煽り上手は地に潜る
恋人設定・2025年バレンタイン
アーロンにチョコを渡したいヴァンが墓穴を掘りまくっている話です。
【文字数:5700】
胡乱げな雰囲気が漂うこの地下通路も、今やすっかり慣れた道程だ。
迷いなく地上へと向かい、表と裏を隔てる重いドアを開け放つ。
「はぁ~、やっぱ外の空気の方が美味いぜ」
アーロンが人目を憚らずに大きな背伸びをする。
新鮮な外気が体内へ流れ込み、一気に緊張感が抜けていった。
「そりゃ、そうだろ。いくら空調は整っているとはいえ、地下は地下だしな」
彼に続いて外に出てきたヴァンは、眩しそうに目を細めて空を仰ぎ見る。
「あぁ、もうこんな時間か。あそこにいると時間の感覚が鈍っちまう」
男の瞳に映っているのは、茜色から群青色へと変わる夕暮れ時のグラデーション。
地下鉄を利用して駅に降り立った時分、まだ辺りは陽光に満ちていて明るかった。
川辺から流れてくる風は冷たさを増し、明らかな時間の経過を感じる。
黒芒街に続く道はいくつもあるが、ヴァンたちはここ──リバーサイドを利用することが多かった。
「で、この後はどうすんだよ?所長さん」
心地良い川のせせらぎを耳に流しながら、二人はおもむろに歩き始めた。
「今日のところはこれで十分だろ」
彼らが黒芒街を訪れた理由は裏解決業務の一環で、とある依頼の情報収集を兼ねた巡回だった。
多少の収穫は得たが、それ以外はヴァンの嗅覚に引っかかるような事案もなかった。
そうとなれば、本日の業務は終了の方向だろう。
「おっ、そんじゃお開きか?」
アーロンはパッと顔を輝かせ、胸元で掌に拳を打ち付けた。
今すぐにでもどこかへ遊びに行ってしまいそうな勢いだ。
「あぁ、そうだな」
ヴァンは所長の顔で頷いた。
だが、橋の袂まで来たところで急に足を止めてしまう。
「さてと、今の時間だったら……」
助手の方はといえば、鼻歌交じりで今夜の予定を立てようとしていた。
彼は遊び仲間たちと連絡を取るつもりで、衣服の中からザイファを取り出す。
そこで、ようやくヴァンが隣を歩いていないことに気がついた。
彼の足はすでに橋の上を数歩進んだ辺り。
立ち止まって振り返ると、ヴァンがどこか落ち着きのない様子で視線を彷徨わせていた。
「ん?まだこの辺に用があるのかよ?」
「い、いや……用はねぇ」
訝しげな声を投げかけられると、彼は慌ててアーロンの傍らに駆け寄った。
橋へ上がった途端に夜を誘う冷たい風が強く吹き抜けていく。
それを横顔に受けたヴァンは小さく頭を振った。
結局は重い腰を上げることが出来なかったのだからもういいか、と。
諦めて業務を開始したはずなのに、いざ終了となったら俄に未練が首をもたげ始めた。
──本当は彼に渡したい物がある。
中央を流れる川を渡りきってしまえば、地下鉄の駅はすぐそこだった。
ヴァンは駅名が刻まれた建物を見据えて再び歩みを止めた。
(何やってんだろな……俺は。でも)
どんなに自嘲してみても、一度そう思ってしまったら断ち切れそうにない。
彼は深呼吸をしてた後、意を決して声を発した。
「アーロン、やっぱもうちょいこの辺をブラついてくる」
「はぁ?よく分かんねぇ野郎だな」
助手の反応はさっきよりも険しかったが、それはほんの一瞬だった。
彼の脳内はこれからの楽しい予定で大半が占められているのだろう。
「悪ぃな。それと……」
それを遮ってしまうことを詫び、更に言葉を続ける。
「事務所の俺の机。一番下の引き出しに黒い箱が入ってる。面倒でなければお前が持っていけ」
なんとか一気に言い終えた。
「俺は夜まで戻らねぇからな」
それから、軽く息吐いて語尾を付け加える。
ヴァンにとってはこれが限界だった。
唖然として立ち尽くすアーロンをその場に残し、速歩で来た道を戻っていく。
どこまでも、どこまでも自分は不器用だ。
一刻も早く彼の視界から姿を消してしまいたかった。
失態と言えばそうなのかもしれない。
アーロンは逃げるように去って行ったヴァンを止める機を逃してしまった。
追いかけて問い詰めてやろうかとも考えたが、首都生活が長い彼の方が地の利は上だろう。
悔しいけれど、本気で逃げられたら捕まえる自信はない。
「ったく、なんなんだよ」
彼は苛立たしげに片手で頭を掻きむしり、駅の構内へ続く階段を下りた。
時刻表を眺めながらヴァンの言葉を反芻する。
あの男は何かを渡したがっている。しかも、さり気なく期限を設けている。
夜まで戻らないという宣言は、それまでに持っていけということなのだろう。
「……そんなに直接渡せねぇブツなのか?」
改札口をくぐると同時に、列車の到着を知らせるアナウンスが響き渡った。
ヴァンにあそこまで意味深げな言動をされてしまっては、遊びに繰り出すことなど二の次になる。
アーロンはザイファをポケットに戻し、ホームに到着した列車へ乗り込んだ。
車内は空いているが座る気分ではなく、ドアの脇に身体を預ける。
薄暗い壁が流れるだけの車窓は単調で、時の流れがやたらと遅く感じられた。
いくつかの駅を通り過ぎて旧市街に到着する頃には、彼の心中は落ち着きを取り戻していた。
自然と勇み足になる下肢を宥め、最短距離で事務所へと向かう。
いつの間にか陽は完全に落ちていて、街は夜の様相を醸し出していた。
モンマルトの賑わいを横目に階段を上ると、事務所の中には人の気配があった。
きっと仲間内の誰かだろうと判断して、遠慮なくドアを開ける。
「お帰りなさいませ。アーロン様」
淑やかな声に迎えられ、彼は短く応じてからぐるりと室内を見回した。
「そっちも巡回は終わってんだろ?残業かよ」
「少しデータの整理をしておりました。そちらの方は現地解散だったのですか?」
リゼットはソファーに座ってノート型端末を操作している所だった。
戻ってきた同僚が一人だったことに対し、少し意外そうな素振りを見せる。
アーロンはヴァンと二人で黒芒街へ足を伸ばしていたはずだ。
「あ~、そんなとこ……なんだけどな」
すると、青年は珍しく言葉を濁した。
その場で腕を組み、居心地が悪そうに靴先で床を鳴らす。
「何かあったのですか?」
キーボードを叩いていた綺麗な指が止まり、憂慮の眼差しがアーロンに向けられた。
「いや、あの野郎が急に妙なこと言いやがって。一番下の引き出しにある箱を持っていけだとよ」
彼はヴァンの机に近づきながら呆れたように肩を竦ませた。
「しかも、今日の夜までとかいう制限つきでだぜ?」
リゼットへの言葉の中に愚痴を紛らせ、腰をかがませて指定された引き出しを開けてみる。
「面倒くせぇことしやがっ……」
だが、そこで彼の唇が止まった。
中にはペンケースほどの小箱だけが置かれている。
他には何もなく、まるで引き出しに落ちる影の中へ溶け込んでしまいそうだった。
上品な黒い包装紙に包まれているそれには、控えめな焔色のリボンが添えられている。
アーロンは無言のまま、主張をしたがらない贈り物を丁寧に救い上げた。
最初は驚きを露わにしていた瞳が、少しずつ柔らかさを帯びてくる。
これが何を意味するのか、今日という日の趣向をもちろん彼は知っている。
ヴァンがわざわざ期限を設けたことにも頷けた。
「アーロン様?」
急に言葉を発しなくなった同僚を心配したのか、リゼットが端末を閉じて立ち上がった。
そこで彼が持っている物が目に留まる。
「あ、そちらの品は……」
「お前、知ってんのかよ?」
彼女の意外な反応に、アーロンは間髪を入れずに問い返した。
「はい、四日前のことになりますね。ヴァン様がそちらの品を前にして項垂れておられるのを見てしまいました」
リゼットは当時のことを思い出しながら微笑んだ。
「もちろん故意ではなかったのですが。ヴァン様は『これは自分用に買ったチョコ』だと、慌てておっしゃっいました。ふふっ……やはりアーロン様宛だったのですね」
察しの良い彼女はすぐに気がついたが、その時はヴァンの苦し紛れの誤魔化しを尊重する形を取ったのだという。その答え合わせができたとばかりに嬉しそうな様子だった。
「……なにやってんだよ。あのオッサン」
リゼットの説明を聞き終えたアーロンは、それで全てを理解した。
先刻の別れ際での、ヴァンの不可解な言動と不器用な心根を。
だから、どうしたって顔が緩んでしまうのが止められない。
心の奥底から沸々と愛おしさが溢れ出してくる。体温が上昇して贈り物を受け取った手に汗が滲んだ。
今すぐあの男に会いたい。
この一分一秒ですらも惜しいくらいに全身が渇望している。
彼は開けっぱなしの引き出しを勢いよく閉めて、真っ直ぐに戸口へ向かった。
「アーロン様。どうかお手柔らかにお願いいたしますね」
まるで緋色を宿したような後ろ姿を、リゼットは微笑ましく見送る。
やはり察しの良い彼女のこと、この先のヴァンの身を案じてつい口添えをしたくなってしまった。
事務所を後にして廊下を駆け下りる。
通りに出たアーロンの身体を一陣の夜風が吹き抜けていった。
冷たさは瞬きの一時だけ、冬の寒空でも心身は熱いくらいだ。
彼はポケットからザイファを取り出し、代わりに大切な物を慎重にしまい込んだ。
画面の中の時計を確認すると、『今日』にはまだまだ余裕があった。
「逃がさねぇぞ、ヴァン。受け取った報告はきっちりてめぇの目の前でしてやるぜ」
まず、手始めに本人への通信を試みる。
繋がれば好運、そうでなければアーロンなりの人脈を駆使して探し出すまでだ。
駅の前では諦めてしまったが、今は一粒たりともそんな感情は芽生えてこなかった。
あの時は彼が追いかけてこないことを心の底から安堵した。
例え追ってきたとしても、本気で相手を煙に巻くつもりではあったのだが。
「……夜っていつからいつまでだ?」
カウンター席の最奥には鬱々とした男が一人。
もう数えるのが面倒になるくらいの頻度で溜息を落としていた。
注文したグラスの中身も、最初に口を付けただけで放置されている。
「もう、ヴァンちゃんったら。アーロンちゃん相手に一体何をやらかしたのよ?」
入店してからこの方、彼は一向に浮上する兆しがなかった。
ベルモッティはそんな常連客を静観していたのだが、ついには痺れを切らして声を掛ける。
「な、なんであいつの名前が出てくるんだよ?」
俯いていたヴァンが反射的に顔を上げた。
この店の主は色恋話の類いが大好きだ。そのせいか、ヴァンも恋人であるアーロンへの愚痴を零してしまったり、些細な相談をしてしまう時がある。
しかし、今夜はまだ彼の名前を出していなかった。
「いやぁねぇ~、それしかないじゃない。分かりやすいなんてレベルじゃないわ」
驚きを露わにした凝視を受け止め、ベルモッティは戯けながらひと笑いした。
それからすぐに目元を緩ませて『聴く人』の顔になる。
「それで、何があったのかしら?」
ヴァンはしばらく逡巡していたが、やがてぼそぼそと口を動かし始めた。
当初はバレンタインデーだからといって、特別なことをするつもりなんてなかったこと。
しかし、次第に高まっていく街中の雰囲気に感化され、つい浮かれ気分でチョコレートを買ってしまったこと。
後になって冷静さを取り戻してしまい、頭を抱えるほどの羞恥が押し寄せてきたこと。
そして──そんな状態のまま当日を迎えてしまったということ。
彼はそこまでを一気に吐き出してから再び俯いた。
まだ続きがありそうだと判断したベルモッティは、黙って彼を待つ。
「別に渡せなくていいかって思ったんだけどな。けど、やっぱり……未練っつーか」
声はさほどの間を置かずに発せられたが、
「だから、机の引き出しにあるやつを持っていけとだけ伝えて逃げてきた」
今度は急に早口となり、大袈裟なくらいの勢いでテーブルに突っ伏してしまった。
「中身がチョコだなんて……言えるわけねぇだろ」
落ち込んでいる、はたまた自己嫌悪に陥っている。いくらでも表現の仕方はあるが、なかなかの重傷ぶりなのは誰か見ても明らかだ。
「はぁ、相変わらずの不器用さんねぇ。でも、ちょっと安心したわ。最初は大喧嘩でもしたのかと思ってたから」
全てを聴き終えたベルモッティは、頬に片手を添えて胸をなで下ろした。
「ところで、それはいつ頃の話なのかしら?」
「夕方ぐらいだ」
問い掛けには、くぐもった答えが返ってくる。
店主は壁の時計に目をやりつつ、リバーサイドと旧市街の距離を考えた。
「それなら、そろそろお迎えの時間かもしれないわね」
伏せたままのヴァンの肩がピクリと小さく跳ねる。
「まさか、そんなわけ……っ!?」
その時、上着の中でザイファの呼び出し音が鳴り始めた。
飛び起きた勢いのまま、端末を取り出して着信相手の確認をしてみる。
「マ、マジか?」
「あら、出てあげないの?」
「いや、ちょっ、ちょっと待ってくれ」
あまりに急展開すぎる。ヴァンは少しばかり錯乱状態に陥っていた。
胸の鼓動が早鐘を打ち、額にはじんわりと嫌な汗が浮かぶ。
普段のアーロンであれば諦めるくらいの秒数が過ぎたが、それでも音は鳴り続ける。
「もう~!ちょっと貸しなさいよ。代わりに出てあげるわ」
「え?お、おい!」
見るに見かねたベルモッティは、半ば強引に端末を取り上げて応答ボタンを押した。
「はぁ~い、アーロンちゃん」
意図していなかった人物の姿が画面に現れ、アーロンは意表を突かれたのだろう。咄嗟に息を詰まらせた。
「ヴァンちゃんなら捕まえておいてあげるから、早くいらっしゃいな」
そんな若者へ向けて、ベルモッティは片目を瞑りながら援護射撃をしてみせる。
すると、アーロンは狙いが定まったと言わんばかりに目を煌めかせて頷いた。
二人は幾度か言葉を交わし、やがてヴァンをそっちのけにした短い通話を終えたのだった。
カウンター席の最奥に鬱々とした男が一人──もとい、屍のような男が突っ伏している。
「ヴァンちゃんって、ほんと煽るのが上手よねぇ」
今回の一連の出来事について、ベルモッティの総括はしみじみしたものだった。
「しかも、アーロンちゃん限定だもの。あの子、嬉しくて仕方がないんじゃないかしら」
独り言にも似たそれは、テーブルに伏せた濃紺の頭にやんわりと降り注ぐ。
反応こそなかったが、実のところはヴァンの耳にはしっかりと届いていた。
ただ、墓穴を掘りすぎたせいで地上へ出てこられなくなっている。
自力で浮上できないほどの深い穴には、もはや優しいだけの慰めなど届きそうになかった。
それよりも、実力行使とばかりに彼を引っ張り上げてくれる存在の方が頼もしい。
今頃は嬉々としながらこの店に向かっているであろう、苛烈で強引なくらいの恋人の手が。
2025.02.24畳む
恋人設定・2025年バレンタイン
アーロンにチョコを渡したいヴァンが墓穴を掘りまくっている話です。
【文字数:5700】
胡乱げな雰囲気が漂うこの地下通路も、今やすっかり慣れた道程だ。
迷いなく地上へと向かい、表と裏を隔てる重いドアを開け放つ。
「はぁ~、やっぱ外の空気の方が美味いぜ」
アーロンが人目を憚らずに大きな背伸びをする。
新鮮な外気が体内へ流れ込み、一気に緊張感が抜けていった。
「そりゃ、そうだろ。いくら空調は整っているとはいえ、地下は地下だしな」
彼に続いて外に出てきたヴァンは、眩しそうに目を細めて空を仰ぎ見る。
