軌跡(アロヴァン) 2025/02/24 Mon 煽り上手は地に潜る 恋人設定・2025年バレンタイン アーロンにチョコを渡したいヴァンが墓穴を掘りまくっている話です。 【文字数:5700】 本文を読む 胡乱げな雰囲気が漂うこの地下通路も、今やすっかり慣れた道程だ。 迷いなく地上へと向かい、表と裏を隔てる重いドアを開け放つ。 「はぁ~、やっぱ外の空気の方が美味いぜ」 アーロンが人目を憚らずに大きな背伸びをする。 新鮮な外気が体内へ流れ込み、一気に緊張感が抜けていった。 「そりゃ、そうだろ。いくら空調は整っているとはいえ、地下は地下だしな」 彼に続いて外に出てきたヴァンは、眩しそうに目を細めて空を仰ぎ見る。 「あぁ、もうこんな時間か。あそこにいると時間の感覚が鈍っちまう」 男の瞳に映っているのは、茜色から群青色へと変わる夕暮れ時のグラデーション。 地下鉄を利用して駅に降り立った時分、まだ辺りは陽光に満ちていて明るかった。 川辺から流れてくる風は冷たさを増し、明らかな時間の経過を感じる。 黒芒街に続く道はいくつもあるが、ヴァンたちはここ──リバーサイドを利用することが多かった。 「で、この後はどうすんだよ?所長さん」 心地良い川のせせらぎを耳に流しながら、二人はおもむろに歩き始めた。 「今日のところはこれで十分だろ」 彼らが黒芒街を訪れた理由は裏解決業務の一環で、とある依頼の情報収集を兼ねた巡回だった。 多少の収穫は得たが、それ以外はヴァンの嗅覚に引っかかるような事案もなかった。 そうとなれば、本日の業務は終了の方向だろう。 「おっ、そんじゃお開きか?」 アーロンはパッと顔を輝かせ、胸元で掌に拳を打ち付けた。 今すぐにでもどこかへ遊びに行ってしまいそうな勢いだ。 「あぁ、そうだな」 ヴァンは所長の顔で頷いた。 だが、橋の袂まで来たところで急に足を止めてしまう。 「さてと、今の時間だったら……」 助手の方はといえば、鼻歌交じりで今夜の予定を立てようとしていた。 彼は遊び仲間たちと連絡を取るつもりで、衣服の中からザイファを取り出す。 そこで、ようやくヴァンが隣を歩いていないことに気がついた。 彼の足はすでに橋の上を数歩進んだ辺り。 立ち止まって振り返ると、ヴァンがどこか落ち着きのない様子で視線を彷徨わせていた。 「ん?まだこの辺に用があるのかよ?」 「い、いや……用はねぇ」 訝しげな声を投げかけられると、彼は慌ててアーロンの傍らに駆け寄った。 橋へ上がった途端に夜を誘う冷たい風が強く吹き抜けていく。 それを横顔に受けたヴァンは小さく頭を振った。 結局は重い腰を上げることが出来なかったのだからもういいか、と。 諦めて業務を開始したはずなのに、いざ終了となったら俄に未練が首をもたげ始めた。 ──本当は彼に渡したい物がある。 中央を流れる川を渡りきってしまえば、地下鉄の駅はすぐそこだった。 ヴァンは駅名が刻まれた建物を見据えて再び歩みを止めた。 (何やってんだろな……俺は。でも) どんなに自嘲してみても、一度そう思ってしまったら断ち切れそうにない。 彼は深呼吸をしてた後、意を決して声を発した。 「アーロン、やっぱもうちょいこの辺をブラついてくる」 「はぁ?よく分かんねぇ野郎だな」 助手の反応はさっきよりも険しかったが、それはほんの一瞬だった。 彼の脳内はこれからの楽しい予定で大半が占められているのだろう。 「悪ぃな。それと……」 それを遮ってしまうことを詫び、更に言葉を続ける。 「事務所の俺の机。一番下の引き出しに黒い箱が入ってる。面倒でなければお前が持っていけ」 なんとか一気に言い終えた。 