幸せな失態

 どうせ振り払えないなら、さっさと帰ってしまいたかった。
けれど、隣にある嬉しそうな顔は暢気な足取りを崩そうともしない。
ランディはいつもなら軽妙な唇を引き結び、ただ前を向いて歩いた。
薄闇を纏った街中を微かな夜風が通り過ぎていく。
夜陰に紛れているとはいえ、それを涼しいと感じてしまうくらいに彼は赤面していた。
──話は少し前に遡る。

 

 歓楽街の夜は今が最高潮といった様相だ。
煌びやかなネオンの下、享楽に浮かれた人々が集まっている。
そんな中を彼らは肩を並べて歩いていた。
「う~ん、これ以上は何もなさそうだな」
「ま、それなりに収穫はあったからいいんじゃね?」
真剣な面持ちで唸っているロイドとは対照的に、ランディはすれ違う夜の蝶たちを緩やかな笑みで眺めやっている。
二人はとある任務で情報収集の為にここを訪れていた。
当たりを付けた数軒の店を回り、いくつかの有益な情報を得られたので、結果は上々といったところだろう。
「──で、この後どうする?」
「帰るに決まってんだろ」
仕事の終わりを察知した陽気な声を、ロイドは言葉少なに切り捨てた。
夜遊び好きな相棒の言いたいことなんて分かりきっている。
「なんだよ。つまんねぇヤツだな」
ランディはわざとらしく肩を竦めてみせた。
「そんなに行きたいなら、一人でブラついてこい」
「あいにくと、お一人様って気分じゃねぇから」
仕事の一環とはいえ、折角二人で歓楽街に来ているのだ。
彼にしてみれば又とない機会なのだから、飲みに行きたくなるのは当然だろう。
しかし、ロイドの態度は素っ気ない。
色よい返事は貰えそうになく、それでも諦めきれなくて声をかけ続ける。
「たまには付き合えよ。一杯だけでいいから」
「さっきの情報、帰って整理しとかないと」
「そのくらい飲みながらでもできんだろ?」
雑多な人並みの中をのんびりと歩みながら、男たちは軽く押し問答を繰り広げた。
もちろんそこに険悪な雰囲気はなく、会話だけでじゃれ合っているようにも見える。
二人はそのまましばらく絡んでいたが、肝心の話はずっと平行線のままだった。
「はぁ……真面目すぎるっつーか、頑固っつーか」
頑なに誘いを突っぱねられ、さすがのランディも消沈の溜息で首を左右に振る。
「お前さぁ、もうちょい緩くなれねぇのかよ」
無駄だと解っていても、つい愚痴っぽくなってしまう。
「帰宅するまでがお仕事ですとか……マジで思ってそうだよなぁ」
しかし、いつの間にかテンポ良く返ってきていたロイドの声が聞こえなくなっていた。
「──おい?」
隣に彼の気配はなく、気色ばんで立ち止まる。
一方的に不満を零していたせいで注意散漫だったのか、まるで気が付かなかった。
その場で振り返り、賑わう通りの中へ鋭い視線を走らせる。
幸いにも栗色の頭をした相棒の姿はすぐに見つかった。
だが、その状況を察した途端に張り詰めた緊張感が崩れ落ちていく。
「……何やってんだよ、あいつは」
街路に立ち並ぶ店の一画。
ロイドが艶やかに着飾っている女に捕まっていた。

