君と冒険してみたい
イースⅨ
リクエスト(アドルと赤の王の話)の作品です。
アドルが二人で冒険する夢を見て嬉しそうにしている話です。
【文字数:3000】
瑞々しい草木が生い茂る森の中、ふと足を止めて空を仰ぎ見る。
枝葉の隙間から覗く爽やかな蒼天は快晴の様相をしていた。
「ここを抜ければ視界が開けそうだ」
アドルは地図を広げながら薄く滲んだ額の汗を拭った。
しかし、立ち止まったのは一時だけですぐに動き出す。
すでに数時間は歩いているが疲労の色は見えなかった。
まだ見ぬ景色を想像するだけで、自然と心が踊り身も軽くなる。
利便性を求めて描かれた紙上の世界を眺めるだけでは、彼の好奇心と探究心は満たされない。
まだ道のない大地に足跡を残していくことの、なんと楽しいことか。
「──あっ」
しばらくすると、予想通りに前方が淡く白んできた。
小走りで森を抜けきり、途端に眩しい陽光の出迎えを受けて目を細める。
「やっぱり!ここなら、この辺り一帯を見渡せそうだ」
森の出口を境にして風景がガラリと変わった。
ゴツゴツとした岩肌が露出し始め、植物は草木がその隙間から生えている程度だ。
足元は緩やかな傾斜を含んだ上り坂で、全体像で言えば小高い岩場のような場所だった。
アドルは嬉々としながら歩む。
道中、遠慮がちに顔を覗かせている小花たちを目にしては、自然と口元が綻んだ。
だが、そんな矢先。明るかった表情が一変した。
「これは……」
数歩先の地面に大きな亀裂が走っている。
慎重に近づいて裂け目の状態を確認した後、彼は落胆の息を吐いた。
深さはそれ程でもないのだが、なにぶん幅がある。
例え全力で助走したとしても、飛び越えることは不可能だろう。
周囲を見渡してみたが迂回できるルートはなく、完全に手詰まり状態だった。
「はぁー、あともう少し登れば辿り着けそうなんだけど」
二度目の吐息は、残念がりつつもどこか苦笑交じりだった。
未知の領域を探索していれば、こんなことは珍しくもない。
アドルの冒険家魂は人並み外れているが、だからといって無謀な命知らずではなかった。
もう一度辺りを見回してから考え込む。
「ここを越える方法は……なさそうか」
現状ではどう頑張っても妙案が思い浮かばない。
前進する手段がなければ諦めるほかはなく、彼は名残惜しそうに道の先を見つめて踵を返そうとした。
と、その時。
「手段ならあるじゃないか」
不意にどこか馴染みのある声が聞こえてきた。
勢いよく振り返ると、十歩ほどの距離を隔てた所に一人の青年が佇んでいた。
やや陰のある衣服と鮮やかな赤い髪。片手を腰に当てた立ち姿は、穏やかな表情で相手を覗っている。
「君は……」
アドルは目を丸くした。
ここにあるのは大自然の営みだけで、今の今まで人の気配は全く感じなかった。
あまりに唐突な登場の仕方に数秒ほど声を失ってしまう。
けれど、唖然とした理由はそれだけだった。
「あまり驚かないんだね」
青年が意外そうに小首を傾げると、
「いや、さすがに驚いたよ。誰もいないと思っていたし」
アドルは可笑しげに肩を揺すった。
「でも、君は僕だからね。赤の王」
不可解な状況のはずだが、『なぜ?』よりも『嬉しい』が先に立つ。
自らの姿と対峙した瞬間、アドルの頭の中では全てが繋がった。
この難所を超える手段は彼が持っている。
だから二人で共に行けばいい。
前進できると分かったことで、心には再び明るい灯が宿った。
この道を登り切った先に広がるであろう、初めての眺めを想像するだけで居ても立ってもいられない。
今にも走り出しそうに煌めいた瞳が、真っ直ぐに赤の王へ向けられた。
彼はまるで鏡映しのごとくに同じ感情を浮かべていて、それが何とも言えずに胸をくすぐる。
──さぁ、行こう!
アドルは出立の合図とばかりに、片方の腕を彼へと伸ばした。
まさしく以心伝心。タイミングを計る必要はなかった。
赤の王の脚が力強く地面を蹴る。
瞬く間に至近距離まで来た彼は、アドルの腕を掴んで身体ごと引き寄せた。そのまますぐに跳躍の体勢に入る。
「飛ぶぞ!」
「ああ!」
岩場の一体に凜とした声が響き合う。
刹那、黒い影が一閃。
正面にそびえる岩壁へ突き刺さった。
それが支点となり、瞬速で大きく口を開けた亀裂の上を飛び越える。
晴れ渡った空の下、鋭利な影はどこまでも楽しげな赤と漆黒を纏わせていた。
記憶はそこまでだった。
目を覚ましたアドルは、天井を見つめたまま残念そうに呻いた。
「なんだ……夢か」
せっかくの盛り上がりだったのに、もう終わりだなんて白状にも程がある。
身体的な寝覚めは悪くないのだが、気持ちの面では少しばかり消化不良気味だ。
彼はベッドから起き上がり、身仕度を整えながら今の夢を反芻してみた。
「どうせなら、一緒に上まで行きたかったな」
二人で見る岩場の頂からの風景は、きっと素晴らしいものに違いない。
それを堪能しながら会話をすれば、きっと際限なく弾んで広がっていくことだろう。
「本当に二人で冒険できたら、どんなに楽しいんだろう?」
アドルは胸元に手を当ててゆっくりと目を閉じた。
赤の王は確かに『ここ』にいる。
彼が歩んだバルドゥークでの冒険の軌跡は、五感や感情の全てを内包して共に存在している。
「……君もそう思うだろ?」
問いかけの形をした確信を言葉にすると、思わず笑みが溢れてくる。
そんな中、不意に寝室のドアを叩く音が聞こえてきた。
「おい、アドル!起きてるかー?」
長年の相棒であるドギの声だ。
「あぁっ、ごめん。すぐ行くよ」
内なる世界に没頭していたアドルは、ハッと我に返ってドアを開けた。
「ははっ、寝坊でもしたか?珍しいな」
大きな体躯を見上げると、戯けた表情が覗き込んでくる。
「まぁ、そんな所かな。ちょっとね、わくわくする夢を見たんだ」
アドルは明るい口調で応答をしながら寝室を出た。
ドギは厨房で使用する食材を運んでいる途中だったらしく、小脇には新鮮な野菜が入った大きな籠を抱えている。
立ち止まっていた彼が歩き出したので、アドルも横に並んで動き出す。心なしか足元が浮かれ調子になっていた。
そんな様子を見たドギは、さり気なく話題を振った。
「お前さんがそんな風に言う時はよ、おおかた冒険絡みだろ?」
きっと夢の中身を話したいのだろうと思ったのだ。
「さすがはドギ!そうなんだよ、赤の王と二人で難所を越たんだ!」
すると、アドルはまるで子供のように瞳を輝かせて食い付いてきた。
「ん?お前さんが二人ってことか。そりゃ、また……」
実際の所、バルドゥークに来てからはアドルが二人いた訳だが、彼らが連れ立って探索をすることなどなかったはずだ。
ドギはわずかに天を仰ぎながら、ぼそりと呟いた。
「そいつは、骨が折れそうだなぁ」
彼らと共に冒険をする自分を思い浮かべた途端、自然と苦笑いの顔になってしまう。
賑やかで楽しそうではあるが、色々と大変そうな気がする。上手く言葉にはできないが、それはもう色々と。
「今、何か言ったか?」
それは本当に小さな吐息のようで、肩を並べるくらいの距離でも聞き取れないものだった。
「いや、何でもねぇよ」
覗うような眼差しを受けたドギは、自分よりも低い位置にある赤い頭を大雑把にかき混ぜる。
軽く誤魔化してしまう形になったが、ご機嫌な相手に対してわざわざ水をかける必要はないだろう。
「楽しい夢が見られて良かったな」
ドギは白い歯を見せながら軽快に笑う。
「あぁ!でも、良いところで目が覚めてしまってさ。続きが見られたら嬉しいんだけどね」
すると、アドルは小気味良く応じた直後に少しだけ不満を露わにした。
もう一人の自分と一緒に冒険をしてみたい。
彼と融合してからは心の片隅にそんな思いが住み着いていた。
そんな現実では為し得ない願望があったからこそ、赤の王は夢となって現れ出たのかもしれない。
いつかあの冒険の続きを。
アドルはそう願わずにはいられなかった。
2025.08.31
#イース畳む
イースⅨ
リクエスト(アドルと赤の王の話)の作品です。
アドルが二人で冒険する夢を見て嬉しそうにしている話です。
【文字数:3000】
瑞々しい草木が生い茂る森の中、ふと足を止めて空を仰ぎ見る。
枝葉の隙間から覗く爽やかな蒼天は快晴の様相をしていた。
「ここを抜ければ視界が開けそうだ」
アドルは地図を広げながら薄く滲んだ額の汗を拭った。
しかし、立ち止まったのは一時だけですぐに動き出す。
すでに数時間は歩いているが疲労の色は見えなかった。
まだ見ぬ景色を想像するだけで、自然と心が踊り身も軽くなる。
利便性を求めて描かれた紙上の世界を眺めるだけでは、彼の好奇心と探究心は満たされない。
まだ道のない大地に足跡を残していくことの、なんと楽しいことか。
「──あっ」
しばらくすると、予想通りに前方が淡く白んできた。
小走りで森を抜けきり、途端に眩しい陽光の出迎えを受けて目を細める。
