硬貨一枚分の恋人たち

 東通りの町並みには、雑多な賑わいが良く映える。
今は昼時とあって、そこかしこから美味しそうな匂いが漂ってきていた。
そんな中を涼しげな容姿の少年が歩いている。
旧市街と隣接しているこの地区の住民たち、こと女性には有名な顔だ。
色付いた視線や声に対する仕草は洗練されたもので、それだけでも周囲から感嘆の息が零れる。
ワジは久しぶりにトリニティへ顔を出すつもりだった。
特務支援課の一員となってからは忙しい日々が続いていたが、幸いにも思わぬ形で空白が生まれた。
今は『本来の仕事』も小康状態になっている。
「ふふっ、折角のオフだからね。ゆっくりさせてもらおうかな」
普段は大人びた流麗な眼差しが、少しだけ幼さを見せて緩む。
そんな中、彼の耳を聞き覚えのある声が掠めた。
「はい、着いたよ。ここでいいのかな?」
「うん!ありがとう。お兄ちゃん」
とある民家の玄関先で、栗色の髪をした青年が小さな少女と言葉を交わしていた。
腰を屈めて目線を合わせている姿に、彼のさりげない配慮が垣間見える。
その後、少女はぺこりと可愛らしいお辞儀をし、家の中へ入っていった。
「やあ、リーダー。まだお仕事中かい?」
一部始終を微笑ましく眺めやっていたワジが声をかける。
「えっ?あ、ワジか」
不意を突かれた青年の肩が大きく跳ね上がった。
「いや、こっちも終わってる。あの子、港湾区で見つけたんだ。帰り道が分からなくなっちゃったみたいでさ」
「なるほどね。困ってる市民を助けるのは支援課の勤めといったところかな」
ロイドの説明を聞いたワジは、腕組みをしつつ納得した様子で何度か頷いたが、
「あ、やっぱり訂正。君ってばお人好しだから、肩書きとか関係ないよね」
すぐに意地悪げな微笑で上書きをした。
「……うっ。だって泣きそうな顔してたし、放っておけないだろ」
そんな揶揄に図星を指されつつ、ロイドは膨れっ面で年下の同僚を睨めた。
「はいはい。だけど、程々にしておいたら?午後が空く日なんて貴重なわけだし」
ワジは真面目で優しい彼の心根を宥め、やんわりと釘を刺す。
すると、機嫌を損ねているロイドの表情がいきなり喜色へ変化した。
「それ!そうだよな、貴重なんだよな!早く戻らないと」
「あれ?なんだか楽しそうだね」
あまりの急変ぶりに面食らったワジが、表面上は平静に探りを入れる。
人のプライベートを詮索する趣味はないが、こうも嬉しそうな顔をされては気になってしまうのも無理はない。
「港湾区で何かあるのかい?」
言葉の端々から推測し、彼がその場に用があるのは間違いないだろう。
すると、ロイドは弾む声を抑えようともせずに返答してきた。
「ランディと待ち合わせをしてるんだ!」
「──へぇ?」
ワジは目を瞬かせてから無言になったが、その後で堪えきれずにくすくすと笑い出した。
「デートってわけか。相変わらずお熱いね」
「え?違うって。ちょっと付き合って欲しいことがあるんだ」
しかし、茶化したつもりが意外にも真顔で返されてしまった。
嬉々とした雰囲気は変わらず、そこには照れ隠しの意図が一切感じられない。
「……彼、仕事中は何も言ってなかったけど」
午前中はランディと一緒にいたが、特に浮かれた様子はなかった。
あの性格なら惚気て吹聴してきそうなものだが。
ワジは眉を顰めて考え込んでしまった。
今日の午後が休みになると決まったのは、昨日の夕飯時のことだった。
なんでも、通信設備に不具合が生じたため、緊急のメンテナンスが入る予定になったとのことだった。
支援課で使用している端末も影響を受けるので、一時的に支援要請のやり取りができなくなる。
そこで、通信環境が維持される午前中で仕事を切り上げる運びとなったのだ。
一夜明けて、今日の朝。
朝食とミーティングを兼ねて支援課の全員が顔を揃えた時も、二人はいつも通りだった。
どうにも腑に落ちない。
改めてロイドを覗うと、はやる気持ちを抑えきれないのか、面白いくらいにそわそわしていた。
「あのさ、ワジ。そろそろ行きたいんだけど」
「あぁ、これからお楽しみだっていうのに引き止めて悪かったね」
「だから、そういうのじゃない」
ワジがわざとらしくからかうと、ロイドの口がへの字に曲がる。
だが、それも一瞬。すぐに軽やかな足取りで港湾区へ向かって行った。
「……あの浮かれっぷりでデートじゃないって、どうなのさ?」
そんな彼の後ろ姿を見送ったワジは、人知れず肩を竦めて苦笑した。

