勝手気ままにイーディスの街を歩くなら、いちいち天気予報などは気にしない。
空は朝からずっと不安定な様相だ。鈍色の雲が厚く垂れ込める中、いつ雨が降ってきてもおかしくはない状況だった。
──ぽつり、ぽつり、と。
今まさに上空から小さな雨粒が落ちてきた。
彼は一度だけ上を見上げ、すぐに近くの建物へ身体を滑り込ませる。
「さて……っと、どうすっかなぁ?」
少しばかり軒下を拝借しつつ、アーロンは平然とした様子でザイファを開き時刻を確認した。
昼食時で賑わっていた飲食店がやっと一段落した頃合いだ。雨宿りと称してまったりするのも悪くない。
なのだが、
「集合は十五時だったよな」
彼はこの先の予定に頭を巡らせ、早々に最初の案を打ち消した。
なにせこの雨がいつ収まるのか予想できない。天候を見極める技術は日々発達しているが、雨雲の動きを事細かに捉えることはまだまだ難しい。
「どこかにしけ込むには時間が微妙すぎっつーか」
何気なく腕を組んで薄暗くなった街を見渡してみる。元からぐずついた空模様のせいか、傘を保持している人々の割合は高めだ。雨に濡れながら走っている輩もいるが、それも一時で各々が目指した建物へと吸い込まれていく。
その行き先を観察していたアーロンは、次の案を思い浮かべた。
「……駅まで走るか?はぁ~、マジかったりぃ」
全くもって不本意なのだが、それ以外の良策は出てきそうにない。
こんな所で足止めを食らっているよりは、旧市街へ戻った方が有意義かもしれなかった。
濡れた身体はシャワーで温め直すとして、その後はモンマルトで時間を潰せばいい。
生活をする上であれこれと世話になっている店なので、気兼ねなく居座れる場所であるのは確かだ。
アーロンはザイファをポケットへしまい、面倒くさそうに靴を数回鳴らした。
駅までの距離はそれ程遠くない。彼の足ならば濡れ鼠になる心配はなさそうだ。
「そんじゃ、行くか」
一度決めてしまえば、うだうだと悩みはしない。
彼は胸の前で手の平に拳を打ち付け、軒下に小気味よい音を響かせた。
と、その時。
「──よぉ、なんか目立つ赤毛を見つけちまったぜ」
次第に強くなっていく雨音の中、傘をさした男がゆったりと歩み寄ってきた。
ちょっとご近所へならともかく、別の地区への外出だったら多少は空の具合も気にかける。
ヴァンは身支度を整えながら窓の外を一瞥し、導力ネットで天気予報を確認した。
ザイファの画面を見つめる表情は、お世辞にでも柔らかいとは言い難い。
「……やっぱり降ってきそうだな」
事務所の時計に目をやると、時刻は十一時を少し回ったところだった。
本日の裏解決業務は午後に一件しか入れていない。
というのも、依頼内容から察するに少々面倒な案件の匂いがしたのだ。
助手たちの負担を慮り、他の依頼を入れるべきではないだろうと彼は判断した。
そんなわけで、緊急の要請がない限りは集合時間まで自由行動の予定だ。
ヴァンも同様のはずだったが、生憎と午前中に済ませておかなければならない用件があった。
事務所の経営に必要な公的書類の提出期限が差し迫っている。
昨日の段階でリゼットが指摘をしてくれなければ、彼自身はうっかり忘れたままだった大事な代物だ。
「リゼットには改めて礼を言っとかねぇとな、ほんと助かったぜ」
彼女は昨夜のうちに準備を整えてくれていた。
今日の天候のことまで考慮していたのか、提出用の書類はしっかりと厚みのある封筒に収められている。
「そろそろ出るか」
ヴァンは卓上に置かれたそれを手に取り、のんびりとした足取りで事務所のドアを開けた。
書類の提出場所はサイデン地区にある警察署だ。
「向こうに着くまでは持ちこたえて欲しいもんだがなぁ」
階段を下って屋外に出た彼は、そう呟きながら淀んだ雲を見上げる。
小脇には大事な書類を抱え、もう片方の手には一本の傘が携えてあった。
どうやらヴァンのささやかな願望は天にまで届いたらしい。
雨が降り出したのは、書類の提出を終えて別の地区へ移動してからだった。
昼食を取るために飲食店が並ぶ通りを物色し、混み具合がそこそこな店を選んで悠長に食事と洒落込む。
仕事の時間までには大分余裕があるし、あげくにこんな天気だ。独りでガラス越しの雨に浸るのは案外乙なものかもしれない。
「たまには、こんな日も良いもんだ」
ランチメニューの料理を綺麗に平らげた彼は、食後のデザートに舌鼓を打ちながら幸せな吐息を漏らした。
やはり甘い物は格別だ。
最後のひと匙を名残惜しげに口へ運んだ後、渋々ながら寛いでいた腰を上げる。
