普段から特務支援課の面々が団欒を楽しんでいる一階のテーブルだが、今は三人だけが腰を落ち着かせている。
「ふぅ、温まりますね。エリィさん、ありがとうございます」
マグカップを両手で包み、たっぷりと注がれたココアを口にしたティオが息を吐いた。
「今日は肌寒かったものね。あ、でも少し熱すぎたかしら?」
「……問題ありません」
小さな唇を尖らせて息を吹きかけている姿は愛らしく、エリィは優しい微笑を浮かべる。
「ところで、ランディは本当によかったの?まだ作れるわよ?」
ティオと向かい合う形で座っているエリィが、横にいる赤毛の青年に声をかける。
彼女は自分たちの分を作る時に一度声をかけたのだが、その時は遠慮されてしまった。
ランディは面倒くさそうに報告書を作成している。
そんな横で二人揃って一息ついているのも忍びなく、もう一度聞いてみたのだが。
「それなら、これから帰ってくるヤツらに作ってやれよ。俺は酒の方がいいしなぁ」
今度もさり気ない配慮と共に軽くいなされてしまった。
「ランディさん、報告書も仕事の内です」
ティオが睨むとランディは片手をヒラヒラさせて苦笑した。
「はい、はい。分かってるっつーの」
今日の支援要請は小さな案件だが数が多く、人海戦術といった様相だった。
取捨選択は可能だが、やはり依頼された要請は極力こなしたい。
エリィとティオは組んでいたが、他のメンバーは個々に動いていた。
そんなわけで、書類と睨めっこをする性分ではないランディも報告書を書いている。
「誰か俺の代わりに書いてくれねぇかな~」
「もうっ、少しは集中しなさいよ」
彼が普段の言動に反して意外に真面目なことは二人も承知の上で、小言を向けつつも報告書に関しては心配する必要はなかった。
しばらくして、玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
帰宅したのは支援課のリーダーであるロイドだった。
「みんな結構早かったんだな。あ、ワジとノエルはまだか」
彼は室内を見回し、現状を把握する。
「お帰りなさい、ロイド」
「あいつら街中だろ?そろそろ帰ってくるんじゃねぇの?」
「ワジさんはついでに遊んでいるかもしれません」
まさしく三者三様な応対をされ、ロイドは小さく笑った。
「そう言えば、帰る前に本部でフランからこれ受け取ったんだけど」
彼はテーブルの側までやって来て、持っていた紙袋をそこに置いた。
「なんか、特務支援課宛てにバレンタインだって」
袋の中身には統一感がなく、個人というよりは複数人の贈り物が詰め込まれているように見える。
きちんと包装されたそれらは、みな色鮮やかで綺麗だった。
「フランは『街の皆さんの感謝の気持ちです』とか言ってたけど」
ロイドは少し困惑顔で説明した。
「あら、それは嬉しいわね」
「チョコレートが食べ放題ということでしょうか?」
エリィとティオは椅子から腰を浮かし、興味深げに紙袋の中を覗き込んだ。
「感謝ねぇ……ちょいとこそばゆい感じだな」
ランディはペン走らせる手を止めて目元を緩めたが、何を思ったのか、ふと真顔になった。
「ちょっと待て。それって支援課と見せかけて実はロイド宛てとか……ありえそうじゃね?」
その言葉に場の空気が一瞬固まった。
「……ありえるわね」
「……可能性大かと」
女性二人のジト目がロイドに向けられた。
「ちょっ、ランディ!?変なこと言うなよ!」
「いやぁ、お前って天然たらしだしさ~」
彼女らの冷たい眼差しに後退ったロイドはランディに抗議したが、彼は頬杖を付きながらニヤニヤとするだけだ。
三対一ではさすがに分が悪い。
「だ・か・ら!フランは支援課の皆さんへって言ってたし!」
ロイドは頭を抱えたくなる思いで叫んだ。
「おやおや、うちのリーダーってば、また何かやらかしたのかい?」
そんな中、再び玄関のドアが開く音がした。
「え、えっと。ただいま戻りました」
涼やかな声の後に生真面目な帰宅の挨拶が続く。
道すがら、偶然居合わせた二人は一緒に帰ってきたのだが、ビルの前まで来た所でロイドの叫び声が聞こえてきた。
そして玄関をくぐってみれば、この状態である。