「あぁ、もうこんな時間か。あそこにいると時間の感覚が鈍っちまう」
男の瞳に映っているのは、茜色から群青色へと変わる夕暮れ時のグラデーション。
地下鉄を利用して駅に降り立った時分、まだ辺りは陽光に満ちていて明るかった。
川辺から流れてくる風は冷たさを増し、明らかな時間の経過を感じる。
黒芒街に続く道はいくつもあるが、ヴァンたちはここ──リバーサイドを利用することが多かった。
「で、この後はどうすんだよ?所長さん」
心地良い川のせせらぎを耳に流しながら、二人はおもむろに歩き始めた。
「今日のところはこれで十分だろ」
彼らが黒芒街を訪れた理由は裏解決業務の一環で、とある依頼の情報収集を兼ねた巡回だった。
多少の収穫は得たが、それ以外はヴァンの嗅覚に引っかかるような事案もなかった。
そうとなれば、本日の業務は終了の方向だろう。
「おっ、そんじゃお開きか?」
アーロンはパッと顔を輝かせ、胸元で掌に拳を打ち付けた。
今すぐにでもどこかへ遊びに行ってしまいそうな勢いだ。
「あぁ、そうだな」
ヴァンは所長の顔で頷いた。
だが、橋の袂まで来たところで急に足を止めてしまう。
「さてと、今の時間だったら……」
助手の方はといえば、鼻歌交じりで今夜の予定を立てようとしていた。
彼は遊び仲間たちと連絡を取るつもりで、衣服の中からザイファを取り出す。
そこで、ようやくヴァンが隣を歩いていないことに気がついた。
彼の足はすでに橋の上を数歩進んだ辺り。
立ち止まって振り返ると、ヴァンがどこか落ち着きのない様子で視線を彷徨わせていた。
「ん?まだこの辺に用があるのかよ?」
「い、いや……用はねぇ」
訝しげな声を投げかけられると、彼は慌ててアーロンの傍らに駆け寄った。
橋へ上がった途端に夜を誘う冷たい風が強く吹き抜けていく。
それを横顔に受けたヴァンは小さく頭を振った。
結局は重い腰を上げることが出来なかったのだからもういいか、と。
諦めて業務を開始したはずなのに、いざ終了となったら俄に未練が首をもたげ始めた。
──本当は彼に渡したい物がある。
中央を流れる川を渡りきってしまえば、地下鉄の駅はすぐそこだった。
ヴァンは駅名が刻まれた建物を見据えて再び歩みを止めた。
(何やってんだろな……俺は。でも)
どんなに自嘲してみても、一度そう思ってしまったら断ち切れそうにない。
彼は深呼吸をしてた後、意を決して声を発した。
「アーロン、やっぱもうちょいこの辺をブラついてくる」
「はぁ?よく分かんねぇ野郎だな」
助手の反応はさっきよりも険しかったが、それはほんの一瞬だった。
彼の脳内はこれからの楽しい予定で大半が占められているのだろう。
「悪ぃな。それと……」
それを遮ってしまうことを詫び、更に言葉を続ける。
「事務所の俺の机。一番下の引き出しに黒い箱が入ってる。面倒でなければお前が持っていけ」
なんとか一気に言い終えた。
「俺は夜まで戻らねぇからな」
それから、軽く息吐いて語尾を付け加える。
ヴァンにとってはこれが限界だった。
唖然として立ち尽くすアーロンをその場に残し、速歩で来た道を戻っていく。
どこまでも、どこまでも自分は不器用だ。
一刻も早く彼の視界から姿を消してしまいたかった。
失態と言えばそうなのかもしれない。
アーロンは逃げるように去って行ったヴァンを止める機を逃してしまった。
追いかけて問い詰めてやろうかとも考えたが、首都生活が長い彼の方が地の利は上だろう。
悔しいけれど、本気で逃げられたら捕まえる自信はない。
「ったく、なんなんだよ」
彼は苛立たしげに片手で頭を掻きむしり、駅の構内へ続く階段を下りた。
時刻表を眺めながらヴァンの言葉を反芻する。
あの男は何かを渡したがっている。しかも、さり気なく期限を設けている。
夜まで戻らないという宣言は、それまでに持っていけということなのだろう。
「……そんなに直接渡せねぇブツなのか?」
改札口をくぐると同時に、列車の到着を知らせるアナウンスが響き渡った。
ヴァンにあそこまで意味深げな言動をされてしまっては、遊びに繰り出すことなど二の次になる。
アーロンはザイファをポケットに戻し、ホームに到着した列車へ乗り込んだ。
車内は空いているが座る気分ではなく、ドアの脇に身体を預ける。
薄暗い壁が流れるだけの車窓は単調で、時の流れがやたらと遅く感じられた。
いくつかの駅を通り過ぎて旧市街に到着する頃には、彼の心中は落ち着きを取り戻していた。
自然と勇み足になる下肢を宥め、最短距離で事務所へと向かう。
いつの間にか陽は完全に落ちていて、街は夜の様相を醸し出していた。
モンマルトの賑わいを横目に階段を上ると、事務所の中には人の気配があった。
きっと仲間内の誰かだろうと判断して、遠慮なくドアを開ける。
「お帰りなさいませ。アーロン様」
淑やかな声に迎えられ、彼は短く応じてからぐるりと室内を見回した。
「そっちも巡回は終わってんだろ?残業かよ」
「少しデータの整理をしておりました。そちらの方は現地解散だったのですか?」
リゼットはソファーに座ってノート型端末を操作している所だった。
戻ってきた同僚が一人だったことに対し、少し意外そうな素振りを見せる。
アーロンはヴァンと二人で黒芒街へ足を伸ばしていたはずだ。
「あ~、そんなとこ……なんだけどな」
すると、青年は珍しく言葉を濁した。
その場で腕を組み、居心地が悪そうに靴先で床を鳴らす。
「何かあったのですか?」
キーボードを叩いていた綺麗な指が止まり、憂慮の眼差しがアーロンに向けられた。
「いや、あの野郎が急に妙なこと言いやがって。一番下の引き出しにある箱を持っていけだとよ」
彼はヴァンの机に近づきながら呆れたように肩を竦ませた。
「しかも、今日の夜までとかいう制限つきでだぜ?」
リゼットへの言葉の中に愚痴を紛らせ、腰をかがませて指定された引き出しを開けてみる。
「面倒くせぇことしやがっ……」
だが、そこで彼の唇が止まった。
中にはペンケースほどの小箱だけが置かれている。
他には何もなく、まるで引き出しに落ちる影の中へ溶け込んでしまいそうだった。
上品な黒い包装紙に包まれているそれには、控えめな焔色のリボンが添えられている。
アーロンは無言のまま、主張をしたがらない贈り物を丁寧に救い上げた。
最初は驚きを露わにしていた瞳が、少しずつ柔らかさを帯びてくる。
これが何を意味するのか、今日という日の趣向をもちろん彼は知っている。
ヴァンがわざわざ期限を設けたことにも頷けた。
「アーロン様?」
急に言葉を発しなくなった同僚を心配したのか、リゼットが端末を閉じて立ち上がった。
そこで彼が持っている物が目に留まる。
「あ、そちらの品は……」
「お前、知ってんのかよ?」
彼女の意外な反応に、アーロンは間髪を入れずに問い返した。
「はい、四日前のことになりますね。ヴァン様がそちらの品を前にして項垂れておられるのを見てしまいました」
リゼットは当時のことを思い出しながら微笑んだ。
「もちろん故意ではなかったのですが。ヴァン様は『これは自分用に買ったチョコ』だと、慌てておっしゃっいました。ふふっ……やはりアーロン様宛だったのですね」
察しの良い彼女はすぐに気がついたが、その時はヴァンの苦し紛れの誤魔化しを尊重する形を取ったのだという。その答え合わせができたとばかりに嬉しそうな様子だった。
「……なにやってんだよ。あのオッサン」
リゼットの説明を聞き終えたアーロンは、それで全てを理解した。
先刻の別れ際での、ヴァンの不可解な言動と不器用な心根を。
だから、どうしたって顔が緩んでしまうのが止められない。
心の奥底から沸々と愛おしさが溢れ出してくる。体温が上昇して贈り物を受け取った手に汗が滲んだ。
今すぐあの男に会いたい。
この一分一秒ですらも惜しいくらいに全身が渇望している。
彼は開けっぱなしの引き出しを勢いよく閉めて、真っ直ぐに戸口へ向かった。
「アーロン様。どうかお手柔らかにお願いいたしますね」
まるで緋色を宿したような後ろ姿を、リゼットは微笑ましく見送る。
やはり察しの良い彼女のこと、この先のヴァンの身を案じてつい口添えをしたくなってしまった。
事務所を後にして廊下を駆け下りる。
通りに出たアーロンの身体を一陣の夜風が吹き抜けていった。
冷たさは瞬きの一時だけ、冬の寒空でも心身は熱いくらいだ。
彼はポケットからザイファを取り出し、代わりに大切な物を慎重にしまい込んだ。
画面の中の時計を確認すると、『今日』にはまだまだ余裕があった。
「逃がさねぇぞ、ヴァン。受け取った報告はきっちりてめぇの目の前でしてやるぜ」
まず、手始めに本人への通信を試みる。
繋がれば好運、そうでなければアーロンなりの人脈を駆使して探し出すまでだ。
駅の前では諦めてしまったが、今は一粒たりともそんな感情は芽生えてこなかった。
あの時は彼が追いかけてこないことを心の底から安堵した。
例え追ってきたとしても、本気で相手を煙に巻くつもりではあったのだが。
「……夜っていつからいつまでだ?」
カウンター席の最奥には鬱々とした男が一人。
もう数えるのが面倒になるくらいの頻度で溜息を落としていた。
注文したグラスの中身も、最初に口を付けただけで放置されている。
「もう、ヴァンちゃんったら。アーロンちゃん相手に一体何をやらかしたのよ?」
入店してからこの方、彼は一向に浮上する兆しがなかった。
ベルモッティはそんな常連客を静観していたのだが、ついには痺れを切らして声を掛ける。
「な、なんであいつの名前が出てくるんだよ?」
俯いていたヴァンが反射的に顔を上げた。
この店の主は色恋話の類いが大好きだ。そのせいか、ヴァンも恋人であるアーロンへの愚痴を零してしまったり、些細な相談をしてしまう時がある。
しかし、今夜はまだ彼の名前を出していなかった。
「いやぁねぇ~、それしかないじゃない。分かりやすいなんてレベルじゃないわ」
驚きを露わにした凝視を受け止め、ベルモッティは戯けながらひと笑いした。
それからすぐに目元を緩ませて『聴く人』の顔になる。
「それで、何があったのかしら?」
ヴァンはしばらく逡巡していたが、やがてぼそぼそと口を動かし始めた。
当初はバレンタインデーだからといって、特別なことをするつもりなんてなかったこと。
しかし、次第に高まっていく街中の雰囲気に感化され、つい浮かれ気分でチョコレートを買ってしまったこと。
後になって冷静さを取り戻してしまい、頭を抱えるほどの羞恥が押し寄せてきたこと。
そして──そんな状態のまま当日を迎えてしまったということ。
彼はそこまでを一気に吐き出してから再び俯いた。
まだ続きがありそうだと判断したベルモッティは、黙って彼を待つ。
「別に渡せなくていいかって思ったんだけどな。けど、やっぱり……未練っつーか」
声はさほどの間を置かずに発せられたが、
「だから、机の引き出しにあるやつを持っていけとだけ伝えて逃げてきた」
今度は急に早口となり、大袈裟なくらいの勢いでテーブルに突っ伏してしまった。
「中身がチョコだなんて……言えるわけねぇだろ」
落ち込んでいる、はたまた自己嫌悪に陥っている。いくらでも表現の仕方はあるが、なかなかの重傷ぶりなのは誰か見ても明らかだ。
「はぁ、相変わらずの不器用さんねぇ。でも、ちょっと安心したわ。最初は大喧嘩でもしたのかと思ってたから」
全てを聴き終えたベルモッティは、頬に片手を添えて胸をなで下ろした。
「ところで、それはいつ頃の話なのかしら?」
「夕方ぐらいだ」
問い掛けには、くぐもった答えが返ってくる。
店主は壁の時計に目をやりつつ、リバーサイドと旧市街の距離を考えた。
「それなら、そろそろお迎えの時間かもしれないわね」
伏せたままのヴァンの肩がピクリと小さく跳ねる。
「まさか、そんなわけ……っ!?」
その時、上着の中でザイファの呼び出し音が鳴り始めた。
飛び起きた勢いのまま、端末を取り出して着信相手の確認をしてみる。
「マ、マジか?」
「あら、出てあげないの?」
「いや、ちょっ、ちょっと待ってくれ」
あまりに急展開すぎる。ヴァンは少しばかり錯乱状態に陥っていた。
胸の鼓動が早鐘を打ち、額にはじんわりと嫌な汗が浮かぶ。
普段のアーロンであれば諦めるくらいの秒数が過ぎたが、それでも音は鳴り続ける。
「もう~!ちょっと貸しなさいよ。代わりに出てあげるわ」
「え?お、おい!」
見るに見かねたベルモッティは、半ば強引に端末を取り上げて応答ボタンを押した。
「はぁ~い、アーロンちゃん」
意図していなかった人物の姿が画面に現れ、アーロンは意表を突かれたのだろう。咄嗟に息を詰まらせた。
「ヴァンちゃんなら捕まえておいてあげるから、早くいらっしゃいな」
そんな若者へ向けて、ベルモッティは片目を瞑りながら援護射撃をしてみせる。
すると、アーロンは狙いが定まったと言わんばかりに目を煌めかせて頷いた。
二人は幾度か言葉を交わし、やがてヴァンをそっちのけにした短い通話を終えたのだった。
カウンター席の最奥に鬱々とした男が一人──もとい、屍のような男が突っ伏している。
「ヴァンちゃんって、ほんと煽るのが上手よねぇ」
今回の一連の出来事について、ベルモッティの総括はしみじみしたものだった。
「しかも、アーロンちゃん限定だもの。あの子、嬉しくて仕方がないんじゃないかしら」
独り言にも似たそれは、テーブルに伏せた濃紺の頭にやんわりと降り注ぐ。
反応こそなかったが、実のところはヴァンの耳にはしっかりと届いていた。
ただ、墓穴を掘りすぎたせいで地上へ出てこられなくなっている。
自力で浮上できないほどの深い穴には、もはや優しいだけの慰めなど届きそうになかった。
それよりも、実力行使とばかりに彼を引っ張り上げてくれる存在の方が頼もしい。
今頃は嬉々としながらこの店に向かっているであろう、苛烈で強引なくらいの恋人の手が。
2025.02.24畳む
それが彼なりの優しさ
黎Ⅱ(ラスボス撃破後のあたり)・恋人未満。
ダンスの輪を外れた二人がディンゴの弔いをする話です。
【文字数:3000】
あそこまで全方位にイケメンすぎる男に対しては、嫉妬の感情すらも馬鹿馬鹿しい。
オクトラディウムの最奥に響いたマリエルの慟哭は、その場にいた誰もの胸を締め付けた。
刹那の邂逅の先に訪れたのは永遠の別れ。
皆が伏し目がちになっている最中、アーロンはちらりとヴァンの様子を覗った。
まるで夕刻の様相を模したような、それでいて幾重もの色調が混ざり合う空間。
人型は淡い光の粒に変化し、緩やかに舞い上がりながら消えていった。
彼はただ一人、その軌跡を辿るように天空を見つめる。
ようやく女神の元へ逝くことができた、その旅立ちを。
葬送の横顔には、一言では言い表せない諸々の感情が混在していた。
悲しみや寂しさ、そして心からの安堵。
ヴァンは込み上げてくるものを抑えるかのように、強く唇を引き結んだ。
その後にほんの少しだけ、どこか泣き出しそうな笑みを浮かべる。
アーロンはその姿から目を離せなくなった。思わず抱きしめたい衝動に駆られる。
しかし、二本の足は床に張り付いたまま微動だにしない。