「俺は夜まで戻らねぇからな」 それから、軽く息吐いて語尾を付け加える。 ヴァンにとってはこれが限界だった。 唖然として立ち尽くすアーロンをその場に残し、速歩で来た道を戻っていく。 どこまでも、どこまでも自分は不器用だ。 一刻も早く彼の視界から姿を消してしまいたかった。 失態と言えばそうなのかもしれない。 アーロンは逃げるように去って行ったヴァンを止める機を逃してしまった。 追いかけて問い詰めてやろうかとも考えたが、首都生活が長い彼の方が地の利は上だろう。 悔しいけれど、本気で逃げられたら捕まえる自信はない。 「ったく、なんなんだよ」 彼は苛立たしげに片手で頭を掻きむしり、駅の構内へ続く階段を下りた。 時刻表を眺めながらヴァンの言葉を反芻する。 あの男は何かを渡したがっている。しかも、さり気なく期限を設けている。 夜まで戻らないという宣言は、それまでに持っていけということなのだろう。 「……そんなに直接渡せねぇブツなのか?」 改札口をくぐると同時に、列車の到着を知らせるアナウンスが響き渡った。 ヴァンにあそこまで意味深げな言動をされてしまっては、遊びに繰り出すことなど二の次になる。 アーロンはザイファをポケットに戻し、ホームに到着した列車へ乗り込んだ。 車内は空いているが座る気分ではなく、ドアの脇に身体を預ける。 薄暗い壁が流れるだけの車窓は単調で、時の流れがやたらと遅く感じられた。 いくつかの駅を通り過ぎて旧市街に到着する頃には、彼の心中は落ち着きを取り戻していた。 自然と勇み足になる下肢を宥め、最短距離で事務所へと向かう。 いつの間にか陽は完全に落ちていて、街は夜の様相を醸し出していた。 モンマルトの賑わいを横目に階段を上ると、事務所の中には人の気配があった。 きっと仲間内の誰かだろうと判断して、遠慮なくドアを開ける。 「お帰りなさいませ。アーロン様」 淑やかな声に迎えられ、彼は短く応じてからぐるりと室内を見回した。 「そっちも巡回は終わってんだろ?残業かよ」 「少しデータの整理をしておりました。そちらの方は現地解散だったのですか?」 リゼットはソファーに座ってノート型端末を操作している所だった。 戻ってきた同僚が一人だったことに対し、少し意外そうな素振りを見せる。 アーロンはヴァンと二人で黒芒街へ足を伸ばしていたはずだ。 「あ~、そんなとこ……なんだけどな」 すると、青年は珍しく言葉を濁した。 その場で腕を組み、居心地が悪そうに靴先で床を鳴らす。 「何かあったのですか?」 キーボードを叩いていた綺麗な指が止まり、憂慮の眼差しがアーロンに向けられた。 「いや、あの野郎が急に妙なこと言いやがって。一番下の引き出しにある箱を持っていけだとよ」 彼はヴァンの机に近づきながら呆れたように肩を竦ませた。 「しかも、今日の夜までとかいう制限つきでだぜ?」 リゼットへの言葉の中に愚痴を紛らせ、腰をかがませて指定された引き出しを開けてみる。 「面倒くせぇことしやがっ……」 だが、そこで彼の唇が止まった。 中にはペンケースほどの小箱だけが置かれている。 他には何もなく、まるで引き出しに落ちる影の中へ溶け込んでしまいそうだった。 上品な黒い包装紙に包まれているそれには、控えめな焔色のリボンが添えられている。 アーロンは無言のまま、主張をしたがらない贈り物を丁寧に救い上げた。 最初は驚きを露わにしていた瞳が、少しずつ柔らかさを帯びてくる。 これが何を意味するのか、今日という日の趣向をもちろん彼は知っている。 ヴァンがわざわざ期限を設けたことにも頷けた。 「アーロン様?」 