安眠の守り人

 僅かに欠けた月が暗がりの空に浮かんでいた。
星々がささやかに瞬く中、静かに夜が更けてく。
突如、屋根の上に佇む人影が立ち上がった。
金糸のような長髪が、闇の中で煌めいて揺れる。
「あ、戻ってきたみたい」
乱藤四郎はいち早く同僚の気配を察知し、その場から身を躍らせた。
「お帰りなさい、石切丸さん」
軽やかな身のこなしで音もなく地面に舞い降りた少年がにこりと笑う。
「おっと……さすがだね。全く気配が掴めなかったよ」
石切丸は緊張で全身を強張らせたが、すぐにそれを解いた。
「えへへっ、びっくりした?」
どこか意地悪げに片目を閉じる乱に、石切丸は肩をすくめてしまう。
 今宵、石切丸と乱は夜番の任に就いていた。
当初この任務は夜戦適正のある短刀や脇差がこなしていたが、いつの頃からか「それでは不公平だろう」
という声が本丸のあちらこちらから聞こえ始めた。
精神年齢はともかく、身体は幼い彼らの疲労を心配してのことだろう。
そんな経緯もあり、現在の夜番は男士たち全員へ均等に割り振られている。
だが、夜間の任務は各刀種による得手不得手があるわけで、それらを鑑みて組み合わせには考慮を重ねた。
そう、今夜の任務で大太刀の石切丸と短刀の乱が組んでいるのはその為だ。

「乱さん、向こうの方は特に異常はなかったよ」
「ボクの方も大丈夫だよ」
二手に分かれて見回りをしていた彼らは、互いに報告し合う。
「今夜は月が顔を出しているから、ありがたいね」
石切丸が雲のない空を見上げて表情を和らげる。
少々欠けているとはいえ、月明かりのおかげで動きは取りやすい。
「うん、ボクなんて見えすぎて困っちゃうくらい」
乱は楽しげに身を翻し、再び屋根の上に飛び乗った。
それから踊るようにくるりと一回転。
戦装束が月の下でふわりと空気をはらんだ。
「おや、随分と上機嫌だね?」
どこか幻想的なその姿を、石切丸が見上げる。
「穏やかな夜だし、石切丸さんもいるし、みんな良い夢を見ているんじゃないかなって思って」
「え?私……かい?」
乱の言葉の中に出てきた自分の名前は何の脈絡もないように感じられ、石切丸は小首を傾げる。
「だって、悪い夢とか祓ってくれそうな気がするんだもん」
「う~ん、それはさすがに専門外だと思うけど」
そして、買いかぶりすぎだと苦笑を漏らす。
「え~。でも、石切丸さんて安眠を誘ってくれる雰囲気があるよね!」
しかし、この愛らしい少年は自分の主張を譲るつもりはないらしい。
両手を胸元で絡め、鮮やかに笑ってみせた。

 

 酷く、息苦しい。
喉が焼け付くように痛い。
周囲はどこもかしこも赤く染まっている。
揺らめき、うねり、まるで生き物のように纏わり付くそれは……

「……っ!?」

そこで目が覚めた。
それと同時に、掛け布団を跳ね飛ばして上半身を起こす。
「はぁ、はぁ……」
煩わしげに前髪を掻き上げ、薄暗がりの中で辺りを見回す。
彼の横では、同室である蜻蛉切と日本号が静かな寝息を立てていた。
(ここしばらくはなかったのになぁ)
額から流れ落ちる冷たい汗を強引に拭い、同僚たちを起こさないようにと布団から這い出る。
到底、このまま寝直せるような心境にはなれなかった。

 この肉体を得てからというもの、時折だが嫌な夢を見る。
けれど、なぜだかいつもその内容を思い出すことができない。
覚えているのは呼吸すらもできないような苦しさと、幾重にも揺れる『赤』。
そして、言いようのない漠然とした恐怖。
 御手杵はふらりと自室を出て、縁側に腰を下ろした。
汗をかいているせいか少し肌寒い。
凪いだ海のように穏やかな夜空を見上げることもできず、彼は一人項垂れた。

 

 昼間は賑やかなこの本丸も、深夜ともなれば静かなものである。
石切丸は足音に配慮しながら屋内を巡回していた。
先程まで乱と共にいたのだが、再び二手に分かれた。
不測の事態を想定すれば共に行動するのが最善なのだが、なにせこの本丸の敷地は広い。
限られた時間の中で任務を遂行する為には、自然とこのような状況になってしまうのだ。
「それにしても、本当に静かな夜だね」
石切丸は小さな声で独りごちながら、明かりの落ちた同僚たちの部屋へと視線を寄せる。
消灯時間は設けられていないので、夜通し酒盛りをしている面々もいたりするのだが、今夜は皆寝入っているようである。
「安眠か……乱さんも面白いことを言う」
先程の言葉を思い出すと少しくすぐったくなってしまう。
あんなことを言われたのは初めてだった。
「せめて本丸にいる時くらいは安穏でいてほしいものだ」
この本丸の仲間たちが過酷な戦場に身を投じていることを慮り、無意識に祈りにも似た言葉が零れた。

──だが、

歩みを進めた先に何かの気配を感じ、優しい空気に緊張が走った。
(誰か…いる?)
なぞるように己の本体に触れ、目を細めて静かにその先を窺う。
徐々に距離を詰めていくと、縁側に佇む人影を発見した。
人影は項垂れたまま身動きをしないが、こちらを害しようとする殺気は感じられない。
石切丸は刀から手を離し、足早に相手の側へ寄った。
この本丸の誰かだろうと思ったからだ。

 大柄な部類に属するであろう体躯と少し跳ねた栗色の髪。
それは仄暗い雰囲気とは無縁そうな槍の青年だった。
「御手杵さん、どうしたんだい?」
石切丸は床に膝を落とし、心配げに彼を覗き込んだ。
「あぁ……あんたか」
御手杵は声をかけられるまで気づかなかったようで、瞠目してから顔を上げた。
けれど、すぐに目を伏せてしまう。
その一瞬だけ垣間見えた表情に、石切丸は声を詰まらせた。
顔色が悪いのは月明かりのせいだけではないだろう。
体調が優れないという一言では片付けられないほど憔悴している。
(これは、どうしたことだろう?)
普段の鷹揚な彼と似ても似つかぬ姿は、石切丸を困惑させた。
何か声をかけたいのに、凍り付いたように唇が動かない。

──二人の間に沈黙が流れた。

 静かな夜だ。
微かな風で揺れる草木のさざめきだけが、気紛れに通り抜けていく。
まるでこの場だけ時が止まってしまったかのようだ。
そんな中、先に口を開いたのは御手杵の方だった。
「……なんか、嫌な夢を見ちまってさ」
抑揚のない声が夜の空気に溶けていく。
彼は石切丸の方を見ようとしなかった。
「なんでか苦しいんだ」
どこか虚ろな瞳が地面へと落ちる。
「赤い…どうしようもなく怖くなる」
独り言のようにぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
そうして小さな吐息を漏らしながら、片手で顔を覆った。
「俺はなにが怖いんだろうな」
そんな零れては消えていく言葉たちを、石切丸は無言で受け止めた。
ただ夢見が悪かっただけなどと、軽く流せる雰囲気ではない。
眉をひそめ、キュッと唇を噛んだ。
せめて顔を上げて欲しい。こちらを向いて欲しいと切に思った。
互いに認識はしているが側にいるのは形だけで、御手杵は『独り』だ。
(私はどうしたら良いのだろう?)
この本丸の中では年長で助言を求められることも度々あるが、今はなんの良策も思い浮かばない。
もちろん、こんな状態の彼を放置して巡回を再開するなど論外だ。
(私がしてあげられることは)
このまま時が過ぎれば彼の気持ちは浮上するのだろうか?
そうすれば眠れるのだろうか?
それとも、もう寝直すつもりはないのだろうか?
再び無言になってしまった御手杵を見つめながら、色々なことが頭を巡る。
「……御手杵さん」
しばらくして、石切丸はようやく声を出すことが出来た。
それでも名前を呼ぶのが精々だったが。
「気にすんなよ。たまにあるんだ。慣れてる」
そんな苦しげな声音は、地面に落ちていた御手杵の視線を動かした。
「な、慣れてるって……」
無理に笑おうとしてくれている姿が痛々しい。
石切丸は胸の奥が締めつけられるような感覚に襲われた。
御手杵の口ぶりからすれば、彼はこのような夜を何度も迎えていることになる。