ロイドは仕事を終えた二人を労いつつも、手短に事の経緯を説明する。
「う、う~ん……ありえそうというか、なんていうか」
「ははっ、フランもはっきり言ってくれれば良いのにね」
彼にしてみれば多勢に無勢を何とかしたい状況だったのだが、どうにも上手くいかない。
「はぁー、何なんだよ……みんなして」
ロイドはふらふらと空いている席に座り、ふて腐れた様子でテーブルに突っ伏してしまった。
「ご愁傷様~」
「誰のせいだと思ってるんだよ」
真向かいで楽しそうにしている相棒に腹が立って、半眼じみた視線を送る。
「それで、これどうするのよ?ロイド」
「普通にみんなで分けてくれよ。俺のだって決まったわけじゃないし」
力の抜けきったリーダーの言葉に、五人は顔を見合わせた。
「なんだか受け取るのは気が引けますね」
ティオがそう呟くと、皆が同時に頷いた。
さて、どうしたものか?と思案する。
「あっ、ねぇ、ワジくん。君は毎年沢山もらってるんでしょ?」
すると、不意にノエルが口を開いた。
「え?あぁ。直接受け取るとキリがないから、トリニティ宛てにしてもらってるけど」
「涼しい顔でモテ自慢するなっつーの。で、結局どうしてるんだよ?」
彼女の意図を察したランディが嫌みを含んで問いかけると、ワジは明快に答えてくれた。
「気持ちだけ受け取っておくって感じかな。どうせ食べきれないなら手を出さない方が公平だしね。だから、スラムの子達にあげたり教会に寄付したりしてるよ」
「教会……それは名案だわ。日曜学校で子供たちに配ってもらえそうね」
エリィが目を輝かせながら感心した様子でワジを見ると、
「まぁ、伊達に教会とつるんでるわけじゃないからね」
彼は皮肉っぽく口角を吊り上げた。
取りあえず、方針は決まったらしい。
特に急を要するわけではないが、明日からはしばらく街の外へ出る案件が続くので、教会に寄る時間が取れそうもなかった。
「だったら、今日中に行った方が良さそうだな」
それを鑑みてランディは席から立ち上がり、未だに潰れているロイドの襟首を掴んだ。
「おい、ロイド。さっさと行ってこようぜ」
「は?なんでランディも行くんだ?」
促されたロイドは仕方なく立ち上がったが、彼の言い回しに疑問符を浮かべた。
「ランディ先輩、報告書を書いてる途中ですよね」
更にノエルが真面目な指摘をする。
「だな。まぁ、息抜きってことで。なんか肩も凝ってきた気もするし」
ランディはそれをあっさりと認め、悪びれる風もなく堂々と言ってのけた。
「そんじゃ、行ってくるぜ~」
「あーっ、もう!引っ張るなってば!」
それから、半ばロイドを引きずるような形で二階の裏口から外へ出て行ってしまった。
「……ほんとに書類仕事が嫌いですよね。ランディさんって」
静かになった部屋の中にティオの声が響く。
「それだけじゃないと思うけどね。まぁ、あの様子じゃ暫く帰ってこないんじゃない?」
「なんで?大聖堂だったら、そんなに時間はかからないと思うけど」
それに応じたワジが意味深げな発言をしたことで、ノエルが不思議そうに小首を傾げた。
「さぁ?なんでだろうね」
わざとらしく遠くに目をやった彼はどこか楽しげだった。
西通りを抜けて住宅街へと出る。
午後の時間帯を大分回り、空も夕刻に近づいてきた。
行き交う人々を目にするゆとりもなく、ロイドは仏頂面の早足で目的地へと向かっている。
「お~い。そろそろ機嫌直せよ~」
少し後ろを付いてくるランディが声をかけるも、応じる気配はない。
「……ああいう時はやたら団結するんだよな、みんなして」
そんな年下の同僚の態度を気にすることもなく、独り言のように吐き出された不満を拾い上げる。
「それだけあいつらに好かれてるってことだろ」
もちろん、そこに悪意など微塵もないことはロイドだって分かっている。
女性陣の視線がやけに冷たい時もあったりするが、大抵はその場の空気は明るい。
ふと、速かったロイドの足取りが緩んだ。
聞き逃してもいいくらいの愚痴に構ってくれるランディの優しさに、少しだけ心が軽くなる。
(……あれ?でも、今のは……)
だが、それがまるで当事者ではないような言葉選びだったと気づき、引っかかりを覚えてしまった。
(『あいつら』って言ったよな?)
