煽り上手は地に潜る
恋人設定・2025年バレンタイン
アーロンにチョコを渡したいヴァンが墓穴を掘りまくっている話です。
【文字数:5700】
胡乱げな雰囲気が漂うこの地下通路も、今やすっかり慣れた道程だ。
迷いなく地上へと向かい、表と裏を隔てる重いドアを開け放つ。
「はぁ~、やっぱ外の空気の方が美味いぜ」
アーロンが人目を憚らずに大きな背伸びをする。
新鮮な外気が体内へ流れ込み、一気に緊張感が抜けていった。
「そりゃ、そうだろ。いくら空調は整っているとはいえ、地下は地下だしな」
彼に続いて外に出てきたヴァンは、眩しそうに目を細めて空を仰ぎ見る。
「あぁ、もうこんな時間か。あそこにいると時間の感覚が鈍っちまう」
男の瞳に映っているのは、茜色から群青色へと変わる夕暮れ時のグラデーション。
地下鉄を利用して駅に降り立った時分、まだ辺りは陽光に満ちていて明るかった。
川辺から流れてくる風は冷たさを増し、明らかな時間の経過を感じる。
黒芒街に続く道はいくつもあるが、ヴァンたちはここ──リバーサイドを利用することが多かった。
「で、この後はどうすんだよ?所長さん」
心地良い川のせせらぎを耳に流しながら、二人はおもむろに歩き始めた。
「今日のところはこれで十分だろ」
彼らが黒芒街を訪れた理由は裏解決業務の一環で、とある依頼の情報収集を兼ねた巡回だった。
多少の収穫は得たが、それ以外はヴァンの嗅覚に引っかかるような事案もなかった。
そうとなれば、本日の業務は終了の方向だろう。
「おっ、そんじゃお開きか?」
アーロンはパッと顔を輝かせ、胸元で掌に拳を打ち付けた。
今すぐにでもどこかへ遊びに行ってしまいそうな勢いだ。
「あぁ、そうだな」
ヴァンは所長の顔で頷いた。
だが、橋の袂まで来たところで急に足を止めてしまう。
「さてと、今の時間だったら……」
助手の方はといえば、鼻歌交じりで今夜の予定を立てようとしていた。
彼は遊び仲間たちと連絡を取るつもりで、衣服の中からザイファを取り出す。
そこで、ようやくヴァンが隣を歩いていないことに気がついた。
彼の足はすでに橋の上を数歩進んだ辺り。
立ち止まって振り返ると、ヴァンがどこか落ち着きのない様子で視線を彷徨わせていた。
「ん?まだこの辺に用があるのかよ?」
「い、いや……用はねぇ」
訝しげな声を投げかけられると、彼は慌ててアーロンの傍らに駆け寄った。
橋へ上がった途端に夜を誘う冷たい風が強く吹き抜けていく。
それを横顔に受けたヴァンは小さく頭を振った。
結局は重い腰を上げることが出来なかったのだからもういいか、と。
諦めて業務を開始したはずなのに、いざ終了となったら俄に未練が首をもたげ始めた。
──本当は彼に渡したい物がある。
中央を流れる川を渡りきってしまえば、地下鉄の駅はすぐそこだった。
ヴァンは駅名が刻まれた建物を見据えて再び歩みを止めた。
(何やってんだろな……俺は。でも)
どんなに自嘲してみても、一度そう思ってしまったら断ち切れそうにない。
彼は深呼吸をしてた後、意を決して声を発した。
「アーロン、やっぱもうちょいこの辺をブラついてくる」
「はぁ?よく分かんねぇ野郎だな」
助手の反応はさっきよりも険しかったが、それはほんの一瞬だった。
彼の脳内はこれからの楽しい予定で大半が占められているのだろう。
「悪ぃな。それと……」
それを遮ってしまうことを詫び、更に言葉を続ける。
「事務所の俺の机。一番下の引き出しに黒い箱が入ってる。面倒でなければお前が持っていけ」
なんとか一気に言い終えた。
「俺は夜まで戻らねぇからな」
それから、軽く息吐いて語尾を付け加える。
ヴァンにとってはこれが限界だった。
唖然として立ち尽くすアーロンをその場に残し、速歩で来た道を戻っていく。
どこまでも、どこまでも自分は不器用だ。
一刻も早く彼の視界から姿を消してしまいたかった。
失態と言えばそうなのかもしれない。
アーロンは逃げるように去って行ったヴァンを止める機を逃してしまった。
追いかけて問い詰めてやろうかとも考えたが、首都生活が長い彼の方が地の利は上だろう。
悔しいけれど、本気で逃げられたら捕まえる自信はない。
「ったく、なんなんだよ」
彼は苛立たしげに片手で頭を掻きむしり、駅の構内へ続く階段を下りた。
時刻表を眺めながらヴァンの言葉を反芻する。
あの男は何かを渡したがっている。しかも、さり気なく期限を設けている。
夜まで戻らないという宣言は、それまでに持っていけということなのだろう。
「……そんなに直接渡せねぇブツなのか?」
改札口をくぐると同時に、列車の到着を知らせるアナウンスが響き渡った。
ヴァンにあそこまで意味深げな言動をされてしまっては、遊びに繰り出すことなど二の次になる。
アーロンはザイファをポケットに戻し、ホームに到着した列車へ乗り込んだ。
車内は空いているが座る気分ではなく、ドアの脇に身体を預ける。
薄暗い壁が流れるだけの車窓は単調で、時の流れがやたらと遅く感じられた。
いくつかの駅を通り過ぎて旧市街に到着する頃には、彼の心中は落ち着きを取り戻していた。
自然と勇み足になる下肢を宥め、最短距離で事務所へと向かう。
いつの間にか陽は完全に落ちていて、街は夜の様相を醸し出していた。
モンマルトの賑わいを横目に階段を上ると、事務所の中には人の気配があった。
きっと仲間内の誰かだろうと判断して、遠慮なくドアを開ける。
「お帰りなさいませ。アーロン様」
淑やかな声に迎えられ、彼は短く応じてからぐるりと室内を見回した。
「そっちも巡回は終わってんだろ?残業かよ」
「少しデータの整理をしておりました。そちらの方は現地解散だったのですか?」
リゼットはソファーに座ってノート型端末を操作している所だった。
戻ってきた同僚が一人だったことに対し、少し意外そうな素振りを見せる。
アーロンはヴァンと二人で黒芒街へ足を伸ばしていたはずだ。
「あ~、そんなとこ……なんだけどな」
すると、青年は珍しく言葉を濁した。
その場で腕を組み、居心地が悪そうに靴先で床を鳴らす。
「何かあったのですか?」
キーボードを叩いていた綺麗な指が止まり、憂慮の眼差しがアーロンに向けられた。
「いや、あの野郎が急に妙なこと言いやがって。一番下の引き出しにある箱を持っていけだとよ」
彼はヴァンの机に近づきながら呆れたように肩を竦ませた。
「しかも、今日の夜までとかいう制限つきでだぜ?」
リゼットへの言葉の中に愚痴を紛らせ、腰をかがませて指定された引き出しを開けてみる。
「面倒くせぇことしやがっ……」
だが、そこで彼の唇が止まった。
中にはペンケースほどの小箱だけが置かれている。
他には何もなく、まるで引き出しに落ちる影の中へ溶け込んでしまいそうだった。
上品な黒い包装紙に包まれているそれには、控えめな焔色のリボンが添えられている。
アーロンは無言のまま、主張をしたがらない贈り物を丁寧に救い上げた。
最初は驚きを露わにしていた瞳が、少しずつ柔らかさを帯びてくる。
これが何を意味するのか、今日という日の趣向をもちろん彼は知っている。
ヴァンがわざわざ期限を設けたことにも頷けた。
「アーロン様?」
急に言葉を発しなくなった同僚を心配したのか、リゼットが端末を閉じて立ち上がった。
そこで彼が持っている物が目に留まる。
「あ、そちらの品は……」
「お前、知ってんのかよ?」
彼女の意外な反応に、アーロンは間髪を入れずに問い返した。
「はい、四日前のことになりますね。ヴァン様がそちらの品を前にして項垂れておられるのを見てしまいました」
リゼットは当時のことを思い出しながら微笑んだ。
「もちろん故意ではなかったのですが。ヴァン様は『これは自分用に買ったチョコ』だと、慌てておっしゃっいました。ふふっ……やはりアーロン様宛だったのですね」
察しの良い彼女はすぐに気がついたが、その時はヴァンの苦し紛れの誤魔化しを尊重する形を取ったのだという。その答え合わせができたとばかりに嬉しそうな様子だった。
「……なにやってんだよ。あのオッサン」
リゼットの説明を聞き終えたアーロンは、それで全てを理解した。
先刻の別れ際での、ヴァンの不可解な言動と不器用な心根を。
だから、どうしたって顔が緩んでしまうのが止められない。
心の奥底から沸々と愛おしさが溢れ出してくる。体温が上昇して贈り物を受け取った手に汗が滲んだ。
今すぐあの男に会いたい。
この一分一秒ですらも惜しいくらいに全身が渇望している。
彼は開けっぱなしの引き出しを勢いよく閉めて、真っ直ぐに戸口へ向かった。
「アーロン様。どうかお手柔らかにお願いいたしますね」
まるで緋色を宿したような後ろ姿を、リゼットは微笑ましく見送る。
やはり察しの良い彼女のこと、この先のヴァンの身を案じてつい口添えをしたくなってしまった。
事務所を後にして廊下を駆け下りる。
通りに出たアーロンの身体を一陣の夜風が吹き抜けていった。
冷たさは瞬きの一時だけ、冬の寒空でも心身は熱いくらいだ。
彼はポケットからザイファを取り出し、代わりに大切な物を慎重にしまい込んだ。
画面の中の時計を確認すると、『今日』にはまだまだ余裕があった。
「逃がさねぇぞ、ヴァン。受け取った報告はきっちりてめぇの目の前でしてやるぜ」
まず、手始めに本人への通信を試みる。
繋がれば好運、そうでなければアーロンなりの人脈を駆使して探し出すまでだ。
駅の前では諦めてしまったが、今は一粒たりともそんな感情は芽生えてこなかった。
あの時は彼が追いかけてこないことを心の底から安堵した。
例え追ってきたとしても、本気で相手を煙に巻くつもりではあったのだが。
「……夜っていつからいつまでだ?」
カウンター席の最奥には鬱々とした男が一人。
もう数えるのが面倒になるくらいの頻度で溜息を落としていた。
注文したグラスの中身も、最初に口を付けただけで放置されている。
「もう、ヴァンちゃんったら。アーロンちゃん相手に一体何をやらかしたのよ?」
入店してからこの方、彼は一向に浮上する兆しがなかった。
ベルモッティはそんな常連客を静観していたのだが、ついには痺れを切らして声を掛ける。
「な、なんであいつの名前が出てくるんだよ?」
俯いていたヴァンが反射的に顔を上げた。
この店の主は色恋話の類いが大好きだ。そのせいか、ヴァンも恋人であるアーロンへの愚痴を零してしまったり、些細な相談をしてしまう時がある。
しかし、今夜はまだ彼の名前を出していなかった。
「いやぁねぇ~、それしかないじゃない。分かりやすいなんてレベルじゃないわ」
驚きを露わにした凝視を受け止め、ベルモッティは戯けながらひと笑いした。
それからすぐに目元を緩ませて『聴く人』の顔になる。
「それで、何があったのかしら?」
ヴァンはしばらく逡巡していたが、やがてぼそぼそと口を動かし始めた。
当初はバレンタインデーだからといって、特別なことをするつもりなんてなかったこと。
しかし、次第に高まっていく街中の雰囲気に感化され、つい浮かれ気分でチョコレートを買ってしまったこと。
後になって冷静さを取り戻してしまい、頭を抱えるほどの羞恥が押し寄せてきたこと。
そして──そんな状態のまま当日を迎えてしまったということ。
彼はそこまでを一気に吐き出してから再び俯いた。
まだ続きがありそうだと判断したベルモッティは、黙って彼を待つ。
「別に渡せなくていいかって思ったんだけどな。けど、やっぱり……未練っつーか」
声はさほどの間を置かずに発せられたが、
「だから、机の引き出しにあるやつを持っていけとだけ伝えて逃げてきた」
今度は急に早口となり、大袈裟なくらいの勢いでテーブルに突っ伏してしまった。
「中身がチョコだなんて……言えるわけねぇだろ」
落ち込んでいる、はたまた自己嫌悪に陥っている。いくらでも表現の仕方はあるが、なかなかの重傷ぶりなのは誰か見ても明らかだ。
「はぁ、相変わらずの不器用さんねぇ。でも、ちょっと安心したわ。最初は大喧嘩でもしたのかと思ってたから」
全てを聴き終えたベルモッティは、頬に片手を添えて胸をなで下ろした。
「ところで、それはいつ頃の話なのかしら?」
「夕方ぐらいだ」
問い掛けには、くぐもった答えが返ってくる。
店主は壁の時計に目をやりつつ、リバーサイドと旧市街の距離を考えた。
「それなら、そろそろお迎えの時間かもしれないわね」
伏せたままのヴァンの肩がピクリと小さく跳ねる。
「まさか、そんなわけ……っ!?」
その時、上着の中でザイファの呼び出し音が鳴り始めた。
飛び起きた勢いのまま、端末を取り出して着信相手の確認をしてみる。
「マ、マジか?」
「あら、出てあげないの?」
「いや、ちょっ、ちょっと待ってくれ」
あまりに急展開すぎる。ヴァンは少しばかり錯乱状態に陥っていた。
胸の鼓動が早鐘を打ち、額にはじんわりと嫌な汗が浮かぶ。
普段のアーロンであれば諦めるくらいの秒数が過ぎたが、それでも音は鳴り続ける。
「もう~!ちょっと貸しなさいよ。代わりに出てあげるわ」
「え?お、おい!」
見るに見かねたベルモッティは、半ば強引に端末を取り上げて応答ボタンを押した。
「はぁ~い、アーロンちゃん」
意図していなかった人物の姿が画面に現れ、アーロンは意表を突かれたのだろう。咄嗟に息を詰まらせた。
「ヴァンちゃんなら捕まえておいてあげるから、早くいらっしゃいな」
そんな若者へ向けて、ベルモッティは片目を瞑りながら援護射撃をしてみせる。
すると、アーロンは狙いが定まったと言わんばかりに目を煌めかせて頷いた。
二人は幾度か言葉を交わし、やがてヴァンをそっちのけにした短い通話を終えたのだった。
カウンター席の最奥に鬱々とした男が一人──もとい、屍のような男が突っ伏している。
「ヴァンちゃんって、ほんと煽るのが上手よねぇ」
今回の一連の出来事について、ベルモッティの総括はしみじみしたものだった。
「しかも、アーロンちゃん限定だもの。あの子、嬉しくて仕方がないんじゃないかしら」
独り言にも似たそれは、テーブルに伏せた濃紺の頭にやんわりと降り注ぐ。
反応こそなかったが、実のところはヴァンの耳にはしっかりと届いていた。
ただ、墓穴を掘りすぎたせいで地上へ出てこられなくなっている。
自力で浮上できないほどの深い穴には、もはや優しいだけの慰めなど届きそうになかった。
それよりも、実力行使とばかりに彼を引っ張り上げてくれる存在の方が頼もしい。
今頃は嬉々としながらこの店に向かっているであろう、苛烈で強引なくらいの恋人の手が。
2025.02.24畳む
恋人設定・2025年バレンタイン
アーロンにチョコを渡したいヴァンが墓穴を掘りまくっている話です。
【文字数:5700】
胡乱げな雰囲気が漂うこの地下通路も、今やすっかり慣れた道程だ。
迷いなく地上へと向かい、表と裏を隔てる重いドアを開け放つ。
「はぁ~、やっぱ外の空気の方が美味いぜ」
アーロンが人目を憚らずに大きな背伸びをする。
新鮮な外気が体内へ流れ込み、一気に緊張感が抜けていった。
「そりゃ、そうだろ。いくら空調は整っているとはいえ、地下は地下だしな」
彼に続いて外に出てきたヴァンは、眩しそうに目を細めて空を仰ぎ見る。
「あぁ、もうこんな時間か。あそこにいると時間の感覚が鈍っちまう」
男の瞳に映っているのは、茜色から群青色へと変わる夕暮れ時のグラデーション。
地下鉄を利用して駅に降り立った時分、まだ辺りは陽光に満ちていて明るかった。
川辺から流れてくる風は冷たさを増し、明らかな時間の経過を感じる。
黒芒街に続く道はいくつもあるが、ヴァンたちはここ──リバーサイドを利用することが多かった。
「で、この後はどうすんだよ?所長さん」
心地良い川のせせらぎを耳に流しながら、二人はおもむろに歩き始めた。
「今日のところはこれで十分だろ」
彼らが黒芒街を訪れた理由は裏解決業務の一環で、とある依頼の情報収集を兼ねた巡回だった。
多少の収穫は得たが、それ以外はヴァンの嗅覚に引っかかるような事案もなかった。
そうとなれば、本日の業務は終了の方向だろう。
「おっ、そんじゃお開きか?」
アーロンはパッと顔を輝かせ、胸元で掌に拳を打ち付けた。
今すぐにでもどこかへ遊びに行ってしまいそうな勢いだ。
「あぁ、そうだな」
ヴァンは所長の顔で頷いた。
だが、橋の袂まで来たところで急に足を止めてしまう。
「さてと、今の時間だったら……」
助手の方はといえば、鼻歌交じりで今夜の予定を立てようとしていた。
彼は遊び仲間たちと連絡を取るつもりで、衣服の中からザイファを取り出す。
そこで、ようやくヴァンが隣を歩いていないことに気がついた。
彼の足はすでに橋の上を数歩進んだ辺り。
立ち止まって振り返ると、ヴァンがどこか落ち着きのない様子で視線を彷徨わせていた。
「ん?まだこの辺に用があるのかよ?」
「い、いや……用はねぇ」
訝しげな声を投げかけられると、彼は慌ててアーロンの傍らに駆け寄った。
橋へ上がった途端に夜を誘う冷たい風が強く吹き抜けていく。
それを横顔に受けたヴァンは小さく頭を振った。
結局は重い腰を上げることが出来なかったのだからもういいか、と。
諦めて業務を開始したはずなのに、いざ終了となったら俄に未練が首をもたげ始めた。
──本当は彼に渡したい物がある。
中央を流れる川を渡りきってしまえば、地下鉄の駅はすぐそこだった。
ヴァンは駅名が刻まれた建物を見据えて再び歩みを止めた。
(何やってんだろな……俺は。でも)
どんなに自嘲してみても、一度そう思ってしまったら断ち切れそうにない。
彼は深呼吸をしてた後、意を決して声を発した。
「アーロン、やっぱもうちょいこの辺をブラついてくる」
「はぁ?よく分かんねぇ野郎だな」
助手の反応はさっきよりも険しかったが、それはほんの一瞬だった。
彼の脳内はこれからの楽しい予定で大半が占められているのだろう。
「悪ぃな。それと……」
それを遮ってしまうことを詫び、更に言葉を続ける。
「事務所の俺の机。一番下の引き出しに黒い箱が入ってる。面倒でなければお前が持っていけ」
なんとか一気に言い終えた。
「俺は夜まで戻らねぇからな」
それから、軽く息吐いて語尾を付け加える。
ヴァンにとってはこれが限界だった。
唖然として立ち尽くすアーロンをその場に残し、速歩で来た道を戻っていく。
どこまでも、どこまでも自分は不器用だ。
一刻も早く彼の視界から姿を消してしまいたかった。
失態と言えばそうなのかもしれない。
アーロンは逃げるように去って行ったヴァンを止める機を逃してしまった。
追いかけて問い詰めてやろうかとも考えたが、首都生活が長い彼の方が地の利は上だろう。
悔しいけれど、本気で逃げられたら捕まえる自信はない。
「ったく、なんなんだよ」
彼は苛立たしげに片手で頭を掻きむしり、駅の構内へ続く階段を下りた。
時刻表を眺めながらヴァンの言葉を反芻する。
あの男は何かを渡したがっている。しかも、さり気なく期限を設けている。
夜まで戻らないという宣言は、それまでに持っていけということなのだろう。
「……そんなに直接渡せねぇブツなのか?」
改札口をくぐると同時に、列車の到着を知らせるアナウンスが響き渡った。
ヴァンにあそこまで意味深げな言動をされてしまっては、遊びに繰り出すことなど二の次になる。
アーロンはザイファをポケットに戻し、ホームに到着した列車へ乗り込んだ。
車内は空いているが座る気分ではなく、ドアの脇に身体を預ける。
薄暗い壁が流れるだけの車窓は単調で、時の流れがやたらと遅く感じられた。
いくつかの駅を通り過ぎて旧市街に到着する頃には、彼の心中は落ち着きを取り戻していた。
自然と勇み足になる下肢を宥め、最短距離で事務所へと向かう。
いつの間にか陽は完全に落ちていて、街は夜の様相を醸し出していた。
モンマルトの賑わいを横目に階段を上ると、事務所の中には人の気配があった。
きっと仲間内の誰かだろうと判断して、遠慮なくドアを開ける。
「お帰りなさいませ。アーロン様」
淑やかな声に迎えられ、彼は短く応じてからぐるりと室内を見回した。
「そっちも巡回は終わってんだろ?残業かよ」
「少しデータの整理をしておりました。そちらの方は現地解散だったのですか?」
リゼットはソファーに座ってノート型端末を操作している所だった。
戻ってきた同僚が一人だったことに対し、少し意外そうな素振りを見せる。
アーロンはヴァンと二人で黒芒街へ足を伸ばしていたはずだ。
「あ~、そんなとこ……なんだけどな」
すると、青年は珍しく言葉を濁した。
その場で腕を組み、居心地が悪そうに靴先で床を鳴らす。
「何かあったのですか?」
キーボードを叩いていた綺麗な指が止まり、憂慮の眼差しがアーロンに向けられた。
「いや、あの野郎が急に妙なこと言いやがって。一番下の引き出しにある箱を持っていけだとよ」
彼はヴァンの机に近づきながら呆れたように肩を竦ませた。
「しかも、今日の夜までとかいう制限つきでだぜ?」
リゼットへの言葉の中に愚痴を紛らせ、腰をかがませて指定された引き出しを開けてみる。
「面倒くせぇことしやがっ……」
だが、そこで彼の唇が止まった。
中にはペンケースほどの小箱だけが置かれている。
他には何もなく、まるで引き出しに落ちる影の中へ溶け込んでしまいそうだった。
上品な黒い包装紙に包まれているそれには、控えめな焔色のリボンが添えられている。
アーロンは無言のまま、主張をしたがらない贈り物を丁寧に救い上げた。
最初は驚きを露わにしていた瞳が、少しずつ柔らかさを帯びてくる。
これが何を意味するのか、今日という日の趣向をもちろん彼は知っている。
ヴァンがわざわざ期限を設けたことにも頷けた。
「アーロン様?」
急に言葉を発しなくなった同僚を心配したのか、リゼットが端末を閉じて立ち上がった。
そこで彼が持っている物が目に留まる。
「あ、そちらの品は……」
「お前、知ってんのかよ?」
彼女の意外な反応に、アーロンは間髪を入れずに問い返した。
「はい、四日前のことになりますね。ヴァン様がそちらの品を前にして項垂れておられるのを見てしまいました」
リゼットは当時のことを思い出しながら微笑んだ。
「もちろん故意ではなかったのですが。ヴァン様は『これは自分用に買ったチョコ』だと、慌てておっしゃっいました。ふふっ……やはりアーロン様宛だったのですね」
察しの良い彼女はすぐに気がついたが、その時はヴァンの苦し紛れの誤魔化しを尊重する形を取ったのだという。その答え合わせができたとばかりに嬉しそうな様子だった。
「……なにやってんだよ。あのオッサン」
リゼットの説明を聞き終えたアーロンは、それで全てを理解した。
先刻の別れ際での、ヴァンの不可解な言動と不器用な心根を。
だから、どうしたって顔が緩んでしまうのが止められない。
心の奥底から沸々と愛おしさが溢れ出してくる。体温が上昇して贈り物を受け取った手に汗が滲んだ。
今すぐあの男に会いたい。
この一分一秒ですらも惜しいくらいに全身が渇望している。
彼は開けっぱなしの引き出しを勢いよく閉めて、真っ直ぐに戸口へ向かった。
「アーロン様。どうかお手柔らかにお願いいたしますね」
まるで緋色を宿したような後ろ姿を、リゼットは微笑ましく見送る。
やはり察しの良い彼女のこと、この先のヴァンの身を案じてつい口添えをしたくなってしまった。
事務所を後にして廊下を駆け下りる。
通りに出たアーロンの身体を一陣の夜風が吹き抜けていった。
冷たさは瞬きの一時だけ、冬の寒空でも心身は熱いくらいだ。
彼はポケットからザイファを取り出し、代わりに大切な物を慎重にしまい込んだ。
画面の中の時計を確認すると、『今日』にはまだまだ余裕があった。
「逃がさねぇぞ、ヴァン。受け取った報告はきっちりてめぇの目の前でしてやるぜ」
まず、手始めに本人への通信を試みる。
繋がれば好運、そうでなければアーロンなりの人脈を駆使して探し出すまでだ。
駅の前では諦めてしまったが、今は一粒たりともそんな感情は芽生えてこなかった。
あの時は彼が追いかけてこないことを心の底から安堵した。
例え追ってきたとしても、本気で相手を煙に巻くつもりではあったのだが。
「……夜っていつからいつまでだ?」
カウンター席の最奥には鬱々とした男が一人。
もう数えるのが面倒になるくらいの頻度で溜息を落としていた。
注文したグラスの中身も、最初に口を付けただけで放置されている。
「もう、ヴァンちゃんったら。アーロンちゃん相手に一体何をやらかしたのよ?」
入店してからこの方、彼は一向に浮上する兆しがなかった。
ベルモッティはそんな常連客を静観していたのだが、ついには痺れを切らして声を掛ける。
「な、なんであいつの名前が出てくるんだよ?」
俯いていたヴァンが反射的に顔を上げた。
この店の主は色恋話の類いが大好きだ。そのせいか、ヴァンも恋人であるアーロンへの愚痴を零してしまったり、些細な相談をしてしまう時がある。
しかし、今夜はまだ彼の名前を出していなかった。
「いやぁねぇ~、それしかないじゃない。分かりやすいなんてレベルじゃないわ」
驚きを露わにした凝視を受け止め、ベルモッティは戯けながらひと笑いした。
それからすぐに目元を緩ませて『聴く人』の顔になる。
「それで、何があったのかしら?」
ヴァンはしばらく逡巡していたが、やがてぼそぼそと口を動かし始めた。
当初はバレンタインデーだからといって、特別なことをするつもりなんてなかったこと。
しかし、次第に高まっていく街中の雰囲気に感化され、つい浮かれ気分でチョコレートを買ってしまったこと。
後になって冷静さを取り戻してしまい、頭を抱えるほどの羞恥が押し寄せてきたこと。
そして──そんな状態のまま当日を迎えてしまったということ。
彼はそこまでを一気に吐き出してから再び俯いた。
まだ続きがありそうだと判断したベルモッティは、黙って彼を待つ。
「別に渡せなくていいかって思ったんだけどな。けど、やっぱり……未練っつーか」
声はさほどの間を置かずに発せられたが、
「だから、机の引き出しにあるやつを持っていけとだけ伝えて逃げてきた」
今度は急に早口となり、大袈裟なくらいの勢いでテーブルに突っ伏してしまった。
「中身がチョコだなんて……言えるわけねぇだろ」
落ち込んでいる、はたまた自己嫌悪に陥っている。いくらでも表現の仕方はあるが、なかなかの重傷ぶりなのは誰か見ても明らかだ。
「はぁ、相変わらずの不器用さんねぇ。でも、ちょっと安心したわ。最初は大喧嘩でもしたのかと思ってたから」
全てを聴き終えたベルモッティは、頬に片手を添えて胸をなで下ろした。
「ところで、それはいつ頃の話なのかしら?」
「夕方ぐらいだ」
問い掛けには、くぐもった答えが返ってくる。
店主は壁の時計に目をやりつつ、リバーサイドと旧市街の距離を考えた。
「それなら、そろそろお迎えの時間かもしれないわね」
伏せたままのヴァンの肩がピクリと小さく跳ねる。
「まさか、そんなわけ……っ!?」
その時、上着の中でザイファの呼び出し音が鳴り始めた。
飛び起きた勢いのまま、端末を取り出して着信相手の確認をしてみる。
「マ、マジか?」
「あら、出てあげないの?」
「いや、ちょっ、ちょっと待ってくれ」
あまりに急展開すぎる。ヴァンは少しばかり錯乱状態に陥っていた。
胸の鼓動が早鐘を打ち、額にはじんわりと嫌な汗が浮かぶ。