せめて安穏で──と。

 祈るような先刻の言葉は、まるで意味をなしていない。
自惚れているわけではないが、『安眠を誘ってくれる雰囲気がある』と乱に言われて嬉しかったのは確かだ。
そうやって誰かに頼られるのは心地良いもので、少し得意げになっていたのかもしれない。
(私はなんて愚かなのだろう)
浮かれた足で巡った先、苦しげな同僚の姿を目にして横っ面を叩かれたような気さえした。

「だから、気にすんなって。夜番中だろ?もう行けよ」
気遣うような優しい声が石切丸の耳を打つ。
一瞬、本当は独りでいたいのだろうかと勘繰ったが、身勝手に『否』と振り払った。
「駄目だよ。私は、私は……行けない」
まるで幼子が嫌がるような仕草で首を左右に振った。
ほんのわずかでも彼の苦痛を和らげてあげたくて。
それでも、やはり何をしたら良いのか分からない自分が不甲斐なくて。
痛む胸中を代弁するかのように涙が滲んだ。
「そんなことに慣れているだなんて、言わないで」
零れ出た言葉は微かに震え、それと同時に身体が無意識に動いた。

 普段なら逞しくさえ映る背中が、今夜は酷く心許ない。
石切丸は御手杵の背後から手を伸ばした。
彼の首元に両腕を絡め、覆い被さるように抱きしめる。
気の利いた言動なんて何一つ思い浮かばない。
焦燥感に全身が引きずられた。

 びくりと、小さく身体が跳ねた。
不意にもたらされた温もりに、御手杵は思わず言葉を失ってしまった。
戦装束とはいえ武装の少ない石切丸の腕は、穏やかな日常のようで優しい。
密着した背中から微かに胸の鼓動が伝わってきて、目を閉じてそれに聞き入る。
(……なんか落ち着くなぁ)
言いようのない黒い薄霧が静かに引いていく感覚。
いつもなら、ただ時をやり過ごしてこの恐怖と不安が薄れるのを待つだけだというのに。
汗で冷えた身体を夜風にさらして、『寒い』ということすら忘れてしまうくらいに。
(……行けよって言ったくせになぁ)
今宵は優しい温かさに手を引かれて心が浮上する。
その手からは離れがたいと思ってしまったことに自嘲した。

  自分よりも遙かに長い時を重ねているこの大太刀は、常日頃からまるで皆を見守るような眼差しをしている。
それはどこへ偏ることもなく、当たり前のように日常の風景だ。
きっと同じように、ここに誰がいても手を差し伸べただろう。
「懐が深すぎるってのもさ……どうなんだか」
御手杵は独り言のつもりだったのかもしれないが、こうも密着した状態では丸聞こえだ。
「そんなことないよ」
耳元に届く声と共に、抱擁の力が強まったの感じた。
「私は身勝手なことをしている。君は独りでいたかったかもしれないのに」
まるで何かを堪えているかのように、微かに声が震えている。
この体勢では石切丸がどんな表情をしているのか分からない。
それでも、なぜか泣いているような気がした。
「それ、考えすぎだと思うぞ?」
首に回された腕に触れ、そのまま後ろに手を流すと、さらりとした柔らかな髪の毛にぶつかった。
こんな所まで『優しい』のかと、苦笑しながらその感触を確かめる。
背中越しの身体が一瞬強張ったように感じだが、特に気にも留めなかった。
「あんたが居てくれて良かった」
石切丸の心境を察して口から流れ出た言葉は、紛れもない本心だった。
こんな時、独りでやり過ごす術は当たり前のようにこの身に染み付いていて、なんの違和感もないはずだったのに。
やんわりと崩されたそれは、驚きや戸惑いすらもかき消して包容の温かさに上書きされてしまう。
疲弊した心に差し伸ばされる手はこんなにも心地良いものなのかと、初めて知ったような気がした。

