とある日の午後。
裏解決事務所には華やかな笑い声とコーヒーの香りが漂っていた。
学業を終えたアニエスがアルバイトにやって来たのは、今から小一時間くらい前ことだった。
今のところはこれといった依頼がなく、彼女は率先して書類の整理をしてくれていた。
「今日は静かですね」
あいにくと他の仲間たちは外出をしている。
アニエスが少し寂しそうに言った矢先、タイミングを見計らったように自称『所員ではなく手伝っているだけ』のジュディスがやって来た。
この有名女優が事務所に顔を出す名目は、大抵が仕事の息抜きということになっている。
今回もご多分に漏れず、美味しそうな手土産を持参して姿を現した。
「あんたたち、暇そうねぇ」
「えっ、今日はたまたまですよ。ね、ヴァンさん?」
「そうだなぁ。ここまで仕事がねぇのは久しぶりかもな」
そんなわけで、好都合とばかりに三人でテーブルを囲んで休憩を取っている。
ジュディスはひとしきり室内を見回してから、人員の少なさにツッコミを入れた。
「思いっきり開店休業中じゃない。他の子たちはどうしたのよ?」
「フェリちゃんとリゼットさんは私用ですけど、仕事が入ればすぐに駆けつけてくれるそうです」
「カトルはバーゼルに戻ってるぜ。大学で必須の講義があるんだとさ」
二人が事務所のメンバーの所在を明らかにすると、彼女は納得してコーヒーを一啜りした。
「──で、あのオレ様な男はラングポートってわけね」
「もう、ジュディスさんったら。でも、初演まであと二週間くらいですよね。お元気でしょうか?」
最後にアーロンの話題が上がり、それに引っ張られたヴァンはお菓子を取ろうとしていた手を止めた。
「あいつなら少し前に庭城で会ったぞ。ったく、急に呼び出しやがって」
愚痴を交えた男の発言に、アニエスとジュディスが目を丸くして彼を凝視する。
「気分転換に暴れまくりたかったみたいでよ。いきなり付き合わされるこっちの身にもなれっつーの」
彼は言葉のわりには柔らかな口ぶりをしていて、どことなく幸福感が漂っている。
二人は顔を見合わせた後で、くすくすと笑い合った。
「なんだよ?」
「いえ、ヴァンさんがとっても嬉しそうにしているので」
「はぁ?そんなわけねぇだろうが。ま、まぁ……今度の公演は特に気合い入ってるなぁって感じはしたけどな」
アニエスからの指摘が図星だったのか、ヴァンは取り繕うように甘いコーヒーを喉へ流し込んだ。
「ふぅん、主役を張るわけだし色んな葛藤があるんでしょ。今回のは女形じゃないって、こっちでも話題になってるわよ」
華劇場におけるアーロンの看板役者ぶりは、首都の芸能界隈でも有名だ。
そもそもが不規則な出演ばかりなので、今回のように期間を定めての安定した公演はかなり珍しい。
「チケットはかなり早い段階で完売したって聞いたわ」
「へぇ?そりゃ、凄いな。見に行けねぇのが残念だ」
ヴァンはジュディスの説明をしきりに頷きながら聞いていた。
何だかんだ言いつつも、アーロンが役者として評価されているのは素直に誇らしい。
すると、女性たちがさっきよりも驚いた様子で口を半開きにさせている。
「ちょっと……それ、冗談よね?」
「私はてっきりアーロンさんから招待されているものとばかり」
「あんただけじゃないわ。周りはみんなそう思ってるわよ」
途端、三人の間には形容しがたい微妙な空気が生まれた。
「え、いや……あいつがそんなことするわけねぇだろ?」
無言に耐えかねたヴァンが不思議そうに首を傾げる。
「大体、招待するなら俺って言うよりも事務所括りだと思うんだが」
所長である彼にしてみれば至極もっともな意見のつもりだったが、
「はぁぁ~。何やってんのよ、あいつは」
テーブルを挟んで向かいに座っているジュディスは、大袈裟なくらいに脱力してしまった。
「あっ、危ないです!」
項垂れた頭がテーブルとぶつかりそうになり、隣に座っていたアニエスが慌ててフォローに入る。
「ふぅ、つい頭が痛くなっちゃったわ……悪いわね」
「いえ、私もちょっと同感です」
彼女らの間ではしっかりと何かが共有されているようだ。
ヴァンの方はといえば、それについては特に思い当たる節がない。
二人は驚いたり脱力したりと忙しないが、そこまでおかしな発言をしただろうか?