普段のアーロンであれば諦めるくらいの秒数が過ぎたが、それでも音は鳴り続ける。
「もう~!ちょっと貸しなさいよ。代わりに出てあげるわ」
「え?お、おい!」
見るに見かねたベルモッティは、半ば強引に端末を取り上げて応答ボタンを押した。
「はぁ~い、アーロンちゃん」
意図していなかった人物の姿が画面に現れ、アーロンは意表を突かれたのだろう。咄嗟に息を詰まらせた。
「ヴァンちゃんなら捕まえておいてあげるから、早くいらっしゃいな」
そんな若者へ向けて、ベルモッティは片目を瞑りながら援護射撃をしてみせる。
すると、アーロンは狙いが定まったと言わんばかりに目を煌めかせて頷いた。
二人は幾度か言葉を交わし、やがてヴァンをそっちのけにした短い通話を終えたのだった。
カウンター席の最奥に鬱々とした男が一人──もとい、屍のような男が突っ伏している。
「ヴァンちゃんって、ほんと煽るのが上手よねぇ」
今回の一連の出来事について、ベルモッティの総括はしみじみしたものだった。
「しかも、アーロンちゃん限定だもの。あの子、嬉しくて仕方がないんじゃないかしら」
独り言にも似たそれは、テーブルに伏せた濃紺の頭にやんわりと降り注ぐ。
反応こそなかったが、実のところはヴァンの耳にはしっかりと届いていた。
ただ、墓穴を掘りすぎたせいで地上へ出てこられなくなっている。
自力で浮上できないほどの深い穴には、もはや優しいだけの慰めなど届きそうになかった。
それよりも、実力行使とばかりに彼を引っ張り上げてくれる存在の方が頼もしい。
今頃は嬉々としながらこの店に向かっているであろう、苛烈で強引なくらいの恋人の手が。
2025.02.24畳む
それが彼なりの優しさ
黎Ⅱ(ラスボス撃破後のあたり)・恋人未満。
ダンスの輪を外れた二人がディンゴの弔いをする話です。
【文字数:3000】
あそこまで全方位にイケメンすぎる男に対しては、嫉妬の感情すらも馬鹿馬鹿しい。
オクトラディウムの最奥に響いたマリエルの慟哭は、その場にいた誰もの胸を締め付けた。
刹那の邂逅の先に訪れたのは永遠の別れ。
皆が伏し目がちになっている最中、アーロンはちらりとヴァンの様子を覗った。
まるで夕刻の様相を模したような、それでいて幾重もの色調が混ざり合う空間。
人型は淡い光の粒に変化し、緩やかに舞い上がりながら消えていった。
彼はただ一人、その軌跡を辿るように天空を見つめる。
ようやく女神の元へ逝くことができた、その旅立ちを。
葬送の横顔には、一言では言い表せない諸々の感情が混在していた。
悲しみや寂しさ、そして心からの安堵。
ヴァンは込み上げてくるものを抑えるかのように、強く唇を引き結んだ。
その後にほんの少しだけ、どこか泣き出しそうな笑みを浮かべる。
アーロンはその姿から目を離せなくなった。思わず抱きしめたい衝動に駆られる。
しかし、二本の足は床に張り付いたまま微動だにしない。
ヴァンの一人きりの弔いは、ただただ静かなものだった。
そこへ土足で足を踏み入れるような真似はしたくない、彼は素直にそう思った。
学藝祭の初日は滞りなく終了し、特別ステージは素晴らしい盛り上がりをみせた。
この舞台のため、学生たちへの指南をしていたアーロンも満足げだ。
陽が落ちた広場には篝火が焚かれ、達成感と高揚感に満ちた若者たちの顔を赤々と照らし出している。
「まだ初日だってのに最終日の打ち上げみてぇだな」
アーロンは軽く一息とばかりにさり気なくダンスの輪から外れ、それらを浮ついた気分で眺めやっていた。
「……まぁ、悪くはねぇけど」
おもむろに近くの壁へ向かい、背を預けてゆったりと腕を組む。
柔らかく眦を下げた顔は、普段の彼よりも格段に穏やかだった。
弾む声たちは朗らかな笑い声を伴い、心地の良い音量でアーロンの耳元を通り過ぎていく。
視界は一点に留まらず、無造作に広場を見渡していた。
そのせいか、彼はすぐには気付かなかった。
ヴァンが少しばかり疲れた様子で自分の方へ歩いてくるのを。
「はぁ……やれやれ。あいつら、次から次へと……」
溜息交じりの声が近くで聞こえ、アーロンはわずかに目を見開いた。
「──モテまくりで良かったじゃねぇかよ、所長さん」
しかし、すぐに揶揄いを含んだ笑みを披露する。
実際のところ、ヴァンは顔馴染みの女性たちから引く手あまたの状態だった。
そこは人が良くて優しい彼のこと、もちろんダンスの誘いを断るはずはなかった。
「うるせぇ。どうせ弄られてんのは解ってんだよ」
「それなら訂正してやる。みんなに遊んでもらえて良かったな」
「ぐっ……このクソガキが」
この話題では分がないと思ったのか、負け惜しみと共に勢いよく背中を壁へ押し付けた。
男が二人、篝火の輪から外れて夜風から涼を取る。
しばらくの間、どちらからも声を発することはなかった。
数ヶ月ぶりに享受する平穏が、今になってじんわりと胸の奥へ染み入ってくる。
「……良い夜だな」
不意にヴァンがぼそりと呟いた。
夜が始まった青黒い空を見上げ、点在する星々の煌めきに口元を綻ばせる。
その横顔にアーロンは既視感を覚えた。
誰もが俯く中、一人だけ空を見上げていた男の立ち姿を。
「今度こそ、本当に見送ってやれたんだろ」
クレイユ村で命を散らした時に比べれば。
あいつだって安心して女神の元へ旅立てただろう。
アーロンは消える間際のディンゴの穏やかな表情を思い出していた。
「弔いなら酒でも欲しいとこだが。まぁ、ガキどもの手前な」
「……アーロン、お前」
彼の口振りはヴァンの目を瞬かせた。
オクトラディウムでのことを吐露したつもりはないが、今の心情を的確に読み取られている。
それを踏まえた上での優しい声音。
存外な彼の言動を受け、ほんのりとした嬉しさが胸元を温かくさせていく。
空の星々から視線を外してアーロンの方を見たが、彼の顔は正面を向いたまま、両眼の表面には揺れる炎を映していた。
ヴァンが更に凝視を続ける。
「なんだよ?」
さすがに耐えかねたのか、彼はようやく傍らにいる男を振り仰いだ。
「えっ、あ、あぁ」
だが、ヴァンはほとんど無意識だったらしい。弾かれて声を上げた後、軽く咳払いをしてみせる。
会話の先は何も考えていなかった。
仄かな嬉しさを感じている自分が妙に気恥ずかしくなってきてしまい、誤魔化すようにして話題を捻り出す。
「お前ってさ、ディンゴにはあんまり突っかからなかったよなぁと思って」
「あそこまでイケメンすぎると単純にすげぇ男だなって感じになっちまうだろ?お手上げだぜ」
アーロンは肩を竦めて苦笑した。
彼は潔い青年だ。認めるに値する人物に対しては素直な称賛を口にする。
「確かにな……っつーか、あいつにはまだ貸しが山ほどあったのによ、結局全部返し切れてねぇ」
ヴァンは間髪を入れずに頷いて同意を示した。
しかし、心残りがあると言わんばかりの大きな溜息が続く。
「チッ、てめぇは貸し借りの話になると途端にうざくなるな。あの男はそんなことを気にするタマじゃねぇだろうが」
苦笑交じりの弔いだったはずが、急に湿っぽい空気が漂い始める。
出会った頃に比べれば、ヴァンは周囲の人々を頼ることへの抵抗感が薄らいできている。けれど、彼の生い立ちを考えれば相当に根は深いのだろう。
辟易したアーロンが、やや険のある言葉を投げつけた。
「そ、そりゃ……そうだけどな。俺にも矜持ってもんが……」
それでもヴァンはうじうじと口籠り、挙げ句には困り顔で肩を落としてしまった。
頭では解っているのに心がついてこない。
目線が足元へ落ちると、引きずられるように気持ちも下降しそうになった。
「──おい、ヴァン」
そんな矢先、鋭く名前を呼ばれた。
同時に平手で片頬を叩かれる。
驚いて顎を引き上げると、目の前には至近距離でアーロンが立っていた。
「終いにしろ。あいつへの借りは今夜でチャラだ」
「はぁ?何言ってんだよ」
「兄貴分への手向けなら、そんくらいで丁度良い」
全く予期していなかった物言いをされ、ヴァンが瞠目する。
「お前、意味分かんねぇぞ?そんな屁理屈みたいな」
そんな彼の動揺などお構いなしにアーロンが畳みかけてくる。
「まぁ、どうしても貸しが~とかぬかしてぇなら……他の奴らはどうでもいい。オレの分だけはきっちり返してもらうぜ」
仁王立ちよろしく、腕を組んだ姿勢でニヤリと笑う。
夜目にも鮮やかな金色は怖いくらいに強硬だ。
「今思い出してみるだけでもいくつかあるしな」
わざとらしく指折り数えてみせると、
「お、おい!そんなにいくつもねぇだろうが!」
あまりの強引さに口をパクパクとさせていたヴァンが、反射的に異議を唱えた。
途端、二人の視線が真っ向からぶつかる。
「なんなら、これから増やしてくれてもいいぜ?どうやって返してくれるのかも楽しみだ」
「だから……あぁっ、くそ!聞いちゃいねぇ」
ヴァンはアーロンの強行軍を抑えきれず頭を抱え込んだ。
いつの間にか、低落しつつあった気持ちが浮上したことにも気が付かなかった。
「オレはてめぇの兄貴分とは方向性が違うイケメンなんだよ」
まだ自分を曝け出して周囲を頼りきれないというならそれでもいい。
未練がましい些細な矜持にも付き合ってやる。
そのために、分かりやすい逃げ道を一本だけ用意してやった。
アーロンの優しさは時に独占的な鋭利さをはらむ。
ただ寄り添っているだけなんて、全くもってこの青年の性格には合わないのだ。
ヴァンの気持ちが俯くのならば、無理矢理にでも引っ張り上げてしまえばいい。
それが彼なりの気遣いの方法だった。
2024.09.22
#黎Ⅱ畳む
黎Ⅱ(ラスボス撃破後のあたり)・恋人未満。
ダンスの輪を外れた二人がディンゴの弔いをする話です。
【文字数:3000】
あそこまで全方位にイケメンすぎる男に対しては、嫉妬の感情すらも馬鹿馬鹿しい。
オクトラディウムの最奥に響いたマリエルの慟哭は、その場にいた誰もの胸を締め付けた。
刹那の邂逅の先に訪れたのは永遠の別れ。
皆が伏し目がちになっている最中、アーロンはちらりとヴァンの様子を覗った。
まるで夕刻の様相を模したような、それでいて幾重もの色調が混ざり合う空間。
人型は淡い光の粒に変化し、緩やかに舞い上がりながら消えていった。
彼はただ一人、その軌跡を辿るように天空を見つめる。
ようやく女神の元へ逝くことができた、その旅立ちを。
葬送の横顔には、一言では言い表せない諸々の感情が混在していた。
悲しみや寂しさ、そして心からの安堵。
ヴァンは込み上げてくるものを抑えるかのように、強く唇を引き結んだ。
その後にほんの少しだけ、どこか泣き出しそうな笑みを浮かべる。
アーロンはその姿から目を離せなくなった。思わず抱きしめたい衝動に駆られる。
しかし、二本の足は床に張り付いたまま微動だにしない。
ヴァンの一人きりの弔いは、ただただ静かなものだった。
そこへ土足で足を踏み入れるような真似はしたくない、彼は素直にそう思った。
学藝祭の初日は滞りなく終了し、特別ステージは素晴らしい盛り上がりをみせた。
この舞台のため、学生たちへの指南をしていたアーロンも満足げだ。
陽が落ちた広場には篝火が焚かれ、達成感と高揚感に満ちた若者たちの顔を赤々と照らし出している。
「まだ初日だってのに最終日の打ち上げみてぇだな」
アーロンは軽く一息とばかりにさり気なくダンスの輪から外れ、それらを浮ついた気分で眺めやっていた。
「……まぁ、悪くはねぇけど」
おもむろに近くの壁へ向かい、背を預けてゆったりと腕を組む。
柔らかく眦を下げた顔は、普段の彼よりも格段に穏やかだった。
弾む声たちは朗らかな笑い声を伴い、心地の良い音量でアーロンの耳元を通り過ぎていく。
視界は一点に留まらず、無造作に広場を見渡していた。
そのせいか、彼はすぐには気付かなかった。
ヴァンが少しばかり疲れた様子で自分の方へ歩いてくるのを。
「はぁ……やれやれ。あいつら、次から次へと……」
溜息交じりの声が近くで聞こえ、アーロンはわずかに目を見開いた。
「──モテまくりで良かったじゃねぇかよ、所長さん」
しかし、すぐに揶揄いを含んだ笑みを披露する。
実際のところ、ヴァンは顔馴染みの女性たちから引く手あまたの状態だった。
そこは人が良くて優しい彼のこと、もちろんダンスの誘いを断るはずはなかった。
「うるせぇ。どうせ弄られてんのは解ってんだよ」
「それなら訂正してやる。みんなに遊んでもらえて良かったな」
「ぐっ……このクソガキが」
この話題では分がないと思ったのか、負け惜しみと共に勢いよく背中を壁へ押し付けた。
男が二人、篝火の輪から外れて夜風から涼を取る。
しばらくの間、どちらからも声を発することはなかった。
数ヶ月ぶりに享受する平穏が、今になってじんわりと胸の奥へ染み入ってくる。
「……良い夜だな」
不意にヴァンがぼそりと呟いた。
夜が始まった青黒い空を見上げ、点在する星々の煌めきに口元を綻ばせる。
その横顔にアーロンは既視感を覚えた。
誰もが俯く中、一人だけ空を見上げていた男の立ち姿を。
「今度こそ、本当に見送ってやれたんだろ」
クレイユ村で命を散らした時に比べれば。
あいつだって安心して女神の元へ旅立てただろう。
アーロンは消える間際のディンゴの穏やかな表情を思い出していた。
「弔いなら酒でも欲しいとこだが。まぁ、ガキどもの手前な」
「……アーロン、お前」
彼の口振りはヴァンの目を瞬かせた。
オクトラディウムでのことを吐露したつもりはないが、今の心情を的確に読み取られている。
それを踏まえた上での優しい声音。
存外な彼の言動を受け、ほんのりとした嬉しさが胸元を温かくさせていく。
空の星々から視線を外してアーロンの方を見たが、彼の顔は正面を向いたまま、両眼の表面には揺れる炎を映していた。
ヴァンが更に凝視を続ける。
「なんだよ?」
さすがに耐えかねたのか、彼はようやく傍らにいる男を振り仰いだ。
「えっ、あ、あぁ」
だが、ヴァンはほとんど無意識だったらしい。弾かれて声を上げた後、軽く咳払いをしてみせる。
会話の先は何も考えていなかった。
仄かな嬉しさを感じている自分が妙に気恥ずかしくなってきてしまい、誤魔化すようにして話題を捻り出す。
「お前ってさ、ディンゴにはあんまり突っかからなかったよなぁと思って」
「あそこまでイケメンすぎると単純にすげぇ男だなって感じになっちまうだろ?お手上げだぜ」
アーロンは肩を竦めて苦笑した。
彼は潔い青年だ。認めるに値する人物に対しては素直な称賛を口にする。
「確かにな……っつーか、あいつにはまだ貸しが山ほどあったのによ、結局全部返し切れてねぇ」
ヴァンは間髪を入れずに頷いて同意を示した。
しかし、心残りがあると言わんばかりの大きな溜息が続く。
「チッ、てめぇは貸し借りの話になると途端にうざくなるな。あの男はそんなことを気にするタマじゃねぇだろうが」
苦笑交じりの弔いだったはずが、急に湿っぽい空気が漂い始める。
出会った頃に比べれば、ヴァンは周囲の人々を頼ることへの抵抗感が薄らいできている。けれど、彼の生い立ちを考えれば相当に根は深いのだろう。
辟易したアーロンが、やや険のある言葉を投げつけた。
「そ、そりゃ……そうだけどな。俺にも矜持ってもんが……」
それでもヴァンはうじうじと口籠り、挙げ句には困り顔で肩を落としてしまった。
頭では解っているのに心がついてこない。
目線が足元へ落ちると、引きずられるように気持ちも下降しそうになった。
「──おい、ヴァン」
そんな矢先、鋭く名前を呼ばれた。
同時に平手で片頬を叩かれる。
驚いて顎を引き上げると、目の前には至近距離でアーロンが立っていた。
「終いにしろ。あいつへの借りは今夜でチャラだ」
「はぁ?何言ってんだよ」
「兄貴分への手向けなら、そんくらいで丁度良い」
全く予期していなかった物言いをされ、ヴァンが瞠目する。
「お前、意味分かんねぇぞ?そんな屁理屈みたいな」
そんな彼の動揺などお構いなしにアーロンが畳みかけてくる。
「まぁ、どうしても貸しが~とかぬかしてぇなら……他の奴らはどうでもいい。オレの分だけはきっちり返してもらうぜ」
仁王立ちよろしく、腕を組んだ姿勢でニヤリと笑う。
夜目にも鮮やかな金色は怖いくらいに強硬だ。
「今思い出してみるだけでもいくつかあるしな」
わざとらしく指折り数えてみせると、
「お、おい!そんなにいくつもねぇだろうが!」
あまりの強引さに口をパクパクとさせていたヴァンが、反射的に異議を唱えた。
途端、二人の視線が真っ向からぶつかる。
「なんなら、これから増やしてくれてもいいぜ?どうやって返してくれるのかも楽しみだ」
「だから……あぁっ、くそ!聞いちゃいねぇ」
ヴァンはアーロンの強行軍を抑えきれず頭を抱え込んだ。
いつの間にか、低落しつつあった気持ちが浮上したことにも気が付かなかった。
「オレはてめぇの兄貴分とは方向性が違うイケメンなんだよ」
まだ自分を曝け出して周囲を頼りきれないというならそれでもいい。
未練がましい些細な矜持にも付き合ってやる。
そのために、分かりやすい逃げ道を一本だけ用意してやった。
アーロンの優しさは時に独占的な鋭利さをはらむ。
ただ寄り添っているだけなんて、全くもってこの青年の性格には合わないのだ。
ヴァンの気持ちが俯くのならば、無理矢理にでも引っ張り上げてしまえばいい。
それが彼なりの気遣いの方法だった。
2024.09.22
#黎Ⅱ畳む
舞えよ鳳翼 蒼い欠片の傍らで④
首都イーディスを拠点にしているヴァンにとっては久しぶりの海景だ。
空を染める茜色は海面へと溶け込み、小波の煌めきを有して遙か彼方まで広がっていた。
吹き渡る潮風は穏やかだったが、昼間よりも少し肌寒くなっている。
それは観劇の余韻を残している彼にとって心地良い涼感だった。
待っている間にしっかりと気持ちを落ち着かせることができる。
アーロンが待ち合わせ場所に指定してきたのは、賑わいから離れた静かな波止場の辺りだった。
大規模に整備されている港湾区とは違い、住民たちが生業に使用している小舟が数隻泊まっているだけだ。
そろそろ夕飯時とあってこれから出航する船はなく、人影もまばらだった。
そんな場所のおかげで、すぐに待ち人がこちらに歩いてくる気配を感じ取れる。
ヴァンは黙って空と海の狭間を眺めやっていた。
「なに黄昏れてんだよ、オッサン」
背後から声をかけられて振り返る。
「全然、似合ってねぇぞ」
煌びやかな衣装とは一転、いつもの装いをしたアーロンが笑みを刷いて立っていた。
「第一声がそれかよ。相変わらず口の減らねぇヤツだな」
およそ二ヶ月ぶりの生身での対面は、当たり前のように遠慮がない言葉遊びから始まった。
ひとしきり挨拶代わりのじゃれ合いを楽しんだヴァンは、まず先に相手を労う。
「……っと、まぁ、取りあえずお疲れさん。見応えのある良い舞台だったぜ」
嬉しさも相まって、つい赤い頭を撫でまわしたくなった。
しかし、彼との距離が三歩分ほどはあるし、嫌がられるのは確実なので諦める。
「ま、当然だろ──それより、『色々あって』を聞かせろよ。どうせアシェンのヤツだろ?」
そんな葛藤を知らないアーロンは、ありきたりな賛美をさらりと流して別の話題で返した。
彼の立場からすれば、それが最も気になるところだろう。
「う~ん、間違っちゃいねぇけど。確実に一枚噛んでるのはアニエスと、たぶんジュディスも……」
「あいつの独断じゃねぇのかよ?」
自信満々に幼馴染みの名前を出してみたが、そうも単純な話ではなかったらしい。
意外だと言わんばかりの顔で食い気味になる。
「そうだなぁ……今思えば、発端は二週間くらい前のあれだったか」
あまりの凝視っぷりに堪えきれず、ヴァンは気乗りがしない中でぽつりぽつりと話し始めた。
アニエスとジュディスが事務所に来ていた時、アーロンの話題になったこと。
彼女らはヴァンがアーロンに招待されていると思い込んでいたこと。
されていないと知ってひどく驚かれたこと。
「それで終わりかと思いきや、昨日になっていきなりアシェンから連絡があってよ」
彼の説明は簡潔と表せば聞こえは良いが、後半はご都合主義全開でかなりの端折り具合だった。
例えば、前払いのスイーツの誘惑には逆らえなかっただとか。
「……チッ、あいつら好き勝手やりやがって」
普段のアーロンであれば、それに違和感を覚えて突っ込んできそうなものだが、今は違っていた。
苦々しい表情をしながら独り言のように吐き捨てる。
「ん?なんか言ったか?」
それは本当に小さくてヴァンの耳にまでは届かない。
怪訝に思ったが、アーロンは軽く頭を振るだけだった。
「なんでもねぇよ。昨日の今日じゃ、急だったな」
「まったくだぜ。移動の時間だって馬鹿にならねぇからな」
予期せぬ共感を得た男は、大袈裟なくらいに何度も頷いた。
アーロンが急に大人しくなってしまったが、元から気分屋な所があるので大して気にも留めなかった。
それとなく彼の顔色を窺い、たぶん大丈夫だろうと判断したヴァンは遠慮がちに切り出した。
「そんなわけで、帰る前に腹ごしらえといきたいんだが……」
地元の、しかも生まれ育った弌番街であれば、飲食店の類いは幅広く網羅している。
店選びを任されたアーロンは、少しばかり思案してから動き出した。
道すがらの会話は他愛もないものだったが、ヴァンは楽しそうにしている。
それに対して、アーロンの方は自己嫌悪でいっぱいだった。
この一件の発端は自分が彼を誘えなかったことに他ならない。
女性陣に意気地がない部分を見透かされて世話を焼かれた形になる。
それでも結果だけを見れば、ヴァンに演舞を披露できた上に、今はこうして二人だけの時間を過ごしているのだ。
お節介な彼女たちに悪態を吐きたい気持ちと、図らずも望みが叶ってしまった嬉しさとが煩雑に絡み合う。
「……アーロン?もしかしてお疲れか?」
どうやら知らぬ間に口数が少なくなっていたようだ。
ヴァンが気遣わしげな視線を投げてくる。
「あぁ?問題ねぇ」
アーロンは鬱陶しいとばかりに睨み返し、いきなり歩調を速めて先行し始めた。
目抜き通り周辺には大小様々な店がひしめいているが、そこを外して人通りの少ない方へと向かう。
すれ違うのは観光客ではなく街の住民ばかりだ。気さくに声をかけてくる彼らと挨拶を交わしつつ、角をいくつか曲がって袋小路に入る。
突き当たりには小さいながらも落ち着いた店構えの飲食店があった。いかにも隠れ家といった雰囲気だ。
「へぇ?こんな所に店があったのか。知らなかったな」
「静かに飯が食いたい時には丁度良い。昔……名前は忘れちまったが有名どころで料理長やってた爺さんだから、味は保証するぜ」
興味津々で建物を見上げているヴァンに説明をし、引き戸になっている入り口を開けて中へと促した。
今は騒がしい場所で過ごす気分ではなかった。
せっかく二人きりの時間を持てるのだから、邪魔はされたくない。
店内に入ると、店主が奥の厨房から顔を覗かせていた。
軽く声を掛けてからぐるりと中を見渡し、壁際の一画に席を取る。
すでに数人の客が食事を楽しんでおり、鼻腔をくすぐる香りが漂っていた。
ほどなくして給仕の女性がやってきたので、各々に注文をする。
「ここ、よく来るのか?」
「公演中は特にな」
「夜な夜な酒盛りをするわけにはいかねぇとか?」
注文した料理を待っている間、ヴァンがここぞとばかりに質問を重ねてくる。
「あのなぁ……理由はそこじゃねぇ。外から観劇しにきたヤツらが擦り寄ってくるんだよ。街のヤツらとは勝手が違うんで扱いにくい」
アーロンは面倒くさそうに応じながら、給仕が置いていった水を喉へ流し込む。
「あぁ、なるほどな。さすがは人気役者さま」
「推しだのなんだのってのは素直に嬉しいが、オフにまで突っ込んでこられるのはなぁ」
「それでこの店か。俺が華劇場にいた時も女性客が多かったもんな」
つい愚痴っぽくなってしまったが、向かい席の男は妙に何度も相槌を打った。
「特に今回は女形じゃねぇし。前にうちの奴らがポスター見て騒いで……あっ」
ヴァンは更に言葉を続けたが、
「いや、そうじゃなく……ん~」
途中で何かを思い出し、悩ましげに顔を歪めた。もの言いたげな瞳がアーロンに向けられる。
「なんかあるならハッキリ言いやがれ」
「その、な。ちょいと気になってたことがあって」
一度上げた声を目の前で飲み込まれるのは不愉快だ。
鋭い眼光で穿つと、歯切れの悪い小さな声が聞こえてくる。
「先に言っとくが、たかってるとかじゃなくてな……お前、何で誰も招待しなかったんだ?」
それは予想だにしなかったもので、アーロンを吃驚させた。
「お前の性格だったら、うちの奴ら一纏めでチケットの大盤振る舞いとかしそうな気がしたからよ」
「……それは」
言われて、はたと気が付いた。
二ヶ月前、煌都に帰ってきた時点では確かにそう思っていたはずだ。
すぐに手配すれば良かったものを、稽古に追われる日々の中ですっかり忘れてしまっていたらしい。
一ヶ月前に庭城を訪れた時、思い出すチャンスはあったものの、ヴァンに会いたい一心で彼を誘うことしか頭になかった。
「なんつーか、まぁ……色々と忙しくてよ。頭からすっぽ抜けてた」
もう済んでしまったことだが、彼にしてみれば結構なレベルの失態だ。
最初からみんなを招待していれば、ここまで拗れることもなかっただろう。
とはいえ、ヴァンだけに向けて舞いたいという願望があったのも事実。
波止場で待ち合わせてからこの方、アーロンの胸中は複雑だった。
頬杖をついて気まずそうに顔を逸らす。
「要するに、招待するつもりだったが忘れちまったってわけか」
答えを聞いたヴァンは、気分転換だと言って庭城を走り回っていた青年の姿を回想し、納得した様子で微笑した。
「そんだけ根詰めてたんだろ」
思慮が滲んだ声音は柔らかく、返す言葉が見つからなくなったアーロンは黙り込んだ。
そろそろ料理ができる頃ではないかと、助けを求めるかのように厨房へ目をやる。
すると、タイミング良く給仕の女性が二人の元へやってきた。
テーブルの上には注文した料理たちが次々と並べられていく。
熱々の湯気と美味しそうな香りを立ち上らせているのは、色とりどりの采や炊きたての米。
アーロンはすぐさま箸に手を付ける。
空腹の加減も相まって、この場の空気を誤魔化すには都合が良かった。
夕食時も盛りの頃。
入店した時には客もまばらだった店内は、いつの間にか満席になっていた。
食事と共に酒を楽しんでいる者も多いが、喧噪はなく適度な雑音が居心地の良い空間を作り出している。
アーロンが贔屓にするのも頷ける、とヴァンは密かに思った。
二人のテーブルに置かれている皿は、もうほとんどが空だ。
よほど腹が空いていたのだろうか?真向かいの青年は良い食べっぷりを披露していたが、話しかければ応じてくれるので、食事時の過ごし方としては満足だった。
(そろそろ帰らねぇとなぁ……)
お開きの時間が近づいてくるにつれ、寂しさが込み上げてくる。
そんな時、唐突に短い呼び出し音が鳴った。
「ん?オレか」
アーロンが箸を置いてポケットからザイファを取り出した。
どうやらメッセージが届いたらしい。彼は内容を確かめ、素早く返信を打ち込み始めた。
「なんかあったのか?もし急用なら……」
「違うって。役者連中からのお誘い。軽く飲んでるから気が向いたら顔出せよって」
