のんびりとした雰囲気が漂う昼下がり。
裏解決事務所の一室には、和やかに談笑する助手たちの姿があった。
各々で昼食を取り、午後からの仕事に備えて集合している形だ。
「──あっ、それでその後ヴァンさんが、『俺のハードボイルドはどこへ……』なんて言っていたんです」
「はぁ?あのオッサン、まだ諦めてねぇのかよ」
綺麗な姿勢でソファーに座っているアニエスが、思い出したかのように所長のことを口にする。
その向かいにいるアーロンは、呆れた顔をして足を組み変えた。
テーブルを挟んで設置されているソファーの片方を占領し、真ん中に鷹揚と座している。
「ヴァンさんって、その『はーどぼいるど』というのに憧れてるんです……よね?」
それに続いて、アニエスの隣にいるフェリが不思議そうに目を瞬かせた。
小さな身体は行儀良く腰を落ち着けていて、年長の二人を交互に見つめている。
三者三様の座り方には、自ずと性格が滲み出ているようだった。
そして、それが当たり前だと思えるくらいには付き合いが深い。
「最初に聞いた時は意味がよく解らなくて、ちょっと調べてみたんですけど」
フェリはどこか納得がいかない表情を浮かべ、言葉を続けた。
「で、どうなんだ?うちの所長さんはよ」
そんな彼女の気持ちを察したのか、アーロンが意地悪げに問いかける。
すると、その時。
渦中の人物が事務所へ戻ってきた。
「おっ、揃ってんな。丁度良かったぜ」
ドアを開けた途端に三人の姿を見つけ、ヴァンが小さく笑う。
助手たちを繋ぐ中心である男は、ご機嫌な様子で持っている紙袋を掲げてみせた。
「通りがかりに新しい店見つけちまってよ~。俺もまだまだリサーチ不足だぜ」
浮かれまくった言動は、さながら宝物を見つけた少年のようだ。
しかし、嬉しさ全開のヴァンとは対照的に、三人は思わず顔を見合わせてしまった。
それから、数秒の沈黙。
「……ん?どうした、お前ら?」
反応の薄さを怪訝に思った所長の耳に、可笑しさを堪えるような忍び笑いが聞こえてくる。
「ヴァンさっ、ん……タイミングが、良す……ぎますっ」
「おいっ、チビ!判定っ、してみろよ」
アニエスとアーロンは、目の端に涙を滲ませて込み上げてくる笑いを噛みしめていた。
真面目なフェリはというと。本人の前では悪いと必死に我慢をしているが、少し頬が引き攣っている。
そんな矢先に話を振られ、ソファーに沈んでいた尻が飛び跳ねた。
「え!?」
二人からの視線を受けて口をぱくぱくさせる。
「えっと……」
つまりは、ヴァンがハードボイルドが似合う男かどうか?ということだ。
話の流れが飲み込めない彼を上目遣いで覗う。
助手たちを眺めている表情はやや困惑気味だが、それでも物腰は柔らかくて温かみがあった。
「あの……ヴァンさんはちょっと可愛いので、違うと思います」
フェリはしばらく逡巡していたが、やがてハッキリとそう言った。
彼女は自分の心に素直だった。
だから、ヴァンを落胆させてしまうのが分かっていても、嘘や誤魔化しはできなかった。
今日は特に急を要する依頼などは入っていなかった。
このまま業務を終えようかという雰囲気になりかけたが、所長の鼻が何かを感じ取ったらしい。
そんなわけで、事務所を出た彼らは各地区の掲示板を見て回ることにした。
先刻まで年下の助手たちに散々弄られていたヴァンだったが、なんとか気持ちを切り替えて今は雑踏の街中を歩いている。
しかし、本人は仕事モードになっているつもりが、時折ぶつくさと不満げな呟きを漏らしていた。
それを面白そうに眺めやっていたアーロンが、遠慮なくつついてくる。
「良かったなぁ、所長さん。これで遠慮なく諦められるじゃねぇか」