「やっぱり!ここなら、この辺り一帯を見渡せそうだ」
森の出口を境にして風景がガラリと変わった。
ゴツゴツとした岩肌が露出し始め、植物は草木がその隙間から生えている程度だ。
足元は緩やかな傾斜を含んだ上り坂で、全体像で言えば小高い岩場のような場所だった。
アドルは嬉々としながら歩む。
道中、遠慮がちに顔を覗かせている小花たちを目にしては、自然と口元が綻んだ。
だが、そんな矢先。明るかった表情が一変した。
「これは……」
数歩先の地面に大きな亀裂が走っている。
慎重に近づいて裂け目の状態を確認した後、彼は落胆の息を吐いた。
深さはそれ程でもないのだが、なにぶん幅がある。
例え全力で助走したとしても、飛び越えることは不可能だろう。
周囲を見渡してみたが迂回できるルートはなく、完全に手詰まり状態だった。
「はぁー、あともう少し登れば辿り着けそうなんだけど」
二度目の吐息は、残念がりつつもどこか苦笑交じりだった。
未知の領域を探索していれば、こんなことは珍しくもない。
アドルの冒険家魂は人並み外れているが、だからといって無謀な命知らずではなかった。
もう一度辺りを見回してから考え込む。
「ここを越える方法は……なさそうか」
現状ではどう頑張っても妙案が思い浮かばない。
前進する手段がなければ諦めるほかはなく、彼は名残惜しそうに道の先を見つめて踵を返そうとした。
と、その時。
「手段ならあるじゃないか」
不意にどこか馴染みのある声が聞こえてきた。
勢いよく振り返ると、十歩ほどの距離を隔てた所に一人の青年が佇んでいた。
やや陰のある衣服と鮮やかな赤い髪。片手を腰に当てた立ち姿は、穏やかな表情で相手を覗っている。
「君は……」
アドルは目を丸くした。
ここにあるのは大自然の営みだけで、今の今まで人の気配は全く感じなかった。
あまりに唐突な登場の仕方に数秒ほど声を失ってしまう。
けれど、唖然とした理由はそれだけだった。
「あまり驚かないんだね」
青年が意外そうに小首を傾げると、
「いや、さすがに驚いたよ。誰もいないと思っていたし」
アドルは可笑しげに肩を揺すった。
「でも、君は僕だからね。赤の王」
不可解な状況のはずだが、『なぜ?』よりも『嬉しい』が先に立つ。
自らの姿と対峙した瞬間、アドルの頭の中では全てが繋がった。
この難所を超える手段は彼が持っている。
だから二人で共に行けばいい。
前進できると分かったことで、心には再び明るい灯が宿った。
この道を登り切った先に広がるであろう、初めての眺めを想像するだけで居ても立ってもいられない。
今にも走り出しそうに煌めいた瞳が、真っ直ぐに赤の王へ向けられた。
彼はまるで鏡映しのごとくに同じ感情を浮かべていて、それが何とも言えずに胸をくすぐる。
──さぁ、行こう!
アドルは出立の合図とばかりに、片方の腕を彼へと伸ばした。
まさしく以心伝心。タイミングを計る必要はなかった。
赤の王の脚が力強く地面を蹴る。
瞬く間に至近距離まで来た彼は、アドルの腕を掴んで身体ごと引き寄せた。そのまますぐに跳躍の体勢に入る。
「飛ぶぞ!」
「ああ!」
岩場の一体に凜とした声が響き合う。
刹那、黒い影が一閃。
正面にそびえる岩壁へ突き刺さった。
それが支点となり、瞬速で大きく口を開けた亀裂の上を飛び越える。
晴れ渡った空の下、鋭利な影はどこまでも楽しげな赤と漆黒を纏わせていた。
記憶はそこまでだった。
目を覚ましたアドルは、天井を見つめたまま残念そうに呻いた。
「なんだ……夢か」
せっかくの盛り上がりだったのに、もう終わりだなんて白状にも程がある。
身体的な寝覚めは悪くないのだが、気持ちの面では少しばかり消化不良気味だ。
彼はベッドから起き上がり、身仕度を整えながら今の夢を反芻してみた。
「どうせなら、一緒に上まで行きたかったな」
二人で見る岩場の頂からの風景は、きっと素晴らしいものに違いない。
それを堪能しながら会話をすれば、きっと際限なく弾んで広がっていくことだろう。
「本当に二人で冒険できたら、どんなに楽しいんだろう?」
アドルは胸元に手を当ててゆっくりと目を閉じた。
赤の王は確かに『ここ』にいる。
彼が歩んだバルドゥークでの冒険の軌跡は、五感や感情の全てを内包して共に存在している。
「……君もそう思うだろ?」
問いかけの形をした確信を言葉にすると、思わず笑みが溢れてくる。
そんな中、不意に寝室のドアを叩く音が聞こえてきた。
「おい、アドル!起きてるかー?」
長年の相棒であるドギの声だ。
「あぁっ、ごめん。すぐ行くよ」
内なる世界に没頭していたアドルは、ハッと我に返ってドアを開けた。
「ははっ、寝坊でもしたか?珍しいな」
大きな体躯を見上げると、戯けた表情が覗き込んでくる。
「まぁ、そんな所かな。ちょっとね、わくわくする夢を見たんだ」
アドルは明るい口調で応答をしながら寝室を出た。
ドギは厨房で使用する食材を運んでいる途中だったらしく、小脇には新鮮な野菜が入った大きな籠を抱えている。
立ち止まっていた彼が歩き出したので、アドルも横に並んで動き出す。心なしか足元が浮かれ調子になっていた。
そんな様子を見たドギは、さり気なく話題を振った。
「お前さんがそんな風に言う時はよ、おおかた冒険絡みだろ?」
きっと夢の中身を話したいのだろうと思ったのだ。
「さすがはドギ!そうなんだよ、赤の王と二人で難所を越たんだ!」
すると、アドルはまるで子供のように瞳を輝かせて食い付いてきた。
「ん?お前さんが二人ってことか。そりゃ、また……」
実際の所、バルドゥークに来てからはアドルが二人いた訳だが、彼らが連れ立って探索をすることなどなかったはずだ。
ドギはわずかに天を仰ぎながら、ぼそりと呟いた。
「そいつは、骨が折れそうだなぁ」
彼らと共に冒険をする自分を思い浮かべた途端、自然と苦笑いの顔になってしまう。
賑やかで楽しそうではあるが、色々と大変そうな気がする。上手く言葉にはできないが、それはもう色々と。
「今、何か言ったか?」
それは本当に小さな吐息のようで、肩を並べるくらいの距離でも聞き取れないものだった。
「いや、何でもねぇよ」
覗うような眼差しを受けたドギは、自分よりも低い位置にある赤い頭を大雑把にかき混ぜる。
軽く誤魔化してしまう形になったが、ご機嫌な相手に対してわざわざ水をかける必要はないだろう。
「楽しい夢が見られて良かったな」
ドギは白い歯を見せながら軽快に笑う。
「あぁ!でも、良いところで目が覚めてしまってさ。続きが見られたら嬉しいんだけどね」
すると、アドルは小気味良く応じた直後に少しだけ不満を露わにした。
もう一人の自分と一緒に冒険をしてみたい。
彼と融合してからは心の片隅にそんな思いが住み着いていた。
そんな現実では為し得ない願望があったからこそ、赤の王は夢となって現れ出たのかもしれない。
いつかあの冒険の続きを。
アドルはそう願わずにはいられなかった。
2025.08.31
#イース畳む
煽り上手は地に潜る
恋人設定・2025年バレンタイン
アーロンにチョコを渡したいヴァンが墓穴を掘りまくっている話です。
【文字数:5700】
胡乱げな雰囲気が漂うこの地下通路も、今やすっかり慣れた道程だ。
迷いなく地上へと向かい、表と裏を隔てる重いドアを開け放つ。
「はぁ~、やっぱ外の空気の方が美味いぜ」
アーロンが人目を憚らずに大きな背伸びをする。
新鮮な外気が体内へ流れ込み、一気に緊張感が抜けていった。
「そりゃ、そうだろ。いくら空調は整っているとはいえ、地下は地下だしな」
彼に続いて外に出てきたヴァンは、眩しそうに目を細めて空を仰ぎ見る。
「あぁ、もうこんな時間か。あそこにいると時間の感覚が鈍っちまう」
男の瞳に映っているのは、茜色から群青色へと変わる夕暮れ時のグラデーション。
地下鉄を利用して駅に降り立った時分、まだ辺りは陽光に満ちていて明るかった。
川辺から流れてくる風は冷たさを増し、明らかな時間の経過を感じる。
黒芒街に続く道はいくつもあるが、ヴァンたちはここ──リバーサイドを利用することが多かった。
「で、この後はどうすんだよ?所長さん」
心地良い川のせせらぎを耳に流しながら、二人はおもむろに歩き始めた。
「今日のところはこれで十分だろ」
彼らが黒芒街を訪れた理由は裏解決業務の一環で、とある依頼の情報収集を兼ねた巡回だった。
多少の収穫は得たが、それ以外はヴァンの嗅覚に引っかかるような事案もなかった。
そうとなれば、本日の業務は終了の方向だろう。
「おっ、そんじゃお開きか?」
アーロンはパッと顔を輝かせ、胸元で掌に拳を打ち付けた。
今すぐにでもどこかへ遊びに行ってしまいそうな勢いだ。
「あぁ、そうだな」
ヴァンは所長の顔で頷いた。
だが、橋の袂まで来たところで急に足を止めてしまう。
「さてと、今の時間だったら……」
助手の方はといえば、鼻歌交じりで今夜の予定を立てようとしていた。