 

 今日は朝から良い天気で、街中に柔らかな陽光が降り注いでいる。
オープンカフェで食事をするには絶好の環境だ。
向かいに座っている最年少の同僚は、さっきから食事の手が止まっている。
ランディは頬杖を付きながら、半ば呆れた様子で口を開いた。
「なぁ、いい加減食っちまえよ」
「……この絶妙なフォルムが可愛すぎます。さすがはオスカーさんですね」
みっしぃの顔を模ったパンを凝視している少女から、賞賛の息が漏れる。
「気持ちは分かるけどな、そういうのは食ってこそじゃね?」
「それはもちろん……ですが。なかなか心の準備ができません」
どうやら見た目に絆されてしまい、パンを囓る決心が付かないようだ。
モルジュの店内で昼食用のパンを吟味している時、つい条件反射でトングが伸びてしまった。
今は嬉しさの中で、ほんのちょっぴり後悔をしている。
ティオはさり気なくランディのトレーを見た。
彼は早々と食事を済ませ、残り少なくなったジュースを啜っている。
「ランディさんはこれから歓楽街ですか?でしたら、私にお構いなく」
なんだか待たせているような気がしてしまい、申し訳なさが先に立った。
「遊びっつーか、これからロイドくんと待ち合わせ」
すると、予想だにしていなかった返事があった。
大きな瞳は完全にみっしぃから外れ、目の前にいる男へまじまじと注がれる。
「……デートですか?」
「そう言いたいとこだが、残念ながら違うんだよなぁ」
ランディは言葉通りの感情を顔面に滲ませた。
「でも、待ち合わせですよね?」
疑問符を浮かべる少女を一瞥し、口角を歪めながら腕時計を確認する。
「まぁ、な……おっと、さすがにやべぇか」
どうやら時間が迫っているようで、寛いでいる姿から一転、勢いよく椅子から立ち上がった。
「先に行くぜ。それ、ちゃんと食えよ」
空になったトレーを片手で持ち、もう一方の手で水色の頭をぽんぽんと叩く。
そして、まだ首を傾げている彼女に小声で何かを言った後、その場から去っていった。
「なんというか……ロイドさんらしいですね」
離席した大きな背中がちっとも嬉しそうには見えず、それが可笑しくて堪らない。
「でも、やっぱりデートだと思います」
ティオは密かに微笑みつつ、再びみっしぃのパンと向かい合った。
自覚のない恋人たちの緩さに当てられ、睨めっこの緊張感はどこへやら。
このまま気負いなく最初の一口を囓ることができそうだった。

 

