」
それから突っ伏していたテーブルにある書類を見て、ようやく状況を把握した。
どうやら報告書を作成中に眠気に襲われてしまったらしい。
思わず溜息を吐くと、
「お前さん、なんでこんなとこでやってんの?いつもは自分の部屋で書いてるだろ」
ランディから率直に問いかけられた。
「なんか集中できなくてさ。なんとなく下に降りてきたって感じかな」
ロイドは少し考え込んだが、元から明確な理由があるわけでもなく、困り顔で返す。
「ふ~ん、『なんとなく』ねぇ」
それが自分と重なり合うような気がしたランディは、嬉しげに瞳を細めた。
「あ、実は俺の帰りを待っててくれたとか?お兄さん感激しちゃうな~」
「全然、違うし!大体、ランディだっていつもはこんな早く帰ってこないくせに。今日に限ってなんのつもりだよ?」
いつのの調子でからかってくる年上の同僚を前に、ロイドはついムキになってしまう。
それが子供じみたことだと自覚はしていても、勝手に口が動くのを止められなかった。
「なにって言われてもなぁ。俺も『なんとなく』だし」
ランディはそんな様子を眺めやり、喉の奥で笑いを押し殺す。
誰に何度聞かれても、馬鹿の一つ覚えみたいにその言葉しか出てこない自分が可笑しかった。
けれど、これ以上の不毛なやり取りをする気もなく、
「それより、報告書はいいのか?」
指先で軽くテーブルを叩きながら話題を逸らしてみせる。
「よくないけど……たまには手伝ってくれてもいいんだぞ」
虫の居所が悪くなっているロイドは、楽しげな同僚をジロリと睨んだ。
「すっげー適当に書くけど?」
はなから手伝う気のないランディは、わざと真面目な同僚が嫌がりそうな台詞で逃げる。
「あー、はいはい。だったらもう部屋に戻れよ」
案の定、ロイドはそれを良しとはしなかった。
少しだけ頬を膨らませつつ、書きかけの書類にペンを走らせ始める。
「つれないな~。うちのリーダーは」
冷たくあしらわれたランディは、特に傷心するわけでもなく表情を緩ませた。
席を立つつもりはないようで、黙々と作業する同僚の姿をジッと見つめている。
(……なんで戻らないんだよ?)
残念ながら、ロイドの予想は外れてしまった。
あんな態度を取ればさすがに自室へ戻るだろうと思っていたのに、まるで動く気配がない。
表面上は平静を装って書類に向かっているが、一方的な視線のせいで落ち着かない胸中だ。
どうして急に無言になってしまうのか。
せめて何か喋ってくれたらいいのに。
自分だけがやたらと気恥ずかしいこの状況をどうにかしたくて、ロイドは必死に頭を回転させようとした。
しかし、冷静さを欠いた中では良策が思い浮かばず、苦しまぎれな一言だけが声になる。
「──なにか飲みたい」
本当に何の脈絡もない言葉だ。
それが聞こえたランディは一瞬驚いたが、すぐに肩を震わせて笑いを噛みしめる。
「持ってこいって?ははっ、人使いが荒いねぇ」
相手の要求でその心境を察したのか、ようやく椅子から立ち上がった。
「取りあえずコーヒーでいいか?ミルク入れてやるから」
「ブラックでいいから」
一応お伺いを立ててみると、少し不満げな答えが返ってきた。
「へいへい」
ランディはそんな彼の頭を少し乱暴に掻き混ぜ、台所へと足を向けた。
赤毛を揺らした背中が見えなくなった後、ロイドは盛大に息を吐いてテーブルに突っ伏した。
「はぁー、なんだよ、もう」
あまり経験のない緊張感だったせいで、胸の鼓動が忙しない。
子供扱いは毎度のことだが、あんな風に見つめられたのは初めてだった。
「手……温かかった」
微睡みの中で感じた優しさは兄のようで、でもどこか違うようで。
さっきのように髪を乱されても嫌ではなくて、むしろ嬉しくて。
ランディにとっては他愛のないやり取りだったのかもしれない。
それを妙に意識してしまっている自分にロイドは戸惑った。
「なんか変だな……俺」
身体を起こし、ぼんやりと報告書を見つめる。
もう少しで書き終わるというのに、この書類と向かい合う気になれなかった。
台所に移動したランディは、慣れた手つきでポットに水を入れて火をかけた。
食器棚からカップを二つ取り出して、コーヒーを炒れる準備を進める。
いつもなら鼻歌でも混じりそうな動作だったが、今はそんな余裕が持てなかった。
「偶然にしては出来すぎじゃねーの?」
少し苦しげに顔を歪めて独りごちる。
互いの『なんとなく』は、まるであの空間を作り出すための予感にすら思えた。
ランディは蒸気が立ち上り始めたポットを眺めつつ、無造作に前髪を掻き上げた。
「……無性に構いたくなっちまう」
あの寝言のせいだろうか。
今夜はただの戯れではなくロイドに添っていたい。
色々と遊び歩いているが、こんな気持ちになった相手は今まで一人もいなかった。
「あー、そういえば」
彼はふと、特務支援課の一員として初めてウルスラ病院を訪れた時のことを思い出した。
初対面だったセシルは随分と天然で、三人ともロイドのお相手候補認定をされてしまった。
あの時、まさか自分にも振ってくると思わなかったランディは、冗談交じりでそれに乗ったのだが。
「はぁ、やべぇ……冗談じゃなくなりそうだ」
一体何の布石かと、つい苦笑いをしてしまいたくなる。
色恋沙汰と無縁ではないランディが、この感情の正体に気づけないはずがなかった。
蒸気の吹く音が次第に大きくなってきた。
お湯が沸くまでにはさほど時間がかからないだろう。
扉の向こうの気配を探れば、確かに彼の存在を感じる。
例えその場に居づらかったとしても、律儀で真面目なロイドが頼みごとをしたまま離席することはまずありえない。
「報告書、手伝ってやるか」
不意に、ランディの口から珍しい言葉が発せられた。
さっきの様子を見る限り、手が止まってしまっているような気がする。
本人は平静を保ったつもりだろうが、ランディにしてみれば落ち着きのなさは一目瞭然だった。
周囲には無自覚に爆弾を振りまいているくせに、いざ当事者となると上手く立ち回れない姿がなんだか微笑ましい。
「まぁ、しばらくは『兄貴』でも仕方ねぇかな」
今は時期尚早だ。
気づいてしまった自分の気持ちを、まだ十分に噛み砕けていない。
正直、もう少し時間が欲しいと思った。
2020.07.24
#零
畳む
零・恋人未満
自分の気持ちに気づいてしまったランディと、まだ自覚前のロイドの話。
【文字数:4800】
今夜はいまいち集中力が続かない。
自室で机に向かっていたロイドは、片手で自分の髪を掻き回しながら唸った。
チラリと窓に目を向ければ、いくつもの灯りが街を彩っている。
そろそろ夜も盛りの時間帯だろうか。
時折、賑やかな声が薄く開けた窓の隙間から入り込んでくる。
「ん~、これじゃ分かりにくいか」
ロイドは書きかけの書類に視線を戻して難しい顔をする。
彼は本日分の報告書を書いていた。
これは上司に提出する代物だが、相手はあのセルゲイ課長だ。
書類として最低限の体裁が整っていれば、すんなりと受け取ってもらえるだろう。
基本的にはリーダーであるロイドが作成しているが、エリィやティオが手伝ってくれることも多い。
しかし、ランディだけはこういった作業が苦手だと言って憚らず、逃げの一手だ。