彼は遊び仲間たちと連絡を取るつもりで、衣服の中からザイファを取り出す。
そこで、ようやくヴァンが隣を歩いていないことに気がついた。
彼の足はすでに橋の上を数歩進んだ辺り。
立ち止まって振り返ると、ヴァンがどこか落ち着きのない様子で視線を彷徨わせていた。
「ん?まだこの辺に用があるのかよ?」
「い、いや……用はねぇ」
訝しげな声を投げかけられると、彼は慌ててアーロンの傍らに駆け寄った。
橋へ上がった途端に夜を誘う冷たい風が強く吹き抜けていく。
それを横顔に受けたヴァンは小さく頭を振った。
結局は重い腰を上げることが出来なかったのだからもういいか、と。
諦めて業務を開始したはずなのに、いざ終了となったら俄に未練が首をもたげ始めた。
──本当は彼に渡したい物がある。
中央を流れる川を渡りきってしまえば、地下鉄の駅はすぐそこだった。
ヴァンは駅名が刻まれた建物を見据えて再び歩みを止めた。
(何やってんだろな……俺は。でも)
どんなに自嘲してみても、一度そう思ってしまったら断ち切れそうにない。
彼は深呼吸をしてた後、意を決して声を発した。
「アーロン、やっぱもうちょいこの辺をブラついてくる」
「はぁ?よく分かんねぇ野郎だな」
助手の反応はさっきよりも険しかったが、それはほんの一瞬だった。
彼の脳内はこれからの楽しい予定で大半が占められているのだろう。
「悪ぃな。それと……」
それを遮ってしまうことを詫び、更に言葉を続ける。
「事務所の俺の机。一番下の引き出しに黒い箱が入ってる。面倒でなければお前が持っていけ」
なんとか一気に言い終えた。
「俺は夜まで戻らねぇからな」
それから、軽く息吐いて語尾を付け加える。
ヴァンにとってはこれが限界だった。
唖然として立ち尽くすアーロンをその場に残し、速歩で来た道を戻っていく。
どこまでも、どこまでも自分は不器用だ。
一刻も早く彼の視界から姿を消してしまいたかった。
失態と言えばそうなのかもしれない。
アーロンは逃げるように去って行ったヴァンを止める機を逃してしまった。
追いかけて問い詰めてやろうかとも考えたが、首都生活が長い彼の方が地の利は上だろう。
悔しいけれど、本気で逃げられたら捕まえる自信はない。
「ったく、なんなんだよ」
彼は苛立たしげに片手で頭を掻きむしり、駅の構内へ続く階段を下りた。
時刻表を眺めながらヴァンの言葉を反芻する。
あの男は何かを渡したがっている。しかも、さり気なく期限を設けている。
夜まで戻らないという宣言は、それまでに持っていけということなのだろう。
「……そんなに直接渡せねぇブツなのか?」
改札口をくぐると同時に、列車の到着を知らせるアナウンスが響き渡った。
ヴァンにあそこまで意味深げな言動をされてしまっては、遊びに繰り出すことなど二の次になる。
アーロンはザイファをポケットに戻し、ホームに到着した列車へ乗り込んだ。
車内は空いているが座る気分ではなく、ドアの脇に身体を預ける。
薄暗い壁が流れるだけの車窓は単調で、時の流れがやたらと遅く感じられた。
いくつかの駅を通り過ぎて旧市街に到着する頃には、彼の心中は落ち着きを取り戻していた。
自然と勇み足になる下肢を宥め、最短距離で事務所へと向かう。
いつの間にか陽は完全に落ちていて、街は夜の様相を醸し出していた。
モンマルトの賑わいを横目に階段を上ると、事務所の中には人の気配があった。
きっと仲間内の誰かだろうと判断して、遠慮なくドアを開ける。
「お帰りなさいませ。アーロン様」
淑やかな声に迎えられ、彼は短く応じてからぐるりと室内を見回した。
「そっちも巡回は終わってんだろ?残業かよ」
「少しデータの整理をしておりました。そちらの方は現地解散だったのですか?」
リゼットはソファーに座ってノート型端末を操作している所だった。
戻ってきた同僚が一人だったことに対し、少し意外そうな素振りを見せる。
アーロンはヴァンと二人で黒芒街へ足を伸ばしていたはずだ。
「あ~、そんなとこ……なんだけどな」
すると、青年は珍しく言葉を濁した。
その場で腕を組み、居心地が悪そうに靴先で床を鳴らす。
「何かあったのですか?」
キーボードを叩いていた綺麗な指が止まり、憂慮の眼差しがアーロンに向けられた。
「いや、あの野郎が急に妙なこと言いやがって。一番下の引き出しにある箱を持っていけだとよ」
彼はヴァンの机に近づきながら呆れたように肩を竦ませた。
「しかも、今日の夜までとかいう制限つきでだぜ?」
リゼットへの言葉の中に愚痴を紛らせ、腰をかがませて指定された引き出しを開けてみる。
「面倒くせぇことしやがっ……」
だが、そこで彼の唇が止まった。
中にはペンケースほどの小箱だけが置かれている。
他には何もなく、まるで引き出しに落ちる影の中へ溶け込んでしまいそうだった。
上品な黒い包装紙に包まれているそれには、控えめな焔色のリボンが添えられている。
アーロンは無言のまま、主張をしたがらない贈り物を丁寧に救い上げた。
最初は驚きを露わにしていた瞳が、少しずつ柔らかさを帯びてくる。
これが何を意味するのか、今日という日の趣向をもちろん彼は知っている。
ヴァンがわざわざ期限を設けたことにも頷けた。
「アーロン様?」
急に言葉を発しなくなった同僚を心配したのか、リゼットが端末を閉じて立ち上がった。
そこで彼が持っている物が目に留まる。
「あ、そちらの品は……」
「お前、知ってんのかよ?」
彼女の意外な反応に、アーロンは間髪を入れずに問い返した。
「はい、四日前のことになりますね。ヴァン様がそちらの品を前にして項垂れておられるのを見てしまいました」
リゼットは当時のことを思い出しながら微笑んだ。
「もちろん故意ではなかったのですが。ヴァン様は『これは自分用に買ったチョコ』だと、慌てておっしゃっいました。ふふっ……やはりアーロン様宛だったのですね」
察しの良い彼女はすぐに気がついたが、その時はヴァンの苦し紛れの誤魔化しを尊重する形を取ったのだという。その答え合わせができたとばかりに嬉しそうな様子だった。
「……なにやってんだよ。あのオッサン」
リゼットの説明を聞き終えたアーロンは、それで全てを理解した。
先刻の別れ際での、ヴァンの不可解な言動と不器用な心根を。
だから、どうしたって顔が緩んでしまうのが止められない。
心の奥底から沸々と愛おしさが溢れ出してくる。体温が上昇して贈り物を受け取った手に汗が滲んだ。
今すぐあの男に会いたい。
この一分一秒ですらも惜しいくらいに全身が渇望している。
彼は開けっぱなしの引き出しを勢いよく閉めて、真っ直ぐに戸口へ向かった。
「アーロン様。どうかお手柔らかにお願いいたしますね」
まるで緋色を宿したような後ろ姿を、リゼットは微笑ましく見送る。
やはり察しの良い彼女のこと、この先のヴァンの身を案じてつい口添えをしたくなってしまった。
事務所を後にして廊下を駆け下りる。
通りに出たアーロンの身体を一陣の夜風が吹き抜けていった。
冷たさは瞬きの一時だけ、冬の寒空でも心身は熱いくらいだ。
彼はポケットからザイファを取り出し、代わりに大切な物を慎重にしまい込んだ。
画面の中の時計を確認すると、『今日』にはまだまだ余裕があった。
「逃がさねぇぞ、ヴァン。受け取った報告はきっちりてめぇの目の前でしてやるぜ」
まず、手始めに本人への通信を試みる。
繋がれば好運、そうでなければアーロンなりの人脈を駆使して探し出すまでだ。
駅の前では諦めてしまったが、今は一粒たりともそんな感情は芽生えてこなかった。
あの時は彼が追いかけてこないことを心の底から安堵した。
例え追ってきたとしても、本気で相手を煙に巻くつもりではあったのだが。
「……夜っていつからいつまでだ?」
カウンター席の最奥には鬱々とした男が一人。
もう数えるのが面倒になるくらいの頻度で溜息を落としていた。
注文したグラスの中身も、最初に口を付けただけで放置されている。
「もう、ヴァンちゃんったら。アーロンちゃん相手に一体何をやらかしたのよ?」
入店してからこの方、彼は一向に浮上する兆しがなかった。
ベルモッティはそんな常連客を静観していたのだが、ついには痺れを切らして声を掛ける。
「な、なんであいつの名前が出てくるんだよ?」
俯いていたヴァンが反射的に顔を上げた。
この店の主は色恋話の類いが大好きだ。そのせいか、ヴァンも恋人であるアーロンへの愚痴を零してしまったり、些細な相談をしてしまう時がある。
しかし、今夜はまだ彼の名前を出していなかった。
「いやぁねぇ~、それしかないじゃない。分かりやすいなんてレベルじゃないわ」
驚きを露わにした凝視を受け止め、ベルモッティは戯けながらひと笑いした。
それからすぐに目元を緩ませて『聴く人』の顔になる。
「それで、何があったのかしら?」
ヴァンはしばらく逡巡していたが、やがてぼそぼそと口を動かし始めた。
