煌都ラングポートはカルバード共和国の主要都市の一つだ。
ひとたび駅に列車が到着すれば、ホームは乗降する人々で溢れかえって騒がしくなる。
その中をひときわ色鮮やかな赤髪の青年が歩いていた。
人の流れに任せて改札口を通り抜け、駅舎の外へ出る。
彼は慣れ親しんだ潮風の香りを胸いっぱいに吸い込むと、列車移動で凝り固まった身体を大きく伸ばした。
「なんか、すげぇ久しぶりな気がするぜ」
刺激的な遊び場には困らない首都での生活も悪くないが、やはり生まれ育ったこの街が一番だ。
第八ゲネシスの件が一段落し、差し迫った憂いがなくなったことで自然と心が軽くなる。
朱色を基調とした東方人街は特段変わりなく、帰ってきた青年を出迎えてくれた。
様々な店が軒を連ねる目抜き通りに入ると、すぐさま住民に声をかけられる。
「よぉ!麒麟児、帰ってきてたのか」
「おう、ついさっきな」
美味しそうな匂いにつられて店先を覗き込めば、主の老婦が柔和な顔を向けてくる。
「おや?お帰り、アーロン。元気にやってたみたいだねぇ」
「ばあさんも達者で何よりだぜ。しばらくはこっちにいるからよ、なんかあったら声かけてくれ」
更に道を進むと、今度は可愛らし少女が駆け寄ってきた。
「アーロンちゃん、おかえりなさ~い!」
「──うぉ!?突進してくんなって」
無邪気なタックルを真正面から受け止め、腰元にある頭をくしゃくしゃとかき混ぜる。
「えへへ、だって嬉しいんだもん。お母さんがね、新作の公演があるからもうすぐ帰ってくるよ~って言ってたの」
言葉通りの感情を宿した瞳が、少女の顔をより一層輝かせる。
「ねぇ、ねぇ、アーロンちゃんいつ出るの?明日?明後日?」
「ははっ、気が早ぇな~。初日まではあと二ヶ月くらいだぜ。それまでにいっぱい稽古しなきゃなんねぇからな」
「えー、そんなに先なの?」
子供の表情はコロコロ変わる。不満げに頬を膨らませた小さなファンに対し、アーロンは目線を合わせるようにしてしゃがみ込んだ。
「なに、あっという間だ。開演したら見に来いよ」
そして、明朗な笑顔を広げながらもう一度少女の頭に手を置いた。
彼は意図的に挨拶回りをしているつもりはなかったが、この辺りには顔馴染みも多く、つい会話が弾みがちになる。
華劇場に顔を出す前にどうしても寄りたい場所があるのだが、ついつい足の運びが鈍くなっていた。
ふと晴れ渡った空を仰いでみると、そろそろ太陽が真上に差し掛かり始める頃合いだった。
「──そろそろ行かねぇとな」
アーロンは降り注ぐ陽光に目を細め、ぼそりと呟いた。
海鳥たちの鳴き声が風に混じって微かに聞こえる。音はそれだけだった。
賑やかな街の風景とは異なり、今は亡き人々が眠るこの地には静謐な空気が漂っている。
海を見渡せる高台には整然と墓石が並び、しっかりと管理が行き届いていた。
アーロンはその中の一画で立ち止まった。周囲に他の人影はなく本当に静かだった。
「帰ったぜ。お袋」
短い挨拶をした後、墓地に向かうまでの道程で用意した花と線香を供える。
細い煙が立ち上り、地面に膝をついて黙祷をした身体に薫りが纏わり付いた。
彼は普段から足繁くここに通っているわけではなかった。
もちろん命日の墓参りは欠かさないが、それ以外は折に触れてはといった具合だ。
今日は数ヶ月ぶりの帰郷ということもあって訪れたが、それと共に大事な用件があった。
「……本意じゃねぇが、預かってきたもんがある」
しばらくして、アーロンは苦虫を噛み潰したような顔で墓前を見上げた。
バッグから極々薄い冊子を取り出し、ゆっくりとそれを開く。
中には押し花が一枚だけ。白い百合の花が綺麗な状態で保存されていた。
それは学藝祭の日にイーディスで再会した父から預かった物だった。
煌都において弔いに最良だと言われる清翠の百合とは異なるが、よく似た形状をしている。
