とある車内にて ─ささやかな戯れ─
黎ⅡED後・恋人設定(カプ要素薄め)
車で移動中にみんなが寝てしまう話です。
二人の他にフェリ・カトル・リゼットが同乗しています。
【文字数:3300】
ひとたび所長の愛車で移動となれば、走行中の車内には様々な声が飛び交う。
一人だった頃はBGM代わりにラジオを流していたものだが、今では助手たちのおかげで賑やかだ。
しかし、時刻は昼食を終えたばかりの頃合い。少しずつ会話の頻度が減り始めて静かになっていく。
「──おい、こいつらどうにかしろよ」
そんな中、不意にアーロンが口を開いた。
運転席のヴァンが一瞬だけ横目で後方を窺うと、シートの中央に座している彼はいかにも不満げな表情で腕を組んでいた。
すぐ後ろの席には三人が並んでいる。
アーロンを挟むようにしてフェリとカトルが座っているのだが、彼女たちからは規則正しい寝息が聞こえ始めていた。
まるで示し合わせたかのように左右から年上の同僚に寄りかかっている。
「くそ……やっぱり最後尾の一択だったじゃねぇか」
「何言ってやがる。土足で寝転がる気満々だったくせに。てめぇの選択権はねぇんだよ」
心情そのままの語句は独り言じみていたが、ヴァンの耳にはしっかり届いている。
彼は先刻のことを思い出し、眉をひそめて口調を強めた。
一言一句とまではいかないが、ほとんど同じ応対をしたような気がする。
モンマルトで昼食を取った後、さて移動だとガレージへ向かった際に一悶着があった。
我先にと三列目のシートへ乗り込もうとするアーロンを見咎め、ヴァンが思い切り首根っこを掴んで引き剥がしたのだ。
これが他のメンバーであれば行儀が良いのは確実なので、お好きな席へどうぞという感覚なのだが。
その点、助手三号の所作についてはまるっきり信用をしていなかった。
大事な愛車を綺麗に保つためには、どうしたって心も鬼になってしまう。
「──土足は断固拒否だ」
ここぞとばかりに年長者の威厳をかざして言い放つと、それまで黙って彼らの様子を見ていたフェリが駆け寄ってきた。
「それなら、アーロンさんはわたしたちと一緒ですね!」
「チビ!いきなり意味分かんねぇこと言ってんじゃねぇ!」
少女はアーロンの片腕にしがみ付き、彼の身体を力一杯引っ張った。
油断をしていたのか、半分引きずられるような状態になっている青年の叫びは眼中にない。
最年少の助手である彼女はとても真面目な性格だ。
所長であるヴァンの言動を受け、この問題児をしっかり座らせなければと思ったのだろう。
「わたしとカトルさんで挟んでしまえば、だらしない姿勢はできないはずです」
「えっ、ぼ、僕も!?」
唐突に名前を呼ばれたカトルは、驚きのあまり口をパクパクとさせている。
「ご協力お願いします」
「勝手に話を進めるんじゃねぇ!っつーか、せめて助手席にしろや!」
この流れでは最後尾の独り占めを断念せざるを得ない。そう判断したアーロンはとっさに譲歩案を出してみたが、フェリの方もなかなかに頑固だった。
「……なんで僕が」
まだ乗ってもいないのに疲れた顔をしているカトルの横で、二人は牙を剝き出して押し問答を繰り返している。
ヴァンはそんな助手たちの様子を面白そうに眺めやっていた。
「やれやれ、またじゃれ合ってやがる」
くつくつと喉の奥を鳴らしながら笑っていると、
「ヴァン様。わたくしは助手席でよろしいのでしょうか?」
傍らから淑やかな女性の声が聞こえてきた。
「おう、構わねぇぜ。お前さんもフェリが押し切るって予想だろ?」
「はい。カトル様には大変申し訳ありませんが……」
リゼットは言葉通りの色を滲ませながら控えめに微笑んだ。
最初は刺々しい感情で回想を始めたヴァンだったが、それが終わる頃には険のある表情が薄れて柔らかくなっていた。
「どうするも何も、昼飯食ったら眠くなるのは仕方ねぇだろ?」
「そういうこと言ってんじゃねぇんだよ、オッサン」
アーロンの方はといえば、不本意な状況に先ず声を上げてみたものの、実際は完全に諦めの境地だ。
運転席へ返す言葉には鋭利さの欠片もない。
眠っている二人が崩れ落ちないように体勢を維持している姿には、さり気ない優しさが垣間見られた。
「ヴァン様もアーロン様もその辺りで。気持ち良さそうに眠っておられますから」
リゼットはそんな男たちを静観していたが、フェリが僅かに身動ぎをしたことに気づき、それとなく注意を促した。
事務所の中でも年少の部類に入る助手たちの寝顔は、それだけで周囲を温かくしてくれる。
「おっと、悪ぃ」
「熟睡中かよ……チビどもは」
起こすのが忍びないという気持ちは、ヴァンとアーロンも同様だった。
彼らは小さく呟いた後、一旦は口を閉じることにした。
それからしばらくは静かな時間が続いた。
時々、会話らしきものがぽつりぽつりと。各々が最小限の声量で夢の中にいる二人を気遣う。
「──おっ?」
いつの間にか後ろからの声が聞こえなくなり、ヴァンがバックミラー越しに後部座席を確認した。
「ははっ、落ちやがったか」
それに習ってリゼットも助手席から少しだけ顔を覗かせる。
すると、さっきまでは起きていたはずのアーロンが腕を組んだまま船を漕いでいた。
「お二人の眠気が移ってしまわれたようですね」
まったりとした昼下がり。左右から二人分の体温に包まれてしまえば、睡魔に引きずられてしまうのも頷ける。
寄り添って眠っている同僚たちの様相は微笑ましく、リゼットの目元が自然と綻んだ。
「こいつ、煌都でも子どもとか爺さん婆さんに好かれまくってるんだよなぁ」
「アーロン様のお人柄ですね」
ヴァンは二度。リゼットは一度だけ彼と共に煌都の街中を歩いたことがあるが、抱いた印象に差違はなさそうだ。
「ま、人望ってやつもあるんだろ。何だかんだで面倒見が良い奴だしな……っと、まだ起きてねぇよな?」
「ふふっ、ご本人の前で言って差し上げてもよろしいのでは?」
「おいおい、それは勘弁してくれよ」
珍しく意地悪げな返しをしてきたリゼットに対し、ヴァンはハンドルから片手を離して苦笑しながら頭を掻いた。
微かにラジオの音が流れていた。
いつもよりは随分と控えめな音量だが、うっすらと耳に入ってくる。
目を覚ましたアーロンは、未だ眠り続けている小さな同僚たちを一瞥して溜息を吐いた。
「あ~、首が痛ぇ」
今の状態では満足に身体を動かすことができず、気休め程度に腕だけを組み替える。
その直後、運転席から声がかかった。
「よぉ、お目覚めか。助手三号」
「ん……まぁな」
「いつもは一人くらい起きてるんだけどなぁ。今日はみんな沈没しちまいやがった」
彼はしっかりと正面を向いて運転をしていたが、心なしか声音が弾んでいるようだった。
「みんなって、メイドもかよ?」
驚いたアーロンは助手席にいるリゼットの方へ視線を投げた。
常日頃から彼女がうたた寝をしている姿などは見たことがない。しかし、今は綺麗な座り方のまま両目を瞑っている状態だった。
「珍しいこともあるもんだよな」
どうやら寝入ってしまっているらしく、彼らが喋っていても起きる気配は感じられない。
「そんなわけで、今はラジオが運転のお供ってやつ」
「──あぁ、なるほど」
ここまでの短いやり取りを経てアーロンは納得した。さっきからヴァンがどことなく嬉しそうに喋っている理由を。
「そいつは悪かったな。所長さんを寂しがらせちまったみたいで」
きっと話し相手が欲しかったのだろう。遠回しに構ってくれと言っている。
後部座席からは運転手の表情が確かめられず、何気なく顎を引き上げてバックミラーに意識を寄せてみる。
ふと、小さな鏡の中でヴァンと視線がぶつかった。
濃紺の瞳は一瞬だけ驚きを露わにしたが、すぐに柔らかい笑みを形作る。
「ったく、暢気によそ見なんかしやがって」
それに返事をするかのようにアーロンが口角をつり上げた。
「相手くらいはしてやるから、きっちり前を見てろよな」
今まで彼の運転を不安に思ったことはないが、弄りついでに一応は釘を刺す。
「……なんだよ。お前と比べたらはるかに安全運転だぞ、俺は」
この一言を境に二人が鏡を通じて交わることはなかった。
車中のラジオからは、悠々とした午後に合わせてスローテンポな一曲が流れている。
舗装された道路のおかげで走行時の振動が心地良く、しばらくは誰も目を覚まさないだろう。
今は二人きりのようで二人きりではない、曖昧な線引きが成された空間。
たまにはそんな所で戯れるのも一興だと、男たちはささやかに声だけの応酬を楽しんでいた。
2024.01.09
#黎Ⅱ畳む
黎ⅡED後・恋人設定(カプ要素薄め)
車で移動中にみんなが寝てしまう話です。
二人の他にフェリ・カトル・リゼットが同乗しています。
【文字数:3300】
ひとたび所長の愛車で移動となれば、走行中の車内には様々な声が飛び交う。
一人だった頃はBGM代わりにラジオを流していたものだが、今では助手たちのおかげで賑やかだ。
しかし、時刻は昼食を終えたばかりの頃合い。少しずつ会話の頻度が減り始めて静かになっていく。
「──おい、こいつらどうにかしろよ」
そんな中、不意にアーロンが口を開いた。
運転席のヴァンが一瞬だけ横目で後方を窺うと、シートの中央に座している彼はいかにも不満げな表情で腕を組んでいた。
すぐ後ろの席には三人が並んでいる。
アーロンを挟むようにしてフェリとカトルが座っているのだが、彼女たちからは規則正しい寝息が聞こえ始めていた。
まるで示し合わせたかのように左右から年上の同僚に寄りかかっている。
「くそ……やっぱり最後尾の一択だったじゃねぇか」
「何言ってやがる。土足で寝転がる気満々だったくせに。てめぇの選択権はねぇんだよ」
心情そのままの語句は独り言じみていたが、ヴァンの耳にはしっかり届いている。
彼は先刻のことを思い出し、眉をひそめて口調を強めた。
一言一句とまではいかないが、ほとんど同じ応対をしたような気がする。
モンマルトで昼食を取った後、さて移動だとガレージへ向かった際に一悶着があった。
我先にと三列目のシートへ乗り込もうとするアーロンを見咎め、ヴァンが思い切り首根っこを掴んで引き剥がしたのだ。
これが他のメンバーであれば行儀が良いのは確実なので、お好きな席へどうぞという感覚なのだが。
その点、助手三号の所作についてはまるっきり信用をしていなかった。
大事な愛車を綺麗に保つためには、どうしたって心も鬼になってしまう。
「──土足は断固拒否だ」
ここぞとばかりに年長者の威厳をかざして言い放つと、それまで黙って彼らの様子を見ていたフェリが駆け寄ってきた。
「それなら、アーロンさんはわたしたちと一緒ですね!」
「チビ!いきなり意味分かんねぇこと言ってんじゃねぇ!」
少女はアーロンの片腕にしがみ付き、彼の身体を力一杯引っ張った。
油断をしていたのか、半分引きずられるような状態になっている青年の叫びは眼中にない。
最年少の助手である彼女はとても真面目な性格だ。
所長であるヴァンの言動を受け、この問題児をしっかり座らせなければと思ったのだろう。
「わたしとカトルさんで挟んでしまえば、だらしない姿勢はできないはずです」
「えっ、ぼ、僕も!?」
唐突に名前を呼ばれたカトルは、驚きのあまり口をパクパクとさせている。
「ご協力お願いします」
「勝手に話を進めるんじゃねぇ!っつーか、せめて助手席にしろや!」
この流れでは最後尾の独り占めを断念せざるを得ない。そう判断したアーロンはとっさに譲歩案を出してみたが、フェリの方もなかなかに頑固だった。
「……なんで僕が」
まだ乗ってもいないのに疲れた顔をしているカトルの横で、二人は牙を剝き出して押し問答を繰り返している。
ヴァンはそんな助手たちの様子を面白そうに眺めやっていた。
「やれやれ、またじゃれ合ってやがる」
くつくつと喉の奥を鳴らしながら笑っていると、
「ヴァン様。わたくしは助手席でよろしいのでしょうか?」
傍らから淑やかな女性の声が聞こえてきた。
「おう、構わねぇぜ。お前さんもフェリが押し切るって予想だろ?」
「はい。カトル様には大変申し訳ありませんが……」
リゼットは言葉通りの色を滲ませながら控えめに微笑んだ。
最初は刺々しい感情で回想を始めたヴァンだったが、それが終わる頃には険のある表情が薄れて柔らかくなっていた。
「どうするも何も、昼飯食ったら眠くなるのは仕方ねぇだろ?」
「そういうこと言ってんじゃねぇんだよ、オッサン」
アーロンの方はといえば、不本意な状況に先ず声を上げてみたものの、実際は完全に諦めの境地だ。
運転席へ返す言葉には鋭利さの欠片もない。
眠っている二人が崩れ落ちないように体勢を維持している姿には、さり気ない優しさが垣間見られた。
「ヴァン様もアーロン様もその辺りで。気持ち良さそうに眠っておられますから」
リゼットはそんな男たちを静観していたが、フェリが僅かに身動ぎをしたことに気づき、それとなく注意を促した。
事務所の中でも年少の部類に入る助手たちの寝顔は、それだけで周囲を温かくしてくれる。
「おっと、悪ぃ」
「熟睡中かよ……チビどもは」
起こすのが忍びないという気持ちは、ヴァンとアーロンも同様だった。
彼らは小さく呟いた後、一旦は口を閉じることにした。
それからしばらくは静かな時間が続いた。
時々、会話らしきものがぽつりぽつりと。各々が最小限の声量で夢の中にいる二人を気遣う。
「──おっ?」
いつの間にか後ろからの声が聞こえなくなり、ヴァンがバックミラー越しに後部座席を確認した。
「ははっ、落ちやがったか」
それに習ってリゼットも助手席から少しだけ顔を覗かせる。
すると、さっきまでは起きていたはずのアーロンが腕を組んだまま船を漕いでいた。
「お二人の眠気が移ってしまわれたようですね」
まったりとした昼下がり。左右から二人分の体温に包まれてしまえば、睡魔に引きずられてしまうのも頷ける。
寄り添って眠っている同僚たちの様相は微笑ましく、リゼットの目元が自然と綻んだ。
「こいつ、煌都でも子どもとか爺さん婆さんに好かれまくってるんだよなぁ」
「アーロン様のお人柄ですね」
ヴァンは二度。リゼットは一度だけ彼と共に煌都の街中を歩いたことがあるが、抱いた印象に差違はなさそうだ。
「ま、人望ってやつもあるんだろ。何だかんだで面倒見が良い奴だしな……っと、まだ起きてねぇよな?」
「ふふっ、ご本人の前で言って差し上げてもよろしいのでは?」
「おいおい、それは勘弁してくれよ」
珍しく意地悪げな返しをしてきたリゼットに対し、ヴァンはハンドルから片手を離して苦笑しながら頭を掻いた。
微かにラジオの音が流れていた。
いつもよりは随分と控えめな音量だが、うっすらと耳に入ってくる。
目を覚ましたアーロンは、未だ眠り続けている小さな同僚たちを一瞥して溜息を吐いた。
「あ~、首が痛ぇ」
今の状態では満足に身体を動かすことができず、気休め程度に腕だけを組み替える。
その直後、運転席から声がかかった。
「よぉ、お目覚めか。助手三号」
「ん……まぁな」
「いつもは一人くらい起きてるんだけどなぁ。今日はみんな沈没しちまいやがった」
彼はしっかりと正面を向いて運転をしていたが、心なしか声音が弾んでいるようだった。
「みんなって、メイドもかよ?」
驚いたアーロンは助手席にいるリゼットの方へ視線を投げた。
常日頃から彼女がうたた寝をしている姿などは見たことがない。しかし、今は綺麗な座り方のまま両目を瞑っている状態だった。
「珍しいこともあるもんだよな」
どうやら寝入ってしまっているらしく、彼らが喋っていても起きる気配は感じられない。
「そんなわけで、今はラジオが運転のお供ってやつ」
「──あぁ、なるほど」
ここまでの短いやり取りを経てアーロンは納得した。さっきからヴァンがどことなく嬉しそうに喋っている理由を。
「そいつは悪かったな。所長さんを寂しがらせちまったみたいで」
きっと話し相手が欲しかったのだろう。遠回しに構ってくれと言っている。
後部座席からは運転手の表情が確かめられず、何気なく顎を引き上げてバックミラーに意識を寄せてみる。
ふと、小さな鏡の中でヴァンと視線がぶつかった。
濃紺の瞳は一瞬だけ驚きを露わにしたが、すぐに柔らかい笑みを形作る。
「ったく、暢気によそ見なんかしやがって」
それに返事をするかのようにアーロンが口角をつり上げた。
「相手くらいはしてやるから、きっちり前を見てろよな」
今まで彼の運転を不安に思ったことはないが、弄りついでに一応は釘を刺す。
「……なんだよ。お前と比べたらはるかに安全運転だぞ、俺は」
この一言を境に二人が鏡を通じて交わることはなかった。
車中のラジオからは、悠々とした午後に合わせてスローテンポな一曲が流れている。
舗装された道路のおかげで走行時の振動が心地良く、しばらくは誰も目を覚まさないだろう。
今は二人きりのようで二人きりではない、曖昧な線引きが成された空間。
たまにはそんな所で戯れるのも一興だと、男たちはささやかに声だけの応酬を楽しんでいた。
2024.01.09
#黎Ⅱ畳む
偶然にも程がある
恋人未満
アーロン→ヴァンです。
雨宿りをしているアーロンと、それを見つけたヴァンが彼を相傘に誘う話。
【文字数:5300】
勝手気ままにイーディスの街を歩くなら、いちいち天気予報などは気にしない。
空は朝からずっと不安定な様相だ。鈍色の雲が厚く垂れ込める中、いつ雨が降ってきてもおかしくはない状況だった。
──ぽつり、ぽつり、と。
今まさに上空から小さな雨粒が落ちてきた。
彼は一度だけ上を見上げ、すぐに近くの建物へ身体を滑り込ませる。
「さて……っと、どうすっかなぁ?」
少しばかり軒下を拝借しつつ、アーロンは平然とした様子でザイファを開き時刻を確認した。
昼食時で賑わっていた飲食店がやっと一段落した頃合いだ。雨宿りと称してまったりするのも悪くない。
なのだが、
「集合は十五時だったよな」
彼はこの先の予定に頭を巡らせ、早々に最初の案を打ち消した。
なにせこの雨がいつ収まるのか予想できない。天候を見極める技術は日々発達しているが、雨雲の動きを事細かに捉えることはまだまだ難しい。
「どこかにしけ込むには時間が微妙すぎっつーか」
何気なく腕を組んで薄暗くなった街を見渡してみる。元からぐずついた空模様のせいか、傘を保持している人々の割合は高めだ。雨に濡れながら走っている輩もいるが、それも一時で各々が目指した建物へと吸い込まれていく。
その行き先を観察していたアーロンは、次の案を思い浮かべた。
「……駅まで走るか?はぁ~、マジかったりぃ」
全くもって不本意なのだが、それ以外の良策は出てきそうにない。
こんな所で足止めを食らっているよりは、旧市街へ戻った方が有意義かもしれなかった。
濡れた身体はシャワーで温め直すとして、その後はモンマルトで時間を潰せばいい。
生活をする上であれこれと世話になっている店なので、気兼ねなく居座れる場所であるのは確かだ。
アーロンはザイファをポケットへしまい、面倒くさそうに靴を数回鳴らした。
駅までの距離はそれ程遠くない。彼の足ならば濡れ鼠になる心配はなさそうだ。
「そんじゃ、行くか」
一度決めてしまえば、うだうだと悩みはしない。
彼は胸の前で手の平に拳を打ち付け、軒下に小気味よい音を響かせた。
と、その時。
「──よぉ、なんか目立つ赤毛を見つけちまったぜ」
次第に強くなっていく雨音の中、傘をさした男がゆったりと歩み寄ってきた。
ちょっとご近所へならともかく、別の地区への外出だったら多少は空の具合も気にかける。
ヴァンは身支度を整えながら窓の外を一瞥し、導力ネットで天気予報を確認した。
ザイファの画面を見つめる表情は、お世辞にでも柔らかいとは言い難い。
「……やっぱり降ってきそうだな」
事務所の時計に目をやると、時刻は十一時を少し回ったところだった。
本日の裏解決業務は午後に一件しか入れていない。
というのも、依頼内容から察するに少々面倒な案件の匂いがしたのだ。
助手たちの負担を慮り、他の依頼を入れるべきではないだろうと彼は判断した。
そんなわけで、緊急の要請がない限りは集合時間まで自由行動の予定だ。
ヴァンも同様のはずだったが、生憎と午前中に済ませておかなければならない用件があった。
事務所の経営に必要な公的書類の提出期限が差し迫っている。
昨日の段階でリゼットが指摘をしてくれなければ、彼自身はうっかり忘れたままだった大事な代物だ。
「リゼットには改めて礼を言っとかねぇとな、ほんと助かったぜ」
彼女は昨夜のうちに準備を整えてくれていた。
今日の天候のことまで考慮していたのか、提出用の書類はしっかりと厚みのある封筒に収められている。
「そろそろ出るか」
ヴァンは卓上に置かれたそれを手に取り、のんびりとした足取りで事務所のドアを開けた。
書類の提出場所はサイデン地区にある警察署だ。
「向こうに着くまでは持ちこたえて欲しいもんだがなぁ」
階段を下って屋外に出た彼は、そう呟きながら淀んだ雲を見上げる。
小脇には大事な書類を抱え、もう片方の手には一本の傘が携えてあった。
どうやらヴァンのささやかな願望は天にまで届いたらしい。
雨が降り出したのは、書類の提出を終えて別の地区へ移動してからだった。
昼食を取るために飲食店が並ぶ通りを物色し、混み具合がそこそこな店を選んで悠長に食事と洒落込む。
仕事の時間までには大分余裕があるし、あげくにこんな天気だ。独りでガラス越しの雨に浸るのは案外乙なものかもしれない。
「たまには、こんな日も良いもんだ」
ランチメニューの料理を綺麗に平らげた彼は、食後のデザートに舌鼓を打ちながら幸せな吐息を漏らした。
やはり甘い物は格別だ。
最後のひと匙を名残惜しげに口へ運んだ後、渋々ながら寛いでいた腰を上げる。
いつの間にか昼時のピークは過ぎていたようで、店内には緩やかな空気が流れていた。
ヴァンはドアのベル鳴らし、水気をはらんだ街路へ足を踏み出した。
雨脚が徐々に強くなり、開いた傘の上では大粒の水滴たちが合唱を始めている。
これでは気軽な街歩きを楽しむ気にもなれない。そう思った彼は、駅がある方向へ進路を取った。
「さっさと戻って昼寝だな。この一択しかありえねぇ」
唇から発せられる暢気な声は、足元の水たまりを踏む音と相まってどことなく楽しそうだ。
そんな最中。
視界の片隅に鮮やかな色が飛び込んできた。
「──あっ?」
思わずその場で足を止める。
驚きながら目線を移動させると、前方にある建物の軒下に赤い長髪の青年が佇んでいた。
彼は一時だけザイファを開いた後、腕組みをして何やら思案している様子だった。
「マジかよ。偶然にも程があるだろ」
驚きのあまりヴァンの声は掠れ、紺青の眼だけがじっとその立ち姿を見つめる。
この天気で視界が悪いのか、どうやら向こうは気づいていないようだ。
「いや、ここは見なかったことに……」
彼はすぐにそう判断した。
状況からして雨宿りをしているのは確かだったが、どこかに連絡を取っている素振りにも見えた。
今は自由行動中なので、声をかけるのは野暮というものだろう。
しかし、一つだけ。アーロンが何やら考え込んでいる様子なのが気にかかった。
そんなことはないと思いつつ、もしかしたら身動きが取れない状態なのかもしれないと。
「まぁ、ウザがられるのは分かってるんだけどなぁ」
そんな風に憂慮してしまえば、放っておけないのが彼の性。
ヴァンは自嘲気味な笑みを浮かべながら軒下へと歩き出した。
今まさに走り出そうとしていた矢先だった。
声をかけてきた人物を見た途端、アーロンが瞠目する。
「ヴァン?てめぇ、なんで……」
数拍を置いてから口を開くと、挨拶のつもりなのか男は傘を傾げた。
「あ~、他意はねぇって。たまたま通りかかっただけだからよ」
あからさまに訝しんでみれば、ヴァンは困ったような微笑をしながら近づいてくる。
「……これからどこかに行くのか?」
「それはねぇな。今から遊ぶにしても中途半端だしよ」
この後の予定を遠慮がちに聞かれ、アーロンは即答してから駅がある方向へ視線をやった。
「さっさと帰って下で時間を潰そうかと思ってな。走ればそこまでは濡れねぇだろ」
言うやいなや、今度こそと思って足先に力を込めようとしたが、
「なら、入っていくか?丁度俺も帰るところだ」
そこで予想だにしなかった申し出をされて唖然としてしまった。
軽く十を数えるくらいの間、無言のままで相手を凝視する。
彼にしてみれば、まさに降ってわいてきたような僥倖だった。
傘があれば雨にさらされる心配もなく、密かに憎からず思っている男の傍らにも添える。
デメリットはゼロで良いことずくめだ。だったら軽い調子でささっと隣を陣取ってしまえばいい。
しかし、彼は如何せん捻くれた性格をしていた。
「なんだよ。貸しでも作っておこうって魂胆か?」
「お前なぁ……ほんと素直じゃねぇガキだな」
腕組みをしながら睨め付けると、ヴァンは肩を竦めながら小さな溜息を吐いた。
きっとアーロンの心中などお見通しということなのだろう。それくらいには深い縁がある。
「──あぁ、ほら。雇い主の俺としては、助手たちに風邪でもひかれたら困るんでな」
少しの時間を置き、ヴァンが尤もらしい理由を捻り出して再び手を差し伸べてきた。
傘の下で首を傾ける動きは柔らかく、それを見たアーロンが嬉しそうに両眼を煌めかせる。
「そういうことなら、まぁ……入ってやってもいいぜ」
「はいはい。ありがとよ」
気まぐれで天邪鬼な猫はご機嫌な顔で身を躍らせ、ヴァンの小脇に難なく滑り込んだ。
ここから駅までの道のりは単純だ。
少し先の角を右に曲がり、大きな通りに出てから直進すればいい。
特に急ぐ理由はなく、他愛のないやり取りを交わしながら歩を進める。
「まさか、こんなオッサンと相傘するハメになるとはなぁ」
「ははっ、悪ぃな。年上の綺麗なお姉さまじゃなくて」
通常運転とばかりにアーロンが愚痴を吐き、ヴァンはごく自然にそれを受け流す。
ちらりと金色の眼差しが見上げると、朗らかな横顔が近くにあった。
(……っ、面白くねぇ)
しかし、その弾みで浮かれた心の隙間にわずかな劣等感が生じてしまう。
ヴァンの方が上背もあるし誘ってきた体もあるので、どちらが傘を持べきか?などとは考える余地もない。
頭では解っている。解ってはいるのだが、それでもアーロンの心境はちょっとばかり複雑だ。
彼に対してはいつだって主導権を握っていたい。思うがままに振り回してみたい。
「ん?何か言いたそうだな?」
そんな腹の底にある小さな焔はおのずと瞳へ宿り、それに気づいたヴァンが顔を向けてきた。
「さぁな。うちの所長さんは随分とお優しいってな」
アーロンはわざと戯けた口調でそれを誤魔化し、隣の男から視線を外した。
すると、今の言葉が引き金になったのか、急にある違和感を覚え始めた。
いくら紳士物の傘とはいえ、大の男が二人並べば窮屈なことには変わりない。
彼は取りあえず頭が無事なら良いだろうという感覚で、胴体の方はさほど気にしていなかった。
しかし、今のアーロンの肩口は全くと言っていいほど濡れていない。
(こいつ、ふざけた真似しやがって)
行く道は大通りに出る角を曲がる直前。
広い道を隔てた向こう側のショーウィンドウに、ぼんやりと二人の姿が映っている。
相傘のわりにはバランスが悪く、明らかにアーロンの方へ偏っていた。
それを視認した瞬間、彼の表情が歪んだ。
雨脚は弱まる気配がなく本降りになっている。この分では、ヴァンの半身はしっかりと濡れてしまっているだろう。
「おい、ヴァン」
「なんだ?やっぱり何か……って、うおっ!?」
傍らにいる男を呼ぶ声が少し低くなり、彼の応答を遮って上着ごと腰を抱く。
「い、いきなり何しやがる!」
不意打ちを受けた身体はぐらりとよろめき、その機を捉えたアーロンが更に強く腰を引き寄せた。
「そういう気遣いはウゼェから止めろ」
これでもかと言わんばかりの密着状態は、顔を向ければ息がかかるくらいに近い。
慌てふためくヴァンに対し、アーロンは言葉通りの表情で鋭く睨んだ。
「な、何がだよ!?」
そのまま強引に歩き始めると、為すがままにされている男が切羽詰まった声を上げた。
「何がって?助手としては所長さんにお風邪を召されると困るんでな」
ここまで寄り添ってしまえば、傘を傾ける動きさえ困難なはず。
自分の肩に雨粒が落ちてくるのを感じ、アーロンは満足げに頬を緩めてそう言った。
大通りに出てしまえば後は道なりだ。
駅の建屋が目視できるくらいの距離で、時間にすれば大したことはない。
──はずなのだが。
ヴァンにはこの真っ直ぐな道程がやけに長く感じられた。
「なぁ……さすがにこれは無しだろ?」
腰元に回された手は力強く、傘の下では恋人同士かと見紛うような触れ合いが続く。
こんな天気なので、外を歩いている人が少ないのは幸いだった。それでも人目が気になってしまい、落ち着きなく視線を彷徨わせる。
「もうさっきみたいな持ち方はしねぇって」
アーロンに引き寄せられた際、バランスを崩した流れで咄嗟に傘の柄を両手で持ってしまった。
幸か不幸か、今はそれが丁度良い塩梅になっている。
彼は握る手に少しだけ力を込めて隣の反応を覗ってみた。
「こういう時のてめぇは信用できねぇな。どうせ無意識でやらかすに決まってる」
しかし、見事なくらいにバッサリと切り捨てられてしまい大きな溜息が落ちた。
「はぁ~、なんか言い返せねぇ気分だ……」
「ちなみに、有りか無しかで言ったらオレ的には有りだぜ?何の問題もねぇな」
力なく項垂れた横面にアーロンの吐息がかかる。
唇が肌に触れそうで触れない、ぎりぎりの所で言葉を紡がれて思わず肩が跳ね上がった。
「……うぅ、俺的には無しなんだよ。恥ずかしすぎんだろうが」
驚きと動揺で忙しない胸の鼓動を聞きながら、消え入りそうな声で本音を零す。
アーロンの性格を熟知している彼は、完全な諦めモードに入るしかなかった。
これはもう、何を言っても身体を離してくれそうにない。
だったらせめてと、雨の匂いが濃厚な街並みに願う。
(今はマジで顔見知りに会いたくねぇ。どうか……誰も通りかからないでくれ)
進行方向の先に見える目的地はやたらに遠く、足は動いているはずなのに全く近づいている気がしない。
「無心だ……無心だ」
「くくっ、まぁ、がんばれよ。所長さん」
ぶつぶつと呟き始めた横でアーロンが意地悪げに笑っている。
どうしてあの時に声をかけてしまったのだろう?
