耳元で囁く言葉
黎ED後・恋人設定
珍しいアーロンのデレに驚きつつも内心では嬉しくて堪らないヴァンの話。
2022年リクエスト⑤
【文字数:7900】
携帯端末の画面越しから、幼馴染みが半眼じみた視線を向けてくる。
「あんたねぇ……夜遊びも程々にしなさいよ?煌都とは違うんだから」
「あ~っ、うるせぇなぁ」
アーロンは鬱陶しげに顔を歪め、かったるそうに頭を振った。
アシェンとはそう頻繁にやり取りをしているわけではないが、口を開けばすぐに小言が飛んでくる。
それは彼女が身内として心配してくれているからだが、つい耳を塞ぎたくなるのが正直なところだ。はっきり言って面倒くさい。
今回の通信はアシェンからのものだった。
彼女は挨拶もそこそこに、一週間後にイーディスを訪れると連絡を入れてきた。
特に詮索するつもりはなかったが、その雰囲気から黒月としての来訪に違いない。
「仕事、サボったりするんじゃないわよ。ヴァンさんに雇われてる身なんだから」
「こっちは人手が足りねぇから手伝ってやってるだけだ」
このまま延々と小言に苛まれそうな気がしたアーロンは、無理矢理にでも会話を打ち切ってしまおうと、端末のボタンに指をかけた。
しかし、
「──それはそうと。あんた、ヴァンさんと仲良くやってるの?」
急に話の矛先を変えられ、ぴたりと手の動きが止まる。
アシェンが何を言いたいのかはすぐに分かった。
「おまえには関係ねぇだろうが」
やはり、面倒くさい。さっさと通信を切らなかったことをすぐに後悔した。
アーロンは苦虫を噛みつぶしたような顔で、幼馴染みを睨み付ける。
ヴァンとの恋人関係は良好だと彼自身は思っている。
たまに小さな衝突が起きたりもするが、それを後々まで引きずるようなことはない。
もちろん、大きな仲違いをした記憶もなかった。
「余計な口を挟むんじゃねぇ」
その反応をどう捉えたのか、アシェンはやれやれといった様子で肩を竦ませた。
「はぁ~、どうせツンツンしてるんでしょ。ヴァンさんは優しいというか……懐が深すぎよね」
小さな画面の中から率直な指摘が飛んでくる。
「たまにはデレないと愛想尽かされちゃうわよ?」
幼馴染みの相貌には、揶揄と憂慮が入り交じっている。
「あの人、ただでさえ人気者なんだから。誰かに取られちゃったらどうするのよ」
畳み掛けてくるような追い打ちが耳に刺さり、アーロンは返す言葉を失った。
モンマルトの店内は、ようやく昼時の混雑が落ち着いたところだった。
「あら、お疲れ様。これからお昼かしら?」
助手たちが店に入ると、ポーレットが優しげな微笑を浮かべて近寄ってきた。
「はい。仕事の方が少し立て込んでしまって」
「もうお腹がペコペコです!」
その柔らかな物腰につられ、カトルとフェリも朗らかに笑う。
アーロンはそんな二人を横目にしつつ、空いている席に腰を下ろした。
ポーレットがメニュー表をテーブルに置き、少年少女も慌てて着席をする。
「そう言えば、朝はヴァンさんも一緒に居たような気がしたけれど」
彼女は席に着いた三人を見回し、不思議そうに首を傾げた。
「ヴァンさんならちょっと寄るところがあるみたいで。先に食べてろって言われました」
フェリが注文をしながら答えると、すかさず金色の瞳が面白半分で煌めく。
「ま、どうせいかがわしいとこにでも行ってんじゃねぇの?」
「……アーロンさんじゃあるまいし」
テーブルを囲む事務所の助手たちは、今は不在の所長のことになればつい盛り上がってしまう。
三人分の注文を取ったポーレットは、そんな微笑ましい会話を耳に流しながら厨房へ向かった。
待ち時間はさほどかからなかった。
腕の良い料理人であるビクトルの手際は鮮やかで、次々と料理が出来上がる。
つい先ほど帰ってきたユメが手伝いを始め、ポーレットと共に三人の注文した料理を運んできた。
「お待たせしました~」
「ありがとう、ユメちゃん」
ユメは少々危なっかしい手つきでランチプレートをカトルの元へ置いた。
一生懸命に接客をする姿は、自然と彼の頬を緩ませる。
「こっちはフェリちゃんとアーロンくんの分ね」
ポーレットが配膳したのは肉を主体としたボリュームのある皿だった。
軽めの昼食を頼んだカトルとは対照的で、二人はガッツリといくつもりらしい。
「う~ん、凄いな。アーロンさんはともかく、フェリちゃんってよく食べるよね」
「はいっ、いっぱい食べて早く大きくなりたいです!」
感心しながら呟く少年に対し、少女が明るく返事をした。
「お子様は元気だねぇ~。それに比べてあのオッサンときたら……」
アーロンは早々と料理に手を付けていて、馴染みの味を堪能している。
だが、不意に彼との食事風景を思い出して口を開いた。
「いつだったか、俺が食ってるの見て胸焼けがするとか言いやがった。年のせいで胃腸が弱ってんじゃねーのか?」
「なに、それ。あの人、スイーツ限定ならいくらでもいけそうな気がするけど」
カトルは思わず吹き出してしまいそうになったが、何とか堪えて笑いを噛み殺す。
そんな彼らの様子を、テーブルの脇でユメがジッと見つめていた。
「ねぇ、ねぇ、ヴァンはまだ~?」
後から来るとは聞いたが、そんな気配はまるでない。
小さな少女は不満げに唇を尖らせた。
すると、その直後。
店のドアが開き、ようやくお待ちかねの人物が姿を現した。
「おう、悪ぃな。遅くなっちまった」
「あーっ、やっと来た!ヴァン、おかえり~!!」
不機嫌そうな瞳が一転し、キラキラと大きな輝きを放った。
身体が元気に飛び跳ね、勢いよく常連客の懐に突進する。
「なんだ、なんだ。随分とご機嫌じゃねぇか、ユメ坊」
ヴァンは腰元にじゃれついてくる看板娘に驚きながらも、優しい手つきでその頭を撫でてやった。
「ユメちゃんって、ほんとヴァンさんに懐いてるよね」
「大好きだからギュッとしたくなっちゃいますよね、分かります」
「えぇ……と、そこまでは言ってないんだけど」
カトルとフェリは二人を眺めやりながら、どこか噛み合わない会話をしている。
それを聞いていたアーロンは、ふと数日前にアシェンから言われたことを思い出していた。
あれは、言外に『愛情表現が足りない』とダメ出しを食らったようなものだ。
他人に言われるならまだしも、幼馴染みの言葉となれば無関心ではいられなかった。
ヴァン本人から恋人としての有り様を疑われたことはないが、内心ではどう思われているのか分からない。
ユメに抱き付かれ、困りながらも照れている男が自然と視界に入ってきた。
嬉しそうに目を細めている姿を見つめ、考える。
「抱き締めてみればいい……のか?」
知らずの内に独り言のような声が漏れた。
そうすれば、少しは気持ちが伝わるだろうか?
あんな風な表情を見せてくれるのだろうか?
アーロンはそんな自分を滑稽だと思いながらも、不安が払拭できないもう一人の自分がいることを認識していた。
「あー、まぁ……そういうのもありか?」
また一つ、言葉が零れ落ちる。
彼は本当に無意識だった。
カトルとフェリの飲食する手が止まり、まるで珍獣を見るような眼差しを向けられていることにも気が付いていない。
「アーロンさんが変です」
「どうしたんだろ?」
もちろん、神妙に囁き合う二人の声も聞こえてはいなかった。
数日後。
ヴァンから備品の買い出しを頼まれていたアーロンは、かったるそうな足取りで事務所へ帰ってきた。
一応は仕事の一環なので、渋々ながらも引き受けてやっている。
「おい、所長さんよ。買ってきてやったぜ」
「おっ、ありがとな。キッチンの方に置いておいてくれ」
ヴァンは机に置いたノート型端末の画面と睨めっこをしていた。
どうやら請け負った依頼についての情報を収集している最中のようだ。
一瞬だけ顔を上げた後、またすぐに視線を落とす。
「こういうのはメイドにでも頼めよ。適材適所ってやつだろ」
「リゼットには別の用事を頼んじまったんだ。しばらく戻ってこねぇ」
「チッ、計画性のないヤツだぜ」
アーロンは不満げな棘を吐きながらも、小脇に抱えていた紙袋を言われた場所へと置きに行く。
キッチンの照明は落とされていて、昼間だというのに少し薄暗い。
事務所の中にはキーボードを叩く音だけが響いていた。
(今は……誰もいねぇのか)
いつもは勝ち気な瞳がぼんやりと鈍色のシンクを眺める。
あれ以来、二人きりになる機会を覗っていたのか?と問われれば、不承不承で頷く他なかった。
恋人に対する懸念など持ち合わせてはいなかったのに、幼馴染みの一言でこのザマだ。
彼は自嘲気味に唇を歪め、ゆっくりとヴァンの元へ足を向けた。
相変わらず端末を覗き込んでいる男は、頬杖を付きながら小さく唸っている。
それでもアーロンが動く気配を察したのか、目線は画面に留めたままで短く言った。
「今日はもう終わりでいいぞ」
「なんだよ。お役御免ってか?」
就業の終わりを告げる所長の語尾に、ぶっきらぼうな声が重なった。
事務所に戻ってきた助手三号の口調がいつもより大人しい。
それは今だけでなく、ここ数日は茶化してくるにせよ、彼特有のキレが感じられなかった。
あまり詮索をしたくはないが、珍しいこともあるものだと思って案じてしまう。
ヴァンは素知らぬ風を装って端末を弄っていたが、相手が動いたのを見計らって声をかけてみた。
そこまでの真剣さはなく、当たり障りがない軽めのやり取りでいい。
だから、挨拶の代わり程度にそう言った。
まさか、返ってきた声がこんな間近で聞こえるとは思わなかったが。
仕事が終わりなら、さっさと事務所を出て行くに違いない。
そう予想していた彼は思いきり面食らった。
「──お前っ!?」
いつの間にかアーロンが背後に立っている。
勢いよく振り向こうとした矢先、すかさず後ろから片手が伸びてきた。
顔を向かせまいとしているのか、首元に腕を回されてしっかりと抑えられてしまう。
相手の意図が読み取れず、なんとか視線だけを後方へ流すと、
「所長さんはまだお仕事ってか?」
吐息がかかりそうな距離で唇が動き、赤い毛先に頬をくすぐられた。
「ま、まぁ……もうちょい情報が欲しいとこだが」
もしかして、先に仕事を上がらせたことが不満だったのだろうか?
覗うように返事をしたが、それを遮ってアーロンの身体が動いた。
首に巻き付いた腕はそのまま、もう片方の手が無遠慮に卓上へと向けられる。
彼が前のめりになったことで背後からの密着度が増し、人の体温が覆い被さってきた。
「それはそれは、ご熱心なことで」
皮肉っぽく響いた言葉に連動して、ぱたりとノート型端末の蓋が閉じられる。
「あっ!!」
横暴とも言える彼の行動には、さすがのヴァンも眦をつり上げた。
腰を浮かしかけ、無理矢理にでも振り向こうとする。
「何してやがる、このクソガキ──っ!」
だが、アーロンの反射神経は抜群だった。
片腕だけの拘束から一転、後ろから椅子の背もたれごと強く抱き竦めてくる。
「なぁ、少しは俺に構われろよ」
首筋に顔を埋められ、途端に湿度のある温もりが肌に広がる。
想定外の状態に陥ったヴァンは、目を丸くして身体を強張らせた。
緊張して滲み出た唾を飲み込み、わずかに喉が鳴る。
どうしてこんな状況に陥っているのか分からなかった。
自分はただ事務所で仕事をしていただけだ。
アーロンの様子を気にかけたのは、単純に彼のことが心配だったからに他ならない。
「お、おい……」
ぴたりとくっついた身体は一向に離れる気配がなく、それどころか更に重みが増していくようだった。
戸惑いと羞恥で騒ぎ始めた心音が、背骨を介して届きそうな予感がする。
そんな中、無言で顔を伏せていたアーロンがおもむろに目線を上げた。
あろうことか、耳元に唇を寄せて啄むようなキスを何度も落としてくる。
「うっ、あ……っ」
瞬時に肩が飛び跳ね、這いずり回るような微熱が首筋を伝った。
所在をなくして浮いた手が彷徨い、絡みつく恋人の腕を掴んだ瞬間。
「言わせろよ、『好き』だって」
いつもより低い声で甘やかに鼓膜を刺激され、頭の中が真っ白になった。
それを囁いたのは自分だったはずなのに、まるで別人のような気がした。
慣れない言動をしている自覚があるせいで、じわじわと恥ずかしさが込み上げてくる。
アーロンは硬直したヴァンの肩口に頭を落とし、しばらく無言を貫いた。
二人だけの空間はやけに静かで、互いの微かな息づかいだけがやたらと耳に残る。
──そこまでが限界だった。
普段の調子を一切省いて気持ちを露わにしてみれば、顔面から火が吹き出しそうになる。
「……くそ!やっぱりガラじゃねぇ」
耐えきれなくなった彼は、心からの叫びを発しながら勢いよくヴァンから離れた。
一歩後ずさり、激しく被りを振った後で自らの赤髪を掻き乱す。
「おい、てめぇ。今のはなかったことにしろ」
「え、あ……?」
彼は反応の鈍いヴァンの横を早足ですり抜け、入り口付近で一度だけ立ち止まった。
紅潮した顔など絶対に見られたくなかった。だから、背を向けたままで荒々しく吐き捨てる。
「さっさと忘れろって言ってんだよ!」
アーロンは汗ばんだ不快な手でドアノブを握り、半ば走るように事務所を出て行ってしまた。
どれくらいの間、放心していたのだろう。
窓から差し込む陽光が夕方の赤みを帯び始めている。
「なん……だよ。さっきの」
机の上に突っ伏したヴァンは力なく呟いた。
時間が経って多少は落ち着いてきたが、弄られた片耳はまだ熱が燻っているような感覚。
甘ったるい残り香が纏わり付き、強引に閉じられた端末を再び開く気分にはなれなかった。
「あいつ、どうしちまったんだ?」
常日頃のアーロンを考えれば、あの豹変ぶりは不審なレベルだ。
やはりここ数日、どこかおかしいように思う。
そんなことを悶々と考えていた時だった。
──トントン
事務所のドアを叩く音が聞こえた。
ヴァンは慌てて居住まいを正し、一度咳払いをしてから来客に声をかける。
「おう、開いてるぞ」
知っている気配ではあるが、ここに用があるとは思えない珍しい客だ。
「こんにちは、ヴァンさん」
開いたドアの向こうにいたのは、黒髪と青い衣装が印象的な黒月の令嬢だった。
「イーディスに来るっていうのは聞いてたが、こっちにまで顔を出すとは思わなかったぜ」
「どんな所か一度見てみたかったのよね。あいつもすっかり馴染んでるみたいだし」
入ってくるなり興味深げに室内を見回し、アシェンが微笑する。
その言葉を聞いたヴァンはドキリとした。
彼女が言っている「あいつ」とは、もちろんアーロンのことだ。
不可解な言動をして去って行った後ろ姿を脳裏に浮かべ、幼馴染みである女を覗う。
アシェンのイーディス入りを知ったのは、彼の零した愚痴からだった。
その経緯を考えれば、最低でも数日前には通信でやり取りをしていただろう。
彼女は何か知っている可能性が高い。
だったら、話を振ってみようかと思案してみる。
「ねぇ、ヴァンさん。アーロンとは上手くやってる?」
すると、アシェンの方が先に話題を持ちかけてきた。
意表を突かれたヴァンは一瞬だけ声を詰まらせた後、机に片肘を突いてこめかみの辺りを揉んだ。
「あいつ、最近おかしくねぇか?」
「え?アーロンってば、何かやらかしたの?」
「いや、そうじゃなくて……」
指先が無意識に頬をなぞり、先刻の囁きが残る耳元を手の平で覆った。
「らしくないっつーか、そういうキャラじゃねぇだろ?みたいな」
どうしても気恥ずかしさが先に立ち、歯切れの悪い曖昧な説明になってしまう。
泳いだ視線がアシェンのそれとぶつかり、彼女の顔がパッと明るくなった。
「もしかしてあいつ、ヴァンさんにデレてきた?」
「まぁ……そうだなぁ。って、あのガキになんか言ったのか?」
それを見たヴァンは、やはり彼女が発端なのだと確信した。
アーロンは幼馴染みに対してよく鬱陶しげな反応を示すが、身内とも呼べる彼女からの言葉には少なからず影響を受けている。
「だって、あいつがやっと掴まえた人とのことだもの。つい心配になっちゃって」
アシェンは綺麗な眉を寄せ、一つ吐息を零した。
そして、一週間前に彼へ向けた指摘をヴァンにも教えてくれたのだった。
あの時は心臓に悪いくらいに煽情的だった囁きを、今は不安げに腕を掴んでくる子供のようにすら思う。
「くっ……はははっ」
ヴァンは再び机に突っ伏し、今度は肩を震わせて笑い出した。
「ヴァンさん?」
「あぁ、悪ぃな。それはとんだお節介ってもんだぜ」
訝しむアシェンに対し、ゆっくりと頭を上げながら可笑しげに口角を歪める。
「それがあいつだろ?そんなんで愛想尽かすくらいなら、はなから受け入れたりはしてねぇよ」
ここ数日間の違和感が綺麗に解け、胸中のモヤが晴れていく。
彼の目尻には笑み崩れた涙が滲んでいた。
自分の心配が取り越し苦労だったと分かり、アシェンは安心した様子で事務所から去って行った。
一人になったヴァンは椅子から立ち上がり、ゆったりと窓辺に歩み寄る。
茜色だった空は群青へ染まりつつあり、そろそろ夕飯時だ。
「さて……と、あいつはどこをほっつき歩いてんだか」
ポケットから取り出したザイファを見つめ、細めた瞳が愛おしげに揺れる。
幼馴染みの声を気にしたとはいえ、アーロンが自分なりに悩んだ結果の言動があれだ。
それは確かに彼からの愛情表現であり、少々やり過ぎな感もあるが素直に嬉しさが募る。
ヴァンは珍しく浮ついた気分になっていた。
今夜は二人きりで過ごすのも悪くはないと思ってしまうほどに。
携帯端末のカバーを開き、慣れた手つきで恋人の連絡先を画面に表示させる。
しかし、発信ボタンを押す直前で指先が止まった。
「あー、出ねぇかもな。さすがに気まずいだろうし」
アーロンの性格を考えれば、こちらから通信を入れても無視される可能性はあるだろう。
ヴァンはしばらく考え込んだ末に、結局は端末のボタンを押した。
スピーカーから呼び出し音が鳴り始め、ソファーに身を沈めながら応答を待ってみる。
「……最初に何て言ってやろうか?」
開口一番の言葉を考えてみれば、自然と頬の緩みが止まらなくなる。
十数秒も反応がなければ諦めてしまうのが常だが、今は不思議とそんな気持ちは起こらなかった。
ふわふわとした心のどこかで、奇妙な自信が主張をしている。
この通信は空振りにならないはずだと。
あと何回、呼び出し音を鳴らせばいいだろう?
ヴァンはまるで子供が悪戯をしているように笑っていた。
それからほどなくして。
ようやく待ち望んでいた声が聞こえてきた。
「ウゼェことしてんじゃねぇよ、オッサン!」
雑踏の音が混じった第一声は不機嫌極まりない。
通常なら互いの顔を画面に映しているが、今は音声のみの通話モードだった。
やはり、相当に気まずいのだろう。
ヴァンの口元から微かな笑いが忍び出る。
「──チッ」
それが聞こえたのか、アーロンがあからさまな舌打ちをした。
彼の不快げな態度は予想通りだったので、気にせず話しかける。
「なぁ、さっさと戻って来いよ。たまには一緒に飯でも食おうぜ」
さっきから言いたいことは色々と考えていたのに、最初の言葉は他愛ないものになってしまった。
「はぁ?なんの嫌がらせだよ」
彼の鬱陶しげな応答を聞けば、どんな顔つきをしているのかを想像するのは簡単だ。
「大体、てめぇは……」
ぶつぶつと文句をたれる声は次第に小さくなり、賑やかな雑音で掻き消されそうになっていく。
ご機嫌斜めなら通話を打ち切ればいいものを、アーロンからは全くその気配が感じられない。
そんな恋人の様子に、やたらと愛おしさが溢れ出してきてしまった。
ヴァンは静かに目を閉じた。
今は一人きり。事務所には誰もいないし、これから来客の予定もない。
つまり、何の遠慮もする必要はなかった。
「今夜は物足りねぇんだよ。端末越しの声だけじゃ……な」
先刻のお返しとばかりに間接的な真似事をする。
ここにはいない恋人の耳に唇を寄せ、とびきり熱っぽく囁いてみせた。
2022.08.28
#黎畳む
黎ED後・恋人設定
珍しいアーロンのデレに驚きつつも内心では嬉しくて堪らないヴァンの話。
2022年リクエスト⑤
【文字数:7900】
携帯端末の画面越しから、幼馴染みが半眼じみた視線を向けてくる。
「あんたねぇ……夜遊びも程々にしなさいよ?煌都とは違うんだから」
「あ~っ、うるせぇなぁ」
アーロンは鬱陶しげに顔を歪め、かったるそうに頭を振った。
アシェンとはそう頻繁にやり取りをしているわけではないが、口を開けばすぐに小言が飛んでくる。
それは彼女が身内として心配してくれているからだが、つい耳を塞ぎたくなるのが正直なところだ。はっきり言って面倒くさい。
今回の通信はアシェンからのものだった。
彼女は挨拶もそこそこに、一週間後にイーディスを訪れると連絡を入れてきた。
特に詮索するつもりはなかったが、その雰囲気から黒月としての来訪に違いない。
「仕事、サボったりするんじゃないわよ。ヴァンさんに雇われてる身なんだから」
「こっちは人手が足りねぇから手伝ってやってるだけだ」
このまま延々と小言に苛まれそうな気がしたアーロンは、無理矢理にでも会話を打ち切ってしまおうと、端末のボタンに指をかけた。
しかし、
「──それはそうと。あんた、ヴァンさんと仲良くやってるの?」
急に話の矛先を変えられ、ぴたりと手の動きが止まる。
アシェンが何を言いたいのかはすぐに分かった。
「おまえには関係ねぇだろうが」
やはり、面倒くさい。さっさと通信を切らなかったことをすぐに後悔した。
アーロンは苦虫を噛みつぶしたような顔で、幼馴染みを睨み付ける。
ヴァンとの恋人関係は良好だと彼自身は思っている。
たまに小さな衝突が起きたりもするが、それを後々まで引きずるようなことはない。
もちろん、大きな仲違いをした記憶もなかった。
「余計な口を挟むんじゃねぇ」
その反応をどう捉えたのか、アシェンはやれやれといった様子で肩を竦ませた。
「はぁ~、どうせツンツンしてるんでしょ。ヴァンさんは優しいというか……懐が深すぎよね」
小さな画面の中から率直な指摘が飛んでくる。
「たまにはデレないと愛想尽かされちゃうわよ?」
幼馴染みの相貌には、揶揄と憂慮が入り交じっている。
「あの人、ただでさえ人気者なんだから。誰かに取られちゃったらどうするのよ」
畳み掛けてくるような追い打ちが耳に刺さり、アーロンは返す言葉を失った。
モンマルトの店内は、ようやく昼時の混雑が落ち着いたところだった。
「あら、お疲れ様。これからお昼かしら?」
助手たちが店に入ると、ポーレットが優しげな微笑を浮かべて近寄ってきた。
「はい。仕事の方が少し立て込んでしまって」
「もうお腹がペコペコです!」
その柔らかな物腰につられ、カトルとフェリも朗らかに笑う。
アーロンはそんな二人を横目にしつつ、空いている席に腰を下ろした。
ポーレットがメニュー表をテーブルに置き、少年少女も慌てて着席をする。
「そう言えば、朝はヴァンさんも一緒に居たような気がしたけれど」
彼女は席に着いた三人を見回し、不思議そうに首を傾げた。
「ヴァンさんならちょっと寄るところがあるみたいで。先に食べてろって言われました」
フェリが注文をしながら答えると、すかさず金色の瞳が面白半分で煌めく。
「ま、どうせいかがわしいとこにでも行ってんじゃねぇの?」
「……アーロンさんじゃあるまいし」
テーブルを囲む事務所の助手たちは、今は不在の所長のことになればつい盛り上がってしまう。
三人分の注文を取ったポーレットは、そんな微笑ましい会話を耳に流しながら厨房へ向かった。
待ち時間はさほどかからなかった。
腕の良い料理人であるビクトルの手際は鮮やかで、次々と料理が出来上がる。
つい先ほど帰ってきたユメが手伝いを始め、ポーレットと共に三人の注文した料理を運んできた。
「お待たせしました~」
「ありがとう、ユメちゃん」
ユメは少々危なっかしい手つきでランチプレートをカトルの元へ置いた。
一生懸命に接客をする姿は、自然と彼の頬を緩ませる。
「こっちはフェリちゃんとアーロンくんの分ね」
ポーレットが配膳したのは肉を主体としたボリュームのある皿だった。
軽めの昼食を頼んだカトルとは対照的で、二人はガッツリといくつもりらしい。
「う~ん、凄いな。アーロンさんはともかく、フェリちゃんってよく食べるよね」
「はいっ、いっぱい食べて早く大きくなりたいです!」
感心しながら呟く少年に対し、少女が明るく返事をした。
「お子様は元気だねぇ~。それに比べてあのオッサンときたら……」
アーロンは早々と料理に手を付けていて、馴染みの味を堪能している。
だが、不意に彼との食事風景を思い出して口を開いた。
「いつだったか、俺が食ってるの見て胸焼けがするとか言いやがった。年のせいで胃腸が弱ってんじゃねーのか?」
「なに、それ。あの人、スイーツ限定ならいくらでもいけそうな気がするけど」
カトルは思わず吹き出してしまいそうになったが、何とか堪えて笑いを噛み殺す。
そんな彼らの様子を、テーブルの脇でユメがジッと見つめていた。
「ねぇ、ねぇ、ヴァンはまだ~?」
後から来るとは聞いたが、そんな気配はまるでない。
小さな少女は不満げに唇を尖らせた。
すると、その直後。
店のドアが開き、ようやくお待ちかねの人物が姿を現した。
「おう、悪ぃな。遅くなっちまった」
「あーっ、やっと来た!ヴァン、おかえり~!!」
不機嫌そうな瞳が一転し、キラキラと大きな輝きを放った。
身体が元気に飛び跳ね、勢いよく常連客の懐に突進する。
「なんだ、なんだ。随分とご機嫌じゃねぇか、ユメ坊」
ヴァンは腰元にじゃれついてくる看板娘に驚きながらも、優しい手つきでその頭を撫でてやった。
「ユメちゃんって、ほんとヴァンさんに懐いてるよね」
「大好きだからギュッとしたくなっちゃいますよね、分かります」
「えぇ……と、そこまでは言ってないんだけど」
カトルとフェリは二人を眺めやりながら、どこか噛み合わない会話をしている。
それを聞いていたアーロンは、ふと数日前にアシェンから言われたことを思い出していた。
あれは、言外に『愛情表現が足りない』とダメ出しを食らったようなものだ。
他人に言われるならまだしも、幼馴染みの言葉となれば無関心ではいられなかった。
ヴァン本人から恋人としての有り様を疑われたことはないが、内心ではどう思われているのか分からない。
ユメに抱き付かれ、困りながらも照れている男が自然と視界に入ってきた。
嬉しそうに目を細めている姿を見つめ、考える。
「抱き締めてみればいい……のか?」
知らずの内に独り言のような声が漏れた。
そうすれば、少しは気持ちが伝わるだろうか?
あんな風な表情を見せてくれるのだろうか?
