君が穿つ この恋情【web再録】

 薄い雲間から見える太陽は傾き始めていた。
少しずつ赤みを帯びてくる空を一瞥し、石切丸は刀を薙ぎ払う。
どうやら日が落ちるまでには片がつきそうだ。
周囲の敵を一掃した彼は、まだ交戦の音がする方向へ顔を向けた。
土煙が舞う中、ひときわ目立つ長物を振るう青年に目を奪われる。
「……あ」
染まり始めた茜色を映す槍身は、事も無げに異形の身体を貫いた。
冷静な横顔の中に見え隠れするのは、好戦的な猛々しさ。
石切丸は胸元を握りしめて立ち尽くしてしまった。
抜き身の刃から戦意が抜ける。

ここは戦場で、一時の油断さえ命取りだというのに。

放心していた石切丸は、強襲の気配に気づけるはずもなかった。

 

 まるで柔らかな陽光に包み込まれているように感じる。
石切丸はうっすらと目を開けた。
ぼんやりとする頭の中で記憶を探る。
「あぁ……そうか」
自分は負傷し、手入れ部屋に寝かされている。
「いくつか切られたんだった」
戦闘中に意識を手放したわけではなく、仲間に支えられながらも自力で帰還したことを覚えている。
ふらつく身体を支えてここまで連れてきてくれたのは、心配げな顔をした槍の青年だった。
「──っ!?」
そこまでを思い出し、石切丸は両手で顔を覆った。
戦場に立つ横顔が脳裏に蘇り、否応なしに胸中を騒がせる。
「私は……どこまで心奪われればいい?こんな醜態を晒してまで」
まるで熱病にでもかかってしまったみたいだと思った。
しばらくして、石切丸は両手を顔から離し、力なく布団の上に下ろした。
身体のあちらこちらで傷口が痛む。
手入れが終わるまでには、まだ時間がかかりそうだ。

 手入れ部屋の中は、この本丸の主である審神者の力なのか、温かくて優しい空気に満ちている。
次第に重くなっていく瞼には逆らえず、石切丸は視覚を手放した。
「……最初はなんだっただろう?」
そんな風にうっすらと記憶を辿りながら。

 

 顕現可能な三振りの槍の中で、最初にこの本丸へやって来たのが御手杵だった。
平時の彼はのんびりとした言動をしていて、声を荒げたり走り回ったりする姿はあまり見かけない。
短刀や脇差といった小柄な同僚たちには特に好かれやすいようで、からかわれたり悪戯をされたりもするが、怒ることもなく適当に流しているようだ。
「随分と大らかな子が来たものだね」
当初、石切丸はそれを微笑ましく感じていた。
けれど、共に出陣する機会が増えた頃。
御手杵の戦いぶりに目を見張ってしまった。
己の傷も顧みずに槍を振るう姿は、まだ低い練度のせいもあってか酷く危うかった。
実際に彼の負傷は他の部隊員よりも多く、石切丸はその度、戦場で応急手当を施した。
「まったく君は……危なっかしくて目が離せないよ。少しは引くことも考えないと」
ぶつぶつと小言を向けても、御手杵は不思議そうに見返してくる。
「だって、動いてる方が怪我とか気にならないだろ?じっとしてるより戦ってる方が楽だぞ」
挙げ句の果てに、そんなことを言いながら目を輝かせた。

 まるで保護者のようだ。
御手杵が負傷すれば甲斐甲斐しく手当てをし、彼が手入れ部屋に籠もれば心配になって様子を見に行く。
いつしかそれが当たり前になり、周囲からはそう揶揄されるようになってしまった。
石切丸は持ち前の包容力と優しさのせいか、この青年に関わることを止められなかった。
御手杵の方もそれを自然と受け入れていたので尚更だった。

 

 部屋の中は無音と表するくらいに静かだが、それがかえって心を落ち着かせてくれる。
「引き際なんて分からなかった」
どこで道を間違えたのだろうか?と、今になって思う。
石切丸は微睡みの中で呟いた。
「近づきすぎて……優しすぎて」
よく同じ部隊に編成されているせいか、生活の時間帯が重なり、本丸でも共にいる機会が増えた。
御手杵は、
「あんたにはいつも世話になってるからな」
などと言いながら、些細なことでも手を貸してくれる。
外出中に急な雨に降られた時は、頼まれもしないのに傘を持ってやって来た。
彼はぼんやりとした中でも石切丸のことを良く見ていて、構いたくて仕方がないようだった。
そんな優しさは少しずつ石切丸の胸に降り積もり、温かな気持ちで満たされていく。
「あんたの側って落ち着くんだよなぁ。いくらでも一緒にいられる気がする」
何気なく二人で時間を過ごしていれば、そんな風に緩やかに笑った。
お互い特別にお喋りというわけでもなく、暢気にその場の空気を楽しんでいる。
日々を穏やかに過ごしたいと願う石切丸にとって、それは心地良いものだった。
そんな日常を積み重ねているうちに、気づけば彼を探すようになっていた。
どこかで声がすれば、つい耳をそばだててしまう。
姿を見れば無意識に目が追いかけてしまう。
視界の中に彼がいるだけで、胸に柔らかな火が灯っていくのを感じた。

 ある日、石切丸は昼寝をしている御手杵を見つけた。
傍らに膝を落とし、気持ち良さそうな寝顔を覗き込む。
両目が閉じているせいか、起きている時よりも幼く見えてしまい、自然と頬が緩んだ。
「ふふっ、よく寝ているね」
暑かったのか半袖のまま畳に寝転がっていて、上着は雑に放られている。
石切丸はその上着を丁寧にたたみ、横たわる身体の側に置いた。
その動作の流れで吸い寄せられるかのように、御手杵の胸元にそっと頬を寄せる。
そして、静かに脈打つ鼓動と身体の温もりを感じてうっとりと瞳を閉じた。
「──ねぇ、君が好きだよ」
その言葉は不思議なくらい滑らかに唇から発せられた。
なんの抵抗もなく、すとんと自分の中に落ちる。
この気持ちは恋情なのだと。
石切丸はそれを自覚してしまった。

 傷口の痛みが石切丸を眠りの底に引きずっていく。
戦場ですら感情を制御できなくなった自分が不甲斐なくて、唇を噛みしめる。
「もう……これ以上は……」
消え入りそうな声の中、彼は意識を手放した。
重く閉ざされた目の端から涙が零れ落ちた。

 

 御手杵は手入れ部屋がある区画へと続く廊下で、乱と出くわした。
「どうしたんだ?こんなとこで」
「ん……石切丸さん、大丈夫かなって思って」
金髪の可愛らしい少年は、心配げな顔で御手杵を見上げた。
乱は御手杵や石切丸と同じ第一部隊に編成されている。
この部隊の戦力は安定していて、大太刀である石切丸はあまり大きな負傷をしない。
その彼が一人では歩けないほどの傷を負ったことに、乱は少なからずショックを受けていた。
「なんだ、鯰尾と鳴狐はいいのかぁ?あいつらも手入れ中だろ」
御手杵は少年の不安を和らげようと、わざとからかい混じりの言葉を投げた。
「よくないけど!でも、あの時は急に石切丸さんの動きが止まっちゃったから」
「止まった?」
乱は戦場での様子を口にし始め、御手杵は怪訝な顔をする。
「ボク、みんなの中では一番近かったから、あの人の行動は視界に入ってた」
言葉を続ける乱の声は次第に小さくなっていく。
「周りの敵をやっつけた後、どこかを見ながら立ち尽くしてた。刀を構える様子もなくて、心配になって石切丸さんの方に向かったんだけど……間に合わなくて」
大きな瞳がじわりと滲んだ。
「そんなの、乱のせいじゃないから気にすんなって。あんたが駆け付けなかったらもっと悪い状況になってたかもしれないし」
御手杵は傷心している金色の頭を軽く撫で、安心させようと微笑した。
「俺はちょっと様子見に行ってくるけど、乱はどうする?」
そうして、さり気なく話の先を切り替える。
この廊下で会ったということは、同じ目的だったのではないかと思った。
「なんか、顔見たら泣いちゃいそう」
けれど、乱は行くべきか悩んでいるようだった。
「ははっ、だったら手入れが終わった後に元気な顔見た方がいいんじゃないか?」
御手杵が少年の気持ちを察してそう提案すると、
「そっか、そうだよね。泣いちゃったら石切丸さんだって困るもんね」
乱はハッと彼を見上げ、ようやく笑ってくれた。

