不慣れな彼らの攻防戦

※『不本意ながら前科が一つ増えました』の続きです

 

 裏解決事務所の所長として、助手たちの得手不得手は把握しているつもりだ。
トリオンモールの一角。白いカフェテーブルを陣取っているヴァンは、のんびりと甘めのカフェラテを啜っていた。
今日は天気も良く、外気も温かい。ストローから流れ込む冷たい飲料が喉に染み渡っていく。
「──で、なんか分かったか?」
対面の席に座っている少年へと意識を向ければ、歯切れの悪い応答があった。
「う~ん……このノイズ、気になるなぁ」
ノート型端末をテーブルの上に広げ、画面を覗き込んでいるカトルが難しい顔をしている。
「昨日の報告でもそんなこと言ってたよな?セントルマルシェか」
「あっちの方はほんとに微弱だったから、『一応気に留めておく』くらいだったんだけど」
軽やかにキーボードを叩く音が卓上に広がり、そこへ思案をする声が重なった。
「やっぱり、違和感があるなぁ。もう少し調べてもいい?」
「おう、好きにやってくれや」
そう提案してきたカトルに対し、ヴァンが満足げに頷く。
彼らが請け負っている依頼は、導力ネットの情報処理に関するトラブルの類いだ。
ヴァンとて多少の知識はあるが、技術的・ハード的な専門性とは程遠い。
そして、事務所のメンバーで誰が適任なのかと言えば、たった一人である。
彼は言葉通りに、カトルの仕事ぶりを見守ることにした。

 今は平日の午前中なので、トリオンモールを行き交う人の量はまだまだ少ない。
休日には何かしらで賑わっているイベントスペースも静かなものだ。
カトルは時々FIOに指示を与えながら、端末と睨めっこをしている。
すっかり寛ぎモードでその様子を眺めていたヴァンだったが、
「昨日のとパターンは同じか。だったら発生源も……」
ぶつぶつと呟く少年の語句につられ、不意にあることを思い出した。
「昨日って言えば、あれ……美味かったなぁ」
味覚までも蘇ってきたのか、うっとりとしながら青い空を見上げる。
わずかに浮かんでいる雲たちがお菓子の形と重なった。
「あっ、悪ぃ。邪魔しちまったか」
だが、すぐさま我に返って姿勢を正し、申し訳なさそうに頭を掻く。
「うん?大丈夫だよ。喋りながらでも作業はできるし」
カトルはほんの一瞬だけ瞠目したものの、再び手元を動かし始めた。
「あれって、一日限定の出店だったみたいだよ?それでつい買っちゃったんだけどね」
「はぁ~、さすがにそこまではチェックできねぇ」
ヴァンはがっくりと項垂れながら、とても残念そうに溜息を吐いた。
それを横目に捉えたカトルが小さく笑う。
「ヴァンさん疲れた顔してたもんね。スイーツがあって丁度良かったんじゃないの?」
「疲れたっつーか、あのクソガキが……ん?」
含みのあるそれに自然と応じかけたヴァンだったが、即座に訝しげな表情で頭を上げる。
「叫び声が廊下にまで聞こえてたよ」
「……マジかよ」
からかい混じりのカトルの言葉は端的だったが、それだけで察した。
ヴァンは昨日のアーロンとのやり取りを思い浮かべ、折角上げた頭を再び下に向けてしまった。
あの時は周囲のことなど顧みる余裕はなかったが、あれだけ騒いでいたら外に漏れるのは当然だ。
仲間内では二人の関係性が周知されてるとはいえ、面と向かって指摘されるのは恥ずかしい。
「あいつ、たまに過激なこと言うからよぉ……有言実行しそうで怖ぇんだよ」
なのだが、彼にしてみれば不本意な着地点だったのは確かで、つい誰かに愚痴りたくなった。
所長としての振る舞いはどこへやら。だらしなくテーブルの上に這いつくばり、ぶつくさと声を籠もらせる。
「それはご愁傷様。アーロンさんって我が強いっていうか……俺様だもんね」
カトルは元気がない濃紺の頭部に目をやり、穏やかな口調で年長の男を慰める。
その生い立ちの影響もあるのか、彼の思考や言動にはやや大人びている所があった。
「それなぁ……独占欲半端ねぇし」
だらけた大人の不満を聞いてくれる助手に感謝し、ヴァンは密かに頬を緩ませた。
別にアーロンから向けられる強い感情に辟易しているわけではない。
どちらかといえば、『困ったヤツだなぁ』くらいの緩い感覚だ。
もちろん、自分が彼に対して甘いことは認識している。
「そう言えば、前に何かの本で読んだんだけど……独占欲は不安の裏返しっていう捉え方もあるみたいだね」
ふと、本の一文を思い出した少年の言葉が、ヴァンの耳に流れ込んでくる。
「……不安か」
その中で、はっきりと一つの語句だけが胸の奥に落ちて響いた。
「──あっ。今の、僕が言ったとか、アーロンさんにはなしだからね!絶対睨まれる」
「わざわざ言わねぇよ。そんなの俺だって遠慮するぜ。あのガキは人一倍強がりだからな」
ヴァンは肩を小刻みに揺らしながら、込み上げてくる苦笑を噛みしめた。
おもむろに伏せていた身体を起こして、何気なく視線を巡らせる。
イベントスペースの向こう側、青空を借景にしたトリオンタワーが堂々とそびえ立っている。
昨日の日中、あの付近を通ったであろうアーロンの姿に思いをはせてみた。

