今、繋ぎ止めた想いを確かめて

 驚愕だとか畏怖だとか。
人の身がこの異形に対して感じる感情など、どうでも良かった。
夜明け前の濃紺は常闇と混じり合い、優しい色が浸食されていく。
耳障りな音は止むことを知らず、歪み始めた空間の中で別れを察知した。
──ふと、目が合った。
どこか困ったように笑っている。

「ああ、そうか」と、アーロンはそこで納得した。
思わせぶりな言動をするくせに、一歩踏み込めば途端に距離を置く。
いざ真っ向から攻めかかっても絶対に陥落はしない。
いつも、隠しようがない好意を不器用に誤魔化していた。
さっさと認めてしまえば楽なのに。落ちてしまえば楽なのに。
何度そう思ったか分からない。

 黎い大きな羽ばたきが、積み重ねてきた縁とその未練を断ち切ろうとしている。
アーロンは、想い人がずっと煮え切らない態度を取り続けた理由をようやく飲み込んだ。
目の前から彼がいなくなることで。

 

 そこで一気に目が覚めた。
ベッドで眠っていた赤毛の青年は勢いよく上半身を起こす。
「ゆ、め……か?」
じわりと滲んだ額の汗を手で拭い、そのまま不快げに前髪を掻き上げた。
時刻は深夜を回ったあたりで、薄暗い部屋の中は静寂に包まれていた。

「──なんだ、怖い夢でも見たのか?」

不意に穏やかな声が聞こえてきた。
相手を気遣いながらも、ほんの少しだけからかうような節がある。
それを発した男は窓辺に半裸の身体を預け、腕を組みながら外を眺めやっていた。
わずかに開いた窓の隙間から夜風が舞い込み、カーテンを緩やかになびかせる。
「……チッ」
アーロンはあからさまに舌打ちをした。
眠りに落ちる直前、彼は隣で微睡んでいたはずだ。
それなのに、知らぬ間に共寝から抜け出しているのが面白くない。
月明かりが霞んでいる今宵。
仄かな街明かりが差し込むだけでは、表情さえも読み取れない。
やはり面白くなかった。
「うるせぇな。勝手にベッドから出るんじゃねぇ」
あんな夢を見たせいか、数歩分しかない距離でさえも連れ戻したい衝動に駆られた。
「はい、はい……ご機嫌斜めかよ」
薄い闇の中、眇めた瞳が刺々しく光っている。
ヴァンは肩を竦めて苦笑しつつ、静かに窓を閉めた。
そして、夢見が悪い恋人の元へ足を向ける。
「うなされているようには見えなかったんだけどな」
ベッドの端に座った彼は、軽く身を乗り出してアーロンを覗き込んだ。
不機嫌に歪んだ頬をやんわりと叩き、宥めようとする。
「てめぇが離れたせいで、見たくもねぇものを見た」
「はぁ?なんで俺のせいなんだよ?」
恨みがましい非難の眼差しが突き刺さり、困惑したヴァンは咄嗟に手を引っ込めた。
それすらも気に入らないのか、アーロンが乱暴に腕を掴んで引き寄せようとする。
「おっ、おい!?」
体格や腕力で考えればヴァンの方に分があるのだが、今は完全に油断しきっていた。
抗う間もなく主導権を握られ、先刻まで身体を絡み合わせていた場所へ引きずり戻される。
「……逃げようとした。消えようとした。俺の前から」
ベッドが軋む音と共に、責めるような言葉の羅列が降ってきた。
それを聞いたヴァンは瞠目して喉を詰まらせる。
「そいつ、は……」
アーロンが何の夢を見ていたのかが、瞬時に分かってしまったのだ。
さっき、ほんの少しでも揶揄が混じったことを後悔する。
詫びのつもりか無性に触れたくなって、組み伏せてきた年若い青年の身体へ手を伸ばした。
かけるべき言葉を探しあぐね、ヴァンは無言で彼の肩口を優しく撫でた。
夜風で冷えた指先には、寝起きの体温が心地良い。
そんな仕草は自然とアーロンの険を和らげ、次に発せられた声は随分と落ち着いていた。
「あの時……俺はどんな顔をしてた?」
傍から見れば何の脈絡もないように思える問いかけ。
しかし、ヴァンは苦しげに顔を歪め、見下ろしてくる金色から視線を反らす。
「……覚えてねぇ」
人肌に触れていた片手がするりと落ちた。
「何も心の中に残したくなかった。本当は見るつもりなんてなかったのに……」
小さく動いた唇からは愁いを含んだ声が零れ落ちる。
空になった手の甲が、今度は自嘲気味に笑う目元を隠した。
「なんで、最後の最後に見ちまったんだろうな」
まるで独り言のような回顧は徐々に萎んでいき、掠れた語尾が二人の隙間に溶けていく。
それは、去り際に見た魔王の微笑と似ているような気がした。
アーロンは今になってヴァンの心情を知り、沸々と嬉しさが込み上げてくるのを感じた。
「はっ……未練たらたらだったんじゃねぇかよ」
あの末期の状況で、執着の欠片を見せるくらいに強く想われてる。
どうしようもなく頬が緩み、締まりのない顔になってしまいそうだった。
それを悟られたくなかった彼は、誤魔化すように恋人の胸元へ唇を寄せた。
一つ二つと甘噛みの痕を散らして、乱れ始めた心音を聞く。
「お前だって似たようなもんだろうが」
ぶり返してくる熱に引きずられ、沈んでいたヴァンの気持ちは上向きになっていった。
視界を閉ざしていた手が、覆い被さっている青年の背中に回される。
「あんなとこまで追いかけてきやがって」
口振りのわりには、素肌を辿る指先の動きが柔らかかった。
無造作に流れる赤い髪の一房を愛おしげに絡ませる。
「俺があんたを逃がすわけねぇだろ。舐めてんのかよ」
「ったく……諦めの悪いヤツに好かれちまったもんだぜ」
憎まれ口を叩き合いながらも、ベッドの中でじゃれつく二人の雰囲気は甘やかだ。
睦言にはそぐわない囁きが、湿った吐息を纏わせてシーツの海に広がっていく。