彼の胸中が読めなかったが、問いかける言葉を見つけ出せず、ロイドは悶々としながら歩いた。
徐々に人気が少なくなり始め、マインツ山道への入り口までやって来た。
ここからクロスベル大聖堂は目と鼻の先だ。
会話らしい会話をしないままだった道中を過ごし、先にロイドの方が音を上げた。
「──なぁ、さっきの……ランディは?」
立ち止まって振り返る。
不機嫌だったこれまでとは違い、不安げな色が見え隠れしていた。
ランディはわずかに瞠目したが、すぐに言葉の意味を察して意地悪げに笑った。
「あぁ、それな。どっちの俺で言って欲しいの?好かれてるって」
一瞬、何を言っているのかが分からなかった。
「ど、どっちって……え?あっ!?」
ロイドはしばらく頭を回転させた後、ようやくそれに気が付いた。
「今は二人だけだし。ほら、選べよ」
つまりは、同僚なの?恋人なの?と。
ランディにとってこんな線引きはあってないようなもので、そもそも気にする性格ではない。
だが、真面目なロイドはそういうわけにもいかず、リーダーとしての責任感も相まってか、そういった立場の切り替えが面白いくらいに下手だった。
普段はそんな不器用な線引きに付き合ってあげているのが常だ。
しかし、たまにそんな彼の手を引く形で強引に場を作る。
たまには甘えたらどうだ?と言わんばかりに。
「ちょっ……と、待って」
魅力的な誘いを受けたロイドの心がぐらりと揺れた。
「でも……」
けれど、手に持っている紙袋を意識して眉を寄せる。
「支援課宛てだったし……う~ん……」
これを無事に教会へ寄付するまでは仕事なのではないかと、思ってしまった。
「おい。そこ、悩むとこなわけ?」
何やら葛藤している彼の姿が可笑しくて、ランディは思わず吹き出しそうになった。笑い混じりの言葉で遠回しに返事を急かしてみる。
「あ、ごめん。えっと、その……半分ずつとか」
ハッとしたロイドは、定まりきらない胸の内から無理矢理に答えを絞り出した。
それはそれは困ったような顔をして。
──数拍。二人の間に奇妙な空気が流れた。
ランディは予想外な返答に唖然としたが、すぐに気を取り直してロイドの側に歩み寄った。
「はぁ~、お前ってやつは」
大袈裟なくらいの溜息を吐き、癖のある茶髪を捕まえて容赦なく掻き乱す。
「い、痛いって」
武骨で大きな手は荒々しいようでいて、少し優しかった。
思いのほか強い力を受けたロイドが首を竦ませる。
「ここまで不器用すぎると、いっそ笑えるぜ」
ランディは呆れた様子を見せつつも、その中途半端な答えを無下にはしなかった。
彼にとってみれば馬鹿げた葛藤の類いだが、それすら微笑ましいと思えるくらいには惚れている。
「ほら、もう行くぞ」
心なしか元気のない背中を軽く叩き、止まった足を大聖堂へと向かわせる。
渋々と歩き始めたロイドの横に並び、彼を見下ろす両眼が愛おしげに緩んだ。
穏やかに雲が流れる空は、茜色に染まり始めている。
大聖堂に足を踏み入れた二人は、夕空で不思議と温かな色を纏ったステンドグラスに感嘆を漏らした。
「あら、ロイド。久しぶりね」
すると、落ち着きのある女性の声が聞こえてきた。
「マーブル先生。ご無沙汰しています」
ロイドの顔がパッと明るくなり、優しげな風貌のシスターに会釈をした。
ランディもそれに習って軽く挨拶をする。
彼らは日頃から懇意にしている彼女を訪ねる予定だったので、丁度良いタイミングだった。
ロイドが事の一部始終を説明すると、マーブルは静かに微笑んだ。
「まぁ、随分と立派になって」
日曜学校の先生である彼女にとって、教え子の成長や活躍は何より嬉しいものである。
そんな二人の和やかなやり取りを、ランディは黙って見つめていた。
特務支援課の中では茶化していたが、今は無粋というものだ。
何よりも、ロイドの気持ちが浮上していることが分かって安堵した。
マーブルはロイドたちの意向を快く受け入れてくれた。
目的を果たした彼らは大きな扉を開き、荘厳な建物から外へ出る。
空はいよいよ赤みを増していた。
ここを通った時、建物の前で遊んでいた子供たちの元気な声も今は聞こえない。
先を行くランディの背中は夕焼けに染まり、それを見たロイドは急に寂しさが込み上げてきた。
(まだ……一緒にいたいな)
このまま真っ直ぐに帰宅してしまうのが勿体なかった。
さっきまで紙袋で塞がっていた手を見つめ、なんの枷もないことを確認する。
今、悩む理由はどこにもないように思えた。
彼が用意してくれた二人だけの時間はまだ有効だろうか?