 真面目なロイドとの待ち合わせで遅刻など、極力したいとは思わなかった。
後からどんなお小言が飛んでくるか分からない。
ランディは足早に港湾区へ向かったが、残念ながら約束の時間は数分ほど過ぎてしまっていた。
「はぁ……のんびりしすぎちまったな」
ベンチの側で落ち着きなく彷徨いている青年を見つけ、彼は腹を括った。
非があるのはこちら側なので、怒られるのは仕方がない。
──はずだったのだが。
開口一番で謝るつもりだったランディよりも早く、ロイドが駆け寄ってきた。
「ランディ!お疲れさま」
「お、おう……お疲れさん」
礼儀正しく相手を労う声が元気に響く。
「遅れちまって悪かったな」
出鼻をくじかれて戸惑いながらも謝罪をすると、ロイドは目を丸くして近くの時計を見上げた。
「あれ?過ぎてたのか。全然気がつかなかったよ」
「なんだ、それ。いつもは時間にうるさいくせに」
珍しいこともあるものだ。
ランディは一気に肩から力が抜けていくのを感じた。
そこへ、抱き付きそうな勢いのロイドが距離を詰めてくる。
「だって、嬉しすぎてさ。時間なんて頭から抜けてた」
その場で飛び跳ねてしまいそうなくらいに、感情が溢れ出していた。
全開の笑顔がきらきらと輝いている。
(……なんか、犬っぽくね?)
危うく声に出そうになる所をなんとか抑え、ランディは胸の内でぼそりと呟いた。
ロイドの姿が、これでもかと言わんばかりに喜びを表現する犬と重なる。
ぶんぶんと尻尾を振りまくっている幻覚が見えてきそうだ。
(くそっ、可愛いとか言っちまいてぇ)
思いも寄らない態度を取られ、栗色の髪を思いっきり掻き混ぜてやりたい衝動に駆られる。
「どうしたんだよ?早く行こう」
急に唇を引き結んで無言になってしまった彼を、ロイドが訝しんだ。
しかし、こんなやり取りをする時間さえも惜しいのか、すぐさま袖を掴んで急かす。
まるで飼い主との散歩を待ちきれない犬のようだ。
ランディは頭を振って強引に惚気た妄想をリセットするしかなかった。
「──それで、どこでやるんだ?」
「東クロスベル街道だな。あの辺なら奥に行けば拓けてるし」
ロイドは考え込むような仕草を見せたが、きっと『その場所』は予め決まっているに違いない。
ランディは浮かれた足取りの青年を宥め、道中を彼に委ねることにした。

 

 他愛のない会話を交わしながら、綺麗に舗装された街道を並んで歩く。
途中で定期運行のバスや数台の導力車とすれ違ったが、それ以外は静かなものだった。
昔と比べれば移動手段も増え、徒歩で街道を行く一般市民はまばらだ。
長閑な風情の中、時折吹き抜けていく風が心地良い。
相変わらず嬉しそうにしているロイドの横で、ランディは今朝のことを思い出していた。

 一階でミーティングを終えた後、身支度を整えるためにそれぞれが自室へ戻っていった。
ロイドとセルゲイはテーブルの横で立ち話をしていたが、それはいつもの朝の風景だ。
ランディはさして気にも留めず二階へ上がり、自室のドアノブに手をかけた。
すると、急に慌ただしい足音が駆け上がってた。
「ランディ、ちょっと待ってくれ」
「なんかあったのか?」
何事かと顔を引き締めたが、ロイドの表情にそこまでの緊迫感はなかった。
「あ、そうじゃなくて。今日の午後って空いてるかな?」
彼はわずかに逡巡したが、率直に用件を切り出してきた。
「ちょいと遊びに歩こうかってくらいで、特に用はねぇな」
こうやってロイドの方から声をかけてくることは珍しい。
ランディは驚きと嬉しさが混じり合う中で、恋人としての淡い期待を隠せなかった。
「で、なんのお誘いをしてくれるわけ?」
そんな心情もあり、意味深げな問いを返してみたくなったのだが。
次に聞こえたロイドの言葉は彼を大きく裏切るものだった。
朝っぱらから、これ以上ないくらい盛大な溜息が出てしまうほどに。

