今夜はいまいち集中力が続かない。
自室で机に向かっていたロイドは、片手で自分の髪を掻き回しながら唸った。
チラリと窓に目を向ければ、いくつもの灯りが街を彩っている。
そろそろ夜も盛りの時間帯だろうか。
時折、賑やかな声が薄く開けた窓の隙間から入り込んでくる。
「ん~、これじゃ分かりにくいか」
ロイドは書きかけの書類に視線を戻して難しい顔をする。
彼は本日分の報告書を書いていた。
これは上司に提出する代物だが、相手はあのセルゲイ課長だ。
書類として最低限の体裁が整っていれば、すんなりと受け取ってもらえるだろう。
基本的にはリーダーであるロイドが作成しているが、エリィやティオが手伝ってくれることも多い。
しかし、ランディだけはこういった作業が苦手だと言って憚らず、逃げの一手だ。
よくエリィに睨まれているが、「適材適所だろ?」などと最もらしい台詞を口にして矛先をかわしている。
そんな年上の同僚の姿が頭を過ぎり、ロイドは小さく笑った。
夕食を終えてから小一時間ほどして、ランディは軽い足取りで夜の街へと繰り出して行った。
遊び慣れている彼にとって、クロスベルの歓楽街は庭のようなものだ。
「毎晩よく行くよなぁ」
また、窓の外に視線が動いてしまう。
ロイドはしばらく無言で街の夜景を眺めやった。
「……下でやろうかな」
ペンを持つ手が止まり、唇から声が漏れる。
これといって理由はなかったが、なんとなくそう思ってしまった。
おもむろに席を立った赤毛の青年に、バルカのオーナーであるドレイクは僅かに瞠目した。
「おい、やけに早いな」
ランディは軽くギャンブルを楽しんだ後、二階のカウンター席に腰を下ろしていた。
ドレイクと遠慮のないやり取りを交わしてグラスを傾けていたが、ふと何かに気が逸れた様子だった。
ほんの数拍の後、無言になった口に残りの酒を一気に流し込む。
「あぁ、なんか早く帰った方がいいような気がしてきちまった」
「は?なんだそりゃ」
「さぁな。ま、なんとなくってヤツ」
あからさまに訝しむドレイクに向けて肩を竦めてみせる。
正直、彼自身にもよく分からない心の機微らしい。
「お前、所帯じみてきやがったな」
ドレイクはニヤリと笑って揶揄したが、これは決して悪い意味ではなかった。
目の前の青年とは彼がクロスベルに流れ着いて以来の付き合いだが、その頃に比べれば随分と変わったと思う。
特に特務支援課という部署に配属されてからは。
「……勝手に言ってろって」
ランディは反論するわけでもなく、軽く片手を上げて踵を返す。
賑やかな音を立てるスロットマシンに目もくれず、真っ直ぐに出入り口へと歩いて行った。
いつもなら多少の未練が残る帰り道だったりするが、今夜は全く気にならなかった。
歓楽街から住宅街を抜け、西通りを歩く。
華やかな照明や雑多な喧噪とは縁のないこの辺りの区画は、夜になれば静かなものだ。
ランディは慣れた足取りで街路を進みながら、ぼんやりと考える。
「なんだかなぁ……気紛れっつーのとは違うんだよな」
どう頑張っても説明ができない。
言葉にすれば、ただ本当に『なんとなく』としか言いようがなかった。
「まぁ、居心地が良いのは確かだけどよ」
ドレイクにからかわれても言い返さなかったのは、自覚があったからだ。
帰る場所があるという現実に、くすぐったくなるような嬉しさを感じてしまう。
そんなことが頭を巡っている内に、いつの間にかその場所に到着していた。
発展していく街に取り残されたような古いビルだが、住んでしまえばどうということはない。
今ではすっかり愛着のある我が家だ。
ランディは裏口の扉を出掛けに持ち出したスペアキーで開錠し、静かに建物内に入った。
「ただいま~っと」
まだ就寝には早い時間帯だが、夜間には変わりなく、小声で帰宅の挨拶をする。
そのまま自室へ戻ろうとしたが、ふと下の階から光が漏れていることに気づいた。
普段なら仲間たちはそれぞれ自室で寛いでいる時刻だが、人の気配がする。
