今、繋ぎ止めた想いを確かめて
黎END後・恋人設定
魔王化の時二人は何を思っていたのか、そして未来についての会話。
事後のベッドでイチャついています。
2022年リクエスト①
【文字数:3400】
驚愕だとか畏怖だとか。
人の身がこの異形に対して感じる感情など、どうでも良かった。
夜明け前の濃紺は常闇と混じり合い、優しい色が浸食されていく。
耳障りな音は止むことを知らず、歪み始めた空間の中で別れを察知した。
──ふと、目が合った。
どこか困ったように笑っている。
「ああ、そうか」と、アーロンはそこで納得した。
思わせぶりな言動をするくせに、一歩踏み込めば途端に距離を置く。
いざ真っ向から攻めかかっても絶対に陥落はしない。
いつも、隠しようがない好意を不器用に誤魔化していた。
さっさと認めてしまえば楽なのに。落ちてしまえば楽なのに。
何度そう思ったか分からない。
黎い大きな羽ばたきが、積み重ねてきた縁とその未練を断ち切ろうとしている。
アーロンは、想い人がずっと煮え切らない態度を取り続けた理由をようやく飲み込んだ。
目の前から彼がいなくなることで。
そこで一気に目が覚めた。
ベッドで眠っていた赤毛の青年は勢いよく上半身を起こす。
「ゆ、め……か?」
じわりと滲んだ額の汗を手で拭い、そのまま不快げに前髪を掻き上げた。
時刻は深夜を回ったあたりで、薄暗い部屋の中は静寂に包まれていた。
「──なんだ、怖い夢でも見たのか?」
不意に穏やかな声が聞こえてきた。
相手を気遣いながらも、ほんの少しだけからかうような節がある。
それを発した男は窓辺に半裸の身体を預け、腕を組みながら外を眺めやっていた。
わずかに開いた窓の隙間から夜風が舞い込み、カーテンを緩やかになびかせる。
「……チッ」
アーロンはあからさまに舌打ちをした。
眠りに落ちる直前、彼は隣で微睡んでいたはずだ。
それなのに、知らぬ間に共寝から抜け出しているのが面白くない。
月明かりが霞んでいる今宵。
仄かな街明かりが差し込むだけでは、表情さえも読み取れない。
やはり面白くなかった。
「うるせぇな。勝手にベッドから出るんじゃねぇ」
あんな夢を見たせいか、数歩分しかない距離でさえも連れ戻したい衝動に駆られた。
「はい、はい……ご機嫌斜めかよ」
薄い闇の中、眇めた瞳が刺々しく光っている。
ヴァンは肩を竦めて苦笑しつつ、静かに窓を閉めた。
そして、夢見が悪い恋人の元へ足を向ける。
「うなされているようには見えなかったんだけどな」
ベッドの端に座った彼は、軽く身を乗り出してアーロンを覗き込んだ。
不機嫌に歪んだ頬をやんわりと叩き、宥めようとする。
「てめぇが離れたせいで、見たくもねぇものを見た」
「はぁ?なんで俺のせいなんだよ?」
恨みがましい非難の眼差しが突き刺さり、困惑したヴァンは咄嗟に手を引っ込めた。
それすらも気に入らないのか、アーロンが乱暴に腕を掴んで引き寄せようとする。
「おっ、おい!?」
体格や腕力で考えればヴァンの方に分があるのだが、今は完全に油断しきっていた。
抗う間もなく主導権を握られ、先刻まで身体を絡み合わせていた場所へ引きずり戻される。
「……逃げようとした。消えようとした。俺の前から」
ベッドが軋む音と共に、責めるような言葉の羅列が降ってきた。
それを聞いたヴァンは瞠目して喉を詰まらせる。
「そいつ、は……」
アーロンが何の夢を見ていたのかが、瞬時に分かってしまったのだ。
さっき、ほんの少しでも揶揄が混じったことを後悔する。
詫びのつもりか無性に触れたくなって、組み伏せてきた年若い青年の身体へ手を伸ばした。
かけるべき言葉を探しあぐね、ヴァンは無言で彼の肩口を優しく撫でた。
夜風で冷えた指先には、寝起きの体温が心地良い。
そんな仕草は自然とアーロンの険を和らげ、次に発せられた声は随分と落ち着いていた。
「あの時……俺はどんな顔をしてた?」
傍から見れば何の脈絡もないように思える問いかけ。
しかし、ヴァンは苦しげに顔を歪め、見下ろしてくる金色から視線を反らす。
「……覚えてねぇ」
人肌に触れていた片手がするりと落ちた。
「何も心の中に残したくなかった。本当は見るつもりなんてなかったのに……」
小さく動いた唇からは愁いを含んだ声が零れ落ちる。
空になった手の甲が、今度は自嘲気味に笑う目元を隠した。
「なんで、最後の最後に見ちまったんだろうな」
まるで独り言のような回顧は徐々に萎んでいき、掠れた語尾が二人の隙間に溶けていく。
それは、去り際に見た魔王の微笑と似ているような気がした。
アーロンは今になってヴァンの心情を知り、沸々と嬉しさが込み上げてくるのを感じた。
「はっ……未練たらたらだったんじゃねぇかよ」
あの末期の状況で、執着の欠片を見せるくらいに強く想われてる。
どうしようもなく頬が緩み、締まりのない顔になってしまいそうだった。
それを悟られたくなかった彼は、誤魔化すように恋人の胸元へ唇を寄せた。
一つ二つと甘噛みの痕を散らして、乱れ始めた心音を聞く。
「お前だって似たようなもんだろうが」
ぶり返してくる熱に引きずられ、沈んでいたヴァンの気持ちは上向きになっていった。
視界を閉ざしていた手が、覆い被さっている青年の背中に回される。
「あんなとこまで追いかけてきやがって」
口振りのわりには、素肌を辿る指先の動きが柔らかかった。
無造作に流れる赤い髪の一房を愛おしげに絡ませる。
「俺があんたを逃がすわけねぇだろ。舐めてんのかよ」
「ったく……諦めの悪いヤツに好かれちまったもんだぜ」
憎まれ口を叩き合いながらも、ベッドの中でじゃれつく二人の雰囲気は甘やかだ。
睦言にはそぐわない囁きが、湿った吐息を纏わせてシーツの海に広がっていく。
窓の外は未だに夜が明ける気配もしなかった。
常夜灯はなく、カーテン越しの灯りもこの薄闇では役に立たない。
それでも、これだけ密着していれば互いの表情が簡単に読み取れる。
「……また、同じようなことがあっても絶対に逃がさねぇ」
今は宿主を離れている魔核の存在が頭を過ぎり、アーロンは歯ぎしりをした。
恋情が増せば増すほど、再び背を向けられることへの不安が付きまとう。
彼は抱き合ったままの状態で恋人の首筋に顔を埋め、ざわめく心を押さえ込もうとした。
「まぁ、俺もあの時よりはマシな判断をするさ」
「そういう言葉は信用できねぇんだよ……この前科持ちが」
燃えるような髪の先端に肌をくすぐられ、ヴァンが身動ぎをする。
アーロンに限らず、他の仲間たちからも詐欺だのと散々怒りをぶつけられたのだ。
自業自得とはいえ、今はどんな言い方をしてもまともに受け取ってはもらえないのだろう。
ヴァンは伏せた青年の顔に両手を差し入れて、いささか強引に掬い上げた。
「だったら、しっかり捕まえておいてくれよ」
至近距離で見合い、濃藍の瞳が思慕を滲ませる。
何か言いたげに動きかけた唇へ、自らのそれを深く重ね合わせた。
ひとしきり戯れた後、二人はようやく毛布の中に潜り込んだ。
離れようとしないアーロンに対し、「いい加減に寝かせろ」とヴァンが遠慮なく蹴りを入れた形だ。
薄暗がりの天井を何気なく見つめ、ぼそりと口を開く。
「俺のことはともかく……水面下では不穏な気配だらけなんだよなぁ」
「アルマータの一件が終わっても、各勢力が暗躍してんのは変わらねぇしな」
「はぁ~、厄介な依頼は勘弁だぜ……」
心底かったるそうな溜息の後を、意地悪げな声が追いかけてくる。
「しっかり働けよ、所長さん。俺の給料が払えるくらいにはな」
アーロンはうつ伏せの状態で枕に乗りかかりながら、小刻みに肩を揺らした。
「やれやれ、いつまでお前を雇えばいいんだか」
困ったヤツだと言わんばかりの態度をされ、彼はつり上げた口角を歪ませた。
「──さあな」
いつだったか、ヴァンに話したことを思い出す。
この先、色々な街を見て回りたいと。各地の歓楽街巡りならば、なお楽しい。
いずれ煌都に身を落ち着けるにしても、それはずっと未来の話だ。
「そんなの……知るか」
しかし、あの時とは状況が変わりすぎてしまい、明るく語った願望はいつの間にか形を潜めている。
そんなことよりも譲れない想いがあった。
何よりも繋ぎ止めておきたい大事な人ができた。
アーロンはおもむろに上半身を起こし、隣に横たわる寝際の男を覗き込んだ。
「今の俺は、どんな顔をしてる?」
なぜか、目を閉じる前にもう一度聞きたくなった。
ヴァンは少し驚いたようだったが、数拍もしないうちに静かな笑みを浮かべてくれた。
「そりゃぁ、クソ生意気そうなツラに決まってんだろ」
「……そうかよ」
予想通りの反応に満足そうな表情をした彼は、『おやすみ』の挨拶代わりに触れるだけのキスをした。
今度は答えを聞くことができた。
あの夢とは違い、傍らには確かな存在がある。
それを実感したアーロンは、二人分の温もりを含んだ毛布に顔を埋め、ようやく眠りについた。
2022.05.22
#黎畳む
黎END後・恋人設定
魔王化の時二人は何を思っていたのか、そして未来についての会話。
事後のベッドでイチャついています。
2022年リクエスト①
【文字数:3400】
驚愕だとか畏怖だとか。
人の身がこの異形に対して感じる感情など、どうでも良かった。
夜明け前の濃紺は常闇と混じり合い、優しい色が浸食されていく。
耳障りな音は止むことを知らず、歪み始めた空間の中で別れを察知した。
──ふと、目が合った。
どこか困ったように笑っている。
「ああ、そうか」と、アーロンはそこで納得した。
思わせぶりな言動をするくせに、一歩踏み込めば途端に距離を置く。
いざ真っ向から攻めかかっても絶対に陥落はしない。
いつも、隠しようがない好意を不器用に誤魔化していた。
さっさと認めてしまえば楽なのに。落ちてしまえば楽なのに。
何度そう思ったか分からない。
黎い大きな羽ばたきが、積み重ねてきた縁とその未練を断ち切ろうとしている。
アーロンは、想い人がずっと煮え切らない態度を取り続けた理由をようやく飲み込んだ。
目の前から彼がいなくなることで。
そこで一気に目が覚めた。
ベッドで眠っていた赤毛の青年は勢いよく上半身を起こす。
「ゆ、め……か?」
じわりと滲んだ額の汗を手で拭い、そのまま不快げに前髪を掻き上げた。
時刻は深夜を回ったあたりで、薄暗い部屋の中は静寂に包まれていた。
「──なんだ、怖い夢でも見たのか?」
不意に穏やかな声が聞こえてきた。
相手を気遣いながらも、ほんの少しだけからかうような節がある。
それを発した男は窓辺に半裸の身体を預け、腕を組みながら外を眺めやっていた。
わずかに開いた窓の隙間から夜風が舞い込み、カーテンを緩やかになびかせる。
「……チッ」
アーロンはあからさまに舌打ちをした。
眠りに落ちる直前、彼は隣で微睡んでいたはずだ。
それなのに、知らぬ間に共寝から抜け出しているのが面白くない。
月明かりが霞んでいる今宵。
仄かな街明かりが差し込むだけでは、表情さえも読み取れない。
やはり面白くなかった。
「うるせぇな。勝手にベッドから出るんじゃねぇ」
あんな夢を見たせいか、数歩分しかない距離でさえも連れ戻したい衝動に駆られた。
「はい、はい……ご機嫌斜めかよ」
薄い闇の中、眇めた瞳が刺々しく光っている。
ヴァンは肩を竦めて苦笑しつつ、静かに窓を閉めた。
そして、夢見が悪い恋人の元へ足を向ける。
「うなされているようには見えなかったんだけどな」
ベッドの端に座った彼は、軽く身を乗り出してアーロンを覗き込んだ。
不機嫌に歪んだ頬をやんわりと叩き、宥めようとする。
「てめぇが離れたせいで、見たくもねぇものを見た」
「はぁ?なんで俺のせいなんだよ?」
恨みがましい非難の眼差しが突き刺さり、困惑したヴァンは咄嗟に手を引っ込めた。
それすらも気に入らないのか、アーロンが乱暴に腕を掴んで引き寄せようとする。
「おっ、おい!?」
体格や腕力で考えればヴァンの方に分があるのだが、今は完全に油断しきっていた。
抗う間もなく主導権を握られ、先刻まで身体を絡み合わせていた場所へ引きずり戻される。
「……逃げようとした。消えようとした。俺の前から」
ベッドが軋む音と共に、責めるような言葉の羅列が降ってきた。
それを聞いたヴァンは瞠目して喉を詰まらせる。
「そいつ、は……」
アーロンが何の夢を見ていたのかが、瞬時に分かってしまったのだ。
さっき、ほんの少しでも揶揄が混じったことを後悔する。
詫びのつもりか無性に触れたくなって、組み伏せてきた年若い青年の身体へ手を伸ばした。
かけるべき言葉を探しあぐね、ヴァンは無言で彼の肩口を優しく撫でた。
夜風で冷えた指先には、寝起きの体温が心地良い。
そんな仕草は自然とアーロンの険を和らげ、次に発せられた声は随分と落ち着いていた。
「あの時……俺はどんな顔をしてた?」
傍から見れば何の脈絡もないように思える問いかけ。
しかし、ヴァンは苦しげに顔を歪め、見下ろしてくる金色から視線を反らす。
「……覚えてねぇ」
人肌に触れていた片手がするりと落ちた。
「何も心の中に残したくなかった。本当は見るつもりなんてなかったのに……」
小さく動いた唇からは愁いを含んだ声が零れ落ちる。
空になった手の甲が、今度は自嘲気味に笑う目元を隠した。
「なんで、最後の最後に見ちまったんだろうな」
まるで独り言のような回顧は徐々に萎んでいき、掠れた語尾が二人の隙間に溶けていく。
それは、去り際に見た魔王の微笑と似ているような気がした。
アーロンは今になってヴァンの心情を知り、沸々と嬉しさが込み上げてくるのを感じた。
「はっ……未練たらたらだったんじゃねぇかよ」
あの末期の状況で、執着の欠片を見せるくらいに強く想われてる。
どうしようもなく頬が緩み、締まりのない顔になってしまいそうだった。
それを悟られたくなかった彼は、誤魔化すように恋人の胸元へ唇を寄せた。
一つ二つと甘噛みの痕を散らして、乱れ始めた心音を聞く。
「お前だって似たようなもんだろうが」
ぶり返してくる熱に引きずられ、沈んでいたヴァンの気持ちは上向きになっていった。
視界を閉ざしていた手が、覆い被さっている青年の背中に回される。
「あんなとこまで追いかけてきやがって」
口振りのわりには、素肌を辿る指先の動きが柔らかかった。
無造作に流れる赤い髪の一房を愛おしげに絡ませる。
「俺があんたを逃がすわけねぇだろ。舐めてんのかよ」
「ったく……諦めの悪いヤツに好かれちまったもんだぜ」
憎まれ口を叩き合いながらも、ベッドの中でじゃれつく二人の雰囲気は甘やかだ。
睦言にはそぐわない囁きが、湿った吐息を纏わせてシーツの海に広がっていく。
窓の外は未だに夜が明ける気配もしなかった。
常夜灯はなく、カーテン越しの灯りもこの薄闇では役に立たない。
それでも、これだけ密着していれば互いの表情が簡単に読み取れる。
「……また、同じようなことがあっても絶対に逃がさねぇ」
今は宿主を離れている魔核の存在が頭を過ぎり、アーロンは歯ぎしりをした。
恋情が増せば増すほど、再び背を向けられることへの不安が付きまとう。
彼は抱き合ったままの状態で恋人の首筋に顔を埋め、ざわめく心を押さえ込もうとした。
「まぁ、俺もあの時よりはマシな判断をするさ」
「そういう言葉は信用できねぇんだよ……この前科持ちが」
燃えるような髪の先端に肌をくすぐられ、ヴァンが身動ぎをする。
アーロンに限らず、他の仲間たちからも詐欺だのと散々怒りをぶつけられたのだ。
自業自得とはいえ、今はどんな言い方をしてもまともに受け取ってはもらえないのだろう。
ヴァンは伏せた青年の顔に両手を差し入れて、いささか強引に掬い上げた。
「だったら、しっかり捕まえておいてくれよ」
至近距離で見合い、濃藍の瞳が思慕を滲ませる。
何か言いたげに動きかけた唇へ、自らのそれを深く重ね合わせた。
ひとしきり戯れた後、二人はようやく毛布の中に潜り込んだ。
離れようとしないアーロンに対し、「いい加減に寝かせろ」とヴァンが遠慮なく蹴りを入れた形だ。
薄暗がりの天井を何気なく見つめ、ぼそりと口を開く。
「俺のことはともかく……水面下では不穏な気配だらけなんだよなぁ」
「アルマータの一件が終わっても、各勢力が暗躍してんのは変わらねぇしな」
「はぁ~、厄介な依頼は勘弁だぜ……」
心底かったるそうな溜息の後を、意地悪げな声が追いかけてくる。
「しっかり働けよ、所長さん。俺の給料が払えるくらいにはな」
アーロンはうつ伏せの状態で枕に乗りかかりながら、小刻みに肩を揺らした。
「やれやれ、いつまでお前を雇えばいいんだか」
困ったヤツだと言わんばかりの態度をされ、彼はつり上げた口角を歪ませた。
「──さあな」
いつだったか、ヴァンに話したことを思い出す。
この先、色々な街を見て回りたいと。各地の歓楽街巡りならば、なお楽しい。
いずれ煌都に身を落ち着けるにしても、それはずっと未来の話だ。
「そんなの……知るか」
しかし、あの時とは状況が変わりすぎてしまい、明るく語った願望はいつの間にか形を潜めている。
そんなことよりも譲れない想いがあった。
何よりも繋ぎ止めておきたい大事な人ができた。
アーロンはおもむろに上半身を起こし、隣に横たわる寝際の男を覗き込んだ。
「今の俺は、どんな顔をしてる?」
なぜか、目を閉じる前にもう一度聞きたくなった。
ヴァンは少し驚いたようだったが、数拍もしないうちに静かな笑みを浮かべてくれた。
「そりゃぁ、クソ生意気そうなツラに決まってんだろ」
「……そうかよ」
予想通りの反応に満足そうな表情をした彼は、『おやすみ』の挨拶代わりに触れるだけのキスをした。
今度は答えを聞くことができた。
あの夢とは違い、傍らには確かな存在がある。
それを実感したアーロンは、二人分の温もりを含んだ毛布に顔を埋め、ようやく眠りについた。
2022.05.22
#黎畳む
たかが一週間、されど一週間
恋人設定
寂しくて無自覚にやらかしてしまったロイドと、包容力が全開なランディの話。
あまりふざけていない大人で優しいランディです。
【文字数:7800】
人気がない階段に激しく乱れた足音が響き渡った。
明らかな動揺を全身に纏い、一気に屋上へと駆け上る。
強く開け放ったドアを閉めることも忘れ、一直線に先端まで突き進む。
その勢いのまま、ロイドは手摺りに身体を押し付けて大きく項垂れた。
「……やらかした」
携帯端末を握りしめている手には、不快な汗が滲んでいる。
久しぶりに聞いた声が耳元に残っているような気がして、軽く目眩がした。
「なにやってんだよ、俺」
冷えた夜風が通り抜け、それが気持ち良いと感じるくらいには頬が熱い。
時刻はまだ宵の口。陽気な笑い声たちが夜景の中に溶けては消えていく。
ロイドは伏せていた頭を上げ、ぼんやりと街の賑わいを見下ろした。
「遊んでるとこに水を差したよなぁ……絶対」
手の中にある端末が、自らの失態を主張している。
そこから目を逸らしたくて、乱暴に上着のポケットへ押し込んだ。
未だに着信音が鳴る気配はなく、間接的な追い打ちをかけてくるつもりはないのだろう。
「はぁ……」
深く吐き出された溜息に安堵の色はなかった。
ロイドには、この先の展開が易々と想像できてしまう。
彼の相棒であり恋人でもある男は、戯けたふりをしながら優しい顔をする。
今の段階で声をかけてこないのであれば、つまりはそういうことだ。
歓楽街の方向に目をやれば、煌々とした灯りが他の地区よりも一層際立っている。
いっそのこと、夜の街に逃げ出してしまおうかとも考えた。
けれど、一時的にこの場を凌いだとしても、明日の朝には顔を合わせる羽目になる。
こうなったら、潔く弄られた方が良いのかもしれない。
そう思い始めたロイドの頭は、仕方なく腹を括る方向へと流れていく。
逃げ道を探しあぐねた足は、屋上の一角で完全に動きを止めることになった。
ロイドが帰宅したのは、二十時を回った頃だった。
「ロイドー!おかえりなさ〜い!」
建物に入って玄関のドアを閉めると、テーブルの付近にいたキーアが猛ダッシュで突っ込んできた。
「おっと、ただいま。キーア」
小脇に抱えていた書類を落としそうになり、慌てて体勢を整える。
「お仕事、お疲れさま!」
天真爛漫なタックルはいつも通りで、その仕草はロイドの疲れを癒やしてくれる。
しがみついてきた彼女の頭部を優しく撫でながら、口元を綻ばせた。
室内を見渡してみれば、キッチンの方から物音が聞こえてくる。
時間帯的に、夕飯の後片付けをしている最中なのだろう。
その一画から、ひょっこりと水色の頭が顔を覗かせた。
「おかえりなさい。ロイドさん。夕飯は済ませてきたんですよね?」
「ああ、打ち合わせがてらにね」
「それは食事にかこつけた残業というやつでは……?」
ティオは返ってきた言葉に思わず眉を顰めた。
「ははっ、そんな大袈裟なものじゃないよ。雑談の方が多かったくらいだし」
彼女特有のジト目を受けて、ロイドが鷹揚に笑う。
「ねぇ、ロイド……疲れてるの?」
その会話を聞いていた愛娘は、心配そうに大好きな青年の袖を引っ張った。
「大丈夫だ。キーアの顔を見たら元気になったよ」
「そういうことです。なんといってもキーアは私たちの活力源ですからね」
彼女の憂いは見たくないとばかりに、二人は揃って柔らかな声音を落とす。
「そうなの?みんなが元気ならキーアも嬉しいな!……あっ、そうだ」
それは聞いた途端、幼い瞳がパッと輝いた。
そのまま、何かを思い出したようにキッチンの方へ跳ねていく。
「丁度、食後のお茶にするところだったんだ。ね!ティオ」
「そうでした。ロイドさんも一緒にどうですか?」
明るい口調に促され、ティオが中断している作業に意識を戻した。
「もちろんだよ」
ロイドはキッチンへ向かう二人を手伝うつもりで後を追ったが、
「あ、ロイドは座ってていいよ~」
それを見透かしたように、奥からキーアの声に先制される。
帰宅したばかりの彼を気遣っていることは明らかだった。
楽しげな家族たちのやり取りを聞きながら、テーブルの一席に腰を落ち着ける。
再び見回した部屋の中がやけに広く感じられた。
「……エリィは久しぶりに実家で夕食を取るって言ってたな」
頬杖を付いて、ここにはいない二人の予定を反芻する。
最近は個々に動いていることも多いが、特務支援課のリーダーとして皆の予定は常に把握していた。
「ランディは……」
その男の名前が音を成した途端、ロイドの表情が曇る。
本人さえも気が付かない微かな暗色が瞳の奥に広がった。
三人で和やかにテーブルを囲んだ後、ロイドは自室へ戻った。
すぐさま机の前に向かい、持ち帰った書類を広げる。
「よし、一通り目を通しておくか」
近々、交通課が不正な導力車の一斉摘発を行う予定だ。
大規模な案件のため人手が欲しいとあって、支援課も応援にかり出されている。
書類には資料が簡潔に纏めてあり、クリップに挟める程度の量に収まっていた。
導力ネットが普及しているとはいえ、まだまだ紙の情報は欠かせない。
ロイドは無言で文字の羅列を追い始めた。
資料の確認自体は今日でなくても構わないのだが、彼は真面目で責任感の強い男だ。
さっきのティオからの発言に絡めれば、これも立派な残業ではある。
しかし、ロイドは気に留める様子がない。
それどころか、わざと仕事のことで頭をいっぱいにしたがっているようだった。
時計の針はゆうに一回りをしている。
全ての資料に目を通し終えた彼は、大きく息を吐いて天井を仰ぎ見た。
凝り固まった上半身を伸ばしてみれば、細かな関節の音が鳴る。
それは静かな室内にやたらと響き渡った。
「……帰ってきてるんだっけな」
一つ、言葉が零れ落ちた。
勤勉な集中力が緩んだ隙に、赤い影が滑り込んでくる。
ロイドは、団欒の席で交わしていたやり取りを思い出してしまった。
あの時。ティオが彼の話題を振ってきたのは、気を利かせてくれたからなのかもしれない。
「そう言えば。ランディさんはお昼ごろに帰ってきたそうですよ」
「えっ、そうなのか?遅くなるのかと思ってたけど」
湯気が漂うカップをテーブルに置き、席へ着いた直後に彼女が口を開いた。
向かいにいるロイドが目を丸くしたのを見て、不思議そうに首を傾げる。
「連絡、取ってないんですか?」
「う~ん……たった一週間だしな。外国に行ってるわけでもないし」
問いかけてみたが、彼は苦笑して茶請けのクッキーをひとつまみしただけだった。
ランディは最近よく警備隊の訓練や演習にかり出されていた。
警備隊所属だった経歴と彼の戦闘能力を鑑みれば、上層部が頼りにするのも頷ける。
今回は強化訓練の一環で山間部に籠もるとのことだった。
ランディは一週間前、
「久しぶりに遠慮なく揉んでやろうかねぇ~」
などと言いながら、足取りも軽やかに出かけていった。
ふと、卓上に身を乗り出すようにして愛らしい声が響いた。
「あのね、エリィが一度ここに戻ってくる途中でランディとばったり会ったんだって」
飲み物が熱かったらしく、息を吹きかけて冷ましているキーアが、隣にいるロイドを見上げた。
「エリィさんの話によれば、ひと眠りしたら遊びに行くと言っていたらしいです」
その言葉を継いだティオが、情報を付け加えてくれる。
「ランディって元気だよね。キーアだったら朝までぐっすり眠っちゃいそう」
「遊びぶためなら、なんとやら……ですね」
二人の会話が耳元を通り抜け、ロイドは可笑しげに目を細めた。
彼女らは兄貴分であるランディの性格をしっかりと把握している。
だから、一仕事を終えた彼が歓楽街へ向かったことについては、至極当然という認識だった。
天井を見上げたままの視線は、どことなく焦点が定まらない。
「……どうせ、遅くまで遊んでくるんだろうし」
しばらく同じ姿勢のままで首が痛くなったのか、ロイドは呟きながら姿勢を正した。
読み終えた書類を一瞥し、上着のポケットに手を突っ込む。
彼の身体は意図せず動いていた。
心の隙間に入り込んだ焔が、正常な思考回路を停止させてしまう。
携帯端末を取り出し、何の躊躇もせずにカバーを開いた。
──完全に無意識だった。
歓楽街の賑わいぶりは、今が最高潮だ。
訓練漬けだった男の身には、享楽へと誘う雑音たちが気安く染み渡る。
ランディは界隈を一通りぶらつき、最終的には馴染みの店であるバルカを訪れた。
支配人であるドレイクに顔を見せた後で、意気揚々とギャンブルに興じる。
彼が二階のスロット台に腰を落ち着けたのは、入店してから小一時間は経過した頃だった。
ルーレットやポーカーにも手を出していたが、今夜はどうにも良い流れがやってこない。
だったら諦めるまでと、わざとらしい落胆ぶりを披露する姿はどこか楽しげだった。
「──おっ、こっちは良さげなじゃね?」
台に座ってから数分もしないうちに、彼はご機嫌な口笛を鳴らした。
どうやら、一階での負け分を取り戻せそうな予感がする。
思わず前のめりになったランディだったが、
「よぉ、兄ちゃん。久しぶりじゃねぇか」
不意に、背後から親しげな声が投げかけられた。
「まぁな、仕事で郊外に缶詰だったもんでよ」
振り向いた彼は、自分よりもひとまわりくらい年長の男を見てニッと笑った。
「へぇ~、何の仕事やってんだ?」
「これがまた、意外にお堅い系だったりするんだよなぁ」
「実は見かけによらないってやつか」
男はこのカジノの常連客で、ランディとは顔馴染みの間柄だ。
冗談めかした言葉の応酬をしながら、ひとつ台を挟んだ席でスロットを回し始める。
こういった場所では互いに深入りしないのが暗黙のルールだ。
男はただの興味本位だったらしい。相手がはぐらかしてきたので、それ以上は踏み込んでこなかった。
二人は程良い世間話をしながらも、それぞれがこの俗物的な空気を満喫している。
そんな中。
突如、ランディの上着から携帯端末の呼び出し音が鳴り響いた。
「おいおい、なんだっつーの」
夜の時間帯なので思わず眉を顰めてしまったが、すぐに片手をポケットに突っ込んだ。緊急事態という可能性もある。
「おう、どうした?」
なんとなく相手の予想はついたが、肝心の声が聞こえてこなかった。
「……ロイド?」
「──へっ!?あ、あれ?ランディ!?」
数拍の後、ひどく驚いた様子の応答が耳を貫通してきた。
ガタンッと激しく椅子が倒れた。
起立した勢いで机を叩き、片手と紙の束が擦れ合う。
反響音は短く、狭い空間。
それ以外は静かで、他の気配は感じられなかった。
「はいはい。お前の愛おしいランディさんですが……って、寝ぼけてんのかよ?」
端末越しからロイドの背後に隠れた音を聞き分け、ふざけながらも冷静な状況分析をする。
彼が自室にいることは確かだろう。
「い、いやっ、あのっ……全然かけるつもりとかなくて!」
これ以上ないくらいの狼狽ぶりがはっきりと伝わってくる。
ランディは景気の良い派手な演出が始まったスロット台を眺め、どう切り返そうかと思案した。
だが、ロイドの方には会話をする余裕などまるでない。
「ごめん、ほんとにごめん!!」
一週間ぶりだった声は悲鳴にも似た謝罪を残し、ぶつりと消えてしまった。
カバーを閉じた端末に、優しく細めた翠が注がれる。
勢いよくメダルが落ちてくる光景を前にしていても、不思議と高揚感が沸いてこなかった。
「ははっ、なんだ。女かよ?」
おもむろに席を立った彼を見て、顔馴染みの男がにやにやしながら茶化す。
距離が近いこともあり、通信でのやり取りは丸聞こえだったらしい。
「さあな~。可愛いヤツには違いねぇが」
それを気にする素振りもなく、ランディは可笑しげに口角をつり上げた。
昼間と見紛うほどに明るい街は、まだ眠ることを知らない。
その華やぎと喧噪から背を向けた男に未練の痕跡はなかった。
悠長な様子を装って帰路に付いた足は、いつもよりも少しばかり速い。
「帰ってきた一報くらい、よこせって?」
あの反応ならば、ロイドが通信を入れてきたのは本当に無意識だったのだろう。
そこに至る心境を慮り、ランディは小さく頭を振った。
二人は常日頃から、相棒と恋人の関係性をバランスよく保っている。
だが、それは真面目なロイドの性格ゆえであり、ランディはそれを尊重している形だ。
色事には不器用な上に、時々自分の感情にすら疎い部分がある。
彼にしてみれば、いつ恋人の顔をしてくれても構わないし、受け止める自信は満々だ。
「……あいつ、相変わらず下手だよなぁ」
すでに寝静まりつつある西通りを進み、すっかり馴染んだ古いビルを見上げてみる。
「まぁ、最近は警備隊の案件が多かったっつーのもあるか」
裏口から帰宅して我が家の空気を吸い込んだ後、ランディは二階の様子を探った。
ロイドが自室にいないことが分かり、今度は視線を上層へ走らせる。
「あー、上か」
きっと頭を冷やしに行ったのだろう。それくらいは容易に想像がついた。
薄暗い階段を静かに上り、屋上へと辿り着く。
ドアは開け放たれたままで、先にここを通った荒い足音が聞こえてくるようだった。
屋上にやってきた人物が誰かなんて、確かめるまでもない。
彼の戻りを予測していながら、逃げなかったのは自分だ。
それでも、やっぱり振り向くことはできなかった。
「──ロイドくん、待った?」
手摺りにもたれて街明かりを見つめる背中へ、軟派な言葉が投げかけられる。
「待ってない」
近づいてくる男の気配は、ロイドの態度を頑なにさせた。
「そうかよ。つれないね~」
ランディは恋人の傍らに立ち、わざとらしく肩を竦めてみせた。
不躾に隣の横面を暴こうとはせず、大きな背中を手摺りに預けてゆったりと腕を組む。
「まぁ、今夜はツイてなかったなんでな。さっさと退散してきたぜ」
彼はロイドとは逆方向の夜空を見上げ、さり気なく優しい嘘をついた。
「いつだってツイてないくせに」
それまで前を向いていた栗色の頭が、わずかに俯く。
ランディの言動にロイドは戸惑っていた。
てっきり茶化されて弄りまくられるものだと思っていたのだ。
憎まれ口を叩いた唇を噤んで隣を覗えば、柔らかな視線が注がれているのを感じる。
今の状況が想定していたものとは違いすぎて、どんな顔をすればいいのか分からなくなった。
「……もう、さっさとどっか行けよ」
思考の糸が絡まり続け、思わず手摺りに向かって伏せてしまいたくなる。
そんなロイドの横顔に何かが触れてきた。
「そいつは無理ってもんだろ?寂しがってる恋人を相手に」
武骨な手の甲がゆっくりと優しく頬を撫であげる。
突然やってきた温もりは一瞬で、なぜかすぐに離れてしまった。
名残惜しさを覚え、釣られるようにしてランディの方を向く。
「えっ、な……に、言って」
ほんのわずかな時間差で、一つの言葉が脳内に落下した。
「寂しい?俺が……?」
何度も目を瞬かせ、大きな困惑が露わになる。
そんなロイドの反応を見たランディは、自分が相手の胸中を見誤っていたことに気が付いた。
「あ~、そこからなわけね」
あの時の通信は、無意識からの産物で間違いはない。
だったら、どうしてそんな行動を取ってしまったのか?