釈然としない気持ちを抱えながら、手にしたマグカップの中を覗き込む。
砂糖とミルクがたっぷり入ったコーヒーは、あと一口分くらい残っている。
微かに揺れているそれは、まるで今の彼の心境と重なり合っているみたいだった。
ほどなくして休憩を終えたヴァンは外出の準備を始めた。
「ちょっくらブラついてくる。掲示板に依頼がきてるかもしれねぇからな」
彼特有の鼻が利いたわけではなく、ただの口実だ。今はなんとなく外を歩きたい気分だった。
アニエスとジュディスはそんな彼の心情を察したのか、同行を申し出ることはせずに見送った。
再び事務所の中が静かになる。
「……ヴァンさん、ちょっと寂しそうに見えました」
洗い物した後の流し台を綺麗に拭きながら、アニエスがぽそりと呟いた。
「まったく、鈍いんだか素直じゃないんだか……」
ジュディスはソファーに深く沈み込むような体勢で座っていて、眉を寄せながら天井を見上げていた。
「あっちはあっちで肝心な時に押しが弱すぎんのよ。主演ならチケットの融通くらいは利くでしょうに」
彼女の美しい唇からは、不満の礫がいくらでも飛び出てきそうな勢いだ。
ヴァンとアーロンの関係性について、二人を取り巻く人々は大抵のところを察している。
元から明け透けなアーロンはともかくとして、ヴァンの方も何かと表面に出てしまっているのだ。
もちろん、本人にその自覚はないのだが。
「ヴァンさんって、とても愛おしそうにアーロンさんを見ている時がありますよね」
「あれ、バレバレよねぇ~。言葉よりも目が語ってるっていうのかしら」
それは恋だとか愛だとか、そんな形容がしっくりと当てはまる。
端から見れば十二分に両想いである──はずなのだが、どういうわけかまだ恋人同士ではないらしい。
「ほんと、まどろっこしい奴らね」
本人曰く、仕事の合間を縫って息抜きをしにきたはずなのに、やたらと溜息ばかりが吐き出される。
「今回はさすがに気をもんでしま……あっ」
アニエスは綺麗になったキッチンを満足げに見回し、ソファーに足を向ける。
対面で腰を落ち着けようとしたところで、何かを思い立って声を上げた。
「ジュディスさん、煌都のアシェンさんに連絡を取ってみませんか?」
珍しく前のめりになってザイファを取り出し、座る場所を相手の隣へ移す。
「それは名案ね!場合によっては小細工をしてもらうのもありだわ」
その勢いにつられてジュディスの声色がパッと輝いた。
「せっかくだから、後ろから蹴り飛ばしちゃいなさいよ」
今は人通りの多い賑やかな地区を歩き回る気にはなれなかった。
どちらかといえば、もう少し静かな場所の方が良い。
そう考えていたヴァンの足は、自然とリバーサイドに向かった。
景観を重視して整えられた河川は直線的で、水流はとても緩やかだ。
その上を囁くような小風が吹き抜けていく。
昼時を過ぎた屋台たちが再び活気づくにはまだ早い。長閑な雰囲気が地区の全体を包み込んでいた。
薄雲を纏った太陽の眼差しは柔らかく、散歩をするには良い具合かもしれない。
地下鉄の駅を出たヴァンは、上着のポケットに手を突っ込みながらのんびりと歩き始めた。
この地区の基調である河川には二本の橋が架けられており、そのうちの一本へ向かった彼は、中央付近に来たところで足を止めた。
欄干に身体を預け、そこからの眺望を瞳の中に映し込む。
普段ならあまり気にも留めない川音が、何故かやたらと耳に付いた。
「あんなの言われたら、余計に気になっちまうじゃねぇかよ」
ヴァンは先刻の事務所でのやり取りを思い出して息を吐く。
アニエスとジュディスに指摘されるまでは、本当に何とも思わなかったのだ。
というより、そんなことは頭の隅にも浮かばなかった。アーロンから個人的に誘われるという状況自体が。
「……やっぱり想像できねぇな」
ぽそりと独り言を落とした途端、胸の奥に寂しさが広がった。
それは彼女たちに騒がれた反動もあるのかもしれない。
ヴァンは確かに一人になりたい気分ではあった。
だが、いざその状況を作ってみれば想像以上に悶々と考え込んでしまう。
「もし、誘うなら……ん?」
そんな中、ある疑問がよぎった。
アーロンは、なぜ事務所のメンバーに声を掛けなかったのだろうか?