当初はバレンタインデーだからといって、特別なことをするつもりなんてなかったこと。
しかし、次第に高まっていく街中の雰囲気に感化され、つい浮かれ気分でチョコレートを買ってしまったこと。
後になって冷静さを取り戻してしまい、頭を抱えるほどの羞恥が押し寄せてきたこと。
そして──そんな状態のまま当日を迎えてしまったということ。
彼はそこまでを一気に吐き出してから再び俯いた。
まだ続きがありそうだと判断したベルモッティは、黙って彼を待つ。
「別に渡せなくていいかって思ったんだけどな。けど、やっぱり……未練っつーか」
声はさほどの間を置かずに発せられたが、
「だから、机の引き出しにあるやつを持っていけとだけ伝えて逃げてきた」
今度は急に早口となり、大袈裟なくらいの勢いでテーブルに突っ伏してしまった。
「中身がチョコだなんて……言えるわけねぇだろ」
落ち込んでいる、はたまた自己嫌悪に陥っている。いくらでも表現の仕方はあるが、なかなかの重傷ぶりなのは誰か見ても明らかだ。
「はぁ、相変わらずの不器用さんねぇ。でも、ちょっと安心したわ。最初は大喧嘩でもしたのかと思ってたから」
全てを聴き終えたベルモッティは、頬に片手を添えて胸をなで下ろした。
「ところで、それはいつ頃の話なのかしら?」
「夕方ぐらいだ」
問い掛けには、くぐもった答えが返ってくる。
店主は壁の時計に目をやりつつ、リバーサイドと旧市街の距離を考えた。
「それなら、そろそろお迎えの時間かもしれないわね」
伏せたままのヴァンの肩がピクリと小さく跳ねる。
「まさか、そんなわけ……っ!?」
その時、上着の中でザイファの呼び出し音が鳴り始めた。
飛び起きた勢いのまま、端末を取り出して着信相手の確認をしてみる。
「マ、マジか?」
「あら、出てあげないの?」
「いや、ちょっ、ちょっと待ってくれ」
あまりに急展開すぎる。ヴァンは少しばかり錯乱状態に陥っていた。
胸の鼓動が早鐘を打ち、額にはじんわりと嫌な汗が浮かぶ。
普段のアーロンであれば諦めるくらいの秒数が過ぎたが、それでも音は鳴り続ける。
「もう~!ちょっと貸しなさいよ。代わりに出てあげるわ」
「え?お、おい!」
見るに見かねたベルモッティは、半ば強引に端末を取り上げて応答ボタンを押した。
「はぁ~い、アーロンちゃん」
意図していなかった人物の姿が画面に現れ、アーロンは意表を突かれたのだろう。咄嗟に息を詰まらせた。
「ヴァンちゃんなら捕まえておいてあげるから、早くいらっしゃいな」
そんな若者へ向けて、ベルモッティは片目を瞑りながら援護射撃をしてみせる。
すると、アーロンは狙いが定まったと言わんばかりに目を煌めかせて頷いた。
二人は幾度か言葉を交わし、やがてヴァンをそっちのけにした短い通話を終えたのだった。
カウンター席の最奥に鬱々とした男が一人──もとい、屍のような男が突っ伏している。
「ヴァンちゃんって、ほんと煽るのが上手よねぇ」
今回の一連の出来事について、ベルモッティの総括はしみじみしたものだった。
「しかも、アーロンちゃん限定だもの。あの子、嬉しくて仕方がないんじゃないかしら」
独り言にも似たそれは、テーブルに伏せた濃紺の頭にやんわりと降り注ぐ。
反応こそなかったが、実のところはヴァンの耳にはしっかりと届いていた。
ただ、墓穴を掘りすぎたせいで地上へ出てこられなくなっている。
自力で浮上できないほどの深い穴には、もはや優しいだけの慰めなど届きそうになかった。
それよりも、実力行使とばかりに彼を引っ張り上げてくれる存在の方が頼もしい。
今頃は嬉々としながらこの店に向かっているであろう、苛烈で強引なくらいの恋人の手が。
2025.02.24畳む
恋人設定・2025年バレンタイン
アーロンにチョコを渡したいヴァンが墓穴を掘りまくっている話です。
【文字数:5700】
胡乱げな雰囲気が漂うこの地下通路も、今やすっかり慣れた道程だ。
迷いなく地上へと向かい、表と裏を隔てる重いドアを開け放つ。
「はぁ~、やっぱ外の空気の方が美味いぜ」
アーロンが人目を憚らずに大きな背伸びをする。
新鮮な外気が体内へ流れ込み、一気に緊張感が抜けていった。
「そりゃ、そうだろ。いくら空調は整っているとはいえ、地下は地下だしな」
彼に続いて外に出てきたヴァンは、眩しそうに目を細めて空を仰ぎ見る。
「あぁ、もうこんな時間か。あそこにいると時間の感覚が鈍っちまう」
男の瞳に映っているのは、茜色から群青色へと変わる夕暮れ時のグラデーション。
地下鉄を利用して駅に降り立った時分、まだ辺りは陽光に満ちていて明るかった。
川辺から流れてくる風は冷たさを増し、明らかな時間の経過を感じる。
黒芒街に続く道はいくつもあるが、ヴァンたちはここ──リバーサイドを利用することが多かった。
「で、この後はどうすんだよ?所長さん」
心地良い川のせせらぎを耳に流しながら、二人はおもむろに歩き始めた。
「今日のところはこれで十分だろ」
彼らが黒芒街を訪れた理由は裏解決業務の一環で、とある依頼の情報収集を兼ねた巡回だった。
多少の収穫は得たが、それ以外はヴァンの嗅覚に引っかかるような事案もなかった。
そうとなれば、本日の業務は終了の方向だろう。
「おっ、そんじゃお開きか?」
アーロンはパッと顔を輝かせ、胸元で掌に拳を打ち付けた。
今すぐにでもどこかへ遊びに行ってしまいそうな勢いだ。
「あぁ、そうだな」
ヴァンは所長の顔で頷いた。
だが、橋の袂まで来たところで急に足を止めてしまう。
「さてと、今の時間だったら……」
助手の方はといえば、鼻歌交じりで今夜の予定を立てようとしていた。
彼は遊び仲間たちと連絡を取るつもりで、衣服の中からザイファを取り出す。
そこで、ようやくヴァンが隣を歩いていないことに気がついた。
彼の足はすでに橋の上を数歩進んだ辺り。
立ち止まって振り返ると、ヴァンがどこか落ち着きのない様子で視線を彷徨わせていた。
「ん?まだこの辺に用があるのかよ?」
「い、いや……用はねぇ」
訝しげな声を投げかけられると、彼は慌ててアーロンの傍らに駆け寄った。
橋へ上がった途端に夜を誘う冷たい風が強く吹き抜けていく。
それを横顔に受けたヴァンは小さく頭を振った。
結局は重い腰を上げることが出来なかったのだからもういいか、と。
諦めて業務を開始したはずなのに、いざ終了となったら俄に未練が首をもたげ始めた。
──本当は彼に渡したい物がある。
中央を流れる川を渡りきってしまえば、地下鉄の駅はすぐそこだった。
ヴァンは駅名が刻まれた建物を見据えて再び歩みを止めた。
(何やってんだろな……俺は。でも)
どんなに自嘲してみても、一度そう思ってしまったら断ち切れそうにない。
彼は深呼吸をしてた後、意を決して声を発した。
「アーロン、やっぱもうちょいこの辺をブラついてくる」
「はぁ?よく分かんねぇ野郎だな」
助手の反応はさっきよりも険しかったが、それはほんの一瞬だった。
彼の脳内はこれからの楽しい予定で大半が占められているのだろう。
「悪ぃな。それと……」
それを遮ってしまうことを詫び、更に言葉を続ける。
「事務所の俺の机。一番下の引き出しに黒い箱が入ってる。面倒でなければお前が持っていけ」
なんとか一気に言い終えた。
「俺は夜まで戻らねぇからな」
それから、軽く息吐いて語尾を付け加える。
ヴァンにとってはこれが限界だった。
唖然として立ち尽くすアーロンをその場に残し、速歩で来た道を戻っていく。
どこまでも、どこまでも自分は不器用だ。
一刻も早く彼の視界から姿を消してしまいたかった。
失態と言えばそうなのかもしれない。
アーロンは逃げるように去って行ったヴァンを止める機を逃してしまった。
追いかけて問い詰めてやろうかとも考えたが、首都生活が長い彼の方が地の利は上だろう。
悔しいけれど、本気で逃げられたら捕まえる自信はない。
「ったく、なんなんだよ」
彼は苛立たしげに片手で頭を掻きむしり、駅の構内へ続く階段を下りた。
時刻表を眺めながらヴァンの言葉を反芻する。
あの男は何かを渡したがっている。しかも、さり気なく期限を設けている。
夜まで戻らないという宣言は、それまでに持っていけということなのだろう。
「……そんなに直接渡せねぇブツなのか?」
改札口をくぐると同時に、列車の到着を知らせるアナウンスが響き渡った。
ヴァンにあそこまで意味深げな言動をされてしまっては、遊びに繰り出すことなど二の次になる。
アーロンはザイファをポケットに戻し、ホームに到着した列車へ乗り込んだ。
車内は空いているが座る気分ではなく、ドアの脇に身体を預ける。
薄暗い壁が流れるだけの車窓は単調で、時の流れがやたらと遅く感じられた。
いくつかの駅を通り過ぎて旧市街に到着する頃には、彼の心中は落ち着きを取り戻していた。
自然と勇み足になる下肢を宥め、最短距離で事務所へと向かう。
いつの間にか陽は完全に落ちていて、街は夜の様相を醸し出していた。
