風鈴の音色に口づけを

 あまりにも衝撃的な出来事が続いたせいで、龍來での二日間が遠い過去のようだった。
小さいながらも澄んだ音色が聞こえれば、それに手を引かれて思い出す。
慰安と称した穏やかで温かみのある風景を。
 
 夕方の賑わいも一段落し、モンマルトには落ち着いた雰囲気が漂っている。
ヴァンはカウンターに腰を掛け、一人で少しばかり遅い夕食を取っていた。
店内からは常連客の談笑が聞こえてくる。どうやら良い具合に酒が入っているようだ。
「軽く一杯くらいは付けといても良かったか」
それを羨ましげに眺めながら、すでに半分ほど食べ進めている皿に愚痴をこぼす。
「あら、何か飲む?それとも食後のデザートかしら?」
丁度レジの付近にいたポーレットが、微笑みながらカウンターの中へ入ってくる。
「あ~、そうしたいのは山々なんだが……今月は出費が激しくてよぉ」
店のマドンナから促されて一瞬ぐらついたが、ヴァンは渋い顔で首を横に振った。
「そうなの?大変ね」
「ちょいと車の方を弄っちまったもんでな」
彼は趣味のことになれば全力でお金を注ぎ込む節がある。それを知っているポーレットは、頬に片手を添えて眉尻を下げた。
「おい、不良店子!あいつらに給料は出してやってるんだろうな?」
そんな彼女の背後、厨房の奥からビクトルの厳しい声が飛んできた。
「そんなブラックじゃねぇよ。うちはホワイトだ、ホワイト!」
「ふふっ、お父さんったら」
飛び交う男たちのやり取りは毎度のことで、ポーレットは穏やかに笑むだけだ。
そこへ、小さな看板娘がとことことやって来た。
「ねーねー、ヴァン。お仕事大変なの?」
ユメはカウンターに座っている男に近づき、心配そうに見上げた。
「いや、事務所の方は問題ねぇが……俺の懐がピンチというか」
純粋な眼差しに対して及び腰なってしまったヴァンは、苦笑しつつもピンク色の頭を優しく撫でる。
「──ん?ユメ坊、なに持ってんだ?」
視線を下げると、小さな両手に包まれている正方形の小箱が目に留まった。
「これね、ヴァンたちと遊びに行った時の……」
ユメは箱の蓋を開けながら説明しようとするが、中に入っている物の名前がすぐに出てこない。
「おっ、龍來で一緒に作ったやつか。風鈴だな」
「うん、そう!風鈴!」
ヴァンが箱を覗き込んでから助け船を出すと、嬉しそうにオウム返しをしてきた。
「で、これがどうしたって?」
箱に入っている風鈴は、少々いびつながらもしっかりと体を成している。
舌から吊されている短冊の色は、ユメが選んだ可愛らしい薄桃色だ。
「ユメ、部屋に風鈴飾りたいな~って思って」
「おう、いいんじゃねーの」
「でも、お店のおじさんが『夏に飾ると涼しい気分になるよ』って言ってた気がしたから」
ユメの話に耳を傾けていたヴァンは、その声が次第に小さくなっていくの感じて席を立った。
「そういうことか。別に夏じゃなきゃダメってことはねぇよ」
彼女の憂いを察し、屈み込んで目線を合わせながら優しく言い聞かせる。
「ほんと!?」
「あぁ、好きに飾っとけ。けど、窓際の方が良いと思うぜ。音が鳴らねぇからな」
すぐさまパッと目を輝かせた姿に安堵し、ヴァンはもう一度彼女の頭に触れた。

 もう子供には遅い時間になってきていた。
眠そうに目を擦り始めたユメを部屋に連れて行った後、ポーレットが感謝の言葉を口にする。
「ありがとう。あの子ったら、本当に旅行が楽しかったみたいで」
「それりゃ、良かったな。でもよ、なんで急にあんなこと言い出したんだ?」
あの旅行からはひと月ほどが経ってるので、不思議に思ったヴァンが尋ねる。
「昼間にリゼットさんと思い出話で盛り上がってたみたいなの」
すると、彼が完食した皿を片付けているポーレットが答えた。
「……そう言えば、手が空いたら店を手伝うようなこと言ってたな」
ヴァンは今朝の彼女との会話を反芻しつつ、ポケットの中から財布を取り出した。
今夜は酒もデザートも我慢し、早々と会計を済ませるためにレジへ向かう。
「龍來から戻ってきた後、色々なことがありすぎたもの。やっと楽しい思い出として話せるようになってきたのかもしれないわ」
手早い対応してくれるポーレットだったが、子を想う母親の心情が切々と滲み出る。
表立っては明るい笑顔を見せてくれていても、幼い子供の心は繊細だ。
「そうだな。ありすぎたせいで記憶が遠退いちまう」
ヴァンは受け取った釣り銭をじっと見つめ、まるで独り言のように呟いた。