よくエリィに睨まれているが、「適材適所だろ?」などと最もらしい台詞を口にして矛先をかわしている。
そんな年上の同僚の姿が頭を過ぎり、ロイドは小さく笑った。
夕食を終えてから小一時間ほどして、ランディは軽い足取りで夜の街へと繰り出して行った。
遊び慣れている彼にとって、クロスベルの歓楽街は庭のようなものだ。
「毎晩よく行くよなぁ」
また、窓の外に視線が動いてしまう。
ロイドはしばらく無言で街の夜景を眺めやった。
「……下でやろうかな」
ペンを持つ手が止まり、唇から声が漏れる。
これといって理由はなかったが、なんとなくそう思ってしまった。
おもむろに席を立った赤毛の青年に、バルカのオーナーであるドレイクは僅かに瞠目した。
「おい、やけに早いな」
ランディは軽くギャンブルを楽しんだ後、二階のカウンター席に腰を下ろしていた。
ドレイクと遠慮のないやり取りを交わしてグラスを傾けていたが、ふと何かに気が逸れた様子だった。
ほんの数拍の後、無言になった口に残りの酒を一気に流し込む。
「あぁ、なんか早く帰った方がいいような気がしてきちまった」
「は?なんだそりゃ」
「さぁな。ま、なんとなくってヤツ」
あからさまに訝しむドレイクに向けて肩を竦めてみせる。
正直、彼自身にもよく分からない心の機微らしい。
「お前、所帯じみてきやがったな」
ドレイクはニヤリと笑って揶揄したが、これは決して悪い意味ではなかった。
目の前の青年とは彼がクロスベルに流れ着いて以来の付き合いだが、その頃に比べれば随分と変わったと思う。
特に特務支援課という部署に配属されてからは。
「……勝手に言ってろって」
ランディは反論するわけでもなく、軽く片手を上げて踵を返す。
賑やかな音を立てるスロットマシンに目もくれず、真っ直ぐに出入り口へと歩いて行った。
いつもなら多少の未練が残る帰り道だったりするが、今夜は全く気にならなかった。
歓楽街から住宅街を抜け、西通りを歩く。
華やかな照明や雑多な喧噪とは縁のないこの辺りの区画は、夜になれば静かなものだ。
ランディは慣れた足取りで街路を進みながら、ぼんやりと考える。
「なんだかなぁ……気紛れっつーのとは違うんだよな」
どう頑張っても説明ができない。
言葉にすれば、ただ本当に『なんとなく』としか言いようがなかった。
「まぁ、居心地が良いのは確かだけどよ」
ドレイクにからかわれても言い返さなかったのは、自覚があったからだ。
帰る場所があるという現実に、くすぐったくなるような嬉しさを感じてしまう。
そんなことが頭を巡っている内に、いつの間にかその場所に到着していた。
発展していく街に取り残されたような古いビルだが、住んでしまえばどうということはない。
今ではすっかり愛着のある我が家だ。
ランディは裏口の扉を出掛けに持ち出したスペアキーで開錠し、静かに建物内に入った。
「ただいま~っと」
まだ就寝には早い時間帯だが、夜間には変わりなく、小声で帰宅の挨拶をする。
そのまま自室へ戻ろうとしたが、ふと下の階から光が漏れていることに気づいた。
普段なら仲間たちはそれぞれ自室で寛いでいる時刻だが、人の気配がする。
「こんな時間になにやってんだか」
ランディはそう呟きながら階段を降りた。
すると、そこにはテーブルに突っ伏しているロイドの姿があった。
「──っ!?」
何事かと血相を変えた彼は、足早に同僚の側に近づく。
遠目からは気絶しているようにも見えたが、よくよく観察すれば規則正しい寝息が聞こえ、その表情は穏やかだった。
頭を乗せている腕の下には、書きかけの書類と捜査手帳が見え隠れしている。
何をしていたのかはすぐに分かった。
「はぁ~、驚かせんなよ」
ランディは胸を撫で下ろし、僅かに横を向いている寝顔を覗き込んだ。
元から童顔のロイドだが、目が閉じているせいか更に幼く見えてしまう。
無意識に手が伸びて、少し跳ねた栗色の髪を撫でつける。
「う……ん……兄貴」
寝息の隙間から小さな声が零れた。
けれど、瞳は伏せられたままで起きる気配はない。
「こいつ、結構なブラコンだよなぁ」
ランディは呆れた様子で苦笑したが、続いて流れ落ちた言葉に目を見開いた。
「いか……な……いで」
急に胸の奥がざわつき始める。
どこかで兄の姿を重ねているロイドに対して、微かに棘をはらんだ感情が沸き上がってきた。
旧市街で熱戦を繰り広げたあの時に、彼自身がそう言っていたのを聞いていたはずなのに。
「……どこにも行かねぇよ」
今まで感じたことがないわだかまりに戸惑いを隠せない。
それでも、子供のような声を放っておきたくはなかった。
何かが頭に触れている。
それは大きくて温かくてとても心地良かった。
ロイドはうっすらと目を開いた。
「よぉ。見事に沈没してたな」
「っ、あ!?」
すぐ側で声が聞こえ、勢いよく飛び起きると、目の前には赤毛の青年が頬杖をついて座っていた。
「ラ、ランディ?……あれ?」
慌てて辺りを見回しながら何度も目を瞬かせる。
「あぁ、そっか、報告書」
それから突っ伏していたテーブルにある書類を見て、ようやく状況を把握した。
どうやら報告書を作成中に眠気に襲われてしまったらしい。
思わず溜息を吐くと、
「お前さん、なんでこんなとこでやってんの?いつもは自分の部屋で書いてるだろ」
ランディから率直に問いかけられた。
「なんか集中できなくてさ。なんとなく下に降りてきたって感じかな」
ロイドは少し考え込んだが、元から明確な理由があるわけでもなく、困り顔で返す。
「ふ~ん、『なんとなく』ねぇ」
それが自分と重なり合うような気がしたランディは、嬉しげに瞳を細めた。
「あ、実は俺の帰りを待っててくれたとか?お兄さん感激しちゃうな~」
「全然、違うし!大体、ランディだっていつもはこんな早く帰ってこないくせに。今日に限ってなんのつもりだよ?」
いつのの調子でからかってくる年上の同僚を前に、ロイドはついムキになってしまう。
それが子供じみたことだと自覚はしていても、勝手に口が動くのを止められなかった。
「なにって言われてもなぁ。俺も『なんとなく』だし」
ランディはそんな様子を眺めやり、喉の奥で笑いを押し殺す。
誰に何度聞かれても、馬鹿の一つ覚えみたいにその言葉しか出てこない自分が可笑しかった。
けれど、これ以上の不毛なやり取りをする気もなく、
「それより、報告書はいいのか?」
指先で軽くテーブルを叩きながら話題を逸らしてみせる。
「よくないけど……たまには手伝ってくれてもいいんだぞ」
虫の居所が悪くなっているロイドは、楽しげな同僚をジロリと睨んだ。
「すっげー適当に書くけど?」
はなから手伝う気のないランディは、わざと真面目な同僚が嫌がりそうな台詞で逃げる。
「あー、はいはい。だったらもう部屋に戻れよ」
案の定、ロイドはそれを良しとはしなかった。
少しだけ頬を膨らませつつ、書きかけの書類にペンを走らせ始める。
「つれないな~。うちのリーダーは」
冷たくあしらわれたランディは、特に傷心するわけでもなく表情を緩ませた。
席を立つつもりはないようで、黙々と作業する同僚の姿をジッと見つめている。
(……なんで戻らないんだよ?)