モンマルトの賑わいを横目に階段を上ると、事務所の中には人の気配があった。
きっと仲間内の誰かだろうと判断して、遠慮なくドアを開ける。
「お帰りなさいませ。アーロン様」
淑やかな声に迎えられ、彼は短く応じてからぐるりと室内を見回した。
「そっちも巡回は終わってんだろ?残業かよ」
「少しデータの整理をしておりました。そちらの方は現地解散だったのですか?」
リゼットはソファーに座ってノート型端末を操作している所だった。
戻ってきた同僚が一人だったことに対し、少し意外そうな素振りを見せる。
アーロンはヴァンと二人で黒芒街へ足を伸ばしていたはずだ。
「あ~、そんなとこ……なんだけどな」
すると、青年は珍しく言葉を濁した。
その場で腕を組み、居心地が悪そうに靴先で床を鳴らす。
「何かあったのですか?」
キーボードを叩いていた綺麗な指が止まり、憂慮の眼差しがアーロンに向けられた。
「いや、あの野郎が急に妙なこと言いやがって。一番下の引き出しにある箱を持っていけだとよ」
彼はヴァンの机に近づきながら呆れたように肩を竦ませた。
「しかも、今日の夜までとかいう制限つきでだぜ?」
リゼットへの言葉の中に愚痴を紛らせ、腰をかがませて指定された引き出しを開けてみる。
「面倒くせぇことしやがっ……」
だが、そこで彼の唇が止まった。
中にはペンケースほどの小箱だけが置かれている。
他には何もなく、まるで引き出しに落ちる影の中へ溶け込んでしまいそうだった。
上品な黒い包装紙に包まれているそれには、控えめな焔色のリボンが添えられている。
アーロンは無言のまま、主張をしたがらない贈り物を丁寧に救い上げた。
最初は驚きを露わにしていた瞳が、少しずつ柔らかさを帯びてくる。
これが何を意味するのか、今日という日の趣向をもちろん彼は知っている。
ヴァンがわざわざ期限を設けたことにも頷けた。
「アーロン様?」
急に言葉を発しなくなった同僚を心配したのか、リゼットが端末を閉じて立ち上がった。
そこで彼が持っている物が目に留まる。
「あ、そちらの品は……」
「お前、知ってんのかよ?」
彼女の意外な反応に、アーロンは間髪を入れずに問い返した。
「はい、四日前のことになりますね。ヴァン様がそちらの品を前にして項垂れておられるのを見てしまいました」
リゼットは当時のことを思い出しながら微笑んだ。
「もちろん故意ではなかったのですが。ヴァン様は『これは自分用に買ったチョコ』だと、慌てておっしゃっいました。ふふっ……やはりアーロン様宛だったのですね」
察しの良い彼女はすぐに気がついたが、その時はヴァンの苦し紛れの誤魔化しを尊重する形を取ったのだという。その答え合わせができたとばかりに嬉しそうな様子だった。
「……なにやってんだよ。あのオッサン」
リゼットの説明を聞き終えたアーロンは、それで全てを理解した。
先刻の別れ際での、ヴァンの不可解な言動と不器用な心根を。
だから、どうしたって顔が緩んでしまうのが止められない。
心の奥底から沸々と愛おしさが溢れ出してくる。体温が上昇して贈り物を受け取った手に汗が滲んだ。
今すぐあの男に会いたい。
この一分一秒ですらも惜しいくらいに全身が渇望している。
彼は開けっぱなしの引き出しを勢いよく閉めて、真っ直ぐに戸口へ向かった。
「アーロン様。どうかお手柔らかにお願いいたしますね」
まるで緋色を宿したような後ろ姿を、リゼットは微笑ましく見送る。
やはり察しの良い彼女のこと、この先のヴァンの身を案じてつい口添えをしたくなってしまった。
事務所を後にして廊下を駆け下りる。
通りに出たアーロンの身体を一陣の夜風が吹き抜けていった。
冷たさは瞬きの一時だけ、冬の寒空でも心身は熱いくらいだ。
彼はポケットからザイファを取り出し、代わりに大切な物を慎重にしまい込んだ。
画面の中の時計を確認すると、『今日』にはまだまだ余裕があった。
「逃がさねぇぞ、ヴァン。受け取った報告はきっちりてめぇの目の前でしてやるぜ」
まず、手始めに本人への通信を試みる。
繋がれば好運、そうでなければアーロンなりの人脈を駆使して探し出すまでだ。
駅の前では諦めてしまったが、今は一粒たりともそんな感情は芽生えてこなかった。
あの時は彼が追いかけてこないことを心の底から安堵した。
例え追ってきたとしても、本気で相手を煙に巻くつもりではあったのだが。
「……夜っていつからいつまでだ?」
カウンター席の最奥には鬱々とした男が一人。
もう数えるのが面倒になるくらいの頻度で溜息を落としていた。
注文したグラスの中身も、最初に口を付けただけで放置されている。
「もう、ヴァンちゃんったら。アーロンちゃん相手に一体何をやらかしたのよ?」
入店してからこの方、彼は一向に浮上する兆しがなかった。
ベルモッティはそんな常連客を静観していたのだが、ついには痺れを切らして声を掛ける。
「な、なんであいつの名前が出てくるんだよ?」
俯いていたヴァンが反射的に顔を上げた。
この店の主は色恋話の類いが大好きだ。そのせいか、ヴァンも恋人であるアーロンへの愚痴を零してしまったり、些細な相談をしてしまう時がある。
しかし、今夜はまだ彼の名前を出していなかった。
「いやぁねぇ~、それしかないじゃない。分かりやすいなんてレベルじゃないわ」
驚きを露わにした凝視を受け止め、ベルモッティは戯けながらひと笑いした。
それからすぐに目元を緩ませて『聴く人』の顔になる。
「それで、何があったのかしら?」
ヴァンはしばらく逡巡していたが、やがてぼそぼそと口を動かし始めた。
当初はバレンタインデーだからといって、特別なことをするつもりなんてなかったこと。
しかし、次第に高まっていく街中の雰囲気に感化され、つい浮かれ気分でチョコレートを買ってしまったこと。
後になって冷静さを取り戻してしまい、頭を抱えるほどの羞恥が押し寄せてきたこと。
そして──そんな状態のまま当日を迎えてしまったということ。
彼はそこまでを一気に吐き出してから再び俯いた。
まだ続きがありそうだと判断したベルモッティは、黙って彼を待つ。
「別に渡せなくていいかって思ったんだけどな。けど、やっぱり……未練っつーか」
声はさほどの間を置かずに発せられたが、
「だから、机の引き出しにあるやつを持っていけとだけ伝えて逃げてきた」
今度は急に早口となり、大袈裟なくらいの勢いでテーブルに突っ伏してしまった。
「中身がチョコだなんて……言えるわけねぇだろ」
落ち込んでいる、はたまた自己嫌悪に陥っている。いくらでも表現の仕方はあるが、なかなかの重傷ぶりなのは誰か見ても明らかだ。
「はぁ、相変わらずの不器用さんねぇ。でも、ちょっと安心したわ。最初は大喧嘩でもしたのかと思ってたから」
全てを聴き終えたベルモッティは、頬に片手を添えて胸をなで下ろした。
「ところで、それはいつ頃の話なのかしら?」
「夕方ぐらいだ」
問い掛けには、くぐもった答えが返ってくる。
店主は壁の時計に目をやりつつ、リバーサイドと旧市街の距離を考えた。
「それなら、そろそろお迎えの時間かもしれないわね」
伏せたままのヴァンの肩がピクリと小さく跳ねる。
「まさか、そんなわけ……っ!?」
その時、上着の中でザイファの呼び出し音が鳴り始めた。
飛び起きた勢いのまま、端末を取り出して着信相手の確認をしてみる。
「マ、マジか?」
「あら、出てあげないの?」
「いや、ちょっ、ちょっと待ってくれ」
あまりに急展開すぎる。ヴァンは少しばかり錯乱状態に陥っていた。
胸の鼓動が早鐘を打ち、額にはじんわりと嫌な汗が浮かぶ。
普段のアーロンであれば諦めるくらいの秒数が過ぎたが、それでも音は鳴り続ける。
「もう~!ちょっと貸しなさいよ。代わりに出てあげるわ」
「え?お、おい!」
見るに見かねたベルモッティは、半ば強引に端末を取り上げて応答ボタンを押した。
「はぁ~い、アーロンちゃん」
意図していなかった人物の姿が画面に現れ、アーロンは意表を突かれたのだろう。咄嗟に息を詰まらせた。
「ヴァンちゃんなら捕まえておいてあげるから、早くいらっしゃいな」
そんな若者へ向けて、ベルモッティは片目を瞑りながら援護射撃をしてみせる。
すると、アーロンは狙いが定まったと言わんばかりに目を煌めかせて頷いた。
二人は幾度か言葉を交わし、やがてヴァンをそっちのけにした短い通話を終えたのだった。
カウンター席の最奥に鬱々とした男が一人──もとい、屍のような男が突っ伏している。
「ヴァンちゃんって、ほんと煽るのが上手よねぇ」
今回の一連の出来事について、ベルモッティの総括はしみじみしたものだった。
「しかも、アーロンちゃん限定だもの。あの子、嬉しくて仕方がないんじゃないかしら」
独り言にも似たそれは、テーブルに伏せた濃紺の頭にやんわりと降り注ぐ。
反応こそなかったが、実のところはヴァンの耳にはしっかりと届いていた。