『オレの物のくせに一人でふらふらするんじゃねぇ』

 そう言って睨み付けてきた瞳の奥底には、どんな感情を宿していたのだろうか?
学藝祭の時はそんなつもりこそなかったが、結果的には彼の腕からすり抜けたと言われても仕方がない。
信用できないなら掴まえておいてくれと、先に手を伸ばしたのは自分の方だったのに。
もしかしたら、独り消えようとした背中を思い出させてしまったのかもしれない。
改めて彼の気持ちを慮ってみれば、心がチクリと痛んだ。
「……悪いことしちまったな」
物憂げに頬杖を付いたヴァンの唇から吐息が漏れる。
独り言のような声は本当に小さく、テーブルを挟んでいるカトルでも聞き取れないくらいだった。
助手の少年は不思議そうに小首を傾げたが、何事もなかったように端末の操作に比重を傾ける。
ヴァンの表情を見たら、これ以上この話題を続けるのは野暮に思えてきてしまった。

 

 数日が経ったある日。
ヴァンは休日を利用してアーロンをドライブへ誘ってみることにした。
「どういう風の吹き回しだよ、気色悪ぃな」
彼の反応は予想通りの辛辣さで、更には胡乱げにジロリと睨まれた。
「あぁ、この間のお詫びを兼ねてデートでもしようぜってことで」
「はぁ?何、頭が沸いたこと言ってやがる」
ますます訳が分からないとばかりに詰め寄られ、ヴァンは少し困り顔ではにかんだ。
「いや、ほら。前科増やしちまっただろ?その埋め合わせ」
負けん気が強い彼に対し、不安にさせたとは到底口にできず、上手い具合に言葉を選ぶ。
すると、アーロンは驚いて彼を凝視した。
「てめぇ、何言って……」
物言いたげに唇を動かしかけたが、一度頭を振った後で顔を逸らしてしまう。
それでもお断りの文言は発せられず、気を良くしたヴァンは軽やかな足取りでガレージへ向かった。