 軽やかに去っていく背中を見送った後、御手杵は手入れ部屋を訪れた。
畳の部屋に敷かれた布団に、大太刀の青年が静かに横たわっている。
深く眠っているのか、訪問者には気づいていない。
「ったく、乱が泣きそうな顔してたぞ?あんまり心配かけんなよ」
まだ起きる気配がない相手の横に腰を下ろし、彼は苦笑する。
戦場から帰還する時、石切丸に肩を貸していた御手杵は、その負傷の具合に眉を顰めた。
あまりにも無防備な状態で攻撃を受けたとしか思えなかったからだ。
通常なら利き手である右腕を庇いそうなものだが、その形跡もなくざっくりと切られていた。
致命傷にもなりかねない首筋にも裂傷が見受けられた。

「──あんた、どこを見てたんだ?」
さっき乱が言っていたことを思い出し、御手杵は独り言のように呟く。
手入れが進み、塞がり始めた首の傷を無意識に指でなぞった。
そのまま何気なく寝顔を眺めやったが、
「あっ」
伏せられた瞳の端に涙の痕を見つけて目を見張ってしまった。
「なんで……」
真っ先に傷が痛むのだろうかと思ったが、うなされている様子もなく静かな寝息を立てている。
彼が泣いてる姿など見たことがなかった御手杵は、困惑した。
「なんで泣いてるんだよ?」
返答はない。
そんなことは分かっていたけれど、問いかけずにはいられなかった。

 

 大太刀の手入れ時間は長い。
この本丸の主は、あまり手伝い札を使いたがらなかった。
というのも、札を使用して手入れを終えた時に気分が優れないと訴える男士がわりと多いのだ。
本来ならば時間をかけて修復するところを、主の力によって無理に短縮しているのだから、多少の影響は出るのかもしれない。
もっとも、さっさと直して次の出陣をしたがる血気盛んな男士たちもいるのだが。
石切丸の手入れが終わったのは、丸一日が経った頃だった。
すっかり傷も消え失せ、軽くなった身体の具合を確かめながら部屋の戸を開ける。
「あ、石切丸さん!」
と、視界に金色が広がった。
「え、あ、乱さん?どうしたんだい?」
小さな身体が腰に抱き付いてきて、石切丸は目を白黒させる。
「よかった~、心配してたんだからね」
「あぁ、ごめんよ。皆に迷惑をかけてしまったね」
だが、乱の言葉にふわりと微笑んで彼の頭を優しく撫でた。
「迷惑っていうか、ボクびっくりしちゃって。石切丸さんが大きな怪我するところ見たことがなかったから」
乱はすぐに石切丸から身体を離して、真顔になる。
「そうか、本当に申し訳ない。今回のことは私の落ち度だよ」
石切丸はそんな彼に向かって頭を下げた。
小さな戦友の心に負担を強いてしまったことに、自己嫌悪をしてしまう。
「え?あ、謝らないでよ。誰もそんなこと思ってないし。石切丸さんが無事でよかったし」
乱はその態度に驚き、勢いよく手と首を振りながら飛び退いた。
「『誰も』か……そうだね」
石切丸は少年の言葉の一端を繰り返す。
菫色の双眸が歪んだ。
「──これから主に会ってくるよ。少し話があるんだ」
出迎えてくれたお礼の意味も込めて、乱の頭をもう一度優しく撫でる。
口角は緩やかに上がったが、心からの笑みとは言い難かった。

 確かに、負傷した原因を知らない彼らが石切丸を責めることはないだろう。
そう、本人以外の誰もが。

 その部屋を訪れた石切丸を、主は快く迎え入れてくれた。
無事に手入れが完了したことに安堵し、任務をこなした彼を労ってくれる。
石切丸はその温かさに浸りながらも、苦しげに両目を伏せた。
「主、私を部隊から外して欲しい」
その感情を押し殺した声に、主は一瞬だけ瞠目した。
「今の私は心が乱れている。とても戦える状態ではない」
石切丸はそう言い切ると同時に目を開き、真っ直ぐに対面している人物を見た。
彼が何かに苦悩している様子は明らかだったが、主はあえて問いかけようとはしなかった。
ただ、無言で彼の申し出を受け入れてくれた。

 

 御手杵がそれを知ったのは、石切丸が主の部屋を訪ねた翌日の出陣前だった。
他の男士たちも同様で、隊長である蜂須賀が次郎太刀と共に姿を現し、思わず顔を見合わせる。
「急な話だけど、石切丸に代わって次郎太刀が入ることになった」
「なんかよく分からないけど、主が交代しろってさ。よろしくね~」
真面目な隊長とは対照的で、次郎太刀は軽い挨拶をする。
「ねぇ、次郎さん。石切丸さんなにかあったのかなぁ?昨日、あるじさんに会ってくるって言ってたし」
そこへ乱が不安げな顔をして口を開いた。
部隊員の交代自体は珍しいことではないが、昨日のやり取りもあって心配になってしまったらしい。
「ま、会った上での交代ってことだろうからねぇ。色々と思うところがあるみたいだけど」
次郎太刀は金髪の少年に応じた後、意味深げにちらりと御手杵を流し見る。
彼は普段と変わらぬ表情でそのやり取りを聞いていた。
「主命かぁ……」
けれど、零れた声はどこか気落ちした響きだった。
(なんで泣いてたんだよ?)
ふと、あの泣き痕が脳裏をちらつく。
どうしても今回の交代と無関係だとは思えなかった。

 

 部隊編成の変更が行われてから数日が経った。
時間遡行軍の出現は頻繁で、彼らは連日の出陣を余儀なくされていた。
他の三部隊もそれぞれの任務を受け、出払っていることが多い。
出陣と帰還の慌ただしさが交互に訪れ、本丸の中にもどこか緊張感が漂っているようだった。
そんなある日、しばしの休息を得た御手杵は大太刀部屋に顔を出した。
夕餉を済ませ、それぞれが就寝までの一時を過ごしている時間帯だ。
「邪魔するぞ~、って、あれ?二人だけか?」
彼は部屋を覗き込んで拍子抜けをしてしまった。
「そうだけど、なんか用?」
蛍丸は座卓に肘をついて煎餅を頬張り、
「兄貴と祢々切丸は長風呂してるよ。アタシはついてけなくて先に上がってきちゃったけど」
次郎太刀は鏡の前で黒髪の手入れをしている。
「あ、また『温泉は良いぞ』な勧誘されてんの?」
「ははっ、ま、そんなとこ。のぼせなきゃいいけどねぇ」
二人はそんなやり取りをしながら笑い合った。
大太刀の面々は、同室なことも相まってか仲が良い。
「あー、あのさぁ、石切丸は?」
御手杵は遠慮がちにそこへ割って入り、名前の上がらなかった大太刀の所在を聞いた。
「石切丸?なんか鍛錬場に行ってくるって凄く珍しいこと言ってた。次郎たちがお風呂に向かった後だったかな」
蛍丸は食べる手を止め、天井を見上げて思い出すような仕草をする。
「鍛錬場?こんな時間にか?」
随分と予想外な返答だった。
御手杵は思わず聞き返してしまう。
「戻って来てないから、まだいるんじゃない?」
「ふ~ん?石切丸が鍛錬場かい。雨とか雪とか、あげくに槍でも降ってきそうな珍しさだねぇ」
次郎太刀は手入れを終えた髪を一纏めにして背中へ流し、御手杵の方を向いた。
それは明らかに何かを含んでいる口調だった。
「なぁ、あんた……いや、やっぱいい」
御手杵は気になって口を開きかけたが、すぐに頭を振った。
今、彼が探しているのは石切丸だ。
限られている時間を無駄にしたくはなかった。
「ちょっと鍛錬場に行ってくるわ」
そう言って槍の青年は大太刀部屋を後にしていった。