ただ、墓穴を掘りすぎたせいで地上へ出てこられなくなっている。
自力で浮上できないほどの深い穴には、もはや優しいだけの慰めなど届きそうになかった。
それよりも、実力行使とばかりに彼を引っ張り上げてくれる存在の方が頼もしい。
今頃は嬉々としながらこの店に向かっているであろう、苛烈で強引なくらいの恋人の手が。
2025.02.24畳む
それが彼なりの優しさ
黎Ⅱ(ラスボス撃破後のあたり)・恋人未満。
ダンスの輪を外れた二人がディンゴの弔いをする話です。
【文字数:3000】
あそこまで全方位にイケメンすぎる男に対しては、嫉妬の感情すらも馬鹿馬鹿しい。
オクトラディウムの最奥に響いたマリエルの慟哭は、その場にいた誰もの胸を締め付けた。
刹那の邂逅の先に訪れたのは永遠の別れ。
皆が伏し目がちになっている最中、アーロンはちらりとヴァンの様子を覗った。
まるで夕刻の様相を模したような、それでいて幾重もの色調が混ざり合う空間。
人型は淡い光の粒に変化し、緩やかに舞い上がりながら消えていった。
彼はただ一人、その軌跡を辿るように天空を見つめる。
ようやく女神の元へ逝くことができた、その旅立ちを。
葬送の横顔には、一言では言い表せない諸々の感情が混在していた。
悲しみや寂しさ、そして心からの安堵。
ヴァンは込み上げてくるものを抑えるかのように、強く唇を引き結んだ。
その後にほんの少しだけ、どこか泣き出しそうな笑みを浮かべる。
アーロンはその姿から目を離せなくなった。思わず抱きしめたい衝動に駆られる。
しかし、二本の足は床に張り付いたまま微動だにしない。
ヴァンの一人きりの弔いは、ただただ静かなものだった。
そこへ土足で足を踏み入れるような真似はしたくない、彼は素直にそう思った。
学藝祭の初日は滞りなく終了し、特別ステージは素晴らしい盛り上がりをみせた。
この舞台のため、学生たちへの指南をしていたアーロンも満足げだ。
陽が落ちた広場には篝火が焚かれ、達成感と高揚感に満ちた若者たちの顔を赤々と照らし出している。
「まだ初日だってのに最終日の打ち上げみてぇだな」
アーロンは軽く一息とばかりにさり気なくダンスの輪から外れ、それらを浮ついた気分で眺めやっていた。
「……まぁ、悪くはねぇけど」
おもむろに近くの壁へ向かい、背を預けてゆったりと腕を組む。
柔らかく眦を下げた顔は、普段の彼よりも格段に穏やかだった。
弾む声たちは朗らかな笑い声を伴い、心地の良い音量でアーロンの耳元を通り過ぎていく。
視界は一点に留まらず、無造作に広場を見渡していた。
そのせいか、彼はすぐには気付かなかった。
ヴァンが少しばかり疲れた様子で自分の方へ歩いてくるのを。
「はぁ……やれやれ。あいつら、次から次へと……」
溜息交じりの声が近くで聞こえ、アーロンはわずかに目を見開いた。
「──モテまくりで良かったじゃねぇかよ、所長さん」
しかし、すぐに揶揄いを含んだ笑みを披露する。
実際のところ、ヴァンは顔馴染みの女性たちから引く手あまたの状態だった。
そこは人が良くて優しい彼のこと、もちろんダンスの誘いを断るはずはなかった。
「うるせぇ。どうせ弄られてんのは解ってんだよ」
「それなら訂正してやる。みんなに遊んでもらえて良かったな」
「ぐっ……このクソガキが」
この話題では分がないと思ったのか、負け惜しみと共に勢いよく背中を壁へ押し付けた。
男が二人、篝火の輪から外れて夜風から涼を取る。
しばらくの間、どちらからも声を発することはなかった。
数ヶ月ぶりに享受する平穏が、今になってじんわりと胸の奥へ染み入ってくる。
「……良い夜だな」
不意にヴァンがぼそりと呟いた。
夜が始まった青黒い空を見上げ、点在する星々の煌めきに口元を綻ばせる。
その横顔にアーロンは既視感を覚えた。
誰もが俯く中、一人だけ空を見上げていた男の立ち姿を。
「今度こそ、本当に見送ってやれたんだろ」
クレイユ村で命を散らした時に比べれば。
あいつだって安心して女神の元へ旅立てただろう。
アーロンは消える間際のディンゴの穏やかな表情を思い出していた。
「弔いなら酒でも欲しいとこだが。まぁ、ガキどもの手前な」
「……アーロン、お前」
彼の口振りはヴァンの目を瞬かせた。
オクトラディウムでのことを吐露したつもりはないが、今の心情を的確に読み取られている。
それを踏まえた上での優しい声音。
存外な彼の言動を受け、ほんのりとした嬉しさが胸元を温かくさせていく。
空の星々から視線を外してアーロンの方を見たが、彼の顔は正面を向いたまま、両眼の表面には揺れる炎を映していた。
ヴァンが更に凝視を続ける。
「なんだよ?」
さすがに耐えかねたのか、彼はようやく傍らにいる男を振り仰いだ。
「えっ、あ、あぁ」
だが、ヴァンはほとんど無意識だったらしい。弾かれて声を上げた後、軽く咳払いをしてみせる。
会話の先は何も考えていなかった。
仄かな嬉しさを感じている自分が妙に気恥ずかしくなってきてしまい、誤魔化すようにして話題を捻り出す。
「お前ってさ、ディンゴにはあんまり突っかからなかったよなぁと思って」
「あそこまでイケメンすぎると単純にすげぇ男だなって感じになっちまうだろ?お手上げだぜ」
アーロンは肩を竦めて苦笑した。
彼は潔い青年だ。認めるに値する人物に対しては素直な称賛を口にする。
「確かにな……っつーか、あいつにはまだ貸しが山ほどあったのによ、結局全部返し切れてねぇ」
ヴァンは間髪を入れずに頷いて同意を示した。
しかし、心残りがあると言わんばかりの大きな溜息が続く。
「チッ、てめぇは貸し借りの話になると途端にうざくなるな。あの男はそんなことを気にするタマじゃねぇだろうが」
苦笑交じりの弔いだったはずが、急に湿っぽい空気が漂い始める。
出会った頃に比べれば、ヴァンは周囲の人々を頼ることへの抵抗感が薄らいできている。けれど、彼の生い立ちを考えれば相当に根は深いのだろう。
辟易したアーロンが、やや険のある言葉を投げつけた。
「そ、そりゃ……そうだけどな。俺にも矜持ってもんが……」
それでもヴァンはうじうじと口籠り、挙げ句には困り顔で肩を落としてしまった。
頭では解っているのに心がついてこない。
目線が足元へ落ちると、引きずられるように気持ちも下降しそうになった。
「──おい、ヴァン」
そんな矢先、鋭く名前を呼ばれた。
同時に平手で片頬を叩かれる。
驚いて顎を引き上げると、目の前には至近距離でアーロンが立っていた。
「終いにしろ。あいつへの借りは今夜でチャラだ」
「はぁ?何言ってんだよ」
「兄貴分への手向けなら、そんくらいで丁度良い」
全く予期していなかった物言いをされ、ヴァンが瞠目する。
「お前、意味分かんねぇぞ?そんな屁理屈みたいな」
そんな彼の動揺などお構いなしにアーロンが畳みかけてくる。
「まぁ、どうしても貸しが~とかぬかしてぇなら……他の奴らはどうでもいい。オレの分だけはきっちり返してもらうぜ」
仁王立ちよろしく、腕を組んだ姿勢でニヤリと笑う。
夜目にも鮮やかな金色は怖いくらいに強硬だ。
「今思い出してみるだけでもいくつかあるしな」
わざとらしく指折り数えてみせると、
「お、おい!そんなにいくつもねぇだろうが!」
あまりの強引さに口をパクパクとさせていたヴァンが、反射的に異議を唱えた。
途端、二人の視線が真っ向からぶつかる。
「なんなら、これから増やしてくれてもいいぜ?どうやって返してくれるのかも楽しみだ」
「だから……あぁっ、くそ!聞いちゃいねぇ」
ヴァンはアーロンの強行軍を抑えきれず頭を抱え込んだ。
いつの間にか、低落しつつあった気持ちが浮上したことにも気が付かなかった。
「オレはてめぇの兄貴分とは方向性が違うイケメンなんだよ」
まだ自分を曝け出して周囲を頼りきれないというならそれでもいい。
未練がましい些細な矜持にも付き合ってやる。
そのために、分かりやすい逃げ道を一本だけ用意してやった。
アーロンの優しさは時に独占的な鋭利さをはらむ。
ただ寄り添っているだけなんて、全くもってこの青年の性格には合わないのだ。
ヴァンの気持ちが俯くのならば、無理矢理にでも引っ張り上げてしまえばいい。
それが彼なりの気遣いの方法だった。
2024.09.22
#黎Ⅱ畳む
黎Ⅱ(ラスボス撃破後のあたり)・恋人未満。
ダンスの輪を外れた二人がディンゴの弔いをする話です。
【文字数:3000】
あそこまで全方位にイケメンすぎる男に対しては、嫉妬の感情すらも馬鹿馬鹿しい。
オクトラディウムの最奥に響いたマリエルの慟哭は、その場にいた誰もの胸を締め付けた。
刹那の邂逅の先に訪れたのは永遠の別れ。
皆が伏し目がちになっている最中、アーロンはちらりとヴァンの様子を覗った。
まるで夕刻の様相を模したような、それでいて幾重もの色調が混ざり合う空間。
人型は淡い光の粒に変化し、緩やかに舞い上がりながら消えていった。