急に言葉を発しなくなった同僚を心配したのか、リゼットが端末を閉じて立ち上がった。 そこで彼が持っている物が目に留まる。 「あ、そちらの品は……」 「お前、知ってんのかよ?」 彼女の意外な反応に、アーロンは間髪を入れずに問い返した。 「はい、四日前のことになりますね。ヴァン様がそちらの品を前にして項垂れておられるのを見てしまいました」 リゼットは当時のことを思い出しながら微笑んだ。 「もちろん故意ではなかったのですが。ヴァン様は『これは自分用に買ったチョコ』だと、慌てておっしゃっいました。ふふっ……やはりアーロン様宛だったのですね」 察しの良い彼女はすぐに気がついたが、その時はヴァンの苦し紛れの誤魔化しを尊重する形を取ったのだという。その答え合わせができたとばかりに嬉しそうな様子だった。 「……なにやってんだよ。あのオッサン」 リゼットの説明を聞き終えたアーロンは、それで全てを理解した。 先刻の別れ際での、ヴァンの不可解な言動と不器用な心根を。 だから、どうしたって顔が緩んでしまうのが止められない。 心の奥底から沸々と愛おしさが溢れ出してくる。体温が上昇して贈り物を受け取った手に汗が滲んだ。 今すぐあの男に会いたい。 この一分一秒ですらも惜しいくらいに全身が渇望している。 彼は開けっぱなしの引き出しを勢いよく閉めて、真っ直ぐに戸口へ向かった。 「アーロン様。どうかお手柔らかにお願いいたしますね」 まるで緋色を宿したような後ろ姿を、リゼットは微笑ましく見送る。 やはり察しの良い彼女のこと、この先のヴァンの身を案じてつい口添えをしたくなってしまった。 事務所を後にして廊下を駆け下りる。 通りに出たアーロンの身体を一陣の夜風が吹き抜けていった。 冷たさは瞬きの一時だけ、冬の寒空でも心身は熱いくらいだ。 彼はポケットからザイファを取り出し、代わりに大切な物を慎重にしまい込んだ。 画面の中の時計を確認すると、『今日』にはまだまだ余裕があった。 「逃がさねぇぞ、ヴァン。受け取った報告はきっちりてめぇの目の前でしてやるぜ」 まず、手始めに本人への通信を試みる。 繋がれば好運、そうでなければアーロンなりの人脈を駆使して探し出すまでだ。 駅の前では諦めてしまったが、今は一粒たりともそんな感情は芽生えてこなかった。 あの時は彼が追いかけてこないことを心の底から安堵した。 例え追ってきたとしても、本気で相手を煙に巻くつもりではあったのだが。 「……夜っていつからいつまでだ?」 カウンター席の最奥には鬱々とした男が一人。 もう数えるのが面倒になるくらいの頻度で溜息を落としていた。 注文したグラスの中身も、最初に口を付けただけで放置されている。 「もう、ヴァンちゃんったら。アーロンちゃん相手に一体何をやらかしたのよ?」 入店してからこの方、彼は一向に浮上する兆しがなかった。 ベルモッティはそんな常連客を静観していたのだが、ついには痺れを切らして声を掛ける。 「な、なんであいつの名前が出てくるんだよ?」 俯いていたヴァンが反射的に顔を上げた。 この店の主は色恋話の類いが大好きだ。そのせいか、ヴァンも恋人であるアーロンへの愚痴を零してしまったり、些細な相談をしてしまう時がある。 しかし、今夜はまだ彼の名前を出していなかった。 「いやぁねぇ~、それしかないじゃない。分かりやすいなんてレベルじゃないわ」 驚きを露わにした凝視を受け止め、ベルモッティは戯けながらひと笑いした。 それからすぐに目元を緩ませて『聴く人』の顔になる。 「それで、何があったのかしら?」 ヴァンはしばらく逡巡していたが、やがてぼそぼそと口を動かし始めた。 