アーロンはそんな自分を滑稽だと思いながらも、不安が払拭できないもう一人の自分がいることを認識していた。
「あー、まぁ……そういうのもありか?」
また一つ、言葉が零れ落ちる。
彼は本当に無意識だった。
カトルとフェリの飲食する手が止まり、まるで珍獣を見るような眼差しを向けられていることにも気が付いていない。
「アーロンさんが変です」
「どうしたんだろ?」
もちろん、神妙に囁き合う二人の声も聞こえてはいなかった。
数日後。
ヴァンから備品の買い出しを頼まれていたアーロンは、かったるそうな足取りで事務所へ帰ってきた。
一応は仕事の一環なので、渋々ながらも引き受けてやっている。
「おい、所長さんよ。買ってきてやったぜ」
「おっ、ありがとな。キッチンの方に置いておいてくれ」
ヴァンは机に置いたノート型端末の画面と睨めっこをしていた。
どうやら請け負った依頼についての情報を収集している最中のようだ。
一瞬だけ顔を上げた後、またすぐに視線を落とす。
「こういうのはメイドにでも頼めよ。適材適所ってやつだろ」
「リゼットには別の用事を頼んじまったんだ。しばらく戻ってこねぇ」
「チッ、計画性のないヤツだぜ」
アーロンは不満げな棘を吐きながらも、小脇に抱えていた紙袋を言われた場所へと置きに行く。
キッチンの照明は落とされていて、昼間だというのに少し薄暗い。
事務所の中にはキーボードを叩く音だけが響いていた。
(今は……誰もいねぇのか)
いつもは勝ち気な瞳がぼんやりと鈍色のシンクを眺める。
あれ以来、二人きりになる機会を覗っていたのか?と問われれば、不承不承で頷く他なかった。
恋人に対する懸念など持ち合わせてはいなかったのに、幼馴染みの一言でこのザマだ。
彼は自嘲気味に唇を歪め、ゆっくりとヴァンの元へ足を向けた。
相変わらず端末を覗き込んでいる男は、頬杖を付きながら小さく唸っている。
それでもアーロンが動く気配を察したのか、目線は画面に留めたままで短く言った。
「今日はもう終わりでいいぞ」
「なんだよ。お役御免ってか?」
就業の終わりを告げる所長の語尾に、ぶっきらぼうな声が重なった。
事務所に戻ってきた助手三号の口調がいつもより大人しい。
それは今だけでなく、ここ数日は茶化してくるにせよ、彼特有のキレが感じられなかった。
あまり詮索をしたくはないが、珍しいこともあるものだと思って案じてしまう。
ヴァンは素知らぬ風を装って端末を弄っていたが、相手が動いたのを見計らって声をかけてみた。
そこまでの真剣さはなく、当たり障りがない軽めのやり取りでいい。
だから、挨拶の代わり程度にそう言った。
まさか、返ってきた声がこんな間近で聞こえるとは思わなかったが。
仕事が終わりなら、さっさと事務所を出て行くに違いない。
そう予想していた彼は思いきり面食らった。
「──お前っ!?」
いつの間にかアーロンが背後に立っている。
勢いよく振り向こうとした矢先、すかさず後ろから片手が伸びてきた。
顔を向かせまいとしているのか、首元に腕を回されてしっかりと抑えられてしまう。
相手の意図が読み取れず、なんとか視線だけを後方へ流すと、
「所長さんはまだお仕事ってか?」
吐息がかかりそうな距離で唇が動き、赤い毛先に頬をくすぐられた。
「ま、まぁ……もうちょい情報が欲しいとこだが」
もしかして、先に仕事を上がらせたことが不満だったのだろうか?
覗うように返事をしたが、それを遮ってアーロンの身体が動いた。
首に巻き付いた腕はそのまま、もう片方の手が無遠慮に卓上へと向けられる。
彼が前のめりになったことで背後からの密着度が増し、人の体温が覆い被さってきた。
「それはそれは、ご熱心なことで」
皮肉っぽく響いた言葉に連動して、ぱたりとノート型端末の蓋が閉じられる。
「あっ!!」
横暴とも言える彼の行動には、さすがのヴァンも眦をつり上げた。
腰を浮かしかけ、無理矢理にでも振り向こうとする。
「何してやがる、このクソガキ──っ!」
だが、アーロンの反射神経は抜群だった。
片腕だけの拘束から一転、後ろから椅子の背もたれごと強く抱き竦めてくる。
「なぁ、少しは俺に構われろよ」
首筋に顔を埋められ、途端に湿度のある温もりが肌に広がる。
想定外の状態に陥ったヴァンは、目を丸くして身体を強張らせた。
緊張して滲み出た唾を飲み込み、わずかに喉が鳴る。
どうしてこんな状況に陥っているのか分からなかった。
自分はただ事務所で仕事をしていただけだ。
アーロンの様子を気にかけたのは、単純に彼のことが心配だったからに他ならない。
「お、おい……」
ぴたりとくっついた身体は一向に離れる気配がなく、それどころか更に重みが増していくようだった。
戸惑いと羞恥で騒ぎ始めた心音が、背骨を介して届きそうな予感がする。
そんな中、無言で顔を伏せていたアーロンがおもむろに目線を上げた。
あろうことか、耳元に唇を寄せて啄むようなキスを何度も落としてくる。
「うっ、あ……っ」
瞬時に肩が飛び跳ね、這いずり回るような微熱が首筋を伝った。
所在をなくして浮いた手が彷徨い、絡みつく恋人の腕を掴んだ瞬間。
「言わせろよ、『好き』だって」
いつもより低い声で甘やかに鼓膜を刺激され、頭の中が真っ白になった。
それを囁いたのは自分だったはずなのに、まるで別人のような気がした。
慣れない言動をしている自覚があるせいで、じわじわと恥ずかしさが込み上げてくる。
アーロンは硬直したヴァンの肩口に頭を落とし、しばらく無言を貫いた。
二人だけの空間はやけに静かで、互いの微かな息づかいだけがやたらと耳に残る。
──そこまでが限界だった。
普段の調子を一切省いて気持ちを露わにしてみれば、顔面から火が吹き出しそうになる。
「……くそ!やっぱりガラじゃねぇ」
耐えきれなくなった彼は、心からの叫びを発しながら勢いよくヴァンから離れた。
一歩後ずさり、激しく被りを振った後で自らの赤髪を掻き乱す。
「おい、てめぇ。今のはなかったことにしろ」
「え、あ……?」
彼は反応の鈍いヴァンの横を早足ですり抜け、入り口付近で一度だけ立ち止まった。
紅潮した顔など絶対に見られたくなかった。だから、背を向けたままで荒々しく吐き捨てる。
「さっさと忘れろって言ってんだよ!」
アーロンは汗ばんだ不快な手でドアノブを握り、半ば走るように事務所を出て行ってしまた。
どれくらいの間、放心していたのだろう。
窓から差し込む陽光が夕方の赤みを帯び始めている。
「なん……だよ。さっきの」
机の上に突っ伏したヴァンは力なく呟いた。
時間が経って多少は落ち着いてきたが、弄られた片耳はまだ熱が燻っているような感覚。
甘ったるい残り香が纏わり付き、強引に閉じられた端末を再び開く気分にはなれなかった。
「あいつ、どうしちまったんだ?」
常日頃のアーロンを考えれば、あの豹変ぶりは不審なレベルだ。
やはりここ数日、どこかおかしいように思う。
そんなことを悶々と考えていた時だった。
──トントン
事務所のドアを叩く音が聞こえた。
ヴァンは慌てて居住まいを正し、一度咳払いをしてから来客に声をかける。
「おう、開いてるぞ」
知っている気配ではあるが、ここに用があるとは思えない珍しい客だ。
「こんにちは、ヴァンさん」
開いたドアの向こうにいたのは、黒髪と青い衣装が印象的な黒月の令嬢だった。
「イーディスに来るっていうのは聞いてたが、こっちにまで顔を出すとは思わなかったぜ」
「どんな所か一度見てみたかったのよね。あいつもすっかり馴染んでるみたいだし」
入ってくるなり興味深げに室内を見回し、アシェンが微笑する。
その言葉を聞いたヴァンはドキリとした。
彼女が言っている「あいつ」とは、もちろんアーロンのことだ。
不可解な言動をして去って行った後ろ姿を脳裏に浮かべ、幼馴染みである女を覗う。
アシェンのイーディス入りを知ったのは、彼の零した愚痴からだった。
その経緯を考えれば、最低でも数日前には通信でやり取りをしていただろう。
彼女は何か知っている可能性が高い。
だったら、話を振ってみようかと思案してみる。
「ねぇ、ヴァンさん。アーロンとは上手くやってる?」
すると、アシェンの方が先に話題を持ちかけてきた。
意表を突かれたヴァンは一瞬だけ声を詰まらせた後、机に片肘を突いてこめかみの辺りを揉んだ。
「あいつ、最近おかしくねぇか?」
「え?アーロンってば、何かやらかしたの?」
「いや、そうじゃなくて……」
指先が無意識に頬をなぞり、先刻の囁きが残る耳元を手の平で覆った。
「らしくないっつーか、そういうキャラじゃねぇだろ?みたいな」
どうしても気恥ずかしさが先に立ち、歯切れの悪い曖昧な説明になってしまう。
泳いだ視線がアシェンのそれとぶつかり、彼女の顔がパッと明るくなった。
「もしかしてあいつ、ヴァンさんにデレてきた?」
「まぁ……そうだなぁ。って、あのガキになんか言ったのか?」
それを見たヴァンは、やはり彼女が発端なのだと確信した。
アーロンは幼馴染みに対してよく鬱陶しげな反応を示すが、身内とも呼べる彼女からの言葉には少なからず影響を受けている。
「だって、あいつがやっと掴まえた人とのことだもの。つい心配になっちゃって」
アシェンは綺麗な眉を寄せ、一つ吐息を零した。
そして、一週間前に彼へ向けた指摘をヴァンにも教えてくれたのだった。
あの時は心臓に悪いくらいに煽情的だった囁きを、今は不安げに腕を掴んでくる子供のようにすら思う。
「くっ……はははっ」
ヴァンは再び机に突っ伏し、今度は肩を震わせて笑い出した。
「ヴァンさん?」
「あぁ、悪ぃな。それはとんだお節介ってもんだぜ」
訝しむアシェンに対し、ゆっくりと頭を上げながら可笑しげに口角を歪める。
「それがあいつだろ?そんなんで愛想尽かすくらいなら、はなから受け入れたりはしてねぇよ」
ここ数日間の違和感が綺麗に解け、胸中のモヤが晴れていく。
彼の目尻には笑み崩れた涙が滲んでいた。
自分の心配が取り越し苦労だったと分かり、アシェンは安心した様子で事務所から去って行った。
一人になったヴァンは椅子から立ち上がり、ゆったりと窓辺に歩み寄る。
茜色だった空は群青へ染まりつつあり、そろそろ夕飯時だ。
「さて……と、あいつはどこをほっつき歩いてんだか」
ポケットから取り出したザイファを見つめ、細めた瞳が愛おしげに揺れる。
幼馴染みの声を気にしたとはいえ、アーロンが自分なりに悩んだ結果の言動があれだ。
それは確かに彼からの愛情表現であり、少々やり過ぎな感もあるが素直に嬉しさが募る。
ヴァンは珍しく浮ついた気分になっていた。
今夜は二人きりで過ごすのも悪くはないと思ってしまうほどに。
携帯端末のカバーを開き、慣れた手つきで恋人の連絡先を画面に表示させる。
しかし、発信ボタンを押す直前で指先が止まった。
「あー、出ねぇかもな。さすがに気まずいだろうし」
アーロンの性格を考えれば、こちらから通信を入れても無視される可能性はあるだろう。
ヴァンはしばらく考え込んだ末に、結局は端末のボタンを押した。
スピーカーから呼び出し音が鳴り始め、ソファーに身を沈めながら応答を待ってみる。
「……最初に何て言ってやろうか?」
開口一番の言葉を考えてみれば、自然と頬の緩みが止まらなくなる。
十数秒も反応がなければ諦めてしまうのが常だが、今は不思議とそんな気持ちは起こらなかった。
ふわふわとした心のどこかで、奇妙な自信が主張をしている。
この通信は空振りにならないはずだと。
あと何回、呼び出し音を鳴らせばいいだろう?
ヴァンはまるで子供が悪戯をしているように笑っていた。
それからほどなくして。
ようやく待ち望んでいた声が聞こえてきた。
「ウゼェことしてんじゃねぇよ、オッサン!」
雑踏の音が混じった第一声は不機嫌極まりない。
通常なら互いの顔を画面に映しているが、今は音声のみの通話モードだった。
やはり、相当に気まずいのだろう。
ヴァンの口元から微かな笑いが忍び出る。
「──チッ」
それが聞こえたのか、アーロンがあからさまな舌打ちをした。
彼の不快げな態度は予想通りだったので、気にせず話しかける。
「なぁ、さっさと戻って来いよ。たまには一緒に飯でも食おうぜ」
さっきから言いたいことは色々と考えていたのに、最初の言葉は他愛ないものになってしまった。
「はぁ?なんの嫌がらせだよ」
彼の鬱陶しげな応答を聞けば、どんな顔つきをしているのかを想像するのは簡単だ。
「大体、てめぇは……」
ぶつぶつと文句をたれる声は次第に小さくなり、賑やかな雑音で掻き消されそうになっていく。
ご機嫌斜めなら通話を打ち切ればいいものを、アーロンからは全くその気配が感じられない。
そんな恋人の様子に、やたらと愛おしさが溢れ出してきてしまった。
ヴァンは静かに目を閉じた。
今は一人きり。事務所には誰もいないし、これから来客の予定もない。
つまり、何の遠慮もする必要はなかった。
「今夜は物足りねぇんだよ。端末越しの声だけじゃ……な」
先刻のお返しとばかりに間接的な真似事をする。
ここにはいない恋人の耳に唇を寄せ、とびきり熱っぽく囁いてみせた。
2022.08.28
#黎畳む
お祝いしますか?しませんか?
黎・恋人設定
アーロンとの関係がバレていないと思っていたヴァンだけど、実は周囲にバレバレだった話。
2022年リクエスト②
【文字数:5300】
落ち着いた雰囲気の店内には客が数人。
それぞれの席で思い思いの時間を過ごしている。
この店の主であるベルモッティにとっては、皆が馴染みの顔だ。
壁の時計を見れば、夜も大分回った時間になっている。
これから来店してくる客はほぼいないだろう。
そう思った矢先、出入口のドアがベルの音を響かせた。
彼は入ってきた男を見て少しばかり驚き、声のトーンを上げる。
「あら、ヴァンちゃんじゃないの。珍しいわね、こんな時間に」
「ちょいとばかし降られちまってよ。まぁ、通り雨だろうけどな」
小さく振った頭からは水滴が飛び散ったが、大した量ではない。
上着も肩を払えば問題ない程度だった。
「それは大変。今、タオルを持ってくるわね」
「あー、気にすんなって」
雨に降られたことについて、本人はさして気にも留めていないようだ。
慌てて店の奥へ消えていく店主に声をかけ、カウンター席に腰を下ろす。
ガラス越しに外の様子を覗えば、街灯の明かりに落ちる雨粒は当初よりも幾分か少なくなっていた。
「はい、ちゃんと拭きなさいよ。上着は大丈夫なの?」
奥から戻って来たベルモッティは、雨宿りに訪れた客を気遣う。
「問題ねぇ。それより悪かったな。そろそろ閉店だろ」
手渡されたタオルで無造作に髪を拭いたヴァンが、申し訳なさそうな顔をした。
「まだ一時間もあるわ。でも、あたしとヴァンちゃんの仲だもの。閉店後だってOKよ」
それに対し、彼は口元で人差し指を立て、茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせた。
今夜は特にこれが飲みたいといった気分ではなかった。
そんな時は、客の好みを熟知している彼に任せてしまうのが常だ。
カウンター越しに何気ない雑談を交わし、グラスに口を付ける。
ベルモッティ曰く、同時に出されたチョコレートは、新進気鋭のショコラティエによる一品らしい。
それに合わせたカクテルとのことで、相性は抜群だった。さすがはプロの技量である。
思いがけず至福のひとときを手に入れたヴァンは、心の中で通り雨に感謝した。
「そう言えば、アーロンちゃんは一緒じゃないの?」
しかし、いきなり予想だにしなかった話題を振られて怪訝な顔をする。
「は?あいつなら今夜も遊び歩いてんだろ。なんだよ、急に」
なぜそんなことを聞かれるのか分からない、とでも言いたげだ。
「もうっ、ダメねぇ~。ヴァンちゃんを一人でフラフラさせてるなんて」
「いや、そこまであいつとつるんでねぇし」
ベルモッティは丁寧にグラスを磨きながら、どこか楽しそうに口を弾ませた。
「連絡しちゃおうかしら。酔い潰れてるとでも言えば、絶対迎えに来るわよね」
「だから、さっきから何言って……」
会話をしているはずが、一人だけ盛り上がっている。
何か嫌な予感がしてベルモッティを見上げると、意地悪げな瞳とぶつかった。
「あたしの目は誤魔化せないわよ?」
「なっ……!?」
そこでヴァンは完全に把握した。彼が言わんとしていることを。
何度か口を開閉させながら、カウンター越しの店主を凝視する。
「マジ……かよ」
さっきまでの幸福感はどこへやら。
片肘をテーブルに付き、額に手を当てて項垂れる。
「彼、攻めまくりだったものねぇ。いつ押し切られちゃうのかしらって楽しみだったのよ」
「……勝手に楽しむんじゃねぇ。っつーか、なんで気づきやがった?」
ぐったりとしてしまったヴァンは、なんとか掠れた声を絞り出す。
別にアーロンとの関係を隠したいとは思っていない。
しかし、だからといって人前であからさまな言動をしたいわけでもなく、表面上は今までと変わらずに接してるつもりだ。
「そうねぇ。少し前に仕事がらみで一緒にここへ来たじゃない?」
ベルモッティはグラスを磨いていた手を止め、宙を見上げてその時のことを思い出す。
「貴方たちのやり取りを見ていたらすぐに分かったわよ」
職業柄か様々な人を相手にしている彼は、対人関係の微妙な変化を察することが上手い。
色恋の類いともなれば、かなりの精度だ。
「それに……」
ひとつ。鮮明な記憶が浮かび、肩を震わせて可笑しそうに笑った。
「いつもはあたしがヴァンちゃんをからかうと、すぐに茶々入れてくるでしょ。でも、あの時は全然なかったのよね」
やけに静かだったアーロンは、慣れたじゃれ合いを前に口元だけを緩めていた。
眇めた金彩だけは無言の威嚇で牙立てながら。
「あれは、『俺のもんで遊ぶんじゃねぇよ』って顔してたわ~。ゾクゾクしちゃったわよ」
「あのバカが。好戦的すぎんだろ」
それまでは黙って一連の話を聞いていたヴァンが、ようやく顔を上げた。
ガシガシと片手で頭を掻き、グラスに残っていたカクテルを一気にあおる。
心なしか顔が赤いのは、アルコールのせいだけではなさそうだった。
「……はぁ」
彼は深く大きく息を吐き、少しでも平静を取り戻そうと苦慮をしている。
だが、そこへ無慈悲で楽しげな追い打ちがかかった。
「──で、もう食べられちゃったの?」
身を屈めたベルモッティがわざとらしく囁きかけてくる。
「そんなわけあるかっ!」
ヴァンは反射的に腰を浮かせて声を荒げたが、すぐにハッとして店内を見回した。
さすがに大声はまずい。
しかし、店に入った時に居たはずの客たちは消えていて、いつの間にか一人になっていた。
「やぁねぇ~。貴方が幸せそうにしてる間に帰ったわよ」
さっきから落ち着きのない言動ばかりで、噛み殺しても笑みが零れ落ちそうになる。
今夜最後の客は、本当にからかいがいのある男だ。
「そう……だっけか?」
ヴァンとて、馴染みの店に迷惑をかけるのは本意ではない。
それを聞いた彼はホッと胸を撫で下ろし、いそいそと椅子に座り直した。
「それにしても、意外だわ。アーロンちゃんならすぐに手を出すと思ったのに」
すると、話題を引き戻したベルモッティが、言葉通りの表情で小さく首を傾けた。
「それだけ大事ってことかしら?可愛いわね」
「……あのなぁ。あいつがそんなタマかよ」
空になったグラスを見つめた男は、頬杖をつきながら仏頂面でぼそりと呟いた。
雨宿りのつもりだったが、つい長居をしてしまった。
時計を見れば、閉店時間はとうに過ぎている。
おもむろに席を立ったヴァンへ、ベルモッティは優しく目元を緩ませた。
「今度はアーロンちゃんも連れてきてちょうだいね」
「はぁ?ガラでもねぇ」
照れ隠しのつもりか、彼はすぐに背を向けてドアへと歩き出した。
「一緒に来てくれたら、二人のカクテル作ってお祝いしてあげるわ」
ベルモッティは、そんな後ろ姿に向かって柔らかな言葉を投げかける。
返事はなく、ただベルの音だけが静かな店内に響き渡った。
綺麗に整理された本棚からファイルを取り出し、ぺらぺらと書類を捲る。
ヴァンは文字の羅列を目で追いながらも、どこか気が散ってしまっていることを自覚していた。
昨夜、雨宿りをした時のやり取りが頭から離れない。
ベルモッティの眼力には納得なのだが、問題はアーロンの方だった。
(顔に出ちまうのは仕方ねぇが、まさか……言い触らしてるとか?)
何かと開けっぴろげな彼のこと、つい不安が首をもたげてしまう。
「おい、アーロン」
その気持ちが払拭できず、振り返って声をかけてみる。
赤毛の青年はソファーに身を沈め、ザイファを弄っていた。
「あぁ?なんだよ」
かったるそうな返事が事務所の主に向けられる。
「お前……俺たちのこと、周りに言ってねぇよな?」
逡巡してから発せられたそれに、アーロンは顔を顰めた。
「言うわけねぇだろうが、面倒くせぇ。大体──」
吐き捨てるように言葉を連ねたが、ふと途中で口を噤む。
(その必要もないくらいにバレまくりだって、気づいてねぇのか?こいつ)
目を泳がせているヴァンをまじまじと見やり、呆れ気味で溜息を吐く。
そんなアーロンの耳が、階段を上ってくる足音と華やかな笑い声を捉えた。
覚えのある気配に自然と不敵な笑みが浮かぶ。
(それなら、すぐにでも分からせてやるか)
彼はザイファをポケットにしまい、悠然と立ち上がって恋人の元へ歩み寄った。
強引に胸ぐらを掴んで顔を引き寄せた時、ドアの前までやって来た足音が止まった。
「あんた、自分のことには鈍すぎなんじゃねぇの?」
軽やかなノックの音が数回。それと同時に二人の唇が重なる。
「久しぶりに息抜きに来てやったわよ~」
「ジュディスさんってば、活き活きしてますね」
事務所のドアが開いた瞬間、その場の空気が固まった。
だが、それも一時。
半眼じみたジュディスの叫びが室内に響き渡った。
「あんたたち!何見せつけてくれてんのよ!絶対わざとでしょ、それ!」
「羨ましいなら、さっさと相手を作ればいいだろ?」
ビシッと指をさして目を吊り上げる女と、それを煽る男の構図は危なっかしい。
「もう……アーロンさん、驚かせないで下さい」
しかし、彼女と共にやってきたアニエスは僅かに息を呑んだだけだった。開けっぱなしのドアを静かに閉める。
ヴァンはそんな三人を呆然と見つめていた。
キスから解放された唇は半開きのまま、上手い具合に動かせない。
「お、お前ら……」
「なによ、固まっちゃってんの?」
それに気づいたジュディスが訝しげに目を細めると、すかさずアーロンが応じた。
「しょうがねぇだろ。このオッサン、周囲にバレてんの気づいてなかったんだからよ」
その言葉に女性二人の目が点になり、数拍の沈黙。
再び、ジュディスの声が部屋の空気を震わせた。
「はぁぁぁー!?あり得ないんだけど!どんだけバレバレだったと思ってんのよ!」
「そ、そうだったんですか?お二人とも恋人同士の雰囲気出てましたけど」
対照的な反応だが根は同じ、奇異の眼差しを向けられたヴァンは額に嫌な汗が滲むのを感じた。
「だってよ。良かったな、ヴァン。すっかり公認だぜ?」
至近距離にいるアーロンは胸ぐらを掴んだ手を離さず、見せつけるように喉の奥で笑いながら囁いてくる。
「お、おい。全然、良くねぇ……だろ」
ようやく言葉らしきものを紡ぎ始めた男は、動揺の色を隠せなかった。
「そんなことないですよ。みんなでお祝いしてあげようなんて話も出ているくらいですから」
「どっからだよ。嫌がらせにしか思えねぇ」
嬉しそうな顔をしているアニエスには何とか突っ込みを入れつつ、今度は恋人を引き剥がそうと試みる。
まずは片手だけでも空けようと思い、広げたままのファイルを閉じた途端。
今度はジュディスが、急に何かを思い出して口を開いた。
「あ、そう言えば。ベルガルドさんがここを離れる時、気にしてたわよ。『あやつらはどうにかならんのか』って」
──ドサッ!