プライベートに立ち入るのは憚られたが、彼は頓着せずにわざわざ画面を見せて教えてくれた。
「なら、行ってこいよ。こっちはもう食べ終わっちまうだろ?」
どう切り出そうかと思案していたヴァンにとっては、渡りに船だった。
「俺の方は車だからなぁ。酒までは付き合えねぇし」
苦笑を交えた言葉の語尾に、アーロンがザイファを閉じる音が重なる。
「……だったら泊まっていけばいいじゃねぇか」
続けて不機嫌そうな低い声が添えられた。
思わず目を剥くと、どこか怒っているような両眼とぶつかる。
「今からかよ?そんな出費は想定してねぇぞ、マジで」
これから宿泊場所を確保しろとでも言うつもりなのか。
多少強引な部分がある性格なのは承知しているが、金を出せとはあんまりだ。
困惑したヴァンは前屈みになって彼の真意を探ろうとした。
すると、アーロンはいきなり給仕を呼んで追加の注文をし始めた。
黙って聞いていれば、酒とつまみの名前ばかりが連なっていく。
「お、おい!?」
給仕が下がった後にヴァンは抗議の声を上げた。しかし、返ってきたのは思いも寄らない一言だった。
「……オレのとこでいいだろ?寝るだけなら問題ねぇ」
ぶっきらぼうな言葉はあまりに衝撃的で、開いた口が塞がらなくなってしまった。
そうこうしている内に、酒とつまみが運ばれてくる。
心中では寂しさが募るくらい、アーロンとの時間が名残惜しかったのは確かだ。
しかし、いざ目の前にささやかな酒宴が広げられると、あまりの急展開で気持ちがすぐには付いてこない。
「さっきの断ったのか?あっちの方がたくさん飲めるだろ?」
「は?量なんて関係ねぇだろうが。重要なのはオレが誰と飲みたいかってことだけだ」
要領を得ない上に弱腰な抵抗は、一刀のもとに斬り伏せられる。
「そ、そうか」
もう完全にお手上げだ。そう思った矢先、鈍足気味だった心がようやく現実に追い付いてきた。
仲間からの誘いを受けた時、アーロンは即座に断りを入れたのだろう。今ならそれがはっきりと分かる。
もしかしたら、こちらが先に解散を切り出さなかったとしても、最初から泊まれと言うつもりだったのかもしれない。それがまさか自宅だとは想像だにしなかったけれど。
「もう頼んじまったし。お前がそう言うなら……少しだけな」
ヴァンはそう言って酒杯に手を伸ばした。
もう少し彼との時間を共有できる。
滲み出てくる嬉しさを噛みしめると、それにつられて目元が蕩ける。
まだ一口も飲んでいないのに、酔いが回りそうだった。
※ ※ ※
ひとしきり酒を愉しんでから店を出ると、街はすでに夜の雰囲気に包まれていた。
街灯や店の明かりが行く先々で揺らめいている。
今は公演中ということもあり飲酒を控えめにしているので、アーロンにしてみれば正直かなり物足りない。
けれど、それは大した問題ではなかった。
「お前、ほんとにあんな量で良かったのか?」
「だから、量じゃねぇんだよ。大体、オレが飲んでたのはそっちのよりはるかにキツい酒だ」
隣を歩いているこの男のペースで酒杯を傾けられたのならば、それでいい。
「そうだったのか?水みたいに飲んでやがったから分からなかったぜ」
「てめぇが飲んだら一杯で目が回る」
そこはかとなく酔いが漂っているくらいが──自宅へ連れて行くには最適だ。
アーロンは普段よりも口数が多いヴァンの相手をしながら、ゆっくりと帰路を歩んだ。
彼と会ってからずっと抱え続けていた自己嫌悪は、酒が入ったお陰でようやく薄らいできた。
自宅への距離が近づくのに伴って気持ちが切り替わっていく。
今日ヴァンが煌都にいる経緯は捨て置き、目の前に用意された舞台があるのなら遠慮なく利用してやろうと思った。
アーロンが住んでいるのは質素な家々が立ち並ぶ居住地区だった。
父が煌都を追放されて以降は母と二人で暮らしてきた家だ。
彼は玄関のドアを開けて中に入りながら照明をつけた。
薄い暗闇は暖色の明かりに上書きされ、必要な家具だけが置いてある素朴な室内が露わになった。
「入れよ」
「おう、邪魔するぜ」
幼い頃から慎ましい暮らしぶりだったので、家の間取りも最小限だ。
玄関をくぐった先にはキッチンと二人掛けのテーブルが併設されている一室。その奥はドアを隔てて寝室になっている。
「へぇ、綺麗にしてるんだな」
ヴァンがテーブルの横で立ち止まり、興味深げに部屋の中を見回した。
「ほとんど寝るだけだからな。余計なもんは置いてねぇだけだ」
二ヶ月ほど前に帰ってきてからは稽古三昧だったし、食事も外で済ませている。
夜は夜で街をぶらついているので、まともに使用している家具はベッドくらいなものだった。
だが、さすがに起床した時には誰かを泊める想定はしていなかった。
急にベッド周りが気になってしまったアーロンは、テーブルの椅子に目配せをする。
「適当にその辺で寛いでろ。ちょっと片付けてくる」
そして、ヴァンの応答をそっちのけで寝室に足を向けた。
中に入ると真正面の壁には窓が一つあり、今朝方にカーテンを開けたままの状態だった。
左右の壁沿いにはベッドが一台ずつ設置されている。
アーロンが使用しているのは向かって右側にあるもので、もう片方は一応来客用として整えられていた。
とはいえ、彼が自宅に誰かを招くことなど皆無だ。自身がほとんどの時間を外で過ごしているのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。
室内を見回して特に問題がなさそうだと判断する。
たまに服を脱ぎ散らかして放置している場合もあるのだが、幸い今日はそこまで荒れていなかった。
最後に夜色を映しているガラス窓にカーテンを引く。
そこで彼は視線を落とした。
窓の下には小ぶりのチェストがあり、天板には写真立てが乗っている。
「……お袋はあの野郎の為に舞いたいと思ったことはあんのか?」
アーロンはあたかも墓参りの延長みたいに呟いた。
あの演舞はあいつに届いただろうか?響いただろうか?
ヴァンは食事の時も酒を飲んでいる時も舞台のことを褒めてくれたが、なぜか抽象的な文言ばかりだった。
「オレはそう思った。今日あいつを見つけた瞬間に」
写真の中の彼女は、華やかな舞台衣装の姿で柔和に微笑んでいる。
「だから答えが欲しい」
それに向かって対話の形を模しただけの独り言。
「色々とダダ漏れなのは今に始まったことじゃねぇけど」
本人は隠し通しているつもりなのだろうが、ふとした仕草の中にそれとなく滲むものがある。
ときおり控えめに注がれる視線が言外に想いを訴えてくる。
アーロンはそれに気が付かないほど鈍い男ではなかった。
彼にはヴァンから恋い慕われているという自負がある。それこそ完璧な確率で。
「それでも言葉が欲しい。オレが伝えた分だけ返してほしい」
物言わぬ美しい肖像は、墓参りの時と同じで優しい空気を纏い見守ってくれている。
そこに声はなくても、ただ、自分を奮い立たせる為に言いたかった。
家の主であるアーロンの意を汲んだヴァンは、椅子に座って寝室が整うのを待つことにした。
卓上に頬杖をつきながら、何気なく周りを観察してみる。
イーディスにある彼の部屋のイメージが念頭にあったので、初見では意外に思った。
向こうに比べれば質素で殺風景な印象だが、よく見れば長年積み重ねてきた生活の欠片がいくつも転がり落ちている。
わざわざ聞かなくても、ここが幼い頃から家族と過ごしてきた大切な場所であるのが分かった。
「いきなり自宅とか……不意打ちすぎんだろ」
言下に小さな吐息を零す。
正直なところ、ヴァンは緊張していた。
表面上は平静を保っているつもりだが、店を出る頃になってからというもの、ずっとそわそわと落ち着かない気分だった。
昼間の舞台の余韻は未だ消えず、胸の奥底では火傷の痕がじりじりと燻ったまま。
「はぁ……ボロが出なきゃいいんだが」
そんな状態で惚れた男の家にいる。
アーロンがどういった心境で自宅に招いてくれたのかが分からず、どう出てくるのかも予測ができない。
彼と夕食を取り始めた時は純粋に嬉しかったはずなのに、今や不安でいっぱいだ。
「これじゃ寝付ける気がしねぇけど、さっさと寝ちまいてぇ」
そうぼやいたヴァンは、椅子に腰掛けたまま寝室の様子を覗った。
ドアは半開きになっていて、隙間からは赤い後頭部が見え隠れしている。
周囲を整えているのかと思いきやそれらしい動きはなく、ただ部屋の奥に佇んでいるようだった。
ヴァンは怪訝な顔をしてドアの向こうに視線を留めた。そうやってしばらくアーロンを注視していたが、いつまで経っても変化は訪れない。
「あいつ、どうしたんだ?」
物音一つすらしない状況が心配になり、彼はついに立ち上がった。
──コンコン。
不意にドアを叩く音が聞こえ、アーロンはハッと振り返った。
「え~っと、悪ぃ。なかなか戻ってこないもんだから、気になっちまって」
ドアの隙間から、ヴァンが申し訳なさそうに顔を覗かせている。
「別に問題ねぇ。ただの意思表示っつーか……まぁ、いい。入ってこいよ」
そう言って促してみると、彼はそろそろと足を踏み入れてきた。
チェストの上に置いてある写真立てに気づき、腰をかがめてそれを見る。
「これ、お袋さんか。綺麗な人だなぁ」
感嘆は穏やかな響きを伴い、更に言葉が付いてくる。
「役者として、彼女の域には近づけたか?」
「まだまだ足りねぇな。お袋はマジで凄かった」
在りし日の彼女の舞台を回顧したアーロンは、誇らしげに写真を一瞥した。
「そうか。でも、今日のお前も凄かったぞ」
しかし、傍らに立っている男の真摯な口ぶりにピクリと眉尻が跳ね上がる。
「そりゃ、どうも」
今夜はこれで何度目だろうか。また、漠然とした褒め言葉が耳元を通り過ぎていく。
アーロンは口を引き結び、身を投げ出すようにして自分のベッドに座った。
「──そこに座れ」
「な、なんでだよ?」
有無を言わせぬ命令口調で空いているベッドを指さすと、ヴァンが困惑を露わにした。
「座れ。てめぇに聞きたいことがある」
もう一度言う。すると彼は渋々ながらも指先の場所へ腰を下ろした。
この住宅の広さを考えれば、寝室の平面積はたかがしれている。
二台のベッドの距離は大人の歩幅で二歩程度。対面で座してみると思いのほか近かった。
これなら表情の機微まで読み取れる。下手な誤魔化しもできないだろう。
アーロンはやや前屈みになり、開いた膝の上に指を組んでどっしりと構えた。
上目で見据える眼光は相手を射殺してしまいそうに強い。
「何を……だ?」
ヴァンにとっては急変した以外の何物でもないはずだ。緊張からか唾を飲み込む音がする。
「凄いとか良かったとか、そういうのは聞き飽きた」
そんな中でアーロンが静かに口を開いた。
「舞台全体のことじゃねぇ。オレがソロで踊ってるのを見てどう思った?」
使い込まれて擦れた床板には、その問いだけが落とされた。
「一番の見せ場だ。何も感じなかったわけじゃねぇだろうが。はぐらかすつもりかよ」
追い詰めて退路を塞ぐ。
答えを引きずり出すまで寝かせるつもりはないと、暗に睨みを利かせてみせた。
ヴァンは何度か瞬き、更に数拍をおいてから気まずそうに視線を彷徨わせ始めた。
「……あれは上手く言葉にできねぇ」
「体裁なんて必要か?そのまま曝け出せばいい」
胸元を握り締めながら口を濁す様はどことなく苦しげだった。嘘偽りがないことは一目で分かる。
それでも追及を緩める気はなかった。ヴァンに対しては多少の強引さが必要だと、これまでの経験から学んでいる。
いつだってそうだ。アーロンとの付き合いにおいて、この男は自分の欲を優先させようとはしない。
そのくせに脇が甘いせいで、簡単にその心中を察することができてしまう。
「無茶振りしやがって……無理なんだよ。思い出すと胸が焼かれたみたいに息が詰まる。感情が……持っていかれそうになる」
ヴァンの声は微かに震えていた。より強く胸元を握り締め、床の一点を見つめ続けている。
「観客は俺だけじゃなかったのに、錯覚しそうだった。お前が誰の為に気迫の演舞をしているのかって」
無理と言いながらもひとたび唇が動き始めてしまうと、それを皮切りに切々とした言の葉が紡ぎ出されていく。
顔を伏せてしまった男の胸中は、込み上げてくる想いでいっぱいなのだろう。
アーロンはその独白を黙って聞いていた。
嵩を増した心の器はすでに上限いっぱいだと目測をする。
そして、それが溢れ出してしまうのを待っている。
「……違う、しそうだったじゃない。ほんの一時でもそう思っちまった」
あと、少し。まるで懺悔のような一滴。
「だから、嬉しかった。愛おしいだとか見惚れていたいとか、気持ちの収拾が付かなくなって……」
もう、寸前。最後の一滴が満杯の器に静かに落ちていく音がする。
「──あっ」
同時にヴァンがハッと顔を上げ、口元を片手で覆った。
彼にとっては失言だったのだろう。けれど、一度溢れてしまったら再び隠すことなどできはしない。
吃驚した瞳が相対している青年に向けられ、ようやく互いの視線がぶつかった。
「届いたかよ?オレの執心ぶりが」
アーロンは一瞬だけ不敵に口角をつり上げた。ようやく引きずり出してやったと言わんばかりに。
彼は勢いよくベッドから立ち上がり、ヴァンとの距離を詰めた。
「錯覚なんかじゃねぇ、自惚れろ。オレはあんたに向けて踊った。あの舞台を一番見て欲しかったヤツの為に」
目を丸くしたまま固まっている男の頬を両手で挟み、強引に上を向かせる。
見下ろした前髪の先がヴァンの額にさらりと触れた。
「響いたかよ?本音を吐露するのが止められないくらいに」
自発的に声を塞いだ手を引き剥がし、露わになった唇を親指の腹でやんわりとなぞってみる。
「そ、それって……」
その感触でヴァンの肩が小さく跳ねた。
アーロンからの本気は確実に伝わっている。硬直が解けた顔にはそんな表情が浮かんでいた。
「分かってただろ。オレはあんたと違って一切隠してねぇからな」
「……ずっと半信半疑だったんだよ。しょうがねぇだろ?お前、気まぐれなヤツだし」
近すぎて視線を外すことが難しい状況になり、ヴァンは若干いじけた素振りをみせる。
「俺は、その、惚れてる……とか、言うつもりなんてなかっ……」
これを放って置いたら延々と愚痴を吐きそうな予感がする。
そう思ったアーロンは素早くキスを落として語尾を封じにかかった。
表面が触れるだけのそれは鳥が啄むかのように軽い。
「お、お前!?」
ヴァンは反射的に腰を浮かして離れようとしたが、アーロンが腕を伸ばす動きの方が速かった。
起立しかけた男の身体を引き寄せて抱きしめる。
咄嗟のことで両手が宙ぶらりになったヴァンは支えを失い、アーロンが少し体重を掛けただけで容易くベッドの海に沈み込んだ。
「言わねぇなら引きずり出してやるまでだ。くくっ、オレの勝ちだな」
「……勝手に勝負事にしてんじゃねぇ」
スプリングが軋む音に重なるのは、戯れを含んだ短いやり取り。
ヴァンは本音を吐露してしまった羞恥を引きずりながらも、戸惑い慌てふためくのを止めた。
アーロンに組み伏せられたことが、彼の想いを受け止める最後の一押しになったのだろう。
静かな苦笑を漂わせた眼差しが、今度こそ彼自身の意思で相手へと向けられる。
それに惹きつけられたアーロンが再び唇を落としても、過剰な反応はなく大人しかった。
それならば、もっと欲しくなる。一度味わってしまえば、より大胆に貪り尽くしたくなる。
そんな欲情に囚われている青年の背中へ、押し倒された男の両腕がやんわりと回された。
彼が誘引するような仕草を見せたことで、ベッドの上の空気は一気に高揚した。
深く絡み合う舌先が湿った音を口内に響かせ、聴覚を甘く刺激する。
ヴァンの喉元にひとすじの唾液が伝い流れる様は、やたらと艶めかしかった。
ふと、熱を帯びて荒くなっていく吐息の隙間で彼が囁いた。
「……勝ち逃げは認めねぇからな」
牽制なのか挑発なのか、一時離れたアーロンの下唇に小さく噛み付いてくる。
「はっ、上等だぜ」
ほんのわずかな痛覚ですら快感だ。夜の寝室に黄金の瞳が爛々と輝いた。
※ ※ ※
カーテン越しの陽光を受け、部屋の中に朝の気配が滑り込んでくる。
目を覚ましたヴァンは、古びた天井を見つめながら昨夜のことを思い出していた。
お互いに素直な性格ではないので、身体言語で想いを確かめ合う方法が手っ取り早い。
とは言え、後々を考えればキスまでで抑えられて良かった。
「……危ねぇ、流されちまうところだった」
嬲り合っていたアーロンの唇は、いつの間にか耳元から首筋を辿っていた。
同時に衣服の中へ手が滑り込んできて、荒々しい指先に素肌が浸食されていく。
そこまできて、さすがにマズいと思った。
アーロンが主役の公演はまだしばらく続く。連日舞台に立ち続けるのだから、十分な睡眠は鉄則だ。
彼の昂ぶりを押さえ付けるのは酷だったが、何よりも体調面の心配が先に立つ。
本音を言えば、ヴァンの方とて身体は火照っていたが、心を鬼にして『待て』と睨め付けた。
強引に両肩を掴み、腕力に物を言わせて彼の身体を引き剥がす。
「ヴァン!てめぇ……っ!?」
刹那、アーロンは烈火の如くの憤りを見せた。
だが、すぐに抑制の意味を理解したのだろう。
まるで獣の如く歯を噛みしめて、情欲を払うかのように大きく頭を振った。
「ふぅ……クソが。生殺しじゃねぇかよ」
息を整え心身を落ち着けようとしている彼の声を聞き、ヴァンは心苦しい顔で笑った。
「悪ぃな、アーロン」
まだ熱っぽさを残したままの顔へ片手を伸ばす。
謝罪を込めて頬をひと撫でしてみると、彼はそれで一応は納得してくれた。
覆い被さっていた身体を起こしてベッドの脇に腰掛ける。
「……二度目の『待て』はないからな」
ふて腐れてそっぽを向いてしまった声には、あからさまな恨みがましい響きを感じる。
そんなアーロンに対し、ヴァンはお詫びを兼ねた甘い餌を差し出した。
「続きはお前が無事に千秋楽を終えて事務所に戻ってきてからな。それでいいだろ?」
「その言葉、忘れるんじゃねぇぞ」
すると、彼はすっくと立ち上がり自分のベッドへ勢いよく全身を投げ出したのだった。
回想を終えたヴァンは、仰向けのまま首だけを横に向けた。
アーロンはまだ夢の中のようで、毛布に包まった赤い頭は微動だにしなかった。
昨夜は自分の方が先に寝入ってしまったらしく、彼がすぐに眠りにつけたのかは分からない。
それでも現在はしっかりと熟睡をしているので、ホッと胸をなで下ろした。
「……よく寝てんなぁ」
視線は留めたまま、ゆっくり上半身だけを起こして笑みを浮かべる。
と、その時。
アーロンの枕元に置いてあるザイファから、アラームとおぼしき音が鳴り始めた。
「あ~、うるせぇ」
彼はすぐに反応を示し、かったるそうに頭を動かした。
しかし、アラームを止めるやいなや無造作にザイファを放り投げ、再び寝床に潜り込んでしまった。
それと同時に、ごとり、と堅い物が床に落ちる音がした。
「はぁ、何やってんだか」
ヴァンはベッドから這い出して、勢い余って転がり落ちたザイファを拾ってやった。
「あっ、これ前も付けてたよな」
手の中で蒼い光を煌めかせている意匠には見覚えがある。
庭城で会った時にも、アーロンはこのカバーを装着していた。
あの時はほんの一瞬だけだったので、後になってから見間違いの可能性が頭に過った。
しかし、それは杞憂で終わる。このデザインは確かにヴァンがアーロンに贈ったものだ。
「もしかして、煌都に来てからずっとこれなのか?」
ヴァンは手元のザイファと持ち主を交互に見やる。
互いの想いを確かめ合った後ではそうとしか思えなくなってしまい、一ヶ月前よりも嬉しさが募って口元が綻ぶ。愛おしくて堪らなかった。
「こいつのデレは分かりにくい……おっと?」
またアラームが鳴り出した。どうやら寝坊の防止機能が設定してあったらしい。
アーロンは小さな唸りを発し、毛布の中から腕だけを伸ばして音の発信元を探している。
さっさと起き上がってしまえば良いものを、未練がましく至福の温もりにへばりついていた。
見かねたヴァンは、一つ息を吸い込んでから声を張る。
「起きろ!今日も公演があるんだろ」
一緒に勢いよく毛布を引き剥がすと、彼はようやく上半身を起こした。
「あぁ?」
アラーム音とヴァンの声が同時に聞こえたので違和感を覚えたのだろう。
寝起きも相まった顰めっ面で、ベッドサイドに立つ男を見上げた。
「ったく、扱いが雑すぎんだろ……床に落ちてたぞ」
小言を加えてザイファを差し出し、受け取ったアーロンがすぐさま音を止める。
「知らねぇよ」
「何言ってんだか。お前が放り投げたんだろうが」
まだ寝ぼけ眼だが、取りあえずは起きたみたいだ。
そう判断したヴァンは、一晩借りたベッドを整えようと彼に背を向けた。
「今朝はたまたまだ。いつもなら一発で起きてる」
「そうかよ。ま、舞台絡みだったら寝坊とかしなさそうだな、お前は」
短いやり取りの真っ只中で、アーロンの視線が背中に注がれているのを感じる。
「──もう帰んのか?」
丁度ベッドを綺麗にし終わった時、明らかに不服そうな声が放たれた。
「元から日帰りのつもりだったしな。そっちも準備があるだろ?」
寝る前に脱いだ上着を羽織ってから振り返る。案の定、アーロンはむすっとしていた。
「泊めてくれてありがとな。残りの公演も頑張れよ」
そんな彼に近づいて寝乱れた赤毛をくしゃりとかき混ぜる。
普段なら真っ先にウザがられる行動だが、なぜか今は不機嫌ながらも牙を剥かずにいてくれた。
「そんじゃ、行くからな」
「……おう」
ヴァンは別れの挨拶をして寝室のドアを開けた。
「あ、そうだ」
しかし、部屋を出る寸前になって言い残していることがあったのを思い出す。
「お前さ、そのザイファのカバー。煌都限定じゃなくたっていいんだぜ?」
意地悪げにくつくつと笑いながら、アーロンの手元を指差してみる。
「はっ!?」
昨夜は彼のいいようにされてしまったので、少しくらいは仕返しをしたっていいだろう。
唖然として固まる恋人の顔は、煌都での良い思い出となるに違いなかった。
寝室に一人残されたアーロンは、しばらくの間そのショックから浮上できなかった。
ザイファを握り締めたままベッドに座り込んでいる。
彼にしてみれば、とんでもない失態だった。
煌都に帰ってきてからおよそ二ヶ月。この蒼いカバーが日常的になっていたせいですっかり失念していた。
贈り主であるヴァンには知られたくない一心からだったのに、これでは全く意味がない。
「あの野郎、一体いつから」
と疑問を口にしつつも、よくよく思い返してみれば、相手が気が付くかどうかの問題ではなかった。
昨日ヴァンと待ち合わせをした時から、アーロンは至って普通にザイファを操作していた。
だから、自分から見せびらかしていたも同然だった。
「いや、昨日じゃねぇな。庭城の時からか」
更にもう少し記憶を遡ってみてから考えを改める。
「はぁ……マジかよ」
一ヶ月も前からヴァンに知られていたという事実を突きつけられ、地の底まで落ちていきそうな深い溜息を吐いた。
片手で顔を覆って俯くと、じわじわと熱が集まってくるのを感じる。
ヴァンが最後までこの話題を振ってこなかったのは、彼のさり気ない優しさだったのか。
それとも、意図的に隠していた切り札だったのか。
今となっては真意のほどは解らない。
「年上の余裕ってやつか?チッ、面白くねぇ」
手の中にある蒼色へ苦々しい視線を注ぎながらも、指先はあくまで愛おしげに表面を撫でる。
まだ閉まったままのカーテン越し、朝の陽光はだいぶ明るくなってきた。
それを受けて柔らかな光沢を放っている蒼いカバーは、戯けて笑っているようにも見えた。
「オレが向こうに戻ったら覚悟しとけよ。タダじゃ置かねぇからな」
アーロンは自他共に認めるほどの負けず嫌いな男だった。
朝の弌番街は夜の盛りとは違った賑わいがある。
まだ観光客の出が少ない代わりに、住民たちが忙しなく往来をしていて生活感に溢れていた。
ヴァンは散歩がてらにその雰囲気を堪能し、途中で朝食用の軽食と飲料を購入した。
運転中に片手で食べられる類いのものだ。
その足で昨日から利用している駐車場へ向かう。
「アーロンの奴、怒ってんだろうなぁ」
澄んだ朝気の中で発したのは、言葉の割には明るい独り言。
先刻の彼を思い出せば自然と頬が緩んでしまう。
不服そうな顔をしながらも頭を触らせてくれたのは、別れが名残惜しかったからに違いない。
最後に固まったのは、たぶん──あれが馴染みすぎていて替えたこと自体を忘れていたのだろうと推測した。
「こっちにだって一応は年上の矜持ってもんがあるんでな」
ヴァンの方とて、本当は後ろ髪を引かれる思いだったのだ。
それでも、去り際だけは未練たらしい真似をしたくなかった。
アーロンに言ったら笑われるかもしれないが、少しくらいは格好良い男でいたいのだ。
「あいつが戻ってきた時を想像すると怖い気がするんだが……ま、なんとかなるだろ」
やはり、言葉の割には楽しそうな声。
足取りも軽やかな道程の終点はもう目の前だった。
上着のポケットに手を突っ込んで車のキーを確認する。
そして、道の角を一つ曲がって駐車場を視認した途端、「やっぱりな」という表情で肩を竦めた。
青い愛車の横で、同系色の衣服を纏った黒髪の女性が手を振っている。
「よぉ、どっかで顔を出してくるとは思ってたぜ」
「あたしがお願いしたんだから、見送りくらいはするわよ」
黒月の令嬢はヴァンの顔をじっと見つめ、満足げに小さく頷いた。
「ヴァンさん、なんだかご機嫌ね。良いことあった?」
「……分かってて聞くなっつーの」
ヴァンは運転席側のドアを開けて、先に軽食が入った紙袋を助手席の上に置いた。
「そんなに聞きたきゃ、あいつの方に聞けよ。放ってきたからご機嫌斜めだろうけどな」
そして、そそくさと自分も車に乗り込んでドアウィンドウを開ける。
どこをどう取っても照れ隠しにしか見えない。一連の動きを眺めていたアシェンが、くすくすと声を立てて笑った。
「な、なんだよ?」
窓から顔を出して怪訝そうな上目遣いすると、アシェンは急に居住まいを正した。
「ねぇ、ヴァンさん。改めて、アーロンのことをよろしくね。あいつはまだまだ良い男になるわよ」
そして、朗らかに微笑む。家族とも呼べる彼がようやく手に入れた恋人へ向けて。
「おい、おい……まだ打ち止めじゃねぇのか?勘弁してくれよ」
ヴァンはその確信めいた台詞を聞いて、苦笑どころか冷や汗が出てきそうになった。
一体どこまで惚れさせれば気が済むんだ、と末恐ろしくなる。
「あたしの自慢の幼馴染みだもの、当たり前じゃない」
そんな男の気持ちを知ってか知らずか、アシェンは得意げに腰に手を当ててみせた。
彼女からの見送りの言葉は、それが最後だった。
昨日はわだかまりを抱えて辿った道を、今は軽快な口笛を吹きながらハンドルを握っている。
押し隠していた気持ちを吐露したことで、ヴァンの表情は晴れやかになっていた。
青い空と柔らかな太陽のお陰で、本日もドライブ日和だ。愛車もさぞ喜んでいることだろう。
「帰り道はご機嫌だなんて、あのガキがへそを曲げちまいそうだ」
彼はそう言いながら暢気に運転していたが、唐突にあることを思い出した。
もはや大したことではないのだが、ずっと小さな引っかかりを覚えていた疑問。
庭城での別れ際、アーロンは口にしかけた言葉を飲み込んだ。
あの時、彼は何を言いたかったのだろうか?
