焔の中に彼を見る
創・恋人設定
ロイドVS模倣擬体ランディの話。
『偽ロイドとランディ』の続きです。
どこか心配げな瞳が見下ろしてきた。
「お前……もし俺と同じ状況になったら、やれんのか?」
「当たり前だろ。偽物なんだから」
なぜそんなことを聞いてくるのかと、ロイドはわずかに顔を歪めた。
「まぁ、なんつーか……見た目も動作も同じだと結構やりづらいんでな」
偽物との一戦では憤りを抱えつつも冷静な立ち回りをしていたが、多少のぎこちなさを感じていたらしい。
だが、それを相手に悟らせないあたりは流石の力量だ。
幾多の戦場を走り抜けてきた男の言葉は、少しだけロイドを不安にさせた。
けれど、すぐにそれを振り払うようにして強い声を出す。
「でも、やらなきゃやられるだろ」
真っ向からの双眼がランディへと向けられた。
「そりゃ、ごもっともで」
年下の相棒は至極当然なことを言っていて、頷く以外にはない。
彼は真面目な表情を一転させて小さく笑った。
(分かってはいるんだがなぁ)
それでも、憂いが胸中を蝕んでいくのは止められなかった。
元より感情が表に出やすいロイドが、模倣擬体を目の前に平静を保っていられるだろうか?
動揺すれば、確実に攻撃の手が緩む。
戦闘中の思考回路が同じなら……と、脳内でシミュレーションをして暗澹たる気持ちになってしまった。
(勝っちまうんだよ……俺が)
ロイドの動きが鈍くなれば、結果は明白だ。相手には手を抜く道理はないのだから。
それでも、想定だけで彼の矜持を傷付けるのは忍びないと思い、
「あんまり俺がいい男だからって、見惚れて躊躇するんじゃねぇぞ?」
わざとふざけた調子でさりげなく釘を刺した。
山道を吹き抜ける風が冷たくなってきた。
先程までは暖かい陽光が降り注いでいたが、いつの間にか湧き始めた雲の合間に隠れてしまっている。
「う~ん、降りそうだなぁ」
ロイドは鈍色に変化した空を見上げながら独りごちた。
山の天気が変わりやすいのは知っているが、さっきまで青空だったのにと、愚痴を零して踵を返す。
特に不穏な痕跡も気配もなく、偵察を終えるには良い合図だったのかもしれない。
そのまま、起伏のある道を歩く。
周囲はやけに静かだった。
急に風が止んだのか、木々のざわめきさえ聞こえてこない。
── カチッ
不意に遠くで音がした。
「っ、今の!?」
聞き覚えのあるそれに、ロイドは顔を上げて空中を見る。
音がした方向から弧を描いて飛んでくる物体を捉え、脊髄反射でその場から飛び退いた。
直後、地面からの爆発音と共に白い煙が発生した。
「煙幕弾!」
それは『彼』が戦闘時に使用する手の一つ。
まさかと思い、ロイドは顔を袖で覆いながら気配を探った。
この煙幕の持続性はそう長くはない。
すぐに ── くる。
その瞬間。
空気中に四散していく煙を裂いて、殺意が現れた。
「後ろか!!」
後方の崖から降ってきた影が、着地と同時に攻撃を仕掛けてくる。
辛うじて防いだが威力は凄まじく、トンファーを構える腕に痛みが走った。
鮮やかな赤い長髪と派手なロングコートがロイドの視界をかすめる。
(──ランディ!)
思わず叫びそうになったが、そんな猶予すら与えてくれそうもなかった。
重量級のスタンハルバードを振り払うと、炎にも似た衝撃波が広がり、周りの草木さえも焼き尽くす。
ロイドは防戦を余儀なくされた。
あの時のやり取りが脳裏に浮かぶ。
ランディは憂慮していることを隠そうともしなかった。
「お前はやれるのか?」と。
偽物を相手に遅れを取るなど想像できなくて、不快げに応じたのを覚えている。
けれど、実際に模倣擬体と遭遇してしまった今、それが甘い認識だったと思い直さずにはいられなかった。
肉体的な戦闘能力は彼の方が上だが、本来ならここまで防戦一方になるはずがない。
無意識にどこかで戸惑っている。大切な人物の姿を前にして、身体が躊躇している。
本物の彼がわざわざ釘を刺してくれたのに。
ロイドは痛烈な波状攻撃を浴び続け、ついには吹き飛ばされた。
「ぐはっ!!」
地面に叩き付けられそうになったが、何とか受け身を取ってすぐに体勢を立て直す。
噛みしめていた奥歯には血が滲み、口の中に鉄の味が広がった。
「まだだ……まだいける」
立ち上がりながら、強い光を宿した瞳を相手に向ける。
と、その時。
彼の手元に黒光りする凶器が姿を現した。
刃を仕込ませた高火力の大型銃は、彼の代名詞と言っても過言ではないもの。
「なっ──!?」
それを目の当たりにした途端、ロイドはカッと熱くなった。
全身の血液が沸騰するかのような感覚に襲われる。
「なんで……お前が持っている」
怒りを噛みしめる声が微かに震えた。
明らかに模倣品だと頭では理解していても、この感情は抑えられそうにない。
「その姿を見せるな」
トンファーを握る手に爪が食い込む程の力が籠もる。
「ランディがどれだけ苦しんで、どれだけ葛藤してきたかも知らないくせに」
茶色の瞳から噴き出す激情が一気に沸点を突き破った。
「それはお前が持っていいものじゃない!」
ロイドは銃口が向けられているのを承知で、真正面から唸りを上げて突進した。
轟く銃声をもろともせず、急速に相手との距離を詰める。
弾丸が頬や四肢をかすめ、焼け付く痛みが走ったが気にも留めなかった。
「うおぉぉぉ!!」
相手の懐に潜り込み、間髪を入れずに凄まじい勢いで攻撃を叩き込む。
反撃の隙など一切与えない猛攻は青白い闘気の炎を纏い、牙を突き刺して炸裂した。
耳障りな音と共に模倣擬体の片腕が吹き飛んだ。
激しいダメージを受け、全身のいたるところで火花が爆ぜている。
残った片腕でベルゼルガーを抱え、よろめく身体を支えている姿が炎に巻かれていく。
「ランディの報告通りか」
情報交換の時、彼が言っていた最後と同じだった。
ロイドは肩で息をしながらその光景を見つめる。
彼の姿が失われていく間際、焔に焼かれた翡翠の色と目が合った。
「……あ」
唇が短い言葉を刻み、最後にニヤリと笑った。
立ち上る火柱を見送ったロイドは、力が抜けたように両膝から崩れ落ちた。
武器を持ったままの両手が小刻みに震えている。
「違う。本物じゃないのに」
声は聞こえずとも口の動きで読み取れた。
それは彼らしい簡潔な別れ。本当に彼が言いそうな言葉だった。
「……違う」
ロイドはしばらくその場から立ち上がれなかった。
静けさに包まれた山道を一際強い風が走り抜けた。
その冷たさに押された彼は、ようやく顔を上げた。
「俺、ほんとに情けないな」
少し落ち着いてきたせいか、今まで意識していなかった傷の痛みが蘇る。
「……帰らないと」
早く会いたいと思った。
この目で見て、この手で触れて、大切な存在を確かめたかった。
強い想いに囚われながら、立ち上がって歩き出す。
そんな矢先。
不意に携帯端末の呼び出し音が鳴り響いた。
「──はい、こちらロイ……」
「おい、そっちの状況はどうだ?」
応答に被ってくる声が耳元を通り、一瞬にして心臓が止まりかけた。
「え、あ……」
今、心から欲している人物の声を聞いてしまって動揺を隠せない。
脈打つ鼓動が次第に早くなっていく。
「俺の方は早く片が付いちまってよ。そっちに合流するか?」
「いや……」
それでも何とか冷静になろうと、両目を閉じて呼吸を整える。
「こっちは大丈夫だ。少し遅くなりそうだけど……ランディは先に戻っていてくれ」
誤魔化しきれるとは思わなかったが、震えそうになる声を抑え、極力リーダーらしく振る舞った。
「それじゃ、また後でな」
ロイドは訝しんでいるであろう彼からの追求を恐れ、強引に自分の方から通信を切った。
そして、大きく息を吐き出した。
なけなしの矜持が邪魔をして、喉から手が出るほどの申し出を受け入れられない。
弱音を吐き出したくなかった。
同じ状況でもランディは相手に悟らせないくらい冷静だったのに。
こんなにも余裕がない自分が不甲斐なくて仕方がなかった。
今にも雨が降ってきそうな空だった。
早く会いたいという気持ちよりも、あの声から逃げた後ろめたさが先に立ち、山道を行く歩みは遅い。
けれど、再び強襲を受ける危険は拭いきれず、周囲の警戒は怠らなかった。
そんな中、ロイドはピタリと足を止めた。
「……なんだ?」
何かが近づいてくる気配を感じて、一気に緊張感が高まる。
武器を構えて即座に動ける体勢を整えた。
「その反応……やっぱりな」
聞き慣れた声が上から降ってきて、反射的にその相手を睨み付ける。
「おいおい、見間違うなよ?『俺』の方がはるかにいい男だぜ」
軽い口調と共に、赤い髪の青年が切り立った崖の上から飛び降りてきた。
「ラン……ディ?」
人懐っこい笑みを浮かべたその顔を見て、ロイドは呆然としてしまった。
「お前ってほんと下手すぎ」
あれでは何かあったと言っているようなものだ。
スピーカー越しのやり取りを思い出し、ランディがわざとらしく肩を竦めてみせた。
彼はロイドが合流を断った時、直感的に模倣擬体とやり合ったのではないかと思った。
普段なら二つ返事で申し出を受け入れる場面で、わざわざ距離を置いたのだから。
「な、なんでいるんだよ?」
「ここいらには縁があるからな。ショートカットできる裏道なんていくらでも知ってるぜ」
もっともな疑問を受けて得意げに答えたランディは、ロイドの安否を確認して安堵した。
だが、彼の側へ歩み寄った途端に気色ばむ。
一戦交えたであろうロイドは、もちろん無傷ではなかった。
その傷の負い方を見て、ランディはすぐに戦闘時の状況を把握した。
「ロイド……」
戯けた色は消え失せ、静かな怒気を滲ませて相手の胸ぐらを乱暴に掴む。
「俺は躊躇するなとは言ったが、銃口に向かって突っ込めとは言ってねぇ」
発せられた低い声は、普段の軽さが嘘のように凄みがあった。
突き刺さるような鋭い眼光を受け、ロイドの身体が萎縮する。
ベルゼルガー相手に正面突破など、無謀としか言いようがない。
ランディが怒るのも当然だ。
それでも、あの時のロイドには決して譲れない想いがあった。
「……許せなかった」
軋むほど強く歯を噛みしめ、拳を握る。
「あいつが、あれを持っている姿が!どっちも偽物だと分かってても許せなかった!」
激昂した瞳で真正面から赤毛の青年を睨み返し、叫びにも似た声を上げる。
「ランディとベルゼルガーのことなんて、何一つ知らないくせに!」
感情が高ぶっているせいか目元が潤んでいたが、それでも顔を逸らそうとはしなかった。
束の間、質の違う互いの怒りがぶつかった。
静寂の中で無言のにらみ合いをする。
先に折れたのはランディの方だった。
わずかな吐息と共に、胸ぐらを掴んでいた手を離す。
「ったく、お前ってヤツは」
どこまでも真っ直ぐで熱の籠もった眼差しには、いつだって適わない。
それが強く想われているがゆえのこととなれば、尚更だった。
「分かったから、そんな目で見るなって」
彼は銃弾がかすめたロイドの頬へ、宥めるように唇を寄せた。
驚いて跳ねた身体を抱き寄せ、その頭部を優しく叩く。
(……本物だ)
その心地良い温もりを受けたロイドは、荒ぶっている心が一気に収まっていくのを感じた。
確かめたかった存在が今ここにある。
自分の方からも触れたくて、彼の背中に腕を回そうとした。
だが、その時。
空からポツリと落ちてきた雨粒に邪魔をされてしまった。
「あ~、やっぱり降ってきやがった」
ランディが嫌そうな声で薄暗い空を振り仰ぐ。
「いい加減、早く帰って手当てしないとな」
そう言葉を続け、ゆっくりと抱擁の腕を解いた。
「あ、うん……そうだな」
ロイドにしてみれば、その触れ合いは一瞬に等しかった。
物足りなさを感じてしまい、無意識の内に寂しそうな表情をする。
(仔犬みたいなツラしてんな)
それを見逃さなかったランディは苦笑したが、こんな時に彼をからかうのは酷だろうとも思った。
おもむろに自分の上着を脱ぎ、それをロイドに羽織らせる。
「代わりにこれで我慢しとけ」と言ってやりたい気持ちを抑えて、別の言葉を口にした。
「その身体で雨に濡れるのは良くねぇからな」
本降りになる気配はなさそうだが、雲の隙間からは不規則に雨が落ちてくる。
「これじゃ、ランディの方が濡れるだろ?」
「気にすんなよ。っていうか、帰るまで返却不可なんで」
ロイドはすぐにそう言ったが、上着の主には軽くあしらわれてしまった。
そのことを申し訳ないと思いつつも、密かに胸を撫で下ろす。
(これ……温かいな)
少し大きすぎるけれど、それが逆に包み込まれているという感覚をより強くさせる。
もっと感じていたくて、肩に掛かっているだけの上着を胸元に手繰り寄せた。
離れてしまった優しい腕の代わりを得たロイドは、嬉しげに目を細める。
満たされない寂しさが、ゆっくりと解けていくようだった。
肩を並べて歩く道すがら、ランディがふと口を開いた。
「あー、そうそう。さっきは折れてやったけど、俺はまだ怒ってんだよなぁ」
「え?」
聞こえてきた声は少し硬質で、不安になったロイドの足が止まってしまった。
「無謀なことやってくれた件は……後で『お仕置き』な」
「な、なに言ってんだよ」
不穏な言葉が耳に届き、思わず狼狽えながら後退る。
ランディは自分の上着の色に染まっているロイドを満足げに眺め、逃げる腕を掴んだ。
「今日一日、これでもかってくらいに甘やかしてやるから、覚悟しとけ」
負傷した彼の身体を気遣いながらも、そのまま引っ張って再び歩き出す。
為すがままにされているロイドは、垣間見た恋人の横顔に既視感を覚えた。
状況はまるで違ったが、不敵に口角を吊り上げる様が重なる。
(似てる……でも)
あの時。焔の中で別れを告げる彼を見て、両手の震えが止まらなかった。
けれど、今はその手に確かな温もりがある。
(でも、やっぱり違うんだ)
込み上げてくるものが目の端に滲み、赤い長髪を揺らしている背中がぼやけた。
悟られたら確実にからかわれるだろうと思って、強引に空いてる手でそれを拭う。
そして、ロイドはようやく小さな笑顔を見せた。
沈んでいた空は次第に明るさを帯び、そろそろ雨も上がりそうだった。
2021.04.07
#創畳む
創・恋人設定
ロイドVS模倣擬体ランディの話。
『偽ロイドとランディ』の続きです。
どこか心配げな瞳が見下ろしてきた。
「お前……もし俺と同じ状況になったら、やれんのか?」
「当たり前だろ。偽物なんだから」
なぜそんなことを聞いてくるのかと、ロイドはわずかに顔を歪めた。
「まぁ、なんつーか……見た目も動作も同じだと結構やりづらいんでな」
偽物との一戦では憤りを抱えつつも冷静な立ち回りをしていたが、多少のぎこちなさを感じていたらしい。
だが、それを相手に悟らせないあたりは流石の力量だ。
幾多の戦場を走り抜けてきた男の言葉は、少しだけロイドを不安にさせた。
けれど、すぐにそれを振り払うようにして強い声を出す。
「でも、やらなきゃやられるだろ」
真っ向からの双眼がランディへと向けられた。
「そりゃ、ごもっともで」
年下の相棒は至極当然なことを言っていて、頷く以外にはない。
彼は真面目な表情を一転させて小さく笑った。
(分かってはいるんだがなぁ)
それでも、憂いが胸中を蝕んでいくのは止められなかった。
元より感情が表に出やすいロイドが、模倣擬体を目の前に平静を保っていられるだろうか?
動揺すれば、確実に攻撃の手が緩む。
戦闘中の思考回路が同じなら……と、脳内でシミュレーションをして暗澹たる気持ちになってしまった。
(勝っちまうんだよ……俺が)
ロイドの動きが鈍くなれば、結果は明白だ。相手には手を抜く道理はないのだから。
それでも、想定だけで彼の矜持を傷付けるのは忍びないと思い、
「あんまり俺がいい男だからって、見惚れて躊躇するんじゃねぇぞ?」
わざとふざけた調子でさりげなく釘を刺した。
山道を吹き抜ける風が冷たくなってきた。
先程までは暖かい陽光が降り注いでいたが、いつの間にか湧き始めた雲の合間に隠れてしまっている。
「う~ん、降りそうだなぁ」
ロイドは鈍色に変化した空を見上げながら独りごちた。
山の天気が変わりやすいのは知っているが、さっきまで青空だったのにと、愚痴を零して踵を返す。
特に不穏な痕跡も気配もなく、偵察を終えるには良い合図だったのかもしれない。
そのまま、起伏のある道を歩く。
周囲はやけに静かだった。
急に風が止んだのか、木々のざわめきさえ聞こえてこない。
── カチッ
不意に遠くで音がした。
「っ、今の!?」
聞き覚えのあるそれに、ロイドは顔を上げて空中を見る。
音がした方向から弧を描いて飛んでくる物体を捉え、脊髄反射でその場から飛び退いた。
直後、地面からの爆発音と共に白い煙が発生した。
「煙幕弾!」
それは『彼』が戦闘時に使用する手の一つ。
まさかと思い、ロイドは顔を袖で覆いながら気配を探った。
この煙幕の持続性はそう長くはない。
すぐに ── くる。
その瞬間。
空気中に四散していく煙を裂いて、殺意が現れた。
「後ろか!!」
後方の崖から降ってきた影が、着地と同時に攻撃を仕掛けてくる。
辛うじて防いだが威力は凄まじく、トンファーを構える腕に痛みが走った。
鮮やかな赤い長髪と派手なロングコートがロイドの視界をかすめる。
(──ランディ!)
思わず叫びそうになったが、そんな猶予すら与えてくれそうもなかった。
重量級のスタンハルバードを振り払うと、炎にも似た衝撃波が広がり、周りの草木さえも焼き尽くす。
ロイドは防戦を余儀なくされた。
あの時のやり取りが脳裏に浮かぶ。
ランディは憂慮していることを隠そうともしなかった。
「お前はやれるのか?」と。
偽物を相手に遅れを取るなど想像できなくて、不快げに応じたのを覚えている。
けれど、実際に模倣擬体と遭遇してしまった今、それが甘い認識だったと思い直さずにはいられなかった。
肉体的な戦闘能力は彼の方が上だが、本来ならここまで防戦一方になるはずがない。
無意識にどこかで戸惑っている。大切な人物の姿を前にして、身体が躊躇している。
本物の彼がわざわざ釘を刺してくれたのに。
ロイドは痛烈な波状攻撃を浴び続け、ついには吹き飛ばされた。
「ぐはっ!!」
地面に叩き付けられそうになったが、何とか受け身を取ってすぐに体勢を立て直す。
噛みしめていた奥歯には血が滲み、口の中に鉄の味が広がった。
「まだだ……まだいける」
立ち上がりながら、強い光を宿した瞳を相手に向ける。
と、その時。
彼の手元に黒光りする凶器が姿を現した。
刃を仕込ませた高火力の大型銃は、彼の代名詞と言っても過言ではないもの。
「なっ──!?」
それを目の当たりにした途端、ロイドはカッと熱くなった。
全身の血液が沸騰するかのような感覚に襲われる。
「なんで……お前が持っている」
怒りを噛みしめる声が微かに震えた。
明らかに模倣品だと頭では理解していても、この感情は抑えられそうにない。
「その姿を見せるな」
トンファーを握る手に爪が食い込む程の力が籠もる。
「ランディがどれだけ苦しんで、どれだけ葛藤してきたかも知らないくせに」
茶色の瞳から噴き出す激情が一気に沸点を突き破った。
「それはお前が持っていいものじゃない!」
ロイドは銃口が向けられているのを承知で、真正面から唸りを上げて突進した。
轟く銃声をもろともせず、急速に相手との距離を詰める。
弾丸が頬や四肢をかすめ、焼け付く痛みが走ったが気にも留めなかった。
「うおぉぉぉ!!」
相手の懐に潜り込み、間髪を入れずに凄まじい勢いで攻撃を叩き込む。
反撃の隙など一切与えない猛攻は青白い闘気の炎を纏い、牙を突き刺して炸裂した。
耳障りな音と共に模倣擬体の片腕が吹き飛んだ。
激しいダメージを受け、全身のいたるところで火花が爆ぜている。
残った片腕でベルゼルガーを抱え、よろめく身体を支えている姿が炎に巻かれていく。
「ランディの報告通りか」
情報交換の時、彼が言っていた最後と同じだった。
ロイドは肩で息をしながらその光景を見つめる。
彼の姿が失われていく間際、焔に焼かれた翡翠の色と目が合った。
「……あ」
唇が短い言葉を刻み、最後にニヤリと笑った。
立ち上る火柱を見送ったロイドは、力が抜けたように両膝から崩れ落ちた。
武器を持ったままの両手が小刻みに震えている。
「違う。本物じゃないのに」
声は聞こえずとも口の動きで読み取れた。
それは彼らしい簡潔な別れ。本当に彼が言いそうな言葉だった。
「……違う」
ロイドはしばらくその場から立ち上がれなかった。
静けさに包まれた山道を一際強い風が走り抜けた。
その冷たさに押された彼は、ようやく顔を上げた。
「俺、ほんとに情けないな」
少し落ち着いてきたせいか、今まで意識していなかった傷の痛みが蘇る。
「……帰らないと」
早く会いたいと思った。
この目で見て、この手で触れて、大切な存在を確かめたかった。
強い想いに囚われながら、立ち上がって歩き出す。
そんな矢先。
不意に携帯端末の呼び出し音が鳴り響いた。
「──はい、こちらロイ……」
「おい、そっちの状況はどうだ?」
応答に被ってくる声が耳元を通り、一瞬にして心臓が止まりかけた。
「え、あ……」
今、心から欲している人物の声を聞いてしまって動揺を隠せない。
脈打つ鼓動が次第に早くなっていく。
「俺の方は早く片が付いちまってよ。そっちに合流するか?」
「いや……」
それでも何とか冷静になろうと、両目を閉じて呼吸を整える。
「こっちは大丈夫だ。少し遅くなりそうだけど……ランディは先に戻っていてくれ」
誤魔化しきれるとは思わなかったが、震えそうになる声を抑え、極力リーダーらしく振る舞った。
「それじゃ、また後でな」
ロイドは訝しんでいるであろう彼からの追求を恐れ、強引に自分の方から通信を切った。
そして、大きく息を吐き出した。
なけなしの矜持が邪魔をして、喉から手が出るほどの申し出を受け入れられない。
弱音を吐き出したくなかった。
同じ状況でもランディは相手に悟らせないくらい冷静だったのに。
こんなにも余裕がない自分が不甲斐なくて仕方がなかった。
今にも雨が降ってきそうな空だった。
早く会いたいという気持ちよりも、あの声から逃げた後ろめたさが先に立ち、山道を行く歩みは遅い。
けれど、再び強襲を受ける危険は拭いきれず、周囲の警戒は怠らなかった。
そんな中、ロイドはピタリと足を止めた。
「……なんだ?」
何かが近づいてくる気配を感じて、一気に緊張感が高まる。
武器を構えて即座に動ける体勢を整えた。
「その反応……やっぱりな」
聞き慣れた声が上から降ってきて、反射的にその相手を睨み付ける。
「おいおい、見間違うなよ?『俺』の方がはるかにいい男だぜ」
軽い口調と共に、赤い髪の青年が切り立った崖の上から飛び降りてきた。
「ラン……ディ?」
人懐っこい笑みを浮かべたその顔を見て、ロイドは呆然としてしまった。
「お前ってほんと下手すぎ」
あれでは何かあったと言っているようなものだ。
スピーカー越しのやり取りを思い出し、ランディがわざとらしく肩を竦めてみせた。
彼はロイドが合流を断った時、直感的に模倣擬体とやり合ったのではないかと思った。
普段なら二つ返事で申し出を受け入れる場面で、わざわざ距離を置いたのだから。
「な、なんでいるんだよ?」
「ここいらには縁があるからな。ショートカットできる裏道なんていくらでも知ってるぜ」
もっともな疑問を受けて得意げに答えたランディは、ロイドの安否を確認して安堵した。
だが、彼の側へ歩み寄った途端に気色ばむ。
一戦交えたであろうロイドは、もちろん無傷ではなかった。
その傷の負い方を見て、ランディはすぐに戦闘時の状況を把握した。
「ロイド……」
戯けた色は消え失せ、静かな怒気を滲ませて相手の胸ぐらを乱暴に掴む。
「俺は躊躇するなとは言ったが、銃口に向かって突っ込めとは言ってねぇ」
発せられた低い声は、普段の軽さが嘘のように凄みがあった。
突き刺さるような鋭い眼光を受け、ロイドの身体が萎縮する。
ベルゼルガー相手に正面突破など、無謀としか言いようがない。
ランディが怒るのも当然だ。
それでも、あの時のロイドには決して譲れない想いがあった。
「……許せなかった」
軋むほど強く歯を噛みしめ、拳を握る。
「あいつが、あれを持っている姿が!どっちも偽物だと分かってても許せなかった!」
激昂した瞳で真正面から赤毛の青年を睨み返し、叫びにも似た声を上げる。
「ランディとベルゼルガーのことなんて、何一つ知らないくせに!」
感情が高ぶっているせいか目元が潤んでいたが、それでも顔を逸らそうとはしなかった。
束の間、質の違う互いの怒りがぶつかった。
静寂の中で無言のにらみ合いをする。
先に折れたのはランディの方だった。
わずかな吐息と共に、胸ぐらを掴んでいた手を離す。
「ったく、お前ってヤツは」
どこまでも真っ直ぐで熱の籠もった眼差しには、いつだって適わない。
それが強く想われているがゆえのこととなれば、尚更だった。
「分かったから、そんな目で見るなって」
彼は銃弾がかすめたロイドの頬へ、宥めるように唇を寄せた。
驚いて跳ねた身体を抱き寄せ、その頭部を優しく叩く。
(……本物だ)
その心地良い温もりを受けたロイドは、荒ぶっている心が一気に収まっていくのを感じた。
確かめたかった存在が今ここにある。
自分の方からも触れたくて、彼の背中に腕を回そうとした。
だが、その時。
空からポツリと落ちてきた雨粒に邪魔をされてしまった。
「あ~、やっぱり降ってきやがった」
ランディが嫌そうな声で薄暗い空を振り仰ぐ。
「いい加減、早く帰って手当てしないとな」
そう言葉を続け、ゆっくりと抱擁の腕を解いた。
「あ、うん……そうだな」
ロイドにしてみれば、その触れ合いは一瞬に等しかった。
物足りなさを感じてしまい、無意識の内に寂しそうな表情をする。
(仔犬みたいなツラしてんな)
それを見逃さなかったランディは苦笑したが、こんな時に彼をからかうのは酷だろうとも思った。
おもむろに自分の上着を脱ぎ、それをロイドに羽織らせる。
「代わりにこれで我慢しとけ」と言ってやりたい気持ちを抑えて、別の言葉を口にした。
「その身体で雨に濡れるのは良くねぇからな」
本降りになる気配はなさそうだが、雲の隙間からは不規則に雨が落ちてくる。
「これじゃ、ランディの方が濡れるだろ?」
「気にすんなよ。っていうか、帰るまで返却不可なんで」
ロイドはすぐにそう言ったが、上着の主には軽くあしらわれてしまった。
そのことを申し訳ないと思いつつも、密かに胸を撫で下ろす。
(これ……温かいな)
少し大きすぎるけれど、それが逆に包み込まれているという感覚をより強くさせる。
もっと感じていたくて、肩に掛かっているだけの上着を胸元に手繰り寄せた。
離れてしまった優しい腕の代わりを得たロイドは、嬉しげに目を細める。
満たされない寂しさが、ゆっくりと解けていくようだった。
肩を並べて歩く道すがら、ランディがふと口を開いた。
「あー、そうそう。さっきは折れてやったけど、俺はまだ怒ってんだよなぁ」
「え?」
聞こえてきた声は少し硬質で、不安になったロイドの足が止まってしまった。
「無謀なことやってくれた件は……後で『お仕置き』な」
「な、なに言ってんだよ」
不穏な言葉が耳に届き、思わず狼狽えながら後退る。
ランディは自分の上着の色に染まっているロイドを満足げに眺め、逃げる腕を掴んだ。
「今日一日、これでもかってくらいに甘やかしてやるから、覚悟しとけ」
負傷した彼の身体を気遣いながらも、そのまま引っ張って再び歩き出す。
為すがままにされているロイドは、垣間見た恋人の横顔に既視感を覚えた。
状況はまるで違ったが、不敵に口角を吊り上げる様が重なる。
(似てる……でも)
あの時。焔の中で別れを告げる彼を見て、両手の震えが止まらなかった。
けれど、今はその手に確かな温もりがある。
(でも、やっぱり違うんだ)
込み上げてくるものが目の端に滲み、赤い長髪を揺らしている背中がぼやけた。
悟られたら確実にからかわれるだろうと思って、強引に空いてる手でそれを拭う。
そして、ロイドはようやく小さな笑顔を見せた。
沈んでいた空は次第に明るさを帯び、そろそろ雨も上がりそうだった。
2021.04.07
#創畳む
偽ロイドとランディ
創・恋人設定
模倣擬体ロイドVSランディな話。SS三部作になっています。
【文字数:4200】
【欠けた紛い物】
どこから視線を感じる。
それはとても好意的とは言えない類いのものだ。
ランディは気づかぬふりをして街道を歩いていたが、やがて足を止めた。
(この気配……似てるな)
わざと舗装された道を逸れ、背の低い草むらを踏み締めながら人々の往来から距離を取る。
少し拓けた場所に出たところで彼は声を発した。
「あいにくと、昨日お熱い夜を過ごしたばかりなんだが」
皮肉交じりに口元を歪めた瞬間、茂みの奥から黒い影が躍り出た。
そのまま突進するかのような勢いで瞬時に距離を詰め、一対のトンファーを振るう。
それはランディにとって見慣れた者の動きだった。
スタンハルバードで容易く受け流すと、間髪入れずに連撃を打ち込んでくる。
「はっ、随分と熱烈なラブコールじゃねぇかよ。ロイドくん」
小回りの利く武器で懐に潜り込まれるのは厄介だが、ランディは涼しい顔で軽口を叩きながら、僅かな隙を突いて自分の獲物を大きく振り払った。
その重い衝撃波が真正面からロイドに直撃した。
だが、咄嗟に防御の態勢を取っていた彼は、土煙を上げて後退しながらも倒れ込むことはなかった。
粉塵の中、顔の前で交差させたトンファーの隙間から鋭い眼光を覗かせている。
「おい、おい、怖い顔しやがって」
相手との距離ができたことで、ランディは改めてその姿を観察した。
やはり姿形も立ち振る舞いも寸分違わない。
戦闘中の動作や癖も完全に同じだ。
今まで情報として脳内にあった模倣擬体という存在が、目の前に実体としてある。
しかも、あろうことか彼の大切な人物の容姿を纏って。
昨夜、腕の中に囲って睦言を囁いた。
乱れた吐息と火照った身体の感触がまざまざと蘇る。
久しぶりだったせいか、抑えが効かなくなりそうだった。
無意識で素肌に甘噛みの痕を散らし、朝になってから起きがけに怒られた。
「見える所につけるな」と。
静かに、ランディの瞳に怒気が揺らめいた。武器を握る両手に力が籠もる。
「……足りねぇな。この出来損ないが!」
感情を乗せた言葉と共に相手へと肉迫し、強烈な一撃を放つ。
纏わりつく赤い闘気が地面を伝い、勢いよく爆ぜた。
ロイドが一瞬ひるんだのを見逃さず、すぐさま追撃を繰り出す。
防戦するトンファーと交わり、金属が擦れる耳障りな音が響いた。
「あいつの打撃は重くてバカみたいに熱い。そんなんでガワだけ使うんじゃねぇよ」
ランディは敵意も露わな茶色の眼を至近距離で捉え、襟元から覗く肌を一瞥してから冷笑した。
そのまま力任せに相手を押し切り、強引に吹き飛ばす。
「俺は紛い物に同情するほど優しい男でもないんでな」
よろめきながら立ち上がるロイドに、冷徹で容赦のない一撃が振り下ろされた。
黒焦げになった地面には未だ煙が燻っている。
一切の物証を残さない身体なのだろうか。
彼は損傷した部位から発火し、高温の炎に巻かれて跡形もなく全てが消え失せた。
「……くそっ、後味悪すぎんだろうが」
しばらくその痕跡を見ていたランディは、頭を振りながら吐き捨てるように言った。
それから無言で周囲の様子を確認し、ようやくその場から離れる気になった。
これ以上ここに留まっていても得られる情報はないだろう。
さっき来た道を戻りながら街道へ向かう足は軽快とは言い難い。
掻き乱された感情を宥める最中、燃えさかる炎の中に立つロイドの姿がチラついた。
「あいつは……違う」
ランディはポケットの中からARCUSⅡを取り出した。
頭では分かっているのに、『本物』を確認したくなる。
回線を繋ぐと、程なくして欲していたものが聞こえてきた。
「ランディ、どうしたんだ?」
偵察中の仲間からの通信とあって、ロイドの声は少し硬い。
けれど、それだけでもランディの心を浮上させるには十分だった。
自然と口元が緩む。
「なんかお前の声聞きたくなっちまってさぁ」
「なんだよ、それ。何かあったんじゃないのか?」
訝しむ相手にいつもの調子が戻ってきた。
「お前の幻なら見たぜ。いやぁ、昨日の夜が激しすぎて余韻が抜けないんだよな~」
「バ、バカ!何言ってんだよ!!」
スピーカー越しにロイドの動揺が伝わってきて、今どんな顔をしているのかが容易に想像できた。
「気が緩みすぎだぞ。真面目にやれって」
「真面目も大真面目だぜ、こっちは」
小さな溜息が聞こえてきて、ランディは苦笑する。
草を踏み締める音が次第に小さくなり、綺麗に舗装された街道に出る手前で彼は足を止めた。
ふと、来た道を振り返る。
「帰ったら口直ししたいくらいにはな」
遠くで微かに立ち上る煙が見えた。
それを見つめる瞳からは軽妙さが消え、不快げな色の影が差し込んでいた。
【単純な男】
ロイドがそれを聞いたのは、仲間内で情報交換をしている時だった。
驚いてランディの方を見たが、彼は淡々とした口調で模倣擬体と一戦交えた時の様子を語った。
(……なんでだよ?)
自分の偽物が存在した事実よりも、それを『今』知ったことの方がショックだった。
解散後。
いつもなら仲間たちと雑談の一つでもしていく赤毛の青年は、足早にその場を後にしてしまった。
ロイドは慌てて彼を追いかける。
「ランディ!待てよ!」
強い調子で呼び止めると、長身の身体が振り返った。
「ほんと分かりやすいヤツだよな」
ランディは明らかに怒っている同僚の顔を見て口角を歪めた。
「なんで、あの時言ってくれなかったんだ?」
「は?言っただろ?」
「幻なんてふざけたこと……実際にやり合ったくせに」
ロイドは強く拳を握りしめ、平然とあしらってくる相手を睨み付けた。
なぜ、そんな重大なことをすぐに言ってくれなかったのか?と。
そんなに信用がないのか?と
突き刺さるような視線は、まるで責めているかのようだった。
「どうせ情報交換するのが分かってるんだから、その時でいいだろ」
居心地の悪さを感じたランディは、再び背を向けた。
「……そう何度も話したい話題じゃないんでな」
低くなった声と共に立ち去ろうとする。
その言葉を聞いた瞬間、ロイドは横っ面を張られたような気がした。
少しずつ遠退いていく姿に、あの時の問答を思い出す。
いつもの軽い調子だったから何も疑わなかった。
今考えれば、ランディが連絡を入れてきたこと自体を注視しなくてはいけなかったのに。
普段の言動はともかく、彼は偵察中に通信を使ってまで恋人の顔をするような男ではない。
どうして、それに違和感を覚えなかったのだろうか?
今更ながら、彼の心情を察してあげられなかった自分が嫌になってくる。
「俺……ほんとダメだな」
大きく息を吐き、距離ができてしまった不機嫌そうな後ろ姿に目をやる。
きっと、呼び止めてもさっきのように振り返ってはくれないだろう。
かといって、こんな状態のまま離れたくはなかった。
「──ランディ!」
地を蹴る足に力が籠もった。
その気配を感じているのに無視をする背中へ手を伸ばし、衣服を掴んで強引に動きを止める。
「おい、なにやって……」
ランディは呆れた様子で背後へ首を向けようとしたが、それよりも早くロイドに背中から抱き付かれ、一瞬にして身体が硬直した。
密着してくる体温が布越しに伝わってきてほのかに温かい。
脈打つ鼓動がわずかな振動を起こして背筋を這った。
「……ごめん、気付いてあげられなくて」
束縛の力が少しだけ強まり、それと同時に沈んだ声が唇から落ちた。
不甲斐なさを噛みしめて、ギュッと両目を閉じる。
「そりゃぁ、当然だろ?わざと勘繰られないように言ったんだからな」
だが、それに対して謝る必要はないと言外に滲ませたランディの表情は柔らかかった。
ふと、スピーカ越しのやり取りを思い出す。
あの時、声を聞いただけで心が浮上した。
今は身体の温もりを感じて、ざらついた感情が解けていく。
不愉快な出来事を頭の隅に追いやることは、意外にも簡単だったらしい。
「認めたくはねぇが……俺も案外、単純な男だったってわけかよ」
ランディは胸に回されたロイドの手を握りしめ、一つ呟いた。
恋人の一挙一動で面白いくらいに気分が変わる。
そんな自分が可笑しくて堪らなかった。
【幼稚な口直し】
青空の中に流れる雲をぼんやりと見上げる。
木々の隙間からは鳥たちの囀りが聞こえ、長閑な時間が流れていた。
「……なぁ、さすがにこれはないんじゃないか?」
立て膝で座っているロイドの視線は、どこか遠くを彷徨っている。
横たえている方の太股に頭部の重みがかかり、まともに顔を見るのはどうにも気恥ずかしかった。
「ありだ、あり。つれねぇな~、ロイドくんは」
「はぁ~、まったく。ひと眠りしたいなら普通に寝ろよ」
こめかみに手をやり、大きな溜息を吐く。
ランディは夜間にも偵察任務が入っており、仮眠を取るつもりのようだった。
本音としてはまだ側にいたい気分のロイドだったが、邪魔をするのも悪いと思い身を引こうとしたのだが。
なぜか、いきなり「枕を貸せ」と言われた。
それから強引に腕を引っ張られ、あれよあれよという間に膝枕状態にされてしまった。
「俺はどこでも寝れるから、気にすんなって」
「こっちが気にするんだよ。そもそも、俺の足が痺れるのはどうでもいいんだな?」
話している内にこの状況に慣れてきたのか、ロイドはようやく眼下の顔と向かい合った。
「そこまで長くねぇよ。お前も色々と忙しいだろうしな」
それが嬉しくて、ランディの表情が自然と柔和になる。
常日頃から仲間たちの中心を担う彼の負担を慮り、そんな言葉が口をつく。
それを聞いたロイドは、何度か目を瞬かせた。
この不本意な現状を受け、少しは棘のある語句でも重ねてやろうかという中で、優しい声が耳を打つ。
(俺のことより……甘えたいのはそっちじゃないのか?)
わざわざこんな行動を起こしているのだから、模倣擬体のことについては完全に気持ちが浮上したわけではないのだろう。
そう思ったら、勝手に空いている手が動いてしまった。
足の上に乗っている赤い頭を遠慮がちに撫でてみる。
「ははっ、なんだよ。ガキ扱いか?」
ランディは一瞬ひどく驚いたようだったが、すぐに声を立てて笑った。
「その……嫌だったか?」
「まさか。珍しいこともあるもんだと思ってな」
引っ込めようとしている手首を掴んで、そのままでいいと態度で示す。
再び視線を泳がせ始めた顔を見上げ、そこから首を辿って襟元の肌に散る赤い痕跡を盗み見た。
──今、ここに在る。
何よりも確かなものを手に入れたランディは、満足げに目を閉じた。
2021.03.04
2021.03.10
#創
畳む
創・恋人設定
模倣擬体ロイドVSランディな話。SS三部作になっています。
【文字数:4200】
【欠けた紛い物】
どこから視線を感じる。
それはとても好意的とは言えない類いのものだ。
ランディは気づかぬふりをして街道を歩いていたが、やがて足を止めた。
(この気配……似てるな)
わざと舗装された道を逸れ、背の低い草むらを踏み締めながら人々の往来から距離を取る。
少し拓けた場所に出たところで彼は声を発した。
「あいにくと、昨日お熱い夜を過ごしたばかりなんだが」
皮肉交じりに口元を歪めた瞬間、茂みの奥から黒い影が躍り出た。
そのまま突進するかのような勢いで瞬時に距離を詰め、一対のトンファーを振るう。
それはランディにとって見慣れた者の動きだった。
スタンハルバードで容易く受け流すと、間髪入れずに連撃を打ち込んでくる。
「はっ、随分と熱烈なラブコールじゃねぇかよ。ロイドくん」
小回りの利く武器で懐に潜り込まれるのは厄介だが、ランディは涼しい顔で軽口を叩きながら、僅かな隙を突いて自分の獲物を大きく振り払った。
その重い衝撃波が真正面からロイドに直撃した。
だが、咄嗟に防御の態勢を取っていた彼は、土煙を上げて後退しながらも倒れ込むことはなかった。
粉塵の中、顔の前で交差させたトンファーの隙間から鋭い眼光を覗かせている。
「おい、おい、怖い顔しやがって」
相手との距離ができたことで、ランディは改めてその姿を観察した。
やはり姿形も立ち振る舞いも寸分違わない。
戦闘中の動作や癖も完全に同じだ。
今まで情報として脳内にあった模倣擬体という存在が、目の前に実体としてある。
しかも、あろうことか彼の大切な人物の容姿を纏って。
昨夜、腕の中に囲って睦言を囁いた。
乱れた吐息と火照った身体の感触がまざまざと蘇る。
久しぶりだったせいか、抑えが効かなくなりそうだった。
無意識で素肌に甘噛みの痕を散らし、朝になってから起きがけに怒られた。
「見える所につけるな」と。
静かに、ランディの瞳に怒気が揺らめいた。武器を握る両手に力が籠もる。
「……足りねぇな。この出来損ないが!」
感情を乗せた言葉と共に相手へと肉迫し、強烈な一撃を放つ。
纏わりつく赤い闘気が地面を伝い、勢いよく爆ぜた。
ロイドが一瞬ひるんだのを見逃さず、すぐさま追撃を繰り出す。
防戦するトンファーと交わり、金属が擦れる耳障りな音が響いた。
「あいつの打撃は重くてバカみたいに熱い。そんなんでガワだけ使うんじゃねぇよ」
ランディは敵意も露わな茶色の眼を至近距離で捉え、襟元から覗く肌を一瞥してから冷笑した。
そのまま力任せに相手を押し切り、強引に吹き飛ばす。
「俺は紛い物に同情するほど優しい男でもないんでな」
よろめきながら立ち上がるロイドに、冷徹で容赦のない一撃が振り下ろされた。
黒焦げになった地面には未だ煙が燻っている。
一切の物証を残さない身体なのだろうか。
彼は損傷した部位から発火し、高温の炎に巻かれて跡形もなく全てが消え失せた。
「……くそっ、後味悪すぎんだろうが」
しばらくその痕跡を見ていたランディは、頭を振りながら吐き捨てるように言った。
それから無言で周囲の様子を確認し、ようやくその場から離れる気になった。
これ以上ここに留まっていても得られる情報はないだろう。
さっき来た道を戻りながら街道へ向かう足は軽快とは言い難い。
掻き乱された感情を宥める最中、燃えさかる炎の中に立つロイドの姿がチラついた。
「あいつは……違う」
ランディはポケットの中からARCUSⅡを取り出した。
頭では分かっているのに、『本物』を確認したくなる。
回線を繋ぐと、程なくして欲していたものが聞こえてきた。
「ランディ、どうしたんだ?」
偵察中の仲間からの通信とあって、ロイドの声は少し硬い。
けれど、それだけでもランディの心を浮上させるには十分だった。
自然と口元が緩む。
「なんかお前の声聞きたくなっちまってさぁ」
「なんだよ、それ。何かあったんじゃないのか?」
訝しむ相手にいつもの調子が戻ってきた。
「お前の幻なら見たぜ。いやぁ、昨日の夜が激しすぎて余韻が抜けないんだよな~」
「バ、バカ!何言ってんだよ!!」
スピーカー越しにロイドの動揺が伝わってきて、今どんな顔をしているのかが容易に想像できた。
「気が緩みすぎだぞ。真面目にやれって」
「真面目も大真面目だぜ、こっちは」
小さな溜息が聞こえてきて、ランディは苦笑する。
草を踏み締める音が次第に小さくなり、綺麗に舗装された街道に出る手前で彼は足を止めた。
ふと、来た道を振り返る。
「帰ったら口直ししたいくらいにはな」
遠くで微かに立ち上る煙が見えた。
それを見つめる瞳からは軽妙さが消え、不快げな色の影が差し込んでいた。
【単純な男】
ロイドがそれを聞いたのは、仲間内で情報交換をしている時だった。
驚いてランディの方を見たが、彼は淡々とした口調で模倣擬体と一戦交えた時の様子を語った。
(……なんでだよ?)
自分の偽物が存在した事実よりも、それを『今』知ったことの方がショックだった。
解散後。
いつもなら仲間たちと雑談の一つでもしていく赤毛の青年は、足早にその場を後にしてしまった。
ロイドは慌てて彼を追いかける。
「ランディ!待てよ!」
強い調子で呼び止めると、長身の身体が振り返った。
「ほんと分かりやすいヤツだよな」
ランディは明らかに怒っている同僚の顔を見て口角を歪めた。
「なんで、あの時言ってくれなかったんだ?」
「は?言っただろ?」
「幻なんてふざけたこと……実際にやり合ったくせに」
ロイドは強く拳を握りしめ、平然とあしらってくる相手を睨み付けた。
なぜ、そんな重大なことをすぐに言ってくれなかったのか?と。
そんなに信用がないのか?と
突き刺さるような視線は、まるで責めているかのようだった。
「どうせ情報交換するのが分かってるんだから、その時でいいだろ」
居心地の悪さを感じたランディは、再び背を向けた。
「……そう何度も話したい話題じゃないんでな」
低くなった声と共に立ち去ろうとする。
その言葉を聞いた瞬間、ロイドは横っ面を張られたような気がした。
少しずつ遠退いていく姿に、あの時の問答を思い出す。
いつもの軽い調子だったから何も疑わなかった。
今考えれば、ランディが連絡を入れてきたこと自体を注視しなくてはいけなかったのに。
普段の言動はともかく、彼は偵察中に通信を使ってまで恋人の顔をするような男ではない。
どうして、それに違和感を覚えなかったのだろうか?
今更ながら、彼の心情を察してあげられなかった自分が嫌になってくる。
「俺……ほんとダメだな」
大きく息を吐き、距離ができてしまった不機嫌そうな後ろ姿に目をやる。
きっと、呼び止めてもさっきのように振り返ってはくれないだろう。
かといって、こんな状態のまま離れたくはなかった。
「──ランディ!」
地を蹴る足に力が籠もった。
その気配を感じているのに無視をする背中へ手を伸ばし、衣服を掴んで強引に動きを止める。
「おい、なにやって……」
ランディは呆れた様子で背後へ首を向けようとしたが、それよりも早くロイドに背中から抱き付かれ、一瞬にして身体が硬直した。
密着してくる体温が布越しに伝わってきてほのかに温かい。
脈打つ鼓動がわずかな振動を起こして背筋を這った。
「……ごめん、気付いてあげられなくて」
束縛の力が少しだけ強まり、それと同時に沈んだ声が唇から落ちた。
不甲斐なさを噛みしめて、ギュッと両目を閉じる。
「そりゃぁ、当然だろ?わざと勘繰られないように言ったんだからな」
だが、それに対して謝る必要はないと言外に滲ませたランディの表情は柔らかかった。
ふと、スピーカ越しのやり取りを思い出す。
あの時、声を聞いただけで心が浮上した。
今は身体の温もりを感じて、ざらついた感情が解けていく。
不愉快な出来事を頭の隅に追いやることは、意外にも簡単だったらしい。
「認めたくはねぇが……俺も案外、単純な男だったってわけかよ」
ランディは胸に回されたロイドの手を握りしめ、一つ呟いた。
恋人の一挙一動で面白いくらいに気分が変わる。
そんな自分が可笑しくて堪らなかった。
【幼稚な口直し】
青空の中に流れる雲をぼんやりと見上げる。
木々の隙間からは鳥たちの囀りが聞こえ、長閑な時間が流れていた。
「……なぁ、さすがにこれはないんじゃないか?」
立て膝で座っているロイドの視線は、どこか遠くを彷徨っている。
横たえている方の太股に頭部の重みがかかり、まともに顔を見るのはどうにも気恥ずかしかった。
「ありだ、あり。つれねぇな~、ロイドくんは」
「はぁ~、まったく。ひと眠りしたいなら普通に寝ろよ」
こめかみに手をやり、大きな溜息を吐く。
ランディは夜間にも偵察任務が入っており、仮眠を取るつもりのようだった。
本音としてはまだ側にいたい気分のロイドだったが、邪魔をするのも悪いと思い身を引こうとしたのだが。
なぜか、いきなり「枕を貸せ」と言われた。
それから強引に腕を引っ張られ、あれよあれよという間に膝枕状態にされてしまった。
「俺はどこでも寝れるから、気にすんなって」
「こっちが気にするんだよ。そもそも、俺の足が痺れるのはどうでもいいんだな?」
話している内にこの状況に慣れてきたのか、ロイドはようやく眼下の顔と向かい合った。
「そこまで長くねぇよ。お前も色々と忙しいだろうしな」
それが嬉しくて、ランディの表情が自然と柔和になる。
常日頃から仲間たちの中心を担う彼の負担を慮り、そんな言葉が口をつく。
それを聞いたロイドは、何度か目を瞬かせた。
この不本意な現状を受け、少しは棘のある語句でも重ねてやろうかという中で、優しい声が耳を打つ。
(俺のことより……甘えたいのはそっちじゃないのか?)
わざわざこんな行動を起こしているのだから、模倣擬体のことについては完全に気持ちが浮上したわけではないのだろう。
そう思ったら、勝手に空いている手が動いてしまった。
足の上に乗っている赤い頭を遠慮がちに撫でてみる。
「ははっ、なんだよ。ガキ扱いか?」
ランディは一瞬ひどく驚いたようだったが、すぐに声を立てて笑った。
「その……嫌だったか?」
「まさか。珍しいこともあるもんだと思ってな」
引っ込めようとしている手首を掴んで、そのままでいいと態度で示す。
再び視線を泳がせ始めた顔を見上げ、そこから首を辿って襟元の肌に散る赤い痕跡を盗み見た。
──今、ここに在る。
何よりも確かなものを手に入れたランディは、満足げに目を閉じた。
2021.03.04
2021.03.10
#創
畳む
『好き』を伝えて
碧・恋人設定
オンオフの切り替えが苦手なロイドと、そんな彼からの愛情表現が欲しいランディとのバレンタイン話です。
【文字数:11000】
普段から特務支援課の面々が団欒を楽しんでいる一階のテーブルだが、今は三人だけが腰を落ち着かせている。
「ふぅ、温まりますね。エリィさん、ありがとうございます」
マグカップを両手で包み、たっぷりと注がれたココアを口にしたティオが息を吐いた。
「今日は肌寒かったものね。あ、でも少し熱すぎたかしら?」
「……問題ありません」
小さな唇を尖らせて息を吹きかけている姿は愛らしく、エリィは優しい微笑を浮かべる。
「ところで、ランディは本当によかったの?まだ作れるわよ?」
ティオと向かい合う形で座っているエリィが、横にいる赤毛の青年に声をかける。
彼女は自分たちの分を作る時に一度声をかけたのだが、その時は遠慮されてしまった。
ランディは面倒くさそうに報告書を作成している。
そんな横で二人揃って一息ついているのも忍びなく、もう一度聞いてみたのだが。
「それなら、これから帰ってくるヤツらに作ってやれよ。俺は酒の方がいいしなぁ」
今度もさり気ない配慮と共に軽くいなされてしまった。
「ランディさん、報告書も仕事の内です」
ティオが睨むとランディは片手をヒラヒラさせて苦笑した。
「はい、はい。分かってるっつーの」
今日の支援要請は小さな案件だが数が多く、人海戦術といった様相だった。
取捨選択は可能だが、やはり依頼された要請は極力こなしたい。
エリィとティオは組んでいたが、他のメンバーは個々に動いていた。
そんなわけで、書類と睨めっこをする性分ではないランディも報告書を書いている。
「誰か俺の代わりに書いてくれねぇかな~」
「もうっ、少しは集中しなさいよ」
彼が普段の言動に反して意外に真面目なことは二人も承知の上で、小言を向けつつも報告書に関しては心配する必要はなかった。
しばらくして、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
帰宅したのは支援課のリーダーであるロイドだった。
「みんな結構早かったんだな。あ、ワジとノエルはまだか」
彼は室内を見回し、現状を把握する。
「お帰りなさい、ロイド」
「あいつら街中だろ?そろそろ帰ってくるんじゃねぇの?」
「ワジさんはついでに遊んでいるかもしれません」
まさしく三者三様な応対をされ、ロイドは小さく笑った。
「そう言えば、帰る前に本部でフランからこれ受け取ったんだけど」
彼はテーブルの側までやって来て、持っていた紙袋をそこに置いた。
「なんか、特務支援課宛てにバレンタインだって」
袋の中身には統一感がなく、個人というよりは複数人の贈り物が詰め込まれているように見える。
きちんと包装されたそれらは、みな色鮮やかで綺麗だった。
「フランは『街の皆さんの感謝の気持ちです』とか言ってたけど」
ロイドは少し困惑顔で説明した。
「あら、それは嬉しいわね」
「チョコレートが食べ放題ということでしょうか?」
エリィとティオは椅子から腰を浮かし、興味深げに紙袋の中を覗き込んだ。
「感謝ねぇ……ちょいとこそばゆい感じだな」
ランディはペン走らせる手を止めて目元を緩めたが、何を思ったのか、ふと真顔になった。
「ちょっと待て。それって支援課と見せかけて実はロイド宛てとか……ありえそうじゃね?」
その言葉に場の空気が一瞬固まった。
「……ありえるわね」
「……可能性大かと」
女性二人のジト目がロイドに向けられた。
「ちょっ、ランディ!?変なこと言うなよ!」
「いやぁ、お前って天然たらしだしさ~」
彼女らの冷たい眼差しに後退ったロイドはランディに抗議したが、彼は頬杖を付きながらニヤニヤとするだけだ。
三対一ではさすがに分が悪い。
「だ・か・ら!フランは支援課の皆さんへって言ってたし!」
ロイドは頭を抱えたくなる思いで叫んだ。
「おやおや、うちのリーダーってば、また何かやらかしたのかい?」
そんな中、再び玄関のドアが開く音がした。
「え、えっと。ただいま戻りました」
涼やかな声の後に生真面目な帰宅の挨拶が続く。
道すがら、偶然居合わせた二人は一緒に帰ってきたのだが、ビルの前まで来た所でロイドの叫び声が聞こえてきた。
そして玄関をくぐってみれば、この状態である。
ロイドは仕事を終えた二人を労いつつも、手短に事の経緯を説明する。
「う、う~ん……ありえそうというか、なんていうか」
「ははっ、フランもはっきり言ってくれれば良いのにね」
彼にしてみれば多勢に無勢を何とかしたい状況だったのだが、どうにも上手くいかない。
「はぁー、何なんだよ……みんなして」
ロイドはふらふらと空いている席に座り、ふて腐れた様子でテーブルに突っ伏してしまった。
「ご愁傷様~」
「誰のせいだと思ってるんだよ」
真向かいで楽しそうにしている相棒に腹が立って、半眼じみた視線を送る。
「それで、これどうするのよ?ロイド」
「普通にみんなで分けてくれよ。俺のだって決まったわけじゃないし」
力の抜けきったリーダーの言葉に、五人は顔を見合わせた。
「なんだか受け取るのは気が引けますね」
ティオがそう呟くと、皆が同時に頷いた。
さて、どうしたものか?と思案する。
「あっ、ねぇ、ワジくん。君は毎年沢山もらってるんでしょ?」
すると、不意にノエルが口を開いた。
「え?あぁ。直接受け取るとキリがないから、トリニティ宛てにしてもらってるけど」
「涼しい顔でモテ自慢するなっつーの。で、結局どうしてるんだよ?」
彼女の意図を察したランディが嫌みを含んで問いかけると、ワジは明快に答えてくれた。
「気持ちだけ受け取っておくって感じかな。どうせ食べきれないなら手を出さない方が公平だしね。だから、スラムの子達にあげたり教会に寄付したりしてるよ」
「教会……それは名案だわ。日曜学校で子供たちに配ってもらえそうね」
エリィが目を輝かせながら感心した様子でワジを見ると、
「まぁ、伊達に教会とつるんでるわけじゃないからね」
彼は皮肉っぽく口角を吊り上げた。
取りあえず、方針は決まったらしい。
特に急を要するわけではないが、明日からはしばらく街の外へ出る案件が続くので、教会に寄る時間が取れそうもなかった。
「だったら、今日中に行った方が良さそうだな」
それを鑑みてランディは席から立ち上がり、未だに潰れているロイドの襟首を掴んだ。
「おい、ロイド。さっさと行ってこようぜ」
「は?なんでランディも行くんだ?」
促されたロイドは仕方なく立ち上がったが、彼の言い回しに疑問符を浮かべた。
「ランディ先輩、報告書を書いてる途中ですよね」
更にノエルが真面目な指摘をする。
「だな。まぁ、息抜きってことで。なんか肩も凝ってきた気もするし」
ランディはそれをあっさりと認め、悪びれる風もなく堂々と言ってのけた。
「そんじゃ、行ってくるぜ~」
「あーっ、もう!引っ張るなってば!」
それから、半ばロイドを引きずるような形で二階の裏口から外へ出て行ってしまった。
「……ほんとに書類仕事が嫌いですよね。ランディさんって」
静かになった部屋の中にティオの声が響く。
「それだけじゃないと思うけどね。まぁ、あの様子じゃ暫く帰ってこないんじゃない?」
「なんで?大聖堂だったら、そんなに時間はかからないと思うけど」
それに応じたワジが意味深げな発言をしたことで、ノエルが不思議そうに小首を傾げた。
「さぁ?なんでだろうね」
わざとらしく遠くに目をやった彼はどこか楽しげだった。
西通りを抜けて住宅街へと出る。
午後の時間帯を大分回り、空も夕刻に近づいてきた。
行き交う人々を目にするゆとりもなく、ロイドは仏頂面の早足で目的地へと向かっている。
「お~い。そろそろ機嫌直せよ~」
少し後ろを付いてくるランディが声をかけるも、応じる気配はない。
「……ああいう時はやたら団結するんだよな、みんなして」
そんな年下の同僚の態度を気にすることもなく、独り言のように吐き出された不満を拾い上げる。
「それだけあいつらに好かれてるってことだろ」
もちろん、そこに悪意など微塵もないことはロイドだって分かっている。
女性陣の視線がやけに冷たい時もあったりするが、大抵はその場の空気は明るい。
ふと、速かったロイドの足取りが緩んだ。
聞き逃してもいいくらいの愚痴に構ってくれるランディの優しさに、少しだけ心が軽くなる。
(……あれ?でも、今のは……)
だが、それがまるで当事者ではないような言葉選びだったと気づき、引っかかりを覚えてしまった。
(『あいつら』って言ったよな?)
彼の胸中が読めなかったが、問いかける言葉を見つけ出せず、ロイドは悶々としながら歩いた。
徐々に人気が少なくなり始め、マインツ山道への入り口までやって来た。
ここからクロスベル大聖堂は目と鼻の先だ。
会話らしい会話をしないままだった道中を過ごし、先にロイドの方が音を上げた。
「──なぁ、さっきの……ランディは?」
立ち止まって振り返る。
不機嫌だったこれまでとは違い、不安げな色が見え隠れしていた。
ランディはわずかに瞠目したが、すぐに言葉の意味を察して意地悪げに笑った。
「あぁ、それな。どっちの俺で言って欲しいの?好かれてるって」
一瞬、何を言っているのかが分からなかった。
「ど、どっちって……え?あっ!?」
ロイドはしばらく頭を回転させた後、ようやくそれに気が付いた。
「今は二人だけだし。ほら、選べよ」
つまりは、同僚なの?恋人なの?と。
ランディにとってこんな線引きはあってないようなもので、そもそも気にする性格ではない。
だが、真面目なロイドはそういうわけにもいかず、リーダーとしての責任感も相まってか、そういった立場の切り替えが面白いくらいに下手だった。
普段はそんな不器用な線引きに付き合ってあげているのが常だ。
しかし、たまにそんな彼の手を引く形で強引に場を作る。
たまには甘えたらどうだ?と言わんばかりに。
「ちょっ……と、待って」
魅力的な誘いを受けたロイドの心がぐらりと揺れた。
「でも……」
けれど、手に持っている紙袋を意識して眉を寄せる。
「支援課宛てだったし……う~ん……」
これを無事に教会へ寄付するまでは仕事なのではないかと、思ってしまった。
「おい。そこ、悩むとこなわけ?」
何やら葛藤している彼の姿が可笑しくて、ランディは思わず吹き出しそうになった。笑い混じりの言葉で遠回しに返事を急かしてみる。
「あ、ごめん。えっと、その……半分ずつとか」
ハッとしたロイドは、定まりきらない胸の内から無理矢理に答えを絞り出した。
それはそれは困ったような顔をして。
──数拍。二人の間に奇妙な空気が流れた。
ランディは予想外な返答に唖然としたが、すぐに気を取り直してロイドの側に歩み寄った。
「はぁ~、お前ってやつは」
大袈裟なくらいの溜息を吐き、癖のある茶髪を捕まえて容赦なく掻き乱す。
「い、痛いって」
武骨で大きな手は荒々しいようでいて、少し優しかった。
思いのほか強い力を受けたロイドが首を竦ませる。
「ここまで不器用すぎると、いっそ笑えるぜ」
ランディは呆れた様子を見せつつも、その中途半端な答えを無下にはしなかった。
彼にとってみれば馬鹿げた葛藤の類いだが、それすら微笑ましいと思えるくらいには惚れている。
「ほら、もう行くぞ」
心なしか元気のない背中を軽く叩き、止まった足を大聖堂へと向かわせる。
渋々と歩き始めたロイドの横に並び、彼を見下ろす両眼が愛おしげに緩んだ。
穏やかに雲が流れる空は、茜色に染まり始めている。
大聖堂に足を踏み入れた二人は、夕空で不思議と温かな色を纏ったステンドグラスに感嘆を漏らした。
「あら、ロイド。久しぶりね」
すると、落ち着きのある女性の声が聞こえてきた。
「マーブル先生。ご無沙汰しています」
ロイドの顔がパッと明るくなり、優しげな風貌のシスターに会釈をした。
ランディもそれに習って軽く挨拶をする。
彼らは日頃から懇意にしている彼女を訪ねる予定だったので、丁度良いタイミングだった。
ロイドが事の一部始終を説明すると、マーブルは静かに微笑んだ。
「まぁ、随分と立派になって」
日曜学校の先生である彼女にとって、教え子の成長や活躍は何より嬉しいものである。
そんな二人の和やかなやり取りを、ランディは黙って見つめていた。
特務支援課の中では茶化していたが、今は無粋というものだ。
何よりも、ロイドの気持ちが浮上していることが分かって安堵した。
マーブルはロイドたちの意向を快く受け入れてくれた。
目的を果たした彼らは大きな扉を開き、荘厳な建物から外へ出る。
空はいよいよ赤みを増していた。
ここを通った時、建物の前で遊んでいた子供たちの元気な声も今は聞こえない。
先を行くランディの背中は夕焼けに染まり、それを見たロイドは急に寂しさが込み上げてきた。
(まだ……一緒にいたいな)
このまま真っ直ぐに帰宅してしまうのが勿体なかった。
さっきまで紙袋で塞がっていた手を見つめ、なんの枷もないことを確認する。
今、悩む理由はどこにもないように思えた。
彼が用意してくれた二人だけの時間はまだ有効だろうか?
「なぁ、ランディ」
ロイドは墓地の方へ向かう道に目をやり、ポケットに手を入れてのんびりと歩く後ろ姿を呼び止めた。
「少しだけ兄貴のとこ寄ってもいいか?」
揺れていた鮮やかな色の長髪がピタリと止まる。
「ははっ、言うと思ったぜ。俺も挨拶の一つくらいはしとこうかねぇ」
振り返ったランディは、予想通りとばかりに破顔した。
これから墓参りというには遅い時間帯になってきた。
案の定、踏み入れた墓地の敷地内に人の気配はない。
草を踏み締める二人の足音だけが、静寂の中で響いた。
今は亡き兄の墓前にやって来たロイドは、静かに目を閉じた。
ここに立つと様々な思い出が一気に頭へ流れ込んでくる。
彼にとっては、その一つ一つが大切な宝物だ。
「……ふふっ」
不意にロイドが小さく笑った。
彼の邪魔をしないようにと、一歩後ろで見守っていたランディが不思議そうな顔をする。
「なんだよ?急に」
「あぁ、今日ってバレンタインだろ?そう言えば、セシル姉が毎年手作りのチョコ作ってたなぁって」
開いた茶色の瞳が懐かしげな様相で墓を見つめている。
「でも、兄貴ってば色んな所を走り回ってたからいつもいなくてさ。当日に渡せてたことなんてほとんどなかったけど、セシル姉は『遅れてもきちんと渡せているから良いのよ』って笑ってた」
その笑顔が記憶の中で鮮明に蘇った。
「セシルさんのチョコとか、羨ましすぎんだろうが。どうせお前も貰ってたんだろ?」
そんな在りし日の思い出に噛みついたランディは、本気で悔しそうにしている。
「いや、俺のはついでだからな!」
ロイドは勢いよく振り返って言い返したが、思いきり肯定する形になってしまった。
「……ったく、これだから弟くんはよぉ」
ランディはブツブツと言いながら頭を掻いていたが、しばらくしてから急に真顔になった。
「──で、お前は俺になんかくれねぇの?」
過去の思い出話から今の自分に話を振られ、ロイドは目を丸くした。
もちろんバレンタインの趣旨は理解しているのだが、やはり女性のものというイメージが強くある。
だから、それに自分が当てはまるとは思っていなかった。
「俺が渡す側になるのか?」
念のために聞いてみると、
「そりゃそうだろ。俺は常日頃からお前に愛情表現しまくってるからな」
ランディは当然とばかりに、恥ずかしげもなく言ってのけた。
「それとも、なに?まだ足りないとか?」
「そんなこと言ってないけど!?」
からかう声音の中に微かな色気を感じ、ロイドは思わず後退った。
「だったらやっぱりお前の方からだな」
こういったやり取りでは、いつもやり込められて退路を塞がれてしまう。
優柔不断な態度を優しく受け止めてくれたかと思えば、今度は強引に我を通そうとする。
いつもの軽妙な言動の内側にある思慮深さとは別に、己の欲に忠実な顔が露わになった。
それはロイドだけが知っている姿で、少なからず優越感を覚える。
『今はどっちなの?』と聞くのが可笑しくなるくらい、彼は恋人の顔を見せてくる。
けれど、こうも軽々と振り回されてしまっている状態は面白くなくて、ついそっぽを向いてしまった。
「全然そんなつもりはなかったから、何も用意してないぞ」
別に意地悪のつもりで言っているわけではなく、本当のことだ。
今の今まで、頭の片隅にもなかった。
「……マジで?はぁ~、俺って愛されてねぇな~」
それを聞いたランディは、脱力してその場にしゃがみ込んでしまった。
「まぁ、お前らしいっつーか……いや、それにしたってもうちょい……こう、さぁ……」
独り言のような小さな声は明らかに沈んでいて、演技などではなく本気で落ち込んでいる。
(そ、そこまでなのか?)
そんなランディの落胆ぶりをロイドは凝視した。
欲しいなら欲しいと前もって言ってくれれば良かったのに。
ついそう言いたくなったが、夕刻に染まる大きな身体がもの悲しげに見えてしまい、口を噤む。
納得はいかないけれど、じわりと罪悪感が滲んできた。
「ごめん。そんなに欲しかったなんて知らなくて」
こうなってくると、もう自分が悪いようにしか思えなくなってくる。
(今からでも何か用意した方がいいのかな?)
この現状にどう対処するべきなのかと、困惑気味な頭をフル回転させる。
ランディはしゃがみ込んだまま、困り顔で一生懸命に思案しているロイドを盗み見た。
なにせ顔に出やすい性格だ。
彼が考えていることの大半は分かってしまう。
(分かってねぇなぁ。俺が欲しいのは『物』じゃないって)
何日も前から強請っていれば、きっと彼は何かしらの贈り物をくれただろう。
けれど、それでは意味がいない。
本当に欲しいのは、ロイドが主体的に向けてくる好意の言動だ。
彼の人となりを思いつつ、望みが薄いのは承知の上で、ほんの少しだけ期待してみたかった。
(まぁ、この場所じゃ不利すぎんだけどな)
無謀なことをしているのは分かっているつもりだ。
低くなっている視界にはロイドの足元があり、その先に彼の兄の墓が入ってくる。
(けど、負け戦はかっこ悪すぎんだろ?)
転んでもタダでは起きない。
茜色が差し込んだ翡翠を模した瞳は不思議な色を放ち、どこか蠱惑的にも見えた。
ランディはロイドを見上げて一つ口を開いた。
「だったら、お前からのキスで帳消しにしてやるよ」
二人だけしかいない墓地の一角で、ロイドがそれを聞き逃すはずもなかった。
からかわれているのかと思って言い返そうとしたが、そこに戯けた表情はなく息が詰まりそうになる。
「あ……の、それは……」
再び後退ろうとしても今度は足を動かせない。すぐ後ろは兄の墓だ。
そもそも、彼には元から選択肢など存在しなかった。
ランディを落ち込ませたのは自分のせいで、全面的に自分の方が悪いのだと思い込んでいるのだから。
「ほんとに帳消しか?」
「そのくらいは信用しろよ。で、どうすんの?」
ロイドが恐る恐る尋ねてみると、あっさりとした返答があった。
どうやら謀るつもりはないらしく、ホッと胸を撫で下ろす。
「…………だったら、やる」
手の平を握りしめ、言葉少なに頷いた顔には羞恥の色が浮かぶ。
「交渉成立だな。ほら、こいよ」
それを見たランディはようやく頬を緩ませ、誘うように手を伸ばした。
(──あぁ、そうか)
そんな彼の嬉しそうな仕草を見た瞬間、ロイドは気が付いてしまった。
今まで一度だって自分からこんな行為をしたことはない。
いつも愛情を与えてもらうばかりで、それが当たり前だと錯覚をしていた。
惜しげもない包容力の裏側で、彼が何を渇望しているのかを知らずに。
(俺……いつもちゃんと伝えてなかった)
ロイドは伸ばされた手を掴み、しゃがみ込んだままでいるランディの前で膝を落とした。
「えっと……さすがに目は閉じてほしいかも」
「はい、はい」
緊張と恥ずかしさを誤魔化すように注文をつけてみたら、どことなく浮かれた声が返ってきた。
それが普段の彼よりも子供っぽく感じられ、珍しい姿に愛おしさが募っていく。
自然と肩の力が抜けて身体が動いた。
一度、唇同士が触れるだけの軽い口付けを贈る。
帳消しの条件ならそれだけでも良かったはずなのに、このまま離れてしまうのが嫌だと思った。
今は想いが止めどなく溢れ出る。
もう一度、今度は遠慮がちに舌を差し入れた。
いつも受け身に回っているせいで、いまいち勝手が分からない。
そんなロイドの行動はランディを驚かせたが、それも一瞬だけだった。
すぐに不器用でたどたどしい愛撫に応える。
手慣れた彼にしてみれば物足りない行為だが、だからといって主導権を握りたいとは微塵も思わなかった。
これはロイドからの愛情表現だ。
到底不利なこの場所で、欲していたものを味わえることに心が高揚する。
ひとしきり舌先を絡ませた後、悩ましげな吐息と共に唇を離したロイドを見つめ、ランディは微笑した。
「なんだよ。てっきりガキみたいなキスで済ますのかと思ってたぜ」
「うっ……そ、そのつもりだったけど」
言葉とは裏腹、彼の目には揶揄の色などはなく、嬉しそうで優しい表情をしている。
「…………したくなった」
そんな眼差しを受け止めきれず、羞恥心が沸騰したロイドは相手の肩口に顔を埋めた。
空は茜色から群青色にさしかかり、耳や首元まで真っ赤なことを誤魔化しようがなかった。
「おいおい、あんまり俺を喜ばせんなよ?」
抑えていないといくらでも口元が緩んでしまいそうになる。
ランディは熱を持った首筋を撫でながら、チラリと墓石の方を見た。
静かに眠るその人物に対して嫉妬がないと言えば嘘になる。
「そんじゃ、ご機嫌ついでにお返しってことで」
指先が耳元を辿り、そこへ唇を寄せた。
思わず身体が跳ねたロイドを無視して、耳の外郭を添うように舌を這わせる。
それはまるで誰かに見せつけているみたいに緩慢な動きだった。
「ラ、ラン……ディ、待っ……」
震える声で制止をかけられ、耳朶に噛み痕を残す。
「──っ!?」
唐突に痛みを受けたロイドは反射的に顔を上げて距離を取ろうとしたが、いつの間にか腰を抱かれていて思うように動けなかった。
「な、何やってんだよ!?」
火照った顔のまま至近距離でランディを睨み付ける。
弄られた耳を手で押さえ、甘く痺れるような痛みを必死に堪えた。
「何って、さっきお前の兄貴に挨拶の一つでもって言っただろ」
動揺を隠しきれない彼に対し、余裕綽々といった風にランディが笑う。
「言ったけど、それとこれとは全然違うし!」
「俺にとっては同じようなもんだ。さて……と。ご挨拶も済んだし、そろそろ行くか」
噛みついてくるロイドを軽くあしらい、立ち上がろうと身体を起こした。
同時に彼の腕を掴んで強引に引き上げる。
ランディはやりたいことをやって満足なのか、あっさりと束縛を解いて先に歩き出してしまった。
「──え?」
急に密着していた温もりが遠退き、喪失感に襲われたロイドは目を瞬かせながらその場に立ち尽くす。
(嫌だ。離れたくない)
一気に強い気持ちが沸き立った
耳朶の噛み痕が燃えるように熱い。
返された愛情に全身が浸食されていくような気がした。
(俺はまだ……側にいたい)
彼は振り返ることのない背中に焦りを覚え、慌てて追いかけようとした。
だが、一瞬だけ足を止めて兄の墓に目を向ける。
「兄貴、また来るからな」
日が落ちて夜の色に染まり始めた大切な故人を背に、ロイドは今度こそ駆け出した。
【おまけSS】
「少し涼みたい」と言ったのはロイドの方だった。
今はこのまま平然と帰れるほどの心境ではなく、まだ多少の時間が欲しかった。
ランディは小さく笑ったが、茶化すことはなく快諾してくれた。
街中をのんびりと歩きながら港湾区へ向かう。
風に当たりたいのなら丁度良い場所だ。
当たり障りのない雑談を主導し、相手が落ち着けるようにと仕向ける。
彼のこういったさり気ない優しさは、流れるように自然だ。
そのお陰か、目的地に着く頃にはロイドも幾分か落ち着きを取り戻していた。
水辺特有の冷たい風が今は心地良い。
ロイドは辺りを見回して小首を傾げた。
「今日は人が多いのかと思ってたけど、そうでもないな」
「そろそろ夕飯時だしな。よろしくやりたいヤツらはもうちょい後だろ」
彼の疑問を察し、ランディはそう応えた。
自分たちのことを意識させないようにと言葉を選びながら。
「あ、そう言えば。キーアたちから貰ったチョコ、食べたか?」
そんな気遣いも露知らず、ロイドは今日の日の話題で連想中だ。
「あぁ、あれな。食った食った。ブランデー入ってて美味かったぜ」
「え?俺のは普通だったけど。もしかして、それぞれに作ってくれたとか?」
「それっぽいな。いや~、俺たち愛されてんな」
ロイドたち男性陣は朝食の後、キーアにチョコレートを手渡された。
昨晩、彼女を含めた女性陣が楽しげに台所を占領していた。
薄々気が付いてはいたが、いざ貰うとやはり嬉しいものである。
ちなみにティオは、ツァイトにも何か用意していたという話だ。
二人はそんな彼女たちの様子を思い浮かべ、嬉しそうに笑い合う。
「──あっ」
しかし、ロイドはまだ連想中だった。
「今度は何だよ?」
問いかける声に、考え込むような仕草を見せる。
「う~ん。俺、思ったんだけどさ。寄付したチョコ……あれってランディ宛だったりしたのかもなって」
「はぁ?お前、まだ根に持ってんのかよ」
「そうじゃなくて!貰ってたって全然おかしくはないだろ?」
どこか呆れた様子の顔を向けられ、ロイドは声を強めた。
「あり得ねぇな」
「何でそう言い切れるんだよ」
はっきりと否定されるのは面白くない。
「どう見ても義理じゃなかっただろうが」
「……義理だったら貰うのか?」
どうしても噛みつきたくなってしまう。
なんで今の今まで気が付かなかったのだろう。
(こんなに格好良くていい男なのに)
特に今日だったら、誰かに言い寄られていても不思議ではない。
せっかく落ち着いてきていた心の中に、今度は不穏なさざ波が立つ。
「だったら、今日は……」
「やめとけ」
誰かに貰ったのか?と言うとした口が大きな手によって塞がれた。
「──うぅ!?」
「余計なこと考えるんじゃねぇよ」
上目遣いで抗議を露わにすると、存外に真面目な瞳とぶつかった。
「嫉妬なんてらしくないだろ?……何も受け取ってない。相手には悪いけどな」
この感情を的確に表現され、ロイドは目を見開いた。
今日は『帳消し』の件からずっと、どこかがおかしい。
彼と離れたくなくて、独り占めしていたくて堪らない。
自分が自分じゃないみたいだと思った。
「分かったか?」
降り注いだ静かな声に何度か頷いてみせると、ランディは塞いでいた手を退けてくれた。
その動きをどうしても目が追いかけてしまう。
耳元を辿った指先の感触を思い出し、噛み痕に熱がぶり返す。
ロイドは無意識のうちに離れていく手を掴んだ。
心の底に眠っていた独占欲に引っ張られて、唇から言葉が零れ落ちる。
「……今夜、部屋に行っても……いいかな?」
囁くようなそれは水気を含んだ風に紛れ、今にも消え入りそうだった。
断る理由なんてありはしない。
それでもランディの胸中は複雑だった。
「ったく、お前は。『涼みたい』とか言ってた口で、墓穴掘りまくりやがって」
ロイドからのお誘いに喜びつつも、この変貌ぶりでは少し心配にもなってしまう。
この道中、彼を落ち着かせようと気を配っていたが、肝心の相手は掘削作業に忙しないようだ。
「これじゃ、またしばらく帰れないな」
ランディは苦笑しつつ、空いている方の手でロイドの頬を軽く叩いた。
街灯に照らされた顔がやや赤みを帯びている。
「ご、ごめん」
彼は小さな声で謝る姿を愛おしげに見やった後、ふと夜空を見上げた。
そろそろ帰宅の催促を兼ねてエニグマの呼び出し音が鳴りそうな気がする。
もういっそのこと、このままホテルにでも連れ込んでしまいたいと思った。
2021.02.14
#碧畳む
碧・恋人設定
オンオフの切り替えが苦手なロイドと、そんな彼からの愛情表現が欲しいランディとのバレンタイン話です。
【文字数:11000】
普段から特務支援課の面々が団欒を楽しんでいる一階のテーブルだが、今は三人だけが腰を落ち着かせている。
「ふぅ、温まりますね。エリィさん、ありがとうございます」
マグカップを両手で包み、たっぷりと注がれたココアを口にしたティオが息を吐いた。
「今日は肌寒かったものね。あ、でも少し熱すぎたかしら?」
「……問題ありません」
小さな唇を尖らせて息を吹きかけている姿は愛らしく、エリィは優しい微笑を浮かべる。
「ところで、ランディは本当によかったの?まだ作れるわよ?」
ティオと向かい合う形で座っているエリィが、横にいる赤毛の青年に声をかける。
彼女は自分たちの分を作る時に一度声をかけたのだが、その時は遠慮されてしまった。
ランディは面倒くさそうに報告書を作成している。
そんな横で二人揃って一息ついているのも忍びなく、もう一度聞いてみたのだが。
「それなら、これから帰ってくるヤツらに作ってやれよ。俺は酒の方がいいしなぁ」
今度もさり気ない配慮と共に軽くいなされてしまった。
「ランディさん、報告書も仕事の内です」
ティオが睨むとランディは片手をヒラヒラさせて苦笑した。
「はい、はい。分かってるっつーの」
今日の支援要請は小さな案件だが数が多く、人海戦術といった様相だった。
取捨選択は可能だが、やはり依頼された要請は極力こなしたい。
エリィとティオは組んでいたが、他のメンバーは個々に動いていた。
そんなわけで、書類と睨めっこをする性分ではないランディも報告書を書いている。
「誰か俺の代わりに書いてくれねぇかな~」
「もうっ、少しは集中しなさいよ」
彼が普段の言動に反して意外に真面目なことは二人も承知の上で、小言を向けつつも報告書に関しては心配する必要はなかった。
しばらくして、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
帰宅したのは支援課のリーダーであるロイドだった。
「みんな結構早かったんだな。あ、ワジとノエルはまだか」
彼は室内を見回し、現状を把握する。
「お帰りなさい、ロイド」
「あいつら街中だろ?そろそろ帰ってくるんじゃねぇの?」
「ワジさんはついでに遊んでいるかもしれません」
まさしく三者三様な応対をされ、ロイドは小さく笑った。
「そう言えば、帰る前に本部でフランからこれ受け取ったんだけど」
彼はテーブルの側までやって来て、持っていた紙袋をそこに置いた。
「なんか、特務支援課宛てにバレンタインだって」
袋の中身には統一感がなく、個人というよりは複数人の贈り物が詰め込まれているように見える。
きちんと包装されたそれらは、みな色鮮やかで綺麗だった。
「フランは『街の皆さんの感謝の気持ちです』とか言ってたけど」
ロイドは少し困惑顔で説明した。
「あら、それは嬉しいわね」
「チョコレートが食べ放題ということでしょうか?」
エリィとティオは椅子から腰を浮かし、興味深げに紙袋の中を覗き込んだ。
「感謝ねぇ……ちょいとこそばゆい感じだな」
ランディはペン走らせる手を止めて目元を緩めたが、何を思ったのか、ふと真顔になった。
「ちょっと待て。それって支援課と見せかけて実はロイド宛てとか……ありえそうじゃね?」
その言葉に場の空気が一瞬固まった。
「……ありえるわね」
「……可能性大かと」
女性二人のジト目がロイドに向けられた。
「ちょっ、ランディ!?変なこと言うなよ!」
「いやぁ、お前って天然たらしだしさ~」
彼女らの冷たい眼差しに後退ったロイドはランディに抗議したが、彼は頬杖を付きながらニヤニヤとするだけだ。
三対一ではさすがに分が悪い。
「だ・か・ら!フランは支援課の皆さんへって言ってたし!」
ロイドは頭を抱えたくなる思いで叫んだ。
「おやおや、うちのリーダーってば、また何かやらかしたのかい?」
そんな中、再び玄関のドアが開く音がした。
「え、えっと。ただいま戻りました」
涼やかな声の後に生真面目な帰宅の挨拶が続く。
道すがら、偶然居合わせた二人は一緒に帰ってきたのだが、ビルの前まで来た所でロイドの叫び声が聞こえてきた。
そして玄関をくぐってみれば、この状態である。
ロイドは仕事を終えた二人を労いつつも、手短に事の経緯を説明する。
「う、う~ん……ありえそうというか、なんていうか」
「ははっ、フランもはっきり言ってくれれば良いのにね」
彼にしてみれば多勢に無勢を何とかしたい状況だったのだが、どうにも上手くいかない。
「はぁー、何なんだよ……みんなして」
ロイドはふらふらと空いている席に座り、ふて腐れた様子でテーブルに突っ伏してしまった。
「ご愁傷様~」
「誰のせいだと思ってるんだよ」
真向かいで楽しそうにしている相棒に腹が立って、半眼じみた視線を送る。
「それで、これどうするのよ?ロイド」
「普通にみんなで分けてくれよ。俺のだって決まったわけじゃないし」
力の抜けきったリーダーの言葉に、五人は顔を見合わせた。
「なんだか受け取るのは気が引けますね」
ティオがそう呟くと、皆が同時に頷いた。
さて、どうしたものか?と思案する。
「あっ、ねぇ、ワジくん。君は毎年沢山もらってるんでしょ?」
すると、不意にノエルが口を開いた。
「え?あぁ。直接受け取るとキリがないから、トリニティ宛てにしてもらってるけど」
「涼しい顔でモテ自慢するなっつーの。で、結局どうしてるんだよ?」
彼女の意図を察したランディが嫌みを含んで問いかけると、ワジは明快に答えてくれた。
「気持ちだけ受け取っておくって感じかな。どうせ食べきれないなら手を出さない方が公平だしね。だから、スラムの子達にあげたり教会に寄付したりしてるよ」
「教会……それは名案だわ。日曜学校で子供たちに配ってもらえそうね」
エリィが目を輝かせながら感心した様子でワジを見ると、
「まぁ、伊達に教会とつるんでるわけじゃないからね」
彼は皮肉っぽく口角を吊り上げた。
取りあえず、方針は決まったらしい。
特に急を要するわけではないが、明日からはしばらく街の外へ出る案件が続くので、教会に寄る時間が取れそうもなかった。
「だったら、今日中に行った方が良さそうだな」
それを鑑みてランディは席から立ち上がり、未だに潰れているロイドの襟首を掴んだ。
「おい、ロイド。さっさと行ってこようぜ」
「は?なんでランディも行くんだ?」
促されたロイドは仕方なく立ち上がったが、彼の言い回しに疑問符を浮かべた。
「ランディ先輩、報告書を書いてる途中ですよね」
更にノエルが真面目な指摘をする。
「だな。まぁ、息抜きってことで。なんか肩も凝ってきた気もするし」
ランディはそれをあっさりと認め、悪びれる風もなく堂々と言ってのけた。
「そんじゃ、行ってくるぜ~」
「あーっ、もう!引っ張るなってば!」
それから、半ばロイドを引きずるような形で二階の裏口から外へ出て行ってしまった。
「……ほんとに書類仕事が嫌いですよね。ランディさんって」
静かになった部屋の中にティオの声が響く。
「それだけじゃないと思うけどね。まぁ、あの様子じゃ暫く帰ってこないんじゃない?」
「なんで?大聖堂だったら、そんなに時間はかからないと思うけど」
それに応じたワジが意味深げな発言をしたことで、ノエルが不思議そうに小首を傾げた。
「さぁ?なんでだろうね」
わざとらしく遠くに目をやった彼はどこか楽しげだった。
西通りを抜けて住宅街へと出る。
午後の時間帯を大分回り、空も夕刻に近づいてきた。
行き交う人々を目にするゆとりもなく、ロイドは仏頂面の早足で目的地へと向かっている。
「お~い。そろそろ機嫌直せよ~」
少し後ろを付いてくるランディが声をかけるも、応じる気配はない。
「……ああいう時はやたら団結するんだよな、みんなして」
そんな年下の同僚の態度を気にすることもなく、独り言のように吐き出された不満を拾い上げる。
「それだけあいつらに好かれてるってことだろ」
もちろん、そこに悪意など微塵もないことはロイドだって分かっている。
女性陣の視線がやけに冷たい時もあったりするが、大抵はその場の空気は明るい。
ふと、速かったロイドの足取りが緩んだ。
聞き逃してもいいくらいの愚痴に構ってくれるランディの優しさに、少しだけ心が軽くなる。
(……あれ?でも、今のは……)
だが、それがまるで当事者ではないような言葉選びだったと気づき、引っかかりを覚えてしまった。
(『あいつら』って言ったよな?)
彼の胸中が読めなかったが、問いかける言葉を見つけ出せず、ロイドは悶々としながら歩いた。
徐々に人気が少なくなり始め、マインツ山道への入り口までやって来た。
ここからクロスベル大聖堂は目と鼻の先だ。
会話らしい会話をしないままだった道中を過ごし、先にロイドの方が音を上げた。
「──なぁ、さっきの……ランディは?」
立ち止まって振り返る。
不機嫌だったこれまでとは違い、不安げな色が見え隠れしていた。
ランディはわずかに瞠目したが、すぐに言葉の意味を察して意地悪げに笑った。
「あぁ、それな。どっちの俺で言って欲しいの?好かれてるって」
一瞬、何を言っているのかが分からなかった。
「ど、どっちって……え?あっ!?」
ロイドはしばらく頭を回転させた後、ようやくそれに気が付いた。
「今は二人だけだし。ほら、選べよ」
つまりは、同僚なの?恋人なの?と。
ランディにとってこんな線引きはあってないようなもので、そもそも気にする性格ではない。
だが、真面目なロイドはそういうわけにもいかず、リーダーとしての責任感も相まってか、そういった立場の切り替えが面白いくらいに下手だった。
普段はそんな不器用な線引きに付き合ってあげているのが常だ。
しかし、たまにそんな彼の手を引く形で強引に場を作る。
たまには甘えたらどうだ?と言わんばかりに。
「ちょっ……と、待って」
魅力的な誘いを受けたロイドの心がぐらりと揺れた。
「でも……」
けれど、手に持っている紙袋を意識して眉を寄せる。
「支援課宛てだったし……う~ん……」
これを無事に教会へ寄付するまでは仕事なのではないかと、思ってしまった。
「おい。そこ、悩むとこなわけ?」
何やら葛藤している彼の姿が可笑しくて、ランディは思わず吹き出しそうになった。笑い混じりの言葉で遠回しに返事を急かしてみる。
「あ、ごめん。えっと、その……半分ずつとか」
ハッとしたロイドは、定まりきらない胸の内から無理矢理に答えを絞り出した。
それはそれは困ったような顔をして。
──数拍。二人の間に奇妙な空気が流れた。
ランディは予想外な返答に唖然としたが、すぐに気を取り直してロイドの側に歩み寄った。
「はぁ~、お前ってやつは」
大袈裟なくらいの溜息を吐き、癖のある茶髪を捕まえて容赦なく掻き乱す。
「い、痛いって」
武骨で大きな手は荒々しいようでいて、少し優しかった。
思いのほか強い力を受けたロイドが首を竦ませる。
「ここまで不器用すぎると、いっそ笑えるぜ」
ランディは呆れた様子を見せつつも、その中途半端な答えを無下にはしなかった。
彼にとってみれば馬鹿げた葛藤の類いだが、それすら微笑ましいと思えるくらいには惚れている。
「ほら、もう行くぞ」
心なしか元気のない背中を軽く叩き、止まった足を大聖堂へと向かわせる。
渋々と歩き始めたロイドの横に並び、彼を見下ろす両眼が愛おしげに緩んだ。
穏やかに雲が流れる空は、茜色に染まり始めている。
大聖堂に足を踏み入れた二人は、夕空で不思議と温かな色を纏ったステンドグラスに感嘆を漏らした。
「あら、ロイド。久しぶりね」
すると、落ち着きのある女性の声が聞こえてきた。
「マーブル先生。ご無沙汰しています」
ロイドの顔がパッと明るくなり、優しげな風貌のシスターに会釈をした。
ランディもそれに習って軽く挨拶をする。
彼らは日頃から懇意にしている彼女を訪ねる予定だったので、丁度良いタイミングだった。
ロイドが事の一部始終を説明すると、マーブルは静かに微笑んだ。
「まぁ、随分と立派になって」
日曜学校の先生である彼女にとって、教え子の成長や活躍は何より嬉しいものである。
そんな二人の和やかなやり取りを、ランディは黙って見つめていた。
特務支援課の中では茶化していたが、今は無粋というものだ。
何よりも、ロイドの気持ちが浮上していることが分かって安堵した。
マーブルはロイドたちの意向を快く受け入れてくれた。
目的を果たした彼らは大きな扉を開き、荘厳な建物から外へ出る。
空はいよいよ赤みを増していた。
ここを通った時、建物の前で遊んでいた子供たちの元気な声も今は聞こえない。
先を行くランディの背中は夕焼けに染まり、それを見たロイドは急に寂しさが込み上げてきた。
(まだ……一緒にいたいな)
このまま真っ直ぐに帰宅してしまうのが勿体なかった。
さっきまで紙袋で塞がっていた手を見つめ、なんの枷もないことを確認する。
今、悩む理由はどこにもないように思えた。
彼が用意してくれた二人だけの時間はまだ有効だろうか?
「なぁ、ランディ」
ロイドは墓地の方へ向かう道に目をやり、ポケットに手を入れてのんびりと歩く後ろ姿を呼び止めた。
「少しだけ兄貴のとこ寄ってもいいか?」
揺れていた鮮やかな色の長髪がピタリと止まる。
「ははっ、言うと思ったぜ。俺も挨拶の一つくらいはしとこうかねぇ」
振り返ったランディは、予想通りとばかりに破顔した。
これから墓参りというには遅い時間帯になってきた。
案の定、踏み入れた墓地の敷地内に人の気配はない。
草を踏み締める二人の足音だけが、静寂の中で響いた。
今は亡き兄の墓前にやって来たロイドは、静かに目を閉じた。
ここに立つと様々な思い出が一気に頭へ流れ込んでくる。
彼にとっては、その一つ一つが大切な宝物だ。
「……ふふっ」
不意にロイドが小さく笑った。
彼の邪魔をしないようにと、一歩後ろで見守っていたランディが不思議そうな顔をする。
「なんだよ?急に」
「あぁ、今日ってバレンタインだろ?そう言えば、セシル姉が毎年手作りのチョコ作ってたなぁって」
開いた茶色の瞳が懐かしげな様相で墓を見つめている。
「でも、兄貴ってば色んな所を走り回ってたからいつもいなくてさ。当日に渡せてたことなんてほとんどなかったけど、セシル姉は『遅れてもきちんと渡せているから良いのよ』って笑ってた」
その笑顔が記憶の中で鮮明に蘇った。
「セシルさんのチョコとか、羨ましすぎんだろうが。どうせお前も貰ってたんだろ?」
そんな在りし日の思い出に噛みついたランディは、本気で悔しそうにしている。
「いや、俺のはついでだからな!」
ロイドは勢いよく振り返って言い返したが、思いきり肯定する形になってしまった。
「……ったく、これだから弟くんはよぉ」
ランディはブツブツと言いながら頭を掻いていたが、しばらくしてから急に真顔になった。
「──で、お前は俺になんかくれねぇの?」
過去の思い出話から今の自分に話を振られ、ロイドは目を丸くした。
もちろんバレンタインの趣旨は理解しているのだが、やはり女性のものというイメージが強くある。
だから、それに自分が当てはまるとは思っていなかった。
「俺が渡す側になるのか?」
念のために聞いてみると、
「そりゃそうだろ。俺は常日頃からお前に愛情表現しまくってるからな」
ランディは当然とばかりに、恥ずかしげもなく言ってのけた。
「それとも、なに?まだ足りないとか?」
「そんなこと言ってないけど!?」
からかう声音の中に微かな色気を感じ、ロイドは思わず後退った。
「だったらやっぱりお前の方からだな」
こういったやり取りでは、いつもやり込められて退路を塞がれてしまう。
優柔不断な態度を優しく受け止めてくれたかと思えば、今度は強引に我を通そうとする。
いつもの軽妙な言動の内側にある思慮深さとは別に、己の欲に忠実な顔が露わになった。
それはロイドだけが知っている姿で、少なからず優越感を覚える。
『今はどっちなの?』と聞くのが可笑しくなるくらい、彼は恋人の顔を見せてくる。
けれど、こうも軽々と振り回されてしまっている状態は面白くなくて、ついそっぽを向いてしまった。
「全然そんなつもりはなかったから、何も用意してないぞ」
別に意地悪のつもりで言っているわけではなく、本当のことだ。
今の今まで、頭の片隅にもなかった。
「……マジで?はぁ~、俺って愛されてねぇな~」
それを聞いたランディは、脱力してその場にしゃがみ込んでしまった。
「まぁ、お前らしいっつーか……いや、それにしたってもうちょい……こう、さぁ……」
独り言のような小さな声は明らかに沈んでいて、演技などではなく本気で落ち込んでいる。
(そ、そこまでなのか?)
そんなランディの落胆ぶりをロイドは凝視した。
欲しいなら欲しいと前もって言ってくれれば良かったのに。
ついそう言いたくなったが、夕刻に染まる大きな身体がもの悲しげに見えてしまい、口を噤む。
納得はいかないけれど、じわりと罪悪感が滲んできた。
「ごめん。そんなに欲しかったなんて知らなくて」
こうなってくると、もう自分が悪いようにしか思えなくなってくる。
(今からでも何か用意した方がいいのかな?)
この現状にどう対処するべきなのかと、困惑気味な頭をフル回転させる。
ランディはしゃがみ込んだまま、困り顔で一生懸命に思案しているロイドを盗み見た。
なにせ顔に出やすい性格だ。
彼が考えていることの大半は分かってしまう。
(分かってねぇなぁ。俺が欲しいのは『物』じゃないって)
何日も前から強請っていれば、きっと彼は何かしらの贈り物をくれただろう。
けれど、それでは意味がいない。
本当に欲しいのは、ロイドが主体的に向けてくる好意の言動だ。
彼の人となりを思いつつ、望みが薄いのは承知の上で、ほんの少しだけ期待してみたかった。
(まぁ、この場所じゃ不利すぎんだけどな)
無謀なことをしているのは分かっているつもりだ。
低くなっている視界にはロイドの足元があり、その先に彼の兄の墓が入ってくる。
(けど、負け戦はかっこ悪すぎんだろ?)
転んでもタダでは起きない。
茜色が差し込んだ翡翠を模した瞳は不思議な色を放ち、どこか蠱惑的にも見えた。
ランディはロイドを見上げて一つ口を開いた。
「だったら、お前からのキスで帳消しにしてやるよ」
二人だけしかいない墓地の一角で、ロイドがそれを聞き逃すはずもなかった。
からかわれているのかと思って言い返そうとしたが、そこに戯けた表情はなく息が詰まりそうになる。
「あ……の、それは……」
再び後退ろうとしても今度は足を動かせない。すぐ後ろは兄の墓だ。
そもそも、彼には元から選択肢など存在しなかった。
ランディを落ち込ませたのは自分のせいで、全面的に自分の方が悪いのだと思い込んでいるのだから。
「ほんとに帳消しか?」
「そのくらいは信用しろよ。で、どうすんの?」
ロイドが恐る恐る尋ねてみると、あっさりとした返答があった。
どうやら謀るつもりはないらしく、ホッと胸を撫で下ろす。
「…………だったら、やる」
手の平を握りしめ、言葉少なに頷いた顔には羞恥の色が浮かぶ。
「交渉成立だな。ほら、こいよ」
それを見たランディはようやく頬を緩ませ、誘うように手を伸ばした。
(──あぁ、そうか)
そんな彼の嬉しそうな仕草を見た瞬間、ロイドは気が付いてしまった。
今まで一度だって自分からこんな行為をしたことはない。
いつも愛情を与えてもらうばかりで、それが当たり前だと錯覚をしていた。
惜しげもない包容力の裏側で、彼が何を渇望しているのかを知らずに。
(俺……いつもちゃんと伝えてなかった)
ロイドは伸ばされた手を掴み、しゃがみ込んだままでいるランディの前で膝を落とした。
「えっと……さすがに目は閉じてほしいかも」
「はい、はい」
緊張と恥ずかしさを誤魔化すように注文をつけてみたら、どことなく浮かれた声が返ってきた。
それが普段の彼よりも子供っぽく感じられ、珍しい姿に愛おしさが募っていく。
自然と肩の力が抜けて身体が動いた。
一度、唇同士が触れるだけの軽い口付けを贈る。
帳消しの条件ならそれだけでも良かったはずなのに、このまま離れてしまうのが嫌だと思った。
今は想いが止めどなく溢れ出る。
もう一度、今度は遠慮がちに舌を差し入れた。
いつも受け身に回っているせいで、いまいち勝手が分からない。
そんなロイドの行動はランディを驚かせたが、それも一瞬だけだった。
すぐに不器用でたどたどしい愛撫に応える。
手慣れた彼にしてみれば物足りない行為だが、だからといって主導権を握りたいとは微塵も思わなかった。
これはロイドからの愛情表現だ。
到底不利なこの場所で、欲していたものを味わえることに心が高揚する。
ひとしきり舌先を絡ませた後、悩ましげな吐息と共に唇を離したロイドを見つめ、ランディは微笑した。
「なんだよ。てっきりガキみたいなキスで済ますのかと思ってたぜ」
「うっ……そ、そのつもりだったけど」
言葉とは裏腹、彼の目には揶揄の色などはなく、嬉しそうで優しい表情をしている。
「…………したくなった」
そんな眼差しを受け止めきれず、羞恥心が沸騰したロイドは相手の肩口に顔を埋めた。
空は茜色から群青色にさしかかり、耳や首元まで真っ赤なことを誤魔化しようがなかった。
「おいおい、あんまり俺を喜ばせんなよ?」
抑えていないといくらでも口元が緩んでしまいそうになる。
ランディは熱を持った首筋を撫でながら、チラリと墓石の方を見た。
静かに眠るその人物に対して嫉妬がないと言えば嘘になる。
「そんじゃ、ご機嫌ついでにお返しってことで」
指先が耳元を辿り、そこへ唇を寄せた。
思わず身体が跳ねたロイドを無視して、耳の外郭を添うように舌を這わせる。
それはまるで誰かに見せつけているみたいに緩慢な動きだった。
「ラ、ラン……ディ、待っ……」
震える声で制止をかけられ、耳朶に噛み痕を残す。
「──っ!?」
唐突に痛みを受けたロイドは反射的に顔を上げて距離を取ろうとしたが、いつの間にか腰を抱かれていて思うように動けなかった。
「な、何やってんだよ!?」
火照った顔のまま至近距離でランディを睨み付ける。
弄られた耳を手で押さえ、甘く痺れるような痛みを必死に堪えた。
「何って、さっきお前の兄貴に挨拶の一つでもって言っただろ」
動揺を隠しきれない彼に対し、余裕綽々といった風にランディが笑う。
「言ったけど、それとこれとは全然違うし!」
「俺にとっては同じようなもんだ。さて……と。ご挨拶も済んだし、そろそろ行くか」
噛みついてくるロイドを軽くあしらい、立ち上がろうと身体を起こした。
同時に彼の腕を掴んで強引に引き上げる。
ランディはやりたいことをやって満足なのか、あっさりと束縛を解いて先に歩き出してしまった。
「──え?」
急に密着していた温もりが遠退き、喪失感に襲われたロイドは目を瞬かせながらその場に立ち尽くす。
(嫌だ。離れたくない)
一気に強い気持ちが沸き立った
耳朶の噛み痕が燃えるように熱い。
返された愛情に全身が浸食されていくような気がした。
(俺はまだ……側にいたい)
彼は振り返ることのない背中に焦りを覚え、慌てて追いかけようとした。
だが、一瞬だけ足を止めて兄の墓に目を向ける。
「兄貴、また来るからな」
日が落ちて夜の色に染まり始めた大切な故人を背に、ロイドは今度こそ駆け出した。
【おまけSS】
「少し涼みたい」と言ったのはロイドの方だった。
今はこのまま平然と帰れるほどの心境ではなく、まだ多少の時間が欲しかった。
ランディは小さく笑ったが、茶化すことはなく快諾してくれた。
街中をのんびりと歩きながら港湾区へ向かう。
風に当たりたいのなら丁度良い場所だ。
当たり障りのない雑談を主導し、相手が落ち着けるようにと仕向ける。
彼のこういったさり気ない優しさは、流れるように自然だ。
そのお陰か、目的地に着く頃にはロイドも幾分か落ち着きを取り戻していた。
水辺特有の冷たい風が今は心地良い。
ロイドは辺りを見回して小首を傾げた。
「今日は人が多いのかと思ってたけど、そうでもないな」
「そろそろ夕飯時だしな。よろしくやりたいヤツらはもうちょい後だろ」
彼の疑問を察し、ランディはそう応えた。
自分たちのことを意識させないようにと言葉を選びながら。
「あ、そう言えば。キーアたちから貰ったチョコ、食べたか?」
そんな気遣いも露知らず、ロイドは今日の日の話題で連想中だ。
「あぁ、あれな。食った食った。ブランデー入ってて美味かったぜ」
「え?俺のは普通だったけど。もしかして、それぞれに作ってくれたとか?」
「それっぽいな。いや~、俺たち愛されてんな」
ロイドたち男性陣は朝食の後、キーアにチョコレートを手渡された。
昨晩、彼女を含めた女性陣が楽しげに台所を占領していた。
薄々気が付いてはいたが、いざ貰うとやはり嬉しいものである。
ちなみにティオは、ツァイトにも何か用意していたという話だ。
二人はそんな彼女たちの様子を思い浮かべ、嬉しそうに笑い合う。
「──あっ」
しかし、ロイドはまだ連想中だった。
「今度は何だよ?」
問いかける声に、考え込むような仕草を見せる。
「う~ん。俺、思ったんだけどさ。寄付したチョコ……あれってランディ宛だったりしたのかもなって」
「はぁ?お前、まだ根に持ってんのかよ」
「そうじゃなくて!貰ってたって全然おかしくはないだろ?」
どこか呆れた様子の顔を向けられ、ロイドは声を強めた。
「あり得ねぇな」
「何でそう言い切れるんだよ」
はっきりと否定されるのは面白くない。
「どう見ても義理じゃなかっただろうが」
「……義理だったら貰うのか?」
どうしても噛みつきたくなってしまう。
なんで今の今まで気が付かなかったのだろう。
(こんなに格好良くていい男なのに)
特に今日だったら、誰かに言い寄られていても不思議ではない。
せっかく落ち着いてきていた心の中に、今度は不穏なさざ波が立つ。
「だったら、今日は……」
「やめとけ」
誰かに貰ったのか?と言うとした口が大きな手によって塞がれた。
「──うぅ!?」
「余計なこと考えるんじゃねぇよ」
上目遣いで抗議を露わにすると、存外に真面目な瞳とぶつかった。
「嫉妬なんてらしくないだろ?……何も受け取ってない。相手には悪いけどな」
この感情を的確に表現され、ロイドは目を見開いた。
今日は『帳消し』の件からずっと、どこかがおかしい。
彼と離れたくなくて、独り占めしていたくて堪らない。
自分が自分じゃないみたいだと思った。
「分かったか?」
降り注いだ静かな声に何度か頷いてみせると、ランディは塞いでいた手を退けてくれた。
その動きをどうしても目が追いかけてしまう。
耳元を辿った指先の感触を思い出し、噛み痕に熱がぶり返す。
ロイドは無意識のうちに離れていく手を掴んだ。
心の底に眠っていた独占欲に引っ張られて、唇から言葉が零れ落ちる。
「……今夜、部屋に行っても……いいかな?」
囁くようなそれは水気を含んだ風に紛れ、今にも消え入りそうだった。
断る理由なんてありはしない。
それでもランディの胸中は複雑だった。
「ったく、お前は。『涼みたい』とか言ってた口で、墓穴掘りまくりやがって」
ロイドからのお誘いに喜びつつも、この変貌ぶりでは少し心配にもなってしまう。
この道中、彼を落ち着かせようと気を配っていたが、肝心の相手は掘削作業に忙しないようだ。
「これじゃ、またしばらく帰れないな」
ランディは苦笑しつつ、空いている方の手でロイドの頬を軽く叩いた。
街灯に照らされた顔がやや赤みを帯びている。
「ご、ごめん」
彼は小さな声で謝る姿を愛おしげに見やった後、ふと夜空を見上げた。
そろそろ帰宅の催促を兼ねてエニグマの呼び出し音が鳴りそうな気がする。
もういっそのこと、このままホテルにでも連れ込んでしまいたいと思った。
2021.02.14
#碧畳む
眠りの特効薬は誰のため?
恋人設定
マインツで一晩を過ごす二人の話。眠りの浅いランディを心配しつつも天然なロイドです。
【文字数:3600】
町に戻った頃には夕暮れの空だった。
ロイドたちはマインツ方面の支援要請を数件を受け、それらをこなしていた。
特に困難な内容ではなかったが、山道を歩き回ったり魔獣退治をしたりと、体力を使ったのは確かだ。
町長に報告をしに行った際、彼はロイドたちの身体を気遣い、ここで一泊することを勧めてくれた。
夕食後の穏やかな一時。
ロイドが部屋に入ると、赤毛の同僚がベッドの上で武器の手入れをしていた。
「なんだ、やっぱり払ってきたのか?」
「さすがにタダで宿泊するのはどうかと思ってさ」
「そうかぁ?うちのリーダーは真面目だねぇ」
申し訳なさそうな顔をするロイドを見て、ランディは肩を竦めてみせる。
マインツの町長は無償で一晩の宿を提供してくれた。
最初はその好意をありがたく受け取ったロイドだったのだが、その性格ゆえか次第に気になってしまったようだった。
もしかしたら、夕食の最中も色々と葛藤していたのかもしれない。
「──ふぅ」
ロイドは小さな息を漏らしながら空いているベッドへ腰を下ろした。
「疲れてんなら、さっさと寝ろよ?」
ベッドは横に二つ並んでいて、自ずと彼らは向かい合う状態になる。
ランディは作業の手を止めて少し心配げに目を細めた。
「え?あぁ、別にそこまでってわけじゃない。俺よりエリィとティオの方が疲れるだろうしな」
思わぬ優しさに一瞬驚いたロイドだったが、すぐに壁へ視線を向けた。
隣の部屋は女性陣に割り振られている。
山道を歩き回ったせいできっと疲労も溜まっているだろうし、すでに寝入っているかもしれなかった。
「ま、俺らの方がへばってたら情けなさすぎだろ」
「それは確かに」
彼女たちより体力的に劣るのは、さすがに恥ずかしい。
就寝前にちょっとした矜持を共有する二人だった。
町全体が寝静まっている真夜中、ロイドはふと目を覚ましてしまった。
(──あれ?)
まだ就寝してから数時間も経っていない。
いつも朝までぐっすり寝入っている彼にしてみれば、珍しいことだ。
しばらく天井を見つめた後、ゆっくりと上半身を起こして辺りの様子を確認する。
隣のベッドで眠っている同僚に目をやり、密かに頬を緩ませた。
ここしばらくは忙しかったせいもあって、彼の寝顔を見るのも久しぶりだ。
このまま見つめていたいという欲求に駆られたが、明日のことを考えれば早々に寝直すべきだろう。
そんな風に思いながら渋々と毛布の中に潜り込もうとすると、
「……なんだ、見てただけ?」
眠っているはずの青年の声が聞こえてきた。
「ラ、ランディ!?」
ロイドは心臓が飛び出るくらい驚いた。
声と同時に勢いよく身体を起こす。
辛うじて相手の名前を発したが、それ以上は言葉にならなかった。
薄暗い中で隣のベッドに顔を向けると、寝ぼけているようには見えない両眼が可笑しげに笑っていた。
「お、起きて……って、あ、起こしちゃったか?」
「いや~、お前の熱い視線を感じちゃってさぁ」
忙しない胸の鼓動を抑えながらロイドが口を開くと、向こう側から軟派な応答が返ってくる。
ランディは身体を横たえたまま、片肘をついて僅かに上げた頭を支えていた。
寝乱れた赤い髪のせいでどこか気怠げな様子にも見える。
「言っとくけど、熱くもなんともないからな」
暗い部屋に感化されて一瞬ドキリとしたロイドだったが、すぐに口元を引き締めて取り繕った。
それよりも、やはり相手の睡眠を妨げてしまったのだという思いが先に立ち、申し訳なさそうな顔をする。
「ごめん。やっぱり起こしちゃったみたいだな」
「あのなぁ、そんなの今更だろうが。俺の眠りが浅いってのは知ってるだろ?」
「それはそうだけど……」
ランディは気にも留めていなかったが、ロイドの方は口籠もりながら視線をさまよわせてしまう。
元々、この赤毛の青年は熟睡することの方が珍しかった。
長年の猟兵生活の中、浅く短時間の睡眠でも効率的に疲労を軽減できる体質になっている。
そして、眠っている最中でさえ周囲の気配には敏感だ。
苛烈な戦場に身を置いていれば、例え休息中であっても油断はできない。
隙を見せて寝首を掻かれてからでは遅いのだ。
そんな血生臭い場所を離れた今でも、そこで染み付いたものが消えることはなかった。
きっと死ぬまで一生つきまとうのだろう。
(ま、別に大したことじゃねぇよな)
そのことに対して、ランディは特別に暗い感情を宿しているわけではなかった。
今まではそれが普通だったし、特に困ってもいない。
だから、ロイドがそこまで気にしていることが不思議だった。
「それがランディの当たり前なのは分かってるよ。けど、少しでも安心して眠って欲しいから」
二人きりの夜の中で優しい声が響く。
ロイドの言葉はいつだって何の淀みもなく、偽りもない。
その温かい心根はもちろん嬉しかったが、同時にどう反応するべきなのかとランディは悩んだ。
彼自身が睡眠について無頓着なせいもあり、なかなか上手い言葉が探し出せないのも仕方がなかった。
「あー、ごめん。やっぱり今のは独り言」
その沈黙に相手の心情を察したのか、ロイドは一度頭を振った。
自分の気持ちを押し付けてしまっていたことに気づき、後悔の念がよぎる。
「ほんと……ごめん」
今夜は謝罪の言葉ばかりが口から零れ落ちる。
居たたまれなくなった彼は、ベッドに身体を戻して毛布の中に潜り込んでしまった。
「お前なぁ、気にしてくれてんのに謝る必要ないだろうが」
ランディは落ち込んでいる相手を浮上させようとするが、応答はない。
それどころか背中を向けられてしまった。
「ロイド~。お前がそんなだと、お兄さん寂しくて余計に眠れなくなるんだけど」
今度は少し軽い調子で言ってみる。
丸まった身体がピクリと動いた。
「明日、俺が起きれなかったらお前のせいな」
「え!?」
追撃してみると、ロイドが毛布を蹴りながら飛び起きた。
「なんなら一緒に寝る?俺的には癒やし効果抜群だから、安心して眠れるかもな~」
更にとどめとばかりに笑いながら冗談を振りまいてみる。
それを聞いたロイドは大きく目を見開いた。
「それ、ほんとか?」
ランディは本当に冗談のつもりだった。
ふざけてそう言えば、ロイドは怒るかあるいは呆れてさっさと寝てしまうだろうと予想していた。
その方が沈んだままよりもはるかにマシだと思った。
だが、
「だったら一緒に寝る」
どうやらロイドは『安心して』という言葉に食い付いてしまったらしい。
嬉しそうな顔で枕を抱えながら隣のベッドへ歩み寄り、躊躇なく乗りかかってきた。
「お、おい……マジかよ」
ランディが困惑している中、彼の身体を押し退けながら強引に毛布の中へ潜り込む。
「あははっ、温かいな!」
一人用のベッドに成人男性が二人ではさすがに狭すぎるし、寝返りも打てないくらいの密着状態になってしまった。
けれど、ロイドは上機嫌でランディの肩口に顔をすり寄せた。
「はぁ~、俺としたことが見誤ったぜ」
今さら冗談だったなんて言えず、ここまでされては追い出す気にもならない。
それでも触れた体温が心地良いと感じるあたり、身体は正直だとランディは自嘲した。
二人でベッドに入ること自体は珍しくもない間柄だが、今夜は仕事の延長でもあるし、そんなつもりはなかった。
「なぁ、ランディ。ちゃんと眠れそうか?」
暗がりの中、心配げな茶色の瞳とぶつかって僅かに体温が上昇するのを感じる。
「あぁ、そうだな。ってか、お前もさっさと寝とけよ」
ロイドはただ純粋に心配してくれているだけなのに、あらぬ方向へを意識が逸れてしまいそうになる。
ランディはそれ振り切ろうと、わざとぶっきらぼうな返答をした。
それから数分も経たない内に隣から規則正しい寝息が聞こえてきた。
首を横にして至近距離の寝顔に目をやり、苦笑する。
「安心しきった顔しやがって。お前がそっち側になってどうすんだよ?」
人の心配をしていたくせに、いつの間にか安眠を確保しているロイドは案外ちゃっかりしている。
ランディはしばらくロイドの寝顔を見つめた後、無機質な天井に視界を投げた。
「こんなんで寝ろとか……苦行すぎんだろ」
片腕で顔を覆いながら大きな溜息を吐く。
ロイドが何の疑いもなく心身を委ねてくれていることに嬉しさが募った。
触れた部分から感じる温もりだけでは物足りなくて、抱き締めてしまいたくなる。
「あー、もう抱き枕にしてぇ……」
この日、ランディは理性と欲情の狭間で悶々とする夜を過ごす羽目になってしまった。
だらしなく欠伸をしているランディを見たティオが小首を傾げた。
「ランディさん、眠れなかったんですか?」
「あら、大丈夫なの?」
それが気になったのか、エリィも話に加わってくる。
「別に問題ねぇぞ。まぁ、ちょいとばかし寝付けなかったけどな」
ランディは心配げにしている二人にそう答えたが、内心では愚痴の一つも言いたい気分だった。
少し離れた場所で町長と話し込んでいるロイドは、やたらと爽やかな表情をしている。
(あいつめ、朝までぐっすり眠りやがって……)
そんな彼とは対照的で、ランディはかったるそうに頭を掻いた。
一睡もできなかったわけではないが、眠り損ねたことには変わりなく、朝日がやけに眩しく感じられた。
2020.11.19
畳む
恋人設定
マインツで一晩を過ごす二人の話。眠りの浅いランディを心配しつつも天然なロイドです。
【文字数:3600】
町に戻った頃には夕暮れの空だった。
ロイドたちはマインツ方面の支援要請を数件を受け、それらをこなしていた。
特に困難な内容ではなかったが、山道を歩き回ったり魔獣退治をしたりと、体力を使ったのは確かだ。
町長に報告をしに行った際、彼はロイドたちの身体を気遣い、ここで一泊することを勧めてくれた。
夕食後の穏やかな一時。
ロイドが部屋に入ると、赤毛の同僚がベッドの上で武器の手入れをしていた。
「なんだ、やっぱり払ってきたのか?」
「さすがにタダで宿泊するのはどうかと思ってさ」
「そうかぁ?うちのリーダーは真面目だねぇ」
申し訳なさそうな顔をするロイドを見て、ランディは肩を竦めてみせる。
マインツの町長は無償で一晩の宿を提供してくれた。
最初はその好意をありがたく受け取ったロイドだったのだが、その性格ゆえか次第に気になってしまったようだった。
もしかしたら、夕食の最中も色々と葛藤していたのかもしれない。
「──ふぅ」
ロイドは小さな息を漏らしながら空いているベッドへ腰を下ろした。
「疲れてんなら、さっさと寝ろよ?」
ベッドは横に二つ並んでいて、自ずと彼らは向かい合う状態になる。
ランディは作業の手を止めて少し心配げに目を細めた。
「え?あぁ、別にそこまでってわけじゃない。俺よりエリィとティオの方が疲れるだろうしな」
思わぬ優しさに一瞬驚いたロイドだったが、すぐに壁へ視線を向けた。
隣の部屋は女性陣に割り振られている。
山道を歩き回ったせいできっと疲労も溜まっているだろうし、すでに寝入っているかもしれなかった。
「ま、俺らの方がへばってたら情けなさすぎだろ」
「それは確かに」
彼女たちより体力的に劣るのは、さすがに恥ずかしい。
就寝前にちょっとした矜持を共有する二人だった。
町全体が寝静まっている真夜中、ロイドはふと目を覚ましてしまった。
(──あれ?)
まだ就寝してから数時間も経っていない。
いつも朝までぐっすり寝入っている彼にしてみれば、珍しいことだ。
しばらく天井を見つめた後、ゆっくりと上半身を起こして辺りの様子を確認する。
隣のベッドで眠っている同僚に目をやり、密かに頬を緩ませた。
ここしばらくは忙しかったせいもあって、彼の寝顔を見るのも久しぶりだ。
このまま見つめていたいという欲求に駆られたが、明日のことを考えれば早々に寝直すべきだろう。
そんな風に思いながら渋々と毛布の中に潜り込もうとすると、
「……なんだ、見てただけ?」
眠っているはずの青年の声が聞こえてきた。
「ラ、ランディ!?」
ロイドは心臓が飛び出るくらい驚いた。
声と同時に勢いよく身体を起こす。
辛うじて相手の名前を発したが、それ以上は言葉にならなかった。
薄暗い中で隣のベッドに顔を向けると、寝ぼけているようには見えない両眼が可笑しげに笑っていた。
「お、起きて……って、あ、起こしちゃったか?」
「いや~、お前の熱い視線を感じちゃってさぁ」
忙しない胸の鼓動を抑えながらロイドが口を開くと、向こう側から軟派な応答が返ってくる。
ランディは身体を横たえたまま、片肘をついて僅かに上げた頭を支えていた。
寝乱れた赤い髪のせいでどこか気怠げな様子にも見える。
「言っとくけど、熱くもなんともないからな」
暗い部屋に感化されて一瞬ドキリとしたロイドだったが、すぐに口元を引き締めて取り繕った。
それよりも、やはり相手の睡眠を妨げてしまったのだという思いが先に立ち、申し訳なさそうな顔をする。
「ごめん。やっぱり起こしちゃったみたいだな」
「あのなぁ、そんなの今更だろうが。俺の眠りが浅いってのは知ってるだろ?」
「それはそうだけど……」
ランディは気にも留めていなかったが、ロイドの方は口籠もりながら視線をさまよわせてしまう。
元々、この赤毛の青年は熟睡することの方が珍しかった。
長年の猟兵生活の中、浅く短時間の睡眠でも効率的に疲労を軽減できる体質になっている。
そして、眠っている最中でさえ周囲の気配には敏感だ。
苛烈な戦場に身を置いていれば、例え休息中であっても油断はできない。
隙を見せて寝首を掻かれてからでは遅いのだ。
そんな血生臭い場所を離れた今でも、そこで染み付いたものが消えることはなかった。
きっと死ぬまで一生つきまとうのだろう。
(ま、別に大したことじゃねぇよな)
そのことに対して、ランディは特別に暗い感情を宿しているわけではなかった。
今まではそれが普通だったし、特に困ってもいない。
だから、ロイドがそこまで気にしていることが不思議だった。
「それがランディの当たり前なのは分かってるよ。けど、少しでも安心して眠って欲しいから」
二人きりの夜の中で優しい声が響く。
ロイドの言葉はいつだって何の淀みもなく、偽りもない。
その温かい心根はもちろん嬉しかったが、同時にどう反応するべきなのかとランディは悩んだ。
彼自身が睡眠について無頓着なせいもあり、なかなか上手い言葉が探し出せないのも仕方がなかった。
「あー、ごめん。やっぱり今のは独り言」
その沈黙に相手の心情を察したのか、ロイドは一度頭を振った。
自分の気持ちを押し付けてしまっていたことに気づき、後悔の念がよぎる。
「ほんと……ごめん」
今夜は謝罪の言葉ばかりが口から零れ落ちる。
居たたまれなくなった彼は、ベッドに身体を戻して毛布の中に潜り込んでしまった。
「お前なぁ、気にしてくれてんのに謝る必要ないだろうが」
ランディは落ち込んでいる相手を浮上させようとするが、応答はない。
それどころか背中を向けられてしまった。
「ロイド~。お前がそんなだと、お兄さん寂しくて余計に眠れなくなるんだけど」
今度は少し軽い調子で言ってみる。
丸まった身体がピクリと動いた。
「明日、俺が起きれなかったらお前のせいな」
「え!?」
追撃してみると、ロイドが毛布を蹴りながら飛び起きた。
「なんなら一緒に寝る?俺的には癒やし効果抜群だから、安心して眠れるかもな~」
更にとどめとばかりに笑いながら冗談を振りまいてみる。
それを聞いたロイドは大きく目を見開いた。
「それ、ほんとか?」
ランディは本当に冗談のつもりだった。
ふざけてそう言えば、ロイドは怒るかあるいは呆れてさっさと寝てしまうだろうと予想していた。
その方が沈んだままよりもはるかにマシだと思った。
だが、
「だったら一緒に寝る」
どうやらロイドは『安心して』という言葉に食い付いてしまったらしい。
嬉しそうな顔で枕を抱えながら隣のベッドへ歩み寄り、躊躇なく乗りかかってきた。
「お、おい……マジかよ」
ランディが困惑している中、彼の身体を押し退けながら強引に毛布の中へ潜り込む。
「あははっ、温かいな!」
一人用のベッドに成人男性が二人ではさすがに狭すぎるし、寝返りも打てないくらいの密着状態になってしまった。
けれど、ロイドは上機嫌でランディの肩口に顔をすり寄せた。
「はぁ~、俺としたことが見誤ったぜ」
今さら冗談だったなんて言えず、ここまでされては追い出す気にもならない。
それでも触れた体温が心地良いと感じるあたり、身体は正直だとランディは自嘲した。
二人でベッドに入ること自体は珍しくもない間柄だが、今夜は仕事の延長でもあるし、そんなつもりはなかった。
「なぁ、ランディ。ちゃんと眠れそうか?」
暗がりの中、心配げな茶色の瞳とぶつかって僅かに体温が上昇するのを感じる。
「あぁ、そうだな。ってか、お前もさっさと寝とけよ」
ロイドはただ純粋に心配してくれているだけなのに、あらぬ方向へを意識が逸れてしまいそうになる。
ランディはそれ振り切ろうと、わざとぶっきらぼうな返答をした。
それから数分も経たない内に隣から規則正しい寝息が聞こえてきた。
首を横にして至近距離の寝顔に目をやり、苦笑する。
「安心しきった顔しやがって。お前がそっち側になってどうすんだよ?」
人の心配をしていたくせに、いつの間にか安眠を確保しているロイドは案外ちゃっかりしている。
ランディはしばらくロイドの寝顔を見つめた後、無機質な天井に視界を投げた。
「こんなんで寝ろとか……苦行すぎんだろ」
片腕で顔を覆いながら大きな溜息を吐く。
ロイドが何の疑いもなく心身を委ねてくれていることに嬉しさが募った。
触れた部分から感じる温もりだけでは物足りなくて、抱き締めてしまいたくなる。
「あー、もう抱き枕にしてぇ……」
この日、ランディは理性と欲情の狭間で悶々とする夜を過ごす羽目になってしまった。
だらしなく欠伸をしているランディを見たティオが小首を傾げた。
「ランディさん、眠れなかったんですか?」
「あら、大丈夫なの?」
それが気になったのか、エリィも話に加わってくる。
「別に問題ねぇぞ。まぁ、ちょいとばかし寝付けなかったけどな」
ランディは心配げにしている二人にそう答えたが、内心では愚痴の一つも言いたい気分だった。
少し離れた場所で町長と話し込んでいるロイドは、やたらと爽やかな表情をしている。
(あいつめ、朝までぐっすり眠りやがって……)
そんな彼とは対照的で、ランディはかったるそうに頭を掻いた。
一睡もできなかったわけではないが、眠り損ねたことには変わりなく、朝日がやけに眩しく感じられた。
2020.11.19
畳む
休日の遊び方
碧・恋人設定
偶然出会ったシャーリィに二人の仲を勘付かれてしまい、意識してしまうロイドの話。
【文字数:7900】
最近、特務支援課のビルは閑散としていることが多い。
教団の事件で知名度も上がり、活動を再開してからは様々な支援要請が舞い込んでくるようになった。
オペレーターであるフランが調整して割り振ってくれているが、多忙なことには変わりなく、彼らは日々クロスベル中を飛び回っている。
そんな中、今日は久しぶりの休日だ。
ビルの一階では、女性たちの声が楽しげな空間を作り出している。
「お、もう出かけるのか?」
そこへ台所からランディがひょっこりと顔を出した。
本日の朝食当番だった彼は、後片付けをしている最中だった。
「そうね。色々と見て回りたいし」
それに応じたエリィが口元を綻ばせる。
支援課の女性陣はキーアを連れて百貨店へ買い物に行く予定だ。
「後でソフィーユのジェラートが食べたいです」
「あ、あそこの美味しいですよね。フランが大好きなんですよ」
ティオが遠慮がちに少しだけ声を弾ませると、ノエルが頷きながらこの場にいない妹のことを思い浮かべた。
ちなみフランは仕事があって今日は参加できない。
「ねーねー、ノエル。昨日フランがお昼休みに抜け出してくるって言ってたよ」
「えっ?もうっ、あの子ってば」
ノエルはキーアからの情報に驚いたが、怒るよりも呆れるといった様子で大きな溜息を吐いた。
そんな彼女たちのやり取りをランディは目元を緩めて眺めやる。
「いや~、平和だねぇ」
つい独りごちると、いきなり後ろからどつかれた。
「こら、さぼるな」
後片付けを手伝ってくれているロイドが睨んでくる。
「はい、はい。お嬢たち出かけるってよ」
「あれ、もうそんな時間?」
それをあしらってランディが話を振ると、ロイドはすぐに態度を一変させて台所から出てきた。
「あ、ロイド~!キーアたちお買い物に行ってくるね~!」
彼の姿を見つけた少女が、目を輝かせながら元気よくその場で飛び跳ねる。
「ははっ、いってらっしゃい」
そんな元気な姿につられ、ロイドは満面の笑顔で小さく手を振りながら彼女らを見送った。
台所に戻った二人は、手際よく片付けを進めながら何気ない会話を交わしていた。
「そう言えば、ワジはもう出かけたのかな?」
「飯食った後、さっさと行っちまったぞ」
「課長は外せない会議があるとかで休み取れなかったんだよな」
「ま、いいんじゃねーの?普段から休んでるようなもんだし」
折角の休日だというのに皆のことを気にかけてしまうロイドに、ランディは軽い調子で応答した。
リーダーとして真面目なのは彼の長所だが、今日くらいは気を抜いてほしいと思う。
「そんなことより、お前も出かけるんだろ?」
「ん~、なんかエニグマの調子が悪いからウェンディに見てもらおうかと思ってさ」
そんな意味も込めて話題をロイド自身のことへ向けると、彼は眉を寄せて天井を見上げた。
「ウェンディちゃんにスパナとかで殴られそうだな。もっと大事に扱えとか言われて」
「……ありえそうで怖いんだけど」
ランディの言葉はやけに信憑性があってロイドは苦笑した。
けれど、相手が幼馴染みのせいか深刻さはなく、明るい色を浮かべている。
「あ、そうだ。外に出るなら『あれ』買ってきてくれよ」
それに気を良くしたランディが思い出したかのように言うと、ロイドは少しの間を置いてから瞠目した。
「『あれ』って……っ、ランディ!」
「今日、発売日なんだよな」
「なんで俺が買ってこなくちゃいけないんだよ。どうせ外出するんだろ?」
冷ややかな視線の中にも、どこか恥ずかしげな顔が見え隠れしている。
『あれ』で通じてしまうあたり、ランディの愛読書であるグラビア雑誌のお使いは初めてではないのだろう。
「冷たいこと言うなって。後で貸してやるから」
「見るわけないだろ!!」
ケラケラと笑う年長の同僚に対し、ロイドは赤面しながら声を荒げてしまった。
朝食の片付けが済んだロイドは、軽く身支度を整えて玄関先から外へ出た。
今日は朝から好天に恵まれたおかげか人々の出足が早いようだ。
中央広場はすでに賑わっていて、活気のある風景が広がっている。
それらを目に映すロイドの表情が柔らかくなった。
多忙な中での貴重な休日だと思えば、自然と気持ちも解れていく。
「さて……と」
彼はしばらくその街並みを堪能していたが、やがて目的の場所である派手な看板に目をやった。
遠目からでも認識できるそれは、中央広場の中でも一際目立っている。
慣れた様子で店内に入ると、すぐに気が付いたウェンディがカウンター越しに声をかけてきた。
「ロイド、今日は一人?珍しいね」
「ああ、久しぶりに休日なんだ」
ロイドはそう答え、ここに来た理由を説明しながらエニグマをカウンターの上に置いた。
「まさか、壊したんじゃないでしょうね?」
案の定、ウェンディの目つきが怖くなっている。
「そ、そんなに乱暴には扱ってないはずだけど……」
思わず腰が引けてしまロイドだったが、彼女はそれに目もくれずにエニグマのカバーを開けた。
(はぁ、殴られずに済みそうかな)
彼女の意識はすでにエニグマの方へ向いているようで、ホッと胸を撫で下ろす。
ウェンディは繊細な手つきで中身を分解し、各部品のチェックを始めた。
ロイドはそれを興味深げに眺め、彼女と会話をしつつ時間を過ごす。
遠慮のない幼馴染みとのやり取りは、久しぶりに楽しいものとなった。
エニグマの調整が終わって店を出る頃には、太陽が頭上に昇る時間帯になっていた。
昼食の予定は特に決めていなかったが、ウェンディと会ったせいかもう一人の幼馴染みの顔も見たくなり、西通りへ向かうことにした。
香ばしいパンの匂いが漂ってくる店のドアを開けると、爽やかな笑顔が出迎えてくれた。
「よっ、今日は一人か?」
「ウェンディにも同じこと言われたよ」
幼馴染みたちに同じ反応をされ、ロイドは笑いながら肩を竦めてみせた。
ゲンテンに立ち寄ったことを言うと、
「殴られなくてよかったな。あいつその手のことになると見境ないし」
彼は腕を組んで無駄に何度も頷いてくれた。同性同士、何か通じるものがあるのかもしれない。
「ところで、昼飯か?だったらこの辺がおすすめだぞ」
ひとしきり言葉を交わした後、オスカーがトレーの一画を指差した。
「ちょっと改良してみたんだ。これとこれもどうだ?」
パン職人一筋なオスカーだが、なかなかに商売上手な一面もあるようだ。
「今日は天気も良いし、たまには外で食べていくのもいいんじゃないか?」
さらにはそんな提案をされ、ロイドは可笑しげに頷いた。
外での食事は開放的で良い気分展開にもなる。
ロイドはオスカーに勧められたパンを頬張りながら満足げな顔をした。
「う~ん、やっぱりここのパンは美味いな」
一緒に注文した搾りたてのオレンジジュースも新鮮な味わいだ。
「二人とも相変わらずだったなぁ」
年を経ても変わることのない幼馴染みたちとの関係は、大切な心の支えの一部でもある。
急速に変化していく環境の中にあって、それはとても貴重なものだ。
ロイドはふと、テーブルの端に置いた紙袋に目をやった。
いつの間にか、彼らとは違う形での支えが胸の中に住み着いている。
「ちょっと甘やかしすぎかも」
紙袋の中にはランディ御用達のグラビア雑誌が入っている。
ゲンテンを出て西通りに向かう途中で買ったものだ。
断り切れずに頼まれてしまったが、そもそもランディはそれを分かっていて声をかけてくるので、少し悔しくもある。
「今度は絶対断ってやるからな」
そんな風に彼のことを考えながら食事を続けている中、
「あれ?おにいさん、久しぶりだねぇ」
快活な少女の声が降ってきた。
昼食中の青年を見下ろしている大きな瞳は興味深げに輝き、そして『彼』と同じ鮮やかな赤い髪。
「き、君は!?」
ロイドの顔が一瞬にして気色ばんだ。
全身に緊張が走り、食事の手が止まる。
だが、
「あははっ、そんな怖い顔しないでよ。シャーリィはぶらぶらしてるだけだから」
すぐに少女の方が張り詰めた空気を遮断した。
そして、軽やかな身ごなしでロイドの向かいにある椅子へと座る。
「何か用か?」
まさかの展開で、ロイドの手にじわりと汗が滲む。
戦鬼シグムントと共に赤い星座の中心にいる彼女は、最高レベルの危険人物だ。
今は表立った動きを見せていないが、油断はできない。
「別に~。ちょっと見かけたから声をかけただけだよ」
シャーリィはそう言いながらトレーの上にある香ばしいパンに目を留め、
「あ、それ美味しそうだね」
などと許可を得ずに食べ始めてしまった。
(う、う~ん……奔放な子だな)
そんな少女の言動をロイドは無言で観察する。
以前ランディが、「街中を歩いてるくらいだったら害はないだろうけどな」と言っていたのを思い出し、少し肩の力を抜いてみることにした。
「ここのパンって、雑誌に載ってたんだよねぇ。だから気になっててさ」
シャーリィは小動物のように忙しなくパンを頬張っていたが、ふとロイドの方を見て動きを止めた。
「あっ……おにいさんさぁ、ランディ兄と凄く仲がいいみたいだね」
「──え?」
まるでどこかで見ていたかのような言葉にロイドは身を固くした。
(な、なんで?)
さっきとは別の意味で緊張感が増し、思わず目の前の少女を凝視する。
急に喉の奥が張り付くような感覚がして、飲みかけのオレンジジュースをストローで勢いよく啜った。
その直後、
「だって、ランディ兄の匂いがする」
シャーリィの口から衝撃的な言葉が飛び出した。
「い、今っ、なん……て!?」
ロイドはジュースを吹き出しそうになるのを何とか堪えたが、逆にむせ返ってしまって涙目になる。
「それくらい一緒にいるってことだよね。あ、そっか~」
顔が赤いのは苦しいからか、それとも図星だったからか。
明らかに動揺している青年を見て、シャーリィは直感的に二人の関係性を察したようだった。
「おにいさんって凄いねぇ。あのランディ兄を捕まえちゃうなんて」
からかうわけでもなく、心底感心している様子でまじまじとロイドを見つめている。
「勝手に納得しないでくれ」
ロイドが呼吸を整えながら言い返したが、それを無視して彼女は言葉を続けた。
「今はなんか腐抜けちゃってるけど、前のランディ兄はかっこよかったし、言い寄ってくるヤツとかいっぱいたんだよ」
パンを丸々一個食べ終え、今度はロイドが持っていたオレンジジュースを奪って遠慮なく飲み始める。
「そういうのは相手にしないくせに、ナンパばっかりしてたけどさ」
その頃のことを思い出しているのか、シャーリィはどこか懐かしげに目を細めた。
そんな姿を少し意外に感じ、ロイドは彼女の声に耳を傾けてしまっていた。
「あのナンパ癖は昔からか」
つい独り言のような呟きを発し、それが聞こえた赤毛の少女は声を立てて笑った。
「シャーリィの言ってること信じちゃうんだ?おにいさんってやっぱり面白いね!」
それから残りのジュースを一気に飲み干して、跳ねるように席を立つ。
「もっと話していたいけど、そろそろ行かなくちゃ」
一見普通の少女だがそこはやはり百戦錬磨の猟兵で、全く隙のない動作だった。
「じゃあ、またね!ランディ兄によろしく~」
まさに台風一過だった。
再び一人になったロイドはテーブルに片肘をつき、その手で顔を覆いながら大きく息を吐いた。
「はぁ~、まいったな」
ランディの言っていた通り、害はなかった。なかったのだが。
さっきのやり取りを思い出せば自然と顔が熱くなる。
あの動物的な感覚は猟兵だからというよりも、彼女特有のものような気がした。
「思いっきり食い逃げされたし」
ドッと疲れが押し寄せてきて怒る気にもならない。
昼食を終えたら帰ろうと思っていたが、気持ちの収拾が付くまで椅子から立ち上がれそうになかった。
それから三十分ほどして、ロイドはようやく重い腰を上げた。
気分転換にこのまま街中をぶらつくのも悪くないが、この紙袋を片手にしているとどうにも落ち着かない。
昼下がりでのんびりとした雰囲気の西通りを歩き、裏口から特務支援課のビルへ戻ってきた。
念のため一階へ顔を出したが、まだ誰も帰ってきていないようだ。
「……ランディはさすがにもう出かけたよな」
遊び好きな彼が、この貴重な休日を無駄にするとは思えない。
きっと昼飯がてら外出しただろうと、強引に決めつけてしまいたくなる。
正直、今は会いたくなかった。
やっと落ち着いた熱がぶり返してきそうな気がする。
そもそも、真面目なロイドには頼まれごとを後回しにするという考えがなかった。
不在ならともかく、居るのであればすぐに渡すのが当たり前だ。
階段を上り二階の廊下へ足を踏み入れると、微かに音楽が流れてきた。
それは落ち着いた雰囲気のある曲調だ。
この階で音楽が聞こえてくる場所といえば、ジュークボックスがある彼の部屋の可能性が高い。
「嘘だろ……?」
ロイドは思わず天井を仰ぎ見た。
一体どこで行動選択を間違えたのだろう?
随分と巡り合わせの悪い休日だ。
意を決して、音が漏れてくるドアの前に立つ。
深呼吸を繰り返してからノックをすると、中から聞き慣れた声が返ってきた。
「まだ出かけないのか?」
部屋に入って早々、そんな言葉が口をつく。
「ん~、これ終わったらな」
ランディはソファーに座って武器の手入れを行っていた。
「重力変換ユニットまで手付けてたら、時間くっちまってさ」
久しぶりにまとまった時間が取れるとあって、気分がのってしまったのだろうか。
自分の獲物を見つめる瞳が楽しげな表情をしている。
ロイドはそんな同僚の側に歩み寄り、紙袋を差し出した。
「これ。次は自分で買いに行けよな」
「おっ、ありがとよ。今度飯でもおごるぜ」
抗議の意味も込めて膨れっ面で睨んでみたが、全く効果はない。
ランディは小さく笑いながら作業の手を止め、それを受け取ろうとした。
その瞬間、互いの指先が触れる。
「──っ!?」
ロイドは反射的に手を引っ込めてしまった。
『ランディ兄の匂いがする』
同時にシャーリィの言葉が脳裏に浮かび、一気に熱が蘇った。
「ロイド?」
様子がおかしいこと訝しんだランディが彼を見上げるも、視線は噛み合わない。
「な、なんでもない」
ロイドはぎこちなく笑ったが、そこまでが限界だった。
これ以上はこの部屋にいられそうもなくて、ランディに背を向ける。
「えっと……ごめん。もう行くから」
無言で出て行くのは失礼だろうと思い、何とか声を出してドアノブに手をかける。
だが、
ドアを開ける寸手の所で、音もなく後ろから手首を掴まれた。
「えっ?」
一連の動作には全く気配が感じられず、完全な不意打ちだった。
「それ、なんでもないって態度じゃないよな」
驚きで心臓が止まりかけたロイドへ静かな声が降りそそぐ。
少し上からの視線と共に、赤い髪が彼の耳の横を掠めて落ちてきた。
「別に、ランディが気にすることじゃない」
そのわずかな感触ですら耐えきれずに強く目を瞑ると、今度は背後から胴体に腕を回されて強引に後ろへ引きずられ始めた。
「な、なにしてるんだよ!?」
「まともに誤魔化せたこともないくせに、どの口が言ってんだか」
ロイドは必死に抵抗したが体格で勝るランディには適わず、ソファーの上に投げ出されてしまった。
「いっ……た」
「そんじゃ、白状してもらおうかねぇ」
ランディは頭をさすっているロイドの横に腰を下ろし、唇の端を吊り上げる。
相手を部屋の窓側に放り込み、自分はドアの近くを抑えているあたり、逃がすつもりは毛頭ないのだろう。
それはロイドにも分かるくらいのはっきりとした意思表示だ。
(あぁ、もう……俺のバカ)
あの時、背を向けた勢いのまま部屋を飛び出してしまえばよかった。
そう思わずにはいられなかった。
観念したロイドは、渋々とシャーリィに遭遇したことを告げた。
その名前を聞いた瞬間、ランディの眼光が鋭くなった。
「あいつ、何考えてやがる」
警戒心が剥き出しの牙を隠そうともせずに声が低くなる。
「お前、何もされてないだろうな?」
「大丈夫。普通に話してただけだから」
ロイドは彼を安心させようと微笑したが、すぐに足元に視線を落とした。
「でもさ、その……気づかれちゃって」
言い淀む顔が恥ずかしげな表情を浮かべる。
どこまでを伝えるべきか悩んだが、シャーリィの方から話を振ってくる可能性も考えれば、隠しておくのは得策ではないだろうと思った。
「あー、なるほどね。そういうことか」
そんなロイドを見たランディは、彼の言いたいことをすぐに読み取った。
「妙に勘が良いからな、あいつ。獣みたいっつーか」
その内容は危険とは程遠く、自然と剣呑になっていた心が和らいでいく。
「ま、お前も何かツッコまれて動揺しまくったんだろ?」
「うっ……」
その光景が易々と想像できる。
ランディは喉の奥で笑ったが、それを加味してもロイドの態度には首を傾げるものがあった。
そうして、改めて反芻してみる。
最初に彼がこの部屋に入ってきた時、特に違和感はなかった。
グラビア雑誌のせいでご機嫌斜めなのは毎度のことだ。
態度が急変したのは、それを受け取った直後。
ほんの一瞬、指が微かに触れた。
この程度の接触など日常茶飯事だというのに、過敏に反応した姿からは羞恥の色が滲んで見えた。
それは同僚としての顔ではなく、恋人としての顔だ。
(あいつに何言われたか知らねぇけど……意識してんな)
随分とウブな反応をしてくれたせいで、愛おしさも相まって身体の奥にじわりと火が灯る。
情欲に侵食され始めた腕が何のためらいもなくロイドの方へ伸びた。
「あんまり思わせぶりなことするなよ?それとも試してんの?」
まだ、この部屋で一度もまともに顔を見ていない。
伸ばした腕の先が背けられた顔を捕まえ、強引に向かい合わせる。
「た、試すって、なにを?」
意図せず相手を直視してしまったロイドは、目を丸くしながら声を絞り出した。
戯けのない眼差しを受けて胸の鼓動が速くなる。
「だから……俺がお前の誘いを蹴って遊びに出て行くかどうかってこと」
「なんでそうなるんだよ!?大体、誘ってないし!」
ロイドはこの翡翠色が苦手だった。
いつもは軽妙で気さくな瞳は、なんの予兆もなく急に落ち着き払った男の顔をする。
その中に見え隠れする静かな熱情が身体に纏わり付くようだった。
逸らしたくても身体がうまく動かない。
耳から顎のラインをなぞる指先がやたらと優しくて、肌がざわめいた。
「俺に構ってないでさっさと行けよ」
それでも精一杯の強気で睨み付けると、ランディは意地悪げに両眼を細めた。
「お前、それ本気?」
ロイドの両肩を掴んでソファーに身体を押しつけ、乗りかかった。
二人分の重みを受けて軋む音がやけに耳につく。
ジュークボックスから流れていた音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
ランディは答えを聞きたいわけではなく、ロイドの唇を自分のそれで塞いだ。
久しぶりに味わう感触が気持ちよくて心が躍る。
こんなキス一つですら慣れる様子のない恋人を追い込みたくなった。
戸惑って逃げる舌先を捕らえて執拗に絡ませる。
角度を変える度に深まる交わりが、静かな部屋に濡れた音を響かせた。
「……っ、まっ……て」
湿った吐息の隙間でロイドが声を乱す。
この場では一枚も二枚も上手な年上の恋人に為す術もなく、熱っぽく潤んだ瞳を向けた。
「なに?ベッド行く?」
訴えかけるような視線を察したランディが尋ねるも声はない。
ただ、汗ばんだ手が彼の衣服を握りしめてきた。
久しぶりの休日だというのに、ままならないことだらけだ。
ロイドは煽られて火照った身体を持て余し、ベッドに組み敷いてくる相手へと腕を伸ばした。
それを掴んだランディが嬉しそうに指先へ舌を這わせてくる。
「なぁ、ロイド。今日は俺と遊ぼうな」
彼はまるで子供にでも言うように、けれどもそれには不釣り合いな色情めいた声を静寂の部屋に響かせた。
2020.08.22
#碧畳む
碧・恋人設定
偶然出会ったシャーリィに二人の仲を勘付かれてしまい、意識してしまうロイドの話。
【文字数:7900】
最近、特務支援課のビルは閑散としていることが多い。
教団の事件で知名度も上がり、活動を再開してからは様々な支援要請が舞い込んでくるようになった。
オペレーターであるフランが調整して割り振ってくれているが、多忙なことには変わりなく、彼らは日々クロスベル中を飛び回っている。
そんな中、今日は久しぶりの休日だ。
ビルの一階では、女性たちの声が楽しげな空間を作り出している。
「お、もう出かけるのか?」
そこへ台所からランディがひょっこりと顔を出した。
本日の朝食当番だった彼は、後片付けをしている最中だった。
「そうね。色々と見て回りたいし」
それに応じたエリィが口元を綻ばせる。
支援課の女性陣はキーアを連れて百貨店へ買い物に行く予定だ。
「後でソフィーユのジェラートが食べたいです」
「あ、あそこの美味しいですよね。フランが大好きなんですよ」
ティオが遠慮がちに少しだけ声を弾ませると、ノエルが頷きながらこの場にいない妹のことを思い浮かべた。
ちなみフランは仕事があって今日は参加できない。
「ねーねー、ノエル。昨日フランがお昼休みに抜け出してくるって言ってたよ」
「えっ?もうっ、あの子ってば」
ノエルはキーアからの情報に驚いたが、怒るよりも呆れるといった様子で大きな溜息を吐いた。
そんな彼女たちのやり取りをランディは目元を緩めて眺めやる。
「いや~、平和だねぇ」
つい独りごちると、いきなり後ろからどつかれた。
「こら、さぼるな」
後片付けを手伝ってくれているロイドが睨んでくる。
「はい、はい。お嬢たち出かけるってよ」
「あれ、もうそんな時間?」
それをあしらってランディが話を振ると、ロイドはすぐに態度を一変させて台所から出てきた。
「あ、ロイド~!キーアたちお買い物に行ってくるね~!」
彼の姿を見つけた少女が、目を輝かせながら元気よくその場で飛び跳ねる。
「ははっ、いってらっしゃい」
そんな元気な姿につられ、ロイドは満面の笑顔で小さく手を振りながら彼女らを見送った。
台所に戻った二人は、手際よく片付けを進めながら何気ない会話を交わしていた。
「そう言えば、ワジはもう出かけたのかな?」
「飯食った後、さっさと行っちまったぞ」
「課長は外せない会議があるとかで休み取れなかったんだよな」
「ま、いいんじゃねーの?普段から休んでるようなもんだし」
折角の休日だというのに皆のことを気にかけてしまうロイドに、ランディは軽い調子で応答した。
リーダーとして真面目なのは彼の長所だが、今日くらいは気を抜いてほしいと思う。
「そんなことより、お前も出かけるんだろ?」
「ん~、なんかエニグマの調子が悪いからウェンディに見てもらおうかと思ってさ」
そんな意味も込めて話題をロイド自身のことへ向けると、彼は眉を寄せて天井を見上げた。
「ウェンディちゃんにスパナとかで殴られそうだな。もっと大事に扱えとか言われて」
「……ありえそうで怖いんだけど」
ランディの言葉はやけに信憑性があってロイドは苦笑した。
けれど、相手が幼馴染みのせいか深刻さはなく、明るい色を浮かべている。
「あ、そうだ。外に出るなら『あれ』買ってきてくれよ」
それに気を良くしたランディが思い出したかのように言うと、ロイドは少しの間を置いてから瞠目した。
「『あれ』って……っ、ランディ!」
「今日、発売日なんだよな」
「なんで俺が買ってこなくちゃいけないんだよ。どうせ外出するんだろ?」
冷ややかな視線の中にも、どこか恥ずかしげな顔が見え隠れしている。
『あれ』で通じてしまうあたり、ランディの愛読書であるグラビア雑誌のお使いは初めてではないのだろう。
「冷たいこと言うなって。後で貸してやるから」
「見るわけないだろ!!」
ケラケラと笑う年長の同僚に対し、ロイドは赤面しながら声を荒げてしまった。
朝食の片付けが済んだロイドは、軽く身支度を整えて玄関先から外へ出た。
今日は朝から好天に恵まれたおかげか人々の出足が早いようだ。
中央広場はすでに賑わっていて、活気のある風景が広がっている。
それらを目に映すロイドの表情が柔らかくなった。
多忙な中での貴重な休日だと思えば、自然と気持ちも解れていく。
「さて……と」
彼はしばらくその街並みを堪能していたが、やがて目的の場所である派手な看板に目をやった。
遠目からでも認識できるそれは、中央広場の中でも一際目立っている。
慣れた様子で店内に入ると、すぐに気が付いたウェンディがカウンター越しに声をかけてきた。
「ロイド、今日は一人?珍しいね」
「ああ、久しぶりに休日なんだ」
ロイドはそう答え、ここに来た理由を説明しながらエニグマをカウンターの上に置いた。
「まさか、壊したんじゃないでしょうね?」
案の定、ウェンディの目つきが怖くなっている。
「そ、そんなに乱暴には扱ってないはずだけど……」
思わず腰が引けてしまロイドだったが、彼女はそれに目もくれずにエニグマのカバーを開けた。
(はぁ、殴られずに済みそうかな)
彼女の意識はすでにエニグマの方へ向いているようで、ホッと胸を撫で下ろす。
ウェンディは繊細な手つきで中身を分解し、各部品のチェックを始めた。
ロイドはそれを興味深げに眺め、彼女と会話をしつつ時間を過ごす。
遠慮のない幼馴染みとのやり取りは、久しぶりに楽しいものとなった。
エニグマの調整が終わって店を出る頃には、太陽が頭上に昇る時間帯になっていた。
昼食の予定は特に決めていなかったが、ウェンディと会ったせいかもう一人の幼馴染みの顔も見たくなり、西通りへ向かうことにした。
香ばしいパンの匂いが漂ってくる店のドアを開けると、爽やかな笑顔が出迎えてくれた。
「よっ、今日は一人か?」
「ウェンディにも同じこと言われたよ」
幼馴染みたちに同じ反応をされ、ロイドは笑いながら肩を竦めてみせた。
ゲンテンに立ち寄ったことを言うと、
「殴られなくてよかったな。あいつその手のことになると見境ないし」
彼は腕を組んで無駄に何度も頷いてくれた。同性同士、何か通じるものがあるのかもしれない。
「ところで、昼飯か?だったらこの辺がおすすめだぞ」
ひとしきり言葉を交わした後、オスカーがトレーの一画を指差した。
「ちょっと改良してみたんだ。これとこれもどうだ?」
パン職人一筋なオスカーだが、なかなかに商売上手な一面もあるようだ。
「今日は天気も良いし、たまには外で食べていくのもいいんじゃないか?」
さらにはそんな提案をされ、ロイドは可笑しげに頷いた。
外での食事は開放的で良い気分展開にもなる。
ロイドはオスカーに勧められたパンを頬張りながら満足げな顔をした。
「う~ん、やっぱりここのパンは美味いな」
一緒に注文した搾りたてのオレンジジュースも新鮮な味わいだ。
「二人とも相変わらずだったなぁ」
年を経ても変わることのない幼馴染みたちとの関係は、大切な心の支えの一部でもある。
急速に変化していく環境の中にあって、それはとても貴重なものだ。
ロイドはふと、テーブルの端に置いた紙袋に目をやった。
いつの間にか、彼らとは違う形での支えが胸の中に住み着いている。
「ちょっと甘やかしすぎかも」
紙袋の中にはランディ御用達のグラビア雑誌が入っている。
ゲンテンを出て西通りに向かう途中で買ったものだ。
断り切れずに頼まれてしまったが、そもそもランディはそれを分かっていて声をかけてくるので、少し悔しくもある。
「今度は絶対断ってやるからな」
そんな風に彼のことを考えながら食事を続けている中、
「あれ?おにいさん、久しぶりだねぇ」
快活な少女の声が降ってきた。
昼食中の青年を見下ろしている大きな瞳は興味深げに輝き、そして『彼』と同じ鮮やかな赤い髪。
「き、君は!?」
ロイドの顔が一瞬にして気色ばんだ。
全身に緊張が走り、食事の手が止まる。
だが、
「あははっ、そんな怖い顔しないでよ。シャーリィはぶらぶらしてるだけだから」
すぐに少女の方が張り詰めた空気を遮断した。
そして、軽やかな身ごなしでロイドの向かいにある椅子へと座る。
「何か用か?」
まさかの展開で、ロイドの手にじわりと汗が滲む。
戦鬼シグムントと共に赤い星座の中心にいる彼女は、最高レベルの危険人物だ。
今は表立った動きを見せていないが、油断はできない。
「別に~。ちょっと見かけたから声をかけただけだよ」
シャーリィはそう言いながらトレーの上にある香ばしいパンに目を留め、
「あ、それ美味しそうだね」
などと許可を得ずに食べ始めてしまった。
(う、う~ん……奔放な子だな)
そんな少女の言動をロイドは無言で観察する。
以前ランディが、「街中を歩いてるくらいだったら害はないだろうけどな」と言っていたのを思い出し、少し肩の力を抜いてみることにした。
「ここのパンって、雑誌に載ってたんだよねぇ。だから気になっててさ」
シャーリィは小動物のように忙しなくパンを頬張っていたが、ふとロイドの方を見て動きを止めた。
「あっ……おにいさんさぁ、ランディ兄と凄く仲がいいみたいだね」
「──え?」
まるでどこかで見ていたかのような言葉にロイドは身を固くした。
(な、なんで?)
さっきとは別の意味で緊張感が増し、思わず目の前の少女を凝視する。
急に喉の奥が張り付くような感覚がして、飲みかけのオレンジジュースをストローで勢いよく啜った。
その直後、
「だって、ランディ兄の匂いがする」
シャーリィの口から衝撃的な言葉が飛び出した。
「い、今っ、なん……て!?」
ロイドはジュースを吹き出しそうになるのを何とか堪えたが、逆にむせ返ってしまって涙目になる。
「それくらい一緒にいるってことだよね。あ、そっか~」
顔が赤いのは苦しいからか、それとも図星だったからか。
明らかに動揺している青年を見て、シャーリィは直感的に二人の関係性を察したようだった。
「おにいさんって凄いねぇ。あのランディ兄を捕まえちゃうなんて」
からかうわけでもなく、心底感心している様子でまじまじとロイドを見つめている。
「勝手に納得しないでくれ」
ロイドが呼吸を整えながら言い返したが、それを無視して彼女は言葉を続けた。
「今はなんか腐抜けちゃってるけど、前のランディ兄はかっこよかったし、言い寄ってくるヤツとかいっぱいたんだよ」
パンを丸々一個食べ終え、今度はロイドが持っていたオレンジジュースを奪って遠慮なく飲み始める。
「そういうのは相手にしないくせに、ナンパばっかりしてたけどさ」
その頃のことを思い出しているのか、シャーリィはどこか懐かしげに目を細めた。
そんな姿を少し意外に感じ、ロイドは彼女の声に耳を傾けてしまっていた。
「あのナンパ癖は昔からか」
つい独り言のような呟きを発し、それが聞こえた赤毛の少女は声を立てて笑った。
「シャーリィの言ってること信じちゃうんだ?おにいさんってやっぱり面白いね!」
それから残りのジュースを一気に飲み干して、跳ねるように席を立つ。
「もっと話していたいけど、そろそろ行かなくちゃ」
一見普通の少女だがそこはやはり百戦錬磨の猟兵で、全く隙のない動作だった。
「じゃあ、またね!ランディ兄によろしく~」
まさに台風一過だった。
再び一人になったロイドはテーブルに片肘をつき、その手で顔を覆いながら大きく息を吐いた。
「はぁ~、まいったな」
ランディの言っていた通り、害はなかった。なかったのだが。
さっきのやり取りを思い出せば自然と顔が熱くなる。
あの動物的な感覚は猟兵だからというよりも、彼女特有のものような気がした。
「思いっきり食い逃げされたし」
ドッと疲れが押し寄せてきて怒る気にもならない。
昼食を終えたら帰ろうと思っていたが、気持ちの収拾が付くまで椅子から立ち上がれそうになかった。
それから三十分ほどして、ロイドはようやく重い腰を上げた。
気分転換にこのまま街中をぶらつくのも悪くないが、この紙袋を片手にしているとどうにも落ち着かない。
昼下がりでのんびりとした雰囲気の西通りを歩き、裏口から特務支援課のビルへ戻ってきた。
念のため一階へ顔を出したが、まだ誰も帰ってきていないようだ。
「……ランディはさすがにもう出かけたよな」
遊び好きな彼が、この貴重な休日を無駄にするとは思えない。
きっと昼飯がてら外出しただろうと、強引に決めつけてしまいたくなる。
正直、今は会いたくなかった。
やっと落ち着いた熱がぶり返してきそうな気がする。
そもそも、真面目なロイドには頼まれごとを後回しにするという考えがなかった。
不在ならともかく、居るのであればすぐに渡すのが当たり前だ。
階段を上り二階の廊下へ足を踏み入れると、微かに音楽が流れてきた。
それは落ち着いた雰囲気のある曲調だ。
この階で音楽が聞こえてくる場所といえば、ジュークボックスがある彼の部屋の可能性が高い。
「嘘だろ……?」
ロイドは思わず天井を仰ぎ見た。
一体どこで行動選択を間違えたのだろう?
随分と巡り合わせの悪い休日だ。
意を決して、音が漏れてくるドアの前に立つ。
深呼吸を繰り返してからノックをすると、中から聞き慣れた声が返ってきた。
「まだ出かけないのか?」
部屋に入って早々、そんな言葉が口をつく。
「ん~、これ終わったらな」
ランディはソファーに座って武器の手入れを行っていた。
「重力変換ユニットまで手付けてたら、時間くっちまってさ」
久しぶりにまとまった時間が取れるとあって、気分がのってしまったのだろうか。
自分の獲物を見つめる瞳が楽しげな表情をしている。
ロイドはそんな同僚の側に歩み寄り、紙袋を差し出した。
「これ。次は自分で買いに行けよな」
「おっ、ありがとよ。今度飯でもおごるぜ」
抗議の意味も込めて膨れっ面で睨んでみたが、全く効果はない。
ランディは小さく笑いながら作業の手を止め、それを受け取ろうとした。
その瞬間、互いの指先が触れる。
「──っ!?」
ロイドは反射的に手を引っ込めてしまった。
『ランディ兄の匂いがする』
同時にシャーリィの言葉が脳裏に浮かび、一気に熱が蘇った。
「ロイド?」
様子がおかしいこと訝しんだランディが彼を見上げるも、視線は噛み合わない。
「な、なんでもない」
ロイドはぎこちなく笑ったが、そこまでが限界だった。
これ以上はこの部屋にいられそうもなくて、ランディに背を向ける。
「えっと……ごめん。もう行くから」
無言で出て行くのは失礼だろうと思い、何とか声を出してドアノブに手をかける。
だが、
ドアを開ける寸手の所で、音もなく後ろから手首を掴まれた。
「えっ?」
一連の動作には全く気配が感じられず、完全な不意打ちだった。
「それ、なんでもないって態度じゃないよな」
驚きで心臓が止まりかけたロイドへ静かな声が降りそそぐ。
少し上からの視線と共に、赤い髪が彼の耳の横を掠めて落ちてきた。
「別に、ランディが気にすることじゃない」
そのわずかな感触ですら耐えきれずに強く目を瞑ると、今度は背後から胴体に腕を回されて強引に後ろへ引きずられ始めた。
「な、なにしてるんだよ!?」
「まともに誤魔化せたこともないくせに、どの口が言ってんだか」
ロイドは必死に抵抗したが体格で勝るランディには適わず、ソファーの上に投げ出されてしまった。
「いっ……た」
「そんじゃ、白状してもらおうかねぇ」
ランディは頭をさすっているロイドの横に腰を下ろし、唇の端を吊り上げる。
相手を部屋の窓側に放り込み、自分はドアの近くを抑えているあたり、逃がすつもりは毛頭ないのだろう。
それはロイドにも分かるくらいのはっきりとした意思表示だ。
(あぁ、もう……俺のバカ)
あの時、背を向けた勢いのまま部屋を飛び出してしまえばよかった。
そう思わずにはいられなかった。
観念したロイドは、渋々とシャーリィに遭遇したことを告げた。
その名前を聞いた瞬間、ランディの眼光が鋭くなった。
「あいつ、何考えてやがる」
警戒心が剥き出しの牙を隠そうともせずに声が低くなる。
「お前、何もされてないだろうな?」
「大丈夫。普通に話してただけだから」
ロイドは彼を安心させようと微笑したが、すぐに足元に視線を落とした。
「でもさ、その……気づかれちゃって」
言い淀む顔が恥ずかしげな表情を浮かべる。
どこまでを伝えるべきか悩んだが、シャーリィの方から話を振ってくる可能性も考えれば、隠しておくのは得策ではないだろうと思った。
「あー、なるほどね。そういうことか」
そんなロイドを見たランディは、彼の言いたいことをすぐに読み取った。
「妙に勘が良いからな、あいつ。獣みたいっつーか」
その内容は危険とは程遠く、自然と剣呑になっていた心が和らいでいく。
「ま、お前も何かツッコまれて動揺しまくったんだろ?」
「うっ……」
その光景が易々と想像できる。
ランディは喉の奥で笑ったが、それを加味してもロイドの態度には首を傾げるものがあった。
そうして、改めて反芻してみる。
最初に彼がこの部屋に入ってきた時、特に違和感はなかった。
グラビア雑誌のせいでご機嫌斜めなのは毎度のことだ。
態度が急変したのは、それを受け取った直後。
ほんの一瞬、指が微かに触れた。
この程度の接触など日常茶飯事だというのに、過敏に反応した姿からは羞恥の色が滲んで見えた。
それは同僚としての顔ではなく、恋人としての顔だ。
(あいつに何言われたか知らねぇけど……意識してんな)
随分とウブな反応をしてくれたせいで、愛おしさも相まって身体の奥にじわりと火が灯る。
情欲に侵食され始めた腕が何のためらいもなくロイドの方へ伸びた。
「あんまり思わせぶりなことするなよ?それとも試してんの?」
まだ、この部屋で一度もまともに顔を見ていない。
伸ばした腕の先が背けられた顔を捕まえ、強引に向かい合わせる。
「た、試すって、なにを?」
意図せず相手を直視してしまったロイドは、目を丸くしながら声を絞り出した。
戯けのない眼差しを受けて胸の鼓動が速くなる。
「だから……俺がお前の誘いを蹴って遊びに出て行くかどうかってこと」
「なんでそうなるんだよ!?大体、誘ってないし!」
ロイドはこの翡翠色が苦手だった。
いつもは軽妙で気さくな瞳は、なんの予兆もなく急に落ち着き払った男の顔をする。
その中に見え隠れする静かな熱情が身体に纏わり付くようだった。
逸らしたくても身体がうまく動かない。
耳から顎のラインをなぞる指先がやたらと優しくて、肌がざわめいた。
「俺に構ってないでさっさと行けよ」
それでも精一杯の強気で睨み付けると、ランディは意地悪げに両眼を細めた。
「お前、それ本気?」
ロイドの両肩を掴んでソファーに身体を押しつけ、乗りかかった。
二人分の重みを受けて軋む音がやけに耳につく。
ジュークボックスから流れていた音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
ランディは答えを聞きたいわけではなく、ロイドの唇を自分のそれで塞いだ。
久しぶりに味わう感触が気持ちよくて心が躍る。
こんなキス一つですら慣れる様子のない恋人を追い込みたくなった。
戸惑って逃げる舌先を捕らえて執拗に絡ませる。
角度を変える度に深まる交わりが、静かな部屋に濡れた音を響かせた。
「……っ、まっ……て」
湿った吐息の隙間でロイドが声を乱す。
この場では一枚も二枚も上手な年上の恋人に為す術もなく、熱っぽく潤んだ瞳を向けた。
「なに?ベッド行く?」
訴えかけるような視線を察したランディが尋ねるも声はない。
ただ、汗ばんだ手が彼の衣服を握りしめてきた。
久しぶりの休日だというのに、ままならないことだらけだ。
ロイドは煽られて火照った身体を持て余し、ベッドに組み敷いてくる相手へと腕を伸ばした。
それを掴んだランディが嬉しそうに指先へ舌を這わせてくる。
「なぁ、ロイド。今日は俺と遊ぼうな」
彼はまるで子供にでも言うように、けれどもそれには不釣り合いな色情めいた声を静寂の部屋に響かせた。
2020.08.22
#碧畳む
その剣先に宿るは金彩の気色
黎・恋人未満
アーロンが戦闘中にヴァンに庇われて不機嫌になりつつも、最後は上機嫌な話。
「見とれたかよ」って言わせたかっただけです。
【文字数:6800】
小一時間ぶりに地上の光を浴びた一行は、眩しさで目を細めた。
地下特有のひんやりとした空気から一転、暖かい外気に晒されて安堵する。
午後も少しばかり過ぎた時間帯、リバーサイドにはゆったりとした風が流れていた。
「お前ら、お疲れさんだったな」
ヴァンは助手たちを労い、整備路へ続く扉を閉めて慎重に施錠をする。
一般人が誤って入り込んでしまっては大事だ。
「お疲れさまです!」
「ヴァンさんもお疲れ様でした」
すぐに元気な声と優しげな声が返ってきたが、あと一人足りない気がする。
そこにいるはずなのに、常日頃の強気で生意気な応答が聞こえてこない。
しかし、雇い主として助手たちの性格を把握しているヴァンは、特に気分を害した様子もなかった。
そんな彼の上着の裾をフェリが小さく引っ張る。
「アーロンさん、機嫌が悪そうですね」
「あー、だろうなぁ……」
困ったような色をした大きな瞳に見上げられ、ヴァンは苦笑いをしながら頭を掻いた。
地下鉄の整備路には何度も出入りしているが、構造的に立ち回りやすい環境とは言えなかった。
照明があっても視界はそこそこで、狭い場所も多く足場が悪い。
ただ歩くだけならまだしも、戦うとなれば多少のストレスは伴ってしまうものだ。
それはこの顔ぶれの中で最も好戦的なアーロンにはてきめんだった。
彼は苛つきが蓄積するような連戦を繰り広げた後、大きな空間へ出た途端に爛々と両眼を輝かせた。
「ハッ、ぶっ潰してやるぜ!」
蠢く大型の魔獣たちを見つけた足が、意気揚々と地面を蹴る。
「アーロン、突っ走るな!」
ヴァンはその背中に向かって怒鳴り、追撃の体勢に入った。
「フェリ、攪乱しろ。アニエスは援護を」
シャードを展開させながら二人に指示を出す。
小さな身体が銃口を構えて走り出したと同時に、アーツの駆動が始まった。
響き渡る銃声がアーロンに集中していた敵意を散らす。
その隙を突き、双剣が溜まった鬱憤を吐き出すように苛烈な斬撃を叩き込んだ。
「ガキみたいな戦い方するんじゃねぇ!」
体勢を崩した魔獣に止めの強打をお見舞いしたヴァンは、烈火にも似た青年を制しようとした。
しかし、彼は聞く耳を持たない。
「うるせぇ!!」
アーロンは残っている相手に狙いを定め、息つく間もなく強襲をかける。
だが、その刹那。
側面からの重い衝撃波が彼を襲った。
「ぐはっ!?」
不意を突かれ、受け身を取り損ねた身体が吹き飛ばされる。
よろめきながらもすぐに立ち上がろうとする彼に、容赦なく追い打ちの牙が襲いかかった。
それを目に捉えたヴァンの足が脊髄反射で動き出す。
この距離なら間に合う。
彼は不確定なシールドの発動よりも、自分の身体能力を選んだ。
「やらせるかよ!!」
武器を顔の前で構えながら魔獣に突進する様は躊躇なく、自らの負傷など顧みない。
間一髪で凶刃を食い止め、のし掛かる重圧を押し返す勢いで腕に力を込めて薙ぎ払った。
その直後。アニエスの声が響き渡りアーツが駆動する。
「皆さん、伏せて下さい!」
激しく螺旋を描いた水流が水飛沫を上げ、一直線に魔獣たちを貫いた。
戦闘が終わると、アニエスが心配げにアーロンの元へ駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?アーロンさん」
しかし、彼はそれを無視して目の前にいるヴァンを睨みつけた。
「……余計なマネしやがって。ウゼェんだよ」
「悪ぃな。身体が勝手に動いちまったもんで」
アーロンの性格上、庇われるのは本意ではないだろう。
ただ、あの状況では仕方なかった。
ヴァンは鋭い眼光を真正面から受け止め、肩を竦めるしかなかった。
歯切れの悪い言葉の片隅には、年長者の穏やかな響きが見え隠れする。
フェリはそんな雇い主の男を見上げたまま眉を寄せた。
彼はアーロンが不機嫌な理由を分かっているようだが、自分には見当が付かない。
「フェリちゃん。もし、戦闘中に誰かに庇われたらどう思いますか?」
そこへ、アニエスから助け船が入った。
「えっと、戦士としての未熟さは感じますけど……あっ!」
一番小さな助手は素直な気持ちを口にし始め、途中で何かに気づいてハッと目を見開いた。
「アーロンさんはヴァンさんに庇われちゃったから、面白くないんですね」
答えを見つけた顔が嬉しそうに輝く。
「こら、フェリ。あんまり大きな声で言うなって。あいつに聞こえちまう」
渦中の人物の背中は少し先を歩いていて、振り返る気配はなさそうだ。
「ダメなんですか?」
「こういう時はそっとしておきましょうね」
小首を傾げた妹のような少女の問いに、アニエスは人差し指を唇に当てながら微笑んだ。
この日の業務は厄介な案件こそなかったが、件数は多かった。
所長であるヴァンが解散を告げる頃には、すっかり茜色の空が広がっていた。
アーロンはそれを聞くやいなや、夕暮れ時で賑わい始めた街へと姿を消してしまった。
別に昼間のことあったからではない。いつのもことだ。
大君にも由来する強いカリスマ性のせいか、気性のわりに人好きのする雰囲気のせいか、彼の周りには自然と人が集まる。
本人もそうやって仲間たちと戯れるのが好きなのだろう。
「ハメを外しすぎなければ、勝手にやってろってな」
ヴァンは事務所へと続く階段を上りながら独りごちる。
帰宅してホッとするも束の間、机の上に溜まった書類の束が目に入り、思いきり脱力した。
「……さすがに片付けねぇと、ヤバそうだ」
自業自得だが、つい面倒くさくて後回しにしてしまう。
事務所に人が増えれば、それだけ諸々の手続きも増えていく。
最近はアニエスが書類の整理などをしてくれているので、これでも以前よりかは大分マシな状態なのだが。
「今度はあのガキにもやらせるか」
最年少のフェリでさえ、難しい顔をしながらも手伝ってくれる時がある。
彼女より年上のアーロンができない作業ではないだろうと、ヴァンは思った。
彼はなかなかに癖が強いが、根本的な所では真面目だ。
何かと文句を言いつつも、与えられた仕事を途中で投げ出したりはしない。
今日も地下を出て以降は不機嫌さを隠しもしなかったが、最後まで同行していた。
所長として、そういう部分はきちんと評価している。
「どうせウザがられるだけだから言わねぇけど……な」
生意気な助手について思いを巡らせた後、ヴァンはようやく机に向かい合った。
今までの経験上、この量では深夜までかかりそうだ。
もう腹をくくるしかなかった。
今夜もいつものように遊び明かすつもりだった。
軽く夕飯を済ませている最中。チラホラと集まってきた仲間たちと共に、繁華街へと繰り出し享楽にふける。
もちろん酒は美味いし、気分も上がる。
けれど、どこか純粋に楽しみ切れていない自分がいることを、アーロンは薄々感じていた。
この胸のわだかまりは説明できなくても、原因だけははっきりと分かる。
結局、彼は時計が深夜を回ったあたりで酒の席を立った。
「なんか、ノリきれねぇな」
そう言葉少なに漏らした声を仲間たちは珍しがったが、しつこく詮索するような輩はいなかった。
アーロンの感覚ではさして遅い時間帯でもないが、旧市街はすっかり静まりかえっていた。
どこか悶々としながら戻って来た彼は、自室がある三階へ上がる寸前で足を止め、ふと事務所の扉に目をやった。
部屋の中には動いている人の気配があり、思わず顔を顰めて舌打ちをする。
今日はどうしてもあの雇い主のことを意識してしまう。
いつものなら、盛り場の喧噪で忘れてしまえるような感情が燻っていた。
階段を上り始めた足は次第に早くなり、いささか乱暴な仕草で自室の扉に手をかける。
不本意な帰宅をした彼は、そのままの勢いでベッドに身体を投げ出した。
「……やっぱりウゼェ」
苦々しい吐息を吐きながら薄暗い天井を見つめ、片手の甲を押し当てて視界を閉ざした。
眠気など襲ってくるはずもなく、脳裏に昼間の光景が蘇る。
あの時、魔獣との間に割って入るようにヴァンの身体が飛び込んできた。
不意打ちをされたのは完全に自分の失態であり、追撃を受けて多少の負傷をするのは覚悟の上だった。
頼まれもしないのに大きな背中が視界を占領し、庇われたと認識した途端に喉元がチリチリと焼け付いた。
矜持が傷付いたというよりも、また一つ借りが積み重なっていくことが嫌だった。
煌都の一件からこの方、あの背中ばかりを見ている気がする。
勝手に何かを与えてくるくせに、いざという時でさえ自分から何かを求めてこようとはしない。
それは戦闘中に限った話ではなく、まるで保護者のような眼差しを見るたびに苛立たしさが募った。
「所長さんの責任感ってか?」
考えれば考えるほど、刺々しい感情の渦に飲み込まれてしまいそうになる。
アーロンはこの思考を遮断したくて、わざと声を出して毒づいてみせた。
──今はただ無心になりたい。
ふと、そんな思いに捕らわれる。
彼はおもむろにベッドから起き上がり、側に置いていた愛用の双剣を掴んだ。
それから、ふらりと部屋を出て行った。
デスクワークのお供に用意したマグカップの中身は、もう残りわずかになっている。
砂糖とミルクがたっぷりと入ったコーヒーは、事務作業の進捗と比例して順調に減っていた。
楽しいとは思えないが、不本意ながらも雇い主の立場にあるので、いい加減なことはできない。
「やれやれ。なんでこうも立て続けに押しかけてくるんだか」
最後の書類に目を通しながら、ヴァンは困ったように目尻を下げた。
自分が年若い助手たちに懐かれていることには、全くの無自覚だった。
「まぁ、ここにいる間は面倒見てやるけどよ」
ようやく全ての書類に目を通した後、どこか愁いを含んで人知れず呟く。
彼は残りのコーヒーを一気に飲み干し、長らく座っていた椅子から立ち上がった。
凝り固まった身体を解す為に大きな伸びをすると、気持ち良さからか思わず息が零れる。
「はぁ……さすがに溜めすぎたぜ」
綺麗になった机に胸を撫で下ろし、自業自得と言わんばかりの表情を浮かべた。
部屋の時計に目を向ければ、すでに夜も深い時間を回っていた。
ずっと部屋に籠もっていたせいか、無性に外の空気を吸いたくなってくる。
「さて……と、屋上にでも出てみるか」
さすがに今から外出する気分にはなれず、だとしたら選択肢は一つだけ。
ヴァンは椅子の背もたれにかけていた上着を掴み、それを羽織りながら屋上へ足を向けた。
この時間帯なら誰もいないはずだと思っていた。
フェリはとっくに就寝しているだろうし、アーロンはまだ遊び歩いているだろう。
だから、屋上の扉を開けた瞬間に目を疑った。
何かが空を切る音が聞こえる。
薄暗い場所でさえも鮮やかな赤い髪が、視界へ飛び込んできた。
(おいおい……これは予想外すぎんだろうが)
毎日のように夜遊びをしているくせに、なぜ今夜に限ってこんな所にいるのか?