「ねぇ、御手杵と石切丸ってなにかあるの?ケンカでもしてるとか?」
彼が去った後、蛍丸が次郎太刀に尋ねた。
それとなく微妙な空気を感じ取っているようだ。
「そうだねぇ、喧嘩っていうかその逆?なんかあってくれた方が良いような気がするけど」
次郎太刀はそう言いつつ、何気なく茶請けに残っている煎餅をひと囓りした。
「あー!それ俺の!」
二人だけの大太刀部屋に蛍丸の声が響き渡った。

 

 鍛錬場は居住区からは離れているため、夜ともなれば静寂に包み込まれる。
石切丸はただ一人、瞑想にふけっていた。
ひんやりとした板の間が心を落ち着かせてくれる。
彼の側に木刀の類いはなく、両手は正座をした足の上に乗せられていた。
言葉通りの『鍛錬』をする気はないようだ。

 今日の出陣はないと、同室の次郎太刀が言っていた。
だから、『彼』ものんびりと休息を取っているのだろう。
部隊から外れて以来、石切丸は御手杵と顔を合わせていなかった。
それは故意ではなく、連日のように戦場へ出ている第一部隊とは会う機会がなかったというだけのこと。
だが、今日は久しぶりの非番で御手杵は本丸にいる。
対面したら平静でいられるだろうか?
そんなことを考え、日中は落ち着かずに時を過ごしてしまった。
幸いというべきか、彼に会うことはなく夜になった。
ならばせめて就寝前に心を落ち着かせようと、この場に座している。
今は、本当に静かだった。

 歩みを進める度に静けさが増すようだった。
あの二人が言っているのだから、相当に珍しいのだろうと御手杵は思う。
「寝る前に木刀振ってるとか、想像つかないんだけど」
ぶつぶつと言いながら建物に近づくと、そこには確かに人の気配があった。
開け放たれたままの扉から中を覗うと、部屋の中央付近に石切丸が正座をして佇んでいる。
格子窓から漏れる月明かりに照らされた横顔に、御手杵は息を飲んだ。
(……綺麗だな)
彼は声をかけるのも忘れ、その姿に見惚れてしまった。
どれくらいそうしていただろうか。
不意に御手杵の足元の床板が軋み、ハッとして我に返った。

「おて……ぎね……さん?」

 石切丸もその音を聞いたのか、驚いて扉の方を向いた。
信じられないとでも言いたげな表情をしている。
「えっと、瞑想中……とか?」
「ど、どうして」
動揺して上手く言葉が出せず、口をパクパクさせている。
「邪魔してごめんな。あんたがここにいるって聞いてさ」
御手杵はそんな彼を落ち着かせようと、なるべく穏やかに話しかける。
ゆったりとした足取りで石切丸の側へ移動し、目線を合わせるようにその場で胡座をかいた。
「私を……探して?」
「あれ以来、あんたの顔まともに見てなかったからな。ちょっと心配してたんだ」
御手杵の声は優しくて、それを耳にした石切丸の胸を締め付ける。
きっと、この声音と同じような眼差しを向けているのだろう。
それが分かってしまうから、石切丸は俯いているしかなかった。
「急だったから、その……すまない。皆に挨拶もできなくて」
「交代なんてよくあることだし、気にすることじゃないだろ?」
御手杵は律儀な言葉に苦笑したが、
「けど、手入れ終わってんだから入れ替えなくてもいいのになぁ」
今回のことに関しては、少しばかり不満がある口振りだった。
石切丸は袴をキュッと握りしめた。
(これは『嘘』になるのだろうか?)
あの時、彼は主への申し出の際に一つだけ頼みごとをした。
交代はあくまで主の裁量だということにしてほしいと。
自分からの申し出だということは伏せてほしいと。
(理由を聞かれたら私はきっと誰にも答えられない)
一番気にしそうなこの青年には絶対に。

「……もしかして、どっか調子悪い?」

 石切丸は俯いたままこちらを見ようとしない。
月明かりのせいか青白く見える横顔を、御手杵はじっと見つめた。
率先して鍛錬場に足を運ぶ部類ではない彼が、この場に座していることにも違和感がある。
「そんなことはないよ」
石切丸はやはり目を合わせてこない。
「ふ~ん」
この本丸にいる古い刀たちの大半は本音が読みづらく、なかなか胸中を明かそうとはしない。
石切丸も例に漏れず、会話だけでは察することができない部分も多かった。
「だったらさ……少し手合わせしないか?」
御手杵は胡座を解いて立ち上がった。
「え?」
意外な言葉で瞠目した石切丸をよそに、壁に掛けられてる鍛錬用の武器を取りに行く。
自分用の木製の槍と石切丸用の大振りな木刀を手に取り、それを座ったままの相手へと放り投げた。
「うわっ!?」
石切丸は反射的にそれを受け取るために腰を浮かせ、身体を動かしてしまった。
「き、君……なんてことを」
仕方なく立ち上がる。
と、その瞬間。

──ガキンッ!

かけ声の一つもなく、御手杵から初手が繰り出された。
「なっ!?」
石切丸は咄嗟に木刀で受け止める。
御手杵は瞬時に間合いを取り、間髪入れず追撃の態勢に入った。
「ま、待ってくれ!御手杵さん!」
制止の声を無視し、二度三度と刺突を繰り出してくる。
動揺している石切丸は防戦するのが精一杯だった。
「あんた……なにを考えてる?」
連撃の最後、御手杵はなぜか間合いを取ろうとしなかった。
下段で交わった武器同士が鍔迫り合いのように軋む。
彼は少し見上げる形で相手に両眼を向けた。
「──っ」
それを見た途端、石切丸は息を詰まらせてしまった。
あの時の茜色に染まった横顔を思い出す。
(あぁ、戦場の顔だ)
見惚れたまま、戦を放棄した。
身勝手な理由で周囲に迷惑をかけた。
蘇る記憶の中、不甲斐ない自分に自己嫌悪する。
(私は……もう彼と共に刀を振るえないかもしれない)
それが頭を過ぎった瞬間、怖いと思った。

 石切丸の木刀を持つ手が小刻みに震え始めた。
そこに込めていた力が弱まり、交わっていた二振りの均衡が崩れそうになる。
このままでは石切丸の身体ごと吹き飛ばしてしまうかもしれない。
(まずいな)
御手杵はそれを察し、強引に槍を引き抜きながら間を取った。
それでも力は制御しきれず、石切丸の手から木刀が勢いよく弾き飛ばされる。
静かな空間に大きな落下音が響き渡った。

「……ふぅ」
御手杵は床に転がった木刀を一瞥し、すぐに石切丸の様子を探った。
彼はその身に受けた衝撃を、わずかに後退しただけでなんとか押し留めていた。
木刀を持っていた腕を片方の手で押さえて俯く姿からは、表情を覗えない。
けれど、吹き飛ばして壁に叩き付けてしまうという最悪の事態は回避することができた。
御手杵は、内心ほっと胸を撫で下ろす。
彼は手合わせという言葉を使ったが、それは本意ではなかった。
ただ石切丸の胸中が知りたくて、こんな方法しか思い付かなかっただけで。
武器を交えれば心の機微が分かるかもしれないと思ったのだ。
そうして、この短いやり取りだけでひしひしと伝わってくるもの。
「あんたは俺が怖いのか?」
御手杵は戦いの姿勢を解いて静かに問いかける。
「違うよ。君は優しい」
応答はすぐにあり、石切丸はようやく顔を向けてくれた。
少し距離を置いて立っている彼は、困ったように微笑する。
「だったら、なにが怖いんだ?」
月光に浮かぶ姿は最初に見惚れたまま綺麗だったが、今はどこか消えてしまいそうな脆さを感じた。
触れたら崩れそうな気がして、御手杵はその場から足を動かせなかった。