 どうにも彼は妙齢の女性に対して及び腰だ。
日頃、セシルやイリヤに構われている影響があるのかもしれない。
ランディは少し離れた所からロイドの様子を覗った。
明らかに年上であろう女に迫られ、あたふたしている姿が笑いを誘う。
「いっそのこと、放置してみるか?」
ふと意地悪げな思考が過ぎったが、あの困り顔ではさすがに可哀想になってくる。
しかも、落ち着きのない視線は明らかに『誰か』を探して助けを求めていた。
そんなものを見てしまっては、とてもじゃないが放っておける気がしない。
「ったく、世話のかかるヤツだぜ」
どこか楽しげに呟いたランディは、助け船を出してやることにした。
彼はゆったりと二人の方へ歩み寄り、人懐っこい笑みを浮かべながら声をかけた。
「あー、悪ぃな。こいつウブだからさぁ……それくらいにしといてやってくれよ」
同時にロイドの首根っこを掴み、女との距離を取らせる。
「あら、ランディさんじゃない。随分とご無沙汰だったわね」
「ここしばらく忙しかったんでな」
どうやら彼女とランディは顔見知りの間柄らしい。
親しげなやり取りが耳に届き、ロイドはホッと胸を撫で下ろした。
こういった空気が苦手な彼にとって、この界隈に慣れている相棒の存在は頼もしい。
首に掛かっていた手は外れているが、側にいてくれるだけで不安が和らいでいくのを感じた。
「──今夜は寄るとこ決まってんだよ。また今度顔を出すぜ」
「つれないわね。まぁ、期待せずに待ってるわ」
安堵したせいか気が抜けてしまっていたらしく、男女の会話はいつの間にか収束に向かっている。
「そっちの可愛いあなたもね」
「……へ?」
だが、急に女から魅惑的な微笑みを投げかけられ、ロイドは目を丸くして固まってしまった。
それを横で見ていたランディが、わずかに顔を歪める。
歓楽街ではありふれた接客の光景だが、やたらと不愉快さが込み上げてきた。
「おい、行くぞ」
「え、あ……」
ロイドに軽く目配せをしたものの、戸惑い気味な足は動き出そうとしない。
一刻も早くこの場から立ち去りたくなったランディは、強引に彼の手を引いた。
表面上は平静を装い、軟派な笑顔を浮かべながら馴染みの女にひと声。
「それじゃぁな」
彼女からの応答も聞かず、さっさと踵を返して童顔の青年を引きずっていく。
そんな後ろ姿を興味深げに見送った女は、鮮やかな色の唇で意味深げな笑みを浮かべた。
「もしかして……ご執心なのかしら?」
あの赤毛の男は上手くこの夜の街を遊び歩いている。
戯けた言動の裏で、誰に深入りすることもなく、誰かを懐に入れることもなく。
それがほんの一瞬だけ崩れた。
珍しいものを見てしまったと、彼女は思った。

 

 乱れていた足取りが段々と落ち着いてきた。
引っ張られる感覚は薄れたが、未だに温もりは伴ったまま。
「お前さぁ、少しはあしらい方くらい覚えとけよ?」
ロイドの戸惑いをよそに、ランディはいつもの調子で口を開いた。
「そ、そうだ…な」
茶色の瞳は落ち着きなく彷徨っていたが、どうしても手元に意識が行ってしまうのを止められない。
(こんなの……初めてだ)
しっかりと繋がれて密着した手の平からは、熱が零れ落ちそうだ。
向こうが強く握ってくるせいで、より捕らわれている感覚が強くなる。
「無下にできないのは、年上の綺麗なお姉様たちに可愛がられてる弊害っていうやつかねぇ」
胸の鼓動が忙しなくなり、それが相手に伝わってしまいそうな気がしたが、耳に入ってきた言葉は存外に嫌み混じりなものだった。
(あれ?もしかして気が付いてない?)
困惑も最高潮になり、なんとか冷静になろうと苦慮する中、ロイドはふとあることに思い当たった。
日頃から、ランディに身体を引っ張られること自体は珍しくない。
そして、その時に掴む場所は腕やせいぜい手首のあたりだ。
(まさか、咄嗟に間違えたんじゃ……)
考えれば考えるほど、そうとしか思えなくなってきた。
次第に歓楽街の喧噪が遠退き、景色が静かな街並みに移り変わっていく。
それでも二人の手は離れる気配がなかった。
「おい、こら。聞いてんのか?」
「聞いてるけど……」
少しだけ低い声が降ってきて、ロイドは上目遣いで傍らの表情を探った。
本当は指摘してあげた方がいいのかもしれない。
けれど、緊張と恥ずかしさで弾む心音にも慣れてきてしまい、大きな手の温もりが心地良くなってくる。
彼には悪いと思いながらも、まだこのままでいたいという気持ちは強まっていた。
「けど……なんだよ?」
ランディはさっきから鈍い反応ばかりの相手を訝しみ、その場で立ち止まった。
見下ろした顔は困っているような、それでいて嬉しそうな不思議な色合いをしている。