その語尾にファイルの落下音が続いた。
「な、なんで師父まで……っ」
昨夜から続いているこの一件の中で、今の言葉が一番衝撃的だった。
足元にばらけてしまった書類も目に入らない。
隙あらば攻め落とす機会を覗っていたアーロンはさておき、自分の彼に対する感情を見破られていた事実に羞恥が募る。
そんなヴァンをよそに、赤毛の青年はとんでもないことを言い放った。
「そりゃぁ、大変だ。今からでも報告してやろうぜ」
あっさりと恋人から身体を離し、ポケットの中からザイファを取り出す仕草はやたらと生き生きしている。
「ちょっ……何言ってんだよ、てめぇは!」
これにはヴァンも即座に反応を示した。
素早く伸ばした手でアーロンの肩口を掴み、強引に動きを止めようとする。
焦りを露わに見下ろせば、ふてぶてしい表情を返された。
「弟子が師匠を心配させるってのはどうなんだよ?」
「うるせぇ!」
ほんの少しだけ絡んだ勝ち気な瞳が笑い、冗談とも本気ともつかない。
危機感が最高潮に達したヴァンは、ついに我を失った。
「ダメだからな!絶対やらせねぇからな!!」
彼は形振り構わずに声を荒げ、あろうことか勢いよく相手の首筋にしがみついた。
巻かれた両腕の力は強く、さすがのアーロンも端末の操作を断念してしまう。
「あ〜っ、うぜぇなぁ……」
彼は鬱陶しげな色を醸した息を口から吐き出した。
「興が削がれちまった」
しかし、態度とは裏腹。まるで宥めるようにヴァンの髪を片手で掻き混ぜる。
その動きは雑であってもどことなく柔らかい。
それはジュディスとアニエスの目からも明らかだった。
当人たちは無意識なのかもしれないが、完全に恋人の体を成している。
「……余計なこと言ったわ」
「えっと、でも……ベルガルドさんなら間違いなく祝福してくれますよね」
ジュディスはこめかみを揉みながら自らの失言を後悔し、そんな彼女を慮ったアニエスがさり気なくフォローを入れた。
何とも言えない空気が事務所に流れる中、再び階段の方から複数人の足音が聞こえてきた。明るい声と温和な声と淑やかな声が、楽しげに交わっている。
「あっ、ジュディスさん。フェリちゃんたちが来たみたいです」
「もう……なんなのよ、このタイミングで勢揃いだなんて」
二人はそれらが誰なのかをすぐに察した。
「リゼットはともかくとしても……はぁ~」
ジュディスは目の前で密着している男たちをチラリと見やり、更に頭が痛くなっていくのを感じた。
一応、ここは事務所であり仕事をする場所である。
まだ年若いフェリとカトルにこの状態を見せるのは、さすがにどうかと思ってしまった。
元気なノックの音が数回。
それと同時にジュディスの叱声が轟いた。
2022.06.11
#黎畳む
黎・恋人設定
アーロンとの関係がバレていないと思っていたヴァンだけど、実は周囲にバレバレだった話。
2022年リクエスト②
【文字数:5300】
落ち着いた雰囲気の店内には客が数人。
それぞれの席で思い思いの時間を過ごしている。
この店の主であるベルモッティにとっては、皆が馴染みの顔だ。
壁の時計を見れば、夜も大分回った時間になっている。
これから来店してくる客はほぼいないだろう。
そう思った矢先、出入口のドアがベルの音を響かせた。
彼は入ってきた男を見て少しばかり驚き、声のトーンを上げる。
「あら、ヴァンちゃんじゃないの。珍しいわね、こんな時間に」
「ちょいとばかし降られちまってよ。まぁ、通り雨だろうけどな」
小さく振った頭からは水滴が飛び散ったが、大した量ではない。
上着も肩を払えば問題ない程度だった。
「それは大変。今、タオルを持ってくるわね」
「あー、気にすんなって」
雨に降られたことについて、本人はさして気にも留めていないようだ。
慌てて店の奥へ消えていく店主に声をかけ、カウンター席に腰を下ろす。
ガラス越しに外の様子を覗えば、街灯の明かりに落ちる雨粒は当初よりも幾分か少なくなっていた。
「はい、ちゃんと拭きなさいよ。上着は大丈夫なの?」
奥から戻って来たベルモッティは、雨宿りに訪れた客を気遣う。
「問題ねぇ。それより悪かったな。そろそろ閉店だろ」
手渡されたタオルで無造作に髪を拭いたヴァンが、申し訳なさそうな顔をした。
「まだ一時間もあるわ。でも、あたしとヴァンちゃんの仲だもの。閉店後だってOKよ」
それに対し、彼は口元で人差し指を立て、茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせた。
今夜は特にこれが飲みたいといった気分ではなかった。
そんな時は、客の好みを熟知している彼に任せてしまうのが常だ。
カウンター越しに何気ない雑談を交わし、グラスに口を付ける。
ベルモッティ曰く、同時に出されたチョコレートは、新進気鋭のショコラティエによる一品らしい。
それに合わせたカクテルとのことで、相性は抜群だった。さすがはプロの技量である。
思いがけず至福のひとときを手に入れたヴァンは、心の中で通り雨に感謝した。
「そう言えば、アーロンちゃんは一緒じゃないの?」
しかし、いきなり予想だにしなかった話題を振られて怪訝な顔をする。
「は?あいつなら今夜も遊び歩いてんだろ。なんだよ、急に」
なぜそんなことを聞かれるのか分からない、とでも言いたげだ。
「もうっ、ダメねぇ~。ヴァンちゃんを一人でフラフラさせてるなんて」
「いや、そこまであいつとつるんでねぇし」
ベルモッティは丁寧にグラスを磨きながら、どこか楽しそうに口を弾ませた。
「連絡しちゃおうかしら。酔い潰れてるとでも言えば、絶対迎えに来るわよね」
「だから、さっきから何言って……」
会話をしているはずが、一人だけ盛り上がっている。
何か嫌な予感がしてベルモッティを見上げると、意地悪げな瞳とぶつかった。
「あたしの目は誤魔化せないわよ?」
「なっ……!?」
そこでヴァンは完全に把握した。彼が言わんとしていることを。
何度か口を開閉させながら、カウンター越しの店主を凝視する。
「マジ……かよ」
さっきまでの幸福感はどこへやら。
片肘をテーブルに付き、額に手を当てて項垂れる。
「彼、攻めまくりだったものねぇ。いつ押し切られちゃうのかしらって楽しみだったのよ」
「……勝手に楽しむんじゃねぇ。っつーか、なんで気づきやがった?」
ぐったりとしてしまったヴァンは、なんとか掠れた声を絞り出す。
別にアーロンとの関係を隠したいとは思っていない。
しかし、だからといって人前であからさまな言動をしたいわけでもなく、表面上は今までと変わらずに接してるつもりだ。
「そうねぇ。少し前に仕事がらみで一緒にここへ来たじゃない?」
ベルモッティはグラスを磨いていた手を止め、宙を見上げてその時のことを思い出す。
「貴方たちのやり取りを見ていたらすぐに分かったわよ」
職業柄か様々な人を相手にしている彼は、対人関係の微妙な変化を察することが上手い。
色恋の類いともなれば、かなりの精度だ。
「それに……」
ひとつ。鮮明な記憶が浮かび、肩を震わせて可笑しそうに笑った。
「いつもはあたしがヴァンちゃんをからかうと、すぐに茶々入れてくるでしょ。でも、あの時は全然なかったのよね」
やけに静かだったアーロンは、慣れたじゃれ合いを前に口元だけを緩めていた。
眇めた金彩だけは無言の威嚇で牙立てながら。
「あれは、『俺のもんで遊ぶんじゃねぇよ』って顔してたわ~。ゾクゾクしちゃったわよ」
「あのバカが。好戦的すぎんだろ」
それまでは黙って一連の話を聞いていたヴァンが、ようやく顔を上げた。
ガシガシと片手で頭を掻き、グラスに残っていたカクテルを一気にあおる。
心なしか顔が赤いのは、アルコールのせいだけではなさそうだった。
「……はぁ」
彼は深く大きく息を吐き、少しでも平静を取り戻そうと苦慮をしている。
だが、そこへ無慈悲で楽しげな追い打ちがかかった。
「──で、もう食べられちゃったの?」
身を屈めたベルモッティがわざとらしく囁きかけてくる。
「そんなわけあるかっ!」
ヴァンは反射的に腰を浮かせて声を荒げたが、すぐにハッとして店内を見回した。
さすがに大声はまずい。
しかし、店に入った時に居たはずの客たちは消えていて、いつの間にか一人になっていた。
「やぁねぇ~。貴方が幸せそうにしてる間に帰ったわよ」
さっきから落ち着きのない言動ばかりで、噛み殺しても笑みが零れ落ちそうになる。
今夜最後の客は、本当にからかいがいのある男だ。
「そう……だっけか?」
ヴァンとて、馴染みの店に迷惑をかけるのは本意ではない。
それを聞いた彼はホッと胸を撫で下ろし、いそいそと椅子に座り直した。
「それにしても、意外だわ。アーロンちゃんならすぐに手を出すと思ったのに」
すると、話題を引き戻したベルモッティが、言葉通りの表情で小さく首を傾けた。
「それだけ大事ってことかしら?可愛いわね」
「……あのなぁ。あいつがそんなタマかよ」
空になったグラスを見つめた男は、頬杖をつきながら仏頂面でぼそりと呟いた。
雨宿りのつもりだったが、つい長居をしてしまった。
時計を見れば、閉店時間はとうに過ぎている。
おもむろに席を立ったヴァンへ、ベルモッティは優しく目元を緩ませた。
「今度はアーロンちゃんも連れてきてちょうだいね」
「はぁ?ガラでもねぇ」
照れ隠しのつもりか、彼はすぐに背を向けてドアへと歩き出した。
「一緒に来てくれたら、二人のカクテル作ってお祝いしてあげるわ」
ベルモッティは、そんな後ろ姿に向かって柔らかな言葉を投げかける。
返事はなく、ただベルの音だけが静かな店内に響き渡った。
綺麗に整理された本棚からファイルを取り出し、ぺらぺらと書類を捲る。
ヴァンは文字の羅列を目で追いながらも、どこか気が散ってしまっていることを自覚していた。
昨夜、雨宿りをした時のやり取りが頭から離れない。
ベルモッティの眼力には納得なのだが、問題はアーロンの方だった。
(顔に出ちまうのは仕方ねぇが、まさか……言い触らしてるとか?)
何かと開けっぴろげな彼のこと、つい不安が首をもたげてしまう。
「おい、アーロン」
その気持ちが払拭できず、振り返って声をかけてみる。
赤毛の青年はソファーに身を沈め、ザイファを弄っていた。
「あぁ?なんだよ」
かったるそうな返事が事務所の主に向けられる。
「お前……俺たちのこと、周りに言ってねぇよな?」
逡巡してから発せられたそれに、アーロンは顔を顰めた。
「言うわけねぇだろうが、面倒くせぇ。大体──」
吐き捨てるように言葉を連ねたが、ふと途中で口を噤む。
(その必要もないくらいにバレまくりだって、気づいてねぇのか?こいつ)
目を泳がせているヴァンをまじまじと見やり、呆れ気味で溜息を吐く。
そんなアーロンの耳が、階段を上ってくる足音と華やかな笑い声を捉えた。
覚えのある気配に自然と不敵な笑みが浮かぶ。
(それなら、すぐにでも分からせてやるか)
彼はザイファをポケットにしまい、悠然と立ち上がって恋人の元へ歩み寄った。
強引に胸ぐらを掴んで顔を引き寄せた時、ドアの前までやって来た足音が止まった。
「あんた、自分のことには鈍すぎなんじゃねぇの?」
軽やかなノックの音が数回。それと同時に二人の唇が重なる。
「久しぶりに息抜きに来てやったわよ~」
「ジュディスさんってば、活き活きしてますね」
事務所のドアが開いた瞬間、その場の空気が固まった。
だが、それも一時。
半眼じみたジュディスの叫びが室内に響き渡った。
「あんたたち!何見せつけてくれてんのよ!絶対わざとでしょ、それ!」
「羨ましいなら、さっさと相手を作ればいいだろ?」
ビシッと指をさして目を吊り上げる女と、それを煽る男の構図は危なっかしい。
「もう……アーロンさん、驚かせないで下さい」
しかし、彼女と共にやってきたアニエスは僅かに息を呑んだだけだった。開けっぱなしのドアを静かに閉める。
ヴァンはそんな三人を呆然と見つめていた。
キスから解放された唇は半開きのまま、上手い具合に動かせない。
「お、お前ら……」
「なによ、固まっちゃってんの?」
それに気づいたジュディスが訝しげに目を細めると、すかさずアーロンが応じた。
「しょうがねぇだろ。このオッサン、周囲にバレてんの気づいてなかったんだからよ」
その言葉に女性二人の目が点になり、数拍の沈黙。
再び、ジュディスの声が部屋の空気を震わせた。
「はぁぁぁー!?あり得ないんだけど!どんだけバレバレだったと思ってんのよ!」
「そ、そうだったんですか?お二人とも恋人同士の雰囲気出てましたけど」
対照的な反応だが根は同じ、奇異の眼差しを向けられたヴァンは額に嫌な汗が滲むのを感じた。
「だってよ。良かったな、ヴァン。すっかり公認だぜ?」
至近距離にいるアーロンは胸ぐらを掴んだ手を離さず、見せつけるように喉の奥で笑いながら囁いてくる。
「お、おい。全然、良くねぇ……だろ」
ようやく言葉らしきものを紡ぎ始めた男は、動揺の色を隠せなかった。
「そんなことないですよ。みんなでお祝いしてあげようなんて話も出ているくらいですから」
「どっからだよ。嫌がらせにしか思えねぇ」
嬉しそうな顔をしているアニエスには何とか突っ込みを入れつつ、今度は恋人を引き剥がそうと試みる。
まずは片手だけでも空けようと思い、広げたままのファイルを閉じた途端。
今度はジュディスが、急に何かを思い出して口を開いた。
「あ、そう言えば。ベルガルドさんがここを離れる時、気にしてたわよ。『あやつらはどうにかならんのか』って」
──ドサッ!
その語尾にファイルの落下音が続いた。
「な、なんで師父まで……っ」
昨夜から続いているこの一件の中で、今の言葉が一番衝撃的だった。
足元にばらけてしまった書類も目に入らない。
隙あらば攻め落とす機会を覗っていたアーロンはさておき、自分の彼に対する感情を見破られていた事実に羞恥が募る。
そんなヴァンをよそに、赤毛の青年はとんでもないことを言い放った。
「そりゃぁ、大変だ。今からでも報告してやろうぜ」
あっさりと恋人から身体を離し、ポケットの中からザイファを取り出す仕草はやたらと生き生きしている。
「ちょっ……何言ってんだよ、てめぇは!」
これにはヴァンも即座に反応を示した。
素早く伸ばした手でアーロンの肩口を掴み、強引に動きを止めようとする。
焦りを露わに見下ろせば、ふてぶてしい表情を返された。
「弟子が師匠を心配させるってのはどうなんだよ?」
「うるせぇ!」
ほんの少しだけ絡んだ勝ち気な瞳が笑い、冗談とも本気ともつかない。
危機感が最高潮に達したヴァンは、ついに我を失った。
「ダメだからな!絶対やらせねぇからな!!」
彼は形振り構わずに声を荒げ、あろうことか勢いよく相手の首筋にしがみついた。
巻かれた両腕の力は強く、さすがのアーロンも端末の操作を断念してしまう。
「あ〜っ、うぜぇなぁ……」
彼は鬱陶しげな色を醸した息を口から吐き出した。
「興が削がれちまった」
しかし、態度とは裏腹。まるで宥めるようにヴァンの髪を片手で掻き混ぜる。
その動きは雑であってもどことなく柔らかい。
それはジュディスとアニエスの目からも明らかだった。
当人たちは無意識なのかもしれないが、完全に恋人の体を成している。
「……余計なこと言ったわ」
「えっと、でも……ベルガルドさんなら間違いなく祝福してくれますよね」
ジュディスはこめかみを揉みながら自らの失言を後悔し、そんな彼女を慮ったアニエスがさり気なくフォローを入れた。
何とも言えない空気が事務所に流れる中、再び階段の方から複数人の足音が聞こえてきた。明るい声と温和な声と淑やかな声が、楽しげに交わっている。
「あっ、ジュディスさん。フェリちゃんたちが来たみたいです」
「もう……なんなのよ、このタイミングで勢揃いだなんて」
二人はそれらが誰なのかをすぐに察した。
「リゼットはともかくとしても……はぁ~」
ジュディスは目の前で密着している男たちをチラリと見やり、更に頭が痛くなっていくのを感じた。
一応、ここは事務所であり仕事をする場所である。
まだ年若いフェリとカトルにこの状態を見せるのは、さすがにどうかと思ってしまった。
元気なノックの音が数回。
それと同時にジュディスの叱声が轟いた。
2022.06.11
#黎畳む
今、繋ぎ止めた想いを確かめて
黎END後・恋人設定
魔王化の時二人は何を思っていたのか、そして未来についての会話。
事後のベッドでイチャついています。
2022年リクエスト①
【文字数:3400】
驚愕だとか畏怖だとか。
人の身がこの異形に対して感じる感情など、どうでも良かった。
夜明け前の濃紺は常闇と混じり合い、優しい色が浸食されていく。
耳障りな音は止むことを知らず、歪み始めた空間の中で別れを察知した。
──ふと、目が合った。
どこか困ったように笑っている。
「ああ、そうか」と、アーロンはそこで納得した。
思わせぶりな言動をするくせに、一歩踏み込めば途端に距離を置く。
いざ真っ向から攻めかかっても絶対に陥落はしない。
いつも、隠しようがない好意を不器用に誤魔化していた。
さっさと認めてしまえば楽なのに。落ちてしまえば楽なのに。
何度そう思ったか分からない。
黎い大きな羽ばたきが、積み重ねてきた縁とその未練を断ち切ろうとしている。
アーロンは、想い人がずっと煮え切らない態度を取り続けた理由をようやく飲み込んだ。
目の前から彼がいなくなることで。
そこで一気に目が覚めた。
ベッドで眠っていた赤毛の青年は勢いよく上半身を起こす。
「ゆ、め……か?」
じわりと滲んだ額の汗を手で拭い、そのまま不快げに前髪を掻き上げた。
時刻は深夜を回ったあたりで、薄暗い部屋の中は静寂に包まれていた。
「──なんだ、怖い夢でも見たのか?」
不意に穏やかな声が聞こえてきた。
相手を気遣いながらも、ほんの少しだけからかうような節がある。
それを発した男は窓辺に半裸の身体を預け、腕を組みながら外を眺めやっていた。
わずかに開いた窓の隙間から夜風が舞い込み、カーテンを緩やかになびかせる。
「……チッ」
アーロンはあからさまに舌打ちをした。
眠りに落ちる直前、彼は隣で微睡んでいたはずだ。
それなのに、知らぬ間に共寝から抜け出しているのが面白くない。
月明かりが霞んでいる今宵。
仄かな街明かりが差し込むだけでは、表情さえも読み取れない。
やはり面白くなかった。
「うるせぇな。勝手にベッドから出るんじゃねぇ」
あんな夢を見たせいか、数歩分しかない距離でさえも連れ戻したい衝動に駆られた。
「はい、はい……ご機嫌斜めかよ」
薄い闇の中、眇めた瞳が刺々しく光っている。
ヴァンは肩を竦めて苦笑しつつ、静かに窓を閉めた。
そして、夢見が悪い恋人の元へ足を向ける。
「うなされているようには見えなかったんだけどな」
ベッドの端に座った彼は、軽く身を乗り出してアーロンを覗き込んだ。
不機嫌に歪んだ頬をやんわりと叩き、宥めようとする。
「てめぇが離れたせいで、見たくもねぇものを見た」
「はぁ?なんで俺のせいなんだよ?」
恨みがましい非難の眼差しが突き刺さり、困惑したヴァンは咄嗟に手を引っ込めた。
それすらも気に入らないのか、アーロンが乱暴に腕を掴んで引き寄せようとする。
「おっ、おい!?」
体格や腕力で考えればヴァンの方に分があるのだが、今は完全に油断しきっていた。
抗う間もなく主導権を握られ、先刻まで身体を絡み合わせていた場所へ引きずり戻される。
「……逃げようとした。消えようとした。俺の前から」
ベッドが軋む音と共に、責めるような言葉の羅列が降ってきた。
それを聞いたヴァンは瞠目して喉を詰まらせる。
「そいつ、は……」
アーロンが何の夢を見ていたのかが、瞬時に分かってしまったのだ。
さっき、ほんの少しでも揶揄が混じったことを後悔する。
詫びのつもりか無性に触れたくなって、組み伏せてきた年若い青年の身体へ手を伸ばした。
かけるべき言葉を探しあぐね、ヴァンは無言で彼の肩口を優しく撫でた。
夜風で冷えた指先には、寝起きの体温が心地良い。
そんな仕草は自然とアーロンの険を和らげ、次に発せられた声は随分と落ち着いていた。
「あの時……俺はどんな顔をしてた?」
傍から見れば何の脈絡もないように思える問いかけ。
しかし、ヴァンは苦しげに顔を歪め、見下ろしてくる金色から視線を反らす。
「……覚えてねぇ」
人肌に触れていた片手がするりと落ちた。
「何も心の中に残したくなかった。本当は見るつもりなんてなかったのに……」
小さく動いた唇からは愁いを含んだ声が零れ落ちる。
空になった手の甲が、今度は自嘲気味に笑う目元を隠した。
「なんで、最後の最後に見ちまったんだろうな」
まるで独り言のような回顧は徐々に萎んでいき、掠れた語尾が二人の隙間に溶けていく。
それは、去り際に見た魔王の微笑と似ているような気がした。
アーロンは今になってヴァンの心情を知り、沸々と嬉しさが込み上げてくるのを感じた。
「はっ……未練たらたらだったんじゃねぇかよ」
あの末期の状況で、執着の欠片を見せるくらいに強く想われてる。
どうしようもなく頬が緩み、締まりのない顔になってしまいそうだった。
それを悟られたくなかった彼は、誤魔化すように恋人の胸元へ唇を寄せた。
一つ二つと甘噛みの痕を散らして、乱れ始めた心音を聞く。
「お前だって似たようなもんだろうが」
ぶり返してくる熱に引きずられ、沈んでいたヴァンの気持ちは上向きになっていった。
視界を閉ざしていた手が、覆い被さっている青年の背中に回される。
「あんなとこまで追いかけてきやがって」
口振りのわりには、素肌を辿る指先の動きが柔らかかった。
無造作に流れる赤い髪の一房を愛おしげに絡ませる。
「俺があんたを逃がすわけねぇだろ。舐めてんのかよ」
「ったく……諦めの悪いヤツに好かれちまったもんだぜ」
憎まれ口を叩き合いながらも、ベッドの中でじゃれつく二人の雰囲気は甘やかだ。
睦言にはそぐわない囁きが、湿った吐息を纏わせてシーツの海に広がっていく。
窓の外は未だに夜が明ける気配もしなかった。
常夜灯はなく、カーテン越しの灯りもこの薄闇では役に立たない。
それでも、これだけ密着していれば互いの表情が簡単に読み取れる。
「……また、同じようなことがあっても絶対に逃がさねぇ」
今は宿主を離れている魔核の存在が頭を過ぎり、アーロンは歯ぎしりをした。
恋情が増せば増すほど、再び背を向けられることへの不安が付きまとう。
彼は抱き合ったままの状態で恋人の首筋に顔を埋め、ざわめく心を押さえ込もうとした。
「まぁ、俺もあの時よりはマシな判断をするさ」
「そういう言葉は信用できねぇんだよ……この前科持ちが」
燃えるような髪の先端に肌をくすぐられ、ヴァンが身動ぎをする。
アーロンに限らず、他の仲間たちからも詐欺だのと散々怒りをぶつけられたのだ。
自業自得とはいえ、今はどんな言い方をしてもまともに受け取ってはもらえないのだろう。
ヴァンは伏せた青年の顔に両手を差し入れて、いささか強引に掬い上げた。
「だったら、しっかり捕まえておいてくれよ」
至近距離で見合い、濃藍の瞳が思慕を滲ませる。
何か言いたげに動きかけた唇へ、自らのそれを深く重ね合わせた。
ひとしきり戯れた後、二人はようやく毛布の中に潜り込んだ。
離れようとしないアーロンに対し、「いい加減に寝かせろ」とヴァンが遠慮なく蹴りを入れた形だ。
薄暗がりの天井を何気なく見つめ、ぼそりと口を開く。
「俺のことはともかく……水面下では不穏な気配だらけなんだよなぁ」
「アルマータの一件が終わっても、各勢力が暗躍してんのは変わらねぇしな」
「はぁ~、厄介な依頼は勘弁だぜ……」
心底かったるそうな溜息の後を、意地悪げな声が追いかけてくる。
「しっかり働けよ、所長さん。俺の給料が払えるくらいにはな」
アーロンはうつ伏せの状態で枕に乗りかかりながら、小刻みに肩を揺らした。
「やれやれ、いつまでお前を雇えばいいんだか」
困ったヤツだと言わんばかりの態度をされ、彼はつり上げた口角を歪ませた。
「──さあな」
いつだったか、ヴァンに話したことを思い出す。
この先、色々な街を見て回りたいと。各地の歓楽街巡りならば、なお楽しい。
いずれ煌都に身を落ち着けるにしても、それはずっと未来の話だ。
「そんなの……知るか」
しかし、あの時とは状況が変わりすぎてしまい、明るく語った願望はいつの間にか形を潜めている。
そんなことよりも譲れない想いがあった。
何よりも繋ぎ止めておきたい大事な人ができた。
アーロンはおもむろに上半身を起こし、隣に横たわる寝際の男を覗き込んだ。
「今の俺は、どんな顔をしてる?」
なぜか、目を閉じる前にもう一度聞きたくなった。
ヴァンは少し驚いたようだったが、数拍もしないうちに静かな笑みを浮かべてくれた。
「そりゃぁ、クソ生意気そうなツラに決まってんだろ」
「……そうかよ」
予想通りの反応に満足そうな表情をした彼は、『おやすみ』の挨拶代わりに触れるだけのキスをした。
今度は答えを聞くことができた。
あの夢とは違い、傍らには確かな存在がある。
それを実感したアーロンは、二人分の温もりを含んだ毛布に顔を埋め、ようやく眠りについた。
2022.05.22
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驚愕だとか畏怖だとか。
人の身がこの異形に対して感じる感情など、どうでも良かった。
夜明け前の濃紺は常闇と混じり合い、優しい色が浸食されていく。
耳障りな音は止むことを知らず、歪み始めた空間の中で別れを察知した。
──ふと、目が合った。
どこか困ったように笑っている。
「ああ、そうか」と、アーロンはそこで納得した。
思わせぶりな言動をするくせに、一歩踏み込めば途端に距離を置く。
いざ真っ向から攻めかかっても絶対に陥落はしない。
いつも、隠しようがない好意を不器用に誤魔化していた。
さっさと認めてしまえば楽なのに。落ちてしまえば楽なのに。
何度そう思ったか分からない。
黎い大きな羽ばたきが、積み重ねてきた縁とその未練を断ち切ろうとしている。
アーロンは、想い人がずっと煮え切らない態度を取り続けた理由をようやく飲み込んだ。
目の前から彼がいなくなることで。
そこで一気に目が覚めた。
ベッドで眠っていた赤毛の青年は勢いよく上半身を起こす。
「ゆ、め……か?」
じわりと滲んだ額の汗を手で拭い、そのまま不快げに前髪を掻き上げた。
時刻は深夜を回ったあたりで、薄暗い部屋の中は静寂に包まれていた。
「──なんだ、怖い夢でも見たのか?」
不意に穏やかな声が聞こえてきた。
相手を気遣いながらも、ほんの少しだけからかうような節がある。
それを発した男は窓辺に半裸の身体を預け、腕を組みながら外を眺めやっていた。
わずかに開いた窓の隙間から夜風が舞い込み、カーテンを緩やかになびかせる。
「……チッ」
アーロンはあからさまに舌打ちをした。
眠りに落ちる直前、彼は隣で微睡んでいたはずだ。
それなのに、知らぬ間に共寝から抜け出しているのが面白くない。
月明かりが霞んでいる今宵。
仄かな街明かりが差し込むだけでは、表情さえも読み取れない。
やはり面白くなかった。
「うるせぇな。勝手にベッドから出るんじゃねぇ」
あんな夢を見たせいか、数歩分しかない距離でさえも連れ戻したい衝動に駆られた。
「はい、はい……ご機嫌斜めかよ」
薄い闇の中、眇めた瞳が刺々しく光っている。
ヴァンは肩を竦めて苦笑しつつ、静かに窓を閉めた。
そして、夢見が悪い恋人の元へ足を向ける。
「うなされているようには見えなかったんだけどな」
ベッドの端に座った彼は、軽く身を乗り出してアーロンを覗き込んだ。
不機嫌に歪んだ頬をやんわりと叩き、宥めようとする。
「てめぇが離れたせいで、見たくもねぇものを見た」
「はぁ?なんで俺のせいなんだよ?」
恨みがましい非難の眼差しが突き刺さり、困惑したヴァンは咄嗟に手を引っ込めた。
それすらも気に入らないのか、アーロンが乱暴に腕を掴んで引き寄せようとする。
「おっ、おい!?」
体格や腕力で考えればヴァンの方に分があるのだが、今は完全に油断しきっていた。
抗う間もなく主導権を握られ、先刻まで身体を絡み合わせていた場所へ引きずり戻される。
「……逃げようとした。消えようとした。俺の前から」
ベッドが軋む音と共に、責めるような言葉の羅列が降ってきた。
それを聞いたヴァンは瞠目して喉を詰まらせる。
「そいつ、は……」
アーロンが何の夢を見ていたのかが、瞬時に分かってしまったのだ。