「あれって、やっぱり……」
しかし、昨夜のアーロンの言動を思い返すと、答えは意外にすんなり落ちてきた。
「あいつ、俺を誘いたかったんだな」
声に出してみた途端、無性に彼を可愛く感じてしまって笑いが込み上げてくる。
「いつもの押しの強さはどこへ行っちまってたんだか」
首都イーディスまでの帰り道はまだ始まったばかり。
けれども、彼のことを考えている時間は本当に楽しくて、この距離さえも瞬く間に走り終えてしまいそうな気がした。
2024.05.01
首都イーディスを拠点にしているヴァンにとっては久しぶりの海景だ。
空を染める茜色は海面へと溶け込み、小波の煌めきを有して遙か彼方まで広がっていた。
吹き渡る潮風は穏やかだったが、昼間よりも少し肌寒くなっている。
それは観劇の余韻を残している彼にとって心地良い涼感だった。
待っている間にしっかりと気持ちを落ち着かせることができる。
アーロンが待ち合わせ場所に指定してきたのは、賑わいから離れた静かな波止場の辺りだった。
大規模に整備されている港湾区とは違い、住民たちが生業に使用している小舟が数隻泊まっているだけだ。
そろそろ夕飯時とあってこれから出航する船はなく、人影もまばらだった。
そんな場所のおかげで、すぐに待ち人がこちらに歩いてくる気配を感じ取れる。
ヴァンは黙って空と海の狭間を眺めやっていた。
「なに黄昏れてんだよ、オッサン」
背後から声をかけられて振り返る。
「全然、似合ってねぇぞ」
煌びやかな衣装とは一転、いつもの装いをしたアーロンが笑みを刷いて立っていた。
「第一声がそれかよ。相変わらず口の減らねぇヤツだな」
およそ二ヶ月ぶりの生身での対面は、当たり前のように遠慮がない言葉遊びから始まった。
ひとしきり挨拶代わりのじゃれ合いを楽しんだヴァンは、まず先に相手を労う。
「……っと、まぁ、取りあえずお疲れさん。見応えのある良い舞台だったぜ」
嬉しさも相まって、つい赤い頭を撫でまわしたくなった。
しかし、彼との距離が三歩分ほどはあるし、嫌がられるのは確実なので諦める。
「ま、当然だろ──それより、『色々あって』を聞かせろよ。どうせアシェンのヤツだろ?」
そんな葛藤を知らないアーロンは、ありきたりな賛美をさらりと流して別の話題で返した。
彼の立場からすれば、それが最も気になるところだろう。
「う~ん、間違っちゃいねぇけど。確実に一枚噛んでるのはアニエスと、たぶんジュディスも……」
「あいつの独断じゃねぇのかよ?」
自信満々に幼馴染みの名前を出してみたが、そうも単純な話ではなかったらしい。
意外だと言わんばかりの顔で食い気味になる。
「そうだなぁ……今思えば、発端は二週間くらい前のあれだったか」
あまりの凝視っぷりに堪えきれず、ヴァンは気乗りがしない中でぽつりぽつりと話し始めた。
アニエスとジュディスが事務所に来ていた時、アーロンの話題になったこと。
彼女らはヴァンがアーロンに招待されていると思い込んでいたこと。
されていないと知ってひどく驚かれたこと。
「それで終わりかと思いきや、昨日になっていきなりアシェンから連絡があってよ」
彼の説明は簡潔と表せば聞こえは良いが、後半はご都合主義全開でかなりの端折り具合だった。
例えば、前払いのスイーツの誘惑には逆らえなかっただとか。
「……チッ、あいつら好き勝手やりやがって」
普段のアーロンであれば、それに違和感を覚えて突っ込んできそうなものだが、今は違っていた。
苦々しい表情をしながら独り言のように吐き捨てる。
「ん?なんか言ったか?」
それは本当に小さくてヴァンの耳にまでは届かない。
怪訝に思ったが、アーロンは軽く頭を振るだけだった。
「なんでもねぇよ。昨日の今日じゃ、急だったな」
「まったくだぜ。移動の時間だって馬鹿にならねぇからな」
予期せぬ共感を得た男は、大袈裟なくらいに何度も頷いた。
アーロンが急に大人しくなってしまったが、元から気分屋な所があるので大して気にも留めなかった。
それとなく彼の顔色を窺い、たぶん大丈夫だろうと判断したヴァンは遠慮がちに切り出した。
「そんなわけで、帰る前に腹ごしらえといきたいんだが……」
地元の、しかも生まれ育った弌番街であれば、飲食店の類いは幅広く網羅している。
店選びを任されたアーロンは、少しばかり思案してから動き出した。
道すがらの会話は他愛もないものだったが、ヴァンは楽しそうにしている。
それに対して、アーロンの方は自己嫌悪でいっぱいだった。
この一件の発端は自分が彼を誘えなかったことに他ならない。
女性陣に意気地がない部分を見透かされて世話を焼かれた形になる。
それでも結果だけを見れば、ヴァンに演舞を披露できた上に、今はこうして二人だけの時間を過ごしているのだ。
お節介な彼女たちに悪態を吐きたい気持ちと、図らずも望みが叶ってしまった嬉しさとが煩雑に絡み合う。
「……アーロン?もしかしてお疲れか?」
どうやら知らぬ間に口数が少なくなっていたようだ。
ヴァンが気遣わしげな視線を投げてくる。
「あぁ?問題ねぇ」
アーロンは鬱陶しいとばかりに睨み返し、いきなり歩調を速めて先行し始めた。
目抜き通り周辺には大小様々な店がひしめいているが、そこを外して人通りの少ない方へと向かう。
すれ違うのは観光客ではなく街の住民ばかりだ。気さくに声をかけてくる彼らと挨拶を交わしつつ、角をいくつか曲がって袋小路に入る。
突き当たりには小さいながらも落ち着いた店構えの飲食店があった。いかにも隠れ家といった雰囲気だ。
「へぇ?こんな所に店があったのか。知らなかったな」
「静かに飯が食いたい時には丁度良い。昔……名前は忘れちまったが有名どころで料理長やってた爺さんだから、味は保証するぜ」
興味津々で建物を見上げているヴァンに説明をし、引き戸になっている入り口を開けて中へと促した。
今は騒がしい場所で過ごす気分ではなかった。
せっかく二人きりの時間を持てるのだから、邪魔はされたくない。
店内に入ると、店主が奥の厨房から顔を覗かせていた。
軽く声を掛けてからぐるりと中を見渡し、壁際の一画に席を取る。
すでに数人の客が食事を楽しんでおり、鼻腔をくすぐる香りが漂っていた。
ほどなくして給仕の女性がやってきたので、各々に注文をする。
「ここ、よく来るのか?」
「公演中は特にな」
「夜な夜な酒盛りをするわけにはいかねぇとか?」
注文した料理を待っている間、ヴァンがここぞとばかりに質問を重ねてくる。
「あのなぁ……理由はそこじゃねぇ。外から観劇しにきたヤツらが擦り寄ってくるんだよ。街のヤツらとは勝手が違うんで扱いにくい」
アーロンは面倒くさそうに応じながら、給仕が置いていった水を喉へ流し込む。
「あぁ、なるほどな。さすがは人気役者さま」
「推しだのなんだのってのは素直に嬉しいが、オフにまで突っ込んでこられるのはなぁ」
「それでこの店か。俺が華劇場にいた時も女性客が多かったもんな」
つい愚痴っぽくなってしまったが、向かい席の男は妙に何度も相槌を打った。
「特に今回は女形じゃねぇし。前にうちの奴らがポスター見て騒いで……あっ」
ヴァンは更に言葉を続けたが、
「いや、そうじゃなく……ん~」
途中で何かを思い出し、悩ましげに顔を歪めた。もの言いたげな瞳がアーロンに向けられる。
「なんかあるならハッキリ言いやがれ」
「その、な。ちょいと気になってたことがあって」
一度上げた声を目の前で飲み込まれるのは不愉快だ。
鋭い眼光で穿つと、歯切れの悪い小さな声が聞こえてくる。
「先に言っとくが、たかってるとかじゃなくてな……お前、何で誰も招待しなかったんだ?」
それは予想だにしなかったもので、アーロンを吃驚させた。
「お前の性格だったら、うちの奴ら一纏めでチケットの大盤振る舞いとかしそうな気がしたからよ」
「……それは」
言われて、はたと気が付いた。
二ヶ月前、煌都に帰ってきた時点では確かにそう思っていたはずだ。
すぐに手配すれば良かったものを、稽古に追われる日々の中ですっかり忘れてしまっていたらしい。
一ヶ月前に庭城を訪れた時、思い出すチャンスはあったものの、ヴァンに会いたい一心で彼を誘うことしか頭になかった。
「なんつーか、まぁ……色々と忙しくてよ。頭からすっぽ抜けてた」
もう済んでしまったことだが、彼にしてみれば結構なレベルの失態だ。
最初からみんなを招待していれば、ここまで拗れることもなかっただろう。
とはいえ、ヴァンだけに向けて舞いたいという願望があったのも事実。
波止場で待ち合わせてからこの方、アーロンの胸中は複雑だった。
頬杖をついて気まずそうに顔を逸らす。
「要するに、招待するつもりだったが忘れちまったってわけか」
答えを聞いたヴァンは、気分転換だと言って庭城を走り回っていた青年の姿を回想し、納得した様子で微笑した。
「そんだけ根詰めてたんだろ」
思慮が滲んだ声音は柔らかく、返す言葉が見つからなくなったアーロンは黙り込んだ。
そろそろ料理ができる頃ではないかと、助けを求めるかのように厨房へ目をやる。
すると、タイミング良く給仕の女性が二人の元へやってきた。
テーブルの上には注文した料理たちが次々と並べられていく。
熱々の湯気と美味しそうな香りを立ち上らせているのは、色とりどりの采や炊きたての米。
アーロンはすぐさま箸に手を付ける。
空腹の加減も相まって、この場の空気を誤魔化すには都合が良かった。
夕食時も盛りの頃。
入店した時には客もまばらだった店内は、いつの間にか満席になっていた。
食事と共に酒を楽しんでいる者も多いが、喧噪はなく適度な雑音が居心地の良い空間を作り出している。
アーロンが贔屓にするのも頷ける、とヴァンは密かに思った。
二人のテーブルに置かれている皿は、もうほとんどが空だ。
よほど腹が空いていたのだろうか?真向かいの青年は良い食べっぷりを披露していたが、話しかければ応じてくれるので、食事時の過ごし方としては満足だった。
(そろそろ帰らねぇとなぁ……)
お開きの時間が近づいてくるにつれ、寂しさが込み上げてくる。
そんな時、唐突に短い呼び出し音が鳴った。
「ん?オレか」
アーロンが箸を置いてポケットからザイファを取り出した。
どうやらメッセージが届いたらしい。彼は内容を確かめ、素早く返信を打ち込み始めた。
「なんかあったのか?もし急用なら……」
「違うって。役者連中からのお誘い。軽く飲んでるから気が向いたら顔出せよって」
プライベートに立ち入るのは憚られたが、彼は頓着せずにわざわざ画面を見せて教えてくれた。
「なら、行ってこいよ。こっちはもう食べ終わっちまうだろ?」
どう切り出そうかと思案していたヴァンにとっては、渡りに船だった。
「俺の方は車だからなぁ。酒までは付き合えねぇし」
苦笑を交えた言葉の語尾に、アーロンがザイファを閉じる音が重なる。
「……だったら泊まっていけばいいじゃねぇか」
続けて不機嫌そうな低い声が添えられた。
思わず目を剥くと、どこか怒っているような両眼とぶつかる。
「今からかよ?そんな出費は想定してねぇぞ、マジで」
これから宿泊場所を確保しろとでも言うつもりなのか。
多少強引な部分がある性格なのは承知しているが、金を出せとはあんまりだ。
困惑したヴァンは前屈みになって彼の真意を探ろうとした。
すると、アーロンはいきなり給仕を呼んで追加の注文をし始めた。
黙って聞いていれば、酒とつまみの名前ばかりが連なっていく。
「お、おい!?」
給仕が下がった後にヴァンは抗議の声を上げた。しかし、返ってきたのは思いも寄らない一言だった。
「……オレのとこでいいだろ?寝るだけなら問題ねぇ」
ぶっきらぼうな言葉はあまりに衝撃的で、開いた口が塞がらなくなってしまった。
そうこうしている内に、酒とつまみが運ばれてくる。
心中では寂しさが募るくらい、アーロンとの時間が名残惜しかったのは確かだ。
しかし、いざ目の前にささやかな酒宴が広げられると、あまりの急展開で気持ちがすぐには付いてこない。
「さっきの断ったのか?あっちの方がたくさん飲めるだろ?」
「は?量なんて関係ねぇだろうが。重要なのはオレが誰と飲みたいかってことだけだ」
要領を得ない上に弱腰な抵抗は、一刀のもとに斬り伏せられる。
「そ、そうか」
もう完全にお手上げだ。そう思った矢先、鈍足気味だった心がようやく現実に追い付いてきた。
仲間からの誘いを受けた時、アーロンは即座に断りを入れたのだろう。今ならそれがはっきりと分かる。
もしかしたら、こちらが先に解散を切り出さなかったとしても、最初から泊まれと言うつもりだったのかもしれない。それがまさか自宅だとは想像だにしなかったけれど。
「もう頼んじまったし。お前がそう言うなら……少しだけな」
ヴァンはそう言って酒杯に手を伸ばした。
もう少し彼との時間を共有できる。
滲み出てくる嬉しさを噛みしめると、それにつられて目元が蕩ける。
まだ一口も飲んでいないのに、酔いが回りそうだった。
※ ※ ※
ひとしきり酒を愉しんでから店を出ると、街はすでに夜の雰囲気に包まれていた。
街灯や店の明かりが行く先々で揺らめいている。
今は公演中ということもあり飲酒を控えめにしているので、アーロンにしてみれば正直かなり物足りない。
けれど、それは大した問題ではなかった。
「お前、ほんとにあんな量で良かったのか?」
「だから、量じゃねぇんだよ。大体、オレが飲んでたのはそっちのよりはるかにキツい酒だ」
隣を歩いているこの男のペースで酒杯を傾けられたのならば、それでいい。
「そうだったのか?水みたいに飲んでやがったから分からなかったぜ」
「てめぇが飲んだら一杯で目が回る」
そこはかとなく酔いが漂っているくらいが──自宅へ連れて行くには最適だ。
アーロンは普段よりも口数が多いヴァンの相手をしながら、ゆっくりと帰路を歩んだ。
彼と会ってからずっと抱え続けていた自己嫌悪は、酒が入ったお陰でようやく薄らいできた。
自宅への距離が近づくのに伴って気持ちが切り替わっていく。
今日ヴァンが煌都にいる経緯は捨て置き、目の前に用意された舞台があるのなら遠慮なく利用してやろうと思った。
アーロンが住んでいるのは質素な家々が立ち並ぶ居住地区だった。
父が煌都を追放されて以降は母と二人で暮らしてきた家だ。
彼は玄関のドアを開けて中に入りながら照明をつけた。
薄い暗闇は暖色の明かりに上書きされ、必要な家具だけが置いてある素朴な室内が露わになった。
「入れよ」
「おう、邪魔するぜ」
幼い頃から慎ましい暮らしぶりだったので、家の間取りも最小限だ。
玄関をくぐった先にはキッチンと二人掛けのテーブルが併設されている一室。その奥はドアを隔てて寝室になっている。
「へぇ、綺麗にしてるんだな」
ヴァンがテーブルの横で立ち止まり、興味深げに部屋の中を見回した。
「ほとんど寝るだけだからな。余計なもんは置いてねぇだけだ」
二ヶ月ほど前に帰ってきてからは稽古三昧だったし、食事も外で済ませている。
夜は夜で街をぶらついているので、まともに使用している家具はベッドくらいなものだった。
だが、さすがに起床した時には誰かを泊める想定はしていなかった。
急にベッド周りが気になってしまったアーロンは、テーブルの椅子に目配せをする。
「適当にその辺で寛いでろ。ちょっと片付けてくる」
そして、ヴァンの応答をそっちのけで寝室に足を向けた。
中に入ると真正面の壁には窓が一つあり、今朝方にカーテンを開けたままの状態だった。
左右の壁沿いにはベッドが一台ずつ設置されている。
アーロンが使用しているのは向かって右側にあるもので、もう片方は一応来客用として整えられていた。
とはいえ、彼が自宅に誰かを招くことなど皆無だ。自身がほとんどの時間を外で過ごしているのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。
室内を見回して特に問題がなさそうだと判断する。
たまに服を脱ぎ散らかして放置している場合もあるのだが、幸い今日はそこまで荒れていなかった。
最後に夜色を映しているガラス窓にカーテンを引く。
そこで彼は視線を落とした。
窓の下には小ぶりのチェストがあり、天板には写真立てが乗っている。
「……お袋はあの野郎の為に舞いたいと思ったことはあんのか?」
アーロンはあたかも墓参りの延長みたいに呟いた。
あの演舞はあいつに届いただろうか?響いただろうか?
