次はご指名を

 想定通りの展開だ。
青江は粉塵が舞う中、素早く視線を走らせる。
この一戦はこちら側が有利。
左右に散っている仲間たちが敵を切り伏せ、真っ直ぐに走り抜けた。
「石切丸!」
側にいる大太刀に声を投げれば、
「ああ、これで一掃するよ!」
すぐに返ってきた言葉の後に勢いよく刀を薙ぎ払う。
一振りの威力は残りの敵を屠るのに十分すぎるほどだった。
その姿に青江は高揚感を覚え、唇の端を釣り上げる。
(……ぞくぞくするね)
思わず舌舐めずりしたくなる。
「青江さん、終わったよ。私たちも行かなくては」
だが、振り返った石切丸の真剣な顔を前にすぐに頭を切り替えた。
「そうだね。ここからが本番というところかな」
圧倒的な練度で蹂躙した戦場は一瞬で静けさを取り戻した。
それを背にしながら、青江は目の前に広がる鬱蒼とした森を見据える。
同時に開戦前の仲間とのやり取りが頭を過ぎった。
(あぁ、嫌なことを思い出した)
高揚感は一瞬で消え失せ、その瞳はどこか冷ややかだった。

 

 数時間前。
広げた地図を眺めながら隊長の獅子王が難しい顔をしている。
「ん~、最初は広いからいいとして……」
トントンと指で叩いた先を、向かいに座っている石切丸が見つめる。
「森か。さすがに私は動きを制限されてしまいそうだね」
「ま、あんたに限らずあんまりやり合いたい場所じゃねーのは確かだ」
二人とは少し離れた所で胡座をかいている同田貫が口を開く。
「おや?君がそんなことを言うなんて意外だね」
仲間たちに背を向けて探るように遠くへ視線を走らせていた青江は、その言葉を掬って振り返った。
「あぁ?そりゃ、戦うならやりやすい場所がいいに決まってんだろ」
同田貫が白装束を翻した仲間を睨め付けたが、当の本人はどこ吹く風だ。
「……ったく、仲が良いんだか悪いんだか」
そんな様子を一瞥して獅子王が溜息を吐く。
「仲が良いんじゃないかな?彼らはあれでいて気が合うしね」
武器としての矜持が高い彼ら流の軽口といったところだろう。
もちろん獅子王とてそれは分かっているのだが、隊長としての責任感でつい溜息が漏れてしまったのだ。
「それはそうと、厚さんと愛染さんは大丈夫かな?」
石切丸はそんな隊長の気持ちを慮り微笑したが、ふと視線を上げる。
偵察に出ている二人の戻りが遅いような気がした。
心配げな瞳を巡らせれば、はたりと青江と目が合った。
「それなら、問題ないよ。気配を感じる……ほら」
青江は石切丸を安心させるように優しく目を細めたが、すぐに意地悪げな色を醸し出して彼の背後を指差した。
すると、

「うわっ、やっぱバレてるじゃん」
「青江さんってば、もう少し黙っていてくれても良かったんだぜ?」

木々の上から聞き慣れた元気な二つの声が聞こえる。
そして、赤髪と黒髪の少年が見事な体捌きで飛び降りてきた。

「あ~、もう!お前らびっくりさせんなって!」
「はぁ……息が止まるかと思ったよ」
心底驚いたのは獅子王と石切丸だった。
「はっ、随分と遊んでくれるじゃねーか」
同田貫の方は一瞬自らの本体に手をやっただけで、すぐに元の体勢に戻った。
薄々感づいていたのかもしれない。
「余興にしては実戦的だけどねぇ。さて、偵察の結果を聞かせてもらおうかな」
青江は三者三様の反応を密かに楽しみながらも二人の少年を見た。