一ヶ月ほど前に庭城で会った時の様子からすれば、今回の舞台は渾身の一作になる位置づけだろう。
役者として、近しい人たちに見てもらいたいという気持ちが必ずどこかにあるはずだ。
彼は基本的に気っぷの良い青年だし、それは一度自分の懐に入れた者たちであればより顕著だ。
「あいつなら『てめぇら、まとめて招待してやるぜ』とか言ってきそうなもんだが」
個人的なお誘いの有無はともかくとして、今はこちらの方が気になってしまう。
ヴァンは難しい顔をしながら、欄干にもたれ掛けている上半身を起こした。
自然と前屈みの姿勢になっていたらしく、ほんの少し肩と首が痛い。
凝りを解すように軽く伸びをした後、彼はその場から動き出した。
橋を渡りきって教会や整備屋がある地区へと、綺麗に舗装された歩道を行く。
頭の中ではアーロンのことばかりを考えていた。
そのせいか、歩く速度は駅を出た時よりも随分と遅くなっていた。
「……そう言えば、庭城から出る時、らしくなかったな」
別れ際、明らかに何かを言いかけた。いつもはっきりとした物言いをする彼にしては珍しい。
あの時ヴァンに投げかけられた声は低く平坦で、一切の軽妙さを持ち合わせていなかった。
軽く首を傾げる程度で流した記憶が、今になって急に違和感となって押し寄せてくる。
もしかしたら、真面目な話だったのかもしれない。
「ちゃんと聞いておけば良かったか……」
そんな後悔が過って再び足を止めた。
何気なく川べりに視線を寄せてみると、水辺に設置してあるベンチの一台が空いている。
周囲に人影はなく、一人で物思いにふけるにはうってつけの場所だった。
ヴァンはそこに腰を下ろし、スローモーションのような雲が漂う午下の空を見上げた。
「今更だよな。もう一ヶ月は経ってる」
あれから何の音沙汰もないのは、わざわざ言い直すほどの話ではなかったということだろうか?
ぐるぐると答えの出ない問いかけばかりを繰り返す。
「声……聞きてぇな」
誰もいないのをいいことに、本音が唇から零れ落ちた。
無造作にポケットの中へ突っ込んだ手が、ザイファを掴み取る。
アーロンが煌都に帰っている期間中は、自分から連絡を取るつもりはなかった。
それは彼の稽古を邪魔したくないという一心からだったが、本心では煌都での生活ぶりも気になっていた。
純粋に雇い主としての心配や不安だとは言い切れない、くぐもった感情。
故郷の街で水を得た魚のようになっている青年の姿を想像し、勝手に放って置かれているような気分に陥っている。
庭城で顔を合わせたのは、そんな矢先のことだった。
彼の一挙一動は今でも鮮やかに脳裏を駆け巡る。
魔獣を相手に嬉々として立ち回る姿と、役者然とした真摯な眼差しと。
──別れ際のらしくない態度と。
ヴァンは手に持ったザイファをじっと見つめたまま、なかなか行動を起こそうとはしなかった。
あの時、何を言いたかったのだろう?どうして口を噤んでしまったのだろう?