いつの間にか昼時のピークは過ぎていたようで、店内には緩やかな空気が流れていた。
ヴァンはドアのベル鳴らし、水気をはらんだ街路へ足を踏み出した。
雨脚が徐々に強くなり、開いた傘の上では大粒の水滴たちが合唱を始めている。
これでは気軽な街歩きを楽しむ気にもなれない。そう思った彼は、駅がある方向へ進路を取った。
「さっさと戻って昼寝だな。この一択しかありえねぇ」
唇から発せられる暢気な声は、足元の水たまりを踏む音と相まってどことなく楽しそうだ。
そんな最中。
視界の片隅に鮮やかな色が飛び込んできた。
「──あっ?」
思わずその場で足を止める。
驚きながら目線を移動させると、前方にある建物の軒下に赤い長髪の青年が佇んでいた。
彼は一時だけザイファを開いた後、腕組みをして何やら思案している様子だった。
「マジかよ。偶然にも程があるだろ」
驚きのあまりヴァンの声は掠れ、紺青の眼だけがじっとその立ち姿を見つめる。
この天気で視界が悪いのか、どうやら向こうは気づいていないようだ。
「いや、ここは見なかったことに……」
彼はすぐにそう判断した。
状況からして雨宿りをしているのは確かだったが、どこかに連絡を取っている素振りにも見えた。
今は自由行動中なので、声をかけるのは野暮というものだろう。
しかし、一つだけ。アーロンが何やら考え込んでいる様子なのが気にかかった。
そんなことはないと思いつつ、もしかしたら身動きが取れない状態なのかもしれないと。
「まぁ、ウザがられるのは分かってるんだけどなぁ」
そんな風に憂慮してしまえば、放っておけないのが彼の性。
ヴァンは自嘲気味な笑みを浮かべながら軒下へと歩き出した。
今まさに走り出そうとしていた矢先だった。
声をかけてきた人物を見た途端、アーロンが瞠目する。
「ヴァン?てめぇ、なんで……」
数拍を置いてから口を開くと、挨拶のつもりなのか男は傘を傾げた。
「あ~、他意はねぇって。たまたま通りかかっただけだからよ」
あからさまに訝しんでみれば、ヴァンは困ったような微笑をしながら近づいてくる。
「……これからどこかに行くのか?」
「それはねぇな。今から遊ぶにしても中途半端だしよ」
この後の予定を遠慮がちに聞かれ、アーロンは即答してから駅がある方向へ視線をやった。
「さっさと帰って下で時間を潰そうかと思ってな。走ればそこまでは濡れねぇだろ」
言うやいなや、今度こそと思って足先に力を込めようとしたが、
「なら、入っていくか?丁度俺も帰るところだ」
そこで予想だにしなかった申し出をされて唖然としてしまった。
軽く十を数えるくらいの間、無言のままで相手を凝視する。
彼にしてみれば、まさに降ってわいてきたような僥倖だった。
傘があれば雨にさらされる心配もなく、密かに憎からず思っている男の傍らにも添える。
デメリットはゼロで良いことずくめだ。だったら軽い調子でささっと隣を陣取ってしまえばいい。
しかし、彼は如何せん捻くれた性格をしていた。
「なんだよ。貸しでも作っておこうって魂胆か?」
「お前なぁ……ほんと素直じゃねぇガキだな」
腕組みをしながら睨め付けると、ヴァンは肩を竦めながら小さな溜息を吐いた。
きっとアーロンの心中などお見通しということなのだろう。それくらいには深い縁がある。
「──あぁ、ほら。雇い主の俺としては、助手たちに風邪でもひかれたら困るんでな」
少しの時間を置き、ヴァンが尤もらしい理由を捻り出して再び手を差し伸べてきた。
傘の下で首を傾ける動きは柔らかく、それを見たアーロンが嬉しそうに両眼を煌めかせる。
「そういうことなら、まぁ……入ってやってもいいぜ」
「はいはい。ありがとよ」
気まぐれで天邪鬼な猫はご機嫌な顔で身を躍らせ、ヴァンの小脇に難なく滑り込んだ。
ここから駅までの道のりは単純だ。
少し先の角を右に曲がり、大きな通りに出てから直進すればいい。
特に急ぐ理由はなく、他愛のないやり取りを交わしながら歩を進める。
「まさか、こんなオッサンと相傘するハメになるとはなぁ」
「ははっ、悪ぃな。年上の綺麗なお姉さまじゃなくて」
通常運転とばかりにアーロンが愚痴を吐き、ヴァンはごく自然にそれを受け流す。
ちらりと金色の眼差しが見上げると、朗らかな横顔が近くにあった。
(……っ、面白くねぇ)
しかし、その弾みで浮かれた心の隙間にわずかな劣等感が生じてしまう。
ヴァンの方が上背もあるし誘ってきた体もあるので、どちらが傘を持べきか?などとは考える余地もない。