どうして傘の中へ誘ってしまったのだろう?
少し前の己の言動を反芻したヴァンは、本気で後悔をしたくなってしまった。
2023.11.03畳む
恋人未満
アーロン→ヴァンです。
雨宿りをしているアーロンと、それを見つけたヴァンが彼を相傘に誘う話。
【文字数:5300】
勝手気ままにイーディスの街を歩くなら、いちいち天気予報などは気にしない。
空は朝からずっと不安定な様相だ。鈍色の雲が厚く垂れ込める中、いつ雨が降ってきてもおかしくはない状況だった。
──ぽつり、ぽつり、と。
今まさに上空から小さな雨粒が落ちてきた。
彼は一度だけ上を見上げ、すぐに近くの建物へ身体を滑り込ませる。
「さて……っと、どうすっかなぁ?」
少しばかり軒下を拝借しつつ、アーロンは平然とした様子でザイファを開き時刻を確認した。
昼食時で賑わっていた飲食店がやっと一段落した頃合いだ。雨宿りと称してまったりするのも悪くない。
なのだが、
「集合は十五時だったよな」
彼はこの先の予定に頭を巡らせ、早々に最初の案を打ち消した。
なにせこの雨がいつ収まるのか予想できない。天候を見極める技術は日々発達しているが、雨雲の動きを事細かに捉えることはまだまだ難しい。
「どこかにしけ込むには時間が微妙すぎっつーか」
何気なく腕を組んで薄暗くなった街を見渡してみる。元からぐずついた空模様のせいか、傘を保持している人々の割合は高めだ。雨に濡れながら走っている輩もいるが、それも一時で各々が目指した建物へと吸い込まれていく。
その行き先を観察していたアーロンは、次の案を思い浮かべた。
「……駅まで走るか?はぁ~、マジかったりぃ」
全くもって不本意なのだが、それ以外の良策は出てきそうにない。
こんな所で足止めを食らっているよりは、旧市街へ戻った方が有意義かもしれなかった。
濡れた身体はシャワーで温め直すとして、その後はモンマルトで時間を潰せばいい。
生活をする上であれこれと世話になっている店なので、気兼ねなく居座れる場所であるのは確かだ。
アーロンはザイファをポケットへしまい、面倒くさそうに靴を数回鳴らした。
駅までの距離はそれ程遠くない。彼の足ならば濡れ鼠になる心配はなさそうだ。
「そんじゃ、行くか」
一度決めてしまえば、うだうだと悩みはしない。
彼は胸の前で手の平に拳を打ち付け、軒下に小気味よい音を響かせた。
と、その時。
「──よぉ、なんか目立つ赤毛を見つけちまったぜ」
次第に強くなっていく雨音の中、傘をさした男がゆったりと歩み寄ってきた。
ちょっとご近所へならともかく、別の地区への外出だったら多少は空の具合も気にかける。
ヴァンは身支度を整えながら窓の外を一瞥し、導力ネットで天気予報を確認した。
ザイファの画面を見つめる表情は、お世辞にでも柔らかいとは言い難い。
「……やっぱり降ってきそうだな」
事務所の時計に目をやると、時刻は十一時を少し回ったところだった。
本日の裏解決業務は午後に一件しか入れていない。
というのも、依頼内容から察するに少々面倒な案件の匂いがしたのだ。
助手たちの負担を慮り、他の依頼を入れるべきではないだろうと彼は判断した。
そんなわけで、緊急の要請がない限りは集合時間まで自由行動の予定だ。
ヴァンも同様のはずだったが、生憎と午前中に済ませておかなければならない用件があった。
事務所の経営に必要な公的書類の提出期限が差し迫っている。
昨日の段階でリゼットが指摘をしてくれなければ、彼自身はうっかり忘れたままだった大事な代物だ。
「リゼットには改めて礼を言っとかねぇとな、ほんと助かったぜ」
彼女は昨夜のうちに準備を整えてくれていた。
今日の天候のことまで考慮していたのか、提出用の書類はしっかりと厚みのある封筒に収められている。
「そろそろ出るか」
ヴァンは卓上に置かれたそれを手に取り、のんびりとした足取りで事務所のドアを開けた。
書類の提出場所はサイデン地区にある警察署だ。
「向こうに着くまでは持ちこたえて欲しいもんだがなぁ」
階段を下って屋外に出た彼は、そう呟きながら淀んだ雲を見上げる。
小脇には大事な書類を抱え、もう片方の手には一本の傘が携えてあった。
どうやらヴァンのささやかな願望は天にまで届いたらしい。
雨が降り出したのは、書類の提出を終えて別の地区へ移動してからだった。
昼食を取るために飲食店が並ぶ通りを物色し、混み具合がそこそこな店を選んで悠長に食事と洒落込む。
仕事の時間までには大分余裕があるし、あげくにこんな天気だ。独りでガラス越しの雨に浸るのは案外乙なものかもしれない。
「たまには、こんな日も良いもんだ」
ランチメニューの料理を綺麗に平らげた彼は、食後のデザートに舌鼓を打ちながら幸せな吐息を漏らした。
やはり甘い物は格別だ。
最後のひと匙を名残惜しげに口へ運んだ後、渋々ながら寛いでいた腰を上げる。
いつの間にか昼時のピークは過ぎていたようで、店内には緩やかな空気が流れていた。
ヴァンはドアのベル鳴らし、水気をはらんだ街路へ足を踏み出した。
雨脚が徐々に強くなり、開いた傘の上では大粒の水滴たちが合唱を始めている。
これでは気軽な街歩きを楽しむ気にもなれない。そう思った彼は、駅がある方向へ進路を取った。
「さっさと戻って昼寝だな。この一択しかありえねぇ」
唇から発せられる暢気な声は、足元の水たまりを踏む音と相まってどことなく楽しそうだ。
そんな最中。
視界の片隅に鮮やかな色が飛び込んできた。
「──あっ?」
思わずその場で足を止める。
驚きながら目線を移動させると、前方にある建物の軒下に赤い長髪の青年が佇んでいた。
彼は一時だけザイファを開いた後、腕組みをして何やら思案している様子だった。
「マジかよ。偶然にも程があるだろ」
驚きのあまりヴァンの声は掠れ、紺青の眼だけがじっとその立ち姿を見つめる。
この天気で視界が悪いのか、どうやら向こうは気づいていないようだ。
「いや、ここは見なかったことに……」
彼はすぐにそう判断した。
状況からして雨宿りをしているのは確かだったが、どこかに連絡を取っている素振りにも見えた。
今は自由行動中なので、声をかけるのは野暮というものだろう。
しかし、一つだけ。アーロンが何やら考え込んでいる様子なのが気にかかった。
そんなことはないと思いつつ、もしかしたら身動きが取れない状態なのかもしれないと。
「まぁ、ウザがられるのは分かってるんだけどなぁ」
そんな風に憂慮してしまえば、放っておけないのが彼の性。
ヴァンは自嘲気味な笑みを浮かべながら軒下へと歩き出した。
今まさに走り出そうとしていた矢先だった。
声をかけてきた人物を見た途端、アーロンが瞠目する。
「ヴァン?てめぇ、なんで……」
数拍を置いてから口を開くと、挨拶のつもりなのか男は傘を傾げた。
「あ~、他意はねぇって。たまたま通りかかっただけだからよ」
あからさまに訝しんでみれば、ヴァンは困ったような微笑をしながら近づいてくる。
「……これからどこかに行くのか?」
「それはねぇな。今から遊ぶにしても中途半端だしよ」
この後の予定を遠慮がちに聞かれ、アーロンは即答してから駅がある方向へ視線をやった。
「さっさと帰って下で時間を潰そうかと思ってな。走ればそこまでは濡れねぇだろ」
言うやいなや、今度こそと思って足先に力を込めようとしたが、
「なら、入っていくか?丁度俺も帰るところだ」
そこで予想だにしなかった申し出をされて唖然としてしまった。
軽く十を数えるくらいの間、無言のままで相手を凝視する。
彼にしてみれば、まさに降ってわいてきたような僥倖だった。
傘があれば雨にさらされる心配もなく、密かに憎からず思っている男の傍らにも添える。
デメリットはゼロで良いことずくめだ。だったら軽い調子でささっと隣を陣取ってしまえばいい。
しかし、彼は如何せん捻くれた性格をしていた。
「なんだよ。貸しでも作っておこうって魂胆か?」
「お前なぁ……ほんと素直じゃねぇガキだな」
腕組みをしながら睨め付けると、ヴァンは肩を竦めながら小さな溜息を吐いた。
きっとアーロンの心中などお見通しということなのだろう。それくらいには深い縁がある。
「──あぁ、ほら。雇い主の俺としては、助手たちに風邪でもひかれたら困るんでな」
少しの時間を置き、ヴァンが尤もらしい理由を捻り出して再び手を差し伸べてきた。
傘の下で首を傾ける動きは柔らかく、それを見たアーロンが嬉しそうに両眼を煌めかせる。
「そういうことなら、まぁ……入ってやってもいいぜ」
「はいはい。ありがとよ」
気まぐれで天邪鬼な猫はご機嫌な顔で身を躍らせ、ヴァンの小脇に難なく滑り込んだ。
ここから駅までの道のりは単純だ。
少し先の角を右に曲がり、大きな通りに出てから直進すればいい。
特に急ぐ理由はなく、他愛のないやり取りを交わしながら歩を進める。
「まさか、こんなオッサンと相傘するハメになるとはなぁ」
「ははっ、悪ぃな。年上の綺麗なお姉さまじゃなくて」
通常運転とばかりにアーロンが愚痴を吐き、ヴァンはごく自然にそれを受け流す。
ちらりと金色の眼差しが見上げると、朗らかな横顔が近くにあった。
(……っ、面白くねぇ)
しかし、その弾みで浮かれた心の隙間にわずかな劣等感が生じてしまう。
ヴァンの方が上背もあるし誘ってきた体もあるので、どちらが傘を持べきか?などとは考える余地もない。
頭では解っている。解ってはいるのだが、それでもアーロンの心境はちょっとばかり複雑だ。
彼に対してはいつだって主導権を握っていたい。思うがままに振り回してみたい。
「ん?何か言いたそうだな?」
そんな腹の底にある小さな焔はおのずと瞳へ宿り、それに気づいたヴァンが顔を向けてきた。
「さぁな。うちの所長さんは随分とお優しいってな」
アーロンはわざと戯けた口調でそれを誤魔化し、隣の男から視線を外した。
すると、今の言葉が引き金になったのか、急にある違和感を覚え始めた。
いくら紳士物の傘とはいえ、大の男が二人並べば窮屈なことには変わりない。
彼は取りあえず頭が無事なら良いだろうという感覚で、胴体の方はさほど気にしていなかった。
しかし、今のアーロンの肩口は全くと言っていいほど濡れていない。
(こいつ、ふざけた真似しやがって)
行く道は大通りに出る角を曲がる直前。
広い道を隔てた向こう側のショーウィンドウに、ぼんやりと二人の姿が映っている。
相傘のわりにはバランスが悪く、明らかにアーロンの方へ偏っていた。
それを視認した瞬間、彼の表情が歪んだ。
雨脚は弱まる気配がなく本降りになっている。この分では、ヴァンの半身はしっかりと濡れてしまっているだろう。
「おい、ヴァン」
「なんだ?やっぱり何か……って、うおっ!?」
傍らにいる男を呼ぶ声が少し低くなり、彼の応答を遮って上着ごと腰を抱く。
「い、いきなり何しやがる!」
不意打ちを受けた身体はぐらりとよろめき、その機を捉えたアーロンが更に強く腰を引き寄せた。
「そういう気遣いはウゼェから止めろ」
これでもかと言わんばかりの密着状態は、顔を向ければ息がかかるくらいに近い。
慌てふためくヴァンに対し、アーロンは言葉通りの表情で鋭く睨んだ。
「な、何がだよ!?」
そのまま強引に歩き始めると、為すがままにされている男が切羽詰まった声を上げた。
「何がって?助手としては所長さんにお風邪を召されると困るんでな」
ここまで寄り添ってしまえば、傘を傾ける動きさえ困難なはず。
自分の肩に雨粒が落ちてくるのを感じ、アーロンは満足げに頬を緩めてそう言った。
大通りに出てしまえば後は道なりだ。
駅の建屋が目視できるくらいの距離で、時間にすれば大したことはない。
──はずなのだが。
ヴァンにはこの真っ直ぐな道程がやけに長く感じられた。
「なぁ……さすがにこれは無しだろ?」
腰元に回された手は力強く、傘の下では恋人同士かと見紛うような触れ合いが続く。
こんな天気なので、外を歩いている人が少ないのは幸いだった。それでも人目が気になってしまい、落ち着きなく視線を彷徨わせる。
「もうさっきみたいな持ち方はしねぇって」
アーロンに引き寄せられた際、バランスを崩した流れで咄嗟に傘の柄を両手で持ってしまった。
幸か不幸か、今はそれが丁度良い塩梅になっている。
彼は握る手に少しだけ力を込めて隣の反応を覗ってみた。
「こういう時のてめぇは信用できねぇな。どうせ無意識でやらかすに決まってる」
しかし、見事なくらいにバッサリと切り捨てられてしまい大きな溜息が落ちた。
「はぁ~、なんか言い返せねぇ気分だ……」
「ちなみに、有りか無しかで言ったらオレ的には有りだぜ?何の問題もねぇな」
力なく項垂れた横面にアーロンの吐息がかかる。
唇が肌に触れそうで触れない、ぎりぎりの所で言葉を紡がれて思わず肩が跳ね上がった。
「……うぅ、俺的には無しなんだよ。恥ずかしすぎんだろうが」
驚きと動揺で忙しない胸の鼓動を聞きながら、消え入りそうな声で本音を零す。
アーロンの性格を熟知している彼は、完全な諦めモードに入るしかなかった。
これはもう、何を言っても身体を離してくれそうにない。
だったらせめてと、雨の匂いが濃厚な街並みに願う。
(今はマジで顔見知りに会いたくねぇ。どうか……誰も通りかからないでくれ)
進行方向の先に見える目的地はやたらに遠く、足は動いているはずなのに全く近づいている気がしない。
「無心だ……無心だ」
「くくっ、まぁ、がんばれよ。所長さん」
ぶつぶつと呟き始めた横でアーロンが意地悪げに笑っている。
どうしてあの時に声をかけてしまったのだろう?
どうして傘の中へ誘ってしまったのだろう?