「あの野郎……生花じゃ保たねぇだろうが。受け取っちまったオレもオレだけどよ」
当時は花持ちのことまでは考えが至らなかったので、後になってどうしたものかと頭を悩ませる羽目になってしまった。
すぐに煌都へ帰れる状況ではなかったし、かといって誰かに代行してもらうのは違う気がした。
萎れてしまうであろう花を自分が調達し直す案もあったが、それは即座に打ち消した。
この手向けは、曲がりなりにも彼が持つ亡き妻への愛情の一部なのだろう。
それが解らなほど子供ではなかった。
「まぁ、嬉しいかどうかは知らねぇけどな」
アーロンは薄い紙に覆われた花を取り出し、丁寧に墓石の前へ置いた。
この場所は高台に位置しているものの、一年を通じて穏やかな風が流れている。
生花の時よりも軽量だが、飛ばされる心配はないだろう。
大切な預かり物を渡し終えると、彼はゆっくりと立ち上がって母の面影を見つめた。
「たぶん、嬉しいんだろう……な」
親子三人で暮らしていた頃の記憶に微笑ましい情景はない。
飲んだくれのあの男が家に寄りつくのは、金が尽きた時だけだ。
当然、仲睦まじい夫婦の姿など見たことはなかった。
だから、ずっと疑問だった。彼女が文句も言わず夫に尽くしていたことが。
「なんで、あんなろくでなしが好きだったんだよ?」
問いかけの先には物言わぬ墓標があるだけで、返答などは期待していなかった。
突如、ふわりと優しい風が頬を撫でるように揺蕩う。
『あなたはどうして好きなの?』
まるで問い返されているような幻聴。
瞠目したアーロンは、無意識のうちに一歩後退ってしまった。
心の奥に住み着いている人影を覗かれている気分が拭えない。
「あいつは……」
足元に視線を落として意中の人を思い浮かべてみる。
「気持ち悪ぃくらいに甘党だし、趣味のことになるとマジでうぜぇし」
青いコートを着た男が片手で頭を掻きながら苦笑している。
「何かにつけて保護者面してくるし。オレをチビ共と一緒くたにしやがって」
夜明け前の空色を宿した瞳が、揶揄い混じりの表情を向けてきた。
考えれば考えるほど、愚痴や文句ばかりが出てきてしまう。
気恥ずかしくて素直になれないだとか、そんな感情からではなかった。
彼に惹かれている部分はいくらでもあるはずなのに、陳腐で拙い語句ばかりが頭の中で浮かんでは消えていく。
アーロンは『どうして?』の答えを明確な言語として表すことができなかった。
ついには唇を引き結ぶ。
衣服の胸元を握りしめながら両目を閉じると、再び小風が彼の周囲を舞い踊った。
今度は優しいというよりも、少しだけ元気づけるような明るい面持ちで。
「あぁ、理屈じゃねぇのか……こういうのって」
そこで彼は気が付いた。
この恋情はいくら言葉を並べ立てたとしても説明しきれない。
頭でっかちな思考よりも、まずは先に心が動いたのだ。
少しずつ積み重なっていく縁と比例するように、胸の奥に灯った焔は大きく育っていく。
言葉にできないほどの狂おしい想いというものは確かに存在していた。
「なぁ、お袋も同じだったのか?」
アーロンは俯いていた顔を上げて真っ直ぐに墓標を見据えた。
表面に広がる沈んだ色は綺麗に削ぎ落とされ、どこかさっぱりとした面持ちで口元を緩ませる。
彼がいくら実父を嫌悪したとしても、母にとってはずっと愛おしい男のままだったのかもしれない。
己が誰かを求めるようになった今、ようやくそれが理解できた。
ふと空を見上げてみると、頭上を一羽の白い海鳥が悠々と滑空しているところだった。
小さな鳴き声は鈴の音のようで、まるで彼女が返事をしてくれているような気がした。
墓地での用事を終えたアーロンは、再び東方人街に戻ってきた。
馴染みの店で手短に昼食を済ませて華劇場へと向かう。
