下の階にはすでに人の気配がある。
先ほど隣の部屋から扉が開く音が聞こえたので、ロイドで間違いないだろう。
次に三階から降りてくる女性の足音が二つ。微かに楽しげな話し声が聞こえてくる。
「あ~、なんかいまいちなんだよなぁ~」
建物の中に同僚たちの動きを感じ取りながら、ランディは自室で独りごちた。
クローゼットを開けたまま、扉の内側に設置されている姿見と睨めっこをしている。
後ろで一纏めにしている長髪を解いて頭を一振りした。
周りから見ればいつも通りで特に問題はない姿だったのだが、どうやら本人は結び方が気に入らないようだ。具体的にどこがというよりも感覚的な問題なのかもしれない。
そうこうしている内に、一階からは賑やかなやり取りが聞こえ始めていた。
「やべぇ……あいつにどやされる」
特務支援課のリーダーは真面目な性格である。
皆が集合しているのを知りつつ、のんびりと身支度でもしていようものなら、小言の一つでも言われかねない。
更にはエリィとティオからの追撃も想像できた。
ランディは結び方への拘りを諦めて素早く髪を纏め直す。
ロイドだけであれば軽く受け流すのだが、彼女らを敵に回すのはちょっと怖い。
「仕方ねぇな。これで行くか」
彼が女性陣に頭が上がらないのは、支援課の結成当初から変わらない。
慣れた手つきで愛用のスタンハルバードを持ち出し、ようやく自室から出て行った。
少しだけ急ぐ振りをしながら階段を降り、愛想笑いを浮かべて年下の同僚たちを見回す。
「悪ぃ、悪ぃ、待たせたな」
軽い調子で声をかけると、テーブルの脇に集まっていた三人が一斉にランディの方を向いた。
「遅いわよ、ランディ」
彼の予想に反して最初に咎めてきたのはエリィで、腕組みをしながら小さなため息を吐く。
「なかなかビシッと決まらなくてよぉ~」
それをヘラヘラとかわす横で、ティオがロイドに声をかけた。
「ロイドさん、あれは遅すぎなランディさんに持たせては?」
「でも、課長から頼まれたのは俺だしな~」
「真面目すぎです。今日の前半は一緒の任務ですし、こき使ってしまえばいいのではないかと」
二人の会話はランディの耳にも届いたが、内容がさっぱり分からない。
「なぁ、お嬢。あいつらの会話が不穏なんだけど?」
「ロイドが課長から雑用を頼まれているのよ。書類の入った段ボールを警察署に持って行って欲しいらしいわ。確か……二箱だったかしら?」
すると、エリィが説明をしてくれた。
「そうだな。まだあっちの部屋に置いてあるんだけど」
続けてロイドが肩を竦めながら課長の部屋に視線を向ける。
「はぁ?こっちも忙しいんだから、そのくらい自分で持ってけよ」
「それについては同感です」
ランディはあからさまに不満げな反応を示し、語尾を待たずにティオが頷いた。
「まぁ、まぁ。そんなに大した量じゃないしさ」
支援課のリーダーはそんな同僚たちを宥め、ふと壁の時計に目をやった。
今日は特に時間を定めているわけではないが、そろそろ頃合いだろう。
「それより、もう出た方が良さそうだな。二人は先に行ってくれ。こっちは書類の件もあるし」
「そうね。そちらはお願いするわ。ティオちゃん、行きましょう」
「はい、久しぶりに一緒ですね」
午前中の支援要請はそれぞれ二組に分かれて処理をする予定だ。
午後は単独行動になってしまうが、それでも二人はどこか嬉しそうな足取りで外へ出て行った。
「──で、俺はこき使われればいいのか?」
彼女らを見送った後、ランディは冗談交じりで問いかけた。
ロイドは外出前にもう一度今日の予定を確認しておこうと、端末を操作している。
「う~ん」
返事はすぐに返ってこなかった。
小さく唸りながら数々の要請が並ぶ画面を見つめている。
「どうした?」
何か問題でもあるのかと、彼の側に近寄って横から顔を覗き込む。
「……たまにはみんな一緒がいいな」
ロイドが独り言のように呟いた。
クロスベル再独立後の目まぐるしい日々も徐々に薄れつつあるが、特務支援課に寄せられる案件は後を絶たない。
近頃は個々に動いているのが常で、今日のような体制の方が珍しいくらいだった。
「なんだよ、急に。寂しくなっちまったのか?」
その横顔が幼い子供のように見え、からかう気が削がれてしまったランディの双眸は柔らかい。
「前は……ずっとみんなでクロスベル中を走り回ってたな~と思って」
教団の事件からこの方、数々の支援要請を一緒にこなしてきた。
互いに不足している部分を補い合い、地道に一歩ずつ経験を積み重ねて今に至る。
立ち塞がる大きな壁に足掻き続けた年月の中、ふと周りを見れば、そこにはいつだって仲間たちの姿があった。
「だな。懐かしむほど年数が経ってるわけじゃねぇのに、随分と昔のことみたいに感じるぜ」
ランディは静かにそう言った後、画面から視線を外そうとしない同僚の頭を軽く掻き混ぜた。
「まぁ、あれだ。今はそれなりに成長したってことだろ?それぞれ単独でも任せられるくらいには」
適材適所と言ってしまえばそれまでだ。
けれど、そんな一言では表せない感慨とほんの少しの寂しさが入り交じる。
言葉の端に滲み出る感情はロイドにも伝わり、彼はようやく端末の電源を落として画面に背を向けた。
「そうだよな。なんか……ごめん。これから仕事だっていうのに」
「気にすんなよ。ほら、今日も元気にお勤めといこうぜ」
湿っぽい言動を謝る背中を一つ叩き、ランディはニカッと笑った。
そして、スタンハルバードをテーブルの上に横たえ、課長の部屋に足を向ける。
「あ、ランディ。書類は俺が持っていくから」
「いや、ティオすけのご指名だしな。あと、リーダーを寂しがらせたお詫びってやつ?」
引き留めようとして追いかけてくるロイドを制しながら、茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる。
「うっ……」
案の定、彼は言葉に詰まり足を止めた。
その隙に素早く目的の物を持ったランディが戻ってくる。
「意外にかさばるな、これ」
書類が詰まった箱を上下に重ね、それを両手で抱えている。高さは顎の辺りで収まっているので、このまま歩く分には問題なさそうだ。
「やっぱり俺も持つよ。一個ずつで丁度いいだろ?」
「俺的には丁度よくねぇな。ここはお兄さんに任せておけよ」
ロイドは慌てて駆け寄ったが、彼にはまるで譲る気がないようだ。
納得がいかないとばかりに抗議の視線を送ると、
「代わりに、それ持ってくれるとありがたいんだけど」
ランディはテーブルの上に置いた愛用の武器に意識を寄せた。
「それって……俺が持っていいのか?」
予想外な提案を受け、茶色の瞳が大きく見開いた。
両手が塞がっている無防備な状態で自分の武器を預けることは、余程の信頼関係がないと成り立たないはずだ。
特にランディは猟兵として戦場に身を置いていた過去があり、気紛れに少し触らせてもらうのとはわけが違う。
「当たり前だろ。お前は自慢の相棒だからな」
そわそわとテーブルの前をうろついている姿が笑いを誘い、肩を震わせて堪えたランディが強い一押しを放った。
それを聞いた途端に表情が輝き、嬉しそうな声が部屋中に響き渡る。
「分かった。それじゃ、警察署まで預からせてもらうな!」
ロイドは上機嫌で長い柄の部分を掴み、片手で軽々と持ち上げた。
それから大切な物を扱うかのようにしっかりと胸元に引き寄せる。
(──こいつは)
その一連の動作を見たランディは、密かに目を見張った。
あれは一般的な規格から外れている特別仕様の武器だ。
通常の物より重量があり全身も長いので、扱うには相当の筋力がいる。
「ランディ、そろそろ出るぞ?」
なぜか黙って見つめてくる年長の相棒に、ロイドは不思議そうな顔をした。
立ち止まったままの彼の横をすり抜け、先に玄関の方へ向かう。
「あぁ、そうだな」
その後ろ姿が以前よりもずっと大きくなっているような気がした。
(ははっ、なんだよ。あの頃は悔しがってたくせにな)
ロイドが過去を懐かしんだことに感化されてしまったのだろうか。
ランディは自慢の相棒が肉体的にも成長している事実を喜びつつも、まだ発展途上だった頃の彼を思い出し、静かに目を細めた。
同僚たちが空き時間を利用して鍛錬をしていること自体は珍しくはない。
とは言っても、率先してやりたがる面子は限られるのだが。
僅かに地面が震動して土煙が上がった。
同じ武器を扱うにしても、やはり動き方には差異がある。
赤毛の男は一振りの威力が大きく、攻撃範囲を広い。
ピンクブラウンの髪をした女は力こそ劣るが、身軽で手数が多い。
「基本的にはパワー重視な武器だけど、戦闘スタイルも色々だな」
警備隊の先輩と後輩の間柄である二人の攻防は、鍛錬と言えどもなかなかに見応えがある。
ロイドは腕組みをしながら、熱心に彼らの動作を目で追っていた。
ひとしきり激しい攻撃の応酬が続いた後、互いに間を取り数拍。
「あれ、ロイドさん?」
最初に見学者の存在に気が付いたのはノエルだった。
「おっ、なんだよ。いるなら声かけろって」
二人は構えを解き、それまでの緊張感が一気に緩和する。
「あのなぁ……無茶言うなよ」
街中で偶然会ったかのような軽い調子の彼に、ロイドは思わず脱力する。
毎度のことながら、武器を振るっている時とそれ以外の時の落差が激しい同僚だ。
「それより、俺のことは気にしないで続けてくれよ」
しかし、自分の存在が鍛錬に水を差してしまった感は否めず、すぐにそう言った。
「あー、いいって。大分揉んでやったしなぁ。そろそろお開きにしようぜ、ノエル」
「はい。随分と時間を割いて頂きましたし。ランディ先輩、ありがとうございました」
二人はこれ以上鍛錬を続ける気はないようで、ノエルが真面目に一礼をして事の終わりを告げる。
「いや~、来てくれて助かったぜ。ノエルが容赦ねぇから、もうヘトヘトでよぉ」
赤毛の青年は後輩と共にロイドに歩み寄りながら、わざとらしく戯けてみせる。
ノエルもその意図に気づき、微笑しながら話を合わせた。
彼らのリーダーは非常に分かりやすく、今は顔中に申し訳なさが滲み出ている。
「こいつが『俺も混ざりたい』とか言ってきたらどうしようかと……」
「あ、でも、それは良いですね。今度は是非三人でお願いしたいです」
「おいおい、勘弁しろって」
そんなやり取りを黙って聞いていたロイドの頬がふっと緩んだ。
どうやら気を遣われてしまったらしい。
改めて二人を眺めると、それぞれにスタンハルバードを手にしている姿は勇壮で頼もしい。だが、やはりノエルの方には物珍しさがあった。
「今まであんまり見る機会がなかったけど、さすが警備隊だな」
「ふふっ、こちらも隊員の標準装備ですからね。最近は先輩と合わせる機会も増えたので、後れを取らないようにしないと」
「お前、結構パワー系だよなぁ。長物メインでも遜色ないだろうよ」
武器のことに始まり警備隊の鍛錬の内容など、三人で和やかに会話を重ねる中、ノエルは何かに思い当たり声を上げた。
「あれ、そう言えばロイドさんもスタンハルバード扱えるんですよね?」
「あぁ、警察学校で一通りの武器は触ってるしな。う~ん、でもわりと苦労した記憶が……」
ロイドは当時のことを思い出したのか、眉を寄せて遠くに目をやった。
「身体ごと突っ込みたいロイドくんには、相性悪かったんじゃないの~?」
そこへ、すかさずランディが横から茶化してくる。
「人を脳筋みたいに言うな!」
直情的にニヤけ顔の同僚を睨み付け、すぐに手が動いた。
「それ、ちょっと貸せよ。基礎ぐらいできてる」
ロイドは憤然としつつ、強引にランディからスタンハルバードを引ったくった。
「あっ、ロイドさんそれ、先輩仕様で重量が……」
ノエルの声と同時にずしりとした重みがのしかかる。
(うっ、意外と重い)
持ち運びに支障はない。たぶん、短時間であれば実戦を想定した動きもできるだろう。
だが、彼が愛用しているトンファーのように、常に身体の一部にして軽々と扱えるかというのはまた別の話だ。
ロイドは自分の身体能力と武器の重量を摺り合わせ、唇を噛む。
「あの、やっぱり重い……ですよね?」
頭の中で自己分析をして無言になっている青年を、ノエルが遠慮がちに覗き込んだ。
「こいつはそこまでヤワじゃねぇよ。数分くらいならお前相手でもやれると思うぜ。まぁ、普段使いは無理だけどな」
それに応じようとしたが、代わりにランディが口を開く。
(なんで、分かるんだよ?)
まるで頭の中を覗かれているみたいだ。
裏を返せば、それだけ深く相手のポテンシャルを把握しているということなのだが、今のロイドにはそれが面白くなかった。
「……もう、いい。返す!」
噛みつきそうな色を瞳に宿し、スタンハルバードを同僚の胸元に押し付ける。
武器が戻ってきたランディは、握り直した柄で自分の肩を軽く叩いた。
「そんなに拗ねるなよ。お前に軽々と振るわれたんじゃ、兄貴分の立場がズタボロになっちまうだろ」
からかうというよりも少し困った様子で笑うと、ロイドは膨れっ面でそっぽを向いてしまった。
彼との肉体的な差を感じるのは今に始まったことではない。
時には羨望の眼差しを送り、時にはこうやって悔しさを募らせる。
まるで、亡くした兄の背中を追いかけるように。
「そのうちズタボロにしてやるからな」
「はい、はい。そのうちな」
目を合わせないままのロイドとそれを軽くあしらうランディの姿は、傍から見れば微笑ましいものだ。
(ロイドさんって、ランディ先輩相手だとすぐムキになるんだよね。ちょっと可愛いというか、何というか……)
ノエルは彼らを眺めやりながら、ついそんな風に思ってしまった。
この日、特務支援課リーダーの機嫌はずっと低空飛行のままだった。
事情を知らない他のメンバーたちは、「どうせランディのせいだろう」との共通認識があり、いつものことだとばかりにさして驚きもしなかった。
夜も深い時間帯に目が覚めた。
ぼんやりとした薄暗い視界の中に、見慣れた赤い髪が入ってくる。
こんな日は大抵朝までぐっすりと眠っているし、起床するにしても気怠さが付きまとうものだ。
ロイドは自分にしては珍しい状況に驚いた。
すぐに寝直そうとしたが、やたらと頭が冴えてしまって眠気は一向に訪れない。
顔をずらして隣人を覗えば、その瞳は閉じられたままだった。
静かに上半身を起こし、うつ伏せ気味の寝姿を何気なく眺めて密かに笑む。
動いたせいで二人で潜り込んでいた毛布がはだけ、逞しい背中が露わになっていた。
ふと、数日前の出来事が頭を過ぎる。
通常の規格ではない特別仕様のスタンハルバードは、やはり重かった。
多少は扱えると認めてくれたのは救いだが、それよりも悔しさの方がはるかに勝った。
(……俺とは全然違う)
見ているだけでは飽き足らず、つい触れたくなってしまった。
普段は一纏めにしている髪は解かれ、背中に散らばっている。
それを軽く指先で流し、素肌の上に手を置いた。
「う~ん、やっぱり筋肉凄いなぁ」
力を抜いている状態でも鍛え抜かれた肉体の様子が分かり、悔しさを引きずりながらも目を輝かせた。
筋を指で辿ってみたり、手の平で叩いてみたりとしている内に楽しくなってくる。
だが、すぐに制止がかかってしまった。
「──おい、こら。人の身体で遊ぶなっつーの。眠れねぇだろ」
言葉のわりには棘がない声で、機嫌を損ねているようには感じられない。
「どうせ起きてたくせに」
気配に敏感な彼のことだ。自分が身を起こした時点でとっくに覚醒していただろうと、ロイドは悪びれる素振りもなかった。
「お前さぁ……この間の、まだ気にしてんの?」
まだ触ることを止めようとしない恋人へ、ランディが思慮深げな視線を向けた。
「気にしてるっていうか、ちょっと思い出しただけっていうか」
それを聞いたロイドは少しだけ頬を膨らませた。
「そりゃぁ、ランディの方が年上だし、どうしたって差ができるのは仕方がないことだし……」
ブツブツと言いながら、元凶である大きな体躯を見つめる。
すると、その肩が小刻みに揺れた。
「焦らなくていいんじゃね?あと一・二年もすればお前もいい感じになるだろうしな」
喉の奥で笑いながらも諭すような口振りは穏やかで、年長者の余裕が垣間見える。
「……でも」
ロイドとて分かってはいるのだ。今まで生きてきた歳月と環境の違いを。
それでも気持ちの方はなかなか付いてこない。
「やっぱり悔しいなぁ」
複雑な胸の内を言葉に乗せ、茶色の頭をぽとりと広い背中の上に落とした。
頬を寄せると慣れ親しんだ体温が伝わってくる。
つい心地良くなって細めた視界に、歴戦の傷跡たちが入ってきた。
(どれだけ戦ってきたらこんな風になるんだろう?)
ぼんやりとそう思った。
この赤毛の青年から猟兵時代の話を聞く機会はあまりない。
尋ねれば応えてくれそうだが、興味本位で詮索するのは気が引けてしまうところだ。
「なんだよ。今度は枕代わりにするつもりか?」
ランディは背中の重みが急に大人しくなったことで、寝落ちは勘弁しろよと揶揄をする。
「ん~、そうじゃなくて。傷跡……見てた」
だが、ロイドの受け答えは眠気を感じさせないものだった。
「ごめん、なんか気になっちゃってさ。色んな傷があるなって」
気を悪くさせるかもしれないと思いつつも、正直に言う。
数日前の悔しさを引きずり、戦場で鍛えられた逞しい身体を目の前にして、どうしても自分に嘘がつけなかった。
さっまで筋肉を辿っていた指が、今度は遠慮がちに傷跡をなぞる。
「今更、何言ってんだか。見慣れてる身体のくせによ」
それに対し、ランディは気分を害した様子を見せなかった。
「まぁ……猟兵なんて、傷だらけで当たり前っつーか?手足が吹っ飛んでないだけマシだぜ」
それどころか、明るい調子でそんなことを口にする。
「案外、胴体に穴が空いてもくたばらないもんだしなぁ」
昔のことを思い出しているのか遠い目をしたが、その直後、ロイドに思いっきり背中を叩かれた。
「いって~なぁ。いきなり何すんだよ」
「……ランディ」
背中の上に伏せていた上半身が勢いよく起き上がり、恨めしげな声に怒気をはらませた視線が突き刺さる。
「今はもう猟兵じゃないんだから、そういう感覚でいるのやめろよな」
急に軽くなって動けるようになったランディは、仰向けに寝転がってロイドを見上げた。
「そうやって、いつも一人で無茶ばっかりするんだから」
薄闇に浮かび上がる瞳はあきらかに怒っていたが、どこか泣き出しそうな影がチラついているようにも見える。
「あー、悪かったって。もう言わねぇから」
「ほんとか?ちゃんと反省しろよ」
長年の猟兵生活で染み付いている思考回路は、そう簡単には変えられない。
だが、相棒であり恋人であるロイドがそれを良しとしないことも承知している。
自然に出てしまったとはいえ、今は言葉にするべきではなかったとすぐに後悔した。
詫びる代わりに腕を伸ばし、一度頬に触れてから寝乱れた髪に指を差し入れて優しく梳いてみる。
「お前……なんか、やけに不安定だな。いつもは朝まで寝てるくせに」
大人しく身を委ねているのは、少しは絆されてくれているからなのか。
毛並みを撫でられた動物のように目元を緩めている姿に安心し、ランディはゆっくりと身体を起こした。
そのままロイドの後頭部を引き寄せ、軽く音を立てて口づける。
「今夜はまだ物足りないとか?」
「な、何言ってんだよ!偶然目が覚めただけに決まってんだろ」
こんな状況では嫌でも言葉の意味に気が付いてしまう。
ロイドは意地悪げに笑う恋人の顔を至近距離で睨んだ。