さっき、ほんの少しでも揶揄が混じったことを後悔する。
詫びのつもりか無性に触れたくなって、組み伏せてきた年若い青年の身体へ手を伸ばした。
かけるべき言葉を探しあぐね、ヴァンは無言で彼の肩口を優しく撫でた。
夜風で冷えた指先には、寝起きの体温が心地良い。
そんな仕草は自然とアーロンの険を和らげ、次に発せられた声は随分と落ち着いていた。
「あの時……俺はどんな顔をしてた?」
傍から見れば何の脈絡もないように思える問いかけ。
しかし、ヴァンは苦しげに顔を歪め、見下ろしてくる金色から視線を反らす。
「……覚えてねぇ」
人肌に触れていた片手がするりと落ちた。
「何も心の中に残したくなかった。本当は見るつもりなんてなかったのに……」
小さく動いた唇からは愁いを含んだ声が零れ落ちる。
空になった手の甲が、今度は自嘲気味に笑う目元を隠した。
「なんで、最後の最後に見ちまったんだろうな」
まるで独り言のような回顧は徐々に萎んでいき、掠れた語尾が二人の隙間に溶けていく。
それは、去り際に見た魔王の微笑と似ているような気がした。
アーロンは今になってヴァンの心情を知り、沸々と嬉しさが込み上げてくるのを感じた。
「はっ……未練たらたらだったんじゃねぇかよ」
あの末期の状況で、執着の欠片を見せるくらいに強く想われてる。
どうしようもなく頬が緩み、締まりのない顔になってしまいそうだった。
それを悟られたくなかった彼は、誤魔化すように恋人の胸元へ唇を寄せた。
一つ二つと甘噛みの痕を散らして、乱れ始めた心音を聞く。
「お前だって似たようなもんだろうが」
ぶり返してくる熱に引きずられ、沈んでいたヴァンの気持ちは上向きになっていった。
視界を閉ざしていた手が、覆い被さっている青年の背中に回される。
「あんなとこまで追いかけてきやがって」
口振りのわりには、素肌を辿る指先の動きが柔らかかった。
無造作に流れる赤い髪の一房を愛おしげに絡ませる。
「俺があんたを逃がすわけねぇだろ。舐めてんのかよ」
「ったく……諦めの悪いヤツに好かれちまったもんだぜ」
憎まれ口を叩き合いながらも、ベッドの中でじゃれつく二人の雰囲気は甘やかだ。
睦言にはそぐわない囁きが、湿った吐息を纏わせてシーツの海に広がっていく。
窓の外は未だに夜が明ける気配もしなかった。
常夜灯はなく、カーテン越しの灯りもこの薄闇では役に立たない。
それでも、これだけ密着していれば互いの表情が簡単に読み取れる。
「……また、同じようなことがあっても絶対に逃がさねぇ」
今は宿主を離れている魔核の存在が頭を過ぎり、アーロンは歯ぎしりをした。
恋情が増せば増すほど、再び背を向けられることへの不安が付きまとう。
彼は抱き合ったままの状態で恋人の首筋に顔を埋め、ざわめく心を押さえ込もうとした。
「まぁ、俺もあの時よりはマシな判断をするさ」
「そういう言葉は信用できねぇんだよ……この前科持ちが」
燃えるような髪の先端に肌をくすぐられ、ヴァンが身動ぎをする。
アーロンに限らず、他の仲間たちからも詐欺だのと散々怒りをぶつけられたのだ。
自業自得とはいえ、今はどんな言い方をしてもまともに受け取ってはもらえないのだろう。
ヴァンは伏せた青年の顔に両手を差し入れて、いささか強引に掬い上げた。
「だったら、しっかり捕まえておいてくれよ」
至近距離で見合い、濃藍の瞳が思慕を滲ませる。
何か言いたげに動きかけた唇へ、自らのそれを深く重ね合わせた。
ひとしきり戯れた後、二人はようやく毛布の中に潜り込んだ。
離れようとしないアーロンに対し、「いい加減に寝かせろ」とヴァンが遠慮なく蹴りを入れた形だ。
薄暗がりの天井を何気なく見つめ、ぼそりと口を開く。
「俺のことはともかく……水面下では不穏な気配だらけなんだよなぁ」
「アルマータの一件が終わっても、各勢力が暗躍してんのは変わらねぇしな」
「はぁ~、厄介な依頼は勘弁だぜ……」
心底かったるそうな溜息の後を、意地悪げな声が追いかけてくる。
「しっかり働けよ、所長さん。俺の給料が払えるくらいにはな」
アーロンはうつ伏せの状態で枕に乗りかかりながら、小刻みに肩を揺らした。
「やれやれ、いつまでお前を雇えばいいんだか」
困ったヤツだと言わんばかりの態度をされ、彼はつり上げた口角を歪ませた。
「──さあな」
いつだったか、ヴァンに話したことを思い出す。
この先、色々な街を見て回りたいと。各地の歓楽街巡りならば、なお楽しい。
いずれ煌都に身を落ち着けるにしても、それはずっと未来の話だ。
「そんなの……知るか」
しかし、あの時とは状況が変わりすぎてしまい、明るく語った願望はいつの間にか形を潜めている。
そんなことよりも譲れない想いがあった。
何よりも繋ぎ止めておきたい大事な人ができた。
アーロンはおもむろに上半身を起こし、隣に横たわる寝際の男を覗き込んだ。
「今の俺は、どんな顔をしてる?」
なぜか、目を閉じる前にもう一度聞きたくなった。
ヴァンは少し驚いたようだったが、数拍もしないうちに静かな笑みを浮かべてくれた。
「そりゃぁ、クソ生意気そうなツラに決まってんだろ」
「……そうかよ」
予想通りの反応に満足そうな表情をした彼は、『おやすみ』の挨拶代わりに触れるだけのキスをした。
今度は答えを聞くことができた。
あの夢とは違い、傍らには確かな存在がある。
それを実感したアーロンは、二人分の温もりを含んだ毛布に顔を埋め、ようやく眠りについた。
2022.05.22
#黎畳む
たかが一週間、されど一週間
恋人設定
寂しくて無自覚にやらかしてしまったロイドと、包容力が全開なランディの話。
あまりふざけていない大人で優しいランディです。
【文字数:7800】
人気がない階段に激しく乱れた足音が響き渡った。
明らかな動揺を全身に纏い、一気に屋上へと駆け上る。
強く開け放ったドアを閉めることも忘れ、一直線に先端まで突き進む。
その勢いのまま、ロイドは手摺りに身体を押し付けて大きく項垂れた。
「……やらかした」
携帯端末を握りしめている手には、不快な汗が滲んでいる。
久しぶりに聞いた声が耳元に残っているような気がして、軽く目眩がした。
「なにやってんだよ、俺」
冷えた夜風が通り抜け、それが気持ち良いと感じるくらいには頬が熱い。
時刻はまだ宵の口。陽気な笑い声たちが夜景の中に溶けては消えていく。
ロイドは伏せていた頭を上げ、ぼんやりと街の賑わいを見下ろした。
「遊んでるとこに水を差したよなぁ……絶対」
手の中にある端末が、自らの失態を主張している。
そこから目を逸らしたくて、乱暴に上着のポケットへ押し込んだ。
未だに着信音が鳴る気配はなく、間接的な追い打ちをかけてくるつもりはないのだろう。
「はぁ……」
深く吐き出された溜息に安堵の色はなかった。
ロイドには、この先の展開が易々と想像できてしまう。
彼の相棒であり恋人でもある男は、戯けたふりをしながら優しい顔をする。
今の段階で声をかけてこないのであれば、つまりはそういうことだ。
歓楽街の方向に目をやれば、煌々とした灯りが他の地区よりも一層際立っている。
いっそのこと、夜の街に逃げ出してしまおうかとも考えた。
けれど、一時的にこの場を凌いだとしても、明日の朝には顔を合わせる羽目になる。
こうなったら、潔く弄られた方が良いのかもしれない。
そう思い始めたロイドの頭は、仕方なく腹を括る方向へと流れていく。
逃げ道を探しあぐねた足は、屋上の一角で完全に動きを止めることになった。
ロイドが帰宅したのは、二十時を回った頃だった。
「ロイドー!おかえりなさ〜い!」
建物に入って玄関のドアを閉めると、テーブルの付近にいたキーアが猛ダッシュで突っ込んできた。
「おっと、ただいま。キーア」
小脇に抱えていた書類を落としそうになり、慌てて体勢を整える。
「お仕事、お疲れさま!」
天真爛漫なタックルはいつも通りで、その仕草はロイドの疲れを癒やしてくれる。
しがみついてきた彼女の頭部を優しく撫でながら、口元を綻ばせた。
室内を見渡してみれば、キッチンの方から物音が聞こえてくる。
時間帯的に、夕飯の後片付けをしている最中なのだろう。
その一画から、ひょっこりと水色の頭が顔を覗かせた。
「おかえりなさい。ロイドさん。夕飯は済ませてきたんですよね?」
「ああ、打ち合わせがてらにね」
「それは食事にかこつけた残業というやつでは……?」
ティオは返ってきた言葉に思わず眉を顰めた。
「ははっ、そんな大袈裟なものじゃないよ。雑談の方が多かったくらいだし」
彼女特有のジト目を受けて、ロイドが鷹揚に笑う。
「ねぇ、ロイド……疲れてるの?」
その会話を聞いていた愛娘は、心配そうに大好きな青年の袖を引っ張った。
「大丈夫だ。キーアの顔を見たら元気になったよ」
「そういうことです。なんといってもキーアは私たちの活力源ですからね」
彼女の憂いは見たくないとばかりに、二人は揃って柔らかな声音を落とす。
「そうなの?みんなが元気ならキーアも嬉しいな!……あっ、そうだ」
それは聞いた途端、幼い瞳がパッと輝いた。
そのまま、何かを思い出したようにキッチンの方へ跳ねていく。
「丁度、食後のお茶にするところだったんだ。ね!ティオ」
「そうでした。ロイドさんも一緒にどうですか?」
明るい口調に促され、ティオが中断している作業に意識を戻した。
「もちろんだよ」
ロイドはキッチンへ向かう二人を手伝うつもりで後を追ったが、
「あ、ロイドは座ってていいよ~」
それを見透かしたように、奥からキーアの声に先制される。
帰宅したばかりの彼を気遣っていることは明らかだった。
楽しげな家族たちのやり取りを聞きながら、テーブルの一席に腰を落ち着ける。
再び見回した部屋の中がやけに広く感じられた。
「……エリィは久しぶりに実家で夕食を取るって言ってたな」
頬杖を付いて、ここにはいない二人の予定を反芻する。
最近は個々に動いていることも多いが、特務支援課のリーダーとして皆の予定は常に把握していた。
「ランディは……」
その男の名前が音を成した途端、ロイドの表情が曇る。
本人さえも気が付かない微かな暗色が瞳の奥に広がった。
三人で和やかにテーブルを囲んだ後、ロイドは自室へ戻った。
すぐさま机の前に向かい、持ち帰った書類を広げる。
「よし、一通り目を通しておくか」
近々、交通課が不正な導力車の一斉摘発を行う予定だ。
大規模な案件のため人手が欲しいとあって、支援課も応援にかり出されている。
書類には資料が簡潔に纏めてあり、クリップに挟める程度の量に収まっていた。
導力ネットが普及しているとはいえ、まだまだ紙の情報は欠かせない。
ロイドは無言で文字の羅列を追い始めた。
資料の確認自体は今日でなくても構わないのだが、彼は真面目で責任感の強い男だ。
さっきのティオからの発言に絡めれば、これも立派な残業ではある。
しかし、ロイドは気に留める様子がない。
それどころか、わざと仕事のことで頭をいっぱいにしたがっているようだった。
時計の針はゆうに一回りをしている。
全ての資料に目を通し終えた彼は、大きく息を吐いて天井を仰ぎ見た。
凝り固まった上半身を伸ばしてみれば、細かな関節の音が鳴る。
それは静かな室内にやたらと響き渡った。
「……帰ってきてるんだっけな」
一つ、言葉が零れ落ちた。
勤勉な集中力が緩んだ隙に、赤い影が滑り込んでくる。
ロイドは、団欒の席で交わしていたやり取りを思い出してしまった。
あの時。ティオが彼の話題を振ってきたのは、気を利かせてくれたからなのかもしれない。
「そう言えば。ランディさんはお昼ごろに帰ってきたそうですよ」
「えっ、そうなのか?遅くなるのかと思ってたけど」
湯気が漂うカップをテーブルに置き、席へ着いた直後に彼女が口を開いた。
向かいにいるロイドが目を丸くしたのを見て、不思議そうに首を傾げる。
「連絡、取ってないんですか?」
「う~ん……たった一週間だしな。外国に行ってるわけでもないし」
問いかけてみたが、彼は苦笑して茶請けのクッキーをひとつまみしただけだった。
ランディは最近よく警備隊の訓練や演習にかり出されていた。
警備隊所属だった経歴と彼の戦闘能力を鑑みれば、上層部が頼りにするのも頷ける。
今回は強化訓練の一環で山間部に籠もるとのことだった。
ランディは一週間前、
「久しぶりに遠慮なく揉んでやろうかねぇ~」
などと言いながら、足取りも軽やかに出かけていった。
ふと、卓上に身を乗り出すようにして愛らしい声が響いた。
「あのね、エリィが一度ここに戻ってくる途中でランディとばったり会ったんだって」
飲み物が熱かったらしく、息を吹きかけて冷ましているキーアが、隣にいるロイドを見上げた。
「エリィさんの話によれば、ひと眠りしたら遊びに行くと言っていたらしいです」
その言葉を継いだティオが、情報を付け加えてくれる。
「ランディって元気だよね。キーアだったら朝までぐっすり眠っちゃいそう」
「遊びぶためなら、なんとやら……ですね」
二人の会話が耳元を通り抜け、ロイドは可笑しげに目を細めた。
彼女らは兄貴分であるランディの性格をしっかりと把握している。
だから、一仕事を終えた彼が歓楽街へ向かったことについては、至極当然という認識だった。
天井を見上げたままの視線は、どことなく焦点が定まらない。
「……どうせ、遅くまで遊んでくるんだろうし」
しばらく同じ姿勢のままで首が痛くなったのか、ロイドは呟きながら姿勢を正した。
読み終えた書類を一瞥し、上着のポケットに手を突っ込む。
彼の身体は意図せず動いていた。
心の隙間に入り込んだ焔が、正常な思考回路を停止させてしまう。
携帯端末を取り出し、何の躊躇もせずにカバーを開いた。
──完全に無意識だった。
歓楽街の賑わいぶりは、今が最高潮だ。
訓練漬けだった男の身には、享楽へと誘う雑音たちが気安く染み渡る。
ランディは界隈を一通りぶらつき、最終的には馴染みの店であるバルカを訪れた。
支配人であるドレイクに顔を見せた後で、意気揚々とギャンブルに興じる。
彼が二階のスロット台に腰を落ち着けたのは、入店してから小一時間は経過した頃だった。
ルーレットやポーカーにも手を出していたが、今夜はどうにも良い流れがやってこない。
だったら諦めるまでと、わざとらしい落胆ぶりを披露する姿はどこか楽しげだった。
「──おっ、こっちは良さげなじゃね?」
台に座ってから数分もしないうちに、彼はご機嫌な口笛を鳴らした。
どうやら、一階での負け分を取り戻せそうな予感がする。
思わず前のめりになったランディだったが、
「よぉ、兄ちゃん。久しぶりじゃねぇか」
不意に、背後から親しげな声が投げかけられた。
「まぁな、仕事で郊外に缶詰だったもんでよ」
振り向いた彼は、自分よりもひとまわりくらい年長の男を見てニッと笑った。
「へぇ~、何の仕事やってんだ?」
「これがまた、意外にお堅い系だったりするんだよなぁ」
「実は見かけによらないってやつか」
男はこのカジノの常連客で、ランディとは顔馴染みの間柄だ。
冗談めかした言葉の応酬をしながら、ひとつ台を挟んだ席でスロットを回し始める。
こういった場所では互いに深入りしないのが暗黙のルールだ。
男はただの興味本位だったらしい。相手がはぐらかしてきたので、それ以上は踏み込んでこなかった。
二人は程良い世間話をしながらも、それぞれがこの俗物的な空気を満喫している。
そんな中。
突如、ランディの上着から携帯端末の呼び出し音が鳴り響いた。
「おいおい、なんだっつーの」
夜の時間帯なので思わず眉を顰めてしまったが、すぐに片手をポケットに突っ込んだ。緊急事態という可能性もある。
「おう、どうした?」
なんとなく相手の予想はついたが、肝心の声が聞こえてこなかった。
「……ロイド?」
「──へっ!?あ、あれ?ランディ!?」
数拍の後、ひどく驚いた様子の応答が耳を貫通してきた。
ガタンッと激しく椅子が倒れた。
起立した勢いで机を叩き、片手と紙の束が擦れ合う。
反響音は短く、狭い空間。
それ以外は静かで、他の気配は感じられなかった。
「はいはい。お前の愛おしいランディさんですが……って、寝ぼけてんのかよ?」
端末越しからロイドの背後に隠れた音を聞き分け、ふざけながらも冷静な状況分析をする。
彼が自室にいることは確かだろう。
「い、いやっ、あのっ……全然かけるつもりとかなくて!」
これ以上ないくらいの狼狽ぶりがはっきりと伝わってくる。
ランディは景気の良い派手な演出が始まったスロット台を眺め、どう切り返そうかと思案した。
だが、ロイドの方には会話をする余裕などまるでない。
「ごめん、ほんとにごめん!!」
一週間ぶりだった声は悲鳴にも似た謝罪を残し、ぶつりと消えてしまった。
カバーを閉じた端末に、優しく細めた翠が注がれる。
勢いよくメダルが落ちてくる光景を前にしていても、不思議と高揚感が沸いてこなかった。
「ははっ、なんだ。女かよ?」
おもむろに席を立った彼を見て、顔馴染みの男がにやにやしながら茶化す。
距離が近いこともあり、通信でのやり取りは丸聞こえだったらしい。
「さあな~。可愛いヤツには違いねぇが」
それを気にする素振りもなく、ランディは可笑しげに口角をつり上げた。
昼間と見紛うほどに明るい街は、まだ眠ることを知らない。
その華やぎと喧噪から背を向けた男に未練の痕跡はなかった。
悠長な様子を装って帰路に付いた足は、いつもよりも少しばかり速い。
「帰ってきた一報くらい、よこせって?」
あの反応ならば、ロイドが通信を入れてきたのは本当に無意識だったのだろう。
そこに至る心境を慮り、ランディは小さく頭を振った。
二人は常日頃から、相棒と恋人の関係性をバランスよく保っている。
だが、それは真面目なロイドの性格ゆえであり、ランディはそれを尊重している形だ。
色事には不器用な上に、時々自分の感情にすら疎い部分がある。
彼にしてみれば、いつ恋人の顔をしてくれても構わないし、受け止める自信は満々だ。
「……あいつ、相変わらず下手だよなぁ」
すでに寝静まりつつある西通りを進み、すっかり馴染んだ古いビルを見上げてみる。
「まぁ、最近は警備隊の案件が多かったっつーのもあるか」
裏口から帰宅して我が家の空気を吸い込んだ後、ランディは二階の様子を探った。
ロイドが自室にいないことが分かり、今度は視線を上層へ走らせる。
「あー、上か」
きっと頭を冷やしに行ったのだろう。それくらいは容易に想像がついた。
薄暗い階段を静かに上り、屋上へと辿り着く。
ドアは開け放たれたままで、先にここを通った荒い足音が聞こえてくるようだった。
屋上にやってきた人物が誰かなんて、確かめるまでもない。
彼の戻りを予測していながら、逃げなかったのは自分だ。
それでも、やっぱり振り向くことはできなかった。
「──ロイドくん、待った?」
手摺りにもたれて街明かりを見つめる背中へ、軟派な言葉が投げかけられる。
「待ってない」
近づいてくる男の気配は、ロイドの態度を頑なにさせた。
「そうかよ。つれないね~」
ランディは恋人の傍らに立ち、わざとらしく肩を竦めてみせた。
不躾に隣の横面を暴こうとはせず、大きな背中を手摺りに預けてゆったりと腕を組む。
「まぁ、今夜はツイてなかったなんでな。さっさと退散してきたぜ」
彼はロイドとは逆方向の夜空を見上げ、さり気なく優しい嘘をついた。
「いつだってツイてないくせに」
それまで前を向いていた栗色の頭が、わずかに俯く。
ランディの言動にロイドは戸惑っていた。
てっきり茶化されて弄りまくられるものだと思っていたのだ。
憎まれ口を叩いた唇を噤んで隣を覗えば、柔らかな視線が注がれているのを感じる。
今の状況が想定していたものとは違いすぎて、どんな顔をすればいいのか分からなくなった。
「……もう、さっさとどっか行けよ」
思考の糸が絡まり続け、思わず手摺りに向かって伏せてしまいたくなる。
そんなロイドの横顔に何かが触れてきた。
「そいつは無理ってもんだろ?寂しがってる恋人を相手に」
武骨な手の甲がゆっくりと優しく頬を撫であげる。
突然やってきた温もりは一瞬で、なぜかすぐに離れてしまった。
名残惜しさを覚え、釣られるようにしてランディの方を向く。
「えっ、な……に、言って」
ほんのわずかな時間差で、一つの言葉が脳内に落下した。
「寂しい?俺が……?」
何度も目を瞬かせ、大きな困惑が露わになる。
そんなロイドの反応を見たランディは、自分が相手の胸中を見誤っていたことに気が付いた。
「あ~、そこからなわけね」
あの時の通信は、無意識からの産物で間違いはない。
だったら、どうしてそんな行動を取ってしまったのか?
屋上に上がって頭を冷やしていたのなら、それについての感情は自覚しているものと勝手に決めつけていた。
「……たかが一週間で?」
ロイドは両腕を抱え込み、忙しなく眼球を動かしている。
「もっと離れていた時期だって……あったのに」
握りしめた拳を顎に添え、唇から零れる息が小さく揺れた。
まるで独り言のような言葉は、夜風に紛れて行方をくらましてしまいそうだった。
「さすがに帝国の時と比べるのは『なし』だろ」
そんな呟きをしっかりと掴まえながら、ランディが静かに目を眇める。
ロイドがいつのことを言っているのかは、すぐに分かった。
あの時の焦燥感と葛藤の日々が頭を過ぎる。そして、今がどれだけ甘やかな時間かを思い知る。
手摺りを背もたれにしたまま、ふと見上げた夜空には深い濃紺が広がっていた。
いつの間にか、賑やかな声が聞こえていた中央広場も静かになってきている。
「でも、これくらいで寂しいとか……」
ロイドは未だに自分の感情を飲み込みきれていないようだった。
雑音がなくなった寒空の下、すでに答えが出ているはずの自己分析を繰り返す。
一週間前。楽しげに出かけて行った背中がやたらに遠く感じた。
まるで警備隊に彼を取られてしまったような気がして、子供じみた嫉妬が胸の奥に燻った。
携帯端末に手を伸ばしたのは、声が聞きたかったからだ。
声が聞きたかったのは、彼との繋がりを確かめたかったからだ。
そして、そんな想いを募らせる感情の正体は、ただ一つの短い言葉で表現できる。
「そんなの……小さな子供みたいじゃないか」
ロイドは両目を強く瞑った後、年上の恋人を振り仰いだ。
ようやく二人の視線が交差する。
ランディが空を見上げていたのは一時だけだったらしい。それ以降は、一人で戸惑うロイドを傍らで愛おしんでいた。
「別にいいんじゃねぇの。お前さんは難しく考えすぎなんだよ」
途方に暮れたような幼い顔は、不器用な思考の巡りを手放そうとしない。
「寂しがることに年齢は関係ないだろ?ましてや恋人同士なら」
柔らかな口調で諭してくるランディの声は、身動きの取れないロイドを引っ張り出すかのようだった。
手摺りにもたれていた身体が動き、いよいよ真正面から向かい合う。
さっきはわざと泳がせた手が、今度は大きな掌で頬を撫でた。
「いい加減、認めちまえよ」
「……あ」
一瞬だけだった温もりが、今度は離れずに頬を侵食した。
意地っ張りになっている心の奥が、ぐらぐらと音を立てて傾いていく。
それにとどめを刺すかのごとく、ランディは顔を近づけてニヤリと笑った。
「──で、早く俺に抱き付いてこい。さっきからずっと待ってるんだぜ?」
もう、虚勢を張るのは無理だった。
足を踏み込んだロイドの視界が、見慣れたオレンジ色でいっぱいになる。
促されるがまま、彼は思いきりランディの胸元に抱き付いた。
一週間ぶりに感じる体温は心地良く、回した両腕には自然と力がこもってしまう。
それを物ともしない強靱な肉体と、そこから漂う彼の香りを無心で堪能する。
「おう、おう。熱烈だねぇ」
やっと甘えてくれたが、その勢いが嬉しいやら可笑しいやらで、ランディは苦笑を禁じ得ない。
それでも彼の波長に合わせ、擦り寄ってくる栗色の髪を言葉少なに梳いてやった。
どれくらいそうしていたのだろう。
静まりかえった深夜の屋上は、冷えた風など感じないくらいに温かい。
ふと、ランディが口を開いた。
「なぁ、そろそろ顔上げて欲しいんだけど」
この場所に来てからというもの、ロイドの表情を覗えたのはほんの少しだけだ。
久しぶりの逢瀬だというのに、それでは物足りなさすぎる。
本音を言ってしまえば、さっさと自分の部屋にお持ち帰りしてしまいたい気分だ。
「なぁ、ロイド?」
「──嫌だ」
しかし、催促も空しくロイドが突っぱねてくる。
彼とて、いつまでもこの状態でいられるわけがないと頭では理解していた。
けれど、心が思うようについてこない。
無意識にやらかしたことから始まり、寂しがっていることを自覚してしまった。
今夜は包容力が全開であろう恋人を前にして、彼の羞恥心は増すばかりだ。
「まだ……このままがいい」
ロイドは甘ったるい空気が漂う中で、ぽそりと言った。
密着しているせいで、ランディが小さく肩を揺らしているのが分かる。
きっと困ったように笑っていることだろう。
今はどんな態度を取ったとしても揶揄の兆しはなく、愛おしげに緩んだ眼差しが待っているだけだ。
だから、どうしたって逡巡するのを止められない。
本当に──どんな顔をしたらいいのかが分からなくなってしまった。
2023.03.14
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寂しくて無自覚にやらかしてしまったロイドと、包容力が全開なランディの話。
あまりふざけていない大人で優しいランディです。
【文字数:7800】
人気がない階段に激しく乱れた足音が響き渡った。
明らかな動揺を全身に纏い、一気に屋上へと駆け上る。
強く開け放ったドアを閉めることも忘れ、一直線に先端まで突き進む。
その勢いのまま、ロイドは手摺りに身体を押し付けて大きく項垂れた。
「……やらかした」
携帯端末を握りしめている手には、不快な汗が滲んでいる。
久しぶりに聞いた声が耳元に残っているような気がして、軽く目眩がした。
「なにやってんだよ、俺」
冷えた夜風が通り抜け、それが気持ち良いと感じるくらいには頬が熱い。
時刻はまだ宵の口。陽気な笑い声たちが夜景の中に溶けては消えていく。
ロイドは伏せていた頭を上げ、ぼんやりと街の賑わいを見下ろした。
「遊んでるとこに水を差したよなぁ……絶対」
手の中にある端末が、自らの失態を主張している。
そこから目を逸らしたくて、乱暴に上着のポケットへ押し込んだ。
未だに着信音が鳴る気配はなく、間接的な追い打ちをかけてくるつもりはないのだろう。
「はぁ……」
深く吐き出された溜息に安堵の色はなかった。
ロイドには、この先の展開が易々と想像できてしまう。
彼の相棒であり恋人でもある男は、戯けたふりをしながら優しい顔をする。
今の段階で声をかけてこないのであれば、つまりはそういうことだ。
歓楽街の方向に目をやれば、煌々とした灯りが他の地区よりも一層際立っている。
いっそのこと、夜の街に逃げ出してしまおうかとも考えた。
けれど、一時的にこの場を凌いだとしても、明日の朝には顔を合わせる羽目になる。
こうなったら、潔く弄られた方が良いのかもしれない。
そう思い始めたロイドの頭は、仕方なく腹を括る方向へと流れていく。
逃げ道を探しあぐねた足は、屋上の一角で完全に動きを止めることになった。
ロイドが帰宅したのは、二十時を回った頃だった。
「ロイドー!おかえりなさ〜い!」
建物に入って玄関のドアを閉めると、テーブルの付近にいたキーアが猛ダッシュで突っ込んできた。
「おっと、ただいま。キーア」
小脇に抱えていた書類を落としそうになり、慌てて体勢を整える。
「お仕事、お疲れさま!」
天真爛漫なタックルはいつも通りで、その仕草はロイドの疲れを癒やしてくれる。
しがみついてきた彼女の頭部を優しく撫でながら、口元を綻ばせた。
室内を見渡してみれば、キッチンの方から物音が聞こえてくる。
時間帯的に、夕飯の後片付けをしている最中なのだろう。
その一画から、ひょっこりと水色の頭が顔を覗かせた。
「おかえりなさい。ロイドさん。夕飯は済ませてきたんですよね?」
「ああ、打ち合わせがてらにね」
「それは食事にかこつけた残業というやつでは……?」
ティオは返ってきた言葉に思わず眉を顰めた。
「ははっ、そんな大袈裟なものじゃないよ。雑談の方が多かったくらいだし」
彼女特有のジト目を受けて、ロイドが鷹揚に笑う。
「ねぇ、ロイド……疲れてるの?」
その会話を聞いていた愛娘は、心配そうに大好きな青年の袖を引っ張った。