そのことばかりが引っかかるくせに、どうしても踏ん切りがつかなかった。
正直、アーロンの反応が怖かった。
ログアウトした直後ならまだしも、今になってこの話題を蒸し返してもよいのか分からない。
「……はぁ」
ピクリとも動かない手元をから視線を逸らし、ヴァンは力なく項垂れた。
「やっぱ、邪魔するのは悪ぃよな。もうすぐ初日だっていうのに」
わずかばかりの勇気すら出せない己の不甲斐なさを、尤もらしい理由にすり替えて逃げ道を作る。
鬱々とした男の耳には、涼感ある水の音でさえもノイズのように聞こえた。
柔らかな陽光は絶え間なく彼の背中を慰めてくれていたが、それでも無性に寂しさを感じてしまった。
※ ※ ※
ここ数日は降雨の心配もなく落ちついた天気が続いていた。
今日も朝から綺麗な青空が広がっていて、ぽつぽつと浮かぶ雲たちが風と戯れている。
イーディスから一路、南下する道路を青いピックアップトラックが走行していた。
車内には運転手であるヴァンが一人だけ。他に同乗者はいなかった。
適度な音量で流れているラジオからは、交通情報を伝える生真面目な声がする。
「この分なら時間通りに着きそうだ」
ラングポートへの道のりはいたって順調だった。今のところ、この先に事故などの知らせはない。
主要都市同士を繋いでいる基軸の道路は、車の通行量もそれなりにあるが流れはスムーズだ。
首都の周辺とは違って渋滞で苛つくことはなく、ヴァンはちょっとしたドライブ気分を味わっている。
しかし、ここ数十分くらいは変わり映えのない長閑な風景が続いていた。
日頃から安全運転を心掛けてはいるが、ついつい緊張感が緩み小さな欠伸を零してしまう。
普段よりも起床が早かったので、それも影響しているのかもしれないが。
「……にしても、俺の周りには押しの強い奴らが多いな」
忍び寄る眠気を頭の中から追い払うため、ヴァンは事の発端を思い返してみた。
それは昨日の午後の出来事だった。
掲示板の確認がてら数カ所の地区をぶらつき、何の収穫もないまま事務所へ戻ってきた。
「今日は特に妙な臭いを感じねぇし、もう店じまいにしちまうか?」
入り口のドアを開けて中へ入ったヴァンは、後ろにいる助手の少女を振り返った。
「そうですね……」
アニエスはなぜか室内をぐるりと見回し、ある場所に視線を寄せてから意味ありげに小さく頷いた。
「いえ、ちょっと待って下さい」
「どうした?」
「ヴァンさんの机に置いてあるものが気になって。出かける時はなかったですよね?」
彼女の指摘を受けた事務所の主は、そこでようやく異変に気が付いた。
机の上には普段使っているノート型端末が一台。その横にはお洒落なデザインの紙袋が鎮座している。
「……確かに」
ヴァンは思いきり訝しげな顔をしてそれに近づき、一歩手前で足を止めた。
どこからどう見ても怪しかった。
外出の際にドアの施錠をしたのは間違いない。ついさっき自分で鍵を使用したばかりだ。
だとしたら、何者かが忍び込んだとしか考えられない。
「まさか、爆発物とかじゃねぇよな?」
恐る恐る近づき、紙袋の中を覗き込もうとした。
と、その瞬間。
上着のポケットの中から、呼び出し音が鳴り響いた。
「うお!?な、なんだよ?」
飛び上がるほど驚いた彼は、深呼吸をしてからザイファのカバーを開いた。
早鐘を打つ胸の鼓動を押さえながら応答ボタンを押すと、画面には見知った女性の顔が映し出された。
「お久しぶりね、ヴァンさん」
「お、おう、アシェンか」
軽く咳払いをして体裁を整えると、彼女は悪戯っぽく微笑みかけてきた。
「机の上のもの、ヴァンさん宛てなんだけど、受け取ってもらえたかしら?」
その言葉に面食らう。意外にあっさりと不審物の出所が分かってしまった。
ヴァンは幾度か目を瞬かせてた後、大きく息を吐き出しながら一気に脱力をする。
さっきまでの緊張感が嘘のようだった。
「あんたの仕業だったのかよ」
黒月の次世代を担うこの令嬢であれば、留守の裏解決事務所に紙袋を忍ばせることのなど容易いだろう。
彼女自身が動かなくても、数多いる配下の者たちを使えばどうにでもなる。
「なんでまた、こんなことを」