ヴァンは食事の時も酒を飲んでいる時も舞台のことを褒めてくれたが、なぜか抽象的な文言ばかりだった。
「オレはそう思った。今日あいつを見つけた瞬間に」
写真の中の彼女は、華やかな舞台衣装の姿で柔和に微笑んでいる。
「だから答えが欲しい」
それに向かって対話の形を模しただけの独り言。
「色々とダダ漏れなのは今に始まったことじゃねぇけど」
本人は隠し通しているつもりなのだろうが、ふとした仕草の中にそれとなく滲むものがある。
ときおり控えめに注がれる視線が言外に想いを訴えてくる。
アーロンはそれに気が付かないほど鈍い男ではなかった。
彼にはヴァンから恋い慕われているという自負がある。それこそ完璧な確率で。
「それでも言葉が欲しい。オレが伝えた分だけ返してほしい」
物言わぬ美しい肖像は、墓参りの時と同じで優しい空気を纏い見守ってくれている。
そこに声はなくても、ただ、自分を奮い立たせる為に言いたかった。
家の主であるアーロンの意を汲んだヴァンは、椅子に座って寝室が整うのを待つことにした。
卓上に頬杖をつきながら、何気なく周りを観察してみる。
イーディスにある彼の部屋のイメージが念頭にあったので、初見では意外に思った。
向こうに比べれば質素で殺風景な印象だが、よく見れば長年積み重ねてきた生活の欠片がいくつも転がり落ちている。
わざわざ聞かなくても、ここが幼い頃から家族と過ごしてきた大切な場所であるのが分かった。
「いきなり自宅とか……不意打ちすぎんだろ」
言下に小さな吐息を零す。
正直なところ、ヴァンは緊張していた。
表面上は平静を保っているつもりだが、店を出る頃になってからというもの、ずっとそわそわと落ち着かない気分だった。
昼間の舞台の余韻は未だ消えず、胸の奥底では火傷の痕がじりじりと燻ったまま。
「はぁ……ボロが出なきゃいいんだが」
そんな状態で惚れた男の家にいる。
アーロンがどういった心境で自宅に招いてくれたのかが分からず、どう出てくるのかも予測ができない。
彼と夕食を取り始めた時は純粋に嬉しかったはずなのに、今や不安でいっぱいだ。
「これじゃ寝付ける気がしねぇけど、さっさと寝ちまいてぇ」
そうぼやいたヴァンは、椅子に腰掛けたまま寝室の様子を覗った。
ドアは半開きになっていて、隙間からは赤い後頭部が見え隠れしている。
周囲を整えているのかと思いきやそれらしい動きはなく、ただ部屋の奥に佇んでいるようだった。
ヴァンは怪訝な顔をしてドアの向こうに視線を留めた。そうやってしばらくアーロンを注視していたが、いつまで経っても変化は訪れない。
「あいつ、どうしたんだ?」
物音一つすらしない状況が心配になり、彼はついに立ち上がった。
──コンコン。
不意にドアを叩く音が聞こえ、アーロンはハッと振り返った。
「え~っと、悪ぃ。なかなか戻ってこないもんだから、気になっちまって」
ドアの隙間から、ヴァンが申し訳なさそうに顔を覗かせている。
「別に問題ねぇ。ただの意思表示っつーか……まぁ、いい。入ってこいよ」
そう言って促してみると、彼はそろそろと足を踏み入れてきた。
チェストの上に置いてある写真立てに気づき、腰をかがめてそれを見る。
「これ、お袋さんか。綺麗な人だなぁ」
感嘆は穏やかな響きを伴い、更に言葉が付いてくる。
「役者として、彼女の域には近づけたか?」
「まだまだ足りねぇな。お袋はマジで凄かった」
在りし日の彼女の舞台を回顧したアーロンは、誇らしげに写真を一瞥した。
「そうか。でも、今日のお前も凄かったぞ」
しかし、傍らに立っている男の真摯な口ぶりにピクリと眉尻が跳ね上がる。
「そりゃ、どうも」
今夜はこれで何度目だろうか。また、漠然とした褒め言葉が耳元を通り過ぎていく。
アーロンは口を引き結び、身を投げ出すようにして自分のベッドに座った。
「──そこに座れ」
「な、なんでだよ?」
有無を言わせぬ命令口調で空いているベッドを指さすと、ヴァンが困惑を露わにした。
「座れ。てめぇに聞きたいことがある」
もう一度言う。すると彼は渋々ながらも指先の場所へ腰を下ろした。
この住宅の広さを考えれば、寝室の平面積はたかがしれている。
二台のベッドの距離は大人の歩幅で二歩程度。対面で座してみると思いのほか近かった。
これなら表情の機微まで読み取れる。下手な誤魔化しもできないだろう。
アーロンはやや前屈みになり、開いた膝の上に指を組んでどっしりと構えた。
上目で見据える眼光は相手を射殺してしまいそうに強い。
「何を……だ?」
ヴァンにとっては急変した以外の何物でもないはずだ。緊張からか唾を飲み込む音がする。
「凄いとか良かったとか、そういうのは聞き飽きた」
そんな中でアーロンが静かに口を開いた。
「舞台全体のことじゃねぇ。オレがソロで踊ってるのを見てどう思った?」
使い込まれて擦れた床板には、その問いだけが落とされた。
「一番の見せ場だ。何も感じなかったわけじゃねぇだろうが。はぐらかすつもりかよ」
追い詰めて退路を塞ぐ。
答えを引きずり出すまで寝かせるつもりはないと、暗に睨みを利かせてみせた。
ヴァンは何度か瞬き、更に数拍をおいてから気まずそうに視線を彷徨わせ始めた。
「……あれは上手く言葉にできねぇ」
「体裁なんて必要か?そのまま曝け出せばいい」
胸元を握り締めながら口を濁す様はどことなく苦しげだった。嘘偽りがないことは一目で分かる。
それでも追及を緩める気はなかった。ヴァンに対しては多少の強引さが必要だと、これまでの経験から学んでいる。
いつだってそうだ。アーロンとの付き合いにおいて、この男は自分の欲を優先させようとはしない。
そのくせに脇が甘いせいで、簡単にその心中を察することができてしまう。
「無茶振りしやがって……無理なんだよ。思い出すと胸が焼かれたみたいに息が詰まる。感情が……持っていかれそうになる」
ヴァンの声は微かに震えていた。より強く胸元を握り締め、床の一点を見つめ続けている。
「観客は俺だけじゃなかったのに、錯覚しそうだった。お前が誰の為に気迫の演舞をしているのかって」
無理と言いながらもひとたび唇が動き始めてしまうと、それを皮切りに切々とした言の葉が紡ぎ出されていく。
顔を伏せてしまった男の胸中は、込み上げてくる想いでいっぱいなのだろう。
アーロンはその独白を黙って聞いていた。
嵩を増した心の器はすでに上限いっぱいだと目測をする。
そして、それが溢れ出してしまうのを待っている。
「……違う、しそうだったじゃない。ほんの一時でもそう思っちまった」
あと、少し。まるで懺悔のような一滴。
「だから、嬉しかった。愛おしいだとか見惚れていたいとか、気持ちの収拾が付かなくなって……」
もう、寸前。最後の一滴が満杯の器に静かに落ちていく音がする。
「──あっ」
同時にヴァンがハッと顔を上げ、口元を片手で覆った。
彼にとっては失言だったのだろう。けれど、一度溢れてしまったら再び隠すことなどできはしない。
吃驚した瞳が相対している青年に向けられ、ようやく互いの視線がぶつかった。
「届いたかよ?オレの執心ぶりが」
アーロンは一瞬だけ不敵に口角をつり上げた。ようやく引きずり出してやったと言わんばかりに。
彼は勢いよくベッドから立ち上がり、ヴァンとの距離を詰めた。
「錯覚なんかじゃねぇ、自惚れろ。オレはあんたに向けて踊った。あの舞台を一番見て欲しかったヤツの為に」
目を丸くしたまま固まっている男の頬を両手で挟み、強引に上を向かせる。
見下ろした前髪の先がヴァンの額にさらりと触れた。
「響いたかよ?本音を吐露するのが止められないくらいに」
自発的に声を塞いだ手を引き剥がし、露わになった唇を親指の腹でやんわりとなぞってみる。
「そ、それって……」
その感触でヴァンの肩が小さく跳ねた。
アーロンからの本気は確実に伝わっている。硬直が解けた顔にはそんな表情が浮かんでいた。
「分かってただろ。オレはあんたと違って一切隠してねぇからな」
「……ずっと半信半疑だったんだよ。しょうがねぇだろ?お前、気まぐれなヤツだし」
近すぎて視線を外すことが難しい状況になり、ヴァンは若干いじけた素振りをみせる。
「俺は、その、惚れてる……とか、言うつもりなんてなかっ……」
これを放って置いたら延々と愚痴を吐きそうな予感がする。
そう思ったアーロンは素早くキスを落として語尾を封じにかかった。
表面が触れるだけのそれは鳥が啄むかのように軽い。
「お、お前!?」
ヴァンは反射的に腰を浮かして離れようとしたが、アーロンが腕を伸ばす動きの方が速かった。
起立しかけた男の身体を引き寄せて抱きしめる。
咄嗟のことで両手が宙ぶらりになったヴァンは支えを失い、アーロンが少し体重を掛けただけで容易くベッドの海に沈み込んだ。
「言わねぇなら引きずり出してやるまでだ。くくっ、オレの勝ちだな」
「……勝手に勝負事にしてんじゃねぇ」
スプリングが軋む音に重なるのは、戯れを含んだ短いやり取り。
ヴァンは本音を吐露してしまった羞恥を引きずりながらも、戸惑い慌てふためくのを止めた。
アーロンに組み伏せられたことが、彼の想いを受け止める最後の一押しになったのだろう。
静かな苦笑を漂わせた眼差しが、今度こそ彼自身の意思で相手へと向けられる。
それに惹きつけられたアーロンが再び唇を落としても、過剰な反応はなく大人しかった。
それならば、もっと欲しくなる。一度味わってしまえば、より大胆に貪り尽くしたくなる。
そんな欲情に囚われている青年の背中へ、押し倒された男の両腕がやんわりと回された。
彼が誘引するような仕草を見せたことで、ベッドの上の空気は一気に高揚した。
深く絡み合う舌先が湿った音を口内に響かせ、聴覚を甘く刺激する。
ヴァンの喉元にひとすじの唾液が伝い流れる様は、やたらと艶めかしかった。
ふと、熱を帯びて荒くなっていく吐息の隙間で彼が囁いた。
「……勝ち逃げは認めねぇからな」
牽制なのか挑発なのか、一時離れたアーロンの下唇に小さく噛み付いてくる。
「はっ、上等だぜ」
ほんのわずかな痛覚ですら快感だ。夜の寝室に黄金の瞳が爛々と輝いた。
※ ※ ※
カーテン越しの陽光を受け、部屋の中に朝の気配が滑り込んでくる。
目を覚ましたヴァンは、古びた天井を見つめながら昨夜のことを思い出していた。
お互いに素直な性格ではないので、身体言語で想いを確かめ合う方法が手っ取り早い。
とは言え、後々を考えればキスまでで抑えられて良かった。
「……危ねぇ、流されちまうところだった」
嬲り合っていたアーロンの唇は、いつの間にか耳元から首筋を辿っていた。
同時に衣服の中へ手が滑り込んできて、荒々しい指先に素肌が浸食されていく。
そこまできて、さすがにマズいと思った。
アーロンが主役の公演はまだしばらく続く。連日舞台に立ち続けるのだから、十分な睡眠は鉄則だ。
彼の昂ぶりを押さえ付けるのは酷だったが、何よりも体調面の心配が先に立つ。
本音を言えば、ヴァンの方とて身体は火照っていたが、心を鬼にして『待て』と睨め付けた。
強引に両肩を掴み、腕力に物を言わせて彼の身体を引き剥がす。
「ヴァン!てめぇ……っ!?」
刹那、アーロンは烈火の如くの憤りを見せた。
だが、すぐに抑制の意味を理解したのだろう。
まるで獣の如く歯を噛みしめて、情欲を払うかのように大きく頭を振った。
「ふぅ……クソが。生殺しじゃねぇかよ」
息を整え心身を落ち着けようとしている彼の声を聞き、ヴァンは心苦しい顔で笑った。
「悪ぃな、アーロン」
まだ熱っぽさを残したままの顔へ片手を伸ばす。
謝罪を込めて頬をひと撫でしてみると、彼はそれで一応は納得してくれた。
覆い被さっていた身体を起こしてベッドの脇に腰掛ける。
「……二度目の『待て』はないからな」
ふて腐れてそっぽを向いてしまった声には、あからさまな恨みがましい響きを感じる。
そんなアーロンに対し、ヴァンはお詫びを兼ねた甘い餌を差し出した。
「続きはお前が無事に千秋楽を終えて事務所に戻ってきてからな。それでいいだろ?」
「その言葉、忘れるんじゃねぇぞ」
すると、彼はすっくと立ち上がり自分のベッドへ勢いよく全身を投げ出したのだった。
回想を終えたヴァンは、仰向けのまま首だけを横に向けた。
アーロンはまだ夢の中のようで、毛布に包まった赤い頭は微動だにしなかった。
昨夜は自分の方が先に寝入ってしまったらしく、彼がすぐに眠りにつけたのかは分からない。
それでも現在はしっかりと熟睡をしているので、ホッと胸をなで下ろした。
「……よく寝てんなぁ」
視線は留めたまま、ゆっくり上半身だけを起こして笑みを浮かべる。
と、その時。
アーロンの枕元に置いてあるザイファから、アラームとおぼしき音が鳴り始めた。
「あ~、うるせぇ」
彼はすぐに反応を示し、かったるそうに頭を動かした。
しかし、アラームを止めるやいなや無造作にザイファを放り投げ、再び寝床に潜り込んでしまった。
それと同時に、ごとり、と堅い物が床に落ちる音がした。
「はぁ、何やってんだか」
ヴァンはベッドから這い出して、勢い余って転がり落ちたザイファを拾ってやった。
「あっ、これ前も付けてたよな」
手の中で蒼い光を煌めかせている意匠には見覚えがある。
庭城で会った時にも、アーロンはこのカバーを装着していた。
あの時はほんの一瞬だけだったので、後になってから見間違いの可能性が頭に過った。
しかし、それは杞憂で終わる。このデザインは確かにヴァンがアーロンに贈ったものだ。
「もしかして、煌都に来てからずっとこれなのか?」
ヴァンは手元のザイファと持ち主を交互に見やる。
互いの想いを確かめ合った後ではそうとしか思えなくなってしまい、一ヶ月前よりも嬉しさが募って口元が綻ぶ。愛おしくて堪らなかった。
「こいつのデレは分かりにくい……おっと?」
またアラームが鳴り出した。どうやら寝坊の防止機能が設定してあったらしい。
アーロンは小さな唸りを発し、毛布の中から腕だけを伸ばして音の発信元を探している。
さっさと起き上がってしまえば良いものを、未練がましく至福の温もりにへばりついていた。
見かねたヴァンは、一つ息を吸い込んでから声を張る。
「起きろ!今日も公演があるんだろ」
一緒に勢いよく毛布を引き剥がすと、彼はようやく上半身を起こした。
「あぁ?」
アラーム音とヴァンの声が同時に聞こえたので違和感を覚えたのだろう。
寝起きも相まった顰めっ面で、ベッドサイドに立つ男を見上げた。
「ったく、扱いが雑すぎんだろ……床に落ちてたぞ」
小言を加えてザイファを差し出し、受け取ったアーロンがすぐさま音を止める。
「知らねぇよ」
「何言ってんだか。お前が放り投げたんだろうが」
まだ寝ぼけ眼だが、取りあえずは起きたみたいだ。
そう判断したヴァンは、一晩借りたベッドを整えようと彼に背を向けた。
「今朝はたまたまだ。いつもなら一発で起きてる」
「そうかよ。ま、舞台絡みだったら寝坊とかしなさそうだな、お前は」
短いやり取りの真っ只中で、アーロンの視線が背中に注がれているのを感じる。
「──もう帰んのか?」
丁度ベッドを綺麗にし終わった時、明らかに不服そうな声が放たれた。
「元から日帰りのつもりだったしな。そっちも準備があるだろ?」
寝る前に脱いだ上着を羽織ってから振り返る。案の定、アーロンはむすっとしていた。
「泊めてくれてありがとな。残りの公演も頑張れよ」
そんな彼に近づいて寝乱れた赤毛をくしゃりとかき混ぜる。
普段なら真っ先にウザがられる行動だが、なぜか今は不機嫌ながらも牙を剥かずにいてくれた。
「そんじゃ、行くからな」
「……おう」
ヴァンは別れの挨拶をして寝室のドアを開けた。
「あ、そうだ」
しかし、部屋を出る寸前になって言い残していることがあったのを思い出す。
「お前さ、そのザイファのカバー。煌都限定じゃなくたっていいんだぜ?」
意地悪げにくつくつと笑いながら、アーロンの手元を指差してみる。
「はっ!?」
昨夜は彼のいいようにされてしまったので、少しくらいは仕返しをしたっていいだろう。
唖然として固まる恋人の顔は、煌都での良い思い出となるに違いなかった。
寝室に一人残されたアーロンは、しばらくの間そのショックから浮上できなかった。
ザイファを握り締めたままベッドに座り込んでいる。
彼にしてみれば、とんでもない失態だった。
煌都に帰ってきてからおよそ二ヶ月。この蒼いカバーが日常的になっていたせいですっかり失念していた。
贈り主であるヴァンには知られたくない一心からだったのに、これでは全く意味がない。
「あの野郎、一体いつから」
と疑問を口にしつつも、よくよく思い返してみれば、相手が気が付くかどうかの問題ではなかった。
昨日ヴァンと待ち合わせをした時から、アーロンは至って普通にザイファを操作していた。
だから、自分から見せびらかしていたも同然だった。
「いや、昨日じゃねぇな。庭城の時からか」
更にもう少し記憶を遡ってみてから考えを改める。
「はぁ……マジかよ」
一ヶ月も前からヴァンに知られていたという事実を突きつけられ、地の底まで落ちていきそうな深い溜息を吐いた。
片手で顔を覆って俯くと、じわじわと熱が集まってくるのを感じる。
ヴァンが最後までこの話題を振ってこなかったのは、彼のさり気ない優しさだったのか。
それとも、意図的に隠していた切り札だったのか。
今となっては真意のほどは解らない。
「年上の余裕ってやつか?チッ、面白くねぇ」
手の中にある蒼色へ苦々しい視線を注ぎながらも、指先はあくまで愛おしげに表面を撫でる。
まだ閉まったままのカーテン越し、朝の陽光はだいぶ明るくなってきた。
それを受けて柔らかな光沢を放っている蒼いカバーは、戯けて笑っているようにも見えた。
「オレが向こうに戻ったら覚悟しとけよ。タダじゃ置かねぇからな」
アーロンは自他共に認めるほどの負けず嫌いな男だった。
朝の弌番街は夜の盛りとは違った賑わいがある。
まだ観光客の出が少ない代わりに、住民たちが忙しなく往来をしていて生活感に溢れていた。
ヴァンは散歩がてらにその雰囲気を堪能し、途中で朝食用の軽食と飲料を購入した。
運転中に片手で食べられる類いのものだ。
その足で昨日から利用している駐車場へ向かう。
「アーロンの奴、怒ってんだろうなぁ」
澄んだ朝気の中で発したのは、言葉の割には明るい独り言。
先刻の彼を思い出せば自然と頬が緩んでしまう。
不服そうな顔をしながらも頭を触らせてくれたのは、別れが名残惜しかったからに違いない。
最後に固まったのは、たぶん──あれが馴染みすぎていて替えたこと自体を忘れていたのだろうと推測した。
「こっちにだって一応は年上の矜持ってもんがあるんでな」
ヴァンの方とて、本当は後ろ髪を引かれる思いだったのだ。
それでも、去り際だけは未練たらしい真似をしたくなかった。
アーロンに言ったら笑われるかもしれないが、少しくらいは格好良い男でいたいのだ。
「あいつが戻ってきた時を想像すると怖い気がするんだが……ま、なんとかなるだろ」
やはり、言葉の割には楽しそうな声。
足取りも軽やかな道程の終点はもう目の前だった。
上着のポケットに手を突っ込んで車のキーを確認する。
そして、道の角を一つ曲がって駐車場を視認した途端、「やっぱりな」という表情で肩を竦めた。
青い愛車の横で、同系色の衣服を纏った黒髪の女性が手を振っている。
「よぉ、どっかで顔を出してくるとは思ってたぜ」
「あたしがお願いしたんだから、見送りくらいはするわよ」
黒月の令嬢はヴァンの顔をじっと見つめ、満足げに小さく頷いた。
「ヴァンさん、なんだかご機嫌ね。良いことあった?」
「……分かってて聞くなっつーの」
ヴァンは運転席側のドアを開けて、先に軽食が入った紙袋を助手席の上に置いた。
「そんなに聞きたきゃ、あいつの方に聞けよ。放ってきたからご機嫌斜めだろうけどな」
そして、そそくさと自分も車に乗り込んでドアウィンドウを開ける。
どこをどう取っても照れ隠しにしか見えない。一連の動きを眺めていたアシェンが、くすくすと声を立てて笑った。
「な、なんだよ?」
窓から顔を出して怪訝そうな上目遣いすると、アシェンは急に居住まいを正した。
「ねぇ、ヴァンさん。改めて、アーロンのことをよろしくね。あいつはまだまだ良い男になるわよ」
そして、朗らかに微笑む。家族とも呼べる彼がようやく手に入れた恋人へ向けて。
「おい、おい……まだ打ち止めじゃねぇのか?勘弁してくれよ」
ヴァンはその確信めいた台詞を聞いて、苦笑どころか冷や汗が出てきそうになった。
一体どこまで惚れさせれば気が済むんだ、と末恐ろしくなる。
「あたしの自慢の幼馴染みだもの、当たり前じゃない」
そんな男の気持ちを知ってか知らずか、アシェンは得意げに腰に手を当ててみせた。
彼女からの見送りの言葉は、それが最後だった。
昨日はわだかまりを抱えて辿った道を、今は軽快な口笛を吹きながらハンドルを握っている。
押し隠していた気持ちを吐露したことで、ヴァンの表情は晴れやかになっていた。
青い空と柔らかな太陽のお陰で、本日もドライブ日和だ。愛車もさぞ喜んでいることだろう。
「帰り道はご機嫌だなんて、あのガキがへそを曲げちまいそうだ」
彼はそう言いながら暢気に運転していたが、唐突にあることを思い出した。
もはや大したことではないのだが、ずっと小さな引っかかりを覚えていた疑問。
庭城での別れ際、アーロンは口にしかけた言葉を飲み込んだ。
あの時、彼は何を言いたかったのだろうか?
「あれって、やっぱり……」
しかし、昨夜のアーロンの言動を思い返すと、答えは意外にすんなり落ちてきた。
「あいつ、俺を誘いたかったんだな」
声に出してみた途端、無性に彼を可愛く感じてしまって笑いが込み上げてくる。
「いつもの押しの強さはどこへ行っちまってたんだか」
首都イーディスまでの帰り道はまだ始まったばかり。
けれども、彼のことを考えている時間は本当に楽しくて、この距離さえも瞬く間に走り終えてしまいそうな気がした。
2024.05.01
舞えよ鳳翼 蒼い欠片の傍らで③
時刻は13時を回っていた。開演時間までにはかなりの余裕がある。
一人になって気が緩んだせいもあり、待ち構えていたかのように空腹感が押し寄せてきた。
出発前にモンマルトで朝食を取ってからこの方、何も食べていない。
ヴァンは再び賑わいの中心部へ身を投じ、立ち並ぶ飲食店を物色しながら歩いた。
弌番街はその風情からも煌都ラングポートの顔とも言える地区。
昼時ともあって人の数は多く活気に溢れていた。
「……今はこっちじゃねぇな」
雑踏の音に隠れて溜息と独り言が落ちた。
色鮮やかな東方建築とそこに住まう人々が織りなす他愛もない会話。
華劇場にまつわる断片的な語句が、いくつか耳掠めて通り抜けていった。
それは街の営みに溶け込むように、否応なしにアーロンの気配を感じる。
彼があるべき本来の場所はここなのだから、当たり前と言ってしまえばそれまでだろう。
微笑ましいと思う反面、心の片隅には一抹の寂しさが込み上げてくる。
イーディスで借りているあの部屋も所詮は仮住まいだ。
彼が大きく羽ばたく前の止まり木のような存在なのかもしれない。
「新市街か、いや、たまには弐番街っつーのも悪くねぇか」
腹の虫は泣き疲れているくらいなのに、手っ取り早く近場の店に入る気分にはなれなかった。
華劇場に向かう前から、あの青年のことで悶々としたくはない。
きっかけはどうあれ、気になっていた彼の舞台を見られるのだ。気持ちを切り替えて楽しまなければ、アーロンにも失礼だろう。
結局ヴァンは弌番街を去り、弐番街まで足を伸ばすことにした。
そこで落ち着いた構えの飲食店を見つけ、ゆっくりと時間をかけて昼食を味わう。
アシェンからのお願いの内容を考えれば、あまり顔見知りには遭遇したくない。ちょっとしたお忍び道中だ。
昼食を済ませた後は散歩がてらに新市街をうろつき、開演時間まで時間を潰す。
ラングポートは大きな街だから、数時間程度の空きを埋めるのは簡単だった。
そうこうしているうちに、曇りがちだった気分が徐々に晴れていく。
「おっ、そろそろか」
ヴァンはおもむろに時刻を確認してから小さく頷いた。
現在地から華劇場までの距離はそれほど遠くない。
彼は午後の公演に胸を弾ませながら、足取りも軽やかに目的地へと向かった。
今回は客席に座るわけではないので、そこまで早く行かなくてもいいはずだ。
彼が華劇場の扉をくぐったのは開演の十分前だった。
この時間であれば、観客たちの大半はすでに席に着いているだろう。予想通り、エントランスに佇んでいる人は少ない。
「ヴァン様、お待ちしておりました」
その姿に目を留めた支配人の男が、すぐさま声を掛けてきた。
彼とはアーロンを通して面識があり、龍車の件で依頼を請け負ったこともある。
「よぉ、世話になるぜ」
「はい。アシェン様より話は伺っております」
気安い挨拶を投げてみると、物腰穏やかな所作で丁寧な応対をされた。
「面倒なことになっちまって悪ぃな。で、どの位置に立ってりゃいい?」
「ヴァン様のお好きなように、と言いたい所ですが。やはり正面からが良いでしょう」
一応は警備の名目なので位置取りを尋ねてみると、支配人はまだ開いた状態になっているホールの扉へ目をやった。
「扉が閉まりましたらその辺りで。若干距離はありますが、舞台全体が見渡せますよ」
「なるほどな、ありがとよ」
お勧めの立ち見席を教えてくれた彼に礼をの述べ、ヴァンは会場に身を滑り込ませた。
客層はやはり女性が多い。華やかな衣服と期待に満ちたざわつきが一面に広がっていた。
しばらくして、重い扉が閉まって天井の照明が落とされる。
ヴァンは扉のすぐ横の壁に寄りかかり、手持ち無沙汰になっている両腕を組んだ。
客席は緩い傾斜がついた造りになっているので、視界を妨げるものは何もない。
まさに支配人が言った通りだった。ひっそりと鑑賞する分にはこのくらいが丁度良いのかもしれない。
「……そういえば、初めてあいつを見たのも華劇場だったな」
呟いた声と重なるように、開演を知らせるブザーが鳴り響いた。
冒頭はゆったりとした曲調を背後にして踊り手が数人。
観客たちの手を引いて誘うように、会場の空気を温めていく。
舞台のセットは東方の古の宮廷を思わせる造りで、豪華絢爛な装飾が美しかった。
少しずつ曲のテンポが早くなり、照明の色合いもより華やかな色合いに変化する。
そこへ、ひときわ大きな銅鑼の音が鳴り響いた。
合図を受けて舞台の中央に現れ出たのは、誰よりも煌びやかに着飾った一人の青年だ。
主役であるアーロンの登場に客席のあちらこちらから感嘆の声が囁き漏れる。
舞台装飾が宮廷を模しているのなら、彼の衣装はさながらそこを統べる王といった所だろうか。
双剣が弧を描くたびに豪華な装飾品たちが揺れ動き、その度にキラキラと照明を反射する。
「なかなか決まってるじゃねぇか」
感嘆はヴァンも同様だった。しかし、それよりも嬉しさの方が勝った。
距離はあるものの、久しぶりに生身の彼が視界の中にいる。
「素人目からすると動きづらそうな衣装だけどなぁ」
胸の奥がほんのりと温かくなり、こそばゆくなってきた。つい照れ隠しのような感想を述べる。
暗がりの中で壁際にただ一人、誰に憚ることはない。
ヴァンの表情は素のままでとても柔らかかった。
そうして光彩を放つ舞台を直視しながら、ふと想いを馳せる。
この華劇場でアーロンの舞台を鑑賞したのは片手で足りるほどだ。
大方は仕事絡みで、何の思惑もなく客席に座っていたことがあっただろうか?と首を傾げるくらいだった。
それを思えば何かと感慨深くなる。
「あいつも最初に比べれば、随分と落ち着いたよな」
演目はそろそろ中盤に差し掛かるあたり。動と静、緩急を付けた演出は見事で、観客を故宮の世界へと没入させていく。
主役の青年は威風堂々たる王者の佇まい。
それはきっと以前の荒削りな若者には演じられない、今の彼だからこその情熱と深みが混ざった珠玉の色。
──いつの間にか目が離せなくなっていた。
出会った頃のアーロンは、情に厚いが直情的でどこか危なっかしい青年だった。
そんな彼を雇い主として思慮深く見守っていたはずなのに。
月日を重ねる内に、ヴァンの大人ぶった気遣いの面貌は突き崩されていく。
それ程までに、彼の人としての成長は飛躍的で鮮やかだった。
「あれだな……鳳凰が舞い上がるみたいだ、とか?ははっ、柄でもねぇこと言っちまった」
客席ではなく一歩離れた場所から舞台を見ていると、自分の心の変遷を追うような感覚に囚われていく。
呟きは完全に無意識の産物だった。ゆったりと壁に寄りかかってはいるが、体勢はずっと同じまま。
観客を惹きつけてやまないその姿に、唇だけが勝手に言の葉を形作っていく。
中盤以降、舞台上には常に複数の踊り手が入り乱れていて、百花繚乱の様相を見せていた。
それが次第に収束していき暗転する。次に舞台が明るくなった時、アーロンが一人立っていた。
ここが最大の見せ場なのだろう。曲調は冒頭から速くていかにも彼らしい。
スピード感がある楽曲をものともせず、巧みな剣さばきを披露する王は、観客に瞬く暇さえ与えなかった。
「……凄ぇなぁ」
今、この空間はアーロンのものだった。音響も照明も、熱気を帯びた会場の空気ですらも、全てが彼のためにある。
そのただ中。
「──えっ?」
ほんの一瞬だけ、アーロンがこちらを見たような気がした。
心臓が大きく飛び跳ねる。
舞台からは一番遠い出入り口付近など、彼が気にかけるとは思えない。
「まさか、偶然……だよな?」
心の中で首を左右に振りながらも、胸の鼓動が早鐘を打つ。
「偶然に決まってる」
自分自身に言い聞かせ、深呼吸をしてから再び舞台に意識を集中させる。
そこで、大きく曲調が変化した。この一人舞台のクライマックスだ。
彼は更に速いリズムを刻みながら舞台全域を所狭しと舞い踊る。
宙に放った刃が見事な放物線を描いて手元に戻ると、すぐさま刺突、続けざまに横一閃。
一振りするたびに、朱と金に染まった火の粉が乱れ舞う。
アーロンという名の焔が燃え上がるが如く、熱情の翼が激しく羽ばたいた。
「……あぁ、こいつは」
どうしたって目が離せない。離したくない。
心の中まで焼かれて、熱気が喉元までせり上がってきた。
「俺に……じゃないのに」
彼の演舞は満員の観客に対してであり、誰か一人に向けられているものではない。
頭では解っているのに、それでも錯覚してしまいそうになる。
ヴァンはこの青年が自分へ向けてくる執着の正体に気づいていた。
けれど、それは『もしかして』と疑問符が付く形であって、確信できるほどの自惚れを持つことができなかった。
アーロンは気紛れな性格だ。
真面目に口説いてきたかと思えば、すぐに笑いながら揶揄ってくる。
どこまでが本気なのか分からず、受け止めようがない。だから、その度に戯けて素知らぬふりをする。
それなのに、今はどうだろう?