「大丈夫だ。キーアの顔を見たら元気になったよ」
「そういうことです。なんといってもキーアは私たちの活力源ですからね」
彼女の憂いは見たくないとばかりに、二人は揃って柔らかな声音を落とす。
「そうなの?みんなが元気ならキーアも嬉しいな!……あっ、そうだ」
それは聞いた途端、幼い瞳がパッと輝いた。
そのまま、何かを思い出したようにキッチンの方へ跳ねていく。
「丁度、食後のお茶にするところだったんだ。ね!ティオ」
「そうでした。ロイドさんも一緒にどうですか?」
明るい口調に促され、ティオが中断している作業に意識を戻した。
「もちろんだよ」
ロイドはキッチンへ向かう二人を手伝うつもりで後を追ったが、
「あ、ロイドは座ってていいよ~」
それを見透かしたように、奥からキーアの声に先制される。
帰宅したばかりの彼を気遣っていることは明らかだった。
楽しげな家族たちのやり取りを聞きながら、テーブルの一席に腰を落ち着ける。
再び見回した部屋の中がやけに広く感じられた。
「……エリィは久しぶりに実家で夕食を取るって言ってたな」
頬杖を付いて、ここにはいない二人の予定を反芻する。
最近は個々に動いていることも多いが、特務支援課のリーダーとして皆の予定は常に把握していた。
「ランディは……」
その男の名前が音を成した途端、ロイドの表情が曇る。
本人さえも気が付かない微かな暗色が瞳の奥に広がった。
三人で和やかにテーブルを囲んだ後、ロイドは自室へ戻った。
すぐさま机の前に向かい、持ち帰った書類を広げる。
「よし、一通り目を通しておくか」
近々、交通課が不正な導力車の一斉摘発を行う予定だ。
大規模な案件のため人手が欲しいとあって、支援課も応援にかり出されている。
書類には資料が簡潔に纏めてあり、クリップに挟める程度の量に収まっていた。
導力ネットが普及しているとはいえ、まだまだ紙の情報は欠かせない。
ロイドは無言で文字の羅列を追い始めた。
資料の確認自体は今日でなくても構わないのだが、彼は真面目で責任感の強い男だ。
さっきのティオからの発言に絡めれば、これも立派な残業ではある。
しかし、ロイドは気に留める様子がない。
それどころか、わざと仕事のことで頭をいっぱいにしたがっているようだった。
時計の針はゆうに一回りをしている。
全ての資料に目を通し終えた彼は、大きく息を吐いて天井を仰ぎ見た。
凝り固まった上半身を伸ばしてみれば、細かな関節の音が鳴る。
それは静かな室内にやたらと響き渡った。
「……帰ってきてるんだっけな」
一つ、言葉が零れ落ちた。
勤勉な集中力が緩んだ隙に、赤い影が滑り込んでくる。
ロイドは、団欒の席で交わしていたやり取りを思い出してしまった。
あの時。ティオが彼の話題を振ってきたのは、気を利かせてくれたからなのかもしれない。
「そう言えば。ランディさんはお昼ごろに帰ってきたそうですよ」
「えっ、そうなのか?遅くなるのかと思ってたけど」
湯気が漂うカップをテーブルに置き、席へ着いた直後に彼女が口を開いた。
向かいにいるロイドが目を丸くしたのを見て、不思議そうに首を傾げる。
「連絡、取ってないんですか?」
「う~ん……たった一週間だしな。外国に行ってるわけでもないし」
問いかけてみたが、彼は苦笑して茶請けのクッキーをひとつまみしただけだった。
ランディは最近よく警備隊の訓練や演習にかり出されていた。
警備隊所属だった経歴と彼の戦闘能力を鑑みれば、上層部が頼りにするのも頷ける。
今回は強化訓練の一環で山間部に籠もるとのことだった。
ランディは一週間前、
「久しぶりに遠慮なく揉んでやろうかねぇ~」
などと言いながら、足取りも軽やかに出かけていった。
ふと、卓上に身を乗り出すようにして愛らしい声が響いた。
「あのね、エリィが一度ここに戻ってくる途中でランディとばったり会ったんだって」
飲み物が熱かったらしく、息を吹きかけて冷ましているキーアが、隣にいるロイドを見上げた。
「エリィさんの話によれば、ひと眠りしたら遊びに行くと言っていたらしいです」
その言葉を継いだティオが、情報を付け加えてくれる。
「ランディって元気だよね。キーアだったら朝までぐっすり眠っちゃいそう」
「遊びぶためなら、なんとやら……ですね」
二人の会話が耳元を通り抜け、ロイドは可笑しげに目を細めた。
彼女らは兄貴分であるランディの性格をしっかりと把握している。
だから、一仕事を終えた彼が歓楽街へ向かったことについては、至極当然という認識だった。
天井を見上げたままの視線は、どことなく焦点が定まらない。
「……どうせ、遅くまで遊んでくるんだろうし」
しばらく同じ姿勢のままで首が痛くなったのか、ロイドは呟きながら姿勢を正した。
読み終えた書類を一瞥し、上着のポケットに手を突っ込む。
彼の身体は意図せず動いていた。
心の隙間に入り込んだ焔が、正常な思考回路を停止させてしまう。
携帯端末を取り出し、何の躊躇もせずにカバーを開いた。
──完全に無意識だった。
歓楽街の賑わいぶりは、今が最高潮だ。
訓練漬けだった男の身には、享楽へと誘う雑音たちが気安く染み渡る。
ランディは界隈を一通りぶらつき、最終的には馴染みの店であるバルカを訪れた。
支配人であるドレイクに顔を見せた後で、意気揚々とギャンブルに興じる。
彼が二階のスロット台に腰を落ち着けたのは、入店してから小一時間は経過した頃だった。
ルーレットやポーカーにも手を出していたが、今夜はどうにも良い流れがやってこない。
だったら諦めるまでと、わざとらしい落胆ぶりを披露する姿はどこか楽しげだった。
「──おっ、こっちは良さげなじゃね?」
台に座ってから数分もしないうちに、彼はご機嫌な口笛を鳴らした。
どうやら、一階での負け分を取り戻せそうな予感がする。
思わず前のめりになったランディだったが、
「よぉ、兄ちゃん。久しぶりじゃねぇか」
不意に、背後から親しげな声が投げかけられた。
「まぁな、仕事で郊外に缶詰だったもんでよ」
振り向いた彼は、自分よりもひとまわりくらい年長の男を見てニッと笑った。
「へぇ~、何の仕事やってんだ?」
「これがまた、意外にお堅い系だったりするんだよなぁ」
「実は見かけによらないってやつか」
男はこのカジノの常連客で、ランディとは顔馴染みの間柄だ。
冗談めかした言葉の応酬をしながら、ひとつ台を挟んだ席でスロットを回し始める。
こういった場所では互いに深入りしないのが暗黙のルールだ。
男はただの興味本位だったらしい。相手がはぐらかしてきたので、それ以上は踏み込んでこなかった。
二人は程良い世間話をしながらも、それぞれがこの俗物的な空気を満喫している。
そんな中。
突如、ランディの上着から携帯端末の呼び出し音が鳴り響いた。
「おいおい、なんだっつーの」
夜の時間帯なので思わず眉を顰めてしまったが、すぐに片手をポケットに突っ込んだ。緊急事態という可能性もある。
「おう、どうした?」
なんとなく相手の予想はついたが、肝心の声が聞こえてこなかった。
「……ロイド?」
「──へっ!?あ、あれ?ランディ!?」
数拍の後、ひどく驚いた様子の応答が耳を貫通してきた。
ガタンッと激しく椅子が倒れた。
起立した勢いで机を叩き、片手と紙の束が擦れ合う。
反響音は短く、狭い空間。
それ以外は静かで、他の気配は感じられなかった。
「はいはい。お前の愛おしいランディさんですが……って、寝ぼけてんのかよ?」
端末越しからロイドの背後に隠れた音を聞き分け、ふざけながらも冷静な状況分析をする。
彼が自室にいることは確かだろう。
「い、いやっ、あのっ……全然かけるつもりとかなくて!」
これ以上ないくらいの狼狽ぶりがはっきりと伝わってくる。
ランディは景気の良い派手な演出が始まったスロット台を眺め、どう切り返そうかと思案した。
だが、ロイドの方には会話をする余裕などまるでない。
「ごめん、ほんとにごめん!!」
一週間ぶりだった声は悲鳴にも似た謝罪を残し、ぶつりと消えてしまった。
カバーを閉じた端末に、優しく細めた翠が注がれる。
勢いよくメダルが落ちてくる光景を前にしていても、不思議と高揚感が沸いてこなかった。
「ははっ、なんだ。女かよ?」
おもむろに席を立った彼を見て、顔馴染みの男がにやにやしながら茶化す。
距離が近いこともあり、通信でのやり取りは丸聞こえだったらしい。
「さあな~。可愛いヤツには違いねぇが」
それを気にする素振りもなく、ランディは可笑しげに口角をつり上げた。
昼間と見紛うほどに明るい街は、まだ眠ることを知らない。
その華やぎと喧噪から背を向けた男に未練の痕跡はなかった。
悠長な様子を装って帰路に付いた足は、いつもよりも少しばかり速い。
「帰ってきた一報くらい、よこせって?」
あの反応ならば、ロイドが通信を入れてきたのは本当に無意識だったのだろう。
そこに至る心境を慮り、ランディは小さく頭を振った。
二人は常日頃から、相棒と恋人の関係性をバランスよく保っている。
だが、それは真面目なロイドの性格ゆえであり、ランディはそれを尊重している形だ。
色事には不器用な上に、時々自分の感情にすら疎い部分がある。
彼にしてみれば、いつ恋人の顔をしてくれても構わないし、受け止める自信は満々だ。
「……あいつ、相変わらず下手だよなぁ」
すでに寝静まりつつある西通りを進み、すっかり馴染んだ古いビルを見上げてみる。
「まぁ、最近は警備隊の案件が多かったっつーのもあるか」
裏口から帰宅して我が家の空気を吸い込んだ後、ランディは二階の様子を探った。
ロイドが自室にいないことが分かり、今度は視線を上層へ走らせる。
「あー、上か」
きっと頭を冷やしに行ったのだろう。それくらいは容易に想像がついた。
薄暗い階段を静かに上り、屋上へと辿り着く。
ドアは開け放たれたままで、先にここを通った荒い足音が聞こえてくるようだった。
屋上にやってきた人物が誰かなんて、確かめるまでもない。
彼の戻りを予測していながら、逃げなかったのは自分だ。
それでも、やっぱり振り向くことはできなかった。
「──ロイドくん、待った?」
手摺りにもたれて街明かりを見つめる背中へ、軟派な言葉が投げかけられる。
「待ってない」
近づいてくる男の気配は、ロイドの態度を頑なにさせた。
「そうかよ。つれないね~」
ランディは恋人の傍らに立ち、わざとらしく肩を竦めてみせた。
不躾に隣の横面を暴こうとはせず、大きな背中を手摺りに預けてゆったりと腕を組む。
「まぁ、今夜はツイてなかったなんでな。さっさと退散してきたぜ」
彼はロイドとは逆方向の夜空を見上げ、さり気なく優しい嘘をついた。
「いつだってツイてないくせに」
それまで前を向いていた栗色の頭が、わずかに俯く。
ランディの言動にロイドは戸惑っていた。
てっきり茶化されて弄りまくられるものだと思っていたのだ。
憎まれ口を叩いた唇を噤んで隣を覗えば、柔らかな視線が注がれているのを感じる。
今の状況が想定していたものとは違いすぎて、どんな顔をすればいいのか分からなくなった。
「……もう、さっさとどっか行けよ」
思考の糸が絡まり続け、思わず手摺りに向かって伏せてしまいたくなる。
そんなロイドの横顔に何かが触れてきた。
「そいつは無理ってもんだろ?寂しがってる恋人を相手に」
武骨な手の甲がゆっくりと優しく頬を撫であげる。
突然やってきた温もりは一瞬で、なぜかすぐに離れてしまった。
名残惜しさを覚え、釣られるようにしてランディの方を向く。
「えっ、な……に、言って」
ほんのわずかな時間差で、一つの言葉が脳内に落下した。
「寂しい?俺が……?」
何度も目を瞬かせ、大きな困惑が露わになる。
そんなロイドの反応を見たランディは、自分が相手の胸中を見誤っていたことに気が付いた。
「あ~、そこからなわけね」
あの時の通信は、無意識からの産物で間違いはない。
だったら、どうしてそんな行動を取ってしまったのか?
屋上に上がって頭を冷やしていたのなら、それについての感情は自覚しているものと勝手に決めつけていた。
「……たかが一週間で?」
ロイドは両腕を抱え込み、忙しなく眼球を動かしている。
「もっと離れていた時期だって……あったのに」
握りしめた拳を顎に添え、唇から零れる息が小さく揺れた。
まるで独り言のような言葉は、夜風に紛れて行方をくらましてしまいそうだった。
「さすがに帝国の時と比べるのは『なし』だろ」
そんな呟きをしっかりと掴まえながら、ランディが静かに目を眇める。
ロイドがいつのことを言っているのかは、すぐに分かった。
あの時の焦燥感と葛藤の日々が頭を過ぎる。そして、今がどれだけ甘やかな時間かを思い知る。
手摺りを背もたれにしたまま、ふと見上げた夜空には深い濃紺が広がっていた。
いつの間にか、賑やかな声が聞こえていた中央広場も静かになってきている。
「でも、これくらいで寂しいとか……」
ロイドは未だに自分の感情を飲み込みきれていないようだった。
雑音がなくなった寒空の下、すでに答えが出ているはずの自己分析を繰り返す。
一週間前。楽しげに出かけて行った背中がやたらに遠く感じた。
まるで警備隊に彼を取られてしまったような気がして、子供じみた嫉妬が胸の奥に燻った。
携帯端末に手を伸ばしたのは、声が聞きたかったからだ。
声が聞きたかったのは、彼との繋がりを確かめたかったからだ。
そして、そんな想いを募らせる感情の正体は、ただ一つの短い言葉で表現できる。
「そんなの……小さな子供みたいじゃないか」
ロイドは両目を強く瞑った後、年上の恋人を振り仰いだ。
ようやく二人の視線が交差する。
ランディが空を見上げていたのは一時だけだったらしい。それ以降は、一人で戸惑うロイドを傍らで愛おしんでいた。
「別にいいんじゃねぇの。お前さんは難しく考えすぎなんだよ」
途方に暮れたような幼い顔は、不器用な思考の巡りを手放そうとしない。
「寂しがることに年齢は関係ないだろ?ましてや恋人同士なら」
柔らかな口調で諭してくるランディの声は、身動きの取れないロイドを引っ張り出すかのようだった。
手摺りにもたれていた身体が動き、いよいよ真正面から向かい合う。
さっきはわざと泳がせた手が、今度は大きな掌で頬を撫でた。
「いい加減、認めちまえよ」
「……あ」
一瞬だけだった温もりが、今度は離れずに頬を侵食した。
意地っ張りになっている心の奥が、ぐらぐらと音を立てて傾いていく。
それにとどめを刺すかのごとく、ランディは顔を近づけてニヤリと笑った。
「──で、早く俺に抱き付いてこい。さっきからずっと待ってるんだぜ?」
もう、虚勢を張るのは無理だった。
足を踏み込んだロイドの視界が、見慣れたオレンジ色でいっぱいになる。
促されるがまま、彼は思いきりランディの胸元に抱き付いた。
一週間ぶりに感じる体温は心地良く、回した両腕には自然と力がこもってしまう。
それを物ともしない強靱な肉体と、そこから漂う彼の香りを無心で堪能する。
「おう、おう。熱烈だねぇ」
やっと甘えてくれたが、その勢いが嬉しいやら可笑しいやらで、ランディは苦笑を禁じ得ない。
それでも彼の波長に合わせ、擦り寄ってくる栗色の髪を言葉少なに梳いてやった。
どれくらいそうしていたのだろう。
静まりかえった深夜の屋上は、冷えた風など感じないくらいに温かい。
ふと、ランディが口を開いた。
「なぁ、そろそろ顔上げて欲しいんだけど」
この場所に来てからというもの、ロイドの表情を覗えたのはほんの少しだけだ。
久しぶりの逢瀬だというのに、それでは物足りなさすぎる。
本音を言ってしまえば、さっさと自分の部屋にお持ち帰りしてしまいたい気分だ。
「なぁ、ロイド?」
「──嫌だ」
しかし、催促も空しくロイドが突っぱねてくる。
彼とて、いつまでもこの状態でいられるわけがないと頭では理解していた。
けれど、心が思うようについてこない。
無意識にやらかしたことから始まり、寂しがっていることを自覚してしまった。
今夜は包容力が全開であろう恋人を前にして、彼の羞恥心は増すばかりだ。
「まだ……このままがいい」
ロイドは甘ったるい空気が漂う中で、ぽそりと言った。
密着しているせいで、ランディが小さく肩を揺らしているのが分かる。
きっと困ったように笑っていることだろう。
今はどんな態度を取ったとしても揶揄の兆しはなく、愛おしげに緩んだ眼差しが待っているだけだ。
だから、どうしたって逡巡するのを止められない。
本当に──どんな顔をしたらいいのかが分からなくなってしまった。
2023.03.14
畳む
彼の人となりは場所を問わない
黎ED後・恋人設定
イーディスに出張した二人が偶然ヴァンとアーロンに出会う話。
注意:アロヴァンの描写があります。
2022年リクエスト⑥
【文字数:12000】
車窓の中を長閑な風景が流れている。
座席から伝わってくる規則的な列車の振動は、彼の眠気を誘うのに十分だった。
気持ち良さそうに船を漕いでいる栗色の頭が、一段と深く落ち込む。
「──っあ?」
「おいおい。随分と派手にいったな」
その重みで目を覚ましたロイドは、笑いを含んだ声に顔を上げた。
寝ぼけた視界に鮮やかな赤が入ってくる。
「ん~、問題ない……と思う」
首筋に手をやって何度か揉み込んでから、軽く回したり傾けたりしてみる。
まだ頭が覚めきっていないのか、少しばかり舌足らずな喋り方だ。
「眠いならもうちょい寝てれば?」
彼の真向かいに座っているランディは、窓辺に肘をかけ頬杖を付いている。
年下の相棒に寄せる眼差しは穏やかだ。
「いや。だいぶ寝てたみたいだし、大丈夫だ」
しかし、ロイドは寝落ちする直前の記憶を手繰りながらきっぱりとそう言った。
自然豊かな風景だった窓の外は、いつの間にか無機質な人工物が多くなり始めている。
カルバード共和国の首都・イーディスに近づいていることが分かる。
改めて気を引き締めようと、自分の頬を両手で叩いた。
「そうかよ。ま、こっちはお前の寝顔を堪能できたんで首尾は上々ってな」
そんな彼とは対照的で、赤毛の男には緊張感の欠片もない。
「な、何しに来たんだよっ、ランディは!」
咄嗟に噛みつきたくなったロイドだが、客車の中ということもあり、ぐっと堪えて声を抑えた。
「……そもそも、どうして俺に付いてきたんだ?」
のんびりと構えている男を真正面から睨め付ける。
今回の出張はロイド一人の予定だった。
以前から追っている密輸組織がイーディスに潜伏していると、共和国側からの情報があった。
組織自体は極々小規模な部類に属する。
共和国側の協力も考えれば、クロスベル側からの人員は最小限で支障はないとの判断だ。
そこで、捜査官であるロイドに白羽の矢が立てられた。
技量と経験値。それこそ潜り抜けてきた修羅場は数知れない。
この人選に異を唱える者は誰もいなかった。
近年は国を跨ぐ国際犯罪も増加の一途を辿っている。
隣国である共和国警察との情報交換も盛んで、今回のような協力案件も珍しくはなかった。
「そっちだって、警備隊の演習に声が掛かっていたんじゃないのか?」
出張までの経緯を頭に巡らせたロイドは、不思議そうに尋ねた。
「都合が良ければって話だったからな。っつーか、そこ聞いちゃうわけ?」
それが意外だったのか、ランディはわずかに瞠目した後で困ったように笑った。
「へ?まずかったか?だって演習の方が好きだろ?」
毎度のことながら鈍い反応をしてくるロイドに対し、盛大な溜息を吐いてみせる。
「はぁ~、お前さんってヤツは」
加えて、わざとらしく間を取りながら左右に首を振った。
「相棒が一人で外国に出張とか、気になりすぎて演習どころじゃねぇんだわ」
そのくらいは解ってくれよと。
少し身を乗り出したランディが、戯けた様子で目の前にある頭を軽く小突いた。
「えっと、あれ?それって……」
ロイドはその感触に思わず首を竦め、鳶色の瞳を何度も瞬かせる。
その時、イーディスへの到着予定を告げる車内アナウンスが響き渡った。
久方ぶりに降り立った首都の駅前は、随分と様変わりしていた。
二人ともイーディスを訪れるのが初めてというわけではない。
ロイドは短いながらも共和国に住んでいた時期があるし、ランディの方も猟兵時代に足を運んだことがあるという。
しかし、それも今となっては懐かしむ程度に昔の話だった。
「……凄いなぁ。たった数年でこんなにも変わるなんて」
陸橋の向こうに設置されている大型モニターを見上げ、ロイドが感嘆の息を漏らした。
「お前はまだマシだろ?俺なんて軽く十年は経ってる。完全に別の街って気になるぜ」
もちろん、彼らは共和国の現状をしっかりと把握している。
だが、やはり実際に現地に行って五感で得る情報量には適わない。
クロスベルからの来訪者たちには、急速に発展した街並みの全てが新鮮だった。
そんな二人の元へ、浅黒い肌をした強面の男が近づいてきた。
「来たか。バニングス捜査官」
堅めの口調はいかにも警察の人間といった印象だ。
「お疲れ様です、ダスワニ警部。先日の通信以来ですね」
反射的にロイドの表情が引き締まる。
彼の横に添っているランディは、外面用の友好的な笑みを浮かべた。
「俺の方は初めまして……ってとこだな」
その緩い顔の下で、冷静に初対面の相手を品定めする。
「まさか、再事変の立役者が揃い踏みとはな」
対するダスワニの方は、たかだか数人規模の犯罪組織に大袈裟な、とでも言いたげだ。
「あくまでメインはこいつだ。俺が勝手に付いてきただけなんでな。軽く流しといてくれよ」
元よりお堅い警察畑の人種とは反りが合わない。
かといってロイドの面目を潰すわけにはいかず、彼の背中を叩いて前へと押し出した。
それをどう捉えたのか、ダスワニは表情一つ変えずに渋めのコートを翻し、駅前のロータリーへ歩き出す。
「すぐに顔合わせだ。署で他の奴らが待っているんでな」
彼は導力車で二人を出迎えに来ていた。
慌ててその後ろ姿を追う男たちが顔を見合わせる。
「なぁ……俺も出なきゃダメ?」
捜査官であるロイドはともかく、ランディにしてみれば息が詰まる空間になるのは確実だ。
急に甘えた口調でお伺いを立ててきた男に、真面目な青年の鋭い視線が突き刺さる。
「今更だぞ、ランディ。出張費は二人分出てるんだからしっかり働け」
ロイドは容赦ない肘鉄をお見舞いして、車の後部座席に大きな身体を押し入れる。
強引に逃げ道を塞いだ上で、自らもその隣に乗り込んだ。
二時間ほど後。
警察署の建物から出てきた途端に、ランディはぐったりと脱力した。
「……堅い、堅すぎる」
「ははっ、うちの捜査一課とかもあんなもんだろ?」
イーディスに来て早々、大きなダメージを食らっている相方の姿が面白い。
ロイドは笑い声を立てながら、お疲れ様とばかりに彼の肩を叩いて労ってやった。
署内の一室で行われた合同会議は滞りなく終了した。
実際に潜伏現場に乗り込むのは明日の早朝。
ダスワニを含む数名の警察官とは、細部までのすり合わせが完了している。
事前の準備に抜かりはなかった。
「それにしても、意外に予定より早く終わったな。取りあえず、ホテルにチェックインしとくか」
目の前に広がる行政地区のビル群を見上げ、ロイドの足がきびきびと動き出す。
整然と建物が立ち並ぶこの区画は、奥まった場所を除けば比較的歩きやすい。
「確かこの道を真っ直ぐ行って……」
「おい。まさか、こんなお役所系が真っ只中で取ったのかよ?」
ぶつぶつと言っている彼と肩を並べ、ランディが眉を顰めて問いかけた。
「仕事で来てるから警察署の近くが良いかと思って。あ、でも安い所だからな。出張費も馬鹿にならないし」
それが当たり前だとばかりの返しをされ、赤毛の男は呆れを通り越して何とも言えない表情になってしまった。
「マジかよ……さすがはロイドくん。どうせなら賑わってる地区にしとけっつーの」
いくら仕事で出張だからとはいえ、多少の楽しみがあってもバチは当たらないだろうと思う。
しかし、そんなランディの気持ちは素通りだ。
彼の唯一無二である相棒は、とても真面目な性格の捜査官だった。
当初、単身でイーディスに来るつもりだったロイドは、正直なところ安堵していた。
もちろん、自分だけでも仕事を完遂する自負と責任感はある。
とはいえ、今回の行き先はカルバード共和国だった。
知人の多い帝国方面ならまだしも、不慣れな場所では多少の不安が付きまとうものだ。
ふと隣を見上げれば、すぐに見慣れた横顔が視界に入ってきた。
(……やっぱり落ち着くなぁ)
彼がただ側にいてくれるだけで、こんなにも肩の力が抜けて自然体になれる。
その存在が頼もしくもあり、外国にまで付いてきてくれたことが嬉しかった。
「いや~、なかなか面白かった。ああいうド派手な演出は好きだぜ」
「大きなスクリーンだと迫力があるよな。ランディってば、綺麗なお姉さんが出てきてから凄く楽しそうだった」
「おうっ、やっぱ綺麗どころがいねぇとな!」
結局、予定よりも時間に余裕ができたロイドは、ランディのたっての希望で映画を鑑賞することにした。
ホテルにチェックインした後、あまりにも浮かれ調子で言ってきたので、つい甘やかしてしまったのだ。
基本的には真面目な彼だが、そこまで融通が利かないほど堅物ではない。
元々、会議が終わったら街中を散策するつもりだったので、全くの予定外というわけではなかった。
そして、何よりも大切な相棒と外国の街を歩くのが純粋に楽しみだった。
二人は映画館を出た後、冷めやらぬ興奮を会話にしながらメインストリートを歩いていた。
空は小一時間にすれば淡い暖色に染まりそうな頃合い。
昼間に比べれば人の量が増え始めている。日が落ちれば更に賑わいが増すだろう。
そんな中、ふとロイドが足を止めた。
「どうした?」
「今、あっちから怒鳴り声が聞こえたような……」
彼はそう言って視線を移動させる。
そこには、華やかな街灯からは外れた場所へ伸びている路地があった。
どことなく薄暗い雰囲気が漂っている。
「ま、ああいう路地裏なら多少の諍いは日常茶飯事だろ。どこの街も変わらねぇよ」
ホームグラウンドではないのだから余計な首は突っ込むなと、ランディが暗に釘を刺す。
「それはそうなんだけど」
しかし、ロイドの方はどうしても気になるらしく、立ち去る素振りを見せなかった。
「ったく、しょうがねぇな~」
そんな相棒の性格を熟知しているランディは、軽く頭を掻いてから息を吐く。
「少し様子を見に行くだけだからな」
こうなったら梃子でも動かないので、言い含めるのは無駄というものだ。
語尾の後にはゆったりと歩き出す男の足音が重なった。
「うん、分かってる」
何だかんだ言いながらも、こうやって寄り添ってくれる優しさが素直に嬉しい。
ロイドは小さく笑み、奥まった路地へ入っていくランディの背中を追いかけた。
やはり、気のせいではなかったようだ。
今度はしっかりと荒ぶる男たちの声が聞こえてきた。
角を一つ曲がり、長く真っ直ぐに伸びた道の先から複数人の気配を感じる。
「おっ、ただの罵り合いじゃなさそうだな。やり合ってやがる」
二人がいる位置からは距離があり、しっかりとした視認はできないが、すぐにそう判断した。
幾多の修羅場を潜り抜けてきた彼らは、こういった手合いには敏感だ。
しかし、どこかに違和感を覚えた。
「……あぁ。でも、ただの喧嘩と言うよりは」
「二対四ってとこか。かなりの手練れだな。遊んでやってんのか、それとも……」
訝しげに呟いたロイドの横で、ランディが面白そうに頷く。
様子を見るだけに留めておくつもりが、いつの間にか興味をそそられてしまっていた。
その時。
路地裏の空気が一気に動いた。
「──てめぇ!待ちやがれ!!」
一際鋭い男の声が辺りに響き渡った。
二人の緊張感は一気に高まり、路地の先を見据えて状況の把握に努める。
前方から脱兎のごとく、もの凄い勢いで一人の男が走ってきた。
手元に鋭利な刃が光ったの確認し、赤毛の男は陽気に口笛を鳴らす。
「物騒な物をお持ちのお客様~ってか?」
「こらっ、ふざけてる場合じゃないぞ」
楽しそうな相棒を咎めつつ、ロイドは瞬時に頭を働かせた。
この先はメインストリートに繋がっている。
刃物を所持して逃走している輩を野放しにするのは危険だ。
ここはクロスベルではないが、一般市民の安全を守るという使命感に国の違いは関係なかった。
ロイドはちらりと相棒に目配せをした。
生憎と観光がてらだったので武装はしていないが、いくらでもやりようはある。
彼の意図を察したランディは、無言で口角をつり上げた。
