一人で過ごすには広い部屋だ。
最初にここへ案内された時に抱いた印象は、今もさして変わらない。
シャワールームから出てきたヴァンの視線が室内を巡った。
落ち着いた雰囲気の調度品たちは、一目で質の良さが窺える。
リゾート地のホテルだけあって、高級感と寛ぎやすさは格別だ。
どうせなら、ただの慰安旅行くらいの気楽さで訪れたかったものだ。
ヴァンはそう思いながらも、まだ半乾きの髪をタオルで掻き乱して肩へとかけた。
「……さすがに明日には何かあるだろ」
あの男からの招待ならば、このまま平穏が続いて終わるはずがない。
分かってはいるが、相手の企みが読み切れない以上は動きようがなかった。
だったら、事が起きるまではこの高級リゾートを味わうのも良いだろう。
幸いにもネメス島に招待されている他勢力の面々は、気持ちの切り替えが上手い者ばかりだ。
「まぁ、今日の所はあいつらもちゃんと楽しんでたみたいだし」
ふと、裏解決事務所の所長としての顔が表に出る。
漠然とした不安と共にこの島へ降り立った当初は、助手たちの様子が気がかりだった。
しかし、それは見事に杞憂で終わったようだ。
皆はそれぞれの悩みや葛藤を抱えながらも、しっかりと息抜きができている。
折に触れて言葉を交わし、はしゃいで走り回る姿を眺め、ヴァンは心の中で安堵していた。
静かな夜にさざ波の音が戯れる。
風に乗ってくる談笑の欠片につられて、自然と頬が緩んでしまった。
ヴァンはおもむろに小さな冷蔵庫へ歩み寄った。
中にいくつかの飲料が用意されていたが、彼は迷うことなく一本の瓶を手に取る。
いわゆるミネラルウォーターの類いだ。
「こりゃ、また……高そうな水じゃねぇか」
庶民の感覚で苦笑した後、封を切って備え付けのグラスに注いでみる。
一つ口を付ければ、ほど良い冷たさがゆっくりと喉の奥を伝っていく。
酒が入っていることを配慮して低めの温度でシャワーを浴びたが、それでも身体はぽかぽかと温かい。
そんな彼にとって、この一杯は清涼剤のような感覚なのだろう。
一息をついた後。そのままテラスに出ようとするが、いくらか歩んだ所でピタリと動きを止めた。
廊下の方から人の気配を感じる。
耳を澄ますと、階段を上ってきた足音がこの部屋へ近づいてくるのが分かった。
彼はすぐに目を丸くした。
付き合いのある人物ならば、大抵は歩き方で判別できてしまうからだ。
「おいおい、マジかよ」
反射的に室内の時計を見た瞬間、ノックの音もなくドアが開いた。
「ハッ、つまんねぇモン飲んでやがるな」
開口一番の言葉があざ笑った。
穏やかな照明の光を含んだせいか、普段は強い金色に若干の柔らかさが入り交じる。
数拍の心構えがあったとはいえ、ヴァンは吃驚を隠せなかった。
ブレた手元がグラスを揺らし、危うく水を零しかける。
テラスの手前まで来ていた彼は、近くに置かれているソファーとテーブルに目を留めた。
すぐさまグラスを置いてホッと息を吐く。
「はぁ~、危ねぇなぁ。驚かせんじゃねぇよ」
睨み付けるような素振りをしてみたが、赤毛の青年はそれを無視して堂々と部屋の中央を突っ切ってきた。
それから少しばかり乱暴な仕草でソファーに腰を沈める。
「なんだよ、下はもうお開きか?」
ヴァンが部屋に引き上げる時、彼は一階のテーブルで数名と酒杯を傾けて盛り上がっていた。
あの様子では長くかかるだろうとみていたのだが。
不思議に思って問いかけると、
「いや、まだ賑やかなもんだぜ」
すぐに明瞭な返答があったが、ヴァンの頭にはますます疑問符が沸き上がる。
すっかり寛ぎ体勢になってしまっているので、途中で離席というわけではなさそうだ。
「まさか……なんかもめ事起こしてきた、とかじゃねぇよな?」
「そんな無粋な真似するかよ。そこらの酒場じゃあるまいし」
一抹の不安が過ぎったが、即答で一蹴されてしまった。
保護者面が気に入らなかったのか、アーロンは目を合わせようとしない。
どうにも彼の真意が読めないヴァンは、つい不躾な視線を注いでしまった。
それに居心地の悪さを感じたのか、ソファーに埋もれている身体があからさまに揺れた。
「まぁ、なんつーか、一通りは絡んでやったしな」
同時に動いた唇からは、まるでここにいることへの言い訳を探しているような言葉が漏れた。
「思いっきり上から目線だよな……このガキは」
あの癖の強い顔ぶれに対し、太々しいまでの言い草が苦笑を誘う。
肩にかけたままのタオルを弄りながら、緩んだ目元で赤い頭を見下ろした。
正直、一人だと思っていたから少しだけ嬉しかった。
二人部屋とはいえ、アーロンは遊びに積極的な男だ。
一度気持ちを切り替えてしまえば、あとは目一杯この環境を満喫するに決まっている。
落ち着いた部屋でゆったりとした時間を過ごすなど、選択肢に上るはずがなかった。
彼にしてみれば、この一室はただ寝るためだけにある空間に違いない。
だから──最初に『広い』と感じてしまった。
「……ちょいと回ってるかもしれねぇな」
波音が耳に残りそうなくらいに一人の夜半を、アーロンの声が打ち消してくれる。
この浮ついた気分は酔いのせいか、誤算のせいか?
涼むつもりでテラスに出るつもりが、あと一歩。
ヴァンは困ったようで嬉しいような、不思議な表情を浮かべた。
目の前に佇んでいる男の自己申告は、あながち間違っていないのかもしれない。
いつもよりも言動に緩慢さがあり、向けてくる眼差しはずいぶんと柔和な印象を受ける。
「情けねぇヤツ」
水面下でヴァンを観察していたアーロンは、遠慮なくせせら笑った。
「なんだかんだで結構飲んじまったからなぁ」
夜の交流ともなれば、アルコールの類いがついて回ってくるものだ。
顔を合わせて言葉を交わせば、酒杯の一つでもとなるわけで。
ことさらヴァンは皆に目を配っていたし、その人柄もあってか良く声がかかっていた。
「てめぇは誰も彼もと構いすぎなんだよ。大して強くもねぇくせに」
思い出すだけで苛つく。アーロンはわずかに声を低くして吐き捨てた。
別に監視していたわけではないし、もちろん彼自身もしっかり酒の席を愉しんでいた。
けれど、紺青の頭が視界をかすめれば自然と追ってしまう。そんな瞬間が幾度もあったのは事実だ。
「お前なぁ……自分を強さの基準にするなっつーの」
苛立たしげに足を組み替えると、呆れたような声が降ってきた。
見上げた途端に息を呑む。
「ん~、やっぱり底なしだよなぁ。結構飲んできたんだろうに、素面みたいなツラしやがって」
いつの間にか歩み寄ってきたヴァンが、まじまじと覗き込んできた。
緩やかに伸びてきた腕が──指先が頬に触れようとしてくる。
「……チッ」
アーロンは咄嗟にその手首を掴んだ。触れた肌がそこはかとなく熱い気がする。
「絡むんじゃねぇ」
大きく脈打った鼓動のせいで、耳元で乱れた血流の幻聴がした。
言葉裏腹、名残惜しさを隠しながらその手を振り払う。
ヴァンは驚いたものの、ふわりと笑うだけだった。
「うぜぇから、さっさと醒ますなり寝るなりしやがれ」
気分を害していないのを良いことに、アーロンは再び彼を突き放した。
それに呼応したのか、開けっぱなしのガラス戸からひとすじの夜風が舞い込んでくる。
「はいはい。ったく、なんで早々に切り上げてきたんだか」
見えざる涼やかな手に引かれ、ヴァンがのんびりとテラスへ出て行くのを黙って見送る。
後ろ姿に残した声は、心なしか可笑しげに揺れているように聞こえた。
「──なんでって……独り占めしてぇからに決まってんだろうが」
その問いかけに真正面から答えられるはずもなく、アーロンはぼそりと呟いた。
夜を纏った部屋の中、ほろ酔い気分で近づいてきた彼に劣情を刺激されてしまう。
素肌に触れた掌を見つめ、苦虫を噛みつぶす。
ヴァンと二人きりで過ごす時間が欲しかったはずなのに、上手く立ち回れない自分がもどかしかった。
ちらりと外に目をやれば、手摺りにもたれ掛かって夜空を眺めている背中がある。
ほんの一瞬、背後から抱き締めたい衝動に駆られたが、軽く頭を振って自制した。
この島に招待されている意味を考えてしまうと、距離を詰めることすらままならなかった。
「……くそっ、やりずれぇんだよ」
アーロンは寛いでいたソファーから勢いよく立ち上がった。
溜まった感情を押し流すように、テーブルの上にある飲みかけのグラスを一気にあおる。
温くなった水は本当につまらない液体だったが、何もないよりかはマシだと思った。
アーロンが飲み干したグラスを置く音は、やたらと室内に響き渡った。
テラスで涼みながらも背後の様子を気にしていたヴァンは、首だけを捻って音のした方を覗う。
彼は赤髪を振り払ってソファーから離れる所だった。
「理由なんてあるわけねぇか。気まぐれなヤツだし」
その後ろ姿がシャワールームへと消えたのを確認し、苦笑する。
再び濃紺の空を見上げてみたが、今は視点が定まらずにぼやけた星々が映るだけだった。
眠気を覚えて小さな欠伸をしたヴァンは、身体を屈み込ませて手摺りに頬を寄せた。
昼間は島中を動き回っていたので、知らずの内に疲れが溜まっているのかもしれない。
その上まだ酒の抜けきらない身には、金属の冷たさがとても心地良く感じられた。
「また、うぜぇとか言われそうだよな……先に寝ちまった方がいいか?」
さっき、アーロンには醒ますなり寝るなりと言われたばかりだ。
だったら彼がシャワーを浴びている間に就寝してしまえば文句はないだろう。
けれど、今はすんなりとベッドへ潜り込む気分にはなれなかった。
「あ~、もうちょい、なんか話してぇなぁ」
煌都の一件が落ち着いた矢先に不穏な招待状を受け取り、彼とはゆっくり言葉を交わす余裕もなく今に至っている。普段のような他愛のないやり取りになったとしても、二人きりでいたかった。
「ご機嫌斜めでもいいから……構ってくれよ、アーロン」
ヴァンの密かな本音が、人知れず夜気の中に紛れて落ちた。
ドアを閉めた途端、それを背もたれにしながら深く大きな息を吐く。
「あの野郎、中途半端に酔いやがって」
アーロンは鬱陶しげに前髪を掻き上げて、唇に不満を乗せた。
照明を点け忘れたままの天井は薄暗く、そのせいか彼の金彩には陰がかかっている。
「あの時に酔い潰しちまえば良かった」
虚空を見つめた脳裏に、先刻二人でカクテルを飲んでいた時の光景が蘇る。
あの時アーロンが作ったのは、辛口でパンチの効いた一杯だった。
完全に自分好みな一品だったのだが、意外にもヴァンには好評だったらしい。
癖になりそうだと声を弾ませてくれたのが嬉しくて、ついおかわりを勧めたくなってしまった。
しかし、アルコール度数が強めなカクテルだ。自分はともかく、ヴァンはそう何杯もいけるはずがない。
だから、アーロンにしてみればほとんど冗談のつもりだった。
「潰れたら部屋に運んでやる」と言ったのは。
まだ夜も始まって早い時間帯だったこともあり、からかい混じりの戯れ言みたいなものだった。
その言動が今になって後悔という名の牙を向けてくる。
そのまま暫くドアに背を預けていた彼は、ようやく照明のスイッチを入れた。
すぐにでもシャワーを浴びて、悶々とした胸中を洗い流してしまいたくなる。
「あんな状態でふらふら寄ってこられたら、堪ったもんじゃねぇ」
そんな風に自制心を試されるなら、会話が成立しないくらいに泥酔してくれた方がいい。
彼はぶつぶつと愚痴を吐きながら、自らの上着に手をかけた。
着ていた衣服を勢いよく脱ぎ、設置されているバスケットの中へ乱雑に放り込んでいく。
纏めた長髪を解きながら浴室へ足を踏み入れた瞬間、濡れた床の感触に胸がざわめいた。
ほろ酔い気分でここへ来たであろう先客の痕跡があり、その姿を想像して生唾を飲み込む。
普段から裸の付き合いが珍しくもない間柄なのに、今はどうしても意識をしてしまう。
微かな酒の余韻が漂うこの夜は、アーロンにとって酷く甘い毒のようだった。
「──こんな招待、嬉しくもなんともねぇんだよ」
これがただの休暇であったなら、何の躊躇もせずに彼を掴まえられるのに。
喋る声も息づかいさえも独り占めできるのに。
現状ではあり得もしない願望が、一瞬だけ頭の中を駆け巡った。
シャワーのコックを捻れば勢いよく水飛沫が上がった。
床を叩く水音を聞きながら、アーロンは目を閉じる。
後悔と欲情と。
複雑に混じり合った感情を抑えるためには、冷たいくらいの水温が丁度良かった。
鮮やかな赤髪から水が流れ落ちる度に、少しずつ昂っているものが薄れていく。
「……早く寝ちまってくれよ、ヴァン」
湿度が上がった狭い空間にくぐもった声が反響した。
それは確かに彼の本音であり、それでいて確かな嘘でもあった。
2022.12.25
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