危険物ではないと分かって安心したのか、今度は躊躇なく近づいてみた。
しっかりとした作りの紙袋は、そこはかとなく品性が感じられる。表面に綴られた店名とおぼしき文字に目が留まった瞬間、ヴァンは息をのんだ。
「こ、こいつは……!?」
それは煌都でも指折りの高級料理店だった。東方料理を専門に扱っておりスイーツも絶品なのだが、一般市民にとっては高嶺の花だ。彼としても一度は訪れてみたい憧れの名店の一つでもあった。
「実は急ぎでお願いしたいことがあるのよ。お礼は前払いでよろしく」
ヴァン・アークライドという男は、筋の通らない仕事は請け負わないをモットーにしている。
だが、それと同時に甘味の類いにはめっぽう弱い。
「……もの凄く嫌な予感がするんだが」
文字通りの甘い誘惑に、ぐらぐらと心の天秤が揺れている。
「あ、それって季節限定な上に数量限定品のスイーツよ」
そこへ、とどめを刺すがごとくの一言。
「あ~っ、なんてこと言いやがる!」
ヴァンは机に両手をついてがくりと項垂れる。
スイーツを乗せた天秤の皿が派手な音を立てながら一気に傾いた。
「ヴァンさん、どうやらお仕事のようですね」
そんな中、黙って事の成り行きを見守っていたアニエスが口を開いた。
「煌都へ出張でしょうか?」
満面の笑みを浮かべて小首を傾ける少女の方へ、ヴァンが何かを悟った目を向ける。
「お前らグルだったのかよ」
改めて思い返してみれば、事務所に戻ってきた直後に紙袋の存在を示したのはアニエスだった。
アシェンから通信が入ってきた時も驚く素振りはなかったし、彼女にしてみれば全てが予定調和だったということなのだろう。
「で、そのお願いってのは?」
ヴァンはこめかみを揉み込みながら、疲れたような声で画面に問いかけた。
前払いの品を味わうことだけを楽しみにして、ここはもう腹を括るしかないと思った。
いつの間にか、走行中の窓に流れる風景が変わりつつあった。
一面に広がっていた緑の木々や草花が少なくなり、人工的な構造物が目立ち始める。
煌都ラングポートはもう目と鼻の先だった。
結局、昨日の段階では『お願い』についての情報は何も得られなかった。
アシェンに詳細を尋ねてみたものの、
「遅くても昼くらいまでには来て欲しいわ」
とだけ返され早々に通信を切られてしまった。
アニエスに矛先を向けても、
「寝坊しないで下さいね」
と和やかにはぐらかされるばかりだった。
ヴァンの脳裏に二週間ほど前の出来事が蘇る。
あの時のアニエスとジュディスの言動からして、今回の出張が無関係だとは思えなかった。
「どう考えてもあいつ絡みだろ?」
無意識のうちにハンドルを握る力が強くなる。
「会えるのは……嬉しいんだけどな」
一人きりの車内には複雑な感情を宿した吐息が大きく広がった。
呼ばれたのはアシェンからであって、アーロンからではない。
煌都に来たことが知られれば、彼にはあからさまにウザがられる。そんな想像しかできなかった。
煌都に到着したヴァンは、予め確保していた駐車場に車を止めて弌番街へ向かった。
ここはルウ家のお膝元だ。いちいち連絡を入れなくても、アシェンはとっくに彼の動きを捕捉しているだろう。
目抜き通りをぶらつき始めて掲示板の辺りに差し掛かった頃、狙い通りに声がかかる。
目にも鮮やかな瑠璃色を纏った女性が、護衛らしき男を従えて立っていた。
「ヴァンさん、いらっしゃい。待ってたわよ」
「よお、時間的には問題ねぇよな?」
ヴァンが片手を上げて気さくな挨拶をすると、アシェンは小さく頷いてから彼を人通りの少ない一画へ導いた。少し拓けているその場所は、賑わう雑踏がBGM代わりになりそうなくらいの環境で、落ち着いて会話をするには丁度良い。数人の住民たちが思い思いに時を過ごしていた。
ヴァンは周囲を見回した後、一辺の壁に背中を預けて口火を切った。
「そんで、あのガキがどうかしたのか?」
いつの間にかアシェンに付き従っていた男の姿は消え、二人きりになっていた。
もしかして、アーロンに何かあったのかもしれない。人払いをされたことで不安が首をもたげる。
だが、彼の予想に反して黒月の令嬢はあっけらかんとしていた。