 

 夕食を終えた男の足は、真っ直ぐに事務所へ向かった。
人気のない仕事場をのんびりと横切って自分の部屋に入る。
「……風鈴か」
ドアを閉める音と小さな声が重なった。
ユメとのやり取りで感化されたのか、無性に気になってきてしまった。
すぐに照明のスイッチを入れ、脱いだ上着を大雑把にベッドへ放り投げる。
「確か……あの辺だったか?」
ヴァンは壁際のチェストに歩み寄り、引き出しを漁り始めた。
いくつか開け閉めを繰り返し、一番下の段でようやくお目当ての箱を発見する。
大きさと外装はユメのものと全く同じだ。
「あった、あった」
なんだか嬉しくなってしまった彼は、ベッドを背もたれにしながら床に座り込んだ。
鼻歌交じりで蓋を開けると、中には綺麗な形をした風鈴が入っていた。
龍來での記憶が一気に蘇ってきて、知らずの内に頬が緩んでいく。
風光明媚な町の中、皆でいくつかの体験型イベントを満喫した。
その度に同行者の顔触れは違っていたが、あの時はユメとアーロンだった。
「あいつ、すげぇドヤ顔してやがったなぁ」
日頃から何かとヴァンに対抗意識を燃やす青年は、風鈴作りについても例外ではなかった。
出来映えを披露する姿は、いかにも勝ち誇った様子だった。
その直後にユメが勇んで参戦してきたので、『誰が一番上手だったか』については有耶無耶になってしまった感がある。
二人揃って少女に勝ちを譲らなかったのは大人げないが、今となっては良い思い出だ。
「いや、やっぱ俺のが一番だろ」
しかし、今になって再び子供じみた感情がぶり返してくる。
ヴァンは小箱に収まっている風鈴の吊り紐を摘まみ、顔の前に持ち上げた。

──ちりん、と可愛らしい音が一つ。

 外見の中で揺れた舌の真下、繋がれている短冊の鮮やかさに目を奪われる。
突如、ヴァンの表情が驚きで固まった。
「……あ、か?」
風鈴に吊す短冊の色は、複数の中から各自が好きなもの選んだ。
ヴァンは青でユメは桃色、アーロンは赤だったはずだ。
「なんでだ?」
完成した風鈴は店主が箱に詰めて、それぞれに手渡しをしてくれた。
その後も一カ所に纏めて置いた記憶はないので、取り違えた可能性は低い。
「まさか……あいつ、すり替えやがったか?」
あまり疑いたくはないが、咄嗟にそんな想像がチラついた。
だが、アーロンの性格を考えれば、そんな小細工をするとは思えない。
「いや、それはねぇな」
例えば、想い人が作ったものを持っていたいとか。
ましてや、まだ恋人関係ではなかったあの時点で。
ヴァンは忙しなく否定的な思考を巡らせながら、綺麗な球形を見つめた。

 あの金彩色の楔が打ち込まれたのは、革命記念祭が終わってすぐの時だった。
伝える気などまるでなかった胸の内を、容赦なく引きずり出されて掴み取られた。
持て余し続けたこの好意に対し、アーロンは一切の逃げ道をも与えてくれない。
その狂おしいくらいの強行さは潔くもあり、恋愛には後ろ向きなヴァンを陥落させるには十分すぎた。
「好きだ」なんて陳腐な台詞を吐くほど、二人は可愛い性格をしていない。
牙を立てるようなキスに、噛みつき返して応えるだけで良かった。

 あれからまだ二週間ほどしか経っていない。
視界の中で揺れる赤い短冊は、否応なく彼の姿を連想させた。
「そう言えば、あいつも帰るんだっけな」
アルマータ関連の後始末で多忙な日々を送ってきたが、そろそろ一段落できそうだ。
更には新年が近いせいもあり、事務所の面子の大半はここを出ていく。
それはアーロンも同様だった。
もともと煌都がホームグラウンドであるのだから、用が済めば帰るのが当たり前だろう。
「……そっちから掴んできたくせによ」
互いの想いを交わらせてから日も浅いのに、どうやら向こうは未練の欠片もないらしい。
それが面白くなくて、正直なところ少しだけ寂しい。
ヴァンは愚痴を零しながら、勢いよく短冊を指で弾いた。