少し前の己の言動を反芻したヴァンは、本気で後悔をしたくなってしまった。
2023.11.03畳む
気晴らしの庭城を行く
黎Ⅱ・恋人未満
アーロンの気晴らしに庭城で追いかけっこをしている二人の話。
【文字数:3700】
先行するアーロンの身体が嬉々として飛び跳ねた。
双剣が銀色の軌跡を描く度に、鮮やかな赤い髪が舞い踊る。
「こら!待ちやがれ!!」
それを追いかけているヴァンが、制止の声を張り上げた。
足の速さを比べてしまえば、分が悪くなるのは仕方がない。
このエリアに入った途端、爛々と目を輝かせて抜剣をしていたことを思えば、止まってくれるはずもないのだが。
小型の魔獣たちが群がる一画へ突進し、華麗な剣捌きで危なげなく立ち回る。
彼が周囲を一掃する頃、ようやくヴァンが追いつくのだが、
「おせーぞ!オッサン!」
などと楽しげに言いながら、アーロンはまた走り出してしまう。
傍から見れば、追いかけっこをして遊んでいるような二人組だ。
「あの野郎~っ」
ヴァンは多少の苛立ちを覚え、片手で頭を掻きむしった。
幸い、ここは庭城の中でも下層の領域だ。
今の練度なら単独で走っても問題はないが、かと言って一方的に置いて行かれるのは面白くない。
ましてや、あからさまに煽られているのだから、対抗心を燃やしたくなるというものだ。
事務所の中で唯一の成人男性であるアーロンに対しては、ついムキになってしまう時がある。
子供じみた感情だと分かっているが、一度火が点くとなかなか止められない。
心の端では、遠慮がない男同士のじゃれ合いを楽しんでいる節もあった。
ヴァンは一度軽く首を回し、撃剣を担いで再び彼を追いかけ始めた。
このエリアの終点までにはあのガキを捕まえてやる、と一人で息巻きながら。
アーロンは、目の前に立ち塞がる魔獣にしか興味がなかったようだ。
彼の食べ残し達は、追駆してくるヴァンを目ざとく見つけ、我先にと敵意を向けてくる。
それらを難なく打ちのめしながら、軽やかに動き回る背中へ照準を合わせた。
最初の頃に比べれば、二人の距離はだいぶ縮まってきている。このままいけば確実に手が届くと判断したのか、ヴァンの表情筋が微かに緩んだ。
「ふぅ……稽古で煮詰まってるって感じかねぇ?」
そして、事の発端を思い出してみる。
アーロンは二週間ほど前から煌都に戻っていた。
華劇場からの出演依頼があったのだ。演目自体は昔から馴染みものだが、今回は大幅に演出が変わるらしい。それもあってか、時たま思い立ったように舞台への強行軍をする彼も、スケジュールには余裕を持たせていた。
「あいつ、そういう所は真摯なんだよなぁ……役者魂っていうか」
リニューアルする演目に対し、作り込みに妥協はしないということなのだろう。
「少しくらいは、こっちにも回して欲しいもんだぜ」
ヴァンが戯けながら一人でぼやく。助手三号の業務態度に大きな不満はないが、何となくそんな気分だ。
と、そんな矢先。
「──おっ!?」
今は演者としての顔は形を潜め、楽しげに剣戟を繰り出すアーロンの足が止まった。
二体の大型魔獣と対峙している彼を見て、ヴァンがニヤリと笑う。
あれは流石に瞬殺とまではいかないだろう。
低い咆吼を皮切りにした戦いへ、彼は勢いよく突っ込んでいった。
鋭利で大きな爪が容赦なく振り下ろされる。
それを危なげなく躱すと、今度は真横からの大振りな追撃。
身を翻して距離を取った直後、両足で地を蹴って高く跳躍した。
「沈め!!」
吐き出した息と共に、焔を纏った斬撃を魔獣の頭部に叩き付ける。
巨体が崩れる音を聞きながら着地を決めると、即座に無傷のもう一体が襲いかかってきた。
一瞬の隙を突かれた形だが、アーロンにしてみれば完全に予定調和の範囲内。
──のはずだった。
迫り来る爪牙を剣で受け流した刹那、
「おい!一体くらいは譲れっつーの!!」
耳馴染みのある声がいくらかの弾みを伴って、交戦の場に割り込んできた。
「あっ、てめぇ!?」
アーロンが反撃するよりも早く、ヴァンが肩に担いでいた撃剣を横に構えた。
重心を下肢に落とし、渾身の力を込めて腕を振り切る。
薙ぎ払うような打撃は青白い弧を描き、魔獣の胴体へ強烈な一発が打ち込まれた。
「これでしまいだ!」
ヴァンは大きくよろめいた体躯を一瞥し、返す刀でとどめを刺した。
周囲に魔獣たちの気配がないことを確認し、アーロンが双剣を鞘に収める。
前方にはこのエリアの終点となる転送装置が視認できた。
「チッ、余計なことしやがって」
「追いつかれちまったのが面白くねぇのか?」
仏頂面でそっぽを向いている彼とは対照的に、ヴァンは目的達成とばかりに得意げな顔をしている。
俊足の背中を追いかけていたので、ちょっとだけ息が上がっているのはご愛敬だ。
「そっちこそ、ギリギリだったくせにドヤ顔かましてんじゃねぇよ」
それを笑い飛ばしたアーロンが、相手の方へ向き直る。
「──ん?」
しかし、勝ち気な瞳が訝しげな色を浮かべて細くなった。
彼はヴァンの顔をマジマジと見ながら、遠慮なく距離を詰める。
「な、なんだよ?」
あと半歩で二人の間合いがゼロになる。そこまで近寄られたヴァンは、困惑して後退ろうとした。
だが、すぐにそれを制する声が発せられる。
「ダセぇな。このエリアなら無傷で来いよ」
言い終える前に片腕が動き、上着の襟元を掴まれる。自然と前屈みの態勢になってしまった。
互いの息がかかるくらいに顔が接近し、その緊張感からか全身が強張る。
「……傷?」
この道中で自分が負傷をしたという認識はなく、疑わしげに首を傾げてみれば、アーロンからは無言の返答があった。
突として頬に柔らかく湿った肉の感触。生温い水分が皮膚の表面に溶け、ピリッとした刺激が走る。
そこでようやく、自分の顔に切り傷があることに気が付いた。
同時に、目の前の青年に何をされているのかも。
まるで傷の具合を確かめるように、ゆっくりと舌先が這い回る。
「お、お前っ……」
痛みのせいか、それとも羞恥のせいか、ヴァンは強く両目を瞑った。
遠目からでも頬に走る薄い赤色が確認できた。
よくよく近寄ってみれば、滲んでいる程度のかすり傷だ。
すると、軽薄にも揶揄する気持ちが先に立つ。
不意に舌で舐め上げると、口内に微かな血の味が広がるような感覚があった。
「身体鈍ってんじゃねぇの?」
アーロンは意地悪げに笑みながら、上着を掴んでいる手を離した。
「こんなの怪我のうちに入んねぇだろうが」
ヴァンはその隙を逃さず、今度こそ一歩後ろへ距離を取る。
嬲られた傷口が熱を帯びている気がして、無意識に手の平を頬へ押し付けた。
「……ったくよぉ。犬猫じゃあるまいし」
どうにも居たたまれない気分に陥ってしまい、ぶつぶつと愚痴りながら身体を背ける。
「大体、てめぇは自由奔放すぎるんだよ。急に連絡入れてきたかと思えば、『気晴らしに付き合え』だとか」
半眼じみた視線だけを横に流してみたが、アーロンの方はどこ吹く風のようだ。
「まぁ、取りあえずは良い気分転換になったぜ、ヴァン」
その上、堂々と後腐れがない応答されてしまえば、ぼやき混じりの胸中を飲み込むしかなかった。
「今度の演目、まだまだ練り上げてぇからな。ちょいと行き詰まってたんだが、これで頭が切り替えられそうだ」
「お、おう。そうかよ」
やはり、役者然としている時のアーロンは舞台に対して素直だ。
明確な言葉はないが、共に庭城を走ってくれた男への感謝を誤魔化そうとはしない。
いつも『素直じゃないクソガキ』と過ごしているヴァンにとっては、それがくすぐったくて照れ臭かった。
「あ~、その……お役に立てたなら、何よりだぜ」
所なさげに身体を揺らした彼は、視線をうろつかせながら律儀にそう言った。
楽しかった一時は幻のごとく、あっという間に現実へと引き戻される。
最低限の家具だけが置かれた簡素な部屋に、アーロンは一人佇んでいた。
ザイファを片手で持ったまま、名残惜しげにその画面を見つめる。
「……気晴らしなら、別のヤツにするべきだったかもな」
仮想空間で武器を振るうだけなら、誰を誘っても良かった。もしくは一人だったとしても何ら問題はない。
けれど、どう足掻いても最初に思い浮かぶ姿はヴァンだけだったのだ。
アーロンは知らずのうちに、空いている方の親指をぺろりと舐めていた。
あの空間は何もかもがリアルで、嫌になるくらいの余韻が残る。
実物と見紛うばかりの虚像は、肌の感触も血の味も温かい気がして、彼の劣情を呼び覚ますには十分だった。
「あれじゃ、足りねぇんだよ」
ぼそりと呟いた声が侘しい室内に溶けていく。
どうせ触れるなら、本物の肉体が良いに決まっている。今、ここにいないのならば尚更に。
彼はおもむろにベッドへ腰を下ろし、端末を弄り始めた。
途中でどこかへ通信を入れ、手早くいくつかのやり取りを交わす。
「──あぁ、それでいい。頼んだぜ」
そして、会話の最後には満足げな笑みを浮かべて頷いた。
その後。
庭城からログアウトし、自室で一息入れているヴァンの元にメールの着信があった。
画面を開いた瞬間、簡潔な一文が目に飛び込んできて、思わず面食らう。
『さっきの礼だ。初日のチケットくらいは送っておいてやる』
通話ではないところが、いかにも彼らしい。
「ははっ、仕方ねぇ。この日は休業にでもしとくか」
こちらからも簡単な返信のみを綴り、送信ボタンを押した後で目元を緩ませる。
会いたいと、言外に言われているような気がして嬉しかった。
2023.09.14
#黎Ⅱ畳む
黎Ⅱ・恋人未満
アーロンの気晴らしに庭城で追いかけっこをしている二人の話。
【文字数:3700】
先行するアーロンの身体が嬉々として飛び跳ねた。
双剣が銀色の軌跡を描く度に、鮮やかな赤い髪が舞い踊る。
「こら!待ちやがれ!!」
それを追いかけているヴァンが、制止の声を張り上げた。
足の速さを比べてしまえば、分が悪くなるのは仕方がない。
このエリアに入った途端、爛々と目を輝かせて抜剣をしていたことを思えば、止まってくれるはずもないのだが。
小型の魔獣たちが群がる一画へ突進し、華麗な剣捌きで危なげなく立ち回る。
彼が周囲を一掃する頃、ようやくヴァンが追いつくのだが、
「おせーぞ!オッサン!」
などと楽しげに言いながら、アーロンはまた走り出してしまう。
傍から見れば、追いかけっこをして遊んでいるような二人組だ。
「あの野郎~っ」
ヴァンは多少の苛立ちを覚え、片手で頭を掻きむしった。
幸い、ここは庭城の中でも下層の領域だ。
今の練度なら単独で走っても問題はないが、かと言って一方的に置いて行かれるのは面白くない。
ましてや、あからさまに煽られているのだから、対抗心を燃やしたくなるというものだ。
事務所の中で唯一の成人男性であるアーロンに対しては、ついムキになってしまう時がある。
子供じみた感情だと分かっているが、一度火が点くとなかなか止められない。
心の端では、遠慮がない男同士のじゃれ合いを楽しんでいる節もあった。
ヴァンは一度軽く首を回し、撃剣を担いで再び彼を追いかけ始めた。
このエリアの終点までにはあのガキを捕まえてやる、と一人で息巻きながら。
アーロンは、目の前に立ち塞がる魔獣にしか興味がなかったようだ。
彼の食べ残し達は、追駆してくるヴァンを目ざとく見つけ、我先にと敵意を向けてくる。
それらを難なく打ちのめしながら、軽やかに動き回る背中へ照準を合わせた。
最初の頃に比べれば、二人の距離はだいぶ縮まってきている。このままいけば確実に手が届くと判断したのか、ヴァンの表情筋が微かに緩んだ。
「ふぅ……稽古で煮詰まってるって感じかねぇ?」
そして、事の発端を思い出してみる。
アーロンは二週間ほど前から煌都に戻っていた。
華劇場からの出演依頼があったのだ。演目自体は昔から馴染みものだが、今回は大幅に演出が変わるらしい。それもあってか、時たま思い立ったように舞台への強行軍をする彼も、スケジュールには余裕を持たせていた。
「あいつ、そういう所は真摯なんだよなぁ……役者魂っていうか」
リニューアルする演目に対し、作り込みに妥協はしないということなのだろう。
「少しくらいは、こっちにも回して欲しいもんだぜ」
ヴァンが戯けながら一人でぼやく。助手三号の業務態度に大きな不満はないが、何となくそんな気分だ。
と、そんな矢先。
「──おっ!?」
今は演者としての顔は形を潜め、楽しげに剣戟を繰り出すアーロンの足が止まった。
二体の大型魔獣と対峙している彼を見て、ヴァンがニヤリと笑う。
あれは流石に瞬殺とまではいかないだろう。
低い咆吼を皮切りにした戦いへ、彼は勢いよく突っ込んでいった。
鋭利で大きな爪が容赦なく振り下ろされる。
それを危なげなく躱すと、今度は真横からの大振りな追撃。
身を翻して距離を取った直後、両足で地を蹴って高く跳躍した。
「沈め!!」
吐き出した息と共に、焔を纏った斬撃を魔獣の頭部に叩き付ける。
巨体が崩れる音を聞きながら着地を決めると、即座に無傷のもう一体が襲いかかってきた。
一瞬の隙を突かれた形だが、アーロンにしてみれば完全に予定調和の範囲内。
──のはずだった。
迫り来る爪牙を剣で受け流した刹那、
「おい!一体くらいは譲れっつーの!!」
耳馴染みのある声がいくらかの弾みを伴って、交戦の場に割り込んできた。
「あっ、てめぇ!?」
アーロンが反撃するよりも早く、ヴァンが肩に担いでいた撃剣を横に構えた。
重心を下肢に落とし、渾身の力を込めて腕を振り切る。
薙ぎ払うような打撃は青白い弧を描き、魔獣の胴体へ強烈な一発が打ち込まれた。
「これでしまいだ!」
ヴァンは大きくよろめいた体躯を一瞥し、返す刀でとどめを刺した。
周囲に魔獣たちの気配がないことを確認し、アーロンが双剣を鞘に収める。
前方にはこのエリアの終点となる転送装置が視認できた。
「チッ、余計なことしやがって」
「追いつかれちまったのが面白くねぇのか?」
仏頂面でそっぽを向いている彼とは対照的に、ヴァンは目的達成とばかりに得意げな顔をしている。
俊足の背中を追いかけていたので、ちょっとだけ息が上がっているのはご愛敬だ。
「そっちこそ、ギリギリだったくせにドヤ顔かましてんじゃねぇよ」
それを笑い飛ばしたアーロンが、相手の方へ向き直る。
「──ん?」
しかし、勝ち気な瞳が訝しげな色を浮かべて細くなった。
彼はヴァンの顔をマジマジと見ながら、遠慮なく距離を詰める。
「な、なんだよ?」
あと半歩で二人の間合いがゼロになる。そこまで近寄られたヴァンは、困惑して後退ろうとした。
だが、すぐにそれを制する声が発せられる。
「ダセぇな。このエリアなら無傷で来いよ」
言い終える前に片腕が動き、上着の襟元を掴まれる。自然と前屈みの態勢になってしまった。
互いの息がかかるくらいに顔が接近し、その緊張感からか全身が強張る。
「……傷?」
この道中で自分が負傷をしたという認識はなく、疑わしげに首を傾げてみれば、アーロンからは無言の返答があった。
突として頬に柔らかく湿った肉の感触。生温い水分が皮膚の表面に溶け、ピリッとした刺激が走る。
そこでようやく、自分の顔に切り傷があることに気が付いた。
同時に、目の前の青年に何をされているのかも。
まるで傷の具合を確かめるように、ゆっくりと舌先が這い回る。
「お、お前っ……」
痛みのせいか、それとも羞恥のせいか、ヴァンは強く両目を瞑った。
遠目からでも頬に走る薄い赤色が確認できた。
よくよく近寄ってみれば、滲んでいる程度のかすり傷だ。
すると、軽薄にも揶揄する気持ちが先に立つ。
不意に舌で舐め上げると、口内に微かな血の味が広がるような感覚があった。
「身体鈍ってんじゃねぇの?」
アーロンは意地悪げに笑みながら、上着を掴んでいる手を離した。
「こんなの怪我のうちに入んねぇだろうが」
ヴァンはその隙を逃さず、今度こそ一歩後ろへ距離を取る。
嬲られた傷口が熱を帯びている気がして、無意識に手の平を頬へ押し付けた。
「……ったくよぉ。犬猫じゃあるまいし」
どうにも居たたまれない気分に陥ってしまい、ぶつぶつと愚痴りながら身体を背ける。
「大体、てめぇは自由奔放すぎるんだよ。急に連絡入れてきたかと思えば、『気晴らしに付き合え』だとか」
半眼じみた視線だけを横に流してみたが、アーロンの方はどこ吹く風のようだ。
「まぁ、取りあえずは良い気分転換になったぜ、ヴァン」
その上、堂々と後腐れがない応答されてしまえば、ぼやき混じりの胸中を飲み込むしかなかった。
「今度の演目、まだまだ練り上げてぇからな。ちょいと行き詰まってたんだが、これで頭が切り替えられそうだ」
「お、おう。そうかよ」
やはり、役者然としている時のアーロンは舞台に対して素直だ。
明確な言葉はないが、共に庭城を走ってくれた男への感謝を誤魔化そうとはしない。
いつも『素直じゃないクソガキ』と過ごしているヴァンにとっては、それがくすぐったくて照れ臭かった。
「あ~、その……お役に立てたなら、何よりだぜ」
所なさげに身体を揺らした彼は、視線をうろつかせながら律儀にそう言った。
楽しかった一時は幻のごとく、あっという間に現実へと引き戻される。
最低限の家具だけが置かれた簡素な部屋に、アーロンは一人佇んでいた。
ザイファを片手で持ったまま、名残惜しげにその画面を見つめる。
「……気晴らしなら、別のヤツにするべきだったかもな」
仮想空間で武器を振るうだけなら、誰を誘っても良かった。もしくは一人だったとしても何ら問題はない。
けれど、どう足掻いても最初に思い浮かぶ姿はヴァンだけだったのだ。
アーロンは知らずのうちに、空いている方の親指をぺろりと舐めていた。
あの空間は何もかもがリアルで、嫌になるくらいの余韻が残る。
実物と見紛うばかりの虚像は、肌の感触も血の味も温かい気がして、彼の劣情を呼び覚ますには十分だった。
「あれじゃ、足りねぇんだよ」
ぼそりと呟いた声が侘しい室内に溶けていく。
どうせ触れるなら、本物の肉体が良いに決まっている。今、ここにいないのならば尚更に。
彼はおもむろにベッドへ腰を下ろし、端末を弄り始めた。
途中でどこかへ通信を入れ、手早くいくつかのやり取りを交わす。
「──あぁ、それでいい。頼んだぜ」
そして、会話の最後には満足げな笑みを浮かべて頷いた。
その後。
庭城からログアウトし、自室で一息入れているヴァンの元にメールの着信があった。
画面を開いた瞬間、簡潔な一文が目に飛び込んできて、思わず面食らう。
『さっきの礼だ。初日のチケットくらいは送っておいてやる』
通話ではないところが、いかにも彼らしい。
「ははっ、仕方ねぇ。この日は休業にでもしとくか」
こちらからも簡単な返信のみを綴り、送信ボタンを押した後で目元を緩ませる。
会いたいと、言外に言われているような気がして嬉しかった。
2023.09.14
#黎Ⅱ畳む
不慣れな彼らの攻防戦
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『不本意ながら前科が一つ増えました』の続きです。
「前科」の埋め合わせも含めてヴァンから誘ってデートに出かける二人。
珍しく意図的にデレてるヴァンとそれに対応しきれないアーロンの話です。
2023年リクエスト②
【文字数:7700】
裏解決事務所の所長として、助手たちの得手不得手は把握しているつもりだ。
トリオンモールの一角。白いカフェテーブルを陣取っているヴァンは、のんびりと甘めのカフェラテを啜っていた。
今日は天気も良く、外気も温かい。ストローから流れ込む冷たい飲料が喉に染み渡っていく。
「──で、なんか分かったか?」
対面の席に座っている少年へと意識を向ければ、歯切れの悪い応答があった。
「う~ん……このノイズ、気になるなぁ」
ノート型端末をテーブルの上に広げ、画面を覗き込んでいるカトルが難しい顔をしている。
「昨日の報告でもそんなこと言ってたよな?セントルマルシェか」
「あっちの方はほんとに微弱だったから、『一応気に留めておく』くらいだったんだけど」
軽やかにキーボードを叩く音が卓上に広がり、そこへ思案をする声が重なった。
「やっぱり、違和感があるなぁ。もう少し調べてもいい?」
「おう、好きにやってくれや」
そう提案してきたカトルに対し、ヴァンが満足げに頷く。
彼らが請け負っている依頼は、導力ネットの情報処理に関するトラブルの類いだ。
ヴァンとて多少の知識はあるが、技術的・ハード的な専門性とは程遠い。
そして、事務所のメンバーで誰が適任なのかと言えば、たった一人である。
彼は言葉通りに、カトルの仕事ぶりを見守ることにした。
今は平日の午前中なので、トリオンモールを行き交う人の量はまだまだ少ない。
休日には何かしらで賑わっているイベントスペースも静かなものだ。
カトルは時々FIOに指示を与えながら、端末と睨めっこをしている。
すっかり寛ぎモードでその様子を眺めていたヴァンだったが、
「昨日のとパターンは同じか。だったら発生源も……」
ぶつぶつと呟く少年の語句につられ、不意にあることを思い出した。
「昨日って言えば、あれ……美味かったなぁ」
味覚までも蘇ってきたのか、うっとりとしながら青い空を見上げる。
わずかに浮かんでいる雲たちがお菓子の形と重なった。
「あっ、悪ぃ。邪魔しちまったか」
だが、すぐさま我に返って姿勢を正し、申し訳なさそうに頭を掻く。
「うん?大丈夫だよ。喋りながらでも作業はできるし」
カトルはほんの一瞬だけ瞠目したものの、再び手元を動かし始めた。
「あれって、一日限定の出店だったみたいだよ?それでつい買っちゃったんだけどね」
「はぁ~、さすがにそこまではチェックできねぇ」
ヴァンはがっくりと項垂れながら、とても残念そうに溜息を吐いた。
それを横目に捉えたカトルが小さく笑う。
「ヴァンさん疲れた顔してたもんね。スイーツがあって丁度良かったんじゃないの?」
「疲れたっつーか、あのクソガキが……ん?」
含みのあるそれに自然と応じかけたヴァンだったが、即座に訝しげな表情で頭を上げる。
「叫び声が廊下にまで聞こえてたよ」
「……マジかよ」
からかい混じりのカトルの言葉は端的だったが、それだけで察した。
ヴァンは昨日のアーロンとのやり取りを思い浮かべ、折角上げた頭を再び下に向けてしまった。
あの時は周囲のことなど顧みる余裕はなかったが、あれだけ騒いでいたら外に漏れるのは当然だ。
仲間内では二人の関係性が周知されてるとはいえ、面と向かって指摘されるのは恥ずかしい。
「あいつ、たまに過激なこと言うからよぉ……有言実行しそうで怖ぇんだよ」
なのだが、彼にしてみれば不本意な着地点だったのは確かで、つい誰かに愚痴りたくなった。
所長としての振る舞いはどこへやら。だらしなくテーブルの上に這いつくばり、ぶつくさと声を籠もらせる。
「それはご愁傷様。アーロンさんって我が強いっていうか……俺様だもんね」
カトルは元気がない濃紺の頭部に目をやり、穏やかな口調で年長の男を慰める。
その生い立ちの影響もあるのか、彼の思考や言動にはやや大人びている所があった。
「それなぁ……独占欲半端ねぇし」
だらけた大人の不満を聞いてくれる助手に感謝し、ヴァンは密かに頬を緩ませた。
別にアーロンから向けられる強い感情に辟易しているわけではない。
どちらかといえば、『困ったヤツだなぁ』くらいの緩い感覚だ。
もちろん、自分が彼に対して甘いことは認識している。
「そう言えば、前に何かの本で読んだんだけど……独占欲は不安の裏返しっていう捉え方もあるみたいだね」
ふと、本の一文を思い出した少年の言葉が、ヴァンの耳に流れ込んでくる。
「……不安か」
その中で、はっきりと一つの語句だけが胸の奥に落ちて響いた。
「──あっ。今の、僕が言ったとか、アーロンさんにはなしだからね!絶対睨まれる」
「わざわざ言わねぇよ。そんなの俺だって遠慮するぜ。あのガキは人一倍強がりだからな」
ヴァンは肩を小刻みに揺らしながら、込み上げてくる苦笑を噛みしめた。
おもむろに伏せていた身体を起こして、何気なく視線を巡らせる。
イベントスペースの向こう側、青空を借景にしたトリオンタワーが堂々とそびえ立っている。
昨日の日中、あの付近を通ったであろうアーロンの姿に思いをはせてみた。
『オレの物のくせに一人でふらふらするんじゃねぇ』
そう言って睨み付けてきた瞳の奥底には、どんな感情を宿していたのだろうか?