 全員が地図を囲んだところで、厚が数カ所に印を付けた。
その一つを指差し、口を開く。
「本陣は間違いなくここだな。けど、やっぱりこの森を突っ切らないと」
「敵さんがうろついてっけど……ま、大した数じゃないぜ」
続けて愛染が補足をした。
「道は三つ。左側の小川は道標には良いけど相当足場が悪い。右側は日当たりのせいかやたら草が生い茂ってる。
で、真ん中は歩きやすいけど……」
厚はそこまで言ってから一つ息を吐き、なぜかその先を躊躇した。
他の仲間たちは顔を見合わせて頷いた。
わざわざ三つの道を示したことで、彼が何を言いたいのかはおのずと知れる。
厚と愛染の偵察力と判断力を疑う者など誰もいなかった。
「なかなか刺激的だねぇ」
数拍、言葉のなくなった空間にどこか楽しげな青江の声が響いた。

 隊長である獅子王が組み分けの意見を述べる。
「こうも狭いと、動きの大きい俺と石切丸は分けるべきだろうな」
「だったら石切丸さんは真ん中で、獅子王さんは右がいいと思う」
すると、すかさず愛染が提案をし、
「俺も同感だ。で、組むなら俺たちか青江さんかな」
厚も大きく頷いた。
「──で、誰にする?あんたが一番動きにくいだろうから、やりやすいヤツ選んでいいぞ?」
それまでのやりとりを黙って聞いていた石切丸は、急に隊長から話を振られて瞠目してしまった。
「えっ、私が選ぶのかい?」
てっきり獅子王が組み分けを決めるだろうと思っていたのだ。
もちろん彼らの戦闘能力は信頼に足るもので、誰と組んでも上手く立ち回ってくれるだろう。
ちらりと短刀たちを見れば、興味深げに年長の大太刀の答えを待っている。
更に目線を横に移動させた瞬間、
(……ぁ)
石切丸は思わず息が詰まってしまった。
まるで射貫かれてしまいそうなほど強い、金色の瞳。
声は発せられず、ただこちらに目を向けている。
なぜそんな風に見ているのか解らなかった。
けれど、絡んだ視線は痛みさえ伴いそうで、耐えかねた彼はそろりと目をそらした。
その反応に白装束を纏った青年が眉を顰め、酷く剣呑な色を宿していたことも知らずに。

「大太刀殿はお悩みのようだから、僕が手を上げさせてもらおうかな」

しばらくして、青江は相手を決めあぐねている石切丸に助け船を出した。
いつもの飄々とした口調の中に僅かばかりの棘が見え隠れしていた。

 

 分け入った森の中は、戦場の緊張感とは無縁のように穏やかだった。
草木の香りや鳥たちのさえずりが心地良い。
石切丸は歩みを進めながら周囲を見渡した。
(やはり彼らの状況判断は的確だね)
足元はさほど荒れている風でもなく平坦で歩きやすい。
彼は小さな仲間たちを思い、思わず頬を緩ませた。
そうして数歩先を行く青江の背中を見つめる。
共に出陣することは度々あるし、もちろん彼の戦いぶりも知っている。
(今日はなんだか安心する)
自分が不得手な状況のせいか、その後ろ姿が頼もしく映った。
──だが、
不意に青江の足が止まった。
音もなく振り返った彼の様子に石切丸は身を固くする。
「敵かい?」
自然と腰元に佩いた自身に手が伸びる。
「……いや」
しかし、青江の方は臨戦態勢というわけでもなく相手を見つめていた。
その少し不機嫌そうな眼差しは、石切丸に先刻のことを思い出させる。
あの瞳は何だったのだろう?
僅かな沈黙の後、彼は口を開いた。

「青江さん、もしかして怒っているのかい?」

 不可解な態度を表す言葉はこれが最適だとは思えなかった。
元々考えていることが読みづらい相手ではあるが、今は尚更だ。
「それは愚問だよ。僕はいつだって冷静さ……いつだってね」
そんな石切丸の内心をよそに、青江は意味深げに微笑した。
「それよりも少し急ごう。他の二組に後れを取るわけにはいかない」
彼は少し早口でそう言いながら再び石切丸に背を向けて歩き出す。
あからさまにはぐらかされてしまった。
「……そうだね」
不承不承といった様子で石切丸は軽く頭を振った。
今は戦場だ。悠長にしている暇はない。
彼は気持ちを切り替えようと一つ息を吐き、先ほどよりも足早になった青江の後に続いた。

 

