耳元で囁く言葉

 携帯端末の画面越しから、幼馴染みが半眼じみた視線を向けてくる。
「あんたねぇ……夜遊びも程々にしなさいよ?煌都とは違うんだから」
「あ~っ、うるせぇなぁ」
アーロンは鬱陶しげに顔を歪め、かったるそうに頭を振った。
アシェンとはそう頻繁にやり取りをしているわけではないが、口を開けばすぐに小言が飛んでくる。
それは彼女が身内として心配してくれているからだが、つい耳を塞ぎたくなるのが正直なところだ。はっきり言って面倒くさい。
今回の通信はアシェンからのものだった。
彼女は挨拶もそこそこに、一週間後にイーディスを訪れると連絡を入れてきた。
特に詮索するつもりはなかったが、その雰囲気から黒月としての来訪に違いない。
「仕事、サボったりするんじゃないわよ。ヴァンさんに雇われてる身なんだから」
「こっちは人手が足りねぇから手伝ってやってるだけだ」
このまま延々と小言に苛まれそうな気がしたアーロンは、無理矢理にでも会話を打ち切ってしまおうと、端末のボタンに指をかけた。
しかし、
「──それはそうと。あんた、ヴァンさんと仲良くやってるの?」
急に話の矛先を変えられ、ぴたりと手の動きが止まる。
アシェンが何を言いたいのかはすぐに分かった。
「おまえには関係ねぇだろうが」
やはり、面倒くさい。さっさと通信を切らなかったことをすぐに後悔した。
アーロンは苦虫を噛みつぶしたような顔で、幼馴染みを睨み付ける。
ヴァンとの恋人関係は良好だと彼自身は思っている。
たまに小さな衝突が起きたりもするが、それを後々まで引きずるようなことはない。
もちろん、大きな仲違いをした記憶もなかった。
「余計な口を挟むんじゃねぇ」
その反応をどう捉えたのか、アシェンはやれやれといった様子で肩を竦ませた。
「はぁ~、どうせツンツンしてるんでしょ。ヴァンさんは優しいというか……懐が深すぎよね」
小さな画面の中から率直な指摘が飛んでくる。
「たまにはデレないと愛想尽かされちゃうわよ?」
幼馴染みの相貌には、揶揄と憂慮が入り交じっている。
「あの人、ただでさえ人気者なんだから。誰かに取られちゃったらどうするのよ」
畳み掛けてくるような追い打ちが耳に刺さり、アーロンは返す言葉を失った。

 

 モンマルトの店内は、ようやく昼時の混雑が落ち着いたところだった。
「あら、お疲れ様。これからお昼かしら?」
助手たちが店に入ると、ポーレットが優しげな微笑を浮かべて近寄ってきた。
「はい。仕事の方が少し立て込んでしまって」
「もうお腹がペコペコです!」
その柔らかな物腰につられ、カトルとフェリも朗らかに笑う。
アーロンはそんな二人を横目にしつつ、空いている席に腰を下ろした。
ポーレットがメニュー表をテーブルに置き、少年少女も慌てて着席をする。
「そう言えば、朝はヴァンさんも一緒に居たような気がしたけれど」
彼女は席に着いた三人を見回し、不思議そうに首を傾げた。
「ヴァンさんならちょっと寄るところがあるみたいで。先に食べてろって言われました」
フェリが注文をしながら答えると、すかさず金色の瞳が面白半分で煌めく。
「ま、どうせいかがわしいとこにでも行ってんじゃねぇの?」
「……アーロンさんじゃあるまいし」
テーブルを囲む事務所の助手たちは、今は不在の所長のことになればつい盛り上がってしまう。
三人分の注文を取ったポーレットは、そんな微笑ましい会話を耳に流しながら厨房へ向かった。