 まるでつい数分前のやり取りだったような気がする。
いつの間にか街道から脇に逸れ、草を踏み締める音が深くなっていた。
(……ぬか喜びさせやがって。マジで色気の欠片もねぇな)
彼としてはもう少し大人のお付き合いをしたいのだが、相手はまだまだお子様だと認識せざるを得ない。
木々がさざめく合間に小鳥の囀りが聞こえ、ランディは微かに表情を緩めた。
(それはそれで、可愛いことには違いないんだが)
徐々に視界が明るくなり、拓けた場所へ駆け出していく愛しい背中を眺めやる。
「しょうがねぇから、いっちょ揉んでやるか」
彼は手元でスタンハルバードの感触を確かめ、一度軽く振ってからのんびりとロイドの後を追った。
街道から離れた閑散とした場所で、今は二人きり。
どんな形であれ彼を独占できる状況なのは事実で、沸々と嬉しさが込み上げてきた。
「こうやってランディとやり合うのは久しぶりだな。付き合ってくれてありがとう」
互いに距離を取って対峙する。
ロイドは愛用のトンファーを器用に一回転させ、律儀に礼を口にした。
「まぁ……イチャつけないのは残念だが、たまにはこういうのも悪くねぇ」
どうしても未練が残り、それを言葉の端に滲ませたランディは、おもむろに上着のポケットを弄った。
「それじゃ、早速……」
「おっと。そんなに急くなよ」
すぐにでも始めたいロイドは武器を構えたが、相手は悠長に立ったままで体勢を整えようともしない。
「どうせなら、こいつで始めようぜ」
彼はポケットから何かを取り出し、それを親指で真上に弾いた。
「それ……コイン?」
頂点で太陽を受けた金属が輝き、そのまま重力に任せて落下する。
ランディは胸元のあたりで容易く硬貨を掴み取って、にやりと笑った。
「こいつを弾いて地面に落ちた瞬間、互いに仕掛けるってことでどうよ?」
「でも、それってランディの方が不利じゃないか?」
彼の提案に乗ろうとしたロイドだが、ふとした疑問が生じた。
硬貨を弾いた後では、動き出しが遅くなってしまう可能性がある。
それでは対等と言えない気がした。
「リーチの差を考えたら、妥当だと思うぜ」
「……ハンデのつもりなら、いらない」
ランディは互いの戦闘スタイルを鑑みて返答をしたが、ロイドにはそれが面白くなかった。
トンファーを強く握りしめ、仏頂面で相手を睨みつける。
「ははっ、そうじゃねぇよ。ちょっとした遊び心ってやつ」
別に軽んじているわけではなく、手を抜くつもりなど毛頭ないのだが、この手のやり取りにロイドはいつも過剰な反応を示す。
ただ真っ直ぐに背中を追ってくる気配は心地良く、ランディは嬉しそうに自らの獲物を構えた。
「手加減はなしだ。覚悟しとけよ」
「分かった」
陽気な翠に宿った好戦的な眼差しは、ロイドを納得させるのには十分だった。
改めて臨戦態勢を取った彼に向けて硬貨を握った手を突き出す。

勢いよく親指で弾き飛ばした硬貨が空中で煌めいた。
スタートはほんの一刻。
背の低い草むらに落ちた微かな合図を聞く。
刹那。互いの足が勢いよく地面を蹴り上げた。

 

 住民たちが出払っている支援課ビルに、一つだけ人の気配がある。
迷いなくキーボードを叩く音が静かな部屋に響いていた。
無事にみっしぃパンとの格闘を終えたティオが、端末の前に座っている。
半日が休みになったとはいえ、メンテナンスが入るとなれば気になってしまうようだ。
昼食の時、ランディに午後の予定を聞かれて返答したが、
「お仕事は程々にて楽しいことしとけよ~」
などと言われてしまい、少々納得がいかない。
彼女にとって、画面を流れる数字や文字列の羅列は落ち着く光景だ。
今は、いつも面倒を見ている端末とじゃれ合っている感覚すらあった。
そんな風に遊んでいる最中。
玄関の扉が開き、おっとりした声が室内に広がった。
「こんにちは~。お邪魔しますね」
「こら、フラン。待ちなさいってば!」
柔らかなピンクブラウンの髪が、扉の隙間から顔を覗かせる。
「あっ、ティオちゃん」
「お二人とも、どうしたんですか?」
仲睦まじい姉妹の登場に、ティオが驚いて腰を浮かす。
「お疲れさまです。えっと……この子があたしの部屋見たいって言い出しちゃって」
妹の後を追って入ってきたノエルが困り顔で笑った。
「なるほど。フランさんは前々から休日だと言ってましたね」
「あたしの方が空いたのは急だったので、重なるのはほんと偶然ですけど」
「えへへっ、お姉ちゃんと一緒~」
大好きな姉と過ごせるとあって、フランの喜びようは傍から見ても微笑ましいくらいだ。
ついティオの口元も綻ぶ。
「うるさくてすいません。あ、もうメンテナンスは終わったんですか?」
ノエルは申し訳なさそうに言いながら、端末のディスプレイが煌々としているのを目に留める。
「はい、予定よりも随分早かったみたいですね。こちらの方も問題なさそうです」
彼女はすでに一通りの動作確認を済ませていた。
すっかり寛ぎモードに入っているのが姉妹の目から見てもよく分かる。
「それじゃ、ティオちゃんも一緒にお茶しよ~」
フランは手に持っている可愛らしい紙袋を胸元に引き上げ、綿菓子のように笑った。