当初はバレンタインデーだからといって、特別なことをするつもりなんてなかったこと。 しかし、次第に高まっていく街中の雰囲気に感化され、つい浮かれ気分でチョコレートを買ってしまったこと。 後になって冷静さを取り戻してしまい、頭を抱えるほどの羞恥が押し寄せてきたこと。 そして──そんな状態のまま当日を迎えてしまったということ。 彼はそこまでを一気に吐き出してから再び俯いた。 まだ続きがありそうだと判断したベルモッティは、黙って彼を待つ。 「別に渡せなくていいかって思ったんだけどな。けど、やっぱり……未練っつーか」 声はさほどの間を置かずに発せられたが、 「だから、机の引き出しにあるやつを持っていけとだけ伝えて逃げてきた」 今度は急に早口となり、大袈裟なくらいの勢いでテーブルに突っ伏してしまった。 「中身がチョコだなんて……言えるわけねぇだろ」 落ち込んでいる、はたまた自己嫌悪に陥っている。いくらでも表現の仕方はあるが、なかなかの重傷ぶりなのは誰か見ても明らかだ。 「はぁ、相変わらずの不器用さんねぇ。でも、ちょっと安心したわ。最初は大喧嘩でもしたのかと思ってたから」 全てを聴き終えたベルモッティは、頬に片手を添えて胸をなで下ろした。 「ところで、それはいつ頃の話なのかしら?」 「夕方ぐらいだ」 問い掛けには、くぐもった答えが返ってくる。 店主は壁の時計に目をやりつつ、リバーサイドと旧市街の距離を考えた。 「それなら、そろそろお迎えの時間かもしれないわね」 伏せたままのヴァンの肩がピクリと小さく跳ねる。 「まさか、そんなわけ……っ!?」 その時、上着の中でザイファの呼び出し音が鳴り始めた。 飛び起きた勢いのまま、端末を取り出して着信相手の確認をしてみる。 「マ、マジか?」 「あら、出てあげないの?」 「いや、ちょっ、ちょっと待ってくれ」 あまりに急展開すぎる。ヴァンは少しばかり錯乱状態に陥っていた。 胸の鼓動が早鐘を打ち、額にはじんわりと嫌な汗が浮かぶ。 普段のアーロンであれば諦めるくらいの秒数が過ぎたが、それでも音は鳴り続ける。 「もう~!ちょっと貸しなさいよ。代わりに出てあげるわ」 「え?お、おい!」 見るに見かねたベルモッティは、半ば強引に端末を取り上げて応答ボタンを押した。 「はぁ~い、アーロンちゃん」 意図していなかった人物の姿が画面に現れ、アーロンは意表を突かれたのだろう。咄嗟に息を詰まらせた。 「ヴァンちゃんなら捕まえておいてあげるから、早くいらっしゃいな」 そんな若者へ向けて、ベルモッティは片目を瞑りながら援護射撃をしてみせる。 すると、アーロンは狙いが定まったと言わんばかりに目を煌めかせて頷いた。 二人は幾度か言葉を交わし、やがてヴァンをそっちのけにした短い通話を終えたのだった。 カウンター席の最奥に鬱々とした男が一人──もとい、屍のような男が突っ伏している。 「ヴァンちゃんって、ほんと煽るのが上手よねぇ」 今回の一連の出来事について、ベルモッティの総括はしみじみしたものだった。 「しかも、アーロンちゃん限定だもの。あの子、嬉しくて仕方がないんじゃないかしら」 独り言にも似たそれは、テーブルに伏せた濃紺の頭にやんわりと降り注ぐ。 反応こそなかったが、実のところはヴァンの耳にはしっかりと届いていた。 ただ、墓穴を掘りすぎたせいで地上へ出てこられなくなっている。 自力で浮上できないほどの深い穴には、もはや優しいだけの慰めなど届きそうになかった。 それよりも、実力行使とばかりに彼を引っ張り上げてくれる存在の方が頼もしい。 今頃は嬉々としながらこの店に向かっているであろう、苛烈で強引なくらいの恋人の手が。 2025.02.24畳む