必死の形相で走っている男には、周囲を気にする余裕などなかった。
狭い路地だというのに、すぐ前方にある人影たちを全く認識していない。
まさに一心不乱といった状態だ。
その迫力に押されたのか、彼らは道を譲る形で壁際に身を寄せる。
男はそこでようやく自分以外の人物の存在に気が付いた。
すれ違った刹那、楽しげな翠の瞳が三日月に歪むのを見る。
「おっと、悪ぃな」
わざとらしい戯けた声の後、彼は足元に強い衝撃を受けた。
勢いよく身体が吹っ飛び、堅い地面の上に突っ伏す形で叩き付けられる。
「うぐっ!!」
喉が潰れそうな呻きをあげ、持っていた刃物が鈍い音を立てて転がっていく。
彼は自分の身に何が起きたのか、すぐには分からなかった。
痛みに顔を歪ませ、のろのろと起き上がろうとする。
だが、その瞬間。
「──大人しくしろ!」
容赦のない重みが背中を襲う。
抵抗する間もなく床に押さえ付けられ、片腕を後ろへ捻られた。
鋭く引き締まった男の声が、耳の奥を突き抜けていった。
双剣を振り払った視界の片隅に、逃走を謀ろうとするリーダー格の男が飛び込んできた。
「くそがっ!」
思いきり吐き捨てながら、刃を鞘に収めて追いかける。
「おい、三号!逃がすんじゃねぇぞ!!」
後方からのプレッシャーを受けた両足が更に速度を上げた。
自分と相手の力量を鑑みれば、この距離なら確実に身柄を抑えられる。
そう判断したアーロンだったが、
「チッ!なんだよ、あの野郎どもは!」
唐突に路地の先で始まった取り押さえ劇を見て、柳眉を逆立てた。
「おい!余計なことしてんじゃねぇよ!!」
獲物を横取りされた獰猛な獣のごとく、アローンは二人組の男に牙を剥く。
「あぁ、やっぱり。ただの喧嘩じゃなかったみたいだ」
彼の標的を組み伏せている茶髪の青年は、穏やかな口調できつい怒声を見上げた。
その落ち着いた表情にカッとなり、収めた刃の柄に手がかかる。
「──まぁ、落ち着けよ。こっちは丸腰だぜ?」
そこへ、赤とオレンジの色彩が音もなく割り込んできた。
身動きが取れない青年を背にして、守るかのような立ち位置を取る。
がっしりとした体格と隙のない振る舞い。
一見して軟派な風貌だが、とても一般人とは思えなかった。
言葉とは裏腹、緩んだ笑みの中に挑発じみた色が見え隠れする。
「……てめぇら、何者だ」
それを感じ取ったアーロンの金彩が強い煌めきを放った。
一触即発。そんな言葉が脳裏を過ぎる。
どことなく楽しげな相棒の背中を見上げ、ロイドは密かに溜息を吐いた。
(はぁ……俺はできるだけ穏便に済ませたいんだけどなぁ)
いつまでもこの男を抑えているわけにもいかない。
先方が彼を追ってきたのを考えれば、すんなりと引き渡した方が良いはずだ。
どうしたものかと思案していると、戦闘が起きていた場所からもう一人の男が走ってきた。
「アーロン!抜くんじゃねぇ」
彼は残りの三人を難なく地面に沈めてきたようだ。
撃剣を肩に担いで近づいてきたその姿に、ロイドは目を丸くした。
(あっ、もしかして……彼らは)
ランディの背中越しに相対する青年を覗い、その後方にいる男へと視線を戻す。
緋色と蒼黒を纏った男たちの正体にはすぐに見当がついた。
そこで、ようやく組み伏せていた男を解放する。
派手に飛ばされた身体には、打撲と擦り傷がいくつもできていた。
小さな呻き声を上げて力なく転がっている状態では、再び逃亡するおそれはないだろう。
ロイドは彼の身を路地の壁際に預けてから立ち上がった。
「すまなかった。余計なお世話だったみたいだな」
数歩分だけ前へ進み出て、ランディの真横に並び立つ。
殺気を放つ相手とは真っ向から対峙しつつ、爽やかな笑顔を投げかけた。
「……はぁ?」
アーロンは思わず口が半開きになってしまった。
予想外に素直な謝罪のせいで、あっさりと緊迫感が薄らいでいく。
溜飲が下がるというよりも、呆気にとられて怒気が消沈した形だ。
「くくっ、面白いだろ?俺の相棒は潔いのが玉にキズってな」
それを傍観していたランディは可笑しげに肩を揺らしたが、ふと何かに思い当たって隣の青年を見た。
「なぁ、ロイド。こいつらってあれか?リーシャちゃんが言ってた」
「そうだ。まさか、こんな所で会えるとは思ってなかったけど」
ロイドはそう言いながら、息も切らせずに走ってきた紺青の男を見つめた。
「……ったく、それはこっちの台詞だぜ」
真っ直ぐで何の淀みもない瞳の圧は、どうにも居心地が悪い。
彼はそれを誤魔化すように小さく首を鳴らし、苦笑いを浮かべた。
「おい、ヴァン。てめぇの知り合いかよ?」
すると、少しだけ険の取れたアーロンが胡散臭げに尋ねてくる。
「あー、間接的には……だけどな。クロスベルの再事変って言えば分かるだろ?」
ヴァンは何となく言葉を濁したが、この聡い青年ならすぐに察しが付くだろうと確信していた。
案の定、アーロンはすぐさま驚きを露わにし、目の前に立っている男たちを凝視したのだった。
今は本当に偶然が重なり合っただけの状況だ。
予定していた顔合わせではなく、情報交換をする必要性もない。
ただ単に、街中ですれ違ったというだけ。
本音を言えば少し話をしてみたいところだったが、今は時期尚早だろう。
裏解決屋の二人も、そこまで踏み込んでくるつもりはないようだ。
「改めて、俺はロイド・バニングス。出張でイーディスに来ている身だ。君たちに会えて嬉しいよ」
それを踏まえた上で、彼は律儀に自己紹介をした。最低限の情報を言葉に紛れ込ませながら。
「こっちは相棒の……」
「あ~、わざわざ言わなくていいっつーの。あっちも分かってんだからよ」
いつどこにいても彼の真面目さは変わらないが、それは長所であり短所でもある。
ランディは面倒くさそうに手の平をひらひらと振った。
「……いかにも優等生ってツラしてんな。しかも天然かよ、こいつ」
そこへ、刺々しさを隠そうともしない勝ち気な声が向けられる。
さっきの潔さといい、どうにも調子が狂わされてばかりで苛立たしかった。
「おっ、おい!喧嘩売ってんじゃねぇ」
慌てたヴァンが、暴走しそうな助手の肩を掴んで止めようとする。
しかし、ロイドの方は微塵も気にしていない素振りだった。
「君は……あぁ、そう言えばリーシャが『とても舞台に映える』って」
興味深げにアーロンへ近づき、まじまじと彼の整った顔面を覗き込む。
「確かに華があるっていうか。う~ん、カッコイイなぁ」
「はっ……そりゃ、当然だろ」
感嘆の眼差しを注がれたアーロンは、わずかに狼狽えながらもキッパリと肯定した。
「これで技量も一流だって言うんだから、凄いよな。一度華劇場に──っ、うわ!?」
更に言葉を続けるロイドだったが、
「おい、こら!こんなとこでたらし込んでるんじゃねぇよ!」
突如、強い一声を放ったランディに襟首を掴まれ、役者の青年から引き剥がされてしまった。
「な、なんだよ!?急に!」
「外国だからって油断しちまったぜ。ほら、そろそろ行くぞ」
もう片方の腕で強引に抱き寄せられてしまえば、抗うのはなかなか難しい。
やはり、体格や腕力の面ではランディの方が有利だ。
「騒がしくしちまって悪ぃな。俺たちは退散させてもらうぜ」
彼は呆然としている裏解決屋の二人へを愛想笑い振りまき、陽気に片手を上げた。
「それじゃぁな~」
そして、さっさと別れの挨拶を告げながら来た道を引き返していく。
「待てよ、ランディ!俺、まだ挨拶してないし!!」
不本意な退場を余儀なくされ、半分は引きずられている状態のロイドが抗議の声を上げる。
普段は人気が少なく静かなはずの裏路地に、それは見事な反響音を残した。
雑踏の賑わいから離れた薄暗い空間の中で、二人はしばらく立ち尽くしていた。
壁に寄りかかっている男の呻き声が聞こえ、ハッと我に返る。
「……あいつら、本人か?」
まるで嵐が去った後のようだった。
逃げた男を取り押さえていた時の面構えと、さっきの緩みまくった騒ぎようでは、まるで印象が違っている。
「だと思うんだが」
アーロンに問われたヴァンは、つい自信がなさそうな返答をしてしまった。
出張とは言っていたが、公私を使い分けているのかと言えば微妙なところだ。
「なんつーか、情報として聞いていた以上に人たらしだな……」
自分のことは棚に上げ、ヴァンの唇が小さく動いた。
ロイドがアーロンに向けた言葉には、なんの含みも感じられなかった。
あれは疑いようもなく本当に心からの賞賛だ。
「……ん?」
だが、直後に豹変したランディの言動が脳裏を掠め、とある可能性に思い当たる。
途端に両目を丸くした。
「あ~、そういうことか」
ヴァンはその理由に合点がいった様子で大きく頷いた。
「オッサン。一人で納得してんじゃねぇよ」
「あの二人、相棒同士らしいが……それだけじゃなさそうだ」
不満げなアーロンの声に応じた彼は、苦笑交じりの顔をする。
「お前に構っている相方が面白くない。独占欲剥き出しで嫉妬するような間柄ってことだな」
「なんだよ、つまりはデキてるってわけ?」
それが意外だったのか、助手の青年は金色の瞳を忙しなく瞬かせた。
言われてみれば確かに納得する部分はある。
だが、さっきの二人が恋人同士に見えたか?と問われれば、答えは否だった。
「……マジかよ」
「あいつらの中には色んな関係性が混在してるってことだろ」
ヴァンは当たり障りなく話をまとめ、本来の目的である男の元に屈み込んだ。
負傷の具合を確かめつつ、ポケットから携帯端末を取り出す。
どうやら、どこかへ連絡を取るつもりのようだ。
「さっきのお前……何気に絆されてたよな」
おもむろに端末を操作し始めたところで、ふと小さな愚痴が零れ落ちた。
「おいおい、ヴァン。てめぇも嫉妬かよ?ウゼェな」
「うるせぇ。ただの独り言だ」
辛辣に笑い飛ばされ、拗ねたような素振りで言葉を吐き捨てる。
アーロンはそんな姿を眺めやりながら、密かに笑みを浮かべた。
それは口先だけのこと。
彼にそんな感情を向けられて嫌な気分になるはずがなかった。
あの後、怒りを露わにした相棒を宥めるにひと苦労した。
明日の決行は朝ということもあって早めの夕食を取ったが、恨めしげな愚痴や文句が食事の共となった。
ロイドがご立腹なのは、去り際の挨拶をまともにできなかったからだ。
真面目で律儀な彼は、礼を欠いたと感じているのだろう。
それに対してランディは、あれで二人分の挨拶をしたつもりだった。
裏解決屋の彼らもそんなことを気にする質だとは思えない。
「珍しく荒れやがったな。相手が相手だからかねぇ。まぁ、俺も強引すぎたけどな……」
ホテルの一室に戻ってきた直後の彼らは、明らかにぎこちない雰囲気だった。
ランディはそのままシャワールームに直行し、頭から熱い湯を一気に浴びて今に至る。
一人になれば、どうしても先刻の出来事を反芻してしまう。
脱衣所の鏡に映る顔は、自虐を露わにして歪んでいた。
あの時の感情は嫉妬以外の何ものでもない。
ロイドの天然ぶりは今に始まったことではないのに、一瞬で頭に血が上った。
暢気に他の男をカッコイイと褒める唇が気に入らなかった。
それこそ、強引に塞いでしまいたくなるくらいに。
「……やっぱり付いてきて正解だったぜ」
頭から大判のタオルを被り、滴る水気を少しばかり乱暴に拭い取る。
「あれはどう考えても悪癖だろ。もうちょいどうにかならねぇのかよ」
彼とて大人げない言動だったと反省しているし、夕食の席ではロイドに詫びた。
けれど、愚痴の一つも言いたくなってしまうのは仕方がない。
ランディは鏡の前でぼやきながら髪を乾かし、ようやく相棒の元へ足を向けた。
柔らかな明かりが室内を照らし出している。
部屋の作りはいたってシンプルだ。
二台のベッドが横並びに設置され、窓際にはテーブルと椅子が一組だけ。
ロイドはその椅子に座り、トンファーの手入れをしていた。
丁寧に磨き込みつつ、合間に窓からの夜景を眺めている。
「──そろそろ頭が切り替わったんじゃねぇの?」
その落ち着いた横顔を見たランディは、静かに声をかけた。
ロイドはきちんと己を律することができる男だ。
一時の感情を未練たらしく引きずり、肝心の職務に支障をきたすような真似はしない。
だから、ホテルへ戻ってきてからはすぐに放置を決め込んだ。
今は少し時間が必要だろうと配慮した。
「……そうだな。ありがとう、ランディ」
タオルを肩にかけたままでベッドへ向かい、ゆったりと腰を下ろす。
その動作を目で追っていたロイドの頬がわずかに綻んだ。
この男が速攻でシャワールームへ向かった意図が解ってしまったからだ。
さり気ない気遣いを感じれば、それだけで胸の奥が温かくなる。
素直な感謝の言葉に飾り気などはなく、それを受けたランディはすぐに居心地が悪くなってしまった。
「もう一仕事終えちまった気分だぜ。なかなか濃い時間だったつーか」
気恥ずかしさを誤魔化したいのか、勢いよく仰向けになってベッドに転がってみる。
「あれはさすがに俺も驚いたな。出張じゃなかったら、ゆっくり話してみたかった」
「なかなかクセの強そうな奴らだけどなぁ」
彼らは裏路地での邂逅を思い返しながら笑い合う。
勝ち気で我の強そうなアーロンは、その外見も相まって鮮烈な印象を焼き付けてきた。
直情的だが聡い部分が見え隠れする。それは諸々の言動からも窺えた。
ヴァンの方は落ち着いた風貌だが、深みのある双眼の先は読めず、湾曲した色彩を揺らめかせていた。明らかに一筋縄ではいかない相手だ。搦め手が得意だというのも頷ける。
一見して正反対な二人だが、肩を並べれば様になる。そのアンバランスさが絶妙なスパイスになってた。
「他のメンバーも個性的だって聞いてるし、ますます気になるな」
ロイドは何気なく窓の外を見つめながら小さく呟いた。
武器のメンテナンスが終わり、綺麗に磨いたトンファーをテーブルの上に置く。
「──よし」
完璧な仕上がりだ。満足げに一つ頷く。
そして、不意に椅子から立ち上がり寝転がっている相棒に目を向けた。
「ランディ、明日の準備は?」
随分とのんびりしてる様子が気になった。
ベッドサイドに近づき、起き上がる気配のない身体を見下ろす。
「元々、頭数には入ってないんでな。必要最低限でいいだろ」
心配そうな顔をされたランディは、穏やかな口調で答えた。
今回の案件は、ロイドと共和国側の警察が数名で事足りる。
逆に人数が増えれば動きづらくなる可能性もあるだろう。
彼は昼間の会議には参加したものの、数には入れなくて良いと先手を打っていた。
今回は一歩引いて周囲の警戒をするくらいに留めるつもりだ。
「でも……」
「なんかあればフォローする。まぁ、うちの捜査官どのは優秀なんで問題ねぇだろうがな」
まだ自分の気持ちを納得させられないロイドと、あえて距離を置く姿勢を崩さないランディの視線が絡む。
「仕事は完遂させる。だけど……」
ロイドはきっぱりと言いながらも、眉を顰めた。
一人で良かったはずの出張に付いてきてくれた大切な相棒。
どうせなら、一緒にやつらの潜伏先に突入したいと思ってしまう。
もちろん、彼の言い分は理解しているし、だからこそ会議の場でも異論は唱えなかった。
「なんだよ、一人じゃ寂しい?」
慣れ親しんでいる翠色が、胸中を見透かすように戯けた笑みを浮かべた。
図らずも、夜のひと時にベッドを介して言葉を交わす。
白いシーツの上に広がった赤は鮮やかで、やたらと艶めかしくて目が離せなくなる。
そんなつもりはないのに、見えない手招きをされてるような錯覚に陥った。
「べ、別にそういうわけじゃない」
やましさを隠すかのように、ロイドは勢いよくそっぽを向いた。
「ランディの武器、いつもと違うから……準備とか気になっただけで」
一度咳払いをし、笑ってしまうくらいに分かりやすい話の逸らし方をする。
「あいつは列車移動に不向きだからなぁ。あんま目立ちたくねぇし」
ランディはごく自然な受け答えをして、相手の意図に乗った。
危うい雰囲気になりそうだったが、さすがに引くべき一線は弁えている。
今は出張中で仕事の本番は明日。ベッドの中で仲睦まじく過ごしている場合ではなかった。
「そんなに気になるなら、見てみるか?軽くメンテはするつもりだったからな」
完全に空気を切り替えたランディは、ゆっくりと身体を起こした。
ベッドサイドに立て掛けておいた黒いケースを掴み、窓際のテーブルにそれを置く。
「ほんとか?携帯式のってまだ見たことなくてさ」
椅子に腰掛けてから蓋を開けると、気を取り直したロイドが興味津々で床の上に座り込んできた。
ケースの中には、スタンハルバードの打撃ユニットと柄が別々に収納してある。
「あんま普及してねぇからな。警備隊でもレアらしいぜ」
彼はそう言いながら、手際よく打撃部分と柄の部分を組み立て始めた。
「導力変換ユニットが小振りだな。これでパワーが出るのか?あ、柄の方は折りたたみ式?強度的にはどうなんだ?」
その横から、ロイドが子供のような眼差しで質問攻めをしてくる。
「通常のに比べれば劣るが、実戦での運用に問題はねぇな」
ランディの方はきちんと説明をしているのだが、どうしても笑いが込み上げてくる。
「組み立ててから柄を畳んどけば、移動も楽だし潜伏しやすい。使い勝手は悪くねぇと思うぜ」
あまりに近くで覗き込んでくるので、手元に髪の毛が当たってくすぐったい。
彼はまるでそうするのが当たり前だと言うように、栗色の頭を軽く掻き混ぜた。
「ロイドくんよぉ、何がそんなに楽しいわけ?」
呆れた溜息で問いかけてみると、
「そんなの決まってるだろ。俺はそういう仕草が好きなんだ。ランディが武器の手入れをしてるの好きなんだ」
言葉通りの明るい声が跳ね返ってきた。
「……はいはい」
わざわざ表情を覗わなくても、真っ直ぐな感情が伝わってくる。
言われる側が羞恥にまみれることなんて、まるでお構いなしだ。
クロスベルだろうが共和国だろうが、彼の人となりは変わらない。
引きずられるように裏路地でのたらしっぷりを思い出し、辟易としてしまう。
(こんな所まで来て、俺にまで直球投げてくんのかよ……勘弁してくれ)
ふと、窓越しに行政地区の夜景を流し見る。
静かな夜色のガラスに二人の姿が映り、ランディはそこで諦めた。
傍らに佇んでいるロイドは、揶揄するのも気が引けるほどに幸せそうだ。
そんな雰囲気を壊せるはずもなく、自分の顔が存外に緩んでいる事実には気が付かないふりをした。
明日になってしまえば、完全に仕事モードへ切り替わる。
密輸組織の身柄を取り押さえた後は、そのまま車でクロスベルまで移送する手筈だ。
捜査官であるロイドは同乗が鉄則なので、列車で来た時のような旅行気分とはいかない。
タングラム門で正式な引き渡しの手続きが行われるが、それまでは緊張感を強いられるだろう。
だったら、せめて今だけは。
出張先の夜。ランディはそんな風に想うことを止められなかった。
2022.09.19
#黎畳む
黎ED後・恋人設定
イーディスに出張した二人が偶然ヴァンとアーロンに出会う話。
注意:アロヴァンの描写があります。
2022年リクエスト⑥
【文字数:12000】
車窓の中を長閑な風景が流れている。
座席から伝わってくる規則的な列車の振動は、彼の眠気を誘うのに十分だった。
気持ち良さそうに船を漕いでいる栗色の頭が、一段と深く落ち込む。
「──っあ?」
「おいおい。随分と派手にいったな」
その重みで目を覚ましたロイドは、笑いを含んだ声に顔を上げた。
寝ぼけた視界に鮮やかな赤が入ってくる。
「ん~、問題ない……と思う」
首筋に手をやって何度か揉み込んでから、軽く回したり傾けたりしてみる。
まだ頭が覚めきっていないのか、少しばかり舌足らずな喋り方だ。
「眠いならもうちょい寝てれば?」
彼の真向かいに座っているランディは、窓辺に肘をかけ頬杖を付いている。
年下の相棒に寄せる眼差しは穏やかだ。
「いや。だいぶ寝てたみたいだし、大丈夫だ」
しかし、ロイドは寝落ちする直前の記憶を手繰りながらきっぱりとそう言った。
自然豊かな風景だった窓の外は、いつの間にか無機質な人工物が多くなり始めている。
カルバード共和国の首都・イーディスに近づいていることが分かる。
改めて気を引き締めようと、自分の頬を両手で叩いた。
「そうかよ。ま、こっちはお前の寝顔を堪能できたんで首尾は上々ってな」
そんな彼とは対照的で、赤毛の男には緊張感の欠片もない。
「な、何しに来たんだよっ、ランディは!」
咄嗟に噛みつきたくなったロイドだが、客車の中ということもあり、ぐっと堪えて声を抑えた。
「……そもそも、どうして俺に付いてきたんだ?」
のんびりと構えている男を真正面から睨め付ける。
今回の出張はロイド一人の予定だった。
以前から追っている密輸組織がイーディスに潜伏していると、共和国側からの情報があった。
組織自体は極々小規模な部類に属する。
共和国側の協力も考えれば、クロスベル側からの人員は最小限で支障はないとの判断だ。
そこで、捜査官であるロイドに白羽の矢が立てられた。
技量と経験値。それこそ潜り抜けてきた修羅場は数知れない。
この人選に異を唱える者は誰もいなかった。
近年は国を跨ぐ国際犯罪も増加の一途を辿っている。
隣国である共和国警察との情報交換も盛んで、今回のような協力案件も珍しくはなかった。
「そっちだって、警備隊の演習に声が掛かっていたんじゃないのか?」
出張までの経緯を頭に巡らせたロイドは、不思議そうに尋ねた。
「都合が良ければって話だったからな。っつーか、そこ聞いちゃうわけ?」
それが意外だったのか、ランディはわずかに瞠目した後で困ったように笑った。
「へ?まずかったか?だって演習の方が好きだろ?」
毎度のことながら鈍い反応をしてくるロイドに対し、盛大な溜息を吐いてみせる。
「はぁ~、お前さんってヤツは」
加えて、わざとらしく間を取りながら左右に首を振った。
「相棒が一人で外国に出張とか、気になりすぎて演習どころじゃねぇんだわ」
そのくらいは解ってくれよと。
少し身を乗り出したランディが、戯けた様子で目の前にある頭を軽く小突いた。
「えっと、あれ?それって……」
ロイドはその感触に思わず首を竦め、鳶色の瞳を何度も瞬かせる。
その時、イーディスへの到着予定を告げる車内アナウンスが響き渡った。
久方ぶりに降り立った首都の駅前は、随分と様変わりしていた。
二人ともイーディスを訪れるのが初めてというわけではない。
ロイドは短いながらも共和国に住んでいた時期があるし、ランディの方も猟兵時代に足を運んだことがあるという。
しかし、それも今となっては懐かしむ程度に昔の話だった。
「……凄いなぁ。たった数年でこんなにも変わるなんて」
陸橋の向こうに設置されている大型モニターを見上げ、ロイドが感嘆の息を漏らした。
「お前はまだマシだろ?俺なんて軽く十年は経ってる。完全に別の街って気になるぜ」
もちろん、彼らは共和国の現状をしっかりと把握している。
だが、やはり実際に現地に行って五感で得る情報量には適わない。
クロスベルからの来訪者たちには、急速に発展した街並みの全てが新鮮だった。
そんな二人の元へ、浅黒い肌をした強面の男が近づいてきた。
「来たか。バニングス捜査官」
堅めの口調はいかにも警察の人間といった印象だ。
「お疲れ様です、ダスワニ警部。先日の通信以来ですね」
反射的にロイドの表情が引き締まる。
彼の横に添っているランディは、外面用の友好的な笑みを浮かべた。
「俺の方は初めまして……ってとこだな」
その緩い顔の下で、冷静に初対面の相手を品定めする。
「まさか、再事変の立役者が揃い踏みとはな」
対するダスワニの方は、たかだか数人規模の犯罪組織に大袈裟な、とでも言いたげだ。
「あくまでメインはこいつだ。俺が勝手に付いてきただけなんでな。軽く流しといてくれよ」
元よりお堅い警察畑の人種とは反りが合わない。
かといってロイドの面目を潰すわけにはいかず、彼の背中を叩いて前へと押し出した。
それをどう捉えたのか、ダスワニは表情一つ変えずに渋めのコートを翻し、駅前のロータリーへ歩き出す。
「すぐに顔合わせだ。署で他の奴らが待っているんでな」
彼は導力車で二人を出迎えに来ていた。
慌ててその後ろ姿を追う男たちが顔を見合わせる。
「なぁ……俺も出なきゃダメ?」
捜査官であるロイドはともかく、ランディにしてみれば息が詰まる空間になるのは確実だ。
急に甘えた口調でお伺いを立ててきた男に、真面目な青年の鋭い視線が突き刺さる。
「今更だぞ、ランディ。出張費は二人分出てるんだからしっかり働け」
ロイドは容赦ない肘鉄をお見舞いして、車の後部座席に大きな身体を押し入れる。
強引に逃げ道を塞いだ上で、自らもその隣に乗り込んだ。
二時間ほど後。
警察署の建物から出てきた途端に、ランディはぐったりと脱力した。
「……堅い、堅すぎる」
「ははっ、うちの捜査一課とかもあんなもんだろ?」
イーディスに来て早々、大きなダメージを食らっている相方の姿が面白い。
ロイドは笑い声を立てながら、お疲れ様とばかりに彼の肩を叩いて労ってやった。
署内の一室で行われた合同会議は滞りなく終了した。
実際に潜伏現場に乗り込むのは明日の早朝。
ダスワニを含む数名の警察官とは、細部までのすり合わせが完了している。
事前の準備に抜かりはなかった。
「それにしても、意外に予定より早く終わったな。取りあえず、ホテルにチェックインしとくか」
目の前に広がる行政地区のビル群を見上げ、ロイドの足がきびきびと動き出す。
整然と建物が立ち並ぶこの区画は、奥まった場所を除けば比較的歩きやすい。
「確かこの道を真っ直ぐ行って……」
「おい。まさか、こんなお役所系が真っ只中で取ったのかよ?」
ぶつぶつと言っている彼と肩を並べ、ランディが眉を顰めて問いかけた。
「仕事で来てるから警察署の近くが良いかと思って。あ、でも安い所だからな。出張費も馬鹿にならないし」
それが当たり前だとばかりの返しをされ、赤毛の男は呆れを通り越して何とも言えない表情になってしまった。
「マジかよ……さすがはロイドくん。どうせなら賑わってる地区にしとけっつーの」
いくら仕事で出張だからとはいえ、多少の楽しみがあってもバチは当たらないだろうと思う。
しかし、そんなランディの気持ちは素通りだ。
彼の唯一無二である相棒は、とても真面目な性格の捜査官だった。
当初、単身でイーディスに来るつもりだったロイドは、正直なところ安堵していた。
もちろん、自分だけでも仕事を完遂する自負と責任感はある。
とはいえ、今回の行き先はカルバード共和国だった。
知人の多い帝国方面ならまだしも、不慣れな場所では多少の不安が付きまとうものだ。
ふと隣を見上げれば、すぐに見慣れた横顔が視界に入ってきた。
(……やっぱり落ち着くなぁ)
彼がただ側にいてくれるだけで、こんなにも肩の力が抜けて自然体になれる。
その存在が頼もしくもあり、外国にまで付いてきてくれたことが嬉しかった。
「いや~、なかなか面白かった。ああいうド派手な演出は好きだぜ」
「大きなスクリーンだと迫力があるよな。ランディってば、綺麗なお姉さんが出てきてから凄く楽しそうだった」
「おうっ、やっぱ綺麗どころがいねぇとな!」
結局、予定よりも時間に余裕ができたロイドは、ランディのたっての希望で映画を鑑賞することにした。
ホテルにチェックインした後、あまりにも浮かれ調子で言ってきたので、つい甘やかしてしまったのだ。
基本的には真面目な彼だが、そこまで融通が利かないほど堅物ではない。
元々、会議が終わったら街中を散策するつもりだったので、全くの予定外というわけではなかった。
そして、何よりも大切な相棒と外国の街を歩くのが純粋に楽しみだった。
二人は映画館を出た後、冷めやらぬ興奮を会話にしながらメインストリートを歩いていた。
空は小一時間にすれば淡い暖色に染まりそうな頃合い。
昼間に比べれば人の量が増え始めている。日が落ちれば更に賑わいが増すだろう。
そんな中、ふとロイドが足を止めた。
「どうした?」
「今、あっちから怒鳴り声が聞こえたような……」
彼はそう言って視線を移動させる。
そこには、華やかな街灯からは外れた場所へ伸びている路地があった。
どことなく薄暗い雰囲気が漂っている。
「ま、ああいう路地裏なら多少の諍いは日常茶飯事だろ。どこの街も変わらねぇよ」
ホームグラウンドではないのだから余計な首は突っ込むなと、ランディが暗に釘を刺す。
「それはそうなんだけど」
しかし、ロイドの方はどうしても気になるらしく、立ち去る素振りを見せなかった。