屋上に上がって頭を冷やしていたのなら、それについての感情は自覚しているものと勝手に決めつけていた。
「……たかが一週間で?」
ロイドは両腕を抱え込み、忙しなく眼球を動かしている。
「もっと離れていた時期だって……あったのに」
握りしめた拳を顎に添え、唇から零れる息が小さく揺れた。
まるで独り言のような言葉は、夜風に紛れて行方をくらましてしまいそうだった。
「さすがに帝国の時と比べるのは『なし』だろ」
そんな呟きをしっかりと掴まえながら、ランディが静かに目を眇める。
ロイドがいつのことを言っているのかは、すぐに分かった。
あの時の焦燥感と葛藤の日々が頭を過ぎる。そして、今がどれだけ甘やかな時間かを思い知る。
手摺りを背もたれにしたまま、ふと見上げた夜空には深い濃紺が広がっていた。
いつの間にか、賑やかな声が聞こえていた中央広場も静かになってきている。
「でも、これくらいで寂しいとか……」
ロイドは未だに自分の感情を飲み込みきれていないようだった。
雑音がなくなった寒空の下、すでに答えが出ているはずの自己分析を繰り返す。
一週間前。楽しげに出かけて行った背中がやたらに遠く感じた。
まるで警備隊に彼を取られてしまったような気がして、子供じみた嫉妬が胸の奥に燻った。
携帯端末に手を伸ばしたのは、声が聞きたかったからだ。
声が聞きたかったのは、彼との繋がりを確かめたかったからだ。
そして、そんな想いを募らせる感情の正体は、ただ一つの短い言葉で表現できる。
「そんなの……小さな子供みたいじゃないか」
ロイドは両目を強く瞑った後、年上の恋人を振り仰いだ。
ようやく二人の視線が交差する。
ランディが空を見上げていたのは一時だけだったらしい。それ以降は、一人で戸惑うロイドを傍らで愛おしんでいた。
「別にいいんじゃねぇの。お前さんは難しく考えすぎなんだよ」
途方に暮れたような幼い顔は、不器用な思考の巡りを手放そうとしない。
「寂しがることに年齢は関係ないだろ?ましてや恋人同士なら」
柔らかな口調で諭してくるランディの声は、身動きの取れないロイドを引っ張り出すかのようだった。
手摺りにもたれていた身体が動き、いよいよ真正面から向かい合う。
さっきはわざと泳がせた手が、今度は大きな掌で頬を撫でた。
「いい加減、認めちまえよ」
「……あ」
一瞬だけだった温もりが、今度は離れずに頬を侵食した。
意地っ張りになっている心の奥が、ぐらぐらと音を立てて傾いていく。
それにとどめを刺すかのごとく、ランディは顔を近づけてニヤリと笑った。
「──で、早く俺に抱き付いてこい。さっきからずっと待ってるんだぜ?」
もう、虚勢を張るのは無理だった。
足を踏み込んだロイドの視界が、見慣れたオレンジ色でいっぱいになる。
促されるがまま、彼は思いきりランディの胸元に抱き付いた。
一週間ぶりに感じる体温は心地良く、回した両腕には自然と力がこもってしまう。
それを物ともしない強靱な肉体と、そこから漂う彼の香りを無心で堪能する。
「おう、おう。熱烈だねぇ」
やっと甘えてくれたが、その勢いが嬉しいやら可笑しいやらで、ランディは苦笑を禁じ得ない。
それでも彼の波長に合わせ、擦り寄ってくる栗色の髪を言葉少なに梳いてやった。
どれくらいそうしていたのだろう。
静まりかえった深夜の屋上は、冷えた風など感じないくらいに温かい。
ふと、ランディが口を開いた。
「なぁ、そろそろ顔上げて欲しいんだけど」
この場所に来てからというもの、ロイドの表情を覗えたのはほんの少しだけだ。
久しぶりの逢瀬だというのに、それでは物足りなさすぎる。
本音を言ってしまえば、さっさと自分の部屋にお持ち帰りしてしまいたい気分だ。
「なぁ、ロイド?」
「──嫌だ」
しかし、催促も空しくロイドが突っぱねてくる。
彼とて、いつまでもこの状態でいられるわけがないと頭では理解していた。
けれど、心が思うようについてこない。
無意識にやらかしたことから始まり、寂しがっていることを自覚してしまった。
今夜は包容力が全開であろう恋人を前にして、彼の羞恥心は増すばかりだ。
「まだ……このままがいい」
ロイドは甘ったるい空気が漂う中で、ぽそりと言った。
密着しているせいで、ランディが小さく肩を揺らしているのが分かる。
きっと困ったように笑っていることだろう。
今はどんな態度を取ったとしても揶揄の兆しはなく、愛おしげに緩んだ眼差しが待っているだけだ。
だから、どうしたって逡巡するのを止められない。
本当に──どんな顔をしたらいいのかが分からなくなってしまった。
2023.03.14
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寂しくて無自覚にやらかしてしまったロイドと、包容力が全開なランディの話。
あまりふざけていない大人で優しいランディです。
【文字数:7800】
人気がない階段に激しく乱れた足音が響き渡った。
明らかな動揺を全身に纏い、一気に屋上へと駆け上る。
強く開け放ったドアを閉めることも忘れ、一直線に先端まで突き進む。
その勢いのまま、ロイドは手摺りに身体を押し付けて大きく項垂れた。
「……やらかした」
携帯端末を握りしめている手には、不快な汗が滲んでいる。
久しぶりに聞いた声が耳元に残っているような気がして、軽く目眩がした。
「なにやってんだよ、俺」
冷えた夜風が通り抜け、それが気持ち良いと感じるくらいには頬が熱い。
時刻はまだ宵の口。陽気な笑い声たちが夜景の中に溶けては消えていく。
ロイドは伏せていた頭を上げ、ぼんやりと街の賑わいを見下ろした。
「遊んでるとこに水を差したよなぁ……絶対」
手の中にある端末が、自らの失態を主張している。
そこから目を逸らしたくて、乱暴に上着のポケットへ押し込んだ。
未だに着信音が鳴る気配はなく、間接的な追い打ちをかけてくるつもりはないのだろう。
「はぁ……」
深く吐き出された溜息に安堵の色はなかった。
ロイドには、この先の展開が易々と想像できてしまう。
彼の相棒であり恋人でもある男は、戯けたふりをしながら優しい顔をする。
今の段階で声をかけてこないのであれば、つまりはそういうことだ。
歓楽街の方向に目をやれば、煌々とした灯りが他の地区よりも一層際立っている。
いっそのこと、夜の街に逃げ出してしまおうかとも考えた。
けれど、一時的にこの場を凌いだとしても、明日の朝には顔を合わせる羽目になる。
こうなったら、潔く弄られた方が良いのかもしれない。
そう思い始めたロイドの頭は、仕方なく腹を括る方向へと流れていく。
逃げ道を探しあぐねた足は、屋上の一角で完全に動きを止めることになった。
ロイドが帰宅したのは、二十時を回った頃だった。
「ロイドー!おかえりなさ〜い!」
建物に入って玄関のドアを閉めると、テーブルの付近にいたキーアが猛ダッシュで突っ込んできた。
「おっと、ただいま。キーア」
小脇に抱えていた書類を落としそうになり、慌てて体勢を整える。
「お仕事、お疲れさま!」
天真爛漫なタックルはいつも通りで、その仕草はロイドの疲れを癒やしてくれる。
しがみついてきた彼女の頭部を優しく撫でながら、口元を綻ばせた。
室内を見渡してみれば、キッチンの方から物音が聞こえてくる。
時間帯的に、夕飯の後片付けをしている最中なのだろう。
その一画から、ひょっこりと水色の頭が顔を覗かせた。
「おかえりなさい。ロイドさん。夕飯は済ませてきたんですよね?」
「ああ、打ち合わせがてらにね」
「それは食事にかこつけた残業というやつでは……?」
ティオは返ってきた言葉に思わず眉を顰めた。
「ははっ、そんな大袈裟なものじゃないよ。雑談の方が多かったくらいだし」
彼女特有のジト目を受けて、ロイドが鷹揚に笑う。
「ねぇ、ロイド……疲れてるの?」
その会話を聞いていた愛娘は、心配そうに大好きな青年の袖を引っ張った。
「大丈夫だ。キーアの顔を見たら元気になったよ」
「そういうことです。なんといってもキーアは私たちの活力源ですからね」
彼女の憂いは見たくないとばかりに、二人は揃って柔らかな声音を落とす。
「そうなの?みんなが元気ならキーアも嬉しいな!……あっ、そうだ」
それは聞いた途端、幼い瞳がパッと輝いた。
そのまま、何かを思い出したようにキッチンの方へ跳ねていく。
「丁度、食後のお茶にするところだったんだ。ね!ティオ」
「そうでした。ロイドさんも一緒にどうですか?」
明るい口調に促され、ティオが中断している作業に意識を戻した。
「もちろんだよ」
ロイドはキッチンへ向かう二人を手伝うつもりで後を追ったが、
「あ、ロイドは座ってていいよ~」
それを見透かしたように、奥からキーアの声に先制される。
帰宅したばかりの彼を気遣っていることは明らかだった。
楽しげな家族たちのやり取りを聞きながら、テーブルの一席に腰を落ち着ける。
再び見回した部屋の中がやけに広く感じられた。
「……エリィは久しぶりに実家で夕食を取るって言ってたな」
頬杖を付いて、ここにはいない二人の予定を反芻する。
最近は個々に動いていることも多いが、特務支援課のリーダーとして皆の予定は常に把握していた。
「ランディは……」
その男の名前が音を成した途端、ロイドの表情が曇る。
本人さえも気が付かない微かな暗色が瞳の奥に広がった。
三人で和やかにテーブルを囲んだ後、ロイドは自室へ戻った。
すぐさま机の前に向かい、持ち帰った書類を広げる。
「よし、一通り目を通しておくか」
近々、交通課が不正な導力車の一斉摘発を行う予定だ。
大規模な案件のため人手が欲しいとあって、支援課も応援にかり出されている。
書類には資料が簡潔に纏めてあり、クリップに挟める程度の量に収まっていた。
導力ネットが普及しているとはいえ、まだまだ紙の情報は欠かせない。
ロイドは無言で文字の羅列を追い始めた。
資料の確認自体は今日でなくても構わないのだが、彼は真面目で責任感の強い男だ。
さっきのティオからの発言に絡めれば、これも立派な残業ではある。
しかし、ロイドは気に留める様子がない。
それどころか、わざと仕事のことで頭をいっぱいにしたがっているようだった。
時計の針はゆうに一回りをしている。
全ての資料に目を通し終えた彼は、大きく息を吐いて天井を仰ぎ見た。
凝り固まった上半身を伸ばしてみれば、細かな関節の音が鳴る。
それは静かな室内にやたらと響き渡った。
「……帰ってきてるんだっけな」
一つ、言葉が零れ落ちた。
勤勉な集中力が緩んだ隙に、赤い影が滑り込んでくる。
ロイドは、団欒の席で交わしていたやり取りを思い出してしまった。
あの時。ティオが彼の話題を振ってきたのは、気を利かせてくれたからなのかもしれない。
「そう言えば。ランディさんはお昼ごろに帰ってきたそうですよ」
「えっ、そうなのか?遅くなるのかと思ってたけど」
湯気が漂うカップをテーブルに置き、席へ着いた直後に彼女が口を開いた。
向かいにいるロイドが目を丸くしたのを見て、不思議そうに首を傾げる。
「連絡、取ってないんですか?」
「う~ん……たった一週間だしな。外国に行ってるわけでもないし」
問いかけてみたが、彼は苦笑して茶請けのクッキーをひとつまみしただけだった。
ランディは最近よく警備隊の訓練や演習にかり出されていた。
警備隊所属だった経歴と彼の戦闘能力を鑑みれば、上層部が頼りにするのも頷ける。
今回は強化訓練の一環で山間部に籠もるとのことだった。
ランディは一週間前、
「久しぶりに遠慮なく揉んでやろうかねぇ~」
などと言いながら、足取りも軽やかに出かけていった。
ふと、卓上に身を乗り出すようにして愛らしい声が響いた。
「あのね、エリィが一度ここに戻ってくる途中でランディとばったり会ったんだって」
飲み物が熱かったらしく、息を吹きかけて冷ましているキーアが、隣にいるロイドを見上げた。
「エリィさんの話によれば、ひと眠りしたら遊びに行くと言っていたらしいです」
その言葉を継いだティオが、情報を付け加えてくれる。
「ランディって元気だよね。キーアだったら朝までぐっすり眠っちゃいそう」
「遊びぶためなら、なんとやら……ですね」
二人の会話が耳元を通り抜け、ロイドは可笑しげに目を細めた。
彼女らは兄貴分であるランディの性格をしっかりと把握している。
だから、一仕事を終えた彼が歓楽街へ向かったことについては、至極当然という認識だった。
天井を見上げたままの視線は、どことなく焦点が定まらない。
「……どうせ、遅くまで遊んでくるんだろうし」
しばらく同じ姿勢のままで首が痛くなったのか、ロイドは呟きながら姿勢を正した。
読み終えた書類を一瞥し、上着のポケットに手を突っ込む。
彼の身体は意図せず動いていた。
心の隙間に入り込んだ焔が、正常な思考回路を停止させてしまう。
携帯端末を取り出し、何の躊躇もせずにカバーを開いた。
──完全に無意識だった。
歓楽街の賑わいぶりは、今が最高潮だ。
訓練漬けだった男の身には、享楽へと誘う雑音たちが気安く染み渡る。
ランディは界隈を一通りぶらつき、最終的には馴染みの店であるバルカを訪れた。
支配人であるドレイクに顔を見せた後で、意気揚々とギャンブルに興じる。
彼が二階のスロット台に腰を落ち着けたのは、入店してから小一時間は経過した頃だった。
ルーレットやポーカーにも手を出していたが、今夜はどうにも良い流れがやってこない。
だったら諦めるまでと、わざとらしい落胆ぶりを披露する姿はどこか楽しげだった。
「──おっ、こっちは良さげなじゃね?」
台に座ってから数分もしないうちに、彼はご機嫌な口笛を鳴らした。
どうやら、一階での負け分を取り戻せそうな予感がする。
思わず前のめりになったランディだったが、
「よぉ、兄ちゃん。久しぶりじゃねぇか」
不意に、背後から親しげな声が投げかけられた。
「まぁな、仕事で郊外に缶詰だったもんでよ」
振り向いた彼は、自分よりもひとまわりくらい年長の男を見てニッと笑った。
「へぇ~、何の仕事やってんだ?」
「これがまた、意外にお堅い系だったりするんだよなぁ」
「実は見かけによらないってやつか」
男はこのカジノの常連客で、ランディとは顔馴染みの間柄だ。
冗談めかした言葉の応酬をしながら、ひとつ台を挟んだ席でスロットを回し始める。
こういった場所では互いに深入りしないのが暗黙のルールだ。
男はただの興味本位だったらしい。相手がはぐらかしてきたので、それ以上は踏み込んでこなかった。
二人は程良い世間話をしながらも、それぞれがこの俗物的な空気を満喫している。
そんな中。
突如、ランディの上着から携帯端末の呼び出し音が鳴り響いた。
「おいおい、なんだっつーの」
夜の時間帯なので思わず眉を顰めてしまったが、すぐに片手をポケットに突っ込んだ。緊急事態という可能性もある。
「おう、どうした?」
なんとなく相手の予想はついたが、肝心の声が聞こえてこなかった。
「……ロイド?」
「──へっ!?あ、あれ?ランディ!?」
数拍の後、ひどく驚いた様子の応答が耳を貫通してきた。
ガタンッと激しく椅子が倒れた。
起立した勢いで机を叩き、片手と紙の束が擦れ合う。
反響音は短く、狭い空間。
それ以外は静かで、他の気配は感じられなかった。
「はいはい。お前の愛おしいランディさんですが……って、寝ぼけてんのかよ?」
端末越しからロイドの背後に隠れた音を聞き分け、ふざけながらも冷静な状況分析をする。
彼が自室にいることは確かだろう。
「い、いやっ、あのっ……全然かけるつもりとかなくて!」
これ以上ないくらいの狼狽ぶりがはっきりと伝わってくる。
ランディは景気の良い派手な演出が始まったスロット台を眺め、どう切り返そうかと思案した。
だが、ロイドの方には会話をする余裕などまるでない。
「ごめん、ほんとにごめん!!」
一週間ぶりだった声は悲鳴にも似た謝罪を残し、ぶつりと消えてしまった。
カバーを閉じた端末に、優しく細めた翠が注がれる。
勢いよくメダルが落ちてくる光景を前にしていても、不思議と高揚感が沸いてこなかった。
「ははっ、なんだ。女かよ?」
おもむろに席を立った彼を見て、顔馴染みの男がにやにやしながら茶化す。
距離が近いこともあり、通信でのやり取りは丸聞こえだったらしい。
「さあな~。可愛いヤツには違いねぇが」
それを気にする素振りもなく、ランディは可笑しげに口角をつり上げた。
昼間と見紛うほどに明るい街は、まだ眠ることを知らない。
その華やぎと喧噪から背を向けた男に未練の痕跡はなかった。
悠長な様子を装って帰路に付いた足は、いつもよりも少しばかり速い。
「帰ってきた一報くらい、よこせって?」
あの反応ならば、ロイドが通信を入れてきたのは本当に無意識だったのだろう。
そこに至る心境を慮り、ランディは小さく頭を振った。
二人は常日頃から、相棒と恋人の関係性をバランスよく保っている。
だが、それは真面目なロイドの性格ゆえであり、ランディはそれを尊重している形だ。
色事には不器用な上に、時々自分の感情にすら疎い部分がある。
彼にしてみれば、いつ恋人の顔をしてくれても構わないし、受け止める自信は満々だ。
「……あいつ、相変わらず下手だよなぁ」
すでに寝静まりつつある西通りを進み、すっかり馴染んだ古いビルを見上げてみる。
「まぁ、最近は警備隊の案件が多かったっつーのもあるか」
裏口から帰宅して我が家の空気を吸い込んだ後、ランディは二階の様子を探った。
ロイドが自室にいないことが分かり、今度は視線を上層へ走らせる。
「あー、上か」
きっと頭を冷やしに行ったのだろう。それくらいは容易に想像がついた。
薄暗い階段を静かに上り、屋上へと辿り着く。
ドアは開け放たれたままで、先にここを通った荒い足音が聞こえてくるようだった。
屋上にやってきた人物が誰かなんて、確かめるまでもない。
彼の戻りを予測していながら、逃げなかったのは自分だ。
それでも、やっぱり振り向くことはできなかった。
「──ロイドくん、待った?」
手摺りにもたれて街明かりを見つめる背中へ、軟派な言葉が投げかけられる。
「待ってない」
近づいてくる男の気配は、ロイドの態度を頑なにさせた。
「そうかよ。つれないね~」
ランディは恋人の傍らに立ち、わざとらしく肩を竦めてみせた。
不躾に隣の横面を暴こうとはせず、大きな背中を手摺りに預けてゆったりと腕を組む。
「まぁ、今夜はツイてなかったなんでな。さっさと退散してきたぜ」
彼はロイドとは逆方向の夜空を見上げ、さり気なく優しい嘘をついた。
「いつだってツイてないくせに」
それまで前を向いていた栗色の頭が、わずかに俯く。
ランディの言動にロイドは戸惑っていた。
てっきり茶化されて弄りまくられるものだと思っていたのだ。
憎まれ口を叩いた唇を噤んで隣を覗えば、柔らかな視線が注がれているのを感じる。
今の状況が想定していたものとは違いすぎて、どんな顔をすればいいのか分からなくなった。
「……もう、さっさとどっか行けよ」
思考の糸が絡まり続け、思わず手摺りに向かって伏せてしまいたくなる。
そんなロイドの横顔に何かが触れてきた。
「そいつは無理ってもんだろ?寂しがってる恋人を相手に」
武骨な手の甲がゆっくりと優しく頬を撫であげる。
突然やってきた温もりは一瞬で、なぜかすぐに離れてしまった。
名残惜しさを覚え、釣られるようにしてランディの方を向く。
「えっ、な……に、言って」
ほんのわずかな時間差で、一つの言葉が脳内に落下した。
「寂しい?俺が……?」
何度も目を瞬かせ、大きな困惑が露わになる。
そんなロイドの反応を見たランディは、自分が相手の胸中を見誤っていたことに気が付いた。
「あ~、そこからなわけね」
あの時の通信は、無意識からの産物で間違いはない。
だったら、どうしてそんな行動を取ってしまったのか?