「別にどうもしないわ。公演が始まってから連日満員、大絶賛であいつも元気にやってるわ」
「だったらどうして俺を呼びやがった?何の依頼だ?」
ますます訳が分からなかった。眉間に皺を寄せた顔で彼女の出方を覗う。
「昨日も言ったでしょ?『依頼』じゃなくて、あたしからの個人的な『お願い』よ」
アシェンはさらりとヴァンの言葉を訂正し、綺麗な微笑を浮かべた。
それから一呼吸を置いて語句を繋げる。
「アーロンの舞台を見てあげてほしいの」
凜とした声がその場の空気を揺らした。
真正面から男を見据える瞳は深い色をたたえ、彼女の真剣さが如実に表れている。
──やっぱりそこに行き着くのか。
ヴァンはほんの一瞬だけ瞠目したものの、さほど大きな驚きを感じなかった。
昨日からの流れを鑑みれば、この展開は予想の範囲内ではある。
もしかしたら、ほんの少しくらいは自身の願望が紛れ込んでいるのかもしれないが。
一ヶ月ほど前にアーロンと会って以降、彼の姿が脳裏に浮かぶ頻度が増えた。
仮想現実世界とはいえ、なまじ言葉を交わしてしまったせいかもしれない。
実物の顔を見たい気持ちは強くなったし、もちろん舞台のことも余計に気になった。
それならば、この機会は都合が良い。
(……でもなぁ)
しかし、ヴァンはそれをすんなりと受け取れるほど素直ではなかった。
目を閉じて口元を引き締める。ゆったりと構えていた腕組みがわずかに強ばった。
「その言い方じゃ、本人には内緒ってところか」
自分で言っておいて密かに消沈する。
今回の公演には誘われていない。個人的にどころか裏解決事務所の括りでさえも。
「そうよ。あら、もしかして断ろうとしてるの?先だってのお礼は受け取って貰えたのよね?」
一人で小難しい顔をしている男に対し、アシェンがやや目尻をつり上げて距離を詰めてくる。
きりりとした眼光は、さすが未来の女帝の風格と表するべきか。
「あー、それはまぁ。昨日、ちょっと一口頂いちまったというか……」
ヴァンは片手で頭をガシガシと掻きながら、ばつが悪そうに視線を逸らした。
本当はこの一件が片付いた後のご褒美のつもりだったが、超高級名店のネームバリューには抗えなかった。
これでアシェンのお願いを断ろうものなら、立派な食い逃げだ。全く筋が通らない。
「ふふっ、さすがヴァンさんね」
アーロンや事務所の面々とまではいかないが、彼女もこの男の人となりを把握していた。
彼に否と言われないことを確信し、さり気なく茶化しを入れながら表情を緩ませる。
「午後の公演は15時からよ。話は支配人に通してあるから、彼に声を掛けてちょうだい」
黒月の筆頭であるルウ家の令嬢はそれとなく忙しい。用件を伝え終えて鮮やかに踵を返すと、
「お、おい……てっきりチケットを寄越してくるかと思ってたんだがよ?」
ヴァンが戸惑いがちな声を上げた。
「あたしとしては、ヴァンさんには良い席で見てもらいたいのが本音よ。でも、あえて席は用意しなかったの」
アシェンは立ち止まり、顔だけを男の方へ向けた。そのまま言葉を続ける。
「会場の警備の一環という形にしてあるわ。立ち見で悪いけど、あなたもその方が気楽でしょ?」
二週間前にアニエスやジュディスとやり取りをし、その中でヴァンの心情が垣間見えたのだろう。
そして、アーロンのことも。幼い頃から家族同然に過ごしてきた彼の胸中を察することは簡単だった。
その上で端から見ればもどかしい二人を慮り、このような手段を取った。
彼女は役者ではないので、舞台へ上がった時に客席側がどのように見えるのかを知らない。
けれど、アーロンの話によれば演舞中でも意外と観客たちの顔は認識できるものらしい。
(客席じゃなくても、あいつなら……)
これは賭けのようなものだったが、アシェンの中には確固とした自信があった。
あの幼馴染みならば、絶対にこのチャンスを見逃したりはしない。
「それじゃ、よろしくね」
止まっていた足が衣服の裾を綺麗に払い、今度こそヴァンの前から立ち去る。
去り際の声は優しく響き、まるで男たちの背中を押しているかのようだった。
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