ヴァンの一人きりの弔いは、ただただ静かなものだった。
そこへ土足で足を踏み入れるような真似はしたくない、彼は素直にそう思った。
学藝祭の初日は滞りなく終了し、特別ステージは素晴らしい盛り上がりをみせた。
この舞台のため、学生たちへの指南をしていたアーロンも満足げだ。
陽が落ちた広場には篝火が焚かれ、達成感と高揚感に満ちた若者たちの顔を赤々と照らし出している。
「まだ初日だってのに最終日の打ち上げみてぇだな」
アーロンは軽く一息とばかりにさり気なくダンスの輪から外れ、それらを浮ついた気分で眺めやっていた。
「……まぁ、悪くはねぇけど」
おもむろに近くの壁へ向かい、背を預けてゆったりと腕を組む。
柔らかく眦を下げた顔は、普段の彼よりも格段に穏やかだった。
弾む声たちは朗らかな笑い声を伴い、心地の良い音量でアーロンの耳元を通り過ぎていく。
視界は一点に留まらず、無造作に広場を見渡していた。
そのせいか、彼はすぐには気付かなかった。
ヴァンが少しばかり疲れた様子で自分の方へ歩いてくるのを。
「はぁ……やれやれ。あいつら、次から次へと……」
溜息交じりの声が近くで聞こえ、アーロンはわずかに目を見開いた。
「──モテまくりで良かったじゃねぇかよ、所長さん」
しかし、すぐに揶揄いを含んだ笑みを披露する。
実際のところ、ヴァンは顔馴染みの女性たちから引く手あまたの状態だった。
そこは人が良くて優しい彼のこと、もちろんダンスの誘いを断るはずはなかった。
「うるせぇ。どうせ弄られてんのは解ってんだよ」
「それなら訂正してやる。みんなに遊んでもらえて良かったな」
「ぐっ……このクソガキが」
この話題では分がないと思ったのか、負け惜しみと共に勢いよく背中を壁へ押し付けた。
男が二人、篝火の輪から外れて夜風から涼を取る。
しばらくの間、どちらからも声を発することはなかった。
数ヶ月ぶりに享受する平穏が、今になってじんわりと胸の奥へ染み入ってくる。
「……良い夜だな」
不意にヴァンがぼそりと呟いた。
夜が始まった青黒い空を見上げ、点在する星々の煌めきに口元を綻ばせる。
その横顔にアーロンは既視感を覚えた。
誰もが俯く中、一人だけ空を見上げていた男の立ち姿を。
「今度こそ、本当に見送ってやれたんだろ」
クレイユ村で命を散らした時に比べれば。
あいつだって安心して女神の元へ旅立てただろう。
アーロンは消える間際のディンゴの穏やかな表情を思い出していた。
「弔いなら酒でも欲しいとこだが。まぁ、ガキどもの手前な」
「……アーロン、お前」
彼の口振りはヴァンの目を瞬かせた。
オクトラディウムでのことを吐露したつもりはないが、今の心情を的確に読み取られている。
それを踏まえた上での優しい声音。
存外な彼の言動を受け、ほんのりとした嬉しさが胸元を温かくさせていく。
空の星々から視線を外してアーロンの方を見たが、彼の顔は正面を向いたまま、両眼の表面には揺れる炎を映していた。
ヴァンが更に凝視を続ける。
「なんだよ?」
さすがに耐えかねたのか、彼はようやく傍らにいる男を振り仰いだ。
「えっ、あ、あぁ」
だが、ヴァンはほとんど無意識だったらしい。弾かれて声を上げた後、軽く咳払いをしてみせる。
会話の先は何も考えていなかった。
仄かな嬉しさを感じている自分が妙に気恥ずかしくなってきてしまい、誤魔化すようにして話題を捻り出す。
「お前ってさ、ディンゴにはあんまり突っかからなかったよなぁと思って」
「あそこまでイケメンすぎると単純にすげぇ男だなって感じになっちまうだろ?お手上げだぜ」
アーロンは肩を竦めて苦笑した。
彼は潔い青年だ。認めるに値する人物に対しては素直な称賛を口にする。
「確かにな……っつーか、あいつにはまだ貸しが山ほどあったのによ、結局全部返し切れてねぇ」
ヴァンは間髪を入れずに頷いて同意を示した。
しかし、心残りがあると言わんばかりの大きな溜息が続く。
「チッ、てめぇは貸し借りの話になると途端にうざくなるな。あの男はそんなことを気にするタマじゃねぇだろうが」
苦笑交じりの弔いだったはずが、急に湿っぽい空気が漂い始める。
出会った頃に比べれば、ヴァンは周囲の人々を頼ることへの抵抗感が薄らいできている。けれど、彼の生い立ちを考えれば相当に根は深いのだろう。
辟易したアーロンが、やや険のある言葉を投げつけた。
「そ、そりゃ……そうだけどな。俺にも矜持ってもんが……」
それでもヴァンはうじうじと口籠り、挙げ句には困り顔で肩を落としてしまった。
頭では解っているのに心がついてこない。
目線が足元へ落ちると、引きずられるように気持ちも下降しそうになった。
「──おい、ヴァン」
そんな矢先、鋭く名前を呼ばれた。
同時に平手で片頬を叩かれる。
驚いて顎を引き上げると、目の前には至近距離でアーロンが立っていた。
「終いにしろ。あいつへの借りは今夜でチャラだ」
「はぁ?何言ってんだよ」
「兄貴分への手向けなら、そんくらいで丁度良い」
全く予期していなかった物言いをされ、ヴァンが瞠目する。
「お前、意味分かんねぇぞ?そんな屁理屈みたいな」
そんな彼の動揺などお構いなしにアーロンが畳みかけてくる。
「まぁ、どうしても貸しが~とかぬかしてぇなら……他の奴らはどうでもいい。オレの分だけはきっちり返してもらうぜ」
仁王立ちよろしく、腕を組んだ姿勢でニヤリと笑う。
夜目にも鮮やかな金色は怖いくらいに強硬だ。
「今思い出してみるだけでもいくつかあるしな」
わざとらしく指折り数えてみせると、
「お、おい!そんなにいくつもねぇだろうが!」
あまりの強引さに口をパクパクとさせていたヴァンが、反射的に異議を唱えた。
途端、二人の視線が真っ向からぶつかる。
「なんなら、これから増やしてくれてもいいぜ?どうやって返してくれるのかも楽しみだ」
「だから……あぁっ、くそ!聞いちゃいねぇ」
ヴァンはアーロンの強行軍を抑えきれず頭を抱え込んだ。
いつの間にか、低落しつつあった気持ちが浮上したことにも気が付かなかった。
「オレはてめぇの兄貴分とは方向性が違うイケメンなんだよ」
まだ自分を曝け出して周囲を頼りきれないというならそれでもいい。
未練がましい些細な矜持にも付き合ってやる。
そのために、分かりやすい逃げ道を一本だけ用意してやった。
アーロンの優しさは時に独占的な鋭利さをはらむ。
ただ寄り添っているだけなんて、全くもってこの青年の性格には合わないのだ。
ヴァンの気持ちが俯くのならば、無理矢理にでも引っ張り上げてしまえばいい。
それが彼なりの気遣いの方法だった。
2024.09.22
#黎Ⅱ畳む
黎Ⅱ(ラスボス撃破後のあたり)・恋人未満。
ダンスの輪を外れた二人がディンゴの弔いをする話です。
【文字数:3000】
あそこまで全方位にイケメンすぎる男に対しては、嫉妬の感情すらも馬鹿馬鹿しい。
オクトラディウムの最奥に響いたマリエルの慟哭は、その場にいた誰もの胸を締め付けた。
刹那の邂逅の先に訪れたのは永遠の別れ。
皆が伏し目がちになっている最中、アーロンはちらりとヴァンの様子を覗った。
まるで夕刻の様相を模したような、それでいて幾重もの色調が混ざり合う空間。
人型は淡い光の粒に変化し、緩やかに舞い上がりながら消えていった。
彼はただ一人、その軌跡を辿るように天空を見つめる。
ようやく女神の元へ逝くことができた、その旅立ちを。
葬送の横顔には、一言では言い表せない諸々の感情が混在していた。
悲しみや寂しさ、そして心からの安堵。
ヴァンは込み上げてくるものを抑えるかのように、強く唇を引き結んだ。
その後にほんの少しだけ、どこか泣き出しそうな笑みを浮かべる。
アーロンはその姿から目を離せなくなった。思わず抱きしめたい衝動に駆られる。
しかし、二本の足は床に張り付いたまま微動だにしない。
ヴァンの一人きりの弔いは、ただただ静かなものだった。
そこへ土足で足を踏み入れるような真似はしたくない、彼は素直にそう思った。
学藝祭の初日は滞りなく終了し、特別ステージは素晴らしい盛り上がりをみせた。
この舞台のため、学生たちへの指南をしていたアーロンも満足げだ。
陽が落ちた広場には篝火が焚かれ、達成感と高揚感に満ちた若者たちの顔を赤々と照らし出している。
「まだ初日だってのに最終日の打ち上げみてぇだな」
アーロンは軽く一息とばかりにさり気なくダンスの輪から外れ、それらを浮ついた気分で眺めやっていた。
「……まぁ、悪くはねぇけど」
おもむろに近くの壁へ向かい、背を預けてゆったりと腕を組む。
柔らかく眦を下げた顔は、普段の彼よりも格段に穏やかだった。
弾む声たちは朗らかな笑い声を伴い、心地の良い音量でアーロンの耳元を通り過ぎていく。
視界は一点に留まらず、無造作に広場を見渡していた。
そのせいか、彼はすぐには気付かなかった。
ヴァンが少しばかり疲れた様子で自分の方へ歩いてくるのを。
「はぁ……やれやれ。あいつら、次から次へと……」
溜息交じりの声が近くで聞こえ、アーロンはわずかに目を見開いた。
「──モテまくりで良かったじゃねぇかよ、所長さん」
しかし、すぐに揶揄いを含んだ笑みを披露する。
実際のところ、ヴァンは顔馴染みの女性たちから引く手あまたの状態だった。
そこは人が良くて優しい彼のこと、もちろんダンスの誘いを断るはずはなかった。
「うるせぇ。どうせ弄られてんのは解ってんだよ」
「それなら訂正してやる。みんなに遊んでもらえて良かったな」
「ぐっ……このクソガキが」
この話題では分がないと思ったのか、負け惜しみと共に勢いよく背中を壁へ押し付けた。
男が二人、篝火の輪から外れて夜風から涼を取る。
しばらくの間、どちらからも声を発することはなかった。
数ヶ月ぶりに享受する平穏が、今になってじんわりと胸の奥へ染み入ってくる。
「……良い夜だな」
不意にヴァンがぼそりと呟いた。
夜が始まった青黒い空を見上げ、点在する星々の煌めきに口元を綻ばせる。
その横顔にアーロンは既視感を覚えた。
誰もが俯く中、一人だけ空を見上げていた男の立ち姿を。
「今度こそ、本当に見送ってやれたんだろ」
クレイユ村で命を散らした時に比べれば。
あいつだって安心して女神の元へ旅立てただろう。
アーロンは消える間際のディンゴの穏やかな表情を思い出していた。
「弔いなら酒でも欲しいとこだが。まぁ、ガキどもの手前な」
「……アーロン、お前」
彼の口振りはヴァンの目を瞬かせた。
オクトラディウムでのことを吐露したつもりはないが、今の心情を的確に読み取られている。
それを踏まえた上での優しい声音。
存外な彼の言動を受け、ほんのりとした嬉しさが胸元を温かくさせていく。
空の星々から視線を外してアーロンの方を見たが、彼の顔は正面を向いたまま、両眼の表面には揺れる炎を映していた。
ヴァンが更に凝視を続ける。
「なんだよ?」
さすがに耐えかねたのか、彼はようやく傍らにいる男を振り仰いだ。
「えっ、あ、あぁ」
だが、ヴァンはほとんど無意識だったらしい。弾かれて声を上げた後、軽く咳払いをしてみせる。
会話の先は何も考えていなかった。
仄かな嬉しさを感じている自分が妙に気恥ずかしくなってきてしまい、誤魔化すようにして話題を捻り出す。
「お前ってさ、ディンゴにはあんまり突っかからなかったよなぁと思って」
「あそこまでイケメンすぎると単純にすげぇ男だなって感じになっちまうだろ?お手上げだぜ」
アーロンは肩を竦めて苦笑した。
彼は潔い青年だ。認めるに値する人物に対しては素直な称賛を口にする。
「確かにな……っつーか、あいつにはまだ貸しが山ほどあったのによ、結局全部返し切れてねぇ」
ヴァンは間髪を入れずに頷いて同意を示した。
しかし、心残りがあると言わんばかりの大きな溜息が続く。
「チッ、てめぇは貸し借りの話になると途端にうざくなるな。あの男はそんなことを気にするタマじゃねぇだろうが」
苦笑交じりの弔いだったはずが、急に湿っぽい空気が漂い始める。
出会った頃に比べれば、ヴァンは周囲の人々を頼ることへの抵抗感が薄らいできている。けれど、彼の生い立ちを考えれば相当に根は深いのだろう。
辟易したアーロンが、やや険のある言葉を投げつけた。
「そ、そりゃ……そうだけどな。俺にも矜持ってもんが……」
それでもヴァンはうじうじと口籠り、挙げ句には困り顔で肩を落としてしまった。
頭では解っているのに心がついてこない。
目線が足元へ落ちると、引きずられるように気持ちも下降しそうになった。
「──おい、ヴァン」
そんな矢先、鋭く名前を呼ばれた。
同時に平手で片頬を叩かれる。
驚いて顎を引き上げると、目の前には至近距離でアーロンが立っていた。
「終いにしろ。あいつへの借りは今夜でチャラだ」
「はぁ?何言ってんだよ」
「兄貴分への手向けなら、そんくらいで丁度良い」
全く予期していなかった物言いをされ、ヴァンが瞠目する。
「お前、意味分かんねぇぞ?そんな屁理屈みたいな」
そんな彼の動揺などお構いなしにアーロンが畳みかけてくる。
「まぁ、どうしても貸しが~とかぬかしてぇなら……他の奴らはどうでもいい。オレの分だけはきっちり返してもらうぜ」
仁王立ちよろしく、腕を組んだ姿勢でニヤリと笑う。
夜目にも鮮やかな金色は怖いくらいに強硬だ。
「今思い出してみるだけでもいくつかあるしな」
わざとらしく指折り数えてみせると、
「お、おい!そんなにいくつもねぇだろうが!」
あまりの強引さに口をパクパクとさせていたヴァンが、反射的に異議を唱えた。
途端、二人の視線が真っ向からぶつかる。
「なんなら、これから増やしてくれてもいいぜ?どうやって返してくれるのかも楽しみだ」
「だから……あぁっ、くそ!聞いちゃいねぇ」
ヴァンはアーロンの強行軍を抑えきれず頭を抱え込んだ。
いつの間にか、低落しつつあった気持ちが浮上したことにも気が付かなかった。
「オレはてめぇの兄貴分とは方向性が違うイケメンなんだよ」
まだ自分を曝け出して周囲を頼りきれないというならそれでもいい。
未練がましい些細な矜持にも付き合ってやる。
そのために、分かりやすい逃げ道を一本だけ用意してやった。
アーロンの優しさは時に独占的な鋭利さをはらむ。
ただ寄り添っているだけなんて、全くもってこの青年の性格には合わないのだ。
ヴァンの気持ちが俯くのならば、無理矢理にでも引っ張り上げてしまえばいい。
それが彼なりの気遣いの方法だった。
2024.09.22
#黎Ⅱ畳む
舞えよ鳳翼 蒼い欠片の傍らで④
首都イーディスを拠点にしているヴァンにとっては久しぶりの海景だ。
空を染める茜色は海面へと溶け込み、小波の煌めきを有して遙か彼方まで広がっていた。
吹き渡る潮風は穏やかだったが、昼間よりも少し肌寒くなっている。
それは観劇の余韻を残している彼にとって心地良い涼感だった。
待っている間にしっかりと気持ちを落ち着かせることができる。
アーロンが待ち合わせ場所に指定してきたのは、賑わいから離れた静かな波止場の辺りだった。
大規模に整備されている港湾区とは違い、住民たちが生業に使用している小舟が数隻泊まっているだけだ。
そろそろ夕飯時とあってこれから出航する船はなく、人影もまばらだった。