 テーブルの上に広げた焼き菓子を頬張り、紅茶をひとくち。
女性が数人集まれば話に花が咲くものである。
その中でもフランの浮かれっぷりは最高潮だ。
「うん、うん。お姉ちゃんって感じの部屋だよね」
「もう……別に初めてじゃないでしょ」
落ち着きのない妹の言動は、自然とノエルの溜息を誘う。
「あっ」
しかし、彼女はその姿にある既視感を覚えた。
「そう言えば、午前中のロイドさんもなぜか浮かれていたような……エリィさんも怪しんでいました」
「え~、何か良いことあったのかな?」
なんとなく天井を見上げて呟くと、フランが目を瞬かせる。
「──それは、ランディさんと待ち合わせの予定があったからではないかと」
姉妹の疑問はティオの一言で瞬時にして解決へ向かった。
思わず身を乗り出してきた二人に対し、彼女は淡々とモルジュでのやり取りを説明してみせた。
「う~ん、ランディ先輩が嬉しそうじゃないなんて意外です」
「恋人同士で待ち合わせしてるなら、デートだと思うなぁ」
「……ですよね」
どうやら、全会一致のデート認定が下ったようだ。
ティオは自分の認識が間違っていないと分かり、ホッと胸を撫で下ろした。

 

 始まったばかりの頃は、羽根を持つ観客たちが木々の上で明るく歌っていた。
次第に白熱して空気が振動する度、一羽また一羽と羽ばたき去っていく。
しかし、二人には関係のないことだった。
硬貨が落ちた瞬間から、互いの姿しか目に映っていない。
金属同士が激しくぶつかり火花を散らす。
『手加減はなしだ』と言ったのは本当だったのだろうか?
ロイドは熱を発する中でわずかに戸惑っていた。
スタンハルバードの柄が真っ向からトンファーとかち合っている。
赤色と栗色の前髪が今にも触れそうな至近距離。
ここまで詰められては攻勢に出られず、角度を変えて力を受け流す。
その隙に間を作ろうとしたが、またすぐにランディが突進してきた。
「おいおい、逃がさねぇぜ」
勢いよく振り下ろされた打撃は予想以上に重く、ロイドが歯を食いしばりながら踏ん張る。
ギシギシと全身が軋み、トンファーにヒビが入るのではないかとすら危惧した。
「ぐっ!なん……だよ!?俺みたいなことしやがって!」
燻っていた違和感が荒ぶる声になって吐き出される。
ランディの戦いぶりは、完全にリーチの差を無視したものだった。
しきりに近接戦へ持ち込もうとする動きは、ロイドの戦闘スタイルに近い。
「そんなに熱いかよ?」
憤慨して火が灯る瞳をあざ笑っているかのように、唇の端がつり上がった。
「だが、そこまで真っ直ぐじゃねぇんだよな」
押し付けるようなプレッシャーがほんの一拍だけ弱くなる。
直後、長い柄の先端が地面すれすれでロイドの足元を強襲した。
「うわっ!?」
不意打ちの足払いだ。
ロイドは機転を利かせ、咄嗟に後方へ飛び退いてそれを回避する。
「ランディ!それ、卑怯だろ!?」
「禁止事項のすり合わせはしてねぇぜ。少しは狡くなれよ」
ようやく距離を取れたロイドは、トンファーの持ち手を爪が食い込むくらいに強く握りしめた。
ランディの言うことは尤もで、無意識に唇を噛んだ。
命のやり取りをする戦場では、ある種の狡猾さも必要だと理解している。
彼自身、それが苦手であることは自覚しているつもりだが、面と向かって言われると腹が立つ。
相手が『今』を楽しんでいるのが明白なだけに、尚更だった。
まだ──彼の背中には届かない。
そう思うと、一気に悔しさが込み上げてきた。

