人気がない階段に激しく乱れた足音が響き渡った。
明らかな動揺を全身に纏い、一気に屋上へと駆け上る。
強く開け放ったドアを閉めることも忘れ、一直線に先端まで突き進む。
その勢いのまま、ロイドは手摺りに身体を押し付けて大きく項垂れた。
「……やらかした」
携帯端末を握りしめている手には、不快な汗が滲んでいる。
久しぶりに聞いた声が耳元に残っているような気がして、軽く目眩がした。
「なにやってんだよ、俺」
冷えた夜風が通り抜け、それが気持ち良いと感じるくらいには頬が熱い。
時刻はまだ宵の口。陽気な笑い声たちが夜景の中に溶けては消えていく。
ロイドは伏せていた頭を上げ、ぼんやりと街の賑わいを見下ろした。
「遊んでるとこに水を差したよなぁ……絶対」
手の中にある端末が、自らの失態を主張している。
そこから目を逸らしたくて、乱暴に上着のポケットへ押し込んだ。
未だに着信音が鳴る気配はなく、間接的な追い打ちをかけてくるつもりはないのだろう。
「はぁ……」
深く吐き出された溜息に安堵の色はなかった。
ロイドには、この先の展開が易々と想像できてしまう。
彼の相棒であり恋人でもある男は、戯けたふりをしながら優しい顔をする。
今の段階で声をかけてこないのであれば、つまりはそういうことだ。
歓楽街の方向に目をやれば、煌々とした灯りが他の地区よりも一層際立っている。
いっそのこと、夜の街に逃げ出してしまおうかとも考えた。
けれど、一時的にこの場を凌いだとしても、明日の朝には顔を合わせる羽目になる。
こうなったら、潔く弄られた方が良いのかもしれない。
そう思い始めたロイドの頭は、仕方なく腹を括る方向へと流れていく。
逃げ道を探しあぐねた足は、屋上の一角で完全に動きを止めることになった。
ロイドが帰宅したのは、二十時を回った頃だった。
「ロイドー!おかえりなさ〜い!」
建物に入って玄関のドアを閉めると、テーブルの付近にいたキーアが猛ダッシュで突っ込んできた。
「おっと、ただいま。キーア」
小脇に抱えていた書類を落としそうになり、慌てて体勢を整える。
「お仕事、お疲れさま!」
天真爛漫なタックルはいつも通りで、その仕草はロイドの疲れを癒やしてくれる。
しがみついてきた彼女の頭部を優しく撫でながら、口元を綻ばせた。
室内を見渡してみれば、キッチンの方から物音が聞こえてくる。
時間帯的に、夕飯の後片付けをしている最中なのだろう。
その一画から、ひょっこりと水色の頭が顔を覗かせた。
「おかえりなさい。ロイドさん。夕飯は済ませてきたんですよね?」
「ああ、打ち合わせがてらにね」
「それは食事にかこつけた残業というやつでは……?」
ティオは返ってきた言葉に思わず眉を顰めた。
「ははっ、そんな大袈裟なものじゃないよ。雑談の方が多かったくらいだし」
彼女特有のジト目を受けて、ロイドが鷹揚に笑う。
「ねぇ、ロイド……疲れてるの?」
その会話を聞いていた愛娘は、心配そうに大好きな青年の袖を引っ張った。
「大丈夫だ。キーアの顔を見たら元気になったよ」
「そういうことです。なんといってもキーアは私たちの活力源ですからね」
彼女の憂いは見たくないとばかりに、二人は揃って柔らかな声音を落とす。
「そうなの?みんなが元気ならキーアも嬉しいな!……あっ、そうだ」
それは聞いた途端、幼い瞳がパッと輝いた。
そのまま、何かを思い出したようにキッチンの方へ跳ねていく。
「丁度、食後のお茶にするところだったんだ。ね!ティオ」
「そうでした。ロイドさんも一緒にどうですか?」
明るい口調に促され、ティオが中断している作業に意識を戻した。
「もちろんだよ」
ロイドはキッチンへ向かう二人を手伝うつもりで後を追ったが、