 少し冷たい指先で髪に触れられて、どうしてか胸がざわついた。
この独り善がりを否定してくれた言葉を受け入れても良いだろうか?
最初に縁側に座り込んで項垂れていた苦しげな面影は随分と薄れ、明らかに浮上している様子が見て取れる。
「君がそう言ってくれるなら私は……」
石切丸は静かに口を開きながら、御手杵に巻き付けている腕の力を緩めた。
彼はもう大丈夫だろう。
跳ねる鼓動が背中越しに伝わってしまうのを恥じて、平静な判断を装う。
今は任務中なのだからと、己に言い聞かせるようにして御手杵から身体を離した。

 名残惜しいと感じたのは、二人とも同様だったのかもしれない。
不意に離れてしまった温もりに、御手杵は思わず振り返った。
そうしてこの夜、初めてまともに石切丸の顔を見る。
視線が絡まり、一瞬目を見開いた。
(あぁ、やっぱり泣いていたのか)
先程の自分の感覚は正しかったのだと苦笑してしまう。
頬に涙が伝っているわけではないが、目元が僅かに赤かった。
彼がなぜ泣いていたのか?
正直気にはなるが、あえて聞くつもりはなかった。
こちらへ深入りはぜずにただ添っていてくれた石切丸を困らせたくはない。
「いい加減、巡回に戻った方がいいんじゃないか?俺は大丈夫だからさ」
御手杵はやんわりと彼の離席を促す。
二度目の同じような言葉は、今度こそ石切丸の身体を動かした。
彼は一時瞼を伏せた後、ゆっくりと立ち上がる。
「そうだね。君もまだ寝直す時間は十分あるから、きちんと寝るんだよ」
少し心配げな顔で見下ろしてくる相手に、
「分かってるって……それと、ありがとな」
御手杵は、今夜一番穏やかに笑ってみせた。

 小さく軋んで、廊下が鳴る。
夜の巡回を再開するために動かし始めた足は真っ直ぐに進んでいたが、廊下の角を曲がろうとした所で止まった。
石切丸は振り返って、先程まで自分がいた場所に視線を寄せる。
そうして、安堵した。

御手杵は未だ縁側に腰を下ろしたままだったが、薄闇に浮かぶ月を見上げていた。
項垂れていた視界は、ようやく凪いだように静かな夜空を捉えることができたのだ。

 