 不意に空気が揺れた。
いち早くそれを感じた青江がピタリと足を止める。
(さて、お出ましか)
神経を研ぎ澄まし気配を探る。
(……三、いや、四か)
茂る草木に身を潜ませながらも敵の動きは速い。
身軽な短刀だろうと、彼は予測した。
「石切丸」
相方の大太刀に目配せをし、
「たぶん君の方に数体回り込んでくる。気をつけて」
数的にはこちらが不利だが、幸い不意打ちは免れている。
前後で挟まれることを想定して二人は背中合わせの体勢をとった。
「了解だ。で、数は?」
「短刀が四体かな。まぁ、すぐに終わるさ」
緊張した面持ちの石切丸とは対照的に青江は好戦的な笑みを作ってみせた。

 大振りの刃が静かに白い鞘から抜き放たれる。
前足が地面に落ちていた小枝を踏んだ。
パキリッ──と、それは戦の始まりを告げるかのような音だった。

 茂みの中から飛び出してきた影は、やはり二手に分かれてきた。
石切丸が攻撃の動作に入るよりも速く二体の短刀が間合いを詰めてくる。
初手を奪われることは常で、彼は相手の連撃を防ぎながら冷静に機会を窺った。
そうしてほんの一瞬、動きが止まった所を見逃さなかった。
「今だ!」
柄を握る手に力を込め刀を振り払う。
彼は二体同時に敵を仕留めるつもりだった。
だが、
「……っく、やはり狭いか!」
切っ先が木の幹を削り、鈍い音を発して木屑が派手に舞った。
抵抗を受けたせいで軌道がずれ威力が落ちたが、彼はそのまま強引に刀を振り切った。
その衝撃で利き手に痺れが生じて思わず片膝をつく。
それでもなんとか敵の一体を地に沈めた。
しかし、残った短刀が切り返しの一閃。
僅かに鮮血が飛び散った。
たたみかけるような連撃が石切丸に襲いかかろうとする。
明らかに自分よりも機敏な相手を前に、彼は更なる負傷も致し方ないと思った。

「それ以上傷つけられると困るんだよねぇ」

その矢先、ひやりと冷たい声が森の中に響いた。
それと同時に狙いすました白刃が的確に相手を捉え粉砕する。
「あっ」
石切丸は目の前で砕け散った敵を凝視し、それから青江を見上げる。
深い緑色の髪を揺らした青年は危なげなく先に対峙した二体を切り伏せたようだったが、
三体目を屠る刃は意外なほどに力任せだった。
「ありがとう、助かったよ。覚悟はしていたけどかなり動きづらいね」
痺れが残る手で刀を鞘に戻し、石切丸は礼を述べる。
その後すぐに立ち上がろうとしたが、いつの間にか側に来ていた青江に肩を掴まれ押し戻されてしまった。
「うわっ!?」
「傷が一つ……あぁ、嫌だ」
不快げな呟きを漏らしながらふわりと若草色の装束の上に覆い被さり、頬に伝う血をゆっくりと舌先で舐め取った。
「ちょっ、……っう」
急に生暖かい感触を受け、石切丸の肩が跳ね上がる。
程度は軽いが刀傷には違いなく、触れられたことで痛みを感じて顔を顰めてしまった。
その様子に青江の目が微かに細くなる。
「本当に……嫌だ」
まるで独り言のような声で石切丸の首に腕を絡ませて肩口に顔を埋めた。
それは負傷した相手を案じてのことだろうか?
それとも守り切れなかったことへの自己嫌悪だろうか?
揺れる声音だけでは青江の心中を正確に読み取ることができない。
「大した傷ではないよ。それよりも君の方が心配だ」
石切丸の双眸は憂いの色を滲ませた。
今日は開戦前からどこかに違和感があった。
戦場での青江は冷静であり不敵でさえあり、そして時には豪胆でもある。
しかし、今はそれも形を潜めて情緒不安定にすら感じられる。
「なんだかいつもの君ではないような気がして」
その指摘に青江の身体がぴくりと反応し、
「それを君が言うのかい?」
自嘲気味な笑みを貼り付けてあっさりと石切丸から身体を離した。
後腐れなく離れた温もりに石切丸の方が戸惑ってしまう。
「あ、青江さん?」
そんな彼をよそに青江は白装束を翻して歩き出してしまった。
さっきまで頼もしく思えた後ろ姿が今は不安を煽る。
石切丸は慌てて立ち上がりその背中を追った。
利き手の痺れは多少残っていたが、それは些細なことだと思えた。