いつもみたいに「俺で遊ぶんじゃねぇ」などとは到底言えない。
本当に自分に捧げられているような気分に陥ってしまう。
そんなことはないのに。夢想しているだけだと分かっているはずなのに。
「あんたはオレが成長するのをそこで見ていればいい」
あれは学藝祭の日の朝だったか。
アーロンの部屋を訪れたヴァンは、彼がソファーに座って精神統一をしている姿に面食らった。
聞けば、大小関係なく舞台の前には必ずこうしているという。
そして軽く言葉を交わしている最中、悠然とした態度で口を開いた。
顔を上げて真っ直ぐに見つめてくる両眼は、ドキリとするほど強い光を放っていた。
あの言葉はずっと頭に焼き付いている。
まるで『側にいろ』と言われているような気がした。
今や興奮に満ち満ちた華劇場の中で、鳴り響く音楽に紛れてそれを思い出す。
「……惚れてんだよ、俺は」
昨日今日のことじゃない。ヴァンはとっくにアーロンに対する自分の感情を自覚していた。
裏解決屋としての月日の積み重ねと比例するように、少しずつ育っていったもの。
何か特別なきっかけがあったわけはなく、ごく自然にすんなりと心の中に落ちてきた。
そこが彼と紡いできた縁の行き先だった。
※ ※ ※
初演の幕が上がってから早三日。
公演は午前と午後に一回ずつ行っており、華劇場の内部はいつも以上に雑然としている。
この日もアーロンの調子は万全だった。
無事に午前中の舞台を終え、昼食がてらに街中をぶらついて気分転換を図る。
束の間の休息を楽しみ、頃合いを見計らって華劇場の裏口をくぐると、すでに午後の準備が始まっていた。
すれ違う関係者たちと軽く言葉を交わし、控え室で適度に落ち着いてからは身仕度に取りかかる。
今回の衣装は普段のそれよりも重厚感があり、装飾品も多い。自分で行うのは最低限の着衣をだけで、着付けは数人の手を借りる必要があった。
アーロンは姿見の前で仁王立ちになり、己の顔を見つめた。
「よしっ、午後も張り切っていくとするか」
胸の前で拳を掌に叩き付けながらニッと笑う。
今の彼は役者としての充実感に溢れていた。
ただ一つ、心の奥底には自嘲的な棘が突き刺さったままで。
ひとたび舞台の上に立てば、そこに雑念など入る余地はない。
期待をしてくれている観客たちへ最高の演技を届けるだけだ。
この場に流れる楽曲の数々は、彼の身体にしっかりと刻み込まれている。
繊細に、大胆に。四肢は敏感に音を聞き取り、双剣と共に自由自在に動き回った。
視界に遮るものはなく、照明が落ちた薄暗がりでも客席全体が見渡せる。
前列ともなればそれぞれの表情までもが読み取れた。
役者にとっては珍しい現象ではないのだが、アシェンに話をしてみたら妙に感心されてしまったことがある。
だが、この時は別の意味で少し違っていた。
演目が進むにつれて、段々と視覚が冴え渡っていく。より遠方へと。
いつもなら見えないような後方席の客層までよく見えた。
共演者たちが袖に引き、全幕を通じて最も力が入る一人舞台となってから数分。
続けざまの急調子が彼の身体に熱気をはらませる。
華麗に旋回をし、両手が真一文字に剣を払った。
連動してもう一回転。真正面に戻って顔を上げる。
その時。
出入り口である扉の横に、今はイーディスにいるはずの男の姿を捉えた。
(ヴァ……ン!?)
わずか数秒とはいえ、見間違えるはずがない。
あの日、庭城で誘いたくても誘えなかった、後悔という名の棘が人型を成して立っていた。
カッと全身が燃え上がる。
誰よりも会いたかった人だ。誰よりもこの舞台を捧げたかった人だ。
なぜここに?と驚き戸惑っている脳内が、急速な熱風で焼き払われていく。
既の所で崩れそうになった身体を踏み留まらせ、表情を引き締めた。
危うく動きが止まりかけたが、観客にはそれと悟らせずに演目を進行し続ける。
しっかりと握り締めた双剣の切っ先に、これ以上ないほどの強い気持ちがこもっていた。
そして、絶妙のタイミングだった。
燃えさかる焔を彷彿とさせる楽曲は、アーロンの想いと同調するかのように一気に転調した。
ヴァンの前ではどうしたって素直になれない性分だ。それは出会った頃から変わらない。
だったら舞えばいい。言葉で伝えられないなら、踊り尽くせばいい。
この場には確かに彼がいるのだから。
焔色を基調とした絢爛な衣装が翻っては激しく揺れ動いた。
心ごと燃やし尽くして根こそぎ奪い取ってやりたい。
それはまさしく鳳が乱れ飛ぶように──双剣の羽翼が狂おしいほどに恋情の声を高らかにした。
アーロンは最後の一節が終わるまで、無我夢中で踊っていた。
全ての音が止まった瞬間、会場全体から割れんばかりの拍手喝采が押し寄せてくる。
彼はそこでようやく終演したことに気が付いた。
ハッとして扉の付近を見上げると、ヴァンが笑みをたたえて拍手をしてくれている。
彼はどう思ったのだろうか?想いは伝わったのだろうか?
弾む息を整えながら観客からの盛大な称賛に応じるが、内心ではそればかりが気にかかっている。
しかし、ヴァンは鳴り止まぬ歓声に隠れて会場を後にしようとしていた。
その後ろ姿を見たアーロンは、歯ぎしりをして拳を強く握り締めた。
どういう経緯であそこに立っていたのかは知らないが、あの様子ではこのまま煌都から出て行ってしまいかねない。
(くそっ、逃がすかよ!)
幕が下りて袖に引いた途端、アーロンは走り出した。
即座に足止めをするのなら、ザイファで通信を入れるのが手っ取り早い。
しかし、公演中は衣服や手荷物の類いは控え室に置いたままだった。
彼は驚く共演者たちには目もくれず、全速力で廊下を駆け抜けていった。
一方その頃。
ヴァンは支配人に軽く挨拶をして華劇場から出るところだった。
熱の籠もった屋内にいたせいか、肌に触れる外の空気が気持ち良い。
彼は体内に涼気を取り込もうと大きく深呼吸をした。
舞台の余韻はなかなか消えそうにない。
「……ははっ、なんか言葉にならねぇや」
胸元を握り締めて目を閉じると、普段よりも速い心音が指の先まで伝わってくる。
舞台は全体を通して素晴らしかったが、アーロンが単独で踊ったあの場面は筆舌に尽くしがたかった。
どこか鬼気迫るものを感じて息が詰まるほどだった。きっと全ての観客たちが心を鷲掴みにされただろう。
「あんなの見せつけられたら……無性に会いたくなる」
ヴァンは名残惜しそうに華劇場を振り返った。
建物からは興奮冷めやらぬ様子の観客たちがぞろぞろと出てくる。
立ち止まって声高に語り合い始める人々もちらほら。周囲が急に賑やかになってきたのを感じ、彼はさり気なくその場から離れた。
先刻のアシェンからのお願いは、『舞台を見てあげて欲しい』ということだけだ。
『会って欲しい』とは言われていない。
そもそも、アーロンには秘密だったわけだし、例え連絡を取ろうにも疲れているはずの彼の邪魔はしたくなかった。
そんな理由で自分を納得させ、駐車場へと足を向ける。
しかし、数十歩ほど進んだところで急にザイファの呼び出し音が鳴った。
タイミング的にもアシェンだろうと予想し、ゆっくりと歩きながら応答のボタンを押してみる。
「おい!ヴァン、待ちやがれ!」
すると、いきなりスピーカーの音が割れんばかりの怒声が響いた。
画面の中には舞台衣装を着たままのアーロンが映っている。
肩で息をしながら睨み付けてくるのを見て、ヴァンは驚愕のあまり声が出なかった。
「てめぇ、なんであんな所にいやがった!?」
凄みをきかせて詰め寄られ、ヴァンは足を止めてわずかに腰を引いた。
「いや、まぁ……色々あって……な?」
ようやく口が動いたが、しどろもどろで冷や汗が滲み出る。
「あのな、もう用事は済んだからよ。今から帰ろうかなぁと……」
「ふざけんな、オレが着替えるまで待ってろ」
画面越しでさえも目が合わせられない彼に対し、アーロンはぴしゃりと言い放つ。
更には待ち合わせの場所を勝手に指定して、慌ただしく通信を切ってしまった。
間接的な再会は一瞬にして終わり、勢いよく嵐が過ぎ去っていく。
幸いと言うべきか、人通りの少ない所を歩いていたので、アーロンの声で周囲の注目を浴びることはなかった。
「あいつ、気付いてやがったのか」
しばらくの間、ヴァンは呆然として立ち尽くしていた。
上演中に目が合ったように感じたのは気のせいではなかったらしい。
胸のあたりがじんわりと温かくなっていく。
「取りあえず、邪険にはされてねぇみたいだな」
気付いていたのなら、早々に退出する姿も見ていただろう。
その上で急いで引き留める手段を取ったのだから、少しは会いたいと思ってくれたのかもしれない。
「帰りの時間もあるし、そんなに長居はできねぇが」
午後の陽は大分傾いていて、夕刻と言っても差し支えない気配が漂う。
ヴァンは時計代わりの空を振り仰ぎ、心の中で呟いた。
せめて夕飯くらいは一緒に食べたい、と。
➡ 続き④を読む
時刻は13時を回っていた。開演時間までにはかなりの余裕がある。
一人になって気が緩んだせいもあり、待ち構えていたかのように空腹感が押し寄せてきた。
出発前にモンマルトで朝食を取ってからこの方、何も食べていない。
ヴァンは再び賑わいの中心部へ身を投じ、立ち並ぶ飲食店を物色しながら歩いた。
弌番街はその風情からも煌都ラングポートの顔とも言える地区。
昼時ともあって人の数は多く活気に溢れていた。
「……今はこっちじゃねぇな」
雑踏の音に隠れて溜息と独り言が落ちた。
色鮮やかな東方建築とそこに住まう人々が織りなす他愛もない会話。
華劇場にまつわる断片的な語句が、いくつか耳掠めて通り抜けていった。
それは街の営みに溶け込むように、否応なしにアーロンの気配を感じる。
彼があるべき本来の場所はここなのだから、当たり前と言ってしまえばそれまでだろう。
微笑ましいと思う反面、心の片隅には一抹の寂しさが込み上げてくる。
イーディスで借りているあの部屋も所詮は仮住まいだ。
彼が大きく羽ばたく前の止まり木のような存在なのかもしれない。
「新市街か、いや、たまには弐番街っつーのも悪くねぇか」
腹の虫は泣き疲れているくらいなのに、手っ取り早く近場の店に入る気分にはなれなかった。
華劇場に向かう前から、あの青年のことで悶々としたくはない。
きっかけはどうあれ、気になっていた彼の舞台を見られるのだ。気持ちを切り替えて楽しまなければ、アーロンにも失礼だろう。
結局ヴァンは弌番街を去り、弐番街まで足を伸ばすことにした。
そこで落ち着いた構えの飲食店を見つけ、ゆっくりと時間をかけて昼食を味わう。
アシェンからのお願いの内容を考えれば、あまり顔見知りには遭遇したくない。ちょっとしたお忍び道中だ。
昼食を済ませた後は散歩がてらに新市街をうろつき、開演時間まで時間を潰す。
ラングポートは大きな街だから、数時間程度の空きを埋めるのは簡単だった。
そうこうしているうちに、曇りがちだった気分が徐々に晴れていく。
「おっ、そろそろか」
ヴァンはおもむろに時刻を確認してから小さく頷いた。
現在地から華劇場までの距離はそれほど遠くない。
彼は午後の公演に胸を弾ませながら、足取りも軽やかに目的地へと向かった。
今回は客席に座るわけではないので、そこまで早く行かなくてもいいはずだ。
彼が華劇場の扉をくぐったのは開演の十分前だった。
この時間であれば、観客たちの大半はすでに席に着いているだろう。予想通り、エントランスに佇んでいる人は少ない。
「ヴァン様、お待ちしておりました」
その姿に目を留めた支配人の男が、すぐさま声を掛けてきた。
彼とはアーロンを通して面識があり、龍車の件で依頼を請け負ったこともある。
「よぉ、世話になるぜ」
「はい。アシェン様より話は伺っております」
気安い挨拶を投げてみると、物腰穏やかな所作で丁寧な応対をされた。
「面倒なことになっちまって悪ぃな。で、どの位置に立ってりゃいい?」
「ヴァン様のお好きなように、と言いたい所ですが。やはり正面からが良いでしょう」
一応は警備の名目なので位置取りを尋ねてみると、支配人はまだ開いた状態になっているホールの扉へ目をやった。
「扉が閉まりましたらその辺りで。若干距離はありますが、舞台全体が見渡せますよ」
「なるほどな、ありがとよ」
お勧めの立ち見席を教えてくれた彼に礼をの述べ、ヴァンは会場に身を滑り込ませた。
客層はやはり女性が多い。華やかな衣服と期待に満ちたざわつきが一面に広がっていた。
しばらくして、重い扉が閉まって天井の照明が落とされる。
ヴァンは扉のすぐ横の壁に寄りかかり、手持ち無沙汰になっている両腕を組んだ。
客席は緩い傾斜がついた造りになっているので、視界を妨げるものは何もない。
まさに支配人が言った通りだった。ひっそりと鑑賞する分にはこのくらいが丁度良いのかもしれない。
「……そういえば、初めてあいつを見たのも華劇場だったな」
呟いた声と重なるように、開演を知らせるブザーが鳴り響いた。
冒頭はゆったりとした曲調を背後にして踊り手が数人。
観客たちの手を引いて誘うように、会場の空気を温めていく。
舞台のセットは東方の古の宮廷を思わせる造りで、豪華絢爛な装飾が美しかった。
少しずつ曲のテンポが早くなり、照明の色合いもより華やかな色合いに変化する。
そこへ、ひときわ大きな銅鑼の音が鳴り響いた。
合図を受けて舞台の中央に現れ出たのは、誰よりも煌びやかに着飾った一人の青年だ。
主役であるアーロンの登場に客席のあちらこちらから感嘆の声が囁き漏れる。
舞台装飾が宮廷を模しているのなら、彼の衣装はさながらそこを統べる王といった所だろうか。
双剣が弧を描くたびに豪華な装飾品たちが揺れ動き、その度にキラキラと照明を反射する。
「なかなか決まってるじゃねぇか」
感嘆はヴァンも同様だった。しかし、それよりも嬉しさの方が勝った。
距離はあるものの、久しぶりに生身の彼が視界の中にいる。
「素人目からすると動きづらそうな衣装だけどなぁ」
胸の奥がほんのりと温かくなり、こそばゆくなってきた。つい照れ隠しのような感想を述べる。
暗がりの中で壁際にただ一人、誰に憚ることはない。
ヴァンの表情は素のままでとても柔らかかった。
そうして光彩を放つ舞台を直視しながら、ふと想いを馳せる。
この華劇場でアーロンの舞台を鑑賞したのは片手で足りるほどだ。
大方は仕事絡みで、何の思惑もなく客席に座っていたことがあっただろうか?と首を傾げるくらいだった。
それを思えば何かと感慨深くなる。
「あいつも最初に比べれば、随分と落ち着いたよな」
演目はそろそろ中盤に差し掛かるあたり。動と静、緩急を付けた演出は見事で、観客を故宮の世界へと没入させていく。
主役の青年は威風堂々たる王者の佇まい。
それはきっと以前の荒削りな若者には演じられない、今の彼だからこその情熱と深みが混ざった珠玉の色。
──いつの間にか目が離せなくなっていた。
出会った頃のアーロンは、情に厚いが直情的でどこか危なっかしい青年だった。
そんな彼を雇い主として思慮深く見守っていたはずなのに。
月日を重ねる内に、ヴァンの大人ぶった気遣いの面貌は突き崩されていく。
それ程までに、彼の人としての成長は飛躍的で鮮やかだった。
「あれだな……鳳凰が舞い上がるみたいだ、とか?ははっ、柄でもねぇこと言っちまった」
客席ではなく一歩離れた場所から舞台を見ていると、自分の心の変遷を追うような感覚に囚われていく。
呟きは完全に無意識の産物だった。ゆったりと壁に寄りかかってはいるが、体勢はずっと同じまま。
観客を惹きつけてやまないその姿に、唇だけが勝手に言の葉を形作っていく。
中盤以降、舞台上には常に複数の踊り手が入り乱れていて、百花繚乱の様相を見せていた。
それが次第に収束していき暗転する。次に舞台が明るくなった時、アーロンが一人立っていた。
ここが最大の見せ場なのだろう。曲調は冒頭から速くていかにも彼らしい。
スピード感がある楽曲をものともせず、巧みな剣さばきを披露する王は、観客に瞬く暇さえ与えなかった。
「……凄ぇなぁ」
今、この空間はアーロンのものだった。音響も照明も、熱気を帯びた会場の空気ですらも、全てが彼のためにある。
そのただ中。
「──えっ?」
ほんの一瞬だけ、アーロンがこちらを見たような気がした。
心臓が大きく飛び跳ねる。
舞台からは一番遠い出入り口付近など、彼が気にかけるとは思えない。
「まさか、偶然……だよな?」
心の中で首を左右に振りながらも、胸の鼓動が早鐘を打つ。
「偶然に決まってる」
自分自身に言い聞かせ、深呼吸をしてから再び舞台に意識を集中させる。
そこで、大きく曲調が変化した。この一人舞台のクライマックスだ。
彼は更に速いリズムを刻みながら舞台全域を所狭しと舞い踊る。
宙に放った刃が見事な放物線を描いて手元に戻ると、すぐさま刺突、続けざまに横一閃。
一振りするたびに、朱と金に染まった火の粉が乱れ舞う。
アーロンという名の焔が燃え上がるが如く、熱情の翼が激しく羽ばたいた。
「……あぁ、こいつは」
どうしたって目が離せない。離したくない。
心の中まで焼かれて、熱気が喉元までせり上がってきた。
「俺に……じゃないのに」
彼の演舞は満員の観客に対してであり、誰か一人に向けられているものではない。
頭では解っているのに、それでも錯覚してしまいそうになる。
ヴァンはこの青年が自分へ向けてくる執着の正体に気づいていた。
けれど、それは『もしかして』と疑問符が付く形であって、確信できるほどの自惚れを持つことができなかった。
アーロンは気紛れな性格だ。
真面目に口説いてきたかと思えば、すぐに笑いながら揶揄ってくる。
どこまでが本気なのか分からず、受け止めようがない。だから、その度に戯けて素知らぬふりをする。
それなのに、今はどうだろう?
いつもみたいに「俺で遊ぶんじゃねぇ」などとは到底言えない。
本当に自分に捧げられているような気分に陥ってしまう。
そんなことはないのに。夢想しているだけだと分かっているはずなのに。
「あんたはオレが成長するのをそこで見ていればいい」
あれは学藝祭の日の朝だったか。
アーロンの部屋を訪れたヴァンは、彼がソファーに座って精神統一をしている姿に面食らった。
聞けば、大小関係なく舞台の前には必ずこうしているという。
そして軽く言葉を交わしている最中、悠然とした態度で口を開いた。
顔を上げて真っ直ぐに見つめてくる両眼は、ドキリとするほど強い光を放っていた。
あの言葉はずっと頭に焼き付いている。
まるで『側にいろ』と言われているような気がした。
今や興奮に満ち満ちた華劇場の中で、鳴り響く音楽に紛れてそれを思い出す。
「……惚れてんだよ、俺は」
昨日今日のことじゃない。ヴァンはとっくにアーロンに対する自分の感情を自覚していた。
裏解決屋としての月日の積み重ねと比例するように、少しずつ育っていったもの。
何か特別なきっかけがあったわけはなく、ごく自然にすんなりと心の中に落ちてきた。
そこが彼と紡いできた縁の行き先だった。
※ ※ ※
初演の幕が上がってから早三日。
公演は午前と午後に一回ずつ行っており、華劇場の内部はいつも以上に雑然としている。
この日もアーロンの調子は万全だった。
無事に午前中の舞台を終え、昼食がてらに街中をぶらついて気分転換を図る。
束の間の休息を楽しみ、頃合いを見計らって華劇場の裏口をくぐると、すでに午後の準備が始まっていた。
すれ違う関係者たちと軽く言葉を交わし、控え室で適度に落ち着いてからは身仕度に取りかかる。
今回の衣装は普段のそれよりも重厚感があり、装飾品も多い。自分で行うのは最低限の着衣をだけで、着付けは数人の手を借りる必要があった。
アーロンは姿見の前で仁王立ちになり、己の顔を見つめた。
「よしっ、午後も張り切っていくとするか」
胸の前で拳を掌に叩き付けながらニッと笑う。
今の彼は役者としての充実感に溢れていた。
ただ一つ、心の奥底には自嘲的な棘が突き刺さったままで。
ひとたび舞台の上に立てば、そこに雑念など入る余地はない。
期待をしてくれている観客たちへ最高の演技を届けるだけだ。
この場に流れる楽曲の数々は、彼の身体にしっかりと刻み込まれている。
繊細に、大胆に。四肢は敏感に音を聞き取り、双剣と共に自由自在に動き回った。
視界に遮るものはなく、照明が落ちた薄暗がりでも客席全体が見渡せる。
前列ともなればそれぞれの表情までもが読み取れた。
役者にとっては珍しい現象ではないのだが、アシェンに話をしてみたら妙に感心されてしまったことがある。
だが、この時は別の意味で少し違っていた。
演目が進むにつれて、段々と視覚が冴え渡っていく。より遠方へと。
いつもなら見えないような後方席の客層までよく見えた。
共演者たちが袖に引き、全幕を通じて最も力が入る一人舞台となってから数分。
続けざまの急調子が彼の身体に熱気をはらませる。
華麗に旋回をし、両手が真一文字に剣を払った。
連動してもう一回転。真正面に戻って顔を上げる。
その時。
出入り口である扉の横に、今はイーディスにいるはずの男の姿を捉えた。
(ヴァ……ン!?)
わずか数秒とはいえ、見間違えるはずがない。
あの日、庭城で誘いたくても誘えなかった、後悔という名の棘が人型を成して立っていた。
カッと全身が燃え上がる。
誰よりも会いたかった人だ。誰よりもこの舞台を捧げたかった人だ。
なぜここに?と驚き戸惑っている脳内が、急速な熱風で焼き払われていく。
既の所で崩れそうになった身体を踏み留まらせ、表情を引き締めた。
危うく動きが止まりかけたが、観客にはそれと悟らせずに演目を進行し続ける。
しっかりと握り締めた双剣の切っ先に、これ以上ないほどの強い気持ちがこもっていた。
そして、絶妙のタイミングだった。
燃えさかる焔を彷彿とさせる楽曲は、アーロンの想いと同調するかのように一気に転調した。
ヴァンの前ではどうしたって素直になれない性分だ。それは出会った頃から変わらない。
だったら舞えばいい。言葉で伝えられないなら、踊り尽くせばいい。
この場には確かに彼がいるのだから。
焔色を基調とした絢爛な衣装が翻っては激しく揺れ動いた。
心ごと燃やし尽くして根こそぎ奪い取ってやりたい。
それはまさしく鳳が乱れ飛ぶように──双剣の羽翼が狂おしいほどに恋情の声を高らかにした。
アーロンは最後の一節が終わるまで、無我夢中で踊っていた。
全ての音が止まった瞬間、会場全体から割れんばかりの拍手喝采が押し寄せてくる。
彼はそこでようやく終演したことに気が付いた。
ハッとして扉の付近を見上げると、ヴァンが笑みをたたえて拍手をしてくれている。
彼はどう思ったのだろうか?想いは伝わったのだろうか?