 石切丸が屋内の巡回を終え、集合場所である正門へ足早に戻ると、瓦屋根の上から声が降ってきた。
「もうっ、石切丸さんってば遅すぎ!なにかあったんじゃないかって、見に行こうと思ってたところだったんだから」
「ごめんよ、乱さん。心配をかけてしまったようだ」
頭上から覗き込んでくる金髪の少年は、ぷくりと頬を膨らませている。
「ちょっと話をしていて……ね」
「話?誰か起きていたの?」
乱は石切丸の言葉に、大きな天色の瞳を数回瞬かせた。
先刻二手に分かれた時、この大太刀に向けた口ぶりからも、今夜は皆眠っているのだろうと思っていたのかもしれない。
「御手杵さんが、目が冴えてしまったらしくて」
それに対して石切丸は、さり気なく言葉を濁してしまった。
「えっ?なんか意外かも。御手杵さんっていつもぐっすり寝てるような感じがするし」
「ははっ、でも、少し話をしていたら眠気を催してきたようだったから」
さすがに御手杵が悪夢に苛まれていたことを公言するのは憚られた。
そして何より、あの時自分が取った行動を思い返すと沸々と羞恥が募り、それらを話す気にはなれなかった。
「へぇ~。石切丸さんの声って落ち着くから、眠くなるの分かるかも」
「う~ん……それじゃ、今はあまり喋らないほうが良いのかな?」
石切丸はあの温もりを思い出さないようにと、内心頭を振りながら戯けてみせる。
「あーっ、石切丸さんってば意地悪!ボクはそんなにお子様じゃないからね!」
乱はその言葉の意味を察し、屋根の上から身を乗り出して不満げな顔で相手を睨め付けた。
「ちょっとした冗談だよ。君がとても頼りになることを私は知っているからね」
石切丸はそれを宥めようと、微笑しながら優しい声音を響かせる。
「それ、ほんと?」
疑わしげな眼差しを向けられて、
「本当だよ」
と頷くと、乱の顔がパッと明るくなった。
「そうだよね~、ボクって頼りになるでしょ?うん、うん!」
くるくると変わる少年の表情は愛らしくて微笑ましい。
「今夜の夜番はあともう少しだけど、よろしく頼むね」
石切丸が改めて口を開くと、嬉しそうで元気な声が返ってきた。

 御手杵が縁側から腰を上げたのは、石切丸の姿が完全に見えなくなってからだった。
自室へ戻り、同僚たちを起こさぬようにと障子戸を静かに後ろ手で閉めたが、すぐに布団の中から声がかけられた。
「……もう、いいのか?」
「随分と早かったじゃねぇか」
寝ぼけている風でもなくはっきりとしたそれに、御手杵の肩が跳ねた。
「あー、悪ぃ。起こしちまってたか」
寝乱れたままの自分の布団に座り込み、ぽりぽりと頭を掻く。
「なに、今に始まったことじゃねぇだろ」
日本号はうつ伏せのまま肘をつき、
「それにしても、暫くぶりだな」
蜻蛉切は上半身を起こし、二人とも「気にするな」と言わんばかりの表情の中に微かな憂慮が混じる。
 御手杵が時折酷くうなされていることを同室の彼らはもちろん知っていた。
御手杵自身も特に隠したいわけではないようで、「なんか、嫌な夢を見た」と飄々としていることが多いが、
明くる日の朝はどこか疲れた顔をしている。
悪夢で夜中に目が覚め、人知れず気持ちを落ち着かせてから再び眠りに落ちる。
そんな御手杵の様子を、二人はただ見守るしかなかった。
この本丸の男士たちは多かれ少なかれ、複雑な背景を抱えている。
いくら懇意の間柄とはいえ、気軽に踏み込めるような問題ではないのだろう。

「そうだなぁ。久しぶりだけど、今夜はだいぶマシなんだ」

 己の指先を見つめる御手杵の瞳が柔らかに細まった。
触れた髪の感触が蘇ってくる。
まだ、背中越しに鼓動を感じているような気さえした。

 そんな同僚の姿に、日本号と蜻蛉切は顔を見合わせた。
いつもとは随分様子が違う。もちろん、それは良い意味で。
「何か気が晴れるようなことでもあったのか?」
さすがに気になったのか、蜻蛉切が問いかける。
「なんか……月が綺麗だったなぁ」
だが、それに対する答えは曖昧で、思わず日本号が半身を起こしてしまった。
「おいおい、大丈夫かぁ?」
心配げに御手杵を覗き込んだが、茶色の双眸にはしっかりとした光が宿っている。
「ふむ、気分が良いのならそれに越したことはないのだが」
どうにも言動がおかしいが、いつもよりは明るい雰囲気を漂わせているのは確かで、二人は内心胸を撫で下ろした。
「まぁ、なんだかよく分からんが、寝るんならさっさと寝ようぜ」
日本号はそう言いながら、そそくさと布団へ潜り込む。
酒盛りをしているわけでもないのに三人揃って起きているのが可笑しくて、若干笑いを含んだ声がくぐもった。
御手杵はそれに小さな欠伸で応じ、自分も寝床に入ろうと掛け布団を掴んだが、
(あっ、どうせ寝直すなら……)
何を思ったのか、そのまま動きを止めて一点を見つめてしまう。
「御手杵、どうした?」
訝しんだ蜻蛉切が声をかけると、
「……俺、ちょっと別の所で寝てくるわ」
すこぶる意外な言葉が返ってきた。
御手杵は二人の様子を気にすることもなく、自分の枕を小脇に抱えてのんびりと部屋を出て行く。
「そんじゃ、おやすみ~」
そして、もう一つ欠伸をしながらひらひらと手を振って障子戸を閉めた。
呆然とした二人を残して。