──ちりん、と侘しい音が一つ。

 別に二度と会えなくなるわけじゃない。
通信でやり取りはできるし、往き来するにしても苦になる距離ではない。
それでも一抹の寂しさを覚えてしまったことに、ヴァンは自分自身を嘲笑した。
今までは持ち得なかった色めいた感情に毒されている。
「……らしくねぇな」
目の前で揺れる風鈴が、ひどく愛おしいものに思えてきてしまう。
そんなガラス細工に吸い寄せられたのか、透き通った曲面にそっと唇を寄せた。

 

 近頃は夜遊びの程度も控えめだ。
なんだかんだでアシェンやツァオに使われているせいで、夜通し騒ぐ暇もなかった。
不本意ではあるが、煌都に関わることでもあるので手を貸してやっている状況だ。
旧市街へ戻ってきたアーロンは、まだ営業中であるモンマルトの前を通り、慣れた様子で階段を上り始めた。
三階の自室へは直行せず、事務所のドアを開けて中へと入る。
彼はヴァンを訪ね、明日の予定を大まかにでも確認しておこうと考えていた。
今は仲間たちが各々で動いているとはいえ、それぞれの所在は把握しておきたいところだ。
薄暗い部屋の中を見回し、奥まった位置にあるヴァンの部屋へ足を向ける。
ドアの隙間からは明かりが漏れていて、中からは確かに人の気配がした。
しかし、ノックをしてみたが全く応答がない。
「おいっ、ヴァン!」
うたた寝をしている可能性も考え、今度は声を張り上げてみる。
それでも中からは物音一つしない。
「……寝落ちしてやがんのか?」
アーロンは訝しげに顔を歪めたが、相手が熟睡しているのであれば無理強いをするつもりはなかった。
もともと緊急性のある用事ではなく、本音を言ってしまえばただの口実だ。
ようやくヴァンを手に入れたが、互いに忙しいせいもあり、ここ数日はろくに会話をしていない。
「なら、仕方ねぇ」
彼は不承不承ながら訪問を諦め、踵を返そうとした。
と、その瞬間。
ドアの向こうから鈴を転がすような音が聞こえてきた。
およそこの部屋には不似合いな響きに、アーロンは息を呑む。
意外な聴覚への刺激は、一瞬にしてあの時の思い出を呼び覚ました。
この奥で何が鳴ったのか、もちろん彼は知っている。
それを無視できるはずがなく、手も足も記憶と連動して動いた。
「──入るぞ」
アーロンは一言の断りを入れた後で、勢いよくドアを開け放った。

 柔らかな室内灯の下、部屋の主がベッドに寄りかかりながら床に座っていた。
持ち上げた風鈴に口づけている横顔は、やたらと色香が漂い煽情的に映る。
腕の側で揺れ動く短冊は、その色だけで明らかな存在感を誇示していた。

 一時、周囲の全てが止まってしまったような感覚に陥った。
無意識に唾を飲み込んだ音で、ようやく我に返る。
入り口で止まっていた足が一歩を踏み込み、後ろ手で閉めたドアの鍵をひっそりと施錠した。
ヴァンは自分の世界に入り込んでいるのか、まるで反応を示してこない。
「なに耽ってやがる。そんなに俺が恋しいかよ?」
からかい混じりの言葉を口にした拍子で、口角がつり上がるのを抑えきれなくなった。
「……っ!?」
そこで、ようやくヴァンは訪問者の存在に気が付いた。
「なっ……な、なんでいるんだよ!?」
飛び跳ねる勢いで驚き、その振動で手元の風鈴が激しく音を立てる。
口をぱくぱくとさせるが次の言葉が出てこない。額には嫌な汗が滲んだ。
「一応ノックはしたし、声もかけたぜ?返事がねぇから、寝落ちてんのかと思ったけどな」
「そう思ったんなら、入ってくんじゃねぇ!」
アーロンの説明を受け、ようやく発した声は真っ当な抗議の叫びだ。
悪びれる様子などない相手に、羞恥と憤りが混じり合う。
「なら、鍵でもかけとけよ。一人でそれに浸りたいならな」
しかし、無遠慮な言い草で責任転換をされ、思わず言葉に詰まった。
「……ぐっ、クソガキめ」
せめてもの反撃をと、アーロンを睨み付ける。
だが、そこでふと違和感を覚えた。
彼はヴァンが赤い短冊の風鈴を持っていることについて、驚く素振りを一切しなかった。
それどころか最初から知っているかのような口振りをしている。
モンマルトで見たユメの風鈴は確かに彼女のものだった。
だとしたら、二人のものが入れ替わっている認識で間違いはない。
そう考えれば、やはり仕掛けたのは。
疑心暗鬼になってきたヴァンは、躊躇したあげく風鈴をアーロンに向けて掲げた。
「これ……いつからだ?」
直接的な表現を避けたのは、さっき自分が否定したばかりだったからだ。
こいつがそんな面倒なことをする性格ではないと。
「あぁ、最初からだろ。アンタ気付いてなかったのかよ」
アーロンはわずかに瞠目したものの、揶揄する口調を崩さない。
ヴァンは困惑がさらに深まった。
「店のヤツが渡し間違えたじゃねぇか。箱に詰めてんの見てなかったのか?」
しかし、続けざまの言葉を受けて何度か目を瞬かせた。
店頭でのことを思い出してみたが、鮮明なのは受け取った瞬間だけで、それ以外はユメと喋っていたくらいだ。そこまでは見ていなかったのかもしれない。
「そうだったか?あんまり覚えてねぇ……っつーか、分かってたんならさっさと言いやがれ!」
自分の不注意が招いたこととはいえ、文句の一つも言いたくなったヴァンが怒鳴る。
「そりゃ、悪かったなぁ。すっかり忘れちまっててよ~」
アーロンはわざとらしく謝ってみせたが、まるで反省の色がなかった。
あの時は意図的に教えなかったのだが、その後にヴァンが気付くか否かについてはどうでも良かった。
指摘されれば元に戻しただろうし、それがなければ密かな優越感を胸中にしまい込むだけだ。
「……どっちにしろ、今更だろ?」
彼は両眼を三日月に歪め、これ見よがしで肩を竦める。
「戻してやってもいいが、そういうツラには見えねぇし」
ヴァンが座っている位置まではあと数歩、迷うことなく身体が動いた。
不服そうな彼の前で膝を折り、何か言い返そうとしている唇に軽くキスをする。
「なぁ、ヴァン。俺の代わりをするには随分と可愛すぎるブツだよな」
触れたのは一瞬だった。至近距離で囁きながら、恋人の手にある風鈴を鳴らす。