「あ、ロイドは座ってていいよ~」
それを見透かしたように、奥からキーアの声に先制される。
帰宅したばかりの彼を気遣っていることは明らかだった。
楽しげな家族たちのやり取りを聞きながら、テーブルの一席に腰を落ち着ける。
再び見回した部屋の中がやけに広く感じられた。
「……エリィは久しぶりに実家で夕食を取るって言ってたな」
頬杖を付いて、ここにはいない二人の予定を反芻する。
最近は個々に動いていることも多いが、特務支援課のリーダーとして皆の予定は常に把握していた。
「ランディは……」
その男の名前が音を成した途端、ロイドの表情が曇る。
本人さえも気が付かない微かな暗色が瞳の奥に広がった。
三人で和やかにテーブルを囲んだ後、ロイドは自室へ戻った。
すぐさま机の前に向かい、持ち帰った書類を広げる。
「よし、一通り目を通しておくか」
近々、交通課が不正な導力車の一斉摘発を行う予定だ。
大規模な案件のため人手が欲しいとあって、支援課も応援にかり出されている。
書類には資料が簡潔に纏めてあり、クリップに挟める程度の量に収まっていた。
導力ネットが普及しているとはいえ、まだまだ紙の情報は欠かせない。
ロイドは無言で文字の羅列を追い始めた。
資料の確認自体は今日でなくても構わないのだが、彼は真面目で責任感の強い男だ。
さっきのティオからの発言に絡めれば、これも立派な残業ではある。
しかし、ロイドは気に留める様子がない。
それどころか、わざと仕事のことで頭をいっぱいにしたがっているようだった。
時計の針はゆうに一回りをしている。
全ての資料に目を通し終えた彼は、大きく息を吐いて天井を仰ぎ見た。
凝り固まった上半身を伸ばしてみれば、細かな関節の音が鳴る。
それは静かな室内にやたらと響き渡った。
「……帰ってきてるんだっけな」
一つ、言葉が零れ落ちた。
勤勉な集中力が緩んだ隙に、赤い影が滑り込んでくる。
ロイドは、団欒の席で交わしていたやり取りを思い出してしまった。
あの時。ティオが彼の話題を振ってきたのは、気を利かせてくれたからなのかもしれない。
「そう言えば。ランディさんはお昼ごろに帰ってきたそうですよ」
「えっ、そうなのか?遅くなるのかと思ってたけど」
湯気が漂うカップをテーブルに置き、席へ着いた直後に彼女が口を開いた。
向かいにいるロイドが目を丸くしたのを見て、不思議そうに首を傾げる。
「連絡、取ってないんですか?」
「う~ん……たった一週間だしな。外国に行ってるわけでもないし」
問いかけてみたが、彼は苦笑して茶請けのクッキーをひとつまみしただけだった。
ランディは最近よく警備隊の訓練や演習にかり出されていた。
警備隊所属だった経歴と彼の戦闘能力を鑑みれば、上層部が頼りにするのも頷ける。
今回は強化訓練の一環で山間部に籠もるとのことだった。
ランディは一週間前、
「久しぶりに遠慮なく揉んでやろうかねぇ~」
などと言いながら、足取りも軽やかに出かけていった。
ふと、卓上に身を乗り出すようにして愛らしい声が響いた。
「あのね、エリィが一度ここに戻ってくる途中でランディとばったり会ったんだって」
飲み物が熱かったらしく、息を吹きかけて冷ましているキーアが、隣にいるロイドを見上げた。
「エリィさんの話によれば、ひと眠りしたら遊びに行くと言っていたらしいです」
その言葉を継いだティオが、情報を付け加えてくれる。
「ランディって元気だよね。キーアだったら朝までぐっすり眠っちゃいそう」
「遊びぶためなら、なんとやら……ですね」
二人の会話が耳元を通り抜け、ロイドは可笑しげに目を細めた。
彼女らは兄貴分であるランディの性格をしっかりと把握している。