 そろそろ、じゃれ合うのも終わりだろう。
対峙するロイドの表情は、観察するまでもなく分かりやすかった。
「……そのまま突っ込んでこいよ」
ぺろりと唇をひと舐めし、ランディが小さな呟きを残す。
待ってやるつもりなど一切なかった。
ロイドが動き出す兆候を察知し、スタンハルバードが唸りを上げる。
火竜にも似た焔が威嚇の大口を開けて放たれた。
先手を撃った後、間髪を入れずに脚が走って追撃の構えに切り替える。
彼は、ロイドなら真っ向から受け止めてくるだろうと思っていた。
そのまま力任せに吹き飛ばすつもりで、渾身の一振りを打ち下ろす。
だが、
ほんの一瞬、視界から彼の姿が消えた。
「はっ!?」
質量のある武器の上部が振り落ちる間際、そこを紙一重で栗色の頭がすり抜けてくる。
強打による風圧で数本の髪の毛が散ったが、気にも留めず一気に懐へ潜り込んできた。
「お返しだ!!」
息を吐く間もなく身体を屈め、片脚で容赦なく相手の足首を真横に払う。
「うおっ、マジかよ!?」
大音声がランディの耳を貫き、視界がぐるりと回った。
反射的に受け身を取ろうとした矢先、トンファーを構えたロイドに体当たりをされ、もつれるようにして地面に背中を打ち付ける。
「あー、くそっ……お前は猪かっつーの」
彼はすぐさま身体を起こそうとしたが、それよりも早く上から人の重みがのし掛かってきた。
「よし、取ったぞ!」
嬉々としたロイドの声が、二人だけの空間で天を突く。
驚いて見開いた翠色の両眼が、身体を乗り上げて見下ろしてくる得意げな童顔を捉えた。
片方のトンファーで首元を押さえ付けられ、見事に動きを封じられている。
完全にしてやられた気分だった。
あの僅かな隙間へ入り込もうとしてきた度胸に舌を巻く。
タイミングを誤れば致命傷になりかねない行動を、ロイドは難なくやってのけてみせた。
それは、恐怖に打ち勝つ強い心を持っていることの顕れでもある。
本当に、惚れ惚れするくらい格好良い相棒だ。
「……ランディ?あれ?俺、やりすぎちゃったか?」
組み伏せた男はただジッと見つめてくるだけで、心配になったロイドが眉を寄せて覗き込んだ。
「そんなにヤワじゃねぇよ。だが……」
ようやく口を開いたランディは、好戦的な野味が薄れて普段の顔に戻りつつあった。
「まだまだ詰めが甘いな。このまま形勢逆転してやろうか?」
しかし、体勢が崩れた状態でも自分の武器と戦意は手放していない。
しっかりと手に持っているそれをわざとらしくひと撫でしてみせた。
「何言ってんだよ。それ以上動いたら首の骨が折れるぞ」
途端に首元にかかる力がじわりと強くなる。
「くくっ……過激なこと言ってくれるねぇ。そういうのは嫌いじゃないぜ」
ロイドの警告をどう捉えたのか、彼は嬉しそうでいてどこか意地悪げな色を滲ませた。
「それと、真っ昼間から堂々と押し倒してくるのも大歓迎だ」
「へっ?あ、いや、それは……っ」
急にそんなことを言われてしまい、ロイドは驚いて前のめりになっている上半身を勢いよく引き上げた。
「そ、そういうつもりじゃなくて!」
そのまま、脱兎のごとく飛び退いて距離を取る。
だが、慌てた彼の視界へ焔の色が一気に躍り込んできた。
力の緩んだ手元に打撃を受け、一対のトンファーが弾け飛ぶ。
瞬きをする間もないくらいの速さだった。
ロイドは自分の身に何が起きたのか、すぐには理解できなかった。

