合鍵に忍ぶ雨

 平日の深夜。最終列車ともなれば、乗客の姿はまばらで静かなものだ。
淡々と流れていく車窓からの眺めは、無機質で退屈なことこの上ない。
端の座席に腰を下ろしていたアーロンは、小さな欠伸をしながら足を組み替えた。
規則正しい車体の振動も相まってか、次第に瞼が重くなってくる。
彼はその眠気を紛らわせようと、衣服のポケットから携帯端末を取り出してカバーを開いた。
丁度その時、列車が駅に停車した。
開いたドアから若い男女が乗り込んでくる。
どうやら恋人同士らしい。彼らは談笑しつつ、アーロンからは対角線上に位置する座席へ座った。
身を寄せ合いながら語らう姿は仲睦まじく、完全に二人の世界だ。
再び走り出した列車に揺られる中、端末に向けていた瞳がちらりと恋人たちを盗み見る。
会話がうるさいだとか、戯れているのが鬱陶しいだとか、そういうわけではなかった。
ただ、今は自分の傍らに恋人がいない。それをやたらと意識し始めてしまう。
(……チッ、面白くねぇ)
なんだか、勝手に当て付けられたような気分に陥ってしまった。

 その後、いくつかの停車駅を過ぎたあたりで恋人たちは降車した。
甘やかな空気から解放されたアーロンは、眠気覚ましの端末を元あった場所にねじ込んだ。
ふと顔を上げれば、向かいの窓にはふて腐れた子供のような顔がある。
いつもと変わらぬ帰り道だったはずなのに、予期せぬ展開のせいで人恋しさが募っていくのを感じた。
無意識にポケットを弄り、今度は別の物を取り出す。
手の平に収まるくらいのそれは、質の良い黒革のキーケースだった。
以前ヴァンから貰ったものだが、使い勝手が良いので密かなお気に入りになっている。
内部には幾つかの鍵が収まっており、彼はその中の一本をやんわりと指でなぞった。

 

 これを手に入れたのは、もうひと月くらいは前のことだ。
「夜這いができねぇから、合鍵よこせ」
ヴァンが事務所の戸締まりをする姿を眺めていたら、そんな言葉が口を付いて出た。
前々から頭にあったわけではなく、単なる思いつき、もしくは気まぐれと表した方がいいのかもしれない。
ただ、急にそれが欲しくなった。恋人としての『特別』が欲しくなった。
「……おい、さすがに唐突すぎねぇか?」
ヴァンは突飛な要望を向けられたことに驚き、言葉を失った。
凝視の先には腕組みをしているアーロンの姿があって、どことなく真剣な面持ちをしている。
声の調子からもふざけている様子は感じられなかった。
「少しは前置きってもんを付けろよ」
「ハッ、面倒くせぇ」
あまりに直球な物言いをされ、やれやれと溜息を吐いたヴァンだったが、どうやら悪い気はしなかったらしい。
若年の恋人への眼差しは柔らかく綻んでいた。
「ほらよ。しょうがねぇからくれてやる」
彼は特に悩む素振りを見せず、やけにあっさりと鍵を手放した。
「一応言っておくが、節度は守れよ、節度はな!」
しつこく念押しをしてきたものの、これにはアーロンも内心では驚いてしまった。
断られる気はしていなかったのだが、少しくらいは渋るだろうと思っていたのだ。
「あ~、全然聞こえねぇなぁ」
彼はそんな胸中を誤魔化すつもりで片耳を手で覆い、頭を振って口角を引き上げた。
そして、フェアじゃないからと自室の鍵を無理矢理ヴァンに押し付けたのだった。

 

 旧市街の駅で列車から降りたのは、アーロンだけのようだ。
静まりかえった深夜の街並みには灯が乏しく、他の地区に比べれば随分と薄暗い。
すっかり馴染んでいる帰路の途中、何気なく空を見上げると、雲を被った月が朧げに佇んでいた。
「この時間なら、まぁ……寝てんだろ」
キーケースを片手で弄びながら、ぼそりと呟く。
あれからひと月は経つのに、彼はまだ一度も合鍵を使っていなかった。
気分が乗らなかったと言えばそれまでだ。
けれど、心のどこかで及び腰になっていることを自覚していた。
鍵をくれたとはいえ、ヴァンはアーロンの夜遊び好きを当たり前のように受け入れている。
だから、それを放棄して彼の部屋を訪れた時に、どんな反応をするのかが分からなかった。
単純に驚くだけなのか?安眠を妨害されて不機嫌になるのか?
──それとも、少しくらいは嬉しいと思ってくれるのか?
これが馴染みの女であれば気にも留めないが、相手が恋人というだけで余計にあれこれと考えてしまう。
ヴァンからは押しが強いだの態度がデカいだのと言われるが、実のところ嫌われたくないという気持ちは強いのだ。
尤も、そんな胸中の不安は絶対に悟られたくないのだが。