 待ち時間はさほどかからなかった。
腕の良い料理人であるビクトルの手際は鮮やかで、次々と料理が出来上がる。
つい先ほど帰ってきたユメが手伝いを始め、ポーレットと共に三人の注文した料理を運んできた。
「お待たせしました~」
「ありがとう、ユメちゃん」
ユメは少々危なっかしい手つきでランチプレートをカトルの元へ置いた。
一生懸命に接客をする姿は、自然と彼の頬を緩ませる。
「こっちはフェリちゃんとアーロンくんの分ね」
ポーレットが配膳したのは肉を主体としたボリュームのある皿だった。
軽めの昼食を頼んだカトルとは対照的で、二人はガッツリといくつもりらしい。
「う~ん、凄いな。アーロンさんはともかく、フェリちゃんってよく食べるよね」
「はいっ、いっぱい食べて早く大きくなりたいです!」
感心しながら呟く少年に対し、少女が明るく返事をした。
「お子様は元気だねぇ~。それに比べてあのオッサンときたら……」
アーロンは早々と料理に手を付けていて、馴染みの味を堪能している。
だが、不意に彼との食事風景を思い出して口を開いた。
「いつだったか、俺が食ってるの見て胸焼けがするとか言いやがった。年のせいで胃腸が弱ってんじゃねーのか?」
「なに、それ。あの人、スイーツ限定ならいくらでもいけそうな気がするけど」
カトルは思わず吹き出してしまいそうになったが、何とか堪えて笑いを噛み殺す。
そんな彼らの様子を、テーブルの脇でユメがジッと見つめていた。
「ねぇ、ねぇ、ヴァンはまだ~?」
後から来るとは聞いたが、そんな気配はまるでない。
小さな少女は不満げに唇を尖らせた。
すると、その直後。
店のドアが開き、ようやくお待ちかねの人物が姿を現した。
「おう、悪ぃな。遅くなっちまった」
「あーっ、やっと来た!ヴァン、おかえり~!!」
不機嫌そうな瞳が一転し、キラキラと大きな輝きを放った。
身体が元気に飛び跳ね、勢いよく常連客の懐に突進する。
「なんだ、なんだ。随分とご機嫌じゃねぇか、ユメ坊」
ヴァンは腰元にじゃれついてくる看板娘に驚きながらも、優しい手つきでその頭を撫でてやった。
「ユメちゃんって、ほんとヴァンさんに懐いてるよね」
「大好きだからギュッとしたくなっちゃいますよね、分かります」
「えぇ……と、そこまでは言ってないんだけど」
カトルとフェリは二人を眺めやりながら、どこか噛み合わない会話をしている。
それを聞いていたアーロンは、ふと数日前にアシェンから言われたことを思い出していた。
あれは、言外に『愛情表現が足りない』とダメ出しを食らったようなものだ。
他人に言われるならまだしも、幼馴染みの言葉となれば無関心ではいられなかった。
ヴァン本人から恋人としての有り様を疑われたことはないが、内心ではどう思われているのか分からない。
ユメに抱き付かれ、困りながらも照れている男が自然と視界に入ってきた。
嬉しそうに目を細めている姿を見つめ、考える。
「抱き締めてみればいい……のか?」
知らずの内に独り言のような声が漏れた。

そうすれば、少しは気持ちが伝わるだろうか?
あんな風な表情を見せてくれるのだろうか?

 アーロンはそんな自分を滑稽だと思いながらも、不安が払拭できないもう一人の自分がいることを認識していた。
「あー、まぁ……そういうのもありか?」
また一つ、言葉が零れ落ちる。
彼は本当に無意識だった。
カトルとフェリの飲食する手が止まり、まるで珍獣を見るような眼差しを向けられていることにも気が付いていない。
「アーロンさんが変です」
「どうしたんだろ?」
もちろん、神妙に囁き合う二人の声も聞こえてはいなかった。

 

 数日後。
ヴァンから備品の買い出しを頼まれていたアーロンは、かったるそうな足取りで事務所へ帰ってきた。
一応は仕事の一環なので、渋々ながらも引き受けてやっている。
「おい、所長さんよ。買ってきてやったぜ」
「おっ、ありがとな。キッチンの方に置いておいてくれ」
ヴァンは机に置いたノート型端末の画面と睨めっこをしていた。
どうやら請け負った依頼についての情報を収集している最中のようだ。
一瞬だけ顔を上げた後、またすぐに視線を落とす。
「こういうのはメイドにでも頼めよ。適材適所ってやつだろ」
「リゼットには別の用事を頼んじまったんだ。しばらく戻ってこねぇ」
「チッ、計画性のないヤツだぜ」
アーロンは不満げな棘を吐きながらも、小脇に抱えていた紙袋を言われた場所へと置きに行く。
キッチンの照明は落とされていて、昼間だというのに少し薄暗い。
事務所の中にはキーボードを叩く音だけが響いていた。
(今は……誰もいねぇのか)
いつもは勝ち気な瞳がぼんやりと鈍色のシンクを眺める。
あれ以来、二人きりになる機会を覗っていたのか?と問われれば、不承不承で頷く他なかった。
恋人に対する懸念など持ち合わせてはいなかったのに、幼馴染みの一言でこのザマだ。
彼は自嘲気味に唇を歪め、ゆっくりとヴァンの元へ足を向けた。
相変わらず端末を覗き込んでいる男は、頬杖を付きながら小さく唸っている。
それでもアーロンが動く気配を察したのか、目線は画面に留めたままで短く言った。
「今日はもう終わりでいいぞ」
「なんだよ。お役御免ってか?」
就業の終わりを告げる所長の語尾に、ぶっきらぼうな声が重なった。