そんな場所のおかげで、すぐに待ち人がこちらに歩いてくる気配を感じ取れる。
ヴァンは黙って空と海の狭間を眺めやっていた。
「なに黄昏れてんだよ、オッサン」
背後から声をかけられて振り返る。
「全然、似合ってねぇぞ」
煌びやかな衣装とは一転、いつもの装いをしたアーロンが笑みを刷いて立っていた。
「第一声がそれかよ。相変わらず口の減らねぇヤツだな」
およそ二ヶ月ぶりの生身での対面は、当たり前のように遠慮がない言葉遊びから始まった。
ひとしきり挨拶代わりのじゃれ合いを楽しんだヴァンは、まず先に相手を労う。
「……っと、まぁ、取りあえずお疲れさん。見応えのある良い舞台だったぜ」
嬉しさも相まって、つい赤い頭を撫でまわしたくなった。
しかし、彼との距離が三歩分ほどはあるし、嫌がられるのは確実なので諦める。
「ま、当然だろ──それより、『色々あって』を聞かせろよ。どうせアシェンのヤツだろ?」
そんな葛藤を知らないアーロンは、ありきたりな賛美をさらりと流して別の話題で返した。
彼の立場からすれば、それが最も気になるところだろう。
「う~ん、間違っちゃいねぇけど。確実に一枚噛んでるのはアニエスと、たぶんジュディスも……」
「あいつの独断じゃねぇのかよ?」
自信満々に幼馴染みの名前を出してみたが、そうも単純な話ではなかったらしい。
意外だと言わんばかりの顔で食い気味になる。
「そうだなぁ……今思えば、発端は二週間くらい前のあれだったか」
あまりの凝視っぷりに堪えきれず、ヴァンは気乗りがしない中でぽつりぽつりと話し始めた。
アニエスとジュディスが事務所に来ていた時、アーロンの話題になったこと。
彼女らはヴァンがアーロンに招待されていると思い込んでいたこと。
されていないと知ってひどく驚かれたこと。
「それで終わりかと思いきや、昨日になっていきなりアシェンから連絡があってよ」
彼の説明は簡潔と表せば聞こえは良いが、後半はご都合主義全開でかなりの端折り具合だった。
例えば、前払いのスイーツの誘惑には逆らえなかっただとか。
「……チッ、あいつら好き勝手やりやがって」
普段のアーロンであれば、それに違和感を覚えて突っ込んできそうなものだが、今は違っていた。
苦々しい表情をしながら独り言のように吐き捨てる。
「ん?なんか言ったか?」
それは本当に小さくてヴァンの耳にまでは届かない。
怪訝に思ったが、アーロンは軽く頭を振るだけだった。
「なんでもねぇよ。昨日の今日じゃ、急だったな」
「まったくだぜ。移動の時間だって馬鹿にならねぇからな」
予期せぬ共感を得た男は、大袈裟なくらいに何度も頷いた。
アーロンが急に大人しくなってしまったが、元から気分屋な所があるので大して気にも留めなかった。
それとなく彼の顔色を窺い、たぶん大丈夫だろうと判断したヴァンは遠慮がちに切り出した。
「そんなわけで、帰る前に腹ごしらえといきたいんだが……」
地元の、しかも生まれ育った弌番街であれば、飲食店の類いは幅広く網羅している。
店選びを任されたアーロンは、少しばかり思案してから動き出した。
道すがらの会話は他愛もないものだったが、ヴァンは楽しそうにしている。
それに対して、アーロンの方は自己嫌悪でいっぱいだった。
この一件の発端は自分が彼を誘えなかったことに他ならない。
女性陣に意気地がない部分を見透かされて世話を焼かれた形になる。
それでも結果だけを見れば、ヴァンに演舞を披露できた上に、今はこうして二人だけの時間を過ごしているのだ。
お節介な彼女たちに悪態を吐きたい気持ちと、図らずも望みが叶ってしまった嬉しさとが煩雑に絡み合う。
「……アーロン?もしかしてお疲れか?」
どうやら知らぬ間に口数が少なくなっていたようだ。
ヴァンが気遣わしげな視線を投げてくる。
「あぁ?問題ねぇ」
アーロンは鬱陶しいとばかりに睨み返し、いきなり歩調を速めて先行し始めた。
目抜き通り周辺には大小様々な店がひしめいているが、そこを外して人通りの少ない方へと向かう。
すれ違うのは観光客ではなく街の住民ばかりだ。気さくに声をかけてくる彼らと挨拶を交わしつつ、角をいくつか曲がって袋小路に入る。
突き当たりには小さいながらも落ち着いた店構えの飲食店があった。いかにも隠れ家といった雰囲気だ。
「へぇ?こんな所に店があったのか。知らなかったな」
「静かに飯が食いたい時には丁度良い。昔……名前は忘れちまったが有名どころで料理長やってた爺さんだから、味は保証するぜ」
興味津々で建物を見上げているヴァンに説明をし、引き戸になっている入り口を開けて中へと促した。
今は騒がしい場所で過ごす気分ではなかった。
せっかく二人きりの時間を持てるのだから、邪魔はされたくない。
店内に入ると、店主が奥の厨房から顔を覗かせていた。
軽く声を掛けてからぐるりと中を見渡し、壁際の一画に席を取る。
すでに数人の客が食事を楽しんでおり、鼻腔をくすぐる香りが漂っていた。
ほどなくして給仕の女性がやってきたので、各々に注文をする。
「ここ、よく来るのか?」
「公演中は特にな」
「夜な夜な酒盛りをするわけにはいかねぇとか?」
注文した料理を待っている間、ヴァンがここぞとばかりに質問を重ねてくる。
「あのなぁ……理由はそこじゃねぇ。外から観劇しにきたヤツらが擦り寄ってくるんだよ。街のヤツらとは勝手が違うんで扱いにくい」
アーロンは面倒くさそうに応じながら、給仕が置いていった水を喉へ流し込む。
「あぁ、なるほどな。さすがは人気役者さま」
「推しだのなんだのってのは素直に嬉しいが、オフにまで突っ込んでこられるのはなぁ」
「それでこの店か。俺が華劇場にいた時も女性客が多かったもんな」
つい愚痴っぽくなってしまったが、向かい席の男は妙に何度も相槌を打った。
「特に今回は女形じゃねぇし。前にうちの奴らがポスター見て騒いで……あっ」
ヴァンは更に言葉を続けたが、
「いや、そうじゃなく……ん~」
途中で何かを思い出し、悩ましげに顔を歪めた。もの言いたげな瞳がアーロンに向けられる。
「なんかあるならハッキリ言いやがれ」
「その、な。ちょいと気になってたことがあって」
一度上げた声を目の前で飲み込まれるのは不愉快だ。
鋭い眼光で穿つと、歯切れの悪い小さな声が聞こえてくる。
「先に言っとくが、たかってるとかじゃなくてな……お前、何で誰も招待しなかったんだ?」
それは予想だにしなかったもので、アーロンを吃驚させた。
「お前の性格だったら、うちの奴ら一纏めでチケットの大盤振る舞いとかしそうな気がしたからよ」
「……それは」
言われて、はたと気が付いた。
二ヶ月前、煌都に帰ってきた時点では確かにそう思っていたはずだ。
すぐに手配すれば良かったものを、稽古に追われる日々の中ですっかり忘れてしまっていたらしい。
一ヶ月前に庭城を訪れた時、思い出すチャンスはあったものの、ヴァンに会いたい一心で彼を誘うことしか頭になかった。
「なんつーか、まぁ……色々と忙しくてよ。頭からすっぽ抜けてた」
もう済んでしまったことだが、彼にしてみれば結構なレベルの失態だ。
最初からみんなを招待していれば、ここまで拗れることもなかっただろう。
とはいえ、ヴァンだけに向けて舞いたいという願望があったのも事実。
波止場で待ち合わせてからこの方、アーロンの胸中は複雑だった。
頬杖をついて気まずそうに顔を逸らす。
「要するに、招待するつもりだったが忘れちまったってわけか」
答えを聞いたヴァンは、気分転換だと言って庭城を走り回っていた青年の姿を回想し、納得した様子で微笑した。
「そんだけ根詰めてたんだろ」
思慮が滲んだ声音は柔らかく、返す言葉が見つからなくなったアーロンは黙り込んだ。
そろそろ料理ができる頃ではないかと、助けを求めるかのように厨房へ目をやる。
すると、タイミング良く給仕の女性が二人の元へやってきた。
テーブルの上には注文した料理たちが次々と並べられていく。
熱々の湯気と美味しそうな香りを立ち上らせているのは、色とりどりの采や炊きたての米。
アーロンはすぐさま箸に手を付ける。
空腹の加減も相まって、この場の空気を誤魔化すには都合が良かった。
夕食時も盛りの頃。
入店した時には客もまばらだった店内は、いつの間にか満席になっていた。
食事と共に酒を楽しんでいる者も多いが、喧噪はなく適度な雑音が居心地の良い空間を作り出している。
アーロンが贔屓にするのも頷ける、とヴァンは密かに思った。
二人のテーブルに置かれている皿は、もうほとんどが空だ。
よほど腹が空いていたのだろうか?真向かいの青年は良い食べっぷりを披露していたが、話しかければ応じてくれるので、食事時の過ごし方としては満足だった。
(そろそろ帰らねぇとなぁ……)
お開きの時間が近づいてくるにつれ、寂しさが込み上げてくる。
そんな時、唐突に短い呼び出し音が鳴った。
「ん?オレか」
アーロンが箸を置いてポケットからザイファを取り出した。
どうやらメッセージが届いたらしい。彼は内容を確かめ、素早く返信を打ち込み始めた。
「なんかあったのか?もし急用なら……」
「違うって。役者連中からのお誘い。軽く飲んでるから気が向いたら顔出せよって」
プライベートに立ち入るのは憚られたが、彼は頓着せずにわざわざ画面を見せて教えてくれた。
「なら、行ってこいよ。こっちはもう食べ終わっちまうだろ?」
どう切り出そうかと思案していたヴァンにとっては、渡りに船だった。
「俺の方は車だからなぁ。酒までは付き合えねぇし」
苦笑を交えた言葉の語尾に、アーロンがザイファを閉じる音が重なる。
「……だったら泊まっていけばいいじゃねぇか」
続けて不機嫌そうな低い声が添えられた。
思わず目を剥くと、どこか怒っているような両眼とぶつかる。
「今からかよ?そんな出費は想定してねぇぞ、マジで」
これから宿泊場所を確保しろとでも言うつもりなのか。
多少強引な部分がある性格なのは承知しているが、金を出せとはあんまりだ。
困惑したヴァンは前屈みになって彼の真意を探ろうとした。
すると、アーロンはいきなり給仕を呼んで追加の注文をし始めた。
黙って聞いていれば、酒とつまみの名前ばかりが連なっていく。
「お、おい!?」
給仕が下がった後にヴァンは抗議の声を上げた。しかし、返ってきたのは思いも寄らない一言だった。
「……オレのとこでいいだろ?寝るだけなら問題ねぇ」
ぶっきらぼうな言葉はあまりに衝撃的で、開いた口が塞がらなくなってしまった。
そうこうしている内に、酒とつまみが運ばれてくる。
心中では寂しさが募るくらい、アーロンとの時間が名残惜しかったのは確かだ。
しかし、いざ目の前にささやかな酒宴が広げられると、あまりの急展開で気持ちがすぐには付いてこない。
「さっきの断ったのか?あっちの方がたくさん飲めるだろ?」
「は?量なんて関係ねぇだろうが。重要なのはオレが誰と飲みたいかってことだけだ」
要領を得ない上に弱腰な抵抗は、一刀のもとに斬り伏せられる。
「そ、そうか」
もう完全にお手上げだ。そう思った矢先、鈍足気味だった心がようやく現実に追い付いてきた。
仲間からの誘いを受けた時、アーロンは即座に断りを入れたのだろう。今ならそれがはっきりと分かる。
もしかしたら、こちらが先に解散を切り出さなかったとしても、最初から泊まれと言うつもりだったのかもしれない。それがまさか自宅だとは想像だにしなかったけれど。
「もう頼んじまったし。お前がそう言うなら……少しだけな」
ヴァンはそう言って酒杯に手を伸ばした。
もう少し彼との時間を共有できる。
滲み出てくる嬉しさを噛みしめると、それにつられて目元が蕩ける。
まだ一口も飲んでいないのに、酔いが回りそうだった。
※ ※ ※
ひとしきり酒を愉しんでから店を出ると、街はすでに夜の雰囲気に包まれていた。
街灯や店の明かりが行く先々で揺らめいている。
今は公演中ということもあり飲酒を控えめにしているので、アーロンにしてみれば正直かなり物足りない。
けれど、それは大した問題ではなかった。
「お前、ほんとにあんな量で良かったのか?」
「だから、量じゃねぇんだよ。大体、オレが飲んでたのはそっちのよりはるかにキツい酒だ」
隣を歩いているこの男のペースで酒杯を傾けられたのならば、それでいい。
「そうだったのか?水みたいに飲んでやがったから分からなかったぜ」
「てめぇが飲んだら一杯で目が回る」
そこはかとなく酔いが漂っているくらいが──自宅へ連れて行くには最適だ。
アーロンは普段よりも口数が多いヴァンの相手をしながら、ゆっくりと帰路を歩んだ。
彼と会ってからずっと抱え続けていた自己嫌悪は、酒が入ったお陰でようやく薄らいできた。
自宅への距離が近づくのに伴って気持ちが切り替わっていく。
今日ヴァンが煌都にいる経緯は捨て置き、目の前に用意された舞台があるのなら遠慮なく利用してやろうと思った。
アーロンが住んでいるのは質素な家々が立ち並ぶ居住地区だった。
父が煌都を追放されて以降は母と二人で暮らしてきた家だ。
彼は玄関のドアを開けて中に入りながら照明をつけた。
薄い暗闇は暖色の明かりに上書きされ、必要な家具だけが置いてある素朴な室内が露わになった。
「入れよ」
「おう、邪魔するぜ」
幼い頃から慎ましい暮らしぶりだったので、家の間取りも最小限だ。
玄関をくぐった先にはキッチンと二人掛けのテーブルが併設されている一室。その奥はドアを隔てて寝室になっている。
「へぇ、綺麗にしてるんだな」
ヴァンがテーブルの横で立ち止まり、興味深げに部屋の中を見回した。
「ほとんど寝るだけだからな。余計なもんは置いてねぇだけだ」
二ヶ月ほど前に帰ってきてからは稽古三昧だったし、食事も外で済ませている。
夜は夜で街をぶらついているので、まともに使用している家具はベッドくらいなものだった。
だが、さすがに起床した時には誰かを泊める想定はしていなかった。
急にベッド周りが気になってしまったアーロンは、テーブルの椅子に目配せをする。
「適当にその辺で寛いでろ。ちょっと片付けてくる」
そして、ヴァンの応答をそっちのけで寝室に足を向けた。
中に入ると真正面の壁には窓が一つあり、今朝方にカーテンを開けたままの状態だった。
左右の壁沿いにはベッドが一台ずつ設置されている。
アーロンが使用しているのは向かって右側にあるもので、もう片方は一応来客用として整えられていた。
とはいえ、彼が自宅に誰かを招くことなど皆無だ。自身がほとんどの時間を外で過ごしているのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。
室内を見回して特に問題がなさそうだと判断する。
たまに服を脱ぎ散らかして放置している場合もあるのだが、幸い今日はそこまで荒れていなかった。
最後に夜色を映しているガラス窓にカーテンを引く。
そこで彼は視線を落とした。
窓の下には小ぶりのチェストがあり、天板には写真立てが乗っている。
「……お袋はあの野郎の為に舞いたいと思ったことはあんのか?」
アーロンはあたかも墓参りの延長みたいに呟いた。
あの演舞はあいつに届いただろうか?響いただろうか?