不意にきゅっと小さく手を握られた。

「なっ……!?」
ようやく『それ』に気が付いた彼は、手元を見て唖然とした。
雷に打たれたかのような衝撃が、四肢の動きと思考を停止させる。
「やっぱり手首と間違えたんだな」
硬直してしまった赤毛の男に対し、ロイドはただ苦笑した。
本当に珍しいことだ。
そうやって揶揄したい気持ちもゼロではなかったが、事の経緯を考えれば安易な言葉を吐きたくはなかった。
だって、彼はあの女への対応に苦慮していた所を助けてくれたのだから。

「……てめぇ、分かってたならさっさとツッコめよ」

 しばらくして、ランディの口からくぐもった声が発せられた。
彼にしてみれば大きな失態であり、その羞恥を誤魔化そうとする口調は少し荒っぽい。
気もそぞろな両眼が、不自然なくらいに街の風景ばかりを映し出していた。
「こういうの……柄じゃねぇんだよ」
「うん、知ってる」
ランディは振り解こうとして腕に力を込めた。
だが、その瞬間。明快な言葉と共に、さっきよりも更に強く手を握られた。
ロイドはこの状況の継続を望んでいる。
それを態度で示されたことで、彼は苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「離せ。お前だってそういう性格じゃねぇだろうが」
「確かにそうだけど」
「だったら……」
移ろいでいた視線は、やっと相手を正面から捉える形に収まった。
こんな児戯のような束縛だったら、強引にでも振り解ける。
そう思って身体を動かそうとした矢先、ロイドが肩を震わせて笑った。
「でもさ、なんか意外に悪くないかもなって」
恥ずかしいには違いないけれど、こんな些細な触れ合いでも幸福感でいっぱいになれるのだと、気が付いてしまった。
「ランディの手って、凄く落ち着くから安心する」
はにかみながら微笑みを形作る唇は、穏やかな声を紡ぎ出した。
住宅が立ち並ぶ閑静な一画に、素直な言葉だけが響く。

 手を繋いだままの距離はあまりにも近かった。
聞こえなかったなんて、見えなかったなんて言えるはずがない。
(こいつ……マジでタチが悪すぎんだろ)
ランディはこれ以上ロイドと対面し続けることができなかった。
あんなに満たされた表情の恋人には、どう頑張っても抗えない。
「──今だけだからな」
視線どころか顔まで反らし、そのまま夜の街を歩き出す。
ぶっきらぼうな声は独り言のように小さく、観念して握り返した手には汗が滲んでいた。
「うん、分かってる」
街灯の下を通っている最中。
赤い長髪から覗く耳がほんのりと色付いているのを見つけ、ロイドは密かに目元を緩めた。
こんな可愛いじゃれ合い方なんて、互いに知らない。
柄じゃないからと、今まで頭の片隅にも過ぎらなかった。
会話らしい会話もなく、ただ手を繋いで歩いている時間がとても新鮮に感じる。
この空気を少しでも長く堪能したいロイドに対し、何よりも羞恥心が勝るランディは早く帰りたい様子だった。
つい急いでしまう足が恋人の手を強く引っ張るが、すぐに気が付いて速度を落とす。
そんな行動を何度も繰り返す男に身をまかせ、ロイドは居心地が悪そうな横顔を盗み見た。
(俺が言うのもなんだけど……甘やかしすぎだよな)
しかし、その大きな要因が率直すぎる自分の言動にあるのだとは知る由もなかった。

 

2021.11.11

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