 事務所に戻ってきた助手三号の口調がいつもより大人しい。
それは今だけでなく、ここ数日は茶化してくるにせよ、彼特有のキレが感じられなかった。
あまり詮索をしたくはないが、珍しいこともあるものだと思って案じてしまう。
ヴァンは素知らぬ風を装って端末を弄っていたが、相手が動いたのを見計らって声をかけてみた。
そこまでの真剣さはなく、当たり障りがない軽めのやり取りでいい。
だから、挨拶の代わり程度にそう言った。
まさか、返ってきた声がこんな間近で聞こえるとは思わなかったが。
仕事が終わりなら、さっさと事務所を出て行くに違いない。
そう予想していた彼は思いきり面食らった。
「──お前っ!?」
いつの間にかアーロンが背後に立っている。
勢いよく振り向こうとした矢先、すかさず後ろから片手が伸びてきた。
顔を向かせまいとしているのか、首元に腕を回されてしっかりと抑えられてしまう。
相手の意図が読み取れず、なんとか視線だけを後方へ流すと、
「所長さんはまだお仕事ってか?」
吐息がかかりそうな距離で唇が動き、赤い毛先に頬をくすぐられた。
「ま、まぁ……もうちょい情報が欲しいとこだが」
もしかして、先に仕事を上がらせたことが不満だったのだろうか?
覗うように返事をしたが、それを遮ってアーロンの身体が動いた。
首に巻き付いた腕はそのまま、もう片方の手が無遠慮に卓上へと向けられる。
彼が前のめりになったことで背後からの密着度が増し、人の体温が覆い被さってきた。
「それはそれは、ご熱心なことで」
皮肉っぽく響いた言葉に連動して、ぱたりとノート型端末の蓋が閉じられる。
「あっ!!」
横暴とも言える彼の行動には、さすがのヴァンも眦をつり上げた。
腰を浮かしかけ、無理矢理にでも振り向こうとする。
「何してやがる、このクソガキ──っ!」
だが、アーロンの反射神経は抜群だった。
片腕だけの拘束から一転、後ろから椅子の背もたれごと強く抱き竦めてくる。
「なぁ、少しは俺に構われろよ」
首筋に顔を埋められ、途端に湿度のある温もりが肌に広がる。
想定外の状態に陥ったヴァンは、目を丸くして身体を強張らせた。
緊張して滲み出た唾を飲み込み、わずかに喉が鳴る。
どうしてこんな状況に陥っているのか分からなかった。
自分はただ事務所で仕事をしていただけだ。
アーロンの様子を気にかけたのは、単純に彼のことが心配だったからに他ならない。
「お、おい……」
ぴたりとくっついた身体は一向に離れる気配がなく、それどころか更に重みが増していくようだった。
戸惑いと羞恥で騒ぎ始めた心音が、背骨を介して届きそうな予感がする。
そんな中、無言で顔を伏せていたアーロンがおもむろに目線を上げた。
あろうことか、耳元に唇を寄せて啄むようなキスを何度も落としてくる。
「うっ、あ……っ」
瞬時に肩が飛び跳ね、這いずり回るような微熱が首筋を伝った。
所在をなくして浮いた手が彷徨い、絡みつく恋人の腕を掴んだ瞬間。

「言わせろよ、『好き』だって」

いつもより低い声で甘やかに鼓膜を刺激され、頭の中が真っ白になった。

 