(──どうしてこんな時ばかり聡いのか、君は)

石切丸は苦しげに双眸を歪ませ、そんな彼を見つめた。
相手がこれ以上踏み込んでくる気配がないことに安堵したが、閉ざしている心の一端に勘付かれて胸が軋む。

夜空に雲が流れ、月が顔を潜ませる。
薄闇が広がる鍛錬場の中で、互いに言葉を見失ってしまった。

 先に動いたのは年長の大太刀だった。
彼はおもむろに飛ばされた木刀を拾い上げ、立ち尽くしている青年の元へと歩み寄る。
そうして、それを返そうと差し出した。
反射的に受け取ってしまった御手杵を、ほんの一瞬だけ愛おしげに見やってから瞳を伏せる。
「そんなこと……君には言えないよ」
言えるわけがない。
君に溺れていく自分が怖いなんて。
逃げるようにその場から立ち去る背中に、引き留める声はかからなかった。

 

 あれからしばらくが経った。
戦線の緊張が緩むことはなく、第一部隊は頻繁に戦場へ繰り出している。
石切丸はそんな現状に不謹慎ながらも安堵していた。
出陣しているのなら、この本丸で御手杵と出会う機会は格段に減る。
あの夜、去り際に彼の顔を見ることができなかった。
心の奥底に手をかけられて、堪らずそれを振り払って逃げてしまったのだから。
「また聞かれるのだろうか?」
石切丸は縁側に腰を下ろしてぼんやりと中庭を見る。
昼下がりの空気は安穏としていて、つい無意識に頭を巡らせてしまっていた。
「それとも怒ったかな。もう聞く気も起きないくらいに」
自嘲気味な呟きがそよ風に流されていく。
そもそも、石切丸はこの本丸で御手杵が怒っている姿を見た記憶がなかった。
大らかな彼は些細なことを気にしないし、誰かの非を指摘するにしても冗談交じりで柔らかい。
機嫌が悪そうな素振りでもすれば、周囲に珍しがられるくらいだ。
そんな人柄を分かっていても、『怒っている』と思ってしまう気持ちは強かった。
自分の保身のために突き放したのだから、普段どんなに鷹揚な彼でも、さすがに気分を害しただろう。

「……はぁ」

 石切丸は板張りの廊下に背中を預け、ごろりと寝転がった。
日頃から所作を正している彼にしては珍しい行動だ。
周りに人の気配がないのを良いことに、そのままの体勢で青い空を眺めやる。
この本丸が立地している場所は特殊な空間だが、気候の変化や季節の巡りは存在しているようだ。
昨日は小雨が降り続いていたが、今日は穏やかな晴れ模様だった。
庭先の一角では洗濯物が群れをなして風に揺れている。
そんな風景の中、また知らずの内に溜息が漏れる。
降り注ぐ陽光が、今の薄暗い自分にはやけに眩しく感じられ、手の甲でそれを遮った。

「おや、珍しいこともあるものよ」

不意に笑い混じりの声が耳に届いた。
「!?」
石切丸は反射的に飛び起きる。
周囲には誰もいなかったはずだし、こちらに向かってくる足音すらも聞こえなかった。
「驚かせてしまったか」
虚を突かれた石切丸は、細い目を見開いて声の主を凝視した。
「こ、小烏丸さん」
ようやく声を絞り出すと、童子の姿をした古刀が意地悪げに覗き込んできた。
「この父に遠慮することはないぞ?存分に寝転がるとよい」
「あのね……人前でそういうわけにはいかないよ」
「ほほっ、そなたは真面目な子よの」
小烏丸はころころと笑いながら、石切丸の横に腰を下ろした。
背丈が低いので縁側に座ると足が宙ぶらりんになってしまい、子供のように揺らしている。
「私に用があるのかい?」
「なに、父が遊んでやろうと思ってな」
ただ並んで座っていることを不思議に思った石切丸が尋ねると、小烏丸は神秘的な瞳を煌めかせて大きな子供を見上げた。

 

 ぱちり、ぱちりと小気味良い音が響いている。
二人は縁側に面した部屋で、碁盤を挟んで向かい合っていた。
最初は寂しげだった盤上に黒石と白石が彩りを添えていく。
(う~ん、これは『遊び』なのかな?)
小烏丸が持ってきた碁盤は脚つきの立派なものだった。
碁笥や碁石も一目で品質の良さが分かる。
『遊び』の準備はあれよという間に整えられ、対局をするはめになってしまった石切丸は渋々と打ち始めた。
しかし、手を重ねるごとに嫌な気持ちは薄れ、純粋な楽しさが胸に広がっていく。
囲碁は静かにゆったりとした時間を過ごせるので、彼にとっては好ましいものだった。
互いに何気ない言葉を交わしながら、盤上に石を置いていく。
中庭では小さな観客たちが枝先に止まり、可愛らしく囀っていた。
何もしていなければ微睡んでしまいそうな午後のひととき。

「……ふむ、こうも手が乱れるものか」

 対局も中盤に差し掛かった頃、小烏丸が顎に手を当てながら口を開いた。
石切丸が弾かれたように彼の顔を見る。
「『遊ぶ』には余裕のない打ち方よな」
童子の姿をした太刀は、そう言いながら白石を一つ置く。
「どういうことだい?」
石切丸は碁笥に手を入れて黒石を探った。
「無意識ならば重傷よ。心の乱れが盤面に現れているぞ」
しかし、思わぬ指摘がその手を止めてしまう。
「私は平静だよ」
「ほほほっ、この父の目は節穴ではないぞ?」
訝しむような子供の視線をもろともせず、小烏丸は優美に笑った。
「私は……」
石切丸は止めていた手を無理矢理動かして盤上に石を打った。
先ほどまで軽やかな音を鳴らしていた指が微かに震える。
彼は確かにこの対局を楽しんでいた。
静かな環境も相まって、久しぶりに腰を落ち着かせている気分だ。
頭の中では相手の手先を予測し、どのように石を動かそうかと思考を巡らせていく。
集中すればするほど、そこに暗い雑念が入り込む余地はない。
──はずだった。

「その苦悶は性質ゆえか、年長ゆえの矜持か」

 まるで独り言のような言葉は、石切丸の身体を一気に強張らせた。
(まさか、気づかれている?)
急に襲ってきた緊張感からか、胸の鼓動が速くなっていく。
彼は『何を』、『どこまで』知っているのだろうか?
特別に親しいというわけではない小烏丸の言動に困惑を隠せない。
そんな中、ぱちりと白石を打つ音が室内に響いた。
黒い瞳が心の奥を見透かすように、真正面から石切丸を捉える。

「そなたは一人で内に抱え込みすぎる。時には己をさらけ出すことも必要であろう?」

 その声音は子供を諭す親の体をなし、穏やかで優しい響きだった。
このような扱いを受けたことがない石切丸にとっては少々くすぐったい。
それでもじんわりと胸が温かくなり、自然と緊張が解れていくのが分かった。
(あぁ、そうか。この『遊び』は偶然でも気紛れでもなかったんだね)
そうして、石切丸はようやく察することができた。
小烏丸はただ遊び相手が欲しかったわけではなく、しっかりとした意図があってこの対局の席を設けたのだ。
「……君には適わないね」
石切丸は溜息と共に苦笑した。
「そなたもこの父の子よ。侮るでないぞ?」
彼の表情の変化に気を良くしたのか、小烏丸は楽しげに戯けて笑う。
「ありがとう、小烏丸さん。少し気持ちが軽くなったような気がするよ」
「それならば良い。そなたが悶々と閉じこもっていては『向こう』も迂闊に踏み込めまい」
小烏丸が落ち着きを取り戻した大きな子供を愛おしげに見つめる。
「──え?向こう?」
「ほほっ、ただの独り言よ」
小首を傾げた石切丸を軽くあしらい、動きが止まったままの盤上を指差した。
「さて、そなたの番ぞ?父はまだまだ遊び足りぬ」
「はい、はい」
石切丸は碁笥から黒石を取り、躊躇なく碁盤に指を伸ばす。
淀みのない綺麗な音が響いた。