 デートなどと言ってはみたが、特に行き先を決めているわけではなかった。
一応アーロンにも希望を聞いてみたが、「好きにしろ」との素っ気ない返しだ。
ヴァンの方にしてみても、二人きりの時間が欲しかっただけなので、気ままに車を流すことにした。
今日は終日天気の崩れはない予報で、ドライブをするには丁度良い。
アーロンは最初、少し戸惑っている様子だった。
気遣って適度な音量でラジオをかけてみると、ぽつりぽつりと会話らしきものが発生する。
それからは当たり障りのない話題が続き、彼はいつのも調子を取り戻したようだった。
「……まぁ、たまにはこういうのも悪くねぇ」
助手席の窓を全開にし、肘をかけて風を浴びている姿はどこか楽しそうに見える。
「そうかよ。なら、良かった」
「詫びのつもりなら、首に縄付けてくれてもいいんだぜ?」
「おいっ、それは絶対やらねぇからな!」
昨日のやり取りを混ぜっ返され、ヴァンがすぐさま声を上げる。
あの時に首をなぞられた感触が、じわりと蘇ってきた。
ハンドルを握っているので相手の表情は覗えないが、きっと意地悪げに笑っていることだろう。
「ったく、口の減らねぇガキだ」
心なしか体温が上がり、半分だけ空けていた運転席の窓を全開にする。
両方の窓が放たれたことで、車内には勢いよく風が流れ込んできた。
そんな矢先。
対向車線に導力バイクの一団が現れた。車種はバラバラだが、整然と隊列を組んで走っている。
ヴァンが驚嘆した横で、アーロンが軽く口笛を鳴らした。
「おいおい、イカしてんじゃねぇーかよ!?」
目を輝かせながら身を乗り出し、すれ違う一団を嬉々として見つめる。
「ツーリングってやつかねぇ。金かけてやがるなぁ」
以前よりも普及し始めたとはいえ、導力バイクはまだまだ高価な代物だ。
導力車とは違い、一般的な市民が気軽に手を出すには程遠い。
「はぁー、やっぱ良いよなぁ~、バイク。早く手に入れてぇな」
興奮冷めやらぬといったアーロンは、助手席のシートに深く腰を埋め、にまにまと笑っている。
バイクより車派のヴァンは、それが少しばかり面白くない。
「はっ、金がねぇくせによく言うぜ。いつになるんだかなぁ?」
この青年が煌都で女友達に大枚を投げ打ったことを考えれば、今の蓄えは微々たるものだろう。
ついそんな嫌みが口から零れ出ると、
「だったら、給料上げやがれ」
至極尤もな切り返しをされてしまった。
言葉を詰まらせたヴァンをほったらかし、アーロンは勝手に金策を立て始める。
「なんなら、しばらく華劇場で稼ぐって手もあるな」
彼は自他共に認める煌都の人気役者である。
近頃は気まぐれに舞台へ上がっているが、腰を据えれば今よりも確実に実入りが良いはずだ。
その口調はやたらと弾んでいて、ヴァンの胸元が不穏なざわつきを覚える。
「……しばらくって、どのくらいだ?」
「さぁな~。半年とか一年とか?」
軽すぎるくらいの返答を受け、ハンドルを握る手に力が籠もった。
「そいつは……はい、そうですかって言えねぇな」
唇を引き結んで数拍の間を取る。
今日は誤魔化しや照れ隠しをしないと決めていた。
アーロンを不安にさせたことへの埋め合わせなら、自分の情は率直に伝えるべきだと思う。
「だって、それじゃ俺が……寂しいだろ」
ヴァンはフロントガラスの先に視点を固定したまま、唇を尖らせてそう言った。

 こんな狭い空間では、どう頑張っても聞き間違えようがない。
それでもアーロンは、自分の耳を疑った。
隣の横顔を盗み見れば、そこにはふて腐れた表情が張り付いている。
刹那、心臓がドクンと大きな音を立てて跳ね上がった。
「……いちいち真に受けてんじゃねぇ」
誤魔化すように運転席から目を外し、窓の外に視線を投げる。
いつもなら威勢良く発せられる揶揄の言葉も、今はすんなりと出てこなかった。
小刻みに鳴り響く心音は全身に行き渡り、じわりと手の平が汗ばんでいく。
こんな恋人の言動を、彼は知らない。
押しが強く明け透けなアーロンに比べれば、ヴァンは奥手で愛情表現が控えめだ。
それなのに、今日は最初から何かがおかしい。
デートなんて語句が飛び出してきたかと思えば、今度は『寂しい』と拗ねてくる。
ヴァンからの分かりやすい好意に関して、アーロンの耐性はゼロに等しかった。
「あ~、くそっ。面倒くせぇ反応しやがって」
「いや……お前、マジでやりそうだから」
「例えばの話だよ!例えばの!」
どう立ち回れば良いのかが分からず、つい語尾が強くなる。
「ふぅ、そうかよ」
そんな動揺を纏った声の直後、明らかな安堵の溜息が車内に広がった。