公演に向けて本格的に動き出すのは明日以降なので、今日は帰郷の報告も兼ねて軽く顔を出しに行くつもりだった。
ザイファを取り出して時計を確認すると、丁度午後の定期公演が始まったばかりの時間帯だ。
「支配人くらいには挨拶しとくか」
彼はそう呟きながら手慣れた動きでカバーを閉じた。
もう随分と使い込んでいる端末なので、何の目新しさもないはずなのだが──今日は違っていた。
昼下がりの陽光を受け、蒼い意匠がより鮮やかに際立つ。
それに視線を寄せている青年は、知らずの内に破顔していた。
「おーい、アーロン!」
すると、前方から手を振って駆け寄ってくる友人の姿があった。
「っ!?なんだ、シドかよ。他の奴らはいねぇのか?」
心ここにあらずだったのか、アーロンは一瞬だけ肩を揺らしてから即座に表情を引き締めた。
「ははっ、久しぶりだってのにつれねぇな!」
シドは嬉しそうに笑いながら、数ヶ月ぶりに会った友人の背中を叩いた。
「今日は夕方あたりに集まるぜ。お前も……おっ?」
その流れで、ふと彼が持っているザイファに目を留めた。
「カバー替えたのか?凄げぇカッコイイな」
「……あぁ、少し前にイーディスで見つけた」
アーロンは咄嗟に嘘を吐いてしまった。
このザイファのカバーはヴァンに貰った物だ。
裏解決事務所の面々を束ねる所長は、やたらと皆に物を贈りたがる。
そこに他意はなく、街を歩いていたら良さそうな物を見つけた、くらいの感覚なのだろう。
彼の品物選びは的確で、一様に皆を喜ばせている。
このカバーの時も同じだった。
お前が好きそうだからと、何の前触れもなく手渡してきた。
蒼を基調にして施された先鋭的なデザインは、いかにも若者が好みそうな代物だった。
実際はアーロンも一目見てすぐに気に入ってしまったのだが、そこは素直とは言い難い性分だ。
「しょうがねぇから、貰っておいてやるよ」
仏頂面をしながら、引ったくるように受け取るしかなかった。
半年くらい前の出来事を反芻してみると、また表情筋が緩みそうになる。
「向こうじゃ気分次第で替えてる」
これも嘘だ。
イーディスで過ごしている間、この蒼いカバーは一度も使用していない。
それどころか、自室のキャビネットに押し込んだままで誰にも見せていなかった。
本音を言えばすぐさま付け替えたいところだったが、捻くれた受け取り方をした手前、いくらなんでも恥ずかしすぎる。彼特有の矜持がそれを思い止まらせた。
そんなわけで、次に煌都へ帰る時まではとお預けにしておいたのだ。
ここなら贈り主のヴァンは居ないし、同僚たちに揶揄される心配もなかった。
「ま、しばらくはこいつと過ごすつもりだけどな」
苦笑いで新品の傷一つないカバーを指で弾く。
そして、そそくさとザイファを持っている手ごとポケットに突っ込んだ。
気の置けない友人を前にして、いつものように表裏なく立ち回れない自分が滑稽だった。
ヴァンのことになると、どうしても調子が狂ってしまう。
隠し通すつもりはないが、率先して公言したいかと問われれば微妙なところだ。
そもそも、まだ──恋人じゃない。何も手に入れてはいない。
無意識に墓参りの余韻を引きずっているのか、複雑な胸中が入り交じる。
それを宥めるように、ひっそりと手の中の蒼を握りしめた。
離れていても彼の存在を感じられるような気がして、指先が仄かに温かかった。
※ ※ ※
新作の初演まではあと一ヶ月といったところだ。
煌都へ帰ってきてからは瞬く間に時間が過ぎ去っていく。
アーロンは稽古や打ち合わせを抱え、華劇場と自宅を行き来する日々を送っていた。
しかし、そこは彼のこと。夜にはしっかりと遊び歩き、昼間は街の困りごとなどに手を貸していた。
尤も、普段と比べればかなり控えめにはしているのだが。
稽古が終わり解散の声がかかると、あたりはすぐさま和気あいあいとした雰囲気になった。