 

 今日の戦果は上々だった。
大きな負傷もなく、第一部隊は意気揚々と本丸へ帰還した。
「みんな、お疲れさま。さて、俺は主へ報告に行ってくるよ」
「はーい。それじゃ、ここで解散だね!」
隊長である蜂須賀が労うと、乱がぴょんと小さく跳ねた。
その愛らしい様子に皆が笑顔になり、それから思い思いの場所へと散っていった。
「乱はいつも元気だなぁ」
「良い戦果だったから尚更だね。アタシも美味い酒が飲めそうだよ」
御手杵と次郎太刀は自室へ戻るために廊下を歩いていた。
彼らが居住している槍部屋と大太刀部屋は互いに近く、方向は同じだ。
「そんなにしょっちゅう飲んでて美味いも不味いもあんのか?」
「そりゃ、快勝した後の酒は格別美味いに決まってるじゃないか」
「ふ~ん、俺は飯の方がいいけどなぁ」
「酒の味が分からないなんて、お子様だねぇ」
軽口を叩き合いながら、特に急ぐわけでもなく歩を進める。
(──あ)
本丸の共用部分を抜け、居住区に差し掛かろうとする辺りで、御手杵がふと足を止めた。
中庭を挟んだ向こう側、開け放たれた部屋の中で囲碁に興じている刀たちがいる。
童子の姿をした古刀は悠然と構え、会話の合間にころころと笑っている。
対する大太刀の青年も、それを受けて頬を緩ませている。
ここからは距離があって声までは聞き取れないが、とても楽しそうな雰囲気だ。
年長の刀たち特有の悠長な空気が漂っている。
(囲碁か……ああいうのが好きなんだなぁ)
御手杵は無意識に唇を噛んだ。
以前は自分に向けてくれていた微笑みが今は手の届かない所にある。
(俺はあんまり得意じゃないな)
碁盤と白と黒の石。
打ち方は知っているが、自ら進んで嗜もうとは思わない。
端的に言ってしまえば、柄ではないということだ。
今更ながら、石切丸とは好みや人脈の交わりが薄いという事実を突き付けられる。

「今度はあんたが追いかけてるのかい?」
立ち止まったまま向こう側を見つめていた御手杵は、かけられた声に身を固くした。
「追いかける?」
石切丸から視線を外して声の方を向くと、次郎太刀と目が合った。
「自覚がないのは困ったもんだねぇ」
彼はやれやれと、肩を竦めて大袈裟な溜息を吐く。
「少しは胸に手を当てて考えてごらんよ。『誰』を『どうして』見ているのかって」
それから、静かに口を開いた。
「あんた、やっぱりなにか知ってるのか?」
前にも意味深げなことを言っていたのを思い出し、御手杵は訝しむ。
「さて、どうだか。聞くより前に自分で考えなって」
しかし、次郎太刀はまともに取り合わず、御手杵の背中を一つ叩いた。
「それじゃ、アタシは先に行くよ。美味しい酒が待ってるからねぇ」
「お、おい?」
そうして、ひらひらと片手を振りながら歩き去って行ってしまった。

 一人残された御手杵は、再び視線を戻した。
石切丸は柔らかな表情で小烏丸と囲碁を楽しんでいる。
「『誰』を……か」
自室へ戻ろうとしていた足は、床に貼り付いて動こうとしなかった。
あの夜の一件以来、御手杵は石切丸にどう接すれば良いのか分からなくなってしまっていた。
何かを怖がっているのは確かなのに、肝心な所は暗がりの中。
「そんなに俺には言えないことか?」
槍の柄を握る手に力が籠もる。
あの時、石切丸は逃げた。
こちらから近づけば、きっとまた同じことを繰り返すだろう。
それが分かっているから踏み出そうにも踏み出せない。
まるで四方八方を塞がれてしまったような感じがした。
顔を見かければ、本音を聞かせて欲しいと心が焦れる。
ああして穏やかに佇んでいれば、以前は当たり前だった日常を思い出す。
離れれば離れるほど、共に時間を過ごしたいと渇望する。
「……はぁ」
御手杵は胸元を握りしめ、苦しげに息を吐いた。
次郎太刀が考えろと言った『どうして』の答えはたぶん出ている。
けれど、この温かいような苦しいような不思議な感情を形容する言葉が思い浮かばなかった。

 

 大概にして賑やかに酒を飲みたがる次郎太刀だが、この日はやけに静かだった。
「どうしたよ?珍しくしけた面しやがって」
日本号がぐい飲みを片手に不思議そうな顔をする。
「いい加減、さっさとくっついてほしいんだよねぇ」
「あぁ、あいつらか」
溜息交じりの言葉に主語はなかったが、彼はすぐに察した。
「なんだ、やっぱり気づいてたんだ?」
「最初は同部隊が長いから親しいのかと思ってたんだがなぁ」
空になった器に酒を注ぎ、日本号はそれを豪快にあおった。
それから一つ息を吐き、
「最近のあいつを見てると、さすがに……な。ま、蜻蛉切はそっち方面は疎そうだから気づいてないだろうが」
今度は次郎太刀に酌をする。
「ははっ、疎いってことならこっちだってアタシ以外は誰も知らないと思うけどね」
槍部屋と大太刀部屋、互いの住民たちを頭に巡らせた二人は苦笑した。

「前はさ、石切丸の方がよく目で追ってたからそれで気づいたんだけど……今はまるで逆だねぇ」
次郎太刀がたっぷりと注がれた酒に口を付け、以前の石切丸を思い出す。
「そういやぁ、朝メシの時やたらと見てんだよな、御手杵のやつ。あんな時くらいしか見る時間がないってか?」
それにつられて日本号は近頃の御手杵を思い出す。
「へぇ?そりゃぁ、気づかなかったよ」
それは初耳だと、次郎太刀の目に明るい色が踊る。
「おいおい……妙なこと考えるんじゃねぇぞ?」
「なに、ちょっと発破をかけてやるだけさ」
心配して釘を刺す日本号をよそに、次郎太刀は楽しげな顔で酒器に残っている酒を一気に飲み干した。

 

 大所帯である本丸の朝は忙しない。
食堂となっている部屋は広く、繋ぎ合わされた長方形の座卓が等間隔に数列配置されていた。
そこへ各々が自由に座って食事を取る形式だ。
決められた時間帯の中で、皆が入れ替わり立ち替わり食堂を訪れる。
大太刀の面々は仲が良く、この日も揃って朝餉の時間を過ごしていた。
石切丸は同僚たちの会話に相槌を打ちながら食事を進めている。
彼はこの雑然とした中の活気ある空気が好きだった。
食堂の中は騒がしいが、数多いる仲間たちの様子を垣間見ることができる。
(今日は皆、出足が早いね。気持ちよく目覚めた子が多いのかな?)
そんなことを思っていると、隣から軽く肘で小突かれた。
「ん、なんだい?」
「ちょっと向こうを見てごらんよ。面白いものが見られるかも」
隣に座っている次郎太刀が意地悪げな顔で顎をしゃくる。
「面白いもの?」
石切丸は疑問符を浮かべながら言われた方へ目を向けた。
それは座卓を数列ほど挟んだ先の真正面。
楽しげに食事をする同僚たちの肩越しに視線を流す。
(──っ)
それを見た瞬間、全身に緊張が走った。

 無意識のうちにそこを選んでいた。
空いている席は他にもあったはずなのに、足は迷いなく動いた。
先に食卓についていたあの大太刀が見える場所に。

(やっぱり所作が綺麗なんだよなぁ)
御手杵はそう思いながらぼんやりと石切丸を眺めていた。
それでもこの身体は空腹に素直で、食事の手は止まらない。
まるで彼の姿をおかずにでもしているような感覚だ。
共に座している日本号と蜻蛉切との会話に適度に加わりながら、器用に朝餉の時間をやりくりしている。
そんな中、それは本当に突然だった。
──石切丸がこちらを向いた。