恋人設定・2025年バレンタイン
アーロンにチョコを渡したいヴァンが墓穴を掘りまくっている話です。
【文字数:5700】
胡乱げな雰囲気が漂うこの地下通路も、今やすっかり慣れた道程だ。
迷いなく地上へと向かい、表と裏を隔てる重いドアを開け放つ。
「はぁ~、やっぱ外の空気の方が美味いぜ」
アーロンが人目を憚らずに大きな背伸びをする。
新鮮な外気が体内へ流れ込み、一気に緊張感が抜けていった。
「そりゃ、そうだろ。いくら空調は整っているとはいえ、地下は地下だしな」
彼に続いて外に出てきたヴァンは、眩しそうに目を細めて空を仰ぎ見る。
「あぁ、もうこんな時間か。あそこにいると時間の感覚が鈍っちまう」
男の瞳に映っているのは、茜色から群青色へと変わる夕暮れ時のグラデーション。
地下鉄を利用して駅に降り立った時分、まだ辺りは陽光に満ちていて明るかった。
川辺から流れてくる風は冷たさを増し、明らかな時間の経過を感じる。
黒芒街に続く道はいくつもあるが、ヴァンたちはここ──リバーサイドを利用することが多かった。
「で、この後はどうすんだよ?所長さん」
心地良い川のせせらぎを耳に流しながら、二人はおもむろに歩き始めた。
「今日のところはこれで十分だろ」
彼らが黒芒街を訪れた理由は裏解決業務の一環で、とある依頼の情報収集を兼ねた巡回だった。
多少の収穫は得たが、それ以外はヴァンの嗅覚に引っかかるような事案もなかった。
そうとなれば、本日の業務は終了の方向だろう。
「おっ、そんじゃお開きか?」
アーロンはパッと顔を輝かせ、胸元で掌に拳を打ち付けた。
今すぐにでもどこかへ遊びに行ってしまいそうな勢いだ。
「あぁ、そうだな」
ヴァンは所長の顔で頷いた。
だが、橋の袂まで来たところで急に足を止めてしまう。
「さてと、今の時間だったら……」
助手の方はといえば、鼻歌交じりで今夜の予定を立てようとしていた。
彼は遊び仲間たちと連絡を取るつもりで、衣服の中からザイファを取り出す。
そこで、ようやくヴァンが隣を歩いていないことに気がついた。
彼の足はすでに橋の上を数歩進んだ辺り。
立ち止まって振り返ると、ヴァンがどこか落ち着きのない様子で視線を彷徨わせていた。
「ん?まだこの辺に用があるのかよ?」
「い、いや……用はねぇ」
訝しげな声を投げかけられると、彼は慌ててアーロンの傍らに駆け寄った。
橋へ上がった途端に夜を誘う冷たい風が強く吹き抜けていく。
それを横顔に受けたヴァンは小さく頭を振った。
結局は重い腰を上げることが出来なかったのだからもういいか、と。
諦めて業務を開始したはずなのに、いざ終了となったら俄に未練が首をもたげ始めた。
──本当は彼に渡したい物がある。
中央を流れる川を渡りきってしまえば、地下鉄の駅はすぐそこだった。
ヴァンは駅名が刻まれた建物を見据えて再び歩みを止めた。
(何やってんだろな……俺は。でも)
どんなに自嘲してみても、一度そう思ってしまったら断ち切れそうにない。
彼は深呼吸をしてた後、意を決して声を発した。
「アーロン、やっぱもうちょいこの辺をブラついてくる」
「はぁ?よく分かんねぇ野郎だな」
助手の反応はさっきよりも険しかったが、それはほんの一瞬だった。
彼の脳内はこれからの楽しい予定で大半が占められているのだろう。
「悪ぃな。それと……」
それを遮ってしまうことを詫び、更に言葉を続ける。
「事務所の俺の机。一番下の引き出しに黒い箱が入ってる。面倒でなければお前が持っていけ」
なんとか一気に言い終えた。
「俺は夜まで戻らねぇからな」