「つれねぇな。そこはキスの一つくらい落としてくれよ」

 地面に響いた落下音の後、上から笑いを含んだ声が降ってきた。
首元にひんやりとした金属の感触がして、彼の顔が驚愕を露わにする。
「なっ、なんでこうなるんだよ!?」
「悪ぃな~。お返しのお返しっつーことで」
ついさっきの状況が、人物と武器が入れ替わった形で見事に再現される。
一つだけ違うのは、スタンハルバードの柄で押さえ付けてきた男の中に、色情めいた香りがあることだけだ。
「……やっぱり狡い」
体格と腕力で勝る相手に動きを封じられたら、お手上げた。
ロイドは顔いっぱいに不満を広げ、恨めしげな声を絞り出す。
「お前は反応が素直すぎんだよ」
「そんなこと言ったって……」
放っておけば延々と文句を言いそうな唇を、かさついた親指が宥めるように撫でてくる。
拗ねた瞳が少しだけ穏やかになって揺らめいた。
ランディの意図が分からないほど子供ではないし、悔しいけれどこうやって触れられるのは心地良い。
「まぁ、そういうのは──」
赤い髪の先が頬をかすめ、指ではない柔らかな肉感が静かに重なる。
『好きだけどな』と、声には出さない言葉の続きが、口づけを伝って聞こえてくるような気がした。

 

 姿を消していた小さな観客たちが、いつの間にか戻り始めていた。
二人が甘い舌先で睦み合っているを見ているのか、いないのか。
一際澄んだ鳴き声が色鮮やかに響き渡る。
(……っ?あ、ここ……)
頭の中まで痺れそうな熱に浮かされていたロイドは、この場所が外だということをすっかり失念していた。
鳥の音で一気に覚醒した途端、怒濤のように羞恥が押し寄せてくる。
「ラン……ディ、だめだ……って!」
濡れた吐息が混ざり合う中、覆い被さる身体を退けようと必死に腕を伸ばす。
「ここ……外だから!」
「ん~、別に誰もいねぇしなぁ」
そんな彼に対し、ランディは暢気なものだった。
器用に体重をかけ、片腕だけでスタンハルバードを押し付けたまま、もう片方でロイドの制止を難なく遮る。
指先に小さく歯を立ててみれば、首元からの熱が密着した武器に伝導していくような錯覚を起こした。
気楽に戯れるだけなら、この欲情はどうしたって危うすぎる。
赤毛の男はそれを承知の上で、恋人の身体に触れていた。
もちろん、自制できるギリギリの線はきっちりと見極めているつもりだ。
「そ、そういう問題じゃない!」
組み伏せた幼い顔が視線を彷徨わせ、ここから逃れる言葉を必死に探している。
それを見つめるランディの双眸が、にわかに優しく崩れた。
「お前さぁ、必死すぎんだろ。軽く遊んでただけだからな」
弄っていたロイドの指を名残惜しそうに手放し、ゆっくりと身体を引き起こす。
二人を重ねていた基点を握って持ち上げると、不意にロイドが声を上げた。
「──あっ、そうだ。さっきのあれ!」
彼はこの難局を回避するため、一心不乱で頭を回転させている最中だった。
そのせいか、熱っぽい束縛が解かれていることに気が付いていない。
「ランディが投げたやつ、探さないと」
圧迫感がなくなった身体を跳ね上げた後、地面に膝を落とした姿勢で辺りを見回す。
「……おい、なんなんだよ……そのタイミング」
その横から気の抜けた溜息が返ってきた。
いつの間にかランディは、地に胡座をかいて寛いでいる。
「だって、あれはランディのコインだろ?」
「一枚くらい大したことねぇよ。そもそも、俺が言い出したことだしな」
「でも、お金はお金だし」
当人はまるで気にしていないのだが、ロイドの方は納得がいかないらしい。
跳ね飛ばされたトンファーを拾ってから、手合わせを始めた地点へ足を向ける。
「う~ん……この辺だと思うんだけどなぁ」
しゃがみ込んで探してはみるものの、短い草が生えているせいで見つけるのは容易ではなさそうだ。
ランディはその様子をしばらく眺めていたが、ついには痺れを切らして腰を上げた。
「いい加減に諦めろよ。日が暮れちまう」
地面と睨めっこをしている背中へ歩み寄り、首根っこを掴んで強引に起立させる。
「だったら、俺が返すよ」
彼の言うとおり、空を見上げてみれば太陽は大分傾いてきている。
しかし、ロイドは真面目な性分だ。全てをなかったことにはできそうもない。
振り向いて年長の男を見上げた顔は、申し訳なさでいっぱいだった。
「あ~、そういうのはいらねぇから」
ランディは栗色の髪を一つ掻き混ぜてそう言ったが、この青年がわりと頑固なことも熟知していた。
だから、代わりの案を提示してみせる。とびきり自分に有利な方向へと。
「なら……この後、コイン一枚分の時間は俺によこせよ。それでチャラだ」
「え?それって……」
言葉の意味を図りかねたロイドを前にして、ランディは少しばかり強引に話を切り上げた。
愛用のスタンハルバードを肩に担ぎ、この場から去るべく踵を返して歩き出す。
「取りあえず、なんか軽く食いに行こうぜ」
まだ夕食には早い時間帯だが、実戦さながらの手合わせをすれば多少は腹が減るものだ。
特に急いでいるわけではなく、のんびりと草地を踏んで歩みを進める。
困惑してその場に立ち尽くしている相手を待つつもりはないらしい。
「えっと、奢れってこと……じゃないな」
一方、置いてけぼりのロイドは頭の中を整理しようとしていた。
わざわざ『時間』と言った意味を考えてみる。
そんな彼の耳が、わずかな向かい風に乗ってくる鼻歌を捉えた。
なんとか聴き取れるくらいの小さなそれは、とてもご機嫌な曲調だ。
「……あっ、そうか」
そこで、やっとランディの胸中を垣間見る。
同時に、今朝の廊下で交わしたやり取りを思い出してしまった。
鍛錬に付き合って欲しいと言った時の、あからさまに落胆した様子を。