 

 しばらく無言で二人だけの進軍が続いた。
あの交戦以来、敵方の気配を感じることはなかった。
(他の二組は大丈夫だろうか?)
こうも静かだとこの森に配置されている敵の軍勢に偏りがあるような気がしてならない。
組み分けの時、青江が自薦してから隊長である獅子王は身軽な短刀の二人をばらけさせた。
その結果、足場の悪い川沿いは愛染と同田貫。もう一方は獅子王と厚という組み合わせに落ち着いた。
この地形を鑑みた振り分けとしてはこれが最善だろう。
好戦的な川沿い組が先走らないかと、一同が一抹の不安を覚えたのはまた別の話だが。

(憂慮しすぎかな。みな、強いからね)
この狭さを考えれば、逆にこちらが心配されている確率の方が高そうだ。
そんな様子を想像した石切丸は思わず頬を緩めた。
しかし、それは一瞬。
すぐに口元を引き結んで前方を見た。
相も変わらず言葉のない背中。
今や一番の気がかりは彼のことに他ならなかった。
(やはり怒っているのかな?いや……でも)
どうしてもこの表現はしっくりこないが、彼が相手に対して思うところがあるのは確かだろう。
「青江さん、ちょっと待ってくれないかな」
石切丸は意を決して前を行く青年を呼び止めた。
「……なんだい?」
少し硬質だが応じてくれたことにホッとする。
「君、私に何か言いたいのではないかと思って」
青江は立ち止まってからしばし沈黙を守っていたが、やがて溜息を吐きながら石切丸の方を振り返った。

「言いたいことねぇ。この道のり、君の相方は短刀の方が良かったんだろう?」

 それは石切丸にとって予想外の言葉だった。
菫色の瞳を何度も瞬かせ、相手の表情を探る。
冷たい響きを乗せた唇は笑みを形作っていたが、どことなく寂しそうだ。
「そんなことないよ。君はとても頼りになるし……」
彼は青江の言葉を否定しようと口を開いたが、途中でハッとして息を止めた。
(あっ、もしかしてこれは怒っているんじゃなくて)
石切丸は今までの相手の言動を反芻し、ようやく最適な形容の仕方を見つけることができた。
「はぁ、ごめんよ。君がそんなことで拗ねるなんて思わなくて」
「──誰が拗ねてるって?」
「でも、他意はないんだよ。あの時は急に決めろと言われて驚いてしまって。
そうか、やたらと目つきが怖かったのは私が即答しなかったからなんだね」
彼はすべてに合点がいったようで、半ば困り顔で弁解しようと捲し立てた。
「ねぇ、聞こえてる?」
青江は静かに歩み寄り、至近距離でゆったりと上背のある相手を見上げた。
「う……ん?だから……」
生返事をした石切丸はまだ言葉を続けようとしている。
遠回しな制止では効力がなさそうだ。
それならばと、青江は若草色の胸ぐらを掴んで強引に大きな身体を屈ませる。
石切丸は突然の出来事に驚いたが、発しかけた声は青江の唇によって封じられてしまった。
互いの唇が交わったのはほんの僅かな間。
固まってしまった相手をよそに脇差の青年はほくそ笑む。
そうして、不思議と刺々しかった感情が和らいでいくのを感じた。
ただ言葉を止めたくて起こした行動だったはずなのに。

「元気な口なのはいいけど、少し落ち着いたらどうだい?」

名残惜しげに唇を離した青江が意地悪げに笑う。
「あ、青江さん!それ、凄く矛盾しているからね!」
急にこんな扱いを受けて動揺するなという方がおかしいだろう。
石切丸は顔を赤らめて声を荒げた。
「ふふっ、本当に元気だねぇ」
そんな彼の様子をひとしきり可笑しげに見つめた後、青江は踵を返して歩き出した。
「まったく、君って人はっ」
ひらりと抗議をかわされた石切丸は憮然としながらも後を追いかける。