だから、一仕事を終えた彼が歓楽街へ向かったことについては、至極当然という認識だった。
天井を見上げたままの視線は、どことなく焦点が定まらない。
「……どうせ、遅くまで遊んでくるんだろうし」
しばらく同じ姿勢のままで首が痛くなったのか、ロイドは呟きながら姿勢を正した。
読み終えた書類を一瞥し、上着のポケットに手を突っ込む。
彼の身体は意図せず動いていた。
心の隙間に入り込んだ焔が、正常な思考回路を停止させてしまう。
携帯端末を取り出し、何の躊躇もせずにカバーを開いた。
──完全に無意識だった。
歓楽街の賑わいぶりは、今が最高潮だ。
訓練漬けだった男の身には、享楽へと誘う雑音たちが気安く染み渡る。
ランディは界隈を一通りぶらつき、最終的には馴染みの店であるバルカを訪れた。
支配人であるドレイクに顔を見せた後で、意気揚々とギャンブルに興じる。
彼が二階のスロット台に腰を落ち着けたのは、入店してから小一時間は経過した頃だった。
ルーレットやポーカーにも手を出していたが、今夜はどうにも良い流れがやってこない。
だったら諦めるまでと、わざとらしい落胆ぶりを披露する姿はどこか楽しげだった。
「──おっ、こっちは良さげなじゃね?」
台に座ってから数分もしないうちに、彼はご機嫌な口笛を鳴らした。
どうやら、一階での負け分を取り戻せそうな予感がする。
思わず前のめりになったランディだったが、
「よぉ、兄ちゃん。久しぶりじゃねぇか」
不意に、背後から親しげな声が投げかけられた。
「まぁな、仕事で郊外に缶詰だったもんでよ」
振り向いた彼は、自分よりもひとまわりくらい年長の男を見てニッと笑った。
「へぇ~、何の仕事やってんだ?」
「これがまた、意外にお堅い系だったりするんだよなぁ」
「実は見かけによらないってやつか」
男はこのカジノの常連客で、ランディとは顔馴染みの間柄だ。
冗談めかした言葉の応酬をしながら、ひとつ台を挟んだ席でスロットを回し始める。
こういった場所では互いに深入りしないのが暗黙のルールだ。
男はただの興味本位だったらしい。相手がはぐらかしてきたので、それ以上は踏み込んでこなかった。
二人は程良い世間話をしながらも、それぞれがこの俗物的な空気を満喫している。
そんな中。
突如、ランディの上着から携帯端末の呼び出し音が鳴り響いた。
「おいおい、なんだっつーの」
夜の時間帯なので思わず眉を顰めてしまったが、すぐに片手をポケットに突っ込んだ。緊急事態という可能性もある。
「おう、どうした?」
なんとなく相手の予想はついたが、肝心の声が聞こえてこなかった。
「……ロイド?」
「──へっ!?あ、あれ?ランディ!?」
数拍の後、ひどく驚いた様子の応答が耳を貫通してきた。
ガタンッと激しく椅子が倒れた。
起立した勢いで机を叩き、片手と紙の束が擦れ合う。
反響音は短く、狭い空間。
それ以外は静かで、他の気配は感じられなかった。
「はいはい。お前の愛おしいランディさんですが……って、寝ぼけてんのかよ?」
端末越しからロイドの背後に隠れた音を聞き分け、ふざけながらも冷静な状況分析をする。
彼が自室にいることは確かだろう。
「い、いやっ、あのっ……全然かけるつもりとかなくて!」
これ以上ないくらいの狼狽ぶりがはっきりと伝わってくる。
ランディは景気の良い派手な演出が始まったスロット台を眺め、どう切り返そうかと思案した。
だが、ロイドの方には会話をする余裕などまるでない。
「ごめん、ほんとにごめん!!」
一週間ぶりだった声は悲鳴にも似た謝罪を残し、ぶつりと消えてしまった。
カバーを閉じた端末に、優しく細めた翠が注がれる。
勢いよくメダルが落ちてくる光景を前にしていても、不思議と高揚感が沸いてこなかった。
「ははっ、なんだ。女かよ?」