 あの鍛錬場での夜以来、やっとまともに顔を合わせることができた。
箸を持つ手が止まり、互いを食い入るように見つめる。
それは絡み合って解けず、どちらからも逸らすことはできなかった。
赤銅色の瞳は強く真っ直ぐで、菫色の瞳はどこか泣きそうに揺れていた。
久しぶりに相手をはっきりと認識し、それぞれの胸が急激に熱くなる。
いつの間にか周囲の雑音は掻き消され、この場には二人だけ。
この高まりは際限を知らず、延々と続いてしまいそうな気さえした。

 動きの止まった御手杵を、隣に座っている蜻蛉切が不思議そうに見た。
「……まさか、寝たまま食っているのではあるまいな?」
話しかけるというよりも独り言のようなそれを聞き、彼の正面に座っている日本号が微かに瞠目した。
先日の次郎太刀の言葉が気になり、それとなく後方を振り返ってみる。
座卓の列を隔てた先に、御手杵の方を見ている石切丸がいた。
(あいつ、教えやがったのか)
その隣にいる次郎太刀は日本号の視線に気づき、軽く片目をつぶってみせた。

「あーっ、御手杵さんまだ食べてるの?」

そんな高揚した二人の緊張感を、可愛らしい少年の声が遮った。
朝餉を終えて食堂を出ようとしていた乱が、御手杵の横で立ち止まる。
「へ?」
「もうっ、今日はいつもより早い出陣だよ!」
頬を膨らませて見下ろしてくる少年の言葉は、御手杵を一気に現実へと引き戻した。
「あっ、そうだった」
「やだなぁ、忘れてたの?昨日、蜂須賀さんが言ってたし」
「ごめん、ごめん」
御手杵は少年に謝った後、まだ残っている朝餉の膳を急いで口に運び始める。
それを見た乱はわざとらしく溜息を吐き、何気なく食堂内を見渡した。
「あっ」
すると、御手杵だけだと思っていたのんびり者がもう一人。
今度はそちらへ足を向け、天色の目でひと睨みする。
「次郎さ~ん、遅れたら怒られちゃうよ?」
腰に手を当てて覗き込む仕草は可愛らしいが、妙に迫力がある。
「分かってるって。うちの隊長さんは真面目だからねぇ」
次郎太刀はすでに食事を終え、悠々とお茶を啜っているところだった。
もちろん、焚きつけた二人の様子を覗いつつだったが。
「ほんとにちゃんと来てよね!」
いつも集合時間ぎりぎりな彼の言葉には説得力がなく、乱はしっかりと釘を刺した。
「はい、は~い」
そして、緩い返事に唇を尖らせつつも食堂から出て行った。

 不意に背中を軽く叩かれた。
絡み合った視線が強引に解かれ、所在をなくした石切丸が我に返る。
「さて、アタシは先に行くからね」
「あ、あぁ、そうか。これから出陣だったね」
彼は無駄に何度も頷きながら、いつものように笑みを浮かべた。
「アンタもちゃんと向き合ってやりなよ……ねっ」
しかし、次郎太刀にはそれがどこか力なく思え、優しい声音で背中を押した。
彼が席を立った後、
「ねぇ、ねぇ。どっか調子悪いの?」
蛍丸がご飯を頬張りながら石切丸に声をかけた。
「確かに、あまり食事が進んでいないようですね」
立て続けに太郎太刀が心配げに目を細める。
「ふむ……今日は内番だったな。我と代わるか?」
更に、今度は祢々切丸が腕を組みながら申し出た。
「大丈夫だよ。少し考えごとをしていただけだから」
思わぬ指摘を受けた石切丸は、慌ててそれを否定した。
当の本人はいつも通りのつもりだったが、同室の彼らには通用しなかったようだ。
石切丸は同僚たちにいらぬ心配をかけてしまっていることを申し訳なく思ってしまった。

 

 わざわざ声をかけてもらった手前、遅刻をするのは体裁が悪い。
御手杵は素早く出陣の準備を整え、集合場所である正門前へと向かった。
「──らしくないなぁ」
大股で廊下を進みながら人知れず声が漏れた。
いつもなら、すぐに頭の中を切り替えて戦場へと思考を巡らせることができる。
「どうやって振り払えばいい?」
彼は眉を寄せて一度だけ頭を振った。
少しだけ泣きそうに見えた菫色がちらつく。
あの時に高ぶった熱の余韻が、いつまでも身体から離れない。
今はそれを静めることすらできそうになかった。
居住区から共用区を抜けた御手杵は、玄関口まで来たところで足を止めた。
何気なく掲示板を見やり、内番の項目に連なる名前に目を留める。
「あぁ、そっか……無理ならこのまま行けばいい」
数拍の後、彼はぼそりと呟いた。
自分を制することを諦め、代わりに何かを思い付いたようだった。

 

 今日は穏やかな空模様だった。
青い空には雲が点々と浮いているが、晴天と言っても差し支えないだろう。
本丸の裏手に広がる畑にも暖かな陽光が降り注いでいた。
いずれ食卓に花を添えるであろう作物たちもどこか嬉しそうに見える。
「ちょいと手を加えりゃ、いい肴になりそうだ」
そんな姿をしげしげと眺め、日本号が口角を吊り上げる。
彼は厨房に立つのが好きというわけではないが、つまみ程度の簡単な調理をするのは厭わないようだ。
畑の手入れをしながら収穫できそうな作物に目星を付けていく。
ふと見上げた太陽はいつの間にか高い位置にあり、そろそろ昼時だ。
日本号は辺りを見回し、もう一人の畑当番を探した。
「やっぱ、でかいとすぐに見つかるなぁ」
これが短刀たちであれば、名前を呼んだ方が早い時もある。
しかし、本日の相方は上背があるので、しゃがみ込んでさえいなければ探すのは容易だった。
日本号は彼の方へ向かいながら声をかける。
「おい、石切丸。そろそろ……」
だが、どこか様子がおかしかった。
「おいおい、お前さん何やってんだよ。根が腐っちまうぞ?」
石切丸はぼんやりと一点を見つめたまま、手にしたじょうろで水をやっている。
まだ芽吹き始めたばかりの若葉には多すぎる量だ。
日本号は慌てる風でもなく、彼に近づいてじょうろを取り上げる。
「え、あっ、すまない」
石切丸はそこでようやく我に返った。
その場に膝を折り、小さな緑を心配げに見つめる。
「はぁ、なんてことだ。ようやく芽が出たというに……」
自然と深い溜息が漏れてしまう。
「まぁ、そのくらいなら平気だろ。幸い雨が降りそうな気配はないからな」
「それならば良いのだけど」
石切丸はすぐに立ち上がったが、また一点を見つめ始めてしまった。

「平静そうに見えて案外余裕がないもんだな。今朝の『あれ』は結構きいたんじゃねぇか?」

一瞬、何を言われたのか分からなかった。
石切丸が驚いた目を向けると、日本号は首を竦めて苦笑した。
「俺がとやかく言うのもなんだが、そろそろあいつと向き合ってやれよ」
静かにそう言った後、「昼飯にしようや」と相方に背を向けて飄々と歩き出してしまう。
「日本号さん、待ってくれ!」
言葉の真意を問いたくて石切丸が声をあげると、正三位の槍は足を止めて振り返った。
「あー、これは予想だけどよ……午後の当番は俺じゃないかもなぁ」
「急に何を言い出すんだい。真面目にやってくれないと困るよ」
「俺自身はサボる気はないんだがな。交代してくれって頼まれたら断り切れねぇな~と思ってさ」
日本号は喉の奥で笑い、今度こそ建物の方へ歩き出してしまった。
「なんだか上手く逃げられてしまった気がする」
石切丸は引き止めるのを諦め、一人項垂れる。
(今朝のこと……)
なるべく思い出さないようにしていたのに、今は否応なく脳裏に蘇ってきてしまう。
真っ直ぐに見つめてくる瞳が胸の奥に突き刺さった。
じりじりと喉が焼け付きそうなくらいに熱かった。
絡み合った視線が泣きそうなくらいに嬉しかった。