思わず悪態の一つも吐きたくなったが、彼の唇が動き出すことはなかった。
寝静まった旧市街の夜を、銀色の弧を描いた二つの軌跡が乱舞する。
それに合わせて床を蹴る音は、羽が生えたように軽やかだ。
煌都での舞台が脳裏をかすめる。
華劇場の観客たちを魅了して止まない、光彩を放つ役者としての姿。
よほど世界に入り込んでいるのか、屋上に来た男の存在にも気づいていない。
これは誰かに見せるものではなく、ただ自身の為だけの舞いだ。
それを理解したヴァンはこの場から去ろうとしたが、どうしても足が動かなかった。
鋭い光を放つ双剣から目を逸らせなくなる。
そんな最中。次第にアーロンの動作は収束し、やがて綺麗に止まった。
深く息は吐きながら剣を鞘に収め、濃紺が広がる空を見上げる。
そこで、ようやく自分以外の気配に気がついた。
勢いよく振り返った先には見慣れた男がいて、驚きが露わになる。
「……いたのかよ」
「あぁ、邪魔しちまったみたいだな」
ヴァンはばつが悪そうに視線を反らし、落ち着きなく身体を揺らした。
「タダ見っつーのはいただけねぇなぁ」
その姿を見ても、先刻までのヒリつくような苛立ちを感じなかった。
今は随分と心が落ち着いている。
「ま、残念だったな。女の格好じゃなくて」
双剣を持ったまま腕を組み、手摺りに背中を預けた顔が皮肉めいて笑う。
「は?そこは関係ねぇだろ」
てっきり機嫌を損ねたかと思ったが、そうでもないらしい。
普段と変わりなく話しかけてきた助手に対し、ヴァンは内心で安堵する。
「着飾ってた方が客の気分も上がるってもんだ」
「いや、客じゃねぇし」
軽い応酬をしている間に自分の調子も戻り、自然と年長者の顔が前に出る。
「大体、舞台の上では外見が全てじゃねぇし。観客を魅了するのは、お前の内面から生まれ出るものが大半だろ」
諭すような口振りは、この年下の青年が鬱陶しがるであろう最たるものだ。
しかし、彼は虚を突かれた様子でヴァンを見た。
数拍を置いてから発した声が、喉の奥に笑いを絡めて響く。
「ほんと、ウゼェな……だが、悪くねぇ」
別に自分を卑下したつもりはないし、役者としての自尊心は高く持ち合わせている。
彼にしてみれば、その言葉は的外れにしか思えなかったが、声に出して認められるのは満更でもないのだろう。
アーロンは手摺りから身体を離し、鞘に収めていた刃を抜き放った。
手元で器用に一回転させてから息を整える。
「滅多にやらねぇものを見せたくなるくらいには」
そう言って静かに口角をつり上げた。
お世辞にでも広いとは言えない舞台に、ただ一人。
ゆっくりと双剣を振るい始めたアーロンの雰囲気は、さっきとはまるで違っていた。
ヴァンが最初に見た演舞は、華美で派手な演出が映える剣捌きだった。
それを動と例えるならば、今は静。
凪いだ水面の上に立ち、波紋の一つも広がることはない。
正直、戸惑いを隠せなかった。それと同時に感嘆の息が漏れる。
(……こいつ、こんな動きもするのかよ)
微かな月明かりの空を夜景にして、しなやかな手足が音もなく流れる。
今度もまた、見入ってしまうのを止められなかった。
ふと、目が合った。
すぐに離れてもう一度。
振り向きざま、乱れた髪の隙間から真っ直ぐに見つめてくる。
今度は静かな刃を真横に振るい、思わせぶりに顔を逸らした。
それは挑発か。はたまた誘惑か。
幽玄な空気さえも漂う演舞の中、金彩色の両眼だけが鮮烈な光を放つ。
そのアンバランスさがひどく印象的だった。
視線の糸が絡んでは解ける度に、否応なく引きずり込まれてしまう。
『オレを見ろ』と言わんばかりに
屋上に来てからどのくらいの時間が経過しただろう。
たった一人の客へ向けられた剣舞は、この小さな舞台にこそ映える。
ヴァンは完全にその世界に没入していた。
いつの間にか、美しい弧を描き続けていた刃が止まったことにも気が付かなかった。
そんな彼の耳に聞き慣れた声が入ってくる。
「なぁ、所長さん」
突如、風を切る鋭利な音がした。
鼻先すれすれの所でピタリと切っ先が止まる。
「──っ!?」
そこで、一気に現実に引き戻された。
大きく目を見開けば、突き出された剣を一本隔てた場所にアーロンが立っている。
「……見とれたかよ?」
彼は年長の男に対し、自信たっぷりな微笑を浮かべつつも意地悪げな色を滲ませた。
「て、てめぇは……っ」
ヴァンは思わず一歩後退し、相手を睨み付ける。
してやられたと思った。
流麗な舞いに吸い寄せられ、強い情を宿した主張に心臓を掴まれたような気さえする。
「はぁ……このクソガキが」
急激に居たたまれない気分に襲われた彼は、大きく頭を振ってから片手で髪を掻き乱した。
「こんな所で俺相手に無駄遣いしまくってんじゃねぇよ」
見入ってしまった事実を誤魔化したいのか、顔を背けて吐き捨てる。
アーロンはそんな様子を可笑しげに見つめながら、抜き身の剣を鞘に収めた。
今夜、一時でもこの男より優位に立てたのなら上々だ。
「それは心外ってもんだぜ。これでも使う相手は選んでる」
赤髪の青年は意味深げに呟き、軽い足取りでヴァンの横をすり抜けた。
このまま部屋に戻ってさっさとベッドに潜り込むのも一興。
さぞかし気持ち良く眠れるに違いない。
余裕綽々で去っていく背中は、一度も振り返らなかった。
気分転換のつもりが、とんだ失態を晒してしまった。これでは所長の面子も形無しである。
ようやく一人になったヴァンは、ぐったりと手摺りにもたれて大きな溜息を吐いた。
「なんで、そうくるんだよ。意味が分かんねぇ」
昼間の不機嫌ぶりが嘘のようだった。
アーロンが珍しいものを披露したくなる程に気を良くしたのはなぜだろう?
無意識に人たらしな言動をするこの男には、皆目見当が付かなかった。
「……くそ、調子が狂っちまった」
夜の空気で冷えている手摺りが心地良く、額を押し付けて瞳を閉じる。
面倒な事務処理で消耗をしているはずなのに、今は眠気の一つも襲ってはこなかった。
冴え冴えとした頭は、嫌みなくらい心身を休ませてはくれない。
夜のしじまに双剣が空を切る残響がする。
あの突き刺さるような金色が胸に焼き付いて離れなかった。
2021.12.31
#黎畳む
黎・恋人未満
アーロンが戦闘中にヴァンに庇われて不機嫌になりつつも、最後は上機嫌な話。
「見とれたかよ」って言わせたかっただけです。
【文字数:6800】
小一時間ぶりに地上の光を浴びた一行は、眩しさで目を細めた。
地下特有のひんやりとした空気から一転、暖かい外気に晒されて安堵する。
午後も少しばかり過ぎた時間帯、リバーサイドにはゆったりとした風が流れていた。
「お前ら、お疲れさんだったな」
ヴァンは助手たちを労い、整備路へ続く扉を閉めて慎重に施錠をする。
一般人が誤って入り込んでしまっては大事だ。
「お疲れさまです!」
「ヴァンさんもお疲れ様でした」
すぐに元気な声と優しげな声が返ってきたが、あと一人足りない気がする。
そこにいるはずなのに、常日頃の強気で生意気な応答が聞こえてこない。
しかし、雇い主として助手たちの性格を把握しているヴァンは、特に気分を害した様子もなかった。
そんな彼の上着の裾をフェリが小さく引っ張る。
「アーロンさん、機嫌が悪そうですね」
「あー、だろうなぁ……」
困ったような色をした大きな瞳に見上げられ、ヴァンは苦笑いをしながら頭を掻いた。
地下鉄の整備路には何度も出入りしているが、構造的に立ち回りやすい環境とは言えなかった。
照明があっても視界はそこそこで、狭い場所も多く足場が悪い。
ただ歩くだけならまだしも、戦うとなれば多少のストレスは伴ってしまうものだ。
それはこの顔ぶれの中で最も好戦的なアーロンにはてきめんだった。
彼は苛つきが蓄積するような連戦を繰り広げた後、大きな空間へ出た途端に爛々と両眼を輝かせた。
「ハッ、ぶっ潰してやるぜ!」
蠢く大型の魔獣たちを見つけた足が、意気揚々と地面を蹴る。
「アーロン、突っ走るな!」
ヴァンはその背中に向かって怒鳴り、追撃の体勢に入った。
「フェリ、攪乱しろ。アニエスは援護を」
シャードを展開させながら二人に指示を出す。
小さな身体が銃口を構えて走り出したと同時に、アーツの駆動が始まった。
響き渡る銃声がアーロンに集中していた敵意を散らす。
その隙を突き、双剣が溜まった鬱憤を吐き出すように苛烈な斬撃を叩き込んだ。
「ガキみたいな戦い方するんじゃねぇ!」
体勢を崩した魔獣に止めの強打をお見舞いしたヴァンは、烈火にも似た青年を制しようとした。
しかし、彼は聞く耳を持たない。
「うるせぇ!!」
アーロンは残っている相手に狙いを定め、息つく間もなく強襲をかける。
だが、その刹那。
側面からの重い衝撃波が彼を襲った。
「ぐはっ!?」
不意を突かれ、受け身を取り損ねた身体が吹き飛ばされる。
よろめきながらもすぐに立ち上がろうとする彼に、容赦なく追い打ちの牙が襲いかかった。
それを目に捉えたヴァンの足が脊髄反射で動き出す。
この距離なら間に合う。
彼は不確定なシールドの発動よりも、自分の身体能力を選んだ。
「やらせるかよ!!」
武器を顔の前で構えながら魔獣に突進する様は躊躇なく、自らの負傷など顧みない。
間一髪で凶刃を食い止め、のし掛かる重圧を押し返す勢いで腕に力を込めて薙ぎ払った。
その直後。アニエスの声が響き渡りアーツが駆動する。
「皆さん、伏せて下さい!」
激しく螺旋を描いた水流が水飛沫を上げ、一直線に魔獣たちを貫いた。
戦闘が終わると、アニエスが心配げにアーロンの元へ駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?アーロンさん」
しかし、彼はそれを無視して目の前にいるヴァンを睨みつけた。
「……余計なマネしやがって。ウゼェんだよ」
「悪ぃな。身体が勝手に動いちまったもんで」
アーロンの性格上、庇われるのは本意ではないだろう。
ただ、あの状況では仕方なかった。
ヴァンは鋭い眼光を真正面から受け止め、肩を竦めるしかなかった。
歯切れの悪い言葉の片隅には、年長者の穏やかな響きが見え隠れする。
フェリはそんな雇い主の男を見上げたまま眉を寄せた。
彼はアーロンが不機嫌な理由を分かっているようだが、自分には見当が付かない。
「フェリちゃん。もし、戦闘中に誰かに庇われたらどう思いますか?」
そこへ、アニエスから助け船が入った。
「えっと、戦士としての未熟さは感じますけど……あっ!」
一番小さな助手は素直な気持ちを口にし始め、途中で何かに気づいてハッと目を見開いた。
「アーロンさんはヴァンさんに庇われちゃったから、面白くないんですね」
答えを見つけた顔が嬉しそうに輝く。
「こら、フェリ。あんまり大きな声で言うなって。あいつに聞こえちまう」
渦中の人物の背中は少し先を歩いていて、振り返る気配はなさそうだ。
「ダメなんですか?」
「こういう時はそっとしておきましょうね」
小首を傾げた妹のような少女の問いに、アニエスは人差し指を唇に当てながら微笑んだ。
この日の業務は厄介な案件こそなかったが、件数は多かった。
所長であるヴァンが解散を告げる頃には、すっかり茜色の空が広がっていた。
アーロンはそれを聞くやいなや、夕暮れ時で賑わい始めた街へと姿を消してしまった。
別に昼間のことあったからではない。いつのもことだ。
大君にも由来する強いカリスマ性のせいか、気性のわりに人好きのする雰囲気のせいか、彼の周りには自然と人が集まる。
本人もそうやって仲間たちと戯れるのが好きなのだろう。
「ハメを外しすぎなければ、勝手にやってろってな」
ヴァンは事務所へと続く階段を上りながら独りごちる。
帰宅してホッとするも束の間、机の上に溜まった書類の束が目に入り、思いきり脱力した。
「……さすがに片付けねぇと、ヤバそうだ」
自業自得だが、つい面倒くさくて後回しにしてしまう。
事務所に人が増えれば、それだけ諸々の手続きも増えていく。
最近はアニエスが書類の整理などをしてくれているので、これでも以前よりかは大分マシな状態なのだが。
「今度はあのガキにもやらせるか」
最年少のフェリでさえ、難しい顔をしながらも手伝ってくれる時がある。
彼女より年上のアーロンができない作業ではないだろうと、ヴァンは思った。
彼はなかなかに癖が強いが、根本的な所では真面目だ。
何かと文句を言いつつも、与えられた仕事を途中で投げ出したりはしない。
今日も地下を出て以降は不機嫌さを隠しもしなかったが、最後まで同行していた。
所長として、そういう部分はきちんと評価している。
「どうせウザがられるだけだから言わねぇけど……な」
生意気な助手について思いを巡らせた後、ヴァンはようやく机に向かい合った。
今までの経験上、この量では深夜までかかりそうだ。
もう腹をくくるしかなかった。
今夜もいつものように遊び明かすつもりだった。
軽く夕飯を済ませている最中。チラホラと集まってきた仲間たちと共に、繁華街へと繰り出し享楽にふける。
もちろん酒は美味いし、気分も上がる。
けれど、どこか純粋に楽しみ切れていない自分がいることを、アーロンは薄々感じていた。
この胸のわだかまりは説明できなくても、原因だけははっきりと分かる。
結局、彼は時計が深夜を回ったあたりで酒の席を立った。
「なんか、ノリきれねぇな」
そう言葉少なに漏らした声を仲間たちは珍しがったが、しつこく詮索するような輩はいなかった。
アーロンの感覚ではさして遅い時間帯でもないが、旧市街はすっかり静まりかえっていた。
どこか悶々としながら戻って来た彼は、自室がある三階へ上がる寸前で足を止め、ふと事務所の扉に目をやった。
部屋の中には動いている人の気配があり、思わず顔を顰めて舌打ちをする。
今日はどうしてもあの雇い主のことを意識してしまう。
いつものなら、盛り場の喧噪で忘れてしまえるような感情が燻っていた。
階段を上り始めた足は次第に早くなり、いささか乱暴な仕草で自室の扉に手をかける。
不本意な帰宅をした彼は、そのままの勢いでベッドに身体を投げ出した。
「……やっぱりウゼェ」
苦々しい吐息を吐きながら薄暗い天井を見つめ、片手の甲を押し当てて視界を閉ざした。
眠気など襲ってくるはずもなく、脳裏に昼間の光景が蘇る。
あの時、魔獣との間に割って入るようにヴァンの身体が飛び込んできた。
不意打ちをされたのは完全に自分の失態であり、追撃を受けて多少の負傷をするのは覚悟の上だった。
頼まれもしないのに大きな背中が視界を占領し、庇われたと認識した途端に喉元がチリチリと焼け付いた。
矜持が傷付いたというよりも、また一つ借りが積み重なっていくことが嫌だった。
煌都の一件からこの方、あの背中ばかりを見ている気がする。
勝手に何かを与えてくるくせに、いざという時でさえ自分から何かを求めてこようとはしない。
それは戦闘中に限った話ではなく、まるで保護者のような眼差しを見るたびに苛立たしさが募った。
「所長さんの責任感ってか?」
考えれば考えるほど、刺々しい感情の渦に飲み込まれてしまいそうになる。
アーロンはこの思考を遮断したくて、わざと声を出して毒づいてみせた。
──今はただ無心になりたい。
ふと、そんな思いに捕らわれる。
彼はおもむろにベッドから起き上がり、側に置いていた愛用の双剣を掴んだ。
それから、ふらりと部屋を出て行った。
デスクワークのお供に用意したマグカップの中身は、もう残りわずかになっている。
砂糖とミルクがたっぷりと入ったコーヒーは、事務作業の進捗と比例して順調に減っていた。
楽しいとは思えないが、不本意ながらも雇い主の立場にあるので、いい加減なことはできない。
「やれやれ。なんでこうも立て続けに押しかけてくるんだか」
最後の書類に目を通しながら、ヴァンは困ったように目尻を下げた。
自分が年若い助手たちに懐かれていることには、全くの無自覚だった。
「まぁ、ここにいる間は面倒見てやるけどよ」
ようやく全ての書類に目を通した後、どこか愁いを含んで人知れず呟く。
彼は残りのコーヒーを一気に飲み干し、長らく座っていた椅子から立ち上がった。
凝り固まった身体を解す為に大きな伸びをすると、気持ち良さからか思わず息が零れる。
「はぁ……さすがに溜めすぎたぜ」
綺麗になった机に胸を撫で下ろし、自業自得と言わんばかりの表情を浮かべた。
部屋の時計に目を向ければ、すでに夜も深い時間を回っていた。
ずっと部屋に籠もっていたせいか、無性に外の空気を吸いたくなってくる。
「さて……と、屋上にでも出てみるか」
さすがに今から外出する気分にはなれず、だとしたら選択肢は一つだけ。
ヴァンは椅子の背もたれにかけていた上着を掴み、それを羽織りながら屋上へ足を向けた。
この時間帯なら誰もいないはずだと思っていた。
フェリはとっくに就寝しているだろうし、アーロンはまだ遊び歩いているだろう。
だから、屋上の扉を開けた瞬間に目を疑った。
何かが空を切る音が聞こえる。
薄暗い場所でさえも鮮やかな赤い髪が、視界へ飛び込んできた。
(おいおい……これは予想外すぎんだろうが)
毎日のように夜遊びをしているくせに、なぜ今夜に限ってこんな所にいるのか?
思わず悪態の一つも吐きたくなったが、彼の唇が動き出すことはなかった。
寝静まった旧市街の夜を、銀色の弧を描いた二つの軌跡が乱舞する。
それに合わせて床を蹴る音は、羽が生えたように軽やかだ。
煌都での舞台が脳裏をかすめる。
華劇場の観客たちを魅了して止まない、光彩を放つ役者としての姿。
よほど世界に入り込んでいるのか、屋上に来た男の存在にも気づいていない。
これは誰かに見せるものではなく、ただ自身の為だけの舞いだ。
それを理解したヴァンはこの場から去ろうとしたが、どうしても足が動かなかった。
鋭い光を放つ双剣から目を逸らせなくなる。
そんな最中。次第にアーロンの動作は収束し、やがて綺麗に止まった。
深く息は吐きながら剣を鞘に収め、濃紺が広がる空を見上げる。
そこで、ようやく自分以外の気配に気がついた。
勢いよく振り返った先には見慣れた男がいて、驚きが露わになる。
「……いたのかよ」
「あぁ、邪魔しちまったみたいだな」
ヴァンはばつが悪そうに視線を反らし、落ち着きなく身体を揺らした。
「タダ見っつーのはいただけねぇなぁ」
その姿を見ても、先刻までのヒリつくような苛立ちを感じなかった。
今は随分と心が落ち着いている。
「ま、残念だったな。女の格好じゃなくて」
双剣を持ったまま腕を組み、手摺りに背中を預けた顔が皮肉めいて笑う。
「は?そこは関係ねぇだろ」
てっきり機嫌を損ねたかと思ったが、そうでもないらしい。
普段と変わりなく話しかけてきた助手に対し、ヴァンは内心で安堵する。
「着飾ってた方が客の気分も上がるってもんだ」
「いや、客じゃねぇし」
軽い応酬をしている間に自分の調子も戻り、自然と年長者の顔が前に出る。
「大体、舞台の上では外見が全てじゃねぇし。観客を魅了するのは、お前の内面から生まれ出るものが大半だろ」
諭すような口振りは、この年下の青年が鬱陶しがるであろう最たるものだ。
しかし、彼は虚を突かれた様子でヴァンを見た。
数拍を置いてから発した声が、喉の奥に笑いを絡めて響く。
「ほんと、ウゼェな……だが、悪くねぇ」
別に自分を卑下したつもりはないし、役者としての自尊心は高く持ち合わせている。
彼にしてみれば、その言葉は的外れにしか思えなかったが、声に出して認められるのは満更でもないのだろう。
アーロンは手摺りから身体を離し、鞘に収めていた刃を抜き放った。
手元で器用に一回転させてから息を整える。
「滅多にやらねぇものを見せたくなるくらいには」
そう言って静かに口角をつり上げた。
お世辞にでも広いとは言えない舞台に、ただ一人。
ゆっくりと双剣を振るい始めたアーロンの雰囲気は、さっきとはまるで違っていた。
ヴァンが最初に見た演舞は、華美で派手な演出が映える剣捌きだった。
それを動と例えるならば、今は静。
凪いだ水面の上に立ち、波紋の一つも広がることはない。
正直、戸惑いを隠せなかった。それと同時に感嘆の息が漏れる。
(……こいつ、こんな動きもするのかよ)
微かな月明かりの空を夜景にして、しなやかな手足が音もなく流れる。
今度もまた、見入ってしまうのを止められなかった。
ふと、目が合った。
すぐに離れてもう一度。
振り向きざま、乱れた髪の隙間から真っ直ぐに見つめてくる。
今度は静かな刃を真横に振るい、思わせぶりに顔を逸らした。
それは挑発か。はたまた誘惑か。
幽玄な空気さえも漂う演舞の中、金彩色の両眼だけが鮮烈な光を放つ。
そのアンバランスさがひどく印象的だった。
視線の糸が絡んでは解ける度に、否応なく引きずり込まれてしまう。
『オレを見ろ』と言わんばかりに
屋上に来てからどのくらいの時間が経過しただろう。
たった一人の客へ向けられた剣舞は、この小さな舞台にこそ映える。
ヴァンは完全にその世界に没入していた。
いつの間にか、美しい弧を描き続けていた刃が止まったことにも気が付かなかった。
そんな彼の耳に聞き慣れた声が入ってくる。
「なぁ、所長さん」
突如、風を切る鋭利な音がした。
鼻先すれすれの所でピタリと切っ先が止まる。
「──っ!?」
そこで、一気に現実に引き戻された。
大きく目を見開けば、突き出された剣を一本隔てた場所にアーロンが立っている。
「……見とれたかよ?」
彼は年長の男に対し、自信たっぷりな微笑を浮かべつつも意地悪げな色を滲ませた。
「て、てめぇは……っ」
ヴァンは思わず一歩後退し、相手を睨み付ける。
してやられたと思った。
流麗な舞いに吸い寄せられ、強い情を宿した主張に心臓を掴まれたような気さえする。
「はぁ……このクソガキが」
急激に居たたまれない気分に襲われた彼は、大きく頭を振ってから片手で髪を掻き乱した。
「こんな所で俺相手に無駄遣いしまくってんじゃねぇよ」
見入ってしまった事実を誤魔化したいのか、顔を背けて吐き捨てる。
アーロンはそんな様子を可笑しげに見つめながら、抜き身の剣を鞘に収めた。
今夜、一時でもこの男より優位に立てたのなら上々だ。
「それは心外ってもんだぜ。これでも使う相手は選んでる」
赤髪の青年は意味深げに呟き、軽い足取りでヴァンの横をすり抜けた。
このまま部屋に戻ってさっさとベッドに潜り込むのも一興。
さぞかし気持ち良く眠れるに違いない。
余裕綽々で去っていく背中は、一度も振り返らなかった。
気分転換のつもりが、とんだ失態を晒してしまった。これでは所長の面子も形無しである。
ようやく一人になったヴァンは、ぐったりと手摺りにもたれて大きな溜息を吐いた。
「なんで、そうくるんだよ。意味が分かんねぇ」
昼間の不機嫌ぶりが嘘のようだった。
アーロンが珍しいものを披露したくなる程に気を良くしたのはなぜだろう?