帰りの挨拶やら、ちょっとした雑談やら。稽古中は張り詰めていた空気が一変する。
アーロンも気さくにそれらの輪に入っていたが、身支度を整える素振りを見せなかった。
「お前、まだやるのか?」
それを気に留めた共演者の男が声をかける。
「あぁ、ちょいと気になる部分があってよ」
今回の舞台で主役を張る青年は、演舞用の双剣を軽く持ち上げた。
「なんか気合い入ってるわね」
今度は演出担当の女が興味深げに覗き込んでくる。
「ん~、まぁ、女形じゃねぇのって久しぶりだしな」
それには快活な笑顔で応じる。
彼は基本的に女形を主とする役者だが、だからと言ってそれ一辺倒というわけではなかった。
気分次第では男性の姿で舞うこともある。ただ、大抵は短時間の軽めな演目なので、今回のように大がかりな公演を打つのは珍しいことだった。
そうなれば自然と気合いが入ってしまうのも頷ける。彼の熱意は周囲の誰が見ても明らかだった。
一人、静かになった稽古場で足音が跳ね上がった。
二本の剣が流れるように綺麗な弧を描く。
身体を回旋させてから片方の刃で空を撫で斬る。続けてもう一振り。
そこで動きが止まった。
一度深呼吸をして、再び最初から同じリズムを刻み始める。
しかし、また同じ場所で手足を止めた。それを何度も繰り返す。
「……違う。こうじゃねぇ」
アーロンは大きく頭を振って眉間にしわを寄せた。
振り付け自体は完璧に覚えているのだが、どうにもしっくりこない。
何かが足りない。もっと、こう内面から溢れ出てくるような何かが。
荒々しげに踵を打ち鳴らし、壁の一部に設置されている大きな鏡を見つめる。
そこには焦燥に駆られた己の立ち姿があった。
実のところ、この一幕に関しては数日前から行き詰まっていた。
稽古をすればするほど雁字搦めになっていくような感覚がして、そこから脱するきっかけが掴めずにいる。
「ああっ、くそ!」
誰もいない稽古場の壁に怒声が反射した。
と、その時。ドアの向こうからノックの音がした。
「アーロン?入るわよ」
一応の断りと共に姿を現したのは、彼の幼馴染みであるアシェンだった。
「なんの用だ?」
「ちょっと近くまで来たから寄ってみただけ……なんだけど。外まで聞こえてたわよ」
「うるせぇな」
家族のような存在の彼女に対しては、不機嫌さを隠そうともしない。
鏡に映る自分と対峙したまま、声だけを吐き出す。
アシェンはそんな彼の様子に肩を竦めてみせた。
「あんたねぇ……そんなに苛ついてるなら、どこかで気分転換でもしてきなさいよ」
稽古場に足を踏み入れる気はないのか、ドアにもたれ掛かりながら助言を送る。
彼女は演舞のあれこれについては素人だが、幼い頃からアーロンが稽古をする姿を眺めてきた。
だから、彼がどんな精神状態なのかを推し量ることは簡単だった。
「たまには稽古を離れて違う空気でも吸ってみれば?何か別のものが見えてくるかもしれないし」
アーロンは無言で鏡の中だけを見つめている。
「あんまり根詰めるんじゃないわよ」
幼馴染みの人となりを熟知している彼女にしてみれば、返事の有無などは些細なことだった。
雑音のない部屋なのだから、声は確かに届いたはずだ。
今はそれだけで良かった。
あんなことを言われてしまっては、双剣を握る手からも力が抜けていく。
稽古を続ける気を失ったアーロンは、華劇場を出てから真っ直ぐに自宅へと帰った。
その足ですぐさまベッドに向かい、勢いよく仰向けに身体を投げ出した。
安物のスプリングが耳障りな音を立てて軋む。
窓の外に目だけを向けると、空は茜色に染まりつつあった。
「気分転換って言ってもなぁ」
今度は薄暗い天井に視線を移動させて独言する。
このくらいの時間帯だったら、街へ繰り出して夜まで遊び歩くのが常だった。
気が合う仲間たちと過ごせば、それだけでストレスのいくらかは解消される。