「なぁ、ランディ」
ロイドは墓地の方へ向かう道に目をやり、ポケットに手を入れてのんびりと歩く後ろ姿を呼び止めた。
「少しだけ兄貴のとこ寄ってもいいか?」
揺れていた鮮やかな色の長髪がピタリと止まる。
「ははっ、言うと思ったぜ。俺も挨拶の一つくらいはしとこうかねぇ」
振り返ったランディは、予想通りとばかりに破顔した。
これから墓参りというには遅い時間帯になってきた。
案の定、踏み入れた墓地の敷地内に人の気配はない。
草を踏み締める二人の足音だけが、静寂の中で響いた。
今は亡き兄の墓前にやって来たロイドは、静かに目を閉じた。
ここに立つと様々な思い出が一気に頭へ流れ込んでくる。
彼にとっては、その一つ一つが大切な宝物だ。
「……ふふっ」
不意にロイドが小さく笑った。
彼の邪魔をしないようにと、一歩後ろで見守っていたランディが不思議そうな顔をする。
「なんだよ?急に」
「あぁ、今日ってバレンタインだろ?そう言えば、セシル姉が毎年手作りのチョコ作ってたなぁって」
開いた茶色の瞳が懐かしげな様相で墓を見つめている。
「でも、兄貴ってば色んな所を走り回ってたからいつもいなくてさ。当日に渡せてたことなんてほとんどなかったけど、セシル姉は『遅れてもきちんと渡せているから良いのよ』って笑ってた」
その笑顔が記憶の中で鮮明に蘇った。
「セシルさんのチョコとか、羨ましすぎんだろうが。どうせお前も貰ってたんだろ?」
そんな在りし日の思い出に噛みついたランディは、本気で悔しそうにしている。
「いや、俺のはついでだからな!」
ロイドは勢いよく振り返って言い返したが、思いきり肯定する形になってしまった。
「……ったく、これだから弟くんはよぉ」
ランディはブツブツと言いながら頭を掻いていたが、しばらくしてから急に真顔になった。
「──で、お前は俺になんかくれねぇの?」
過去の思い出話から今の自分に話を振られ、ロイドは目を丸くした。
もちろんバレンタインの趣旨は理解しているのだが、やはり女性のものというイメージが強くある。
だから、それに自分が当てはまるとは思っていなかった。
「俺が渡す側になるのか?」
念のために聞いてみると、
「そりゃそうだろ。俺は常日頃からお前に愛情表現しまくってるからな」
ランディは当然とばかりに、恥ずかしげもなく言ってのけた。
「それとも、なに?まだ足りないとか?」
「そんなこと言ってないけど!?」
からかう声音の中に微かな色気を感じ、ロイドは思わず後退った。
「だったらやっぱりお前の方からだな」
こういったやり取りでは、いつもやり込められて退路を塞がれてしまう。
優柔不断な態度を優しく受け止めてくれたかと思えば、今度は強引に我を通そうとする。
いつもの軽妙な言動の内側にある思慮深さとは別に、己の欲に忠実な顔が露わになった。
それはロイドだけが知っている姿で、少なからず優越感を覚える。
『今はどっちなの?』と聞くのが可笑しくなるくらい、彼は恋人の顔を見せてくる。
けれど、こうも軽々と振り回されてしまっている状態は面白くなくて、ついそっぽを向いてしまった。
「全然そんなつもりはなかったから、何も用意してないぞ」
別に意地悪のつもりで言っているわけではなく、本当のことだ。
今の今まで、頭の片隅にもなかった。
「……マジで?はぁ~、俺って愛されてねぇな~」
それを聞いたランディは、脱力してその場にしゃがみ込んでしまった。
「まぁ、お前らしいっつーか……いや、それにしたってもうちょい……こう、さぁ……」
独り言のような小さな声は明らかに沈んでいて、演技などではなく本気で落ち込んでいる。
(そ、そこまでなのか?)