無意識に人たらしな言動をするこの男には、皆目見当が付かなかった。
「……くそ、調子が狂っちまった」
夜の空気で冷えている手摺りが心地良く、額を押し付けて瞳を閉じる。
面倒な事務処理で消耗をしているはずなのに、今は眠気の一つも襲ってはこなかった。
冴え冴えとした頭は、嫌みなくらい心身を休ませてはくれない。
夜のしじまに双剣が空を切る残響がする。
あの突き刺さるような金色が胸に焼き付いて離れなかった。
2021.12.31
#黎畳む
創→碧(回想)→創・恋人設定
ロイドの成長を見守り認めながらも年上ぶりたいランディの話。
【文字数:10000】
下の階にはすでに人の気配がある。
先ほど隣の部屋から扉が開く音が聞こえたので、ロイドで間違いないだろう。
次に三階から降りてくる女性の足音が二つ。微かに楽しげな話し声が聞こえてくる。
「あ~、なんかいまいちなんだよなぁ~」
建物の中に同僚たちの動きを感じ取りながら、ランディは自室で独りごちた。
クローゼットを開けたまま、扉の内側に設置されている姿見と睨めっこをしている。
後ろで一纏めにしている長髪を解いて頭を一振りした。
周りから見ればいつも通りで特に問題はない姿だったのだが、どうやら本人は結び方が気に入らないようだ。具体的にどこがというよりも感覚的な問題なのかもしれない。
そうこうしている内に、一階からは賑やかなやり取りが聞こえ始めていた。
「やべぇ……あいつにどやされる」
特務支援課のリーダーは真面目な性格である。
皆が集合しているのを知りつつ、のんびりと身支度でもしていようものなら、小言の一つでも言われかねない。
更にはエリィとティオからの追撃も想像できた。
ランディは結び方への拘りを諦めて素早く髪を纏め直す。
ロイドだけであれば軽く受け流すのだが、彼女らを敵に回すのはちょっと怖い。
「仕方ねぇな。これで行くか」
彼が女性陣に頭が上がらないのは、支援課の結成当初から変わらない。
慣れた手つきで愛用のスタンハルバードを持ち出し、ようやく自室から出て行った。
少しだけ急ぐ振りをしながら階段を降り、愛想笑いを浮かべて年下の同僚たちを見回す。
「悪ぃ、悪ぃ、待たせたな」
軽い調子で声をかけると、テーブルの脇に集まっていた三人が一斉にランディの方を向いた。
「遅いわよ、ランディ」
彼の予想に反して最初に咎めてきたのはエリィで、腕組みをしながら小さなため息を吐く。
「なかなかビシッと決まらなくてよぉ~」
それをヘラヘラとかわす横で、ティオがロイドに声をかけた。
「ロイドさん、あれは遅すぎなランディさんに持たせては?」
「でも、課長から頼まれたのは俺だしな~」
「真面目すぎです。今日の前半は一緒の任務ですし、こき使ってしまえばいいのではないかと」
二人の会話はランディの耳にも届いたが、内容がさっぱり分からない。
「なぁ、お嬢。あいつらの会話が不穏なんだけど?」
「ロイドが課長から雑用を頼まれているのよ。書類の入った段ボールを警察署に持って行って欲しいらしいわ。確か……二箱だったかしら?」
すると、エリィが説明をしてくれた。
「そうだな。まだあっちの部屋に置いてあるんだけど」
続けてロイドが肩を竦めながら課長の部屋に視線を向ける。
「はぁ?こっちも忙しいんだから、そのくらい自分で持ってけよ」
「それについては同感です」
ランディはあからさまに不満げな反応を示し、語尾を待たずにティオが頷いた。
「まぁ、まぁ。そんなに大した量じゃないしさ」
支援課のリーダーはそんな同僚たちを宥め、ふと壁の時計に目をやった。
今日は特に時間を定めているわけではないが、そろそろ頃合いだろう。
「それより、もう出た方が良さそうだな。二人は先に行ってくれ。こっちは書類の件もあるし」
「そうね。そちらはお願いするわ。ティオちゃん、行きましょう」
「はい、久しぶりに一緒ですね」
午前中の支援要請はそれぞれ二組に分かれて処理をする予定だ。
午後は単独行動になってしまうが、それでも二人はどこか嬉しそうな足取りで外へ出て行った。
「──で、俺はこき使われればいいのか?」
彼女らを見送った後、ランディは冗談交じりで問いかけた。
ロイドは外出前にもう一度今日の予定を確認しておこうと、端末を操作している。
「う~ん」
返事はすぐに返ってこなかった。
小さく唸りながら数々の要請が並ぶ画面を見つめている。
「どうした?」
何か問題でもあるのかと、彼の側に近寄って横から顔を覗き込む。
「……たまにはみんな一緒がいいな」
ロイドが独り言のように呟いた。
クロスベル再独立後の目まぐるしい日々も徐々に薄れつつあるが、特務支援課に寄せられる案件は後を絶たない。
近頃は個々に動いているのが常で、今日のような体制の方が珍しいくらいだった。
「なんだよ、急に。寂しくなっちまったのか?」
その横顔が幼い子供のように見え、からかう気が削がれてしまったランディの双眸は柔らかい。
「前は……ずっとみんなでクロスベル中を走り回ってたな~と思って」
教団の事件からこの方、数々の支援要請を一緒にこなしてきた。
互いに不足している部分を補い合い、地道に一歩ずつ経験を積み重ねて今に至る。
立ち塞がる大きな壁に足掻き続けた年月の中、ふと周りを見れば、そこにはいつだって仲間たちの姿があった。
「だな。懐かしむほど年数が経ってるわけじゃねぇのに、随分と昔のことみたいに感じるぜ」
ランディは静かにそう言った後、画面から視線を外そうとしない同僚の頭を軽く掻き混ぜた。
「まぁ、あれだ。今はそれなりに成長したってことだろ?それぞれ単独でも任せられるくらいには」
適材適所と言ってしまえばそれまでだ。
けれど、そんな一言では表せない感慨とほんの少しの寂しさが入り交じる。
言葉の端に滲み出る感情はロイドにも伝わり、彼はようやく端末の電源を落として画面に背を向けた。
「そうだよな。なんか……ごめん。これから仕事だっていうのに」
「気にすんなよ。ほら、今日も元気にお勤めといこうぜ」
湿っぽい言動を謝る背中を一つ叩き、ランディはニカッと笑った。
そして、スタンハルバードをテーブルの上に横たえ、課長の部屋に足を向ける。
「あ、ランディ。書類は俺が持っていくから」
「いや、ティオすけのご指名だしな。あと、リーダーを寂しがらせたお詫びってやつ?」
引き留めようとして追いかけてくるロイドを制しながら、茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる。
「うっ……」
案の定、彼は言葉に詰まり足を止めた。
その隙に素早く目的の物を持ったランディが戻ってくる。
「意外にかさばるな、これ」
書類が詰まった箱を上下に重ね、それを両手で抱えている。高さは顎の辺りで収まっているので、このまま歩く分には問題なさそうだ。
「やっぱり俺も持つよ。一個ずつで丁度いいだろ?」
「俺的には丁度よくねぇな。ここはお兄さんに任せておけよ」
ロイドは慌てて駆け寄ったが、彼にはまるで譲る気がないようだ。
納得がいかないとばかりに抗議の視線を送ると、
「代わりに、それ持ってくれるとありがたいんだけど」
ランディはテーブルの上に置いた愛用の武器に意識を寄せた。
「それって……俺が持っていいのか?」
予想外な提案を受け、茶色の瞳が大きく見開いた。
両手が塞がっている無防備な状態で自分の武器を預けることは、余程の信頼関係がないと成り立たないはずだ。
特にランディは猟兵として戦場に身を置いていた過去があり、気紛れに少し触らせてもらうのとはわけが違う。
「当たり前だろ。お前は自慢の相棒だからな」
そわそわとテーブルの前をうろついている姿が笑いを誘い、肩を震わせて堪えたランディが強い一押しを放った。
それを聞いた途端に表情が輝き、嬉しそうな声が部屋中に響き渡る。
「分かった。それじゃ、警察署まで預からせてもらうな!」
ロイドは上機嫌で長い柄の部分を掴み、片手で軽々と持ち上げた。
それから大切な物を扱うかのようにしっかりと胸元に引き寄せる。
(──こいつは)
その一連の動作を見たランディは、密かに目を見張った。
あれは一般的な規格から外れている特別仕様の武器だ。
通常の物より重量があり全身も長いので、扱うには相当の筋力がいる。
「ランディ、そろそろ出るぞ?」
なぜか黙って見つめてくる年長の相棒に、ロイドは不思議そうな顔をした。
立ち止まったままの彼の横をすり抜け、先に玄関の方へ向かう。
「あぁ、そうだな」
その後ろ姿が以前よりもずっと大きくなっているような気がした。
(ははっ、なんだよ。あの頃は悔しがってたくせにな)
ロイドが過去を懐かしんだことに感化されてしまったのだろうか。
ランディは自慢の相棒が肉体的にも成長している事実を喜びつつも、まだ発展途上だった頃の彼を思い出し、静かに目を細めた。
同僚たちが空き時間を利用して鍛錬をしていること自体は珍しくはない。
とは言っても、率先してやりたがる面子は限られるのだが。
僅かに地面が震動して土煙が上がった。
同じ武器を扱うにしても、やはり動き方には差異がある。
赤毛の男は一振りの威力が大きく、攻撃範囲を広い。
ピンクブラウンの髪をした女は力こそ劣るが、身軽で手数が多い。
「基本的にはパワー重視な武器だけど、戦闘スタイルも色々だな」
警備隊の先輩と後輩の間柄である二人の攻防は、鍛錬と言えどもなかなかに見応えがある。
ロイドは腕組みをしながら、熱心に彼らの動作を目で追っていた。
ひとしきり激しい攻撃の応酬が続いた後、互いに間を取り数拍。
「あれ、ロイドさん?」
最初に見学者の存在に気が付いたのはノエルだった。
「おっ、なんだよ。いるなら声かけろって」
二人は構えを解き、それまでの緊張感が一気に緩和する。
「あのなぁ……無茶言うなよ」
街中で偶然会ったかのような軽い調子の彼に、ロイドは思わず脱力する。
毎度のことながら、武器を振るっている時とそれ以外の時の落差が激しい同僚だ。
「それより、俺のことは気にしないで続けてくれよ」
しかし、自分の存在が鍛錬に水を差してしまった感は否めず、すぐにそう言った。
「あー、いいって。大分揉んでやったしなぁ。そろそろお開きにしようぜ、ノエル」
「はい。随分と時間を割いて頂きましたし。ランディ先輩、ありがとうございました」
二人はこれ以上鍛錬を続ける気はないようで、ノエルが真面目に一礼をして事の終わりを告げる。
「いや~、来てくれて助かったぜ。ノエルが容赦ねぇから、もうヘトヘトでよぉ」
赤毛の青年は後輩と共にロイドに歩み寄りながら、わざとらしく戯けてみせる。
ノエルもその意図に気づき、微笑しながら話を合わせた。
彼らのリーダーは非常に分かりやすく、今は顔中に申し訳なさが滲み出ている。
「こいつが『俺も混ざりたい』とか言ってきたらどうしようかと……」
「あ、でも、それは良いですね。今度は是非三人でお願いしたいです」
「おいおい、勘弁しろって」
そんなやり取りを黙って聞いていたロイドの頬がふっと緩んだ。
どうやら気を遣われてしまったらしい。
改めて二人を眺めると、それぞれにスタンハルバードを手にしている姿は勇壮で頼もしい。だが、やはりノエルの方には物珍しさがあった。
「今まであんまり見る機会がなかったけど、さすが警備隊だな」
「ふふっ、こちらも隊員の標準装備ですからね。最近は先輩と合わせる機会も増えたので、後れを取らないようにしないと」
「お前、結構パワー系だよなぁ。長物メインでも遜色ないだろうよ」
武器のことに始まり警備隊の鍛錬の内容など、三人で和やかに会話を重ねる中、ノエルは何かに思い当たり声を上げた。
「あれ、そう言えばロイドさんもスタンハルバード扱えるんですよね?」
「あぁ、警察学校で一通りの武器は触ってるしな。う~ん、でもわりと苦労した記憶が……」
ロイドは当時のことを思い出したのか、眉を寄せて遠くに目をやった。
「身体ごと突っ込みたいロイドくんには、相性悪かったんじゃないの~?」
そこへ、すかさずランディが横から茶化してくる。
「人を脳筋みたいに言うな!」
直情的にニヤけ顔の同僚を睨み付け、すぐに手が動いた。
「それ、ちょっと貸せよ。基礎ぐらいできてる」
ロイドは憤然としつつ、強引にランディからスタンハルバードを引ったくった。
「あっ、ロイドさんそれ、先輩仕様で重量が……」
ノエルの声と同時にずしりとした重みがのしかかる。
(うっ、意外と重い)
持ち運びに支障はない。たぶん、短時間であれば実戦を想定した動きもできるだろう。
だが、彼が愛用しているトンファーのように、常に身体の一部にして軽々と扱えるかというのはまた別の話だ。
ロイドは自分の身体能力と武器の重量を摺り合わせ、唇を噛む。
「あの、やっぱり重い……ですよね?」
頭の中で自己分析をして無言になっている青年を、ノエルが遠慮がちに覗き込んだ。
「こいつはそこまでヤワじゃねぇよ。数分くらいならお前相手でもやれると思うぜ。まぁ、普段使いは無理だけどな」
それに応じようとしたが、代わりにランディが口を開く。
(なんで、分かるんだよ?)
まるで頭の中を覗かれているみたいだ。
裏を返せば、それだけ深く相手のポテンシャルを把握しているということなのだが、今のロイドにはそれが面白くなかった。
「……もう、いい。返す!」
噛みつきそうな色を瞳に宿し、スタンハルバードを同僚の胸元に押し付ける。
武器が戻ってきたランディは、握り直した柄で自分の肩を軽く叩いた。
「そんなに拗ねるなよ。お前に軽々と振るわれたんじゃ、兄貴分の立場がズタボロになっちまうだろ」
からかうというよりも少し困った様子で笑うと、ロイドは膨れっ面でそっぽを向いてしまった。
彼との肉体的な差を感じるのは今に始まったことではない。
時には羨望の眼差しを送り、時にはこうやって悔しさを募らせる。
まるで、亡くした兄の背中を追いかけるように。
「そのうちズタボロにしてやるからな」
「はい、はい。そのうちな」
目を合わせないままのロイドとそれを軽くあしらうランディの姿は、傍から見れば微笑ましいものだ。
(ロイドさんって、ランディ先輩相手だとすぐムキになるんだよね。ちょっと可愛いというか、何というか……)
ノエルは彼らを眺めやりながら、ついそんな風に思ってしまった。
この日、特務支援課リーダーの機嫌はずっと低空飛行のままだった。
事情を知らない他のメンバーたちは、「どうせランディのせいだろう」との共通認識があり、いつものことだとばかりにさして驚きもしなかった。
夜も深い時間帯に目が覚めた。
ぼんやりとした薄暗い視界の中に、見慣れた赤い髪が入ってくる。
こんな日は大抵朝までぐっすりと眠っているし、起床するにしても気怠さが付きまとうものだ。
ロイドは自分にしては珍しい状況に驚いた。
すぐに寝直そうとしたが、やたらと頭が冴えてしまって眠気は一向に訪れない。
顔をずらして隣人を覗えば、その瞳は閉じられたままだった。
静かに上半身を起こし、うつ伏せ気味の寝姿を何気なく眺めて密かに笑む。
動いたせいで二人で潜り込んでいた毛布がはだけ、逞しい背中が露わになっていた。
ふと、数日前の出来事が頭を過ぎる。
通常の規格ではない特別仕様のスタンハルバードは、やはり重かった。
多少は扱えると認めてくれたのは救いだが、それよりも悔しさの方がはるかに勝った。
(……俺とは全然違う)
見ているだけでは飽き足らず、つい触れたくなってしまった。
普段は一纏めにしている髪は解かれ、背中に散らばっている。
それを軽く指先で流し、素肌の上に手を置いた。
「う~ん、やっぱり筋肉凄いなぁ」
力を抜いている状態でも鍛え抜かれた肉体の様子が分かり、悔しさを引きずりながらも目を輝かせた。
筋を指で辿ってみたり、手の平で叩いてみたりとしている内に楽しくなってくる。
だが、すぐに制止がかかってしまった。
「──おい、こら。人の身体で遊ぶなっつーの。眠れねぇだろ」
言葉のわりには棘がない声で、機嫌を損ねているようには感じられない。
「どうせ起きてたくせに」
気配に敏感な彼のことだ。自分が身を起こした時点でとっくに覚醒していただろうと、ロイドは悪びれる素振りもなかった。
「お前さぁ……この間の、まだ気にしてんの?」
まだ触ることを止めようとしない恋人へ、ランディが思慮深げな視線を向けた。
「気にしてるっていうか、ちょっと思い出しただけっていうか」
それを聞いたロイドは少しだけ頬を膨らませた。
「そりゃぁ、ランディの方が年上だし、どうしたって差ができるのは仕方がないことだし……」
ブツブツと言いながら、元凶である大きな体躯を見つめる。
すると、その肩が小刻みに揺れた。
「焦らなくていいんじゃね?あと一・二年もすればお前もいい感じになるだろうしな」
喉の奥で笑いながらも諭すような口振りは穏やかで、年長者の余裕が垣間見える。
「……でも」
ロイドとて分かってはいるのだ。今まで生きてきた歳月と環境の違いを。
それでも気持ちの方はなかなか付いてこない。
「やっぱり悔しいなぁ」
複雑な胸の内を言葉に乗せ、茶色の頭をぽとりと広い背中の上に落とした。
頬を寄せると慣れ親しんだ体温が伝わってくる。
つい心地良くなって細めた視界に、歴戦の傷跡たちが入ってきた。
(どれだけ戦ってきたらこんな風になるんだろう?)
ぼんやりとそう思った。
この赤毛の青年から猟兵時代の話を聞く機会はあまりない。
尋ねれば応えてくれそうだが、興味本位で詮索するのは気が引けてしまうところだ。
「なんだよ。今度は枕代わりにするつもりか?」
ランディは背中の重みが急に大人しくなったことで、寝落ちは勘弁しろよと揶揄をする。
「ん~、そうじゃなくて。傷跡……見てた」
だが、ロイドの受け答えは眠気を感じさせないものだった。
「ごめん、なんか気になっちゃってさ。色んな傷があるなって」
気を悪くさせるかもしれないと思いつつも、正直に言う。
数日前の悔しさを引きずり、戦場で鍛えられた逞しい身体を目の前にして、どうしても自分に嘘がつけなかった。
さっまで筋肉を辿っていた指が、今度は遠慮がちに傷跡をなぞる。
「今更、何言ってんだか。見慣れてる身体のくせによ」
それに対し、ランディは気分を害した様子を見せなかった。
「まぁ……猟兵なんて、傷だらけで当たり前っつーか?手足が吹っ飛んでないだけマシだぜ」
それどころか、明るい調子でそんなことを口にする。
「案外、胴体に穴が空いてもくたばらないもんだしなぁ」
昔のことを思い出しているのか遠い目をしたが、その直後、ロイドに思いっきり背中を叩かれた。
「いって~なぁ。いきなり何すんだよ」
「……ランディ」
背中の上に伏せていた上半身が勢いよく起き上がり、恨めしげな声に怒気をはらませた視線が突き刺さる。
「今はもう猟兵じゃないんだから、そういう感覚でいるのやめろよな」
急に軽くなって動けるようになったランディは、仰向けに寝転がってロイドを見上げた。
「そうやって、いつも一人で無茶ばっかりするんだから」
薄闇に浮かび上がる瞳はあきらかに怒っていたが、どこか泣き出しそうな影がチラついているようにも見える。
「あー、悪かったって。もう言わねぇから」
「ほんとか?ちゃんと反省しろよ」
長年の猟兵生活で染み付いている思考回路は、そう簡単には変えられない。
だが、相棒であり恋人であるロイドがそれを良しとしないことも承知している。
自然に出てしまったとはいえ、今は言葉にするべきではなかったとすぐに後悔した。
詫びる代わりに腕を伸ばし、一度頬に触れてから寝乱れた髪に指を差し入れて優しく梳いてみる。
「お前……なんか、やけに不安定だな。いつもは朝まで寝てるくせに」
大人しく身を委ねているのは、少しは絆されてくれているからなのか。
毛並みを撫でられた動物のように目元を緩めている姿に安心し、ランディはゆっくりと身体を起こした。
そのままロイドの後頭部を引き寄せ、軽く音を立てて口づける。
「今夜はまだ物足りないとか?」
「な、何言ってんだよ!偶然目が覚めただけに決まってんだろ」
こんな状況では嫌でも言葉の意味に気が付いてしまう。
ロイドは意地悪げに笑う恋人の顔を至近距離で睨んだ。
「思い出して悔しいのも、たまたまだからな」
反射的に身体を離したくなり、まだ後頭部に添えられている手を引き剥がそうとする。
しかし、その動きよりも早く一方の肩を掴まれた。
「あっ!?」
一瞬にして視界が回転し、抗う間もなくベッドの上に背中が落ちた。
先刻の余韻が残る肌を甘噛みされて、不意打ちの刺激にギュッと両目を瞑る。
「なぁ、悔しいついでに聞きたいことあるんだけどさ~」
そこへやたらと軽い声が降ってきた。
「なんだよ?」
どうせふざけているのだろうと思ってすぐに目を開いたが、その瞬間に息が止まりそうになる。
上から見つめてくるランディの表情は、予想外に真剣なものだった。
「こうやって俺に組み敷かれることには何とも思わないのか?」
たやすくシーツの中に沈んだ身体は動きを封じられ、まざまざと力の差を見せつけられる。
武骨な指が肩に食い込んで痛みを感じた。
「……え?」
それでもロイドは不思議そうに目を瞬かせ、頭に疑問符を浮かべた。
なぜ、そんなことを聞いてくるのか分からなかった。
確かに身体を重ねる上での肉体的な優劣があるとすれば、主導権はランディの方にある。
四肢が絡めば解くことは難しく、唇が落ちてくれば高ぶる熱に翻弄されるのが常だ。
煽られて、追い込まれて、いつの間にか余裕がなくなってしまう。
けれど、それに劣等感を覚えたことは今まで一度もなかった。
「そんなの、気にしたことない」
「なんで?」
答えを急いてくる声が少しだけ不安げに聞こえ、自由が利く方の手を伸ばした。
「う~ん、上手く言えないんだけどさ……」
さっき彼がしてくれたこと真似してみたくなる。
見下ろしてくる顔に乱れ落ちた赤い髪を、指で梳きながら後ろへと流した。
「俺のこと大切に想ってくれてるなって、ちゃんと気持ちが伝わってくるっていうのかなぁ」
ロイドは相手を真っ直ぐに見つめ、屈託なく笑った。
優しい抱擁も、時には手荒い愛撫も、そこにはいつだって確かな愛情がある。
だから、それを嬉しく思うのと、兄貴分の背中を追って悔しがることは、感情の質が違うのだと。
「あれ?」
求めた返答があまりにも率直だったせいか、ランディは恋人を凝視したまま固まってしまった。
「大丈夫か?」
ロイドが軽く頬を叩くとすぐ我に返ったが、そのまま脱力して彼の身体にのしかかる。
「なんなんだよ……こいつ。恥ずかしいこと言いやがって」
首筋に顔を埋めて呟いているランディの耳が僅かに赤かった。
「お、重い、どけって」
そんなことには気が付かず、ロイドは自分より大きな身体を一生懸命押し返そうとしている。
「もう、やだ……このまま寝てやる」
ランディにしてみれば、自分から仕掛けておいて超特大のカウンターを食らってしまった気分だ。
「おい、いい加減にしろ!」
耳元に投げやりな言葉が届いた途端、さすがのロイドも眉をつり上げた。
重しのように頑丈な身体はピクリとも動かない。
蹴り飛ばしてやろうかと本気で思い始め、下肢に力が籠もっていく。
彼がそれを実行に移すのはもはや時間の問題だった。
特務支援課のビルを出て警察署に向かう道中、相棒の武器を抱えているロイドはご機嫌だった。
両手が塞がっているランディの歩みは普段よりのんびりとしていて、それに合わせているはずなのに、足が跳ねて先へ行きそうになる。
(……色んな意味で成長してんのは確かなんだがなぁ)
他愛のない会話ですら嬉しそうで、元からの童顔も相まってか子供っぽさに拍車がかかっていた。
あの時、やたらと悔しがっていた姿が不思議と重なる。
重大な事象が多発していたことを考えれば、それこそ掻き消されてもおかしくはないくらいの些細な出来事だ。
それでも、きっかけに手を引かれて鮮明に思い出す。
ムキになって噛みついてくる相貌と。背中で遊んでいた指の感触と。
──屈託のない笑顔で放った言葉を。
(いや、待て。そこは思い出すなっつーの)
ランディは過去の記憶を巡らせた最後の最後で、自分にツッコミを入れた。
当時の精神的ダメージは相当で、しばらくは身体を重ねるのも躊躇したくらいだった。
もちろん、ロイドにその理由を隠していたのは言うまでもない。
そんな懐かしさや恥ずかしさが入り交じり悶々としたランディだったが、雑用を済ませて警察署を出る頃には平静を取り戻しつつあった。
「ありがとな、ランディ。助かったよ」
「このくらい、いいって」
ロイドは律儀に礼を述べ、軽い足取りで歩き出す。
これから東クロスベル街道に出て任務を行う予定だ。
ご機嫌すぎてスタンハルバードを返すのを忘れているのか、そのまま街中を進む彼の横で赤毛の青年が苦笑する。
(しょうがねぇヤツだな。外に出るまでは預けといてやるか)
手持ちぶさたな両手を上着のポケットに突っ込み、相棒に支援要請の内容を確認しながら、ふとさり気なく彼の体躯を品定めしてみた。
「……今なら数分どころか、結構長くいけそうだな」
「ん?なんか言ったか?」
評価はほんの小さな呟きで、聞き逃したロイドが見上げてきた。
「あぁ、お前もいいガタイになったなぁと思ってよ」
ランディがそう言い直してから背中を叩くと、彼は驚いて目を丸くした。
「そ、そうか?」
肉体的なことで褒められるのは初めて気がして、妙に落ち着かない。
「俺には及ばねぇがな。ま、そこは骨格の違いってことで」
信頼しているとか頼りにしてるとか、そういった類いのことはよく言ってくれる相棒だが、今のは不意打ちすぎて反応に困ってしまった。
「そうだなぁ。今度、力比べでもしてみるか?取りあえず腕相撲みたいのとか」
応答してこないロイドを気にせず、ランディは一人で話を進めている。
「タダじゃつまんねーから、負けた方が昼飯三日分……いや、一週間分奢りな」
相棒同士、感情が伝染しやすいのだろうか。今度は彼の方が楽しそうだ。
すると、ようやくロイドが口を開いた。
「ちょっと待て。それ、俺が負ける前提で言ってないか?」
話の内容に引っかかりを覚え、あからさまに面白くないという顔をする。
「さぁな。今のお前なら良い勝負になるんじゃね?それとも逃げんの?」
好戦的な笑みを浮かべたランディに上から覗き込まれ、ロイドの両眼に火が灯った。
「──受けて立つ!」
他の人ならいざ知らず、彼にここまで言われては引き下がるわけにはいかない。
無意識にスタンハルバードの柄を握りしめ、余裕たっぷりの相手を睨め付ける。
(こういうとこは昔から全然変わってねぇな。だから面白いんだけど)
それを真正面から捉えたランディは心の奥で安堵した。
彼の目から見ても大人の男として立派に成長しているロイドだが、根本的な部分はずっとあの頃のままだ。
自分だけに向けられる衝動的な感情はどこか子供じみていて、だからこそ優越感に浸れる。
相棒として恋人として対等な関係を築き上げてきた中で、ただ一つだけ。
年長者としての矜持は手放したくなかった。
2021.06.05
#碧 #創
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