けれど、それは彼にとって当たり前の日常であり、閉塞した心の空気を入れ換えるほどの力はないだろう。
「なんか、こう……スカッとするような」
所在なげに放っていた手がポケットを弄ってザイファに触れた。
「──あっ」
そこで彼は妙案を思いついた。
先行するアーロンの身体が嬉々として飛び跳ねた。
双剣が銀色の軌跡を描く度に、鮮やかな赤い髪が舞い踊る。
「こら!待ちやがれ!!」
それを追いかけているヴァンが、制止の声を張り上げた。
足の速さを比べてしまえば、分が悪くなるのは仕方がない。
このエリアに入った途端、爛々と目を輝かせて抜剣をしていたことを思えば、止まってくれるはずもないのだが。
小型の魔獣たちが群がる一画へ突進し、華麗な剣捌きで危なげなく立ち回る。
彼が周囲を一掃する頃になってようやくヴァンが追いつくのだが、合流する気は全くなさそうだった。
「おせーぞ!オッサン!」
などと楽しげに言いながら、アーロンはまた走り出してしまう。
傍から見れば、追いかけっこをして遊んでいるような二人組だ。
「あの野郎~っ」
ヴァンは苛立ちを覚えて片手で頭を掻きむしった。
幸い、ここは庭城の中でも下層の領域だ。
彼らの練度なら単独でも問題はないが、かといって一方的に置いて行かれるのは面白くない。
ましてや、あからさまに煽られているのだから、対抗心を燃やしたくなるというものだ。
事務所の中で唯一の成人男性であるアーロンに対しては、ついムキになってしまう時がある。
子供じみた感情だと分かっているが、一度火が点くとなかなか止められなかった。
心の片隅では男同士のじゃれ合いを楽しんでいる節もある。
ヴァンは一度軽く首を回し、撃剣を担いで再び彼を追いかけ始めた。
このエリアの終点までにはあのガキを捕まえてやる、と一人で息巻きながら。
アーロンは、目の前に立ち塞がる魔獣にしか興味がなかったようだ。
彼の食べ残したちは追駆してくるヴァンを目ざとく見つけ、我先にと敵意を向けてくる。
それらを難なく打ちのめしながら、軽やかに動き回る背中へ照準を合わせた。
最初の頃に比べれば、二人の距離はだいぶ縮まってきている。このままいけば確実に手が届くと判断したのか、ヴァンの表情筋が微かに緩んだ。
「ふぅ……舞台のことで溜め込んじまったって感じかねぇ?」
そして、事の発端を思い出してみる。
アーロンは一ヶ月ほど前から煌都に帰っていた。
第八ゲネシスの一件も落ち着き、首都での仕事も通常運転に戻り始めた頃、華劇場から打診があったのだ。彼が主演の新作を公演することになり、二つ返事で受けたらしい。
時々思い立ったように舞台への強行軍をすることもあるが、今回はしっかりとスケジュールを組んでいるようだった。
「あいつ、そういう所は真摯なんだよなぁ……役者魂っていうか」
舞台の作り込みに妥協はしないということなのだろう。
「少しくらいはこっちにも回して欲しいもんだぜ」
ヴァンが戯けながら一人でぼやく。
助手三号の業務態度に大きな不満はないが、何となくそんな気分だ。
と、そんな矢先。
「──おっ!?」
今は演者としての顔は形を潜め、楽しげに剣戟を繰り出すアーロンの足が止まった。
二体の大型魔獣と対峙している彼を見て、ヴァンがニヤリと笑う。
あれは流石に瞬殺とまではいかないだろう。
低い咆吼を皮切りにした戦いへ、彼は勢いよく突っ込んでいった。
鋭利で大きな爪が容赦なく振り下ろされる。
それを危なげなく躱すと、今度は真横からの大振りな追撃。
身を翻して距離を取った直後、両足で地を蹴って高く跳躍した。
「沈め!!」
吐き出した息と共に、焔を纏った斬撃を魔獣の頭部に叩き付ける。
巨体が崩れる音を聞きながら着地を決めると、即座に無傷のもう一体が襲いかかってきた。