「思い出して悔しいのも、たまたまだからな」
反射的に身体を離したくなり、まだ後頭部に添えられている手を引き剥がそうとする。
しかし、その動きよりも早く一方の肩を掴まれた。
「あっ!?」
一瞬にして視界が回転し、抗う間もなくベッドの上に背中が落ちた。
先刻の余韻が残る肌を甘噛みされて、不意打ちの刺激にギュッと両目を瞑る。
「なぁ、悔しいついでに聞きたいことあるんだけどさ~」
そこへやたらと軽い声が降ってきた。
「なんだよ?」
どうせふざけているのだろうと思ってすぐに目を開いたが、その瞬間に息が止まりそうになる。
上から見つめてくるランディの表情は、予想外に真剣なものだった。
「こうやって俺に組み敷かれることには何とも思わないのか?」
たやすくシーツの中に沈んだ身体は動きを封じられ、まざまざと力の差を見せつけられる。
武骨な指が肩に食い込んで痛みを感じた。
「……え?」
それでもロイドは不思議そうに目を瞬かせ、頭に疑問符を浮かべた。
なぜ、そんなことを聞いてくるのか分からなかった。
確かに身体を重ねる上での肉体的な優劣があるとすれば、主導権はランディの方にある。
四肢が絡めば解くことは難しく、唇が落ちてくれば高ぶる熱に翻弄されるのが常だ。
煽られて、追い込まれて、いつの間にか余裕がなくなってしまう。
けれど、それに劣等感を覚えたことは今まで一度もなかった。
「そんなの、気にしたことない」
「なんで?」
答えを急いてくる声が少しだけ不安げに聞こえ、自由が利く方の手を伸ばした。
「う~ん、上手く言えないんだけどさ……」
さっき彼がしてくれたこと真似してみたくなる。
見下ろしてくる顔に乱れ落ちた赤い髪を、指で梳きながら後ろへと流した。
「俺のこと大切に想ってくれてるなって、ちゃんと気持ちが伝わってくるっていうのかなぁ」
ロイドは相手を真っ直ぐに見つめ、屈託なく笑った。
優しい抱擁も、時には手荒い愛撫も、そこにはいつだって確かな愛情がある。
だから、それを嬉しく思うのと、兄貴分の背中を追って悔しがることは、感情の質が違うのだと。
「あれ?」
求めた返答があまりにも率直だったせいか、ランディは恋人を凝視したまま固まってしまった。
「大丈夫か?」
ロイドが軽く頬を叩くとすぐ我に返ったが、そのまま脱力して彼の身体にのしかかる。
「なんなんだよ……こいつ。恥ずかしいこと言いやがって」
首筋に顔を埋めて呟いているランディの耳が僅かに赤かった。
「お、重い、どけって」
そんなことには気が付かず、ロイドは自分より大きな身体を一生懸命押し返そうとしている。
「もう、やだ……このまま寝てやる」
ランディにしてみれば、自分から仕掛けておいて超特大のカウンターを食らってしまった気分だ。
「おい、いい加減にしろ!」
耳元に投げやりな言葉が届いた途端、さすがのロイドも眉をつり上げた。
重しのように頑丈な身体はピクリとも動かない。
蹴り飛ばしてやろうかと本気で思い始め、下肢に力が籠もっていく。
彼がそれを実行に移すのはもはや時間の問題だった。
特務支援課のビルを出て警察署に向かう道中、相棒の武器を抱えているロイドはご機嫌だった。
両手が塞がっているランディの歩みは普段よりのんびりとしていて、それに合わせているはずなのに、足が跳ねて先へ行きそうになる。
(……色んな意味で成長してんのは確かなんだがなぁ)
他愛のない会話ですら嬉しそうで、元からの童顔も相まってか子供っぽさに拍車がかかっていた。