彼はただ一人、その軌跡を辿るように天空を見つめる。
ようやく女神の元へ逝くことができた、その旅立ちを。
葬送の横顔には、一言では言い表せない諸々の感情が混在していた。
悲しみや寂しさ、そして心からの安堵。
ヴァンは込み上げてくるものを抑えるかのように、強く唇を引き結んだ。
その後にほんの少しだけ、どこか泣き出しそうな笑みを浮かべる。
アーロンはその姿から目を離せなくなった。思わず抱きしめたい衝動に駆られる。
しかし、二本の足は床に張り付いたまま微動だにしない。
ヴァンの一人きりの弔いは、ただただ静かなものだった。
そこへ土足で足を踏み入れるような真似はしたくない、彼は素直にそう思った。
学藝祭の初日は滞りなく終了し、特別ステージは素晴らしい盛り上がりをみせた。
この舞台のため、学生たちへの指南をしていたアーロンも満足げだ。
陽が落ちた広場には篝火が焚かれ、達成感と高揚感に満ちた若者たちの顔を赤々と照らし出している。
「まだ初日だってのに最終日の打ち上げみてぇだな」
アーロンは軽く一息とばかりにさり気なくダンスの輪から外れ、それらを浮ついた気分で眺めやっていた。
「……まぁ、悪くはねぇけど」
おもむろに近くの壁へ向かい、背を預けてゆったりと腕を組む。
柔らかく眦を下げた顔は、普段の彼よりも格段に穏やかだった。
弾む声たちは朗らかな笑い声を伴い、心地の良い音量でアーロンの耳元を通り過ぎていく。
視界は一点に留まらず、無造作に広場を見渡していた。
そのせいか、彼はすぐには気付かなかった。
ヴァンが少しばかり疲れた様子で自分の方へ歩いてくるのを。
「はぁ……やれやれ。あいつら、次から次へと……」
溜息交じりの声が近くで聞こえ、アーロンはわずかに目を見開いた。
「──モテまくりで良かったじゃねぇかよ、所長さん」
しかし、すぐに揶揄いを含んだ笑みを披露する。
実際のところ、ヴァンは顔馴染みの女性たちから引く手あまたの状態だった。
そこは人が良くて優しい彼のこと、もちろんダンスの誘いを断るはずはなかった。
「うるせぇ。どうせ弄られてんのは解ってんだよ」
「それなら訂正してやる。みんなに遊んでもらえて良かったな」
「ぐっ……このクソガキが」
この話題では分がないと思ったのか、負け惜しみと共に勢いよく背中を壁へ押し付けた。
男が二人、篝火の輪から外れて夜風から涼を取る。
しばらくの間、どちらからも声を発することはなかった。
数ヶ月ぶりに享受する平穏が、今になってじんわりと胸の奥へ染み入ってくる。
「……良い夜だな」
不意にヴァンがぼそりと呟いた。
夜が始まった青黒い空を見上げ、点在する星々の煌めきに口元を綻ばせる。
その横顔にアーロンは既視感を覚えた。
誰もが俯く中、一人だけ空を見上げていた男の立ち姿を。
「今度こそ、本当に見送ってやれたんだろ」
クレイユ村で命を散らした時に比べれば。
あいつだって安心して女神の元へ旅立てただろう。
アーロンは消える間際のディンゴの穏やかな表情を思い出していた。
「弔いなら酒でも欲しいとこだが。まぁ、ガキどもの手前な」
「……アーロン、お前」
彼の口振りはヴァンの目を瞬かせた。
オクトラディウムでのことを吐露したつもりはないが、今の心情を的確に読み取られている。
それを踏まえた上での優しい声音。
存外な彼の言動を受け、ほんのりとした嬉しさが胸元を温かくさせていく。
空の星々から視線を外してアーロンの方を見たが、彼の顔は正面を向いたまま、両眼の表面には揺れる炎を映していた。
ヴァンが更に凝視を続ける。
「なんだよ?」
さすがに耐えかねたのか、彼はようやく傍らにいる男を振り仰いだ。
「えっ、あ、あぁ」
だが、ヴァンはほとんど無意識だったらしい。弾かれて声を上げた後、軽く咳払いをしてみせる。
会話の先は何も考えていなかった。
仄かな嬉しさを感じている自分が妙に気恥ずかしくなってきてしまい、誤魔化すようにして話題を捻り出す。
「お前ってさ、ディンゴにはあんまり突っかからなかったよなぁと思って」
「あそこまでイケメンすぎると単純にすげぇ男だなって感じになっちまうだろ?お手上げだぜ」
アーロンは肩を竦めて苦笑した。
彼は潔い青年だ。認めるに値する人物に対しては素直な称賛を口にする。
「確かにな……っつーか、あいつにはまだ貸しが山ほどあったのによ、結局全部返し切れてねぇ」
ヴァンは間髪を入れずに頷いて同意を示した。
しかし、心残りがあると言わんばかりの大きな溜息が続く。
「チッ、てめぇは貸し借りの話になると途端にうざくなるな。あの男はそんなことを気にするタマじゃねぇだろうが」
苦笑交じりの弔いだったはずが、急に湿っぽい空気が漂い始める。
出会った頃に比べれば、ヴァンは周囲の人々を頼ることへの抵抗感が薄らいできている。けれど、彼の生い立ちを考えれば相当に根は深いのだろう。
辟易したアーロンが、やや険のある言葉を投げつけた。
「そ、そりゃ……そうだけどな。俺にも矜持ってもんが……」
それでもヴァンはうじうじと口籠り、挙げ句には困り顔で肩を落としてしまった。
頭では解っているのに心がついてこない。
目線が足元へ落ちると、引きずられるように気持ちも下降しそうになった。
「──おい、ヴァン」
そんな矢先、鋭く名前を呼ばれた。
同時に平手で片頬を叩かれる。
驚いて顎を引き上げると、目の前には至近距離でアーロンが立っていた。
「終いにしろ。あいつへの借りは今夜でチャラだ」
「はぁ?何言ってんだよ」
「兄貴分への手向けなら、そんくらいで丁度良い」
全く予期していなかった物言いをされ、ヴァンが瞠目する。
「お前、意味分かんねぇぞ?そんな屁理屈みたいな」
そんな彼の動揺などお構いなしにアーロンが畳みかけてくる。
「まぁ、どうしても貸しが~とかぬかしてぇなら……他の奴らはどうでもいい。オレの分だけはきっちり返してもらうぜ」
仁王立ちよろしく、腕を組んだ姿勢でニヤリと笑う。
夜目にも鮮やかな金色は怖いくらいに強硬だ。
「今思い出してみるだけでもいくつかあるしな」
わざとらしく指折り数えてみせると、
「お、おい!そんなにいくつもねぇだろうが!」
あまりの強引さに口をパクパクとさせていたヴァンが、反射的に異議を唱えた。
途端、二人の視線が真っ向からぶつかる。
「なんなら、これから増やしてくれてもいいぜ?どうやって返してくれるのかも楽しみだ」
「だから……あぁっ、くそ!聞いちゃいねぇ」
ヴァンはアーロンの強行軍を抑えきれず頭を抱え込んだ。
いつの間にか、低落しつつあった気持ちが浮上したことにも気が付かなかった。
「オレはてめぇの兄貴分とは方向性が違うイケメンなんだよ」
まだ自分を曝け出して周囲を頼りきれないというならそれでもいい。
未練がましい些細な矜持にも付き合ってやる。
そのために、分かりやすい逃げ道を一本だけ用意してやった。
アーロンの優しさは時に独占的な鋭利さをはらむ。
ただ寄り添っているだけなんて、全くもってこの青年の性格には合わないのだ。
ヴァンの気持ちが俯くのならば、無理矢理にでも引っ張り上げてしまえばいい。
それが彼なりの気遣いの方法だった。
2024.09.22
#黎Ⅱ畳む
ヴァン一人称・両想い前提の恋人未満。
アーロンは人気役者だから顔に傷が残るのは良くないと、戦闘後にヴァン・アニエスが意気投合している話。
【文字数:4300】
烈火の如くと言いたくなるような好戦的なスタイルは、いかにも彼らしい。
守りに徹するくらいなら、死線の隙間に潜り込んででも一撃を食らわせてやろうだとか。
そういうのは嫌いじゃないが、時々ふとした拍子に不安が込み上げてくる。
最後に残った魔獣を叩きのめした後、俺はすぐにアーロンの元へ向かった。
「ったく、無茶しやがって」
早足で近づくと、先に駆けつけていたアニエスがアーツを発動させようとしている所だった。
「あそこで回避からのカウンターはねぇだろうが。素直に防いでおけよ」
俺はアーロンの姿を見てあからさまに顔を歪めた。
紙一重で躱した時にやられたのか、頬に走るひとすじの裂傷が痛々しい。
彼が相手にしていた魔獣は、研ぎ澄まされた刃のように鋭利な爪を持っていた。
あれで裂かれたのなら切り口は深いだろう。赤く滲んだ傷からは幾筋もの血が流れ落ち、首筋を伝って肩口を染め上げている。
「あぁ?うるせぇな。一発で沈めてやったんだから文句ねぇだろが」
もちろん痛みはあるはずだが、それよりも自分の戦闘スタイルに口を挟まれるのが嫌だったに違いない。
食ってかかる勢いで俺の方に一歩踏み出そうとする。
「アーロンさん、動かないで下さい」
だが、ピシャリと静止の声がかかった。それと同時に回復アーツが発動する。
水面を連想させる涼やかな光がアーロンの全身を包み込み、みるみるうちに頬の傷が消えいく。
「大したことねぇってのに……でも、まぁ、ありがとな」
「ふふっ、どういたしまして」