おもむろに席を立った彼を見て、顔馴染みの男がにやにやしながら茶化す。
距離が近いこともあり、通信でのやり取りは丸聞こえだったらしい。
「さあな~。可愛いヤツには違いねぇが」
それを気にする素振りもなく、ランディは可笑しげに口角をつり上げた。
昼間と見紛うほどに明るい街は、まだ眠ることを知らない。
その華やぎと喧噪から背を向けた男に未練の痕跡はなかった。
悠長な様子を装って帰路に付いた足は、いつもよりも少しばかり速い。
「帰ってきた一報くらい、よこせって?」
あの反応ならば、ロイドが通信を入れてきたのは本当に無意識だったのだろう。
そこに至る心境を慮り、ランディは小さく頭を振った。
二人は常日頃から、相棒と恋人の関係性をバランスよく保っている。
だが、それは真面目なロイドの性格ゆえであり、ランディはそれを尊重している形だ。
色事には不器用な上に、時々自分の感情にすら疎い部分がある。
彼にしてみれば、いつ恋人の顔をしてくれても構わないし、受け止める自信は満々だ。
「……あいつ、相変わらず下手だよなぁ」
すでに寝静まりつつある西通りを進み、すっかり馴染んだ古いビルを見上げてみる。
「まぁ、最近は警備隊の案件が多かったっつーのもあるか」
裏口から帰宅して我が家の空気を吸い込んだ後、ランディは二階の様子を探った。
ロイドが自室にいないことが分かり、今度は視線を上層へ走らせる。
「あー、上か」
きっと頭を冷やしに行ったのだろう。それくらいは容易に想像がついた。
薄暗い階段を静かに上り、屋上へと辿り着く。
ドアは開け放たれたままで、先にここを通った荒い足音が聞こえてくるようだった。
屋上にやってきた人物が誰かなんて、確かめるまでもない。
彼の戻りを予測していながら、逃げなかったのは自分だ。
それでも、やっぱり振り向くことはできなかった。
「──ロイドくん、待った?」
手摺りにもたれて街明かりを見つめる背中へ、軟派な言葉が投げかけられる。
「待ってない」
近づいてくる男の気配は、ロイドの態度を頑なにさせた。
「そうかよ。つれないね~」
ランディは恋人の傍らに立ち、わざとらしく肩を竦めてみせた。
不躾に隣の横面を暴こうとはせず、大きな背中を手摺りに預けてゆったりと腕を組む。
「まぁ、今夜はツイてなかったなんでな。さっさと退散してきたぜ」
彼はロイドとは逆方向の夜空を見上げ、さり気なく優しい嘘をついた。
「いつだってツイてないくせに」
それまで前を向いていた栗色の頭が、わずかに俯く。
ランディの言動にロイドは戸惑っていた。
てっきり茶化されて弄りまくられるものだと思っていたのだ。
憎まれ口を叩いた唇を噤んで隣を覗えば、柔らかな視線が注がれているのを感じる。
今の状況が想定していたものとは違いすぎて、どんな顔をすればいいのか分からなくなった。
「……もう、さっさとどっか行けよ」
思考の糸が絡まり続け、思わず手摺りに向かって伏せてしまいたくなる。
そんなロイドの横顔に何かが触れてきた。
「そいつは無理ってもんだろ?寂しがってる恋人を相手に」
武骨な手の甲がゆっくりと優しく頬を撫であげる。
突然やってきた温もりは一瞬で、なぜかすぐに離れてしまった。
名残惜しさを覚え、釣られるようにしてランディの方を向く。
「えっ、な……に、言って」
ほんのわずかな時間差で、一つの言葉が脳内に落下した。
「寂しい?俺が……?」
何度も目を瞬かせ、大きな困惑が露わになる。
そんなロイドの反応を見たランディは、自分が相手の胸中を見誤っていたことに気が付いた。
「あ~、そこからなわけね」
あの時の通信は、無意識からの産物で間違いはない。
だったら、どうしてそんな行動を取ってしまったのか?