ヴァンは食事の時も酒を飲んでいる時も舞台のことを褒めてくれたが、なぜか抽象的な文言ばかりだった。
「オレはそう思った。今日あいつを見つけた瞬間に」
写真の中の彼女は、華やかな舞台衣装の姿で柔和に微笑んでいる。
「だから答えが欲しい」
それに向かって対話の形を模しただけの独り言。
「色々とダダ漏れなのは今に始まったことじゃねぇけど」
本人は隠し通しているつもりなのだろうが、ふとした仕草の中にそれとなく滲むものがある。
ときおり控えめに注がれる視線が言外に想いを訴えてくる。
アーロンはそれに気が付かないほど鈍い男ではなかった。
彼にはヴァンから恋い慕われているという自負がある。それこそ完璧な確率で。
「それでも言葉が欲しい。オレが伝えた分だけ返してほしい」
物言わぬ美しい肖像は、墓参りの時と同じで優しい空気を纏い見守ってくれている。
そこに声はなくても、ただ、自分を奮い立たせる為に言いたかった。
家の主であるアーロンの意を汲んだヴァンは、椅子に座って寝室が整うのを待つことにした。
卓上に頬杖をつきながら、何気なく周りを観察してみる。
イーディスにある彼の部屋のイメージが念頭にあったので、初見では意外に思った。
向こうに比べれば質素で殺風景な印象だが、よく見れば長年積み重ねてきた生活の欠片がいくつも転がり落ちている。
わざわざ聞かなくても、ここが幼い頃から家族と過ごしてきた大切な場所であるのが分かった。
「いきなり自宅とか……不意打ちすぎんだろ」
言下に小さな吐息を零す。
正直なところ、ヴァンは緊張していた。
表面上は平静を保っているつもりだが、店を出る頃になってからというもの、ずっとそわそわと落ち着かない気分だった。
昼間の舞台の余韻は未だ消えず、胸の奥底では火傷の痕がじりじりと燻ったまま。
「はぁ……ボロが出なきゃいいんだが」
そんな状態で惚れた男の家にいる。
アーロンがどういった心境で自宅に招いてくれたのかが分からず、どう出てくるのかも予測ができない。
彼と夕食を取り始めた時は純粋に嬉しかったはずなのに、今や不安でいっぱいだ。
「これじゃ寝付ける気がしねぇけど、さっさと寝ちまいてぇ」
そうぼやいたヴァンは、椅子に腰掛けたまま寝室の様子を覗った。
ドアは半開きになっていて、隙間からは赤い後頭部が見え隠れしている。
周囲を整えているのかと思いきやそれらしい動きはなく、ただ部屋の奥に佇んでいるようだった。
ヴァンは怪訝な顔をしてドアの向こうに視線を留めた。そうやってしばらくアーロンを注視していたが、いつまで経っても変化は訪れない。
「あいつ、どうしたんだ?」
物音一つすらしない状況が心配になり、彼はついに立ち上がった。
──コンコン。
不意にドアを叩く音が聞こえ、アーロンはハッと振り返った。
「え~っと、悪ぃ。なかなか戻ってこないもんだから、気になっちまって」
ドアの隙間から、ヴァンが申し訳なさそうに顔を覗かせている。
「別に問題ねぇ。ただの意思表示っつーか……まぁ、いい。入ってこいよ」
そう言って促してみると、彼はそろそろと足を踏み入れてきた。
チェストの上に置いてある写真立てに気づき、腰をかがめてそれを見る。
「これ、お袋さんか。綺麗な人だなぁ」
感嘆は穏やかな響きを伴い、更に言葉が付いてくる。
「役者として、彼女の域には近づけたか?」
「まだまだ足りねぇな。お袋はマジで凄かった」
在りし日の彼女の舞台を回顧したアーロンは、誇らしげに写真を一瞥した。
「そうか。でも、今日のお前も凄かったぞ」
しかし、傍らに立っている男の真摯な口ぶりにピクリと眉尻が跳ね上がる。
「そりゃ、どうも」
今夜はこれで何度目だろうか。また、漠然とした褒め言葉が耳元を通り過ぎていく。
アーロンは口を引き結び、身を投げ出すようにして自分のベッドに座った。
「──そこに座れ」
「な、なんでだよ?」
有無を言わせぬ命令口調で空いているベッドを指さすと、ヴァンが困惑を露わにした。
「座れ。てめぇに聞きたいことがある」
もう一度言う。すると彼は渋々ながらも指先の場所へ腰を下ろした。
この住宅の広さを考えれば、寝室の平面積はたかがしれている。
二台のベッドの距離は大人の歩幅で二歩程度。対面で座してみると思いのほか近かった。
これなら表情の機微まで読み取れる。下手な誤魔化しもできないだろう。
アーロンはやや前屈みになり、開いた膝の上に指を組んでどっしりと構えた。
上目で見据える眼光は相手を射殺してしまいそうに強い。
「何を……だ?」
ヴァンにとっては急変した以外の何物でもないはずだ。緊張からか唾を飲み込む音がする。
「凄いとか良かったとか、そういうのは聞き飽きた」
そんな中でアーロンが静かに口を開いた。
「舞台全体のことじゃねぇ。オレがソロで踊ってるのを見てどう思った?」
使い込まれて擦れた床板には、その問いだけが落とされた。
「一番の見せ場だ。何も感じなかったわけじゃねぇだろうが。はぐらかすつもりかよ」
追い詰めて退路を塞ぐ。
答えを引きずり出すまで寝かせるつもりはないと、暗に睨みを利かせてみせた。
ヴァンは何度か瞬き、更に数拍をおいてから気まずそうに視線を彷徨わせ始めた。
「……あれは上手く言葉にできねぇ」
「体裁なんて必要か?そのまま曝け出せばいい」
胸元を握り締めながら口を濁す様はどことなく苦しげだった。嘘偽りがないことは一目で分かる。
それでも追及を緩める気はなかった。ヴァンに対しては多少の強引さが必要だと、これまでの経験から学んでいる。
いつだってそうだ。アーロンとの付き合いにおいて、この男は自分の欲を優先させようとはしない。
そのくせに脇が甘いせいで、簡単にその心中を察することができてしまう。
「無茶振りしやがって……無理なんだよ。思い出すと胸が焼かれたみたいに息が詰まる。感情が……持っていかれそうになる」
ヴァンの声は微かに震えていた。より強く胸元を握り締め、床の一点を見つめ続けている。
「観客は俺だけじゃなかったのに、錯覚しそうだった。お前が誰の為に気迫の演舞をしているのかって」
無理と言いながらもひとたび唇が動き始めてしまうと、それを皮切りに切々とした言の葉が紡ぎ出されていく。
顔を伏せてしまった男の胸中は、込み上げてくる想いでいっぱいなのだろう。
アーロンはその独白を黙って聞いていた。
嵩を増した心の器はすでに上限いっぱいだと目測をする。
そして、それが溢れ出してしまうのを待っている。
「……違う、しそうだったじゃない。ほんの一時でもそう思っちまった」
あと、少し。まるで懺悔のような一滴。
「だから、嬉しかった。愛おしいだとか見惚れていたいとか、気持ちの収拾が付かなくなって……」
もう、寸前。最後の一滴が満杯の器に静かに落ちていく音がする。
「──あっ」
同時にヴァンがハッと顔を上げ、口元を片手で覆った。
彼にとっては失言だったのだろう。けれど、一度溢れてしまったら再び隠すことなどできはしない。
吃驚した瞳が相対している青年に向けられ、ようやく互いの視線がぶつかった。
「届いたかよ?オレの執心ぶりが」
アーロンは一瞬だけ不敵に口角をつり上げた。ようやく引きずり出してやったと言わんばかりに。
彼は勢いよくベッドから立ち上がり、ヴァンとの距離を詰めた。
「錯覚なんかじゃねぇ、自惚れろ。オレはあんたに向けて踊った。あの舞台を一番見て欲しかったヤツの為に」
目を丸くしたまま固まっている男の頬を両手で挟み、強引に上を向かせる。
見下ろした前髪の先がヴァンの額にさらりと触れた。
「響いたかよ?本音を吐露するのが止められないくらいに」
自発的に声を塞いだ手を引き剥がし、露わになった唇を親指の腹でやんわりとなぞってみる。
「そ、それって……」
その感触でヴァンの肩が小さく跳ねた。
アーロンからの本気は確実に伝わっている。硬直が解けた顔にはそんな表情が浮かんでいた。
「分かってただろ。オレはあんたと違って一切隠してねぇからな」
「……ずっと半信半疑だったんだよ。しょうがねぇだろ?お前、気まぐれなヤツだし」
近すぎて視線を外すことが難しい状況になり、ヴァンは若干いじけた素振りをみせる。
「俺は、その、惚れてる……とか、言うつもりなんてなかっ……」
これを放って置いたら延々と愚痴を吐きそうな予感がする。
そう思ったアーロンは素早くキスを落として語尾を封じにかかった。
表面が触れるだけのそれは鳥が啄むかのように軽い。
「お、お前!?」
ヴァンは反射的に腰を浮かして離れようとしたが、アーロンが腕を伸ばす動きの方が速かった。
起立しかけた男の身体を引き寄せて抱きしめる。
咄嗟のことで両手が宙ぶらりになったヴァンは支えを失い、アーロンが少し体重を掛けただけで容易くベッドの海に沈み込んだ。
「言わねぇなら引きずり出してやるまでだ。くくっ、オレの勝ちだな」
「……勝手に勝負事にしてんじゃねぇ」
スプリングが軋む音に重なるのは、戯れを含んだ短いやり取り。
ヴァンは本音を吐露してしまった羞恥を引きずりながらも、戸惑い慌てふためくのを止めた。
アーロンに組み伏せられたことが、彼の想いを受け止める最後の一押しになったのだろう。
静かな苦笑を漂わせた眼差しが、今度こそ彼自身の意思で相手へと向けられる。
それに惹きつけられたアーロンが再び唇を落としても、過剰な反応はなく大人しかった。
それならば、もっと欲しくなる。一度味わってしまえば、より大胆に貪り尽くしたくなる。
そんな欲情に囚われている青年の背中へ、押し倒された男の両腕がやんわりと回された。
彼が誘引するような仕草を見せたことで、ベッドの上の空気は一気に高揚した。
深く絡み合う舌先が湿った音を口内に響かせ、聴覚を甘く刺激する。
ヴァンの喉元にひとすじの唾液が伝い流れる様は、やたらと艶めかしかった。
ふと、熱を帯びて荒くなっていく吐息の隙間で彼が囁いた。
「……勝ち逃げは認めねぇからな」
牽制なのか挑発なのか、一時離れたアーロンの下唇に小さく噛み付いてくる。
「はっ、上等だぜ」
ほんのわずかな痛覚ですら快感だ。夜の寝室に黄金の瞳が爛々と輝いた。
※ ※ ※
カーテン越しの陽光を受け、部屋の中に朝の気配が滑り込んでくる。
目を覚ましたヴァンは、古びた天井を見つめながら昨夜のことを思い出していた。
お互いに素直な性格ではないので、身体言語で想いを確かめ合う方法が手っ取り早い。
とは言え、後々を考えればキスまでで抑えられて良かった。
「……危ねぇ、流されちまうところだった」
嬲り合っていたアーロンの唇は、いつの間にか耳元から首筋を辿っていた。
同時に衣服の中へ手が滑り込んできて、荒々しい指先に素肌が浸食されていく。
そこまできて、さすがにマズいと思った。
アーロンが主役の公演はまだしばらく続く。連日舞台に立ち続けるのだから、十分な睡眠は鉄則だ。
彼の昂ぶりを押さえ付けるのは酷だったが、何よりも体調面の心配が先に立つ。
本音を言えば、ヴァンの方とて身体は火照っていたが、心を鬼にして『待て』と睨め付けた。
強引に両肩を掴み、腕力に物を言わせて彼の身体を引き剥がす。
「ヴァン!てめぇ……っ!?」
刹那、アーロンは烈火の如くの憤りを見せた。
だが、すぐに抑制の意味を理解したのだろう。
まるで獣の如く歯を噛みしめて、情欲を払うかのように大きく頭を振った。
「ふぅ……クソが。生殺しじゃねぇかよ」
息を整え心身を落ち着けようとしている彼の声を聞き、ヴァンは心苦しい顔で笑った。
「悪ぃな、アーロン」
まだ熱っぽさを残したままの顔へ片手を伸ばす。
謝罪を込めて頬をひと撫でしてみると、彼はそれで一応は納得してくれた。
覆い被さっていた身体を起こしてベッドの脇に腰掛ける。
「……二度目の『待て』はないからな」
ふて腐れてそっぽを向いてしまった声には、あからさまな恨みがましい響きを感じる。
そんなアーロンに対し、ヴァンはお詫びを兼ねた甘い餌を差し出した。
「続きはお前が無事に千秋楽を終えて事務所に戻ってきてからな。それでいいだろ?」
「その言葉、忘れるんじゃねぇぞ」
すると、彼はすっくと立ち上がり自分のベッドへ勢いよく全身を投げ出したのだった。
回想を終えたヴァンは、仰向けのまま首だけを横に向けた。
アーロンはまだ夢の中のようで、毛布に包まった赤い頭は微動だにしなかった。
昨夜は自分の方が先に寝入ってしまったらしく、彼がすぐに眠りにつけたのかは分からない。
それでも現在はしっかりと熟睡をしているので、ホッと胸をなで下ろした。
「……よく寝てんなぁ」
視線は留めたまま、ゆっくり上半身だけを起こして笑みを浮かべる。
と、その時。
アーロンの枕元に置いてあるザイファから、アラームとおぼしき音が鳴り始めた。
「あ~、うるせぇ」
彼はすぐに反応を示し、かったるそうに頭を動かした。
しかし、アラームを止めるやいなや無造作にザイファを放り投げ、再び寝床に潜り込んでしまった。
それと同時に、ごとり、と堅い物が床に落ちる音がした。
「はぁ、何やってんだか」
ヴァンはベッドから這い出して、勢い余って転がり落ちたザイファを拾ってやった。
「あっ、これ前も付けてたよな」
手の中で蒼い光を煌めかせている意匠には見覚えがある。
庭城で会った時にも、アーロンはこのカバーを装着していた。
あの時はほんの一瞬だけだったので、後になってから見間違いの可能性が頭に過った。
しかし、それは杞憂で終わる。このデザインは確かにヴァンがアーロンに贈ったものだ。
「もしかして、煌都に来てからずっとこれなのか?」
ヴァンは手元のザイファと持ち主を交互に見やる。
互いの想いを確かめ合った後ではそうとしか思えなくなってしまい、一ヶ月前よりも嬉しさが募って口元が綻ぶ。愛おしくて堪らなかった。
「こいつのデレは分かりにくい……おっと?」
またアラームが鳴り出した。どうやら寝坊の防止機能が設定してあったらしい。
アーロンは小さな唸りを発し、毛布の中から腕だけを伸ばして音の発信元を探している。
さっさと起き上がってしまえば良いものを、未練がましく至福の温もりにへばりついていた。
見かねたヴァンは、一つ息を吸い込んでから声を張る。
「起きろ!今日も公演があるんだろ」
一緒に勢いよく毛布を引き剥がすと、彼はようやく上半身を起こした。
「あぁ?」
アラーム音とヴァンの声が同時に聞こえたので違和感を覚えたのだろう。
寝起きも相まった顰めっ面で、ベッドサイドに立つ男を見上げた。
「ったく、扱いが雑すぎんだろ……床に落ちてたぞ」
小言を加えてザイファを差し出し、受け取ったアーロンがすぐさま音を止める。
「知らねぇよ」
「何言ってんだか。お前が放り投げたんだろうが」
まだ寝ぼけ眼だが、取りあえずは起きたみたいだ。
そう判断したヴァンは、一晩借りたベッドを整えようと彼に背を向けた。
「今朝はたまたまだ。いつもなら一発で起きてる」
「そうかよ。ま、舞台絡みだったら寝坊とかしなさそうだな、お前は」
短いやり取りの真っ只中で、アーロンの視線が背中に注がれているのを感じる。
「──もう帰んのか?」
丁度ベッドを綺麗にし終わった時、明らかに不服そうな声が放たれた。
「元から日帰りのつもりだったしな。そっちも準備があるだろ?」
寝る前に脱いだ上着を羽織ってから振り返る。案の定、アーロンはむすっとしていた。
「泊めてくれてありがとな。残りの公演も頑張れよ」
そんな彼に近づいて寝乱れた赤毛をくしゃりとかき混ぜる。
普段なら真っ先にウザがられる行動だが、なぜか今は不機嫌ながらも牙を剥かずにいてくれた。
「そんじゃ、行くからな」
「……おう」
ヴァンは別れの挨拶をして寝室のドアを開けた。
「あ、そうだ」
しかし、部屋を出る寸前になって言い残していることがあったのを思い出す。
「お前さ、そのザイファのカバー。煌都限定じゃなくたっていいんだぜ?」
意地悪げにくつくつと笑いながら、アーロンの手元を指差してみる。
「はっ!?」
昨夜は彼のいいようにされてしまったので、少しくらいは仕返しをしたっていいだろう。
唖然として固まる恋人の顔は、煌都での良い思い出となるに違いなかった。
寝室に一人残されたアーロンは、しばらくの間そのショックから浮上できなかった。
ザイファを握り締めたままベッドに座り込んでいる。
彼にしてみれば、とんでもない失態だった。
煌都に帰ってきてからおよそ二ヶ月。この蒼いカバーが日常的になっていたせいですっかり失念していた。
贈り主であるヴァンには知られたくない一心からだったのに、これでは全く意味がない。
「あの野郎、一体いつから」
と疑問を口にしつつも、よくよく思い返してみれば、相手が気が付くかどうかの問題ではなかった。
昨日ヴァンと待ち合わせをした時から、アーロンは至って普通にザイファを操作していた。
だから、自分から見せびらかしていたも同然だった。
「いや、昨日じゃねぇな。庭城の時からか」
更にもう少し記憶を遡ってみてから考えを改める。
「はぁ……マジかよ」
一ヶ月も前からヴァンに知られていたという事実を突きつけられ、地の底まで落ちていきそうな深い溜息を吐いた。
片手で顔を覆って俯くと、じわじわと熱が集まってくるのを感じる。
ヴァンが最後までこの話題を振ってこなかったのは、彼のさり気ない優しさだったのか。
それとも、意図的に隠していた切り札だったのか。
今となっては真意のほどは解らない。
「年上の余裕ってやつか?チッ、面白くねぇ」
手の中にある蒼色へ苦々しい視線を注ぎながらも、指先はあくまで愛おしげに表面を撫でる。
まだ閉まったままのカーテン越し、朝の陽光はだいぶ明るくなってきた。
それを受けて柔らかな光沢を放っている蒼いカバーは、戯けて笑っているようにも見えた。
「オレが向こうに戻ったら覚悟しとけよ。タダじゃ置かねぇからな」
アーロンは自他共に認めるほどの負けず嫌いな男だった。
朝の弌番街は夜の盛りとは違った賑わいがある。
まだ観光客の出が少ない代わりに、住民たちが忙しなく往来をしていて生活感に溢れていた。
ヴァンは散歩がてらにその雰囲気を堪能し、途中で朝食用の軽食と飲料を購入した。
運転中に片手で食べられる類いのものだ。
その足で昨日から利用している駐車場へ向かう。
「アーロンの奴、怒ってんだろうなぁ」
澄んだ朝気の中で発したのは、言葉の割には明るい独り言。
先刻の彼を思い出せば自然と頬が緩んでしまう。
不服そうな顔をしながらも頭を触らせてくれたのは、別れが名残惜しかったからに違いない。
最後に固まったのは、たぶん──あれが馴染みすぎていて替えたこと自体を忘れていたのだろうと推測した。
「こっちにだって一応は年上の矜持ってもんがあるんでな」
ヴァンの方とて、本当は後ろ髪を引かれる思いだったのだ。
それでも、去り際だけは未練たらしい真似をしたくなかった。
アーロンに言ったら笑われるかもしれないが、少しくらいは格好良い男でいたいのだ。
「あいつが戻ってきた時を想像すると怖い気がするんだが……ま、なんとかなるだろ」
やはり、言葉の割には楽しそうな声。
足取りも軽やかな道程の終点はもう目の前だった。
上着のポケットに手を突っ込んで車のキーを確認する。
そして、道の角を一つ曲がって駐車場を視認した途端、「やっぱりな」という表情で肩を竦めた。
青い愛車の横で、同系色の衣服を纏った黒髪の女性が手を振っている。
「よぉ、どっかで顔を出してくるとは思ってたぜ」
「あたしがお願いしたんだから、見送りくらいはするわよ」
黒月の令嬢はヴァンの顔をじっと見つめ、満足げに小さく頷いた。
「ヴァンさん、なんだかご機嫌ね。良いことあった?」
「……分かってて聞くなっつーの」
ヴァンは運転席側のドアを開けて、先に軽食が入った紙袋を助手席の上に置いた。
「そんなに聞きたきゃ、あいつの方に聞けよ。放ってきたからご機嫌斜めだろうけどな」
そして、そそくさと自分も車に乗り込んでドアウィンドウを開ける。
どこをどう取っても照れ隠しにしか見えない。一連の動きを眺めていたアシェンが、くすくすと声を立てて笑った。
「な、なんだよ?」
窓から顔を出して怪訝そうな上目遣いすると、アシェンは急に居住まいを正した。
「ねぇ、ヴァンさん。改めて、アーロンのことをよろしくね。あいつはまだまだ良い男になるわよ」
そして、朗らかに微笑む。家族とも呼べる彼がようやく手に入れた恋人へ向けて。
「おい、おい……まだ打ち止めじゃねぇのか?勘弁してくれよ」
ヴァンはその確信めいた台詞を聞いて、苦笑どころか冷や汗が出てきそうになった。
一体どこまで惚れさせれば気が済むんだ、と末恐ろしくなる。
「あたしの自慢の幼馴染みだもの、当たり前じゃない」
そんな男の気持ちを知ってか知らずか、アシェンは得意げに腰に手を当ててみせた。
彼女からの見送りの言葉は、それが最後だった。
昨日はわだかまりを抱えて辿った道を、今は軽快な口笛を吹きながらハンドルを握っている。
押し隠していた気持ちを吐露したことで、ヴァンの表情は晴れやかになっていた。
青い空と柔らかな太陽のお陰で、本日もドライブ日和だ。愛車もさぞ喜んでいることだろう。
「帰り道はご機嫌だなんて、あのガキがへそを曲げちまいそうだ」
彼はそう言いながら暢気に運転していたが、唐突にあることを思い出した。
もはや大したことではないのだが、ずっと小さな引っかかりを覚えていた疑問。
庭城での別れ際、アーロンは口にしかけた言葉を飲み込んだ。
あの時、彼は何を言いたかったのだろうか?
「あれって、やっぱり……」
しかし、昨夜のアーロンの言動を思い返すと、答えは意外にすんなり落ちてきた。
「あいつ、俺を誘いたかったんだな」
声に出してみた途端、無性に彼を可愛く感じてしまって笑いが込み上げてくる。
「いつもの押しの強さはどこへ行っちまってたんだか」
首都イーディスまでの帰り道はまだ始まったばかり。
けれども、彼のことを考えている時間は本当に楽しくて、この距離さえも瞬く間に走り終えてしまいそうな気がした。
2024.05.01
首都イーディスを拠点にしているヴァンにとっては久しぶりの海景だ。
空を染める茜色は海面へと溶け込み、小波の煌めきを有して遙か彼方まで広がっていた。
吹き渡る潮風は穏やかだったが、昼間よりも少し肌寒くなっている。
それは観劇の余韻を残している彼にとって心地良い涼感だった。
待っている間にしっかりと気持ちを落ち着かせることができる。
アーロンが待ち合わせ場所に指定してきたのは、賑わいから離れた静かな波止場の辺りだった。
大規模に整備されている港湾区とは違い、住民たちが生業に使用している小舟が数隻泊まっているだけだ。
そろそろ夕飯時とあってこれから出航する船はなく、人影もまばらだった。
そんな場所のおかげで、すぐに待ち人がこちらに歩いてくる気配を感じ取れる。
ヴァンは黙って空と海の狭間を眺めやっていた。
「なに黄昏れてんだよ、オッサン」
背後から声をかけられて振り返る。
「全然、似合ってねぇぞ」
煌びやかな衣装とは一転、いつもの装いをしたアーロンが笑みを刷いて立っていた。
「第一声がそれかよ。相変わらず口の減らねぇヤツだな」
およそ二ヶ月ぶりの生身での対面は、当たり前のように遠慮がない言葉遊びから始まった。
ひとしきり挨拶代わりのじゃれ合いを楽しんだヴァンは、まず先に相手を労う。
「……っと、まぁ、取りあえずお疲れさん。見応えのある良い舞台だったぜ」
嬉しさも相まって、つい赤い頭を撫でまわしたくなった。
しかし、彼との距離が三歩分ほどはあるし、嫌がられるのは確実なので諦める。
「ま、当然だろ──それより、『色々あって』を聞かせろよ。どうせアシェンのヤツだろ?」
そんな葛藤を知らないアーロンは、ありきたりな賛美をさらりと流して別の話題で返した。
彼の立場からすれば、それが最も気になるところだろう。
「う~ん、間違っちゃいねぇけど。確実に一枚噛んでるのはアニエスと、たぶんジュディスも……」
「あいつの独断じゃねぇのかよ?」
自信満々に幼馴染みの名前を出してみたが、そうも単純な話ではなかったらしい。
意外だと言わんばかりの顔で食い気味になる。
「そうだなぁ……今思えば、発端は二週間くらい前のあれだったか」
あまりの凝視っぷりに堪えきれず、ヴァンは気乗りがしない中でぽつりぽつりと話し始めた。
アニエスとジュディスが事務所に来ていた時、アーロンの話題になったこと。
彼女らはヴァンがアーロンに招待されていると思い込んでいたこと。
されていないと知ってひどく驚かれたこと。
「それで終わりかと思いきや、昨日になっていきなりアシェンから連絡があってよ」
彼の説明は簡潔と表せば聞こえは良いが、後半はご都合主義全開でかなりの端折り具合だった。
例えば、前払いのスイーツの誘惑には逆らえなかっただとか。
「……チッ、あいつら好き勝手やりやがって」
普段のアーロンであれば、それに違和感を覚えて突っ込んできそうなものだが、今は違っていた。
苦々しい表情をしながら独り言のように吐き捨てる。
「ん?なんか言ったか?」
それは本当に小さくてヴァンの耳にまでは届かない。
怪訝に思ったが、アーロンは軽く頭を振るだけだった。
「なんでもねぇよ。昨日の今日じゃ、急だったな」
「まったくだぜ。移動の時間だって馬鹿にならねぇからな」
予期せぬ共感を得た男は、大袈裟なくらいに何度も頷いた。
アーロンが急に大人しくなってしまったが、元から気分屋な所があるので大して気にも留めなかった。
それとなく彼の顔色を窺い、たぶん大丈夫だろうと判断したヴァンは遠慮がちに切り出した。
「そんなわけで、帰る前に腹ごしらえといきたいんだが……」
地元の、しかも生まれ育った弌番街であれば、飲食店の類いは幅広く網羅している。
店選びを任されたアーロンは、少しばかり思案してから動き出した。
道すがらの会話は他愛もないものだったが、ヴァンは楽しそうにしている。
それに対して、アーロンの方は自己嫌悪でいっぱいだった。
この一件の発端は自分が彼を誘えなかったことに他ならない。
女性陣に意気地がない部分を見透かされて世話を焼かれた形になる。
それでも結果だけを見れば、ヴァンに演舞を披露できた上に、今はこうして二人だけの時間を過ごしているのだ。
お節介な彼女たちに悪態を吐きたい気持ちと、図らずも望みが叶ってしまった嬉しさとが煩雑に絡み合う。
「……アーロン?もしかしてお疲れか?」
どうやら知らぬ間に口数が少なくなっていたようだ。
ヴァンが気遣わしげな視線を投げてくる。
「あぁ?問題ねぇ」
アーロンは鬱陶しいとばかりに睨み返し、いきなり歩調を速めて先行し始めた。
目抜き通り周辺には大小様々な店がひしめいているが、そこを外して人通りの少ない方へと向かう。
すれ違うのは観光客ではなく街の住民ばかりだ。気さくに声をかけてくる彼らと挨拶を交わしつつ、角をいくつか曲がって袋小路に入る。
突き当たりには小さいながらも落ち着いた店構えの飲食店があった。いかにも隠れ家といった雰囲気だ。
「へぇ?こんな所に店があったのか。知らなかったな」
「静かに飯が食いたい時には丁度良い。昔……名前は忘れちまったが有名どころで料理長やってた爺さんだから、味は保証するぜ」
興味津々で建物を見上げているヴァンに説明をし、引き戸になっている入り口を開けて中へと促した。
今は騒がしい場所で過ごす気分ではなかった。
せっかく二人きりの時間を持てるのだから、邪魔はされたくない。
店内に入ると、店主が奥の厨房から顔を覗かせていた。
軽く声を掛けてからぐるりと中を見渡し、壁際の一画に席を取る。
すでに数人の客が食事を楽しんでおり、鼻腔をくすぐる香りが漂っていた。
ほどなくして給仕の女性がやってきたので、各々に注文をする。
「ここ、よく来るのか?」
「公演中は特にな」
「夜な夜な酒盛りをするわけにはいかねぇとか?」
注文した料理を待っている間、ヴァンがここぞとばかりに質問を重ねてくる。
「あのなぁ……理由はそこじゃねぇ。外から観劇しにきたヤツらが擦り寄ってくるんだよ。街のヤツらとは勝手が違うんで扱いにくい」
アーロンは面倒くさそうに応じながら、給仕が置いていった水を喉へ流し込む。
「あぁ、なるほどな。さすがは人気役者さま」
「推しだのなんだのってのは素直に嬉しいが、オフにまで突っ込んでこられるのはなぁ」
「それでこの店か。俺が華劇場にいた時も女性客が多かったもんな」
つい愚痴っぽくなってしまったが、向かい席の男は妙に何度も相槌を打った。
「特に今回は女形じゃねぇし。前にうちの奴らがポスター見て騒いで……あっ」
ヴァンは更に言葉を続けたが、
「いや、そうじゃなく……ん~」
途中で何かを思い出し、悩ましげに顔を歪めた。もの言いたげな瞳がアーロンに向けられる。
「なんかあるならハッキリ言いやがれ」
「その、な。ちょいと気になってたことがあって」
一度上げた声を目の前で飲み込まれるのは不愉快だ。
鋭い眼光で穿つと、歯切れの悪い小さな声が聞こえてくる。
「先に言っとくが、たかってるとかじゃなくてな……お前、何で誰も招待しなかったんだ?」
それは予想だにしなかったもので、アーロンを吃驚させた。
「お前の性格だったら、うちの奴ら一纏めでチケットの大盤振る舞いとかしそうな気がしたからよ」
「……それは」
言われて、はたと気が付いた。
二ヶ月前、煌都に帰ってきた時点では確かにそう思っていたはずだ。
すぐに手配すれば良かったものを、稽古に追われる日々の中ですっかり忘れてしまっていたらしい。
一ヶ月前に庭城を訪れた時、思い出すチャンスはあったものの、ヴァンに会いたい一心で彼を誘うことしか頭になかった。
「なんつーか、まぁ……色々と忙しくてよ。頭からすっぽ抜けてた」
もう済んでしまったことだが、彼にしてみれば結構なレベルの失態だ。
最初からみんなを招待していれば、ここまで拗れることもなかっただろう。
とはいえ、ヴァンだけに向けて舞いたいという願望があったのも事実。
波止場で待ち合わせてからこの方、アーロンの胸中は複雑だった。
頬杖をついて気まずそうに顔を逸らす。
「要するに、招待するつもりだったが忘れちまったってわけか」
答えを聞いたヴァンは、気分転換だと言って庭城を走り回っていた青年の姿を回想し、納得した様子で微笑した。
「そんだけ根詰めてたんだろ」
思慮が滲んだ声音は柔らかく、返す言葉が見つからなくなったアーロンは黙り込んだ。
そろそろ料理ができる頃ではないかと、助けを求めるかのように厨房へ目をやる。
すると、タイミング良く給仕の女性が二人の元へやってきた。
テーブルの上には注文した料理たちが次々と並べられていく。
熱々の湯気と美味しそうな香りを立ち上らせているのは、色とりどりの采や炊きたての米。
アーロンはすぐさま箸に手を付ける。
空腹の加減も相まって、この場の空気を誤魔化すには都合が良かった。
夕食時も盛りの頃。
入店した時には客もまばらだった店内は、いつの間にか満席になっていた。
食事と共に酒を楽しんでいる者も多いが、喧噪はなく適度な雑音が居心地の良い空間を作り出している。
アーロンが贔屓にするのも頷ける、とヴァンは密かに思った。
二人のテーブルに置かれている皿は、もうほとんどが空だ。
よほど腹が空いていたのだろうか?真向かいの青年は良い食べっぷりを披露していたが、話しかければ応じてくれるので、食事時の過ごし方としては満足だった。
(そろそろ帰らねぇとなぁ……)
お開きの時間が近づいてくるにつれ、寂しさが込み上げてくる。
そんな時、唐突に短い呼び出し音が鳴った。
「ん?オレか」
アーロンが箸を置いてポケットからザイファを取り出した。
どうやらメッセージが届いたらしい。彼は内容を確かめ、素早く返信を打ち込み始めた。
「なんかあったのか?もし急用なら……」
「違うって。役者連中からのお誘い。軽く飲んでるから気が向いたら顔出せよって」
プライベートに立ち入るのは憚られたが、彼は頓着せずにわざわざ画面を見せて教えてくれた。
「なら、行ってこいよ。こっちはもう食べ終わっちまうだろ?」
どう切り出そうかと思案していたヴァンにとっては、渡りに船だった。
「俺の方は車だからなぁ。酒までは付き合えねぇし」
苦笑を交えた言葉の語尾に、アーロンがザイファを閉じる音が重なる。
「……だったら泊まっていけばいいじゃねぇか」
続けて不機嫌そうな低い声が添えられた。
思わず目を剥くと、どこか怒っているような両眼とぶつかる。
「今からかよ?そんな出費は想定してねぇぞ、マジで」
これから宿泊場所を確保しろとでも言うつもりなのか。
多少強引な部分がある性格なのは承知しているが、金を出せとはあんまりだ。
困惑したヴァンは前屈みになって彼の真意を探ろうとした。
すると、アーロンはいきなり給仕を呼んで追加の注文をし始めた。
黙って聞いていれば、酒とつまみの名前ばかりが連なっていく。
「お、おい!?」
給仕が下がった後にヴァンは抗議の声を上げた。しかし、返ってきたのは思いも寄らない一言だった。
「……オレのとこでいいだろ?寝るだけなら問題ねぇ」
ぶっきらぼうな言葉はあまりに衝撃的で、開いた口が塞がらなくなってしまった。
そうこうしている内に、酒とつまみが運ばれてくる。
心中では寂しさが募るくらい、アーロンとの時間が名残惜しかったのは確かだ。
しかし、いざ目の前にささやかな酒宴が広げられると、あまりの急展開で気持ちがすぐには付いてこない。
「さっきの断ったのか?あっちの方がたくさん飲めるだろ?」
「は?量なんて関係ねぇだろうが。重要なのはオレが誰と飲みたいかってことだけだ」
要領を得ない上に弱腰な抵抗は、一刀のもとに斬り伏せられる。
「そ、そうか」
もう完全にお手上げだ。そう思った矢先、鈍足気味だった心がようやく現実に追い付いてきた。
仲間からの誘いを受けた時、アーロンは即座に断りを入れたのだろう。今ならそれがはっきりと分かる。
もしかしたら、こちらが先に解散を切り出さなかったとしても、最初から泊まれと言うつもりだったのかもしれない。それがまさか自宅だとは想像だにしなかったけれど。
「もう頼んじまったし。お前がそう言うなら……少しだけな」
ヴァンはそう言って酒杯に手を伸ばした。
もう少し彼との時間を共有できる。
滲み出てくる嬉しさを噛みしめると、それにつられて目元が蕩ける。
まだ一口も飲んでいないのに、酔いが回りそうだった。
※ ※ ※
ひとしきり酒を愉しんでから店を出ると、街はすでに夜の雰囲気に包まれていた。
街灯や店の明かりが行く先々で揺らめいている。
今は公演中ということもあり飲酒を控えめにしているので、アーロンにしてみれば正直かなり物足りない。
けれど、それは大した問題ではなかった。
「お前、ほんとにあんな量で良かったのか?」
「だから、量じゃねぇんだよ。大体、オレが飲んでたのはそっちのよりはるかにキツい酒だ」
隣を歩いているこの男のペースで酒杯を傾けられたのならば、それでいい。
「そうだったのか?水みたいに飲んでやがったから分からなかったぜ」
「てめぇが飲んだら一杯で目が回る」
そこはかとなく酔いが漂っているくらいが──自宅へ連れて行くには最適だ。
アーロンは普段よりも口数が多いヴァンの相手をしながら、ゆっくりと帰路を歩んだ。
彼と会ってからずっと抱え続けていた自己嫌悪は、酒が入ったお陰でようやく薄らいできた。
自宅への距離が近づくのに伴って気持ちが切り替わっていく。
今日ヴァンが煌都にいる経緯は捨て置き、目の前に用意された舞台があるのなら遠慮なく利用してやろうと思った。
アーロンが住んでいるのは質素な家々が立ち並ぶ居住地区だった。
父が煌都を追放されて以降は母と二人で暮らしてきた家だ。
彼は玄関のドアを開けて中に入りながら照明をつけた。
薄い暗闇は暖色の明かりに上書きされ、必要な家具だけが置いてある素朴な室内が露わになった。
「入れよ」
「おう、邪魔するぜ」
幼い頃から慎ましい暮らしぶりだったので、家の間取りも最小限だ。
玄関をくぐった先にはキッチンと二人掛けのテーブルが併設されている一室。その奥はドアを隔てて寝室になっている。
「へぇ、綺麗にしてるんだな」
ヴァンがテーブルの横で立ち止まり、興味深げに部屋の中を見回した。
「ほとんど寝るだけだからな。余計なもんは置いてねぇだけだ」
二ヶ月ほど前に帰ってきてからは稽古三昧だったし、食事も外で済ませている。
夜は夜で街をぶらついているので、まともに使用している家具はベッドくらいなものだった。
だが、さすがに起床した時には誰かを泊める想定はしていなかった。
急にベッド周りが気になってしまったアーロンは、テーブルの椅子に目配せをする。
「適当にその辺で寛いでろ。ちょっと片付けてくる」
そして、ヴァンの応答をそっちのけで寝室に足を向けた。
中に入ると真正面の壁には窓が一つあり、今朝方にカーテンを開けたままの状態だった。
左右の壁沿いにはベッドが一台ずつ設置されている。
アーロンが使用しているのは向かって右側にあるもので、もう片方は一応来客用として整えられていた。
とはいえ、彼が自宅に誰かを招くことなど皆無だ。自身がほとんどの時間を外で過ごしているのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。
室内を見回して特に問題がなさそうだと判断する。
たまに服を脱ぎ散らかして放置している場合もあるのだが、幸い今日はそこまで荒れていなかった。
最後に夜色を映しているガラス窓にカーテンを引く。
そこで彼は視線を落とした。
窓の下には小ぶりのチェストがあり、天板には写真立てが乗っている。
「……お袋はあの野郎の為に舞いたいと思ったことはあんのか?」
アーロンはあたかも墓参りの延長みたいに呟いた。
あの演舞はあいつに届いただろうか?響いただろうか?