アーツで傷自体は癒せても、さすがに血糊まで綺麗さっぱりにとはいかない。
彼は頬から首筋に付いた汚れを大雑把に拭い、アニエスに礼を言った。
その一連の動作を俺は凝視していたらしい。
「ヴァンさん?どうしたんですか?」
「おい、ボーっと突っ立ってんじゃねぇ。さっさと行くぞ」
この場所での戦闘が終わり、二人は先に進もうとしていた。
立ち止まったままの俺に対して訝しげな声を投げかけてくる。
「お、おうっ、悪ぃ」
弾かれたように背筋が伸びた。助手たちはすでに動き始めていて、その背中を慌てて追いかける。
仕事柄、戦闘中にはあの程度の負傷なんて珍しくもない。ただのかすり傷だと言ってしまえばそれまでだ。
それなのに今は頭の切り替えが出来ず、やたらとあいつのことを気遣いたくなる。
「……顔なんだよなぁ。跡とか残ってたりしてねぇよな?」
ちらりと後ろ姿を窺いながら、俺は独り言のように呟いた。
心配しすぎなのは分かっているが、アーロンは華劇場の人気役者だ。
特に女性のファンが多いことを考えれば、顔に傷が残るのはどうなんだ?と、つい考えてしまっていた。
移動を再開してからも胸中はすっきりとせず、俺は意を決して声をかけた。
「おい、さっきの傷……残ってねぇよな?」
「はぁ?なに寝ぼけたこと言ってやがる」
目の前でアニエスが治療してくれたのを見ていただろうが、とでも言わんばかりの呆れ顔を向けられる。
「そもそも、助手の技量を疑うなんざ所長失格だな」
「そ、そういうつもりじゃなくてな……」
険のある声と眼光で厳しい指摘をされ、俺は口籠もってしまった。
「お二人とも、どうしたんですか?」
すると、不穏な空気を感じ取ったアニエスが慌てて近寄ってくる。
「悪い!お前のアーツの腕を疑ったわけじゃねぇんだ。傷が顔だったから、つい」
「えっ?えっと……?」
助手3号の言うことは尤もで即座に頭を下げる。
彼女は俺たちを交互に見ながら困惑を浮かべた。
「訳分かんねぇこと言いやがって。顔だから何だって言うんだよ?」
そんな同僚の気持ちを代弁しているのか、アーロンが今度は少し和らいだ声で問いかけてくる。
「いや、ほら、お前は人気役者だから」
「あっ、それは確かに」
端的に返すと、アニエスがポンと手を叩いて納得の表情をする。
「アーロンさんの顔に傷跡が残ったら、ファンの方たちが卒倒してしまいそうですよね」
「──だろ?」
味方を得て気が大きくなった俺は、遠慮なくアーロンの顔を見つめた。
つられるようにアニエスも同じ行動をする。
「あのなぁ……てめぇらはオレをなんだと思ってんだよ」
二人分の視線が集中して居心地の悪さを感じているのか、アーロンは無造作に腕を組んだ。
それから小さく息を吐き、首筋に片手を添えながら面倒くさそうにこっちを見返してくる。
「オレの顔が良すぎるのは事実だが、そこは大したことじゃねぇ」
自分の容姿について堂々と言い放ち、
「いっそのこと、傷でもある方が箔が付いて良いかもしれねぇなぁ」
華劇場の関係者たちが聞いたら引っくり返ってしまいそうな言葉が続いた。
もちろん、俺とアニエスは目を丸くして固まった。
その数秒の隙を突き、アーロンはさっさと一人で歩き出してしまう。
「あ、あれって冗談だよな?」
「……だと思いますけど」
あいつの性格を考えれば大方は戯れだろうと、二人で顔を見合わせた。
けれど、自信を持って絶対にとまでは言い切れなくて気がかりになる。
「元はと言えば、あのクソガキが危なっかしい戦い方をするせいで……あ~、でも、それはそれであいつらしいっつーか」
俺はガシガシと頭を掻きながら助手3号の後を追いかけた。
「そこが悩ましいところですよね。でも、戦いのサポートならお任せ下さい。アーロンさんの顔には傷ひとつ残しませんから」
傍らからは優しさと頼もしさが込められた共感の声が寄せられる。
「舞台に立つ時は、いつだって綺麗な姿でいて欲しいですよね、ヴァンさん?」
しかし、それが嬉しいと思った矢先に意味深げな笑顔を向けられた。
「そ、そうだな」
もう少しでアーロンに追い付きそうだった俺の足は、何もないところで躓きそうになってしまった。
仕事を終えて事務所に戻ったのは日が傾き始めた頃だった。
うっすらと茜色の光が室内を照らす中、俺はソファーに身を投げ出して寝転がっていた。
助手の二人に終業を伝えて解散したのはつい15分ほど前になる。
アニエスは真っ直ぐに学生寮へ帰ると言っていた。
アーロンの方は、夜の賑わいを求めて他の地区へ繰り出すのだろう。いつものことだ。
「……言わなきゃ良かったか?」
天井を見つめながら昼間の出来事を思い出してみた。
端から見れば過保護と表されてしまいそうだが、ついあいつを心にかけてしまう。
「どう見てもウゼぇって感じだったよなぁ」
あの時、すぐさま話を切り上げて背を向けたことを考えれば自ずと解る。
幸いなのか、アニエスが同調していたのでキツい態度は取れなかったのだろう。
俺1人だったらもっと辛辣だったかもしれない。
「心配しただけだっつーのに」
天井から外した視線を何気なくテーブルへ移すと、置きっぱなしの雑誌が入り込んできた。
それを広げて顔の上に乗せてから目を閉じる。
一眠りしたいわけではなかったが、馴染みきっている体勢のお陰で徐々に気持ちが凪いできた。
「まぁ、済んだこと……か。ぐだぐだ言っても仕方ねぇ」
こんなものは日常の些細なひとコマでしかない。そう思えば気持ちも軽くなる。
アーロンにとっても大したやり取りではなかったはずだ。
明日になれば、「そんなウゼぇことも言ってたっけな」と笑い飛ばしているだろう。
そんな姿が想像できて自然と頬が緩んでしまう。
だが、その直後。
──ガチャッ
勢いよく事務所のドアが開いた。
「おっ、居やがったか」
ほぼ同時に聞こえてきた声は、明らかにあいつのものだった。
俺は驚きのあまり咄嗟に身体を動かせなかった。
自分の世界に入っていたせいで、外の気配には無防備になっていたらしい。
なんとか片手を動かして雑誌を横にずらすと、アーロンがこっちに歩いてくるのが見えた。
「お前、出掛けたんじゃ……」
「用が終わったらすぐに行くぜ」
「用?俺にか?」
オウム返しをしたところで、ソファーの前まできた足音が止まった。
「まぁな。昼間の件で言い忘れてたことがあってよ」
アーロンは強引に俺の顔から雑誌を引き剥がし、前屈みで覗き込んでくる。
予期せぬ至近距離での対面は、少しばかり心臓に悪かった。
「な、なんだよ?」
それを誤魔化すようにひと睨みすると、空になった手を掴まれて引っ張られる。
「てめぇがオレの戦い方に口を出してくるのは心底ウゼぇが……」
そのまま俺の掌を自らの頬に押し当て、アーロンはどことなく嬉しそうに表情を和らげた。
「そんなにこの顔が好きなら、少しは自重してやってもいいぜ?」
「──は?」
不機嫌そうな前置きとは正反対の言葉が続き、俺は口を半開きにさせて目を瞬かせた。
驚きやら動揺やら、諸々の感情で身動きが取れなくなっている。
けれど、こいつはそんな状態の相手を気遣うような質ではなく、むしろ畳み掛けてくる男だ。
「けどな……ガキどもは仕方ねぇとしても、オレに過保護なのは程々にしろよ」
アーロンは揶揄の笑みを浮かべながら、ゆっくりと俺の手を頬から剥がした。
「用件はそれだけだ。じゃぁな」
そして、挨拶の代わりと言わんばかりに掌へ軽いキスを落としてくる。
「お、おい!?」
これには流石の俺も飛び起きて立ち上がった。
反射的に腕で払おうとしたが、完全に反応を読まれていて空振りに終わる。
アーロンは素早く体を離して数歩分の距離を取っていた。
そのまま踵を返して真っ直ぐにドア先へ向かい、最後に軽く片手を上げて事務所を出て行ってしまう。
あまりにも去り際が鮮やかすぎて、文句の一つも言う時間がなかった。
俺は深い溜息を吐いてソファーに腰を落とした。
「はぁ……」
アーロンがこの件にあそこまで頓着するとは思わず、予想外すぎて頭を抱えたくなる。
「顔が好きとか、そういうことじゃなくて……」
あの時は本当に単純な思考回路だった。
舞台役者なら、ある意味容姿だって商売道具の一部だろうと。
だから、方向性が違うとは言え、女優であるジュディスが顔を負傷したら同様の心境になったはずだ。
「普通に心配させてくれよ、マジで」
ぼやきながら掌を見つめていたら、軽く触れるだけだった唇の感触がぶり返してきそうになった。
あいつは隙あらば思わせぶりな言動で俺を弄ってくる。そのくせ後腐れなく去って行くもんだから、勝手に1人で放置されている気分に陥ってしまう。
「こっちにだって、雇い主としての責任ってのがあるんだからな」
普段ガキ呼ばわりしている相手に振り回されるのは、年長の男としてやっぱり面白くない。
俺は大きな不満と少しばかりの寂しさを感じ、不貞腐れながら負け惜しみのような言葉を呟いた。
2025.09.21畳む