「本当に大丈夫か?……あいつ」
ぼそりと蜻蛉切が呟く。
急に不安になってきてしまった。
「別の所ってなぁ、この本丸で寝る場所に困ることはねぇけど」
日本号も同様だ。
彼の言葉通り、この本丸には刀種別に割り当てられた部屋の他に、多目的に使用できる部屋が
大小様々な間取りで揃えられていた。
事前の使用許可は必要なく、各々が自由気ままにそれぞれの部屋を使用している。
「連れ戻した方がよいだろうか?」
「ガキじゃあるまいし、好きにさせておけばいいんじゃないか。ちいとばかし心配ではあるけどな」
深刻そうな顔をしている蜻蛉切に、日本号はやれやれといった様子で苦笑した。

 

 微かに白み始めた空を見ながら、乱藤四郎が気持ち良さげに身体を伸ばした。
「ん~、終わったぁ~」
「お疲れ様。任務完了だね」
「うん、石切丸さんもお疲れさま!」
彼らは澄んだ早朝の空気を吸い込んで笑い合った。
そろそろ朝の早い男士たちは起き出してくる頃合いだろう。
二人は並んで廊下を歩き、夜番任務の為に宛がわれている個々の部屋へ向かった。
「ふぁ~、さすがに眠くなってきたかも」
可愛らしい欠伸をしながら、乱が辿り着いた個室の戸に手をかける。
「ふふっ、そうだね」
任務という緊張感から解放されたせいで、遠慮なく眠気が襲ってきてしまう。
「それじゃ、おやすみなさ~い」
乱は欠伸で潤んだ目を擦りながら就寝の挨拶をする。
「おやすみ。ゆっくり休むんだよ」
彼が部屋に入ったのを確認してから、石切丸は隣接する個室の戸を引いた。

「──え?」

 部屋へ一歩を踏み入れようとした瞬間、その光景に全身が固まってしまった。
深夜、会ったばかりの青年が敷かれた布団に横たわっている。
(……眠気の、せいかな?)
それが現実とは思えず、石切丸は開けたばかりの戸を閉めて大きく深呼吸をする。
それから数拍の間を取り、もう一度戸を引いた。
だが、目に映る光景は最初と寸分も違わない。
「ど、どうしてこんな所に?」
唐突なこの状況に、石切丸は思考が麻痺してしまった。
しかし、ふらりと足だけは無意識に動き、布団の傍らで膝を落とす。
ただ、ただ、眠っている御手杵を見つめることしかできなかった。
彼はすっかり寝入っていて起きる気配はない。
緩んだ寝顔は安心しきっているようで、どこか幸せそうだ。
元々同室ではないせいかこのような姿は新鮮で、つい見入ってしまう。
(……良く寝ているね)
つられて頬を緩ませた石切丸の手が、御手杵の頭部に伸びた。
──だが、
少し癖のある髪に触れる寸前で、ハッと我に返って動きを止める。
「こ、こんな事をしている場合では」
石切丸は一度頭を振って、ぼんやりとした思考回路を切り替える。

さて、どうしたものか。
石切丸の中には最初から御手杵を無理矢理起こすという選択肢はないようだ。
だから単純に考えれば、先客がいるのだから自分の方が部屋を移動すればいい。
けれど、苦しんでいた彼を思い、わざわざここまで来て眠っている意味を考えてしまう。
(……大丈夫だと言っていたのに)
縁側での引き際を誤ってしまったのかもしれないと不安が過ぎったが、
それでもあの時の笑顔を嘘だと思いたくはなかった。