「ったく、しょうがねぇな~」
そんな相棒の性格を熟知しているランディは、軽く頭を掻いてから息を吐く。
「少し様子を見に行くだけだからな」
こうなったら梃子でも動かないので、言い含めるのは無駄というものだ。
語尾の後にはゆったりと歩き出す男の足音が重なった。
「うん、分かってる」
何だかんだ言いながらも、こうやって寄り添ってくれる優しさが素直に嬉しい。
ロイドは小さく笑み、奥まった路地へ入っていくランディの背中を追いかけた。
やはり、気のせいではなかったようだ。
今度はしっかりと荒ぶる男たちの声が聞こえてきた。
角を一つ曲がり、長く真っ直ぐに伸びた道の先から複数人の気配を感じる。
「おっ、ただの罵り合いじゃなさそうだな。やり合ってやがる」
二人がいる位置からは距離があり、しっかりとした視認はできないが、すぐにそう判断した。
幾多の修羅場を潜り抜けてきた彼らは、こういった手合いには敏感だ。
しかし、どこかに違和感を覚えた。
「……あぁ。でも、ただの喧嘩と言うよりは」
「二対四ってとこか。かなりの手練れだな。遊んでやってんのか、それとも……」
訝しげに呟いたロイドの横で、ランディが面白そうに頷く。
様子を見るだけに留めておくつもりが、いつの間にか興味をそそられてしまっていた。
その時。
路地裏の空気が一気に動いた。
「──てめぇ!待ちやがれ!!」
一際鋭い男の声が辺りに響き渡った。
二人の緊張感は一気に高まり、路地の先を見据えて状況の把握に努める。
前方から脱兎のごとく、もの凄い勢いで一人の男が走ってきた。
手元に鋭利な刃が光ったの確認し、赤毛の男は陽気に口笛を鳴らす。
「物騒な物をお持ちのお客様~ってか?」
「こらっ、ふざけてる場合じゃないぞ」
楽しそうな相棒を咎めつつ、ロイドは瞬時に頭を働かせた。
この先はメインストリートに繋がっている。
刃物を所持して逃走している輩を野放しにするのは危険だ。
ここはクロスベルではないが、一般市民の安全を守るという使命感に国の違いは関係なかった。
ロイドはちらりと相棒に目配せをした。
生憎と観光がてらだったので武装はしていないが、いくらでもやりようはある。
彼の意図を察したランディは、無言で口角をつり上げた。
必死の形相で走っている男には、周囲を気にする余裕などなかった。
狭い路地だというのに、すぐ前方にある人影たちを全く認識していない。
まさに一心不乱といった状態だ。
その迫力に押されたのか、彼らは道を譲る形で壁際に身を寄せる。
男はそこでようやく自分以外の人物の存在に気が付いた。
すれ違った刹那、楽しげな翠の瞳が三日月に歪むのを見る。
「おっと、悪ぃな」
わざとらしい戯けた声の後、彼は足元に強い衝撃を受けた。
勢いよく身体が吹っ飛び、堅い地面の上に突っ伏す形で叩き付けられる。
「うぐっ!!」
喉が潰れそうな呻きをあげ、持っていた刃物が鈍い音を立てて転がっていく。
彼は自分の身に何が起きたのか、すぐには分からなかった。
痛みに顔を歪ませ、のろのろと起き上がろうとする。
だが、その瞬間。
「──大人しくしろ!」
容赦のない重みが背中を襲う。
抵抗する間もなく床に押さえ付けられ、片腕を後ろへ捻られた。
鋭く引き締まった男の声が、耳の奥を突き抜けていった。
双剣を振り払った視界の片隅に、逃走を謀ろうとするリーダー格の男が飛び込んできた。
「くそがっ!」
思いきり吐き捨てながら、刃を鞘に収めて追いかける。
「おい、三号!逃がすんじゃねぇぞ!!」
後方からのプレッシャーを受けた両足が更に速度を上げた。
自分と相手の力量を鑑みれば、この距離なら確実に身柄を抑えられる。
そう判断したアーロンだったが、
「チッ!なんだよ、あの野郎どもは!」
唐突に路地の先で始まった取り押さえ劇を見て、柳眉を逆立てた。
「おい!余計なことしてんじゃねぇよ!!」
獲物を横取りされた獰猛な獣のごとく、アローンは二人組の男に牙を剥く。
「あぁ、やっぱり。ただの喧嘩じゃなかったみたいだ」
彼の標的を組み伏せている茶髪の青年は、穏やかな口調できつい怒声を見上げた。
その落ち着いた表情にカッとなり、収めた刃の柄に手がかかる。
「──まぁ、落ち着けよ。こっちは丸腰だぜ?」
そこへ、赤とオレンジの色彩が音もなく割り込んできた。
身動きが取れない青年を背にして、守るかのような立ち位置を取る。
がっしりとした体格と隙のない振る舞い。
一見して軟派な風貌だが、とても一般人とは思えなかった。
言葉とは裏腹、緩んだ笑みの中に挑発じみた色が見え隠れする。
「……てめぇら、何者だ」
それを感じ取ったアーロンの金彩が強い煌めきを放った。
一触即発。そんな言葉が脳裏を過ぎる。
どことなく楽しげな相棒の背中を見上げ、ロイドは密かに溜息を吐いた。
(はぁ……俺はできるだけ穏便に済ませたいんだけどなぁ)
いつまでもこの男を抑えているわけにもいかない。
先方が彼を追ってきたのを考えれば、すんなりと引き渡した方が良いはずだ。
どうしたものかと思案していると、戦闘が起きていた場所からもう一人の男が走ってきた。
「アーロン!抜くんじゃねぇ」
彼は残りの三人を難なく地面に沈めてきたようだ。
撃剣を肩に担いで近づいてきたその姿に、ロイドは目を丸くした。
(あっ、もしかして……彼らは)
ランディの背中越しに相対する青年を覗い、その後方にいる男へと視線を戻す。
緋色と蒼黒を纏った男たちの正体にはすぐに見当がついた。
そこで、ようやく組み伏せていた男を解放する。
派手に飛ばされた身体には、打撲と擦り傷がいくつもできていた。
小さな呻き声を上げて力なく転がっている状態では、再び逃亡するおそれはないだろう。
ロイドは彼の身を路地の壁際に預けてから立ち上がった。
「すまなかった。余計なお世話だったみたいだな」
数歩分だけ前へ進み出て、ランディの真横に並び立つ。
殺気を放つ相手とは真っ向から対峙しつつ、爽やかな笑顔を投げかけた。
「……はぁ?」
アーロンは思わず口が半開きになってしまった。
予想外に素直な謝罪のせいで、あっさりと緊迫感が薄らいでいく。
溜飲が下がるというよりも、呆気にとられて怒気が消沈した形だ。
「くくっ、面白いだろ?俺の相棒は潔いのが玉にキズってな」
それを傍観していたランディは可笑しげに肩を揺らしたが、ふと何かに思い当たって隣の青年を見た。
「なぁ、ロイド。こいつらってあれか?リーシャちゃんが言ってた」
「そうだ。まさか、こんな所で会えるとは思ってなかったけど」
ロイドはそう言いながら、息も切らせずに走ってきた紺青の男を見つめた。
「……ったく、それはこっちの台詞だぜ」
真っ直ぐで何の淀みもない瞳の圧は、どうにも居心地が悪い。
彼はそれを誤魔化すように小さく首を鳴らし、苦笑いを浮かべた。
「おい、ヴァン。てめぇの知り合いかよ?」
すると、少しだけ険の取れたアーロンが胡散臭げに尋ねてくる。
「あー、間接的には……だけどな。クロスベルの再事変って言えば分かるだろ?」
ヴァンは何となく言葉を濁したが、この聡い青年ならすぐに察しが付くだろうと確信していた。
案の定、アーロンはすぐさま驚きを露わにし、目の前に立っている男たちを凝視したのだった。
今は本当に偶然が重なり合っただけの状況だ。
予定していた顔合わせではなく、情報交換をする必要性もない。
ただ単に、街中ですれ違ったというだけ。
本音を言えば少し話をしてみたいところだったが、今は時期尚早だろう。
裏解決屋の二人も、そこまで踏み込んでくるつもりはないようだ。
「改めて、俺はロイド・バニングス。出張でイーディスに来ている身だ。君たちに会えて嬉しいよ」
それを踏まえた上で、彼は律儀に自己紹介をした。最低限の情報を言葉に紛れ込ませながら。
「こっちは相棒の……」
「あ~、わざわざ言わなくていいっつーの。あっちも分かってんだからよ」
いつどこにいても彼の真面目さは変わらないが、それは長所であり短所でもある。
ランディは面倒くさそうに手の平をひらひらと振った。
「……いかにも優等生ってツラしてんな。しかも天然かよ、こいつ」
そこへ、刺々しさを隠そうともしない勝ち気な声が向けられる。
さっきの潔さといい、どうにも調子が狂わされてばかりで苛立たしかった。
「おっ、おい!喧嘩売ってんじゃねぇ」
慌てたヴァンが、暴走しそうな助手の肩を掴んで止めようとする。
しかし、ロイドの方は微塵も気にしていない素振りだった。
「君は……あぁ、そう言えばリーシャが『とても舞台に映える』って」
興味深げにアーロンへ近づき、まじまじと彼の整った顔面を覗き込む。
「確かに華があるっていうか。う~ん、カッコイイなぁ」
「はっ……そりゃ、当然だろ」
感嘆の眼差しを注がれたアーロンは、わずかに狼狽えながらもキッパリと肯定した。
「これで技量も一流だって言うんだから、凄いよな。一度華劇場に──っ、うわ!?」
更に言葉を続けるロイドだったが、
「おい、こら!こんなとこでたらし込んでるんじゃねぇよ!」
突如、強い一声を放ったランディに襟首を掴まれ、役者の青年から引き剥がされてしまった。
「な、なんだよ!?急に!」
「外国だからって油断しちまったぜ。ほら、そろそろ行くぞ」
もう片方の腕で強引に抱き寄せられてしまえば、抗うのはなかなか難しい。
やはり、体格や腕力の面ではランディの方が有利だ。
「騒がしくしちまって悪ぃな。俺たちは退散させてもらうぜ」
彼は呆然としている裏解決屋の二人へを愛想笑い振りまき、陽気に片手を上げた。
「それじゃぁな~」
そして、さっさと別れの挨拶を告げながら来た道を引き返していく。
「待てよ、ランディ!俺、まだ挨拶してないし!!」
不本意な退場を余儀なくされ、半分は引きずられている状態のロイドが抗議の声を上げる。
普段は人気が少なく静かなはずの裏路地に、それは見事な反響音を残した。
雑踏の賑わいから離れた薄暗い空間の中で、二人はしばらく立ち尽くしていた。
壁に寄りかかっている男の呻き声が聞こえ、ハッと我に返る。
「……あいつら、本人か?」
まるで嵐が去った後のようだった。
逃げた男を取り押さえていた時の面構えと、さっきの緩みまくった騒ぎようでは、まるで印象が違っている。
「だと思うんだが」
アーロンに問われたヴァンは、つい自信がなさそうな返答をしてしまった。
出張とは言っていたが、公私を使い分けているのかと言えば微妙なところだ。
「なんつーか、情報として聞いていた以上に人たらしだな……」
自分のことは棚に上げ、ヴァンの唇が小さく動いた。
ロイドがアーロンに向けた言葉には、なんの含みも感じられなかった。
あれは疑いようもなく本当に心からの賞賛だ。
「……ん?」
だが、直後に豹変したランディの言動が脳裏を掠め、とある可能性に思い当たる。
途端に両目を丸くした。
「あ~、そういうことか」
ヴァンはその理由に合点がいった様子で大きく頷いた。
「オッサン。一人で納得してんじゃねぇよ」
「あの二人、相棒同士らしいが……それだけじゃなさそうだ」
不満げなアーロンの声に応じた彼は、苦笑交じりの顔をする。
「お前に構っている相方が面白くない。独占欲剥き出しで嫉妬するような間柄ってことだな」
「なんだよ、つまりはデキてるってわけ?」
それが意外だったのか、助手の青年は金色の瞳を忙しなく瞬かせた。
言われてみれば確かに納得する部分はある。
だが、さっきの二人が恋人同士に見えたか?と問われれば、答えは否だった。
「……マジかよ」
「あいつらの中には色んな関係性が混在してるってことだろ」
ヴァンは当たり障りなく話をまとめ、本来の目的である男の元に屈み込んだ。
負傷の具合を確かめつつ、ポケットから携帯端末を取り出す。
どうやら、どこかへ連絡を取るつもりのようだ。
「さっきのお前……何気に絆されてたよな」
おもむろに端末を操作し始めたところで、ふと小さな愚痴が零れ落ちた。
「おいおい、ヴァン。てめぇも嫉妬かよ?ウゼェな」
「うるせぇ。ただの独り言だ」
辛辣に笑い飛ばされ、拗ねたような素振りで言葉を吐き捨てる。
アーロンはそんな姿を眺めやりながら、密かに笑みを浮かべた。
それは口先だけのこと。
彼にそんな感情を向けられて嫌な気分になるはずがなかった。
あの後、怒りを露わにした相棒を宥めるにひと苦労した。
明日の決行は朝ということもあって早めの夕食を取ったが、恨めしげな愚痴や文句が食事の共となった。
ロイドがご立腹なのは、去り際の挨拶をまともにできなかったからだ。
真面目で律儀な彼は、礼を欠いたと感じているのだろう。
それに対してランディは、あれで二人分の挨拶をしたつもりだった。
裏解決屋の彼らもそんなことを気にする質だとは思えない。
「珍しく荒れやがったな。相手が相手だからかねぇ。まぁ、俺も強引すぎたけどな……」
ホテルの一室に戻ってきた直後の彼らは、明らかにぎこちない雰囲気だった。
ランディはそのままシャワールームに直行し、頭から熱い湯を一気に浴びて今に至る。
一人になれば、どうしても先刻の出来事を反芻してしまう。
脱衣所の鏡に映る顔は、自虐を露わにして歪んでいた。
あの時の感情は嫉妬以外の何ものでもない。
ロイドの天然ぶりは今に始まったことではないのに、一瞬で頭に血が上った。
暢気に他の男をカッコイイと褒める唇が気に入らなかった。
それこそ、強引に塞いでしまいたくなるくらいに。
「……やっぱり付いてきて正解だったぜ」
頭から大判のタオルを被り、滴る水気を少しばかり乱暴に拭い取る。
「あれはどう考えても悪癖だろ。もうちょいどうにかならねぇのかよ」
彼とて大人げない言動だったと反省しているし、夕食の席ではロイドに詫びた。
けれど、愚痴の一つも言いたくなってしまうのは仕方がない。
ランディは鏡の前でぼやきながら髪を乾かし、ようやく相棒の元へ足を向けた。
柔らかな明かりが室内を照らし出している。
部屋の作りはいたってシンプルだ。
二台のベッドが横並びに設置され、窓際にはテーブルと椅子が一組だけ。
ロイドはその椅子に座り、トンファーの手入れをしていた。
丁寧に磨き込みつつ、合間に窓からの夜景を眺めている。
「──そろそろ頭が切り替わったんじゃねぇの?」
その落ち着いた横顔を見たランディは、静かに声をかけた。
ロイドはきちんと己を律することができる男だ。
一時の感情を未練たらしく引きずり、肝心の職務に支障をきたすような真似はしない。
だから、ホテルへ戻ってきてからはすぐに放置を決め込んだ。
今は少し時間が必要だろうと配慮した。
「……そうだな。ありがとう、ランディ」
タオルを肩にかけたままでベッドへ向かい、ゆったりと腰を下ろす。
その動作を目で追っていたロイドの頬がわずかに綻んだ。
この男が速攻でシャワールームへ向かった意図が解ってしまったからだ。
さり気ない気遣いを感じれば、それだけで胸の奥が温かくなる。
素直な感謝の言葉に飾り気などはなく、それを受けたランディはすぐに居心地が悪くなってしまった。
「もう一仕事終えちまった気分だぜ。なかなか濃い時間だったつーか」
気恥ずかしさを誤魔化したいのか、勢いよく仰向けになってベッドに転がってみる。
「あれはさすがに俺も驚いたな。出張じゃなかったら、ゆっくり話してみたかった」
「なかなかクセの強そうな奴らだけどなぁ」
彼らは裏路地での邂逅を思い返しながら笑い合う。
勝ち気で我の強そうなアーロンは、その外見も相まって鮮烈な印象を焼き付けてきた。
直情的だが聡い部分が見え隠れする。それは諸々の言動からも窺えた。
ヴァンの方は落ち着いた風貌だが、深みのある双眼の先は読めず、湾曲した色彩を揺らめかせていた。明らかに一筋縄ではいかない相手だ。搦め手が得意だというのも頷ける。
一見して正反対な二人だが、肩を並べれば様になる。そのアンバランスさが絶妙なスパイスになってた。
「他のメンバーも個性的だって聞いてるし、ますます気になるな」
ロイドは何気なく窓の外を見つめながら小さく呟いた。
武器のメンテナンスが終わり、綺麗に磨いたトンファーをテーブルの上に置く。
「──よし」
完璧な仕上がりだ。満足げに一つ頷く。
そして、不意に椅子から立ち上がり寝転がっている相棒に目を向けた。
「ランディ、明日の準備は?」
随分とのんびりしてる様子が気になった。
ベッドサイドに近づき、起き上がる気配のない身体を見下ろす。
「元々、頭数には入ってないんでな。必要最低限でいいだろ」
心配そうな顔をされたランディは、穏やかな口調で答えた。
今回の案件は、ロイドと共和国側の警察が数名で事足りる。
逆に人数が増えれば動きづらくなる可能性もあるだろう。
彼は昼間の会議には参加したものの、数には入れなくて良いと先手を打っていた。
今回は一歩引いて周囲の警戒をするくらいに留めるつもりだ。
「でも……」
「なんかあればフォローする。まぁ、うちの捜査官どのは優秀なんで問題ねぇだろうがな」
まだ自分の気持ちを納得させられないロイドと、あえて距離を置く姿勢を崩さないランディの視線が絡む。
「仕事は完遂させる。だけど……」
ロイドはきっぱりと言いながらも、眉を顰めた。
一人で良かったはずの出張に付いてきてくれた大切な相棒。
どうせなら、一緒にやつらの潜伏先に突入したいと思ってしまう。
もちろん、彼の言い分は理解しているし、だからこそ会議の場でも異論は唱えなかった。
「なんだよ、一人じゃ寂しい?」
慣れ親しんでいる翠色が、胸中を見透かすように戯けた笑みを浮かべた。
図らずも、夜のひと時にベッドを介して言葉を交わす。
白いシーツの上に広がった赤は鮮やかで、やたらと艶めかしくて目が離せなくなる。
そんなつもりはないのに、見えない手招きをされてるような錯覚に陥った。
「べ、別にそういうわけじゃない」
やましさを隠すかのように、ロイドは勢いよくそっぽを向いた。
「ランディの武器、いつもと違うから……準備とか気になっただけで」
一度咳払いをし、笑ってしまうくらいに分かりやすい話の逸らし方をする。
「あいつは列車移動に不向きだからなぁ。あんま目立ちたくねぇし」
ランディはごく自然な受け答えをして、相手の意図に乗った。
危うい雰囲気になりそうだったが、さすがに引くべき一線は弁えている。
今は出張中で仕事の本番は明日。ベッドの中で仲睦まじく過ごしている場合ではなかった。
「そんなに気になるなら、見てみるか?軽くメンテはするつもりだったからな」
完全に空気を切り替えたランディは、ゆっくりと身体を起こした。
ベッドサイドに立て掛けておいた黒いケースを掴み、窓際のテーブルにそれを置く。
「ほんとか?携帯式のってまだ見たことなくてさ」
椅子に腰掛けてから蓋を開けると、気を取り直したロイドが興味津々で床の上に座り込んできた。
ケースの中には、スタンハルバードの打撃ユニットと柄が別々に収納してある。
「あんま普及してねぇからな。警備隊でもレアらしいぜ」
彼はそう言いながら、手際よく打撃部分と柄の部分を組み立て始めた。
「導力変換ユニットが小振りだな。これでパワーが出るのか?あ、柄の方は折りたたみ式?強度的にはどうなんだ?」
その横から、ロイドが子供のような眼差しで質問攻めをしてくる。
「通常のに比べれば劣るが、実戦での運用に問題はねぇな」
ランディの方はきちんと説明をしているのだが、どうしても笑いが込み上げてくる。
「組み立ててから柄を畳んどけば、移動も楽だし潜伏しやすい。使い勝手は悪くねぇと思うぜ」
あまりに近くで覗き込んでくるので、手元に髪の毛が当たってくすぐったい。
彼はまるでそうするのが当たり前だと言うように、栗色の頭を軽く掻き混ぜた。
「ロイドくんよぉ、何がそんなに楽しいわけ?」
呆れた溜息で問いかけてみると、
「そんなの決まってるだろ。俺はそういう仕草が好きなんだ。ランディが武器の手入れをしてるの好きなんだ」
言葉通りの明るい声が跳ね返ってきた。
「……はいはい」
わざわざ表情を覗わなくても、真っ直ぐな感情が伝わってくる。
言われる側が羞恥にまみれることなんて、まるでお構いなしだ。
クロスベルだろうが共和国だろうが、彼の人となりは変わらない。
引きずられるように裏路地でのたらしっぷりを思い出し、辟易としてしまう。
(こんな所まで来て、俺にまで直球投げてくんのかよ……勘弁してくれ)
ふと、窓越しに行政地区の夜景を流し見る。
静かな夜色のガラスに二人の姿が映り、ランディはそこで諦めた。
傍らに佇んでいるロイドは、揶揄するのも気が引けるほどに幸せそうだ。
そんな雰囲気を壊せるはずもなく、自分の顔が存外に緩んでいる事実には気が付かないふりをした。
明日になってしまえば、完全に仕事モードへ切り替わる。
密輸組織の身柄を取り押さえた後は、そのまま車でクロスベルまで移送する手筈だ。
捜査官であるロイドは同乗が鉄則なので、列車で来た時のような旅行気分とはいかない。
タングラム門で正式な引き渡しの手続きが行われるが、それまでは緊張感を強いられるだろう。
だったら、せめて今だけは。
出張先の夜。ランディはそんな風に想うことを止められなかった。
2022.09.19
#黎畳む
荷物持ちならご自由に
碧・恋人設定
ロイドに買い出しの荷物持ちを頼まれて同行するランディが複雑な心境になってしまう話。
2022年リクエスト④
【文字数:4500】
正直、昼ぐらいまでは惰眠をむさぼりたい気分だった。
昨夜も日課とばかりに歓楽街へ繰り出していたのだが、つい盛り上がってしまい、帰宅した頃には空が白み始めていた。
翌日が久しぶりの休みだということもあって、気が緩んでいたのかもしれない。
ランディは覚めきらない頭のまま、気怠げに朝食を口に運んでいた。
(食ったら軽く寝直してぇなぁ~)
そもそも休日の食事は各々に任されているので、わざわざ揃って食べる必要はない。
とはいえ、この男以外はみな規則正しい生活習慣の持ち主たちだ。
普段よりものんびりしているが、自然と一階に集まって朝の団欒が始まる。
ランディとしては放っておいてくれても構わないのだが、支援課の愛娘はそれを許してはくれなかった。
勢いよく彼の部屋に突撃を敢行し、
「ランディー!おはよー!」
毛布にくるまった大きな身体へ向かって、元気いっぱいに飛び乗ってくるのだった。
「ランディ。荷物持ちしてくれると助かるんだけど」
まだぼんやりとした思考では、交わす会話も右から左になっている。
なんとなく話に加わっていた彼は、頭上から降ってきた影に食事の手を止めた。
「──は?何が?」
テーブル端の席を陣取っている男の横には、朝から明るい表情を浮かべた相棒が立っている。
「なんだよ。食べながら寝てたのか?」
「うちのお姫様は手荒いからなぁ……もうちょい寝かせて欲しかったぜ」
ランディは愚痴を零しつつも、柔らかな口調を崩さない。
辺りを見渡せば、朝の団欒はすでに後片付けの段階に入り、件の少女がちょこちょこと動き回っていた。
「それで、何が助かるって?」
「買い出しの話」
「あぁ、お嬢の荷物持ちってことか」
「……ほんとに寝てたんだな。さっき俺が代わるって言っただろ?」
短いやり取りを経て、ロイドは思いっきり溜息を吐いた。どうにも話が通じない。
もともと、今日の買い出しはエリィが行く予定だった。
しかし、朝食でその話題になり、女性では骨が折れそうな量だと思ったロイドが代わりを買って出たのだ。
しばらく多忙だったせいで、必要な物品のリストアップは多岐に渡っている。
その簡潔な説明を受けたランディは、状況を飲み込むと同時にようやく覚醒した。
「そりゃ、確かになぁ」
「だからさ、俺一人でも持てるけど……一緒に来てくれたら凄く助かる」
今度はしっかり彼の耳に届くはずだと、ロイドは再び同じ言葉を口にした。
朝から爽やかな青年と、朝から怠そうだった男の視線が綺麗に噛み合う。
「おう。そこまで言われちゃ、しょうがねぇな~」
間を置かずして陽気な男の声が室内に響き渡った。
一気に笑み崩れたランディは、どこからどう見ても上機嫌な様相になっていた。
残り一人分の食器がまだ片付いていなかった。
休日は食事の片付けも個々で行うが、時間が重なればついでにということもある。
共同生活は持ちつ持たれつで円滑に保たれているのだ。
今朝はティオが洗い物を一手に引き受けており、痺れを切らして台所から顔を覗かせると、キーアが駆け寄ってきた。
「ねぇ、ねぇ。ロイドたち、一緒に買い出し行くんだって!」
「……ランディさん、チョロすぎます」
最年長の同僚は、緩みまくった顔で朝食の皿にラストスパートをかけている。
さっきまでのかったるそうな食事態度とは雲泥の差で、ロイドからお声がかかったことが一目瞭然だ。
「買い出しであの喜びようは重傷よね」
すると、洗い物を手伝ってくれているエリィが、呆れた声と共に少女たちの元へやって来た。
「まぁ、最近は忙しかったですし……無理もないかと」
特にここ数日は仕事で各地を飛び回っていたので、二人で過ごす時間などなかったのだろう。それを思えば、常日頃のジト目もちょっとくらいは温かい色を覗かせる。
だらだらと食事をしているランディに小言を口にするつもりが、あんな様子を見てしまっては意気消沈だ。
「ティオ~。もうお片付けは終わった?」
そんな彼女のすぐ横で、キーアが問いかけてきた。
「そうですね。取りあえずは」
目線を下げて静かに笑った後、今度はエリィの方を覗ってみる。
「あら、元々『ついで』なのだから構わないわよ」
彼女は身に付けていたエプロンを外し、優しい瞳に少しだけの揶揄を添えて男たちを見た。
「それに、あそこへ声をかけるのは野暮だもの」
軽やかに降りてくる幼い足音を耳にし、ランディが階段へ意識を寄せる。
「ロイドってば、誰かとお話してるみたい。ちょっと待っててくれって言ってたよ」
「そうか。ありがとな、キー坊」
そのまま勢いよく近づいてきたキーアの頭を、大きな手が優しく撫でる。
「えへへっ」
この少女と接してると誰もが自然と柔らかな物腰になってしまう。それはランディも同様だった。
そろそろ買い出しに出かけようかという時間帯。
なかなか一階へ姿を現さないロイドが気になり、キーアが様子を見に行ってくれたところだった。
特に急ぐ用事でもない為、二人はのんびりとしたやり取りを交わして彼を待つ。
「キーアも一緒にお買い物に行きたかったなぁ」
「今日は前からみんなで遊ぶ約束してたんだろ?」
「うん、大聖堂の庭で鬼ごっことかするんだよ!」
キーアがランディの腕に纏わりつき、仔犬のようにじゃれてくる。
「ま、あそこなら安全だな。だったら、買い物はまた今度っつーことで」
「えっと……じゃぁ、後でロイドに言っておかなくちゃ」
少女はぶつぶつと言いながら、ふと赤毛の男を見上げた。
「キーアも荷物持ちしてみた……あれ?」
首が痛くなるくらいに上を向き、高い位置にある彼の表情を観察して首を傾げる。
「おっ、なんだ?」
「ん~、ランディの顔、なんか面白いよ~?」
少しでも近くで見たいのか、精一杯のつま先立ちをして眉間に皺を寄せている。
「なんだ、そりゃ。お兄さんはいつだってカッコイイだろ?」
そんな少女を軽々と抱き上げたランディは、不満を露わにして無邪気な瞳を覗き込んだ。
「う~ん、なんかね、嬉しそうなのに嬉しくなさそう」
するとキーアは、子供らしい語句を並べて率直な印象を口にした。
どうやら、一つの顔の中に正反対の感情が存在しているのが面白いらしい。
彼女は時々、こんな風に相手の心を見透かしてくることがある。
ランディは自分の胸中を的確に言語化されてしまい、思わず目を見開いた。
「あ~、そいつはなぁ……なんつーか、チョロすぎんだろ?俺って顔だな」
けれど、すぐに軽妙な口先で苦笑を浮かべ、誤魔化すように自虐をしてみせるのだった。
中央広場で待ち合わせをしていた子供たちを見送り、二人はようやく買い出しへと向かった。
「こことここを回って、最後に百貨店だな」
ロイドが買い物リストのメモを指差して段取りを確認する。
流麗な文字で見やすく書かれたこのメモは、エリィのお手製である。
几帳面な彼女らしく、店舗の名前から購入品まで細やかに書かれてあった。
「いいんじゃね?妥当なとこだろ」
それを横から覗き込んでいたランディが相槌を打つ。
「よし、買い忘れのないようにしないとな」
今日は久しぶりの買い出しだからと、気合いを入れたロイドが歩き出す。
「はい、はい。しっかりやれよ」
妙な所で力を入れる姿はランディの笑いを誘うのに十分だ。