 ラジオからはこの季節にお勧めの観光情報が流れている。
現在地からでも足を伸ばせる場所が紹介されていたが、ヴァンの興味は薄かった。
今は人々の賑わいに紛れることはせず、静かな空間を作り出していたい。
そうでもしなければ、誤魔化さないと決めた心が揺らいでしまいそうになる。
(さすがに、人目があるとこでデレるっつーのは……難易度高すぎだろ?)
熱々な恋人たちを見る分には構わないが、いざ自分がとなれば相当に恥ずかしい。
隣の気配を覗ってみると、助手席に座っている青年は窓の外に顔を向けたまま。
こちらから話を振れば応じてくれるが、それだけだ。
ヴァンは柄でもないことをしている自覚があるので、彼の戸惑いが可笑しくもあり、微笑ましくもあった。

「──おい、この先で止めるぞ」

とはいえ、アーロンの心情を思うとこの状態は気の毒だ。
出発をしてからは走り通しだったこともあり、この辺りで一息入れておくべきだろう。
緩い登りのカーブが続く道の途中、少し拓けた所を見つけて車を止めた。
周囲に比べれば若干標高が高く、天候の良さも相まって見晴らしは上々だ。
どうやら一応は展望スポットのようで、質素な木製のベンチが二つ横に並んでいる。
「へぇ、なかなか良い場所じゃねぇか」
エンジンを切った途端、アーロンは明るい表情で勢いよく車のドアを開け放った。
地面に足を付けて軽く身体を伸ばしてみる。
吹き抜ける風はいたって自然体で流れており、走行中とは違う開放感があった。
一足遅れて車を降りたヴァンは、道中で個々に飲んでいたタンブラーを両手に持ち、アーロンの元に歩み寄った。
一声をかけてから片方のタンブラーを放り投げると、彼は難なくそれを受け取って喉を潤し始めた。
「穴場ってヤツかね。この辺は普段から車も少ねぇしな」
車に寄りかかって寛いでいる恋人を見つめ、ヴァンの頬が柔らかくなる。
「こんな事でもなけりゃ、気がつか……」
ついいつもの調子で対応しかけたアーロンは、存外にしっかりと視線が合ってしまったせいで声を失った。
「……チッ」
彼は大袈裟なくらいの舌打ちをし、ヴァンを振り払うようにしてその場を紛らわせた。
車から離れる足取りは速く、一直線にベンチへ向かって乱暴に腰を下ろす。
そんな落ち着きのない背中を眺め、ヴァンはやれやれと言わんばかりに肩を竦めた。
(まぁ、解らなくはねぇが……けど、少しくらいは受け止めてくれよ)
大概は気持ちの切り替えが早い彼の恋人だが、今回は苦戦を強いられている模様だ。
常日頃からアーロンの方が優位な関係性については不満もないし、それが心地良いとすら思う。
そのせいか、いざ自分がそうなった時のことをあまり想定していなかった。
こうも距離を取られるものなのかと、ほんの少しも触れてはくれないのかと、不安になってくる。
いつまで経っても振り向いてくれない後ろ姿に痺れを切らし、自然と足が動き出した。
「なぁ、アーロン」
空いているベンチにタンブラーを置き、長閑な景色を眺めている恋人の傍らに立つ。
「今日は……掴まえておいてくれねぇのか?」
片手を伸ばした拍子に意図せず甘えた声が漏れ、自分自身が驚いた。
だが、それ以上にアーロンの反応は顕著だった。
「てめぇ……は、さっきから何を言ってやがる」
驚愕の表情から後は、瞬発的な感情を押し留めるような低い声。
ついには自棄になったかのような、強烈な眼光が見上げてくる。
「急にデレてくるんじゃねぇ!こっちの調子が狂うんだよ!」
荒々しい叫びと共に手首を掴まれ、その瞬間にヴァンの頭が真っ白になった。
触れて欲しいと思ったくせに、いざ彼の体温を感じればカッと全身が熱くなる。
「う……ぁ、マジ……か?」
同時にこれまでの自分の言動が怒濤のごとくに流れ込み、脳内が羞恥で掻き乱されていく。
言葉にならない呻きが唇を空回りする度に、顔に熱が集まってきた。
「……やべぇぞ、これ」
もしかしたら、デートに誘った時から正気ではなかったのかもしれない。
そう疑いたくなるくらいに狼狽している。
ヴァンは口元を片手で覆い、望み通りに捉えられた手首へと視線を落とした。