 事務所への細い階段を登り切り、見慣れたドアの前で立ち止まる。
アーロンは深く息を吐いた後で、ゆっくりと鍵を差し入れた。
開錠の音がやけに聴覚を刺激して、胸の鼓動が速くなっていく。
人気のない仕事場には目もくれず、彼の足は一直線にヴァンの部屋へ向かった。
二枚目のドアの前。ここの鍵は常日頃から開いたままだと知っている。
今度は呼吸を整える間は必要なかった。
列車で恋人たちに遭遇してからここに至るまで、沸々と募り続けた人恋しさは今が最高潮だ。

  室内に入ってベッドに目をやると、毛布の膨らみがわずかに動いた。
アーロンが後ろ手にドアを閉めたのと同時に、部屋の主がのそりと上半身を起こす。
「お前なぁ……少しはこっそり来いよ」
ヴァンは寝ぼけ気味の億劫な物言いで、深夜の訪問者を出迎える。
さして広くもない住処だ。睡眠中だったとはいえ、全く隠れるつもりがない物音ですぐに気が付いた。
合鍵を渡した件もあって、それがアーロンだと確信していたのだろう。
警戒心の一つもなく、大きな欠伸をしてから再び毛布の中に潜り込もうとしている。
「──っ、おい!」
その態度はアーロンが想像していたどれとも噛み合わなかった。
彼は意表を突かれて一時だけ固まったが、すぐに気を取り直してベッドに向かって突進した。
飛びかかるような勢いで乗りかかり、毛布をひっつかんでヴァンの行動を阻止する。
そこで、二人の視線がぶつかった。
「……今夜はヤらねぇぞ。マジで眠すぎる」
ヴァンは言葉の通り、今にも瞼が落ちてきそうな瞳で恋人を見上げた。
「情けねぇな。これだから年寄りは」
対するアーロンは即座に憎まれ口を叩いたが、元から身体を重ねるつもりではなかった。
今夜は情欲に突き動かされたのではなく、ただヴァンの温もりに擦り寄りたくなっただけ。
けれども、そんな気持ちを吐露できるほど素直な性分ではない。
「まぁ……寝るだけなら好きにしろよ」
薄闇の中でも鮮やかな金色をどう解釈したのか、ヴァンは彼の頬を軽く叩いて微笑んだ。

 自らの発言通り、彼は本当に眠かったようだ。
恋人が上着と靴を脱ぎ捨ててベッドに潜り込んだのを確認し、ものの数秒で夢の中へと落ちていく。
大の男が二人では窮屈なサイズ感だが、それを気にすることはなく、すぐに寝息を立て始めた。
「……無防備なツラしやがって」
そんな彼の横で、アーロンは片肘を立てて頬杖を付きながら満足げに目を細めた。
訪問者を放置して遠慮なく安眠を確保する姿は、傍から見れば冷たい態度に感じられるのかもしれない。
けれど、この青年にとっては程良い熱量だ。
そもそも、諸手を挙げて大歓迎をしてくれるヴァンなど、想像するだけでも違和感がある。
アーロンは喉の奥で笑いをくぐもらせ、ひとしきり恋人の寝顔を堪能してから毛布に包まった。
夜にはめっぽう強い彼のこと、今の今まで眠気の予兆すらもなかった。
しかし、欲しがっていた人肌を手に入れた途端、一気に睡魔の波が押し寄せてくる。
寝返りが打てない狭さの中、半分抱き付くように密着すると、四肢を伝ってヴァンの鼓動が流れ込んできた。
規則性のある小さな音はどことなく子守歌にも似て、アーロンを眠りの底へと引き込んでいく。
それに抗う術がないのは承知の上だったが、彼の気性は素直に陥落することを良しとしなかった。
「次は……きっちり夜這いにくるからな……覚悟しとけ」
ベッドの中で満たされていく想いとは裏腹、負けず嫌いな言葉の欠片が吐息の中に零れ落ちた。

 

 少しずつ浮上していく意識の横で、水気を含んだ気配が漂う。
白糸が流れるように静かな雨音が、窓の外から聞こえてくる。
(……雨か。そういや、そんな予報だったな)
ヴァンはゆっくりと目を開き、薄暗い天井を見つめた。
朝であることは察しているが、太陽の位置は分からず、今が何時くらいなのかは判断できない。
(ザイファ、どこ……やった?)
彼は携帯端末で時間を確認するために、起き上がろうとした。
しかし、仰向けになっている身体の上に何かの重みを感じる。
首だけを横に向けると、すぐさま鮮やかな赤色が視界に入っていた。
(あぁ……夢じゃなかったのか)
それを見て、ようやくアーロンの存在を認識する。
昨夜の出来事を思い出してみたが、自身が相当眠かったせいもあり記憶が曖昧だ。
会話の内容も半信半疑で、少しばかり不安にもなってしまった。
だからこそ、彼の身体と直に触れ合っていることで安堵する。
アーロンはすっかり寝入っていて、うつ伏せ気味の寝相が動き出す気配は感じられない。
彼の片腕はヴァンの鎖骨の付近に放り出されており、手の先は軽く肩にかかっていた。
まるでこれはオレの所有物だと言わんばかりの体勢が自然と苦笑を誘う。
「俺は抱き枕じゃねぇっつーの」
至近距離にある寝顔は満足げに柔らいでいて、いつもよりはだいぶ幼い印象を受ける。
そんな恋人の姿を見てしまえば無下にはできず、ヴァンは起き上がるのを諦めざるを得なかった。
アーロンの身体の下敷きになっている腕が痺れ始め、それをなんとか引き抜いてみる。
自由になった手で顔にかかった毛先を払ってやると、眠り人はくすぐったそうに身動ぎをした。
ヴァンにとってはその反応が珍しくもあり、そして愛おしくもあった。