彼は可笑しげに目を細めながら、久しぶりに添って歩ける幸せを噛みしめていた。
買い物を楽しむというよりは、与えられたミッションをクリアしていく過程を見ているような気がする。
エリィによる完璧なメモのお陰で悩む必要はないし、真面目なロイドのせいで寄り道すらもない。
そうこうしている内に、ランディの両手はしっかりと荷物で塞がっていた。
(これでも嬉しいとか……どんだけ飢えてんだよ、俺は)
活き活きとしているロイドを見つめながら、内心大きな溜息を吐く。
今朝。買い出しのお誘いを受けた時は、まるで脊髄反射の勢いで体温が上がった。
単純に自分を頼ってくれたことが嬉しかったし、二人だけで過ごせる機会を得て気分が高揚したのも事実だ。
ここ数日は特に多忙を極め、プライベートも何もあったものではなかったので尚更だった。
しかし、時間が経って冷静になると、素直には喜びきれない心境に陥ってくる。
──結局はただの荷物持ち。
そういうことである。
日頃からロイドの天然発言で苦労している彼にしてみれば、あの言葉に他意など見出せるはずもなかった。
「──ランディ?また寝てるのか?」
そんなジレンマと対話をしていたランディは、すぐ側で名前を呼ばれて我に返った。
「あぁ?いや、起きてるぜ?」
いつの間にかロイドが目の前に立っていて、どこか気遣わしげな視線を向けてくる。
「それとも、ちょっと持たせすぎか?」
どうやら、急に黙ってしまった彼が心配になったらしい。
覗うような上目遣いをされ、ランディは戯けた態度で口を開く。
「このくらい何ともねぇって。今日はロイドくん専用の荷物持ちだから好きに使えよ」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせると、それで安心したのか、ロイドは小さく息を吐いた。
「ありがとう。あ、でも、一通り回ったら俺も持つからな」
そう言って弾むように頬を緩ませる。
「お、おう……」
だが、久しぶりに恋人の笑顔と対面したランディの方はといえば、感極まってしゃがみ込みたくなる心境だった。
(はぁ~、マジで抱き締めたい。やっぱ嬉しい……荷物持ちでも嬉しい)
両手が塞がっている状態にもどかしさを覚えながらも、喜びは大きい。
もうこの際、ロイドと二人で過ごせるなら何でも良いとすら思う。
先刻、キーアに指摘された『面白い顔』のバランスが、ものの見事に崩れた瞬間だった。
全ての買い物が終わって百貨店を出る頃には、時計の針は昼を回っていた。
ランディの両手は相変わらず塞がったままだが、物量はそれ程でもないようだ。
さっきの言葉通り、ロイドの片手にも大きな紙袋がある。
「結構な量になったな。やっぱり二人で来て正解だった」
快晴の明るい空色に眩しさを覚え、目を細めたロイドが満足げに頷く。
「助かったよ。ランディ」
「お役に立てて何よりだぜ」
律儀にお礼を言われれば、ただでさえ緩み気味な顔が更にだらしなくなる。
思わず噴き出しそうになる男の表情を見つつ、ロイドはさり気なく用事の終わりを延長させた。
「なぁ、昼飯。どっかで食べていかないか?」
「おっ、いいね~」
てっきり買い出しだけだと予想していたランディは、思わぬ幸運で声のトーンを上げる。
「そんじゃ、店はお前に任せるぜ」
この時間帯なら大抵の飲食店は混んでいそうだが、食べる物に拘らなければ問題ないだろう。
「う~ん、そうだなぁ」
思案しながら街中を行くロイドの歩調に合わせ、ランディは浮ついた気分で付き従った。
しかし、彼と過ごせるなら目的は問わないと吹っ切れたはずの心に、未練たらしく僅かな欲が滲み出る。
「買い物してから飯なんて、言葉だけなら可愛いデートなんだよなぁ……」
つい冗談交じりで呟いた独り言のような願望は、傍らにいる恋人の耳にまで届いた。
ロイドがピタリとその場で立ち止まる。
「あの……さ。ちょっとくらいはそういうつもりなんだけど」
久しぶりの休日。雑踏の中で照れながら笑う姿は、いつにも増して破壊力がある。
ランディは両手に持っていた荷物を危うく落としてしまうところだった。
2022.07.18
#碧畳む
碧・恋人設定
ロイドに買い出しの荷物持ちを頼まれて同行するランディが複雑な心境になってしまう話。
2022年リクエスト④
【文字数:4500】
正直、昼ぐらいまでは惰眠をむさぼりたい気分だった。
昨夜も日課とばかりに歓楽街へ繰り出していたのだが、つい盛り上がってしまい、帰宅した頃には空が白み始めていた。
翌日が久しぶりの休みだということもあって、気が緩んでいたのかもしれない。
ランディは覚めきらない頭のまま、気怠げに朝食を口に運んでいた。
(食ったら軽く寝直してぇなぁ~)
そもそも休日の食事は各々に任されているので、わざわざ揃って食べる必要はない。
とはいえ、この男以外はみな規則正しい生活習慣の持ち主たちだ。
普段よりものんびりしているが、自然と一階に集まって朝の団欒が始まる。
ランディとしては放っておいてくれても構わないのだが、支援課の愛娘はそれを許してはくれなかった。
勢いよく彼の部屋に突撃を敢行し、
「ランディー!おはよー!」
毛布にくるまった大きな身体へ向かって、元気いっぱいに飛び乗ってくるのだった。
「ランディ。荷物持ちしてくれると助かるんだけど」
まだぼんやりとした思考では、交わす会話も右から左になっている。
なんとなく話に加わっていた彼は、頭上から降ってきた影に食事の手を止めた。
「──は?何が?」
テーブル端の席を陣取っている男の横には、朝から明るい表情を浮かべた相棒が立っている。
「なんだよ。食べながら寝てたのか?」
「うちのお姫様は手荒いからなぁ……もうちょい寝かせて欲しかったぜ」
ランディは愚痴を零しつつも、柔らかな口調を崩さない。
辺りを見渡せば、朝の団欒はすでに後片付けの段階に入り、件の少女がちょこちょこと動き回っていた。
「それで、何が助かるって?」
「買い出しの話」
「あぁ、お嬢の荷物持ちってことか」
「……ほんとに寝てたんだな。さっき俺が代わるって言っただろ?」
短いやり取りを経て、ロイドは思いっきり溜息を吐いた。どうにも話が通じない。
もともと、今日の買い出しはエリィが行く予定だった。
しかし、朝食でその話題になり、女性では骨が折れそうな量だと思ったロイドが代わりを買って出たのだ。
しばらく多忙だったせいで、必要な物品のリストアップは多岐に渡っている。
その簡潔な説明を受けたランディは、状況を飲み込むと同時にようやく覚醒した。
「そりゃ、確かになぁ」
「だからさ、俺一人でも持てるけど……一緒に来てくれたら凄く助かる」
今度はしっかり彼の耳に届くはずだと、ロイドは再び同じ言葉を口にした。
朝から爽やかな青年と、朝から怠そうだった男の視線が綺麗に噛み合う。
「おう。そこまで言われちゃ、しょうがねぇな~」
間を置かずして陽気な男の声が室内に響き渡った。
一気に笑み崩れたランディは、どこからどう見ても上機嫌な様相になっていた。
残り一人分の食器がまだ片付いていなかった。
休日は食事の片付けも個々で行うが、時間が重なればついでにということもある。
共同生活は持ちつ持たれつで円滑に保たれているのだ。
今朝はティオが洗い物を一手に引き受けており、痺れを切らして台所から顔を覗かせると、キーアが駆け寄ってきた。
「ねぇ、ねぇ。ロイドたち、一緒に買い出し行くんだって!」
「……ランディさん、チョロすぎます」
最年長の同僚は、緩みまくった顔で朝食の皿にラストスパートをかけている。
さっきまでのかったるそうな食事態度とは雲泥の差で、ロイドからお声がかかったことが一目瞭然だ。
「買い出しであの喜びようは重傷よね」
すると、洗い物を手伝ってくれているエリィが、呆れた声と共に少女たちの元へやって来た。
「まぁ、最近は忙しかったですし……無理もないかと」
特にここ数日は仕事で各地を飛び回っていたので、二人で過ごす時間などなかったのだろう。それを思えば、常日頃のジト目もちょっとくらいは温かい色を覗かせる。
だらだらと食事をしているランディに小言を口にするつもりが、あんな様子を見てしまっては意気消沈だ。
「ティオ~。もうお片付けは終わった?」
そんな彼女のすぐ横で、キーアが問いかけてきた。
「そうですね。取りあえずは」
目線を下げて静かに笑った後、今度はエリィの方を覗ってみる。
「あら、元々『ついで』なのだから構わないわよ」
彼女は身に付けていたエプロンを外し、優しい瞳に少しだけの揶揄を添えて男たちを見た。
「それに、あそこへ声をかけるのは野暮だもの」
軽やかに降りてくる幼い足音を耳にし、ランディが階段へ意識を寄せる。
「ロイドってば、誰かとお話してるみたい。ちょっと待っててくれって言ってたよ」
「そうか。ありがとな、キー坊」
そのまま勢いよく近づいてきたキーアの頭を、大きな手が優しく撫でる。
「えへへっ」
この少女と接してると誰もが自然と柔らかな物腰になってしまう。それはランディも同様だった。
そろそろ買い出しに出かけようかという時間帯。
なかなか一階へ姿を現さないロイドが気になり、キーアが様子を見に行ってくれたところだった。
特に急ぐ用事でもない為、二人はのんびりとしたやり取りを交わして彼を待つ。
「キーアも一緒にお買い物に行きたかったなぁ」
「今日は前からみんなで遊ぶ約束してたんだろ?」
「うん、大聖堂の庭で鬼ごっことかするんだよ!」
キーアがランディの腕に纏わりつき、仔犬のようにじゃれてくる。
「ま、あそこなら安全だな。だったら、買い物はまた今度っつーことで」
「えっと……じゃぁ、後でロイドに言っておかなくちゃ」
少女はぶつぶつと言いながら、ふと赤毛の男を見上げた。
「キーアも荷物持ちしてみた……あれ?」
首が痛くなるくらいに上を向き、高い位置にある彼の表情を観察して首を傾げる。
「おっ、なんだ?」
「ん~、ランディの顔、なんか面白いよ~?」
少しでも近くで見たいのか、精一杯のつま先立ちをして眉間に皺を寄せている。
「なんだ、そりゃ。お兄さんはいつだってカッコイイだろ?」
そんな少女を軽々と抱き上げたランディは、不満を露わにして無邪気な瞳を覗き込んだ。
「う~ん、なんかね、嬉しそうなのに嬉しくなさそう」
するとキーアは、子供らしい語句を並べて率直な印象を口にした。
どうやら、一つの顔の中に正反対の感情が存在しているのが面白いらしい。
彼女は時々、こんな風に相手の心を見透かしてくることがある。
ランディは自分の胸中を的確に言語化されてしまい、思わず目を見開いた。
「あ~、そいつはなぁ……なんつーか、チョロすぎんだろ?俺って顔だな」
けれど、すぐに軽妙な口先で苦笑を浮かべ、誤魔化すように自虐をしてみせるのだった。
中央広場で待ち合わせをしていた子供たちを見送り、二人はようやく買い出しへと向かった。
「こことここを回って、最後に百貨店だな」
ロイドが買い物リストのメモを指差して段取りを確認する。
流麗な文字で見やすく書かれたこのメモは、エリィのお手製である。
几帳面な彼女らしく、店舗の名前から購入品まで細やかに書かれてあった。
「いいんじゃね?妥当なとこだろ」
それを横から覗き込んでいたランディが相槌を打つ。
「よし、買い忘れのないようにしないとな」
今日は久しぶりの買い出しだからと、気合いを入れたロイドが歩き出す。
「はい、はい。しっかりやれよ」
妙な所で力を入れる姿はランディの笑いを誘うのに十分だ。
彼は可笑しげに目を細めながら、久しぶりに添って歩ける幸せを噛みしめていた。
買い物を楽しむというよりは、与えられたミッションをクリアしていく過程を見ているような気がする。
エリィによる完璧なメモのお陰で悩む必要はないし、真面目なロイドのせいで寄り道すらもない。
そうこうしている内に、ランディの両手はしっかりと荷物で塞がっていた。
(これでも嬉しいとか……どんだけ飢えてんだよ、俺は)
活き活きとしているロイドを見つめながら、内心大きな溜息を吐く。
今朝。買い出しのお誘いを受けた時は、まるで脊髄反射の勢いで体温が上がった。
単純に自分を頼ってくれたことが嬉しかったし、二人だけで過ごせる機会を得て気分が高揚したのも事実だ。
ここ数日は特に多忙を極め、プライベートも何もあったものではなかったので尚更だった。
しかし、時間が経って冷静になると、素直には喜びきれない心境に陥ってくる。
──結局はただの荷物持ち。
そういうことである。
日頃からロイドの天然発言で苦労している彼にしてみれば、あの言葉に他意など見出せるはずもなかった。
「──ランディ?また寝てるのか?」
そんなジレンマと対話をしていたランディは、すぐ側で名前を呼ばれて我に返った。
「あぁ?いや、起きてるぜ?」
いつの間にかロイドが目の前に立っていて、どこか気遣わしげな視線を向けてくる。
「それとも、ちょっと持たせすぎか?」
どうやら、急に黙ってしまった彼が心配になったらしい。
覗うような上目遣いをされ、ランディは戯けた態度で口を開く。
「このくらい何ともねぇって。今日はロイドくん専用の荷物持ちだから好きに使えよ」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせると、それで安心したのか、ロイドは小さく息を吐いた。
「ありがとう。あ、でも、一通り回ったら俺も持つからな」
そう言って弾むように頬を緩ませる。
「お、おう……」
だが、久しぶりに恋人の笑顔と対面したランディの方はといえば、感極まってしゃがみ込みたくなる心境だった。
(はぁ~、マジで抱き締めたい。やっぱ嬉しい……荷物持ちでも嬉しい)
両手が塞がっている状態にもどかしさを覚えながらも、喜びは大きい。
もうこの際、ロイドと二人で過ごせるなら何でも良いとすら思う。
先刻、キーアに指摘された『面白い顔』のバランスが、ものの見事に崩れた瞬間だった。
全ての買い物が終わって百貨店を出る頃には、時計の針は昼を回っていた。
ランディの両手は相変わらず塞がったままだが、物量はそれ程でもないようだ。
さっきの言葉通り、ロイドの片手にも大きな紙袋がある。
「結構な量になったな。やっぱり二人で来て正解だった」
快晴の明るい空色に眩しさを覚え、目を細めたロイドが満足げに頷く。
「助かったよ。ランディ」
「お役に立てて何よりだぜ」
律儀にお礼を言われれば、ただでさえ緩み気味な顔が更にだらしなくなる。
思わず噴き出しそうになる男の表情を見つつ、ロイドはさり気なく用事の終わりを延長させた。
「なぁ、昼飯。どっかで食べていかないか?」
「おっ、いいね~」
てっきり買い出しだけだと予想していたランディは、思わぬ幸運で声のトーンを上げる。
「そんじゃ、店はお前に任せるぜ」
この時間帯なら大抵の飲食店は混んでいそうだが、食べる物に拘らなければ問題ないだろう。
「う~ん、そうだなぁ」
思案しながら街中を行くロイドの歩調に合わせ、ランディは浮ついた気分で付き従った。
しかし、彼と過ごせるなら目的は問わないと吹っ切れたはずの心に、未練たらしく僅かな欲が滲み出る。
「買い物してから飯なんて、言葉だけなら可愛いデートなんだよなぁ……」
つい冗談交じりで呟いた独り言のような願望は、傍らにいる恋人の耳にまで届いた。
ロイドがピタリとその場で立ち止まる。
「あの……さ。ちょっとくらいはそういうつもりなんだけど」
久しぶりの休日。雑踏の中で照れながら笑う姿は、いつにも増して破壊力がある。
ランディは両手に持っていた荷物を危うく落としてしまうところだった。
2022.07.18
#碧畳む
黎Ⅱ(断章)・恋人未満
両片想いで互いにもだもだしつつ、アーロンが頑張って自制してる話。
ヴァンは天然誘い受け風味です。
【文字数:5000】
一人で過ごすには広い部屋だ。
最初にここへ案内された時に抱いた印象は、今もさして変わらない。
シャワールームから出てきたヴァンの視線が室内を巡った。
落ち着いた雰囲気の調度品たちは、一目で質の良さが窺える。
リゾート地のホテルだけあって、高級感と寛ぎやすさは格別だ。
どうせなら、ただの慰安旅行くらいの気楽さで訪れたかったものだ。
ヴァンはそう思いながらも、まだ半乾きの髪をタオルで掻き乱して肩へとかけた。
「……さすがに明日には何かあるだろ」
あの男からの招待ならば、このまま平穏が続いて終わるはずがない。
分かってはいるが、相手の企みが読み切れない以上は動きようがなかった。
だったら、事が起きるまではこの高級リゾートを味わうのも良いだろう。
幸いにもネメス島に招待されている他勢力の面々は、気持ちの切り替えが上手い者ばかりだ。
「まぁ、今日の所はあいつらもちゃんと楽しんでたみたいだし」
ふと、裏解決事務所の所長としての顔が表に出る。
漠然とした不安と共にこの島へ降り立った当初は、助手たちの様子が気がかりだった。
しかし、それは見事に杞憂で終わったようだ。
皆はそれぞれの悩みや葛藤を抱えながらも、しっかりと息抜きができている。
折に触れて言葉を交わし、はしゃいで走り回る姿を眺め、ヴァンは心の中で安堵していた。
静かな夜にさざ波の音が戯れる。
風に乗ってくる談笑の欠片につられて、自然と頬が緩んでしまった。
ヴァンはおもむろに小さな冷蔵庫へ歩み寄った。
中にいくつかの飲料が用意されていたが、彼は迷うことなく一本の瓶を手に取る。
いわゆるミネラルウォーターの類いだ。
「こりゃ、また……高そうな水じゃねぇか」
庶民の感覚で苦笑した後、封を切って備え付けのグラスに注いでみる。
一つ口を付ければ、ほど良い冷たさがゆっくりと喉の奥を伝っていく。
酒が入っていることを配慮して低めの温度でシャワーを浴びたが、それでも身体はぽかぽかと温かい。
そんな彼にとって、この一杯は清涼剤のような感覚なのだろう。
一息をついた後。そのままテラスに出ようとするが、いくらか歩んだ所でピタリと動きを止めた。
廊下の方から人の気配を感じる。
耳を澄ますと、階段を上ってきた足音がこの部屋へ近づいてくるのが分かった。
彼はすぐに目を丸くした。
付き合いのある人物ならば、大抵は歩き方で判別できてしまうからだ。
「おいおい、マジかよ」
反射的に室内の時計を見た瞬間、ノックの音もなくドアが開いた。
「ハッ、つまんねぇモン飲んでやがるな」
開口一番の言葉があざ笑った。
穏やかな照明の光を含んだせいか、普段は強い金色に若干の柔らかさが入り交じる。
数拍の心構えがあったとはいえ、ヴァンは吃驚を隠せなかった。
ブレた手元がグラスを揺らし、危うく水を零しかける。
テラスの手前まで来ていた彼は、近くに置かれているソファーとテーブルに目を留めた。
すぐさまグラスを置いてホッと息を吐く。
「はぁ~、危ねぇなぁ。驚かせんじゃねぇよ」
睨み付けるような素振りをしてみたが、赤毛の青年はそれを無視して堂々と部屋の中央を突っ切ってきた。
それから少しばかり乱暴な仕草でソファーに腰を沈める。
「なんだよ、下はもうお開きか?」
ヴァンが部屋に引き上げる時、彼は一階のテーブルで数名と酒杯を傾けて盛り上がっていた。
あの様子では長くかかるだろうとみていたのだが。
不思議に思って問いかけると、
「いや、まだ賑やかなもんだぜ」
すぐに明瞭な返答があったが、ヴァンの頭にはますます疑問符が沸き上がる。
すっかり寛ぎ体勢になってしまっているので、途中で離席というわけではなさそうだ。
「まさか……なんかもめ事起こしてきた、とかじゃねぇよな?」
「そんな無粋な真似するかよ。そこらの酒場じゃあるまいし」
一抹の不安が過ぎったが、即答で一蹴されてしまった。
保護者面が気に入らなかったのか、アーロンは目を合わせようとしない。
どうにも彼の真意が読めないヴァンは、つい不躾な視線を注いでしまった。
それに居心地の悪さを感じたのか、ソファーに埋もれている身体があからさまに揺れた。
「まぁ、なんつーか、一通りは絡んでやったしな」
同時に動いた唇からは、まるでここにいることへの言い訳を探しているような言葉が漏れた。
「思いっきり上から目線だよな……このガキは」
あの癖の強い顔ぶれに対し、太々しいまでの言い草が苦笑を誘う。
肩にかけたままのタオルを弄りながら、緩んだ目元で赤い頭を見下ろした。
正直、一人だと思っていたから少しだけ嬉しかった。
二人部屋とはいえ、アーロンは遊びに積極的な男だ。
一度気持ちを切り替えてしまえば、あとは目一杯この環境を満喫するに決まっている。
落ち着いた部屋でゆったりとした時間を過ごすなど、選択肢に上るはずがなかった。
彼にしてみれば、この一室はただ寝るためだけにある空間に違いない。
だから──最初に『広い』と感じてしまった。
「……ちょいと回ってるかもしれねぇな」
波音が耳に残りそうなくらいに一人の夜半を、アーロンの声が打ち消してくれる。
この浮ついた気分は酔いのせいか、誤算のせいか?
涼むつもりでテラスに出るつもりが、あと一歩。
ヴァンは困ったようで嬉しいような、不思議な表情を浮かべた。
目の前に佇んでいる男の自己申告は、あながち間違っていないのかもしれない。
いつもよりも言動に緩慢さがあり、向けてくる眼差しはずいぶんと柔和な印象を受ける。
「情けねぇヤツ」
水面下でヴァンを観察していたアーロンは、遠慮なくせせら笑った。
「なんだかんだで結構飲んじまったからなぁ」
夜の交流ともなれば、アルコールの類いがついて回ってくるものだ。
顔を合わせて言葉を交わせば、酒杯の一つでもとなるわけで。
ことさらヴァンは皆に目を配っていたし、その人柄もあってか良く声がかかっていた。
「てめぇは誰も彼もと構いすぎなんだよ。大して強くもねぇくせに」
思い出すだけで苛つく。アーロンはわずかに声を低くして吐き捨てた。
別に監視していたわけではないし、もちろん彼自身もしっかり酒の席を愉しんでいた。
けれど、紺青の頭が視界をかすめれば自然と追ってしまう。そんな瞬間が幾度もあったのは事実だ。
「お前なぁ……自分を強さの基準にするなっつーの」
苛立たしげに足を組み替えると、呆れたような声が降ってきた。
見上げた途端に息を呑む。
「ん~、やっぱり底なしだよなぁ。結構飲んできたんだろうに、素面みたいなツラしやがって」
いつの間にか歩み寄ってきたヴァンが、まじまじと覗き込んできた。
緩やかに伸びてきた腕が──指先が頬に触れようとしてくる。
「……チッ」
アーロンは咄嗟にその手首を掴んだ。触れた肌がそこはかとなく熱い気がする。
「絡むんじゃねぇ」
大きく脈打った鼓動のせいで、耳元で乱れた血流の幻聴がした。
言葉裏腹、名残惜しさを隠しながらその手を振り払う。
ヴァンは驚いたものの、ふわりと笑うだけだった。
「うぜぇから、さっさと醒ますなり寝るなりしやがれ」
気分を害していないのを良いことに、アーロンは再び彼を突き放した。
それに呼応したのか、開けっぱなしのガラス戸からひとすじの夜風が舞い込んでくる。
「はいはい。ったく、なんで早々に切り上げてきたんだか」
見えざる涼やかな手に引かれ、ヴァンがのんびりとテラスへ出て行くのを黙って見送る。
後ろ姿に残した声は、心なしか可笑しげに揺れているように聞こえた。
「──なんでって……独り占めしてぇからに決まってんだろうが」
その問いかけに真正面から答えられるはずもなく、アーロンはぼそりと呟いた。
夜を纏った部屋の中、ほろ酔い気分で近づいてきた彼に劣情を刺激されてしまう。
素肌に触れた掌を見つめ、苦虫を噛みつぶす。
ヴァンと二人きりで過ごす時間が欲しかったはずなのに、上手く立ち回れない自分がもどかしかった。
ちらりと外に目をやれば、手摺りにもたれ掛かって夜空を眺めている背中がある。
ほんの一瞬、背後から抱き締めたい衝動に駆られたが、軽く頭を振って自制した。
この島に招待されている意味を考えてしまうと、距離を詰めることすらままならなかった。
「……くそっ、やりずれぇんだよ」
アーロンは寛いでいたソファーから勢いよく立ち上がった。
溜まった感情を押し流すように、テーブルの上にある飲みかけのグラスを一気にあおる。
温くなった水は本当につまらない液体だったが、何もないよりかはマシだと思った。
アーロンが飲み干したグラスを置く音は、やたらと室内に響き渡った。
テラスで涼みながらも背後の様子を気にしていたヴァンは、首だけを捻って音のした方を覗う。
彼は赤髪を振り払ってソファーから離れる所だった。
「理由なんてあるわけねぇか。気まぐれなヤツだし」
その後ろ姿がシャワールームへと消えたのを確認し、苦笑する。
再び濃紺の空を見上げてみたが、今は視点が定まらずにぼやけた星々が映るだけだった。
眠気を覚えて小さな欠伸をしたヴァンは、身体を屈み込ませて手摺りに頬を寄せた。
昼間は島中を動き回っていたので、知らずの内に疲れが溜まっているのかもしれない。
その上まだ酒の抜けきらない身には、金属の冷たさがとても心地良く感じられた。
「また、うぜぇとか言われそうだよな……先に寝ちまった方がいいか?」
さっき、アーロンには醒ますなり寝るなりと言われたばかりだ。
だったら彼がシャワーを浴びている間に就寝してしまえば文句はないだろう。
けれど、今はすんなりとベッドへ潜り込む気分にはなれなかった。
「あ~、もうちょい、なんか話してぇなぁ」
煌都の一件が落ち着いた矢先に不穏な招待状を受け取り、彼とはゆっくり言葉を交わす余裕もなく今に至っている。普段のような他愛のないやり取りになったとしても、二人きりでいたかった。
「ご機嫌斜めでもいいから……構ってくれよ、アーロン」
ヴァンの密かな本音が、人知れず夜気の中に紛れて落ちた。
ドアを閉めた途端、それを背もたれにしながら深く大きな息を吐く。
「あの野郎、中途半端に酔いやがって」
アーロンは鬱陶しげに前髪を掻き上げて、唇に不満を乗せた。
照明を点け忘れたままの天井は薄暗く、そのせいか彼の金彩には陰がかかっている。
「あの時に酔い潰しちまえば良かった」
虚空を見つめた脳裏に、先刻二人でカクテルを飲んでいた時の光景が蘇る。
あの時アーロンが作ったのは、辛口でパンチの効いた一杯だった。
完全に自分好みな一品だったのだが、意外にもヴァンには好評だったらしい。
癖になりそうだと声を弾ませてくれたのが嬉しくて、ついおかわりを勧めたくなってしまった。
しかし、アルコール度数が強めなカクテルだ。自分はともかく、ヴァンはそう何杯もいけるはずがない。
だから、アーロンにしてみればほとんど冗談のつもりだった。
「潰れたら部屋に運んでやる」と言ったのは。
まだ夜も始まって早い時間帯だったこともあり、からかい混じりの戯れ言みたいなものだった。
その言動が今になって後悔という名の牙を向けてくる。
そのまま暫くドアに背を預けていた彼は、ようやく照明のスイッチを入れた。
すぐにでもシャワーを浴びて、悶々とした胸中を洗い流してしまいたくなる。
「あんな状態でふらふら寄ってこられたら、堪ったもんじゃねぇ」
そんな風に自制心を試されるなら、会話が成立しないくらいに泥酔してくれた方がいい。
彼はぶつぶつと愚痴を吐きながら、自らの上着に手をかけた。
着ていた衣服を勢いよく脱ぎ、設置されているバスケットの中へ乱雑に放り込んでいく。
纏めた長髪を解きながら浴室へ足を踏み入れた瞬間、濡れた床の感触に胸がざわめいた。
ほろ酔い気分でここへ来たであろう先客の痕跡があり、その姿を想像して生唾を飲み込む。
普段から裸の付き合いが珍しくもない間柄なのに、今はどうしても意識をしてしまう。
微かな酒の余韻が漂うこの夜は、アーロンにとって酷く甘い毒のようだった。
「──こんな招待、嬉しくもなんともねぇんだよ」
これがただの休暇であったなら、何の躊躇もせずに彼を掴まえられるのに。
喋る声も息づかいさえも独り占めできるのに。
現状ではあり得もしない願望が、一瞬だけ頭の中を駆け巡った。
シャワーのコックを捻れば勢いよく水飛沫が上がった。
床を叩く水音を聞きながら、アーロンは目を閉じる。
後悔と欲情と。
複雑に混じり合った感情を抑えるためには、冷たいくらいの水温が丁度良かった。
鮮やかな赤髪から水が流れ落ちる度に、少しずつ昂っているものが薄れていく。
「……早く寝ちまってくれよ、ヴァン」
湿度が上がった狭い空間にくぐもった声が反響した。
それは確かに彼の本音であり、それでいて確かな嘘でもあった。
2022.12.25
#黎Ⅱ
畳む