 

 窓の外は未だに夜が明ける気配もしなかった。
常夜灯はなく、カーテン越しの灯りもこの薄闇では役に立たない。
それでも、これだけ密着していれば互いの表情が簡単に読み取れる。
「……また、同じようなことがあっても絶対に逃がさねぇ」
今は宿主を離れている魔核の存在が頭を過ぎり、アーロンは歯ぎしりをした。
恋情が増せば増すほど、再び背を向けられることへの不安が付きまとう。
彼は抱き合ったままの状態で恋人の首筋に顔を埋め、ざわめく心を押さえ込もうとした。
「まぁ、俺もあの時よりはマシな判断をするさ」
「そういう言葉は信用できねぇんだよ……この前科持ちが」
燃えるような髪の先端に肌をくすぐられ、ヴァンが身動ぎをする。
アーロンに限らず、他の仲間たちからも詐欺だのと散々怒りをぶつけられたのだ。
自業自得とはいえ、今はどんな言い方をしてもまともに受け取ってはもらえないのだろう。
ヴァンは伏せた青年の顔に両手を差し入れて、いささか強引に掬い上げた。
「だったら、しっかり捕まえておいてくれよ」
至近距離で見合い、濃藍の瞳が思慕を滲ませる。
何か言いたげに動きかけた唇へ、自らのそれを深く重ね合わせた。

 

 ひとしきり戯れた後、二人はようやく毛布の中に潜り込んだ。
離れようとしないアーロンに対し、「いい加減に寝かせろ」とヴァンが遠慮なく蹴りを入れた形だ。
薄暗がりの天井を何気なく見つめ、ぼそりと口を開く。
「俺のことはともかく……水面下では不穏な気配だらけなんだよなぁ」
「アルマータの一件が終わっても、各勢力が暗躍してんのは変わらねぇしな」
「はぁ~、厄介な依頼は勘弁だぜ……」
心底かったるそうな溜息の後を、意地悪げな声が追いかけてくる。
「しっかり働けよ、所長さん。俺の給料が払えるくらいにはな」
アーロンはうつ伏せの状態で枕に乗りかかりながら、小刻みに肩を揺らした。
「やれやれ、いつまでお前を雇えばいいんだか」
困ったヤツだと言わんばかりの態度をされ、彼はつり上げた口角を歪ませた。
「──さあな」
いつだったか、ヴァンに話したことを思い出す。
この先、色々な街を見て回りたいと。各地の歓楽街巡りならば、なお楽しい。
いずれ煌都に身を落ち着けるにしても、それはずっと未来の話だ。
「そんなの……知るか」
しかし、あの時とは状況が変わりすぎてしまい、明るく語った願望はいつの間にか形を潜めている。
そんなことよりも譲れない想いがあった。
何よりも繋ぎ止めておきたい大事な人ができた。

 アーロンはおもむろに上半身を起こし、隣に横たわる寝際の男を覗き込んだ。
「今の俺は、どんな顔をしてる?」
なぜか、目を閉じる前にもう一度聞きたくなった。
ヴァンは少し驚いたようだったが、数拍もしないうちに静かな笑みを浮かべてくれた。
「そりゃぁ、クソ生意気そうなツラに決まってんだろ」
「……そうかよ」
予想通りの反応に満足そうな表情をした彼は、『おやすみ』の挨拶代わりに触れるだけのキスをした。

 今度は答えを聞くことができた。
あの夢とは違い、傍らには確かな存在がある。
それを実感したアーロンは、二人分の温もりを含んだ毛布に顔を埋め、ようやく眠りについた。

 

2022.05.22

error: Content is protected !!