──ちりん、と弾む音が一つ。

「ば、馬鹿野郎!代わりでもなんでもねぇ!」
流れるような動作で先制さたヴァンは、遅まきながらようやくこの状況の危うさを認識した。
ベッドのサイドフレームに背を預けたままで、正面からはアーロンに迫られている。
「そもそも、てめぇは何しに来やがったんだ!?」
とにかくこの雰囲気から逃れたい。その一心で声を荒げた。
羞恥の元である風鈴から意識を反らしたいのか、掲げていた腕を下ろしてそれを手の中で覆い隠す。
「何って、あー、明日の……」
余裕がないツッコミはもっともで、アーロンはすっかり失念していた訪問の目的を思い出した。
だが、元々はヴァンの顔を見に行くための口実であり、今となってはどうでいいことだ。
「ま、いいか。大したことじゃねぇな」
「良いわけねぇだろうが!こっちが気になるんだよ」
あっさりと用件を放棄したのが不満だったらしく、ヴァンは思いきり食ってかかった。
彼の心中には思い至れず、自らにもまだ恋人としての自覚が薄い。
「知るかよ、てめぇのことなんて」
まさしく売り言葉に買い言葉でアーロンが切り返す。
素直とは程遠い彼のこと、この状況で本音を曝け出すような質ではなかった。
「お前っ……!?」
また、ヴァンの元に唇が落ちてきた。
はぐらかして主導権を握りたがるキスは、我が強くて少し荒っぽい。
頬に触れてくる手が顔を反らすことを許してくれなかった。
「なん、で……っ」
口内を侵食されて吐息まで奪われそうになる。
「自業自得だろ」
わずかな隙をついて上げた声すら、一刀で切り捨てられてしまった。
舌先が絡み合うたびに湿った音が響き、頭の中を甘い刺激が走る。
ヴァンはアーロンの断行に戸惑いながらも、自分が確かに満たされるのを感じていた。
寂しさを抱えた胸の凝りが劣情で溶かされていく。
空いている片手が無意識に宙を泳ぎ、求めるように恋人の背中へ回された。
「そんなわけ……ねぇ」
本心とは裏腹に強がった言葉がくぐもる。
黙れと言わんばかりに下唇をひと舐めされて、どうしようもなく肌が疼いた。
もう、片腕だけでは足りそうにない。
そう思ってしまった刹那、風鈴を囲っている手から力が抜けていく。
ヴァンは思い出の欠片が床へ転がり落ちていく様を、ぼんやりと横目で追いかけた。

 夜も深まり始める部屋の中、幾度か赤い短冊を揺らして綺麗な風鈴を鳴らした。
けれど、次は──ない。
互いを欲して伸ばされた熱っぽい指先は、それだけで手一杯だ。
風雅な音色に浸る余裕など、二人の間にはどこにも存在しなかった。

2023.04.09

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