残念ながら、ロイドの予想は外れてしまった。
あんな態度を取ればさすがに自室へ戻るだろうと思っていたのに、まるで動く気配がない。
表面上は平静を装って書類に向かっているが、一方的な視線のせいで落ち着かない胸中だ。
どうして急に無言になってしまうのか。
せめて何か喋ってくれたらいいのに。
自分だけがやたらと気恥ずかしいこの状況をどうにかしたくて、ロイドは必死に頭を回転させようとした。
しかし、冷静さを欠いた中では良策が思い浮かばず、苦しまぎれな一言だけが声になる。
「──なにか飲みたい」
本当に何の脈絡もない言葉だ。
それが聞こえたランディは一瞬驚いたが、すぐに肩を震わせて笑いを噛みしめる。
「持ってこいって?ははっ、人使いが荒いねぇ」
相手の要求でその心境を察したのか、ようやく椅子から立ち上がった。
「取りあえずコーヒーでいいか?ミルク入れてやるから」
「ブラックでいいから」
一応お伺いを立ててみると、少し不満げな答えが返ってきた。
「へいへい」
ランディはそんな彼の頭を少し乱暴に掻き混ぜ、台所へと足を向けた。
赤毛を揺らした背中が見えなくなった後、ロイドは盛大に息を吐いてテーブルに突っ伏した。
「はぁー、なんだよ、もう」
あまり経験のない緊張感だったせいで、胸の鼓動が忙しない。
子供扱いは毎度のことだが、あんな風に見つめられたのは初めてだった。
「手……温かかった」
微睡みの中で感じた優しさは兄のようで、でもどこか違うようで。
さっきのように髪を乱されても嫌ではなくて、むしろ嬉しくて。
ランディにとっては他愛のないやり取りだったのかもしれない。
それを妙に意識してしまっている自分にロイドは戸惑った。
「なんか変だな……俺」
身体を起こし、ぼんやりと報告書を見つめる。
もう少しで書き終わるというのに、この書類と向かい合う気になれなかった。
台所に移動したランディは、慣れた手つきでポットに水を入れて火をかけた。
食器棚からカップを二つ取り出して、コーヒーを炒れる準備を進める。
いつもなら鼻歌でも混じりそうな動作だったが、今はそんな余裕が持てなかった。
「偶然にしては出来すぎじゃねーの?」
少し苦しげに顔を歪めて独りごちる。
互いの『なんとなく』は、まるであの空間を作り出すための予感にすら思えた。
ランディは蒸気が立ち上り始めたポットを眺めつつ、無造作に前髪を掻き上げた。
「……無性に構いたくなっちまう」
あの寝言のせいだろうか。
今夜はただの戯れではなくロイドに添っていたい。
色々と遊び歩いているが、こんな気持ちになった相手は今まで一人もいなかった。
「あー、そういえば」
彼はふと、特務支援課の一員として初めてウルスラ病院を訪れた時のことを思い出した。
初対面だったセシルは随分と天然で、三人ともロイドのお相手候補認定をされてしまった。
あの時、まさか自分にも振ってくると思わなかったランディは、冗談交じりでそれに乗ったのだが。
「はぁ、やべぇ……冗談じゃなくなりそうだ」
一体何の布石かと、つい苦笑いをしてしまいたくなる。
色恋沙汰と無縁ではないランディが、この感情の正体に気づけないはずがなかった。
蒸気の吹く音が次第に大きくなってきた。
お湯が沸くまでにはさほど時間がかからないだろう。
扉の向こうの気配を探れば、確かに彼の存在を感じる。
例えその場に居づらかったとしても、律儀で真面目なロイドが頼みごとをしたまま離席することはまずありえない。
「報告書、手伝ってやるか」
不意に、ランディの口から珍しい言葉が発せられた。
さっきの様子を見る限り、手が止まってしまっているような気がする。
本人は平静を保ったつもりだろうが、ランディにしてみれば落ち着きのなさは一目瞭然だった。
周囲には無自覚に爆弾を振りまいているくせに、いざ当事者となると上手く立ち回れない姿がなんだか微笑ましい。
「まぁ、しばらくは『兄貴』でも仕方ねぇかな」
今は時期尚早だ。
気づいてしまった自分の気持ちを、まだ十分に噛み砕けていない。
正直、もう少し時間が欲しいと思った。
2020.07.24
#零
畳む
君と共に行く未来
那由多の軌跡(改)
後日譚の後の話でほんのりシグナユ風味です。
【文字数:2000】
夜も深まった空には、無数の星々が煌めいている。
望遠鏡を覗き込んでそれらを観測する一時は、自宅に居ればこその楽しみだ。
「あの星……昨日はもっと明るかった気がするけど」
ブツブツと呟きながら、手元のノートに何やら書き込んでいる。
そこへ、梯子の下から馴染みのある声が聞こえてきた。
「おい、ナユタ。上がるぞ?」
「ん~、いいよ」
軽やかな身ごなしで屋上の床を踏んだシグナは、熱心に観察を続ける少年の背中を見て小さく笑む。
「あんまり夜更かしすんなよ?」
「あと、ちょっとだけ」
こんな時のナユタは、兄貴分の声かけにも生返事になりがちだ。
その性分を理解している彼は無言で手すりに身体を預け、腕を組みながら静かに上空を見上げた。
もうすぐ夏休みが終わろうとしている。
テラに別れを告げ、残され島に帰ってきてからは、ナユタと二人で便利屋家業に勤しんできた。
だが、そろそろお開きだ。
「さすがに、次の船で戻らないと間に合わねぇな」
港町サンセリーゼまでの航海日数を計算し、シグナが独り言のように呟いた。
「……さて、俺はどうすっかなぁ」
「え?」
ナユタは彼が側に佇んでいる気配を感じつつも、夜空の星たちに意識を寄せていたが、気になる言葉が聞こえて望遠鏡から目を離した。
「シグナ、自警団に戻るんじゃないの?」
酷く驚いた様子で青年の方に顔を向ける。
夏休みが明けて学院に戻る時は一緒だと、それが当たり前の思考すぎて疑いもしなかった。
「なんていうか……まさか、たった一年足らずで再会できるとは思わなかったし」
シグナは遠くを見つめたまま言葉を続ける。
「こっちで生活することに現実味がなかったんだよ。そりゃ、お前らと生きていきたいって願望はあったけど」
今は一つだけになった月が、郷愁めいた瞳の中に映り込んだ。
「だから、身の振り方なんて真面目に考えてなくてな」
本来の色である銀髪は濃藍が広がる空に映え、幻想的にすら見える。
ナユタはそれを綺麗だと感じたが、同時に不穏なざわめきを覚えた。
「案外……落ち着き始めた世界を見て回るってのも、いいかもしれねぇな」
ずっとつるんできた相棒のことだ。嫌な予感は見事に的中した。
「シグナ!なんでまた一人で行こうとするんだよ!?」
彼は星々のことなどそっちのけで、衝動的に食ってかかった。
「なんでって……お前はまだ学生だろうが。きっちり卒業しないと、島のヤツらに合わせる顔がなくなるぜ?」
その激しい反応が意外だったのか、シグナはようやく少年の方を向いた。
諭すような静かな口振りが、珍しく高ぶった相手を落ち着かせようとする。
ナユタの方も元から熱しやすい性格ではなく、何度か深呼吸をしてすぐに平静を取り戻した。
「だったら、二年・三年……いや、僕が卒業するまで待ってよ」
見下ろしてくる視線をしっかりと受け止め、真剣な言葉を返す。
「まだ将来のことは分からないけど、僕だってもっとこの世界を見てみたい」
テラから見えた半球体の世界は想像以上に広くて、そして鮮やかで。
きっと、まだまだ知らないことが沢山あるはずだ。それらを思い描くだけでも胸が踊った。
未知への興味と探究心は、いつだってナユタの心を占めている。
彼の瞳がキラキラと輝き始めたのを見て、シグナは困り顔で頭を掻いた。
「やれやれ、別に放浪の旅ってわけでもねぇし……たまには顔を出すつもりだったんだけどな」
「そんなの信用できない。また置いて行かれるのはごめんだからね」
ナユタは一年前のことを根に持っているのか、あからさまに頬を膨らませた。
「あ~、分かった、分かった」
さすがにこれは不利だと、シグナはばつが悪そうに首を振った。
「相談くらいしてくれたっていいのに。一人で決めようとするの、悪い癖だよ」
「そうは言ってもなぁ」
ご機嫌斜めな相棒の口調はどこか説教じみていて、苦笑を禁じ得ない。
本音を言えば、もし何年か先の話になるとしても彼を誘ってしまいたかった。
けれど、ライラとクレハの気持ちを考えれば、「一緒に行こう」と言い出せるはずもない。