 それを囁いたのは自分だったはずなのに、まるで別人のような気がした。
慣れない言動をしている自覚があるせいで、じわじわと恥ずかしさが込み上げてくる。
アーロンは硬直したヴァンの肩口に頭を落とし、しばらく無言を貫いた。
二人だけの空間はやけに静かで、互いの微かな息づかいだけがやたらと耳に残る。
──そこまでが限界だった。
普段の調子を一切省いて気持ちを露わにしてみれば、顔面から火が吹き出しそうになる。
「……くそ!やっぱりガラじゃねぇ」
耐えきれなくなった彼は、心からの叫びを発しながら勢いよくヴァンから離れた。
一歩後ずさり、激しく被りを振った後で自らの赤髪を掻き乱す。
「おい、てめぇ。今のはなかったことにしろ」
「え、あ……?」
彼は反応の鈍いヴァンの横を早足ですり抜け、入り口付近で一度だけ立ち止まった。
紅潮した顔など絶対に見られたくなかった。だから、背を向けたままで荒々しく吐き捨てる。
「さっさと忘れろって言ってんだよ!」
アーロンは汗ばんだ不快な手でドアノブを握り、半ば走るように事務所を出て行ってしまた。

 

 どれくらいの間、放心していたのだろう。
窓から差し込む陽光が夕方の赤みを帯び始めている。
「なん……だよ。さっきの」
机の上に突っ伏したヴァンは力なく呟いた。
時間が経って多少は落ち着いてきたが、弄られた片耳はまだ熱が燻っているような感覚。
甘ったるい残り香が纏わり付き、強引に閉じられた端末を再び開く気分にはなれなかった。
「あいつ、どうしちまったんだ?」
常日頃のアーロンを考えれば、あの豹変ぶりは不審なレベルだ。
やはりここ数日、どこかおかしいように思う。
そんなことを悶々と考えていた時だった。

──トントン

 事務所のドアを叩く音が聞こえた。
ヴァンは慌てて居住まいを正し、一度咳払いをしてから来客に声をかける。
「おう、開いてるぞ」
知っている気配ではあるが、ここに用があるとは思えない珍しい客だ。
「こんにちは、ヴァンさん」
開いたドアの向こうにいたのは、黒髪と青い衣装が印象的な黒月の令嬢だった。
「イーディスに来るっていうのは聞いてたが、こっちにまで顔を出すとは思わなかったぜ」
「どんな所か一度見てみたかったのよね。あいつもすっかり馴染んでるみたいだし」
入ってくるなり興味深げに室内を見回し、アシェンが微笑する。
その言葉を聞いたヴァンはドキリとした。
彼女が言っている「あいつ」とは、もちろんアーロンのことだ。
不可解な言動をして去って行った後ろ姿を脳裏に浮かべ、幼馴染みである女を覗う。
アシェンのイーディス入りを知ったのは、彼の零した愚痴からだった。
その経緯を考えれば、最低でも数日前には通信でやり取りをしていただろう。
彼女は何か知っている可能性が高い。
だったら、話を振ってみようかと思案してみる。

「ねぇ、ヴァンさん。アーロンとは上手くやってる?」

 すると、アシェンの方が先に話題を持ちかけてきた。
意表を突かれたヴァンは一瞬だけ声を詰まらせた後、机に片肘を突いてこめかみの辺りを揉んだ。
「あいつ、最近おかしくねぇか?」
「え?アーロンってば、何かやらかしたの?」
「いや、そうじゃなくて……」
指先が無意識に頬をなぞり、先刻の囁きが残る耳元を手の平で覆った。
「らしくないっつーか、そういうキャラじゃねぇだろ?みたいな」
どうしても気恥ずかしさが先に立ち、歯切れの悪い曖昧な説明になってしまう。
泳いだ視線がアシェンのそれとぶつかり、彼女の顔がパッと明るくなった。
「もしかしてあいつ、ヴァンさんにデレてきた?」
「まぁ……そうだなぁ。って、あのガキになんか言ったのか?」
それを見たヴァンは、やはり彼女が発端なのだと確信した。
アーロンは幼馴染みに対してよく鬱陶しげな反応を示すが、身内とも呼べる彼女からの言葉には少なからず影響を受けている。
「だって、あいつがやっと掴まえた人とのことだもの。つい心配になっちゃって」
アシェンは綺麗な眉を寄せ、一つ吐息を零した。
そして、一週間前に彼へ向けた指摘をヴァンにも教えてくれたのだった。