 本当に色々なことを考えてしまう。
夜番任務で眠いはずなのに、頭の中はぐるぐると休む暇もなく。
視線の先の御手杵は、うなされることもなく静かに眠っている。
彼の真意がどこにあるのか計りかねる状況だが、一つだけは分かってしまった。
「君、なんだか幼子みたいだね」
見つめる菫色の瞳が緩やかに微笑する。

──どうせ寝直すなら一緒がいいなぁ

いつものようなのんびりとした声が聞こえたような気がした。

 

【補足のようなおまけ】

 いつまでも戦装束のままというわけにもいかず、あらかじめ用意していた寝衣に袖を通す。
時折ちらりと御手杵の様子を窺うが、彼はぐっすりと寝入っていた。
「別に一緒に寝るのは構わないのだけど……」
着替えを終えた石切丸は、再び布団の脇で腰を下ろす。
この部屋は他の多目的室とは違い、夜番任務の男士が休む為の個室だ。
従って布団は一組しか用意されていないので、必然的に同じ寝床で眠ることになるのだが。
「御手杵さんってば、きちんと布団の中に入ればいいのに」
石切丸は彼を覗き込みながら苦笑した。
どういうわけか、御手杵は敷かれた布団の上にそのまま寝転がっていた。
掛け布団などあってないようなもので、もはや敷き布団と化してしまっている。
この部屋に来たのはいいが、眠気に負けて倒れ込んでしまったのだろうか?
だとしても、今日は特に寒いというわけでもなく、この状態でも体調を崩すようなことはないだろう。
そんなことを考えながらも自然と瞼が重くなっていく。
「さすがに畳の上で直に寝るのは勘弁願いたいから、少し端っこを貸してね」
石切丸は小さな欠伸を漏らしながら、遠慮がちに布団の上に横になる。
すぐ横に御手杵の寝顔があることに、思わず笑いがこみ上げてきた。
一人であればなんら問題のない大きさだが、よりにもよって大柄な部類に属するこの二人である。
「やっぱり私たちでは狭いかな」
今のこの状態がなんだか可笑しくて、けれども少しだけ楽しいような気もして、石切丸は頬を緩めたまま瞳を閉じた。
彼の寝相が悪くなければいいな、などとぼんやりと思いながら。

 

 大所帯の朝は忙しなく賑やかだ。
次々と起き始める男士たちの声や足音が、少し離れたこの部屋にも流れてくる。
(……もう朝かぁ)
うっすらと目を開けた御手杵は、片腕に重みを感じてそちらへ顔を向けた。
隣では石切丸が静かに寝息を立てている。
しかし、彼は御手杵の腕を抱き込んだ体勢で眠ってしまっていた。
(あんた、意外に寝相悪いんだな)
痺れを伴う重みは心地よさとは程遠いが、御手杵はまったく嫌な気分にはならなかった。
それどころか嬉しいとさえ思う。
こんな突拍子もない行動にわざわざ付き合ってくれた彼の優しさに胸がいっぱいになる。
「あー、そういえばそろそろ朝飯の時間だっけか」
不意に空腹を感じた御手杵がぽそりと呟く。
けれども、一向に起き上がる気配を見せなかった。
正直まだ眠いし、何よりもこの気怠げで温かな空気を甘受していたかった。
「あいつらに怒られそうな気がするけど……ま、いいか」
一瞬、同室の二人の顔が脳裏を過ぎったが、今は自分の欲に忠実でありたい。
御手杵は隣で眠る石切丸を見やってから、再び両目を閉じた。
気持ちよさそうに眠っている彼を起こしてしまいたくないから、などとそれらしい理由を勝手に作りながら。

この部屋に呆れた笑い声と怒鳴り声が響き渡るのは、もう少しだけ先のこと。

 

2018.07.30

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