そんなランディの落胆ぶりをロイドは凝視した。
欲しいなら欲しいと前もって言ってくれれば良かったのに。
ついそう言いたくなったが、夕刻に染まる大きな身体がもの悲しげに見えてしまい、口を噤む。
納得はいかないけれど、じわりと罪悪感が滲んできた。
「ごめん。そんなに欲しかったなんて知らなくて」
こうなってくると、もう自分が悪いようにしか思えなくなってくる。
(今からでも何か用意した方がいいのかな?)
この現状にどう対処するべきなのかと、困惑気味な頭をフル回転させる。
ランディはしゃがみ込んだまま、困り顔で一生懸命に思案しているロイドを盗み見た。
なにせ顔に出やすい性格だ。
彼が考えていることの大半は分かってしまう。
(分かってねぇなぁ。俺が欲しいのは『物』じゃないって)
何日も前から強請っていれば、きっと彼は何かしらの贈り物をくれただろう。
けれど、それでは意味がいない。
本当に欲しいのは、ロイドが主体的に向けてくる好意の言動だ。
彼の人となりを思いつつ、望みが薄いのは承知の上で、ほんの少しだけ期待してみたかった。
(まぁ、この場所じゃ不利すぎんだけどな)
無謀なことをしているのは分かっているつもりだ。
低くなっている視界にはロイドの足元があり、その先に彼の兄の墓が入ってくる。
(けど、負け戦はかっこ悪すぎんだろ?)
転んでもタダでは起きない。
茜色が差し込んだ翡翠を模した瞳は不思議な色を放ち、どこか蠱惑的にも見えた。
ランディはロイドを見上げて一つ口を開いた。
「だったら、お前からのキスで帳消しにしてやるよ」
二人だけしかいない墓地の一角で、ロイドがそれを聞き逃すはずもなかった。
からかわれているのかと思って言い返そうとしたが、そこに戯けた表情はなく息が詰まりそうになる。
「あ……の、それは……」
再び後退ろうとしても今度は足を動かせない。すぐ後ろは兄の墓だ。
そもそも、彼には元から選択肢など存在しなかった。
ランディを落ち込ませたのは自分のせいで、全面的に自分の方が悪いのだと思い込んでいるのだから。
「ほんとに帳消しか?」
「そのくらいは信用しろよ。で、どうすんの?」
ロイドが恐る恐る尋ねてみると、あっさりとした返答があった。
どうやら謀るつもりはないらしく、ホッと胸を撫で下ろす。
「…………だったら、やる」
手の平を握りしめ、言葉少なに頷いた顔には羞恥の色が浮かぶ。
「交渉成立だな。ほら、こいよ」
それを見たランディはようやく頬を緩ませ、誘うように手を伸ばした。
(──あぁ、そうか)
そんな彼の嬉しそうな仕草を見た瞬間、ロイドは気が付いてしまった。
今まで一度だって自分からこんな行為をしたことはない。
いつも愛情を与えてもらうばかりで、それが当たり前だと錯覚をしていた。
惜しげもない包容力の裏側で、彼が何を渇望しているのかを知らずに。
(俺……いつもちゃんと伝えてなかった)
ロイドは伸ばされた手を掴み、しゃがみ込んだままでいるランディの前で膝を落とした。
「えっと……さすがに目は閉じてほしいかも」
「はい、はい」
緊張と恥ずかしさを誤魔化すように注文をつけてみたら、どことなく浮かれた声が返ってきた。
それが普段の彼よりも子供っぽく感じられ、珍しい姿に愛おしさが募っていく。
自然と肩の力が抜けて身体が動いた。
一度、唇同士が触れるだけの軽い口付けを贈る。
帳消しの条件ならそれだけでも良かったはずなのに、このまま離れてしまうのが嫌だと思った。
今は想いが止めどなく溢れ出る。
もう一度、今度は遠慮がちに舌を差し入れた。
いつも受け身に回っているせいで、いまいち勝手が分からない。
そんなロイドの行動はランディを驚かせたが、それも一瞬だけだった。
すぐに不器用でたどたどしい愛撫に応える。