「本当に……どうしようもなく好きなんだ。君のこと」

溢れ出す気持ちが無意識に言葉を形作る。
ぎりぎりの所で止めていた堰が、今にも崩れ落ちそうだった。

 昼餉を終えた石切丸は、一人で畑へと戻ってきた。
休息の後、共に畑へ向かうつもりで日本号に声をかけようとしたが、彼の姿は見当たらなかった。
「日本号さん、どこに行ってしまったんだろう?食べている所は見たのだけど」
もしかして先に戻って来ているのではないかと思ったが、誰もいないようだ。
「そう言えば、交代するかもとか妙なことを言っていたような」
石切丸は作業を再開しながら独りごちる。
先ほどは冗談としか思えなかったそれが、次第に現実味を帯びてきた。
「農作業が好きな子はわりといるけど……う~ん」
呟きながらも作業をしていた石切丸は、誰かが畑に向かってきている気配に全く気が付いていなかった。

「なんだ、もう始めてるのか。真面目だなぁ」

 のんびりとした声が畑に響く。
それは誰の口から発せられたものなのか、石切丸が間違えるはずもなかった。
呆然と立ち尽くす彼に、声の主は優しく笑いかける。
「どう、して……出陣してる……はず」
「あぁ、今日は出るのが早かったからな。さっき帰ってきたとこ」
言葉の通り、槍の青年は戦装束のままだった。
小手や肩当てなどの武具は外していたが、畑に来るような格好ではない。
袖はところどころ裂けていて、頬には細かな傷があった。
そんな立ち姿を見た石切丸の顔がわずかに歪む。
(早く手当てをしないと)
そう言おうとしたが、上手く声が出せずに何度か口を開閉させた。
そんな自分がもどかしくて自然と身体の方が動く。
血が滲む頬に手を伸ばし、指の先が触れた。

──最後に触れたのはいつだっただろうか?

共に戦地を駆けていたのは。
平時には隣で微笑んでいてくれていたのは。
思い出せないくらい遠退いてしまったような気がする。
御手杵はそれを引き戻したくて、伸ばされた温かな手を捕まえた。
「なぁ、また一緒に戦場へ行こう?」
懇願にも似た言葉を紡いだ唇が、そっと石切丸の指先に落とされる。
「っ!?」
カッと全身が熱くなった。
「駄目だ!」
石切丸は反射的に手を振り払い、後退った。
「私はきっとまた皆に迷惑をかける。足を引っ張ってしまう」
まるで子供が嫌がるように激しく首を振った。
そんな石切丸の反応に御手杵は一瞬声を失ったが、息を吐きすぐに頭を切り替える。
今は困惑している暇もない。
もうこれ以上は逃げられたくなかった。
「あの時のことか?戦に負傷はつきものだろ」
「違う、あれは私が……っ」
真っ直ぐに向けられる眼差しは、まだ微かに残っていた石切丸の矜持を完全に破壊した。
「私が君に見惚れて足を止めてしまったせいだ!」
唇から落とされた熱が、心の堰を粉々にする。
「君とは出陣できない。何度でも目を奪われてしまうから」
今は御手杵がどんな表情をしているのかなんて、到底見ることはできなかった。
「君が好きだよ……大好きなんだ」
止めるものがなくなった想いは、切々と流れ落ちていく。
もう何も考えられなかった。
まるで高熱にうなされているようで頭がふらふらとする。
このままでは倒れてしまいそうで、本能的に水を求めた。近くにあった作業用の手桶を掴もうと足が動く。
「ま、待て!石切……っ」
それを見た御手杵が慌てて止めに入ったが、間に合わなかった。

──バシャッ!

 石切丸は何の躊躇もなく頭から水を被った。
「なにやってんだよ!あんたは!」
これにはさすがの御手杵も声を荒げた。
すぐに駆け寄り、石切丸から手桶を取り上げて地面へ放り投げる。
何か水気を取るものはないかと辺りを見回したが、生憎とここは畑の真ん中だった。
仕方なく自分の上着を脱ぎ、それで石切丸の頭を拭いてみる。
だが、栗色の髪からは滴が落ち、水気を取るにしてもこれでは心許ない
「あー、やっぱ着替えないとダメだなぁ」
幸いと言うべきか、手桶の水は少量だったので全身がびしょ濡れになる程ではなかったが、上半身はしっかりと濡れてしまっていた。
「行けない、君とは行けないよ……」
為すがままにされている石切丸は、小さく呟きながら目元を潤ませる。
水に濡れた頬の上に涙が伝った。
傍から見れば水か涙か判別がつかない状況だったが、御手杵にはすぐに泣いているのだと分かった。
そうして、手入れ部屋で眠っていた石切丸の泣き痕を思い出す。
少し強引に手で涙を拭ったが、それでも止めどなく流れ落ちてきた。
「怖いんだ……私が私ではなくなってしまうみたいで」
震える声が、不安を吐露して訴えてくる。

「あんた、あの時も泣いてたな」

 手入れ部屋で静かに横たわっていた身体に問いかけた。
鍛錬場で脆くて消えてしまいそうな姿に胸中を探った。
御手杵はそれらの『答え』をようやく見つけることができた。
石切丸の苦悩と本心を。
「怖がらなくてもいいから、これ以上一人で苦しまないでくれよ」
胸の奥が締め付けられるように痛み、御手杵は声を絞り出す。
そして、上着を被ったままの石切丸を強く抱き締めた。

 

 近頃は過ごしやすい陽気だが、いつまでも濡れたままというわけはいかない。
とにかく石切丸を着替えさせようと、御手杵は部屋へ戻ることにした。
やんわりと腕を掴み歩き出すと、嫌がる素振りもなく大人しく付いてきてくれた。
途中で出会った同僚たちには驚かれたが、
「うっかり石切丸に水引っかけちゃってさ。さすがに怒ってるみたいだなぁ」
と戯けて笑いながら誤魔化した。
上着を被ったままの石切丸は終始無言で、外から表情は読み取れない。
そのおかげか、御手杵の言葉が疑われることはなかった。

 大太刀部屋では次郎太刀が一人で寛いでいた。
酒瓶を片手に、今日の出陣で蓄積した疲労をのんびりと癒やす。
「う~ん、この部屋を独り占めっていうのもなかなか気分がいいねぇ」
太郎太刀と蛍丸は朝餉の後、それぞれ遠征任務に向かった。
「祢々切丸はまた山にでも行ってそうだし」
次郎太刀は同室の仲間たち思い浮かべつつ、杯に酒を注ぐ。
そして最後の一人。
「石切丸は畑……あぁ、そう言えば御手杵の奴がなんだか急いでたねぇ」
本丸へ帰還した直後の様子を思い出し、ほくそ笑む。
自分が彼らを焚き付けたことで、何か動きがあったのかもしれない。
次郎太刀とて、二人が自然となるようになってくれるのが一番だと思っていた。
けれど、どちらからも歩み寄れない彼らに気をもみ、徐々に心が不安定になっていく様を目にし、お節介だと分かっていてもつい動いてしまった。
「早く、仲睦まじい様子をからかいたいんだけどねぇ」
そんな風に二人のことを考えていた矢先、廊下から複数の足音が聞こえてきた。