それから、軽く息吐いて語尾を付け加える。
ヴァンにとってはこれが限界だった。
唖然として立ち尽くすアーロンをその場に残し、速歩で来た道を戻っていく。
どこまでも、どこまでも自分は不器用だ。
一刻も早く彼の視界から姿を消してしまいたかった。
失態と言えばそうなのかもしれない。
アーロンは逃げるように去って行ったヴァンを止める機を逃してしまった。
追いかけて問い詰めてやろうかとも考えたが、首都生活が長い彼の方が地の利は上だろう。
悔しいけれど、本気で逃げられたら捕まえる自信はない。
「ったく、なんなんだよ」
彼は苛立たしげに片手で頭を掻きむしり、駅の構内へ続く階段を下りた。
時刻表を眺めながらヴァンの言葉を反芻する。
あの男は何かを渡したがっている。しかも、さり気なく期限を設けている。
夜まで戻らないという宣言は、それまでに持っていけということなのだろう。
「……そんなに直接渡せねぇブツなのか?」
改札口をくぐると同時に、列車の到着を知らせるアナウンスが響き渡った。
ヴァンにあそこまで意味深げな言動をされてしまっては、遊びに繰り出すことなど二の次になる。
アーロンはザイファをポケットに戻し、ホームに到着した列車へ乗り込んだ。
車内は空いているが座る気分ではなく、ドアの脇に身体を預ける。
薄暗い壁が流れるだけの車窓は単調で、時の流れがやたらと遅く感じられた。
いくつかの駅を通り過ぎて旧市街に到着する頃には、彼の心中は落ち着きを取り戻していた。
自然と勇み足になる下肢を宥め、最短距離で事務所へと向かう。
いつの間にか陽は完全に落ちていて、街は夜の様相を醸し出していた。
モンマルトの賑わいを横目に階段を上ると、事務所の中には人の気配があった。
きっと仲間内の誰かだろうと判断して、遠慮なくドアを開ける。
「お帰りなさいませ。アーロン様」
淑やかな声に迎えられ、彼は短く応じてからぐるりと室内を見回した。
「そっちも巡回は終わってんだろ?残業かよ」
「少しデータの整理をしておりました。そちらの方は現地解散だったのですか?」
リゼットはソファーに座ってノート型端末を操作している所だった。
戻ってきた同僚が一人だったことに対し、少し意外そうな素振りを見せる。
アーロンはヴァンと二人で黒芒街へ足を伸ばしていたはずだ。
「あ~、そんなとこ……なんだけどな」
すると、青年は珍しく言葉を濁した。
その場で腕を組み、居心地が悪そうに靴先で床を鳴らす。
「何かあったのですか?」
キーボードを叩いていた綺麗な指が止まり、憂慮の眼差しがアーロンに向けられた。
「いや、あの野郎が急に妙なこと言いやがって。一番下の引き出しにある箱を持っていけだとよ」
彼はヴァンの机に近づきながら呆れたように肩を竦ませた。
「しかも、今日の夜までとかいう制限つきでだぜ?」
リゼットへの言葉の中に愚痴を紛らせ、腰をかがませて指定された引き出しを開けてみる。
「面倒くせぇことしやがっ……」
だが、そこで彼の唇が止まった。
中にはペンケースほどの小箱だけが置かれている。
他には何もなく、まるで引き出しに落ちる影の中へ溶け込んでしまいそうだった。
上品な黒い包装紙に包まれているそれには、控えめな焔色のリボンが添えられている。
アーロンは無言のまま、主張をしたがらない贈り物を丁寧に救い上げた。
最初は驚きを露わにしていた瞳が、少しずつ柔らかさを帯びてくる。
これが何を意味するのか、今日という日の趣向をもちろん彼は知っている。
ヴァンがわざわざ期限を設けたことにも頷けた。
「アーロン様?」
急に言葉を発しなくなった同僚を心配したのか、リゼットが端末を閉じて立ち上がった。