学藝祭の時はそんなつもりこそなかったが、結果的には彼の腕からすり抜けたと言われても仕方がない。
信用できないなら掴まえておいてくれと、先に手を伸ばしたのは自分の方だったのに。
もしかしたら、独り消えようとした背中を思い出させてしまったのかもしれない。
改めて彼の気持ちを慮ってみれば、心がチクリと痛んだ。
「……悪いことしちまったな」
物憂げに頬杖を付いたヴァンの唇から吐息が漏れる。
独り言のような声は本当に小さく、テーブルを挟んでいるカトルでも聞き取れないくらいだった。
助手の少年は不思議そうに小首を傾げたが、何事もなかったように端末の操作に比重を傾ける。
ヴァンの表情を見たら、これ以上この話題を続けるのは野暮に思えてきてしまった。
数日が経ったある日。
ヴァンは休日を利用してアーロンをドライブへ誘ってみることにした。
「どういう風の吹き回しだよ、気色悪ぃな」
彼の反応は予想通りの辛辣さで、更には胡乱げにジロリと睨まれた。
「あぁ、この間のお詫びを兼ねてデートでもしようぜってことで」
「はぁ?何、頭が沸いたこと言ってやがる」
ますます訳が分からないとばかりに詰め寄られ、ヴァンは少し困り顔ではにかんだ。
「いや、ほら。前科増やしちまっただろ?その埋め合わせ」
負けん気が強い彼に対し、不安にさせたとは到底口にできず、上手い具合に言葉を選ぶ。
すると、アーロンは驚いて彼を凝視した。
「てめぇ、何言って……」
物言いたげに唇を動かしかけたが、一度頭を振った後で顔を逸らしてしまう。
それでもお断りの文言は発せられず、気を良くしたヴァンは軽やかな足取りでガレージへ向かった。
デートなどと言ってはみたが、特に行き先を決めているわけではなかった。
一応アーロンにも希望を聞いてみたが、「好きにしろ」との素っ気ない返しだ。
ヴァンの方にしてみても、二人きりの時間が欲しかっただけなので、気ままに車を流すことにした。
今日は終日天気の崩れはない予報で、ドライブをするには丁度良い。
アーロンは最初、少し戸惑っている様子だった。
気遣って適度な音量でラジオをかけてみると、ぽつりぽつりと会話らしきものが発生する。
それからは当たり障りのない話題が続き、彼はいつのも調子を取り戻したようだった。
「……まぁ、たまにはこういうのも悪くねぇ」
助手席の窓を全開にし、肘をかけて風を浴びている姿はどこか楽しそうに見える。
「そうかよ。なら、良かった」
「詫びのつもりなら、首に縄付けてくれてもいいんだぜ?」
「おいっ、それは絶対やらねぇからな!」
昨日のやり取りを混ぜっ返され、ヴァンがすぐさま声を上げる。
あの時に首をなぞられた感触が、じわりと蘇ってきた。
ハンドルを握っているので相手の表情は覗えないが、きっと意地悪げに笑っていることだろう。
「ったく、口の減らねぇガキだ」
心なしか体温が上がり、半分だけ空けていた運転席の窓を全開にする。
両方の窓が放たれたことで、車内には勢いよく風が流れ込んできた。
そんな矢先。
対向車線に導力バイクの一団が現れた。車種はバラバラだが、整然と隊列を組んで走っている。
ヴァンが驚嘆した横で、アーロンが軽く口笛を鳴らした。
「おいおい、イカしてんじゃねぇーかよ!?」
目を輝かせながら身を乗り出し、すれ違う一団を嬉々として見つめる。
「ツーリングってやつかねぇ。金かけてやがるなぁ」
以前よりも普及し始めたとはいえ、導力バイクはまだまだ高価な代物だ。
導力車とは違い、一般的な市民が気軽に手を出すには程遠い。
「はぁー、やっぱ良いよなぁ~、バイク。早く手に入れてぇな」
興奮冷めやらぬといったアーロンは、助手席のシートに深く腰を埋め、にまにまと笑っている。
バイクより車派のヴァンは、それが少しばかり面白くない。
「はっ、金がねぇくせによく言うぜ。いつになるんだかなぁ?」
この青年が煌都で女友達に大枚を投げ打ったことを考えれば、今の蓄えは微々たるものだろう。
ついそんな嫌みが口から零れ出ると、
「だったら、給料上げやがれ」
至極尤もな切り返しをされてしまった。
言葉を詰まらせたヴァンをほったらかし、アーロンは勝手に金策を立て始める。
「なんなら、しばらく華劇場で稼ぐって手もあるな」
彼は自他共に認める煌都の人気役者である。
近頃は気まぐれに舞台へ上がっているが、腰を据えれば今よりも確実に実入りが良いはずだ。
その口調はやたらと弾んでいて、ヴァンの胸元が不穏なざわつきを覚える。
「……しばらくって、どのくらいだ?」
「さぁな~。半年とか一年とか?」
軽すぎるくらいの返答を受け、ハンドルを握る手に力が籠もった。
「そいつは……はい、そうですかって言えねぇな」
唇を引き結んで数拍の間を取る。
今日は誤魔化しや照れ隠しをしないと決めていた。
アーロンを不安にさせたことへの埋め合わせなら、自分の情は率直に伝えるべきだと思う。
「だって、それじゃ俺が……寂しいだろ」
ヴァンはフロントガラスの先に視点を固定したまま、唇を尖らせてそう言った。
こんな狭い空間では、どう頑張っても聞き間違えようがない。
それでもアーロンは、自分の耳を疑った。
隣の横顔を盗み見れば、そこにはふて腐れた表情が張り付いている。
刹那、心臓がドクンと大きな音を立てて跳ね上がった。
「……いちいち真に受けてんじゃねぇ」
誤魔化すように運転席から目を外し、窓の外に視線を投げる。
いつもなら威勢良く発せられる揶揄の言葉も、今はすんなりと出てこなかった。
小刻みに鳴り響く心音は全身に行き渡り、じわりと手の平が汗ばんでいく。
こんな恋人の言動を、彼は知らない。
押しが強く明け透けなアーロンに比べれば、ヴァンは奥手で愛情表現が控えめだ。
それなのに、今日は最初から何かがおかしい。
デートなんて語句が飛び出してきたかと思えば、今度は『寂しい』と拗ねてくる。
ヴァンからの分かりやすい好意に関して、アーロンの耐性はゼロに等しかった。
「あ~、くそっ。面倒くせぇ反応しやがって」
「いや……お前、マジでやりそうだから」
「例えばの話だよ!例えばの!」
どう立ち回れば良いのかが分からず、つい語尾が強くなる。
「ふぅ、そうかよ」
そんな動揺を纏った声の直後、明らかな安堵の溜息が車内に広がった。
ラジオからはこの季節にお勧めの観光情報が流れている。
現在地からでも足を伸ばせる場所が紹介されていたが、ヴァンの興味は薄かった。
今は人々の賑わいに紛れることはせず、静かな空間を作り出していたい。
そうでもしなければ、誤魔化さないと決めた心が揺らいでしまいそうになる。
(さすがに、人目があるとこでデレるっつーのは……難易度高すぎだろ?)
熱々な恋人たちを見る分には構わないが、いざ自分がとなれば相当に恥ずかしい。
隣の気配を覗ってみると、助手席に座っている青年は窓の外に顔を向けたまま。
こちらから話を振れば応じてくれるが、それだけだ。
ヴァンは柄でもないことをしている自覚があるので、彼の戸惑いが可笑しくもあり、微笑ましくもあった。
「──おい、この先で止めるぞ」
とはいえ、アーロンの心情を思うとこの状態は気の毒だ。
出発をしてからは走り通しだったこともあり、この辺りで一息入れておくべきだろう。
緩い登りのカーブが続く道の途中、少し拓けた所を見つけて車を止めた。
周囲に比べれば若干標高が高く、天候の良さも相まって見晴らしは上々だ。
どうやら一応は展望スポットのようで、質素な木製のベンチが二つ横に並んでいる。
「へぇ、なかなか良い場所じゃねぇか」
エンジンを切った途端、アーロンは明るい表情で勢いよく車のドアを開け放った。
地面に足を付けて軽く身体を伸ばしてみる。
吹き抜ける風はいたって自然体で流れており、走行中とは違う開放感があった。
一足遅れて車を降りたヴァンは、道中で個々に飲んでいたタンブラーを両手に持ち、アーロンの元に歩み寄った。
一声をかけてから片方のタンブラーを放り投げると、彼は難なくそれを受け取って喉を潤し始めた。
「穴場ってヤツかね。この辺は普段から車も少ねぇしな」
車に寄りかかって寛いでいる恋人を見つめ、ヴァンの頬が柔らかくなる。
「こんな事でもなけりゃ、気がつか……」
ついいつもの調子で対応しかけたアーロンは、存外にしっかりと視線が合ってしまったせいで声を失った。
「……チッ」
彼は大袈裟なくらいの舌打ちをし、ヴァンを振り払うようにしてその場を紛らわせた。
車から離れる足取りは速く、一直線にベンチへ向かって乱暴に腰を下ろす。
そんな落ち着きのない背中を眺め、ヴァンはやれやれと言わんばかりに肩を竦めた。
(まぁ、解らなくはねぇが……けど、少しくらいは受け止めてくれよ)
大概は気持ちの切り替えが早い彼の恋人だが、今回は苦戦を強いられている模様だ。
常日頃からアーロンの方が優位な関係性については不満もないし、それが心地良いとすら思う。
そのせいか、いざ自分がそうなった時のことをあまり想定していなかった。
こうも距離を取られるものなのかと、ほんの少しも触れてはくれないのかと、不安になってくる。
いつまで経っても振り向いてくれない後ろ姿に痺れを切らし、自然と足が動き出した。
「なぁ、アーロン」
空いているベンチにタンブラーを置き、長閑な景色を眺めている恋人の傍らに立つ。
「今日は……掴まえておいてくれねぇのか?」
片手を伸ばした拍子に意図せず甘えた声が漏れ、自分自身が驚いた。
だが、それ以上にアーロンの反応は顕著だった。
「てめぇ……は、さっきから何を言ってやがる」
驚愕の表情から後は、瞬発的な感情を押し留めるような低い声。
ついには自棄になったかのような、強烈な眼光が見上げてくる。
「急にデレてくるんじゃねぇ!こっちの調子が狂うんだよ!」
荒々しい叫びと共に手首を掴まれ、その瞬間にヴァンの頭が真っ白になった。
触れて欲しいと思ったくせに、いざ彼の体温を感じればカッと全身が熱くなる。
「う……ぁ、マジ……か?」
同時にこれまでの自分の言動が怒濤のごとくに流れ込み、脳内が羞恥で掻き乱されていく。
言葉にならない呻きが唇を空回りする度に、顔に熱が集まってきた。
「……やべぇぞ、これ」
もしかしたら、デートに誘った時から正気ではなかったのかもしれない。
そう疑いたくなるくらいに狼狽している。
ヴァンは口元を片手で覆い、望み通りに捉えられた手首へと視線を落とした。
急変した恋人の様相は、アーロンの怒気を静めるには十分すぎた。
信じられないような物を見る眼差しが、ゆっくりと男の全身を舐め上げる。
掴んだ手元から胸を辿り、首から上へ。
これ以上ないくらいに発火した顔面に気を取られ、思わず拘束の力が緩んだ。
その隙を突かれ、ヴァンに手を振り解かれる。
後退った足はふらふらと空席のベンチへ向かい、座ることなく地面に両膝をついた。
「なんで……だよ」
力なく座面の上へ突っ伏したはずみに、タンブラーが転がり落ちる。
そんな一連の動作を、アーロンは無言で見つめることしかできなかった。
ヴァンからデートの誘いがあった時、「頭が沸いている」と揶揄したのは、強ち間違いではなかったのかもしれない。
それでも、希少すぎる恋人の姿にはどうしようもなく心が乱される。
普段の関係性から言えば、明らかに形勢逆転の模様だ。
困惑と動揺の中、悔しさも相まって息を荒げてみたら、今度はまた状況がひっくり返る。
すぐには頭が付いてこなかった。
隣のベンチでは、ヴァンが完全に茹で上がっている。
アーロンは身動きをしなくなった男を視界に留め、ややあってからようやく冷静さを取り戻した。
「締まりがねぇなぁ、ヴァン」
「……うるせぇ。こんなつもりじゃなかったんだよ」
せせら笑いをすると、彼の方も若干落ち着いたのか応答があった。
しかし、まだ身体を起こすまでにはいかないようで、結構な重症具合だ。
その後、少し待ってはみたものの、ヴァンが顔を上げることはなかった。
性格的に気長とは言えないアーロンは、太陽が傾き始めている空を見て息を吐いた。
そろそろ腹が減ってくる頃合いだ。帰りの道のりを考えれば、車に戻った方が賢明だろう。
彼はすっくと腰を上げ、ヴァンの方へ歩み寄った。
地面に転がったタンブラーを拾い上げ、それで伏せているヴァンの頭部をこつんと叩く。
「どうせやるんなら最後までやり通せよ……って、まぁ、てめぇには無理だな」
苦笑交じりのそれが撤収の合図だった。
この休日。ドライブと称した二人きりの車内では、行きも帰りもラジオの音が途切れることはなかった。
防戦を余儀なくされる一方にとっては、その場を取り繕ってくれるありがたい存在だ。
帰り道の運転席には、ご機嫌な様子で口笛を吹いているアーロンの姿がある。
本来なら誘われた側の立場だが、肝心の運転手の方は精神的ダメージが計り知れない。
とてもハンドルを任せられる状態ではなく、彼が自ら運転を買って出ることになった。
助手席に座っているヴァンは、そんなアーロンを時どき覗ってはすぐに視線を逸らす。
全開にした窓から吹き込む風は、行きの道中よりもいくらか涼しくなっていた。
羞恥で火照った顔面を冷やすには丁度良い。
車窓を流れる風景は少しずつ都市部の色調が濃くなり始め、二人きりの時間も終わりに近づいているのが分かった。
まだ悶々とした気持ちの中、ヴァンはゆっくりとアーロンの横顔に焦点を合わせた。
今日は全く想定通りにはいかず、それどころか大いに醜態を晒してしまった。
それでも、一つだけ聞きたいことがある。
「なぁ……少しは埋め合わせになったか?」
元はと言えば、今回のデートはアーロンに対する詫びの一環だ。
だから、その評価だけは知っておきたいと思った。
「さぁ?どうだか……」
運転席の恋人はフロントガラスの先を見据え、喉の奥で静かに笑う。
「百歩譲って、及第点ならくれてやってもいいぜ」
言葉のわりには嬉しそうな声色が車内に響き、それを聞いたヴァンはホッと胸を撫で下ろす。
どうやら、一応は喜んでくれたらしい。
今はそれだけで満足だった。
2023.07.30
#黎Ⅱ畳む
恋人設定
『不本意ながら前科が一つ増えました』の続きです。
「前科」の埋め合わせも含めてヴァンから誘ってデートに出かける二人。
珍しく意図的にデレてるヴァンとそれに対応しきれないアーロンの話です。
2023年リクエスト②
【文字数:7700】
裏解決事務所の所長として、助手たちの得手不得手は把握しているつもりだ。
トリオンモールの一角。白いカフェテーブルを陣取っているヴァンは、のんびりと甘めのカフェラテを啜っていた。
今日は天気も良く、外気も温かい。ストローから流れ込む冷たい飲料が喉に染み渡っていく。
「──で、なんか分かったか?」
対面の席に座っている少年へと意識を向ければ、歯切れの悪い応答があった。
「う~ん……このノイズ、気になるなぁ」
ノート型端末をテーブルの上に広げ、画面を覗き込んでいるカトルが難しい顔をしている。
「昨日の報告でもそんなこと言ってたよな?セントルマルシェか」
「あっちの方はほんとに微弱だったから、『一応気に留めておく』くらいだったんだけど」
軽やかにキーボードを叩く音が卓上に広がり、そこへ思案をする声が重なった。
「やっぱり、違和感があるなぁ。もう少し調べてもいい?」
「おう、好きにやってくれや」
そう提案してきたカトルに対し、ヴァンが満足げに頷く。
彼らが請け負っている依頼は、導力ネットの情報処理に関するトラブルの類いだ。
ヴァンとて多少の知識はあるが、技術的・ハード的な専門性とは程遠い。
そして、事務所のメンバーで誰が適任なのかと言えば、たった一人である。
彼は言葉通りに、カトルの仕事ぶりを見守ることにした。
今は平日の午前中なので、トリオンモールを行き交う人の量はまだまだ少ない。
休日には何かしらで賑わっているイベントスペースも静かなものだ。
カトルは時々FIOに指示を与えながら、端末と睨めっこをしている。
すっかり寛ぎモードでその様子を眺めていたヴァンだったが、
「昨日のとパターンは同じか。だったら発生源も……」
ぶつぶつと呟く少年の語句につられ、不意にあることを思い出した。
「昨日って言えば、あれ……美味かったなぁ」
味覚までも蘇ってきたのか、うっとりとしながら青い空を見上げる。
わずかに浮かんでいる雲たちがお菓子の形と重なった。
「あっ、悪ぃ。邪魔しちまったか」
だが、すぐさま我に返って姿勢を正し、申し訳なさそうに頭を掻く。
「うん?大丈夫だよ。喋りながらでも作業はできるし」
カトルはほんの一瞬だけ瞠目したものの、再び手元を動かし始めた。
「あれって、一日限定の出店だったみたいだよ?それでつい買っちゃったんだけどね」
「はぁ~、さすがにそこまではチェックできねぇ」
ヴァンはがっくりと項垂れながら、とても残念そうに溜息を吐いた。
それを横目に捉えたカトルが小さく笑う。
「ヴァンさん疲れた顔してたもんね。スイーツがあって丁度良かったんじゃないの?」
「疲れたっつーか、あのクソガキが……ん?」
含みのあるそれに自然と応じかけたヴァンだったが、即座に訝しげな表情で頭を上げる。
「叫び声が廊下にまで聞こえてたよ」
「……マジかよ」
からかい混じりのカトルの言葉は端的だったが、それだけで察した。
ヴァンは昨日のアーロンとのやり取りを思い浮かべ、折角上げた頭を再び下に向けてしまった。
あの時は周囲のことなど顧みる余裕はなかったが、あれだけ騒いでいたら外に漏れるのは当然だ。
仲間内では二人の関係性が周知されてるとはいえ、面と向かって指摘されるのは恥ずかしい。
「あいつ、たまに過激なこと言うからよぉ……有言実行しそうで怖ぇんだよ」
なのだが、彼にしてみれば不本意な着地点だったのは確かで、つい誰かに愚痴りたくなった。
所長としての振る舞いはどこへやら。だらしなくテーブルの上に這いつくばり、ぶつくさと声を籠もらせる。
「それはご愁傷様。アーロンさんって我が強いっていうか……俺様だもんね」
カトルは元気がない濃紺の頭部に目をやり、穏やかな口調で年長の男を慰める。
その生い立ちの影響もあるのか、彼の思考や言動にはやや大人びている所があった。
「それなぁ……独占欲半端ねぇし」
だらけた大人の不満を聞いてくれる助手に感謝し、ヴァンは密かに頬を緩ませた。
別にアーロンから向けられる強い感情に辟易しているわけではない。
どちらかといえば、『困ったヤツだなぁ』くらいの緩い感覚だ。
もちろん、自分が彼に対して甘いことは認識している。
「そう言えば、前に何かの本で読んだんだけど……独占欲は不安の裏返しっていう捉え方もあるみたいだね」
ふと、本の一文を思い出した少年の言葉が、ヴァンの耳に流れ込んでくる。
「……不安か」
その中で、はっきりと一つの語句だけが胸の奥に落ちて響いた。
「──あっ。今の、僕が言ったとか、アーロンさんにはなしだからね!絶対睨まれる」
「わざわざ言わねぇよ。そんなの俺だって遠慮するぜ。あのガキは人一倍強がりだからな」
ヴァンは肩を小刻みに揺らしながら、込み上げてくる苦笑を噛みしめた。
おもむろに伏せていた身体を起こして、何気なく視線を巡らせる。
イベントスペースの向こう側、青空を借景にしたトリオンタワーが堂々とそびえ立っている。
昨日の日中、あの付近を通ったであろうアーロンの姿に思いをはせてみた。
『オレの物のくせに一人でふらふらするんじゃねぇ』
そう言って睨み付けてきた瞳の奥底には、どんな感情を宿していたのだろうか?
学藝祭の時はそんなつもりこそなかったが、結果的には彼の腕からすり抜けたと言われても仕方がない。
信用できないなら掴まえておいてくれと、先に手を伸ばしたのは自分の方だったのに。
もしかしたら、独り消えようとした背中を思い出させてしまったのかもしれない。
改めて彼の気持ちを慮ってみれば、心がチクリと痛んだ。
「……悪いことしちまったな」
物憂げに頬杖を付いたヴァンの唇から吐息が漏れる。
独り言のような声は本当に小さく、テーブルを挟んでいるカトルでも聞き取れないくらいだった。
助手の少年は不思議そうに小首を傾げたが、何事もなかったように端末の操作に比重を傾ける。
ヴァンの表情を見たら、これ以上この話題を続けるのは野暮に思えてきてしまった。
数日が経ったある日。
ヴァンは休日を利用してアーロンをドライブへ誘ってみることにした。
「どういう風の吹き回しだよ、気色悪ぃな」
彼の反応は予想通りの辛辣さで、更には胡乱げにジロリと睨まれた。
「あぁ、この間のお詫びを兼ねてデートでもしようぜってことで」
「はぁ?何、頭が沸いたこと言ってやがる」
ますます訳が分からないとばかりに詰め寄られ、ヴァンは少し困り顔ではにかんだ。
「いや、ほら。前科増やしちまっただろ?その埋め合わせ」
負けん気が強い彼に対し、不安にさせたとは到底口にできず、上手い具合に言葉を選ぶ。
すると、アーロンは驚いて彼を凝視した。
「てめぇ、何言って……」
物言いたげに唇を動かしかけたが、一度頭を振った後で顔を逸らしてしまう。
それでもお断りの文言は発せられず、気を良くしたヴァンは軽やかな足取りでガレージへ向かった。
デートなどと言ってはみたが、特に行き先を決めているわけではなかった。
一応アーロンにも希望を聞いてみたが、「好きにしろ」との素っ気ない返しだ。
ヴァンの方にしてみても、二人きりの時間が欲しかっただけなので、気ままに車を流すことにした。
今日は終日天気の崩れはない予報で、ドライブをするには丁度良い。
アーロンは最初、少し戸惑っている様子だった。
気遣って適度な音量でラジオをかけてみると、ぽつりぽつりと会話らしきものが発生する。
それからは当たり障りのない話題が続き、彼はいつのも調子を取り戻したようだった。
「……まぁ、たまにはこういうのも悪くねぇ」
助手席の窓を全開にし、肘をかけて風を浴びている姿はどこか楽しそうに見える。
「そうかよ。なら、良かった」
「詫びのつもりなら、首に縄付けてくれてもいいんだぜ?」
「おいっ、それは絶対やらねぇからな!」
昨日のやり取りを混ぜっ返され、ヴァンがすぐさま声を上げる。
あの時に首をなぞられた感触が、じわりと蘇ってきた。
ハンドルを握っているので相手の表情は覗えないが、きっと意地悪げに笑っていることだろう。
「ったく、口の減らねぇガキだ」
心なしか体温が上がり、半分だけ空けていた運転席の窓を全開にする。
両方の窓が放たれたことで、車内には勢いよく風が流れ込んできた。
そんな矢先。
対向車線に導力バイクの一団が現れた。車種はバラバラだが、整然と隊列を組んで走っている。
ヴァンが驚嘆した横で、アーロンが軽く口笛を鳴らした。
「おいおい、イカしてんじゃねぇーかよ!?」
目を輝かせながら身を乗り出し、すれ違う一団を嬉々として見つめる。
「ツーリングってやつかねぇ。金かけてやがるなぁ」
以前よりも普及し始めたとはいえ、導力バイクはまだまだ高価な代物だ。
導力車とは違い、一般的な市民が気軽に手を出すには程遠い。
「はぁー、やっぱ良いよなぁ~、バイク。早く手に入れてぇな」
興奮冷めやらぬといったアーロンは、助手席のシートに深く腰を埋め、にまにまと笑っている。
バイクより車派のヴァンは、それが少しばかり面白くない。
「はっ、金がねぇくせによく言うぜ。いつになるんだかなぁ?」
この青年が煌都で女友達に大枚を投げ打ったことを考えれば、今の蓄えは微々たるものだろう。
ついそんな嫌みが口から零れ出ると、
「だったら、給料上げやがれ」
至極尤もな切り返しをされてしまった。
言葉を詰まらせたヴァンをほったらかし、アーロンは勝手に金策を立て始める。
「なんなら、しばらく華劇場で稼ぐって手もあるな」
彼は自他共に認める煌都の人気役者である。
近頃は気まぐれに舞台へ上がっているが、腰を据えれば今よりも確実に実入りが良いはずだ。
その口調はやたらと弾んでいて、ヴァンの胸元が不穏なざわつきを覚える。
「……しばらくって、どのくらいだ?」
「さぁな~。半年とか一年とか?」
軽すぎるくらいの返答を受け、ハンドルを握る手に力が籠もった。
「そいつは……はい、そうですかって言えねぇな」
唇を引き結んで数拍の間を取る。
今日は誤魔化しや照れ隠しをしないと決めていた。
アーロンを不安にさせたことへの埋め合わせなら、自分の情は率直に伝えるべきだと思う。
「だって、それじゃ俺が……寂しいだろ」
ヴァンはフロントガラスの先に視点を固定したまま、唇を尖らせてそう言った。
こんな狭い空間では、どう頑張っても聞き間違えようがない。
それでもアーロンは、自分の耳を疑った。
隣の横顔を盗み見れば、そこにはふて腐れた表情が張り付いている。
刹那、心臓がドクンと大きな音を立てて跳ね上がった。
「……いちいち真に受けてんじゃねぇ」
誤魔化すように運転席から目を外し、窓の外に視線を投げる。
いつもなら威勢良く発せられる揶揄の言葉も、今はすんなりと出てこなかった。
小刻みに鳴り響く心音は全身に行き渡り、じわりと手の平が汗ばんでいく。
こんな恋人の言動を、彼は知らない。
押しが強く明け透けなアーロンに比べれば、ヴァンは奥手で愛情表現が控えめだ。
それなのに、今日は最初から何かがおかしい。
デートなんて語句が飛び出してきたかと思えば、今度は『寂しい』と拗ねてくる。
ヴァンからの分かりやすい好意に関して、アーロンの耐性はゼロに等しかった。
「あ~、くそっ。面倒くせぇ反応しやがって」
「いや……お前、マジでやりそうだから」
「例えばの話だよ!例えばの!」
どう立ち回れば良いのかが分からず、つい語尾が強くなる。
「ふぅ、そうかよ」
そんな動揺を纏った声の直後、明らかな安堵の溜息が車内に広がった。
ラジオからはこの季節にお勧めの観光情報が流れている。
現在地からでも足を伸ばせる場所が紹介されていたが、ヴァンの興味は薄かった。
今は人々の賑わいに紛れることはせず、静かな空間を作り出していたい。
そうでもしなければ、誤魔化さないと決めた心が揺らいでしまいそうになる。
(さすがに、人目があるとこでデレるっつーのは……難易度高すぎだろ?)