「おーい、ちょっと入るぞ」

足音は部屋の前で止まり、次郎太刀が障子戸を開けるとそこには彼らの姿。
「おやおや、どうしたんだい?」
「えっと、石切丸が濡れちゃってさ。着替えさせに来たんだけど」
苦笑しながらそう言った御手杵の後ろには、上着を被って俯いている石切丸が立っていた。
(ふ~ん……正念場かねぇ)
次郎太刀は二人を見て、腰を上げた。
「アタシはお邪魔みたいだから席を外すよ」
「あぁ、悪いな」
その言葉を御手杵が否定しなかったことに、くすりと笑みが零れる。
「いい加減、しっかりと捕まえるんだよ?」
彼は御手杵の肩を軽く叩き、そう言って部屋から出て行った。

 

 濡れて重くなった着物を解き、新しいものに袖を通す。
閉じられた障子戸の向こう側には、大きな影が座っていた。
(……言ってしまった)
石切丸はそれを見つめながら苦しげに唇を噛んだ。
泣きすぎて目が痛むせいか、影がぼやけてしまう。
この部屋に戻るまでの間に涙は止まったが、きっと泣き腫らした酷い顔をしているだろう。
(本当にみっともない。御手杵さんはきっと呆れているはずだ)
実際の所、石切丸は「好きだ」と言った後の自分の言動をよく覚えていなかった。
感情が高ぶりすぎたせいか、気づけばいつの間にか着物は濡れていて御手杵の上着を被っていた。
(こんなことをしてはいけなかった。意地でも堪えるべきだった)
ふと、碁盤の席で小烏丸が言っていた言葉が脳裏に浮かぶ。
彼の諭すような助言が、自分にとっては悪手のように思えてならなかった。
「やはり私には、己をさらけ出すことなど……そぐわないよ」
心の内が、ほろりと小さな音になって落ちた。
「──ん?着替え終わったのかぁ?」
それが聞こえたのか、御手杵が声をかけてくる。
石切丸の肩が跳ね、全身に緊張が走る。
障子越しの影が振り向くような素振りを見せた。
「石切丸?」
名前を呼ばれ、無視するわけにもいかず、彼は何とか口を開く。
「大丈夫……一人で戻るから、待っていてくれなくてもいいよ」
この期に及んでどこへ逃げようというのか?
頭では分かっているのに、足が後ろへ引きそうになる。
御手杵はなぜかすぐに応答してこなかった。
どちらとも言葉を発しないまま、少しの沈黙が流れる。
石切丸には、互いを隔てるこの薄い障子戸が酷く重いものに感じられた。

 しばらくして、影が立ち上がった。
きっと彼はそのまま立ち去るのだろうと石切丸は思ったが、
「入るぞ」
存外に強い声と共に、石切丸にとっては重い戸を難なく開け放つ。
「……あっ」
思いきり正面から彼の顔を見てしまった。
御手杵は珍しく険しい表情をしていて、まるで睨むかのように石切丸を見据えていた。
「あんた、なに言ってんだよ。一人にするわけないだろ」
些か乱暴に部屋へ上がり、立ち竦んでいる相手との距離を詰める。
「あんなに苦しそうに泣かれて、あんなに綺麗に泣かれて……逃がすわけないだろ!」
御手杵は強引に石切丸の腕を掴み、その身体を引き寄せた。
捉えた菫色の瞳は怯えて揺れていたが、逸らすことさえ許さず真っ直ぐに射貫く。
「石切丸、俺はあんたが好きだ。だからもう泣くな」
気の利いた優しい言い回しなんて思い浮かばなかった。
ただ、この想いを率直に伝える。

御手杵はずっとこの胸中に燻る不思議な感情の表し方を探していた。
石切丸の告白を受けてやっと見つけたそれは、とても単純で明快な言葉だった。
たった一言、『好き』だと。

石切丸はその言葉に一瞬耳を疑った。
けれど、御手杵の飾らない真摯な言動はそれが本当だと教えてくれる。
優しい腕に抱き込まれて、捕らわれて、頬に一筋の涙が伝った。
「泣くな」と言われたのに、止めることができなかった。

 

 あれから数週間が経った。
御手杵は相変わらず出陣漬けの日々だったが、合間を縫っては石切丸の元を訪れている。
「あのね、そんなに構ってくれなくてもいいよ?君も疲れているだろうし」
石切丸は少し恥ずかしげにしながら、すぐ隣に座る青年を見た。
あの日、盛大に取り乱した余韻はしばらく尾を引いてしまうだろう。
「だって、あんたの顔見たいし。一緒に居たいし」
御手杵の方はそのことについて、特に気にする素振りは見せない。
「もしかして鬱陶しいとか?」
「そ、そんなことないよ!う、嬉しいけど、その……きちんと休息を取ってほしいから」
「あー、それなら全然気にしなくていいぞ。俺にとってはこれが休んでるってことだし」
石切丸は困り顔で俯いてしまったが、御手杵はそれを緩やかに眺めやる。
「そんなに気になるなら、あんたが一緒に出陣すればいいだろ?」
「だから、それは無理だと何度も言っているはずだけど」
御手杵はこの大太刀が出陣を渋る理由を知ってからも、誘うことを止めなかった。
それを断るたびに、石切丸はどうしようもない羞恥に襲われてしまう。
「あんた、意外に頑固だよなぁ」
「そういう問題ではなくて……」
熱を持った顔を両手で覆い、大きな溜息を吐く。
御手杵はそんな横顔を苦笑交じりで見つめていたが、
「あっ、そうだ」
ふと、何かを思い付いて声を上げた。

「石切丸、今から鍛錬場に行くぞ」

「は?」
急に何の脈絡もない言葉を投げかけられ、石切丸は思わず隠していた顔を晒してしまった。
きょとんとして御手杵を見ると、彼は嬉しそうに目を輝かせている。
「要はあんたが戦ってる俺を見ても平気になればいいんだろ?だったら一対一で打ち合いまくって見慣れればいい。もちろん俺は実戦のつもりでやるし」
まさに名案とばかりの得意げな表情だ。
「な、何を言い出すんだい。突然」
「ほら、早く」
彼はすぐに立ち上がり、石切丸の困惑など無視してその腕を引き上げる。
「ちょ、ちょっと君!私は承諾してないし!」
「細かいことは気にすんなって」
強引に起立させられた石切丸は、冷や汗が流れ落ちるのを感じた。心なしか脈拍も早い。
「そんな急には無理だよ。本当に無理だから!」
「なにも、今日一日でなんて言ってない。少しずつでいいからさ」
頑なに拒まれても気にはせず、御手杵はこの提案を諦めるつもりはないようだ。
わざとらしく少しだけ悲しそうな顔をしながら、石切丸を覗き込む。
「それとも、俺と出陣するの嫌か?」
「……嫌なわけないじゃないか。随分と意地悪だね」
答えが分かっているくせにと、石切丸は拗ねて唇を尖らせた。
今はもう完全にこの年若い青年に主導権を握られてしまっていて、年上の矜持も何もあったものではない。
少し悔しい気もするけれど、惚れた弱みかそれを不快に思うどころか心地良さが先に立つ。
どこか強引で、それでも優しい眼差しが自分に注がれているのを感じ、気恥ずかしくなった石切丸は彼の胸元にコツンと頭を預けた。

「私だって本当は……側にいたいよ。君が戦場を駆けるなら、隣に添っていたいよ」

ふと、御手杵の提案を拒んだその口から、心の奥底にある想いが這い上がってくる。
聞き逃しそうなほど小さな声が零れた。
彼と共に征けないと、怖くなって震えた手を思い出す。
けれど、今はそれを抑えてくれる強くて優しい腕を手に入れた。

「そっかぁ。じゃあ、二人でがんばろうな」

 それはきちんと御手杵の耳に届き、彼はとても嬉しそうに目を細めた。
胸元にある柔らかい栗色の髪を、愛おしげに何度も撫でる。
自分が強引なことをしているという自覚はあったが、彼の気持ちが聞けたことで少し心が軽くなった。
この先、石切丸が慣れてくれるまでには時間がかかるだろう。
だから、のんびりで構わない。
彼の歩調に合わせてゆっくり進めばいい。
共に征くためにはそれがきっと一番の近道だ。
御手杵はそう思った。

 

【終】 2020.03.15

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