自分の望みを優先してナユタを引っ張り回したら、彼女たちを悲しませることにもなりかねないと思った。
そんなことを考えていると、
「大体、一人で行ったってつまらないよ」
いつの間にか、目の前にナユタが立っていた。
少し背が伸びたのか、一年前よりも近い位置で互いを見合う形になる。
「絶対二人の方が楽しいに決まってる。シグナとだったら、どこへだって行けそうな気がするんだ」
それはすでに確定事項のように、ナユタの声が夜気の中で明るく跳ねた。
「ったく……お前は」
さっきの膨れっ面はどこへやら。
期待に満ちた瞳を向けられ、シグナは照れ隠しの溜息を吐いた。
彼からの言葉が嬉しくて仕方がなかった。
ナユタに想いを寄せる彼女らに対し、後ろめたさがないと言えば嘘になる。
心の奥に隠している感情が滲み出そうになるくらいには。
「取りあえず、お前が卒業するまでは待ってやる」
それを誤魔化すように小さな相棒の肩を叩き、この場を去ろうと脇をすり抜けた。
「あっ、待つってどこで!?」
梯子を使わず一気に下の階へ飛び降りてしまった彼に、ナユタが慌てて声をかけた。
手すりから身を乗り出して相手を見下ろす顔は、どことなく不安そうだ。
「……次の船に乗るなら、そろそろ準備しとかねぇとな」
シグナはそんな幼い表情を仰ぎ見て、優しく目元を緩ませる。
またしばらくは、サンセリーゼの自警団に身を置くことになりそうだった。
2021.08.07畳む
那由多の軌跡(改)
後日譚の後の話でほんのりシグナユ風味です。
【文字数:2000】
夜も深まった空には、無数の星々が煌めいている。
望遠鏡を覗き込んでそれらを観測する一時は、自宅に居ればこその楽しみだ。
「あの星……昨日はもっと明るかった気がするけど」
ブツブツと呟きながら、手元のノートに何やら書き込んでいる。
そこへ、梯子の下から馴染みのある声が聞こえてきた。
「おい、ナユタ。上がるぞ?」
「ん~、いいよ」
軽やかな身ごなしで屋上の床を踏んだシグナは、熱心に観察を続ける少年の背中を見て小さく笑む。
「あんまり夜更かしすんなよ?」
「あと、ちょっとだけ」
こんな時のナユタは、兄貴分の声かけにも生返事になりがちだ。
その性分を理解している彼は無言で手すりに身体を預け、腕を組みながら静かに上空を見上げた。
もうすぐ夏休みが終わろうとしている。
テラに別れを告げ、残され島に帰ってきてからは、ナユタと二人で便利屋家業に勤しんできた。
だが、そろそろお開きだ。
「さすがに、次の船で戻らないと間に合わねぇな」
港町サンセリーゼまでの航海日数を計算し、シグナが独り言のように呟いた。
「……さて、俺はどうすっかなぁ」
「え?」
ナユタは彼が側に佇んでいる気配を感じつつも、夜空の星たちに意識を寄せていたが、気になる言葉が聞こえて望遠鏡から目を離した。
「シグナ、自警団に戻るんじゃないの?」
酷く驚いた様子で青年の方に顔を向ける。
夏休みが明けて学院に戻る時は一緒だと、それが当たり前の思考すぎて疑いもしなかった。
「なんていうか……まさか、たった一年足らずで再会できるとは思わなかったし」
シグナは遠くを見つめたまま言葉を続ける。
「こっちで生活することに現実味がなかったんだよ。そりゃ、お前らと生きていきたいって願望はあったけど」
今は一つだけになった月が、郷愁めいた瞳の中に映り込んだ。
「だから、身の振り方なんて真面目に考えてなくてな」
本来の色である銀髪は濃藍が広がる空に映え、幻想的にすら見える。
ナユタはそれを綺麗だと感じたが、同時に不穏なざわめきを覚えた。
「案外……落ち着き始めた世界を見て回るってのも、いいかもしれねぇな」
ずっとつるんできた相棒のことだ。嫌な予感は見事に的中した。
「シグナ!なんでまた一人で行こうとするんだよ!?」
彼は星々のことなどそっちのけで、衝動的に食ってかかった。
「なんでって……お前はまだ学生だろうが。きっちり卒業しないと、島のヤツらに合わせる顔がなくなるぜ?」
その激しい反応が意外だったのか、シグナはようやく少年の方を向いた。
諭すような静かな口振りが、珍しく高ぶった相手を落ち着かせようとする。
ナユタの方も元から熱しやすい性格ではなく、何度か深呼吸をしてすぐに平静を取り戻した。
「だったら、二年・三年……いや、僕が卒業するまで待ってよ」
見下ろしてくる視線をしっかりと受け止め、真剣な言葉を返す。
「まだ将来のことは分からないけど、僕だってもっとこの世界を見てみたい」
テラから見えた半球体の世界は想像以上に広くて、そして鮮やかで。
きっと、まだまだ知らないことが沢山あるはずだ。それらを思い描くだけでも胸が踊った。
未知への興味と探究心は、いつだってナユタの心を占めている。
彼の瞳がキラキラと輝き始めたのを見て、シグナは困り顔で頭を掻いた。
「やれやれ、別に放浪の旅ってわけでもねぇし……たまには顔を出すつもりだったんだけどな」
「そんなの信用できない。また置いて行かれるのはごめんだからね」
ナユタは一年前のことを根に持っているのか、あからさまに頬を膨らませた。
「あ~、分かった、分かった」
さすがにこれは不利だと、シグナはばつが悪そうに首を振った。
「相談くらいしてくれたっていいのに。一人で決めようとするの、悪い癖だよ」
「そうは言ってもなぁ」
ご機嫌斜めな相棒の口調はどこか説教じみていて、苦笑を禁じ得ない。
本音を言えば、もし何年か先の話になるとしても彼を誘ってしまいたかった。
けれど、ライラとクレハの気持ちを考えれば、「一緒に行こう」と言い出せるはずもない。
自分の望みを優先してナユタを引っ張り回したら、彼女たちを悲しませることにもなりかねないと思った。
そんなことを考えていると、
「大体、一人で行ったってつまらないよ」
いつの間にか、目の前にナユタが立っていた。
少し背が伸びたのか、一年前よりも近い位置で互いを見合う形になる。
「絶対二人の方が楽しいに決まってる。シグナとだったら、どこへだって行けそうな気がするんだ」
それはすでに確定事項のように、ナユタの声が夜気の中で明るく跳ねた。
「ったく……お前は」
さっきの膨れっ面はどこへやら。
期待に満ちた瞳を向けられ、シグナは照れ隠しの溜息を吐いた。
彼からの言葉が嬉しくて仕方がなかった。
ナユタに想いを寄せる彼女らに対し、後ろめたさがないと言えば嘘になる。
心の奥に隠している感情が滲み出そうになるくらいには。
「取りあえず、お前が卒業するまでは待ってやる」
それを誤魔化すように小さな相棒の肩を叩き、この場を去ろうと脇をすり抜けた。
「あっ、待つってどこで!?」
梯子を使わず一気に下の階へ飛び降りてしまった彼に、ナユタが慌てて声をかけた。
手すりから身を乗り出して相手を見下ろす顔は、どことなく不安そうだ。
「……次の船に乗るなら、そろそろ準備しとかねぇとな」
シグナはそんな幼い表情を仰ぎ見て、優しく目元を緩ませる。
またしばらくは、サンセリーゼの自警団に身を置くことになりそうだった。
2021.08.07畳む
認め合う心
イース7
アドルがガッシュ・ドギと共に闘技場から脱出する時の話。一応ガッシュ→アドルなつもり。
【文字数:2000】
酷く身体が重い。
かなり体力を消耗しているようだと、アドルは思った。
だが、今はそんなことに気を取られている場合ではない。
軋む身体へ無理矢理にでも力を込める。
「── アドル!!」
そこへ聞き慣れた相棒の声。
アドルはハッとして身構えたが、ほんの一瞬だけ遅かった。
突撃してきた魔獣の爪が腕を切り裂く。
その衝撃でふらついた彼は、思わず膝を折ってしまった。
「馬鹿野郎!」
そこへ罵声と共に黒い影が飛び込んでくる。
同時にハルバードが唸り、周囲の魔獣たちは一瞬にして崩れ落ちた。
「こんな雑魚相手に何やって……」
ガッシュは、ふらりと立ち上がったアドルに鋭い視線を向けた。
しかし、彼の顔を見た途端に声を詰まらせてしまう。
酷い顔色をしていた。
大した距離を移動したわけでもないのに、やけに息づかいが荒い。
「アドル、大丈夫か!?」
彼の様子が尋常ではないことを察したのか、少し離れた場所にいたドギが慌てて戻ってきた。
アドルはいつものようにニッコリと笑う。
だが、ドギとガッシュの目にはそれが痛々しく映った。