「──やっと、来やがったなぁ。この気まぐれ野郎が」

 込み上げてくる想いは、言の葉となって吐き出された。
別に今か今かと熱烈に待ち焦がれていたわけではない。けれど、合鍵を渡しているのだから、多少なりとも気にしていたのは確かだ。
「一応は待ってやってたんだからな?」
相手が眠っているのいいことに、ヴァンの頬が嬉しさを全面に押し出した。
毛先だけでは物足りず、赤い頭部をわしゃわしゃと掻き混ぜてみる。
すると、
「……うぅ」
今度は小さな呻き声がした。
「ヴァン……うるせぇ……ぞ」
次に気怠げな抗議の一言。どうやらアーロンが目を覚ましたらしい。
「よぉ、起きたのか?」
彼は寝ぼけ眼でヴァンを見やったが、窓からの雨音が耳に入ってきたことで、再び瞼を落としてしまった。
「かったりぃと思ったら……雨かよ」
まだ起床する気がないのか、ヴァンの肩にかかっている指を掴む形に変え、半身を被せるように擦り寄ってくる。
「お、おい?起きねぇのか?」
戸惑う恋人をよそに、アーロンはまだ二人きりで惰眠を貪りたい気分だった。
「もうちょい寝かせろや。どうせ今日は休みだし……」
ずれた毛布をかけ直して二度寝の体勢に入った彼は、上からヴァンの顔を覗き込んだ。
「雨の日にベッドでイチャつくのも悪くねぇ」
一連の言動は緩慢で、微睡みながら恋人の首筋にキスをする。
「そうかよ。まぁ、別に構わねぇけど」
ヴァンはわずかに身を竦め、お返しとばかりにアーロンの耳元に唇を押し当てたが、
「あっ、お前……」
ふと、あることが気になってしまった。
「事務所の鍵、ちゃんと閉め直してきたんだろうな?」
このまま二人でベッドに籠もるなら、それなりに大事な問題だ。
いくら仕事が休みとはいえ、ここはヴァンの住居でもある。いつ誰が訪ねてきてもおかしくはない状況だった。
「……鍵か、あー、どうだったっけなぁ」
アーロンはぼやけた頭の中で、昨夜の行動を思い出してみた。しかし、肝心の鍵については全く記憶がない。
「さあな。そこまでは覚えてねぇ」
「マジかよ……」
ヴァンの不安は解消するどころではなく、思わず天井を見上げて溜息を吐いた。
「てめぇは、いちいち細かすぎんだよ」
そろそろ眠気も限界にきているアーロンは、不機嫌そうに半眼じみた顔を相手の肩口に押し付けた。
「ったくよぉ……寝てるだけだっつーの。ヤッてるわけでもねぇし……」
彼はぶつぶつと文句を垂れ流し始めたが、それは徐々に小さくなり、ついには聞こえなくなってしまった。
「やれやれ……また動けなくなっちまった」
さっき目を覚ました時の状態から、何一つ変わっていない。
ヴァンは困った色を浮かべながらも、口元を綻ばせた。
人肌の温もりは心地良く、聞こえてくる寝息も相まって、自然と眠気が押し寄せてくる。
「まぁ、いいか」
ひとつ欠伸をした彼は、アーロンを見つめて呟いた。
施錠の心配をしていたはずなのに、ぬくぬくとした寝床の中ではどうでもよくなってきてしまう。
「どうせ雨だしなぁ。外からは誰も来ねぇだろ」
部屋の中は相変わらず薄暗いが、先刻よりも少しばかり明るくなってきているようだ。
結局のところ、今の時刻は確認できず、大体このくらいだろうと軽く目星をつけてみる。
「起きたら一緒に飯でも食うか」
次に目覚める時間帯を予想して、少しずつ浮かれた気分に染まっていく。
「朝っていうより昼飯になりそうだな……」
そうしているうちに、ヴァンの幸せな意識は少しずつ遠退いて行ったのだった。

窓の外は雨。
静かに続くその音は、眠り込む二人のベッドに優しく降り注いでいた。

2023.06.21

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