 急変した恋人の様相は、アーロンの怒気を静めるには十分すぎた。
信じられないような物を見る眼差しが、ゆっくりと男の全身を舐め上げる。
掴んだ手元から胸を辿り、首から上へ。
これ以上ないくらいに発火した顔面に気を取られ、思わず拘束の力が緩んだ。
その隙を突かれ、ヴァンに手を振り解かれる。
後退った足はふらふらと空席のベンチへ向かい、座ることなく地面に両膝をついた。
「なんで……だよ」
力なく座面の上へ突っ伏したはずみに、タンブラーが転がり落ちる。
そんな一連の動作を、アーロンは無言で見つめることしかできなかった。
ヴァンからデートの誘いがあった時、「頭が沸いている」と揶揄したのは、強ち間違いではなかったのかもしれない。
それでも、希少すぎる恋人の姿にはどうしようもなく心が乱される。
普段の関係性から言えば、明らかに形勢逆転の模様だ。
困惑と動揺の中、悔しさも相まって息を荒げてみたら、今度はまた状況がひっくり返る。
すぐには頭が付いてこなかった。

 隣のベンチでは、ヴァンが完全に茹で上がっている。
アーロンは身動きをしなくなった男を視界に留め、ややあってからようやく冷静さを取り戻した。
「締まりがねぇなぁ、ヴァン」
「……うるせぇ。こんなつもりじゃなかったんだよ」
せせら笑いをすると、彼の方も若干落ち着いたのか応答があった。
しかし、まだ身体を起こすまでにはいかないようで、結構な重症具合だ。
その後、少し待ってはみたものの、ヴァンが顔を上げることはなかった。
性格的に気長とは言えないアーロンは、太陽が傾き始めている空を見て息を吐いた。
そろそろ腹が減ってくる頃合いだ。帰りの道のりを考えれば、車に戻った方が賢明だろう。
彼はすっくと腰を上げ、ヴァンの方へ歩み寄った。
地面に転がったタンブラーを拾い上げ、それで伏せているヴァンの頭部をこつんと叩く。
「どうせやるんなら最後までやり通せよ……って、まぁ、てめぇには無理だな」
苦笑交じりのそれが撤収の合図だった。

 

 この休日。ドライブと称した二人きりの車内では、行きも帰りもラジオの音が途切れることはなかった。
防戦を余儀なくされる一方にとっては、その場を取り繕ってくれるありがたい存在だ。
帰り道の運転席には、ご機嫌な様子で口笛を吹いているアーロンの姿がある。
本来なら誘われた側の立場だが、肝心の運転手の方は精神的ダメージが計り知れない。
とてもハンドルを任せられる状態ではなく、彼が自ら運転を買って出ることになった。
助手席に座っているヴァンは、そんなアーロンを時どき覗ってはすぐに視線を逸らす。
全開にした窓から吹き込む風は、行きの道中よりもいくらか涼しくなっていた。
羞恥で火照った顔面を冷やすには丁度良い。
車窓を流れる風景は少しずつ都市部の色調が濃くなり始め、二人きりの時間も終わりに近づいているのが分かった。
まだ悶々とした気持ちの中、ヴァンはゆっくりとアーロンの横顔に焦点を合わせた。
今日は全く想定通りにはいかず、それどころか大いに醜態を晒してしまった。
それでも、一つだけ聞きたいことがある。
「なぁ……少しは埋め合わせになったか?」
元はと言えば、今回のデートはアーロンに対する詫びの一環だ。
だから、その評価だけは知っておきたいと思った。
「さぁ?どうだか……」
運転席の恋人はフロントガラスの先を見据え、喉の奥で静かに笑う。
「百歩譲って、及第点ならくれてやってもいいぜ」
言葉のわりには嬉しそうな声色が車内に響き、それを聞いたヴァンはホッと胸を撫で下ろす。
どうやら、一応は喜んでくれたらしい。
今はそれだけで満足だった。

 

2023.07.30

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