弾む息を整えながら観客からの盛大な称賛に応じるが、内心ではそればかりが気にかかっている。
しかし、ヴァンは鳴り止まぬ歓声に隠れて会場を後にしようとしていた。
その後ろ姿を見たアーロンは、歯ぎしりをして拳を強く握り締めた。
どういう経緯であそこに立っていたのかは知らないが、あの様子ではこのまま煌都から出て行ってしまいかねない。
(くそっ、逃がすかよ!)
幕が下りて袖に引いた途端、アーロンは走り出した。
即座に足止めをするのなら、ザイファで通信を入れるのが手っ取り早い。
しかし、公演中は衣服や手荷物の類いは控え室に置いたままだった。
彼は驚く共演者たちには目もくれず、全速力で廊下を駆け抜けていった。
一方その頃。
ヴァンは支配人に軽く挨拶をして華劇場から出るところだった。
熱の籠もった屋内にいたせいか、肌に触れる外の空気が気持ち良い。
彼は体内に涼気を取り込もうと大きく深呼吸をした。
舞台の余韻はなかなか消えそうにない。
「……ははっ、なんか言葉にならねぇや」
胸元を握り締めて目を閉じると、普段よりも速い心音が指の先まで伝わってくる。
舞台は全体を通して素晴らしかったが、アーロンが単独で踊ったあの場面は筆舌に尽くしがたかった。
どこか鬼気迫るものを感じて息が詰まるほどだった。きっと全ての観客たちが心を鷲掴みにされただろう。
「あんなの見せつけられたら……無性に会いたくなる」
ヴァンは名残惜しそうに華劇場を振り返った。
建物からは興奮冷めやらぬ様子の観客たちがぞろぞろと出てくる。
立ち止まって声高に語り合い始める人々もちらほら。周囲が急に賑やかになってきたのを感じ、彼はさり気なくその場から離れた。
先刻のアシェンからのお願いは、『舞台を見てあげて欲しい』ということだけだ。
『会って欲しい』とは言われていない。
そもそも、アーロンには秘密だったわけだし、例え連絡を取ろうにも疲れているはずの彼の邪魔はしたくなかった。
そんな理由で自分を納得させ、駐車場へと足を向ける。
しかし、数十歩ほど進んだところで急にザイファの呼び出し音が鳴った。
タイミング的にもアシェンだろうと予想し、ゆっくりと歩きながら応答のボタンを押してみる。
「おい!ヴァン、待ちやがれ!」
すると、いきなりスピーカーの音が割れんばかりの怒声が響いた。
画面の中には舞台衣装を着たままのアーロンが映っている。
肩で息をしながら睨み付けてくるのを見て、ヴァンは驚愕のあまり声が出なかった。
「てめぇ、なんであんな所にいやがった!?」
凄みをきかせて詰め寄られ、ヴァンは足を止めてわずかに腰を引いた。
「いや、まぁ……色々あって……な?」
ようやく口が動いたが、しどろもどろで冷や汗が滲み出る。
「あのな、もう用事は済んだからよ。今から帰ろうかなぁと……」
「ふざけんな、オレが着替えるまで待ってろ」
画面越しでさえも目が合わせられない彼に対し、アーロンはぴしゃりと言い放つ。
更には待ち合わせの場所を勝手に指定して、慌ただしく通信を切ってしまった。
間接的な再会は一瞬にして終わり、勢いよく嵐が過ぎ去っていく。
幸いと言うべきか、人通りの少ない所を歩いていたので、アーロンの声で周囲の注目を浴びることはなかった。
「あいつ、気付いてやがったのか」
しばらくの間、ヴァンは呆然として立ち尽くしていた。
上演中に目が合ったように感じたのは気のせいではなかったらしい。
胸のあたりがじんわりと温かくなっていく。
「取りあえず、邪険にはされてねぇみたいだな」
気付いていたのなら、早々に退出する姿も見ていただろう。
その上で急いで引き留める手段を取ったのだから、少しは会いたいと思ってくれたのかもしれない。
「帰りの時間もあるし、そんなに長居はできねぇが」
午後の陽は大分傾いていて、夕刻と言っても差し支えない気配が漂う。
ヴァンは時計代わりの空を振り仰ぎ、心の中で呟いた。
せめて夕飯くらいは一緒に食べたい、と。
➡ 続き④を読む
舞えよ鳳翼 蒼い欠片の傍らで②
とある日の午後。
裏解決事務所には華やかな笑い声とコーヒーの香りが漂っていた。
学業を終えたアニエスがアルバイトにやって来たのは、今から小一時間くらい前ことだった。
今のところはこれといった依頼がなく、彼女は率先して書類の整理をしてくれていた。
「今日は静かですね」
あいにくと他の仲間たちは外出をしている。
アニエスが少し寂しそうに言った矢先、タイミングを見計らったように自称『所員ではなく手伝っているだけ』のジュディスがやって来た。
この有名女優が事務所に顔を出す名目は、大抵が仕事の息抜きということになっている。
今回もご多分に漏れず、美味しそうな手土産を持参して姿を現した。
「あんたたち、暇そうねぇ」
「えっ、今日はたまたまですよ。ね、ヴァンさん?」
「そうだなぁ。ここまで仕事がねぇのは久しぶりかもな」
そんなわけで、好都合とばかりに三人でテーブルを囲んで休憩を取っている。
ジュディスはひとしきり室内を見回してから、人員の少なさにツッコミを入れた。
「思いっきり開店休業中じゃない。他の子たちはどうしたのよ?」
「フェリちゃんとリゼットさんは私用ですけど、仕事が入ればすぐに駆けつけてくれるそうです」
「カトルはバーゼルに戻ってるぜ。大学で必須の講義があるんだとさ」
二人が事務所のメンバーの所在を明らかにすると、彼女は納得してコーヒーを一啜りした。
「──で、あのオレ様な男はラングポートってわけね」
「もう、ジュディスさんったら。でも、初演まであと二週間くらいですよね。お元気でしょうか?」
最後にアーロンの話題が上がり、それに引っ張られたヴァンはお菓子を取ろうとしていた手を止めた。
「あいつなら少し前に庭城で会ったぞ。ったく、急に呼び出しやがって」
愚痴を交えた男の発言に、アニエスとジュディスが目を丸くして彼を凝視する。
「気分転換に暴れまくりたかったみたいでよ。いきなり付き合わされるこっちの身にもなれっつーの」
彼は言葉のわりには柔らかな口ぶりをしていて、どことなく幸福感が漂っている。
二人は顔を見合わせた後で、くすくすと笑い合った。
「なんだよ?」
「いえ、ヴァンさんがとっても嬉しそうにしているので」
「はぁ?そんなわけねぇだろうが。ま、まぁ……今度の公演は特に気合い入ってるなぁって感じはしたけどな」
アニエスからの指摘が図星だったのか、ヴァンは取り繕うように甘いコーヒーを喉へ流し込んだ。
「ふぅん、主役を張るわけだし色んな葛藤があるんでしょ。今回のは女形じゃないって、こっちでも話題になってるわよ」
華劇場におけるアーロンの看板役者ぶりは、首都の芸能界隈でも有名だ。
そもそもが不規則な出演ばかりなので、今回のように期間を定めての安定した公演はかなり珍しい。
「チケットはかなり早い段階で完売したって聞いたわ」
「へぇ?そりゃ、凄いな。見に行けねぇのが残念だ」
ヴァンはジュディスの説明をしきりに頷きながら聞いていた。
何だかんだ言いつつも、アーロンが役者として評価されているのは素直に誇らしい。
すると、女性たちがさっきよりも驚いた様子で口を半開きにさせている。
「ちょっと……それ、冗談よね?」
「私はてっきりアーロンさんから招待されているものとばかり」
「あんただけじゃないわ。周りはみんなそう思ってるわよ」
途端、三人の間には形容しがたい微妙な空気が生まれた。
「え、いや……あいつがそんなことするわけねぇだろ?」
無言に耐えかねたヴァンが不思議そうに首を傾げる。
「大体、招待するなら俺って言うよりも事務所括りだと思うんだが」
所長である彼にしてみれば至極もっともな意見のつもりだったが、
「はぁぁ~。何やってんのよ、あいつは」
テーブルを挟んで向かいに座っているジュディスは、大袈裟なくらいに脱力してしまった。
「あっ、危ないです!」
項垂れた頭がテーブルとぶつかりそうになり、隣に座っていたアニエスが慌ててフォローに入る。
「ふぅ、つい頭が痛くなっちゃったわ……悪いわね」
「いえ、私もちょっと同感です」
彼女らの間ではしっかりと何かが共有されているようだ。
ヴァンの方はといえば、それについては特に思い当たる節がない。
二人は驚いたり脱力したりと忙しないが、そこまでおかしな発言をしただろうか?
釈然としない気持ちを抱えながら、手にしたマグカップの中を覗き込む。
砂糖とミルクがたっぷり入ったコーヒーは、あと一口分くらい残っている。
微かに揺れているそれは、まるで今の彼の心境と重なり合っているみたいだった。
ほどなくして休憩を終えたヴァンは外出の準備を始めた。
「ちょっくらブラついてくる。掲示板に依頼がきてるかもしれねぇからな」
彼特有の鼻が利いたわけではなく、ただの口実だ。今はなんとなく外を歩きたい気分だった。
アニエスとジュディスはそんな彼の心情を察したのか、同行を申し出ることはせずに見送った。
再び事務所の中が静かになる。
「……ヴァンさん、ちょっと寂しそうに見えました」
洗い物した後の流し台を綺麗に拭きながら、アニエスがぽそりと呟いた。
「まったく、鈍いんだか素直じゃないんだか……」
ジュディスはソファーに深く沈み込むような体勢で座っていて、眉を寄せながら天井を見上げていた。
「あっちはあっちで肝心な時に押しが弱すぎんのよ。主演ならチケットの融通くらいは利くでしょうに」
彼女の美しい唇からは、不満の礫がいくらでも飛び出てきそうな勢いだ。
ヴァンとアーロンの関係性について、二人を取り巻く人々は大抵のところを察している。
元から明け透けなアーロンはともかくとして、ヴァンの方も何かと表面に出てしまっているのだ。
もちろん、本人にその自覚はないのだが。
「ヴァンさんって、とても愛おしそうにアーロンさんを見ている時がありますよね」
「あれ、バレバレよねぇ~。言葉よりも目が語ってるっていうのかしら」
それは恋だとか愛だとか、そんな形容がしっくりと当てはまる。
端から見れば十二分に両想いである──はずなのだが、どういうわけかまだ恋人同士ではないらしい。
「ほんと、まどろっこしい奴らね」
本人曰く、仕事の合間を縫って息抜きをしにきたはずなのに、やたらと溜息ばかりが吐き出される。
「今回はさすがに気をもんでしま……あっ」
アニエスは綺麗になったキッチンを満足げに見回し、ソファーに足を向ける。
対面で腰を落ち着けようとしたところで、何かを思い立って声を上げた。
「ジュディスさん、煌都のアシェンさんに連絡を取ってみませんか?」
珍しく前のめりになってザイファを取り出し、座る場所を相手の隣へ移す。
「それは名案ね!場合によっては小細工をしてもらうのもありだわ」
その勢いにつられてジュディスの声色がパッと輝いた。
「せっかくだから、後ろから蹴り飛ばしちゃいなさいよ」
今は人通りの多い賑やかな地区を歩き回る気にはなれなかった。
どちらかといえば、もう少し静かな場所の方が良い。
そう考えていたヴァンの足は、自然とリバーサイドに向かった。
景観を重視して整えられた河川は直線的で、水流はとても緩やかだ。
その上を囁くような小風が吹き抜けていく。
昼時を過ぎた屋台たちが再び活気づくにはまだ早い。長閑な雰囲気が地区の全体を包み込んでいた。
薄雲を纏った太陽の眼差しは柔らかく、散歩をするには良い具合かもしれない。
地下鉄の駅を出たヴァンは、上着のポケットに手を突っ込みながらのんびりと歩き始めた。
この地区の基調である河川には二本の橋が架けられており、そのうちの一本へ向かった彼は、中央付近に来たところで足を止めた。
欄干に身体を預け、そこからの眺望を瞳の中に映し込む。
普段ならあまり気にも留めない川音が、何故かやたらと耳に付いた。
「あんなの言われたら、余計に気になっちまうじゃねぇかよ」
ヴァンは先刻の事務所でのやり取りを思い出して息を吐く。
アニエスとジュディスに指摘されるまでは、本当に何とも思わなかったのだ。
というより、そんなことは頭の隅にも浮かばなかった。アーロンから個人的に誘われるという状況自体が。
「……やっぱり想像できねぇな」
ぽそりと独り言を落とした途端、胸の奥に寂しさが広がった。
それは彼女たちに騒がれた反動もあるのかもしれない。
ヴァンは確かに一人になりたい気分ではあった。
だが、いざその状況を作ってみれば想像以上に悶々と考え込んでしまう。
「もし、誘うなら……ん?」
そんな中、ある疑問がよぎった。
アーロンは、なぜ事務所のメンバーに声を掛けなかったのだろうか?
一ヶ月ほど前に庭城で会った時の様子からすれば、今回の舞台は渾身の一作になる位置づけだろう。
役者として、近しい人たちに見てもらいたいという気持ちが必ずどこかにあるはずだ。
彼は基本的に気っぷの良い青年だし、それは一度自分の懐に入れた者たちであればより顕著だ。
「あいつなら『てめぇら、まとめて招待してやるぜ』とか言ってきそうなもんだが」
個人的なお誘いの有無はともかくとして、今はこちらの方が気になってしまう。
ヴァンは難しい顔をしながら、欄干にもたれ掛けている上半身を起こした。
自然と前屈みの姿勢になっていたらしく、ほんの少し肩と首が痛い。
凝りを解すように軽く伸びをした後、彼はその場から動き出した。
橋を渡りきって教会や整備屋がある地区へと、綺麗に舗装された歩道を行く。
頭の中ではアーロンのことばかりを考えていた。
そのせいか、歩く速度は駅を出た時よりも随分と遅くなっていた。
「……そう言えば、庭城から出る時、らしくなかったな」
別れ際、明らかに何かを言いかけた。いつもはっきりとした物言いをする彼にしては珍しい。
あの時ヴァンに投げかけられた声は低く平坦で、一切の軽妙さを持ち合わせていなかった。
軽く首を傾げる程度で流した記憶が、今になって急に違和感となって押し寄せてくる。
もしかしたら、真面目な話だったのかもしれない。
「ちゃんと聞いておけば良かったか……」
そんな後悔が過って再び足を止めた。
何気なく川べりに視線を寄せてみると、水辺に設置してあるベンチの一台が空いている。
周囲に人影はなく、一人で物思いにふけるにはうってつけの場所だった。
ヴァンはそこに腰を下ろし、スローモーションのような雲が漂う午下の空を見上げた。
「今更だよな。もう一ヶ月は経ってる」
あれから何の音沙汰もないのは、わざわざ言い直すほどの話ではなかったということだろうか?
ぐるぐると答えの出ない問いかけばかりを繰り返す。
「声……聞きてぇな」
誰もいないのをいいことに、本音が唇から零れ落ちた。
無造作にポケットの中へ突っ込んだ手が、ザイファを掴み取る。
アーロンが煌都に帰っている期間中は、自分から連絡を取るつもりはなかった。
それは彼の稽古を邪魔したくないという一心からだったが、本心では煌都での生活ぶりも気になっていた。
純粋に雇い主としての心配や不安だとは言い切れない、くぐもった感情。
故郷の街で水を得た魚のようになっている青年の姿を想像し、勝手に放って置かれているような気分に陥っている。
庭城で顔を合わせたのは、そんな矢先のことだった。
彼の一挙一動は今でも鮮やかに脳裏を駆け巡る。
魔獣を相手に嬉々として立ち回る姿と、役者然とした真摯な眼差しと。
──別れ際のらしくない態度と。
ヴァンは手に持ったザイファをじっと見つめたまま、なかなか行動を起こそうとはしなかった。
あの時、何を言いたかったのだろう?どうして口を噤んでしまったのだろう?
そのことばかりが引っかかるくせに、どうしても踏ん切りがつかなかった。
正直、アーロンの反応が怖かった。
ログアウトした直後ならまだしも、今になってこの話題を蒸し返してもよいのか分からない。
「……はぁ」
ピクリとも動かない手元をから視線を逸らし、ヴァンは力なく項垂れた。
「やっぱ、邪魔するのは悪ぃよな。もうすぐ初日だっていうのに」
わずかばかりの勇気すら出せない己の不甲斐なさを、尤もらしい理由にすり替えて逃げ道を作る。
鬱々とした男の耳には、涼感ある水の音でさえもノイズのように聞こえた。
柔らかな陽光は絶え間なく彼の背中を慰めてくれていたが、それでも無性に寂しさを感じてしまった。
※ ※ ※
ここ数日は降雨の心配もなく落ちついた天気が続いていた。
今日も朝から綺麗な青空が広がっていて、ぽつぽつと浮かぶ雲たちが風と戯れている。
イーディスから一路、南下する道路を青いピックアップトラックが走行していた。
車内には運転手であるヴァンが一人だけ。他に同乗者はいなかった。
適度な音量で流れているラジオからは、交通情報を伝える生真面目な声がする。
「この分なら時間通りに着きそうだ」
ラングポートへの道のりはいたって順調だった。今のところ、この先に事故などの知らせはない。
主要都市同士を繋いでいる基軸の道路は、車の通行量もそれなりにあるが流れはスムーズだ。
首都の周辺とは違って渋滞で苛つくことはなく、ヴァンはちょっとしたドライブ気分を味わっている。
しかし、ここ数十分くらいは変わり映えのない長閑な風景が続いていた。
日頃から安全運転を心掛けてはいるが、ついつい緊張感が緩み小さな欠伸を零してしまう。
普段よりも起床が早かったので、それも影響しているのかもしれないが。
「……にしても、俺の周りには押しの強い奴らが多いな」
忍び寄る眠気を頭の中から追い払うため、ヴァンは事の発端を思い返してみた。
それは昨日の午後の出来事だった。
掲示板の確認がてら数カ所の地区をぶらつき、何の収穫もないまま事務所へ戻ってきた。
「今日は特に妙な臭いを感じねぇし、もう店じまいにしちまうか?」
入り口のドアを開けて中へ入ったヴァンは、後ろにいる助手の少女を振り返った。
「そうですね……」
アニエスはなぜか室内をぐるりと見回し、ある場所に視線を寄せてから意味ありげに小さく頷いた。
「いえ、ちょっと待って下さい」
「どうした?」
「ヴァンさんの机に置いてあるものが気になって。出かける時はなかったですよね?」
彼女の指摘を受けた事務所の主は、そこでようやく異変に気が付いた。
机の上には普段使っているノート型端末が一台。その横にはお洒落なデザインの紙袋が鎮座している。
「……確かに」
ヴァンは思いきり訝しげな顔をしてそれに近づき、一歩手前で足を止めた。
どこからどう見ても怪しかった。
外出の際にドアの施錠をしたのは間違いない。ついさっき自分で鍵を使用したばかりだ。
だとしたら、何者かが忍び込んだとしか考えられない。
「まさか、爆発物とかじゃねぇよな?」
恐る恐る近づき、紙袋の中を覗き込もうとした。
と、その瞬間。
上着のポケットの中から、呼び出し音が鳴り響いた。
「うお!?な、なんだよ?」
飛び上がるほど驚いた彼は、深呼吸をしてからザイファのカバーを開いた。
早鐘を打つ胸の鼓動を押さえながら応答ボタンを押すと、画面には見知った女性の顔が映し出された。
「お久しぶりね、ヴァンさん」
「お、おう、アシェンか」
軽く咳払いをして体裁を整えると、彼女は悪戯っぽく微笑みかけてきた。
「机の上のもの、ヴァンさん宛てなんだけど、受け取ってもらえたかしら?」
その言葉に面食らう。意外にあっさりと不審物の出所が分かってしまった。
ヴァンは幾度か目を瞬かせてた後、大きく息を吐き出しながら一気に脱力をする。
さっきまでの緊張感が嘘のようだった。
「あんたの仕業だったのかよ」
黒月の次世代を担うこの令嬢であれば、留守の裏解決事務所に紙袋を忍ばせることのなど容易いだろう。
彼女自身が動かなくても、数多いる配下の者たちを使えばどうにでもなる。
「なんでまた、こんなことを」
危険物ではないと分かって安心したのか、今度は躊躇なく近づいてみた。
しっかりとした作りの紙袋は、そこはかとなく品性が感じられる。表面に綴られた店名とおぼしき文字に目が留まった瞬間、ヴァンは息をのんだ。
「こ、こいつは……!?」
それは煌都でも指折りの高級料理店だった。東方料理を専門に扱っておりスイーツも絶品なのだが、一般市民にとっては高嶺の花だ。彼としても一度は訪れてみたい憧れの名店の一つでもあった。
「実は急ぎでお願いしたいことがあるのよ。お礼は前払いでよろしく」
ヴァン・アークライドという男は、筋の通らない仕事は請け負わないをモットーにしている。
だが、それと同時に甘味の類いにはめっぽう弱い。
「……もの凄く嫌な予感がするんだが」
文字通りの甘い誘惑に、ぐらぐらと心の天秤が揺れている。
「あ、それって季節限定な上に数量限定品のスイーツよ」
そこへ、とどめを刺すがごとくの一言。
「あ~っ、なんてこと言いやがる!」
ヴァンは机に両手をついてがくりと項垂れる。
スイーツを乗せた天秤の皿が派手な音を立てながら一気に傾いた。
「ヴァンさん、どうやらお仕事のようですね」
そんな中、黙って事の成り行きを見守っていたアニエスが口を開いた。
「煌都へ出張でしょうか?」
満面の笑みを浮かべて小首を傾ける少女の方へ、ヴァンが何かを悟った目を向ける。
「お前らグルだったのかよ」
改めて思い返してみれば、事務所に戻ってきた直後に紙袋の存在を示したのはアニエスだった。
アシェンから通信が入ってきた時も驚く素振りはなかったし、彼女にしてみれば全てが予定調和だったということなのだろう。
「で、そのお願いってのは?」
ヴァンはこめかみを揉み込みながら、疲れたような声で画面に問いかけた。
前払いの品を味わうことだけを楽しみにして、ここはもう腹を括るしかないと思った。
いつの間にか、走行中の窓に流れる風景が変わりつつあった。
一面に広がっていた緑の木々や草花が少なくなり、人工的な構造物が目立ち始める。
煌都ラングポートはもう目と鼻の先だった。
結局、昨日の段階では『お願い』についての情報は何も得られなかった。
アシェンに詳細を尋ねてみたものの、
「遅くても昼くらいまでには来て欲しいわ」
とだけ返され早々に通信を切られてしまった。
アニエスに矛先を向けても、
「寝坊しないで下さいね」
と和やかにはぐらかされるばかりだった。
ヴァンの脳裏に二週間ほど前の出来事が蘇る。
あの時のアニエスとジュディスの言動からして、今回の出張が無関係だとは思えなかった。
「どう考えてもあいつ絡みだろ?」
無意識のうちにハンドルを握る力が強くなる。
「会えるのは……嬉しいんだけどな」
一人きりの車内には複雑な感情を宿した吐息が大きく広がった。
呼ばれたのはアシェンからであって、アーロンからではない。
煌都に来たことが知られれば、彼にはあからさまにウザがられる。そんな想像しかできなかった。
煌都に到着したヴァンは、予め確保していた駐車場に車を止めて弌番街へ向かった。
ここはルウ家のお膝元だ。いちいち連絡を入れなくても、アシェンはとっくに彼の動きを捕捉しているだろう。
目抜き通りをぶらつき始めて掲示板の辺りに差し掛かった頃、狙い通りに声がかかる。
目にも鮮やかな瑠璃色を纏った女性が、護衛らしき男を従えて立っていた。
「ヴァンさん、いらっしゃい。待ってたわよ」
「よお、時間的には問題ねぇよな?」
ヴァンが片手を上げて気さくな挨拶をすると、アシェンは小さく頷いてから彼を人通りの少ない一画へ導いた。少し拓けているその場所は、賑わう雑踏がBGM代わりになりそうなくらいの環境で、落ち着いて会話をするには丁度良い。数人の住民たちが思い思いに時を過ごしていた。
ヴァンは周囲を見回した後、一辺の壁に背中を預けて口火を切った。
「そんで、あのガキがどうかしたのか?」
いつの間にかアシェンに付き従っていた男の姿は消え、二人きりになっていた。
もしかして、アーロンに何かあったのかもしれない。人払いをされたことで不安が首をもたげる。
だが、彼の予想に反して黒月の令嬢はあっけらかんとしていた。
「別にどうもしないわ。公演が始まってから連日満員、大絶賛であいつも元気にやってるわ」
「だったらどうして俺を呼びやがった?何の依頼だ?」
ますます訳が分からなかった。眉間に皺を寄せた顔で彼女の出方を覗う。
「昨日も言ったでしょ?『依頼』じゃなくて、あたしからの個人的な『お願い』よ」
アシェンはさらりとヴァンの言葉を訂正し、綺麗な微笑を浮かべた。
それから一呼吸を置いて語句を繋げる。
「アーロンの舞台を見てあげてほしいの」
凜とした声がその場の空気を揺らした。
真正面から男を見据える瞳は深い色をたたえ、彼女の真剣さが如実に表れている。
──やっぱりそこに行き着くのか。
ヴァンはほんの一瞬だけ瞠目したものの、さほど大きな驚きを感じなかった。
昨日からの流れを鑑みれば、この展開は予想の範囲内ではある。
もしかしたら、ほんの少しくらいは自身の願望が紛れ込んでいるのかもしれないが。
一ヶ月ほど前にアーロンと会って以降、彼の姿が脳裏に浮かぶ頻度が増えた。
仮想現実世界とはいえ、なまじ言葉を交わしてしまったせいかもしれない。
実物の顔を見たい気持ちは強くなったし、もちろん舞台のことも余計に気になった。
それならば、この機会は都合が良い。
(……でもなぁ)
しかし、ヴァンはそれをすんなりと受け取れるほど素直ではなかった。
目を閉じて口元を引き締める。ゆったりと構えていた腕組みがわずかに強ばった。
「その言い方じゃ、本人には内緒ってところか」
自分で言っておいて密かに消沈する。
今回の公演には誘われていない。個人的にどころか裏解決事務所の括りでさえも。
「そうよ。あら、もしかして断ろうとしてるの?先だってのお礼は受け取って貰えたのよね?」
一人で小難しい顔をしている男に対し、アシェンがやや目尻をつり上げて距離を詰めてくる。
きりりとした眼光は、さすが未来の女帝の風格と表するべきか。
「あー、それはまぁ。昨日、ちょっと一口頂いちまったというか……」
ヴァンは片手で頭をガシガシと掻きながら、ばつが悪そうに視線を逸らした。
本当はこの一件が片付いた後のご褒美のつもりだったが、超高級名店のネームバリューには抗えなかった。
これでアシェンのお願いを断ろうものなら、立派な食い逃げだ。全く筋が通らない。
「ふふっ、さすがヴァンさんね」
アーロンや事務所の面々とまではいかないが、彼女もこの男の人となりを把握していた。
彼に否と言われないことを確信し、さり気なく茶化しを入れながら表情を緩ませる。
「午後の公演は15時からよ。話は支配人に通してあるから、彼に声を掛けてちょうだい」
黒月の筆頭であるルウ家の令嬢はそれとなく忙しい。用件を伝え終えて鮮やかに踵を返すと、
「お、おい……てっきりチケットを寄越してくるかと思ってたんだがよ?」
ヴァンが戸惑いがちな声を上げた。
「あたしとしては、ヴァンさんには良い席で見てもらいたいのが本音よ。でも、あえて席は用意しなかったの」
アシェンは立ち止まり、顔だけを男の方へ向けた。そのまま言葉を続ける。
「会場の警備の一環という形にしてあるわ。立ち見で悪いけど、あなたもその方が気楽でしょ?」
二週間前にアニエスやジュディスとやり取りをし、その中でヴァンの心情が垣間見えたのだろう。
そして、アーロンのことも。幼い頃から家族同然に過ごしてきた彼の胸中を察することは簡単だった。
その上で端から見ればもどかしい二人を慮り、このような手段を取った。
彼女は役者ではないので、舞台へ上がった時に客席側がどのように見えるのかを知らない。
けれど、アーロンの話によれば演舞中でも意外と観客たちの顔は認識できるものらしい。
(客席じゃなくても、あいつなら……)
これは賭けのようなものだったが、アシェンの中には確固とした自信があった。
あの幼馴染みならば、絶対にこのチャンスを見逃したりはしない。
「それじゃ、よろしくね」
止まっていた足が衣服の裾を綺麗に払い、今度こそヴァンの前から立ち去る。
去り際の声は優しく響き、まるで男たちの背中を押しているかのようだった。
➡ 続き③を読む
とある日の午後。
裏解決事務所には華やかな笑い声とコーヒーの香りが漂っていた。
学業を終えたアニエスがアルバイトにやって来たのは、今から小一時間くらい前ことだった。
今のところはこれといった依頼がなく、彼女は率先して書類の整理をしてくれていた。
「今日は静かですね」
あいにくと他の仲間たちは外出をしている。
アニエスが少し寂しそうに言った矢先、タイミングを見計らったように自称『所員ではなく手伝っているだけ』のジュディスがやって来た。
この有名女優が事務所に顔を出す名目は、大抵が仕事の息抜きということになっている。
今回もご多分に漏れず、美味しそうな手土産を持参して姿を現した。
「あんたたち、暇そうねぇ」
「えっ、今日はたまたまですよ。ね、ヴァンさん?」
「そうだなぁ。ここまで仕事がねぇのは久しぶりかもな」
そんなわけで、好都合とばかりに三人でテーブルを囲んで休憩を取っている。
ジュディスはひとしきり室内を見回してから、人員の少なさにツッコミを入れた。
「思いっきり開店休業中じゃない。他の子たちはどうしたのよ?」
「フェリちゃんとリゼットさんは私用ですけど、仕事が入ればすぐに駆けつけてくれるそうです」
「カトルはバーゼルに戻ってるぜ。大学で必須の講義があるんだとさ」
二人が事務所のメンバーの所在を明らかにすると、彼女は納得してコーヒーを一啜りした。
「──で、あのオレ様な男はラングポートってわけね」
「もう、ジュディスさんったら。でも、初演まであと二週間くらいですよね。お元気でしょうか?」
最後にアーロンの話題が上がり、それに引っ張られたヴァンはお菓子を取ろうとしていた手を止めた。
「あいつなら少し前に庭城で会ったぞ。ったく、急に呼び出しやがって」
愚痴を交えた男の発言に、アニエスとジュディスが目を丸くして彼を凝視する。
「気分転換に暴れまくりたかったみたいでよ。いきなり付き合わされるこっちの身にもなれっつーの」
彼は言葉のわりには柔らかな口ぶりをしていて、どことなく幸福感が漂っている。
二人は顔を見合わせた後で、くすくすと笑い合った。
「なんだよ?」
「いえ、ヴァンさんがとっても嬉しそうにしているので」
「はぁ?そんなわけねぇだろうが。ま、まぁ……今度の公演は特に気合い入ってるなぁって感じはしたけどな」
アニエスからの指摘が図星だったのか、ヴァンは取り繕うように甘いコーヒーを喉へ流し込んだ。
「ふぅん、主役を張るわけだし色んな葛藤があるんでしょ。今回のは女形じゃないって、こっちでも話題になってるわよ」
華劇場におけるアーロンの看板役者ぶりは、首都の芸能界隈でも有名だ。
そもそもが不規則な出演ばかりなので、今回のように期間を定めての安定した公演はかなり珍しい。
「チケットはかなり早い段階で完売したって聞いたわ」
「へぇ?そりゃ、凄いな。見に行けねぇのが残念だ」
ヴァンはジュディスの説明をしきりに頷きながら聞いていた。
何だかんだ言いつつも、アーロンが役者として評価されているのは素直に誇らしい。
すると、女性たちがさっきよりも驚いた様子で口を半開きにさせている。
「ちょっと……それ、冗談よね?」
「私はてっきりアーロンさんから招待されているものとばかり」
「あんただけじゃないわ。周りはみんなそう思ってるわよ」
途端、三人の間には形容しがたい微妙な空気が生まれた。
「え、いや……あいつがそんなことするわけねぇだろ?」
無言に耐えかねたヴァンが不思議そうに首を傾げる。
「大体、招待するなら俺って言うよりも事務所括りだと思うんだが」
所長である彼にしてみれば至極もっともな意見のつもりだったが、
「はぁぁ~。何やってんのよ、あいつは」
テーブルを挟んで向かいに座っているジュディスは、大袈裟なくらいに脱力してしまった。
「あっ、危ないです!」
項垂れた頭がテーブルとぶつかりそうになり、隣に座っていたアニエスが慌ててフォローに入る。
「ふぅ、つい頭が痛くなっちゃったわ……悪いわね」
「いえ、私もちょっと同感です」
彼女らの間ではしっかりと何かが共有されているようだ。
ヴァンの方はといえば、それについては特に思い当たる節がない。
二人は驚いたり脱力したりと忙しないが、そこまでおかしな発言をしただろうか?