頭では解っている。解ってはいるのだが、それでもアーロンの心境はちょっとばかり複雑だ。
彼に対してはいつだって主導権を握っていたい。思うがままに振り回してみたい。
「ん?何か言いたそうだな?」
そんな腹の底にある小さな焔はおのずと瞳へ宿り、それに気づいたヴァンが顔を向けてきた。
「さぁな。うちの所長さんは随分とお優しいってな」
アーロンはわざと戯けた口調でそれを誤魔化し、隣の男から視線を外した。
すると、今の言葉が引き金になったのか、急にある違和感を覚え始めた。
いくら紳士物の傘とはいえ、大の男が二人並べば窮屈なことには変わりない。
彼は取りあえず頭が無事なら良いだろうという感覚で、胴体の方はさほど気にしていなかった。
しかし、今のアーロンの肩口は全くと言っていいほど濡れていない。
(こいつ、ふざけた真似しやがって)
行く道は大通りに出る角を曲がる直前。
広い道を隔てた向こう側のショーウィンドウに、ぼんやりと二人の姿が映っている。
相傘のわりにはバランスが悪く、明らかにアーロンの方へ偏っていた。
それを視認した瞬間、彼の表情が歪んだ。
雨脚は弱まる気配がなく本降りになっている。この分では、ヴァンの半身はしっかりと濡れてしまっているだろう。
「おい、ヴァン」
「なんだ?やっぱり何か……って、うおっ!?」
傍らにいる男を呼ぶ声が少し低くなり、彼の応答を遮って上着ごと腰を抱く。
「い、いきなり何しやがる!」
不意打ちを受けた身体はぐらりとよろめき、その機を捉えたアーロンが更に強く腰を引き寄せた。
「そういう気遣いはウゼェから止めろ」
これでもかと言わんばかりの密着状態は、顔を向ければ息がかかるくらいに近い。
慌てふためくヴァンに対し、アーロンは言葉通りの表情で鋭く睨んだ。
「な、何がだよ!?」
そのまま強引に歩き始めると、為すがままにされている男が切羽詰まった声を上げた。
「何がって?助手としては所長さんにお風邪を召されると困るんでな」
ここまで寄り添ってしまえば、傘を傾ける動きさえ困難なはず。
自分の肩に雨粒が落ちてくるのを感じ、アーロンは満足げに頬を緩めてそう言った。
大通りに出てしまえば後は道なりだ。
駅の建屋が目視できるくらいの距離で、時間にすれば大したことはない。
──はずなのだが。
ヴァンにはこの真っ直ぐな道程がやけに長く感じられた。
「なぁ……さすがにこれは無しだろ?」
腰元に回された手は力強く、傘の下では恋人同士かと見紛うような触れ合いが続く。
こんな天気なので、外を歩いている人が少ないのは幸いだった。それでも人目が気になってしまい、落ち着きなく視線を彷徨わせる。
「もうさっきみたいな持ち方はしねぇって」
アーロンに引き寄せられた際、バランスを崩した流れで咄嗟に傘の柄を両手で持ってしまった。
幸か不幸か、今はそれが丁度良い塩梅になっている。
彼は握る手に少しだけ力を込めて隣の反応を覗ってみた。
「こういう時のてめぇは信用できねぇな。どうせ無意識でやらかすに決まってる」
しかし、見事なくらいにバッサリと切り捨てられてしまい大きな溜息が落ちた。
「はぁ~、なんか言い返せねぇ気分だ……」
「ちなみに、有りか無しかで言ったらオレ的には有りだぜ?何の問題もねぇな」
力なく項垂れた横面にアーロンの吐息がかかる。
唇が肌に触れそうで触れない、ぎりぎりの所で言葉を紡がれて思わず肩が跳ね上がった。
「……うぅ、俺的には無しなんだよ。恥ずかしすぎんだろうが」
驚きと動揺で忙しない胸の鼓動を聞きながら、消え入りそうな声で本音を零す。
アーロンの性格を熟知している彼は、完全な諦めモードに入るしかなかった。
これはもう、何を言っても身体を離してくれそうにない。
だったらせめてと、雨の匂いが濃厚な街並みに願う。
(今はマジで顔見知りに会いたくねぇ。どうか……誰も通りかからないでくれ)
進行方向の先に見える目的地はやたらに遠く、足は動いているはずなのに全く近づいている気がしない。
「無心だ……無心だ」
「くくっ、まぁ、がんばれよ。所長さん」
ぶつぶつと呟き始めた横でアーロンが意地悪げに笑っている。
どうしてあの時に声をかけてしまったのだろう?
どうして傘の中へ誘ってしまったのだろう?
少し前の己の言動を反芻したヴァンは、本気で後悔をしたくなってしまった。
2023.11.03
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