屋上に上がって頭を冷やしていたのなら、それについての感情は自覚しているものと勝手に決めつけていた。
「……たかが一週間で?」
ロイドは両腕を抱え込み、忙しなく眼球を動かしている。
「もっと離れていた時期だって……あったのに」
握りしめた拳を顎に添え、唇から零れる息が小さく揺れた。
まるで独り言のような言葉は、夜風に紛れて行方をくらましてしまいそうだった。
「さすがに帝国の時と比べるのは『なし』だろ」
そんな呟きをしっかりと掴まえながら、ランディが静かに目を眇める。
ロイドがいつのことを言っているのかは、すぐに分かった。
あの時の焦燥感と葛藤の日々が頭を過ぎる。そして、今がどれだけ甘やかな時間かを思い知る。
手摺りを背もたれにしたまま、ふと見上げた夜空には深い濃紺が広がっていた。
いつの間にか、賑やかな声が聞こえていた中央広場も静かになってきている。
「でも、これくらいで寂しいとか……」
ロイドは未だに自分の感情を飲み込みきれていないようだった。
雑音がなくなった寒空の下、すでに答えが出ているはずの自己分析を繰り返す。
一週間前。楽しげに出かけて行った背中がやたらに遠く感じた。
まるで警備隊に彼を取られてしまったような気がして、子供じみた嫉妬が胸の奥に燻った。
携帯端末に手を伸ばしたのは、声が聞きたかったからだ。
声が聞きたかったのは、彼との繋がりを確かめたかったからだ。
そして、そんな想いを募らせる感情の正体は、ただ一つの短い言葉で表現できる。
「そんなの……小さな子供みたいじゃないか」
ロイドは両目を強く瞑った後、年上の恋人を振り仰いだ。
ようやく二人の視線が交差する。
ランディが空を見上げていたのは一時だけだったらしい。それ以降は、一人で戸惑うロイドを傍らで愛おしんでいた。
「別にいいんじゃねぇの。お前さんは難しく考えすぎなんだよ」
途方に暮れたような幼い顔は、不器用な思考の巡りを手放そうとしない。
「寂しがることに年齢は関係ないだろ?ましてや恋人同士なら」
柔らかな口調で諭してくるランディの声は、身動きの取れないロイドを引っ張り出すかのようだった。
手摺りにもたれていた身体が動き、いよいよ真正面から向かい合う。
さっきはわざと泳がせた手が、今度は大きな掌で頬を撫でた。
「いい加減、認めちまえよ」
「……あ」
一瞬だけだった温もりが、今度は離れずに頬を侵食した。
意地っ張りになっている心の奥が、ぐらぐらと音を立てて傾いていく。
それにとどめを刺すかのごとく、ランディは顔を近づけてニヤリと笑った。
「──で、早く俺に抱き付いてこい。さっきからずっと待ってるんだぜ?」
もう、虚勢を張るのは無理だった。
足を踏み込んだロイドの視界が、見慣れたオレンジ色でいっぱいになる。
促されるがまま、彼は思いきりランディの胸元に抱き付いた。
一週間ぶりに感じる体温は心地良く、回した両腕には自然と力がこもってしまう。
それを物ともしない強靱な肉体と、そこから漂う彼の香りを無心で堪能する。
「おう、おう。熱烈だねぇ」
やっと甘えてくれたが、その勢いが嬉しいやら可笑しいやらで、ランディは苦笑を禁じ得ない。
それでも彼の波長に合わせ、擦り寄ってくる栗色の髪を言葉少なに梳いてやった。
どれくらいそうしていたのだろう。
静まりかえった深夜の屋上は、冷えた風など感じないくらいに温かい。
ふと、ランディが口を開いた。
「なぁ、そろそろ顔上げて欲しいんだけど」
この場所に来てからというもの、ロイドの表情を覗えたのはほんの少しだけだ。
久しぶりの逢瀬だというのに、それでは物足りなさすぎる。
本音を言ってしまえば、さっさと自分の部屋にお持ち帰りしてしまいたい気分だ。
「なぁ、ロイド?」
「──嫌だ」
しかし、催促も空しくロイドが突っぱねてくる。
彼とて、いつまでもこの状態でいられるわけがないと頭では理解していた。
けれど、心が思うようについてこない。
無意識にやらかしたことから始まり、寂しがっていることを自覚してしまった。
今夜は包容力が全開であろう恋人を前にして、彼の羞恥心は増すばかりだ。
「まだ……このままがいい」
ロイドは甘ったるい空気が漂う中で、ぽそりと言った。
密着しているせいで、ランディが小さく肩を揺らしているのが分かる。
きっと困ったように笑っていることだろう。
今はどんな態度を取ったとしても揶揄の兆しはなく、愛おしげに緩んだ眼差しが待っているだけだ。
だから、どうしたって逡巡するのを止められない。
本当に──どんな顔をしたらいいのかが分からなくなってしまった。
2023.03.14
畳む
彼の人となりは場所を問わない
黎ED後・恋人設定
イーディスに出張した二人が偶然ヴァンとアーロンに出会う話。
注意:アロヴァンの描写があります。
2022年リクエスト⑥
【文字数:12000】
車窓の中を長閑な風景が流れている。
座席から伝わってくる規則的な列車の振動は、彼の眠気を誘うのに十分だった。
気持ち良さそうに船を漕いでいる栗色の頭が、一段と深く落ち込む。
「──っあ?」
「おいおい。随分と派手にいったな」
その重みで目を覚ましたロイドは、笑いを含んだ声に顔を上げた。
寝ぼけた視界に鮮やかな赤が入ってくる。
「ん~、問題ない……と思う」
首筋に手をやって何度か揉み込んでから、軽く回したり傾けたりしてみる。
まだ頭が覚めきっていないのか、少しばかり舌足らずな喋り方だ。
「眠いならもうちょい寝てれば?」
彼の真向かいに座っているランディは、窓辺に肘をかけ頬杖を付いている。
年下の相棒に寄せる眼差しは穏やかだ。
「いや。だいぶ寝てたみたいだし、大丈夫だ」
しかし、ロイドは寝落ちする直前の記憶を手繰りながらきっぱりとそう言った。
自然豊かな風景だった窓の外は、いつの間にか無機質な人工物が多くなり始めている。
カルバード共和国の首都・イーディスに近づいていることが分かる。
改めて気を引き締めようと、自分の頬を両手で叩いた。
「そうかよ。ま、こっちはお前の寝顔を堪能できたんで首尾は上々ってな」
そんな彼とは対照的で、赤毛の男には緊張感の欠片もない。
「な、何しに来たんだよっ、ランディは!」
咄嗟に噛みつきたくなったロイドだが、客車の中ということもあり、ぐっと堪えて声を抑えた。
「……そもそも、どうして俺に付いてきたんだ?」
のんびりと構えている男を真正面から睨め付ける。
今回の出張はロイド一人の予定だった。
以前から追っている密輸組織がイーディスに潜伏していると、共和国側からの情報があった。
組織自体は極々小規模な部類に属する。
共和国側の協力も考えれば、クロスベル側からの人員は最小限で支障はないとの判断だ。
そこで、捜査官であるロイドに白羽の矢が立てられた。
技量と経験値。それこそ潜り抜けてきた修羅場は数知れない。
この人選に異を唱える者は誰もいなかった。
近年は国を跨ぐ国際犯罪も増加の一途を辿っている。
隣国である共和国警察との情報交換も盛んで、今回のような協力案件も珍しくはなかった。
「そっちだって、警備隊の演習に声が掛かっていたんじゃないのか?」
出張までの経緯を頭に巡らせたロイドは、不思議そうに尋ねた。
「都合が良ければって話だったからな。っつーか、そこ聞いちゃうわけ?」
それが意外だったのか、ランディはわずかに瞠目した後で困ったように笑った。
「へ?まずかったか?だって演習の方が好きだろ?」
毎度のことながら鈍い反応をしてくるロイドに対し、盛大な溜息を吐いてみせる。
「はぁ~、お前さんってヤツは」
加えて、わざとらしく間を取りながら左右に首を振った。
「相棒が一人で外国に出張とか、気になりすぎて演習どころじゃねぇんだわ」
そのくらいは解ってくれよと。
少し身を乗り出したランディが、戯けた様子で目の前にある頭を軽く小突いた。
「えっと、あれ?それって……」
ロイドはその感触に思わず首を竦め、鳶色の瞳を何度も瞬かせる。
その時、イーディスへの到着予定を告げる車内アナウンスが響き渡った。
久方ぶりに降り立った首都の駅前は、随分と様変わりしていた。
二人ともイーディスを訪れるのが初めてというわけではない。
ロイドは短いながらも共和国に住んでいた時期があるし、ランディの方も猟兵時代に足を運んだことがあるという。
しかし、それも今となっては懐かしむ程度に昔の話だった。
「……凄いなぁ。たった数年でこんなにも変わるなんて」
陸橋の向こうに設置されている大型モニターを見上げ、ロイドが感嘆の息を漏らした。
「お前はまだマシだろ?俺なんて軽く十年は経ってる。完全に別の街って気になるぜ」
もちろん、彼らは共和国の現状をしっかりと把握している。
だが、やはり実際に現地に行って五感で得る情報量には適わない。
クロスベルからの来訪者たちには、急速に発展した街並みの全てが新鮮だった。
そんな二人の元へ、浅黒い肌をした強面の男が近づいてきた。
「来たか。バニングス捜査官」
堅めの口調はいかにも警察の人間といった印象だ。
「お疲れ様です、ダスワニ警部。先日の通信以来ですね」
反射的にロイドの表情が引き締まる。
彼の横に添っているランディは、外面用の友好的な笑みを浮かべた。
「俺の方は初めまして……ってとこだな」
その緩い顔の下で、冷静に初対面の相手を品定めする。
「まさか、再事変の立役者が揃い踏みとはな」
対するダスワニの方は、たかだか数人規模の犯罪組織に大袈裟な、とでも言いたげだ。
「あくまでメインはこいつだ。俺が勝手に付いてきただけなんでな。軽く流しといてくれよ」
元よりお堅い警察畑の人種とは反りが合わない。
かといってロイドの面目を潰すわけにはいかず、彼の背中を叩いて前へと押し出した。
それをどう捉えたのか、ダスワニは表情一つ変えずに渋めのコートを翻し、駅前のロータリーへ歩き出す。
「すぐに顔合わせだ。署で他の奴らが待っているんでな」
彼は導力車で二人を出迎えに来ていた。
慌ててその後ろ姿を追う男たちが顔を見合わせる。
「なぁ……俺も出なきゃダメ?」
捜査官であるロイドはともかく、ランディにしてみれば息が詰まる空間になるのは確実だ。
急に甘えた口調でお伺いを立ててきた男に、真面目な青年の鋭い視線が突き刺さる。
「今更だぞ、ランディ。出張費は二人分出てるんだからしっかり働け」
ロイドは容赦ない肘鉄をお見舞いして、車の後部座席に大きな身体を押し入れる。
強引に逃げ道を塞いだ上で、自らもその隣に乗り込んだ。
二時間ほど後。
警察署の建物から出てきた途端に、ランディはぐったりと脱力した。
「……堅い、堅すぎる」
「ははっ、うちの捜査一課とかもあんなもんだろ?」
イーディスに来て早々、大きなダメージを食らっている相方の姿が面白い。
ロイドは笑い声を立てながら、お疲れ様とばかりに彼の肩を叩いて労ってやった。
署内の一室で行われた合同会議は滞りなく終了した。
実際に潜伏現場に乗り込むのは明日の早朝。
ダスワニを含む数名の警察官とは、細部までのすり合わせが完了している。
事前の準備に抜かりはなかった。
「それにしても、意外に予定より早く終わったな。取りあえず、ホテルにチェックインしとくか」
目の前に広がる行政地区のビル群を見上げ、ロイドの足がきびきびと動き出す。
整然と建物が立ち並ぶこの区画は、奥まった場所を除けば比較的歩きやすい。
「確かこの道を真っ直ぐ行って……」
「おい。まさか、こんなお役所系が真っ只中で取ったのかよ?」
ぶつぶつと言っている彼と肩を並べ、ランディが眉を顰めて問いかけた。
「仕事で来てるから警察署の近くが良いかと思って。あ、でも安い所だからな。出張費も馬鹿にならないし」
それが当たり前だとばかりの返しをされ、赤毛の男は呆れを通り越して何とも言えない表情になってしまった。
「マジかよ……さすがはロイドくん。どうせなら賑わってる地区にしとけっつーの」
いくら仕事で出張だからとはいえ、多少の楽しみがあってもバチは当たらないだろうと思う。
しかし、そんなランディの気持ちは素通りだ。
彼の唯一無二である相棒は、とても真面目な性格の捜査官だった。
当初、単身でイーディスに来るつもりだったロイドは、正直なところ安堵していた。
もちろん、自分だけでも仕事を完遂する自負と責任感はある。
とはいえ、今回の行き先はカルバード共和国だった。
知人の多い帝国方面ならまだしも、不慣れな場所では多少の不安が付きまとうものだ。
ふと隣を見上げれば、すぐに見慣れた横顔が視界に入ってきた。
(……やっぱり落ち着くなぁ)
彼がただ側にいてくれるだけで、こんなにも肩の力が抜けて自然体になれる。
その存在が頼もしくもあり、外国にまで付いてきてくれたことが嬉しかった。
「いや~、なかなか面白かった。ああいうド派手な演出は好きだぜ」
「大きなスクリーンだと迫力があるよな。ランディってば、綺麗なお姉さんが出てきてから凄く楽しそうだった」
「おうっ、やっぱ綺麗どころがいねぇとな!」
結局、予定よりも時間に余裕ができたロイドは、ランディのたっての希望で映画を鑑賞することにした。
ホテルにチェックインした後、あまりにも浮かれ調子で言ってきたので、つい甘やかしてしまったのだ。
基本的には真面目な彼だが、そこまで融通が利かないほど堅物ではない。
元々、会議が終わったら街中を散策するつもりだったので、全くの予定外というわけではなかった。
そして、何よりも大切な相棒と外国の街を歩くのが純粋に楽しみだった。
二人は映画館を出た後、冷めやらぬ興奮を会話にしながらメインストリートを歩いていた。
空は小一時間にすれば淡い暖色に染まりそうな頃合い。
昼間に比べれば人の量が増え始めている。日が落ちれば更に賑わいが増すだろう。
そんな中、ふとロイドが足を止めた。
「どうした?」
「今、あっちから怒鳴り声が聞こえたような……」
彼はそう言って視線を移動させる。
そこには、華やかな街灯からは外れた場所へ伸びている路地があった。
どことなく薄暗い雰囲気が漂っている。
「ま、ああいう路地裏なら多少の諍いは日常茶飯事だろ。どこの街も変わらねぇよ」
ホームグラウンドではないのだから余計な首は突っ込むなと、ランディが暗に釘を刺す。
「それはそうなんだけど」
しかし、ロイドの方はどうしても気になるらしく、立ち去る素振りを見せなかった。
「ったく、しょうがねぇな~」
そんな相棒の性格を熟知しているランディは、軽く頭を掻いてから息を吐く。
「少し様子を見に行くだけだからな」
こうなったら梃子でも動かないので、言い含めるのは無駄というものだ。
語尾の後にはゆったりと歩き出す男の足音が重なった。
「うん、分かってる」
何だかんだ言いながらも、こうやって寄り添ってくれる優しさが素直に嬉しい。
ロイドは小さく笑み、奥まった路地へ入っていくランディの背中を追いかけた。
やはり、気のせいではなかったようだ。
今度はしっかりと荒ぶる男たちの声が聞こえてきた。
角を一つ曲がり、長く真っ直ぐに伸びた道の先から複数人の気配を感じる。
「おっ、ただの罵り合いじゃなさそうだな。やり合ってやがる」
二人がいる位置からは距離があり、しっかりとした視認はできないが、すぐにそう判断した。
幾多の修羅場を潜り抜けてきた彼らは、こういった手合いには敏感だ。
しかし、どこかに違和感を覚えた。
「……あぁ。でも、ただの喧嘩と言うよりは」
「二対四ってとこか。かなりの手練れだな。遊んでやってんのか、それとも……」
訝しげに呟いたロイドの横で、ランディが面白そうに頷く。
様子を見るだけに留めておくつもりが、いつの間にか興味をそそられてしまっていた。
その時。
路地裏の空気が一気に動いた。
「──てめぇ!待ちやがれ!!」
一際鋭い男の声が辺りに響き渡った。
二人の緊張感は一気に高まり、路地の先を見据えて状況の把握に努める。
前方から脱兎のごとく、もの凄い勢いで一人の男が走ってきた。
手元に鋭利な刃が光ったの確認し、赤毛の男は陽気に口笛を鳴らす。
「物騒な物をお持ちのお客様~ってか?」
「こらっ、ふざけてる場合じゃないぞ」
楽しそうな相棒を咎めつつ、ロイドは瞬時に頭を働かせた。
この先はメインストリートに繋がっている。
刃物を所持して逃走している輩を野放しにするのは危険だ。
ここはクロスベルではないが、一般市民の安全を守るという使命感に国の違いは関係なかった。
ロイドはちらりと相棒に目配せをした。
生憎と観光がてらだったので武装はしていないが、いくらでもやりようはある。
彼の意図を察したランディは、無言で口角をつり上げた。
必死の形相で走っている男には、周囲を気にする余裕などなかった。
狭い路地だというのに、すぐ前方にある人影たちを全く認識していない。
まさに一心不乱といった状態だ。
その迫力に押されたのか、彼らは道を譲る形で壁際に身を寄せる。
男はそこでようやく自分以外の人物の存在に気が付いた。
すれ違った刹那、楽しげな翠の瞳が三日月に歪むのを見る。
「おっと、悪ぃな」
わざとらしい戯けた声の後、彼は足元に強い衝撃を受けた。
勢いよく身体が吹っ飛び、堅い地面の上に突っ伏す形で叩き付けられる。
「うぐっ!!」
喉が潰れそうな呻きをあげ、持っていた刃物が鈍い音を立てて転がっていく。
彼は自分の身に何が起きたのか、すぐには分からなかった。
痛みに顔を歪ませ、のろのろと起き上がろうとする。
だが、その瞬間。
「──大人しくしろ!」
容赦のない重みが背中を襲う。
抵抗する間もなく床に押さえ付けられ、片腕を後ろへ捻られた。
鋭く引き締まった男の声が、耳の奥を突き抜けていった。
双剣を振り払った視界の片隅に、逃走を謀ろうとするリーダー格の男が飛び込んできた。
「くそがっ!」
思いきり吐き捨てながら、刃を鞘に収めて追いかける。
「おい、三号!逃がすんじゃねぇぞ!!」
後方からのプレッシャーを受けた両足が更に速度を上げた。
自分と相手の力量を鑑みれば、この距離なら確実に身柄を抑えられる。
そう判断したアーロンだったが、
「チッ!なんだよ、あの野郎どもは!」
唐突に路地の先で始まった取り押さえ劇を見て、柳眉を逆立てた。
「おい!余計なことしてんじゃねぇよ!!」
獲物を横取りされた獰猛な獣のごとく、アローンは二人組の男に牙を剥く。
「あぁ、やっぱり。ただの喧嘩じゃなかったみたいだ」
彼の標的を組み伏せている茶髪の青年は、穏やかな口調できつい怒声を見上げた。
その落ち着いた表情にカッとなり、収めた刃の柄に手がかかる。
「──まぁ、落ち着けよ。こっちは丸腰だぜ?」
そこへ、赤とオレンジの色彩が音もなく割り込んできた。
身動きが取れない青年を背にして、守るかのような立ち位置を取る。
がっしりとした体格と隙のない振る舞い。
一見して軟派な風貌だが、とても一般人とは思えなかった。
言葉とは裏腹、緩んだ笑みの中に挑発じみた色が見え隠れする。
「……てめぇら、何者だ」
それを感じ取ったアーロンの金彩が強い煌めきを放った。
一触即発。そんな言葉が脳裏を過ぎる。
どことなく楽しげな相棒の背中を見上げ、ロイドは密かに溜息を吐いた。
(はぁ……俺はできるだけ穏便に済ませたいんだけどなぁ)
いつまでもこの男を抑えているわけにもいかない。
先方が彼を追ってきたのを考えれば、すんなりと引き渡した方が良いはずだ。
どうしたものかと思案していると、戦闘が起きていた場所からもう一人の男が走ってきた。
「アーロン!抜くんじゃねぇ」
彼は残りの三人を難なく地面に沈めてきたようだ。
撃剣を肩に担いで近づいてきたその姿に、ロイドは目を丸くした。
(あっ、もしかして……彼らは)
ランディの背中越しに相対する青年を覗い、その後方にいる男へと視線を戻す。
緋色と蒼黒を纏った男たちの正体にはすぐに見当がついた。
そこで、ようやく組み伏せていた男を解放する。
派手に飛ばされた身体には、打撲と擦り傷がいくつもできていた。
小さな呻き声を上げて力なく転がっている状態では、再び逃亡するおそれはないだろう。
ロイドは彼の身を路地の壁際に預けてから立ち上がった。
「すまなかった。余計なお世話だったみたいだな」
数歩分だけ前へ進み出て、ランディの真横に並び立つ。
殺気を放つ相手とは真っ向から対峙しつつ、爽やかな笑顔を投げかけた。
「……はぁ?」
アーロンは思わず口が半開きになってしまった。
予想外に素直な謝罪のせいで、あっさりと緊迫感が薄らいでいく。
溜飲が下がるというよりも、呆気にとられて怒気が消沈した形だ。
「くくっ、面白いだろ?俺の相棒は潔いのが玉にキズってな」
それを傍観していたランディは可笑しげに肩を揺らしたが、ふと何かに思い当たって隣の青年を見た。
「なぁ、ロイド。こいつらってあれか?リーシャちゃんが言ってた」
「そうだ。まさか、こんな所で会えるとは思ってなかったけど」
ロイドはそう言いながら、息も切らせずに走ってきた紺青の男を見つめた。
「……ったく、それはこっちの台詞だぜ」
真っ直ぐで何の淀みもない瞳の圧は、どうにも居心地が悪い。
彼はそれを誤魔化すように小さく首を鳴らし、苦笑いを浮かべた。
「おい、ヴァン。てめぇの知り合いかよ?」
すると、少しだけ険の取れたアーロンが胡散臭げに尋ねてくる。
「あー、間接的には……だけどな。クロスベルの再事変って言えば分かるだろ?」
ヴァンは何となく言葉を濁したが、この聡い青年ならすぐに察しが付くだろうと確信していた。
案の定、アーロンはすぐさま驚きを露わにし、目の前に立っている男たちを凝視したのだった。
今は本当に偶然が重なり合っただけの状況だ。
予定していた顔合わせではなく、情報交換をする必要性もない。
ただ単に、街中ですれ違ったというだけ。
本音を言えば少し話をしてみたいところだったが、今は時期尚早だろう。
裏解決屋の二人も、そこまで踏み込んでくるつもりはないようだ。
「改めて、俺はロイド・バニングス。出張でイーディスに来ている身だ。君たちに会えて嬉しいよ」
それを踏まえた上で、彼は律儀に自己紹介をした。最低限の情報を言葉に紛れ込ませながら。
「こっちは相棒の……」
「あ~、わざわざ言わなくていいっつーの。あっちも分かってんだからよ」
いつどこにいても彼の真面目さは変わらないが、それは長所であり短所でもある。
ランディは面倒くさそうに手の平をひらひらと振った。
「……いかにも優等生ってツラしてんな。しかも天然かよ、こいつ」
そこへ、刺々しさを隠そうともしない勝ち気な声が向けられる。
さっきの潔さといい、どうにも調子が狂わされてばかりで苛立たしかった。
「おっ、おい!喧嘩売ってんじゃねぇ」
慌てたヴァンが、暴走しそうな助手の肩を掴んで止めようとする。
しかし、ロイドの方は微塵も気にしていない素振りだった。
「君は……あぁ、そう言えばリーシャが『とても舞台に映える』って」
興味深げにアーロンへ近づき、まじまじと彼の整った顔面を覗き込む。
「確かに華があるっていうか。う~ん、カッコイイなぁ」
「はっ……そりゃ、当然だろ」
感嘆の眼差しを注がれたアーロンは、わずかに狼狽えながらもキッパリと肯定した。
「これで技量も一流だって言うんだから、凄いよな。一度華劇場に──っ、うわ!?」
更に言葉を続けるロイドだったが、
「おい、こら!こんなとこでたらし込んでるんじゃねぇよ!」
突如、強い一声を放ったランディに襟首を掴まれ、役者の青年から引き剥がされてしまった。
「な、なんだよ!?急に!」
「外国だからって油断しちまったぜ。ほら、そろそろ行くぞ」
もう片方の腕で強引に抱き寄せられてしまえば、抗うのはなかなか難しい。
やはり、体格や腕力の面ではランディの方が有利だ。
「騒がしくしちまって悪ぃな。俺たちは退散させてもらうぜ」
彼は呆然としている裏解決屋の二人へを愛想笑い振りまき、陽気に片手を上げた。
「それじゃぁな~」
そして、さっさと別れの挨拶を告げながら来た道を引き返していく。
「待てよ、ランディ!俺、まだ挨拶してないし!!」
不本意な退場を余儀なくされ、半分は引きずられている状態のロイドが抗議の声を上げる。
普段は人気が少なく静かなはずの裏路地に、それは見事な反響音を残した。
雑踏の賑わいから離れた薄暗い空間の中で、二人はしばらく立ち尽くしていた。
壁に寄りかかっている男の呻き声が聞こえ、ハッと我に返る。
「……あいつら、本人か?」
まるで嵐が去った後のようだった。
逃げた男を取り押さえていた時の面構えと、さっきの緩みまくった騒ぎようでは、まるで印象が違っている。
「だと思うんだが」
アーロンに問われたヴァンは、つい自信がなさそうな返答をしてしまった。
出張とは言っていたが、公私を使い分けているのかと言えば微妙なところだ。
「なんつーか、情報として聞いていた以上に人たらしだな……」
自分のことは棚に上げ、ヴァンの唇が小さく動いた。
ロイドがアーロンに向けた言葉には、なんの含みも感じられなかった。
あれは疑いようもなく本当に心からの賞賛だ。
「……ん?」
だが、直後に豹変したランディの言動が脳裏を掠め、とある可能性に思い当たる。
途端に両目を丸くした。
「あ~、そういうことか」
ヴァンはその理由に合点がいった様子で大きく頷いた。
「オッサン。一人で納得してんじゃねぇよ」
「あの二人、相棒同士らしいが……それだけじゃなさそうだ」
不満げなアーロンの声に応じた彼は、苦笑交じりの顔をする。
「お前に構っている相方が面白くない。独占欲剥き出しで嫉妬するような間柄ってことだな」
「なんだよ、つまりはデキてるってわけ?」
それが意外だったのか、助手の青年は金色の瞳を忙しなく瞬かせた。
言われてみれば確かに納得する部分はある。
だが、さっきの二人が恋人同士に見えたか?と問われれば、答えは否だった。
「……マジかよ」
「あいつらの中には色んな関係性が混在してるってことだろ」
ヴァンは当たり障りなく話をまとめ、本来の目的である男の元に屈み込んだ。
負傷の具合を確かめつつ、ポケットから携帯端末を取り出す。
どうやら、どこかへ連絡を取るつもりのようだ。
「さっきのお前……何気に絆されてたよな」
おもむろに端末を操作し始めたところで、ふと小さな愚痴が零れ落ちた。
「おいおい、ヴァン。てめぇも嫉妬かよ?ウゼェな」
「うるせぇ。ただの独り言だ」
辛辣に笑い飛ばされ、拗ねたような素振りで言葉を吐き捨てる。
アーロンはそんな姿を眺めやりながら、密かに笑みを浮かべた。
それは口先だけのこと。
彼にそんな感情を向けられて嫌な気分になるはずがなかった。
あの後、怒りを露わにした相棒を宥めるにひと苦労した。
明日の決行は朝ということもあって早めの夕食を取ったが、恨めしげな愚痴や文句が食事の共となった。
ロイドがご立腹なのは、去り際の挨拶をまともにできなかったからだ。
真面目で律儀な彼は、礼を欠いたと感じているのだろう。
それに対してランディは、あれで二人分の挨拶をしたつもりだった。
裏解決屋の彼らもそんなことを気にする質だとは思えない。
「珍しく荒れやがったな。相手が相手だからかねぇ。まぁ、俺も強引すぎたけどな……」
ホテルの一室に戻ってきた直後の彼らは、明らかにぎこちない雰囲気だった。
ランディはそのままシャワールームに直行し、頭から熱い湯を一気に浴びて今に至る。
一人になれば、どうしても先刻の出来事を反芻してしまう。
脱衣所の鏡に映る顔は、自虐を露わにして歪んでいた。
あの時の感情は嫉妬以外の何ものでもない。
ロイドの天然ぶりは今に始まったことではないのに、一瞬で頭に血が上った。
暢気に他の男をカッコイイと褒める唇が気に入らなかった。
それこそ、強引に塞いでしまいたくなるくらいに。
「……やっぱり付いてきて正解だったぜ」
頭から大判のタオルを被り、滴る水気を少しばかり乱暴に拭い取る。
「あれはどう考えても悪癖だろ。もうちょいどうにかならねぇのかよ」
彼とて大人げない言動だったと反省しているし、夕食の席ではロイドに詫びた。
けれど、愚痴の一つも言いたくなってしまうのは仕方がない。
ランディは鏡の前でぼやきながら髪を乾かし、ようやく相棒の元へ足を向けた。
柔らかな明かりが室内を照らし出している。
部屋の作りはいたってシンプルだ。
二台のベッドが横並びに設置され、窓際にはテーブルと椅子が一組だけ。
ロイドはその椅子に座り、トンファーの手入れをしていた。
丁寧に磨き込みつつ、合間に窓からの夜景を眺めている。
「──そろそろ頭が切り替わったんじゃねぇの?」
その落ち着いた横顔を見たランディは、静かに声をかけた。
ロイドはきちんと己を律することができる男だ。
一時の感情を未練たらしく引きずり、肝心の職務に支障をきたすような真似はしない。
だから、ホテルへ戻ってきてからはすぐに放置を決め込んだ。
今は少し時間が必要だろうと配慮した。
「……そうだな。ありがとう、ランディ」
タオルを肩にかけたままでベッドへ向かい、ゆったりと腰を下ろす。
その動作を目で追っていたロイドの頬がわずかに綻んだ。
この男が速攻でシャワールームへ向かった意図が解ってしまったからだ。
さり気ない気遣いを感じれば、それだけで胸の奥が温かくなる。
素直な感謝の言葉に飾り気などはなく、それを受けたランディはすぐに居心地が悪くなってしまった。
「もう一仕事終えちまった気分だぜ。なかなか濃い時間だったつーか」
気恥ずかしさを誤魔化したいのか、勢いよく仰向けになってベッドに転がってみる。
「あれはさすがに俺も驚いたな。出張じゃなかったら、ゆっくり話してみたかった」
「なかなかクセの強そうな奴らだけどなぁ」
彼らは裏路地での邂逅を思い返しながら笑い合う。
勝ち気で我の強そうなアーロンは、その外見も相まって鮮烈な印象を焼き付けてきた。
直情的だが聡い部分が見え隠れする。それは諸々の言動からも窺えた。
ヴァンの方は落ち着いた風貌だが、深みのある双眼の先は読めず、湾曲した色彩を揺らめかせていた。明らかに一筋縄ではいかない相手だ。搦め手が得意だというのも頷ける。
一見して正反対な二人だが、肩を並べれば様になる。そのアンバランスさが絶妙なスパイスになってた。
「他のメンバーも個性的だって聞いてるし、ますます気になるな」
ロイドは何気なく窓の外を見つめながら小さく呟いた。
武器のメンテナンスが終わり、綺麗に磨いたトンファーをテーブルの上に置く。
「──よし」
完璧な仕上がりだ。満足げに一つ頷く。
そして、不意に椅子から立ち上がり寝転がっている相棒に目を向けた。
「ランディ、明日の準備は?」
随分とのんびりしてる様子が気になった。
ベッドサイドに近づき、起き上がる気配のない身体を見下ろす。
「元々、頭数には入ってないんでな。必要最低限でいいだろ」
心配そうな顔をされたランディは、穏やかな口調で答えた。
今回の案件は、ロイドと共和国側の警察が数名で事足りる。
逆に人数が増えれば動きづらくなる可能性もあるだろう。
彼は昼間の会議には参加したものの、数には入れなくて良いと先手を打っていた。
今回は一歩引いて周囲の警戒をするくらいに留めるつもりだ。
「でも……」
「なんかあればフォローする。まぁ、うちの捜査官どのは優秀なんで問題ねぇだろうがな」
まだ自分の気持ちを納得させられないロイドと、あえて距離を置く姿勢を崩さないランディの視線が絡む。
「仕事は完遂させる。だけど……」
ロイドはきっぱりと言いながらも、眉を顰めた。
一人で良かったはずの出張に付いてきてくれた大切な相棒。
どうせなら、一緒にやつらの潜伏先に突入したいと思ってしまう。
もちろん、彼の言い分は理解しているし、だからこそ会議の場でも異論は唱えなかった。
「なんだよ、一人じゃ寂しい?」
慣れ親しんでいる翠色が、胸中を見透かすように戯けた笑みを浮かべた。
図らずも、夜のひと時にベッドを介して言葉を交わす。
白いシーツの上に広がった赤は鮮やかで、やたらと艶めかしくて目が離せなくなる。
そんなつもりはないのに、見えない手招きをされてるような錯覚に陥った。