釈然としない気持ちを抱えながら、手にしたマグカップの中を覗き込む。
砂糖とミルクがたっぷり入ったコーヒーは、あと一口分くらい残っている。
微かに揺れているそれは、まるで今の彼の心境と重なり合っているみたいだった。
ほどなくして休憩を終えたヴァンは外出の準備を始めた。
「ちょっくらブラついてくる。掲示板に依頼がきてるかもしれねぇからな」
彼特有の鼻が利いたわけではなく、ただの口実だ。今はなんとなく外を歩きたい気分だった。
アニエスとジュディスはそんな彼の心情を察したのか、同行を申し出ることはせずに見送った。
再び事務所の中が静かになる。
「……ヴァンさん、ちょっと寂しそうに見えました」
洗い物した後の流し台を綺麗に拭きながら、アニエスがぽそりと呟いた。
「まったく、鈍いんだか素直じゃないんだか……」
ジュディスはソファーに深く沈み込むような体勢で座っていて、眉を寄せながら天井を見上げていた。
「あっちはあっちで肝心な時に押しが弱すぎんのよ。主演ならチケットの融通くらいは利くでしょうに」
彼女の美しい唇からは、不満の礫がいくらでも飛び出てきそうな勢いだ。
ヴァンとアーロンの関係性について、二人を取り巻く人々は大抵のところを察している。
元から明け透けなアーロンはともかくとして、ヴァンの方も何かと表面に出てしまっているのだ。
もちろん、本人にその自覚はないのだが。
「ヴァンさんって、とても愛おしそうにアーロンさんを見ている時がありますよね」
「あれ、バレバレよねぇ~。言葉よりも目が語ってるっていうのかしら」
それは恋だとか愛だとか、そんな形容がしっくりと当てはまる。
端から見れば十二分に両想いである──はずなのだが、どういうわけかまだ恋人同士ではないらしい。
「ほんと、まどろっこしい奴らね」
本人曰く、仕事の合間を縫って息抜きをしにきたはずなのに、やたらと溜息ばかりが吐き出される。
「今回はさすがに気をもんでしま……あっ」
アニエスは綺麗になったキッチンを満足げに見回し、ソファーに足を向ける。
対面で腰を落ち着けようとしたところで、何かを思い立って声を上げた。
「ジュディスさん、煌都のアシェンさんに連絡を取ってみませんか?」
珍しく前のめりになってザイファを取り出し、座る場所を相手の隣へ移す。
「それは名案ね!場合によっては小細工をしてもらうのもありだわ」
その勢いにつられてジュディスの声色がパッと輝いた。
「せっかくだから、後ろから蹴り飛ばしちゃいなさいよ」
今は人通りの多い賑やかな地区を歩き回る気にはなれなかった。
どちらかといえば、もう少し静かな場所の方が良い。
そう考えていたヴァンの足は、自然とリバーサイドに向かった。
景観を重視して整えられた河川は直線的で、水流はとても緩やかだ。
その上を囁くような小風が吹き抜けていく。
昼時を過ぎた屋台たちが再び活気づくにはまだ早い。長閑な雰囲気が地区の全体を包み込んでいた。
薄雲を纏った太陽の眼差しは柔らかく、散歩をするには良い具合かもしれない。
地下鉄の駅を出たヴァンは、上着のポケットに手を突っ込みながらのんびりと歩き始めた。
この地区の基調である河川には二本の橋が架けられており、そのうちの一本へ向かった彼は、中央付近に来たところで足を止めた。
欄干に身体を預け、そこからの眺望を瞳の中に映し込む。
普段ならあまり気にも留めない川音が、何故かやたらと耳に付いた。
「あんなの言われたら、余計に気になっちまうじゃねぇかよ」
ヴァンは先刻の事務所でのやり取りを思い出して息を吐く。
アニエスとジュディスに指摘されるまでは、本当に何とも思わなかったのだ。
というより、そんなことは頭の隅にも浮かばなかった。アーロンから個人的に誘われるという状況自体が。
「……やっぱり想像できねぇな」
ぽそりと独り言を落とした途端、胸の奥に寂しさが広がった。
それは彼女たちに騒がれた反動もあるのかもしれない。
ヴァンは確かに一人になりたい気分ではあった。
だが、いざその状況を作ってみれば想像以上に悶々と考え込んでしまう。
「もし、誘うなら……ん?」
そんな中、ある疑問がよぎった。
アーロンは、なぜ事務所のメンバーに声を掛けなかったのだろうか?
一ヶ月ほど前に庭城で会った時の様子からすれば、今回の舞台は渾身の一作になる位置づけだろう。
役者として、近しい人たちに見てもらいたいという気持ちが必ずどこかにあるはずだ。
彼は基本的に気っぷの良い青年だし、それは一度自分の懐に入れた者たちであればより顕著だ。
「あいつなら『てめぇら、まとめて招待してやるぜ』とか言ってきそうなもんだが」
個人的なお誘いの有無はともかくとして、今はこちらの方が気になってしまう。
ヴァンは難しい顔をしながら、欄干にもたれ掛けている上半身を起こした。
自然と前屈みの姿勢になっていたらしく、ほんの少し肩と首が痛い。
凝りを解すように軽く伸びをした後、彼はその場から動き出した。
橋を渡りきって教会や整備屋がある地区へと、綺麗に舗装された歩道を行く。
頭の中ではアーロンのことばかりを考えていた。
そのせいか、歩く速度は駅を出た時よりも随分と遅くなっていた。
「……そう言えば、庭城から出る時、らしくなかったな」
別れ際、明らかに何かを言いかけた。いつもはっきりとした物言いをする彼にしては珍しい。
あの時ヴァンに投げかけられた声は低く平坦で、一切の軽妙さを持ち合わせていなかった。
軽く首を傾げる程度で流した記憶が、今になって急に違和感となって押し寄せてくる。
もしかしたら、真面目な話だったのかもしれない。
「ちゃんと聞いておけば良かったか……」
そんな後悔が過って再び足を止めた。
何気なく川べりに視線を寄せてみると、水辺に設置してあるベンチの一台が空いている。
周囲に人影はなく、一人で物思いにふけるにはうってつけの場所だった。
ヴァンはそこに腰を下ろし、スローモーションのような雲が漂う午下の空を見上げた。
「今更だよな。もう一ヶ月は経ってる」
あれから何の音沙汰もないのは、わざわざ言い直すほどの話ではなかったということだろうか?
ぐるぐると答えの出ない問いかけばかりを繰り返す。
「声……聞きてぇな」
誰もいないのをいいことに、本音が唇から零れ落ちた。
無造作にポケットの中へ突っ込んだ手が、ザイファを掴み取る。
アーロンが煌都に帰っている期間中は、自分から連絡を取るつもりはなかった。
それは彼の稽古を邪魔したくないという一心からだったが、本心では煌都での生活ぶりも気になっていた。
純粋に雇い主としての心配や不安だとは言い切れない、くぐもった感情。
故郷の街で水を得た魚のようになっている青年の姿を想像し、勝手に放って置かれているような気分に陥っている。
庭城で顔を合わせたのは、そんな矢先のことだった。
彼の一挙一動は今でも鮮やかに脳裏を駆け巡る。
魔獣を相手に嬉々として立ち回る姿と、役者然とした真摯な眼差しと。
──別れ際のらしくない態度と。
ヴァンは手に持ったザイファをじっと見つめたまま、なかなか行動を起こそうとはしなかった。
あの時、何を言いたかったのだろう?どうして口を噤んでしまったのだろう?
そのことばかりが引っかかるくせに、どうしても踏ん切りがつかなかった。
正直、アーロンの反応が怖かった。
ログアウトした直後ならまだしも、今になってこの話題を蒸し返してもよいのか分からない。
「……はぁ」
ピクリとも動かない手元をから視線を逸らし、ヴァンは力なく項垂れた。
「やっぱ、邪魔するのは悪ぃよな。もうすぐ初日だっていうのに」
わずかばかりの勇気すら出せない己の不甲斐なさを、尤もらしい理由にすり替えて逃げ道を作る。
鬱々とした男の耳には、涼感ある水の音でさえもノイズのように聞こえた。
柔らかな陽光は絶え間なく彼の背中を慰めてくれていたが、それでも無性に寂しさを感じてしまった。
※ ※ ※
ここ数日は降雨の心配もなく落ちついた天気が続いていた。
今日も朝から綺麗な青空が広がっていて、ぽつぽつと浮かぶ雲たちが風と戯れている。
イーディスから一路、南下する道路を青いピックアップトラックが走行していた。
車内には運転手であるヴァンが一人だけ。他に同乗者はいなかった。
適度な音量で流れているラジオからは、交通情報を伝える生真面目な声がする。
「この分なら時間通りに着きそうだ」
ラングポートへの道のりはいたって順調だった。今のところ、この先に事故などの知らせはない。
主要都市同士を繋いでいる基軸の道路は、車の通行量もそれなりにあるが流れはスムーズだ。
首都の周辺とは違って渋滞で苛つくことはなく、ヴァンはちょっとしたドライブ気分を味わっている。
しかし、ここ数十分くらいは変わり映えのない長閑な風景が続いていた。
日頃から安全運転を心掛けてはいるが、ついつい緊張感が緩み小さな欠伸を零してしまう。
普段よりも起床が早かったので、それも影響しているのかもしれないが。
「……にしても、俺の周りには押しの強い奴らが多いな」
忍び寄る眠気を頭の中から追い払うため、ヴァンは事の発端を思い返してみた。
それは昨日の午後の出来事だった。
掲示板の確認がてら数カ所の地区をぶらつき、何の収穫もないまま事務所へ戻ってきた。
「今日は特に妙な臭いを感じねぇし、もう店じまいにしちまうか?」
入り口のドアを開けて中へ入ったヴァンは、後ろにいる助手の少女を振り返った。
「そうですね……」
アニエスはなぜか室内をぐるりと見回し、ある場所に視線を寄せてから意味ありげに小さく頷いた。
「いえ、ちょっと待って下さい」
「どうした?」
「ヴァンさんの机に置いてあるものが気になって。出かける時はなかったですよね?」
彼女の指摘を受けた事務所の主は、そこでようやく異変に気が付いた。
机の上には普段使っているノート型端末が一台。その横にはお洒落なデザインの紙袋が鎮座している。
「……確かに」
ヴァンは思いきり訝しげな顔をしてそれに近づき、一歩手前で足を止めた。
どこからどう見ても怪しかった。
外出の際にドアの施錠をしたのは間違いない。ついさっき自分で鍵を使用したばかりだ。
だとしたら、何者かが忍び込んだとしか考えられない。
「まさか、爆発物とかじゃねぇよな?」
恐る恐る近づき、紙袋の中を覗き込もうとした。
と、その瞬間。
上着のポケットの中から、呼び出し音が鳴り響いた。
「うお!?な、なんだよ?」
飛び上がるほど驚いた彼は、深呼吸をしてからザイファのカバーを開いた。
早鐘を打つ胸の鼓動を押さえながら応答ボタンを押すと、画面には見知った女性の顔が映し出された。
「お久しぶりね、ヴァンさん」
「お、おう、アシェンか」
軽く咳払いをして体裁を整えると、彼女は悪戯っぽく微笑みかけてきた。
「机の上のもの、ヴァンさん宛てなんだけど、受け取ってもらえたかしら?」
その言葉に面食らう。意外にあっさりと不審物の出所が分かってしまった。
ヴァンは幾度か目を瞬かせてた後、大きく息を吐き出しながら一気に脱力をする。
さっきまでの緊張感が嘘のようだった。
「あんたの仕業だったのかよ」
黒月の次世代を担うこの令嬢であれば、留守の裏解決事務所に紙袋を忍ばせることのなど容易いだろう。
彼女自身が動かなくても、数多いる配下の者たちを使えばどうにでもなる。
「なんでまた、こんなことを」
危険物ではないと分かって安心したのか、今度は躊躇なく近づいてみた。
しっかりとした作りの紙袋は、そこはかとなく品性が感じられる。表面に綴られた店名とおぼしき文字に目が留まった瞬間、ヴァンは息をのんだ。
「こ、こいつは……!?」
それは煌都でも指折りの高級料理店だった。東方料理を専門に扱っておりスイーツも絶品なのだが、一般市民にとっては高嶺の花だ。彼としても一度は訪れてみたい憧れの名店の一つでもあった。
「実は急ぎでお願いしたいことがあるのよ。お礼は前払いでよろしく」
ヴァン・アークライドという男は、筋の通らない仕事は請け負わないをモットーにしている。
だが、それと同時に甘味の類いにはめっぽう弱い。
「……もの凄く嫌な予感がするんだが」
文字通りの甘い誘惑に、ぐらぐらと心の天秤が揺れている。
「あ、それって季節限定な上に数量限定品のスイーツよ」
そこへ、とどめを刺すがごとくの一言。
「あ~っ、なんてこと言いやがる!」
ヴァンは机に両手をついてがくりと項垂れる。
スイーツを乗せた天秤の皿が派手な音を立てながら一気に傾いた。
「ヴァンさん、どうやらお仕事のようですね」
そんな中、黙って事の成り行きを見守っていたアニエスが口を開いた。
「煌都へ出張でしょうか?」
満面の笑みを浮かべて小首を傾ける少女の方へ、ヴァンが何かを悟った目を向ける。
「お前らグルだったのかよ」
改めて思い返してみれば、事務所に戻ってきた直後に紙袋の存在を示したのはアニエスだった。
アシェンから通信が入ってきた時も驚く素振りはなかったし、彼女にしてみれば全てが予定調和だったということなのだろう。
「で、そのお願いってのは?」
ヴァンはこめかみを揉み込みながら、疲れたような声で画面に問いかけた。
前払いの品を味わうことだけを楽しみにして、ここはもう腹を括るしかないと思った。
いつの間にか、走行中の窓に流れる風景が変わりつつあった。
一面に広がっていた緑の木々や草花が少なくなり、人工的な構造物が目立ち始める。
煌都ラングポートはもう目と鼻の先だった。
結局、昨日の段階では『お願い』についての情報は何も得られなかった。
アシェンに詳細を尋ねてみたものの、
「遅くても昼くらいまでには来て欲しいわ」
とだけ返され早々に通信を切られてしまった。
アニエスに矛先を向けても、
「寝坊しないで下さいね」
と和やかにはぐらかされるばかりだった。
ヴァンの脳裏に二週間ほど前の出来事が蘇る。
あの時のアニエスとジュディスの言動からして、今回の出張が無関係だとは思えなかった。
「どう考えてもあいつ絡みだろ?」
無意識のうちにハンドルを握る力が強くなる。
「会えるのは……嬉しいんだけどな」
一人きりの車内には複雑な感情を宿した吐息が大きく広がった。
呼ばれたのはアシェンからであって、アーロンからではない。
煌都に来たことが知られれば、彼にはあからさまにウザがられる。そんな想像しかできなかった。
煌都に到着したヴァンは、予め確保していた駐車場に車を止めて弌番街へ向かった。
ここはルウ家のお膝元だ。いちいち連絡を入れなくても、アシェンはとっくに彼の動きを捕捉しているだろう。
目抜き通りをぶらつき始めて掲示板の辺りに差し掛かった頃、狙い通りに声がかかる。
目にも鮮やかな瑠璃色を纏った女性が、護衛らしき男を従えて立っていた。
「ヴァンさん、いらっしゃい。待ってたわよ」
「よお、時間的には問題ねぇよな?」
ヴァンが片手を上げて気さくな挨拶をすると、アシェンは小さく頷いてから彼を人通りの少ない一画へ導いた。少し拓けているその場所は、賑わう雑踏がBGM代わりになりそうなくらいの環境で、落ち着いて会話をするには丁度良い。数人の住民たちが思い思いに時を過ごしていた。
ヴァンは周囲を見回した後、一辺の壁に背中を預けて口火を切った。
「そんで、あのガキがどうかしたのか?」
いつの間にかアシェンに付き従っていた男の姿は消え、二人きりになっていた。
もしかして、アーロンに何かあったのかもしれない。人払いをされたことで不安が首をもたげる。
だが、彼の予想に反して黒月の令嬢はあっけらかんとしていた。
「別にどうもしないわ。公演が始まってから連日満員、大絶賛であいつも元気にやってるわ」
「だったらどうして俺を呼びやがった?何の依頼だ?」
ますます訳が分からなかった。眉間に皺を寄せた顔で彼女の出方を覗う。
「昨日も言ったでしょ?『依頼』じゃなくて、あたしからの個人的な『お願い』よ」
アシェンはさらりとヴァンの言葉を訂正し、綺麗な微笑を浮かべた。
それから一呼吸を置いて語句を繋げる。
「アーロンの舞台を見てあげてほしいの」
凜とした声がその場の空気を揺らした。
真正面から男を見据える瞳は深い色をたたえ、彼女の真剣さが如実に表れている。
──やっぱりそこに行き着くのか。
ヴァンはほんの一瞬だけ瞠目したものの、さほど大きな驚きを感じなかった。
昨日からの流れを鑑みれば、この展開は予想の範囲内ではある。
もしかしたら、ほんの少しくらいは自身の願望が紛れ込んでいるのかもしれないが。
一ヶ月ほど前にアーロンと会って以降、彼の姿が脳裏に浮かぶ頻度が増えた。
仮想現実世界とはいえ、なまじ言葉を交わしてしまったせいかもしれない。
実物の顔を見たい気持ちは強くなったし、もちろん舞台のことも余計に気になった。
それならば、この機会は都合が良い。
(……でもなぁ)
しかし、ヴァンはそれをすんなりと受け取れるほど素直ではなかった。
目を閉じて口元を引き締める。ゆったりと構えていた腕組みがわずかに強ばった。
「その言い方じゃ、本人には内緒ってところか」
自分で言っておいて密かに消沈する。
今回の公演には誘われていない。個人的にどころか裏解決事務所の括りでさえも。
「そうよ。あら、もしかして断ろうとしてるの?先だってのお礼は受け取って貰えたのよね?」
一人で小難しい顔をしている男に対し、アシェンがやや目尻をつり上げて距離を詰めてくる。
きりりとした眼光は、さすが未来の女帝の風格と表するべきか。
「あー、それはまぁ。昨日、ちょっと一口頂いちまったというか……」
ヴァンは片手で頭をガシガシと掻きながら、ばつが悪そうに視線を逸らした。
本当はこの一件が片付いた後のご褒美のつもりだったが、超高級名店のネームバリューには抗えなかった。
これでアシェンのお願いを断ろうものなら、立派な食い逃げだ。全く筋が通らない。
「ふふっ、さすがヴァンさんね」
アーロンや事務所の面々とまではいかないが、彼女もこの男の人となりを把握していた。
彼に否と言われないことを確信し、さり気なく茶化しを入れながら表情を緩ませる。
「午後の公演は15時からよ。話は支配人に通してあるから、彼に声を掛けてちょうだい」
黒月の筆頭であるルウ家の令嬢はそれとなく忙しい。用件を伝え終えて鮮やかに踵を返すと、
「お、おい……てっきりチケットを寄越してくるかと思ってたんだがよ?」
ヴァンが戸惑いがちな声を上げた。
「あたしとしては、ヴァンさんには良い席で見てもらいたいのが本音よ。でも、あえて席は用意しなかったの」
アシェンは立ち止まり、顔だけを男の方へ向けた。そのまま言葉を続ける。
「会場の警備の一環という形にしてあるわ。立ち見で悪いけど、あなたもその方が気楽でしょ?」
二週間前にアニエスやジュディスとやり取りをし、その中でヴァンの心情が垣間見えたのだろう。
そして、アーロンのことも。幼い頃から家族同然に過ごしてきた彼の胸中を察することは簡単だった。
その上で端から見ればもどかしい二人を慮り、このような手段を取った。
彼女は役者ではないので、舞台へ上がった時に客席側がどのように見えるのかを知らない。
けれど、アーロンの話によれば演舞中でも意外と観客たちの顔は認識できるものらしい。
(客席じゃなくても、あいつなら……)
これは賭けのようなものだったが、アシェンの中には確固とした自信があった。
あの幼馴染みならば、絶対にこのチャンスを見逃したりはしない。
「それじゃ、よろしくね」
止まっていた足が衣服の裾を綺麗に払い、今度こそヴァンの前から立ち去る。
去り際の声は優しく響き、まるで男たちの背中を押しているかのようだった。
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雑多な呟き
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