屋上に上がって頭を冷やしていたのなら、それについての感情は自覚しているものと勝手に決めつけていた。
「……たかが一週間で?」
ロイドは両腕を抱え込み、忙しなく眼球を動かしている。
「もっと離れていた時期だって……あったのに」
握りしめた拳を顎に添え、唇から零れる息が小さく揺れた。
まるで独り言のような言葉は、夜風に紛れて行方をくらましてしまいそうだった。
「さすがに帝国の時と比べるのは『なし』だろ」
そんな呟きをしっかりと掴まえながら、ランディが静かに目を眇める。
ロイドがいつのことを言っているのかは、すぐに分かった。
あの時の焦燥感と葛藤の日々が頭を過ぎる。そして、今がどれだけ甘やかな時間かを思い知る。
手摺りを背もたれにしたまま、ふと見上げた夜空には深い濃紺が広がっていた。
いつの間にか、賑やかな声が聞こえていた中央広場も静かになってきている。
「でも、これくらいで寂しいとか……」
ロイドは未だに自分の感情を飲み込みきれていないようだった。
雑音がなくなった寒空の下、すでに答えが出ているはずの自己分析を繰り返す。
一週間前。楽しげに出かけて行った背中がやたらに遠く感じた。
まるで警備隊に彼を取られてしまったような気がして、子供じみた嫉妬が胸の奥に燻った。
携帯端末に手を伸ばしたのは、声が聞きたかったからだ。
声が聞きたかったのは、彼との繋がりを確かめたかったからだ。
そして、そんな想いを募らせる感情の正体は、ただ一つの短い言葉で表現できる。
「そんなの……小さな子供みたいじゃないか」
ロイドは両目を強く瞑った後、年上の恋人を振り仰いだ。
ようやく二人の視線が交差する。
ランディが空を見上げていたのは一時だけだったらしい。それ以降は、一人で戸惑うロイドを傍らで愛おしんでいた。
「別にいいんじゃねぇの。お前さんは難しく考えすぎなんだよ」
途方に暮れたような幼い顔は、不器用な思考の巡りを手放そうとしない。
「寂しがることに年齢は関係ないだろ?ましてや恋人同士なら」
柔らかな口調で諭してくるランディの声は、身動きの取れないロイドを引っ張り出すかのようだった。
手摺りにもたれていた身体が動き、いよいよ真正面から向かい合う。
さっきはわざと泳がせた手が、今度は大きな掌で頬を撫でた。
「いい加減、認めちまえよ」
「……あ」
一瞬だけだった温もりが、今度は離れずに頬を侵食した。
意地っ張りになっている心の奥が、ぐらぐらと音を立てて傾いていく。
それにとどめを刺すかのごとく、ランディは顔を近づけてニヤリと笑った。
「──で、早く俺に抱き付いてこい。さっきからずっと待ってるんだぜ?」
もう、虚勢を張るのは無理だった。
足を踏み込んだロイドの視界が、見慣れたオレンジ色でいっぱいになる。
促されるがまま、彼は思いきりランディの胸元に抱き付いた。
一週間ぶりに感じる体温は心地良く、回した両腕には自然と力がこもってしまう。
それを物ともしない強靱な肉体と、そこから漂う彼の香りを無心で堪能する。
「おう、おう。熱烈だねぇ」
やっと甘えてくれたが、その勢いが嬉しいやら可笑しいやらで、ランディは苦笑を禁じ得ない。
それでも彼の波長に合わせ、擦り寄ってくる栗色の髪を言葉少なに梳いてやった。
どれくらいそうしていたのだろう。
静まりかえった深夜の屋上は、冷えた風など感じないくらいに温かい。
ふと、ランディが口を開いた。
「なぁ、そろそろ顔上げて欲しいんだけど」
この場所に来てからというもの、ロイドの表情を覗えたのはほんの少しだけだ。
久しぶりの逢瀬だというのに、それでは物足りなさすぎる。
本音を言ってしまえば、さっさと自分の部屋にお持ち帰りしてしまいたい気分だ。
「なぁ、ロイド?」
「──嫌だ」
しかし、催促も空しくロイドが突っぱねてくる。
彼とて、いつまでもこの状態でいられるわけがないと頭では理解していた。
けれど、心が思うようについてこない。
無意識にやらかしたことから始まり、寂しがっていることを自覚してしまった。
今夜は包容力が全開であろう恋人を前にして、彼の羞恥心は増すばかりだ。
「まだ……このままがいい」
ロイドは甘ったるい空気が漂う中で、ぽそりと言った。
密着しているせいで、ランディが小さく肩を揺らしているのが分かる。
きっと困ったように笑っていることだろう。
今はどんな態度を取ったとしても揶揄の兆しはなく、愛おしげに緩んだ眼差しが待っているだけだ。
だから、どうしたって逡巡するのを止められない。
本当に──どんな顔をしたらいいのかが分からなくなってしまった。
2023.03.14
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