「こんな時間になにやってんだか」
ランディはそう呟きながら階段を降りた。
すると、そこにはテーブルに突っ伏しているロイドの姿があった。
「──っ!?」
何事かと血相を変えた彼は、足早に同僚の側に近づく。
遠目からは気絶しているようにも見えたが、よくよく観察すれば規則正しい寝息が聞こえ、その表情は穏やかだった。
頭を乗せている腕の下には、書きかけの書類と捜査手帳が見え隠れしている。
何をしていたのかはすぐに分かった。
「はぁ~、驚かせんなよ」
ランディは胸を撫で下ろし、僅かに横を向いている寝顔を覗き込んだ。
元から童顔のロイドだが、目が閉じているせいか更に幼く見えてしまう。
無意識に手が伸びて、少し跳ねた栗色の髪を撫でつける。
「う……ん……兄貴」
寝息の隙間から小さな声が零れた。
けれど、瞳は伏せられたままで起きる気配はない。
「こいつ、結構なブラコンだよなぁ」
ランディは呆れた様子で苦笑したが、続いて流れ落ちた言葉に目を見開いた。
「いか……な……いで」
急に胸の奥がざわつき始める。
どこかで兄の姿を重ねているロイドに対して、微かに棘をはらんだ感情が沸き上がってきた。
旧市街で熱戦を繰り広げたあの時に、彼自身がそう言っていたのを聞いていたはずなのに。
「……どこにも行かねぇよ」
今まで感じたことがないわだかまりに戸惑いを隠せない。
それでも、子供のような声を放っておきたくはなかった。
何かが頭に触れている。
それは大きくて温かくてとても心地良かった。
ロイドはうっすらと目を開いた。
「よぉ。見事に沈没してたな」
「っ、あ!?」
すぐ側で声が聞こえ、勢いよく飛び起きると、目の前には赤毛の青年が頬杖をついて座っていた。
「ラ、ランディ?……あれ?」
慌てて辺りを見回しながら何度も目を瞬かせる。
「あぁ、そっか、報告書」
それから突っ伏していたテーブルにある書類を見て、ようやく状況を把握した。
どうやら報告書を作成中に眠気に襲われてしまったらしい。
思わず溜息を吐くと、
「お前さん、なんでこんなとこでやってんの?いつもは自分の部屋で書いてるだろ」
ランディから率直に問いかけられた。
「なんか集中できなくてさ。なんとなく下に降りてきたって感じかな」
ロイドは少し考え込んだが、元から明確な理由があるわけでもなく、困り顔で返す。
「ふ~ん、『なんとなく』ねぇ」
それが自分と重なり合うような気がしたランディは、嬉しげに瞳を細めた。
「あ、実は俺の帰りを待っててくれたとか?お兄さん感激しちゃうな~」
「全然、違うし!大体、ランディだっていつもはこんな早く帰ってこないくせに。今日に限ってなんのつもりだよ?」
いつのの調子でからかってくる年上の同僚を前に、ロイドはついムキになってしまう。
それが子供じみたことだと自覚はしていても、勝手に口が動くのを止められなかった。
「なにって言われてもなぁ。俺も『なんとなく』だし」
ランディはそんな様子を眺めやり、喉の奥で笑いを押し殺す。
誰に何度聞かれても、馬鹿の一つ覚えみたいにその言葉しか出てこない自分が可笑しかった。
けれど、これ以上の不毛なやり取りをする気もなく、
「それより、報告書はいいのか?」
指先で軽くテーブルを叩きながら話題を逸らしてみせる。
「よくないけど……たまには手伝ってくれてもいいんだぞ」
虫の居所が悪くなっているロイドは、楽しげな同僚をジロリと睨んだ。
「すっげー適当に書くけど?」
はなから手伝う気のないランディは、わざと真面目な同僚が嫌がりそうな台詞で逃げる。
「あー、はいはい。だったらもう部屋に戻れよ」
案の定、ロイドはそれを良しとはしなかった。
少しだけ頬を膨らませつつ、書きかけの書類にペンを走らせ始める。
「つれないな~。うちのリーダーは」
冷たくあしらわれたランディは、特に傷心するわけでもなく表情を緩ませた。
席を立つつもりはないようで、黙々と作業する同僚の姿をジッと見つめている。
(……なんで戻らないんだよ?)