熱々な恋人たちを見る分には構わないが、いざ自分がとなれば相当に恥ずかしい。
隣の気配を覗ってみると、助手席に座っている青年は窓の外に顔を向けたまま。
こちらから話を振れば応じてくれるが、それだけだ。
ヴァンは柄でもないことをしている自覚があるので、彼の戸惑いが可笑しくもあり、微笑ましくもあった。
「──おい、この先で止めるぞ」
とはいえ、アーロンの心情を思うとこの状態は気の毒だ。
出発をしてからは走り通しだったこともあり、この辺りで一息入れておくべきだろう。
緩い登りのカーブが続く道の途中、少し拓けた所を見つけて車を止めた。
周囲に比べれば若干標高が高く、天候の良さも相まって見晴らしは上々だ。
どうやら一応は展望スポットのようで、質素な木製のベンチが二つ横に並んでいる。
「へぇ、なかなか良い場所じゃねぇか」
エンジンを切った途端、アーロンは明るい表情で勢いよく車のドアを開け放った。
地面に足を付けて軽く身体を伸ばしてみる。
吹き抜ける風はいたって自然体で流れており、走行中とは違う開放感があった。
一足遅れて車を降りたヴァンは、道中で個々に飲んでいたタンブラーを両手に持ち、アーロンの元に歩み寄った。
一声をかけてから片方のタンブラーを放り投げると、彼は難なくそれを受け取って喉を潤し始めた。
「穴場ってヤツかね。この辺は普段から車も少ねぇしな」
車に寄りかかって寛いでいる恋人を見つめ、ヴァンの頬が柔らかくなる。
「こんな事でもなけりゃ、気がつか……」
ついいつもの調子で対応しかけたアーロンは、存外にしっかりと視線が合ってしまったせいで声を失った。
「……チッ」
彼は大袈裟なくらいの舌打ちをし、ヴァンを振り払うようにしてその場を紛らわせた。
車から離れる足取りは速く、一直線にベンチへ向かって乱暴に腰を下ろす。
そんな落ち着きのない背中を眺め、ヴァンはやれやれと言わんばかりに肩を竦めた。
(まぁ、解らなくはねぇが……けど、少しくらいは受け止めてくれよ)
大概は気持ちの切り替えが早い彼の恋人だが、今回は苦戦を強いられている模様だ。
常日頃からアーロンの方が優位な関係性については不満もないし、それが心地良いとすら思う。
そのせいか、いざ自分がそうなった時のことをあまり想定していなかった。
こうも距離を取られるものなのかと、ほんの少しも触れてはくれないのかと、不安になってくる。
いつまで経っても振り向いてくれない後ろ姿に痺れを切らし、自然と足が動き出した。
「なぁ、アーロン」
空いているベンチにタンブラーを置き、長閑な景色を眺めている恋人の傍らに立つ。
「今日は……掴まえておいてくれねぇのか?」
片手を伸ばした拍子に意図せず甘えた声が漏れ、自分自身が驚いた。
だが、それ以上にアーロンの反応は顕著だった。
「てめぇ……は、さっきから何を言ってやがる」
驚愕の表情から後は、瞬発的な感情を押し留めるような低い声。
ついには自棄になったかのような、強烈な眼光が見上げてくる。
「急にデレてくるんじゃねぇ!こっちの調子が狂うんだよ!」
荒々しい叫びと共に手首を掴まれ、その瞬間にヴァンの頭が真っ白になった。
触れて欲しいと思ったくせに、いざ彼の体温を感じればカッと全身が熱くなる。
「う……ぁ、マジ……か?」
同時にこれまでの自分の言動が怒濤のごとくに流れ込み、脳内が羞恥で掻き乱されていく。
言葉にならない呻きが唇を空回りする度に、顔に熱が集まってきた。
「……やべぇぞ、これ」
もしかしたら、デートに誘った時から正気ではなかったのかもしれない。
そう疑いたくなるくらいに狼狽している。
ヴァンは口元を片手で覆い、望み通りに捉えられた手首へと視線を落とした。
急変した恋人の様相は、アーロンの怒気を静めるには十分すぎた。
信じられないような物を見る眼差しが、ゆっくりと男の全身を舐め上げる。
掴んだ手元から胸を辿り、首から上へ。
これ以上ないくらいに発火した顔面に気を取られ、思わず拘束の力が緩んだ。
その隙を突かれ、ヴァンに手を振り解かれる。
後退った足はふらふらと空席のベンチへ向かい、座ることなく地面に両膝をついた。
「なんで……だよ」
力なく座面の上へ突っ伏したはずみに、タンブラーが転がり落ちる。
そんな一連の動作を、アーロンは無言で見つめることしかできなかった。
ヴァンからデートの誘いがあった時、「頭が沸いている」と揶揄したのは、強ち間違いではなかったのかもしれない。
それでも、希少すぎる恋人の姿にはどうしようもなく心が乱される。
普段の関係性から言えば、明らかに形勢逆転の模様だ。
困惑と動揺の中、悔しさも相まって息を荒げてみたら、今度はまた状況がひっくり返る。
すぐには頭が付いてこなかった。
隣のベンチでは、ヴァンが完全に茹で上がっている。
アーロンは身動きをしなくなった男を視界に留め、ややあってからようやく冷静さを取り戻した。
「締まりがねぇなぁ、ヴァン」
「……うるせぇ。こんなつもりじゃなかったんだよ」
せせら笑いをすると、彼の方も若干落ち着いたのか応答があった。
しかし、まだ身体を起こすまでにはいかないようで、結構な重症具合だ。
その後、少し待ってはみたものの、ヴァンが顔を上げることはなかった。
性格的に気長とは言えないアーロンは、太陽が傾き始めている空を見て息を吐いた。
そろそろ腹が減ってくる頃合いだ。帰りの道のりを考えれば、車に戻った方が賢明だろう。
彼はすっくと腰を上げ、ヴァンの方へ歩み寄った。
地面に転がったタンブラーを拾い上げ、それで伏せているヴァンの頭部をこつんと叩く。
「どうせやるんなら最後までやり通せよ……って、まぁ、てめぇには無理だな」
苦笑交じりのそれが撤収の合図だった。
この休日。ドライブと称した二人きりの車内では、行きも帰りもラジオの音が途切れることはなかった。
防戦を余儀なくされる一方にとっては、その場を取り繕ってくれるありがたい存在だ。
帰り道の運転席には、ご機嫌な様子で口笛を吹いているアーロンの姿がある。
本来なら誘われた側の立場だが、肝心の運転手の方は精神的ダメージが計り知れない。
とてもハンドルを任せられる状態ではなく、彼が自ら運転を買って出ることになった。
助手席に座っているヴァンは、そんなアーロンを時どき覗ってはすぐに視線を逸らす。
全開にした窓から吹き込む風は、行きの道中よりもいくらか涼しくなっていた。
羞恥で火照った顔面を冷やすには丁度良い。
車窓を流れる風景は少しずつ都市部の色調が濃くなり始め、二人きりの時間も終わりに近づいているのが分かった。
まだ悶々とした気持ちの中、ヴァンはゆっくりとアーロンの横顔に焦点を合わせた。
今日は全く想定通りにはいかず、それどころか大いに醜態を晒してしまった。
それでも、一つだけ聞きたいことがある。
「なぁ……少しは埋め合わせになったか?」
元はと言えば、今回のデートはアーロンに対する詫びの一環だ。
だから、その評価だけは知っておきたいと思った。
「さぁ?どうだか……」
運転席の恋人はフロントガラスの先を見据え、喉の奥で静かに笑う。
「百歩譲って、及第点ならくれてやってもいいぜ」
言葉のわりには嬉しそうな声色が車内に響き、それを聞いたヴァンはホッと胸を撫で下ろす。
どうやら、一応は喜んでくれたらしい。
今はそれだけで満足だった。
2023.07.30
#黎Ⅱ畳む
合鍵に忍ぶ雨
恋人設定
雨が降っている休日の朝。アーロンが二度寝をしたがったのでイチャつきながら二人で眠った話。
2023年リクエスト①
【文字数:5300】
平日の深夜。最終列車ともなれば、乗客の姿はまばらで静かなものだ。
淡々と流れていく車窓からの眺めは、無機質で退屈なことこの上ない。
端の座席に腰を下ろしていたアーロンは、小さな欠伸をしながら足を組み替えた。
規則正しい車体の振動も相まってか、次第に瞼が重くなってくる。
彼はその眠気を紛らわせようと、衣服のポケットから携帯端末を取り出してカバーを開いた。
丁度その時、列車が駅に停車した。
開いたドアから若い男女が乗り込んでくる。
どうやら恋人同士らしい。彼らは談笑しつつ、アーロンからは対角線上に位置する座席へ座った。
身を寄せ合いながら語らう姿は仲睦まじく、完全に二人の世界だ。
再び走り出した列車に揺られる中、端末に向けていた瞳がちらりと恋人たちを盗み見る。
会話がうるさいだとか、戯れているのが鬱陶しいだとか、そういうわけではなかった。
ただ、今は自分の傍らに恋人がいない。それをやたらと意識し始めてしまう。
(……チッ、面白くねぇ)
なんだか、勝手に当て付けられたような気分に陥ってしまった。
その後、いくつかの停車駅を過ぎたあたりで恋人たちは降車した。
甘やかな空気から解放されたアーロンは、眠気覚ましの端末を元あった場所にねじ込んだ。
ふと顔を上げれば、向かいの窓にはふて腐れた子供のような顔がある。
いつもと変わらぬ帰り道だったはずなのに、予期せぬ展開のせいで人恋しさが募っていくのを感じた。
無意識にポケットを弄り、今度は別の物を取り出す。
手の平に収まるくらいのそれは、質の良い黒革のキーケースだった。
以前ヴァンから貰ったものだが、使い勝手が良いので密かなお気に入りになっている。
内部には幾つかの鍵が収まっており、彼はその中の一本をやんわりと指でなぞった。
これを手に入れたのは、もうひと月くらいは前のことだ。
「夜這いができねぇから、合鍵よこせ」
ヴァンが事務所の戸締まりをする姿を眺めていたら、そんな言葉が口を付いて出た。
前々から頭にあったわけではなく、単なる思いつき、もしくは気まぐれと表した方がいいのかもしれない。
ただ、急にそれが欲しくなった。恋人としての『特別』が欲しくなった。
「……おい、さすがに唐突すぎねぇか?」
ヴァンは突飛な要望を向けられたことに驚き、言葉を失った。
凝視の先には腕組みをしているアーロンの姿があって、どことなく真剣な面持ちをしている。
声の調子からもふざけている様子は感じられなかった。
「少しは前置きってもんを付けろよ」
「ハッ、面倒くせぇ」
あまりに直球な物言いをされ、やれやれと溜息を吐いたヴァンだったが、どうやら悪い気はしなかったらしい。
若年の恋人への眼差しは柔らかく綻んでいた。
「ほらよ。しょうがねぇからくれてやる」
彼は特に悩む素振りを見せず、やけにあっさりと鍵を手放した。
「一応言っておくが、節度は守れよ、節度はな!」
しつこく念押しをしてきたものの、これにはアーロンも内心では驚いてしまった。
断られる気はしていなかったのだが、少しくらいは渋るだろうと思っていたのだ。
「あ~、全然聞こえねぇなぁ」
彼はそんな胸中を誤魔化すつもりで片耳を手で覆い、頭を振って口角を引き上げた。
そして、フェアじゃないからと自室の鍵を無理矢理ヴァンに押し付けたのだった。
旧市街の駅で列車から降りたのは、アーロンだけのようだ。
静まりかえった深夜の街並みには灯が乏しく、他の地区に比べれば随分と薄暗い。
すっかり馴染んでいる帰路の途中、何気なく空を見上げると、雲を被った月が朧げに佇んでいた。
「この時間なら、まぁ……寝てんだろ」
キーケースを片手で弄びながら、ぼそりと呟く。
あれからひと月は経つのに、彼はまだ一度も合鍵を使っていなかった。
気分が乗らなかったと言えばそれまでだ。
けれど、心のどこかで及び腰になっていることを自覚していた。
鍵をくれたとはいえ、ヴァンはアーロンの夜遊び好きを当たり前のように受け入れている。
だから、それを放棄して彼の部屋を訪れた時に、どんな反応をするのかが分からなかった。
単純に驚くだけなのか?安眠を妨害されて不機嫌になるのか?
──それとも、少しくらいは嬉しいと思ってくれるのか?
これが馴染みの女であれば気にも留めないが、相手が恋人というだけで余計にあれこれと考えてしまう。
ヴァンからは押しが強いだの態度がデカいだのと言われるが、実のところ嫌われたくないという気持ちは強いのだ。
尤も、そんな胸中の不安は絶対に悟られたくないのだが。
事務所への細い階段を登り切り、見慣れたドアの前で立ち止まる。
アーロンは深く息を吐いた後で、ゆっくりと鍵を差し入れた。
開錠の音がやけに聴覚を刺激して、胸の鼓動が速くなっていく。
人気のない仕事場には目もくれず、彼の足は一直線にヴァンの部屋へ向かった。
二枚目のドアの前。ここの鍵は常日頃から開いたままだと知っている。
今度は呼吸を整える間は必要なかった。
列車で恋人たちに遭遇してからここに至るまで、沸々と募り続けた人恋しさは今が最高潮だ。
室内に入ってベッドに目をやると、毛布の膨らみがわずかに動いた。
アーロンが後ろ手にドアを閉めたのと同時に、部屋の主がのそりと上半身を起こす。
「お前なぁ……少しはこっそり来いよ」
ヴァンは寝ぼけ気味の億劫な物言いで、深夜の訪問者を出迎える。
さして広くもない住処だ。睡眠中だったとはいえ、全く隠れるつもりがない物音ですぐに気が付いた。
合鍵を渡した件もあって、それがアーロンだと確信していたのだろう。
警戒心の一つもなく、大きな欠伸をしてから再び毛布の中に潜り込もうとしている。
「──っ、おい!」
その態度はアーロンが想像していたどれとも噛み合わなかった。
彼は意表を突かれて一時だけ固まったが、すぐに気を取り直してベッドに向かって突進した。
飛びかかるような勢いで乗りかかり、毛布をひっつかんでヴァンの行動を阻止する。
そこで、二人の視線がぶつかった。
「……今夜はヤらねぇぞ。マジで眠すぎる」
ヴァンは言葉の通り、今にも瞼が落ちてきそうな瞳で恋人を見上げた。
「情けねぇな。これだから年寄りは」
対するアーロンは即座に憎まれ口を叩いたが、元から身体を重ねるつもりではなかった。
今夜は情欲に突き動かされたのではなく、ただヴァンの温もりに擦り寄りたくなっただけ。
けれども、そんな気持ちを吐露できるほど素直な性分ではない。
「まぁ……寝るだけなら好きにしろよ」
薄闇の中でも鮮やかな金色をどう解釈したのか、ヴァンは彼の頬を軽く叩いて微笑んだ。
自らの発言通り、彼は本当に眠かったようだ。
恋人が上着と靴を脱ぎ捨ててベッドに潜り込んだのを確認し、ものの数秒で夢の中へと落ちていく。
大の男が二人では窮屈なサイズ感だが、それを気にすることはなく、すぐに寝息を立て始めた。
「……無防備なツラしやがって」
そんな彼の横で、アーロンは片肘を立てて頬杖を付きながら満足げに目を細めた。
訪問者を放置して遠慮なく安眠を確保する姿は、傍から見れば冷たい態度に感じられるのかもしれない。
けれど、この青年にとっては程良い熱量だ。
そもそも、諸手を挙げて大歓迎をしてくれるヴァンなど、想像するだけでも違和感がある。
アーロンは喉の奥で笑いをくぐもらせ、ひとしきり恋人の寝顔を堪能してから毛布に包まった。
夜にはめっぽう強い彼のこと、今の今まで眠気の予兆すらもなかった。
しかし、欲しがっていた人肌を手に入れた途端、一気に睡魔の波が押し寄せてくる。
寝返りが打てない狭さの中、半分抱き付くように密着すると、四肢を伝ってヴァンの鼓動が流れ込んできた。
規則性のある小さな音はどことなく子守歌にも似て、アーロンを眠りの底へと引き込んでいく。
それに抗う術がないのは承知の上だったが、彼の気性は素直に陥落することを良しとしなかった。
「次は……きっちり夜這いにくるからな……覚悟しとけ」
ベッドの中で満たされていく想いとは裏腹、負けず嫌いな言葉の欠片が吐息の中に零れ落ちた。
少しずつ浮上していく意識の横で、水気を含んだ気配が漂う。
白糸が流れるように静かな雨音が、窓の外から聞こえてくる。
(……雨か。そういや、そんな予報だったな)
ヴァンはゆっくりと目を開き、薄暗い天井を見つめた。
朝であることは察しているが、太陽の位置は分からず、今が何時くらいなのかは判断できない。
(ザイファ、どこ……やった?)
彼は携帯端末で時間を確認するために、起き上がろうとした。
しかし、仰向けになっている身体の上に何かの重みを感じる。
首だけを横に向けると、すぐさま鮮やかな赤色が視界に入っていた。
(あぁ……夢じゃなかったのか)
それを見て、ようやくアーロンの存在を認識する。
昨夜の出来事を思い出してみたが、自身が相当眠かったせいもあり記憶が曖昧だ。
会話の内容も半信半疑で、少しばかり不安にもなってしまった。
だからこそ、彼の身体と直に触れ合っていることで安堵する。
アーロンはすっかり寝入っていて、うつ伏せ気味の寝相が動き出す気配は感じられない。
彼の片腕はヴァンの鎖骨の付近に放り出されており、手の先は軽く肩にかかっていた。
まるでこれはオレの所有物だと言わんばかりの体勢が自然と苦笑を誘う。
「俺は抱き枕じゃねぇっつーの」
至近距離にある寝顔は満足げに柔らいでいて、いつもよりはだいぶ幼い印象を受ける。
そんな恋人の姿を見てしまえば無下にはできず、ヴァンは起き上がるのを諦めざるを得なかった。
アーロンの身体の下敷きになっている腕が痺れ始め、それをなんとか引き抜いてみる。
自由になった手で顔にかかった毛先を払ってやると、眠り人はくすぐったそうに身動ぎをした。
ヴァンにとってはその反応が珍しくもあり、そして愛おしくもあった。
「──やっと、来やがったなぁ。この気まぐれ野郎が」
込み上げてくる想いは、言の葉となって吐き出された。
別に今か今かと熱烈に待ち焦がれていたわけではない。けれど、合鍵を渡しているのだから、多少なりとも気にしていたのは確かだ。
「一応は待ってやってたんだからな?」
相手が眠っているのいいことに、ヴァンの頬が嬉しさを全面に押し出した。
毛先だけでは物足りず、赤い頭部をわしゃわしゃと掻き混ぜてみる。
すると、
「……うぅ」
今度は小さな呻き声がした。
「ヴァン……うるせぇ……ぞ」
次に気怠げな抗議の一言。どうやらアーロンが目を覚ましたらしい。
「よぉ、起きたのか?」
彼は寝ぼけ眼でヴァンを見やったが、窓からの雨音が耳に入ってきたことで、再び瞼を落としてしまった。
「かったりぃと思ったら……雨かよ」
まだ起床する気がないのか、ヴァンの肩にかかっている指を掴む形に変え、半身を被せるように擦り寄ってくる。
「お、おい?起きねぇのか?」
戸惑う恋人をよそに、アーロンはまだ二人きりで惰眠を貪りたい気分だった。
「もうちょい寝かせろや。どうせ今日は休みだし……」
ずれた毛布をかけ直して二度寝の体勢に入った彼は、上からヴァンの顔を覗き込んだ。
「雨の日にベッドでイチャつくのも悪くねぇ」
一連の言動は緩慢で、微睡みながら恋人の首筋にキスをする。
「そうかよ。まぁ、別に構わねぇけど」
ヴァンはわずかに身を竦め、お返しとばかりにアーロンの耳元に唇を押し当てたが、
「あっ、お前……」
ふと、あることが気になってしまった。
「事務所の鍵、ちゃんと閉め直してきたんだろうな?」
このまま二人でベッドに籠もるなら、それなりに大事な問題だ。
いくら仕事が休みとはいえ、ここはヴァンの住居でもある。いつ誰が訪ねてきてもおかしくはない状況だった。
「……鍵か、あー、どうだったっけなぁ」
アーロンはぼやけた頭の中で、昨夜の行動を思い出してみた。しかし、肝心の鍵については全く記憶がない。
「さあな。そこまでは覚えてねぇ」
「マジかよ……」
ヴァンの不安は解消するどころではなく、思わず天井を見上げて溜息を吐いた。
「てめぇは、いちいち細かすぎんだよ」
そろそろ眠気も限界にきているアーロンは、不機嫌そうに半眼じみた顔を相手の肩口に押し付けた。
「ったくよぉ……寝てるだけだっつーの。ヤッてるわけでもねぇし……」
彼はぶつぶつと文句を垂れ流し始めたが、それは徐々に小さくなり、ついには聞こえなくなってしまった。
「やれやれ……また動けなくなっちまった」
さっき目を覚ました時の状態から、何一つ変わっていない。
ヴァンは困った色を浮かべながらも、口元を綻ばせた。
人肌の温もりは心地良く、聞こえてくる寝息も相まって、自然と眠気が押し寄せてくる。
「まぁ、いいか」
ひとつ欠伸をした彼は、アーロンを見つめて呟いた。
施錠の心配をしていたはずなのに、ぬくぬくとした寝床の中ではどうでもよくなってきてしまう。
「どうせ雨だしなぁ。外からは誰も来ねぇだろ」
部屋の中は相変わらず薄暗いが、先刻よりも少しばかり明るくなってきているようだ。
結局のところ、今の時刻は確認できず、大体このくらいだろうと軽く目星をつけてみる。
「起きたら一緒に飯でも食うか」
次に目覚める時間帯を予想して、少しずつ浮かれた気分に染まっていく。
「朝っていうより昼飯になりそうだな……」
そうしているうちに、ヴァンの幸せな意識は少しずつ遠退いて行ったのだった。
窓の外は雨。
静かに続くその音は、眠り込む二人のベッドに優しく降り注いでいた。
2023.06.21畳む
恋人設定
雨が降っている休日の朝。アーロンが二度寝をしたがったのでイチャつきながら二人で眠った話。
2023年リクエスト①
【文字数:5300】
平日の深夜。最終列車ともなれば、乗客の姿はまばらで静かなものだ。
淡々と流れていく車窓からの眺めは、無機質で退屈なことこの上ない。
端の座席に腰を下ろしていたアーロンは、小さな欠伸をしながら足を組み替えた。
規則正しい車体の振動も相まってか、次第に瞼が重くなってくる。
彼はその眠気を紛らわせようと、衣服のポケットから携帯端末を取り出してカバーを開いた。
丁度その時、列車が駅に停車した。
開いたドアから若い男女が乗り込んでくる。
どうやら恋人同士らしい。彼らは談笑しつつ、アーロンからは対角線上に位置する座席へ座った。
身を寄せ合いながら語らう姿は仲睦まじく、完全に二人の世界だ。
再び走り出した列車に揺られる中、端末に向けていた瞳がちらりと恋人たちを盗み見る。
会話がうるさいだとか、戯れているのが鬱陶しいだとか、そういうわけではなかった。
ただ、今は自分の傍らに恋人がいない。それをやたらと意識し始めてしまう。
(……チッ、面白くねぇ)
なんだか、勝手に当て付けられたような気分に陥ってしまった。
その後、いくつかの停車駅を過ぎたあたりで恋人たちは降車した。
甘やかな空気から解放されたアーロンは、眠気覚ましの端末を元あった場所にねじ込んだ。
ふと顔を上げれば、向かいの窓にはふて腐れた子供のような顔がある。
いつもと変わらぬ帰り道だったはずなのに、予期せぬ展開のせいで人恋しさが募っていくのを感じた。
無意識にポケットを弄り、今度は別の物を取り出す。
手の平に収まるくらいのそれは、質の良い黒革のキーケースだった。
以前ヴァンから貰ったものだが、使い勝手が良いので密かなお気に入りになっている。
内部には幾つかの鍵が収まっており、彼はその中の一本をやんわりと指でなぞった。
これを手に入れたのは、もうひと月くらいは前のことだ。
「夜這いができねぇから、合鍵よこせ」
ヴァンが事務所の戸締まりをする姿を眺めていたら、そんな言葉が口を付いて出た。
前々から頭にあったわけではなく、単なる思いつき、もしくは気まぐれと表した方がいいのかもしれない。
ただ、急にそれが欲しくなった。恋人としての『特別』が欲しくなった。
「……おい、さすがに唐突すぎねぇか?」
ヴァンは突飛な要望を向けられたことに驚き、言葉を失った。
凝視の先には腕組みをしているアーロンの姿があって、どことなく真剣な面持ちをしている。
声の調子からもふざけている様子は感じられなかった。
「少しは前置きってもんを付けろよ」
「ハッ、面倒くせぇ」
あまりに直球な物言いをされ、やれやれと溜息を吐いたヴァンだったが、どうやら悪い気はしなかったらしい。
若年の恋人への眼差しは柔らかく綻んでいた。
「ほらよ。しょうがねぇからくれてやる」
彼は特に悩む素振りを見せず、やけにあっさりと鍵を手放した。
「一応言っておくが、節度は守れよ、節度はな!」
しつこく念押しをしてきたものの、これにはアーロンも内心では驚いてしまった。
断られる気はしていなかったのだが、少しくらいは渋るだろうと思っていたのだ。
「あ~、全然聞こえねぇなぁ」
彼はそんな胸中を誤魔化すつもりで片耳を手で覆い、頭を振って口角を引き上げた。
そして、フェアじゃないからと自室の鍵を無理矢理ヴァンに押し付けたのだった。
旧市街の駅で列車から降りたのは、アーロンだけのようだ。
静まりかえった深夜の街並みには灯が乏しく、他の地区に比べれば随分と薄暗い。
すっかり馴染んでいる帰路の途中、何気なく空を見上げると、雲を被った月が朧げに佇んでいた。
「この時間なら、まぁ……寝てんだろ」
キーケースを片手で弄びながら、ぼそりと呟く。
あれからひと月は経つのに、彼はまだ一度も合鍵を使っていなかった。
気分が乗らなかったと言えばそれまでだ。
けれど、心のどこかで及び腰になっていることを自覚していた。
鍵をくれたとはいえ、ヴァンはアーロンの夜遊び好きを当たり前のように受け入れている。
だから、それを放棄して彼の部屋を訪れた時に、どんな反応をするのかが分からなかった。
単純に驚くだけなのか?安眠を妨害されて不機嫌になるのか?