無理もないと思う。
拷問を受け続けた挙げ句に、闘技場での戦いだ。
そして、それからの逃亡劇。
一刻の猶予もならない状況の中、アドルは何も言わずに走り続けた。
もちろん、ドギやガッシュのスピードに遅れることなく。
「おいおい、こりゃひでーな。俺がおぶっていくか?」
ドギはアドルの顔を覗き込みながらそう言ったが、
「待てよ。それじゃ余計にあんたが遅くなるじゃねーか。これ以上遅くなるのはゴメンだぜ」
すぐにガッシュからの抗議を受けた。
「けど、このまま走らせろって言うのか?」
これには流石のドギも顔を顰めてしまう。
「しかたねーだろ」
アドルは二人の睨み合いが始まってしまいそうな雰囲気を感じ、慌てて彼らの間に割って入った。
そして、「まだ走れる」と微笑する。
「お、おい……アドル」
「いいじゃねーか、本人がそう言っているんだから」
不安げなドギとは対照的に、ガッシュはそう言い放つ。
それと同時に漆黒のハルバードを振り上げ、ある方向を指し示した。
「向こうだ。魔獣を倒そうなんて思うな、とにかく走れ。殿は俺がやる」
それを聞いたアドルは無言で頷いた。
そして、心配そうな相棒の肩をポンと叩いてから走り出す。
まだ大丈夫。まだ走れる。
そう自分に言い聞かせながらアドルは目的地まで急いだ。
魔獣との戦いの音が背後から聞こえてきても、振り返りはしない。
相棒のドギはもちろんのこと、ガッシュのことも信頼しているし、背中を預けるに値する人物だと思っている。
だから、前だけを向いて走ることになんの不安も感じなかった。
「……その、悪かったな」
隠れ里に着いた後、ガッシュがそう言った。
だが、アドルには彼が何のことを言っているのか分からなくて首を傾げる。
「だからっ、無理に走らせて悪かったって……」
二度も言うつもりはなかったのだろう。
ガッシュは、ばつが悪そうに顔をそらした。
彼の意外な言葉にアドルは目を瞬かせる。
まさか気にしてくれていたとは思わなかったのだ。
「まったくだぜ。アドルが途中でぶっ倒れるんじゃないかって、ひやひやしちまった」
すると、すかさずドギが横やりを入れてくる。
「あんたには言ってねーだろうが」
ガッシュは二人から顔を背けたまま、軽く舌打ちした。
眼下に広がる見慣れた里の風景に、内心胸をなで下ろす。
この短い期間での目まぐるしい状況の変化に、流石の彼も疲労困憊気味だ。
だが、それよりも……
(本当に走りきるとは思わなかったぜ)
走れるなら走れとあの時言ったが、アドルの体力を信じきっているわけではなかった。
もちろんガッシュは彼が倒れた時のことも考えていたし、そうなる可能性の方が高いのではないかと予想していた。
ちらりとアドルの様子を窺うと、彼の顔色は先刻よりも幾分か良くなっている。
この里の風景が珍しいのだろう、目を輝かせながらドギと会話を弾ませていた。
(ったく、大した奴だ)
ガッシュは正直舌を巻いていた。
アドルのお人好しな性格についてはともかく、彼の冒険者としての資質や剣士としての技量は素直に認めるところだった。
その思いが、自然とガッシュの頬を緩ませた。
── と、その彼の背中にアドルの声が投げ掛けられた。
「な、なんだよ?」
赤毛の青年の不意打ちに、ガッシュは慌てて表情を引き締める。
アドルはガッシュが前々から言っていた『会わせたい人物』について尋ねた。
「ああ、まぁ……直接会った方が早いと思うぜ」
それに対してのガッシュの反応は鈍い。
どうにもあの男の説明をする気にはなれないようだ。
興味津々な瞳が真っ直ぐに向けられるのも、少々居心地が悪い。
ガッシュは「黙って付いてこい」と言わんばかりに、里へ繋がる坂道を下り始めた。
アドルの体調がまだ気がかりだったが、振り返ったらあの真っ直ぐな瞳とぶつかってしまいそうな気がして前を向く。
結局彼は目的の建物を目の前にするまで、一度も振り返ることをしなかった。
2009.10.19
#イース畳む
イース7
アドルがガッシュ・ドギと共に闘技場から脱出する時の話。一応ガッシュ→アドルなつもり。
【文字数:2000】
酷く身体が重い。
かなり体力を消耗しているようだと、アドルは思った。
だが、今はそんなことに気を取られている場合ではない。
軋む身体へ無理矢理にでも力を込める。
「── アドル!!」
そこへ聞き慣れた相棒の声。
アドルはハッとして身構えたが、ほんの一瞬だけ遅かった。
突撃してきた魔獣の爪が腕を切り裂く。
その衝撃でふらついた彼は、思わず膝を折ってしまった。
「馬鹿野郎!」
そこへ罵声と共に黒い影が飛び込んでくる。
同時にハルバードが唸り、周囲の魔獣たちは一瞬にして崩れ落ちた。
「こんな雑魚相手に何やって……」
ガッシュは、ふらりと立ち上がったアドルに鋭い視線を向けた。
しかし、彼の顔を見た途端に声を詰まらせてしまう。
酷い顔色をしていた。
大した距離を移動したわけでもないのに、やけに息づかいが荒い。
「アドル、大丈夫か!?」
彼の様子が尋常ではないことを察したのか、少し離れた場所にいたドギが慌てて戻ってきた。
アドルはいつものようにニッコリと笑う。
だが、ドギとガッシュの目にはそれが痛々しく映った。
無理もないと思う。
拷問を受け続けた挙げ句に、闘技場での戦いだ。
そして、それからの逃亡劇。
一刻の猶予もならない状況の中、アドルは何も言わずに走り続けた。
もちろん、ドギやガッシュのスピードに遅れることなく。
「おいおい、こりゃひでーな。俺がおぶっていくか?」
ドギはアドルの顔を覗き込みながらそう言ったが、
「待てよ。それじゃ余計にあんたが遅くなるじゃねーか。これ以上遅くなるのはゴメンだぜ」
すぐにガッシュからの抗議を受けた。
「けど、このまま走らせろって言うのか?」
これには流石のドギも顔を顰めてしまう。
「しかたねーだろ」
アドルは二人の睨み合いが始まってしまいそうな雰囲気を感じ、慌てて彼らの間に割って入った。
そして、「まだ走れる」と微笑する。
「お、おい……アドル」
「いいじゃねーか、本人がそう言っているんだから」
不安げなドギとは対照的に、ガッシュはそう言い放つ。
それと同時に漆黒のハルバードを振り上げ、ある方向を指し示した。
「向こうだ。魔獣を倒そうなんて思うな、とにかく走れ。殿は俺がやる」
それを聞いたアドルは無言で頷いた。
そして、心配そうな相棒の肩をポンと叩いてから走り出す。
まだ大丈夫。まだ走れる。
そう自分に言い聞かせながらアドルは目的地まで急いだ。
魔獣との戦いの音が背後から聞こえてきても、振り返りはしない。
相棒のドギはもちろんのこと、ガッシュのことも信頼しているし、背中を預けるに値する人物だと思っている。
だから、前だけを向いて走ることになんの不安も感じなかった。
「……その、悪かったな」
隠れ里に着いた後、ガッシュがそう言った。
だが、アドルには彼が何のことを言っているのか分からなくて首を傾げる。
「だからっ、無理に走らせて悪かったって……」
二度も言うつもりはなかったのだろう。
ガッシュは、ばつが悪そうに顔をそらした。
彼の意外な言葉にアドルは目を瞬かせる。
まさか気にしてくれていたとは思わなかったのだ。
「まったくだぜ。アドルが途中でぶっ倒れるんじゃないかって、ひやひやしちまった」
すると、すかさずドギが横やりを入れてくる。
「あんたには言ってねーだろうが」
ガッシュは二人から顔を背けたまま、軽く舌打ちした。
眼下に広がる見慣れた里の風景に、内心胸をなで下ろす。
この短い期間での目まぐるしい状況の変化に、流石の彼も疲労困憊気味だ。
だが、それよりも……
(本当に走りきるとは思わなかったぜ)
走れるなら走れとあの時言ったが、アドルの体力を信じきっているわけではなかった。
もちろんガッシュは彼が倒れた時のことも考えていたし、そうなる可能性の方が高いのではないかと予想していた。
ちらりとアドルの様子を窺うと、彼の顔色は先刻よりも幾分か良くなっている。
この里の風景が珍しいのだろう、目を輝かせながらドギと会話を弾ませていた。
(ったく、大した奴だ)
ガッシュは正直舌を巻いていた。
アドルのお人好しな性格についてはともかく、彼の冒険者としての資質や剣士としての技量は素直に認めるところだった。