「ランディ!待てよ!」

 ロイドは声を張り上げて走り出した。
少し遠退いた男の背中がピタリと止まる。
「なぁ、『一枚分』ってどれくらいなんだ?」
開いた距離はさほどでもなく、ものの数秒で追いついて問いかける。
ランディは意表を突かれて言葉を失った。
「大した時間にはならな……っ!?」
けれど、硬貨と時間を換算してくる律儀なロイドに反発し、素早く身体が動く。
噛みつくような口づけで声を塞ぎ、離れ際に不敵な笑みを浮かべてみせた。
「あれ、結構レア物なんだぜ?製造数が少ないらしくてよ」
「う、うそ……だろ?」
もしかして、とても高価な代物を放置してきてしまったのだろうか。
ロイドは半信半疑で今しがたまでいた場所を振り返った。
そのまま探しに戻ってしまいそうな気配すら窺える。
「さて、どうだか?ちなみにどれくらいってやつの答え……」
けれど、ランディの方はそれを許すほど寛容にはなれなかった。
いつまでもこんな味気のない場所に留まるよりは、さっさと街に戻りたい。
そんな気持ちが恋人の腕を掴み、耳元に唇を近づけさせる。

「さっきの続きが『本気の遊び』で終わるまでな」

 どうせ周囲の仲間たちからはデートだと思われているのだ。
それならば、率先してご期待に添ってやればいい。
囁いた声音は蕩けそうに甘やかだった。

 

 先刻まで二人の男が武器を絡ませていた一画は、すっかり静けさを取り戻していた。
暖色へ変わりつつある陽光が、荒れた草地を優しく撫で回す。
きらりと、何かが光った。
木々の枝先に止まった数羽の鳥たちが、興味深げに舞い降りてくる。
小首を傾げて草の隙間を覗く彼らにあるのは、ただの好奇心。
それがどれくらいの価値を有するかなど、どうでもいいことだった。

 

2022.05.04

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