そこで彼が持っている物が目に留まる。
「あ、そちらの品は……」
「お前、知ってんのかよ?」
彼女の意外な反応に、アーロンは間髪を入れずに問い返した。
「はい、四日前のことになりますね。ヴァン様がそちらの品を前にして項垂れておられるのを見てしまいました」
リゼットは当時のことを思い出しながら微笑んだ。
「もちろん故意ではなかったのですが。ヴァン様は『これは自分用に買ったチョコ』だと、慌てておっしゃっいました。ふふっ……やはりアーロン様宛だったのですね」
察しの良い彼女はすぐに気がついたが、その時はヴァンの苦し紛れの誤魔化しを尊重する形を取ったのだという。その答え合わせができたとばかりに嬉しそうな様子だった。
「……なにやってんだよ。あのオッサン」
リゼットの説明を聞き終えたアーロンは、それで全てを理解した。
先刻の別れ際での、ヴァンの不可解な言動と不器用な心根を。
だから、どうしたって顔が緩んでしまうのが止められない。
心の奥底から沸々と愛おしさが溢れ出してくる。体温が上昇して贈り物を受け取った手に汗が滲んだ。
今すぐあの男に会いたい。
この一分一秒ですらも惜しいくらいに全身が渇望している。
彼は開けっぱなしの引き出しを勢いよく閉めて、真っ直ぐに戸口へ向かった。
「アーロン様。どうかお手柔らかにお願いいたしますね」
まるで緋色を宿したような後ろ姿を、リゼットは微笑ましく見送る。
やはり察しの良い彼女のこと、この先のヴァンの身を案じてつい口添えをしたくなってしまった。
事務所を後にして廊下を駆け下りる。
通りに出たアーロンの身体を一陣の夜風が吹き抜けていった。
冷たさは瞬きの一時だけ、冬の寒空でも心身は熱いくらいだ。
彼はポケットからザイファを取り出し、代わりに大切な物を慎重にしまい込んだ。
画面の中の時計を確認すると、『今日』にはまだまだ余裕があった。
「逃がさねぇぞ、ヴァン。受け取った報告はきっちりてめぇの目の前でしてやるぜ」
まず、手始めに本人への通信を試みる。
繋がれば好運、そうでなければアーロンなりの人脈を駆使して探し出すまでだ。
駅の前では諦めてしまったが、今は一粒たりともそんな感情は芽生えてこなかった。
あの時は彼が追いかけてこないことを心の底から安堵した。
例え追ってきたとしても、本気で相手を煙に巻くつもりではあったのだが。
「……夜っていつからいつまでだ?」
カウンター席の最奥には鬱々とした男が一人。
もう数えるのが面倒になるくらいの頻度で溜息を落としていた。
注文したグラスの中身も、最初に口を付けただけで放置されている。
「もう、ヴァンちゃんったら。アーロンちゃん相手に一体何をやらかしたのよ?」
入店してからこの方、彼は一向に浮上する兆しがなかった。
ベルモッティはそんな常連客を静観していたのだが、ついには痺れを切らして声を掛ける。
「な、なんであいつの名前が出てくるんだよ?」
俯いていたヴァンが反射的に顔を上げた。
この店の主は色恋話の類いが大好きだ。そのせいか、ヴァンも恋人であるアーロンへの愚痴を零してしまったり、些細な相談をしてしまう時がある。
しかし、今夜はまだ彼の名前を出していなかった。
「いやぁねぇ~、それしかないじゃない。分かりやすいなんてレベルじゃないわ」
驚きを露わにした凝視を受け止め、ベルモッティは戯けながらひと笑いした。
それからすぐに目元を緩ませて『聴く人』の顔になる。
「それで、何があったのかしら?」
ヴァンはしばらく逡巡していたが、やがてぼそぼそと口を動かし始めた。
当初はバレンタインデーだからといって、特別なことをするつもりなんてなかったこと。