ヴァンは食事の時も酒を飲んでいる時も舞台のことを褒めてくれたが、なぜか抽象的な文言ばかりだった。
「オレはそう思った。今日あいつを見つけた瞬間に」
写真の中の彼女は、華やかな舞台衣装の姿で柔和に微笑んでいる。
「だから答えが欲しい」
それに向かって対話の形を模しただけの独り言。
「色々とダダ漏れなのは今に始まったことじゃねぇけど」
本人は隠し通しているつもりなのだろうが、ふとした仕草の中にそれとなく滲むものがある。
ときおり控えめに注がれる視線が言外に想いを訴えてくる。
アーロンはそれに気が付かないほど鈍い男ではなかった。
彼にはヴァンから恋い慕われているという自負がある。それこそ完璧な確率で。
「それでも言葉が欲しい。オレが伝えた分だけ返してほしい」
物言わぬ美しい肖像は、墓参りの時と同じで優しい空気を纏い見守ってくれている。
そこに声はなくても、ただ、自分を奮い立たせる為に言いたかった。
家の主であるアーロンの意を汲んだヴァンは、椅子に座って寝室が整うのを待つことにした。
卓上に頬杖をつきながら、何気なく周りを観察してみる。
イーディスにある彼の部屋のイメージが念頭にあったので、初見では意外に思った。
向こうに比べれば質素で殺風景な印象だが、よく見れば長年積み重ねてきた生活の欠片がいくつも転がり落ちている。
わざわざ聞かなくても、ここが幼い頃から家族と過ごしてきた大切な場所であるのが分かった。
「いきなり自宅とか……不意打ちすぎんだろ」
言下に小さな吐息を零す。
正直なところ、ヴァンは緊張していた。
表面上は平静を保っているつもりだが、店を出る頃になってからというもの、ずっとそわそわと落ち着かない気分だった。
昼間の舞台の余韻は未だ消えず、胸の奥底では火傷の痕がじりじりと燻ったまま。
「はぁ……ボロが出なきゃいいんだが」
そんな状態で惚れた男の家にいる。
アーロンがどういった心境で自宅に招いてくれたのかが分からず、どう出てくるのかも予測ができない。
彼と夕食を取り始めた時は純粋に嬉しかったはずなのに、今や不安でいっぱいだ。
「これじゃ寝付ける気がしねぇけど、さっさと寝ちまいてぇ」
そうぼやいたヴァンは、椅子に腰掛けたまま寝室の様子を覗った。
ドアは半開きになっていて、隙間からは赤い後頭部が見え隠れしている。
周囲を整えているのかと思いきやそれらしい動きはなく、ただ部屋の奥に佇んでいるようだった。
ヴァンは怪訝な顔をしてドアの向こうに視線を留めた。そうやってしばらくアーロンを注視していたが、いつまで経っても変化は訪れない。
「あいつ、どうしたんだ?」
物音一つすらしない状況が心配になり、彼はついに立ち上がった。
──コンコン。
不意にドアを叩く音が聞こえ、アーロンはハッと振り返った。
「え~っと、悪ぃ。なかなか戻ってこないもんだから、気になっちまって」
ドアの隙間から、ヴァンが申し訳なさそうに顔を覗かせている。
「別に問題ねぇ。ただの意思表示っつーか……まぁ、いい。入ってこいよ」
そう言って促してみると、彼はそろそろと足を踏み入れてきた。
チェストの上に置いてある写真立てに気づき、腰をかがめてそれを見る。
「これ、お袋さんか。綺麗な人だなぁ」
感嘆は穏やかな響きを伴い、更に言葉が付いてくる。
「役者として、彼女の域には近づけたか?」
「まだまだ足りねぇな。お袋はマジで凄かった」
在りし日の彼女の舞台を回顧したアーロンは、誇らしげに写真を一瞥した。
「そうか。でも、今日のお前も凄かったぞ」
しかし、傍らに立っている男の真摯な口ぶりにピクリと眉尻が跳ね上がる。
「そりゃ、どうも」
今夜はこれで何度目だろうか。また、漠然とした褒め言葉が耳元を通り過ぎていく。
アーロンは口を引き結び、身を投げ出すようにして自分のベッドに座った。
「──そこに座れ」
「な、なんでだよ?」
有無を言わせぬ命令口調で空いているベッドを指さすと、ヴァンが困惑を露わにした。
「座れ。てめぇに聞きたいことがある」
もう一度言う。すると彼は渋々ながらも指先の場所へ腰を下ろした。
この住宅の広さを考えれば、寝室の平面積はたかがしれている。
二台のベッドの距離は大人の歩幅で二歩程度。対面で座してみると思いのほか近かった。
これなら表情の機微まで読み取れる。下手な誤魔化しもできないだろう。
アーロンはやや前屈みになり、開いた膝の上に指を組んでどっしりと構えた。
上目で見据える眼光は相手を射殺してしまいそうに強い。
「何を……だ?」
ヴァンにとっては急変した以外の何物でもないはずだ。緊張からか唾を飲み込む音がする。
「凄いとか良かったとか、そういうのは聞き飽きた」
そんな中でアーロンが静かに口を開いた。
「舞台全体のことじゃねぇ。オレがソロで踊ってるのを見てどう思った?」
使い込まれて擦れた床板には、その問いだけが落とされた。
「一番の見せ場だ。何も感じなかったわけじゃねぇだろうが。はぐらかすつもりかよ」
追い詰めて退路を塞ぐ。
答えを引きずり出すまで寝かせるつもりはないと、暗に睨みを利かせてみせた。
ヴァンは何度か瞬き、更に数拍をおいてから気まずそうに視線を彷徨わせ始めた。
「……あれは上手く言葉にできねぇ」
「体裁なんて必要か?そのまま曝け出せばいい」
胸元を握り締めながら口を濁す様はどことなく苦しげだった。嘘偽りがないことは一目で分かる。
それでも追及を緩める気はなかった。ヴァンに対しては多少の強引さが必要だと、これまでの経験から学んでいる。
いつだってそうだ。アーロンとの付き合いにおいて、この男は自分の欲を優先させようとはしない。
そのくせに脇が甘いせいで、簡単にその心中を察することができてしまう。
「無茶振りしやがって……無理なんだよ。思い出すと胸が焼かれたみたいに息が詰まる。感情が……持っていかれそうになる」
ヴァンの声は微かに震えていた。より強く胸元を握り締め、床の一点を見つめ続けている。
「観客は俺だけじゃなかったのに、錯覚しそうだった。お前が誰の為に気迫の演舞をしているのかって」
無理と言いながらもひとたび唇が動き始めてしまうと、それを皮切りに切々とした言の葉が紡ぎ出されていく。
顔を伏せてしまった男の胸中は、込み上げてくる想いでいっぱいなのだろう。
アーロンはその独白を黙って聞いていた。
嵩を増した心の器はすでに上限いっぱいだと目測をする。
そして、それが溢れ出してしまうのを待っている。
「……違う、しそうだったじゃない。ほんの一時でもそう思っちまった」
あと、少し。まるで懺悔のような一滴。
「だから、嬉しかった。愛おしいだとか見惚れていたいとか、気持ちの収拾が付かなくなって……」
もう、寸前。最後の一滴が満杯の器に静かに落ちていく音がする。
「──あっ」
同時にヴァンがハッと顔を上げ、口元を片手で覆った。
彼にとっては失言だったのだろう。けれど、一度溢れてしまったら再び隠すことなどできはしない。
吃驚した瞳が相対している青年に向けられ、ようやく互いの視線がぶつかった。
「届いたかよ?オレの執心ぶりが」
アーロンは一瞬だけ不敵に口角をつり上げた。ようやく引きずり出してやったと言わんばかりに。
彼は勢いよくベッドから立ち上がり、ヴァンとの距離を詰めた。
「錯覚なんかじゃねぇ、自惚れろ。オレはあんたに向けて踊った。あの舞台を一番見て欲しかったヤツの為に」
目を丸くしたまま固まっている男の頬を両手で挟み、強引に上を向かせる。
見下ろした前髪の先がヴァンの額にさらりと触れた。
「響いたかよ?本音を吐露するのが止められないくらいに」
自発的に声を塞いだ手を引き剥がし、露わになった唇を親指の腹でやんわりとなぞってみる。
「そ、それって……」
その感触でヴァンの肩が小さく跳ねた。
アーロンからの本気は確実に伝わっている。硬直が解けた顔にはそんな表情が浮かんでいた。
「分かってただろ。オレはあんたと違って一切隠してねぇからな」
「……ずっと半信半疑だったんだよ。しょうがねぇだろ?お前、気まぐれなヤツだし」
近すぎて視線を外すことが難しい状況になり、ヴァンは若干いじけた素振りをみせる。
「俺は、その、惚れてる……とか、言うつもりなんてなかっ……」
これを放って置いたら延々と愚痴を吐きそうな予感がする。
そう思ったアーロンは素早くキスを落として語尾を封じにかかった。
表面が触れるだけのそれは鳥が啄むかのように軽い。
「お、お前!?」
ヴァンは反射的に腰を浮かして離れようとしたが、アーロンが腕を伸ばす動きの方が速かった。
起立しかけた男の身体を引き寄せて抱きしめる。
咄嗟のことで両手が宙ぶらりになったヴァンは支えを失い、アーロンが少し体重を掛けただけで容易くベッドの海に沈み込んだ。
「言わねぇなら引きずり出してやるまでだ。くくっ、オレの勝ちだな」
「……勝手に勝負事にしてんじゃねぇ」
スプリングが軋む音に重なるのは、戯れを含んだ短いやり取り。
ヴァンは本音を吐露してしまった羞恥を引きずりながらも、戸惑い慌てふためくのを止めた。
アーロンに組み伏せられたことが、彼の想いを受け止める最後の一押しになったのだろう。
静かな苦笑を漂わせた眼差しが、今度こそ彼自身の意思で相手へと向けられる。
それに惹きつけられたアーロンが再び唇を落としても、過剰な反応はなく大人しかった。
それならば、もっと欲しくなる。一度味わってしまえば、より大胆に貪り尽くしたくなる。
そんな欲情に囚われている青年の背中へ、押し倒された男の両腕がやんわりと回された。
彼が誘引するような仕草を見せたことで、ベッドの上の空気は一気に高揚した。
深く絡み合う舌先が湿った音を口内に響かせ、聴覚を甘く刺激する。
ヴァンの喉元にひとすじの唾液が伝い流れる様は、やたらと艶めかしかった。
ふと、熱を帯びて荒くなっていく吐息の隙間で彼が囁いた。
「……勝ち逃げは認めねぇからな」
牽制なのか挑発なのか、一時離れたアーロンの下唇に小さく噛み付いてくる。
「はっ、上等だぜ」
ほんのわずかな痛覚ですら快感だ。夜の寝室に黄金の瞳が爛々と輝いた。
※ ※ ※
カーテン越しの陽光を受け、部屋の中に朝の気配が滑り込んでくる。
目を覚ましたヴァンは、古びた天井を見つめながら昨夜のことを思い出していた。
お互いに素直な性格ではないので、身体言語で想いを確かめ合う方法が手っ取り早い。
とは言え、後々を考えればキスまでで抑えられて良かった。
「……危ねぇ、流されちまうところだった」
嬲り合っていたアーロンの唇は、いつの間にか耳元から首筋を辿っていた。
同時に衣服の中へ手が滑り込んできて、荒々しい指先に素肌が浸食されていく。
そこまできて、さすがにマズいと思った。
アーロンが主役の公演はまだしばらく続く。連日舞台に立ち続けるのだから、十分な睡眠は鉄則だ。
彼の昂ぶりを押さえ付けるのは酷だったが、何よりも体調面の心配が先に立つ。
本音を言えば、ヴァンの方とて身体は火照っていたが、心を鬼にして『待て』と睨め付けた。
強引に両肩を掴み、腕力に物を言わせて彼の身体を引き剥がす。
「ヴァン!てめぇ……っ!?」
刹那、アーロンは烈火の如くの憤りを見せた。
だが、すぐに抑制の意味を理解したのだろう。
まるで獣の如く歯を噛みしめて、情欲を払うかのように大きく頭を振った。
「ふぅ……クソが。生殺しじゃねぇかよ」
息を整え心身を落ち着けようとしている彼の声を聞き、ヴァンは心苦しい顔で笑った。
「悪ぃな、アーロン」
まだ熱っぽさを残したままの顔へ片手を伸ばす。
謝罪を込めて頬をひと撫でしてみると、彼はそれで一応は納得してくれた。
覆い被さっていた身体を起こしてベッドの脇に腰掛ける。
「……二度目の『待て』はないからな」
ふて腐れてそっぽを向いてしまった声には、あからさまな恨みがましい響きを感じる。
そんなアーロンに対し、ヴァンはお詫びを兼ねた甘い餌を差し出した。
「続きはお前が無事に千秋楽を終えて事務所に戻ってきてからな。それでいいだろ?」
「その言葉、忘れるんじゃねぇぞ」
すると、彼はすっくと立ち上がり自分のベッドへ勢いよく全身を投げ出したのだった。
回想を終えたヴァンは、仰向けのまま首だけを横に向けた。
アーロンはまだ夢の中のようで、毛布に包まった赤い頭は微動だにしなかった。
昨夜は自分の方が先に寝入ってしまったらしく、彼がすぐに眠りにつけたのかは分からない。
それでも現在はしっかりと熟睡をしているので、ホッと胸をなで下ろした。
「……よく寝てんなぁ」
視線は留めたまま、ゆっくり上半身だけを起こして笑みを浮かべる。
と、その時。
アーロンの枕元に置いてあるザイファから、アラームとおぼしき音が鳴り始めた。
「あ~、うるせぇ」
彼はすぐに反応を示し、かったるそうに頭を動かした。
しかし、アラームを止めるやいなや無造作にザイファを放り投げ、再び寝床に潜り込んでしまった。
それと同時に、ごとり、と堅い物が床に落ちる音がした。
「はぁ、何やってんだか」
ヴァンはベッドから這い出して、勢い余って転がり落ちたザイファを拾ってやった。
「あっ、これ前も付けてたよな」
手の中で蒼い光を煌めかせている意匠には見覚えがある。
庭城で会った時にも、アーロンはこのカバーを装着していた。
あの時はほんの一瞬だけだったので、後になってから見間違いの可能性が頭に過った。
しかし、それは杞憂で終わる。このデザインは確かにヴァンがアーロンに贈ったものだ。
「もしかして、煌都に来てからずっとこれなのか?」
ヴァンは手元のザイファと持ち主を交互に見やる。
互いの想いを確かめ合った後ではそうとしか思えなくなってしまい、一ヶ月前よりも嬉しさが募って口元が綻ぶ。愛おしくて堪らなかった。
「こいつのデレは分かりにくい……おっと?」
またアラームが鳴り出した。どうやら寝坊の防止機能が設定してあったらしい。
アーロンは小さな唸りを発し、毛布の中から腕だけを伸ばして音の発信元を探している。
さっさと起き上がってしまえば良いものを、未練がましく至福の温もりにへばりついていた。
見かねたヴァンは、一つ息を吸い込んでから声を張る。
「起きろ!今日も公演があるんだろ」
一緒に勢いよく毛布を引き剥がすと、彼はようやく上半身を起こした。
「あぁ?」
アラーム音とヴァンの声が同時に聞こえたので違和感を覚えたのだろう。
寝起きも相まった顰めっ面で、ベッドサイドに立つ男を見上げた。
「ったく、扱いが雑すぎんだろ……床に落ちてたぞ」
小言を加えてザイファを差し出し、受け取ったアーロンがすぐさま音を止める。
「知らねぇよ」
「何言ってんだか。お前が放り投げたんだろうが」
まだ寝ぼけ眼だが、取りあえずは起きたみたいだ。
そう判断したヴァンは、一晩借りたベッドを整えようと彼に背を向けた。
「今朝はたまたまだ。いつもなら一発で起きてる」
「そうかよ。ま、舞台絡みだったら寝坊とかしなさそうだな、お前は」
短いやり取りの真っ只中で、アーロンの視線が背中に注がれているのを感じる。