 再び無言になってしまった二人きりの進軍だったが、石切丸の足取りは軽かった。
先を行く青江からはもう先ほどのような違和感は感じられず、深い緑色の長髪を揺らす様はいつも通り頼もしい。

──と、青江が立ち止まって振り向いた。

「石切丸、次こそは僕を指名しておくれよ」

 どうやら機嫌は良くなったが根には持っているらしい。
改めて念を押してくるその姿は自然と石切丸の笑いを誘った。
(青江さんの拗ね方って分かりづらくて怖いけど、ちょっと面白いなぁ)
そして、ついそんな風に思ってしまった。

 

 その後、三組に分かれていた部隊は予定通りに合流することができた。
やはり青江と石切丸は他の二組に心配されていたらしい。
最後に合流地点へ現れた二人を、仲間たちは安堵の表情で迎えた。
 部隊の全員が揃ってしまえば、練度・戦力共に申し分なかった。
敵本陣に切り込んだ彼らは奮闘し、見事に敵部隊を殲滅させた。
戦果は上々である。

 戦闘任務を終えた彼らは、無事に本丸への帰還を果たした。
休息のために思い思いにばらける仲間たちを横目に、青江は傍らにいる石切丸を見上げる。
「君、手入れ部屋に行かなくてもいいのかい?」
「え?」
不意の指摘に石切丸は幾度か目を瞬かせた。
青江が自分の頬を指でつついてみせると、
「ああ、これくらいだったら手入れをする程ではないと思うけど」
石切丸は小首を傾げながら返答をする。
この程度の些細な傷ならば自然に治癒するであろうことは、青江も分かっているはずだ。
「青江さんってば、今日は過保護だね」
石切丸はくすくすと笑ったが、青江の方はばつが悪そうに顔を逸らしてしまった。
「──僕が嫌なんだよ」
今になって思えば、戦場だというのに随分な醜態を晒してしまった。
きっとその頬の傷を見る度に思い出してしまう。
「でもね、私が手入れ部屋に入ったらこんなかすり傷でもとても時間がかかってしまうよ」
この脇差の青年は、こと戦に関しては特に矜持が高い。
その胸中は容易に察することができたが、石切丸は自らの手入れに消極的だった。

「帰ってきたら君とゆっくり一服しようと思っていたのに……」

そうして、ぽそりと一言。
どうやら石切丸は、手入れよりも青江との休息を優先させたい様子だった。
青江にとってその声は破壊力十分すぎた。
逸らしていた顔を戻せば、想像通りの寂しそうな顔。
(はぁ……これが素だからタチが悪い)
憂う瞳は無言の圧力にも感じられ、彼は心中で毒づいた。
どうしても石切丸のこういう顔には弱い。
抗いようもないことはとっくに自覚している青江だったが、それでも少し面白くなかった。
「やれやれ。仕方ないから君に転がされてあげるけど、その傷は本当に嫌なんだ。しばらく君の顔を見るのは止めようかな」
わざとらしく溜息を吐いた後、青江は意地悪げにそう言った。
「だ、駄目だよ。そんなことをされたら私は悲しいからね!」
けれど、からかい混じりのそれを石切丸は本気と捉えてしまい、あからさまに狼狽えてしまった。
「さて……どうしようかな」
心なしか潤んでいる菫色を見ても、青江は含み笑いをしただけだった。
「それよりもゆっくり一服するんだろう?」
「そ、そうだけど、考え直してくれないかな?君にそっぽを向かれるのは嫌だよ」
徐々に小さくなっていく石切丸の声を聞きながら青江は一拍だけ目を閉じた。
そうして彼の腕を引いて廊下を歩き出す。
「そう……だったらたっぷり慰めてあげるよ。その傷が癒えたらね」

 ほんの冗談だよ、と言えなくなってしまった。
頬の傷を避けたい気持ちが未練がましく燻っている。
本当は泣き顔なんて見たくはないのに、今は自分のことばかりで頭がいっぱいだった。

 

2019.02.01

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