しかし、次第に高まっていく街中の雰囲気に感化され、つい浮かれ気分でチョコレートを買ってしまったこと。
後になって冷静さを取り戻してしまい、頭を抱えるほどの羞恥が押し寄せてきたこと。
そして──そんな状態のまま当日を迎えてしまったということ。
彼はそこまでを一気に吐き出してから再び俯いた。
まだ続きがありそうだと判断したベルモッティは、黙って彼を待つ。
「別に渡せなくていいかって思ったんだけどな。けど、やっぱり……未練っつーか」
声はさほどの間を置かずに発せられたが、
「だから、机の引き出しにあるやつを持っていけとだけ伝えて逃げてきた」
今度は急に早口となり、大袈裟なくらいの勢いでテーブルに突っ伏してしまった。
「中身がチョコだなんて……言えるわけねぇだろ」
落ち込んでいる、はたまた自己嫌悪に陥っている。いくらでも表現の仕方はあるが、なかなかの重傷ぶりなのは誰か見ても明らかだ。
「はぁ、相変わらずの不器用さんねぇ。でも、ちょっと安心したわ。最初は大喧嘩でもしたのかと思ってたから」
全てを聴き終えたベルモッティは、頬に片手を添えて胸をなで下ろした。
「ところで、それはいつ頃の話なのかしら?」
「夕方ぐらいだ」
問い掛けには、くぐもった答えが返ってくる。
店主は壁の時計に目をやりつつ、リバーサイドと旧市街の距離を考えた。
「それなら、そろそろお迎えの時間かもしれないわね」
伏せたままのヴァンの肩がピクリと小さく跳ねる。
「まさか、そんなわけ……っ!?」
その時、上着の中でザイファの呼び出し音が鳴り始めた。
飛び起きた勢いのまま、端末を取り出して着信相手の確認をしてみる。
「マ、マジか?」
「あら、出てあげないの?」
「いや、ちょっ、ちょっと待ってくれ」
あまりに急展開すぎる。ヴァンは少しばかり錯乱状態に陥っていた。
胸の鼓動が早鐘を打ち、額にはじんわりと嫌な汗が浮かぶ。
普段のアーロンであれば諦めるくらいの秒数が過ぎたが、それでも音は鳴り続ける。
「もう~!ちょっと貸しなさいよ。代わりに出てあげるわ」
「え?お、おい!」
見るに見かねたベルモッティは、半ば強引に端末を取り上げて応答ボタンを押した。
「はぁ~い、アーロンちゃん」
意図していなかった人物の姿が画面に現れ、アーロンは意表を突かれたのだろう。咄嗟に息を詰まらせた。
「ヴァンちゃんなら捕まえておいてあげるから、早くいらっしゃいな」
そんな若者へ向けて、ベルモッティは片目を瞑りながら援護射撃をしてみせる。
すると、アーロンは狙いが定まったと言わんばかりに目を煌めかせて頷いた。
二人は幾度か言葉を交わし、やがてヴァンをそっちのけにした短い通話を終えたのだった。
カウンター席の最奥に鬱々とした男が一人──もとい、屍のような男が突っ伏している。
「ヴァンちゃんって、ほんと煽るのが上手よねぇ」
今回の一連の出来事について、ベルモッティの総括はしみじみしたものだった。
「しかも、アーロンちゃん限定だもの。あの子、嬉しくて仕方がないんじゃないかしら」
独り言にも似たそれは、テーブルに伏せた濃紺の頭にやんわりと降り注ぐ。
反応こそなかったが、実のところはヴァンの耳にはしっかりと届いていた。
ただ、墓穴を掘りすぎたせいで地上へ出てこられなくなっている。
自力で浮上できないほどの深い穴には、もはや優しいだけの慰めなど届きそうになかった。
それよりも、実力行使とばかりに彼を引っ張り上げてくれる存在の方が頼もしい。
今頃は嬉々としながらこの店に向かっているであろう、苛烈で強引なくらいの恋人の手が。
2025.02.24畳む