一瞬の隙を突かれた形だが、アーロンにしてみれば完全に予想の範囲内。
──のはずだった。
迫り来る爪牙を剣で受け流した刹那、
「おい!一体くらいは譲れっつーの!!」
耳馴染みのある声がいくらかの弾みを伴って、交戦の場に割り込んできた。
「あっ、てめぇ!?」
アーロンが反撃するよりも早く、ヴァンが肩に担いでいた撃剣を横に構えた。
重心を下肢に落とし、渾身の力を込めて腕を振り切る。
薙ぎ払うような打撃は青白い弧を描き、魔獣の胴体へ強烈な一発が打ち込まれた。
「これでしまいだ!」
ヴァンは大きくよろめいた体躯を一瞥し、返す刀でとどめを刺した。
周囲に魔獣たちの気配がないことを確認し、アーロンが双剣を鞘に収める。
前方にはこのエリアの終点となる転送装置が視認できた。
「チッ、余計なことしやがって」
「追いつかれちまったのが面白くねぇのか?」
仏頂面でそっぽを向いている彼とは対照的に、ヴァンは目的達成とばかりに得意げな顔をしている。
俊足の背中を追いかけていたので、ちょっとだけ息が上がっているのはご愛敬だ。
「そっちこそ、ギリギリだったくせにドヤ顔かましてんじゃねぇよ」
それを笑い飛ばしたアーロンが、相手の方へ向き直る。
「──ん?」
しかし、勝ち気な瞳が訝しげな色を浮かべて細くなった。
彼はヴァンの顔をマジマジと見ながら、遠慮なく距離を詰める。
「な、なんだよ?」
あと半歩で二人の間合いがゼロになる。そこまで近寄られたヴァンは、困惑して後退ろうとした。
だが、すぐにそれを制する声が発せられる。
「ダセぇな。このエリアなら無傷で来いよ」
言い終える前に片手で上着の襟元を掴まれる。自然と前屈みの態勢になってしまった。
互いの息がかかるくらいに顔が接近し、その緊張感からか全身が強張る。
「……傷?」
この道中で自分が負傷をしたという認識はなく、疑わしげに首を傾げてみれば、アーロンからは無言の返答があった。
突として頬に柔らかく湿った肉の感触。生温い水分が皮膚の表面に溶け、ピリッとした刺激が走る。
そこでようやく、自分の顔に切り傷があることに気が付いた。
同時に、目の前の青年に何をされているのかも。
まるで傷の具合を確かめるように、ゆっくりと舌先が這い回る。
「お、お前っ……」
痛みのせいか、それとも羞恥のせいか、ヴァンは強く両目を瞑った。
遠目からでも頬に走る薄い赤色が確認できた。
よくよく近寄ってみれば、滲んでいる程度のかすり傷だ。
すると、軽薄にも揶揄する気持ちが先に立つ。
不意に舌で舐め上げると、口内に微かな血の味が広がった。
「身体鈍ってんじゃねぇの?」
アーロンは意地悪げに笑みながら、上着を掴んでいる手を離した。
「こんなの怪我のうちに入んねぇだろうが」
ヴァンはその隙を逃さず、今度こそ一歩後ろへ距離を取る。
嬲られた傷口が熱を帯びている気がして、無意識に手の平を頬へ押し付けた。
「……ったくよぉ。犬猫じゃあるまいし」
どうにも居たたまれない気分に陥ってしまい、ぶつぶつと愚痴りながら身体を背ける。
「大体、てめぇは自由奔放すぎるんだよ。急に連絡入れてきたかと思えば、『気分転換に付き合え』だとか」
半眼じみた視線だけを横に流してみたが、アーロンの方はどこ吹く風のようだ。
「まぁ、取りあえずは良い息抜きになったぜ、ヴァン」
その上、堂々と後腐れがない応答されてしまえば、ぼやき混じりの胸中を飲み込むしかなかった。
「今度の公演、まだまだ練り上げてぇからな。正直ちょいと行き詰まってたんだが、これで頭が切り替えられそうだ」
「お、おう。そうかよ」
やはり、役者然としている時のアーロンは何事にも率直だった。
共に庭城を走ってくれた男への感謝を誤魔化そうとはしない。
いつも『素直じゃないクソガキ』と過ごしているヴァンにとっては、それがくすぐったくて照れ臭かった。