あの時、やたらと悔しがっていた姿が不思議と重なる。
重大な事象が多発していたことを考えれば、それこそ掻き消されてもおかしくはないくらいの些細な出来事だ。
それでも、きっかけに手を引かれて鮮明に思い出す。
ムキになって噛みついてくる相貌と。背中で遊んでいた指の感触と。
──屈託のない笑顔で放った言葉を。
(いや、待て。そこは思い出すなっつーの)
ランディは過去の記憶を巡らせた最後の最後で、自分にツッコミを入れた。
当時の精神的ダメージは相当で、しばらくは身体を重ねるのも躊躇したくらいだった。
もちろん、ロイドにその理由を隠していたのは言うまでもない。
そんな懐かしさや恥ずかしさが入り交じり悶々としたランディだったが、雑用を済ませて警察署を出る頃には平静を取り戻しつつあった。
「ありがとな、ランディ。助かったよ」
「このくらい、いいって」
ロイドは律儀に礼を述べ、軽い足取りで歩き出す。
これから東クロスベル街道に出て任務を行う予定だ。
ご機嫌すぎてスタンハルバードを返すのを忘れているのか、そのまま街中を進む彼の横で赤毛の青年が苦笑する。
(しょうがねぇヤツだな。外に出るまでは預けといてやるか)
手持ちぶさたな両手を上着のポケットに突っ込み、相棒に支援要請の内容を確認しながら、ふとさり気なく彼の体躯を品定めしてみた。
「……今なら数分どころか、結構長くいけそうだな」
「ん?なんか言ったか?」
評価はほんの小さな呟きで、聞き逃したロイドが見上げてきた。
「あぁ、お前もいいガタイになったなぁと思ってよ」
ランディがそう言い直してから背中を叩くと、彼は驚いて目を丸くした。
「そ、そうか?」
肉体的なことで褒められるのは初めて気がして、妙に落ち着かない。
「俺には及ばねぇがな。ま、そこは骨格の違いってことで」
信頼しているとか頼りにしてるとか、そういった類いのことはよく言ってくれる相棒だが、今のは不意打ちすぎて反応に困ってしまった。
「そうだなぁ。今度、力比べでもしてみるか?取りあえず腕相撲みたいのとか」
応答してこないロイドを気にせず、ランディは一人で話を進めている。
「タダじゃつまんねーから、負けた方が昼飯三日分……いや、一週間分奢りな」
相棒同士、感情が伝染しやすいのだろうか。今度は彼の方が楽しそうだ。
すると、ようやくロイドが口を開いた。
「ちょっと待て。それ、俺が負ける前提で言ってないか?」
話の内容に引っかかりを覚え、あからさまに面白くないという顔をする。
「さぁな。今のお前なら良い勝負になるんじゃね?それとも逃げんの?」
好戦的な笑みを浮かべたランディに上から覗き込まれ、ロイドの両眼に火が灯った。
「──受けて立つ!」
他の人ならいざ知らず、彼にここまで言われては引き下がるわけにはいかない。
無意識にスタンハルバードの柄を握りしめ、余裕たっぷりの相手を睨め付ける。
(こういうとこは昔から全然変わってねぇな。だから面白いんだけど)
それを真正面から捉えたランディは心の奥で安堵した。
彼の目から見ても大人の男として立派に成長しているロイドだが、根本的な部分はずっとあの頃のままだ。
自分だけに向けられる衝動的な感情はどこか子供じみていて、だからこそ優越感に浸れる。
相棒として恋人として対等な関係を築き上げてきた中で、ただ一つだけ。
年長者としての矜持は手放したくなかった。
2021.06.05
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