手慣れた彼にしてみれば物足りない行為だが、だからといって主導権を握りたいとは微塵も思わなかった。
これはロイドからの愛情表現だ。
到底不利なこの場所で、欲していたものを味わえることに心が高揚する。
ひとしきり舌先を絡ませた後、悩ましげな吐息と共に唇を離したロイドを見つめ、ランディは微笑した。
「なんだよ。てっきりガキみたいなキスで済ますのかと思ってたぜ」
「うっ……そ、そのつもりだったけど」
言葉とは裏腹、彼の目には揶揄の色などはなく、嬉しそうで優しい表情をしている。
「…………したくなった」
そんな眼差しを受け止めきれず、羞恥心が沸騰したロイドは相手の肩口に顔を埋めた。
空は茜色から群青色にさしかかり、耳や首元まで真っ赤なことを誤魔化しようがなかった。
「おいおい、あんまり俺を喜ばせんなよ?」
抑えていないといくらでも口元が緩んでしまいそうになる。
ランディは熱を持った首筋を撫でながら、チラリと墓石の方を見た。
静かに眠るその人物に対して嫉妬がないと言えば嘘になる。
「そんじゃ、ご機嫌ついでにお返しってことで」
指先が耳元を辿り、そこへ唇を寄せた。
思わず身体が跳ねたロイドを無視して、耳の外郭を添うように舌を這わせる。
それはまるで誰かに見せつけているみたいに緩慢な動きだった。
「ラ、ラン……ディ、待っ……」
震える声で制止をかけられ、耳朶に噛み痕を残す。
「──っ!?」
唐突に痛みを受けたロイドは反射的に顔を上げて距離を取ろうとしたが、いつの間にか腰を抱かれていて思うように動けなかった。
「な、何やってんだよ!?」
火照った顔のまま至近距離でランディを睨み付ける。
弄られた耳を手で押さえ、甘く痺れるような痛みを必死に堪えた。
「何って、さっきお前の兄貴に挨拶の一つでもって言っただろ」
動揺を隠しきれない彼に対し、余裕綽々といった風にランディが笑う。
「言ったけど、それとこれとは全然違うし!」
「俺にとっては同じようなもんだ。さて……と。ご挨拶も済んだし、そろそろ行くか」
噛みついてくるロイドを軽くあしらい、立ち上がろうと身体を起こした。
同時に彼の腕を掴んで強引に引き上げる。
ランディはやりたいことをやって満足なのか、あっさりと束縛を解いて先に歩き出してしまった。
「──え?」
急に密着していた温もりが遠退き、喪失感に襲われたロイドは目を瞬かせながらその場に立ち尽くす。
(嫌だ。離れたくない)
一気に強い気持ちが沸き立った
耳朶の噛み痕が燃えるように熱い。
返された愛情に全身が浸食されていくような気がした。
(俺はまだ……側にいたい)
彼は振り返ることのない背中に焦りを覚え、慌てて追いかけようとした。
だが、一瞬だけ足を止めて兄の墓に目を向ける。
「兄貴、また来るからな」
日が落ちて夜の色に染まり始めた大切な故人を背に、ロイドは今度こそ駆け出した。
【おまけSS】
「少し涼みたい」と言ったのはロイドの方だった。
今はこのまま平然と帰れるほどの心境ではなく、まだ多少の時間が欲しかった。
ランディは小さく笑ったが、茶化すことはなく快諾してくれた。
街中をのんびりと歩きながら港湾区へ向かう。
風に当たりたいのなら丁度良い場所だ。
当たり障りのない雑談を主導し、相手が落ち着けるようにと仕向ける。
彼のこういったさり気ない優しさは、流れるように自然だ。
そのお陰か、目的地に着く頃にはロイドも幾分か落ち着きを取り戻していた。
水辺特有の冷たい風が今は心地良い。
ロイドは辺りを見回して小首を傾げた。
「今日は人が多いのかと思ってたけど、そうでもないな」
「そろそろ夕飯時だしな。よろしくやりたいヤツらはもうちょい後だろ」
彼の疑問を察し、ランディはそう応えた。