彼にはオンもオフも関係ない。どんな時でもヴァンに絡むのは楽しいものだ。
「蒸し返すんじゃねぇ。ったく、折角立て直したっつーのに」
「どこがだよ」
傍から見れば全く立ち直っていない男に対し、弾む声でツッコミを入れる。
時計の針は午後もだいぶ回った時間帯を指していた。
遠慮がない応酬を繰り返しながら、タイレル地区のメインストリートを進む。
次第に賑わいが増してくる街の中、それはすぐに掻き消えていく些細な言葉たちだ。
「……はぁ、まさかフェリにまで」
ジェラートの屋台を物欲しげな流し目で通り過ぎ、ヴァンが小さな溜息を吐く。
映画館付近で手前の道を曲がり、少し落ち着いた界隈に差し掛かった頃。
いい加減諦めたのか、彼の口からは開けっぴろげな愚痴が零れ始めた。
その雰囲気から察するに、結構な引きずり具合だ。
ここまでくると、アーロンにとっては玩具の対象ではなくなってしまう。
どちらかといえば、鬱陶しい部類に入ってくる。
そもそも、ハードボイルドに憧れている件で茶化されるのはお約束で、本心はどうあれ耐性が付いているはずなのだ。
「今更だろうが。意外でもなんでもねぇ」
彼は面倒くさそうに眉を顰めて吐き捨てた。
「でもよ……小さなあいつにまで『可愛い』とか、そりゃねぇだろ」
その直後、予想外な言葉を返され一瞬だけ目を丸くする。
「あー、そっちかよ」
ヴァンが沈み込んでいる原因は、かなりのピンポイントだったらしい。
それを理解した途端、アーロンの態度が一変した。すぐにからかい混じりの笑みが浮かび上がってくる。
「大人の男の矜持ってやつ?ははっ、似合わねぇな」
「うるせぇ」
メインストリートを一歩逸れてしまえば、雑多な賑わいもいくらか薄くなっていく。
二人のやり取りは相変わらずだったが、今度は掻き消されることなく路地の壁に反響した。
ヴァンは気にも留めず、ひっそりと佇む掲示板の前で立ち止まる。
真剣な面持ちで依頼の有無をチェックする姿に、アーロンは多少なりとも浮上したのかと思ったのだが、
「まぁ……あれだな。お前の口からは絶対出てこねぇから、その点は安心だぜ」
全くそんなことはなく、声音は明るいながらもまだまだ引きずっている様相だ。
「想像しただけでも気持ち悪ぃからなぁ~。俺に『可愛い』とか言ってくるの」
しかし、アーロンにとっては、その態度が煽り意外のなにものにも見えなかった。
「おい、随分と盛大な前振りだな。言って欲しいのかよ?」
「そんなわけねぇだろうが!」
まさかそうくるとは思わず、ヴァンが反射的に声を上げる。
掲示板から視線を外して助手の方を向けば、やたらに挑戦的な顔とぶつかった。
少しの間、互いに無言で睨み合う。
「なんなら、言ってやってもいいぜ」
先に口火を切ったのはアーロンの方だった。
絶対できないと言われれば、元来の勝ち気さが剥き出しになる。
少しだけ顎を引き上げ、目の前に立っている男を見据える。
けれど、強い口調とは裏腹。勝ち気な金色の奥底がわずかに揺らいでいた。
元からふてぶてしい振る舞いが多い彼のこと、そんな言葉がすんなり出てくるはずがない。
ましてや、公衆の行き交う街頭での対面状態だ。
開きかけた唇からは息だけが零れ、不承不承で噛みしめながら顔を歪ませる。
「強がってんじゃねぇよ、ガキ」
そんなアーロンの気質を、ヴァンはしっかりと把握しているようだった。
喉の奥に籠もった苦笑が、年上の余裕を形作る。
「ま、どう頑張っても無理だしな」
事務所での一件からこの方、弄られまくっているお返しとばかりに鼻で笑ってみせた。
「──っ、てめぇ!」
これにはアーロンもカッとなった。
勢い任せにヴァンの胸ぐらを掴み、至近距離での眼光が轟く。