 あの時は心臓に悪いくらいに煽情的だった囁きを、今は不安げに腕を掴んでくる子供のようにすら思う。
「くっ……はははっ」
ヴァンは再び机に突っ伏し、今度は肩を震わせて笑い出した。
「ヴァンさん?」
「あぁ、悪ぃな。それはとんだお節介ってもんだぜ」
訝しむアシェンに対し、ゆっくりと頭を上げながら可笑しげに口角を歪める。
「それがあいつだろ?そんなんで愛想尽かすくらいなら、はなから受け入れたりはしてねぇよ」
ここ数日間の違和感が綺麗に解け、胸中のモヤが晴れていく。
彼の目尻には笑み崩れた涙が滲んでいた。

 

 自分の心配が取り越し苦労だったと分かり、アシェンは安心した様子で事務所から去って行った。
一人になったヴァンは椅子から立ち上がり、ゆったりと窓辺に歩み寄る。
茜色だった空は群青へ染まりつつあり、そろそろ夕飯時だ。
「さて……と、あいつはどこをほっつき歩いてんだか」
ポケットから取り出したザイファを見つめ、細めた瞳が愛おしげに揺れる。
幼馴染みの声を気にしたとはいえ、アーロンが自分なりに悩んだ結果の言動があれだ。
それは確かに彼からの愛情表現であり、少々やり過ぎな感もあるが素直に嬉しさが募る。
ヴァンは珍しく浮ついた気分になっていた。
今夜は二人きりで過ごすのも悪くはないと思ってしまうほどに。
携帯端末のカバーを開き、慣れた手つきで恋人の連絡先を画面に表示させる。
しかし、発信ボタンを押す直前で指先が止まった。
「あー、出ねぇかもな。さすがに気まずいだろうし」
アーロンの性格を考えれば、こちらから通信を入れても無視される可能性はあるだろう。
ヴァンはしばらく考え込んだ末に、結局は端末のボタンを押した。
スピーカーから呼び出し音が鳴り始め、ソファーに身を沈めながら応答を待ってみる。
「……最初に何て言ってやろうか?」
開口一番の言葉を考えてみれば、自然と頬の緩みが止まらなくなる。
十数秒も反応がなければ諦めてしまうのが常だが、今は不思議とそんな気持ちは起こらなかった。
ふわふわとした心のどこかで、奇妙な自信が主張をしている。
この通信は空振りにならないはずだと。

 あと何回、呼び出し音を鳴らせばいいだろう?
ヴァンはまるで子供が悪戯をしているように笑っていた。
それからほどなくして。
ようやく待ち望んでいた声が聞こえてきた。
「ウゼェことしてんじゃねぇよ、オッサン!」
雑踏の音が混じった第一声は不機嫌極まりない。
通常なら互いの顔を画面に映しているが、今は音声のみの通話モードだった。
やはり、相当に気まずいのだろう。
ヴァンの口元から微かな笑いが忍び出る。
「──チッ」
それが聞こえたのか、アーロンがあからさまな舌打ちをした。
彼の不快げな態度は予想通りだったので、気にせず話しかける。
「なぁ、さっさと戻って来いよ。たまには一緒に飯でも食おうぜ」
さっきから言いたいことは色々と考えていたのに、最初の言葉は他愛ないものになってしまった。
「はぁ?なんの嫌がらせだよ」
彼の鬱陶しげな応答を聞けば、どんな顔つきをしているのかを想像するのは簡単だ。
「大体、てめぇは……」
ぶつぶつと文句をたれる声は次第に小さくなり、賑やかな雑音で掻き消されそうになっていく。
ご機嫌斜めなら通話を打ち切ればいいものを、アーロンからは全くその気配が感じられない。
そんな恋人の様子に、やたらと愛おしさが溢れ出してきてしまった。
ヴァンは静かに目を閉じた。
今は一人きり。事務所には誰もいないし、これから来客の予定もない。
つまり、何の遠慮もする必要はなかった。

「今夜は物足りねぇんだよ。端末越しの声だけじゃ……な」

 先刻のお返しとばかりに間接的な真似事をする。
ここにはいない恋人の耳に唇を寄せ、とびきり熱っぽく囁いてみせた。

 

2022.08.28

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