──それとも、少しくらいは嬉しいと思ってくれるのか?
これが馴染みの女であれば気にも留めないが、相手が恋人というだけで余計にあれこれと考えてしまう。
ヴァンからは押しが強いだの態度がデカいだのと言われるが、実のところ嫌われたくないという気持ちは強いのだ。
尤も、そんな胸中の不安は絶対に悟られたくないのだが。
事務所への細い階段を登り切り、見慣れたドアの前で立ち止まる。
アーロンは深く息を吐いた後で、ゆっくりと鍵を差し入れた。
開錠の音がやけに聴覚を刺激して、胸の鼓動が速くなっていく。
人気のない仕事場には目もくれず、彼の足は一直線にヴァンの部屋へ向かった。
二枚目のドアの前。ここの鍵は常日頃から開いたままだと知っている。
今度は呼吸を整える間は必要なかった。
列車で恋人たちに遭遇してからここに至るまで、沸々と募り続けた人恋しさは今が最高潮だ。
室内に入ってベッドに目をやると、毛布の膨らみがわずかに動いた。
アーロンが後ろ手にドアを閉めたのと同時に、部屋の主がのそりと上半身を起こす。
「お前なぁ……少しはこっそり来いよ」
ヴァンは寝ぼけ気味の億劫な物言いで、深夜の訪問者を出迎える。
さして広くもない住処だ。睡眠中だったとはいえ、全く隠れるつもりがない物音ですぐに気が付いた。
合鍵を渡した件もあって、それがアーロンだと確信していたのだろう。
警戒心の一つもなく、大きな欠伸をしてから再び毛布の中に潜り込もうとしている。
「──っ、おい!」
その態度はアーロンが想像していたどれとも噛み合わなかった。
彼は意表を突かれて一時だけ固まったが、すぐに気を取り直してベッドに向かって突進した。
飛びかかるような勢いで乗りかかり、毛布をひっつかんでヴァンの行動を阻止する。
そこで、二人の視線がぶつかった。
「……今夜はヤらねぇぞ。マジで眠すぎる」
ヴァンは言葉の通り、今にも瞼が落ちてきそうな瞳で恋人を見上げた。
「情けねぇな。これだから年寄りは」
対するアーロンは即座に憎まれ口を叩いたが、元から身体を重ねるつもりではなかった。
今夜は情欲に突き動かされたのではなく、ただヴァンの温もりに擦り寄りたくなっただけ。
けれども、そんな気持ちを吐露できるほど素直な性分ではない。
「まぁ……寝るだけなら好きにしろよ」
薄闇の中でも鮮やかな金色をどう解釈したのか、ヴァンは彼の頬を軽く叩いて微笑んだ。
自らの発言通り、彼は本当に眠かったようだ。
恋人が上着と靴を脱ぎ捨ててベッドに潜り込んだのを確認し、ものの数秒で夢の中へと落ちていく。
大の男が二人では窮屈なサイズ感だが、それを気にすることはなく、すぐに寝息を立て始めた。
「……無防備なツラしやがって」
そんな彼の横で、アーロンは片肘を立てて頬杖を付きながら満足げに目を細めた。
訪問者を放置して遠慮なく安眠を確保する姿は、傍から見れば冷たい態度に感じられるのかもしれない。
けれど、この青年にとっては程良い熱量だ。
そもそも、諸手を挙げて大歓迎をしてくれるヴァンなど、想像するだけでも違和感がある。
アーロンは喉の奥で笑いをくぐもらせ、ひとしきり恋人の寝顔を堪能してから毛布に包まった。
夜にはめっぽう強い彼のこと、今の今まで眠気の予兆すらもなかった。
しかし、欲しがっていた人肌を手に入れた途端、一気に睡魔の波が押し寄せてくる。
寝返りが打てない狭さの中、半分抱き付くように密着すると、四肢を伝ってヴァンの鼓動が流れ込んできた。
規則性のある小さな音はどことなく子守歌にも似て、アーロンを眠りの底へと引き込んでいく。
それに抗う術がないのは承知の上だったが、彼の気性は素直に陥落することを良しとしなかった。
「次は……きっちり夜這いにくるからな……覚悟しとけ」
ベッドの中で満たされていく想いとは裏腹、負けず嫌いな言葉の欠片が吐息の中に零れ落ちた。
少しずつ浮上していく意識の横で、水気を含んだ気配が漂う。
白糸が流れるように静かな雨音が、窓の外から聞こえてくる。
(……雨か。そういや、そんな予報だったな)
ヴァンはゆっくりと目を開き、薄暗い天井を見つめた。
朝であることは察しているが、太陽の位置は分からず、今が何時くらいなのかは判断できない。
(ザイファ、どこ……やった?)
彼は携帯端末で時間を確認するために、起き上がろうとした。
しかし、仰向けになっている身体の上に何かの重みを感じる。
首だけを横に向けると、すぐさま鮮やかな赤色が視界に入っていた。
(あぁ……夢じゃなかったのか)
それを見て、ようやくアーロンの存在を認識する。
昨夜の出来事を思い出してみたが、自身が相当眠かったせいもあり記憶が曖昧だ。
会話の内容も半信半疑で、少しばかり不安にもなってしまった。
だからこそ、彼の身体と直に触れ合っていることで安堵する。
アーロンはすっかり寝入っていて、うつ伏せ気味の寝相が動き出す気配は感じられない。
彼の片腕はヴァンの鎖骨の付近に放り出されており、手の先は軽く肩にかかっていた。
まるでこれはオレの所有物だと言わんばかりの体勢が自然と苦笑を誘う。
「俺は抱き枕じゃねぇっつーの」
至近距離にある寝顔は満足げに柔らいでいて、いつもよりはだいぶ幼い印象を受ける。
そんな恋人の姿を見てしまえば無下にはできず、ヴァンは起き上がるのを諦めざるを得なかった。
アーロンの身体の下敷きになっている腕が痺れ始め、それをなんとか引き抜いてみる。
自由になった手で顔にかかった毛先を払ってやると、眠り人はくすぐったそうに身動ぎをした。
ヴァンにとってはその反応が珍しくもあり、そして愛おしくもあった。
「──やっと、来やがったなぁ。この気まぐれ野郎が」
込み上げてくる想いは、言の葉となって吐き出された。
別に今か今かと熱烈に待ち焦がれていたわけではない。けれど、合鍵を渡しているのだから、多少なりとも気にしていたのは確かだ。
「一応は待ってやってたんだからな?」
相手が眠っているのいいことに、ヴァンの頬が嬉しさを全面に押し出した。
毛先だけでは物足りず、赤い頭部をわしゃわしゃと掻き混ぜてみる。
すると、
「……うぅ」
今度は小さな呻き声がした。
「ヴァン……うるせぇ……ぞ」
次に気怠げな抗議の一言。どうやらアーロンが目を覚ましたらしい。
「よぉ、起きたのか?」
彼は寝ぼけ眼でヴァンを見やったが、窓からの雨音が耳に入ってきたことで、再び瞼を落としてしまった。
「かったりぃと思ったら……雨かよ」
まだ起床する気がないのか、ヴァンの肩にかかっている指を掴む形に変え、半身を被せるように擦り寄ってくる。
「お、おい?起きねぇのか?」
戸惑う恋人をよそに、アーロンはまだ二人きりで惰眠を貪りたい気分だった。
「もうちょい寝かせろや。どうせ今日は休みだし……」
ずれた毛布をかけ直して二度寝の体勢に入った彼は、上からヴァンの顔を覗き込んだ。
「雨の日にベッドでイチャつくのも悪くねぇ」
一連の言動は緩慢で、微睡みながら恋人の首筋にキスをする。
「そうかよ。まぁ、別に構わねぇけど」
ヴァンはわずかに身を竦め、お返しとばかりにアーロンの耳元に唇を押し当てたが、
「あっ、お前……」
ふと、あることが気になってしまった。
「事務所の鍵、ちゃんと閉め直してきたんだろうな?」
このまま二人でベッドに籠もるなら、それなりに大事な問題だ。
いくら仕事が休みとはいえ、ここはヴァンの住居でもある。いつ誰が訪ねてきてもおかしくはない状況だった。
「……鍵か、あー、どうだったっけなぁ」
アーロンはぼやけた頭の中で、昨夜の行動を思い出してみた。しかし、肝心の鍵については全く記憶がない。
「さあな。そこまでは覚えてねぇ」
「マジかよ……」
ヴァンの不安は解消するどころではなく、思わず天井を見上げて溜息を吐いた。
「てめぇは、いちいち細かすぎんだよ」
そろそろ眠気も限界にきているアーロンは、不機嫌そうに半眼じみた顔を相手の肩口に押し付けた。
「ったくよぉ……寝てるだけだっつーの。ヤッてるわけでもねぇし……」
彼はぶつぶつと文句を垂れ流し始めたが、それは徐々に小さくなり、ついには聞こえなくなってしまった。
「やれやれ……また動けなくなっちまった」
さっき目を覚ました時の状態から、何一つ変わっていない。
ヴァンは困った色を浮かべながらも、口元を綻ばせた。
人肌の温もりは心地良く、聞こえてくる寝息も相まって、自然と眠気が押し寄せてくる。
「まぁ、いいか」
ひとつ欠伸をした彼は、アーロンを見つめて呟いた。
施錠の心配をしていたはずなのに、ぬくぬくとした寝床の中ではどうでもよくなってきてしまう。
「どうせ雨だしなぁ。外からは誰も来ねぇだろ」
部屋の中は相変わらず薄暗いが、先刻よりも少しばかり明るくなってきているようだ。
結局のところ、今の時刻は確認できず、大体このくらいだろうと軽く目星をつけてみる。
「起きたら一緒に飯でも食うか」
次に目覚める時間帯を予想して、少しずつ浮かれた気分に染まっていく。
「朝っていうより昼飯になりそうだな……」
そうしているうちに、ヴァンの幸せな意識は少しずつ遠退いて行ったのだった。
窓の外は雨。
静かに続くその音は、眠り込む二人のベッドに優しく降り注いでいた。
2023.06.21畳む
風鈴の音色に口づけを
黎・恋人設定
ED後から三週間(皆が帰郷するまで)の間の話。
【文字数:6800】
あまりにも衝撃的な出来事が続いたせいで、龍來での二日間が遠い過去のようだった。
小さいながらも澄んだ音色が聞こえれば、それに手を引かれて思い出す。
慰安と称した穏やかで温かみのある風景を。
夕方の賑わいも一段落し、モンマルトには落ち着いた雰囲気が漂っている。
ヴァンはカウンターに腰を掛け、一人で少しばかり遅い夕食を取っていた。
店内からは常連客の談笑が聞こえてくる。どうやら良い具合に酒が入っているようだ。
「軽く一杯くらいは付けといても良かったか」
それを羨ましげに眺めながら、すでに半分ほど食べ進めている皿に愚痴をこぼす。
「あら、何か飲む?それとも食後のデザートかしら?」
丁度レジの付近にいたポーレットが、微笑みながらカウンターの中へ入ってくる。
「あ~、そうしたいのは山々なんだが……今月は出費が激しくてよぉ」
店のマドンナから促されて一瞬ぐらついたが、ヴァンは渋い顔で首を横に振った。
「そうなの?大変ね」
「ちょいと車の方を弄っちまったもんでな」
彼は趣味のことになれば全力でお金を注ぎ込む節がある。それを知っているポーレットは、頬に片手を添えて眉尻を下げた。
「おい、不良店子!あいつらに給料は出してやってるんだろうな?」
そんな彼女の背後、厨房の奥からビクトルの厳しい声が飛んできた。
「そんなブラックじゃねぇよ。うちはホワイトだ、ホワイト!」
「ふふっ、お父さんったら」
飛び交う男たちのやり取りは毎度のことで、ポーレットは穏やかに笑むだけだ。
そこへ、小さな看板娘がとことことやって来た。
「ねーねー、ヴァン。お仕事大変なの?」
ユメはカウンターに座っている男に近づき、心配そうに見上げた。
「いや、事務所の方は問題ねぇが……俺の懐がピンチというか」
純粋な眼差しに対して及び腰なってしまったヴァンは、苦笑しつつもピンク色の頭を優しく撫でる。
「──ん?ユメ坊、なに持ってんだ?」
視線を下げると、小さな両手に包まれている正方形の小箱が目に留まった。
「これね、ヴァンたちと遊びに行った時の……」
ユメは箱の蓋を開けながら説明しようとするが、中に入っている物の名前がすぐに出てこない。
「おっ、龍來で一緒に作ったやつか。風鈴だな」
「うん、そう!風鈴!」
ヴァンが箱を覗き込んでから助け船を出すと、嬉しそうにオウム返しをしてきた。
「で、これがどうしたって?」
箱に入っている風鈴は、少々いびつながらもしっかりと体を成している。
舌から吊されている短冊の色は、ユメが選んだ可愛らしい薄桃色だ。
「ユメ、部屋に風鈴飾りたいな~って思って」
「おう、いいんじゃねーの」
「でも、お店のおじさんが『夏に飾ると涼しい気分になるよ』って言ってた気がしたから」
ユメの話に耳を傾けていたヴァンは、その声が次第に小さくなっていくの感じて席を立った。
「そういうことか。別に夏じゃなきゃダメってことはねぇよ」
彼女の憂いを察し、屈み込んで目線を合わせながら優しく言い聞かせる。
「ほんと!?」
「あぁ、好きに飾っとけ。けど、窓際の方が良いと思うぜ。音が鳴らねぇからな」
すぐさまパッと目を輝かせた姿に安堵し、ヴァンはもう一度彼女の頭に触れた。
もう子供には遅い時間になってきていた。
眠そうに目を擦り始めたユメを部屋に連れて行った後、ポーレットが感謝の言葉を口にする。
「ありがとう。あの子ったら、本当に旅行が楽しかったみたいで」
「それりゃ、良かったな。でもよ、なんで急にあんなこと言い出したんだ?」
あの旅行からはひと月ほどが経ってるので、不思議に思ったヴァンが尋ねる。
「昼間にリゼットさんと思い出話で盛り上がってたみたいなの」
すると、彼が完食した皿を片付けているポーレットが答えた。
「……そう言えば、手が空いたら店を手伝うようなこと言ってたな」
ヴァンは今朝の彼女との会話を反芻しつつ、ポケットの中から財布を取り出した。
今夜は酒もデザートも我慢し、早々と会計を済ませるためにレジへ向かう。
「龍來から戻ってきた後、色々なことがありすぎたもの。やっと楽しい思い出として話せるようになってきたのかもしれないわ」
手早い対応してくれるポーレットだったが、子を想う母親の心情が切々と滲み出る。
表立っては明るい笑顔を見せてくれていても、幼い子供の心は繊細だ。
「そうだな。ありすぎたせいで記憶が遠退いちまう」
ヴァンは受け取った釣り銭をじっと見つめ、まるで独り言のように呟いた。
夕食を終えた男の足は、真っ直ぐに事務所へ向かった。
人気のない仕事場をのんびりと横切って自分の部屋に入る。
「……風鈴か」
ドアを閉める音と小さな声が重なった。
ユメとのやり取りで感化されたのか、無性に気になってきてしまった。
すぐに照明のスイッチを入れ、脱いだ上着を大雑把にベッドへ放り投げる。
「確か……あの辺だったか?」
ヴァンは壁際のチェストに歩み寄り、引き出しを漁り始めた。
いくつか開け閉めを繰り返し、一番下の段でようやくお目当ての箱を発見する。
大きさと外装はユメのものと全く同じだ。
「あった、あった」
なんだか嬉しくなってしまった彼は、ベッドを背もたれにしながら床に座り込んだ。
鼻歌交じりで蓋を開けると、中には綺麗な形をした風鈴が入っていた。
龍來での記憶が一気に蘇ってきて、知らずの内に頬が緩んでいく。
風光明媚な町の中、皆でいくつかの体験型イベントを満喫した。
その度に同行者の顔触れは違っていたが、あの時はユメとアーロンだった。
「あいつ、すげぇドヤ顔してやがったなぁ」
日頃から何かとヴァンに対抗意識を燃やす青年は、風鈴作りについても例外ではなかった。
出来映えを披露する姿は、いかにも勝ち誇った様子だった。
その直後にユメが勇んで参戦してきたので、『誰が一番上手だったか』については有耶無耶になってしまった感がある。
二人揃って少女に勝ちを譲らなかったのは大人げないが、今となっては良い思い出だ。
「いや、やっぱ俺のが一番だろ」
しかし、今になって再び子供じみた感情がぶり返してくる。
ヴァンは小箱に収まっている風鈴の吊り紐を摘まみ、顔の前に持ち上げた。
──ちりん、と可愛らしい音が一つ。
外見の中で揺れた舌の真下、繋がれている短冊の鮮やかさに目を奪われる。
突如、ヴァンの表情が驚きで固まった。
「……あ、か?」
風鈴に吊す短冊の色は、複数の中から各自が好きなもの選んだ。
ヴァンは青でユメは桃色、アーロンは赤だったはずだ。
「なんでだ?」
完成した風鈴は店主が箱に詰めて、それぞれに手渡しをしてくれた。
その後も一カ所に纏めて置いた記憶はないので、取り違えた可能性は低い。
「まさか……あいつ、すり替えやがったか?」
あまり疑いたくはないが、咄嗟にそんな想像がチラついた。
だが、アーロンの性格を考えれば、そんな小細工をするとは思えない。
「いや、それはねぇな」
例えば、想い人が作ったものを持っていたいとか。
ましてや、まだ恋人関係ではなかったあの時点で。
ヴァンは忙しなく否定的な思考を巡らせながら、綺麗な球形を見つめた。
あの金彩色の楔が打ち込まれたのは、革命記念祭が終わってすぐの時だった。
伝える気などまるでなかった胸の内を、容赦なく引きずり出されて掴み取られた。
持て余し続けたこの好意に対し、アーロンは一切の逃げ道をも与えてくれない。
その狂おしいくらいの強行さは潔くもあり、恋愛には後ろ向きなヴァンを陥落させるには十分すぎた。
「好きだ」なんて陳腐な台詞を吐くほど、二人は可愛い性格をしていない。
牙を立てるようなキスに、噛みつき返して応えるだけで良かった。
あれからまだ二週間ほどしか経っていない。
視界の中で揺れる赤い短冊は、否応なく彼の姿を連想させた。
「そう言えば、あいつも帰るんだっけな」
アルマータ関連の後始末で多忙な日々を送ってきたが、そろそろ一段落できそうだ。
更には新年が近いせいもあり、事務所の面子の大半はここを出ていく。
それはアーロンも同様だった。
もともと煌都がホームグラウンドであるのだから、用が済めば帰るのが当たり前だろう。
「……そっちから掴んできたくせによ」
互いの想いを交わらせてから日も浅いのに、どうやら向こうは未練の欠片もないらしい。
それが面白くなくて、正直なところ少しだけ寂しい。
ヴァンは愚痴を零しながら、勢いよく短冊を指で弾いた。
──ちりん、と侘しい音が一つ。
別に二度と会えなくなるわけじゃない。
通信でやり取りはできるし、往き来するにしても苦になる距離ではない。
それでも一抹の寂しさを覚えてしまったことに、ヴァンは自分自身を嘲笑した。
今までは持ち得なかった色めいた感情に毒されている。
「……らしくねぇな」
目の前で揺れる風鈴が、ひどく愛おしいものに思えてきてしまう。
そんなガラス細工に吸い寄せられたのか、透き通った曲面にそっと唇を寄せた。
近頃は夜遊びの程度も控えめだ。
なんだかんだでアシェンやツァオに使われているせいで、夜通し騒ぐ暇もなかった。
不本意ではあるが、煌都に関わることでもあるので手を貸してやっている状況だ。
旧市街へ戻ってきたアーロンは、まだ営業中であるモンマルトの前を通り、慣れた様子で階段を上り始めた。
三階の自室へは直行せず、事務所のドアを開けて中へと入る。
彼はヴァンを訪ね、明日の予定を大まかにでも確認しておこうと考えていた。
今は仲間たちが各々で動いているとはいえ、それぞれの所在は把握しておきたいところだ。
薄暗い部屋の中を見回し、奥まった位置にあるヴァンの部屋へ足を向ける。
ドアの隙間からは明かりが漏れていて、中からは確かに人の気配がした。
しかし、ノックをしてみたが全く応答がない。
「おいっ、ヴァン!」
うたた寝をしている可能性も考え、今度は声を張り上げてみる。
それでも中からは物音一つしない。
「……寝落ちしてやがんのか?」
アーロンは訝しげに顔を歪めたが、相手が熟睡しているのであれば無理強いをするつもりはなかった。
もともと緊急性のある用事ではなく、本音を言ってしまえばただの口実だ。
ようやくヴァンを手に入れたが、互いに忙しいせいもあり、ここ数日はろくに会話をしていない。
「なら、仕方ねぇ」
彼は不承不承ながら訪問を諦め、踵を返そうとした。
と、その瞬間。
ドアの向こうから鈴を転がすような音が聞こえてきた。
およそこの部屋には不似合いな響きに、アーロンは息を呑む。
意外な聴覚への刺激は、一瞬にしてあの時の思い出を呼び覚ました。
この奥で何が鳴ったのか、もちろん彼は知っている。
それを無視できるはずがなく、手も足も記憶と連動して動いた。
「──入るぞ」
アーロンは一言の断りを入れた後で、勢いよくドアを開け放った。
柔らかな室内灯の下、部屋の主がベッドに寄りかかりながら床に座っていた。
持ち上げた風鈴に口づけている横顔は、やたらと色香が漂い煽情的に映る。
腕の側で揺れ動く短冊は、その色だけで明らかな存在感を誇示していた。
一時、周囲の全てが止まってしまったような感覚に陥った。
無意識に唾を飲み込んだ音で、ようやく我に返る。
入り口で止まっていた足が一歩を踏み込み、後ろ手で閉めたドアの鍵をひっそりと施錠した。
ヴァンは自分の世界に入り込んでいるのか、まるで反応を示してこない。
「なに耽ってやがる。そんなに俺が恋しいかよ?」
からかい混じりの言葉を口にした拍子で、口角がつり上がるのを抑えきれなくなった。
「……っ!?」
そこで、ようやくヴァンは訪問者の存在に気が付いた。
「なっ……な、なんでいるんだよ!?」
飛び跳ねる勢いで驚き、その振動で手元の風鈴が激しく音を立てる。
口をぱくぱくとさせるが次の言葉が出てこない。額には嫌な汗が滲んだ。
「一応ノックはしたし、声もかけたぜ?返事がねぇから、寝落ちてんのかと思ったけどな」
「そう思ったんなら、入ってくんじゃねぇ!」
アーロンの説明を受け、ようやく発した声は真っ当な抗議の叫びだ。
悪びれる様子などない相手に、羞恥と憤りが混じり合う。
「なら、鍵でもかけとけよ。一人でそれに浸りたいならな」
しかし、無遠慮な言い草で責任転換をされ、思わず言葉に詰まった。
「……ぐっ、クソガキめ」
せめてもの反撃をと、アーロンを睨み付ける。
だが、そこでふと違和感を覚えた。
彼はヴァンが赤い短冊の風鈴を持っていることについて、驚く素振りを一切しなかった。
それどころか最初から知っているかのような口振りをしている。
モンマルトで見たユメの風鈴は確かに彼女のものだった。
だとしたら、二人のものが入れ替わっている認識で間違いはない。
そう考えれば、やはり仕掛けたのは。
疑心暗鬼になってきたヴァンは、躊躇したあげく風鈴をアーロンに向けて掲げた。
「これ……いつからだ?」
直接的な表現を避けたのは、さっき自分が否定したばかりだったからだ。
こいつがそんな面倒なことをする性格ではないと。
「あぁ、最初からだろ。アンタ気付いてなかったのかよ」
アーロンはわずかに瞠目したものの、揶揄する口調を崩さない。
ヴァンは困惑がさらに深まった。
「店のヤツが渡し間違えたじゃねぇか。箱に詰めてんの見てなかったのか?」
しかし、続けざまの言葉を受けて何度か目を瞬かせた。
店頭でのことを思い出してみたが、鮮明なのは受け取った瞬間だけで、それ以外はユメと喋っていたくらいだ。そこまでは見ていなかったのかもしれない。
「そうだったか?あんまり覚えてねぇ……っつーか、分かってたんならさっさと言いやがれ!」
自分の不注意が招いたこととはいえ、文句の一つも言いたくなったヴァンが怒鳴る。
「そりゃ、悪かったなぁ。すっかり忘れちまっててよ~」
アーロンはわざとらしく謝ってみせたが、まるで反省の色がなかった。
あの時は意図的に教えなかったのだが、その後にヴァンが気付くか否かについてはどうでも良かった。
指摘されれば元に戻しただろうし、それがなければ密かな優越感を胸中にしまい込むだけだ。
「……どっちにしろ、今更だろ?」
彼は両眼を三日月に歪め、これ見よがしで肩を竦める。
「戻してやってもいいが、そういうツラには見えねぇし」
ヴァンが座っている位置まではあと数歩、迷うことなく身体が動いた。
不服そうな彼の前で膝を折り、何か言い返そうとしている唇に軽くキスをする。
「なぁ、ヴァン。俺の代わりをするには随分と可愛すぎるブツだよな」
触れたのは一瞬だった。至近距離で囁きながら、恋人の手にある風鈴を鳴らす。
──ちりん、と弾む音が一つ。
「ば、馬鹿野郎!代わりでもなんでもねぇ!」
流れるような動作で先制さたヴァンは、遅まきながらようやくこの状況の危うさを認識した。
ベッドのサイドフレームに背を預けたままで、正面からはアーロンに迫られている。
「そもそも、てめぇは何しに来やがったんだ!?」
とにかくこの雰囲気から逃れたい。その一心で声を荒げた。
羞恥の元である風鈴から意識を反らしたいのか、掲げていた腕を下ろしてそれを手の中で覆い隠す。
「何って、あー、明日の……」
余裕がないツッコミはもっともで、アーロンはすっかり失念していた訪問の目的を思い出した。
だが、元々はヴァンの顔を見に行くための口実であり、今となってはどうでいいことだ。
「ま、いいか。大したことじゃねぇな」
「良いわけねぇだろうが!こっちが気になるんだよ」
あっさりと用件を放棄したのが不満だったらしく、ヴァンは思いきり食ってかかった。
彼の心中には思い至れず、自らにもまだ恋人としての自覚が薄い。
「知るかよ、てめぇのことなんて」
まさしく売り言葉に買い言葉でアーロンが切り返す。
素直とは程遠い彼のこと、この状況で本音を曝け出すような質ではなかった。
「お前っ……!?」
また、ヴァンの元に唇が落ちてきた。
はぐらかして主導権を握りたがるキスは、我が強くて少し荒っぽい。
頬に触れてくる手が顔を反らすことを許してくれなかった。
「なん、で……っ」
口内を侵食されて吐息まで奪われそうになる。
「自業自得だろ」
わずかな隙をついて上げた声すら、一刀で切り捨てられてしまった。
舌先が絡み合うたびに湿った音が響き、頭の中を甘い刺激が走る。
ヴァンはアーロンの断行に戸惑いながらも、自分が確かに満たされるのを感じていた。
寂しさを抱えた胸の凝りが劣情で溶かされていく。
空いている片手が無意識に宙を泳ぎ、求めるように恋人の背中へ回された。
「そんなわけ……ねぇ」
本心とは裏腹に強がった言葉がくぐもる。
黙れと言わんばかりに下唇をひと舐めされて、どうしようもなく肌が疼いた。
もう、片腕だけでは足りそうにない。
そう思ってしまった刹那、風鈴を囲っている手から力が抜けていく。
ヴァンは思い出の欠片が床へ転がり落ちていく様を、ぼんやりと横目で追いかけた。
夜も深まり始める部屋の中、幾度か赤い短冊を揺らして綺麗な風鈴を鳴らした。
けれど、次は──ない。
互いを欲して伸ばされた熱っぽい指先は、それだけで手一杯だ。
風雅な音色に浸る余裕など、二人の間にはどこにも存在しなかった。
2023.04.09
#黎畳む
黎・恋人設定
ED後から三週間(皆が帰郷するまで)の間の話。
【文字数:6800】
あまりにも衝撃的な出来事が続いたせいで、龍來での二日間が遠い過去のようだった。
小さいながらも澄んだ音色が聞こえれば、それに手を引かれて思い出す。
慰安と称した穏やかで温かみのある風景を。
夕方の賑わいも一段落し、モンマルトには落ち着いた雰囲気が漂っている。
ヴァンはカウンターに腰を掛け、一人で少しばかり遅い夕食を取っていた。
店内からは常連客の談笑が聞こえてくる。どうやら良い具合に酒が入っているようだ。
「軽く一杯くらいは付けといても良かったか」
それを羨ましげに眺めながら、すでに半分ほど食べ進めている皿に愚痴をこぼす。
「あら、何か飲む?それとも食後のデザートかしら?」
丁度レジの付近にいたポーレットが、微笑みながらカウンターの中へ入ってくる。
「あ~、そうしたいのは山々なんだが……今月は出費が激しくてよぉ」
店のマドンナから促されて一瞬ぐらついたが、ヴァンは渋い顔で首を横に振った。
「そうなの?大変ね」
「ちょいと車の方を弄っちまったもんでな」
彼は趣味のことになれば全力でお金を注ぎ込む節がある。それを知っているポーレットは、頬に片手を添えて眉尻を下げた。
「おい、不良店子!あいつらに給料は出してやってるんだろうな?」
そんな彼女の背後、厨房の奥からビクトルの厳しい声が飛んできた。
「そんなブラックじゃねぇよ。うちはホワイトだ、ホワイト!」
「ふふっ、お父さんったら」
飛び交う男たちのやり取りは毎度のことで、ポーレットは穏やかに笑むだけだ。
そこへ、小さな看板娘がとことことやって来た。
「ねーねー、ヴァン。お仕事大変なの?」
ユメはカウンターに座っている男に近づき、心配そうに見上げた。
「いや、事務所の方は問題ねぇが……俺の懐がピンチというか」
純粋な眼差しに対して及び腰なってしまったヴァンは、苦笑しつつもピンク色の頭を優しく撫でる。
「──ん?ユメ坊、なに持ってんだ?」
視線を下げると、小さな両手に包まれている正方形の小箱が目に留まった。
「これね、ヴァンたちと遊びに行った時の……」
ユメは箱の蓋を開けながら説明しようとするが、中に入っている物の名前がすぐに出てこない。
「おっ、龍來で一緒に作ったやつか。風鈴だな」
「うん、そう!風鈴!」
ヴァンが箱を覗き込んでから助け船を出すと、嬉しそうにオウム返しをしてきた。
「で、これがどうしたって?」
箱に入っている風鈴は、少々いびつながらもしっかりと体を成している。
舌から吊されている短冊の色は、ユメが選んだ可愛らしい薄桃色だ。
「ユメ、部屋に風鈴飾りたいな~って思って」
「おう、いいんじゃねーの」
「でも、お店のおじさんが『夏に飾ると涼しい気分になるよ』って言ってた気がしたから」
ユメの話に耳を傾けていたヴァンは、その声が次第に小さくなっていくの感じて席を立った。
「そういうことか。別に夏じゃなきゃダメってことはねぇよ」
彼女の憂いを察し、屈み込んで目線を合わせながら優しく言い聞かせる。
「ほんと!?」
「あぁ、好きに飾っとけ。けど、窓際の方が良いと思うぜ。音が鳴らねぇからな」
すぐさまパッと目を輝かせた姿に安堵し、ヴァンはもう一度彼女の頭に触れた。
もう子供には遅い時間になってきていた。
眠そうに目を擦り始めたユメを部屋に連れて行った後、ポーレットが感謝の言葉を口にする。
「ありがとう。あの子ったら、本当に旅行が楽しかったみたいで」
「それりゃ、良かったな。でもよ、なんで急にあんなこと言い出したんだ?」
あの旅行からはひと月ほどが経ってるので、不思議に思ったヴァンが尋ねる。
「昼間にリゼットさんと思い出話で盛り上がってたみたいなの」
すると、彼が完食した皿を片付けているポーレットが答えた。
「……そう言えば、手が空いたら店を手伝うようなこと言ってたな」
ヴァンは今朝の彼女との会話を反芻しつつ、ポケットの中から財布を取り出した。
今夜は酒もデザートも我慢し、早々と会計を済ませるためにレジへ向かう。
「龍來から戻ってきた後、色々なことがありすぎたもの。やっと楽しい思い出として話せるようになってきたのかもしれないわ」
手早い対応してくれるポーレットだったが、子を想う母親の心情が切々と滲み出る。
表立っては明るい笑顔を見せてくれていても、幼い子供の心は繊細だ。
「そうだな。ありすぎたせいで記憶が遠退いちまう」
ヴァンは受け取った釣り銭をじっと見つめ、まるで独り言のように呟いた。
夕食を終えた男の足は、真っ直ぐに事務所へ向かった。
人気のない仕事場をのんびりと横切って自分の部屋に入る。
「……風鈴か」
ドアを閉める音と小さな声が重なった。
ユメとのやり取りで感化されたのか、無性に気になってきてしまった。
すぐに照明のスイッチを入れ、脱いだ上着を大雑把にベッドへ放り投げる。
「確か……あの辺だったか?」
ヴァンは壁際のチェストに歩み寄り、引き出しを漁り始めた。
いくつか開け閉めを繰り返し、一番下の段でようやくお目当ての箱を発見する。
大きさと外装はユメのものと全く同じだ。
「あった、あった」
なんだか嬉しくなってしまった彼は、ベッドを背もたれにしながら床に座り込んだ。
鼻歌交じりで蓋を開けると、中には綺麗な形をした風鈴が入っていた。
龍來での記憶が一気に蘇ってきて、知らずの内に頬が緩んでいく。
風光明媚な町の中、皆でいくつかの体験型イベントを満喫した。
その度に同行者の顔触れは違っていたが、あの時はユメとアーロンだった。
「あいつ、すげぇドヤ顔してやがったなぁ」
日頃から何かとヴァンに対抗意識を燃やす青年は、風鈴作りについても例外ではなかった。
出来映えを披露する姿は、いかにも勝ち誇った様子だった。
その直後にユメが勇んで参戦してきたので、『誰が一番上手だったか』については有耶無耶になってしまった感がある。
二人揃って少女に勝ちを譲らなかったのは大人げないが、今となっては良い思い出だ。
「いや、やっぱ俺のが一番だろ」
しかし、今になって再び子供じみた感情がぶり返してくる。
ヴァンは小箱に収まっている風鈴の吊り紐を摘まみ、顔の前に持ち上げた。
──ちりん、と可愛らしい音が一つ。
外見の中で揺れた舌の真下、繋がれている短冊の鮮やかさに目を奪われる。
突如、ヴァンの表情が驚きで固まった。
「……あ、か?」
風鈴に吊す短冊の色は、複数の中から各自が好きなもの選んだ。
ヴァンは青でユメは桃色、アーロンは赤だったはずだ。
「なんでだ?」
完成した風鈴は店主が箱に詰めて、それぞれに手渡しをしてくれた。
その後も一カ所に纏めて置いた記憶はないので、取り違えた可能性は低い。
「まさか……あいつ、すり替えやがったか?」
あまり疑いたくはないが、咄嗟にそんな想像がチラついた。
だが、アーロンの性格を考えれば、そんな小細工をするとは思えない。
「いや、それはねぇな」
例えば、想い人が作ったものを持っていたいとか。
ましてや、まだ恋人関係ではなかったあの時点で。
ヴァンは忙しなく否定的な思考を巡らせながら、綺麗な球形を見つめた。
あの金彩色の楔が打ち込まれたのは、革命記念祭が終わってすぐの時だった。
伝える気などまるでなかった胸の内を、容赦なく引きずり出されて掴み取られた。
持て余し続けたこの好意に対し、アーロンは一切の逃げ道をも与えてくれない。
その狂おしいくらいの強行さは潔くもあり、恋愛には後ろ向きなヴァンを陥落させるには十分すぎた。
「好きだ」なんて陳腐な台詞を吐くほど、二人は可愛い性格をしていない。
牙を立てるようなキスに、噛みつき返して応えるだけで良かった。
あれからまだ二週間ほどしか経っていない。
視界の中で揺れる赤い短冊は、否応なく彼の姿を連想させた。
「そう言えば、あいつも帰るんだっけな」
アルマータ関連の後始末で多忙な日々を送ってきたが、そろそろ一段落できそうだ。
更には新年が近いせいもあり、事務所の面子の大半はここを出ていく。
それはアーロンも同様だった。
もともと煌都がホームグラウンドであるのだから、用が済めば帰るのが当たり前だろう。
「……そっちから掴んできたくせによ」
互いの想いを交わらせてから日も浅いのに、どうやら向こうは未練の欠片もないらしい。
それが面白くなくて、正直なところ少しだけ寂しい。
ヴァンは愚痴を零しながら、勢いよく短冊を指で弾いた。
──ちりん、と侘しい音が一つ。
別に二度と会えなくなるわけじゃない。
通信でやり取りはできるし、往き来するにしても苦になる距離ではない。
それでも一抹の寂しさを覚えてしまったことに、ヴァンは自分自身を嘲笑した。
今までは持ち得なかった色めいた感情に毒されている。
「……らしくねぇな」
目の前で揺れる風鈴が、ひどく愛おしいものに思えてきてしまう。
そんなガラス細工に吸い寄せられたのか、透き通った曲面にそっと唇を寄せた。
近頃は夜遊びの程度も控えめだ。
なんだかんだでアシェンやツァオに使われているせいで、夜通し騒ぐ暇もなかった。
不本意ではあるが、煌都に関わることでもあるので手を貸してやっている状況だ。
旧市街へ戻ってきたアーロンは、まだ営業中であるモンマルトの前を通り、慣れた様子で階段を上り始めた。
三階の自室へは直行せず、事務所のドアを開けて中へと入る。
彼はヴァンを訪ね、明日の予定を大まかにでも確認しておこうと考えていた。
今は仲間たちが各々で動いているとはいえ、それぞれの所在は把握しておきたいところだ。
薄暗い部屋の中を見回し、奥まった位置にあるヴァンの部屋へ足を向ける。
ドアの隙間からは明かりが漏れていて、中からは確かに人の気配がした。
しかし、ノックをしてみたが全く応答がない。
「おいっ、ヴァン!」
うたた寝をしている可能性も考え、今度は声を張り上げてみる。
それでも中からは物音一つしない。
「……寝落ちしてやがんのか?」
アーロンは訝しげに顔を歪めたが、相手が熟睡しているのであれば無理強いをするつもりはなかった。
もともと緊急性のある用事ではなく、本音を言ってしまえばただの口実だ。
ようやくヴァンを手に入れたが、互いに忙しいせいもあり、ここ数日はろくに会話をしていない。
「なら、仕方ねぇ」
彼は不承不承ながら訪問を諦め、踵を返そうとした。
と、その瞬間。
ドアの向こうから鈴を転がすような音が聞こえてきた。
およそこの部屋には不似合いな響きに、アーロンは息を呑む。
意外な聴覚への刺激は、一瞬にしてあの時の思い出を呼び覚ました。
この奥で何が鳴ったのか、もちろん彼は知っている。
それを無視できるはずがなく、手も足も記憶と連動して動いた。
「──入るぞ」
アーロンは一言の断りを入れた後で、勢いよくドアを開け放った。
柔らかな室内灯の下、部屋の主がベッドに寄りかかりながら床に座っていた。
持ち上げた風鈴に口づけている横顔は、やたらと色香が漂い煽情的に映る。
腕の側で揺れ動く短冊は、その色だけで明らかな存在感を誇示していた。
一時、周囲の全てが止まってしまったような感覚に陥った。
無意識に唾を飲み込んだ音で、ようやく我に返る。
入り口で止まっていた足が一歩を踏み込み、後ろ手で閉めたドアの鍵をひっそりと施錠した。
ヴァンは自分の世界に入り込んでいるのか、まるで反応を示してこない。
「なに耽ってやがる。そんなに俺が恋しいかよ?」
からかい混じりの言葉を口にした拍子で、口角がつり上がるのを抑えきれなくなった。
「……っ!?」
そこで、ようやくヴァンは訪問者の存在に気が付いた。
「なっ……な、なんでいるんだよ!?」
飛び跳ねる勢いで驚き、その振動で手元の風鈴が激しく音を立てる。
口をぱくぱくとさせるが次の言葉が出てこない。額には嫌な汗が滲んだ。
「一応ノックはしたし、声もかけたぜ?返事がねぇから、寝落ちてんのかと思ったけどな」
「そう思ったんなら、入ってくんじゃねぇ!」
アーロンの説明を受け、ようやく発した声は真っ当な抗議の叫びだ。
悪びれる様子などない相手に、羞恥と憤りが混じり合う。
「なら、鍵でもかけとけよ。一人でそれに浸りたいならな」
しかし、無遠慮な言い草で責任転換をされ、思わず言葉に詰まった。
「……ぐっ、クソガキめ」
せめてもの反撃をと、アーロンを睨み付ける。
だが、そこでふと違和感を覚えた。
彼はヴァンが赤い短冊の風鈴を持っていることについて、驚く素振りを一切しなかった。
それどころか最初から知っているかのような口振りをしている。
モンマルトで見たユメの風鈴は確かに彼女のものだった。
だとしたら、二人のものが入れ替わっている認識で間違いはない。
そう考えれば、やはり仕掛けたのは。
疑心暗鬼になってきたヴァンは、躊躇したあげく風鈴をアーロンに向けて掲げた。
「これ……いつからだ?」
直接的な表現を避けたのは、さっき自分が否定したばかりだったからだ。
こいつがそんな面倒なことをする性格ではないと。
「あぁ、最初からだろ。アンタ気付いてなかったのかよ」
アーロンはわずかに瞠目したものの、揶揄する口調を崩さない。
ヴァンは困惑がさらに深まった。
「店のヤツが渡し間違えたじゃねぇか。箱に詰めてんの見てなかったのか?」
しかし、続けざまの言葉を受けて何度か目を瞬かせた。
店頭でのことを思い出してみたが、鮮明なのは受け取った瞬間だけで、それ以外はユメと喋っていたくらいだ。そこまでは見ていなかったのかもしれない。
「そうだったか?あんまり覚えてねぇ……っつーか、分かってたんならさっさと言いやがれ!」
自分の不注意が招いたこととはいえ、文句の一つも言いたくなったヴァンが怒鳴る。
「そりゃ、悪かったなぁ。すっかり忘れちまっててよ~」
アーロンはわざとらしく謝ってみせたが、まるで反省の色がなかった。
あの時は意図的に教えなかったのだが、その後にヴァンが気付くか否かについてはどうでも良かった。
指摘されれば元に戻しただろうし、それがなければ密かな優越感を胸中にしまい込むだけだ。
「……どっちにしろ、今更だろ?」
彼は両眼を三日月に歪め、これ見よがしで肩を竦める。
「戻してやってもいいが、そういうツラには見えねぇし」
ヴァンが座っている位置まではあと数歩、迷うことなく身体が動いた。
不服そうな彼の前で膝を折り、何か言い返そうとしている唇に軽くキスをする。
「なぁ、ヴァン。俺の代わりをするには随分と可愛すぎるブツだよな」
触れたのは一瞬だった。至近距離で囁きながら、恋人の手にある風鈴を鳴らす。
──ちりん、と弾む音が一つ。
「ば、馬鹿野郎!代わりでもなんでもねぇ!」
流れるような動作で先制さたヴァンは、遅まきながらようやくこの状況の危うさを認識した。
ベッドのサイドフレームに背を預けたままで、正面からはアーロンに迫られている。
「そもそも、てめぇは何しに来やがったんだ!?」
とにかくこの雰囲気から逃れたい。その一心で声を荒げた。
羞恥の元である風鈴から意識を反らしたいのか、掲げていた腕を下ろしてそれを手の中で覆い隠す。
「何って、あー、明日の……」
余裕がないツッコミはもっともで、アーロンはすっかり失念していた訪問の目的を思い出した。
だが、元々はヴァンの顔を見に行くための口実であり、今となってはどうでいいことだ。
「ま、いいか。大したことじゃねぇな」
「良いわけねぇだろうが!こっちが気になるんだよ」
あっさりと用件を放棄したのが不満だったらしく、ヴァンは思いきり食ってかかった。
彼の心中には思い至れず、自らにもまだ恋人としての自覚が薄い。
「知るかよ、てめぇのことなんて」
まさしく売り言葉に買い言葉でアーロンが切り返す。
素直とは程遠い彼のこと、この状況で本音を曝け出すような質ではなかった。
「お前っ……!?」
また、ヴァンの元に唇が落ちてきた。
はぐらかして主導権を握りたがるキスは、我が強くて少し荒っぽい。
頬に触れてくる手が顔を反らすことを許してくれなかった。
「なん、で……っ」
口内を侵食されて吐息まで奪われそうになる。
「自業自得だろ」
わずかな隙をついて上げた声すら、一刀で切り捨てられてしまった。
舌先が絡み合うたびに湿った音が響き、頭の中を甘い刺激が走る。
ヴァンはアーロンの断行に戸惑いながらも、自分が確かに満たされるのを感じていた。
寂しさを抱えた胸の凝りが劣情で溶かされていく。
空いている片手が無意識に宙を泳ぎ、求めるように恋人の背中へ回された。
「そんなわけ……ねぇ」
本心とは裏腹に強がった言葉がくぐもる。
黙れと言わんばかりに下唇をひと舐めされて、どうしようもなく肌が疼いた。
もう、片腕だけでは足りそうにない。
そう思ってしまった刹那、風鈴を囲っている手から力が抜けていく。
ヴァンは思い出の欠片が床へ転がり落ちていく様を、ぼんやりと横目で追いかけた。
夜も深まり始める部屋の中、幾度か赤い短冊を揺らして綺麗な風鈴を鳴らした。
けれど、次は──ない。
互いを欲して伸ばされた熱っぽい指先は、それだけで手一杯だ。
風雅な音色に浸る余裕など、二人の間にはどこにも存在しなかった。
2023.04.09
#黎畳む
煌都ラングポートはカルバード共和国の主要都市の一つだ。
ひとたび駅に列車が到着すれば、ホームは乗降する人々で溢れかえって騒がしくなる。
その中をひときわ色鮮やかな赤髪の青年が歩いていた。
人の流れに任せて改札口を通り抜け、駅舎の外へ出る。
彼は慣れ親しんだ潮風の香りを胸いっぱいに吸い込むと、列車移動で凝り固まった身体を大きく伸ばした。
「なんか、すげぇ久しぶりな気がするぜ」
刺激的な遊び場には困らない首都での生活も悪くないが、やはり生まれ育ったこの街が一番だ。
第八ゲネシスの件が一段落し、差し迫った憂いがなくなったことで自然と心が軽くなる。
朱色を基調とした東方人街は特段変わりなく、帰ってきた青年を出迎えてくれた。
様々な店が軒を連ねる目抜き通りに入ると、すぐさま住民に声をかけられる。
「よぉ!麒麟児、帰ってきてたのか」
「おう、ついさっきな」
美味しそうな匂いにつられて店先を覗き込めば、主の老婦が柔和な顔を向けてくる。
「おや?お帰り、アーロン。元気にやってたみたいだねぇ」
「ばあさんも達者で何よりだぜ。しばらくはこっちにいるからよ、なんかあったら声かけてくれ」
更に道を進むと、今度は可愛らし少女が駆け寄ってきた。
「アーロンちゃん、おかえりなさ~い!」
「──うぉ!?突進してくんなって」
無邪気なタックルを真正面から受け止め、腰元にある頭をくしゃくしゃとかき混ぜる。
「えへへ、だって嬉しいんだもん。お母さんがね、新作の公演があるからもうすぐ帰ってくるよ~って言ってたの」
言葉通りの感情を宿した瞳が、少女の顔をより一層輝かせる。
「ねぇ、ねぇ、アーロンちゃんいつ出るの?明日?明後日?」
「ははっ、気が早ぇな~。初日まではあと二ヶ月くらいだぜ。それまでにいっぱい稽古しなきゃなんねぇからな」
「えー、そんなに先なの?」
子供の表情はコロコロ変わる。不満げに頬を膨らませた小さなファンに対し、アーロンは目線を合わせるようにしてしゃがみ込んだ。
「なに、あっという間だ。開演したら見に来いよ」
そして、明朗な笑顔を広げながらもう一度少女の頭に手を置いた。
彼は意図的に挨拶回りをしているつもりはなかったが、この辺りには顔馴染みも多く、つい会話が弾みがちになる。
華劇場に顔を出す前にどうしても寄りたい場所があるのだが、ついつい足の運びが鈍くなっていた。
ふと晴れ渡った空を仰いでみると、そろそろ太陽が真上に差し掛かり始める頃合いだった。
「──そろそろ行かねぇとな」
アーロンは降り注ぐ陽光に目を細め、ぼそりと呟いた。
海鳥たちの鳴き声が風に混じって微かに聞こえる。音はそれだけだった。
賑やかな街の風景とは異なり、今は亡き人々が眠るこの地には静謐な空気が漂っている。
海を見渡せる高台には整然と墓石が並び、しっかりと管理が行き届いていた。
アーロンはその中の一画で立ち止まった。周囲に他の人影はなく本当に静かだった。
「帰ったぜ。お袋」
短い挨拶をした後、墓地に向かうまでの道程で用意した花と線香を供える。
細い煙が立ち上り、地面に膝をついて黙祷をした身体に薫りが纏わり付いた。
彼は普段から足繁くここに通っているわけではなかった。
もちろん命日の墓参りは欠かさないが、それ以外は折に触れてはといった具合だ。
今日は数ヶ月ぶりの帰郷ということもあって訪れたが、それと共に大事な用件があった。
「……本意じゃねぇが、預かってきたもんがある」
しばらくして、アーロンは苦虫を噛み潰したような顔で墓前を見上げた。
バッグから極々薄い冊子を取り出し、ゆっくりとそれを開く。
中には押し花が一枚だけ。白い百合の花が綺麗な状態で保存されていた。
それは学藝祭の日にイーディスで再会した父から預かった物だった。
煌都において弔いに最良だと言われる清翠の百合とは異なるが、よく似た形状をしている。
「あの野郎……生花じゃ保たねぇだろうが。受け取っちまったオレもオレだけどよ」
当時は花持ちのことまでは考えが至らなかったので、後になってどうしたものかと頭を悩ませる羽目になってしまった。
すぐに煌都へ帰れる状況ではなかったし、かといって誰かに代行してもらうのは違う気がした。
萎れてしまうであろう花を自分が調達し直す案もあったが、それは即座に打ち消した。
この手向けは、曲がりなりにも彼が持つ亡き妻への愛情の一部なのだろう。
それが解らなほど子供ではなかった。
「まぁ、嬉しいかどうかは知らねぇけどな」
アーロンは薄い紙に覆われた花を取り出し、丁寧に墓石の前へ置いた。
この場所は高台に位置しているものの、一年を通じて穏やかな風が流れている。
生花の時よりも軽量だが、飛ばされる心配はないだろう。
大切な預かり物を渡し終えると、彼はゆっくりと立ち上がって母の面影を見つめた。
「たぶん、嬉しいんだろう……な」
親子三人で暮らしていた頃の記憶に微笑ましい情景はない。
飲んだくれのあの男が家に寄りつくのは、金が尽きた時だけだ。
当然、仲睦まじい夫婦の姿など見たことはなかった。
だから、ずっと疑問だった。彼女が文句も言わず夫に尽くしていたことが。
「なんで、あんなろくでなしが好きだったんだよ?」
問いかけの先には物言わぬ墓標があるだけで、返答などは期待していなかった。
突如、ふわりと優しい風が頬を撫でるように揺蕩う。
『あなたはどうして好きなの?』
まるで問い返されているような幻聴。
瞠目したアーロンは、無意識のうちに一歩後退ってしまった。
心の奥に住み着いている人影を覗かれている気分が拭えない。
「あいつは……」
足元に視線を落として意中の人を思い浮かべてみる。
「気持ち悪ぃくらいに甘党だし、趣味のことになるとマジでうぜぇし」
青いコートを着た男が片手で頭を掻きながら苦笑している。
「何かにつけて保護者面してくるし。オレをチビ共と一緒くたにしやがって」
夜明け前の空色を宿した瞳が、揶揄い混じりの表情を向けてきた。
考えれば考えるほど、愚痴や文句ばかりが出てきてしまう。
気恥ずかしくて素直になれないだとか、そんな感情からではなかった。
彼に惹かれている部分はいくらでもあるはずなのに、陳腐で拙い語句ばかりが頭の中で浮かんでは消えていく。
アーロンは『どうして?』の答えを明確な言語として表すことができなかった。
ついには唇を引き結ぶ。
衣服の胸元を握りしめながら両目を閉じると、再び小風が彼の周囲を舞い踊った。
今度は優しいというよりも、少しだけ元気づけるような明るい面持ちで。
「あぁ、理屈じゃねぇのか……こういうのって」
そこで彼は気が付いた。
この恋情はいくら言葉を並べ立てたとしても説明しきれない。
頭でっかちな思考よりも、まずは先に心が動いたのだ。
少しずつ積み重なっていく縁と比例するように、胸の奥に灯った焔は大きく育っていく。
言葉にできないほどの狂おしい想いというものは確かに存在していた。
「なぁ、お袋も同じだったのか?」
アーロンは俯いていた顔を上げて真っ直ぐに墓標を見据えた。
表面に広がる沈んだ色は綺麗に削ぎ落とされ、どこかさっぱりとした面持ちで口元を緩ませる。
彼がいくら実父を嫌悪したとしても、母にとってはずっと愛おしい男のままだったのかもしれない。
己が誰かを求めるようになった今、ようやくそれが理解できた。
ふと空を見上げてみると、頭上を一羽の白い海鳥が悠々と滑空しているところだった。
小さな鳴き声は鈴の音のようで、まるで彼女が返事をしてくれているような気がした。
墓地での用事を終えたアーロンは、再び東方人街に戻ってきた。
馴染みの店で手短に昼食を済ませて華劇場へと向かう。
公演に向けて本格的に動き出すのは明日以降なので、今日は帰郷の報告も兼ねて軽く顔を出しに行くつもりだった。
ザイファを取り出して時計を確認すると、丁度午後の定期公演が始まったばかりの時間帯だ。
「支配人くらいには挨拶しとくか」
彼はそう呟きながら手慣れた動きでカバーを閉じた。
もう随分と使い込んでいる端末なので、何の目新しさもないはずなのだが──今日は違っていた。
昼下がりの陽光を受け、蒼い意匠がより鮮やかに際立つ。
それに視線を寄せている青年は、知らずの内に破顔していた。
「おーい、アーロン!」
すると、前方から手を振って駆け寄ってくる友人の姿があった。
「っ!?なんだ、シドかよ。他の奴らはいねぇのか?」
心ここにあらずだったのか、アーロンは一瞬だけ肩を揺らしてから即座に表情を引き締めた。
「ははっ、久しぶりだってのにつれねぇな!」
シドは嬉しそうに笑いながら、数ヶ月ぶりに会った友人の背中を叩いた。
「今日は夕方あたりに集まるぜ。お前も……おっ?」
その流れで、ふと彼が持っているザイファに目を留めた。
「カバー替えたのか?凄げぇカッコイイな」
「……あぁ、少し前にイーディスで見つけた」
アーロンは咄嗟に嘘を吐いてしまった。
このザイファのカバーはヴァンに貰った物だ。
裏解決事務所の面々を束ねる所長は、やたらと皆に物を贈りたがる。
そこに他意はなく、街を歩いていたら良さそうな物を見つけた、くらいの感覚なのだろう。
彼の品物選びは的確で、一様に皆を喜ばせている。
このカバーの時も同じだった。
お前が好きそうだからと、何の前触れもなく手渡してきた。
蒼を基調にして施された先鋭的なデザインは、いかにも若者が好みそうな代物だった。
実際はアーロンも一目見てすぐに気に入ってしまったのだが、そこは素直とは言い難い性分だ。
「しょうがねぇから、貰っておいてやるよ」
仏頂面をしながら、引ったくるように受け取るしかなかった。
半年くらい前の出来事を反芻してみると、また表情筋が緩みそうになる。
「向こうじゃ気分次第で替えてる」
これも嘘だ。
イーディスで過ごしている間、この蒼いカバーは一度も使用していない。
それどころか、自室のキャビネットに押し込んだままで誰にも見せていなかった。
本音を言えばすぐさま付け替えたいところだったが、捻くれた受け取り方をした手前、いくらなんでも恥ずかしすぎる。彼特有の矜持がそれを思い止まらせた。
そんなわけで、次に煌都へ帰る時まではとお預けにしておいたのだ。
ここなら贈り主のヴァンは居ないし、同僚たちに揶揄される心配もなかった。
「ま、しばらくはこいつと過ごすつもりだけどな」
苦笑いで新品の傷一つないカバーを指で弾く。
そして、そそくさとザイファを持っている手ごとポケットに突っ込んだ。
気の置けない友人を前にして、いつものように表裏なく立ち回れない自分が滑稽だった。
ヴァンのことになると、どうしても調子が狂ってしまう。
隠し通すつもりはないが、率先して公言したいかと問われれば微妙なところだ。
そもそも、まだ──恋人じゃない。何も手に入れてはいない。
無意識に墓参りの余韻を引きずっているのか、複雑な胸中が入り交じる。
それを宥めるように、ひっそりと手の中の蒼を握りしめた。
離れていても彼の存在を感じられるような気がして、指先が仄かに温かかった。
※ ※ ※
新作の初演まではあと一ヶ月といったところだ。
煌都へ帰ってきてからは瞬く間に時間が過ぎ去っていく。
アーロンは稽古や打ち合わせを抱え、華劇場と自宅を行き来する日々を送っていた。
しかし、そこは彼のこと。夜にはしっかりと遊び歩き、昼間は街の困りごとなどに手を貸していた。
尤も、普段と比べればかなり控えめにはしているのだが。
稽古が終わり解散の声がかかると、あたりはすぐさま和気あいあいとした雰囲気になった。
帰りの挨拶やら、ちょっとした雑談やら。稽古中は張り詰めていた空気が一変する。
アーロンも気さくにそれらの輪に入っていたが、身支度を整える素振りを見せなかった。
「お前、まだやるのか?」
それを気に留めた共演者の男が声をかける。
「あぁ、ちょいと気になる部分があってよ」
今回の舞台で主役を張る青年は、演舞用の双剣を軽く持ち上げた。
「なんか気合い入ってるわね」
今度は演出担当の女が興味深げに覗き込んでくる。
「ん~、まぁ、女形じゃねぇのって久しぶりだしな」
それには快活な笑顔で応じる。
彼は基本的に女形を主とする役者だが、だからと言ってそれ一辺倒というわけではなかった。
気分次第では男性の姿で舞うこともある。ただ、大抵は短時間の軽めな演目なので、今回のように大がかりな公演を打つのは珍しいことだった。
そうなれば自然と気合いが入ってしまうのも頷ける。彼の熱意は周囲の誰が見ても明らかだった。
一人、静かになった稽古場で足音が跳ね上がった。
二本の剣が流れるように綺麗な弧を描く。
身体を回旋させてから片方の刃で空を撫で斬る。続けてもう一振り。
そこで動きが止まった。
一度深呼吸をして、再び最初から同じリズムを刻み始める。
しかし、また同じ場所で手足を止めた。それを何度も繰り返す。
「……違う。こうじゃねぇ」
アーロンは大きく頭を振って眉間にしわを寄せた。
振り付け自体は完璧に覚えているのだが、どうにもしっくりこない。
何かが足りない。もっと、こう内面から溢れ出てくるような何かが。
荒々しげに踵を打ち鳴らし、壁の一部に設置されている大きな鏡を見つめる。
そこには焦燥に駆られた己の立ち姿があった。
実のところ、この一幕に関しては数日前から行き詰まっていた。
稽古をすればするほど雁字搦めになっていくような感覚がして、そこから脱するきっかけが掴めずにいる。
「ああっ、くそ!」
誰もいない稽古場の壁に怒声が反射した。
と、その時。ドアの向こうからノックの音がした。
「アーロン?入るわよ」
一応の断りと共に姿を現したのは、彼の幼馴染みであるアシェンだった。
「なんの用だ?」
「ちょっと近くまで来たから寄ってみただけ……なんだけど。外まで聞こえてたわよ」
「うるせぇな」
家族のような存在の彼女に対しては、不機嫌さを隠そうともしない。
鏡に映る自分と対峙したまま、声だけを吐き出す。
アシェンはそんな彼の様子に肩を竦めてみせた。
「あんたねぇ……そんなに苛ついてるなら、どこかで気分転換でもしてきなさいよ」
稽古場に足を踏み入れる気はないのか、ドアにもたれ掛かりながら助言を送る。
彼女は演舞のあれこれについては素人だが、幼い頃からアーロンが稽古をする姿を眺めてきた。
だから、彼がどんな精神状態なのかを推し量ることは簡単だった。
「たまには稽古を離れて違う空気でも吸ってみれば?何か別のものが見えてくるかもしれないし」
アーロンは無言で鏡の中だけを見つめている。
「あんまり根詰めるんじゃないわよ」
幼馴染みの人となりを熟知している彼女にしてみれば、返事の有無などは些細なことだった。
雑音のない部屋なのだから、声は確かに届いたはずだ。
今はそれだけで良かった。
あんなことを言われてしまっては、双剣を握る手からも力が抜けていく。
稽古を続ける気を失ったアーロンは、華劇場を出てから真っ直ぐに自宅へと帰った。
その足ですぐさまベッドに向かい、勢いよく仰向けに身体を投げ出した。
安物のスプリングが耳障りな音を立てて軋む。
窓の外に目だけを向けると、空は茜色に染まりつつあった。
「気分転換って言ってもなぁ」
今度は薄暗い天井に視線を移動させて独言する。
このくらいの時間帯だったら、街へ繰り出して夜まで遊び歩くのが常だった。
気が合う仲間たちと過ごせば、それだけでストレスのいくらかは解消される。
けれど、それは彼にとって当たり前の日常であり、閉塞した心の空気を入れ換えるほどの力はないだろう。
「なんか、こう……スカッとするような」
所在なげに放っていた手がポケットを弄ってザイファに触れた。
「──あっ」
そこで彼は妙案を思いついた。
先行するアーロンの身体が嬉々として飛び跳ねた。
双剣が銀色の軌跡を描く度に、鮮やかな赤い髪が舞い踊る。
「こら!待ちやがれ!!」
それを追いかけているヴァンが、制止の声を張り上げた。
足の速さを比べてしまえば、分が悪くなるのは仕方がない。
このエリアに入った途端、爛々と目を輝かせて抜剣をしていたことを思えば、止まってくれるはずもないのだが。
小型の魔獣たちが群がる一画へ突進し、華麗な剣捌きで危なげなく立ち回る。
彼が周囲を一掃する頃になってようやくヴァンが追いつくのだが、合流する気は全くなさそうだった。
「おせーぞ!オッサン!」
などと楽しげに言いながら、アーロンはまた走り出してしまう。
傍から見れば、追いかけっこをして遊んでいるような二人組だ。
「あの野郎~っ」
ヴァンは苛立ちを覚えて片手で頭を掻きむしった。
幸い、ここは庭城の中でも下層の領域だ。
彼らの練度なら単独でも問題はないが、かといって一方的に置いて行かれるのは面白くない。
ましてや、あからさまに煽られているのだから、対抗心を燃やしたくなるというものだ。
事務所の中で唯一の成人男性であるアーロンに対しては、ついムキになってしまう時がある。
子供じみた感情だと分かっているが、一度火が点くとなかなか止められなかった。
心の片隅では男同士のじゃれ合いを楽しんでいる節もある。
ヴァンは一度軽く首を回し、撃剣を担いで再び彼を追いかけ始めた。
このエリアの終点までにはあのガキを捕まえてやる、と一人で息巻きながら。
アーロンは、目の前に立ち塞がる魔獣にしか興味がなかったようだ。
彼の食べ残したちは追駆してくるヴァンを目ざとく見つけ、我先にと敵意を向けてくる。
それらを難なく打ちのめしながら、軽やかに動き回る背中へ照準を合わせた。
最初の頃に比べれば、二人の距離はだいぶ縮まってきている。このままいけば確実に手が届くと判断したのか、ヴァンの表情筋が微かに緩んだ。
「ふぅ……舞台のことで溜め込んじまったって感じかねぇ?」
そして、事の発端を思い出してみる。
アーロンは一ヶ月ほど前から煌都に帰っていた。
第八ゲネシスの一件も落ち着き、首都での仕事も通常運転に戻り始めた頃、華劇場から打診があったのだ。彼が主演の新作を公演することになり、二つ返事で受けたらしい。
時々思い立ったように舞台への強行軍をすることもあるが、今回はしっかりとスケジュールを組んでいるようだった。
「あいつ、そういう所は真摯なんだよなぁ……役者魂っていうか」
舞台の作り込みに妥協はしないということなのだろう。
「少しくらいはこっちにも回して欲しいもんだぜ」
ヴァンが戯けながら一人でぼやく。
助手三号の業務態度に大きな不満はないが、何となくそんな気分だ。
と、そんな矢先。
「──おっ!?」
今は演者としての顔は形を潜め、楽しげに剣戟を繰り出すアーロンの足が止まった。
二体の大型魔獣と対峙している彼を見て、ヴァンがニヤリと笑う。
あれは流石に瞬殺とまではいかないだろう。
低い咆吼を皮切りにした戦いへ、彼は勢いよく突っ込んでいった。
鋭利で大きな爪が容赦なく振り下ろされる。
それを危なげなく躱すと、今度は真横からの大振りな追撃。
身を翻して距離を取った直後、両足で地を蹴って高く跳躍した。
「沈め!!」
吐き出した息と共に、焔を纏った斬撃を魔獣の頭部に叩き付ける。
巨体が崩れる音を聞きながら着地を決めると、即座に無傷のもう一体が襲いかかってきた。
一瞬の隙を突かれた形だが、アーロンにしてみれば完全に予想の範囲内。
──のはずだった。
迫り来る爪牙を剣で受け流した刹那、
「おい!一体くらいは譲れっつーの!!」
耳馴染みのある声がいくらかの弾みを伴って、交戦の場に割り込んできた。
「あっ、てめぇ!?」
アーロンが反撃するよりも早く、ヴァンが肩に担いでいた撃剣を横に構えた。
重心を下肢に落とし、渾身の力を込めて腕を振り切る。
薙ぎ払うような打撃は青白い弧を描き、魔獣の胴体へ強烈な一発が打ち込まれた。
「これでしまいだ!」
ヴァンは大きくよろめいた体躯を一瞥し、返す刀でとどめを刺した。
周囲に魔獣たちの気配がないことを確認し、アーロンが双剣を鞘に収める。
前方にはこのエリアの終点となる転送装置が視認できた。
「チッ、余計なことしやがって」
「追いつかれちまったのが面白くねぇのか?」
仏頂面でそっぽを向いている彼とは対照的に、ヴァンは目的達成とばかりに得意げな顔をしている。
俊足の背中を追いかけていたので、ちょっとだけ息が上がっているのはご愛敬だ。
「そっちこそ、ギリギリだったくせにドヤ顔かましてんじゃねぇよ」
それを笑い飛ばしたアーロンが、相手の方へ向き直る。
「──ん?」
しかし、勝ち気な瞳が訝しげな色を浮かべて細くなった。
彼はヴァンの顔をマジマジと見ながら、遠慮なく距離を詰める。
「な、なんだよ?」
あと半歩で二人の間合いがゼロになる。そこまで近寄られたヴァンは、困惑して後退ろうとした。
だが、すぐにそれを制する声が発せられる。
「ダセぇな。このエリアなら無傷で来いよ」
言い終える前に片手で上着の襟元を掴まれる。自然と前屈みの態勢になってしまった。
互いの息がかかるくらいに顔が接近し、その緊張感からか全身が強張る。
「……傷?」
この道中で自分が負傷をしたという認識はなく、疑わしげに首を傾げてみれば、アーロンからは無言の返答があった。
突として頬に柔らかく湿った肉の感触。生温い水分が皮膚の表面に溶け、ピリッとした刺激が走る。
そこでようやく、自分の顔に切り傷があることに気が付いた。
同時に、目の前の青年に何をされているのかも。
まるで傷の具合を確かめるように、ゆっくりと舌先が這い回る。
「お、お前っ……」
痛みのせいか、それとも羞恥のせいか、ヴァンは強く両目を瞑った。
遠目からでも頬に走る薄い赤色が確認できた。
よくよく近寄ってみれば、滲んでいる程度のかすり傷だ。
すると、軽薄にも揶揄する気持ちが先に立つ。
不意に舌で舐め上げると、口内に微かな血の味が広がった。
「身体鈍ってんじゃねぇの?」
アーロンは意地悪げに笑みながら、上着を掴んでいる手を離した。
「こんなの怪我のうちに入んねぇだろうが」
ヴァンはその隙を逃さず、今度こそ一歩後ろへ距離を取る。
嬲られた傷口が熱を帯びている気がして、無意識に手の平を頬へ押し付けた。
「……ったくよぉ。犬猫じゃあるまいし」
どうにも居たたまれない気分に陥ってしまい、ぶつぶつと愚痴りながら身体を背ける。
「大体、てめぇは自由奔放すぎるんだよ。急に連絡入れてきたかと思えば、『気分転換に付き合え』だとか」
半眼じみた視線だけを横に流してみたが、アーロンの方はどこ吹く風のようだ。
「まぁ、取りあえずは良い息抜きになったぜ、ヴァン」
その上、堂々と後腐れがない応答されてしまえば、ぼやき混じりの胸中を飲み込むしかなかった。
「今度の公演、まだまだ練り上げてぇからな。正直ちょいと行き詰まってたんだが、これで頭が切り替えられそうだ」
「お、おう。そうかよ」
やはり、役者然としている時のアーロンは何事にも率直だった。
共に庭城を走ってくれた男への感謝を誤魔化そうとはしない。
いつも『素直じゃないクソガキ』と過ごしているヴァンにとっては、それがくすぐったくて照れ臭かった。
「あ~、その……お役に立てたなら、何よりだぜ」
所なさげに身体を揺らした彼は、視線を彷徨かせながら律儀にそう言った。
楽しかった一時は幻のごとく、あっという間に別れの刻がやってくる。
二人は雑談を交えながら互いの近況を確認し合っていた。
「ま、せいぜい励めよな、所長さん。オレがいない間に廃業とか、さすがに笑えねぇ」
「あるわけねぇーだろうが!ったく、口の減らねぇガキだぜ」
いつものように憎まれ口を叩き合いながら視線を絡ませる。
このひと月の間は全くやり取りをしていなかったので、自然と声音が弾んでいた。
「──っと、もうこんな時間か。そろそろお開きだな」
だが、ふとザイファの時計に目をやったヴァンが残念そうに解散を口にする。
「そんじゃ……」
アーロンはログアウトの操作をするべく端末のボタンを押そうとしたが、急にピタリと動きを止めた。
「……なぁ、ヴァン」
そのまま言葉を続けようとしたものの、逡巡した末に唇を引き結ぶ。
「どうした?」
怪訝に思ったヴァンが問いかけるが、彼は小さく息を吐いただけだった。
「なんでもねぇ。じゃぁな」
そして、ぶっきらぼうな別れの挨拶と共に今度こそ仮想空間からの離脱を実行した。
「おう、またな」
ヴァンはその態度に一瞬引っかかりを覚えたものの、当たり障りなく青年を見送る。
と、その時。
淡い光を帯びて薄くなり始めたアーロンの手元、ザイファの表面が外光を反射して蒼く煌めいた。
「あれ……は」
瞬けば見逃してしまいそうだったそれは、ヴァンにとって見覚えのある意匠。
完全に人影が消えて一人残された彼は、呆然としてその場に立ち尽くした。
あれを受け取ってくれた時の態度が自然と頭に浮かび、小さな笑いが込み上げてくる。
「もしかして、気に入ってくれてんのか?素直じゃねぇな」
最初から他意などはなかった。自分が贈りたいと思ったからそうしただけで、後はどう扱ってくれても構わない。
だからなのか、一瞬だけ見えた蒼が余計に嬉しかった。
今いる場所が仮想現実であることを失念し、ログアウトという言葉が吹き飛んでしまうくらいには。
一気に現実へと引き戻される感覚。
いつの間にか部屋の中は暗色に支配されていた。
窓に近づいて何気なく外を覗うと、すっかり夜の街並みに様変わりしている。
「……もう何周か連れ回したかったな」
名残惜しげにザイファの画面を見つめる。
彼が気分転換の場所に選んだのは、仮想空間である庭城だった。
あそこならば何の遠慮もいらない。舞うための剣技ではなく、相手を斬り伏せるための実戦的な立ち回りができる。
行き詰まりを打破するためのきっかけが掴めるかもしれないと思った。
「やっぱ、あいつじゃねぇと気分が上がらねぇ」
武器を振るうだけなら一人でも良かったはずなのに、妙案を閃いた矢先にヴァンの姿が思い浮かんだ。本能のままに誘ったのは大正解だったらしい。
まるで彼の残滓を啜るかのように親指をぺろりと舐めてみる。
「けど……あれじゃ、足りねぇんだよ」
あの空間は何もかもがリアルで、嫌になるくらいの余韻が残る。
実物と見紛うばかりの虚像は肌の感触も血の味も温かく、彼の劣情を呼び覚ますには十分だった。
どうせ触れるなら、本物の肉体の方が良いに決まっている。
──会いたい。
別れの間際に強くそう思った。
だったら、手っ取り早く今度の舞台に招待すればいい。
頭の中では流れるように手はずが整えられていた。本当に頭の中だけでは。
だが、アーロンは肝心な所で一歩を踏み出せなかった。
普段からの言動が足枷になったのか、それとも臆病風に吹かれたのか。
「……情けねぇ」
どちらにせよ、自分が不甲斐ないことには変わりなかった。
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