ひとたび所長の愛車で移動となれば、走行中の車内には様々な声が飛び交う。
一人だった頃はBGM代わりにラジオを流していたものだが、今では助手たちのおかげで賑やかだ。
しかし、時刻は昼食を終えたばかりの頃合い。少しずつ会話の頻度が減り始めて静かになっていく。
「──おい、こいつらどうにかしろよ」
そんな中、不意にアーロンが口を開いた。
運転席のヴァンが一瞬だけ横目で後方を窺うと、シートの中央に座している彼はいかにも不満げな表情で腕を組んでいた。
すぐ後ろの席には三人が並んでいる。
アーロンを挟むようにしてフェリとカトルが座っているのだが、彼女たちからは規則正しい寝息が聞こえ始めていた。
まるで示し合わせたかのように左右から年上の同僚に寄りかかっている。
「くそ……やっぱり最後尾の一択だったじゃねぇか」
「何言ってやがる。土足で寝転がる気満々だったくせに。てめぇの選択権はねぇんだよ」
心情そのままの語句は独り言じみていたが、ヴァンの耳にはしっかり届いている。
彼は先刻のことを思い出し、眉をひそめて口調を強めた。
一言一句とまではいかないが、ほとんど同じ応対をしたような気がする。
モンマルトで昼食を取った後、さて移動だとガレージへ向かった際に一悶着があった。
我先にと三列目のシートへ乗り込もうとするアーロンを見咎め、ヴァンが思い切り首根っこを掴んで引き剥がしたのだ。
これが他のメンバーであれば行儀が良いのは確実なので、お好きな席へどうぞという感覚なのだが。
その点、助手三号の所作についてはまるっきり信用をしていなかった。
大事な愛車を綺麗に保つためには、どうしたって心も鬼になってしまう。
「──土足は断固拒否だ」
ここぞとばかりに年長者の威厳をかざして言い放つと、それまで黙って彼らの様子を見ていたフェリが駆け寄ってきた。
「それなら、アーロンさんはわたしたちと一緒ですね!」
「チビ!いきなり意味分かんねぇこと言ってんじゃねぇ!」
少女はアーロンの片腕にしがみ付き、彼の身体を力一杯引っ張った。
油断をしていたのか、半分引きずられるような状態になっている青年の叫びは眼中にない。
最年少の助手である彼女はとても真面目な性格だ。
所長であるヴァンの言動を受け、この問題児をしっかり座らせなければと思ったのだろう。
「わたしとカトルさんで挟んでしまえば、だらしない姿勢はできないはずです」
「えっ、ぼ、僕も!?」
唐突に名前を呼ばれたカトルは、驚きのあまり口をパクパクとさせている。
「ご協力お願いします」
「勝手に話を進めるんじゃねぇ!っつーか、せめて助手席にしろや!」
この流れでは最後尾の独り占めを断念せざるを得ない。そう判断したアーロンはとっさに譲歩案を出してみたが、フェリの方もなかなかに頑固だった。
「……なんで僕が」
まだ乗ってもいないのに疲れた顔をしているカトルの横で、二人は牙を剝き出して押し問答を繰り返している。
ヴァンはそんな助手たちの様子を面白そうに眺めやっていた。
「やれやれ、またじゃれ合ってやがる」
くつくつと喉の奥を鳴らしながら笑っていると、
「ヴァン様。わたくしは助手席でよろしいのでしょうか?」
傍らから淑やかな女性の声が聞こえてきた。
「おう、構わねぇぜ。お前さんもフェリが押し切るって予想だろ?」
「はい。カトル様には大変申し訳ありませんが……」
リゼットは言葉通りの色を滲ませながら控えめに微笑んだ。
最初は刺々しい感情で回想を始めたヴァンだったが、それが終わる頃には険のある表情が薄れて柔らかくなっていた。
「どうするも何も、昼飯食ったら眠くなるのは仕方ねぇだろ?」
「そういうこと言ってんじゃねぇんだよ、オッサン」
アーロンの方はといえば、不本意な状況に先ず声を上げてみたものの、実際は完全に諦めの境地だ。
運転席へ返す言葉には鋭利さの欠片もない。
眠っている二人が崩れ落ちないように体勢を維持している姿には、さり気ない優しさが垣間見られた。
「ヴァン様もアーロン様もその辺りで。気持ち良さそうに眠っておられますから」
リゼットはそんな男たちを静観していたが、フェリが僅かに身動ぎをしたことに気づき、それとなく注意を促した。