残念ながら、ロイドの予想は外れてしまった。
あんな態度を取ればさすがに自室へ戻るだろうと思っていたのに、まるで動く気配がない。
表面上は平静を装って書類に向かっているが、一方的な視線のせいで落ち着かない胸中だ。
どうして急に無言になってしまうのか。
せめて何か喋ってくれたらいいのに。
自分だけがやたらと気恥ずかしいこの状況をどうにかしたくて、ロイドは必死に頭を回転させようとした。
しかし、冷静さを欠いた中では良策が思い浮かばず、苦しまぎれな一言だけが声になる。
「──なにか飲みたい」
本当に何の脈絡もない言葉だ。
それが聞こえたランディは一瞬驚いたが、すぐに肩を震わせて笑いを噛みしめる。
「持ってこいって?ははっ、人使いが荒いねぇ」
相手の要求でその心境を察したのか、ようやく椅子から立ち上がった。
「取りあえずコーヒーでいいか?ミルク入れてやるから」
「ブラックでいいから」
一応お伺いを立ててみると、少し不満げな答えが返ってきた。
「へいへい」
ランディはそんな彼の頭を少し乱暴に掻き混ぜ、台所へと足を向けた。
赤毛を揺らした背中が見えなくなった後、ロイドは盛大に息を吐いてテーブルに突っ伏した。
「はぁー、なんだよ、もう」
あまり経験のない緊張感だったせいで、胸の鼓動が忙しない。
子供扱いは毎度のことだが、あんな風に見つめられたのは初めてだった。
「手……温かかった」
微睡みの中で感じた優しさは兄のようで、でもどこか違うようで。
さっきのように髪を乱されても嫌ではなくて、むしろ嬉しくて。
ランディにとっては他愛のないやり取りだったのかもしれない。
それを妙に意識してしまっている自分にロイドは戸惑った。
「なんか変だな……俺」
身体を起こし、ぼんやりと報告書を見つめる。
もう少しで書き終わるというのに、この書類と向かい合う気になれなかった。
台所に移動したランディは、慣れた手つきでポットに水を入れて火をかけた。
食器棚からカップを二つ取り出して、コーヒーを炒れる準備を進める。
いつもなら鼻歌でも混じりそうな動作だったが、今はそんな余裕が持てなかった。
「偶然にしては出来すぎじゃねーの?」
少し苦しげに顔を歪めて独りごちる。
互いの『なんとなく』は、まるであの空間を作り出すための予感にすら思えた。
ランディは蒸気が立ち上り始めたポットを眺めつつ、無造作に前髪を掻き上げた。
「……無性に構いたくなっちまう」
あの寝言のせいだろうか。
今夜はただの戯れではなくロイドに添っていたい。
色々と遊び歩いているが、こんな気持ちになった相手は今まで一人もいなかった。
「あー、そういえば」
彼はふと、特務支援課の一員として初めてウルスラ病院を訪れた時のことを思い出した。
初対面だったセシルは随分と天然で、三人ともロイドのお相手候補認定をされてしまった。
あの時、まさか自分にも振ってくると思わなかったランディは、冗談交じりでそれに乗ったのだが。
「はぁ、やべぇ……冗談じゃなくなりそうだ」
一体何の布石かと、つい苦笑いをしてしまいたくなる。
色恋沙汰と無縁ではないランディが、この感情の正体に気づけないはずがなかった。
蒸気の吹く音が次第に大きくなってきた。
お湯が沸くまでにはさほど時間がかからないだろう。
扉の向こうの気配を探れば、確かに彼の存在を感じる。
例えその場に居づらかったとしても、律儀で真面目なロイドが頼みごとをしたまま離席することはまずありえない。
「報告書、手伝ってやるか」
不意に、ランディの口から珍しい言葉が発せられた。
さっきの様子を見る限り、手が止まってしまっているような気がする。
本人は平静を保ったつもりだろうが、ランディにしてみれば落ち着きのなさは一目瞭然だった。
周囲には無自覚に爆弾を振りまいているくせに、いざ当事者となると上手く立ち回れない姿がなんだか微笑ましい。
「まぁ、しばらくは『兄貴』でも仕方ねぇかな」
今は時期尚早だ。
気づいてしまった自分の気持ちを、まだ十分に噛み砕けていない。
正直、もう少し時間が欲しいと思った。
2020.07.24