「あ~、その……お役に立てたなら、何よりだぜ」
所なさげに身体を揺らした彼は、視線を彷徨かせながら律儀にそう言った。
楽しかった一時は幻のごとく、あっという間に別れの刻がやってくる。
二人は雑談を交えながら互いの近況を確認し合っていた。
「ま、せいぜい励めよな、所長さん。オレがいない間に廃業とか、さすがに笑えねぇ」
「あるわけねぇーだろうが!ったく、口の減らねぇガキだぜ」
いつものように憎まれ口を叩き合いながら視線を絡ませる。
このひと月の間は全くやり取りをしていなかったので、自然と声音が弾んでいた。
「──っと、もうこんな時間か。そろそろお開きだな」
だが、ふとザイファの時計に目をやったヴァンが残念そうに解散を口にする。
「そんじゃ……」
アーロンはログアウトの操作をするべく端末のボタンを押そうとしたが、急にピタリと動きを止めた。
「……なぁ、ヴァン」
そのまま言葉を続けようとしたものの、逡巡した末に唇を引き結ぶ。
「どうした?」
怪訝に思ったヴァンが問いかけるが、彼は小さく息を吐いただけだった。
「なんでもねぇ。じゃぁな」
そして、ぶっきらぼうな別れの挨拶と共に今度こそ仮想空間からの離脱を実行した。
「おう、またな」
ヴァンはその態度に一瞬引っかかりを覚えたものの、当たり障りなく青年を見送る。
と、その時。
淡い光を帯びて薄くなり始めたアーロンの手元、ザイファの表面が外光を反射して蒼く煌めいた。
「あれ……は」
瞬けば見逃してしまいそうだったそれは、ヴァンにとって見覚えのある意匠。
完全に人影が消えて一人残された彼は、呆然としてその場に立ち尽くした。
あれを受け取ってくれた時の態度が自然と頭に浮かび、小さな笑いが込み上げてくる。
「もしかして、気に入ってくれてんのか?素直じゃねぇな」
最初から他意などはなかった。自分が贈りたいと思ったからそうしただけで、後はどう扱ってくれても構わない。
だからなのか、一瞬だけ見えた蒼が余計に嬉しかった。
今いる場所が仮想現実であることを失念し、ログアウトという言葉が吹き飛んでしまうくらいには。
一気に現実へと引き戻される感覚。
いつの間にか部屋の中は暗色に支配されていた。
窓に近づいて何気なく外を覗うと、すっかり夜の街並みに様変わりしている。
「……もう何周か連れ回したかったな」
名残惜しげにザイファの画面を見つめる。
彼が気分転換の場所に選んだのは、仮想空間である庭城だった。
あそこならば何の遠慮もいらない。舞うための剣技ではなく、相手を斬り伏せるための実戦的な立ち回りができる。
行き詰まりを打破するためのきっかけが掴めるかもしれないと思った。
「やっぱ、あいつじゃねぇと気分が上がらねぇ」
武器を振るうだけなら一人でも良かったはずなのに、妙案を閃いた矢先にヴァンの姿が思い浮かんだ。本能のままに誘ったのは大正解だったらしい。
まるで彼の残滓を啜るかのように親指をぺろりと舐めてみる。
「けど……あれじゃ、足りねぇんだよ」
あの空間は何もかもがリアルで、嫌になるくらいの余韻が残る。
実物と見紛うばかりの虚像は肌の感触も血の味も温かく、彼の劣情を呼び覚ますには十分だった。
どうせ触れるなら、本物の肉体の方が良いに決まっている。
──会いたい。
別れの間際に強くそう思った。
だったら、手っ取り早く今度の舞台に招待すればいい。
頭の中では流れるように手はずが整えられていた。本当に頭の中だけでは。
だが、アーロンは肝心な所で一歩を踏み出せなかった。
普段からの言動が足枷になったのか、それとも臆病風に吹かれたのか。
「……情けねぇ」
どちらにせよ、自分が不甲斐ないことには変わりなかった。
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