その思いが、自然とガッシュの頬を緩ませた。
── と、その彼の背中にアドルの声が投げ掛けられた。
「な、なんだよ?」
赤毛の青年の不意打ちに、ガッシュは慌てて表情を引き締める。
アドルはガッシュが前々から言っていた『会わせたい人物』について尋ねた。
「ああ、まぁ……直接会った方が早いと思うぜ」
それに対してのガッシュの反応は鈍い。
どうにもあの男の説明をする気にはなれないようだ。
興味津々な瞳が真っ直ぐに向けられるのも、少々居心地が悪い。
ガッシュは「黙って付いてこい」と言わんばかりに、里へ繋がる坂道を下り始めた。
アドルの体調がまだ気がかりだったが、振り返ったらあの真っ直ぐな瞳とぶつかってしまいそうな気がして前を向く。
結局彼は目的の建物を目の前にするまで、一度も振り返ることをしなかった。
2009.10.19
#イース畳む
見送り不要
イース7
ED後のアドルとガッシュの別れ際の話です。
【文字数:980】
あちらこちらで人の声がする。
それは華やかな街の賑わいではなく、復興しようとする人々の力強い息づかい。
一時は瀕死状態だったアルタゴ市街も、少しずつではあったが街らしい姿を取り戻しつつある。
そんな中、ガッシュは一人港へ向かっていた。
だが、階段を下ったところで一瞬足を止める。
「……何の用だ」
後方に感じた気配に軽く舌打ちをした。
振り向いた先には、燃えるような赤い髪。
奇妙な縁だ。
まさか、このアルタゴで再会するとは思わなかった。
まさか、共に死地を潜り抜けることになろうとは。
二人の間に少しの沈黙が流れた。
様々な雑音の中、この場所だけが切り取られてしまったかのように。
ここまで走ってきたのか、アドルの呼吸は少し乱れていた。
「俺に構ってないでさっさと行けよ」
ガッシュがそう吐き捨てると、赤毛の青年は困ったように笑った。
今の彼は武器も防具も身に付けていない。
彼と相棒のドギがアルタゴの復興に尽力していることは、もちろんガッシュも知っていた。
すると、アドルは「もうここを立つのか?」と尋ねてきた。
「ああ、これ以上あいつにこき使われるのはごめんだからな」
ガッシュの言いぐさにアドルは苦笑する。
だが、どこか寂しげな様子で黒髪の青年を見つめていた。
二人とも口達者な方ではないから、スムーズな別れのやりとりなど出来るはずもない。
「あ~、だから、さっさと行けって言ってるだろ!」
ガッシュは片手で黒髪をかきむしりながら、声を荒げた。
こんな所で悠長に相手をするつもりはなかったのに……と思う。
けれどもこのお人好しな青年のことだ、振り払おうとしても出航間際まで付いてきそうな気がする。
案の定、アドルは「見送りたい」と言ってきた。
ハッキリ言って柄じゃない。
ガッシュは脱力したくなったが、不思議なことにまったく嫌なわけではなかった。
それどころか、少し嬉しい気もしてしまう。
だがそんなことはおくびにも出さず、彼はアドルに背を向けた。
「チッ、勝手にしろ」
顰めっ面で歩き出したガッシュの後ろ姿に、アドルはパッと目を輝かせた。
そして短い別れの時間を惜しむかのように、やけに足早な彼を追いかけるのだった。
2009.10.4
#イース 畳む
イース7
ED後のアドルとガッシュの別れ際の話です。
【文字数:980】
あちらこちらで人の声がする。
それは華やかな街の賑わいではなく、復興しようとする人々の力強い息づかい。
一時は瀕死状態だったアルタゴ市街も、少しずつではあったが街らしい姿を取り戻しつつある。
そんな中、ガッシュは一人港へ向かっていた。
だが、階段を下ったところで一瞬足を止める。
「……何の用だ」
後方に感じた気配に軽く舌打ちをした。
振り向いた先には、燃えるような赤い髪。
奇妙な縁だ。
まさか、このアルタゴで再会するとは思わなかった。
まさか、共に死地を潜り抜けることになろうとは。
二人の間に少しの沈黙が流れた。
様々な雑音の中、この場所だけが切り取られてしまったかのように。
ここまで走ってきたのか、アドルの呼吸は少し乱れていた。
「俺に構ってないでさっさと行けよ」
ガッシュがそう吐き捨てると、赤毛の青年は困ったように笑った。
今の彼は武器も防具も身に付けていない。
彼と相棒のドギがアルタゴの復興に尽力していることは、もちろんガッシュも知っていた。
すると、アドルは「もうここを立つのか?」と尋ねてきた。
「ああ、これ以上あいつにこき使われるのはごめんだからな」
ガッシュの言いぐさにアドルは苦笑する。
だが、どこか寂しげな様子で黒髪の青年を見つめていた。
二人とも口達者な方ではないから、スムーズな別れのやりとりなど出来るはずもない。
「あ~、だから、さっさと行けって言ってるだろ!」
ガッシュは片手で黒髪をかきむしりながら、声を荒げた。
こんな所で悠長に相手をするつもりはなかったのに……と思う。
けれどもこのお人好しな青年のことだ、振り払おうとしても出航間際まで付いてきそうな気がする。
案の定、アドルは「見送りたい」と言ってきた。
ハッキリ言って柄じゃない。
ガッシュは脱力したくなったが、不思議なことにまったく嫌なわけではなかった。
それどころか、少し嬉しい気もしてしまう。
だがそんなことはおくびにも出さず、彼はアドルに背を向けた。
「チッ、勝手にしろ」
顰めっ面で歩き出したガッシュの後ろ姿に、アドルはパッと目を輝かせた。
そして短い別れの時間を惜しむかのように、やけに足早な彼を追いかけるのだった。
2009.10.4
#イース 畳む
黎・恋人未満
アーロンが戦闘中にヴァンに庇われて不機嫌になりつつも、最後は上機嫌な話。
「見とれたかよ」って言わせたかっただけです。
【文字数:6800】
小一時間ぶりに地上の光を浴びた一行は、眩しさで目を細めた。
地下特有のひんやりとした空気から一転、暖かい外気に晒されて安堵する。
午後も少しばかり過ぎた時間帯、リバーサイドにはゆったりとした風が流れていた。
「お前ら、お疲れさんだったな」
ヴァンは助手たちを労い、整備路へ続く扉を閉めて慎重に施錠をする。
一般人が誤って入り込んでしまっては大事だ。
「お疲れさまです!」
「ヴァンさんもお疲れ様でした」
すぐに元気な声と優しげな声が返ってきたが、あと一人足りない気がする。
そこにいるはずなのに、常日頃の強気で生意気な応答が聞こえてこない。
しかし、雇い主として助手たちの性格を把握しているヴァンは、特に気分を害した様子もなかった。
そんな彼の上着の裾をフェリが小さく引っ張る。
「アーロンさん、機嫌が悪そうですね」
「あー、だろうなぁ……」
困ったような色をした大きな瞳に見上げられ、ヴァンは苦笑いをしながら頭を掻いた。
地下鉄の整備路には何度も出入りしているが、構造的に立ち回りやすい環境とは言えなかった。
照明があっても視界はそこそこで、狭い場所も多く足場が悪い。
ただ歩くだけならまだしも、戦うとなれば多少のストレスは伴ってしまうものだ。
それはこの顔ぶれの中で最も好戦的なアーロンにはてきめんだった。
彼は苛つきが蓄積するような連戦を繰り広げた後、大きな空間へ出た途端に爛々と両眼を輝かせた。
「ハッ、ぶっ潰してやるぜ!」
蠢く大型の魔獣たちを見つけた足が、意気揚々と地面を蹴る。
「アーロン、突っ走るな!」
ヴァンはその背中に向かって怒鳴り、追撃の体勢に入った。
「フェリ、攪乱しろ。アニエスは援護を」
シャードを展開させながら二人に指示を出す。
小さな身体が銃口を構えて走り出したと同時に、アーツの駆動が始まった。
響き渡る銃声がアーロンに集中していた敵意を散らす。
その隙を突き、双剣が溜まった鬱憤を吐き出すように苛烈な斬撃を叩き込んだ。
「ガキみたいな戦い方するんじゃねぇ!」
体勢を崩した魔獣に止めの強打をお見舞いしたヴァンは、烈火にも似た青年を制しようとした。
しかし、彼は聞く耳を持たない。
「うるせぇ!!」
アーロンは残っている相手に狙いを定め、息つく間もなく強襲をかける。
だが、その刹那。
側面からの重い衝撃波が彼を襲った。
「ぐはっ!?」
不意を突かれ、受け身を取り損ねた身体が吹き飛ばされる。
よろめきながらもすぐに立ち上がろうとする彼に、容赦なく追い打ちの牙が襲いかかった。