「べ、別にそういうわけじゃない」
やましさを隠すかのように、ロイドは勢いよくそっぽを向いた。
「ランディの武器、いつもと違うから……準備とか気になっただけで」
一度咳払いをし、笑ってしまうくらいに分かりやすい話の逸らし方をする。
「あいつは列車移動に不向きだからなぁ。あんま目立ちたくねぇし」
ランディはごく自然な受け答えをして、相手の意図に乗った。
危うい雰囲気になりそうだったが、さすがに引くべき一線は弁えている。
今は出張中で仕事の本番は明日。ベッドの中で仲睦まじく過ごしている場合ではなかった。
「そんなに気になるなら、見てみるか?軽くメンテはするつもりだったからな」
完全に空気を切り替えたランディは、ゆっくりと身体を起こした。
ベッドサイドに立て掛けておいた黒いケースを掴み、窓際のテーブルにそれを置く。
「ほんとか?携帯式のってまだ見たことなくてさ」
椅子に腰掛けてから蓋を開けると、気を取り直したロイドが興味津々で床の上に座り込んできた。
ケースの中には、スタンハルバードの打撃ユニットと柄が別々に収納してある。
「あんま普及してねぇからな。警備隊でもレアらしいぜ」
彼はそう言いながら、手際よく打撃部分と柄の部分を組み立て始めた。
「導力変換ユニットが小振りだな。これでパワーが出るのか?あ、柄の方は折りたたみ式?強度的にはどうなんだ?」
その横から、ロイドが子供のような眼差しで質問攻めをしてくる。
「通常のに比べれば劣るが、実戦での運用に問題はねぇな」
ランディの方はきちんと説明をしているのだが、どうしても笑いが込み上げてくる。
「組み立ててから柄を畳んどけば、移動も楽だし潜伏しやすい。使い勝手は悪くねぇと思うぜ」
あまりに近くで覗き込んでくるので、手元に髪の毛が当たってくすぐったい。
彼はまるでそうするのが当たり前だと言うように、栗色の頭を軽く掻き混ぜた。
「ロイドくんよぉ、何がそんなに楽しいわけ?」
呆れた溜息で問いかけてみると、
「そんなの決まってるだろ。俺はそういう仕草が好きなんだ。ランディが武器の手入れをしてるの好きなんだ」
言葉通りの明るい声が跳ね返ってきた。
「……はいはい」
わざわざ表情を覗わなくても、真っ直ぐな感情が伝わってくる。
言われる側が羞恥にまみれることなんて、まるでお構いなしだ。
クロスベルだろうが共和国だろうが、彼の人となりは変わらない。
引きずられるように裏路地でのたらしっぷりを思い出し、辟易としてしまう。
(こんな所まで来て、俺にまで直球投げてくんのかよ……勘弁してくれ)
ふと、窓越しに行政地区の夜景を流し見る。
静かな夜色のガラスに二人の姿が映り、ランディはそこで諦めた。
傍らに佇んでいるロイドは、揶揄するのも気が引けるほどに幸せそうだ。
そんな雰囲気を壊せるはずもなく、自分の顔が存外に緩んでいる事実には気が付かないふりをした。
明日になってしまえば、完全に仕事モードへ切り替わる。
密輸組織の身柄を取り押さえた後は、そのまま車でクロスベルまで移送する手筈だ。
捜査官であるロイドは同乗が鉄則なので、列車で来た時のような旅行気分とはいかない。
タングラム門で正式な引き渡しの手続きが行われるが、それまでは緊張感を強いられるだろう。
だったら、せめて今だけは。
出張先の夜。ランディはそんな風に想うことを止められなかった。
2022.09.19
#黎畳む
黎ED後・恋人設定
イーディスに出張した二人が偶然ヴァンとアーロンに出会う話。
注意:アロヴァンの描写があります。
2022年リクエスト⑥
【文字数:12000】
車窓の中を長閑な風景が流れている。
座席から伝わってくる規則的な列車の振動は、彼の眠気を誘うのに十分だった。
気持ち良さそうに船を漕いでいる栗色の頭が、一段と深く落ち込む。
「──っあ?」
「おいおい。随分と派手にいったな」
その重みで目を覚ましたロイドは、笑いを含んだ声に顔を上げた。
寝ぼけた視界に鮮やかな赤が入ってくる。
「ん~、問題ない……と思う」
首筋に手をやって何度か揉み込んでから、軽く回したり傾けたりしてみる。
まだ頭が覚めきっていないのか、少しばかり舌足らずな喋り方だ。
「眠いならもうちょい寝てれば?」
彼の真向かいに座っているランディは、窓辺に肘をかけ頬杖を付いている。
年下の相棒に寄せる眼差しは穏やかだ。
「いや。だいぶ寝てたみたいだし、大丈夫だ」
しかし、ロイドは寝落ちする直前の記憶を手繰りながらきっぱりとそう言った。
自然豊かな風景だった窓の外は、いつの間にか無機質な人工物が多くなり始めている。
カルバード共和国の首都・イーディスに近づいていることが分かる。
改めて気を引き締めようと、自分の頬を両手で叩いた。
「そうかよ。ま、こっちはお前の寝顔を堪能できたんで首尾は上々ってな」
そんな彼とは対照的で、赤毛の男には緊張感の欠片もない。
「な、何しに来たんだよっ、ランディは!」
咄嗟に噛みつきたくなったロイドだが、客車の中ということもあり、ぐっと堪えて声を抑えた。
「……そもそも、どうして俺に付いてきたんだ?」
のんびりと構えている男を真正面から睨め付ける。
今回の出張はロイド一人の予定だった。
以前から追っている密輸組織がイーディスに潜伏していると、共和国側からの情報があった。
組織自体は極々小規模な部類に属する。
共和国側の協力も考えれば、クロスベル側からの人員は最小限で支障はないとの判断だ。
そこで、捜査官であるロイドに白羽の矢が立てられた。
技量と経験値。それこそ潜り抜けてきた修羅場は数知れない。
この人選に異を唱える者は誰もいなかった。
近年は国を跨ぐ国際犯罪も増加の一途を辿っている。
隣国である共和国警察との情報交換も盛んで、今回のような協力案件も珍しくはなかった。
「そっちだって、警備隊の演習に声が掛かっていたんじゃないのか?」
出張までの経緯を頭に巡らせたロイドは、不思議そうに尋ねた。
「都合が良ければって話だったからな。っつーか、そこ聞いちゃうわけ?」
それが意外だったのか、ランディはわずかに瞠目した後で困ったように笑った。
「へ?まずかったか?だって演習の方が好きだろ?」
毎度のことながら鈍い反応をしてくるロイドに対し、盛大な溜息を吐いてみせる。
「はぁ~、お前さんってヤツは」
加えて、わざとらしく間を取りながら左右に首を振った。
「相棒が一人で外国に出張とか、気になりすぎて演習どころじゃねぇんだわ」
そのくらいは解ってくれよと。
少し身を乗り出したランディが、戯けた様子で目の前にある頭を軽く小突いた。
「えっと、あれ?それって……」
ロイドはその感触に思わず首を竦め、鳶色の瞳を何度も瞬かせる。
その時、イーディスへの到着予定を告げる車内アナウンスが響き渡った。
久方ぶりに降り立った首都の駅前は、随分と様変わりしていた。
二人ともイーディスを訪れるのが初めてというわけではない。
ロイドは短いながらも共和国に住んでいた時期があるし、ランディの方も猟兵時代に足を運んだことがあるという。
しかし、それも今となっては懐かしむ程度に昔の話だった。
「……凄いなぁ。たった数年でこんなにも変わるなんて」
陸橋の向こうに設置されている大型モニターを見上げ、ロイドが感嘆の息を漏らした。
「お前はまだマシだろ?俺なんて軽く十年は経ってる。完全に別の街って気になるぜ」
もちろん、彼らは共和国の現状をしっかりと把握している。
だが、やはり実際に現地に行って五感で得る情報量には適わない。
クロスベルからの来訪者たちには、急速に発展した街並みの全てが新鮮だった。
そんな二人の元へ、浅黒い肌をした強面の男が近づいてきた。
「来たか。バニングス捜査官」
堅めの口調はいかにも警察の人間といった印象だ。
「お疲れ様です、ダスワニ警部。先日の通信以来ですね」
反射的にロイドの表情が引き締まる。
彼の横に添っているランディは、外面用の友好的な笑みを浮かべた。
「俺の方は初めまして……ってとこだな」
その緩い顔の下で、冷静に初対面の相手を品定めする。
「まさか、再事変の立役者が揃い踏みとはな」
対するダスワニの方は、たかだか数人規模の犯罪組織に大袈裟な、とでも言いたげだ。
「あくまでメインはこいつだ。俺が勝手に付いてきただけなんでな。軽く流しといてくれよ」
元よりお堅い警察畑の人種とは反りが合わない。
かといってロイドの面目を潰すわけにはいかず、彼の背中を叩いて前へと押し出した。
それをどう捉えたのか、ダスワニは表情一つ変えずに渋めのコートを翻し、駅前のロータリーへ歩き出す。
「すぐに顔合わせだ。署で他の奴らが待っているんでな」
彼は導力車で二人を出迎えに来ていた。
慌ててその後ろ姿を追う男たちが顔を見合わせる。
「なぁ……俺も出なきゃダメ?」
捜査官であるロイドはともかく、ランディにしてみれば息が詰まる空間になるのは確実だ。
急に甘えた口調でお伺いを立ててきた男に、真面目な青年の鋭い視線が突き刺さる。
「今更だぞ、ランディ。出張費は二人分出てるんだからしっかり働け」
ロイドは容赦ない肘鉄をお見舞いして、車の後部座席に大きな身体を押し入れる。
強引に逃げ道を塞いだ上で、自らもその隣に乗り込んだ。
二時間ほど後。
警察署の建物から出てきた途端に、ランディはぐったりと脱力した。
「……堅い、堅すぎる」
「ははっ、うちの捜査一課とかもあんなもんだろ?」
イーディスに来て早々、大きなダメージを食らっている相方の姿が面白い。
ロイドは笑い声を立てながら、お疲れ様とばかりに彼の肩を叩いて労ってやった。
署内の一室で行われた合同会議は滞りなく終了した。
実際に潜伏現場に乗り込むのは明日の早朝。
ダスワニを含む数名の警察官とは、細部までのすり合わせが完了している。
事前の準備に抜かりはなかった。
「それにしても、意外に予定より早く終わったな。取りあえず、ホテルにチェックインしとくか」
目の前に広がる行政地区のビル群を見上げ、ロイドの足がきびきびと動き出す。
整然と建物が立ち並ぶこの区画は、奥まった場所を除けば比較的歩きやすい。
「確かこの道を真っ直ぐ行って……」
「おい。まさか、こんなお役所系が真っ只中で取ったのかよ?」
ぶつぶつと言っている彼と肩を並べ、ランディが眉を顰めて問いかけた。
「仕事で来てるから警察署の近くが良いかと思って。あ、でも安い所だからな。出張費も馬鹿にならないし」
それが当たり前だとばかりの返しをされ、赤毛の男は呆れを通り越して何とも言えない表情になってしまった。
「マジかよ……さすがはロイドくん。どうせなら賑わってる地区にしとけっつーの」
いくら仕事で出張だからとはいえ、多少の楽しみがあってもバチは当たらないだろうと思う。
しかし、そんなランディの気持ちは素通りだ。
彼の唯一無二である相棒は、とても真面目な性格の捜査官だった。
当初、単身でイーディスに来るつもりだったロイドは、正直なところ安堵していた。
もちろん、自分だけでも仕事を完遂する自負と責任感はある。
とはいえ、今回の行き先はカルバード共和国だった。
知人の多い帝国方面ならまだしも、不慣れな場所では多少の不安が付きまとうものだ。
ふと隣を見上げれば、すぐに見慣れた横顔が視界に入ってきた。
(……やっぱり落ち着くなぁ)
彼がただ側にいてくれるだけで、こんなにも肩の力が抜けて自然体になれる。
その存在が頼もしくもあり、外国にまで付いてきてくれたことが嬉しかった。
「いや~、なかなか面白かった。ああいうド派手な演出は好きだぜ」
「大きなスクリーンだと迫力があるよな。ランディってば、綺麗なお姉さんが出てきてから凄く楽しそうだった」
「おうっ、やっぱ綺麗どころがいねぇとな!」
結局、予定よりも時間に余裕ができたロイドは、ランディのたっての希望で映画を鑑賞することにした。
ホテルにチェックインした後、あまりにも浮かれ調子で言ってきたので、つい甘やかしてしまったのだ。
基本的には真面目な彼だが、そこまで融通が利かないほど堅物ではない。
元々、会議が終わったら街中を散策するつもりだったので、全くの予定外というわけではなかった。
そして、何よりも大切な相棒と外国の街を歩くのが純粋に楽しみだった。
二人は映画館を出た後、冷めやらぬ興奮を会話にしながらメインストリートを歩いていた。
空は小一時間にすれば淡い暖色に染まりそうな頃合い。
昼間に比べれば人の量が増え始めている。日が落ちれば更に賑わいが増すだろう。
そんな中、ふとロイドが足を止めた。
「どうした?」
「今、あっちから怒鳴り声が聞こえたような……」
彼はそう言って視線を移動させる。
そこには、華やかな街灯からは外れた場所へ伸びている路地があった。
どことなく薄暗い雰囲気が漂っている。
「ま、ああいう路地裏なら多少の諍いは日常茶飯事だろ。どこの街も変わらねぇよ」
ホームグラウンドではないのだから余計な首は突っ込むなと、ランディが暗に釘を刺す。
「それはそうなんだけど」
しかし、ロイドの方はどうしても気になるらしく、立ち去る素振りを見せなかった。
「ったく、しょうがねぇな~」
そんな相棒の性格を熟知しているランディは、軽く頭を掻いてから息を吐く。
「少し様子を見に行くだけだからな」
こうなったら梃子でも動かないので、言い含めるのは無駄というものだ。
語尾の後にはゆったりと歩き出す男の足音が重なった。
「うん、分かってる」
何だかんだ言いながらも、こうやって寄り添ってくれる優しさが素直に嬉しい。
ロイドは小さく笑み、奥まった路地へ入っていくランディの背中を追いかけた。
やはり、気のせいではなかったようだ。
今度はしっかりと荒ぶる男たちの声が聞こえてきた。
角を一つ曲がり、長く真っ直ぐに伸びた道の先から複数人の気配を感じる。
「おっ、ただの罵り合いじゃなさそうだな。やり合ってやがる」
二人がいる位置からは距離があり、しっかりとした視認はできないが、すぐにそう判断した。
幾多の修羅場を潜り抜けてきた彼らは、こういった手合いには敏感だ。
しかし、どこかに違和感を覚えた。
「……あぁ。でも、ただの喧嘩と言うよりは」
「二対四ってとこか。かなりの手練れだな。遊んでやってんのか、それとも……」
訝しげに呟いたロイドの横で、ランディが面白そうに頷く。
様子を見るだけに留めておくつもりが、いつの間にか興味をそそられてしまっていた。
その時。
路地裏の空気が一気に動いた。
「──てめぇ!待ちやがれ!!」
一際鋭い男の声が辺りに響き渡った。
二人の緊張感は一気に高まり、路地の先を見据えて状況の把握に努める。
前方から脱兎のごとく、もの凄い勢いで一人の男が走ってきた。
手元に鋭利な刃が光ったの確認し、赤毛の男は陽気に口笛を鳴らす。
「物騒な物をお持ちのお客様~ってか?」
「こらっ、ふざけてる場合じゃないぞ」
楽しそうな相棒を咎めつつ、ロイドは瞬時に頭を働かせた。
この先はメインストリートに繋がっている。
刃物を所持して逃走している輩を野放しにするのは危険だ。
ここはクロスベルではないが、一般市民の安全を守るという使命感に国の違いは関係なかった。
ロイドはちらりと相棒に目配せをした。
生憎と観光がてらだったので武装はしていないが、いくらでもやりようはある。
彼の意図を察したランディは、無言で口角をつり上げた。
必死の形相で走っている男には、周囲を気にする余裕などなかった。
狭い路地だというのに、すぐ前方にある人影たちを全く認識していない。
まさに一心不乱といった状態だ。
その迫力に押されたのか、彼らは道を譲る形で壁際に身を寄せる。
男はそこでようやく自分以外の人物の存在に気が付いた。
すれ違った刹那、楽しげな翠の瞳が三日月に歪むのを見る。
「おっと、悪ぃな」
わざとらしい戯けた声の後、彼は足元に強い衝撃を受けた。
勢いよく身体が吹っ飛び、堅い地面の上に突っ伏す形で叩き付けられる。
「うぐっ!!」
喉が潰れそうな呻きをあげ、持っていた刃物が鈍い音を立てて転がっていく。
彼は自分の身に何が起きたのか、すぐには分からなかった。
痛みに顔を歪ませ、のろのろと起き上がろうとする。
だが、その瞬間。
「──大人しくしろ!」
容赦のない重みが背中を襲う。
抵抗する間もなく床に押さえ付けられ、片腕を後ろへ捻られた。
鋭く引き締まった男の声が、耳の奥を突き抜けていった。
双剣を振り払った視界の片隅に、逃走を謀ろうとするリーダー格の男が飛び込んできた。
「くそがっ!」
思いきり吐き捨てながら、刃を鞘に収めて追いかける。
「おい、三号!逃がすんじゃねぇぞ!!」
後方からのプレッシャーを受けた両足が更に速度を上げた。
自分と相手の力量を鑑みれば、この距離なら確実に身柄を抑えられる。
そう判断したアーロンだったが、
「チッ!なんだよ、あの野郎どもは!」
唐突に路地の先で始まった取り押さえ劇を見て、柳眉を逆立てた。
「おい!余計なことしてんじゃねぇよ!!」
獲物を横取りされた獰猛な獣のごとく、アローンは二人組の男に牙を剥く。
「あぁ、やっぱり。ただの喧嘩じゃなかったみたいだ」
彼の標的を組み伏せている茶髪の青年は、穏やかな口調できつい怒声を見上げた。
その落ち着いた表情にカッとなり、収めた刃の柄に手がかかる。
「──まぁ、落ち着けよ。こっちは丸腰だぜ?」
そこへ、赤とオレンジの色彩が音もなく割り込んできた。
身動きが取れない青年を背にして、守るかのような立ち位置を取る。
がっしりとした体格と隙のない振る舞い。
一見して軟派な風貌だが、とても一般人とは思えなかった。
言葉とは裏腹、緩んだ笑みの中に挑発じみた色が見え隠れする。
「……てめぇら、何者だ」
それを感じ取ったアーロンの金彩が強い煌めきを放った。
一触即発。そんな言葉が脳裏を過ぎる。
どことなく楽しげな相棒の背中を見上げ、ロイドは密かに溜息を吐いた。
(はぁ……俺はできるだけ穏便に済ませたいんだけどなぁ)
いつまでもこの男を抑えているわけにもいかない。
先方が彼を追ってきたのを考えれば、すんなりと引き渡した方が良いはずだ。
どうしたものかと思案していると、戦闘が起きていた場所からもう一人の男が走ってきた。
「アーロン!抜くんじゃねぇ」
彼は残りの三人を難なく地面に沈めてきたようだ。
撃剣を肩に担いで近づいてきたその姿に、ロイドは目を丸くした。
(あっ、もしかして……彼らは)
ランディの背中越しに相対する青年を覗い、その後方にいる男へと視線を戻す。
緋色と蒼黒を纏った男たちの正体にはすぐに見当がついた。
そこで、ようやく組み伏せていた男を解放する。
派手に飛ばされた身体には、打撲と擦り傷がいくつもできていた。
小さな呻き声を上げて力なく転がっている状態では、再び逃亡するおそれはないだろう。
ロイドは彼の身を路地の壁際に預けてから立ち上がった。
「すまなかった。余計なお世話だったみたいだな」
数歩分だけ前へ進み出て、ランディの真横に並び立つ。
殺気を放つ相手とは真っ向から対峙しつつ、爽やかな笑顔を投げかけた。
「……はぁ?」
アーロンは思わず口が半開きになってしまった。
予想外に素直な謝罪のせいで、あっさりと緊迫感が薄らいでいく。
溜飲が下がるというよりも、呆気にとられて怒気が消沈した形だ。
「くくっ、面白いだろ?俺の相棒は潔いのが玉にキズってな」
それを傍観していたランディは可笑しげに肩を揺らしたが、ふと何かに思い当たって隣の青年を見た。
「なぁ、ロイド。こいつらってあれか?リーシャちゃんが言ってた」
「そうだ。まさか、こんな所で会えるとは思ってなかったけど」
ロイドはそう言いながら、息も切らせずに走ってきた紺青の男を見つめた。
「……ったく、それはこっちの台詞だぜ」
真っ直ぐで何の淀みもない瞳の圧は、どうにも居心地が悪い。
彼はそれを誤魔化すように小さく首を鳴らし、苦笑いを浮かべた。
「おい、ヴァン。てめぇの知り合いかよ?」
すると、少しだけ険の取れたアーロンが胡散臭げに尋ねてくる。
「あー、間接的には……だけどな。クロスベルの再事変って言えば分かるだろ?」
ヴァンは何となく言葉を濁したが、この聡い青年ならすぐに察しが付くだろうと確信していた。
案の定、アーロンはすぐさま驚きを露わにし、目の前に立っている男たちを凝視したのだった。
今は本当に偶然が重なり合っただけの状況だ。
予定していた顔合わせではなく、情報交換をする必要性もない。
ただ単に、街中ですれ違ったというだけ。
本音を言えば少し話をしてみたいところだったが、今は時期尚早だろう。
裏解決屋の二人も、そこまで踏み込んでくるつもりはないようだ。
「改めて、俺はロイド・バニングス。出張でイーディスに来ている身だ。君たちに会えて嬉しいよ」
それを踏まえた上で、彼は律儀に自己紹介をした。最低限の情報を言葉に紛れ込ませながら。
「こっちは相棒の……」
「あ~、わざわざ言わなくていいっつーの。あっちも分かってんだからよ」
いつどこにいても彼の真面目さは変わらないが、それは長所であり短所でもある。
ランディは面倒くさそうに手の平をひらひらと振った。
「……いかにも優等生ってツラしてんな。しかも天然かよ、こいつ」
そこへ、刺々しさを隠そうともしない勝ち気な声が向けられる。
さっきの潔さといい、どうにも調子が狂わされてばかりで苛立たしかった。
「おっ、おい!喧嘩売ってんじゃねぇ」
慌てたヴァンが、暴走しそうな助手の肩を掴んで止めようとする。
しかし、ロイドの方は微塵も気にしていない素振りだった。
「君は……あぁ、そう言えばリーシャが『とても舞台に映える』って」
興味深げにアーロンへ近づき、まじまじと彼の整った顔面を覗き込む。
「確かに華があるっていうか。う~ん、カッコイイなぁ」
「はっ……そりゃ、当然だろ」
感嘆の眼差しを注がれたアーロンは、わずかに狼狽えながらもキッパリと肯定した。
「これで技量も一流だって言うんだから、凄いよな。一度華劇場に──っ、うわ!?」
更に言葉を続けるロイドだったが、
「おい、こら!こんなとこでたらし込んでるんじゃねぇよ!」
突如、強い一声を放ったランディに襟首を掴まれ、役者の青年から引き剥がされてしまった。
「な、なんだよ!?急に!」
「外国だからって油断しちまったぜ。ほら、そろそろ行くぞ」
もう片方の腕で強引に抱き寄せられてしまえば、抗うのはなかなか難しい。
やはり、体格や腕力の面ではランディの方が有利だ。
「騒がしくしちまって悪ぃな。俺たちは退散させてもらうぜ」
彼は呆然としている裏解決屋の二人へを愛想笑い振りまき、陽気に片手を上げた。
「それじゃぁな~」
そして、さっさと別れの挨拶を告げながら来た道を引き返していく。
「待てよ、ランディ!俺、まだ挨拶してないし!!」
不本意な退場を余儀なくされ、半分は引きずられている状態のロイドが抗議の声を上げる。
普段は人気が少なく静かなはずの裏路地に、それは見事な反響音を残した。
雑踏の賑わいから離れた薄暗い空間の中で、二人はしばらく立ち尽くしていた。
壁に寄りかかっている男の呻き声が聞こえ、ハッと我に返る。
「……あいつら、本人か?」
まるで嵐が去った後のようだった。
逃げた男を取り押さえていた時の面構えと、さっきの緩みまくった騒ぎようでは、まるで印象が違っている。
「だと思うんだが」
アーロンに問われたヴァンは、つい自信がなさそうな返答をしてしまった。
出張とは言っていたが、公私を使い分けているのかと言えば微妙なところだ。
「なんつーか、情報として聞いていた以上に人たらしだな……」
自分のことは棚に上げ、ヴァンの唇が小さく動いた。
ロイドがアーロンに向けた言葉には、なんの含みも感じられなかった。
あれは疑いようもなく本当に心からの賞賛だ。
「……ん?」
だが、直後に豹変したランディの言動が脳裏を掠め、とある可能性に思い当たる。
途端に両目を丸くした。
「あ~、そういうことか」
ヴァンはその理由に合点がいった様子で大きく頷いた。
「オッサン。一人で納得してんじゃねぇよ」
「あの二人、相棒同士らしいが……それだけじゃなさそうだ」
不満げなアーロンの声に応じた彼は、苦笑交じりの顔をする。
「お前に構っている相方が面白くない。独占欲剥き出しで嫉妬するような間柄ってことだな」
「なんだよ、つまりはデキてるってわけ?」
それが意外だったのか、助手の青年は金色の瞳を忙しなく瞬かせた。
言われてみれば確かに納得する部分はある。
だが、さっきの二人が恋人同士に見えたか?と問われれば、答えは否だった。
「……マジかよ」
「あいつらの中には色んな関係性が混在してるってことだろ」
ヴァンは当たり障りなく話をまとめ、本来の目的である男の元に屈み込んだ。
負傷の具合を確かめつつ、ポケットから携帯端末を取り出す。
どうやら、どこかへ連絡を取るつもりのようだ。
「さっきのお前……何気に絆されてたよな」
おもむろに端末を操作し始めたところで、ふと小さな愚痴が零れ落ちた。
「おいおい、ヴァン。てめぇも嫉妬かよ?ウゼェな」
「うるせぇ。ただの独り言だ」
辛辣に笑い飛ばされ、拗ねたような素振りで言葉を吐き捨てる。
アーロンはそんな姿を眺めやりながら、密かに笑みを浮かべた。
それは口先だけのこと。
彼にそんな感情を向けられて嫌な気分になるはずがなかった。
あの後、怒りを露わにした相棒を宥めるにひと苦労した。
明日の決行は朝ということもあって早めの夕食を取ったが、恨めしげな愚痴や文句が食事の共となった。
ロイドがご立腹なのは、去り際の挨拶をまともにできなかったからだ。
真面目で律儀な彼は、礼を欠いたと感じているのだろう。
それに対してランディは、あれで二人分の挨拶をしたつもりだった。
裏解決屋の彼らもそんなことを気にする質だとは思えない。
「珍しく荒れやがったな。相手が相手だからかねぇ。まぁ、俺も強引すぎたけどな……」
ホテルの一室に戻ってきた直後の彼らは、明らかにぎこちない雰囲気だった。
ランディはそのままシャワールームに直行し、頭から熱い湯を一気に浴びて今に至る。
一人になれば、どうしても先刻の出来事を反芻してしまう。
脱衣所の鏡に映る顔は、自虐を露わにして歪んでいた。
あの時の感情は嫉妬以外の何ものでもない。
ロイドの天然ぶりは今に始まったことではないのに、一瞬で頭に血が上った。
暢気に他の男をカッコイイと褒める唇が気に入らなかった。
それこそ、強引に塞いでしまいたくなるくらいに。
「……やっぱり付いてきて正解だったぜ」
頭から大判のタオルを被り、滴る水気を少しばかり乱暴に拭い取る。
「あれはどう考えても悪癖だろ。もうちょいどうにかならねぇのかよ」
彼とて大人げない言動だったと反省しているし、夕食の席ではロイドに詫びた。
けれど、愚痴の一つも言いたくなってしまうのは仕方がない。
ランディは鏡の前でぼやきながら髪を乾かし、ようやく相棒の元へ足を向けた。
柔らかな明かりが室内を照らし出している。
部屋の作りはいたってシンプルだ。
二台のベッドが横並びに設置され、窓際にはテーブルと椅子が一組だけ。
ロイドはその椅子に座り、トンファーの手入れをしていた。
丁寧に磨き込みつつ、合間に窓からの夜景を眺めている。
「──そろそろ頭が切り替わったんじゃねぇの?」
その落ち着いた横顔を見たランディは、静かに声をかけた。
ロイドはきちんと己を律することができる男だ。
一時の感情を未練たらしく引きずり、肝心の職務に支障をきたすような真似はしない。
だから、ホテルへ戻ってきてからはすぐに放置を決め込んだ。
今は少し時間が必要だろうと配慮した。
「……そうだな。ありがとう、ランディ」
タオルを肩にかけたままでベッドへ向かい、ゆったりと腰を下ろす。
その動作を目で追っていたロイドの頬がわずかに綻んだ。
この男が速攻でシャワールームへ向かった意図が解ってしまったからだ。
さり気ない気遣いを感じれば、それだけで胸の奥が温かくなる。
素直な感謝の言葉に飾り気などはなく、それを受けたランディはすぐに居心地が悪くなってしまった。
「もう一仕事終えちまった気分だぜ。なかなか濃い時間だったつーか」
気恥ずかしさを誤魔化したいのか、勢いよく仰向けになってベッドに転がってみる。
「あれはさすがに俺も驚いたな。出張じゃなかったら、ゆっくり話してみたかった」
「なかなかクセの強そうな奴らだけどなぁ」
彼らは裏路地での邂逅を思い返しながら笑い合う。
勝ち気で我の強そうなアーロンは、その外見も相まって鮮烈な印象を焼き付けてきた。
直情的だが聡い部分が見え隠れする。それは諸々の言動からも窺えた。
ヴァンの方は落ち着いた風貌だが、深みのある双眼の先は読めず、湾曲した色彩を揺らめかせていた。明らかに一筋縄ではいかない相手だ。搦め手が得意だというのも頷ける。
一見して正反対な二人だが、肩を並べれば様になる。そのアンバランスさが絶妙なスパイスになってた。
「他のメンバーも個性的だって聞いてるし、ますます気になるな」
ロイドは何気なく窓の外を見つめながら小さく呟いた。
武器のメンテナンスが終わり、綺麗に磨いたトンファーをテーブルの上に置く。
「──よし」
完璧な仕上がりだ。満足げに一つ頷く。
そして、不意に椅子から立ち上がり寝転がっている相棒に目を向けた。
「ランディ、明日の準備は?」
随分とのんびりしてる様子が気になった。
ベッドサイドに近づき、起き上がる気配のない身体を見下ろす。
「元々、頭数には入ってないんでな。必要最低限でいいだろ」
心配そうな顔をされたランディは、穏やかな口調で答えた。
今回の案件は、ロイドと共和国側の警察が数名で事足りる。
逆に人数が増えれば動きづらくなる可能性もあるだろう。
彼は昼間の会議には参加したものの、数には入れなくて良いと先手を打っていた。
今回は一歩引いて周囲の警戒をするくらいに留めるつもりだ。
「でも……」
「なんかあればフォローする。まぁ、うちの捜査官どのは優秀なんで問題ねぇだろうがな」
まだ自分の気持ちを納得させられないロイドと、あえて距離を置く姿勢を崩さないランディの視線が絡む。
「仕事は完遂させる。だけど……」
ロイドはきっぱりと言いながらも、眉を顰めた。
一人で良かったはずの出張に付いてきてくれた大切な相棒。
どうせなら、一緒にやつらの潜伏先に突入したいと思ってしまう。
もちろん、彼の言い分は理解しているし、だからこそ会議の場でも異論は唱えなかった。
「なんだよ、一人じゃ寂しい?」
慣れ親しんでいる翠色が、胸中を見透かすように戯けた笑みを浮かべた。
図らずも、夜のひと時にベッドを介して言葉を交わす。
白いシーツの上に広がった赤は鮮やかで、やたらと艶めかしくて目が離せなくなる。
そんなつもりはないのに、見えない手招きをされてるような錯覚に陥った。
「べ、別にそういうわけじゃない」
やましさを隠すかのように、ロイドは勢いよくそっぽを向いた。
「ランディの武器、いつもと違うから……準備とか気になっただけで」
一度咳払いをし、笑ってしまうくらいに分かりやすい話の逸らし方をする。
「あいつは列車移動に不向きだからなぁ。あんま目立ちたくねぇし」
ランディはごく自然な受け答えをして、相手の意図に乗った。
危うい雰囲気になりそうだったが、さすがに引くべき一線は弁えている。
今は出張中で仕事の本番は明日。ベッドの中で仲睦まじく過ごしている場合ではなかった。
「そんなに気になるなら、見てみるか?軽くメンテはするつもりだったからな」
完全に空気を切り替えたランディは、ゆっくりと身体を起こした。
ベッドサイドに立て掛けておいた黒いケースを掴み、窓際のテーブルにそれを置く。
「ほんとか?携帯式のってまだ見たことなくてさ」
椅子に腰掛けてから蓋を開けると、気を取り直したロイドが興味津々で床の上に座り込んできた。
ケースの中には、スタンハルバードの打撃ユニットと柄が別々に収納してある。
「あんま普及してねぇからな。警備隊でもレアらしいぜ」
彼はそう言いながら、手際よく打撃部分と柄の部分を組み立て始めた。
「導力変換ユニットが小振りだな。これでパワーが出るのか?あ、柄の方は折りたたみ式?強度的にはどうなんだ?」
その横から、ロイドが子供のような眼差しで質問攻めをしてくる。
「通常のに比べれば劣るが、実戦での運用に問題はねぇな」
ランディの方はきちんと説明をしているのだが、どうしても笑いが込み上げてくる。
「組み立ててから柄を畳んどけば、移動も楽だし潜伏しやすい。使い勝手は悪くねぇと思うぜ」
あまりに近くで覗き込んでくるので、手元に髪の毛が当たってくすぐったい。
彼はまるでそうするのが当たり前だと言うように、栗色の頭を軽く掻き混ぜた。
「ロイドくんよぉ、何がそんなに楽しいわけ?」
呆れた溜息で問いかけてみると、
「そんなの決まってるだろ。俺はそういう仕草が好きなんだ。ランディが武器の手入れをしてるの好きなんだ」
言葉通りの明るい声が跳ね返ってきた。
「……はいはい」
わざわざ表情を覗わなくても、真っ直ぐな感情が伝わってくる。
言われる側が羞恥にまみれることなんて、まるでお構いなしだ。
クロスベルだろうが共和国だろうが、彼の人となりは変わらない。
引きずられるように裏路地でのたらしっぷりを思い出し、辟易としてしまう。
(こんな所まで来て、俺にまで直球投げてくんのかよ……勘弁してくれ)
ふと、窓越しに行政地区の夜景を流し見る。
静かな夜色のガラスに二人の姿が映り、ランディはそこで諦めた。
傍らに佇んでいるロイドは、揶揄するのも気が引けるほどに幸せそうだ。
そんな雰囲気を壊せるはずもなく、自分の顔が存外に緩んでいる事実には気が付かないふりをした。
明日になってしまえば、完全に仕事モードへ切り替わる。
密輸組織の身柄を取り押さえた後は、そのまま車でクロスベルまで移送する手筈だ。
捜査官であるロイドは同乗が鉄則なので、列車で来た時のような旅行気分とはいかない。
タングラム門で正式な引き渡しの手続きが行われるが、それまでは緊張感を強いられるだろう。
だったら、せめて今だけは。
出張先の夜。ランディはそんな風に想うことを止められなかった。
2022.09.19
#黎畳む
荷物持ちならご自由に
碧・恋人設定
ロイドに買い出しの荷物持ちを頼まれて同行するランディが複雑な心境になってしまう話。
2022年リクエスト④
【文字数:4500】
正直、昼ぐらいまでは惰眠をむさぼりたい気分だった。
昨夜も日課とばかりに歓楽街へ繰り出していたのだが、つい盛り上がってしまい、帰宅した頃には空が白み始めていた。
翌日が久しぶりの休みだということもあって、気が緩んでいたのかもしれない。
ランディは覚めきらない頭のまま、気怠げに朝食を口に運んでいた。
(食ったら軽く寝直してぇなぁ~)
そもそも休日の食事は各々に任されているので、わざわざ揃って食べる必要はない。
とはいえ、この男以外はみな規則正しい生活習慣の持ち主たちだ。
普段よりものんびりしているが、自然と一階に集まって朝の団欒が始まる。
ランディとしては放っておいてくれても構わないのだが、支援課の愛娘はそれを許してはくれなかった。
勢いよく彼の部屋に突撃を敢行し、
「ランディー!おはよー!」
毛布にくるまった大きな身体へ向かって、元気いっぱいに飛び乗ってくるのだった。
「ランディ。荷物持ちしてくれると助かるんだけど」
まだぼんやりとした思考では、交わす会話も右から左になっている。
なんとなく話に加わっていた彼は、頭上から降ってきた影に食事の手を止めた。
「──は?何が?」
テーブル端の席を陣取っている男の横には、朝から明るい表情を浮かべた相棒が立っている。
「なんだよ。食べながら寝てたのか?」
「うちのお姫様は手荒いからなぁ……もうちょい寝かせて欲しかったぜ」
ランディは愚痴を零しつつも、柔らかな口調を崩さない。
辺りを見渡せば、朝の団欒はすでに後片付けの段階に入り、件の少女がちょこちょこと動き回っていた。
「それで、何が助かるって?」
「買い出しの話」
「あぁ、お嬢の荷物持ちってことか」
「……ほんとに寝てたんだな。さっき俺が代わるって言っただろ?」
短いやり取りを経て、ロイドは思いっきり溜息を吐いた。どうにも話が通じない。
もともと、今日の買い出しはエリィが行く予定だった。
しかし、朝食でその話題になり、女性では骨が折れそうな量だと思ったロイドが代わりを買って出たのだ。
しばらく多忙だったせいで、必要な物品のリストアップは多岐に渡っている。
その簡潔な説明を受けたランディは、状況を飲み込むと同時にようやく覚醒した。
「そりゃ、確かになぁ」
「だからさ、俺一人でも持てるけど……一緒に来てくれたら凄く助かる」
今度はしっかり彼の耳に届くはずだと、ロイドは再び同じ言葉を口にした。
朝から爽やかな青年と、朝から怠そうだった男の視線が綺麗に噛み合う。
「おう。そこまで言われちゃ、しょうがねぇな~」
間を置かずして陽気な男の声が室内に響き渡った。
一気に笑み崩れたランディは、どこからどう見ても上機嫌な様相になっていた。
残り一人分の食器がまだ片付いていなかった。
休日は食事の片付けも個々で行うが、時間が重なればついでにということもある。
共同生活は持ちつ持たれつで円滑に保たれているのだ。
今朝はティオが洗い物を一手に引き受けており、痺れを切らして台所から顔を覗かせると、キーアが駆け寄ってきた。
「ねぇ、ねぇ。ロイドたち、一緒に買い出し行くんだって!」
「……ランディさん、チョロすぎます」
最年長の同僚は、緩みまくった顔で朝食の皿にラストスパートをかけている。
さっきまでのかったるそうな食事態度とは雲泥の差で、ロイドからお声がかかったことが一目瞭然だ。
「買い出しであの喜びようは重傷よね」
すると、洗い物を手伝ってくれているエリィが、呆れた声と共に少女たちの元へやって来た。
「まぁ、最近は忙しかったですし……無理もないかと」
特にここ数日は仕事で各地を飛び回っていたので、二人で過ごす時間などなかったのだろう。それを思えば、常日頃のジト目もちょっとくらいは温かい色を覗かせる。
だらだらと食事をしているランディに小言を口にするつもりが、あんな様子を見てしまっては意気消沈だ。
「ティオ~。もうお片付けは終わった?」
そんな彼女のすぐ横で、キーアが問いかけてきた。
「そうですね。取りあえずは」
目線を下げて静かに笑った後、今度はエリィの方を覗ってみる。
「あら、元々『ついで』なのだから構わないわよ」
彼女は身に付けていたエプロンを外し、優しい瞳に少しだけの揶揄を添えて男たちを見た。
「それに、あそこへ声をかけるのは野暮だもの」
軽やかに降りてくる幼い足音を耳にし、ランディが階段へ意識を寄せる。
「ロイドってば、誰かとお話してるみたい。ちょっと待っててくれって言ってたよ」
「そうか。ありがとな、キー坊」
そのまま勢いよく近づいてきたキーアの頭を、大きな手が優しく撫でる。
「えへへっ」
この少女と接してると誰もが自然と柔らかな物腰になってしまう。それはランディも同様だった。
そろそろ買い出しに出かけようかという時間帯。
なかなか一階へ姿を現さないロイドが気になり、キーアが様子を見に行ってくれたところだった。
特に急ぐ用事でもない為、二人はのんびりとしたやり取りを交わして彼を待つ。
「キーアも一緒にお買い物に行きたかったなぁ」
「今日は前からみんなで遊ぶ約束してたんだろ?」
「うん、大聖堂の庭で鬼ごっことかするんだよ!」
キーアがランディの腕に纏わりつき、仔犬のようにじゃれてくる。
「ま、あそこなら安全だな。だったら、買い物はまた今度っつーことで」
「えっと……じゃぁ、後でロイドに言っておかなくちゃ」
少女はぶつぶつと言いながら、ふと赤毛の男を見上げた。
「キーアも荷物持ちしてみた……あれ?」
首が痛くなるくらいに上を向き、高い位置にある彼の表情を観察して首を傾げる。
「おっ、なんだ?」
「ん~、ランディの顔、なんか面白いよ~?」
少しでも近くで見たいのか、精一杯のつま先立ちをして眉間に皺を寄せている。
「なんだ、そりゃ。お兄さんはいつだってカッコイイだろ?」
そんな少女を軽々と抱き上げたランディは、不満を露わにして無邪気な瞳を覗き込んだ。
「う~ん、なんかね、嬉しそうなのに嬉しくなさそう」
するとキーアは、子供らしい語句を並べて率直な印象を口にした。
どうやら、一つの顔の中に正反対の感情が存在しているのが面白いらしい。
彼女は時々、こんな風に相手の心を見透かしてくることがある。
ランディは自分の胸中を的確に言語化されてしまい、思わず目を見開いた。
「あ~、そいつはなぁ……なんつーか、チョロすぎんだろ?俺って顔だな」
けれど、すぐに軽妙な口先で苦笑を浮かべ、誤魔化すように自虐をしてみせるのだった。
中央広場で待ち合わせをしていた子供たちを見送り、二人はようやく買い出しへと向かった。
「こことここを回って、最後に百貨店だな」
ロイドが買い物リストのメモを指差して段取りを確認する。
流麗な文字で見やすく書かれたこのメモは、エリィのお手製である。
几帳面な彼女らしく、店舗の名前から購入品まで細やかに書かれてあった。
「いいんじゃね?妥当なとこだろ」
それを横から覗き込んでいたランディが相槌を打つ。
「よし、買い忘れのないようにしないとな」
今日は久しぶりの買い出しだからと、気合いを入れたロイドが歩き出す。
「はい、はい。しっかりやれよ」
妙な所で力を入れる姿はランディの笑いを誘うのに十分だ。
彼は可笑しげに目を細めながら、久しぶりに添って歩ける幸せを噛みしめていた。
買い物を楽しむというよりは、与えられたミッションをクリアしていく過程を見ているような気がする。
エリィによる完璧なメモのお陰で悩む必要はないし、真面目なロイドのせいで寄り道すらもない。
そうこうしている内に、ランディの両手はしっかりと荷物で塞がっていた。
(これでも嬉しいとか……どんだけ飢えてんだよ、俺は)
活き活きとしているロイドを見つめながら、内心大きな溜息を吐く。
今朝。買い出しのお誘いを受けた時は、まるで脊髄反射の勢いで体温が上がった。
単純に自分を頼ってくれたことが嬉しかったし、二人だけで過ごせる機会を得て気分が高揚したのも事実だ。
ここ数日は特に多忙を極め、プライベートも何もあったものではなかったので尚更だった。
しかし、時間が経って冷静になると、素直には喜びきれない心境に陥ってくる。
──結局はただの荷物持ち。
そういうことである。
日頃からロイドの天然発言で苦労している彼にしてみれば、あの言葉に他意など見出せるはずもなかった。
「──ランディ?また寝てるのか?」
そんなジレンマと対話をしていたランディは、すぐ側で名前を呼ばれて我に返った。
「あぁ?いや、起きてるぜ?」
いつの間にかロイドが目の前に立っていて、どこか気遣わしげな視線を向けてくる。
「それとも、ちょっと持たせすぎか?」
どうやら、急に黙ってしまった彼が心配になったらしい。
覗うような上目遣いをされ、ランディは戯けた態度で口を開く。
「このくらい何ともねぇって。今日はロイドくん専用の荷物持ちだから好きに使えよ」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせると、それで安心したのか、ロイドは小さく息を吐いた。
「ありがとう。あ、でも、一通り回ったら俺も持つからな」
そう言って弾むように頬を緩ませる。
「お、おう……」
だが、久しぶりに恋人の笑顔と対面したランディの方はといえば、感極まってしゃがみ込みたくなる心境だった。
(はぁ~、マジで抱き締めたい。やっぱ嬉しい……荷物持ちでも嬉しい)
両手が塞がっている状態にもどかしさを覚えながらも、喜びは大きい。
もうこの際、ロイドと二人で過ごせるなら何でも良いとすら思う。
先刻、キーアに指摘された『面白い顔』のバランスが、ものの見事に崩れた瞬間だった。
全ての買い物が終わって百貨店を出る頃には、時計の針は昼を回っていた。
ランディの両手は相変わらず塞がったままだが、物量はそれ程でもないようだ。
さっきの言葉通り、ロイドの片手にも大きな紙袋がある。
「結構な量になったな。やっぱり二人で来て正解だった」
快晴の明るい空色に眩しさを覚え、目を細めたロイドが満足げに頷く。
「助かったよ。ランディ」
「お役に立てて何よりだぜ」
律儀にお礼を言われれば、ただでさえ緩み気味な顔が更にだらしなくなる。
思わず噴き出しそうになる男の表情を見つつ、ロイドはさり気なく用事の終わりを延長させた。
「なぁ、昼飯。どっかで食べていかないか?」
「おっ、いいね~」
てっきり買い出しだけだと予想していたランディは、思わぬ幸運で声のトーンを上げる。
「そんじゃ、店はお前に任せるぜ」
この時間帯なら大抵の飲食店は混んでいそうだが、食べる物に拘らなければ問題ないだろう。
「う~ん、そうだなぁ」
思案しながら街中を行くロイドの歩調に合わせ、ランディは浮ついた気分で付き従った。
しかし、彼と過ごせるなら目的は問わないと吹っ切れたはずの心に、未練たらしく僅かな欲が滲み出る。
「買い物してから飯なんて、言葉だけなら可愛いデートなんだよなぁ……」
つい冗談交じりで呟いた独り言のような願望は、傍らにいる恋人の耳にまで届いた。
ロイドがピタリとその場で立ち止まる。
「あの……さ。ちょっとくらいはそういうつもりなんだけど」
久しぶりの休日。雑踏の中で照れながら笑う姿は、いつにも増して破壊力がある。
ランディは両手に持っていた荷物を危うく落としてしまうところだった。
2022.07.18
#碧畳む
碧・恋人設定
ロイドに買い出しの荷物持ちを頼まれて同行するランディが複雑な心境になってしまう話。
2022年リクエスト④
【文字数:4500】
正直、昼ぐらいまでは惰眠をむさぼりたい気分だった。
昨夜も日課とばかりに歓楽街へ繰り出していたのだが、つい盛り上がってしまい、帰宅した頃には空が白み始めていた。
翌日が久しぶりの休みだということもあって、気が緩んでいたのかもしれない。
ランディは覚めきらない頭のまま、気怠げに朝食を口に運んでいた。
(食ったら軽く寝直してぇなぁ~)
そもそも休日の食事は各々に任されているので、わざわざ揃って食べる必要はない。
とはいえ、この男以外はみな規則正しい生活習慣の持ち主たちだ。
普段よりものんびりしているが、自然と一階に集まって朝の団欒が始まる。
ランディとしては放っておいてくれても構わないのだが、支援課の愛娘はそれを許してはくれなかった。
勢いよく彼の部屋に突撃を敢行し、
「ランディー!おはよー!」
毛布にくるまった大きな身体へ向かって、元気いっぱいに飛び乗ってくるのだった。
「ランディ。荷物持ちしてくれると助かるんだけど」
まだぼんやりとした思考では、交わす会話も右から左になっている。
なんとなく話に加わっていた彼は、頭上から降ってきた影に食事の手を止めた。
「──は?何が?」
テーブル端の席を陣取っている男の横には、朝から明るい表情を浮かべた相棒が立っている。
「なんだよ。食べながら寝てたのか?」
「うちのお姫様は手荒いからなぁ……もうちょい寝かせて欲しかったぜ」
ランディは愚痴を零しつつも、柔らかな口調を崩さない。
辺りを見渡せば、朝の団欒はすでに後片付けの段階に入り、件の少女がちょこちょこと動き回っていた。
「それで、何が助かるって?」
「買い出しの話」
「あぁ、お嬢の荷物持ちってことか」
「……ほんとに寝てたんだな。さっき俺が代わるって言っただろ?」
短いやり取りを経て、ロイドは思いっきり溜息を吐いた。どうにも話が通じない。
もともと、今日の買い出しはエリィが行く予定だった。
しかし、朝食でその話題になり、女性では骨が折れそうな量だと思ったロイドが代わりを買って出たのだ。
しばらく多忙だったせいで、必要な物品のリストアップは多岐に渡っている。
その簡潔な説明を受けたランディは、状況を飲み込むと同時にようやく覚醒した。
「そりゃ、確かになぁ」
「だからさ、俺一人でも持てるけど……一緒に来てくれたら凄く助かる」
今度はしっかり彼の耳に届くはずだと、ロイドは再び同じ言葉を口にした。
朝から爽やかな青年と、朝から怠そうだった男の視線が綺麗に噛み合う。
「おう。そこまで言われちゃ、しょうがねぇな~」
間を置かずして陽気な男の声が室内に響き渡った。
一気に笑み崩れたランディは、どこからどう見ても上機嫌な様相になっていた。
残り一人分の食器がまだ片付いていなかった。
休日は食事の片付けも個々で行うが、時間が重なればついでにということもある。
共同生活は持ちつ持たれつで円滑に保たれているのだ。
今朝はティオが洗い物を一手に引き受けており、痺れを切らして台所から顔を覗かせると、キーアが駆け寄ってきた。
「ねぇ、ねぇ。ロイドたち、一緒に買い出し行くんだって!」
「……ランディさん、チョロすぎます」
最年長の同僚は、緩みまくった顔で朝食の皿にラストスパートをかけている。
さっきまでのかったるそうな食事態度とは雲泥の差で、ロイドからお声がかかったことが一目瞭然だ。
「買い出しであの喜びようは重傷よね」
すると、洗い物を手伝ってくれているエリィが、呆れた声と共に少女たちの元へやって来た。
「まぁ、最近は忙しかったですし……無理もないかと」
特にここ数日は仕事で各地を飛び回っていたので、二人で過ごす時間などなかったのだろう。それを思えば、常日頃のジト目もちょっとくらいは温かい色を覗かせる。
だらだらと食事をしているランディに小言を口にするつもりが、あんな様子を見てしまっては意気消沈だ。
「ティオ~。もうお片付けは終わった?」
そんな彼女のすぐ横で、キーアが問いかけてきた。
「そうですね。取りあえずは」
目線を下げて静かに笑った後、今度はエリィの方を覗ってみる。
「あら、元々『ついで』なのだから構わないわよ」
彼女は身に付けていたエプロンを外し、優しい瞳に少しだけの揶揄を添えて男たちを見た。
「それに、あそこへ声をかけるのは野暮だもの」
軽やかに降りてくる幼い足音を耳にし、ランディが階段へ意識を寄せる。
「ロイドってば、誰かとお話してるみたい。ちょっと待っててくれって言ってたよ」
「そうか。ありがとな、キー坊」
そのまま勢いよく近づいてきたキーアの頭を、大きな手が優しく撫でる。
「えへへっ」
この少女と接してると誰もが自然と柔らかな物腰になってしまう。それはランディも同様だった。
そろそろ買い出しに出かけようかという時間帯。
なかなか一階へ姿を現さないロイドが気になり、キーアが様子を見に行ってくれたところだった。
特に急ぐ用事でもない為、二人はのんびりとしたやり取りを交わして彼を待つ。
「キーアも一緒にお買い物に行きたかったなぁ」
「今日は前からみんなで遊ぶ約束してたんだろ?」
「うん、大聖堂の庭で鬼ごっことかするんだよ!」
キーアがランディの腕に纏わりつき、仔犬のようにじゃれてくる。
「ま、あそこなら安全だな。だったら、買い物はまた今度っつーことで」
「えっと……じゃぁ、後でロイドに言っておかなくちゃ」
少女はぶつぶつと言いながら、ふと赤毛の男を見上げた。
「キーアも荷物持ちしてみた……あれ?」
首が痛くなるくらいに上を向き、高い位置にある彼の表情を観察して首を傾げる。
「おっ、なんだ?」
「ん~、ランディの顔、なんか面白いよ~?」
少しでも近くで見たいのか、精一杯のつま先立ちをして眉間に皺を寄せている。
「なんだ、そりゃ。お兄さんはいつだってカッコイイだろ?」
そんな少女を軽々と抱き上げたランディは、不満を露わにして無邪気な瞳を覗き込んだ。
「う~ん、なんかね、嬉しそうなのに嬉しくなさそう」
するとキーアは、子供らしい語句を並べて率直な印象を口にした。
どうやら、一つの顔の中に正反対の感情が存在しているのが面白いらしい。
彼女は時々、こんな風に相手の心を見透かしてくることがある。
ランディは自分の胸中を的確に言語化されてしまい、思わず目を見開いた。
「あ~、そいつはなぁ……なんつーか、チョロすぎんだろ?俺って顔だな」
けれど、すぐに軽妙な口先で苦笑を浮かべ、誤魔化すように自虐をしてみせるのだった。
中央広場で待ち合わせをしていた子供たちを見送り、二人はようやく買い出しへと向かった。
「こことここを回って、最後に百貨店だな」
ロイドが買い物リストのメモを指差して段取りを確認する。
流麗な文字で見やすく書かれたこのメモは、エリィのお手製である。
几帳面な彼女らしく、店舗の名前から購入品まで細やかに書かれてあった。
「いいんじゃね?妥当なとこだろ」
それを横から覗き込んでいたランディが相槌を打つ。
「よし、買い忘れのないようにしないとな」
今日は久しぶりの買い出しだからと、気合いを入れたロイドが歩き出す。
「はい、はい。しっかりやれよ」
妙な所で力を入れる姿はランディの笑いを誘うのに十分だ。
彼は可笑しげに目を細めながら、久しぶりに添って歩ける幸せを噛みしめていた。
買い物を楽しむというよりは、与えられたミッションをクリアしていく過程を見ているような気がする。
エリィによる完璧なメモのお陰で悩む必要はないし、真面目なロイドのせいで寄り道すらもない。
そうこうしている内に、ランディの両手はしっかりと荷物で塞がっていた。
(これでも嬉しいとか……どんだけ飢えてんだよ、俺は)
活き活きとしているロイドを見つめながら、内心大きな溜息を吐く。
今朝。買い出しのお誘いを受けた時は、まるで脊髄反射の勢いで体温が上がった。
単純に自分を頼ってくれたことが嬉しかったし、二人だけで過ごせる機会を得て気分が高揚したのも事実だ。
ここ数日は特に多忙を極め、プライベートも何もあったものではなかったので尚更だった。
しかし、時間が経って冷静になると、素直には喜びきれない心境に陥ってくる。
──結局はただの荷物持ち。
そういうことである。
日頃からロイドの天然発言で苦労している彼にしてみれば、あの言葉に他意など見出せるはずもなかった。
「──ランディ?また寝てるのか?」
そんなジレンマと対話をしていたランディは、すぐ側で名前を呼ばれて我に返った。
「あぁ?いや、起きてるぜ?」
いつの間にかロイドが目の前に立っていて、どこか気遣わしげな視線を向けてくる。
「それとも、ちょっと持たせすぎか?」
どうやら、急に黙ってしまった彼が心配になったらしい。
覗うような上目遣いをされ、ランディは戯けた態度で口を開く。
「このくらい何ともねぇって。今日はロイドくん専用の荷物持ちだから好きに使えよ」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせると、それで安心したのか、ロイドは小さく息を吐いた。
「ありがとう。あ、でも、一通り回ったら俺も持つからな」
そう言って弾むように頬を緩ませる。
「お、おう……」
だが、久しぶりに恋人の笑顔と対面したランディの方はといえば、感極まってしゃがみ込みたくなる心境だった。
(はぁ~、マジで抱き締めたい。やっぱ嬉しい……荷物持ちでも嬉しい)
両手が塞がっている状態にもどかしさを覚えながらも、喜びは大きい。
もうこの際、ロイドと二人で過ごせるなら何でも良いとすら思う。
先刻、キーアに指摘された『面白い顔』のバランスが、ものの見事に崩れた瞬間だった。
全ての買い物が終わって百貨店を出る頃には、時計の針は昼を回っていた。
ランディの両手は相変わらず塞がったままだが、物量はそれ程でもないようだ。
さっきの言葉通り、ロイドの片手にも大きな紙袋がある。
「結構な量になったな。やっぱり二人で来て正解だった」
快晴の明るい空色に眩しさを覚え、目を細めたロイドが満足げに頷く。
「助かったよ。ランディ」
「お役に立てて何よりだぜ」
律儀にお礼を言われれば、ただでさえ緩み気味な顔が更にだらしなくなる。
思わず噴き出しそうになる男の表情を見つつ、ロイドはさり気なく用事の終わりを延長させた。
「なぁ、昼飯。どっかで食べていかないか?」
「おっ、いいね~」
てっきり買い出しだけだと予想していたランディは、思わぬ幸運で声のトーンを上げる。
「そんじゃ、店はお前に任せるぜ」
この時間帯なら大抵の飲食店は混んでいそうだが、食べる物に拘らなければ問題ないだろう。
「う~ん、そうだなぁ」
思案しながら街中を行くロイドの歩調に合わせ、ランディは浮ついた気分で付き従った。
しかし、彼と過ごせるなら目的は問わないと吹っ切れたはずの心に、未練たらしく僅かな欲が滲み出る。
「買い物してから飯なんて、言葉だけなら可愛いデートなんだよなぁ……」
つい冗談交じりで呟いた独り言のような願望は、傍らにいる恋人の耳にまで届いた。
ロイドがピタリとその場で立ち止まる。
「あの……さ。ちょっとくらいはそういうつもりなんだけど」
久しぶりの休日。雑踏の中で照れながら笑う姿は、いつにも増して破壊力がある。
ランディは両手に持っていた荷物を危うく落としてしまうところだった。
2022.07.18
#碧畳む
見たくなかったお前の背中
創・恋人設定
戦闘中につい庇ってしまうロイドと庇われるのには慣れてないランディが喧嘩をする話。
夢幻回廊を探索中でワジとリーシャが同行しています。
2022年リクエスト③
【文字数:6200】
「おい、おい……さすがに群れすぎだろ?」
入り組んだ通路を駆け抜け、少しばかり拓けた場所に出た途端、ランディがげんなりと口を開いた。
視線の先には小型の魔獣たちが所狭しと蠢いている。
「あははっ、パーティーの真っ最中ってところかな?」
両手に装備している武具の調子を確かめ、ワジが楽しげに笑い立てた。
「マジかよ。そのわりには綺麗どころがいねぇじゃねーか」
緊張感がない彼らのやり取りは、まるで潜むことを知らない。
案の定、魔獣たちは一斉に殺気立ち、けたたましい威嚇の音が鳴り響いた。
「何やってんだよ!二人とも」
奇襲どころか先制すらもし損ねて、一行を取り纏めているロイドが二人を睨み付ける。
「ロイドさん、来ます!」
その横で臨戦態勢を取っているリーシャが鋭い声を上げた。
「仕方ないな。正面から迎え撃つ!ワジはアーツでいけるな?」
魔獣の群れが迫る中、ロイドは同僚たちに指示を出す。
「OK、リーダー。広範囲で一網打尽にしてしまおうか」
言うが早いか、ワジは流れるような動作でアーツの駆動に入った。
淡い光が足元から発生し、彼の身を包み込む。
かなり高位のアーツを使うつもりのようだと、皆が肌感覚で捉えていた。
「リーシャ、周囲を頼む!」
「はい、お任せ下さい!」
精神統一をしている仲間の安全を考慮した後、ロイドはようやく相棒の方を見た。
「行くぞ、ランディ!」
「おうよ!パーティーに乱入と洒落込もうぜ!」
真剣な表情をしているリーダーとは対照的で、赤毛の男は嬉々として目を輝かせた。
先陣を切った足が走り、重量級のスタンハルバードが唸りをあげる。
大きく真横に薙ぎ払えば炎の軌跡が弧を描き、密集している魔獣たちを一気に吹き飛ばした。
「ロイド、あんまり突っ込むんじゃねーぞ」
「そっちこそ、懐に入られるなよ」
互いの戦闘スタイルを熟知しているからこその応酬。
数多の戦場を共にしてきた彼らの息はぴったりだった。
相手の動きが手に取るように分かる。それこそ目を閉じていても支障がないくらいに。
――だから、その瞬間はあまりにも自然すぎた。
地面に打痕を刻み、後方からの強襲を振り向きざまに対処しようとする。
その刹那、視界の端を栗色の頭がかすめた。
「危ない!ランディ!!」
鈍い音と共に名前を呼ばれ、赤毛の男は目をむいた。
数に物を言わせて急接近してくる魔獣たちの歯牙を、ロイドが正面から受け止める。
間髪を入れずに身体を旋回させ、一対のトンファーが風刃と化した。
巻き込んだ数体を地に沈めたのも一時、流れるような動作で次の相手に打撃を繰り出す。
「──は?今の」
ランディは無意識に相棒と連動しながらも、ちりちりと焼け付く何かが込み上げてくるのを感じた。
だが、そんなわだかまりが生じた直後、真上の空が黄金色に輝く。
「さぁ、宴もお開きといこうか」
ワジの高らかな声が響き渡り、神々しくも威圧的な剣たちが容赦なく地面へと降り注ぐ。
その爆発的なエネルギーの奔流は、群れを成していた魔獣たちを跡形もなく消し飛ばした。
有言実行とばかりに敵を一掃した仲間へ、ロイドとリーシャから労いの言葉がかけられる。
しかし、ランディは一人腑に落ちない顔で顎に手を当てていた。
「……さっきの、庇われたのか?」
声に出した途端、胸中が不快な色に染まっていく。
正面切って堂々と庇われたわけではなく、あくまで混戦状態だった一連の流れからの動きだ。
けれど、自分に向けられていた敵意をロイドが肩代わりしていたのは確かだった。
先刻の群れよりもはるかに強いプレッシャーが一行に向けられていた。
ひとたび巨体からの咆吼が轟けば、ビリビリとした強い振動が全身を襲う。
美しくも威風堂々たる姿の幻獣だ。
今度はワジのみならず、リーシャの方もアーツの駆動に入っていた。
二人が攻撃の標的にされるのを防ぐため、ロイドとランディが前線を張っている。
立て続けに、鋭い凶刃がロイドへと振り下ろされた。
「ぐっ……う!」
防御の構えを取った身体に、強烈な重みが容赦なく襲いかかる。
両足で踏ん張り、吹き飛ばされそうになるのをなんとか凌いだ。
「おい!てめぇの相手はこっちだ!!」
そこへ、赤い闘気を纏う一撃が敵の側面に打ち込まれた。
幻獣は不意打ちを食らって激昂したのか、即座に赤毛の男へと的を切り替える。
「俺の相棒に色目使ってんじゃねぇよ」
臆するどころかギラついた眼光をしたランディが、不敵に唇を歪めてみせた。
敵を引き付ける役目には自分の方が相応しい。
確かにロイドの防御力は優れているが、体力面で言えばランディの方に分がある。
そして、何よりも。
支援課の柱であり相棒であり──大切な恋人である彼を矢面に立たせることが嫌だった。
「なんなら、タイマンでもいいんだぜ?」
「ランディ!」
真っ向から交戦状態に入ったランディの姿を見て、ロイドが叫ぶ。
彼のポテンシャルを考えればそこまでの危機感はないのだが、戦場での油断は禁物だ。
リーダとしての冷静な頭が戦況を俯瞰する。
ちらりと後方を覗えば、丁度リーシャのアーツが放たれる所だった。
「行きます!」
凜としたかけ声に誘われて鈍色の暗雲が一面に広がった。
不気味な空の唸りと地を這う振動が歌い、長大な建造物が瞬く間にせり上がる。
上層部からの一斉砲火が、地面を引き裂くほどの威力で幻獣へと襲いかかった。
その余波が収まるよりも早く、ワジが時間差で全く同じアーツを発動させて畳み掛ける。
「これはどうだい?」
二人の攻撃は確実に相手の弱点を突き、巨躯の膝を付かせる程の大ダメージを与えた。
「流石だぜ、お二人さん!」
ランディは軽く口笛を吹きながら、一端後ろへ飛び退いた。
仲間の集中砲火で少しは溜飲が下がったのかもしれない。
だが、その直後。
痛みに我を忘れた幻獣が、絶叫を上げて彼に襲いかかってきた。
「やらせない!!」
切迫したロイドの声が地面を蹴り出す足と重なる。
金属のような鋭い爪と硬質なトンファーがぶつかり合い、大きな音が響いた。
「──っ!?」
いきなり面前で広がった相棒の後ろ姿に、ランディは息を詰まらせた。
既視感。
頭の中で今よりも小さかったロイドの背中がフラッシュバックする。
久しぶりに粉塵と血の匂いを嗅いだような気がした。
マインツの山道でベルゼルガーが真っ二つに砕けた衝撃と。
獰猛な従姉妹と自分の間に割って入ってきた無鉄砲で熱すぎる姿と。
情けないくらいに中途半端で、みっともない姿を曝け出してしまったあの時のことを。
軋むくらいに奥を噛みしめる憤りは、誰に対してなのか?
先刻の戦闘とは違い、明らかに庇われている。
もやもやとしていた胸中の淀みが、一気に沸点を超えた。
「くそがっ!」
激情した彼は片手でロイドの肩を掴み、乱暴に自分の前から押し退けた。
そのまま無言で弱っている巨躯に突進し、猛り狂った焔を容赦なく叩き付ける。
辺り一面の空気を裂くような断末魔が、男の耳を貫いた。
「ロイド!何で庇いやがった!?」
幻獣が消滅していく様を見届ける間もなく、ランディは年下の相棒に詰め寄った。
襟首を掴まれたロイドは突然の激昂に驚き、睨み付けてくる彼を凝視する。
「何でって……」
そんなことを問われても上手く説明ができない。
あの状況は不意打ちでも何でもなかった。
ランディの意識はしっかりと相手に向けられていたし、彼ならば手負いの猛攻を最小限のダメージで凌いでいただろう。
「大丈夫だとは思ったけど」
だが、冷静な頭とは裏腹で身体は勝手に動き出してしまった。
「余計なことをするな。てめぇの背中なんか見たくもねぇんだよ」
上から降ってくる低音が、腹の奥にずしりと響いた。
なまじ荒ぶるよりも数段上の凄みがある。
ロイドはわずかに怯んだが、それも一瞬だった。
気聞き捨てならない台詞に、カッと全身が熱くなる。
「何だよ、それ!俺がランディを庇ったら駄目なのか!?」
首元を締め上げてくる腕を掴み、爪が食い込むほど強く指先に力を込める。
「相棒なら対等だろ!背中を見るのも見せられるのも!」
「そういう問題じゃねぇ!」
「だったら、どういう問題なんだよ!?」
互いを掴んだままの口論はヒートアップし、収拾が付かなくなってきた。
挙げ句の果てに罵詈雑言までもが飛び交い始め、それまで静観していたワジとリーシャは顔を見合わせた。
「やれやれ、お熱くなっちゃって……」
「どうしましょう?こんな時に限ってエリィさんやティオさんが居ないなんて」
やはり頼りになるのは、初期からの支援課メンバーたちである。
特にその場の乱れを正すエリィの雷は効果覿面だ。
「う~ん、ここはやっぱり彼女に習って荒療治といこうか」
心底困り果てた表情をしているリーシャに対し、ワジは名案が浮かんだとばかりに意地悪げな微笑をみせた。
そもそも彼女は控えめな性格なのだから、到底乗り気になれるはずがない。
しかし、このまま夢幻回廊の真っ只中で足止めを食うのも本意ではなかった。
「……ごめんなさい。二人とも」
リーシャは小さな謝罪をして、一つ息を吸った。
懐から暗器を取り出し、加熱する両者の足元に狙いを定める。
「──はっ!」
鋭利な銀色が空気を切り裂き、丁度彼らの間を割って地面に突き刺さった。
それは、エリィの一喝と遜色はない。
周りが見えなくなっていた男たちの応酬はピタリと止み、まるで機械仕掛けのように刃が飛んできた方へ首を向ける。
「あ、あの、すいません」
「あははっ、リーシャが怒ってるよ。先に進めないってさ」
瞬間冷凍された二人の表情は実に愉快で、ワジが軽やかな笑い声を立てる。
「ち、違います!ワジさんったら」
その横でリーシャが必死に抗議をするも、彼は余裕綽々で自らの髪を軽く払っただけだった。
結局、少し距離を置いた方が良いというワジの提案で、一時的に彼らの戦術リンクを外すことになった。
今の状態では、連携の強化が逆効果になりかねない。
ロイドとランディは互いに口をきこうともせず、一行は回廊の探索を再開させた。
だが、度重なる戦闘で武器を振るうも、二人の間にはどこかぎこちなさが残る。
大きな支障はないにせよ、普段に比べれば精彩を欠いているのは明らかだった。
ランディはリーシャと戦術リンクを結んでいる。
共に卓越した戦闘能力を有している二人の手並みは見事だ。
「ランディさん、そちらはお願いします!」
「おっしゃ、まかせとけ!」
迫り来る魔獣たちを危なげなく薙ぎ倒していく。
それを横目にしているロイドは明らかにご機嫌斜めだった。
彼の瞳には二人の様子がとても楽しげに映っていることだろう。
(やれやれ、思いっきり顔に出まくっているよねぇ)
ロイドの心情が手に取るように分かってしまい、ワジは密かに肩を竦ませた。
このメンバー構成であれば、どうしてもアーツを主体とする機会が増えてくる。
戦闘が始まり駆動の体勢に入ったワジを気にかけ、ロイドがトンファーを振るっていた。
リンクを繋いでいる影響もあってか、その安心感は計り知れない。
「ワジ、大丈夫か?」
「ふふっ、問題ないよ。君に守って貰えるなんて嬉しいね」
発動直後の隙を狙われたワジをすかさずロイドが庇う。
彼の性質からしても、アーツを使う仲間との相性は良いようだ。
不意にそのやり取りを目撃してしまったランディが、無意識の舌打ちをする。
(えっと……ランディさん、とっても分かりやすいです)
リーシャはこの男が胸中で漏らした言葉をすぐに察してしまった。
面白くない。つまりはそういうことだ。
この階層の終着地点はもうすぐだ。
いい加減に仲直りをして欲しいものだと、同僚たちが目配せをした矢先。
現状に耐えきれなくなったのか、ロイドが動き出した。
「……ランディ。俺、やっぱり一緒がいい」
歩み寄ってきた最初の言葉に、ランディはさほど驚かなかった。
二人の頭からは感情的な昂ぶりが抜け落ち、今なら面と向かって対話ができる。
「でも、どうしてあんなに怒ったのかだけは聞かせて欲しい」
こんな時、ロイドは真っ直ぐで強い瞳を向けてくる。
どうやっても逃げられないそれが、ランディは苦手だった。
「あ~、その目は反則だ」
ガシガシと頭を掻き、そっぽを向いて唇を小さく動かす。
「既視感っつーかさ、嫌なこと思い出しちまったんだよ。お前の背中を見て」
「嫌なこと?」
オウム返しで小首を傾げた相棒を直視できず、苦い顔で目を閉じる。
「マインツで俺の獲物が真っ二つになった時……飛び出してきただろ」
彼は事細かに語ろうとはしないが、ロイドにはしっかり伝わっているようだった。
「──あっ」
すぐに小さな声が上がった。
あの一件を忘れられるはずがない。
シャーリィのテスタロッサが狂気を放つ中、無我夢中で二人の争いに割り込んだ。
今思えば、仲間の身を案じる感情だけが手足を動かしていたのだろう。
ただ、ただ、ランディを失いたくない一心で。
「ごめん……俺」
ロイドはそれ以上言葉を続けられなくなった。
身体が勝手に動いたとはいえ、自分の行動が彼の過去を蒸し返してしまったのは確かだ。
気持ちが沈み、肩を落として黙り込む。
そんな彼の頭上から、静かな声音が降ってきた。
「馬鹿、お前のせいじゃねぇよ。完全に俺の八つ当たりだ」
閉じていた翠の両眼を開けば、視界に癖のある栗色の髪が広がった。
詫びる意味を込めてくしゃりと髪を掻き混ぜ、ランディが自嘲気味に笑う。
「悪かったな」
武骨な指先は、思いのほか優しかった。
くすぐったそうに首を竦めたロイドが、上目遣いで男の様子を覗う。
「あ……うん。でも、俺、またランディのこと庇うかもしれないぞ?」
こと戦闘面に関して言えば、いつだって彼の方に雄がある。
さり気ないフォローは的確で、そんな姿に羨望と少しばかりの悔しさが入り混じる。
対等に肩を並べて立つならば、自分にだってこの相棒を補える部分があるのだと証明したい。
そんな一方的な思いもあり、身体は勝手に動き出すはずだ。
「ランディは凄くタフだし、大丈夫だって分かってるんだけどさ」
ロイドは言外に「ごめんな」と、眉尻を下げた。
もしかしたら、何度も嫌な思いをさせてしまうかもしれない。
「だったら、その直感を信じろよ」
そんな彼に対し、ランディは静かにはっきりと応じた。
触り心地のいい頭部をわざと乱暴に掻き乱す。
この素直な口から打たれた先手は、きっといつもの天然節なのだろう。
元から自分の方に非がある上、そう言われてしまってはどうしようもない。
彼は一端ロイドから手を離し、改めて目の前の童顔に指先を伸ばした。
「まぁ、どうしようもねぇ時は庇われてやるからよ。頼むぜ、相棒」
不器用な表情を形作る頬に触れ、軽く叩きながら微笑する様は穏やかだった。
少し離れた所で渦中の人物たちを覗っていた二人は、互いに安堵した様子だった。
「……まったく、人騒がせな痴話喧嘩だよね」
「やっぱりロイドさんとランディさんは仲良しなのが一番です」
「それは同感かな。あれじゃ、からかい甲斐がないからね」
ワジが端末を取り出してカバーを開くと、リーシャも同じような動作をした。
仲直りをした彼らが開口一番に言うであろう台詞が、容易に想像できてしまう。
「この階層もあと一戦ですね。ワジさん、よろしくお願いします」
「こちらこそ。前線は彼らが楽しそうに暴れてくれるはずだから、任せちゃっていいんじゃない?」
律儀な言葉に戯けた返事が重なり、つい小さな笑みが零れ落ちる。
そんな二人の瞳には、合流しようとして歩いてくる男たちの姿が映っていた。
2022.07.03
#創畳む
創・恋人設定
戦闘中につい庇ってしまうロイドと庇われるのには慣れてないランディが喧嘩をする話。
夢幻回廊を探索中でワジとリーシャが同行しています。
2022年リクエスト③
【文字数:6200】
「おい、おい……さすがに群れすぎだろ?」
入り組んだ通路を駆け抜け、少しばかり拓けた場所に出た途端、ランディがげんなりと口を開いた。
視線の先には小型の魔獣たちが所狭しと蠢いている。
「あははっ、パーティーの真っ最中ってところかな?」
両手に装備している武具の調子を確かめ、ワジが楽しげに笑い立てた。
「マジかよ。そのわりには綺麗どころがいねぇじゃねーか」
緊張感がない彼らのやり取りは、まるで潜むことを知らない。
案の定、魔獣たちは一斉に殺気立ち、けたたましい威嚇の音が鳴り響いた。
「何やってんだよ!二人とも」
奇襲どころか先制すらもし損ねて、一行を取り纏めているロイドが二人を睨み付ける。
「ロイドさん、来ます!」
その横で臨戦態勢を取っているリーシャが鋭い声を上げた。
「仕方ないな。正面から迎え撃つ!ワジはアーツでいけるな?」
魔獣の群れが迫る中、ロイドは同僚たちに指示を出す。
「OK、リーダー。広範囲で一網打尽にしてしまおうか」
言うが早いか、ワジは流れるような動作でアーツの駆動に入った。
淡い光が足元から発生し、彼の身を包み込む。
かなり高位のアーツを使うつもりのようだと、皆が肌感覚で捉えていた。
「リーシャ、周囲を頼む!」
「はい、お任せ下さい!」
精神統一をしている仲間の安全を考慮した後、ロイドはようやく相棒の方を見た。
「行くぞ、ランディ!」
「おうよ!パーティーに乱入と洒落込もうぜ!」
真剣な表情をしているリーダーとは対照的で、赤毛の男は嬉々として目を輝かせた。
先陣を切った足が走り、重量級のスタンハルバードが唸りをあげる。
大きく真横に薙ぎ払えば炎の軌跡が弧を描き、密集している魔獣たちを一気に吹き飛ばした。
「ロイド、あんまり突っ込むんじゃねーぞ」
「そっちこそ、懐に入られるなよ」
互いの戦闘スタイルを熟知しているからこその応酬。
数多の戦場を共にしてきた彼らの息はぴったりだった。
相手の動きが手に取るように分かる。それこそ目を閉じていても支障がないくらいに。
――だから、その瞬間はあまりにも自然すぎた。
地面に打痕を刻み、後方からの強襲を振り向きざまに対処しようとする。
その刹那、視界の端を栗色の頭がかすめた。
「危ない!ランディ!!」
鈍い音と共に名前を呼ばれ、赤毛の男は目をむいた。
数に物を言わせて急接近してくる魔獣たちの歯牙を、ロイドが正面から受け止める。
間髪を入れずに身体を旋回させ、一対のトンファーが風刃と化した。
巻き込んだ数体を地に沈めたのも一時、流れるような動作で次の相手に打撃を繰り出す。
「──は?今の」
ランディは無意識に相棒と連動しながらも、ちりちりと焼け付く何かが込み上げてくるのを感じた。
だが、そんなわだかまりが生じた直後、真上の空が黄金色に輝く。
「さぁ、宴もお開きといこうか」
ワジの高らかな声が響き渡り、神々しくも威圧的な剣たちが容赦なく地面へと降り注ぐ。
その爆発的なエネルギーの奔流は、群れを成していた魔獣たちを跡形もなく消し飛ばした。
有言実行とばかりに敵を一掃した仲間へ、ロイドとリーシャから労いの言葉がかけられる。
しかし、ランディは一人腑に落ちない顔で顎に手を当てていた。
「……さっきの、庇われたのか?」
声に出した途端、胸中が不快な色に染まっていく。
正面切って堂々と庇われたわけではなく、あくまで混戦状態だった一連の流れからの動きだ。
けれど、自分に向けられていた敵意をロイドが肩代わりしていたのは確かだった。
先刻の群れよりもはるかに強いプレッシャーが一行に向けられていた。
ひとたび巨体からの咆吼が轟けば、ビリビリとした強い振動が全身を襲う。
美しくも威風堂々たる姿の幻獣だ。
今度はワジのみならず、リーシャの方もアーツの駆動に入っていた。
二人が攻撃の標的にされるのを防ぐため、ロイドとランディが前線を張っている。
立て続けに、鋭い凶刃がロイドへと振り下ろされた。
「ぐっ……う!」
防御の構えを取った身体に、強烈な重みが容赦なく襲いかかる。
両足で踏ん張り、吹き飛ばされそうになるのをなんとか凌いだ。
「おい!てめぇの相手はこっちだ!!」
そこへ、赤い闘気を纏う一撃が敵の側面に打ち込まれた。
幻獣は不意打ちを食らって激昂したのか、即座に赤毛の男へと的を切り替える。
「俺の相棒に色目使ってんじゃねぇよ」
臆するどころかギラついた眼光をしたランディが、不敵に唇を歪めてみせた。
敵を引き付ける役目には自分の方が相応しい。
確かにロイドの防御力は優れているが、体力面で言えばランディの方に分がある。
そして、何よりも。
支援課の柱であり相棒であり──大切な恋人である彼を矢面に立たせることが嫌だった。
「なんなら、タイマンでもいいんだぜ?」
「ランディ!」
真っ向から交戦状態に入ったランディの姿を見て、ロイドが叫ぶ。
彼のポテンシャルを考えればそこまでの危機感はないのだが、戦場での油断は禁物だ。
リーダとしての冷静な頭が戦況を俯瞰する。
ちらりと後方を覗えば、丁度リーシャのアーツが放たれる所だった。
「行きます!」
凜としたかけ声に誘われて鈍色の暗雲が一面に広がった。
不気味な空の唸りと地を這う振動が歌い、長大な建造物が瞬く間にせり上がる。
上層部からの一斉砲火が、地面を引き裂くほどの威力で幻獣へと襲いかかった。
その余波が収まるよりも早く、ワジが時間差で全く同じアーツを発動させて畳み掛ける。
「これはどうだい?」
二人の攻撃は確実に相手の弱点を突き、巨躯の膝を付かせる程の大ダメージを与えた。
「流石だぜ、お二人さん!」
ランディは軽く口笛を吹きながら、一端後ろへ飛び退いた。
仲間の集中砲火で少しは溜飲が下がったのかもしれない。
だが、その直後。
痛みに我を忘れた幻獣が、絶叫を上げて彼に襲いかかってきた。
「やらせない!!」
切迫したロイドの声が地面を蹴り出す足と重なる。
金属のような鋭い爪と硬質なトンファーがぶつかり合い、大きな音が響いた。
「──っ!?」
いきなり面前で広がった相棒の後ろ姿に、ランディは息を詰まらせた。
既視感。
頭の中で今よりも小さかったロイドの背中がフラッシュバックする。
久しぶりに粉塵と血の匂いを嗅いだような気がした。
マインツの山道でベルゼルガーが真っ二つに砕けた衝撃と。
獰猛な従姉妹と自分の間に割って入ってきた無鉄砲で熱すぎる姿と。
情けないくらいに中途半端で、みっともない姿を曝け出してしまったあの時のことを。
軋むくらいに奥を噛みしめる憤りは、誰に対してなのか?
先刻の戦闘とは違い、明らかに庇われている。
もやもやとしていた胸中の淀みが、一気に沸点を超えた。
「くそがっ!」
激情した彼は片手でロイドの肩を掴み、乱暴に自分の前から押し退けた。
そのまま無言で弱っている巨躯に突進し、猛り狂った焔を容赦なく叩き付ける。
辺り一面の空気を裂くような断末魔が、男の耳を貫いた。
「ロイド!何で庇いやがった!?」
幻獣が消滅していく様を見届ける間もなく、ランディは年下の相棒に詰め寄った。
襟首を掴まれたロイドは突然の激昂に驚き、睨み付けてくる彼を凝視する。
「何でって……」
そんなことを問われても上手く説明ができない。
あの状況は不意打ちでも何でもなかった。
ランディの意識はしっかりと相手に向けられていたし、彼ならば手負いの猛攻を最小限のダメージで凌いでいただろう。
「大丈夫だとは思ったけど」
だが、冷静な頭とは裏腹で身体は勝手に動き出してしまった。
「余計なことをするな。てめぇの背中なんか見たくもねぇんだよ」
上から降ってくる低音が、腹の奥にずしりと響いた。
なまじ荒ぶるよりも数段上の凄みがある。
ロイドはわずかに怯んだが、それも一瞬だった。
気聞き捨てならない台詞に、カッと全身が熱くなる。
「何だよ、それ!俺がランディを庇ったら駄目なのか!?」
首元を締め上げてくる腕を掴み、爪が食い込むほど強く指先に力を込める。
「相棒なら対等だろ!背中を見るのも見せられるのも!」
「そういう問題じゃねぇ!」
「だったら、どういう問題なんだよ!?」
互いを掴んだままの口論はヒートアップし、収拾が付かなくなってきた。
挙げ句の果てに罵詈雑言までもが飛び交い始め、それまで静観していたワジとリーシャは顔を見合わせた。
「やれやれ、お熱くなっちゃって……」
「どうしましょう?こんな時に限ってエリィさんやティオさんが居ないなんて」
やはり頼りになるのは、初期からの支援課メンバーたちである。
特にその場の乱れを正すエリィの雷は効果覿面だ。
「う~ん、ここはやっぱり彼女に習って荒療治といこうか」
心底困り果てた表情をしているリーシャに対し、ワジは名案が浮かんだとばかりに意地悪げな微笑をみせた。
そもそも彼女は控えめな性格なのだから、到底乗り気になれるはずがない。
しかし、このまま夢幻回廊の真っ只中で足止めを食うのも本意ではなかった。
「……ごめんなさい。二人とも」
リーシャは小さな謝罪をして、一つ息を吸った。
懐から暗器を取り出し、加熱する両者の足元に狙いを定める。
「──はっ!」
鋭利な銀色が空気を切り裂き、丁度彼らの間を割って地面に突き刺さった。
それは、エリィの一喝と遜色はない。
周りが見えなくなっていた男たちの応酬はピタリと止み、まるで機械仕掛けのように刃が飛んできた方へ首を向ける。
「あ、あの、すいません」
「あははっ、リーシャが怒ってるよ。先に進めないってさ」
瞬間冷凍された二人の表情は実に愉快で、ワジが軽やかな笑い声を立てる。
「ち、違います!ワジさんったら」
その横でリーシャが必死に抗議をするも、彼は余裕綽々で自らの髪を軽く払っただけだった。
結局、少し距離を置いた方が良いというワジの提案で、一時的に彼らの戦術リンクを外すことになった。
今の状態では、連携の強化が逆効果になりかねない。
ロイドとランディは互いに口をきこうともせず、一行は回廊の探索を再開させた。
だが、度重なる戦闘で武器を振るうも、二人の間にはどこかぎこちなさが残る。
大きな支障はないにせよ、普段に比べれば精彩を欠いているのは明らかだった。
ランディはリーシャと戦術リンクを結んでいる。
共に卓越した戦闘能力を有している二人の手並みは見事だ。
「ランディさん、そちらはお願いします!」
「おっしゃ、まかせとけ!」
迫り来る魔獣たちを危なげなく薙ぎ倒していく。
それを横目にしているロイドは明らかにご機嫌斜めだった。
彼の瞳には二人の様子がとても楽しげに映っていることだろう。
(やれやれ、思いっきり顔に出まくっているよねぇ)
ロイドの心情が手に取るように分かってしまい、ワジは密かに肩を竦ませた。
このメンバー構成であれば、どうしてもアーツを主体とする機会が増えてくる。
戦闘が始まり駆動の体勢に入ったワジを気にかけ、ロイドがトンファーを振るっていた。
リンクを繋いでいる影響もあってか、その安心感は計り知れない。
「ワジ、大丈夫か?」
「ふふっ、問題ないよ。君に守って貰えるなんて嬉しいね」
発動直後の隙を狙われたワジをすかさずロイドが庇う。
彼の性質からしても、アーツを使う仲間との相性は良いようだ。
不意にそのやり取りを目撃してしまったランディが、無意識の舌打ちをする。
(えっと……ランディさん、とっても分かりやすいです)
リーシャはこの男が胸中で漏らした言葉をすぐに察してしまった。
面白くない。つまりはそういうことだ。
この階層の終着地点はもうすぐだ。
いい加減に仲直りをして欲しいものだと、同僚たちが目配せをした矢先。
現状に耐えきれなくなったのか、ロイドが動き出した。
「……ランディ。俺、やっぱり一緒がいい」
歩み寄ってきた最初の言葉に、ランディはさほど驚かなかった。
二人の頭からは感情的な昂ぶりが抜け落ち、今なら面と向かって対話ができる。
「でも、どうしてあんなに怒ったのかだけは聞かせて欲しい」
こんな時、ロイドは真っ直ぐで強い瞳を向けてくる。
どうやっても逃げられないそれが、ランディは苦手だった。
「あ~、その目は反則だ」
ガシガシと頭を掻き、そっぽを向いて唇を小さく動かす。
「既視感っつーかさ、嫌なこと思い出しちまったんだよ。お前の背中を見て」
「嫌なこと?」
オウム返しで小首を傾げた相棒を直視できず、苦い顔で目を閉じる。
「マインツで俺の獲物が真っ二つになった時……飛び出してきただろ」
彼は事細かに語ろうとはしないが、ロイドにはしっかり伝わっているようだった。
「──あっ」
すぐに小さな声が上がった。
あの一件を忘れられるはずがない。
シャーリィのテスタロッサが狂気を放つ中、無我夢中で二人の争いに割り込んだ。
今思えば、仲間の身を案じる感情だけが手足を動かしていたのだろう。
ただ、ただ、ランディを失いたくない一心で。
「ごめん……俺」
ロイドはそれ以上言葉を続けられなくなった。
身体が勝手に動いたとはいえ、自分の行動が彼の過去を蒸し返してしまったのは確かだ。
気持ちが沈み、肩を落として黙り込む。
そんな彼の頭上から、静かな声音が降ってきた。
「馬鹿、お前のせいじゃねぇよ。完全に俺の八つ当たりだ」
閉じていた翠の両眼を開けば、視界に癖のある栗色の髪が広がった。
詫びる意味を込めてくしゃりと髪を掻き混ぜ、ランディが自嘲気味に笑う。
「悪かったな」
武骨な指先は、思いのほか優しかった。
くすぐったそうに首を竦めたロイドが、上目遣いで男の様子を覗う。
「あ……うん。でも、俺、またランディのこと庇うかもしれないぞ?」
こと戦闘面に関して言えば、いつだって彼の方に雄がある。
さり気ないフォローは的確で、そんな姿に羨望と少しばかりの悔しさが入り混じる。
対等に肩を並べて立つならば、自分にだってこの相棒を補える部分があるのだと証明したい。
そんな一方的な思いもあり、身体は勝手に動き出すはずだ。
「ランディは凄くタフだし、大丈夫だって分かってるんだけどさ」
ロイドは言外に「ごめんな」と、眉尻を下げた。
もしかしたら、何度も嫌な思いをさせてしまうかもしれない。
「だったら、その直感を信じろよ」
そんな彼に対し、ランディは静かにはっきりと応じた。
触り心地のいい頭部をわざと乱暴に掻き乱す。
この素直な口から打たれた先手は、きっといつもの天然節なのだろう。
元から自分の方に非がある上、そう言われてしまってはどうしようもない。
彼は一端ロイドから手を離し、改めて目の前の童顔に指先を伸ばした。
「まぁ、どうしようもねぇ時は庇われてやるからよ。頼むぜ、相棒」
不器用な表情を形作る頬に触れ、軽く叩きながら微笑する様は穏やかだった。
少し離れた所で渦中の人物たちを覗っていた二人は、互いに安堵した様子だった。
「……まったく、人騒がせな痴話喧嘩だよね」
「やっぱりロイドさんとランディさんは仲良しなのが一番です」
「それは同感かな。あれじゃ、からかい甲斐がないからね」
ワジが端末を取り出してカバーを開くと、リーシャも同じような動作をした。
仲直りをした彼らが開口一番に言うであろう台詞が、容易に想像できてしまう。
「この階層もあと一戦ですね。ワジさん、よろしくお願いします」
「こちらこそ。前線は彼らが楽しそうに暴れてくれるはずだから、任せちゃっていいんじゃない?」
律儀な言葉に戯けた返事が重なり、つい小さな笑みが零れ落ちる。
そんな二人の瞳には、合流しようとして歩いてくる男たちの姿が映っていた。
2022.07.03
#創畳む
硬貨一枚分の恋人たち
碧・恋人設定
待ち合わせをしていると言っただけで周囲からデート認定される二人の話。
【文字数:12000】
東通りの町並みには、雑多な賑わいが良く映える。
今は昼時とあって、そこかしこから美味しそうな匂いが漂ってきていた。
そんな中を涼しげな容姿の少年が歩いている。
旧市街と隣接しているこの地区の住民たち、こと女性には有名な顔だ。
色付いた視線や声に対する仕草は洗練されたもので、それだけでも周囲から感嘆の息が零れる。
ワジは久しぶりにトリニティへ顔を出すつもりだった。
特務支援課の一員となってからは忙しい日々が続いていたが、幸いにも思わぬ形で空白が生まれた。
今は『本来の仕事』も小康状態になっている。
「ふふっ、折角のオフだからね。ゆっくりさせてもらおうかな」
普段は大人びた流麗な眼差しが、少しだけ幼さを見せて緩む。
そんな中、彼の耳を聞き覚えのある声が掠めた。
「はい、着いたよ。ここでいいのかな?」
「うん!ありがとう。お兄ちゃん」
とある民家の玄関先で、栗色の髪をした青年が小さな少女と言葉を交わしていた。
腰を屈めて目線を合わせている姿に、彼のさりげない配慮が垣間見える。
その後、少女はぺこりと可愛らしいお辞儀をし、家の中へ入っていった。
「やあ、リーダー。まだお仕事中かい?」
一部始終を微笑ましく眺めやっていたワジが声をかける。
「えっ?あ、ワジか」
不意を突かれた青年の肩が大きく跳ね上がった。
「いや、こっちも終わってる。あの子、港湾区で見つけたんだ。帰り道が分からなくなっちゃったみたいでさ」
「なるほどね。困ってる市民を助けるのは支援課の勤めといったところかな」
ロイドの説明を聞いたワジは、腕組みをしつつ納得した様子で何度か頷いたが、
「あ、やっぱり訂正。君ってばお人好しだから、肩書きとか関係ないよね」
すぐに意地悪げな微笑で上書きをした。
「……うっ。だって泣きそうな顔してたし、放っておけないだろ」
そんな揶揄に図星を指されつつ、ロイドは膨れっ面で年下の同僚を睨めた。
「はいはい。だけど、程々にしておいたら?午後が空く日なんて貴重なわけだし」
ワジは真面目で優しい彼の心根を宥め、やんわりと釘を刺す。
すると、機嫌を損ねているロイドの表情がいきなり喜色へ変化した。
「それ!そうだよな、貴重なんだよな!早く戻らないと」
「あれ?なんだか楽しそうだね」
あまりの急変ぶりに面食らったワジが、表面上は平静に探りを入れる。
人のプライベートを詮索する趣味はないが、こうも嬉しそうな顔をされては気になってしまうのも無理はない。
「港湾区で何かあるのかい?」
言葉の端々から推測し、彼がその場に用があるのは間違いないだろう。
すると、ロイドは弾む声を抑えようともせずに返答してきた。
「ランディと待ち合わせをしてるんだ!」
「──へぇ?」
ワジは目を瞬かせてから無言になったが、その後で堪えきれずにくすくすと笑い出した。
「デートってわけか。相変わらずお熱いね」
「え?違うって。ちょっと付き合って欲しいことがあるんだ」
しかし、茶化したつもりが意外にも真顔で返されてしまった。
嬉々とした雰囲気は変わらず、そこには照れ隠しの意図が一切感じられない。
「……彼、仕事中は何も言ってなかったけど」
午前中はランディと一緒にいたが、特に浮かれた様子はなかった。
あの性格なら惚気て吹聴してきそうなものだが。
ワジは眉を顰めて考え込んでしまった。
今日の午後が休みになると決まったのは、昨日の夕飯時のことだった。
なんでも、通信設備に不具合が生じたため、緊急のメンテナンスが入る予定になったとのことだった。
支援課で使用している端末も影響を受けるので、一時的に支援要請のやり取りができなくなる。
そこで、通信環境が維持される午前中で仕事を切り上げる運びとなったのだ。
一夜明けて、今日の朝。
朝食とミーティングを兼ねて支援課の全員が顔を揃えた時も、二人はいつも通りだった。
どうにも腑に落ちない。
改めてロイドを覗うと、はやる気持ちを抑えきれないのか、面白いくらいにそわそわしていた。
「あのさ、ワジ。そろそろ行きたいんだけど」
「あぁ、これからお楽しみだっていうのに引き止めて悪かったね」
「だから、そういうのじゃない」
ワジがわざとらしくからかうと、ロイドの口がへの字に曲がる。
だが、それも一瞬。すぐに軽やかな足取りで港湾区へ向かって行った。
「……あの浮かれっぷりでデートじゃないって、どうなのさ?」
そんな彼の後ろ姿を見送ったワジは、人知れず肩を竦めて苦笑した。
今日は朝から良い天気で、街中に柔らかな陽光が降り注いでいる。
オープンカフェで食事をするには絶好の環境だ。
向かいに座っている最年少の同僚は、さっきから食事の手が止まっている。
ランディは頬杖を付きながら、半ば呆れた様子で口を開いた。
「なぁ、いい加減食っちまえよ」
「……この絶妙なフォルムが可愛すぎます。さすがはオスカーさんですね」
みっしぃの顔を模ったパンを凝視している少女から、賞賛の息が漏れる。
「気持ちは分かるけどな、そういうのは食ってこそじゃね?」
「それはもちろん……ですが。なかなか心の準備ができません」
どうやら見た目に絆されてしまい、パンを囓る決心が付かないようだ。
モルジュの店内で昼食用のパンを吟味している時、つい条件反射でトングが伸びてしまった。
今は嬉しさの中で、ほんのちょっぴり後悔をしている。
ティオはさり気なくランディのトレーを見た。
彼は早々と食事を済ませ、残り少なくなったジュースを啜っている。
「ランディさんはこれから歓楽街ですか?でしたら、私にお構いなく」
なんだか待たせているような気がしてしまい、申し訳なさが先に立った。
「遊びっつーか、これからロイドくんと待ち合わせ」
すると、予想だにしていなかった返事があった。
大きな瞳は完全にみっしぃから外れ、目の前にいる男へまじまじと注がれる。
「……デートですか?」
「そう言いたいとこだが、残念ながら違うんだよなぁ」
ランディは言葉通りの感情を顔面に滲ませた。
「でも、待ち合わせですよね?」
疑問符を浮かべる少女を一瞥し、口角を歪めながら腕時計を確認する。
「まぁ、な……おっと、さすがにやべぇか」
どうやら時間が迫っているようで、寛いでいる姿から一転、勢いよく椅子から立ち上がった。
「先に行くぜ。それ、ちゃんと食えよ」
空になったトレーを片手で持ち、もう一方の手で水色の頭をぽんぽんと叩く。
そして、まだ首を傾げている彼女に小声で何かを言った後、その場から去っていった。
「なんというか……ロイドさんらしいですね」
離席した大きな背中がちっとも嬉しそうには見えず、それが可笑しくて堪らない。
「でも、やっぱりデートだと思います」
ティオは密かに微笑みつつ、再びみっしぃのパンと向かい合った。
自覚のない恋人たちの緩さに当てられ、睨めっこの緊張感はどこへやら。
このまま気負いなく最初の一口を囓ることができそうだった。
真面目なロイドとの待ち合わせで遅刻など、極力したいとは思わなかった。
後からどんなお小言が飛んでくるか分からない。
ランディは足早に港湾区へ向かったが、残念ながら約束の時間は数分ほど過ぎてしまっていた。
「はぁ……のんびりしすぎちまったな」
ベンチの側で落ち着きなく彷徨いている青年を見つけ、彼は腹を括った。
非があるのはこちら側なので、怒られるのは仕方がない。
──はずだったのだが。
開口一番で謝るつもりだったランディよりも早く、ロイドが駆け寄ってきた。
「ランディ!お疲れさま」
「お、おう……お疲れさん」
礼儀正しく相手を労う声が元気に響く。
「遅れちまって悪かったな」
出鼻をくじかれて戸惑いながらも謝罪をすると、ロイドは目を丸くして近くの時計を見上げた。
「あれ?過ぎてたのか。全然気がつかなかったよ」
「なんだ、それ。いつもは時間にうるさいくせに」
珍しいこともあるものだ。
ランディは一気に肩から力が抜けていくのを感じた。
そこへ、抱き付きそうな勢いのロイドが距離を詰めてくる。
「だって、嬉しすぎてさ。時間なんて頭から抜けてた」
その場で飛び跳ねてしまいそうなくらいに、感情が溢れ出していた。
全開の笑顔がきらきらと輝いている。
(……なんか、犬っぽくね?)
危うく声に出そうになる所をなんとか抑え、ランディは胸の内でぼそりと呟いた。
ロイドの姿が、これでもかと言わんばかりに喜びを表現する犬と重なる。
ぶんぶんと尻尾を振りまくっている幻覚が見えてきそうだ。
(くそっ、可愛いとか言っちまいてぇ)
思いも寄らない態度を取られ、栗色の髪を思いっきり掻き混ぜてやりたい衝動に駆られる。
「どうしたんだよ?早く行こう」
急に唇を引き結んで無言になってしまった彼を、ロイドが訝しんだ。
しかし、こんなやり取りをする時間さえも惜しいのか、すぐさま袖を掴んで急かす。
まるで飼い主との散歩を待ちきれない犬のようだ。
ランディは頭を振って強引に惚気た妄想をリセットするしかなかった。
「──それで、どこでやるんだ?」
「東クロスベル街道だな。あの辺なら奥に行けば拓けてるし」
ロイドは考え込むような仕草を見せたが、きっと『その場所』は予め決まっているに違いない。
ランディは浮かれた足取りの青年を宥め、道中を彼に委ねることにした。
他愛のない会話を交わしながら、綺麗に舗装された街道を並んで歩く。
途中で定期運行のバスや数台の導力車とすれ違ったが、それ以外は静かなものだった。
昔と比べれば移動手段も増え、徒歩で街道を行く一般市民はまばらだ。
長閑な風情の中、時折吹き抜けていく風が心地良い。
相変わらず嬉しそうにしているロイドの横で、ランディは今朝のことを思い出していた。
一階でミーティングを終えた後、身支度を整えるためにそれぞれが自室へ戻っていった。
ロイドとセルゲイはテーブルの横で立ち話をしていたが、それはいつもの朝の風景だ。
ランディはさして気にも留めず二階へ上がり、自室のドアノブに手をかけた。
すると、急に慌ただしい足音が駆け上がってた。
「ランディ、ちょっと待ってくれ」
「なんかあったのか?」
何事かと顔を引き締めたが、ロイドの表情にそこまでの緊迫感はなかった。
「あ、そうじゃなくて。今日の午後って空いてるかな?」
彼はわずかに逡巡したが、率直に用件を切り出してきた。
「ちょいと遊びに歩こうかってくらいで、特に用はねぇな」
こうやってロイドの方から声をかけてくることは珍しい。
ランディは驚きと嬉しさが混じり合う中で、恋人としての淡い期待を隠せなかった。
「で、なんのお誘いをしてくれるわけ?」
そんな心情もあり、意味深げな問いを返してみたくなったのだが。
次に聞こえたロイドの言葉は彼を大きく裏切るものだった。
朝っぱらから、これ以上ないくらい盛大な溜息が出てしまうほどに。
まるでつい数分前のやり取りだったような気がする。
いつの間にか街道から脇に逸れ、草を踏み締める音が深くなっていた。
(……ぬか喜びさせやがって。マジで色気の欠片もねぇな)
彼としてはもう少し大人のお付き合いをしたいのだが、相手はまだまだお子様だと認識せざるを得ない。
木々がさざめく合間に小鳥の囀りが聞こえ、ランディは微かに表情を緩めた。
(それはそれで、可愛いことには違いないんだが)
徐々に視界が明るくなり、拓けた場所へ駆け出していく愛しい背中を眺めやる。
「しょうがねぇから、いっちょ揉んでやるか」
彼は手元でスタンハルバードの感触を確かめ、一度軽く振ってからのんびりとロイドの後を追った。
街道から離れた閑散とした場所で、今は二人きり。
どんな形であれ彼を独占できる状況なのは事実で、沸々と嬉しさが込み上げてきた。
「こうやってランディとやり合うのは久しぶりだな。付き合ってくれてありがとう」
互いに距離を取って対峙する。
ロイドは愛用のトンファーを器用に一回転させ、律儀に礼を口にした。
「まぁ……イチャつけないのは残念だが、たまにはこういうのも悪くねぇ」
どうしても未練が残り、それを言葉の端に滲ませたランディは、おもむろに上着のポケットを弄った。
「それじゃ、早速……」
「おっと。そんなに急くなよ」
すぐにでも始めたいロイドは武器を構えたが、相手は悠長に立ったままで体勢を整えようともしない。
「どうせなら、こいつで始めようぜ」
彼はポケットから何かを取り出し、それを親指で真上に弾いた。
「それ……コイン?」
頂点で太陽を受けた金属が輝き、そのまま重力に任せて落下する。
ランディは胸元のあたりで容易く硬貨を掴み取って、にやりと笑った。
「こいつを弾いて地面に落ちた瞬間、互いに仕掛けるってことでどうよ?」
「でも、それってランディの方が不利じゃないか?」
彼の提案に乗ろうとしたロイドだが、ふとした疑問が生じた。
硬貨を弾いた後では、動き出しが遅くなってしまう可能性がある。
それでは対等と言えない気がした。
「リーチの差を考えたら、妥当だと思うぜ」
「……ハンデのつもりなら、いらない」
ランディは互いの戦闘スタイルを鑑みて返答をしたが、ロイドにはそれが面白くなかった。
トンファーを強く握りしめ、仏頂面で相手を睨みつける。
「ははっ、そうじゃねぇよ。ちょっとした遊び心ってやつ」
別に軽んじているわけではなく、手を抜くつもりなど毛頭ないのだが、この手のやり取りにロイドはいつも過剰な反応を示す。
ただ真っ直ぐに背中を追ってくる気配は心地良く、ランディは嬉しそうに自らの獲物を構えた。
「手加減はなしだ。覚悟しとけよ」
「分かった」
陽気な翠に宿った好戦的な眼差しは、ロイドを納得させるのには十分だった。
改めて臨戦態勢を取った彼に向けて硬貨を握った手を突き出す。
勢いよく親指で弾き飛ばした硬貨が空中で煌めいた。
スタートはほんの一刻。
背の低い草むらに落ちた微かな合図を聞く。
刹那。互いの足が勢いよく地面を蹴り上げた。
住民たちが出払っている支援課ビルに、一つだけ人の気配がある。
迷いなくキーボードを叩く音が静かな部屋に響いていた。
無事にみっしぃパンとの格闘を終えたティオが、端末の前に座っている。
半日が休みになったとはいえ、メンテナンスが入るとなれば気になってしまうようだ。
昼食の時、ランディに午後の予定を聞かれて返答したが、
「お仕事は程々にて楽しいことしとけよ~」
などと言われてしまい、少々納得がいかない。
彼女にとって、画面を流れる数字や文字列の羅列は落ち着く光景だ。
今は、いつも面倒を見ている端末とじゃれ合っている感覚すらあった。
そんな風に遊んでいる最中。
玄関の扉が開き、おっとりした声が室内に広がった。
「こんにちは~。お邪魔しますね」
「こら、フラン。待ちなさいってば!」
柔らかなピンクブラウンの髪が、扉の隙間から顔を覗かせる。
「あっ、ティオちゃん」
「お二人とも、どうしたんですか?」
仲睦まじい姉妹の登場に、ティオが驚いて腰を浮かす。
「お疲れさまです。えっと……この子があたしの部屋見たいって言い出しちゃって」
妹の後を追って入ってきたノエルが困り顔で笑った。
「なるほど。フランさんは前々から休日だと言ってましたね」
「あたしの方が空いたのは急だったので、重なるのはほんと偶然ですけど」
「えへへっ、お姉ちゃんと一緒~」
大好きな姉と過ごせるとあって、フランの喜びようは傍から見ても微笑ましいくらいだ。
ついティオの口元も綻ぶ。
「うるさくてすいません。あ、もうメンテナンスは終わったんですか?」
ノエルは申し訳なさそうに言いながら、端末のディスプレイが煌々としているのを目に留める。
「はい、予定よりも随分早かったみたいですね。こちらの方も問題なさそうです」
彼女はすでに一通りの動作確認を済ませていた。
すっかり寛ぎモードに入っているのが姉妹の目から見てもよく分かる。
「それじゃ、ティオちゃんも一緒にお茶しよ~」
フランは手に持っている可愛らしい紙袋を胸元に引き上げ、綿菓子のように笑った。
テーブルの上に広げた焼き菓子を頬張り、紅茶をひとくち。
女性が数人集まれば話に花が咲くものである。
その中でもフランの浮かれっぷりは最高潮だ。
「うん、うん。お姉ちゃんって感じの部屋だよね」
「もう……別に初めてじゃないでしょ」
落ち着きのない妹の言動は、自然とノエルの溜息を誘う。
「あっ」
しかし、彼女はその姿にある既視感を覚えた。
「そう言えば、午前中のロイドさんもなぜか浮かれていたような……エリィさんも怪しんでいました」
「え~、何か良いことあったのかな?」
なんとなく天井を見上げて呟くと、フランが目を瞬かせる。
「──それは、ランディさんと待ち合わせの予定があったからではないかと」
姉妹の疑問はティオの一言で瞬時にして解決へ向かった。
思わず身を乗り出してきた二人に対し、彼女は淡々とモルジュでのやり取りを説明してみせた。
「う~ん、ランディ先輩が嬉しそうじゃないなんて意外です」
「恋人同士で待ち合わせしてるなら、デートだと思うなぁ」
「……ですよね」
どうやら、全会一致のデート認定が下ったようだ。
ティオは自分の認識が間違っていないと分かり、ホッと胸を撫で下ろした。
始まったばかりの頃は、羽根を持つ観客たちが木々の上で明るく歌っていた。
次第に白熱して空気が振動する度、一羽また一羽と羽ばたき去っていく。
しかし、二人には関係のないことだった。
硬貨が落ちた瞬間から、互いの姿しか目に映っていない。
金属同士が激しくぶつかり火花を散らす。
『手加減はなしだ』と言ったのは本当だったのだろうか?
ロイドは熱を発する中でわずかに戸惑っていた。
スタンハルバードの柄が真っ向からトンファーとかち合っている。
赤色と栗色の前髪が今にも触れそうな至近距離。
ここまで詰められては攻勢に出られず、角度を変えて力を受け流す。
その隙に間を作ろうとしたが、またすぐにランディが突進してきた。
「おいおい、逃がさねぇぜ」
勢いよく振り下ろされた打撃は予想以上に重く、ロイドが歯を食いしばりながら踏ん張る。
ギシギシと全身が軋み、トンファーにヒビが入るのではないかとすら危惧した。
「ぐっ!なん……だよ!?俺みたいなことしやがって!」
燻っていた違和感が荒ぶる声になって吐き出される。
ランディの戦いぶりは、完全にリーチの差を無視したものだった。
しきりに近接戦へ持ち込もうとする動きは、ロイドの戦闘スタイルに近い。
「そんなに熱いかよ?」
憤慨して火が灯る瞳をあざ笑っているかのように、唇の端がつり上がった。
「だが、そこまで真っ直ぐじゃねぇんだよな」
押し付けるようなプレッシャーがほんの一拍だけ弱くなる。
直後、長い柄の先端が地面すれすれでロイドの足元を強襲した。
「うわっ!?」
不意打ちの足払いだ。
ロイドは機転を利かせ、咄嗟に後方へ飛び退いてそれを回避する。
「ランディ!それ、卑怯だろ!?」
「禁止事項のすり合わせはしてねぇぜ。少しは狡くなれよ」
ようやく距離を取れたロイドは、トンファーの持ち手を爪が食い込むくらいに強く握りしめた。
ランディの言うことは尤もで、無意識に唇を噛んだ。
命のやり取りをする戦場では、ある種の狡猾さも必要だと理解している。
彼自身、それが苦手であることは自覚しているつもりだが、面と向かって言われると腹が立つ。
相手が『今』を楽しんでいるのが明白なだけに、尚更だった。
まだ──彼の背中には届かない。
そう思うと、一気に悔しさが込み上げてきた。
そろそろ、じゃれ合うのも終わりだろう。
対峙するロイドの表情は、観察するまでもなく分かりやすかった。
「……そのまま突っ込んでこいよ」
ぺろりと唇をひと舐めし、ランディが小さな呟きを残す。
待ってやるつもりなど一切なかった。
ロイドが動き出す兆候を察知し、スタンハルバードが唸りを上げる。
火竜にも似た焔が威嚇の大口を開けて放たれた。
先手を撃った後、間髪を入れずに脚が走って追撃の構えに切り替える。
彼は、ロイドなら真っ向から受け止めてくるだろうと思っていた。
そのまま力任せに吹き飛ばすつもりで、渾身の一振りを打ち下ろす。
だが、
ほんの一瞬、視界から彼の姿が消えた。
「はっ!?」
質量のある武器の上部が振り落ちる間際、そこを紙一重で栗色の頭がすり抜けてくる。
強打による風圧で数本の髪の毛が散ったが、気にも留めず一気に懐へ潜り込んできた。
「お返しだ!!」
息を吐く間もなく身体を屈め、片脚で容赦なく相手の足首を真横に払う。
「うおっ、マジかよ!?」
大音声がランディの耳を貫き、視界がぐるりと回った。
反射的に受け身を取ろうとした矢先、トンファーを構えたロイドに体当たりをされ、もつれるようにして地面に背中を打ち付ける。
「あー、くそっ……お前は猪かっつーの」
彼はすぐさま身体を起こそうとしたが、それよりも早く上から人の重みがのし掛かってきた。
「よし、取ったぞ!」
嬉々としたロイドの声が、二人だけの空間で天を突く。
驚いて見開いた翠色の両眼が、身体を乗り上げて見下ろしてくる得意げな童顔を捉えた。
片方のトンファーで首元を押さえ付けられ、見事に動きを封じられている。
完全にしてやられた気分だった。
あの僅かな隙間へ入り込もうとしてきた度胸に舌を巻く。
タイミングを誤れば致命傷になりかねない行動を、ロイドは難なくやってのけてみせた。
それは、恐怖に打ち勝つ強い心を持っていることの顕れでもある。
本当に、惚れ惚れするくらい格好良い相棒だ。
「……ランディ?あれ?俺、やりすぎちゃったか?」
組み伏せた男はただジッと見つめてくるだけで、心配になったロイドが眉を寄せて覗き込んだ。
「そんなにヤワじゃねぇよ。だが……」
ようやく口を開いたランディは、好戦的な野味が薄れて普段の顔に戻りつつあった。
「まだまだ詰めが甘いな。このまま形勢逆転してやろうか?」
しかし、体勢が崩れた状態でも自分の武器と戦意は手放していない。
しっかりと手に持っているそれをわざとらしくひと撫でしてみせた。
「何言ってんだよ。それ以上動いたら首の骨が折れるぞ」
途端に首元にかかる力がじわりと強くなる。
「くくっ……過激なこと言ってくれるねぇ。そういうのは嫌いじゃないぜ」
ロイドの警告をどう捉えたのか、彼は嬉しそうでいてどこか意地悪げな色を滲ませた。
「それと、真っ昼間から堂々と押し倒してくるのも大歓迎だ」
「へっ?あ、いや、それは……っ」
急にそんなことを言われてしまい、ロイドは驚いて前のめりになっている上半身を勢いよく引き上げた。
「そ、そういうつもりじゃなくて!」
そのまま、脱兎のごとく飛び退いて距離を取る。
だが、慌てた彼の視界へ焔の色が一気に躍り込んできた。
力の緩んだ手元に打撃を受け、一対のトンファーが弾け飛ぶ。
瞬きをする間もないくらいの速さだった。
ロイドは自分の身に何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
「つれねぇな。そこはキスの一つくらい落としてくれよ」
地面に響いた落下音の後、上から笑いを含んだ声が降ってきた。
首元にひんやりとした金属の感触がして、彼の顔が驚愕を露わにする。
「なっ、なんでこうなるんだよ!?」
「悪ぃな~。お返しのお返しっつーことで」
ついさっきの状況が、人物と武器が入れ替わった形で見事に再現される。
一つだけ違うのは、スタンハルバードの柄で押さえ付けてきた男の中に、色情めいた香りがあることだけだ。
「……やっぱり狡い」
体格と腕力で勝る相手に動きを封じられたら、お手上げた。
ロイドは顔いっぱいに不満を広げ、恨めしげな声を絞り出す。
「お前は反応が素直すぎんだよ」
「そんなこと言ったって……」
放っておけば延々と文句を言いそうな唇を、かさついた親指が宥めるように撫でてくる。
拗ねた瞳が少しだけ穏やかになって揺らめいた。
ランディの意図が分からないほど子供ではないし、悔しいけれどこうやって触れられるのは心地良い。
「まぁ、そういうのは──」
赤い髪の先が頬をかすめ、指ではない柔らかな肉感が静かに重なる。
『好きだけどな』と、声には出さない言葉の続きが、口づけを伝って聞こえてくるような気がした。
姿を消していた小さな観客たちが、いつの間にか戻り始めていた。
二人が甘い舌先で睦み合っているを見ているのか、いないのか。
一際澄んだ鳴き声が色鮮やかに響き渡る。
(……っ?あ、ここ……)
頭の中まで痺れそうな熱に浮かされていたロイドは、この場所が外だということをすっかり失念していた。
鳥の音で一気に覚醒した途端、怒濤のように羞恥が押し寄せてくる。
「ラン……ディ、だめだ……って!」
濡れた吐息が混ざり合う中、覆い被さる身体を退けようと必死に腕を伸ばす。
「ここ……外だから!」
「ん~、別に誰もいねぇしなぁ」
そんな彼に対し、ランディは暢気なものだった。
器用に体重をかけ、片腕だけでスタンハルバードを押し付けたまま、もう片方でロイドの制止を難なく遮る。
指先に小さく歯を立ててみれば、首元からの熱が密着した武器に伝導していくような錯覚を起こした。
気楽に戯れるだけなら、この欲情はどうしたって危うすぎる。
赤毛の男はそれを承知の上で、恋人の身体に触れていた。
もちろん、自制できるギリギリの線はきっちりと見極めているつもりだ。
「そ、そういう問題じゃない!」
組み伏せた幼い顔が視線を彷徨わせ、ここから逃れる言葉を必死に探している。
それを見つめるランディの双眸が、にわかに優しく崩れた。
「お前さぁ、必死すぎんだろ。軽く遊んでただけだからな」
弄っていたロイドの指を名残惜しそうに手放し、ゆっくりと身体を引き起こす。
二人を重ねていた基点を握って持ち上げると、不意にロイドが声を上げた。
「──あっ、そうだ。さっきのあれ!」
彼はこの難局を回避するため、一心不乱で頭を回転させている最中だった。
そのせいか、熱っぽい束縛が解かれていることに気が付いていない。
「ランディが投げたやつ、探さないと」
圧迫感がなくなった身体を跳ね上げた後、地面に膝を落とした姿勢で辺りを見回す。
「……おい、なんなんだよ……そのタイミング」
その横から気の抜けた溜息が返ってきた。
いつの間にかランディは、地に胡座をかいて寛いでいる。
「だって、あれはランディのコインだろ?」
「一枚くらい大したことねぇよ。そもそも、俺が言い出したことだしな」
「でも、お金はお金だし」
当人はまるで気にしていないのだが、ロイドの方は納得がいかないらしい。
跳ね飛ばされたトンファーを拾ってから、手合わせを始めた地点へ足を向ける。
「う~ん……この辺だと思うんだけどなぁ」
しゃがみ込んで探してはみるものの、短い草が生えているせいで見つけるのは容易ではなさそうだ。
ランディはその様子をしばらく眺めていたが、ついには痺れを切らして腰を上げた。
「いい加減に諦めろよ。日が暮れちまう」
地面と睨めっこをしている背中へ歩み寄り、首根っこを掴んで強引に起立させる。
「だったら、俺が返すよ」
彼の言うとおり、空を見上げてみれば太陽は大分傾いてきている。
しかし、ロイドは真面目な性分だ。全てをなかったことにはできそうもない。
振り向いて年長の男を見上げた顔は、申し訳なさでいっぱいだった。
「あ~、そういうのはいらねぇから」
ランディは栗色の髪を一つ掻き混ぜてそう言ったが、この青年がわりと頑固なことも熟知していた。
だから、代わりの案を提示してみせる。とびきり自分に有利な方向へと。
「なら……この後、コイン一枚分の時間は俺によこせよ。それでチャラだ」
「え?それって……」
言葉の意味を図りかねたロイドを前にして、ランディは少しばかり強引に話を切り上げた。
愛用のスタンハルバードを肩に担ぎ、この場から去るべく踵を返して歩き出す。
「取りあえず、なんか軽く食いに行こうぜ」
まだ夕食には早い時間帯だが、実戦さながらの手合わせをすれば多少は腹が減るものだ。
特に急いでいるわけではなく、のんびりと草地を踏んで歩みを進める。
困惑してその場に立ち尽くしている相手を待つつもりはないらしい。
「えっと、奢れってこと……じゃないな」
一方、置いてけぼりのロイドは頭の中を整理しようとしていた。
わざわざ『時間』と言った意味を考えてみる。
そんな彼の耳が、わずかな向かい風に乗ってくる鼻歌を捉えた。
なんとか聴き取れるくらいの小さなそれは、とてもご機嫌な曲調だ。
「……あっ、そうか」
そこで、やっとランディの胸中を垣間見る。
同時に、今朝の廊下で交わしたやり取りを思い出してしまった。
鍛錬に付き合って欲しいと言った時の、あからさまに落胆した様子を。
「ランディ!待てよ!」
ロイドは声を張り上げて走り出した。
少し遠退いた男の背中がピタリと止まる。
「なぁ、『一枚分』ってどれくらいなんだ?」
開いた距離はさほどでもなく、ものの数秒で追いついて問いかける。
ランディは意表を突かれて言葉を失った。
「大した時間にはならな……っ!?」
けれど、硬貨と時間を換算してくる律儀なロイドに反発し、素早く身体が動く。
噛みつくような口づけで声を塞ぎ、離れ際に不敵な笑みを浮かべてみせた。
「あれ、結構レア物なんだぜ?製造数が少ないらしくてよ」
「う、うそ……だろ?」
もしかして、とても高価な代物を放置してきてしまったのだろうか。
ロイドは半信半疑で今しがたまでいた場所を振り返った。
そのまま探しに戻ってしまいそうな気配すら窺える。
「さて、どうだか?ちなみにどれくらいってやつの答え……」
けれど、ランディの方はそれを許すほど寛容にはなれなかった。
いつまでもこんな味気のない場所に留まるよりは、さっさと街に戻りたい。
そんな気持ちが恋人の腕を掴み、耳元に唇を近づけさせる。
「さっきの続きが『本気の遊び』で終わるまでな」
どうせ周囲の仲間たちからはデートだと思われているのだ。
それならば、率先してご期待に添ってやればいい。
囁いた声音は蕩けそうに甘やかだった。
先刻まで二人の男が武器を絡ませていた一画は、すっかり静けさを取り戻していた。
暖色へ変わりつつある陽光が、荒れた草地を優しく撫で回す。
きらりと、何かが光った。
木々の枝先に止まった数羽の鳥たちが、興味深げに舞い降りてくる。
小首を傾げて草の隙間を覗く彼らにあるのは、ただの好奇心。
それがどれくらいの価値を有するかなど、どうでもいいことだった。
2022.05.04
#碧畳む
碧・恋人設定
待ち合わせをしていると言っただけで周囲からデート認定される二人の話。
【文字数:12000】
東通りの町並みには、雑多な賑わいが良く映える。
今は昼時とあって、そこかしこから美味しそうな匂いが漂ってきていた。
そんな中を涼しげな容姿の少年が歩いている。
旧市街と隣接しているこの地区の住民たち、こと女性には有名な顔だ。
色付いた視線や声に対する仕草は洗練されたもので、それだけでも周囲から感嘆の息が零れる。
ワジは久しぶりにトリニティへ顔を出すつもりだった。
特務支援課の一員となってからは忙しい日々が続いていたが、幸いにも思わぬ形で空白が生まれた。
今は『本来の仕事』も小康状態になっている。
「ふふっ、折角のオフだからね。ゆっくりさせてもらおうかな」
普段は大人びた流麗な眼差しが、少しだけ幼さを見せて緩む。
そんな中、彼の耳を聞き覚えのある声が掠めた。
「はい、着いたよ。ここでいいのかな?」
「うん!ありがとう。お兄ちゃん」
とある民家の玄関先で、栗色の髪をした青年が小さな少女と言葉を交わしていた。
腰を屈めて目線を合わせている姿に、彼のさりげない配慮が垣間見える。
その後、少女はぺこりと可愛らしいお辞儀をし、家の中へ入っていった。
「やあ、リーダー。まだお仕事中かい?」
一部始終を微笑ましく眺めやっていたワジが声をかける。
「えっ?あ、ワジか」
不意を突かれた青年の肩が大きく跳ね上がった。
「いや、こっちも終わってる。あの子、港湾区で見つけたんだ。帰り道が分からなくなっちゃったみたいでさ」
「なるほどね。困ってる市民を助けるのは支援課の勤めといったところかな」
ロイドの説明を聞いたワジは、腕組みをしつつ納得した様子で何度か頷いたが、
「あ、やっぱり訂正。君ってばお人好しだから、肩書きとか関係ないよね」
すぐに意地悪げな微笑で上書きをした。
「……うっ。だって泣きそうな顔してたし、放っておけないだろ」
そんな揶揄に図星を指されつつ、ロイドは膨れっ面で年下の同僚を睨めた。
「はいはい。だけど、程々にしておいたら?午後が空く日なんて貴重なわけだし」
ワジは真面目で優しい彼の心根を宥め、やんわりと釘を刺す。
すると、機嫌を損ねているロイドの表情がいきなり喜色へ変化した。
「それ!そうだよな、貴重なんだよな!早く戻らないと」
「あれ?なんだか楽しそうだね」
あまりの急変ぶりに面食らったワジが、表面上は平静に探りを入れる。
人のプライベートを詮索する趣味はないが、こうも嬉しそうな顔をされては気になってしまうのも無理はない。
「港湾区で何かあるのかい?」
言葉の端々から推測し、彼がその場に用があるのは間違いないだろう。
すると、ロイドは弾む声を抑えようともせずに返答してきた。
「ランディと待ち合わせをしてるんだ!」
「──へぇ?」
ワジは目を瞬かせてから無言になったが、その後で堪えきれずにくすくすと笑い出した。
「デートってわけか。相変わらずお熱いね」
「え?違うって。ちょっと付き合って欲しいことがあるんだ」
しかし、茶化したつもりが意外にも真顔で返されてしまった。
嬉々とした雰囲気は変わらず、そこには照れ隠しの意図が一切感じられない。
「……彼、仕事中は何も言ってなかったけど」
午前中はランディと一緒にいたが、特に浮かれた様子はなかった。
あの性格なら惚気て吹聴してきそうなものだが。
ワジは眉を顰めて考え込んでしまった。
今日の午後が休みになると決まったのは、昨日の夕飯時のことだった。
なんでも、通信設備に不具合が生じたため、緊急のメンテナンスが入る予定になったとのことだった。
支援課で使用している端末も影響を受けるので、一時的に支援要請のやり取りができなくなる。
そこで、通信環境が維持される午前中で仕事を切り上げる運びとなったのだ。
一夜明けて、今日の朝。
朝食とミーティングを兼ねて支援課の全員が顔を揃えた時も、二人はいつも通りだった。
どうにも腑に落ちない。
改めてロイドを覗うと、はやる気持ちを抑えきれないのか、面白いくらいにそわそわしていた。
「あのさ、ワジ。そろそろ行きたいんだけど」
「あぁ、これからお楽しみだっていうのに引き止めて悪かったね」
「だから、そういうのじゃない」
ワジがわざとらしくからかうと、ロイドの口がへの字に曲がる。
だが、それも一瞬。すぐに軽やかな足取りで港湾区へ向かって行った。
「……あの浮かれっぷりでデートじゃないって、どうなのさ?」
そんな彼の後ろ姿を見送ったワジは、人知れず肩を竦めて苦笑した。
今日は朝から良い天気で、街中に柔らかな陽光が降り注いでいる。
オープンカフェで食事をするには絶好の環境だ。
向かいに座っている最年少の同僚は、さっきから食事の手が止まっている。
ランディは頬杖を付きながら、半ば呆れた様子で口を開いた。
「なぁ、いい加減食っちまえよ」
「……この絶妙なフォルムが可愛すぎます。さすがはオスカーさんですね」
みっしぃの顔を模ったパンを凝視している少女から、賞賛の息が漏れる。
「気持ちは分かるけどな、そういうのは食ってこそじゃね?」
「それはもちろん……ですが。なかなか心の準備ができません」
どうやら見た目に絆されてしまい、パンを囓る決心が付かないようだ。
モルジュの店内で昼食用のパンを吟味している時、つい条件反射でトングが伸びてしまった。
今は嬉しさの中で、ほんのちょっぴり後悔をしている。
ティオはさり気なくランディのトレーを見た。
彼は早々と食事を済ませ、残り少なくなったジュースを啜っている。
「ランディさんはこれから歓楽街ですか?でしたら、私にお構いなく」
なんだか待たせているような気がしてしまい、申し訳なさが先に立った。
「遊びっつーか、これからロイドくんと待ち合わせ」
すると、予想だにしていなかった返事があった。
大きな瞳は完全にみっしぃから外れ、目の前にいる男へまじまじと注がれる。
「……デートですか?」
「そう言いたいとこだが、残念ながら違うんだよなぁ」
ランディは言葉通りの感情を顔面に滲ませた。
「でも、待ち合わせですよね?」
疑問符を浮かべる少女を一瞥し、口角を歪めながら腕時計を確認する。
「まぁ、な……おっと、さすがにやべぇか」
どうやら時間が迫っているようで、寛いでいる姿から一転、勢いよく椅子から立ち上がった。
「先に行くぜ。それ、ちゃんと食えよ」
空になったトレーを片手で持ち、もう一方の手で水色の頭をぽんぽんと叩く。
そして、まだ首を傾げている彼女に小声で何かを言った後、その場から去っていった。
「なんというか……ロイドさんらしいですね」
離席した大きな背中がちっとも嬉しそうには見えず、それが可笑しくて堪らない。
「でも、やっぱりデートだと思います」
ティオは密かに微笑みつつ、再びみっしぃのパンと向かい合った。
自覚のない恋人たちの緩さに当てられ、睨めっこの緊張感はどこへやら。
このまま気負いなく最初の一口を囓ることができそうだった。
真面目なロイドとの待ち合わせで遅刻など、極力したいとは思わなかった。
後からどんなお小言が飛んでくるか分からない。
ランディは足早に港湾区へ向かったが、残念ながら約束の時間は数分ほど過ぎてしまっていた。
「はぁ……のんびりしすぎちまったな」
ベンチの側で落ち着きなく彷徨いている青年を見つけ、彼は腹を括った。
非があるのはこちら側なので、怒られるのは仕方がない。
──はずだったのだが。
開口一番で謝るつもりだったランディよりも早く、ロイドが駆け寄ってきた。
「ランディ!お疲れさま」
「お、おう……お疲れさん」
礼儀正しく相手を労う声が元気に響く。
「遅れちまって悪かったな」
出鼻をくじかれて戸惑いながらも謝罪をすると、ロイドは目を丸くして近くの時計を見上げた。
「あれ?過ぎてたのか。全然気がつかなかったよ」
「なんだ、それ。いつもは時間にうるさいくせに」
珍しいこともあるものだ。
ランディは一気に肩から力が抜けていくのを感じた。
そこへ、抱き付きそうな勢いのロイドが距離を詰めてくる。
「だって、嬉しすぎてさ。時間なんて頭から抜けてた」
その場で飛び跳ねてしまいそうなくらいに、感情が溢れ出していた。
全開の笑顔がきらきらと輝いている。
(……なんか、犬っぽくね?)