自分たちのことを意識させないようにと言葉を選びながら。
「あ、そう言えば。キーアたちから貰ったチョコ、食べたか?」
そんな気遣いも露知らず、ロイドは今日の日の話題で連想中だ。
「あぁ、あれな。食った食った。ブランデー入ってて美味かったぜ」
「え?俺のは普通だったけど。もしかして、それぞれに作ってくれたとか?」
「それっぽいな。いや~、俺たち愛されてんな」
ロイドたち男性陣は朝食の後、キーアにチョコレートを手渡された。
昨晩、彼女を含めた女性陣が楽しげに台所を占領していた。
薄々気が付いてはいたが、いざ貰うとやはり嬉しいものである。
ちなみにティオは、ツァイトにも何か用意していたという話だ。
二人はそんな彼女たちの様子を思い浮かべ、嬉しそうに笑い合う。
「──あっ」
しかし、ロイドはまだ連想中だった。
「今度は何だよ?」
問いかける声に、考え込むような仕草を見せる。
「う~ん。俺、思ったんだけどさ。寄付したチョコ……あれってランディ宛だったりしたのかもなって」
「はぁ?お前、まだ根に持ってんのかよ」
「そうじゃなくて!貰ってたって全然おかしくはないだろ?」
どこか呆れた様子の顔を向けられ、ロイドは声を強めた。
「あり得ねぇな」
「何でそう言い切れるんだよ」
はっきりと否定されるのは面白くない。
「どう見ても義理じゃなかっただろうが」
「……義理だったら貰うのか?」
どうしても噛みつきたくなってしまう。
なんで今の今まで気が付かなかったのだろう。
(こんなに格好良くていい男なのに)
特に今日だったら、誰かに言い寄られていても不思議ではない。
せっかく落ち着いてきていた心の中に、今度は不穏なさざ波が立つ。
「だったら、今日は……」
「やめとけ」
誰かに貰ったのか?と言うとした口が大きな手によって塞がれた。
「──うぅ!?」
「余計なこと考えるんじゃねぇよ」
上目遣いで抗議を露わにすると、存外に真面目な瞳とぶつかった。
「嫉妬なんてらしくないだろ?……何も受け取ってない。相手には悪いけどな」
この感情を的確に表現され、ロイドは目を見開いた。
今日は『帳消し』の件からずっと、どこかがおかしい。
彼と離れたくなくて、独り占めしていたくて堪らない。
自分が自分じゃないみたいだと思った。
「分かったか?」
降り注いだ静かな声に何度か頷いてみせると、ランディは塞いでいた手を退けてくれた。
その動きをどうしても目が追いかけてしまう。
耳元を辿った指先の感触を思い出し、噛み痕に熱がぶり返す。
ロイドは無意識のうちに離れていく手を掴んだ。
心の底に眠っていた独占欲に引っ張られて、唇から言葉が零れ落ちる。
「……今夜、部屋に行っても……いいかな?」
囁くようなそれは水気を含んだ風に紛れ、今にも消え入りそうだった。
断る理由なんてありはしない。
それでもランディの胸中は複雑だった。
「ったく、お前は。『涼みたい』とか言ってた口で、墓穴掘りまくりやがって」
ロイドからのお誘いに喜びつつも、この変貌ぶりでは少し心配にもなってしまう。
この道中、彼を落ち着かせようと気を配っていたが、肝心の相手は掘削作業に忙しないようだ。
「これじゃ、またしばらく帰れないな」
ランディは苦笑しつつ、空いている方の手でロイドの頬を軽く叩いた。
街灯に照らされた顔がやや赤みを帯びている。
「ご、ごめん」
彼は小さな声で謝る姿を愛おしげに見やった後、ふと夜空を見上げた。
そろそろ帰宅の催促を兼ねてエニグマの呼び出し音が鳴りそうな気がする。
もういっそのこと、このままホテルにでも連れ込んでしまいたいと思った。
2021.02.14
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