それを目に捉えたヴァンの足が脊髄反射で動き出す。
この距離なら間に合う。
彼は不確定なシールドの発動よりも、自分の身体能力を選んだ。
「やらせるかよ!!」
武器を顔の前で構えながら魔獣に突進する様は躊躇なく、自らの負傷など顧みない。
間一髪で凶刃を食い止め、のし掛かる重圧を押し返す勢いで腕に力を込めて薙ぎ払った。
その直後。アニエスの声が響き渡りアーツが駆動する。
「皆さん、伏せて下さい!」
激しく螺旋を描いた水流が水飛沫を上げ、一直線に魔獣たちを貫いた。
戦闘が終わると、アニエスが心配げにアーロンの元へ駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?アーロンさん」
しかし、彼はそれを無視して目の前にいるヴァンを睨みつけた。
「……余計なマネしやがって。ウゼェんだよ」
「悪ぃな。身体が勝手に動いちまったもんで」
アーロンの性格上、庇われるのは本意ではないだろう。
ただ、あの状況では仕方なかった。
ヴァンは鋭い眼光を真正面から受け止め、肩を竦めるしかなかった。
歯切れの悪い言葉の片隅には、年長者の穏やかな響きが見え隠れする。
フェリはそんな雇い主の男を見上げたまま眉を寄せた。
彼はアーロンが不機嫌な理由を分かっているようだが、自分には見当が付かない。
「フェリちゃん。もし、戦闘中に誰かに庇われたらどう思いますか?」
そこへ、アニエスから助け船が入った。
「えっと、戦士としての未熟さは感じますけど……あっ!」
一番小さな助手は素直な気持ちを口にし始め、途中で何かに気づいてハッと目を見開いた。
「アーロンさんはヴァンさんに庇われちゃったから、面白くないんですね」
答えを見つけた顔が嬉しそうに輝く。
「こら、フェリ。あんまり大きな声で言うなって。あいつに聞こえちまう」
渦中の人物の背中は少し先を歩いていて、振り返る気配はなさそうだ。
「ダメなんですか?」
「こういう時はそっとしておきましょうね」
小首を傾げた妹のような少女の問いに、アニエスは人差し指を唇に当てながら微笑んだ。
この日の業務は厄介な案件こそなかったが、件数は多かった。
所長であるヴァンが解散を告げる頃には、すっかり茜色の空が広がっていた。
アーロンはそれを聞くやいなや、夕暮れ時で賑わい始めた街へと姿を消してしまった。
別に昼間のことあったからではない。いつのもことだ。
大君にも由来する強いカリスマ性のせいか、気性のわりに人好きのする雰囲気のせいか、彼の周りには自然と人が集まる。
本人もそうやって仲間たちと戯れるのが好きなのだろう。
「ハメを外しすぎなければ、勝手にやってろってな」
ヴァンは事務所へと続く階段を上りながら独りごちる。
帰宅してホッとするも束の間、机の上に溜まった書類の束が目に入り、思いきり脱力した。
「……さすがに片付けねぇと、ヤバそうだ」
自業自得だが、つい面倒くさくて後回しにしてしまう。
事務所に人が増えれば、それだけ諸々の手続きも増えていく。
最近はアニエスが書類の整理などをしてくれているので、これでも以前よりかは大分マシな状態なのだが。
「今度はあのガキにもやらせるか」
最年少のフェリでさえ、難しい顔をしながらも手伝ってくれる時がある。
彼女より年上のアーロンができない作業ではないだろうと、ヴァンは思った。
彼はなかなかに癖が強いが、根本的な所では真面目だ。
何かと文句を言いつつも、与えられた仕事を途中で投げ出したりはしない。
今日も地下を出て以降は不機嫌さを隠しもしなかったが、最後まで同行していた。
所長として、そういう部分はきちんと評価している。
「どうせウザがられるだけだから言わねぇけど……な」
生意気な助手について思いを巡らせた後、ヴァンはようやく机に向かい合った。
今までの経験上、この量では深夜までかかりそうだ。
もう腹をくくるしかなかった。
今夜もいつものように遊び明かすつもりだった。
軽く夕飯を済ませている最中。チラホラと集まってきた仲間たちと共に、繁華街へと繰り出し享楽にふける。
もちろん酒は美味いし、気分も上がる。
けれど、どこか純粋に楽しみ切れていない自分がいることを、アーロンは薄々感じていた。
この胸のわだかまりは説明できなくても、原因だけははっきりと分かる。
結局、彼は時計が深夜を回ったあたりで酒の席を立った。
「なんか、ノリきれねぇな」
そう言葉少なに漏らした声を仲間たちは珍しがったが、しつこく詮索するような輩はいなかった。
アーロンの感覚ではさして遅い時間帯でもないが、旧市街はすっかり静まりかえっていた。
どこか悶々としながら戻って来た彼は、自室がある三階へ上がる寸前で足を止め、ふと事務所の扉に目をやった。
部屋の中には動いている人の気配があり、思わず顔を顰めて舌打ちをする。
今日はどうしてもあの雇い主のことを意識してしまう。
いつものなら、盛り場の喧噪で忘れてしまえるような感情が燻っていた。
階段を上り始めた足は次第に早くなり、いささか乱暴な仕草で自室の扉に手をかける。
不本意な帰宅をした彼は、そのままの勢いでベッドに身体を投げ出した。
「……やっぱりウゼェ」
苦々しい吐息を吐きながら薄暗い天井を見つめ、片手の甲を押し当てて視界を閉ざした。
眠気など襲ってくるはずもなく、脳裏に昼間の光景が蘇る。
あの時、魔獣との間に割って入るようにヴァンの身体が飛び込んできた。
不意打ちをされたのは完全に自分の失態であり、追撃を受けて多少の負傷をするのは覚悟の上だった。
頼まれもしないのに大きな背中が視界を占領し、庇われたと認識した途端に喉元がチリチリと焼け付いた。
矜持が傷付いたというよりも、また一つ借りが積み重なっていくことが嫌だった。
煌都の一件からこの方、あの背中ばかりを見ている気がする。
勝手に何かを与えてくるくせに、いざという時でさえ自分から何かを求めてこようとはしない。
それは戦闘中に限った話ではなく、まるで保護者のような眼差しを見るたびに苛立たしさが募った。
「所長さんの責任感ってか?」
考えれば考えるほど、刺々しい感情の渦に飲み込まれてしまいそうになる。
アーロンはこの思考を遮断したくて、わざと声を出して毒づいてみせた。
──今はただ無心になりたい。
ふと、そんな思いに捕らわれる。
彼はおもむろにベッドから起き上がり、側に置いていた愛用の双剣を掴んだ。
それから、ふらりと部屋を出て行った。
デスクワークのお供に用意したマグカップの中身は、もう残りわずかになっている。
砂糖とミルクがたっぷりと入ったコーヒーは、事務作業の進捗と比例して順調に減っていた。
楽しいとは思えないが、不本意ながらも雇い主の立場にあるので、いい加減なことはできない。
「やれやれ。なんでこうも立て続けに押しかけてくるんだか」
最後の書類に目を通しながら、ヴァンは困ったように目尻を下げた。
自分が年若い助手たちに懐かれていることには、全くの無自覚だった。
「まぁ、ここにいる間は面倒見てやるけどよ」
ようやく全ての書類に目を通した後、どこか愁いを含んで人知れず呟く。
彼は残りのコーヒーを一気に飲み干し、長らく座っていた椅子から立ち上がった。
凝り固まった身体を解す為に大きな伸びをすると、気持ち良さからか思わず息が零れる。
「はぁ……さすがに溜めすぎたぜ」
綺麗になった机に胸を撫で下ろし、自業自得と言わんばかりの表情を浮かべた。
部屋の時計に目を向ければ、すでに夜も深い時間を回っていた。
ずっと部屋に籠もっていたせいか、無性に外の空気を吸いたくなってくる。
「さて……と、屋上にでも出てみるか」
さすがに今から外出する気分にはなれず、だとしたら選択肢は一つだけ。
ヴァンは椅子の背もたれにかけていた上着を掴み、それを羽織りながら屋上へ足を向けた。
この時間帯なら誰もいないはずだと思っていた。
フェリはとっくに就寝しているだろうし、アーロンはまだ遊び歩いているだろう。
だから、屋上の扉を開けた瞬間に目を疑った。
何かが空を切る音が聞こえる。
薄暗い場所でさえも鮮やかな赤い髪が、視界へ飛び込んできた。
(おいおい……これは予想外すぎんだろうが)
毎日のように夜遊びをしているくせに、なぜ今夜に限ってこんな所にいるのか?