危うく声に出そうになる所をなんとか抑え、ランディは胸の内でぼそりと呟いた。
ロイドの姿が、これでもかと言わんばかりに喜びを表現する犬と重なる。
ぶんぶんと尻尾を振りまくっている幻覚が見えてきそうだ。
(くそっ、可愛いとか言っちまいてぇ)
思いも寄らない態度を取られ、栗色の髪を思いっきり掻き混ぜてやりたい衝動に駆られる。
「どうしたんだよ?早く行こう」
急に唇を引き結んで無言になってしまった彼を、ロイドが訝しんだ。
しかし、こんなやり取りをする時間さえも惜しいのか、すぐさま袖を掴んで急かす。
まるで飼い主との散歩を待ちきれない犬のようだ。
ランディは頭を振って強引に惚気た妄想をリセットするしかなかった。
「──それで、どこでやるんだ?」
「東クロスベル街道だな。あの辺なら奥に行けば拓けてるし」
ロイドは考え込むような仕草を見せたが、きっと『その場所』は予め決まっているに違いない。
ランディは浮かれた足取りの青年を宥め、道中を彼に委ねることにした。
他愛のない会話を交わしながら、綺麗に舗装された街道を並んで歩く。
途中で定期運行のバスや数台の導力車とすれ違ったが、それ以外は静かなものだった。
昔と比べれば移動手段も増え、徒歩で街道を行く一般市民はまばらだ。
長閑な風情の中、時折吹き抜けていく風が心地良い。
相変わらず嬉しそうにしているロイドの横で、ランディは今朝のことを思い出していた。
一階でミーティングを終えた後、身支度を整えるためにそれぞれが自室へ戻っていった。
ロイドとセルゲイはテーブルの横で立ち話をしていたが、それはいつもの朝の風景だ。
ランディはさして気にも留めず二階へ上がり、自室のドアノブに手をかけた。
すると、急に慌ただしい足音が駆け上がってた。
「ランディ、ちょっと待ってくれ」
「なんかあったのか?」
何事かと顔を引き締めたが、ロイドの表情にそこまでの緊迫感はなかった。
「あ、そうじゃなくて。今日の午後って空いてるかな?」
彼はわずかに逡巡したが、率直に用件を切り出してきた。
「ちょいと遊びに歩こうかってくらいで、特に用はねぇな」
こうやってロイドの方から声をかけてくることは珍しい。
ランディは驚きと嬉しさが混じり合う中で、恋人としての淡い期待を隠せなかった。
「で、なんのお誘いをしてくれるわけ?」
そんな心情もあり、意味深げな問いを返してみたくなったのだが。
次に聞こえたロイドの言葉は彼を大きく裏切るものだった。
朝っぱらから、これ以上ないくらい盛大な溜息が出てしまうほどに。
まるでつい数分前のやり取りだったような気がする。
いつの間にか街道から脇に逸れ、草を踏み締める音が深くなっていた。
(……ぬか喜びさせやがって。マジで色気の欠片もねぇな)
彼としてはもう少し大人のお付き合いをしたいのだが、相手はまだまだお子様だと認識せざるを得ない。
木々がさざめく合間に小鳥の囀りが聞こえ、ランディは微かに表情を緩めた。
(それはそれで、可愛いことには違いないんだが)
徐々に視界が明るくなり、拓けた場所へ駆け出していく愛しい背中を眺めやる。
「しょうがねぇから、いっちょ揉んでやるか」
彼は手元でスタンハルバードの感触を確かめ、一度軽く振ってからのんびりとロイドの後を追った。
街道から離れた閑散とした場所で、今は二人きり。
どんな形であれ彼を独占できる状況なのは事実で、沸々と嬉しさが込み上げてきた。
「こうやってランディとやり合うのは久しぶりだな。付き合ってくれてありがとう」
互いに距離を取って対峙する。
ロイドは愛用のトンファーを器用に一回転させ、律儀に礼を口にした。
「まぁ……イチャつけないのは残念だが、たまにはこういうのも悪くねぇ」
どうしても未練が残り、それを言葉の端に滲ませたランディは、おもむろに上着のポケットを弄った。
「それじゃ、早速……」
「おっと。そんなに急くなよ」
すぐにでも始めたいロイドは武器を構えたが、相手は悠長に立ったままで体勢を整えようともしない。
「どうせなら、こいつで始めようぜ」
彼はポケットから何かを取り出し、それを親指で真上に弾いた。
「それ……コイン?」
頂点で太陽を受けた金属が輝き、そのまま重力に任せて落下する。
ランディは胸元のあたりで容易く硬貨を掴み取って、にやりと笑った。
「こいつを弾いて地面に落ちた瞬間、互いに仕掛けるってことでどうよ?」
「でも、それってランディの方が不利じゃないか?」
彼の提案に乗ろうとしたロイドだが、ふとした疑問が生じた。
硬貨を弾いた後では、動き出しが遅くなってしまう可能性がある。
それでは対等と言えない気がした。
「リーチの差を考えたら、妥当だと思うぜ」
「……ハンデのつもりなら、いらない」
ランディは互いの戦闘スタイルを鑑みて返答をしたが、ロイドにはそれが面白くなかった。
トンファーを強く握りしめ、仏頂面で相手を睨みつける。
「ははっ、そうじゃねぇよ。ちょっとした遊び心ってやつ」
別に軽んじているわけではなく、手を抜くつもりなど毛頭ないのだが、この手のやり取りにロイドはいつも過剰な反応を示す。
ただ真っ直ぐに背中を追ってくる気配は心地良く、ランディは嬉しそうに自らの獲物を構えた。
「手加減はなしだ。覚悟しとけよ」
「分かった」
陽気な翠に宿った好戦的な眼差しは、ロイドを納得させるのには十分だった。
改めて臨戦態勢を取った彼に向けて硬貨を握った手を突き出す。
勢いよく親指で弾き飛ばした硬貨が空中で煌めいた。
スタートはほんの一刻。
背の低い草むらに落ちた微かな合図を聞く。
刹那。互いの足が勢いよく地面を蹴り上げた。
住民たちが出払っている支援課ビルに、一つだけ人の気配がある。
迷いなくキーボードを叩く音が静かな部屋に響いていた。
無事にみっしぃパンとの格闘を終えたティオが、端末の前に座っている。
半日が休みになったとはいえ、メンテナンスが入るとなれば気になってしまうようだ。
昼食の時、ランディに午後の予定を聞かれて返答したが、
「お仕事は程々にて楽しいことしとけよ~」
などと言われてしまい、少々納得がいかない。
彼女にとって、画面を流れる数字や文字列の羅列は落ち着く光景だ。
今は、いつも面倒を見ている端末とじゃれ合っている感覚すらあった。
そんな風に遊んでいる最中。
玄関の扉が開き、おっとりした声が室内に広がった。
「こんにちは~。お邪魔しますね」
「こら、フラン。待ちなさいってば!」
柔らかなピンクブラウンの髪が、扉の隙間から顔を覗かせる。
「あっ、ティオちゃん」
「お二人とも、どうしたんですか?」
仲睦まじい姉妹の登場に、ティオが驚いて腰を浮かす。
「お疲れさまです。えっと……この子があたしの部屋見たいって言い出しちゃって」
妹の後を追って入ってきたノエルが困り顔で笑った。
「なるほど。フランさんは前々から休日だと言ってましたね」
「あたしの方が空いたのは急だったので、重なるのはほんと偶然ですけど」
「えへへっ、お姉ちゃんと一緒~」
大好きな姉と過ごせるとあって、フランの喜びようは傍から見ても微笑ましいくらいだ。
ついティオの口元も綻ぶ。
「うるさくてすいません。あ、もうメンテナンスは終わったんですか?」
ノエルは申し訳なさそうに言いながら、端末のディスプレイが煌々としているのを目に留める。
「はい、予定よりも随分早かったみたいですね。こちらの方も問題なさそうです」
彼女はすでに一通りの動作確認を済ませていた。
すっかり寛ぎモードに入っているのが姉妹の目から見てもよく分かる。
「それじゃ、ティオちゃんも一緒にお茶しよ~」
フランは手に持っている可愛らしい紙袋を胸元に引き上げ、綿菓子のように笑った。
テーブルの上に広げた焼き菓子を頬張り、紅茶をひとくち。
女性が数人集まれば話に花が咲くものである。
その中でもフランの浮かれっぷりは最高潮だ。
「うん、うん。お姉ちゃんって感じの部屋だよね」
「もう……別に初めてじゃないでしょ」
落ち着きのない妹の言動は、自然とノエルの溜息を誘う。
「あっ」
しかし、彼女はその姿にある既視感を覚えた。
「そう言えば、午前中のロイドさんもなぜか浮かれていたような……エリィさんも怪しんでいました」
「え~、何か良いことあったのかな?」
なんとなく天井を見上げて呟くと、フランが目を瞬かせる。
「──それは、ランディさんと待ち合わせの予定があったからではないかと」
姉妹の疑問はティオの一言で瞬時にして解決へ向かった。
思わず身を乗り出してきた二人に対し、彼女は淡々とモルジュでのやり取りを説明してみせた。
「う~ん、ランディ先輩が嬉しそうじゃないなんて意外です」
「恋人同士で待ち合わせしてるなら、デートだと思うなぁ」
「……ですよね」
どうやら、全会一致のデート認定が下ったようだ。
ティオは自分の認識が間違っていないと分かり、ホッと胸を撫で下ろした。
始まったばかりの頃は、羽根を持つ観客たちが木々の上で明るく歌っていた。
次第に白熱して空気が振動する度、一羽また一羽と羽ばたき去っていく。
しかし、二人には関係のないことだった。
硬貨が落ちた瞬間から、互いの姿しか目に映っていない。
金属同士が激しくぶつかり火花を散らす。
『手加減はなしだ』と言ったのは本当だったのだろうか?
ロイドは熱を発する中でわずかに戸惑っていた。
スタンハルバードの柄が真っ向からトンファーとかち合っている。
赤色と栗色の前髪が今にも触れそうな至近距離。
ここまで詰められては攻勢に出られず、角度を変えて力を受け流す。
その隙に間を作ろうとしたが、またすぐにランディが突進してきた。
「おいおい、逃がさねぇぜ」
勢いよく振り下ろされた打撃は予想以上に重く、ロイドが歯を食いしばりながら踏ん張る。
ギシギシと全身が軋み、トンファーにヒビが入るのではないかとすら危惧した。
「ぐっ!なん……だよ!?俺みたいなことしやがって!」
燻っていた違和感が荒ぶる声になって吐き出される。
ランディの戦いぶりは、完全にリーチの差を無視したものだった。
しきりに近接戦へ持ち込もうとする動きは、ロイドの戦闘スタイルに近い。
「そんなに熱いかよ?」
憤慨して火が灯る瞳をあざ笑っているかのように、唇の端がつり上がった。
「だが、そこまで真っ直ぐじゃねぇんだよな」
押し付けるようなプレッシャーがほんの一拍だけ弱くなる。
直後、長い柄の先端が地面すれすれでロイドの足元を強襲した。
「うわっ!?」
不意打ちの足払いだ。
ロイドは機転を利かせ、咄嗟に後方へ飛び退いてそれを回避する。
「ランディ!それ、卑怯だろ!?」
「禁止事項のすり合わせはしてねぇぜ。少しは狡くなれよ」
ようやく距離を取れたロイドは、トンファーの持ち手を爪が食い込むくらいに強く握りしめた。
ランディの言うことは尤もで、無意識に唇を噛んだ。
命のやり取りをする戦場では、ある種の狡猾さも必要だと理解している。
彼自身、それが苦手であることは自覚しているつもりだが、面と向かって言われると腹が立つ。
相手が『今』を楽しんでいるのが明白なだけに、尚更だった。
まだ──彼の背中には届かない。
そう思うと、一気に悔しさが込み上げてきた。
そろそろ、じゃれ合うのも終わりだろう。
対峙するロイドの表情は、観察するまでもなく分かりやすかった。
「……そのまま突っ込んでこいよ」
ぺろりと唇をひと舐めし、ランディが小さな呟きを残す。
待ってやるつもりなど一切なかった。
ロイドが動き出す兆候を察知し、スタンハルバードが唸りを上げる。
火竜にも似た焔が威嚇の大口を開けて放たれた。
先手を撃った後、間髪を入れずに脚が走って追撃の構えに切り替える。
彼は、ロイドなら真っ向から受け止めてくるだろうと思っていた。
そのまま力任せに吹き飛ばすつもりで、渾身の一振りを打ち下ろす。
だが、
ほんの一瞬、視界から彼の姿が消えた。
「はっ!?」
質量のある武器の上部が振り落ちる間際、そこを紙一重で栗色の頭がすり抜けてくる。
強打による風圧で数本の髪の毛が散ったが、気にも留めず一気に懐へ潜り込んできた。
「お返しだ!!」
息を吐く間もなく身体を屈め、片脚で容赦なく相手の足首を真横に払う。
「うおっ、マジかよ!?」
大音声がランディの耳を貫き、視界がぐるりと回った。
反射的に受け身を取ろうとした矢先、トンファーを構えたロイドに体当たりをされ、もつれるようにして地面に背中を打ち付ける。
「あー、くそっ……お前は猪かっつーの」
彼はすぐさま身体を起こそうとしたが、それよりも早く上から人の重みがのし掛かってきた。
「よし、取ったぞ!」
嬉々としたロイドの声が、二人だけの空間で天を突く。
驚いて見開いた翠色の両眼が、身体を乗り上げて見下ろしてくる得意げな童顔を捉えた。
片方のトンファーで首元を押さえ付けられ、見事に動きを封じられている。
完全にしてやられた気分だった。
あの僅かな隙間へ入り込もうとしてきた度胸に舌を巻く。
タイミングを誤れば致命傷になりかねない行動を、ロイドは難なくやってのけてみせた。
それは、恐怖に打ち勝つ強い心を持っていることの顕れでもある。
本当に、惚れ惚れするくらい格好良い相棒だ。
「……ランディ?あれ?俺、やりすぎちゃったか?」
組み伏せた男はただジッと見つめてくるだけで、心配になったロイドが眉を寄せて覗き込んだ。
「そんなにヤワじゃねぇよ。だが……」
ようやく口を開いたランディは、好戦的な野味が薄れて普段の顔に戻りつつあった。
「まだまだ詰めが甘いな。このまま形勢逆転してやろうか?」
しかし、体勢が崩れた状態でも自分の武器と戦意は手放していない。
しっかりと手に持っているそれをわざとらしくひと撫でしてみせた。
「何言ってんだよ。それ以上動いたら首の骨が折れるぞ」
途端に首元にかかる力がじわりと強くなる。
「くくっ……過激なこと言ってくれるねぇ。そういうのは嫌いじゃないぜ」
ロイドの警告をどう捉えたのか、彼は嬉しそうでいてどこか意地悪げな色を滲ませた。
「それと、真っ昼間から堂々と押し倒してくるのも大歓迎だ」
「へっ?あ、いや、それは……っ」
急にそんなことを言われてしまい、ロイドは驚いて前のめりになっている上半身を勢いよく引き上げた。
「そ、そういうつもりじゃなくて!」
そのまま、脱兎のごとく飛び退いて距離を取る。
だが、慌てた彼の視界へ焔の色が一気に躍り込んできた。
力の緩んだ手元に打撃を受け、一対のトンファーが弾け飛ぶ。
瞬きをする間もないくらいの速さだった。
ロイドは自分の身に何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
「つれねぇな。そこはキスの一つくらい落としてくれよ」
地面に響いた落下音の後、上から笑いを含んだ声が降ってきた。
首元にひんやりとした金属の感触がして、彼の顔が驚愕を露わにする。
「なっ、なんでこうなるんだよ!?」
「悪ぃな~。お返しのお返しっつーことで」
ついさっきの状況が、人物と武器が入れ替わった形で見事に再現される。
一つだけ違うのは、スタンハルバードの柄で押さえ付けてきた男の中に、色情めいた香りがあることだけだ。
「……やっぱり狡い」
体格と腕力で勝る相手に動きを封じられたら、お手上げた。
ロイドは顔いっぱいに不満を広げ、恨めしげな声を絞り出す。
「お前は反応が素直すぎんだよ」
「そんなこと言ったって……」
放っておけば延々と文句を言いそうな唇を、かさついた親指が宥めるように撫でてくる。
拗ねた瞳が少しだけ穏やかになって揺らめいた。
ランディの意図が分からないほど子供ではないし、悔しいけれどこうやって触れられるのは心地良い。
「まぁ、そういうのは──」
赤い髪の先が頬をかすめ、指ではない柔らかな肉感が静かに重なる。
『好きだけどな』と、声には出さない言葉の続きが、口づけを伝って聞こえてくるような気がした。
姿を消していた小さな観客たちが、いつの間にか戻り始めていた。
二人が甘い舌先で睦み合っているを見ているのか、いないのか。
一際澄んだ鳴き声が色鮮やかに響き渡る。
(……っ?あ、ここ……)
頭の中まで痺れそうな熱に浮かされていたロイドは、この場所が外だということをすっかり失念していた。
鳥の音で一気に覚醒した途端、怒濤のように羞恥が押し寄せてくる。
「ラン……ディ、だめだ……って!」
濡れた吐息が混ざり合う中、覆い被さる身体を退けようと必死に腕を伸ばす。
「ここ……外だから!」
「ん~、別に誰もいねぇしなぁ」
そんな彼に対し、ランディは暢気なものだった。
器用に体重をかけ、片腕だけでスタンハルバードを押し付けたまま、もう片方でロイドの制止を難なく遮る。
指先に小さく歯を立ててみれば、首元からの熱が密着した武器に伝導していくような錯覚を起こした。
気楽に戯れるだけなら、この欲情はどうしたって危うすぎる。
赤毛の男はそれを承知の上で、恋人の身体に触れていた。
もちろん、自制できるギリギリの線はきっちりと見極めているつもりだ。
「そ、そういう問題じゃない!」
組み伏せた幼い顔が視線を彷徨わせ、ここから逃れる言葉を必死に探している。
それを見つめるランディの双眸が、にわかに優しく崩れた。
「お前さぁ、必死すぎんだろ。軽く遊んでただけだからな」
弄っていたロイドの指を名残惜しそうに手放し、ゆっくりと身体を引き起こす。
二人を重ねていた基点を握って持ち上げると、不意にロイドが声を上げた。
「──あっ、そうだ。さっきのあれ!」
彼はこの難局を回避するため、一心不乱で頭を回転させている最中だった。
そのせいか、熱っぽい束縛が解かれていることに気が付いていない。
「ランディが投げたやつ、探さないと」
圧迫感がなくなった身体を跳ね上げた後、地面に膝を落とした姿勢で辺りを見回す。
「……おい、なんなんだよ……そのタイミング」
その横から気の抜けた溜息が返ってきた。
いつの間にかランディは、地に胡座をかいて寛いでいる。
「だって、あれはランディのコインだろ?」
「一枚くらい大したことねぇよ。そもそも、俺が言い出したことだしな」
「でも、お金はお金だし」
当人はまるで気にしていないのだが、ロイドの方は納得がいかないらしい。
跳ね飛ばされたトンファーを拾ってから、手合わせを始めた地点へ足を向ける。
「う~ん……この辺だと思うんだけどなぁ」
しゃがみ込んで探してはみるものの、短い草が生えているせいで見つけるのは容易ではなさそうだ。
ランディはその様子をしばらく眺めていたが、ついには痺れを切らして腰を上げた。
「いい加減に諦めろよ。日が暮れちまう」
地面と睨めっこをしている背中へ歩み寄り、首根っこを掴んで強引に起立させる。
「だったら、俺が返すよ」
彼の言うとおり、空を見上げてみれば太陽は大分傾いてきている。
しかし、ロイドは真面目な性分だ。全てをなかったことにはできそうもない。
振り向いて年長の男を見上げた顔は、申し訳なさでいっぱいだった。
「あ~、そういうのはいらねぇから」
ランディは栗色の髪を一つ掻き混ぜてそう言ったが、この青年がわりと頑固なことも熟知していた。
だから、代わりの案を提示してみせる。とびきり自分に有利な方向へと。
「なら……この後、コイン一枚分の時間は俺によこせよ。それでチャラだ」
「え?それって……」
言葉の意味を図りかねたロイドを前にして、ランディは少しばかり強引に話を切り上げた。
愛用のスタンハルバードを肩に担ぎ、この場から去るべく踵を返して歩き出す。
「取りあえず、なんか軽く食いに行こうぜ」
まだ夕食には早い時間帯だが、実戦さながらの手合わせをすれば多少は腹が減るものだ。
特に急いでいるわけではなく、のんびりと草地を踏んで歩みを進める。
困惑してその場に立ち尽くしている相手を待つつもりはないらしい。
「えっと、奢れってこと……じゃないな」
一方、置いてけぼりのロイドは頭の中を整理しようとしていた。
わざわざ『時間』と言った意味を考えてみる。
そんな彼の耳が、わずかな向かい風に乗ってくる鼻歌を捉えた。
なんとか聴き取れるくらいの小さなそれは、とてもご機嫌な曲調だ。
「……あっ、そうか」
そこで、やっとランディの胸中を垣間見る。
同時に、今朝の廊下で交わしたやり取りを思い出してしまった。
鍛錬に付き合って欲しいと言った時の、あからさまに落胆した様子を。
「ランディ!待てよ!」
ロイドは声を張り上げて走り出した。
少し遠退いた男の背中がピタリと止まる。
「なぁ、『一枚分』ってどれくらいなんだ?」
開いた距離はさほどでもなく、ものの数秒で追いついて問いかける。
ランディは意表を突かれて言葉を失った。
「大した時間にはならな……っ!?」
けれど、硬貨と時間を換算してくる律儀なロイドに反発し、素早く身体が動く。
噛みつくような口づけで声を塞ぎ、離れ際に不敵な笑みを浮かべてみせた。
「あれ、結構レア物なんだぜ?製造数が少ないらしくてよ」
「う、うそ……だろ?」
もしかして、とても高価な代物を放置してきてしまったのだろうか。
ロイドは半信半疑で今しがたまでいた場所を振り返った。
そのまま探しに戻ってしまいそうな気配すら窺える。
「さて、どうだか?ちなみにどれくらいってやつの答え……」
けれど、ランディの方はそれを許すほど寛容にはなれなかった。
いつまでもこんな味気のない場所に留まるよりは、さっさと街に戻りたい。
そんな気持ちが恋人の腕を掴み、耳元に唇を近づけさせる。
「さっきの続きが『本気の遊び』で終わるまでな」
どうせ周囲の仲間たちからはデートだと思われているのだ。
それならば、率先してご期待に添ってやればいい。
囁いた声音は蕩けそうに甘やかだった。
先刻まで二人の男が武器を絡ませていた一画は、すっかり静けさを取り戻していた。
暖色へ変わりつつある陽光が、荒れた草地を優しく撫で回す。
きらりと、何かが光った。
木々の枝先に止まった数羽の鳥たちが、興味深げに舞い降りてくる。
小首を傾げて草の隙間を覗く彼らにあるのは、ただの好奇心。
それがどれくらいの価値を有するかなど、どうでもいいことだった。
2022.05.04
#碧畳む
黎・恋人設定
アーロンとの関係がバレていないと思っていたヴァンだけど、実は周囲にバレバレだった話。
2022年リクエスト②
【文字数:5300】
落ち着いた雰囲気の店内には客が数人。
それぞれの席で思い思いの時間を過ごしている。
この店の主であるベルモッティにとっては、皆が馴染みの顔だ。
壁の時計を見れば、夜も大分回った時間になっている。
これから来店してくる客はほぼいないだろう。
そう思った矢先、出入口のドアがベルの音を響かせた。
彼は入ってきた男を見て少しばかり驚き、声のトーンを上げる。
「あら、ヴァンちゃんじゃないの。珍しいわね、こんな時間に」
「ちょいとばかし降られちまってよ。まぁ、通り雨だろうけどな」
小さく振った頭からは水滴が飛び散ったが、大した量ではない。
上着も肩を払えば問題ない程度だった。
「それは大変。今、タオルを持ってくるわね」
「あー、気にすんなって」
雨に降られたことについて、本人はさして気にも留めていないようだ。
慌てて店の奥へ消えていく店主に声をかけ、カウンター席に腰を下ろす。
ガラス越しに外の様子を覗えば、街灯の明かりに落ちる雨粒は当初よりも幾分か少なくなっていた。
「はい、ちゃんと拭きなさいよ。上着は大丈夫なの?」
奥から戻って来たベルモッティは、雨宿りに訪れた客を気遣う。
「問題ねぇ。それより悪かったな。そろそろ閉店だろ」
手渡されたタオルで無造作に髪を拭いたヴァンが、申し訳なさそうな顔をした。
「まだ一時間もあるわ。でも、あたしとヴァンちゃんの仲だもの。閉店後だってOKよ」
それに対し、彼は口元で人差し指を立て、茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせた。
今夜は特にこれが飲みたいといった気分ではなかった。
そんな時は、客の好みを熟知している彼に任せてしまうのが常だ。
カウンター越しに何気ない雑談を交わし、グラスに口を付ける。
ベルモッティ曰く、同時に出されたチョコレートは、新進気鋭のショコラティエによる一品らしい。
それに合わせたカクテルとのことで、相性は抜群だった。さすがはプロの技量である。
思いがけず至福のひとときを手に入れたヴァンは、心の中で通り雨に感謝した。
「そう言えば、アーロンちゃんは一緒じゃないの?」
しかし、いきなり予想だにしなかった話題を振られて怪訝な顔をする。
「は?あいつなら今夜も遊び歩いてんだろ。なんだよ、急に」
なぜそんなことを聞かれるのか分からない、とでも言いたげだ。
「もうっ、ダメねぇ~。ヴァンちゃんを一人でフラフラさせてるなんて」
「いや、そこまであいつとつるんでねぇし」
ベルモッティは丁寧にグラスを磨きながら、どこか楽しそうに口を弾ませた。
「連絡しちゃおうかしら。酔い潰れてるとでも言えば、絶対迎えに来るわよね」
「だから、さっきから何言って……」
会話をしているはずが、一人だけ盛り上がっている。
何か嫌な予感がしてベルモッティを見上げると、意地悪げな瞳とぶつかった。
「あたしの目は誤魔化せないわよ?」
「なっ……!?」
そこでヴァンは完全に把握した。彼が言わんとしていることを。
何度か口を開閉させながら、カウンター越しの店主を凝視する。
「マジ……かよ」
さっきまでの幸福感はどこへやら。
片肘をテーブルに付き、額に手を当てて項垂れる。
「彼、攻めまくりだったものねぇ。いつ押し切られちゃうのかしらって楽しみだったのよ」
「……勝手に楽しむんじゃねぇ。っつーか、なんで気づきやがった?」
ぐったりとしてしまったヴァンは、なんとか掠れた声を絞り出す。
別にアーロンとの関係を隠したいとは思っていない。
しかし、だからといって人前であからさまな言動をしたいわけでもなく、表面上は今までと変わらずに接してるつもりだ。
「そうねぇ。少し前に仕事がらみで一緒にここへ来たじゃない?」
ベルモッティはグラスを磨いていた手を止め、宙を見上げてその時のことを思い出す。
「貴方たちのやり取りを見ていたらすぐに分かったわよ」
職業柄か様々な人を相手にしている彼は、対人関係の微妙な変化を察することが上手い。
色恋の類いともなれば、かなりの精度だ。
「それに……」
ひとつ。鮮明な記憶が浮かび、肩を震わせて可笑しそうに笑った。
「いつもはあたしがヴァンちゃんをからかうと、すぐに茶々入れてくるでしょ。でも、あの時は全然なかったのよね」
やけに静かだったアーロンは、慣れたじゃれ合いを前に口元だけを緩めていた。
眇めた金彩だけは無言の威嚇で牙立てながら。
「あれは、『俺のもんで遊ぶんじゃねぇよ』って顔してたわ~。ゾクゾクしちゃったわよ」
「あのバカが。好戦的すぎんだろ」
それまでは黙って一連の話を聞いていたヴァンが、ようやく顔を上げた。
ガシガシと片手で頭を掻き、グラスに残っていたカクテルを一気にあおる。
心なしか顔が赤いのは、アルコールのせいだけではなさそうだった。
「……はぁ」
彼は深く大きく息を吐き、少しでも平静を取り戻そうと苦慮をしている。
だが、そこへ無慈悲で楽しげな追い打ちがかかった。
「──で、もう食べられちゃったの?」
身を屈めたベルモッティがわざとらしく囁きかけてくる。
「そんなわけあるかっ!」
ヴァンは反射的に腰を浮かせて声を荒げたが、すぐにハッとして店内を見回した。
さすがに大声はまずい。
しかし、店に入った時に居たはずの客たちは消えていて、いつの間にか一人になっていた。
「やぁねぇ~。貴方が幸せそうにしてる間に帰ったわよ」
さっきから落ち着きのない言動ばかりで、噛み殺しても笑みが零れ落ちそうになる。
今夜最後の客は、本当にからかいがいのある男だ。
「そう……だっけか?」
ヴァンとて、馴染みの店に迷惑をかけるのは本意ではない。
それを聞いた彼はホッと胸を撫で下ろし、いそいそと椅子に座り直した。
「それにしても、意外だわ。アーロンちゃんならすぐに手を出すと思ったのに」
すると、話題を引き戻したベルモッティが、言葉通りの表情で小さく首を傾けた。
「それだけ大事ってことかしら?可愛いわね」
「……あのなぁ。あいつがそんなタマかよ」
空になったグラスを見つめた男は、頬杖をつきながら仏頂面でぼそりと呟いた。
雨宿りのつもりだったが、つい長居をしてしまった。
時計を見れば、閉店時間はとうに過ぎている。
おもむろに席を立ったヴァンへ、ベルモッティは優しく目元を緩ませた。
「今度はアーロンちゃんも連れてきてちょうだいね」
「はぁ?ガラでもねぇ」
照れ隠しのつもりか、彼はすぐに背を向けてドアへと歩き出した。
「一緒に来てくれたら、二人のカクテル作ってお祝いしてあげるわ」
ベルモッティは、そんな後ろ姿に向かって柔らかな言葉を投げかける。
返事はなく、ただベルの音だけが静かな店内に響き渡った。
綺麗に整理された本棚からファイルを取り出し、ぺらぺらと書類を捲る。
ヴァンは文字の羅列を目で追いながらも、どこか気が散ってしまっていることを自覚していた。
昨夜、雨宿りをした時のやり取りが頭から離れない。
ベルモッティの眼力には納得なのだが、問題はアーロンの方だった。
(顔に出ちまうのは仕方ねぇが、まさか……言い触らしてるとか?)
何かと開けっぴろげな彼のこと、つい不安が首をもたげてしまう。
「おい、アーロン」
その気持ちが払拭できず、振り返って声をかけてみる。
赤毛の青年はソファーに身を沈め、ザイファを弄っていた。
「あぁ?なんだよ」
かったるそうな返事が事務所の主に向けられる。
「お前……俺たちのこと、周りに言ってねぇよな?」
逡巡してから発せられたそれに、アーロンは顔を顰めた。
「言うわけねぇだろうが、面倒くせぇ。大体──」
吐き捨てるように言葉を連ねたが、ふと途中で口を噤む。
(その必要もないくらいにバレまくりだって、気づいてねぇのか?こいつ)
目を泳がせているヴァンをまじまじと見やり、呆れ気味で溜息を吐く。
そんなアーロンの耳が、階段を上ってくる足音と華やかな笑い声を捉えた。
覚えのある気配に自然と不敵な笑みが浮かぶ。
(それなら、すぐにでも分からせてやるか)
彼はザイファをポケットにしまい、悠然と立ち上がって恋人の元へ歩み寄った。
強引に胸ぐらを掴んで顔を引き寄せた時、ドアの前までやって来た足音が止まった。
「あんた、自分のことには鈍すぎなんじゃねぇの?」
軽やかなノックの音が数回。それと同時に二人の唇が重なる。
「久しぶりに息抜きに来てやったわよ~」
「ジュディスさんってば、活き活きしてますね」
事務所のドアが開いた瞬間、その場の空気が固まった。
だが、それも一時。
半眼じみたジュディスの叫びが室内に響き渡った。
「あんたたち!何見せつけてくれてんのよ!絶対わざとでしょ、それ!」
「羨ましいなら、さっさと相手を作ればいいだろ?」
ビシッと指をさして目を吊り上げる女と、それを煽る男の構図は危なっかしい。
「もう……アーロンさん、驚かせないで下さい」
しかし、彼女と共にやってきたアニエスは僅かに息を呑んだだけだった。開けっぱなしのドアを静かに閉める。
ヴァンはそんな三人を呆然と見つめていた。
キスから解放された唇は半開きのまま、上手い具合に動かせない。
「お、お前ら……」
「なによ、固まっちゃってんの?」
それに気づいたジュディスが訝しげに目を細めると、すかさずアーロンが応じた。
「しょうがねぇだろ。このオッサン、周囲にバレてんの気づいてなかったんだからよ」
その言葉に女性二人の目が点になり、数拍の沈黙。
再び、ジュディスの声が部屋の空気を震わせた。
「はぁぁぁー!?あり得ないんだけど!どんだけバレバレだったと思ってんのよ!」
「そ、そうだったんですか?お二人とも恋人同士の雰囲気出てましたけど」
対照的な反応だが根は同じ、奇異の眼差しを向けられたヴァンは額に嫌な汗が滲むのを感じた。
「だってよ。良かったな、ヴァン。すっかり公認だぜ?」
至近距離にいるアーロンは胸ぐらを掴んだ手を離さず、見せつけるように喉の奥で笑いながら囁いてくる。
「お、おい。全然、良くねぇ……だろ」
ようやく言葉らしきものを紡ぎ始めた男は、動揺の色を隠せなかった。
「そんなことないですよ。みんなでお祝いしてあげようなんて話も出ているくらいですから」
「どっからだよ。嫌がらせにしか思えねぇ」
嬉しそうな顔をしているアニエスには何とか突っ込みを入れつつ、今度は恋人を引き剥がそうと試みる。
まずは片手だけでも空けようと思い、広げたままのファイルを閉じた途端。
今度はジュディスが、急に何かを思い出して口を開いた。
「あ、そう言えば。ベルガルドさんがここを離れる時、気にしてたわよ。『あやつらはどうにかならんのか』って」
──ドサッ!
その語尾にファイルの落下音が続いた。
「な、なんで師父まで……っ」
昨夜から続いているこの一件の中で、今の言葉が一番衝撃的だった。
足元にばらけてしまった書類も目に入らない。
隙あらば攻め落とす機会を覗っていたアーロンはさておき、自分の彼に対する感情を見破られていた事実に羞恥が募る。
そんなヴァンをよそに、赤毛の青年はとんでもないことを言い放った。
「そりゃぁ、大変だ。今からでも報告してやろうぜ」
あっさりと恋人から身体を離し、ポケットの中からザイファを取り出す仕草はやたらと生き生きしている。
「ちょっ……何言ってんだよ、てめぇは!」
これにはヴァンも即座に反応を示した。
素早く伸ばした手でアーロンの肩口を掴み、強引に動きを止めようとする。
焦りを露わに見下ろせば、ふてぶてしい表情を返された。
「弟子が師匠を心配させるってのはどうなんだよ?」
「うるせぇ!」
ほんの少しだけ絡んだ勝ち気な瞳が笑い、冗談とも本気ともつかない。
危機感が最高潮に達したヴァンは、ついに我を失った。
「ダメだからな!絶対やらせねぇからな!!」
彼は形振り構わずに声を荒げ、あろうことか勢いよく相手の首筋にしがみついた。
巻かれた両腕の力は強く、さすがのアーロンも端末の操作を断念してしまう。
「あ〜っ、うぜぇなぁ……」
彼は鬱陶しげな色を醸した息を口から吐き出した。
「興が削がれちまった」
しかし、態度とは裏腹。まるで宥めるようにヴァンの髪を片手で掻き混ぜる。
その動きは雑であってもどことなく柔らかい。
それはジュディスとアニエスの目からも明らかだった。
当人たちは無意識なのかもしれないが、完全に恋人の体を成している。
「……余計なこと言ったわ」
「えっと、でも……ベルガルドさんなら間違いなく祝福してくれますよね」
ジュディスはこめかみを揉みながら自らの失言を後悔し、そんな彼女を慮ったアニエスがさり気なくフォローを入れた。
何とも言えない空気が事務所に流れる中、再び階段の方から複数人の足音が聞こえてきた。明るい声と温和な声と淑やかな声が、楽しげに交わっている。
「あっ、ジュディスさん。フェリちゃんたちが来たみたいです」
「もう……なんなのよ、このタイミングで勢揃いだなんて」
二人はそれらが誰なのかをすぐに察した。
「リゼットはともかくとしても……はぁ~」
ジュディスは目の前で密着している男たちをチラリと見やり、更に頭が痛くなっていくのを感じた。
一応、ここは事務所であり仕事をする場所である。
まだ年若いフェリとカトルにこの状態を見せるのは、さすがにどうかと思ってしまった。
元気なノックの音が数回。
それと同時にジュディスの叱声が轟いた。
2022.06.11
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