「──もう帰んのか?」
丁度ベッドを綺麗にし終わった時、明らかに不服そうな声が放たれた。
「元から日帰りのつもりだったしな。そっちも準備があるだろ?」
寝る前に脱いだ上着を羽織ってから振り返る。案の定、アーロンはむすっとしていた。
「泊めてくれてありがとな。残りの公演も頑張れよ」
そんな彼に近づいて寝乱れた赤毛をくしゃりとかき混ぜる。
普段なら真っ先にウザがられる行動だが、なぜか今は不機嫌ながらも牙を剥かずにいてくれた。
「そんじゃ、行くからな」
「……おう」
ヴァンは別れの挨拶をして寝室のドアを開けた。
「あ、そうだ」
しかし、部屋を出る寸前になって言い残していることがあったのを思い出す。
「お前さ、そのザイファのカバー。煌都限定じゃなくたっていいんだぜ?」
意地悪げにくつくつと笑いながら、アーロンの手元を指差してみる。
「はっ!?」
昨夜は彼のいいようにされてしまったので、少しくらいは仕返しをしたっていいだろう。
唖然として固まる恋人の顔は、煌都での良い思い出となるに違いなかった。
寝室に一人残されたアーロンは、しばらくの間そのショックから浮上できなかった。
ザイファを握り締めたままベッドに座り込んでいる。
彼にしてみれば、とんでもない失態だった。
煌都に帰ってきてからおよそ二ヶ月。この蒼いカバーが日常的になっていたせいですっかり失念していた。
贈り主であるヴァンには知られたくない一心からだったのに、これでは全く意味がない。
「あの野郎、一体いつから」
と疑問を口にしつつも、よくよく思い返してみれば、相手が気が付くかどうかの問題ではなかった。
昨日ヴァンと待ち合わせをした時から、アーロンは至って普通にザイファを操作していた。
だから、自分から見せびらかしていたも同然だった。
「いや、昨日じゃねぇな。庭城の時からか」
更にもう少し記憶を遡ってみてから考えを改める。
「はぁ……マジかよ」
一ヶ月も前からヴァンに知られていたという事実を突きつけられ、地の底まで落ちていきそうな深い溜息を吐いた。
片手で顔を覆って俯くと、じわじわと熱が集まってくるのを感じる。
ヴァンが最後までこの話題を振ってこなかったのは、彼のさり気ない優しさだったのか。
それとも、意図的に隠していた切り札だったのか。
今となっては真意のほどは解らない。
「年上の余裕ってやつか?チッ、面白くねぇ」
手の中にある蒼色へ苦々しい視線を注ぎながらも、指先はあくまで愛おしげに表面を撫でる。
まだ閉まったままのカーテン越し、朝の陽光はだいぶ明るくなってきた。
それを受けて柔らかな光沢を放っている蒼いカバーは、戯けて笑っているようにも見えた。
「オレが向こうに戻ったら覚悟しとけよ。タダじゃ置かねぇからな」
アーロンは自他共に認めるほどの負けず嫌いな男だった。
朝の弌番街は夜の盛りとは違った賑わいがある。
まだ観光客の出が少ない代わりに、住民たちが忙しなく往来をしていて生活感に溢れていた。
ヴァンは散歩がてらにその雰囲気を堪能し、途中で朝食用の軽食と飲料を購入した。
運転中に片手で食べられる類いのものだ。
その足で昨日から利用している駐車場へ向かう。
「アーロンの奴、怒ってんだろうなぁ」
澄んだ朝気の中で発したのは、言葉の割には明るい独り言。
先刻の彼を思い出せば自然と頬が緩んでしまう。
不服そうな顔をしながらも頭を触らせてくれたのは、別れが名残惜しかったからに違いない。
最後に固まったのは、たぶん──あれが馴染みすぎていて替えたこと自体を忘れていたのだろうと推測した。
「こっちにだって一応は年上の矜持ってもんがあるんでな」
ヴァンの方とて、本当は後ろ髪を引かれる思いだったのだ。
それでも、去り際だけは未練たらしい真似をしたくなかった。
アーロンに言ったら笑われるかもしれないが、少しくらいは格好良い男でいたいのだ。
「あいつが戻ってきた時を想像すると怖い気がするんだが……ま、なんとかなるだろ」
やはり、言葉の割には楽しそうな声。
足取りも軽やかな道程の終点はもう目の前だった。
上着のポケットに手を突っ込んで車のキーを確認する。
そして、道の角を一つ曲がって駐車場を視認した途端、「やっぱりな」という表情で肩を竦めた。
青い愛車の横で、同系色の衣服を纏った黒髪の女性が手を振っている。
「よぉ、どっかで顔を出してくるとは思ってたぜ」
「あたしがお願いしたんだから、見送りくらいはするわよ」
黒月の令嬢はヴァンの顔をじっと見つめ、満足げに小さく頷いた。
「ヴァンさん、なんだかご機嫌ね。良いことあった?」
「……分かってて聞くなっつーの」
ヴァンは運転席側のドアを開けて、先に軽食が入った紙袋を助手席の上に置いた。
「そんなに聞きたきゃ、あいつの方に聞けよ。放ってきたからご機嫌斜めだろうけどな」
そして、そそくさと自分も車に乗り込んでドアウィンドウを開ける。
どこをどう取っても照れ隠しにしか見えない。一連の動きを眺めていたアシェンが、くすくすと声を立てて笑った。
「な、なんだよ?」
窓から顔を出して怪訝そうな上目遣いすると、アシェンは急に居住まいを正した。
「ねぇ、ヴァンさん。改めて、アーロンのことをよろしくね。あいつはまだまだ良い男になるわよ」
そして、朗らかに微笑む。家族とも呼べる彼がようやく手に入れた恋人へ向けて。
「おい、おい……まだ打ち止めじゃねぇのか?勘弁してくれよ」
ヴァンはその確信めいた台詞を聞いて、苦笑どころか冷や汗が出てきそうになった。
一体どこまで惚れさせれば気が済むんだ、と末恐ろしくなる。
「あたしの自慢の幼馴染みだもの、当たり前じゃない」
そんな男の気持ちを知ってか知らずか、アシェンは得意げに腰に手を当ててみせた。
彼女からの見送りの言葉は、それが最後だった。
昨日はわだかまりを抱えて辿った道を、今は軽快な口笛を吹きながらハンドルを握っている。
押し隠していた気持ちを吐露したことで、ヴァンの表情は晴れやかになっていた。
青い空と柔らかな太陽のお陰で、本日もドライブ日和だ。愛車もさぞ喜んでいることだろう。
「帰り道はご機嫌だなんて、あのガキがへそを曲げちまいそうだ」
彼はそう言いながら暢気に運転していたが、唐突にあることを思い出した。
もはや大したことではないのだが、ずっと小さな引っかかりを覚えていた疑問。
庭城での別れ際、アーロンは口にしかけた言葉を飲み込んだ。
あの時、彼は何を言いたかったのだろうか?
「あれって、やっぱり……」
しかし、昨夜のアーロンの言動を思い返すと、答えは意外にすんなり落ちてきた。
「あいつ、俺を誘いたかったんだな」
声に出してみた途端、無性に彼を可愛く感じてしまって笑いが込み上げてくる。
「いつもの押しの強さはどこへ行っちまってたんだか」
首都イーディスまでの帰り道はまだ始まったばかり。
けれども、彼のことを考えている時間は本当に楽しくて、この距離さえも瞬く間に走り終えてしまいそうな気がした。
2024.05.01
イースⅨ
リクエスト(アドルと赤の王の話)の作品です。
アドルが二人で冒険する夢を見て嬉しそうにしている話です。
【文字数:3000】
瑞々しい草木が生い茂る森の中、ふと足を止めて空を仰ぎ見る。
枝葉の隙間から覗く爽やかな蒼天は快晴の様相をしていた。
「ここを抜ければ視界が開けそうだ」
アドルは地図を広げながら薄く滲んだ額の汗を拭った。
しかし、立ち止まったのは一時だけですぐに動き出す。
すでに数時間は歩いているが疲労の色は見えなかった。
まだ見ぬ景色を想像するだけで、自然と心が踊り身も軽くなる。
利便性を求めて描かれた紙上の世界を眺めるだけでは、彼の好奇心と探究心は満たされない。
まだ道のない大地に足跡を残していくことの、なんと楽しいことか。
「──あっ」
しばらくすると、予想通りに前方が淡く白んできた。
小走りで森を抜けきり、途端に眩しい陽光の出迎えを受けて目を細める。
「やっぱり!ここなら、この辺り一帯を見渡せそうだ」
森の出口を境にして風景がガラリと変わった。
ゴツゴツとした岩肌が露出し始め、植物は草木がその隙間から生えている程度だ。
足元は緩やかな傾斜を含んだ上り坂で、全体像で言えば小高い岩場のような場所だった。
アドルは嬉々としながら歩む。
道中、遠慮がちに顔を覗かせている小花たちを目にしては、自然と口元が綻んだ。
だが、そんな矢先。明るかった表情が一変した。
「これは……」
数歩先の地面に大きな亀裂が走っている。
慎重に近づいて裂け目の状態を確認した後、彼は落胆の息を吐いた。
深さはそれ程でもないのだが、なにぶん幅がある。
例え全力で助走したとしても、飛び越えることは不可能だろう。
周囲を見渡してみたが迂回できるルートはなく、完全に手詰まり状態だった。
「はぁー、あともう少し登れば辿り着けそうなんだけど」
二度目の吐息は、残念がりつつもどこか苦笑交じりだった。
未知の領域を探索していれば、こんなことは珍しくもない。
アドルの冒険家魂は人並み外れているが、だからといって無謀な命知らずではなかった。
もう一度辺りを見回してから考え込む。
「ここを越える方法は……なさそうか」
現状ではどう頑張っても妙案が思い浮かばない。
前進する手段がなければ諦めるほかはなく、彼は名残惜しそうに道の先を見つめて踵を返そうとした。
と、その時。
「手段ならあるじゃないか」
不意にどこか馴染みのある声が聞こえてきた。
勢いよく振り返ると、十歩ほどの距離を隔てた所に一人の青年が佇んでいた。
やや陰のある衣服と鮮やかな赤い髪。片手を腰に当てた立ち姿は、穏やかな表情で相手を覗っている。
「君は……」
アドルは目を丸くした。
ここにあるのは大自然の営みだけで、今の今まで人の気配は全く感じなかった。
あまりに唐突な登場の仕方に数秒ほど声を失ってしまう。
けれど、唖然とした理由はそれだけだった。
「あまり驚かないんだね」
青年が意外そうに小首を傾げると、
「いや、さすがに驚いたよ。誰もいないと思っていたし」
アドルは可笑しげに肩を揺すった。
「でも、君は僕だからね。赤の王」
不可解な状況のはずだが、『なぜ?』よりも『嬉しい』が先に立つ。
自らの姿と対峙した瞬間、アドルの頭の中では全てが繋がった。
この難所を超える手段は彼が持っている。
だから二人で共に行けばいい。
前進できると分かったことで、心には再び明るい灯が宿った。
この道を登り切った先に広がるであろう、初めての眺めを想像するだけで居ても立ってもいられない。
今にも走り出しそうに煌めいた瞳が、真っ直ぐに赤の王へ向けられた。
彼はまるで鏡映しのごとくに同じ感情を浮かべていて、それが何とも言えずに胸をくすぐる。
──さぁ、行こう!
アドルは出立の合図とばかりに、片方の腕を彼へと伸ばした。
まさしく以心伝心。タイミングを計る必要はなかった。
赤の王の脚が力強く地面を蹴る。
瞬く間に至近距離まで来た彼は、アドルの腕を掴んで身体ごと引き寄せた。そのまますぐに跳躍の体勢に入る。
「飛ぶぞ!」
「ああ!」
岩場の一体に凜とした声が響き合う。
刹那、黒い影が一閃。
正面にそびえる岩壁へ突き刺さった。
それが支点となり、瞬速で大きく口を開けた亀裂の上を飛び越える。
晴れ渡った空の下、鋭利な影はどこまでも楽しげな赤と漆黒を纏わせていた。
記憶はそこまでだった。
目を覚ましたアドルは、天井を見つめたまま残念そうに呻いた。
「なんだ……夢か」
せっかくの盛り上がりだったのに、もう終わりだなんて白状にも程がある。
身体的な寝覚めは悪くないのだが、気持ちの面では少しばかり消化不良気味だ。
彼はベッドから起き上がり、身仕度を整えながら今の夢を反芻してみた。
「どうせなら、一緒に上まで行きたかったな」
二人で見る岩場の頂からの風景は、きっと素晴らしいものに違いない。
それを堪能しながら会話をすれば、きっと際限なく弾んで広がっていくことだろう。
「本当に二人で冒険できたら、どんなに楽しいんだろう?」
アドルは胸元に手を当ててゆっくりと目を閉じた。
赤の王は確かに『ここ』にいる。
彼が歩んだバルドゥークでの冒険の軌跡は、五感や感情の全てを内包して共に存在している。
「……君もそう思うだろ?」
問いかけの形をした確信を言葉にすると、思わず笑みが溢れてくる。
そんな中、不意に寝室のドアを叩く音が聞こえてきた。
「おい、アドル!起きてるかー?」
長年の相棒であるドギの声だ。
「あぁっ、ごめん。すぐ行くよ」
内なる世界に没頭していたアドルは、ハッと我に返ってドアを開けた。
「ははっ、寝坊でもしたか?珍しいな」
大きな体躯を見上げると、戯けた表情が覗き込んでくる。
「まぁ、そんな所かな。ちょっとね、わくわくする夢を見たんだ」
アドルは明るい口調で応答をしながら寝室を出た。
ドギは厨房で使用する食材を運んでいる途中だったらしく、小脇には新鮮な野菜が入った大きな籠を抱えている。
立ち止まっていた彼が歩き出したので、アドルも横に並んで動き出す。心なしか足元が浮かれ調子になっていた。
そんな様子を見たドギは、さり気なく話題を振った。
「お前さんがそんな風に言う時はよ、おおかた冒険絡みだろ?」
きっと夢の中身を話したいのだろうと思ったのだ。
「さすがはドギ!そうなんだよ、赤の王と二人で難所を越たんだ!」
すると、アドルはまるで子供のように瞳を輝かせて食い付いてきた。
「ん?お前さんが二人ってことか。そりゃ、また……」
実際の所、バルドゥークに来てからはアドルが二人いた訳だが、彼らが連れ立って探索をすることなどなかったはずだ。
ドギはわずかに天を仰ぎながら、ぼそりと呟いた。
「そいつは、骨が折れそうだなぁ」
彼らと共に冒険をする自分を思い浮かべた途端、自然と苦笑いの顔になってしまう。
賑やかで楽しそうではあるが、色々と大変そうな気がする。上手く言葉にはできないが、それはもう色々と。
「今、何か言ったか?」
それは本当に小さな吐息のようで、肩を並べるくらいの距離でも聞き取れないものだった。
「いや、何でもねぇよ」
覗うような眼差しを受けたドギは、自分よりも低い位置にある赤い頭を大雑把にかき混ぜる。
軽く誤魔化してしまう形になったが、ご機嫌な相手に対してわざわざ水をかける必要はないだろう。
「楽しい夢が見られて良かったな」
ドギは白い歯を見せながら軽快に笑う。
「あぁ!でも、良いところで目が覚めてしまってさ。続きが見られたら嬉しいんだけどね」
すると、アドルは小気味良く応じた直後に少しだけ不満を露わにした。
もう一人の自分と一緒に冒険をしてみたい。
彼と融合してからは心の片隅にそんな思いが住み着いていた。
そんな現実では為し得ない願望があったからこそ、赤の王は夢となって現れ出たのかもしれない。
いつかあの冒険の続きを。
アドルはそう願わずにはいられなかった。
2025.08.31
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