思わず悪態の一つも吐きたくなったが、彼の唇が動き出すことはなかった。
寝静まった旧市街の夜を、銀色の弧を描いた二つの軌跡が乱舞する。
それに合わせて床を蹴る音は、羽が生えたように軽やかだ。
煌都での舞台が脳裏をかすめる。
華劇場の観客たちを魅了して止まない、光彩を放つ役者としての姿。
よほど世界に入り込んでいるのか、屋上に来た男の存在にも気づいていない。
これは誰かに見せるものではなく、ただ自身の為だけの舞いだ。
それを理解したヴァンはこの場から去ろうとしたが、どうしても足が動かなかった。
鋭い光を放つ双剣から目を逸らせなくなる。
そんな最中。次第にアーロンの動作は収束し、やがて綺麗に止まった。
深く息は吐きながら剣を鞘に収め、濃紺が広がる空を見上げる。
そこで、ようやく自分以外の気配に気がついた。
勢いよく振り返った先には見慣れた男がいて、驚きが露わになる。
「……いたのかよ」
「あぁ、邪魔しちまったみたいだな」
ヴァンはばつが悪そうに視線を反らし、落ち着きなく身体を揺らした。
「タダ見っつーのはいただけねぇなぁ」
その姿を見ても、先刻までのヒリつくような苛立ちを感じなかった。
今は随分と心が落ち着いている。
「ま、残念だったな。女の格好じゃなくて」
双剣を持ったまま腕を組み、手摺りに背中を預けた顔が皮肉めいて笑う。
「は?そこは関係ねぇだろ」
てっきり機嫌を損ねたかと思ったが、そうでもないらしい。
普段と変わりなく話しかけてきた助手に対し、ヴァンは内心で安堵する。
「着飾ってた方が客の気分も上がるってもんだ」
「いや、客じゃねぇし」
軽い応酬をしている間に自分の調子も戻り、自然と年長者の顔が前に出る。
「大体、舞台の上では外見が全てじゃねぇし。観客を魅了するのは、お前の内面から生まれ出るものが大半だろ」
諭すような口振りは、この年下の青年が鬱陶しがるであろう最たるものだ。
しかし、彼は虚を突かれた様子でヴァンを見た。
数拍を置いてから発した声が、喉の奥に笑いを絡めて響く。
「ほんと、ウゼェな……だが、悪くねぇ」
別に自分を卑下したつもりはないし、役者としての自尊心は高く持ち合わせている。
彼にしてみれば、その言葉は的外れにしか思えなかったが、声に出して認められるのは満更でもないのだろう。
アーロンは手摺りから身体を離し、鞘に収めていた刃を抜き放った。
手元で器用に一回転させてから息を整える。
「滅多にやらねぇものを見せたくなるくらいには」
そう言って静かに口角をつり上げた。
お世辞にでも広いとは言えない舞台に、ただ一人。
ゆっくりと双剣を振るい始めたアーロンの雰囲気は、さっきとはまるで違っていた。
ヴァンが最初に見た演舞は、華美で派手な演出が映える剣捌きだった。
それを動と例えるならば、今は静。
凪いだ水面の上に立ち、波紋の一つも広がることはない。
正直、戸惑いを隠せなかった。それと同時に感嘆の息が漏れる。
(……こいつ、こんな動きもするのかよ)
微かな月明かりの空を夜景にして、しなやかな手足が音もなく流れる。
今度もまた、見入ってしまうのを止められなかった。
ふと、目が合った。
すぐに離れてもう一度。
振り向きざま、乱れた髪の隙間から真っ直ぐに見つめてくる。
今度は静かな刃を真横に振るい、思わせぶりに顔を逸らした。
それは挑発か。はたまた誘惑か。
幽玄な空気さえも漂う演舞の中、金彩色の両眼だけが鮮烈な光を放つ。
そのアンバランスさがひどく印象的だった。
視線の糸が絡んでは解ける度に、否応なく引きずり込まれてしまう。
『オレを見ろ』と言わんばかりに
屋上に来てからどのくらいの時間が経過しただろう。
たった一人の客へ向けられた剣舞は、この小さな舞台にこそ映える。
ヴァンは完全にその世界に没入していた。
いつの間にか、美しい弧を描き続けていた刃が止まったことにも気が付かなかった。
そんな彼の耳に聞き慣れた声が入ってくる。
「なぁ、所長さん」
突如、風を切る鋭利な音がした。
鼻先すれすれの所でピタリと切っ先が止まる。
「──っ!?」
そこで、一気に現実に引き戻された。
大きく目を見開けば、突き出された剣を一本隔てた場所にアーロンが立っている。
「……見とれたかよ?」
彼は年長の男に対し、自信たっぷりな微笑を浮かべつつも意地悪げな色を滲ませた。
「て、てめぇは……っ」
ヴァンは思わず一歩後退し、相手を睨み付ける。
してやられたと思った。
流麗な舞いに吸い寄せられ、強い情を宿した主張に心臓を掴まれたような気さえする。
「はぁ……このクソガキが」
急激に居たたまれない気分に襲われた彼は、大きく頭を振ってから片手で髪を掻き乱した。
「こんな所で俺相手に無駄遣いしまくってんじゃねぇよ」
見入ってしまった事実を誤魔化したいのか、顔を背けて吐き捨てる。
アーロンはそんな様子を可笑しげに見つめながら、抜き身の剣を鞘に収めた。
今夜、一時でもこの男より優位に立てたのなら上々だ。
「それは心外ってもんだぜ。これでも使う相手は選んでる」
赤髪の青年は意味深げに呟き、軽い足取りでヴァンの横をすり抜けた。
このまま部屋に戻ってさっさとベッドに潜り込むのも一興。
さぞかし気持ち良く眠れるに違いない。
余裕綽々で去っていく背中は、一度も振り返らなかった。
気分転換のつもりが、とんだ失態を晒してしまった。これでは所長の面子も形無しである。
ようやく一人になったヴァンは、ぐったりと手摺りにもたれて大きな溜息を吐いた。
「なんで、そうくるんだよ。意味が分かんねぇ」
昼間の不機嫌ぶりが嘘のようだった。
アーロンが珍しいものを披露したくなる程に気を良くしたのはなぜだろう?
無意識に人たらしな言動をするこの男には、皆目見当が付かなかった。
「……くそ、調子が狂っちまった」
夜の空気で冷えている手摺りが心地良く、額を押し付けて瞳を閉じる。
面倒な事務処理で消耗をしているはずなのに、今は眠気の一つも襲ってはこなかった。
冴え冴えとした頭は、嫌みなくらい心身を休ませてはくれない。
夜のしじまに双剣が空を切る残響がする。
あの突き刺さるような金色が胸に焼き付いて離れなかった。
2021.12.31
#黎畳む