再度、二人は見合う形になった。
メインストリートに比べれば落ち着いている界隈とはいえ、人通りがゼロなわけではない。
外野から見れば険悪なムードには違いなく、興味深げな視線たちがまばらに通り過ぎていく。
それに憚ることもなく、アーロンは数拍の間を置いてから低く唸った。
「別に今じゃなくていい……今夜、空けておけ」
「は?ヤってる最中なら言えるって?」
唐突な言葉にヴァンは瞠目したが、すぐにその意味を察した。臆するどころか挑発を交えて応答する。
「面白ぇ。言えるもんなら言ってみろ」
ヴァンは恋人であるアーロンの性格を知り尽くしている『つもり』だった。
後に自分の言動を後悔する羽目になるなど、今の彼には知る由もなかった。
常夜灯だけが仄めく部屋の中、乱れたベッドのシーツに呪詛紛いの声が染み込んでいく。
「……ありえねぇ……マジでありえねぇ……」
大の男が蓑虫のごとく全身に毛布を巻き付けて寝転がっている。
ベッドサイドに座っているアーロンは、辛うじて見えている紺青の頭に向かって勝ち誇った。
「ナメてんじゃねぇよ。オッサン」
情事の余韻はどこへやら。まるで子供同士の喧嘩に白黒が付いた時のようだ。
「自業自得ってやつだろ?」
それほど時間が経ってるわけでもなく、彼の目には驚愕と羞恥で発火したヴァンの表情が焼き付いている。自然と頬が緩んでしまうのを止められなかった。
「うるせぇ……ただの負けず嫌いじゃねぇか。心にもないことを吐きやがって」
くぐもった恋人の愚痴は相変わらずそっぽを向いているが、その一言にアーロンは引っかかりを覚えた。
「心にもねぇ……か」
ヴァンは昼間からそう断言し続けていたのだから、彼にしてみれば本心からの言葉なのだろう。
けれど、アーロンの方は心にもないどころか大ありだった。
女を相手に遊びで囁く睦言とは、似ているようでまるで違う。
ヴァンに対してはひねくれた物言いが通常運転の彼だが、根底には真っ直ぐで強い恋情がある。
たとえ煽られて逆上したとしても、その場限りの高ぶりで『思ってもいないこと』を言えるはずがなかった。
「勝手に決めつけんじゃねぇ」
苦々しい呟きは誰に聞かせるわけでもなく、独り言のように四散して消えた。
その後、しばらく無言で佇んでいたアーロンだったが、少し肌寒さを感じ始めたのか身震いをした。
おもむろにベッドへ乗り上げ、ヴァンが包まっている毛布の端を強引に引っ張ってみる。
「あっ、てめぇっ、何してやがる!」
「寒いんだよ。いい加減、独り占めはやめろ」
彼は抵抗してくる四肢を軽くいなし、ずっと隠れていた男の全身を遠慮なく暴きにかかった。
図らずも上から覆い被さる体勢になり、二人分の重みを受けたシーツの海で恋人と対峙する。
まだ──顔に灯った火が燻っていた。
それはこの薄暗さでも誤魔化しが効かないくらいに鮮明で、思わず目を奪われる。
「……可愛いツラしやがって」
揶揄することも忘れ、意地悪げな笑みさえも浮かべられなかった。
ただ、率直な想いが滑らかに唇を流れ落ちる。
「なっ、何度も言うんじゃねぇ……」
存外に真摯な瞳で見下ろされ、ヴァンはしどろもどろで視線を彷徨わせた。
とてもじゃないが、吐息が交わりそうなこの距離では平静さを保てない。
こんな状況に追い込まれるくらいなら、まだ弄られている方が何倍もマシな気がした。
今は何も見たくない、何も聞きたくない。ヴァンは強く思った。
このまま羞恥心だけが嵩み続ける前に、五感の全てを閉ざしてしまいたかった。
2023.02.07
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます