静まりかえった暗い森の中から二人分の目が覗く。
茂った木々の先は拓け、そこにはいかにも不審な建物があった。
元は廃工場だったとのことらしいが、今は随分と物々しい雰囲気だ。
可動式のサーチライトが一定の間隔で辺りを照らしている。
ランディはその動きを観察していたが、しばらくして光源から視線を逸らした。
「……ったく。なんで一課のヤマに俺たちが駆り出されてんだか」
真剣な顔から一転、砕けた口調で木に寄りかかって座っている。
「文句言うなよ。それだけダドリーさんが認めてくれてるってことだろ」
彼の向かいで立て膝を付いているロイドが相棒をたしなめた。
今回の任務はテロ行為を企てている武装組織の強制捜査──もとい、無力化と鎮圧だ。
クロスベルの裏社会は長年ルバーチェの存在があり、一種の治安が保たれていた。
それがなくなった今、この界隈では黒月が勢力を広めているが、それ以外にも大小様々な組織が活発に動き始めている。
今夜のターゲットもそんな組織の中の一つだった。
作戦開始までにはまだ少し時間があり、待機しているランディの愚痴が続く。
「こき使うなら、特別手当でも寄こせって」
「そんなの出るわけないだろ」
「いや、いや。俺はそれなりの対価は必要だと思うぜ」
元猟兵として報酬に見合った仕事をしていた彼らしい言葉だ。
「俺に交渉してこいとか言うなよ?行かないからな」
やる気がなさそうな口振りだが、その声は明るい。
久しぶりに血が騒いでいるのかもしれない、とロイドは思った。
ランディにしてみれば、この程度のミッションは子供の遊びと同じようなものだ。
それでも魔獣相手の時とは違い、対人戦であるがゆえの独特な空気が漂う。
再び建物の様子を覗う彼を、ロイドがちらりと盗み見た。
静かで余裕がある男の横顔は、自然と安心感を与えてくれる。
しかし、裏を返せばそれだけ自分が不安と緊張を抱えているということにもなる。
こういった状況の場数はそれなりに踏んでいるが、どうしても身体が固くなっていくのが止められなかった。
「……思ったより内部は暗そうだな。でも、見取り図は頭に叩き込んだし」
ロイドは今回の作戦の段取りを反芻し、独り言のように呟き始めた。
それが耳に入ってきたランディは思わず苦笑いをする。
(あ~あ、ガチガチじゃねぇかよ)
声だけでも緊張の様子が伝わってくる。
彼は腰をかがめながら相手に近寄り、気安く茶色の頭に片手を乗せた。
「なぁ、ロイド。ちょいとお兄さんからの頼みごと聞いてほしいんだけど」
「なんだよ、こんな時に」
わざとらしく前置きをしながら髪の毛を何度か掻き混ぜると、真面目な相棒が眉を顰めた。
「景気づけにキスの一つでもくれよ」
暗闇の中、光の軌跡が反射している翡翠色が戯けて笑った。
とても作戦前とは思えない緩さを見せられ、ロイドは呆気にとられてしまう。
戦場に慣れ親しんできた故の感覚なのか、まるで普段と変わらない言動だ。
「バカ。ふざけてる場合じゃないだろ」
「──少しはほぐれたか?お前さん、さっきから力みまくってんぞ」
ようやく声が出たロイドに対し、年長の男はやんわりと指摘をした。
適度な緊張感は必要だが、強すぎるそれは逆に悪影響を及ぼしかねない。
下手をすれば命に関わることもある。
「……あっ」
ロイドはハッとして目を瞬かせた。
傍からでも分かってしまうくらいに固まっていたのだと実感させられる。
それと同時に、自然と肩の力が抜けていくのが分かった。
「それで?キスはくれねぇの?」
そんな彼の変化に安堵したランディは、ふざけたついでに軽く迫ってみた。
今は全面に出ている相棒としての顔の下、隠れている恋人を掠め取りたい衝動に駆られる。
しかし、更に距離を詰めた瞬間、ロイドの手がランディの口元を塞ぎにかかった。
「今はお預けだ」
じゃれつく大型犬へ『待て』をかけるようなひと睨み。
「調子に乗って無茶しそうだからな」
そう短めに言い放ち、塞いだ手を離して一人分くらいの距離を取る。
ランディの要求を完全に拒否してもよかったのに、そうしたいとは思えなかった。
発端になった言葉は彼流の気遣いであって、この状況で側にいてくれることに嬉しさが募る。
けれど、やはりロイドは真面目だ。
作戦の直前にそんな行為ができるような性格ではなく、あんな風にしか言えなかった。
「おっ、よく分かってんな」
それを良く知るランディは、なんの未練もなくあっさりと身を引いた。
ただ、ロイドが譲歩してくれたことが意外すぎて、まだ何も貰えていない内から調子に乗りたくなってくる。
「でも、お預け食らうんならキスだけじゃ足りねぇな」
携帯している時計を確認すれば、作戦の開始まであと数分。
ランディがわずかに身を起こし、臨戦態勢に入った。
同調して愛用のトンファーを握りしめた相棒を一瞥し、ニヤリと笑う。
「なぁ、知ってた?戦場の高揚感と性欲って結構似てるんだぜ」
時計が開始時刻を刻んだ瞬間、敷地内で複数の大きな爆発音が響き渡る。
二人は味方の陽動を受けて建物に突入する手筈になっていた。
森の中から勢いよく踊り出したランディが、一直線に目的地へ向かう。
「そんなの知るか!お預けは前言撤回だ!」
彼の問題発言のせいで一瞬出遅れてしまったロイドは、活き活きとした背中に向けて怒鳴った。
そして、自らも戦いの場へと走り出した。
段取りは完璧だった。
陽動から突入、そして組織の鎮圧までの流れは滞りなく進んだ。
二人は鎮圧後の後始末の諸々まで手伝わされ、ようやく解放された時には夜も深まりきっていた。
街へと戻る導力車に乗せてもらい、入り口に降り立った直後にランディが脱力する。
「はぁ~、やっと終わったな。相変わらず人使いの荒いヤツらぜ」
支援課ビルに帰ってひと眠りする頃には朝日が昇ってきてしまいそうだ。
「お疲れ様、ランディ」
「あぁ、お前もな」
まだ静か街中を歩きながらロイドが労うと、お返しとばかりに大きな手が背中を叩いてきた。
「……っ!」
すると、大した衝撃でもないのに彼の肩が小さく跳ねた。
「なんだ?どっかやられてんのか?」
「あ、いや。ちょっと考え事してて……」
その反応に違和感を覚えたランディが問いかけたが、ロイドは驚いただけだと答える。
「ふ~ん。ま、徹夜みたいなもんだしな。ぼーっとしても仕方ねぇか」
赤毛の男は訝しげな瞳で相手の全身を舐め回したが、負傷ではないと分かってすぐに元の調子に戻った。
早朝になろうかという帰宅なこともあり、二人は西通りから裏口の方へ向かった。
最初からその予定で鍵を持ち出していたロイドは、ポケットの中を探る。
だが、指先がそれを捉えた瞬間に彼の足が止まった。
「なぁ、ランディ」
呼び止めると、数歩ほど距離が広がってしまった背中が振り返る。
「どうした?」
「俺さ……なんか、ちょっと分かった気がする」
ロイドはポケットの中の鍵を弄りながら口を開いた。
目線が下へ落ち、綺麗に舗装された地面を彷徨う。
「突入前に言ってた戦場の高揚感と……ってやつ」
あの時は随分とふざけたことを言うものだと思ったのだ。
けれど、怒号と銃声が飛び交う緊迫感の中で、確かに胸の奥で昂ぶる何かがあった。
それは身体を重ねた時に全身を巡る熱と似ているような気がする。
「あぁ、あれな。ちょっとは実感したとか?」
まさかその話題が出てくるとは思わず、ランディは内心驚いた。
あれはただの戯れ言というよりも、戦いを生業とする者であれば別に珍しくもない体感を述べただけだった。
彼の心中を図りかね、次にどう出るべきかと思案する。
探るような目を向ければ、ふと上向きになった強い視線とぶつかった。
「……キスぐらいならしてやってもいい」
どこかぶっきらぼうな声がランディの耳を打つ。
そこで彼は理解した。ロイドが何を欲しているのかを。
「なんだよ。撤回したんじゃなかったのか?」
珍しく遠回しな言い方をしているのが可笑しくて笑いが込み上げてきたが、それを見たロイドは膨れっ面になってしまった。
「そうだけど、そうじゃない」
ずっと密かに触れているだけだった鍵を握りしめると、手の平にじわりと汗が滲んだ。
このままでいるのが酷くもどかしい。
もしも一人だったら、気を紛らわせる方法なんていくらでも思い付いていたのだろう。
けれど、今は目の前に彼がいる。
そんな状況でこの熱っぽい疼きを静める手段は、たった一つしか知らなかった。
「訳わかんねぇこと言いやがって。素直じゃねぇな」
いつもの真っ直ぐさが形を潜めているのは、初めての感覚に戸惑っているからなのか。
立ち止まったまま一歩を踏み出してこない姿が、自然とランディの目元を緩ませる。
「ほら、裏口開けるんだろ?のんびりしてると朝になっちまう」
残夜もすぎ、いよいよ空も白み始めてくる頃合いだろう。
ランディが薄まる紺色を見上げながら急かし、ようやくロイドの足は動き出した。
西通りから支援課ビルへと続くわずかな道のりは、まるで情欲に急き立てられるようだった。
裏口の鍵を開け、やっと居心地の良い住処に帰ってきたはずなのに、肝心の心は落ち着かない。
「……なんで黙ってるんだよ」
ランディはさっきから無言のまま、薄暗い廊下を進むロイドに添っている。
立ち止まって上目遣いで睨んだ途端、意地悪げな笑みとぶつかった。
「お前、余裕なさそうだからさぁ。喋ってんの無駄だろ?」
「余計なお世話だ」
完全に見抜かれている。
声だけでなく、触れてこないのもそういう理由なのだろう。
この手のやり取りでは分が悪すぎて、つい悔しさが込み上げてくる。
やられてばかりなのは癪だと、ロイドはさっきの言葉を実行に移す為に手を伸ばした。
相手の胸ぐらを掴んで顔を引き寄せ、強引に唇を重ねてみせる。
これで歯止めが利かなくなるのは承知の上だった。
「いきなり突撃してくんなよ。ギリギリまで抑えてやろうかと思ってたのに」
廊下の真ん中で口火を切ってきた彼に対し、ランディが皮肉めいた言葉を吐く。
どうやら一切の気遣いは不要なようだ。
真っ向から見据えてくる瞳が官能的な火を灯し、こんな煽られ方も悪くないとさえ思う。
「ほら、さっさとこいよ」
ロイドの腕を捉え、自分の部屋へ引きずり込む彼の動きに遠慮はなかった。
『待て』をしたはずの大型犬が、猛々しい獣に変貌する様を見た。
部屋に入って早々、上着を脱いでソファーの上に投げ捨てる。
後ろで束ねている髪を勢いよく解き、頭を振った後で赤が乱れた。
「そっちだって……余裕がないくせに」
その姿はロイドの高揚を加速させ、憎まれ口を叩く声が吐息混じりで揺れる。
「あぁ?お前のせいじゃねぇかよ」
二人してもつれるようにして転がり込んだベッドの上は、熱を帯びてはいても甘ったるい空気とは程遠かった。
互いに微かな火薬と粉塵の匂いを纏わせ、戦いの名残を共有する。
ロイドは「分かった気がする」という言い方を訂正したくなった。
気がするのではなく──今、それを完全に理解した。
2021.09.18
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