事務所の中でも年少の部類に入る助手たちの寝顔は、それだけで周囲を温かくしてくれる。
「おっと、悪ぃ」
「熟睡中かよ……チビどもは」
起こすのが忍びないという気持ちは、ヴァンとアーロンも同様だった。
彼らは小さく呟いた後、一旦は口を閉じることにした。
それからしばらくは静かな時間が続いた。
時々、会話らしきものがぽつりぽつりと。各々が最小限の声量で夢の中にいる二人を気遣う。
「──おっ?」
いつの間にか後ろからの声が聞こえなくなり、ヴァンがバックミラー越しに後部座席を確認した。
「ははっ、落ちやがったか」
それに習ってリゼットも助手席から少しだけ顔を覗かせる。
すると、さっきまでは起きていたはずのアーロンが腕を組んだまま船を漕いでいた。
「お二人の眠気が移ってしまわれたようですね」
まったりとした昼下がり。左右から二人分の体温に包まれてしまえば、睡魔に引きずられてしまうのも頷ける。
寄り添って眠っている同僚たちの様相は微笑ましく、リゼットの目元が自然と綻んだ。
「こいつ、煌都でも子どもとか爺さん婆さんに好かれまくってるんだよなぁ」
「アーロン様のお人柄ですね」
ヴァンは二度。リゼットは一度だけ彼と共に煌都の街中を歩いたことがあるが、抱いた印象に差違はなさそうだ。
「ま、人望ってやつもあるんだろ。何だかんだで面倒見が良い奴だしな……っと、まだ起きてねぇよな?」
「ふふっ、ご本人の前で言って差し上げてもよろしいのでは?」
「おいおい、それは勘弁してくれよ」
珍しく意地悪げな返しをしてきたリゼットに対し、ヴァンはハンドルから片手を離して苦笑しながら頭を掻いた。
微かにラジオの音が流れていた。
いつもよりは随分と控えめな音量だが、うっすらと耳に入ってくる。
目を覚ましたアーロンは、未だ眠り続けている小さな同僚たちを一瞥して溜息を吐いた。
「あ~、首が痛ぇ」
今の状態では満足に身体を動かすことができず、気休め程度に腕だけを組み替える。
その直後、運転席から声がかかった。
「よぉ、お目覚めか。助手三号」
「ん……まぁな」
「いつもは一人くらい起きてるんだけどなぁ。今日はみんな沈没しちまいやがった」
彼はしっかりと正面を向いて運転をしていたが、心なしか声音が弾んでいるようだった。
「みんなって、メイドもかよ?」
驚いたアーロンは助手席にいるリゼットの方へ視線を投げた。
常日頃から彼女がうたた寝をしている姿などは見たことがない。しかし、今は綺麗な座り方のまま両目を瞑っている状態だった。
「珍しいこともあるもんだよな」
どうやら寝入ってしまっているらしく、彼らが喋っていても起きる気配は感じられない。
「そんなわけで、今はラジオが運転のお供ってやつ」
「──あぁ、なるほど」
ここまでの短いやり取りを経てアーロンは納得した。さっきからヴァンがどことなく嬉しそうに喋っている理由を。
「そいつは悪かったな。所長さんを寂しがらせちまったみたいで」
きっと話し相手が欲しかったのだろう。遠回しに構ってくれと言っている。
後部座席からは運転手の表情が確かめられず、何気なく顎を引き上げてバックミラーに意識を寄せてみる。
ふと、小さな鏡の中でヴァンと視線がぶつかった。
濃紺の瞳は一瞬だけ驚きを露わにしたが、すぐに柔らかい笑みを形作る。
「ったく、暢気によそ見なんかしやがって」
それに返事をするかのようにアーロンが口角をつり上げた。
「相手くらいはしてやるから、きっちり前を見てろよな」
今まで彼の運転を不安に思ったことはないが、弄りついでに一応は釘を刺す。
「……なんだよ。お前と比べたらはるかに安全運転だぞ、俺は」
この一言を境に二人が鏡を通じて交わることはなかった。
車中のラジオからは、悠々とした午後に合わせてスローテンポな一曲が流れている。
舗装された道路のおかげで走行時の振動が心地良く、しばらくは誰も目を覚まさないだろう。
今は二人きりのようで二人きりではない、曖昧な線引きが成された空間。
たまにはそんな所で戯れるのも一興だと、男たちはささやかに声だけの応酬を楽しんでいた。
2024.01.09
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